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ヒマラヤ共振日記
2006年5月

2006年5月31日

●多様な差異を楽しむ

11次元時空におけるひもの共振パターンは無限である。
同一のものなど一つもない。
もしもだよ、
万物をつくっているひもの共振パターンが
すべて異なるとしたら、
それからできている万物の中にも同一のものなど
なにひとつ存在しないことは明らかだ。

存在するのは、ごくわずかな差異だけである。

隣のひもとこのひもの振動はごくわずかに異なる。
振動パターンが同一に見えようとも、
少なくとも時空が異なる。
すべてのひもは同じ時空には存在し得ない。
同一性があるなどというのは、ヘーゲルの時代のまぼろしなのだ。
だが、いまも主流派の人々は同一性という信仰にしがみついている。

アイデンテティという幻を必死に守ることが彼らの生きがいだ。
そして、うまくその幻想に乗っかれない人々に対しては
「同一性障害」という脅迫的な病名をつけて、
正常域から追い払い、
かろうじて同一性信仰者のみのギルドを守っている。
これが今の社会だ。

全世界の「解離性同一性障害」と名づけられて悩んでいる人々、

うそっぱちの病名を返上しよう。

同一性などというものが存在するということ自体がまやかしなのだから、
おびえることはない。

堂々とわたしちたちの差異を楽しもう。
差異こそが人間にとっての最大の富なのだ。
あなたとわたしがわずかに異なっていること、

差異を好み、差異を楽しみ、差異を味わいつくそう。

→続きを読む

関連する記事を、『行方不明者たちの日記」というブログにも書きました。興味があればごらんください。
ひも理論については、ブライアン・グリーンの『エレガントな宇宙』(草思社}をお勧めします。この本に対する書評が松岡正剛の千夜千冊の1001冊目 に取り上げられています。サイトでこの記事を読まれてから興味が起これば、ブライアングリーンの書に取り組むといいと思います。

少なくともここでわたしが言っていることが突拍子もない世迷言ではないことが、お分かりいただけると思います。とんでもない想像力を働かせないと追いつけない世界理解の転換をしなければならないことではあるのですが。

2006年5月27日

芸術人類学研究所青山分校

ほぼ毎日読んでる「ほぼ日刊イトイ新聞」に、中沢新一が、東京青山の糸井事務所で「芸術人類学研究所青山分校」と銘打って、特別講義を始めるというニュースが出ていた。6月17日から月一回のペースで年末まで。50名という少人数で中身の濃いじっくりした講義が聴けそうだ。近くの人はぜひ参加することをお勧めする。心のもち方、意識の根本的なあり方から問い直し、人生を転換できる可能性を持つ講義をうけるチャンスなどめったにあるもんじゃない。こういうチャンスは逃したら当分やってこない。

http://www.1101.com/aoyama_campus/school.html

2006年5月19日

●中沢新一の芸術人類学

ヒマラヤにいると、日本での出来事も何が大事で、何が大事でないか、驚くほどくっきりと見えてくる。

中沢新一の仕事は、今の日本でもっとも注目すべき仕事だ。彼の切り開いた対称性人類学や芸術人類学の視点によって、わたしたちは、今後、人間がどのように変わっていくことができるのかについての、くっきりした見通しを持つことができる。こんな学問はほかにはない。彼の仕事は今後長い間人類の歩みをさきどっていくだろう。フーコーにならっていうことができる。「21世紀は中沢の世紀になるだろう。」と。

先年の『対称性人類学』に続き、今年の春から発足させた芸術人類学研究所の仕事に注目したい。そのサイトの冒頭に中沢が『芸術人類学とはなにか』という文を掲載している。下記をクリックして、ぜひ一度読むことをお勧めしたい。目からうろこが一枚落ちる。新鮮な目でこの世に向かうことができるから。

芸術人類学研究所:

http://www.tamabi.ac.jp/iaa/vision/index.html


2006年5月16日

カエルの声とサブボディの甘露流

今年のヒマラヤの気候は変だ。いつもなら5月は一滴の水も振らないカラカラの乾季なのに、今年は雨が多い。今日などもう雨期に入ったかのような振りっぷりだった。

そのせいか、カエルの声が元気だ。

その声をうつらうつら聴いていると、そのクオリアがいつも下意識瞑想に入ったときに真っ先に感じる甘露流と呼んでいるとても気持ちのいい体感にそっくりなことが感じられた。カエルも心地よい甘露流をからだに満たして合唱しているのだろう。

