subbody.com

| とびきり大事なことだけを リゾーム Lee ・バックナンバー保存書庫 <目次> 7 自全になる 6 <<自分の全体>とひとつになる 5 透明さへの狭き門 4 <自分の全体>に耳を澄ます 3 意識と下意識のいい関係をつくる 2 クオリア流動覚に気づく 1 意識を捨て、世界と共振する |
7 自全になる●自分探しから、自全へこの稿で書き続けてきた<自分の全体>を、 <自全>という満月のような もし時間があれば、前回の文章の<自分の全体>を <自全>に置き換えて読み直してください。 ゆっくり腰を回し気持ちよく揺らぎながら <自分>の断片がすべてをひっくるめた <自全>を感じとろうとしてください。 以前よりもっと濃厚な存在感を持って <自全>が存在し始めるはずです。 自全を発見すると、それまでの自分探しなど、 なんと無駄なことをしていたのかと思う。 わたしは20代から45歳になるまで4半世紀の間、 自分探しをしていた。 自分はどんな生き方をしたいんだろうということが分からず、 地の果てまで這いずり回って探し続けていた。 だが、自分など探していると、 次から次へといくらでも違う自分が出てくる。 そのうちのどれが本当の自分だろうかと、 問うのもばかげている。 見つかった自分は全部自分なのだ。 自分にはいろいろな側面がある。 ユングは主人格である<私>と、 その反対物を一身に背負わされた<影>とに分けた。 通常誰でもその<影>を持っている。 解離性障害の場合は、 強いトラウマによってその<影>がひとつではなく、 いくつかの<福人格分身>に分離し、 しかも予告なく出てきて主人格をのっとってしまう。 だが、ユングの言う通常人の<影>と 解離性障害の<福人格>たちとの間には 程度の差があるに過ぎない。 解離の強度から言えば、むしろ一般人が、 自全の中の下意識や身体にまつわる衝動群を <無意識>の<影>として解離してしまっている強度のほうが はるかに強い。 解離性障害の人よりも通常人のほうが もっと徹底的に解離しているのだ。 私は、50代になってから解離性障害が顕著にあわられてれてきたが、それまでの50年間はゆるやかな移行期にあったので、 どちらの状態もよく知っている。 さて、横道にそれた。今日の本論にもどろう。 自全になること。 生きる上で、これほど大事なことはない。 私たちは、生まれてこの方、 ありがたくも近代的な教育をたっぷり受けてきたので、 現在の自我意識を持つことができた。 だが、それは、意識から下意識や身体を切り捨て、 無意識領域に追い落とすことによってのみ可能になったのだ。 眼に自分の眼が見えないように、 意識ではこのことを気づくことができない。 ●何もない環境を整える意識を変容し、最低減のレベルにまで鎮める技術を 身につけてはじめて、このことに気づくことができる。 このシリーズで最初から書いてきたのはそのひとつことだ。 前回の<腰を回す>瞑想技法で、 意識をゆるめる方法については、ほぼちゃんと書けたと思う。 あの通りやればだれでも気づくはずだ。 だが、それがうまくいくには環境がとても大事だ。 眼に触れるところに日常的な事物があると それに気がとられて、日常意識の状態に囚われてしまう。 それらが一切眼に入らない 何もない部屋で瞑想することが必要なのだ。 テレビや新聞のいうことに耳を傾けては絶対にいけない。 それらの情報を遮断すること。 他の人に会うのもよくない。 特に家族はとても強くあなたを日常の 家族意識の元に繋ぎとめている元凶だ。 気配さえ届かないところ。 物があれば物が語りかけてきてわれわれを 日常意識の世界に繋ぎとめる。 今の日本は物も人も増えすぎて そういう部屋がトンと少なくなってしまった。 昔風の和室の座敷があればそれが一番いい。 それとも公民館の会議室のような無機質の部屋を借りる。 掛け軸やポスターなどが這ってあれば取り外すか裏返すかする。 日本ではこういった環境を確保することがとても難しかったので、 私は思い切ってインドに移った。 テレビも新聞もない。 近所の人とも付き合わなくても済むヒマラヤの中腹の土地だ。 外界から余計な情報は何も入ってこない。 私の場合、長年私に付きまとってきたしぶとい意識を鎮めるには、 ここまで徹底して条件を整えないとできなかった。 