ヒューマンウオーク
 探体法 「軋みと軋み返し」より続く)


ヒューマンウオーク

ゆっくり、ひとの歩行(ヒューマンウオーク)で歩き出す。
かたちは日常の歩きとまったく同じだが、速度を最低限にまで落とす。
1メートルを1分ぐらいかけて歩く。

人の歩行とは何か。
直立二足歩行を始めたころの旧石器人になりこむ。
なぜ人は立って歩き始めたか。
昔からこんな歩き方をしていたのだろうか。
四足の獣から、
ゴリラやチンパンジーの手の甲で支えながら歩く類人猿の歩行、
そしてそこからアジアのナンバの歩行、
右手右足を同時に出すナンバの歩行、
そして、近代西洋型の右手左足を出す近代人間の歩行の方への移行を追体験してみる。
江戸時代の浮世絵や中世の絵巻物をひも解くと
右手左足を出す近代型の歩行をしている人は一人もいない。
いまなお日本舞踊や相撲、柔道、空手などの格闘技の世界ではナンバが基本である。
この変容はいつどうして起こったのか。
近代の人間が習い覚えている歩き方は軍隊や学校での訓練によって
刷り込まれたものではないのか。
その束縛から離れた自分固有の自由な歩き方を
命は望んでいるのではないのか。
あらゆる疑問と向き合いながらヒューマンウオークを磨き上げる。
それがまた命の自由なあり方に嵌められた鋳型のひとつであることを感じながら歩く。
君自身の歩行とは何か。
これは一生続く探求課題だ。

現代最大の<元型>としての「人間」に向き合う


そうだ。
「人間」とは、現代最大の<元型>である。
私たちは各時代社会ごとの<元型>に囚われて生きてきた。
原始時代の人にとって、あらゆる自然界の力が人の背丈を超えた
見えざる力だった。
彼らはそれを「マナ」、「「カミ」だのと名づけ恐れた。
アニミズムの時代社会では、「トーテム」や「タブー」などの元型に従って生きていた。
それに続く古代の時代にほぼ今日まで続く主要な<元型>が生まれた。
「天国」、「地獄」、「神」、「精霊」、・・・
神や霊にも無数の種類があり、古代以来長く人々の心身、関係を支配してきた。
それらはユングの言う集合的無意識に刷り込まれ、いまなお強い影響を及ぼしている。
ついで、国家が生まれた古代・中世の時代には、
人々は、「王」、や「臣」、「民」、「奴隷」という<身分元型>に縛られて生きてきた。
インドでは今なおその名残であるカーストが残っている。
近代になって、封建的身分制が崩壊した後に、<人間元型>が成立し
今日まで続く、最大の元型となっている。
いつの時代も、その時代に支配的な元型はもっとも美しく飾られる。
かつて、「マナ」や「神」や「王」に付与されていた最高の徳が、
今日では「人間」に与えられている。
だから、現代社会の人々は、「人間」であることに限りない喜びと誇りを感じる。
だが、そんなものは時代社会から与えられ、刷り込まれた幻想であることは
人類の歴史を虚心に振り返ってみれば一目瞭然だ。
だが、集合的無意識に刷り込まれた「人間」元型は
それ以前の勇気が最善の諸元型と共振して成立したものなので、
最強の支配力をもっている。
<人間元型>は、現代では、科学的知性、自由、平等、博愛などの
これまでの人類史の中で生まれたもっとも美しい特性を持つ。
それらは、非二元かつ多次元の生命の観点からみれば、
ただの二元論的分節知という、低次元な物に過ぎないことが見透かせる。
「人間」という元型的観念には、
人間以外の生命を「下等生物」として差別し、見下す卑しい心性が伴う。
それどころか、「人間」<元型>が秘め持つもっとも暗い秘密は
国家の市民権を待たない人は、市民以下のものとして貶められ差別される点だ。
現代国家もその限りでは、奴隷差別に基礎を置いていた
古代ギリシャの民主制国家と同じ構造を持つ。
だが、市民たちは自分を危うくするそんな秘密はだれものぞこうとしない。
だから、現代の社会では、自分を「人間」ではなく、
「生命」として捉えることが最大のタブーとして排除されているのだ。
「生命」だとすれば、人間の特性とされる知性も市民権も
付与された幻想に過ぎないことが火を見るより明らかになってしまうからだ。

「人間」という<元型>に立ち向かうには、
現代世界全体を敵に回しても、たった一人で立ち向かえる
とてつもなく聡明な知性が必要になる。
いや、「知性」さえも「人間」に付与された<元型>が持つ属性となっている。
私たちには、それを呼ぶ別の名が必要だ。
わたしはとりあえずそれを「透明覚」と呼んできた。
もっといい名が見つかればいいのだが。

ヒューマンウオークとは、「人間」という<元型>への囚われを明るみに出す歩行である。

ヒューマンウオークの奥は深い。
技術的にも、こころの持ち方としても深い。
灰柱と並んで、歩く瞑想の双璧だ。

一歩ごとに「人間」という現代最大の<元型>を歩く。
「人間」という囚われがどこまで私たちを蝕んでいるかを感じながら歩く。
一歩ごとに命に問う。
(何を一番したいのかい?
ほんとは、どうありたいのかい?)

舞踏とは、人間元型を脱ぎ捨て、それ以後の生き方を探求する果てしない実験なのだ。

ヒューマンウオークを身に着ければ、
それは場面の転換に効果的に生かすことができる。
ほかの生き物や魑魅魍魎、精霊が跋扈する世界から、
自分を「人間」だと思い込んでいる人々の世界への異次元転換に役立つ。
「人間」と呼ばれている生き物の世界とは何なのか。
そこではなぜ人々はひとつの歩き方に縛られているのか。

歩き方だけではない。
行動様式から考え方すべてがひとつの「人間」の型に縛られているのではないか。

きみの命はそれに対してどんな軋み返しを発明しようとしているか。
精霊や元型の世界に返るのではない。
未踏に向かって命がけで転生するのだ。
それは、もっとも根源的かつ創造的な歩みである。




※ヒューマノイド ウオークへ続く

●関連技法
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