そういえば朝夕に啼く鳥のさえずりも同じクオリアだ。生命がf分の一ゆらぎで心地よくこの世と共振しているクオリアには共通するものがある。

牛の声、鳥の声、虫の声、カエルの声、すべてに共通しいているのは命が心地よさを感じて自然に共振していることなのだ

2006年5月13日

存在の根源が共振であること

ひも理論のひもの共振によって
あらゆる事物や力が生み出されているということの意味を
根源的に考えてみなくてはならない。

共振ということは、存在の根源に関わることだ。
なにかが存在していて、それらが共振しているのではない。
ひもが共振しているから存在が生まれるのだ。
ひもは、存在と非在の間で振動している。
存在以前のなにものかだ。

このことはなかなか、
三次元の粗大世界で長く生きてきたわたし達には理解しにくいことだ。
想像もしにくい。
わたし達の想像力もこの三次元粗大空間に張り付かれてしまって、
多次元時空に広がることが難しい。

だが、一つだけ方法がある。

それが、下意識の多次元変容流動世界に棲息している
生き物であるサブボディに乗り込むことだ。
全脳心身でサブボディに成りこみ、
からだごとサブボディの赴くままに動くことができるようになると、
そこに多次元変容流動世界が現出する。

これがたった一つの方法だ。

意識を止め、下意識とからだが一つに融合している
サブボディという乗り物にからだごと乗り込むこと。
すると、共振を原理に運動しているサブボディ心地がすこしずつ、
からだに染み込むように分かってくる。

サブボディは一日中内向体感クオリアを震えさせている。
かなしいほどにあまりに多くのことに共振し震えている。
たえずざわめき、ゆらいでいる。
生存欲に震え、快適欲に震え、安全欲に震え、
つながり欲に震え、自己実現欲に震えている。
動きの内向クオリアで震え、内向体感に震え、
内向映像で震え、内向音像で震え、
内向感情で震え、内向関係覚で震え
、内向世界像流と内向自己像流で振るえ、
内向気づき流で震えている。

内向クオリアが絶えず震えているのは、
それがいつも何かと共振し、
類伸と貫入と縮合の法則によって、
変容流動しているからである。
クオリアの海のゆらぎにたゆたう存在なのだ、
わたしたちは。


2006年5月11日

内向覚の謎

昨日この日記に書いたことはもう少し理論的に深めるに価する。

その文を書いている途中で気づいたことだが、内向覚にはいまだに謎が多い。

内向的クオリアは、普段は下意識の領分と捉えていいのか?

意識が外向チャンネルから情報を得ているとき、
下意識はいつもその裏に張り付いて、
内向的クオリアを共振させているのか。

そう考えると、腑に落ちることが多い。

鈴木澪さんが「多重人格者の、回復を目的とした日記」で
捉えている『心的現実』は、
この普段は下意識が担当している内向覚のクオリアを、
意識でも捉えることができている特異な事例だと考えられる。
みんな下意識ではさまざまなクオリアを感じているのだが、
意識に上らないだけなのだ。
解離性の人は特別感受性が高くなる。
また、妄想神経症にかかった場合も、
内向覚で捉えているクオリアと、
外向覚のクオリアとの区別が付きにくくなる。
意識では分かっていても、
内向覚のクオリアが勢いを持って暴れだすと
それに巻き込まれる。
これはわたしがインドに来てまもなく、
練習場の建設をめぐるカルチャーショックの中で陥った
妄想神経症の中で味わったことだ。

おそらく、精神分裂病と呼ばれる人たちも、
内向覚の勢いが強く、外向覚を押しのける勢いで活動しているのだろう。


内向覚と外向覚のクオリアの幻現二重性という観点が、
これらの問題を統一的に解く鍵を握っているだろう。
わたしにも、もう少しで見通せそうな気がするのだが
、あと一息のところをまだ越せないでいる。

