Subbody

2006年6-7月

2006年7月6日

勇み足すれすれ

私の中に言葉だけで猛り立っていくものがいる。毎日更新している文章はまずはからだの闇から出てきたものだ。それを体感や動きで確かめるのが私の毎日だ。だが、そこで見つけたことを書こうとして書き出してのち、筆が走り出した瞬間にのりうつってくるやつがいる。そして、記述の流れを乗っ取って、ひとえに猛り立ち、勇み足をしていく。

ことなる心身障害者の間で、からだの闇のネットワークをつくり、互いの症状から解放されていく闘いを共有できないかと構想した「肯定論」を読み返してみると、至るところで、その勇み足が憑依し、かってに走りだしている。ろくに自分の多重人格も理解し切れていないのに、分裂病や、うつ病の人のことを自分が得ている小さな知見から推し量って決め付け、ずいぶん勇み足な発言をしている。これまでの人生の間中、ものを書くときにずっとこの勇み足が私に付きまとっていたように思う。自分の書くものにこいつが混じり始めるととたんに文章の味が悪くなる。自分でも書くことがいやになって、何度も筆を折ってきた。

これはいったい誰なのだ? いつも近くにいたのに、いまだに正体をつかんでいないとは、なんて頓馬なことなのだ。

自分がいいことをしていると思い込んだ瞬間にそれは取り付いてくる。そして、いけしゃあしゃあとずうずうしくなる。押し付けがましく、正義面をしだす。知らぬ間に、<正義>に、私の言葉が乗っ取られてしまっている。この世でもっとも嫌いなものが<正義>だったはずだのに、いつの間にかそいつが私の背後からのりうつって私を奪っている。クラインの壺に紛れ込んだかのような恐ろしいことが人生ではいくらでも起こる。こういう体験をずいぶんしてきたように思う。あの時も、あの時もあの時もそうだった。

しばらく、こいつと付き合ってみよう。いくら嫌いでも私の自全の一員だ。一概に否定するわけにもいかない。

そもそも、正しいとか、いいことというものは、クオリアの多次元変容流動の世界にはありえないものなのだ。ただ無数の差異があるだけの世界だ。そういう原則論を知っているはずなのに、書き言葉になぜそんなものが混じりこむのか。いいこととか、正義とかには人をしびれさせる麻薬のようなところがあるらしい。それにやられてしまうのだなきっと。ダンスの楽しさの中にもその麻薬がまじっている。スポーツもそうだ。

書き言葉は、自我肥大を生む。自分がなにかいいことを言ったり、したりしているという感覚が、知らぬ間に、自我の肥大カーブと共振しだす。風船のように自我が自信と錯誤で膨らんでいく。

<いいこと>をしているという思いが、<正しい>ことに変質するともう見るも無惨な醜態をさらしだす。偉ぶったり、強ぶったりしだす。そして、押し付けがましくなる。

自分の中のもっともか弱いもの、ひ弱で死に瀕しているものを忘れてしまう。大またですたすたとまたぎこしていく。

大またで踊るときは注意しなければならない。その一歩がどんな動けないクオリアをまたぎこしているかを、知っていなければならない。こんな大きなレンジの注意は、意識にできる仕事ではない。下意識の透明覚を開くしかない。

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2006年7月5日

胎界起源の無数のサブボディたち

生徒ひとりひとりに自分がこの一月で受け取ったものをほかの人に伝え返す授業をやってもらったことを今日の「共振塾ジャーナル」に書いた。リバース授業と呼んでいる。

今日は生徒の導きに沿って、始原生命への遡行瞑想で、わたしたちが胎内でたった一つの単細胞であった時代に導かれて行った。

わたしは一心に原初の細胞になりこみ、生きているクオリアとはどんなものかをからだのなかに探り続けた。言葉にはならないが、なにやらからだの中でうごめいているものがある。そのうごめきに聴き入っているうちに、突然、なにやら異様なサブボディがうごめき出した。外界の騒々しさや、自分の胎内に入ってくる異様なクオリアに反応して、なにやらわけの分からないことをつぶやきだすサブボディが出てくる。これまで出したこともないような妙な声を出していると、声の異様さに導かれて、次から次へと違うサブボディが出てくる。何十分かそのサブボディが出てくるままに踊った。ありとあらゆるサブボディがほとばしり出るままに任せた。ほかの人とコミュニケートするのもいれば、一人で踊りたがるのもいる。実にさまざまだ。

