十体法7 傀儡体 1

人形(ひとがた)になる

人間を脱ぐ。
さまざまな脱ぎ方がある。
日常の生きた人間という役を脱いで灰柱として立つ。
からだの闇の微細な原生的な傾向に耳を澄まして、人間以外の生き物になる。
動かないクオリアに従って石や木や山になる。
動かされるクオリアに従って、クラゲやチリや空気になる。
何ものかにコントロールされているクオリアに従って傀儡(くぐつ・操り人形)体になる。
人としての心が希薄になっているクオリアに従ってヒューマノイドになる。
からだの闇に潜む別の人格のクオリアを増幅して異貌体になる。
世界中の不幸や災厄を背負って崩壊体になる。

ちょうど、2009年夏の実験授業で、傀儡体への変容を探っていたとき、
松岡正剛の「千夜千冊」に、古い友人で詩人の佐々木幹朗の『人形記―日本人の遠い夢』が取り上げられていた。

日本の人形の歴史は深い。
松岡による佐々木の著書の親切な紹介に従って、その世界を久しぶりにさまよった。

「青い目のセルロイドの人形、林駒夫の桐塑人形、伏見人形、四谷シモンの人形、流し雛、ジュサブロー人形、土偶、浄瑠璃人形、フィギュア、夢二人形、松本喜三郎の生人形、霊鑑寺の御所人形、ムットーニ人形、結城座のあやつり人形‥‥。都合18種18形の人形たち。
 詩人の佐々木幹郎がこれらの人形たちに接する文章は丁寧で、その人形たちに接することのできない読者を導く先をよくよく心得てもいて、ぞんぶんに読ませる。衒いのない名文だ。「あとがき」には、この連載の仕事を通して「ひとがた」への旅が始まったことが静かに綴られている。」


なかでも、ひとつの人形のこの世ならぬ静謐さに驚いた。
松岡も同じく驚いたらしくこう紹介している。
「本書のなかで最も美しい写真は、林駒夫の桐塑人形「神ノ坐ス森」だ。
佐々木幹郎もこの人形を見て電撃が走ったと書いている。」
 

         
             桐塑人形「神ノ坐ス森」 

         
            桐塑人形「神ノ坐ス森」(正面)

松岡によると作者の林駒夫は、「林は「人形は情緒だ」と言い切っている。
その情緒が「型」になるのだとも言う。」と考えているらしい。
だが、わたしは舞踏家がこの人形になりこみ、その静謐さを運ぶ動きをただちに連想した。
人形にこめられた情緒という人間的なものを超えて、異次元のクオリアが運ばれる。
足運びは歩行ではない。直立のまますべるように動く。
異界からのまざざしをさしむける。
人間の世界から、人間以外のものらの世界へいざなう。
それを見る者は、それによって人間である自分の姿が深い照り返しを受ける。
傀儡になるとは、そのようなことだ。
アニミズム時代以来、人類は「人形(ひとがたをしたもの)」に無数のクオリアを注ぎ込んできた。
人の形に似たものは、知りえぬ通路を経て異界と通じているとみなされた。
ときに、人の力を超えたマナや精霊の宿るものであり、
ときに、生きた人、死んだ人の精霊と一体のものだった。
人形には100万年の闇のクオリアが時を超えて積み重なり共振している。
そのすべての闇をになうものとして、あえて傀儡とよぶ。
これを、パペットやドールと訳して理解してしまってはならない。
傀儡とパペットでは担っているクオリアがまるで違う。
そのとたん、クオリアがひからび、別物に変性する。
ひとがたがはらんでいた闇をまたぎこし、近代劇場の操り人形や、現代のロボットに絡めとられてしまう。
安易で簡明な言語はいつの間にか、それを使う者の意識も平板さに取り込んでしまう。
難しくても日本語では傀儡と呼び、伝わりにくくても英語ではクグツ ボディと呼び続けよう。

現代のフィギュア人形から、古代の土偶までをつらぬくもの。
そう、人形から「ひとがた」へ。
生命を持たない「傀儡」になり、そこに二重化された「ひとがた」のクオリアを運ぶこと。
ひとがたは、この世と異界を往復するための媒体だったのだ。
人類がひとがたにこめてきたあらゆる思いを背負うこと。
土方巽にも、有名な「ひとがた」(1976)という作品がある。
芦川羊子がもっとも冴えていたころの舞踏だ。
土方は人間そのものが「人」という役を担ってこの世に来たのだと捉えていた。
異界の命がひとがたをまとい、またひとがたを脱ぎ捨てることによって
あらゆる異界の存在に変容することができるのだ。


 
   土偶「縄文のビーナス」                     ひとがた (左;木製 右:紙製) 

「ひとがた」はまた、形代(かたしろ)ともつながる。
そこに元型に喰われる危険が待ち構えている。
松岡も言うとおり、
「ぼくもある意味では、ずっと日本の形代(かたしろ)を考えてきたようなところがあった。しかし日本の形代は、追いこんでいけばいくほど、日本の根元に蟠る「稜威」(いつ)にもつながってくるので、要注意なのである。」

「形代」とは、祭りのとき、神霊の代わりとして置く人形であり、
また、ひとがたに切り取った紙や木などを人間の身代わりとして祈祷し、
罪・穢れを移して、川や海に流す。
「稜威」とは、神の権威を身にまとう天子の威光のことである。

人形にはさまざまな歴史段階の元型がとりついている。
それらと抗いながら、そのすべてのクオリアを運ぶこと。

それを担いきることのできる傀儡体を発明せよ。
それが、きみの十体のなかの傀儡体創造の課題だ。



松岡正剛の「千夜三冊 『人形記』」を読む



佐々木幹朗の『人形記』



関連技法

傀儡体 2


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