中沢新一はこのことに気づいているようだ。

R.D.レインもこれに取り組んで肉迫していたが、途上でなくなった。

ミンデルはどうか。
彼は意識・無意識という概念区分を捨てている。
一次プロセス、二次プロセスという捉え方をする。
いつもふたつのプロセスは二重になっている。
どちらかが強くなったり、他を圧倒したりという
プロセスが流れていくという捉え方だ。
ミンデルの捉え方は、もっとも
「概念で現実のプロセスを裁断する」という
過ちに陥らないよう注意深く設定されている。
フロイドが晩年の図式化で犯した過ちがこれだ。

私もそろそろ、意識・下意識という概念設定から
別れなければならないときを迎えているようだ。
もうこれらの言葉は死語になりつつある。

2006年5月10日

●人体間で起こっている共振

学校ジャーナルのほうにも書いたが、
人体はほかの人体といつも微妙に共振している。
それが如実に実感できる練習をした。

●人体間の内向体感チャンネルを開く

からだに起こる微細な体感クオリアの変化を、
どこまで微細に感じ取れるからだになるか。
微細な体感チャンネルを開くにはよい練習がある。

ペアになり、一人がもう一人のからだに手を近づけていく。
そのとき受け手は自分のからだに
どんな体感のクオリア変化が起こるかを注意深く聴く。
人間のからだの一部が近づいてくるクオリアには
人体はとても敏感である。

最初は広げた手をゆっくり胸に近づけていく、
次は人差し指だけを突き出した鋭い手が近づいてくる。
次は羽毛タッチの手、
続いて握りしめた拳骨を近づけていく。
さらに奇妙な顔、異様で挙動不審なからだなど
さまざまなクオリアが近づいてくるのを聴く。
人によって過敏さは違うが
、結構面白い体感が得られる。

 

5月コースの生徒達は全員
このクオリアを感じ取って不思議な感じに捉えられていたようだが、
3週目に入るマユミは、
さすがにクオリアの変化を微細に読みとれるようになっている。
「尖った人差し指を見ると、痛みを感じ出した。
それが近づいてくるとますます痛みが強くなってきた。
ところが、指先が触れたとたん痛みはすっと消えた。
そして、指が離れたとたんまた痛み出した。」

――これは、彼女の人体が反応している
内向的な体感クオリアを
きちんと捉えていることを物語っている。
外向的な体感ではなく、
内向的な想像上のクオリアであることは、
実際に指が触れたとたんに痛みは消えた
という発言に如実に現われている。

普段からわたしたちの人体は
いつもこういう内向的なクオリアに震えているのだ。
意識はそれを感知しない。
だが、ここに来てサブボディモードになると、
それを敏感に感じとれる体に変成していく。
これはほんのその一つの事例に過ぎない。

私たちはじょじょに日常体が下意識に押し付けてきたクオリアを
微細に察知できるからだに変成する方法を見出しつつある。
これは、意識と下意識の間に
かつてないコミュニケーション回路を見出したことになる。
近代の初めに起こった人間の意識と無意識の分裂に、
終止符が打たれようとしている。
その終止符の最初の兆しに過ぎないが、
始まったことはすごいことなのだ。
分かる人にしか分からないが。
それは人類史で起こるいつものことだ。
コペルニクスはたった一人で地動説を唱えて死んだ。
当時の人には誰にも分からなかった。
古い意識に囚われていたからだ。
それに囚われている人は、
囚われていることにも気づかない。
意識優先の意識という人間の心の近代での縮退の形は
それほど深く今の世界を覆っている。


2006年5月9日

●スーパーストリングの饗宴

ヒマラヤでの見ものの一つが嵐だ。
日本の台風級の嵐が、何の前触れもなくやってくる。
上空でジェット気流がほんの少し、その優雅な腰を振るだけで、
ヒマラヤいったいは瞬時に嵐に見舞われる。
今年ももう2枚窓を吹き飛ばされた。
わずかな木枠の隙間から入り込んだ猛速高圧の風が
一瞬にして窓枠ごと持っていってしまう。

今日は雹から始まった。パチンコ玉大の氷のかけらが
バラバラと振ってくる。
窓に当たってガラスを割ってしまうかという勢いだ。
(後で知ったが、デリーでは雹に打たれて37人もの人が亡くなったそうだ。)