じぶんでも驚くほど、からだの闇には、奇妙なサブボディがまだまだいっぱい詰まっている。その体験から、たぶん私の中からときどき顔を出す未知の人格は、おそらく胎児時代に起源を持つだろうということが分かってきた。

今日の胎児に遡行した体験では、外界のざわめきに一心に聴き入り、その異様なざわめきに反応しているサブボディの手ごたえが感じられた。

私の父は、わたしが母の胎内でまどろんでいたころ、すでに新地と呼ばれる赤線地帯に出入りし、別腹の妹をもうけていた。それを知った母との間で激しい応酬があったに違いない。その諍いはわたしが生まれてからも延々と続き、わたしが中学3年のころにとうとう離婚するまで続けられた。それが子供時代の環境だったから気がつかなかったが、胎児時代からそれが始まっていたとすると、胎児のわたしに対し、母の激怒や悲しみが、アドレナリンやその他のホルモンの急激な放出として、へその緒をつうじて体内に流れ込んで来たに違いない。私の中でうごめく起源が不明だった怒りや悲しみの人格たちの起源はおそらくその胎児時代の異変に発しているだろう。

その胎内起源のサブボディが、乳幼児期の体験を通じて、状態依存的記憶として固定・沈着したものが、解離された人格状態となったのではないか。そして、驚くべきことに、人格状態にさえならなかった無数のサブボディたちが、まだまだからだの闇のそこにうごめいていることを知った。今日の胎内遡行の体験でであった見知らぬサブボディたちは、おそらくまだ人格として現われてこない人格状態の素のような存在ではないか。

多重人格の人から、次々と人格状態が生み出されてくるのは、この胎界起源のサブボディたちが素になっているのではないか。

この記述を読まれた解離性障害の人がもし、思い当たることがあればお伝えください。わたしたちには、からだの闇を探るネットワークのようなものが必要です。それはあまりに深い闇で、しかもどこかであなたの闇と私の闇が連絡している、そんな奇妙な多次元を変容流動している闇なのです。

サブボディメソッドは、この胎内起源のサブボディを含め、自分の中に眠るさまざまな、解離されたノットミーや、サブ人格たちを踊りの場に呼び出し、一緒に踊っていくものです。それを通じ自分の全体(自全)に触れ、自全のすべての構成物を肯定し、友達になり、その中の垣根をなくしていくプロセスを育てます。

どんな惨めなみっともないサブボディでも、踊りの世界に最適の序破急をもって踊りだすタイミングさえ与えられれば、最高の踊り手になります。それが舞踏の序破急マジックです。

さまざまな心身障害に悩む人たちを含めた、世界中の人のからだの闇のネットワークをつくっていく、これは世界でも始めての試みです。共感する人の参加を持っています。

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2006年7月1日

多次元を多重に生きる

わたしたちのからだの闇を探索すれば、そこは、わたしたちの日常意識が親しむ、三次元空間や四次元時空という低次元の世界とは似ても似つかない多次元変容流動世界だということが分かってくる。わたしはその興味深いからだの闇を掘りすすめて長い時間がたった。わたしはその世界で出会う面白い自分の中の分身たちと共に踊ってきた。かれらは下意識とからだがひとつになっているのでサブボディと名づけている。

ちょうど夢の中の出来事と同じように、かれらは誰かのように振舞っていたと思えばすぐ別のものに変容し、別の時空に移動している。多次元を自由自在に変容流動している存在なのだ。

この多次元変容流動世界は創造にとってはなくてはならない世界である。

私がかつて日常世界と深いかかわりを持って生きていたときは、自分の多重人格(解離性同一性障害)がでてくると色々問題になった。周りの人を驚かし、傷つけるし、また自分自身が十分傷ついていた。

