からだの闇を掘る
          

←BACK ■ NEXT→

2007年5月
2007年5月28日

解けない謎

言葉を止めないと探れない闇がからだの中にある。
絶好調だと過信して疾走しているときにも気づけない。
だが、何かの拍子にほんの少し歯車が狂いだすことがある。
からだの不調、対人関係のもつれ、対社会的関係の事故、……
いや、不調やもつれや事故といっては言い過ぎるほどの
ほんの些細な変調が,単独か、いくつか重なってか訪れることがある。
そんなときだ。
からだの奥に底知れない闇がぽっかり口を開けるのは。
その不可視の空間が、
なにかこの世ならぬ時空の影響を受けているかのようにきしみだす。
言葉ではなんともいえないほんのかすかな不全感のようなもの。
好調だと思い込んでいるときには気にも掛けずにまたぎこしてしまう
些細なギャップ。
幸いにもそういうかすかな不全感に気づくことができたら、
一心にそれに耳を澄ます。
そこにこそ命からのもっとも大事なメッセージが折りたたまれている。
長年の経験でそれを知った。

今回は1週間のインターネットの断線事故で、
いつものサイト更新のテンポが滞った。
不眠の癖がぶり返し、いつになく、DVDを見ながら眠るようになった。
すると、サブボディさんとの緊密なコミュニケーションが狂い、
いつものようにサブボディさんに未知の課題の探索をお願いしても
答えが受け取れなくなっているのに気づいた。
授業中に出くわす、生徒の不調や自我の表出に
いつも以上に傷つくようになった。

こういうときだ。
世界像流と自己像流の間のわずかなずれに気づかされるのは。
このずれが起こると、なにかがおかしいという不全感がやってくる。
これこそ大きなチャンス到来なのだ。
ずれのクオリアが語るものにたっぷり耳を傾け、
ずれを微妙に微調整する。

夕べは時ならぬ雪が降った。
5月はヒマラヤの夏真っ盛りなのだが
夏の盛りに雪が降り、
世界が夏と冬の間で大きくゆらいだ。
今日生徒の半数以上が欠席したのは不意の冬の襲来で
寝冷えをしてしまったからかもしれない。
出席した生徒も気候不順に順応できずいつになく元気がない。
授業にも乗ってこれない生徒がいる。
ここヒマラヤでは、命が世界と共振していることを
まざまざと実感させられる。
どこかで始まった小さなきしみがすべてつながりあって
軋みの共振を増幅していく。
不意に何かが失速する。

こういうときだ。
自分の命に問う。
「ほんとうにやりたいことは何なんだい?」
毎日続けている共振塾の授業も、いつも
サブボディとコーボディの間、
舞踏とサブボディの間、
いまある学校のあり方と、
まだ未知の世界とのかかわり方との間、
をゆらいでいる。
それらのゆらぎのほんの少し力点が変わるだけで
味わいはころっと別物になる。
正反対のものにさえなる。
ヒマラヤ上空のジェット気流がほんの気まぐれに
その腰をわずかに振っただけで、夏から冬に一変するのと似ている。
ゆらぎの中でいつも不可視の闇を探っている。
闇は幾重にも深く絡み合っている。
多数多次元の未知の闇ほど扱いにくいものはない。
世界像流と自己像流の多次元相関的なきしみはそこから生じる。
その闇は言葉などではとても説明がつかない複雑精妙なものなので、
言葉を止め、ただ、からだに耳を澄ませて
微妙なゆらぎの変化に聴き入るしかない。