続いてお決まりの雷鳴と稲光の饗宴だ。
一時間に一万発くらい落ちる。

この空の饗宴を見ながら、
ひもが共振しているのだと思って眺めてみた。

すると、空中での放電現象が
稲光へと共振パターンを変えて空に広がっているさまが納得できる。
そして、空気を圧迫した放電は
空気層の振動へと共振パターンを変え、
音波となって伝わってくる。
もともと、電磁気現象も光も音も、
ひもの共振パターンの変化に過ぎないとしたら、
すべてが形を変えつつ伝わっていくのがごく自然に納得できる。

光や電波が、粒子の性質と波動の性質を合わせ持つのも、
ひも振動のもつふたつの見かけとしてごく当然のこととして分かる。

とりわけ、光や音というクオリアが、
私達の網膜や鼓膜への刺激となり、
それが感覚細胞の電気刺激にひもの共振パターンを変え、
さらにはニューロンのつなぎ目では、
伝達物質という分子の移動に共振パターンを変え、
また次のニューロンでは電気信号に変わるというめまぐるしい変化も、
ひもにしたら単に多少の共振パターンを変えているに過ぎないのだ。
ひもが共振している11次元のうち、
粗大な4次元での共振パターンが変われば、
電気から分子の化学変化へと見かけ上変化する。
だがそれは粗大4次元しか感知できないと思い込んでいる
私達人間の意識にとってそう見えるというだけの話だ。

微細7次元では、共通した共振パターンが維持されているのだ、おそらく。
だから、粗大4次元での見掛けが変わっても、
同じクオリアが伝達されていくのだ。

だから、私達がクオリアを感じとることができるということは、
すでに大昔から私たちは小さく折り畳まれた微細7次元で振動するクオリアと
コンタクトすることができていたことを意味する。
すべてものを感じるということは微細多次元で感じているのだ。
粗大4次元内にどこを探しても、心の場所などない。
それは微細多次元での出来事なのだ。
こころだけではない。
単細胞生物のアメーバが自分の生存クオリアを感じとっているのも、
微細7次元でそれを感じとっているのだ。
粗大4次元を解剖しても生命の証拠は何も見つからないのも当然だ。
生命は微細7次元と関わるところで発生の秘密を持ったのだ。

ヒマラヤの夜空を彩る天然花火の饗宴は終わりそうもない。
写真に撮ろうとしたが、カメラの設定の仕方が分からずに撮れなかった。
バルブにしたら、ぶれてしまう。
速いシャッター速度では、光ってから押しても
シャッターが開く頃にはもう稲光は終わってしまっている。
おまけに三脚もない。
このスーパーストリングの壮大な饗宴をお届けできないのが残念だ。


2006年5月7日

●海への想い


マックロードガンジの町を久しぶりに歩くと
ずいぶん様子が変わっている。
一軒のレストランが海の魚料理を始めていた。
思わず小躍りしながら引き込まれた。
生きのいいマナガツオの料理が出てきた。
涙がこぼれるほど感動した。
私は和歌山の海辺で育ったから
からだが海のものをいつも恋しがっている。
潜在的にいつも海と共振したがっているのだ。
チベット人が国を離れてもいつも山と共振し続けているように、
私のからだは太平洋と切ないほど激しく共振し続けている。
身土不二とはこのことをいうのだろう。
ともあれ、この店ができて助かった。
毎週買うことにした。

ボンベイで水揚げされた魚がデリー経由で運ばれてくるという。
1100ルピーと少し高いが、
2000キロもの距離を越えて運ばれてくるのだ。
2000キロとは日本で言えば沖縄から北海道の距離だ。
インドは広い。
この暑い中よく腐らずにここまで届いてくれたものだ。

 
インド人の結婚式

インド人は共振好きだ。
村人の誰かが結婚したのだろうか、
ここ一週間も結婚式の音楽が流れている。
普通は二三日で終わるものが、
今回は異常に長い。
専門の楽団が音階の外れた音楽をかき鳴らす。
夜中までドンちゃんやっている。
この規模だと1000人あまりの親族が
入れ替わり立ち代わりやってきてたたずんでいる。
彼らはこうして何千年も同じやり方を続けてきた。
共振する心地よさはなにものにもかけがえのないものらしい。
遠くに住む人々もこのときとばかりに
仕事を休んで駆けつけてくる。
彼らにとっては仕事などより
結婚式に参加するほうがはるかに大事なのだ。
ただ、遠い血縁の雰囲気と共振しながら
その場にたゆたっているだけでよいのだ。
こういうインド人のやり方や価値観が
わかるまで何年もかかった。