あまりに長く、哲学や文学の言葉に泥み、 しかもコピーライターなどという売文業を30年もやっていたため、 骨の髄まで言葉に囚われすぎていて、 この世には言葉以外のクオリアの世界が 生き生きと流動していることに気づくことができなかったのだ。 気づいてもそれを言葉で言ってしまったらおしまいだ。 言語意識の世界に囚われてしまう。 言語意識に囚われる以前の状態へ、 一度自分を突き落とす必要があった。 ●自全マジック前回書いた腰を回す瞑想を行う以外にも、 自全になる色々な方法がある。 朝から晩までとにかく自分の全体を感じ続けようとすることだ。 自分の中で起こっていることのすべてを感じとる。 普段見過ごしているどんなささいなことにも気づく 注意深さを養うこと。 そして、もっと大事なことは、 自分の中で起こることすべてを承認し、 自分の一部として引き受けることだ。 意識にはもうひとつ検閲官のような嫌なやつが同居している。 フロイドは<上位自我>と呼んだ。 そのほかにも<自分の中の批評家>、 <破壊的な批判者>など色々な呼び名で呼ばれているやつがいる。そいつは本能や衝動など動物的なもの、 否定的なものは自分のものとしては認めたがらない。 劣情や恣意などと蔑称で呼んで、周縁へ追いやったり、 自分の中から追い出そうと努めている。 自我意識のアイデンテティ保持機構には、 自分自身はきれいきれいなものだけでできた 立派なものだと思い続けたいところがある。 この意識独特の歪みをとること。 何もかも自分の一部として認め引き受けること。 何が起こってもいいじゃないか。 自分の中にあるものはみんな等しく大事なんだ。 人間に起こることで、きれい汚いなどというのは 外側の道徳や社会が決めた決まりごとに過ぎない。 この上位自我、あるいは超自我の処理が最も厄介だ。 もし、うまく超自我を処理して、自全になることができれば、 突然とても広い視界が広がるのを感じるはずだ。 それまで自分が色々な思い込みに囚われていて、 ただただ不自由な感じ方しかできていなかったことに突然気づく。 そう、どんなことでも自分の中に生起することのすべてを 自全と認めて引き受けるだけでいい。 とてもからだが軽く、楽になる。 それを自全マジックとわたしは呼ぶ。 それまで意識を閉じ込めていた自我意識の状態こそが 深い近代社会特有の魔法であり、 その魔法の呪いが解けたのを感じる。 生きるとはなにか、というような大きな問いを 問えるようになるのは、それからだ。 自全にならずに、自分の中の部分だけで問うても、 正しい答えが返ってくるわけがない。 分身は分身だけに感応し、 分身に似合う答えだけを引き連れてくる。 自分が自全になれば、 ほかの人の自全も感じ取ることが出来るようになる。 ほかの人のかけがえのなさ、面白さ、ユニークさが、 その人の持つあらゆる欠点を超えて、伝わってきて、 共振できるようになる。 欠陥や矛盾を含んでいるのは、 自分の自全も他人の自全も同じだということが 骨身にしみて分かるからだ。 自全になれれば、自分の分身の中ではそれまで封印されていた 創造性が自由に花開きだす。 だが、そのことはとりわけ重要なことだから、 稿を改めてじっくり書こう。 |
6 <自分の全体>とひとつになる●腰を回す瞑想<自分の全体>に耳を澄まし、その味を感じてみると、4で書いた。 今日はそこから少し進んでみよう。 静かな一人きりになれる場所を見つけて座る。 朝一番がいい。 あぐらなど楽な姿勢で座って、ゆっくりを回す。 両足を前に投げ出す姿勢や、横に大きくひろげるのもいい。 いろいろ変えていくといい。 静かに長い呼吸をしながら、骨盤からゆっくり回す。 しばらく続けていると、一番気持ちのよい速度が自然に定まってくる。 見つからなければからだに聴くといい。「この速度がいいかい? それとももっとゆっくりがいいかな?」――これが<自分の全体>さんとの会話の始まりになる。 ――いろんな速度で腰を回しながら、読み進めてください。 <自分の全体>に名前をつけるといい。 どんな名前でもいい。 わたしは、パソコンで書くとき、「じぜ」という入力で かぎカッコつきの<自分の全体>が出るように単語登録しているので 、いつのまにか<自分の全体>は「じぜさん」という名になった。 