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| 2006年6月 |
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クリオネのからだを見ていると、外界と内界の間で震えるような共振が起こっていることが総て透き通って見える。下意識での出来事も消化管の具合もなにもかも透明に踊って見せること。透明体になるとはこういう存在に転生することなのだ。 ![]() |
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2006年6月20日 生命についてからだの闇に聴きこむ作業を続けながら、いろいろな心身障害に苦しみながら生きている方たちのサイトをずっと毎夜訪問し続けてきた。そこにもっとも深い真実が口をあけて存在しているからだ。健康な人のサイトは面白くない。どんなことを書こうとそこには、自我の恣意的ないい加減さが漂う。それに引き替え、心身を病む人たちは必死だ。必死に直ろうと七転八倒している。それがどんなにみっともなくとも、そうでしかありえない人間の本当の姿がある。やはり人間は苦しみに直面したとき真実の姿を搾り出すようにして生き始めるのだ。 そんな中で、私自身も本当に何を一番生きたいのかが、すこしずつ明らかになってきた。長年いつも一番自分のしたいことをしたい場所でしたいやり方でやるということを追求してきた。そして、毎年少しずつ微調整して、本当にやりたいことに中の核心にじりじりと近づいてきた。今年になって、舞踏論から始まり、共振論、肯定論と急速になんかが私の中できりきり舞いしながらさらに微細なやりたいことの核心に舞い落ちていった。今日書着なおすことができた、サイト冒頭の『サブボディとはなにか』という短い文章に、それを結晶させることができた。 とうとう本音の中の本音に触れることができ始めた。いよいよ俺という生存も、序破急の<急>、鮮深響の<響>に接近してきた。還暦を前に、この地点まで来ることができたことがうれしい。俺は自分の人生に嘘をつかなかった。20歳の頃に抱いたもっとも美しい、もっともウブな私の理想をきちんと実現できるとばぐちにまでこぎつけた。 あとはもう潮まかせ、風まかせでいい。タオの流れにのったのだから。 |
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2006年6月9日 生命とはなにか? いよいよ、このもっとも深い問いへ向かって坑道を掘るときが来た。これまでも、生命がもっとも深い謎だった。だが、いったい、生命にどう取り組めばいいのか、長い間分からなかった この間のヒマラヤ体験と、舞踏学校の経験のなかで、すこしばかり、そのとっかかりをつかむことができた。といっても、わたしではなくサブボディさんが見つけたものだ。 サブボディさんが見つけたのは生命に至るみっつの坑口だ。 @生命はゆらいでいること A生命は共振していること B生命は原生感覚によって触れられること いずれもほんのヒントでしかないが、これだけヒントをもらえれば誰だって旅立てるというものだ。 その一つめのとっかかりから、書いていこう。 ひとつめのとっかかりは、生命とはいつもゆらいでいるという感触だ。 生命を聴くという瞑想を毎日続けてきた。生命とはなにか、私の中のどこにあるのかも分からないまま、命に耳を澄ませてきた。 何年か続けているうち、自分の中でなにやらいつもゆらいでいるものの気配が感じられるようになってきた。このゆらいでいるものの気配こそ生命からやってくるものではないか。おぼろげだが、このゆらぎに聴き入っていくとなにかつかめるかもしれない。そう思ってからは、毎日生命ゆらぎを聴くという瞑想を続けてきた。 私の瞑想の仕方は、いつも腰を回したり、からだをその日のもっともきもちのよいやりかたでゆらがせながら、からだに聴き入るというものだ。からだを止める古典的な瞑想法とは異なる。それはわたしが踊り手だからだということもある。からだをわずかにゆらがせていると、もっともいいからだの状態になりやすい。からだのいい状態とは、いろんな動きが次から次へと出てくる超流動状態のことだ。磁石の超伝導状態のようなものだ。動きの発想が出てくるのに何の抵抗もなくなる状態が時々やってくる。そのやってきかたを観察しているうちに、いまのゆらぎ瞑想の方法にたどり着いた。 |