こういう世界があることを教えてくれたのは多くの先人たちだ。
からだに耳を澄ませることは、
『からだに貞く』、『重さに貞く』の野口三千三、
人類の潜在意識教育に賭けた野口整体の野口晴哉、
まず、この両野口から学んだ。
そして、土方巽だ。
彼はこれについては何も書き残していない。
だが、からだの闇に耳を澄ますことなしに舞踏は出現し得なかった。
彼は、当時彼だけが見出した創造の秘密を弟子にさえ秘めたのだ。
「秘めずば、花にあらず」という舞台の鉄則を知りつくしていたからだ。
彼らは幸いなことにからだや世界の不可視の闇に耳を澄ませる
東洋文化圏の伝統的な沃土の上に立っていた。
それから、『フォーカシング』のジェンドリンだ。
からだの中のかすかな不快感に耳を澄まして、
それが伝えようとしているものに聴き入ることをフォーカシングと呼ぶ。
それを西洋文化圏で最初に理論化したのがジェンドリンだ。
ミンデルの「センシェントな」第二の注意力、
あるいは明晰さ(ルシディティ)を鍛えるという方法も同様の道にある。

これらはすべて、生命の声に耳を澄ます生の技法である。

1960年代に、ミシェル・フーコーは、『言葉と物』で
現代の西洋的な知の終焉を予告した。
人間という思い上がりの上に立った「人間の終わり」を告げる、
新しい知の形態の出現を予言した。
それが出現すれば、
現在の自我と国家を支える人間を前提にした西洋の知性は
海辺の砂に描かれた砂絵のように消え去るだろうと予言した
「人類の新しい知の形態」とは、
まさしくこの新しい生の技法を指していたのだ。

それは、現在の社会生活で主流となっている
自我に囚われた意識を止めることで得られる。
この新しい知の形態は、
近代自我が国家を支えて続けている
闇の関係を終わらせることができる。
国家と戦争の時代を終焉させることができる。
自我を止め、命の声を聴けば、
国家や戦争がどんなに馬鹿げたものであったかが
心底から分かるからだ。

生命の声に耳を傾けることのできる新しい知のかたち、
知というより、こころとからだの新しいありよう、
あるいは「生存の技法」といったほうが精確だ。
わたしはそれを透明覚、あるいは透明心身と呼んできた。
それは、意識と下意識が半々に釣り合った状態である。
意識にも下意識にも囚われない心身である。
からだと、意識と下意識の間で起こることが
すべて透明に見える状態である。
そこでは、内と外、こころとからだ、他者と自己、
類と個などの二元論的な障壁が消える。
いや、二元論的なツリー状の日常知と、
多次元変容流動するリゾーム的な下意識の世界との
二つの異なる世界を自在に行き来できる
ツリーかつリゾーム的な知である。
わたしはこの新しい知の形態、生存技法を
世界中の人が持てるよううながす産婆として生きる。
その同志を絶えず求めている。

ただ、ひとつ大きな問題がある。

その透明心身は、
絶えず一所懸命その状態を持続しようとしていないと
すぐに消え去ってしまう。
確固としたものではない。
絶えず生成と消滅の間でゆらいでいる。
強烈な自我意識に出会えば、瞬間的に伝染されて
自我意識モードに戻ってしまう。
とても、壊れやすい状態である。
まだ生まれかけているところだから、
どうすればこれをうまく守り育てていけるのか、
方法はまだ発見されていない。
外界との接触を制限し保護する、
僧侶のサンガのような生活共同体が必要なのかもしれない。
だがそれでは、人類全体のものとなるには
日がかかりすぎる。

これが今わたしが直面している解けない謎だ。
この謎の解けなさが棘のように私を突き刺し続けている。
これがどうやら、この間わたしを襲い続けていた
不全感の根因だったようだ。




2007年5月26日

●生命の共振志向性

生命は共振を志向している。
これが最近感じ深めていることがらだ。

毎週月曜の朝の授業は、生命ゆらぎと生命共振を感じることから
始める。
これまで、長年いろんなやり方を試みてきたが、どうやら下記の調
体の方法が今のところ最もおいしいもののひとつだ。
これを続けていると、生命が互いに生命共振を志向していることが
疑えない巨大な生命の傾向性であることがからだで分かってくる。