だが、ヒマラヤインドに隠棲し、ここだけを舞台として踊りを創造する世界を生きはじめると、自分が多重人格(解離性同一性障害)であることが病気であるとは感じなくなった。それどころか、むしろ創造者としてはむしろ有利な資質であることが分かってきた。

自分の中から次から次へと違った自分が出てきて、違った味わいの踊りを踊りだす。踊りとしてみればこれほど面白いことはない。生徒の顔も自然に緩みだす。

だが、踊りの中ではいくら面白くても、日常世界に違った人格がどんどん飛び出してきては困る。周りが傷つくことに加え、多重である自分が徹底して傷ついてしまう。

わたしたちの周りの日常生活の論理は、支持者も多く、自らを疑うことがないだけに強く図々しく、<正しい、疑いない>こととしてその論理を押し付けてくる。

この無自覚な図々しさこそ、非日常の世界にまだないものを探ろうとする繊細な創造の精神にとって、最大の敵なのだ。まだないクオリア(質感・体感)を探すものは、支持者もなく自分の感性以外に何の根拠も持たない。いつも風前の灯のようなはかない存在なのだ。

そんなかすかなろうそくの炎のようなはかないものに対し、日常世界はブルドーザーのような論理を無自覚に押し付けてくる。

母は母の感情を当たり前のこととして子供に押し付け、妻は妻で当たり前のこととして夫を縛ろうとする。結婚前の女性は回り同様結婚したという自分の欲望を当たり前のこととして振りかざす。創造者の繊細の精神を知らないひとは、みんな赤ん坊が泣き喚くのと一緒の「赤ん坊権力」をブルドーザーのように振り回していることに気づかない。

日常の論理は一億の支持者を持つが、創造者の繊細な精神はいつも自分ひとりだ。一億対一のような、自明に不利な闘いをし続けてはならない。

すたこらさっさと逃げればいいのだ。別の生の次元へ。

それ以外に繊細の精神に自分を守って生きる道はない。

どうすればいいのか。私は答えを発見した。

日常世界への囚われからおさらばするのだ!

日常世界と創造世界を中途半端に行ったりきたりするのではなく、創造世界を中心に生きる生活を組織しなおせばいいのだ。


             
即興で踊ると何十人もの違った自分が次々と出てくる。からだの闇の中には、とんでもない顔をしてうずくまっているやつらが何十人もいる。ふくれっつらをしたやつや、ひょうきん顔のサブボディ。50年以上もうずくまったままだから、自分が何でくぐもってしまったのかなど、思い出せるわけもない。だが、顔やからだは50年前のままなのだ。

私はヒマラヤに自分の踊りを創造し生徒に踊りの創り方を教える学校を創った。ここで生きていると誰に迷惑をかけることもない。一人でいるときに多重人格のうち誰が出てこようと自由だ。昼間は踊りの人格リゾーム Lee。ここに無数のからだの闇にうずくまっていたノットーミー人格が躍り出てくる。夜は仕事師の人格がせっせとサイトを更新していく。私は子供時代から壁新聞や学校新聞や、文芸同人誌や、政治ビラや、文集をつくり続けてきた。これが主人格の龍二系列だ。昔、街角でビラをまき、町中にポスターやステッカーを貼りまわっていたのと同じ感覚で世界中のメッセージボードに活動を伝えて周る人格もいる。前科三犯の20歳の山沢夙だ。夜中に寝る前に、どこかのBBSにこっそりへんなことを書き込みに行ったりする人格が出てくる程度だ。3歳のりゅうり大魔王。まあ、たいした害毒をもたらすわけではない。

今の私は、瞑想と練習と授業の準備と学校で生徒と共に過ごす創造の時間がすべてだ。踊りの中の創造の世界にどんな変なわたしが出てこようと、生徒達は受け入れてくれる。もともと、自全の中のすべてを肯定し踊りの中に解放してやろうというのが私のサブボディメソッドだ。何が起ころうともそれがLeeの独特のダンスだと思ってくれるから。そして、遠い国からわざわざそのとびきり変な踊りの創り方を学びに来てくれている人たちだから。