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2006年6月7日 ●二大お気に入りサイトが衣替え ヒマラヤから毎日読むサイトの一つ、糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」が8周年を迎えた。ホームページとしてのあり方を考え直し、解体し立て直すという。楽しみだ。元はといえばこの「サブボディ舞踏スクール ヒマラヤ」を去年の秋始めたときは、ビジュアルをブライアン・グリーンの、「エレガントな宇宙」を参考にして組み立て、記事内容のつくりかたは、真ん中に毎日更新していく欄をもってくるという「ほぼ日」のやりかたを途中から取り入れた。 作る前はもっとリゾーム的なイメージがあったのだが、つくり進める半年のうちにさまざまな縦穴、横穴が貫通して十分リゾームになりつつある。それなりに満足できるものになってきたところだが、まだサイトとブログの最適関係がつかめない。だから、「からだの闇を掘る」で、同じ内容、デザインでブログとホームページの使い勝手や機能性の微細な差異をつかむ実験を始めた。「ほぼ日」は<ゴキゲンを創造する、中くらいのメディア>をめざしてきた。ここはちいさな、だが深い穴を振る場所だ。だが「ほぼ日」が大改造するとなると、たぶんこちらも大きな影響を受けるに違いない。糸井重里のことだからきっと面白いものに仕上がるに違いない。いまから楽しみだ。 もうひとつ、毎日訪問するのが、詩人清水哲男の「増殖する俳句歳時記」だ。こちらもちょうど10周年を迎える。10周年を契機に予定通り終わり、秋から新企画を発進させるという。清水さんの一行の時評を読むだけで、日本のことが分かる貴重なサイトだっただけに、すこしさびしくなるが、こちらも秋からが楽しみだ。 |
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2006年6月6日 この世界の本当の姿とはどんななのか。ひも理論が言うように総てのものが極微のひもの共振パターンからできているとして、そのひもは実際どのように振動しているのか。 11次元で共振しているスーパーストリングの動きにサブボディが迫る。 今日からはじめた「サブボディ アートギャラリー」では、11次元の謎に可能な限り2次元の絵画で肉薄しようとしてみた。 でもこれを書いているのは、実際に微細多次元を含む11次元で共振しているクオリアそのものであるサブボディが書いたものだ。だから、何がしかは本当さを含んでいるはずだ。 この世をありのままの姿で見る、透明なまなざしを得る、というのは2000年も前にできた仏教の基本的な考え方だ。 2000年経ってはじめて、仏教者以外のものも、その視点の重要さに気がついた。仏教者以外のものとは、ほかでもない私のことだ。 私は仏教から多くのものを得ている。だが仏教者ではない。 この問題についてはいまだによく考えきることができないままだ。 いましばらく保留しておくしかない。 タオからも多くを得ている。だが、タオイストではない。 この問題もまた、考え切れていない。 ただ、私は総てをからだの闇に聴く態度を貫いている。 サブボディ者なのだ。 サブボディ者とはなにか。 サブボディに起こることだけを信じるもののことだ。 意識に起こることには間違いが多い。 取り違えや囚われ、こだわり、思い過ごし、……。 サブボディは考えずただ共振する存在だから、意識の陥るそういう錯誤から自由だ。 たぶん、何も信じようとしなかったわたしが、唯一信じられるものとして出会ったのが、サブボディだったのだ。
2006年6月3日 西宮紘の『多時空論』という本に、インドラの珠網についての解説がある。 ひも理論そっくりの発想だ。少し、引用しよう。 「華厳宗十玄門の一つに因陀羅網境界門という法門がある。因陀羅すなわちインドラ神の住む宮殿の大広間には、無数の宝珠をその結び目に連ねた網が掛かっている。このインドラの珠網の一個の珠にはすべての珠が映っており、その映っているすべての珠の影の一つ一つに総ての珠が映り、あるいは一個の珠は総ての珠に映る、というように無数の珠は重々交映している。そして、このインドラの珠網のように、生起する総ての現象は互いに映じあって無限であるというのである」 珠をひもに置き換えれば、まさに、ひも理論が推測する宇宙の成り立ちとそっくり同じことを予言している。 これを予言したひとは、人間が感じるクオリアの仕組みについてよほど深く踏み込んだに違いない。クオリアについて探究すればするほど、この<重々交映>という関係が浮かび上がってくる。 クオリア共振の世界は、主語述語、主体客体といった区分のない世界だ。共振はどちらが主体ということがなく、ただ同時に生起する。わたし達がなにかの光景を見て感動するとき、その光景からの光が先にあるのでも、私たち自身が先に存在するのでもない。光が届いた瞬間にただ同時に共振は起こるのだ。このことの真実の深さが分かるまでずいぶんかかる。主体客体という自我の陥っているとらわれから解放されるのは並大抵のことではない。 ただ、透明になれ。 透明な心身になれたとき、この主体なき共振の美しい世界が君の目に映る。 サブボディスクールは、透明になるための修行の場なのだ。 |
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