1.静まりかえる

これが一番大事だ。
日常体はいつもあれこれをしなければならないとか、
何時にどの番組を見ようとか、の思念に囚われている。
そして、同時に無意識的か意識的かにかかわらず、
からだの凝りや滞りからくるささいな不快感に汚染されている。
まず、これらの汚染をすかり洗い流すのが毎朝の調体
(いい状態のからだにもっていくコンディショニング)だ。
寝ている間にはかならず、腰が少し沈んで骨盤の位置がわずかに
狂う。
肩を冷やして凝りかけている日もある。
これらを解きほぐさないと、自分がどんな思念に囚われているかに
さえも気づけない。
心身はいつもこんがらがりあって、からだの闇を深めているからだ

からだほぐしと、こころほぐしの両方が必要になるのはそのためで
ある。
わたしはたいがいこの調体に毎朝一時間か二時間をかける。
自分の静寂体に到達するまでにずいぶんかかるものだ。

生徒には最初の週にわたしが知るかぎりの調体法を伝えて、自分
なりの調体法を毎朝みつけるように促す。
これが自分でできることが、世界から自立するための第一歩だか
らだ。
ゆらぎを使う方法、ふるえやうねり、呼吸、内呼吸をからだに通す
方法、まわりの自然のクオリアを味わう方法、ほかの人との不即
不離の距離でふれあい生命共振を味わう方法、ランダムにからだ
を動かす方法、顔や声を解放する方法など、時に応じて無数の方
法がある。それらのうちから、その日にもっともふさわしいものを見
つけていく。
毎日のように、少しずつ新しいこころほぐし、からだほぐしの方法が
見つかる。
見つかった新しい方法はすぐ手近のノートにメモして忘れ去る。
こころがなにかにこだわっている状態から解きほぐすには、
書いてすぐ忘れるのがいちばんいい方法だ。

2.生命ゆらぎを聴く

心身の凝りやこだわりがほぐれて静かなからだになってはじめて
生命のかすかなゆらぎが聴こえだす。
生命はいつもゆらいでいる。決して止まることがない。
ほんの少し元気になるか、元気を使い果たしてそうでもなくなるか
の間をゆらいでいる。
ほんの少し、外向的になるか内向するかの間を、
活動か休息かの間を、健康か病気かの間を、……。
そして、からだの各細胞が内呼吸で十分の酸素を得、ナトリウム
ポンプとカリウムポンプのバランスもうまく取れているときは、
からだ中に心地よい甘露流が満ちているのを感じることができる。
体調が悪かったり、熱や痛みに見舞われていると、
けっしてこの甘露流を感じることができない。
この甘露流は生命ゆらぎが適切な範囲内でゆらいでいることの
指標なのである。
からだがいつものバランスを取れているかそうでないかを
この甘露流を感じれるかどうかで判断することができる。
心地よさを感じることができたら、命に聴く。
「何をいちばん実現したいのかい?」
やりたいことから、すこしでもずれていると、ほんのすこしの不全感
が混じる。
毎日、毎瞬間感じ続けていると、甘露流にほんのわずかでも不全
感が混じるとすぐ感知できるものだ。
たとえば、授業の進行に少しでも無理があって、
ひとりの生徒が苦痛を感じるだけでも、
わたしの甘露流にすぐさま苦い味が混じって、
何事かがうまくいっていないことを伝える。
日常意識では見逃しがちな、ささいな不全感を
うまく察知することが生命にとってとても重要なことなのだ。

わたしはこれをヒマラヤのインド人から学んだ。
かれらは場の雰囲気がすこしでも悪くなると、
すぐさまその場から離れる。
この敏感さには何度も驚かされた。
文明人のように、いやな場所に無理やり自分を言い聞かせて縛り
付けることがないのだ。
インド人と比較すると、文明人がいかに生命の持つ原生的な感覚
を失っているかがくっきりと照らし出される。

3.生命共振を感じる

さて、以上の準備の後、両手を不即不離の距離に近づけ、両手の
間に何が起こっているか、かすかなクオリアを感じる。
なにかがかすかにざわめいているのが感じられるだろう。
わたしはこれを両手の細胞間の生命共振だと受け取っている。
細胞間で交し合っている生命共振クオリアのゆらぎが
感覚神経にも感じられるのだ。
細胞間で交し合う共振には、ひも共振レベルのもっとも微細なもの
から、ナトリウム=カリウムポンプによる電気信号的なゆらぎ、熱
線のゆらぎ、血流のゆらぎ、内呼吸のゆらぎ、などさまざまなレベ
ルが混在している。
まだ未解明のおそろしく複雑な信号によって、生命細胞と他の生
命細胞は共振し、ひとつの生命体として同期していることだろう。