私だけではない。日本や先進国社会の日常生活に傷つく人は誰でもここに来て新しい生き方を始めることができる。

多重人格の人はもともと多次元を多重に生きることの天性を持っている。

心身障害といわれる人ならみんながそれぞれの特性をもっている。

分裂症(統合失調症)のひとは、今の平均人とは違った仕方の想像力の広げ方を知っている。異次元を開くのが得意な人だ。

うつ病の人は、人並み以上に生命の波動に敏感で、今の社会生活の無理な波動に合わせようとして心身が変になってしまったのだ。この特性は、人々にとって自然な生命波動に耳を澄ませていくことの大切さを励まし、自分の内的な異次元の創造世界を作り出すことができる。

ここには誰もあなたの特性を否定する人はいない。多様な差異を楽しみ、その微細な差異に共振できる人ばかりだ。人間関係に敏感すぎて傷ついてきた人たちも、引きこもっているしかできなかった人たちも、それぞれに自分の世界にひとつしかない特性を肯定して伸ばすことができる。

どんなに自分に才能がない、自信がないと思う人でも、自分なりにからだや心を動かすことはできる。その動きに最適のタイミングを見出せば固有の美になるのだ。誰もが世界でただひとつの自分の踊りの創始者になることができる。

サブボディメソッドはからだに潜って自分の踊りを作り出す創造技法と、互いの生命に共振し力づけあう共振タッチの技法とからなる。このふたつを車の両輪のように回して、自分の生き方を見つけていく。そこでは、世界でひとつしかない自分の特性を創造に生かしていく道を見つけることもできるし、心身の障害に苦しむほかの人を助けることのできる力も身につけることができる。ここは肯定力を鍛える学校である。

 

ヒマラヤインドは物価が安いので、日本で1年暮らすお金で5年過ごせる。私は今、「ヒマラヤ共振村」というような互いに助け合う定住圏づくりを構想している。

そしてやがては世界中に肯定と共振のさざなみを広げていくのだ。共振塾の卒業者は、このヒマラヤだけではなく世界中の物価の安い地域に、互いに肯定する生き方を育てる拠点をつくっていくという生きがいに満ちた生をはじめることができる。はじめは小さい波でも、それが本当に今の人々に必要なものだということがわかれば自然に広がっていく。

さあ、ヒマラヤはこれから雨期だ。日本の長野のような涼しい季節になる。からだの闇にうち込むにはうってつけの季節だ。



2006年6月28日

「多重人格を創造に生かす――解離性同一性障害を肯定する日記」に改名

この日記をエキサイトブログからホームページ内に移管して、ようやく自分がやっていることの全体像が見通せてきた。

わたしは、自分の多重人格障害を、一般社会で言う治療の対象として捉えるのではなく、それを積極的に肯定し、創造に生かす道を切り開こうとしてきたのだ。

だから、多重人格を「解離性同一性障害」だなどととんでもない日常世界の価値観で規定されることを拒否する。アイデンテティ=同一性などというものは、それが有ってほしいと願っている、日常世界の主流派たちの世迷言に過ぎない。哲学の世界では、ドウルーズによって、40年も前に、ヘーゲル以来の「同一性」概念のインチキさは証明されている。いまや「同一性」などというありもしない概念をあたかもあるかのように詐称して患者に命名して苦しめているような不勉強な医者たちを教育しなおさなければならないときだ。

私はドゥルーズの差異の哲学、多様な差異を肯定する肯定の哲学を引き継いで、「解離性同一性障害」と診断され、規定され、否定されようとしている同病者たちのありのままを肯定して、自全のなかにあるすべての資源を創造の素材として、積極的に活用していける道を切り開く闘いを開始する。というより、すでにこれまで自分の20人格舞踏の創造や、「サブボディ共振塾」でやってきたサブボディ授業の本質がそれだったことに、ようやく気づくことができたのだ。

「行方不明者たちの日記」という名前はなぞめいていて好きなのだが、「多重人格を創造に生かす日記」に改名する。より直接的な名前のほうが、このサイトをはじめて訪れた人に対して親切だろうと考えたからだ。