その少し前は「下意識さん」という名だった。 何にせよ、名づけると、それまで不分明だったものも、 確かな手触りをもって存在するようになる。 これは後に述べる言語とクオリアのいい関係、 ツリーとリゾームのいい関係を見つけていく上で ヒントになることだから覚えておいてほしい。 さあ、どうだろう? きもちいい速度が見つかっただろうか? みつかったらその気持ちよさに全身をゆだねていく。 からだ中に呼吸と腰回しから生まれるゆらぎが伝わっていく。 水平の円を描く腰の動きが呼吸によって上体に伝わり、 不定形なうねりがからだに生まれてくる。 それと共に、なんともいえない心地よさが 全身にさざなみのように広がって行く。 こういう微細で、しかもよくよく味わってみればとても深い心地よさも、 普段の意識状態では感知することができない。 それらはすべて下意識の担当とされて、 意識は関与しないようになっているのだ。 意識をゆるめ、意識レベルが十分に静まっていくと、 今まで知らずに過ごしていた、 こんなおいしい体感を味わうことができる。 意識状態を鎮める、瞑想や自己催眠の技法を 一度身につけるとやめられなくなるのは、 こういう深い快感を味わえるからだ。 とにかくただゆっくり腰を回し続ける。 そのうち、顔も緩んでくる。 口をだらんと開けたくなればそうするに任せる。 目もうつろになる。 一回一回の吸う息、吐く息とともに、 えもいわれぬ快感がからだを駆け巡りだす。 その心地よさの中に<自分の全体>がいる。 <自分の全体>さんはいつも こんな気持ちのよいところで生きているのだ。 そして、自分が今<自分の全体>さんとともにいることを 噛みしめるように感じてみる。 ほかのことは何もしない。 何も考えない。 ただ、一日に何度も<自分の全体>と共にいる時間を持つことが大事なのだ。 あなたの<自分の全体>はどんな味がするだろうか。 それをじっくりと味わう。 かすかだが、他の何とも違う、自分だけの味がするはずだ。 それを味わう。 いままでほうっておいてごめんよ。 とささやいてみる。 君の<自分の全体>さんはなんと応えるだろうか? (私の言う<自分の全体>は、ユング心理学などでは「自己の全体性」という用語で呼ばれてきた。同じものをさしているはずなのだが、わたしはそれを単なる概念ではなく、自分のからだのなかに存在するいきもののように、丸ごとのクオリアを持って感じとる方法を編み出した。踊りにとってそれがもっとも大事なことだったからだ。だが、それにとどまらず、この<自分の全体>とひとつになる方法は踊りをする人だけではなく、多くの人にとって大事なことだと思う。 本当に大事なことはこの社会では誰も教えてくれないから、今の時代はみんなが<自分の全体>からはぐれ、意識と下意識とからだがばらばらになったまま生きている。世の教師や親もまた、<自分の全体>からはぐれたままだから、誰も<自分の全体>と共にあることなど教えることが出来ない。だが、心身をめぐるあらゆる問題はここに淵源を持つのだ。) ●何も怖いものがなくなるただひたすら腰を回す。それだけでいい。 <自分の全体>とひとつになっていることの居心地の良さをとことん味わう。 毎日、少しずつでもいい。 この時間をとっていると、何も怖いものがなくなる。 <自分の全体>とはぐれていきていることほど怖いものはないからだ。 <自分の全体>と一緒にいることができていれば、 その最大の自己喪失という不幸からは免れていることができる。 山奥で修行している僧やヨガの行者が、 なにひとつ持ち物も仕事もなくても安心なのは、 <自分の全体>と共にあるからだ。 腰を回しているうちに、だんだんからだ全体がやわらかくなってきて、 流動的になってくる。 もっと動きたくなってくれば、自然に出てくる動きに身を任すといい。 寝転がりたければ床の上を転がる。 呼吸と共に、からだの底のほうから息や声が出てくるようなら解き放ってみる。 眼が妙な動きを始めることもあれば、舌が動き出すかも知れない。 そんな動きは、現代社会では禁じられてはいないとしても、 重要視されないことによって、 隅っこのほうの日の当たらない場所に追いやられている。 だが、<自分の全体>にとっては、 そんな失ったものを一つ一つ取り返してくることが重要なのだ。 