ともあれ、私たちのからだは、この生命共振を快として受け入れる
ようにできているようだ。
自分の細胞間の生命共振を感じたら、つぎはほかの人のからだの
細胞にやはり不即不離の距離に近づいて、その間に起こっている
ことを感じてみる。
心身が十分に静まっていれば、心地よい生命共振のゆらぎに包ま
れること請け合いだ。
自我がまだ鎮まっていいないときは、性的な感覚や好悪の感情が
起こってくるからすぐ分かる。
生命レベルの共振は性的な感覚や、自己の感情などに左右され
ないピュアなものだ。
そのピュアさは一度味わえば、もう二度と忘れたくなくなるほど
上品な極上のものだ。
こんなおいしいものを文明生活の中で
わたしたちは失い続けている。
あまりにももったいない。
生命として生まれたおいしさの限りを味わえずに生きている。
わたしが伝えたいのは生命共振のたとえようもないおいしさだ。

2007年5月20日

一個多重の命

お気に入りの生き物たちの写真をランダムに並べて、
スライドショーで眺める。
ピクチャトレイルコムのローテーショングラスという
フォトフリックにする。
この人たちの命がすべて原初生命から一続きの
ひとつの巨大な命の連続体であることを思う。
自分もまた、その一環だ。
そっとすべり込んでみた。
するとここは今までで一番ぴったり来る場所だという気がする。
単なる兄弟だ、という感じではなく、
私たちが一個多重の命であることが実感できる。
生き物はみな同じようなものだ。
アメーバも私も大差はない。
どことなくみな似ているじゃないか。
ただそれだけのことを感じ、楽しむ。
いいフォトフリックができた日はごきげんだ。
ひとつの命。
この味わいはすごい。



2007年5月19日

ひとつの存続する生命への気づき

40億年前に生まれた初源生命が、かたちを変えながらも、
いちども死に絶えたことがないことを思う。
よくよく考えればすごいことだ。
個体としての生命体は無数に死んだが、
この初源生命自体は一度たりとも死んでいないのだ。
死んでいないとなると、40億年間生き続けている
巨大な命ということになる。
これが本当は命の実態なのではないか。

わたしたちは長い間、命といえば個体の生命と思い込む
思考習慣に囚われてきた。
生命が実は40億年間、今の自分に至るまでただの一度も途切れていない
生命の連続体であることを忘れている。
生命とはほかでもない、この40億年間存続してきた巨大な生命なのだ。
個体とはほんの短期間その巨大な生命の一部を分有して開花した
小さな花に他ならない。
生命の総体とは、40億年間存続する間に幾億兆の種にまで分化し
多様化した生命の系統樹のすべてなのだ。
系統樹の隅々の種や個体にまで、原初の生命はつながっている。
生命がつながっているとは、ひとつの同じ生命だということだ。
このことが長い間見落とされてきた。
わたしも長い間気づかなかった。
ただ、踊りの中で出会う、サブボディとコーボディが混交し、
ひとつになる不思議な現象にこだわり、
サブボディとコーボディの間の闇を探り続けてきた。
その闇からぽっかり顕れてきたのが、このひとつの存続する生命という
巨大な生命への気づきだ。
私たちがこの巨大なひとつの生命を分有している存在であるからこそ、
個と類との相互転化、サブボディとコーボディの相互混融も生起するのだ。
もともと生命とは多数の個的生命とひとつの巨大な生命とが
<一個多重>のものとして存在するという本質を持っているからだ。