多重人格は、この多様化している世界に適応するために人類が全体として新しい創発を行おうとしている試みの一環なのだ。

一昔前の農村のような単一社会なら、一生を一つの人格で通せたかもしれないが、人生80年となり、東西文化が融合し、世界旅行も手軽になりつつある現代社会では、その多様さに相応できる多様な人格をたくさん持っているほうが有利に生き抜けるのだ。それを証明することが俺の仕事だ。そして、それがよりいっそう生かされる「サブボディダンス」のような創造領域をどんどん切り開いていくこと。

ダンスだけではなく、絵画や、音楽でも、多重人格のほうが面白く味わい深いものがつくれるに決まっている。それは今のインターネットの世界で、一般人のサイトよりも、多重人格者をはじめとする心身に障害をかかえる人のサイトのほうがはるかに豊かで面白いことからも確証できる。芸術創造はより面白く味わい深いものがいつまでも生き残り、世界に伝わっていくものだ。

西洋を真似るだけの日本のモダンダンスやコンテンポラリーダンスが外国に伝わるためしはないが、独自の美意識を切り開いた土方の舞踏だけが全世界に広がったのを見ても、それは確かな話だ。

全世界の多重人格者たちよ、勇気を持って自分のすべてを肯定しよう、自信をもって自分の中のあらゆる資源を生かして未来の創造を切り開こう。

私の進むべき道が日々じょじょに明らかになってくる。自分を60年近くも取り巻いていた分厚い霧が晴れていく。迷いなき肯定は、なんと爽快なことか!

多重人格者諸君! 自分の中の多重な人格状態のすべてを肯定しよう、人格達の間の微細な差異を味わい抜ける繊細な感性は未来のものだ。昔の単一社会の人々には今わたし達が感知しているような微細な精神はありえなかった。単一社会で成立しいてた昔の「同一性」などという古代のまがい物にしがみつく鈍感な人々を私たちはむしろ笑い飛ばせばいい。

君のなかの微細な差異を好み、差異を味わい、差異を楽しもう。あらゆる差異の自己肯定からわたしたちの楽しい人生を始めよう。

2006年6月24日

否定人格とはなにか

夜中に寝酒を飲み、酔って眠りに落ちる直前に瞬間的に出てくる、否定人格がいる。超すばやい行動で、あっというまに強烈な否定を断行してしまう。夕べもでてきて、ある人を強く拒否してしまった。

今までにも何回か出てきて、最初のころはその否定のあまりの凄まじさに、たじろぎ驚き戸惑うばかりだった。だが長年この人格と付き合ってくると、すこし私の中の否定人格のことが分かってきた。

否定人格は、過去によほど強い否定を受けて傷つき、からだの闇深くへくぐもってしまった人格なのだ。

その否定人格が躍りだして来るときは、自分が受けた否定を、外界に対して返そうとする。自分の中にくぐもる強い否定を外界のなにかに投影してその対象を破壊しようとする。

彼らは、外界に投影した対象を否定しないと自分が否定されてしまうと思い込んでいるのだ。 

人が人を否定するときには多かれ少なかれこの自分の中にある否定を外部に投影するという仕組みが働いている。

この否定の由来を探ると、何らかの出来事の中で外界(親や教師やそのた子供時代の重要人物)に否定された体験(解離してしまっていて思い出せないが)、あるいはその積み重ねと、自分の自我によってノットミーとして否定され周縁化されてし合ったというふたつの要因が重なっている。外からも内からも二重に否定された存在なのだ。

この否定人格は、いつも外界(社会)から自分が正当に評価されていないという不満を持っている。憤懣の塊といってもいいほどだ。そしてこの否定人格は、否定に過敏で、外からもし自分が今やっていること、やろうとしていることを圧迫したり邪魔したりする気配を感じたら、最大限のオーバーアクションでそれに反撃する。ほとんど迫害妄想に対する過剰防衛となるほどに排撃する。そうかもしれないと分かっていても、逃れることができない。過去に少しでもうまくいかなかった状況には神経症的に恐れて近づこうともしない。それほどいつも圧迫され圧殺される恐怖妄想に囚われおびえているのだ。