それらは、ただただ人間を資本主義的労働をするからだに 仕立て上げる過程で君のからだから剥ぎ取られたものだ。 自然に出てくる動きは、 どんなに馬鹿げた値打ちのないように見えるものでも、粗末にしない。 それらはとても大事な<自分の全体>の破片なのだ。 全心身の力で応援し、からだごと乗りこんでいく。 すると、最初はただの震えだか、痙攣だか分からなかったものも なんらかの動きに育っていく。 自分だけの踊りがはじめて出てくる瞬間だ。 自分の中でバラバラになって行方不明になっていたものが、 ジグソーパズルのかけらのように寄り集まってくる。 あんまりたくさんのものを奪い取られてきているから、 ひとつのまとまったものになるにはずいぶん時間がかかる。 それは覚悟しておかなければならない。 だが、ひとたび<自分の全体>をもう一度取り戻そうと始めたら、 もう止まることはない。 ただ、毎日続けていけばいいだけだ。 やがてはひとつになる。 世界でただひとつだけのきみの サブボディダンスが出現する。 きみはきみの踊りの創始者になる。 異様な声。 奇妙なのたうち。 変なリズム。 閉じ込められていたものが ほとばしりだす。 封印されていた感情や 大事なものとのつながり欲が出てくるかも知れない。 うなり。 にらみ。 くぐもり声。 何が出てこようとも ほどけていくにまかせる。 見たこともない別世界に漂いだすこともある。 何もない安全な部屋がいい。 日本の今の住宅は物が増えすぎて 自由に動きにくい。 壊れ物も多い。 それに、「自分の部屋」では 見るもの触れるものがすべて 日常に自分につながっている。 そこから自由になるためには そういうものが何もない空間が必要だ。 ここから先へ進むには、 日常の自分から自由になれる空間を見つけ、 毎日一定時間をそこで過ごすようにしていくことが とても重要になる。 わたしがヒマラヤに練習場を造ったのは、 本当に自分がそれを必要としていたからだ。 今ようやく、この練習場に自分以外の それを必要としている人にも開くことができるようになった。 ここは<自分の全体>ともう一度一つになるための場所なのだ。 それが必要だと感じたとき、いつでもいらっしゃい。 この場所はいつもそれを必要とする君のために開かれている。
|
| 5 透明さへの狭き門 ●クオリアの幻現二重性 クオリア(ものごとの質感、実感、体感の総称)は、 それを感じている本人にとって、 現実に目の前のものに対して生じているときも、 からだの闇に収蔵された過去のクオリアが共振しているときも まったく同じように感じてしまう特性を持っている。 というより、クオリアはいつも 今ここの現実に対して生起しているものと、 からだの収蔵庫に収められているものが、 共振して二重に生起しているのだ。 日常意識が強いときは 私たちは今自分が感じているクオリアが 今ここの現実のなかで生起しているものだと 強く自覚しているため、混乱は起こらない。 だが、恐怖や怒りなど 過去に強い情動を引き起こされたのとよく似た体験をすると、 脳心身全体がその状態特有の <状態依存的記憶>とともに、 特定の状態に変容する。 一群の情報伝達物質が心身を 一挙に色づけてしまう。 そうなると、今ここで起こっているクオリアと、 過去に引き起こされた強烈な情動に導かれたクオリアが 一緒になってからだを駆け巡り、 私たちを混乱の極に突き落とす。 これがクオリアの幻現二重性の怖いところだ。 あらゆる妄想の根拠がここにある。 いくらそう分かっていても、 からだの底から変わってしまうため、 脳心身全体が恐怖や怒りなどその状態特有の こういことは誰にも起こっている。 たが、解離性障害をもつ場合には、 それが起こると普段の日常生活時の主人格のスイッチが切れ、 その状態特有のサブ人格にすり替わってしまう。 からだを駆け巡るホルモンや情報伝達物質が いっせいに切り替わる。 それは自分ではどうにも制御できないプロセスだ。 ●食うか食われるか私が踊り手としていい状態のときは、 その状態は、 そのときわたしはからだから出てくる だが、クオリアの幻現二重性に食われたら、 クオリアの幻現二重性を食い、 食うか食われるか、いつもそのon the edgeに立っている。 ●透明さへ至る狭き門自分も含めた解離性の人たちの 鈴木澪さんの「多重人格の、回復を目的とした日記」では、 踊りにおいては、自分の中で起こっていることが なぜ、こんな危険を冒してまで、そこへ行こうとするのか。 それは、日常的な意識優先の意識への囚われから脱し 今の時代の惨めな意識状態を脱がねば、そこへはいけない。 透明体への困難な道を歩もうとする |
