死者熱
「世界中の死者と踊るんだ」
なぜだか分からないが、からだがそう決めた。
私ではない。
わたしのからだの闇の中の誰かがそう決めて、気づいたら世界に飛び出していた。
1998年。
タイのワウ・カンパニーと、インドのルンタプロジェクトの招きで、タイのバンコク・チェンマイと、インドのチベット難民政府のある町ダラムサラで踊った。そこではじめてチベット人はここ30年の間にチベットに侵入してきた中国との争いの中で何百万人も死んだと知った。
1998年。
京都黒谷の永運院の庭で踊った。
このビデオはその時のもの。
麻生君と山下君が撮ってくれた。
千年も続く寺での踊りは、庭に生える苔一本一本が死者の生まれ変わりであるかのように私の踊りに交感してくれた。
1999年。
ハンガリーのチベット支援組織シャンバラの招きで首都ブダペストで踊った。
1956年当時のロシアソビエトのスターリン主義支配に抗して立ち上がったハンガリー革命の起こった10月23日は私の誕生日と同じ日だと知った。
ハンガリー革命といっても今は誰も知らないだろうが、私の若い当時の反スターリン主義青年にとってハンガリー革命とは、戦後世界に初めてともされた希望の火だったのだ。
丘の上の城跡にまだなまなましい戦車の砲弾のあとが残っていた。
1999年。
フランスのストラスブールの町の芸術監督をしていたマークトンプキンの招きで、フェスティバルに参加した。
ストラスブールはフランスとナチスドイツとの激戦の地で、多くの死者への慰霊碑が立っていた。
2000年。
東欧のシナゴーグチェーンの招きで、東欧各国の町に残る古いシナゴーグ(ユダヤ教教会)で踊った。
ハンガリー・ブダペスト、ギョール、セゲド、ショプロン
ルーマニア、ユーゴスラビア、スロバキア、
ユーゴはまだ戦争の直後で、まちまちに戦争の爪あとが生々しく残っていた。
戦後の不自由な暮らしの中で、でも人々はせっせと踊りの会場となる古いシナゴーグに積もった分厚い埃を掃除してくれた。
戦後50年を経てドアを開くのがまだ2回目というシナゴーグもあった。
どこでも、600万人といわれるアウシュビッツの死者の気配が濃く立ち込めていた。
私のからだに静かに何人ものアウシュビッツの死者の硬直したからだが降りてきた。
もともと、私の踊りは1967年羽田弁天橋のベトナム反戦デモで死んだ高校の同級生山崎博昭をはじめ、夜毎夢枕に立ち続ける旧友・辻敏明、橋本憲二、望月、奥平、本多など多くの死者の霊を鎮魂するために、踊り始めたものだ。
始まりから死者たちとの合作なのだ。
私はこの先どんな死者と出会うことになるだろうか。