一番の問題は、否定人格が誰によって否定されたことによって出現したのかの記憶をなくしていることにある。自分の出自に心当たりがない。だから、だれかれなしに見境なくそばにいるものや、自分の中の他の人格、時には自分の肉体さえ否定の対象としてしまうのだ。リストカットや薬のオーバードリンクや自殺などの自傷行為は、この否定人格が対象を捉え損ねて行ってしまうことなのだ。これだけは起こらないように危険からいつも遠ざかっていられるように配慮しなければならない。

以前は、うろたえるあまり、その人格が行う否定を自分がしたことではなく、その否定人格(ときに人を抹殺するほどの殺意さえ見せることがあるので殺人者人格と呼んでいる)がやったこととして受け止めてきたが、いまはその否定人格のやったことをも、自全の一員として、つまり自分がやったこととして引き受けようとする志向が出てきた。

これは、統合を志向する傾向かもしれない。

今のわたしには、否定人格の気持ちがうっすらと分かる。そして、否定人格がやってしまったことは、ほかの人格も多かれ少なかれ厄介な事態だと捉え、同様に志向していたことなのだ。だが、私の表て人格たちは最近過激な「肯定論」などを書き出して、とても否定などを断行する力がなくなっていた。そこで、にっちもさっちもいかなくなってしまっている事態を突破しようと、否定人格が行動して嫌な拒否役を引き受けてくれたという側面がある。わたしはこの否定人格を自全の一員として受け入れる。やってしまったことは引き受ける。 

現在の私は、一方で「肯定論」を書き進め、自全のすべてを引き受け肯定しようと、自分にもほかの人にも働きかけている自分がいる。

他方で、昨夜のような強い否定人格が出て、拒否を断行してしまうわたしがいる。からだの闇の多次元変容流動世界には、分別世界からみれば矛盾に見えることがいくらでも普通に起こる。その事実に自我や上位自我はたじろぎ我慢できない。以下は、私の中で実際に展開された自我(赤字)と、上位自我(青字)と、それ以外の自全らしい人格?(紫)との会話である。

自我:この矛盾をいったいどう解決することができるのだ?!

(俺の中の頓馬な二項論理(分別覚自我)が一瞬うろたえた。)

自我:こりゃ大矛盾じゃないか。

(それはお前が囚われている狭い二項論理にとってだけだ。うろたえるな。)

(そこに、老婆心の批評家が追い討ちをかけた。)

上位自我=批評家:すべてを肯定するだのという甘言に乗ってやってきた生徒が、お前の否定人格の餌食になって否定されたらどうするんだえ? この問題を解けない限りお前にはまだそんな活動をする資格がないのだ。

(――といつもどおり足を引っ張ってくる。

おなじみの二人組みだ。自我と上位自我。私の嫌いな二人組。)

(これを嫌っているのは誰だろう。自全か? 自全に人格ができ始めたのか?)

(だが、この自我と上位自我の二人組みで25年間も働き続けてきてくれたおかげで、今の俺がある。自我と上位自我に感謝!)

よい―悪い、敵―味方などの二項論理は、実際にクオリアが流動している多次元変容流動界の出来事のある瞬間を切り取り、意識が理解しやすいように二次元界に投射した低次元写像に他ならない。

 

こんな低次元な論理は使い物にならない。言葉や分別覚で判断してけりがつく問題ではない。わたしが言葉を信用しなくなったのはこの理由による。

西洋の論理も東洋の陰陽道も同じく低次元平面への写像に過ぎない。

多次元変容流動の世界の中には強い肯定も凄まじい否定も共に同時に存在する。それがタオだ。それでいて、自我が問題にするような矛盾によって、多次元変容流動の流れがさまたげられることはないし、上位自我が心配するようなことが起こることはめったにない。

それら多様な要素をかかえたまま、からだの闇の中を、多次元変容流動=タオはとうとうと流れていく。

多次元変容流動=タオそのものをあるがままに捉える透明覚を磨くしかない。

●多次元変容流動のタオ

多次元変容流動が日常界と接するところでは、多次元物体のいろんな形の切片が切り取られるように、無数の個別の出来事が発生する。

すべての出来事は、それをとりまく必然の事情によって起こったことで、わたしたちは、それをそのまま受け入ればいい。その結果だけを取り出して、どうこういうことに意味はない。