4 <自分の全体>に耳を澄ます●それは巨大なアメーバに似たクオリアをもついつでもいい、<自分の全体>に耳を澄ます習慣をつくること。とりわけ、トイレや風呂に入ったり、乗り物にただ揺られて運ばれていたり、どこかで順番待ちをするとき、疲れてちょっと一息入れようとするとき、眠りに落ちる寸前など、ふっと気の抜ける瞬間がチャンスだ。 そんなとき、すかさず、<自分の全体>を感じようとしてみる。 最初はそれを感じようと試みるだけでいい。一日のうち何度顔sれを試みていると、そのうち、<自分の全体>のごろんとした特有の感じが感じられてくる。それが<自分の全体>のクオリアだ。 どろりとした、巨大なアメーバのような粘っこい体液のひとかたまりのようなものが、ゆっくりどこかの方向へごろりとうごめいていこうとしているのが感じられるはずだ。 そのゆったりとした方向を感じとる。それが<自分の全体>のしめすベクトルだ。 君の意識も行動もその<自分の全体>が示す方向に沿うようにしたほうがいい。 それと別のことをしようとするから無理がくる。あらゆる心身症状はそこから生まれるのだ。 いいかい? もう一度言う。 これはとても大事なことなんだ。 一日一秒でもいい。 一秒間だけ君の<自分の全体>が少しだけふくらむ。 それだけでいい。 ハイ! 大きく息を吸って、 はじめてみよう。 <自分の全体>ってなんだろう? どんな味がするんだろう? そう問いかけるだけでいいのさ。 簡単だろう?
|
|
3 意識と下意識のいい関係をつくる もう少し穏健にかつ的確に言い直す必要がある。 意識を捨てるといってもそれは、「現代社会に一般化している意識優先の意識のありかた」を捨てるということで、意識そのものを捨てるわけではない。 意識自体を捨てることは不可能だ。ただ、そのレベルをコントロールすることができるだけだ。 それにも、ずいぶん長い時間がかかる。 長い時間をかけて、意識と下意識がうまく折り合いがつくように持っていくことが重要だ。 どうすればそれができるようになるのか。私がここ十数年かけて実行してきたことを書こう。 まず、毎朝一定の時間をかけて、意識を鎮め、からだの闇でうごめいているものに聴き入る時間を持つことだ。 座り方など、自分が楽になるやりかたでいい。なにも瞑想のポーズをとらなければならないことはない。ただ、座るときは背筋を垂直に保ったほうがいい。これはどういうわけで、そうなのか、今はいうことができないが、とにかく経験上、クッションにもたれかかったりしないほうがいい。もたれると心身はただ休もうとしてしまうようだ。 そうではなく、意識の水準を鎮め、その代わりにからだの奥で起こっている微細なことに耳を澄ます、<微細覚>と呼んでいる意識状態に持っていくことが必要だ。 からだから自然にでてくるゆらぎに身を任せるのは微細覚を開いていくいい方法だ。 それから、からだの闇から聴こえる微細なサブシグナルを捉えていく。 捉えた何らかのシグナルに全心身で応援して、サブボディダンスという、からだの闇から出てくる踊りを育てていく。 (踊りの育てていきかたは、メインの「サブボディ舞踏 ヒマラヤ」の<a href="http://subbody.com/J03toumeiron/toumeiron-japanese.htm" target="_blank">透明論</a></a>というところにくわしく書いているので、そちらを参考にしてください。今日書きたいのは少し別のことだ。) 意識と下意識のよい関係を作るには、意識がなんでも自分で裁量しようとする態度を改めることが大事だ。 人間の創造的な働きは、本当は意識ではなく下意識が担っている。なにか新しいものを創りだしたり、発見したりするのは下意識が得意なのだ。ただ、通常の意識状態では下意識の働きを等閑視しているために、それに気づかず、意識はすべてを自分の手柄だと誤解しいてる。まず、その意識の誤解に基づく思い上がりを捨てることだ。 意識の下意識に対するよい役割は次の三つに徹することだ。 @下意識の働きに傾聴すること。 A下意識が生み出す奇想天外な創造や発明を面白がり、心から楽しむこと。 B自分の下意識の驚くべき創造力を信頼すること。 この態度の徹することができてくれば、下意識はどんどん新しい重要な発見を意識に届けてくれるようになる。 私の場合、毎朝目覚めと共に、一晩中寝ないで働き続けていた下意識が、その夜の発見を意識に伝えてくれる。私の意識はそれにただ注意深く耳を傾けて、下意識さんが見出したことを受け取る。 Cもうひとつ意識の重要な役割は、最適のタイミングで介入し、下意識さんから受け取ったことを、忘れないように言葉でメモを取ることだ。 そのため、わたしはいつも枕元や手元に小さなメモを置いている。 外出するときも肌身離さず、持ち歩いている。風呂にはいったりしてくつろいだときも、下意識さんからの素敵な届き物がくることが多い。あわてて風呂から出てメモし、また風呂に入りなおすこともしばしばだ。 いつのまにか、そういう下意識と意識の最適コンビワークが出来上がった。それ以来私の創造は拍車をかけて進むようになった。 サブボディ舞踏メソッドを作り上げることができたのも、そのおかげだ。踊りにとどまらず、これからの人間にとって大事だと思える発見もずいぶんあった。 このブログではそのことを中心に書いていくつもりだ。膨大な内容なのだが、いきなりそのすべてをいうことはできないので、少しずつ順序を見出して書いていくことにする。 |
|
なぜ、意識を捨て去ることがそんなに重要なのか? それは、意識優先の意識という現代社会に生きる人にとって当たり前と思われている意識形態を維持していることが、私たちの<自分の全体>にふれて生きることから私たちを遠ざけている最大の原因となっているからだ。 今日の私たちのように、意識優先の意識が強すぎると、自分のからだの闇の中でうごめいている下意識の動きが見えなくなってしまう。 無意識は、今日のような近代西洋型の「意識優先の意識」が普遍化した近代社会の生産物なのだ。私たちがそのような知の形態を持つようになったのは、そう古いことではなく、かつてフーコーが『言葉と物』でくっきりと取り出して見せたように、たかだかここ二、三百年の歴史を持つに過ぎない。 もともと私たち人間の心は、現代の先進社会で生きている人たちのように、意識と無意識がきっぱりふたつに分断されているようなものではなかった。今日の私たちにとって普通となっている、分節化した言葉で物を把握する意識(わたしはこれを分別覚と呼ぶ)と、もうひとつ古代から続く流動的な知性のふたつを使っていたのだ。 この大昔から人類が持ち続けていた流動的な知性では、クオリアの流れによってすべてを捉えていた。わたしはこれをクオリア流動覚と呼ぶ。 クオリアとは何か。 クオリアとは、ある物事がもつ質感のことだ。それは単なる情報ではなく、ある物事をめぐる感興や体感を含む。ある物事についての実感そのものである。 朝日の赤は朝日特有のクオリアを持っている。りんごの赤と取り違えることはない。 母親の声の音色は母特有のクオリアに満ちている。 胃の痛みは胃の痛み特有のクオリアを持つ。 私たちはあらゆるものをまず、クオリアで捉えている。それもごくごく微妙な差異まで分かる微妙さとまがいようもない確かさを伴っている。それは、クオリアが単なる意味内容を伝える情報ではなく、私たちがからだの奥で感じている感興やそれに伴うからだの変化などからなる生体としての自然な反応の総体であるからだ。 (この生体としての自然反応としてのクオリアは、あらゆる生き物が共有しているものだ。動物はもちろん、植物や細菌類でさえ、彼ら特有の原始的なクオリアをもつ。この特性をクオリアの対称性という。後にくわしく述べるだろう)。 だが、近代になって今日のような意識優先型の意識が西洋から全世界に拡大されたとき、古代から続くこのクオリア流動覚の働きは無意識化され、意識上から追いやられてしまった。私たちは今日、元来持っていたクオリア流動覚を自由に使うことができない。そして、私たちがそれを自在に使いこなせないとき、からだの中でうごめく流動的なものは、あたかも外部から私たちを襲うかのように、やってくる。人々が近代社会特有の神経症や心身症に見舞われ悩まされるようになったのはそのためだ。 