この類的生命と個的生命の間、群れと個の間に横たわる闇ほど、
掘っておいしい坑道はない。
長い間からだの闇を掘り続けてきて、
とうとう最も堀りがいのある鉱脈に行き当たった。
ここを掘ることで、フロイドの個人的無意識とユングの集合的無意識の間の謎、
ミンデルのドリームボディとドリームメーカーの間の謎、
こころとからだの間の謎を解く鍵が見つかるだろう。
ここはそれらが生起してくるより深い生命の相で、
個的なものと類的なものとの分化の起源を探ることができる場所だからだ。
生きていて、こんなとんでもない場所に出会うことはまたとない。
何年かかるか分からないが、わたしはこの坑道を掘る続けるだろう。
おそらく死ぬまでには掘りきれまい。
5000年くらい後に、わたしの堀り跡をたどる人が現れるかもしれない。
その頃のはもう日本語などなくなっているかもしれない。
わたしがつたない英語力で、わたしの掘り跡を英語に翻訳し続けているのは、
5000年後にこの坑道を掘る人との出会いに備えてのことだ。
これもまた、楽しいではないか。



2007年5月16日

ただひとつの生命瞑想

生命について瞑想と探求を深めていくと、
生命とは、40億年前に発生し今に続いている
ひとつの巨大な生命がその実態であることが
透明に浮かび上がってくる。

近代の個体的生命を主として考える考え方に、
私たちは深く毒されてきたが、それは真っ赤な
間違いだったということに気づかされる。

生命は40億年前に発生して以来、
無数の形態を創始し、多様化を重ねてきたが、
その中でただの一度も途切れていない。
すなわちひとつの生命が延々とかたちを多様化させながら
生きながらえているのだ。

人間が抱いた自己意識や自我という幻想は、
命がひとつであるという実態を覆い隠す。
自己意識は自分が単独の生命であるかのような
幻想に囚われている。
この自我幻想が、生命はひとつであるという
<一個多重>性を覆い隠すのだ。

なぜなら、自我は簡易な二項論理に囚われている。
内と外、上と下、自己と他者、心とからだ、善と悪、云々。
すべてを二項に分けるツリー型の論理だ。
それは、社会生活を簡便に送るためには有用だが、
生命を捉えるというような次元ではとんでもない障害になる。
二項論理では、一個と多数は相対立する概念で等値することはない。
だが、生命はそのような簡便な二元論世界に存在するものではない。

見かけ上多数の個体に分かれたとしても、
生命は40億年間ただの一度も途切れてはいない。
すなわち、多様に進化しながらも
もとの生命をずっと持続している。
多数であるが一個なのだ。
無数に形態を変えつつも、なお当初の生命であり続けている。
今後も無数の形態に変化するだろう。
生命は本質上リゾームである。
そのことが見落とされる。

生命を捉えるには、簡便な二項論理ではなく、
一個多重、すなわち、一即多という論理を内包する
新しいツリーリゾーム論理を採用することが必要である。

自我を鎮め、いや、自我を止めてはじめて
この生命の<一個多重>性を実感することができる。

ひもの<一個多重>性

生命の<一個多重>性を理解するには、
人間であるという囚われを脱ぎ捨て、
ひもレベルにまで降りてみることが有効である。

ひも理論によれば、宇宙の万物やすべてのエネルギーは
微細11次元で共振しているひもの共振パターンの変化によって
生成しているという。
生命もまた、生命独自のひもの共振パターンによって生成している。
ひもの共振こそ、<一個多重>そのものである。
ひとつひとつのひもは単独ではありえない。
単独では共振などできないから、ひも自体が存在し得ない。
ひもはもともと<一個多重>のものとして存在している。
ひもは、一個二個と数えられるものでもない。
共振の中で絶えず、連結と分離を繰り返しているリゾームだからだ。
ビッグバン時には、ちいさな空間に閉じ込められていたひもは、
ビッグバン以降、全宇宙に膨張し、
多数の星や銀河の形態に分かれたとしても
なおひとつのひも共振全体としてつながっているのだ。
<一個多重>性は、ひも自体が持っている根源的性質である。
宇宙や生命について考えるとき、
この宇宙の万物を生成しているひもの根源的性質を容認し得ない
二項論理やツリー論理を適用しようとしてはならない。