私たちはただ、多次元変容流動のタオを踊り続ける以外ない。

そのプロセスでは人を愛したり憎んだり、殺したり殺されたりの無数の出来事が生起する。そのすべてを受け入れるしかないのだ。

●踊るストリング

どうすればいいかだって? とにかく二項論理に囚われず、生き続け踊り続けるしかない。そして起こることのすべてを受け入れる。日常体に囚われることなく、踊るタオ、踊るストリングになるしかないのだ。

(この文は、「からだの闇を掘る」探究と、解離性の謎に挑む「行方不明者たちの日記」とのどちらの性格も持っているので、両方のページに収録することにした。同じ文でも、別の脈絡におかれると違った意味を持ってくることを味わってみたい。)


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2006年6月23日

おかえりなさい

お帰りなさい、といってあげよう。

「行方不明者たちの日記」はながらく、このサイト外のエキサイトブログに置かれていた。このホームページで書いていることと、あまりに隔絶しているので、それくらい遠い距離を置いたほうが書きやすかったのだ。

だが、それはまるで解離性同一性障害である自分自身を、表人格たちが運営する「サブボディ共振塾ヒマラヤ」のホームページから、それこそ解離してしまっていることではないか。それをしている限りサブボディ共振塾の仕事も社会に向けた表向きの顔という域を出られないことに気づいて愕然とした。

そこで思い切ってこの日記をサイト内に取り込むことにした。それによって、自分の全体といつも直面することができるし、わたし自身が自全のすべてを肯定することができる道が開かれる。最近設けたサイト内検索の「キーワードツアー」によって、解離性に関する記述も検索対象になることができた。いままではこれらの記事はサイト内検索の対象外に置かれてきていたのだ。まるで解離性障害であることを自分から解離してしまっているような、自己欺瞞的な事態をこれで解消することができた。

ともあれ、今日は「お帰りなさい記念日」だ。

 

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くぐもりについて

からだの闇の底のほうにくぐもれるクオリアの巣窟がある。

解離され、誰からも認められぬnot-meや、長年うずくまっているうちにむさくるしい妖怪に姿を変えてしまったクオリアの群れたちだ。

サブボディサイトの、図解ツアーという解説ページで、くぐもりについて書こうとしたが、くぐもりについて本当に書きたいことはそういう公衆向きの文体では書けないことに気づいた。

だから、こんなときのために、わたしにはこの裏ブログが必要なのだ。

 

私は20歳で革命運動から身を引いた。その直後に結婚し、すぐ子供ができてしまったため、労役仕事は、子供を飢えさせないためにほんの片手間仕事として餌を拾うつもりで始めたことだったが、いつの間にかそれが自分の中で主役を演じ、演じるどころか自分のなかの押しも押されもせぬ主人格面をしてのさばるようになってきていた。20歳から45歳まで、コピーライターや広告や商品開発のディレクターの仕事にのめりこみ、株式会社の代表取締役になってしまっていた。これがやりすぎだったのだ。

いつの頃からか、私は自分の表街道を歩く主人格のクオリアよりも、これらnot-meと化したくぐもりのクオリアたちににより親近感を感じはじめた。

世間とていよく調子を合わせ、合意的現実に適応している主人格はペルソナ=対社会的仮面にほかならず、むしろnot-me化し、自分の中でさえ周縁化されてしまった私こそ本当の私の破片ではないか。

 

若い頃から私は、ひとりで酔えばかならずこれらの周縁部を旅し、ろくでもない自分の分身たちを呼び出し遊んだ。

甘えた、女たらし、いじけ、なめり、腑抜け寸前のこれらの分身たちを私は愛した。

夢の中にもいろんなわたしが棲んでいた。これらはすべて夢日記に書きとめてあり、何度も読み直しているうちに、私の自全の多彩な登場人物群となって存在し始めた。

 