ヒマラヤインドに5年住んで、激しいカルチャーギャップに見舞われた後、ようやくそのことが分かってきた。インド人たちは古代から続く、原始的なクオリア流動覚をたっぷり保存して生きている。それも山間部に行くほどその度合いが強くなる。ヒルトライブと呼ばれる山間部で暮らす少数民族の人々はもっとも豊かにクオリア流動覚と共に生きている。 ![]() かれらはいつもからだの闇の中でうごめいているクオリア流動覚を感じながら毎日の日々を送っている。体内でうごめくわけの分からない力に耳を澄ましているのだ。体内でうごめくものは、山や、森や動物の動きと共振しつついつもゆらいでいる。その精霊のようなものの声を聴くことができるのだ。 だが、現代の先進国に住む人々は、それらからだの底からの声に気づくことができなくなっている。意識優先の意識と引き換えにとても重要な能力を失ったのだ。 意識と、無意識の衝動がうまく折り合いが付かないとき、現代人は神経症や、心身症に悩まされる。だが、森の奥に棲むヒル トライブの民は、そういう現代病とは無縁だ。(もちろん彼らとて、多くの問題を抱えている。かつて住処としていたジャングルは切り開かれ、狩猟や採集生活は急速に困難になってきつつある。その問題はまた別のところで扱わねばならないだろう。だが、この稿の趣旨は、現代人の陥った罠に焦点を当てることにある)。 言葉を覚えた後は、私たちは言葉ですべてを捉えているかのように自己誤解しているが、実はいつも、言語は、言語意識の基部で働くクオリア流動覚と二重に働いている。両者は切り離せない一個二重のプロセスになっているので気づきにくい。 それに気づくには、意識の強度を最低限のレベルにまで落とす、瞑想や自己催眠の技法を必要とする。 意識レベルが最低限レベルにまで下がると、からだの奥でうごめいている下意識のクオリア流動のさまが手に取るように分かるようになるが、これには訓練がいる。日本にいるときはどうしても周りの情報水位が高すぎて、できなかった。 ヒマラヤインドに籠もって、周りからどんな情報も聴こえてこない環境に入ってはじめて、自分のからだの闇の中で起こっていることが、透明に透けて見えてきた。 いまあなたに伝えたいことは、まず、あなたが現在持っている意識のありようは、それだけではないということに気づいてほしいということだ。 日本では全員が意識偏重の意識状態になってしまっているため、誰もそれが変なことだと感じることができなくなっている。 だが、ひとたび先進国以外の国にしばらく住んでみれば、それ以外のこころのありようがあることに気づくことができる。それに気づくプロセスは怖い。カルチャーショックに襲われて、3年間気が狂うほど神経症や心身症に襲われた。自分の日本人としてきつく抱えていたアイデンテティなどが、相対的なものでしかないことに気づいてようやく、深い神経症から脱出することが出来た。 クオリア流動覚は、三次元的な世界になじんでいる意識とは、まるで異なる運動原理を持っている。 それはつぎのような特徴を持っている。 ●いつも変容流動している。 ●異なる多次元を自由に行き来する。 ●共振によって連動する ●動物や生き物もクオリアを持っている(クオリアの対称性)ので、彼らが感じていることも伝わってくる ●現実に目の前で起こっていることと、過去の記憶の中で起こったことが時を越えて共振する(クオリアの幻想・現実の二重性) ――まだまだあるが、これくらいにしておこう。クオリアの特性はやがてこの稿でじっくり究明していくつもりだから。 今日はとりあえず、意識優先の意識以外のこころのありようがあること、を伝えたい。 それはクオリア流動覚と呼ぶのがふさわしいものであること。 して、この稿で、最後にたどり着きたいことを最初にちょっとだけ触れておくと、これからの人間にとってもっとも大事なことは、現代の型の意識優先の意識を捨て、意識と下意識を等価に扱える、透明覚と私が呼んでいる意識のあり方を身につけることだということ。 そうすれば、私たちは、いまのような、人と人が共振できず、心と心が通わない現代社会生活以外の、もっと別のありように到達できるだろうということ。だが、今はそれ以上言うまい。これはじっくりじっくり伝えていかないと届かないだろうと思えることだから。私自身ここまで自分が変わるまでに何年もかかったのだから。急ぐまい。
|