二項論理の簡便な世界と、多次元リゾームの複雑な世界の両方を
行き来するツリーリゾーム論理を
発明しなければならないのはそのためだ。

<一個多重>性は、
この来るべきツリーリゾーム論理の根本概念のひとつである。





2007年5月9日

単細胞になって共振覚を開く

共振塾では、単細胞瞑想から、それに続き、
単細胞にからだごとなりこんでみるという授業をやり続けている。
地球上にはじめて現れた原初の生命が
どんなクオリアをどんなふうに感じていただろうか
ということを、生徒とともに追体験する。
餌になる栄養分子に触れれば細胞の原形質膜の
レセプターを開いて取り入れ、
危害を与える物質にたいしてはレセプターを閉じて
身を守っただろう。
おそらく動けなかった原初生命にとって
それが唯一身を守りつつ生命を自己維持していくために
必要な能力だった。
新たに出会うさまざまな物質やエネルギーに対し、
その対処法をどんどん発明していった。
これも生命がこの星の上で生き延びる上で必須の能力だったろう。
重力、光、空気、水、音、さまざまな物質、……
無数のクオリアを味わい分け、利用する方法を発明していった。

この単細胞生命に成りこむことによって、
はじめて、生命が感じているクオリアが
共振によって生起していることが分かる。


単細胞生命は光を見ようとして光を感じるのではない。
ただ、太陽やその反射光から光は生体にやってくる。
生命はただそれと共振するだけなのだ。
重力も、音も、空気も、餌となる分子とも
ただただ共振しているのだ。

人間が錯覚している「私が見る」、「私が聴く」、「私が
感じる」、「私が動く」という主体意識はすべて幻想である。
人間の意識が抱えた主体・客体という思い込みが、
共振という根源的現象を覆い隠してきた。

自我を捨て、単細胞生命に成りこむことによってはじめて
生命はただ共振しているのだということが分かる。
頭で分かるのではなく、からだで分かる。
長い間からだに封印されていた共振覚がひらく。

共振塾の授業で各国の生徒とこの共振覚の開けを
共有することを試みている。
だんだん、そのもっともよい方法が見つかってくる。
今日の<単細胞瞑想>から目隠しで歩く<闇の手触り>への
道筋がその坑道のひとつであることが分かってきた。
余計な視覚や思考が共振覚をさえぎっているのだ。
その解き方が分かってくることほどうれしい発見はない。

ヒマラヤの5月は、ときどきとんでもない嵐に見舞われる。
晴れて雲ひとつない空が、わずか十分で掻き曇り、
暗黒の空から突風が吹く。雹が地を叩く。温度が急激に下がる。
木々は狂ったようにさんざめく。
そのとき生命も根底から嵐に共振してぶるぶる震え上がる。
私は和歌山の出なので、台風には慣れている。
ジェーン台風、室戸台風、伊勢湾台風、かずかずの大きな
被害を出した台風の風をまともに受けて育ってきた。
京都にいたころは台風が懐かしくて、来るたびに
頭になべをかぶって強風の中木津川の堤防に上がった。
からだが喜びに騒ぎ立つとポーカーフェイスをする余裕があった。
だが、ヒマラヤではそんな余裕など吹っ飛んでしまう。
何しろ予告なくやってくる。
私の家はすでに5枚のガラス窓を、この突風で失っている。
きっちり締めていたはずの窓枠の隙間から吹き込み、
窓枠ごと持っていかれてしまうのだ。
おそらく、日本の台風では体験したことのない瞬間風速50メートルか、
それ以上の突風に見舞われる。
こんなとてつもないものに出会えば、
命はただただ縮み上がり共振してふるえる。
そういう命の生の反応に出会うことができたことも
生命の共振に気づかせてくれるきっかけになった。