それら分身たちのほうが、コピーライターや代表取締役をしているペルソナの私よりはるかに人間味があった。そしていつのまにか、世間で生きるヒューマノイド化した私が生身の私を食みはじめ侵食しはじめていた。まぎれもない危機だった。

 

45歳で舞踏家になろうと決心したとき、すでに私のサブボディはこれらの危機を突破し、not-meらのくぐもりのクオリアをまとった分身たちをすべて統合する道が、踊りの中にしかないことに気づいていたのだろう。

 

それらの中には、私の人生の中で周期的に何年か置きにでてくるストイックな私(Sの私)と、エピキュリアンな私(Eの私)という主要二人格以外にも無数の人格バリエーションが存在する。それらすべてを解離された人格状態とみなすよりは、私の多彩な側面と呼ぶほうがふさわしいものもいる。あるいはユングの影という概念のほうがはるかに深く届いてくる場合もある。60年近くも生きてくればさまざまな波に見舞われる、その波を乗り切るためにさまざまな人格を必要とした。わたしは多くの医学的知識にも当たったが、一人の人間の複雑な変化や適応のすべてを解明できる理論などまだ存在していない。世の中に流布している今の低級な医学的概念などを当てはめて自分の複雑な状態を理解しようとするのは根本的に間違っていることに気づかされた。意識と下意識とからだの関係の闇は深く、誰もまだ解明などしていない。自分のことは自分で身をもって?んでいくしかない。

 

特に医学の用語でもっとも胡散臭いのが、同一性という概念だ。このブログを訪れてくれた「解離性同一性障害」と診断されて悩む友人達にアドバイスする。解離は確かに起こっている。解離は人間にとっての自然な適応の一つだ。

だが、同一性という用語だけは信じないほうがいい。同一性が存在するなどというのは、主流派の人々の信仰でしかない。その妄想でしかない<同一性なるものがDISODERである>などと人間を規定するのは暴力でしかないのだ。暴力に屈する必要はない。自分の状態は自分で引き受ければいいだけなのだ。自分で引き受ける以外、誰が引き受けてくれよう。

本当に存在するのは同一性ではなく、差異なのだ。あなたと私、私Aと私Bという状態の間に微細な差異が存在する。CDEFの間に差異が存在する。その差異が無数に存在するというのがこの世の真実のありかたである。

 

くぐもりについて書いているうちに、いつもの激しい人格が文章をのっとってアジテーションを始めた。この捩れこそ私であると引き受けよう。不思議に捩れた私、これが私である。悪いか?

ヒマラヤで一人で生きる私には、私が私そのものであることに誰に遠慮する必要もない。

日常世界のだれそれに遠慮しつつ生きねばならない桎梏を私はもはや二度と引き受けないだろう。

20の人格の世界どころか、200の異次元をゆらぎつつ2000の異世界をまとって踊るのが私だ。

積極的に行方不明者となること。わたしにはもう戸籍も必要ないし、国籍も要らない。私に親がつけた名前など覚えている人はもう回りに誰もいなくなって久しい。

サブボディモードになれば、もう自分などどうでもよくなる境地がやってくる。あの長いこと私を苦しめた自我から遠く、愛からさえ遠くはなれて、わたしはとても自由だ。

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多重人格日記
――
解離性同一性障害を肯定する日記
2006年6-7月
勇み足すれすれ
胎界起源の無数のサブボディたち
多次元を多重に生きる
「多重人格を創造に生かす日記」に改名
否定とはなにか
おかえりなさい
くぐもりについて
2005年-2006年5月
サブボディメソッド
生命論2011
クオリア論2010
透明論2009
   肯定論2008
共振論2007
舞踏論2006
透明論 2005
実技ガイド
図解ツアー
キーワードツアー
サブボディ学校ジャーナル
リゾーム Leeの
探究坑道地図
からだの闇を掘る
リゾーム Leeのからだの闇探究のメイン坑道
ヒマラヤ共振日記
共振という観点から、世界をあるがままに捉えなおす。共振したものはなんでも記述していく軽めの日記。
多重人格日記
リゾーム Leeの多重人格=解離性人格障害を創造に生かしていこうとする深部坑道
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多重人格日記――解離性同一性障害を肯定する日記

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