この日の記事は、ダラムサラガイドのページにも転載しました。

2006年5月6日

●共振という観点

あらゆることを共振という観点から見直す、
共振日記をつけ始めることにした。

久しぶりにダラムサラの町に出た。
インド人とチベット人が半々の奇妙な町だ。
そこに外国人の観光客が
1、2割ほど混じる。
インド人も、チベット人も私には分からない言語で
しゃべりあい、どなりあい、笑いあっている。
わたしには言葉の意味はききとれない。
だからかえって、本質がつかめる。
かれらは同族同士、共振しているのだ。

その目で世界を見ると、けものも鳥も虫も木々も、
すべて世界と共振しあっているのが感じられる。

あらゆるものは共振している。
物と物、物と人、人と人、……。
――これは、おそらくこの世で一番根底的な事実なのだ。
根底的な事実なのに、いままで誰からも見逃されてきた。

根底的過ぎて、気がつかなかったのだ。

感じようとしたら、すぐ感じられるのに。

ものを見ることも共振ならば、見られることも共振、
音声を聞くことも発することも共振、においをかぐこと、味わうこと、
この世の空間を横切ること、触れること、踏むこと、立つこと、歩くこと、
感情がわくこと、食うこと、出すこと、交わること、……
生きることすべてが共振なのだ。

やがて、いまはまだ仮説扱いのひも理論が、
標準理論に取って代わるとき、
存在認識の根底的な変革がおとずれるだろう。
この宇宙のあらゆる物質も力も、
極微小な振動するひもの共振パターンの変化によって
もたらされていること。
そして、わたしが一歩踏み出したクオリア共振仮説。
あらゆるクオリアもまた、
ひもの共振パターンの変化によってもたらされていること。
人間とはクオリア共振を通じて世界と共振している存在であること。
これらのことが一挙に当たり前の認識になる日が来るだろう。

天動説から地動説へ一挙に変わった日のように。
(その日のことを想像するのはなんと爽快なことだろうか。)

共振ということがこの世の根本法則であるとすれば、
これまでの認識はすべてひっくり返らなければならない。
共振とは働きかける側と、働きかけられる側とがあって、
その両者の間に起こることでは
ない
ニュートン力学の常識的な見方を止め、
科学からその妄想を洗い落とすことを、
学び直さねばならない。

どちらが主で、どちらが従という区別がまったくなく、
共振は両者の間に同時に起こるのだ。
自動詞と他動詞を区別してきた認識はすべて、
意識の思い込みに過ぎなかったことになる。
あるいは、つつましく言い直しても
それは意識の思い込みが通用する
狭い範囲内だけで妥当する限定された認識であることを
思い知らねばならない。
下意識のクオリアの世界ではまったく自他平等な
クオリア共振が起こっているだけなのだ。
自他の区別、内外の区別、心身の区別などは、
意識の思い込みの世界にしか存在しない。

意識は共振を知らない。
意識はすべてを自分を主体にして考える習癖にとらわれている。
だが、そんなものは幻想なのだ。
われわれは、他の生き物同様、
世界と共振している生命体にほかならない。
そして、私たちの下意識で他の生き物同様
世界と共振して小さく震えているさまざまな
クオリアの多彩さこそが私たちの持つ最大の財産だ。
それをくまなく味わうこと。
あらゆるクオリアに美を発見し、
クオリアの多彩さをさらに豊かなものにしていくこと。


自我をとめて、下意識のサブボディ界でおこっている
クオリアの共振に気づくと、
自分の中のどんなみすぼらしいクオリアも分身も
自全の一部として認められるようになる。
それが世界中の不幸と共振して震えている
とびきりのけなげさに気づけば愛さずにはいられなくなる。
サブボディは意識のようにえばったりしない。
権力をふるうこともない。
過剰の自尊心で傷つくこともない。
ただ、共振するだけだ。
そこは否定も規定もない世界なのだ。
なんと生きやすい世界ではないか。


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