寸法の歩行 |
舞踏における歩行は、さまざまにあるが、 その本質は空間を物理的に移動することではない。 歩行とは異界への道行きなのだ。 三次元・四次元という物理的かつ心的に低次元な 規矩や常識に閉じ込められた日常体から逃れでて、 非空非時の異界との間でゆらぐからだに変容することだ。 からだがどうしてもその技術を必要としはじめるタイミングを捉えることが大事だ。 自分のからだが、日常界レベルの粗大な動きに倦み、 これまでにない静謐さや微細さ、、玄妙さを求めだしていると感じたら、 そのときこそ、舞踏の歩行の練習に取り組む絶好のときだ。 まず、舞踏のもっとも基礎的な歩行、「寸法の歩行」から始めよう。 土方の死より3年後の1989年に、芦川羊子が実施したワークショップにおける 「寸法の歩行」の条件が、三上賀代に記録されて残っている。 土方自身が行った練習に限りなく近いものだ。 「寸法の歩行」 イ 寸法になって歩行する ロ 天界と地界の間を歩くのではなく移行する ハ ガラスの目玉 額に一つ目をつける ニ 見る速度より 映る速度の方が迅い ホ 足裏にカミソリの刃 へ 頭上に水盤 ト 蜘蛛の糸で関節が吊られている チ 歩きたいという願いが先行して 形が後から追いすがる リ 歩みの痕跡が前方にも後方にも吊り下がっている ハ ガラスの目玉 額に一つ目をつける ホ 足裏にカミソリの刃 へ 頭上に水盤 ヌ 奥歯の森 からだの空洞に糸 ル 既に眼は見ることを止め 足は歩むことを止めるだろう そこに在ることが歩む眼 歩む足となるだろう オ 歩みが途切れ途切れの不連続を要請し 空間の拡がりを促す イ 寸法になって歩行する はじめは、ただひたすら寸法の歩行の練習に取り組む。 ただ歩くだけでいい。そこにすべてが含まれている。 この歩行の練習は灰柱の歩行同様、何年も続けるに値する。 何年も続けているうちに、 それぞれの一行に塗り込められた濃密な意味が少しずつ溶け出してくる。 歩行に内包されている最小限のゆらぎに、 すべての舞踏が折りたたまれている。 寸法の歩行における、イからトまでが可視的なゆらぎへの導入部だ。 「イ 寸法になって歩行する ロ 天界と地界の間を歩くのではなく移行する」 生きた人間のからだを脱ぎ、命がけで突っ立つ死体になりこむ。 同じ寸法を保ちうる膝の緩み加減を見つけることが第一だ。 「ハ ガラスの目玉 額に一つ目をつける ニ 見る速度より 映る速度の方が迅い」 人としての眼を捨てる。見てはならない。眼を腐らせ、 可視的な映像による束縛を断つ。 第三の眼を開けて不可視のクオリアに共振する微細覚を開く。 「 ホ 足裏にカミソリの刃 へ 頭上に水盤 ト 蜘蛛の糸で関節が吊られている」 命がけで突っ立つ死体となってなにものかに運ばれていく。 間違っても自分で歩くのではない。 足下のカミソリ、頭上の水盤が微細ゆらぎをもたらす。 外部からの刺激や力に動かされて歩く。。 これらは物理的な体感だから誰にでもわかる。 秘密関節、秘密筋肉について学び、まずここから練習を始める。 からだのあらゆる部位、約百あるあらゆる関節が 任意の三次元方向に微細にゆらぐようになる練習を積む。 参考→無限細分化 これが基礎の基礎だ。 チからヲは不可視の多次元異界への道行だ。 微細ゆらぎがからだにしみこんできたら、 秘密体腔、秘密皮膜について学び、不可視の異次元ゆらぎに進む。 「ヌ 奥歯の森 からだの空洞に糸」とは、 これら秘腔の内クオリアゆらぎを指す。 森は物理的な森のみならず、 もろもろのクオリアが絡み合い集塊状の複合体、 クオリアの多次元コングロマリットの比ゆだ。 すべての秘腔に秘められている無数の深層記憶、 深層体感がこの異界の森と共振してゆらぎだす。 体腔に秘められた情動、原生的な欲望、衝動、生命傾向 胸腔に封印されたおびえ、震え、希望、閉塞、絶望、 口腔に沈み込んでいる飲み食いの記憶、噛み締めるクオリア、つぶやくクオリア、 鼻腔に埋もれている匂いの記憶、人特有の、空間特有の香りの記憶、 耳腔に染み込んでいるかすかな音の記憶、おびえ、警戒、想像、死者のささやき、 眼腔に刷り込まれている異界の情景、闇と光彩、 毛穴に刻印されている氷河期のこごえ、大洋のゆらぎ、砂漠の乾き、 それらすべてのゆらぎ・ふるえを全身にたたえつつ運ぶ。 土方巽の衰弱体の歩行がたとえようもなく重いのは、 これら一切の生命記憶を背負ってゆらいでいるからだ。 |
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