吉本隆明の『初期歌謡論』に、古代のある時期には、
人々が自分の心の動きを外界の自然の動きに仮託し、
投影して表現していた段階があったという一節がある。
あいまいな記憶だが、この歌が引かれていた。
「狭井河よ 雲立ち渡り 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす」
( 古事記, 伊須気余理比売)
この歌は、すでに古事記の編纂の段階から、
子供たちに迫る危機を、自然描写に託して告げようとしたとか、
暗示しているとかと解釈されている。
確かに現在の近代的なこころのありようから見れば,
吉本のように捉えることもできよう。
だが、古代の人間の心はただ外界自然の動きと共振していたのだ。
そういう、もっとも原生的な生命とこころのありようの段階があった。
この歌には表れているのはその段階の心の名残なのだ。
心を外界に投影する(B)のではなく、
心が外界と共振しているさまをただ詠っている(A)。
精確に言えば、AとBとの間の過渡期のどこかに位置している。

私がここ十年、毎年タイ、インド、ネパール、ミャンマーの山奥に入り、
小数山岳民の部落を訪れているのは、
かれらが豊かに保持しているこのAの共振覚にじかに触れられるからだ。
この生命の共振覚は人間にとっての宝だと思う。
おそらく世界各地のネイティブやアボリジニたち先住民は、
この共振覚を豊かに保有していたに違いない。
今それらは風前の灯のようにグローバリゼーションの
粗大な波によってかき消されようとしている。
だが、このヒマラヤからは、その大勢に逆行する風を送り続けよう。

共振覚は人間にとって回復しうる。

――今私たちはそれを回復する実践的な方法を見出しつつある。
(それについては、共振塾ジャーナルを見てほしい。)
細くても粘り強い風をここから世界に送り続けていこう。


2007年5月5日

ただのゆらぎに過ぎない存在の無底の恐怖

屋上で夕暮れのひとときをハンモックに揺られて過ごす。
今日は朝から、ただただゆらぎ立ちの練習をつづけていた。
すると、わたしたちの実相が
ほんとうにただのゆらぎに過ぎないということが、
生まれて初めてからだで実感することができた。
自我だの自己だのというなにかまとまったものが
あるなどというのはただの幻想で、
わたしたちの実相はただのひも共振のゆらぎにすぎない。
それが頭でわかっているだけのことと、
からだで実感するということの間には
天地の開きがあることを思い知った。
今日の実感には底知れぬ恐怖が付きまとっていた。
存在の無底。
確かなものなどなにもない。
存在などといっても、ただのクオリアのゆらぎに過ぎない。
わたしはただ無数のクオリアと共振している
微小なひもの集合に過ぎないのだ。

そう実感したとたん、底なしの無へ落ちていくような
強烈な不安に捉えられた。
存在の実相の頼りなさの感覚だった。
そうか、
本当はこんな頼りないものに過ぎないのに
この無底の恐怖から逃れるために
わたしたちは自我だの自己だのという確かなものを持つかのような
幻想を必要とするのだ、と気づいた。
実際その恐怖には数秒とは耐えられないほどの
不快な怖気と震えが伴った。
先日から時々からだを襲う
この不快な体感を探り続けていた。
心臓の拍動が変わり、血圧が高まるときのような
からだの底から捉えられる不快感だった。
そうかい。
あの体感で、
存在の無底の味を告げようとしていてくれたのか。

2007年5月2日

暗黒熱 (ブラックブラック・フィーバー)
(Rhizome Lee /Budapest, 2000)

ブダペストの一角、ジプシーたちの棲む街区のビルの地下に、
何十トンもの川砂を敷き詰めたブラックブラックギャラリーがあった。
ユーゴスラビアからハンガリーに移り住んだ
過激で奇妙なアーテストグループが運営していた。
2000年の東欧ツアーは、そこから始まった。
砂にからだごと飛んで落ちる体感は独特のもので、
いまもわたしのからだにありありと残っている。
その年の東欧ツアーは、
シナゴーグチェーンという組織からの招待だった。
東欧各地の都市に残っているシナゴーグ(ユダヤ教会)が
戦後50年間誰も使う人がいないまま放置されていたのを
芸術交流の場所に転用しようという人々が集まって創った組織だ。
各地のシナゴーグは、荒れに荒れていた。
床は割れたままのコンクリートだった。
天井は破れたままだった。
ユーゴのシナゴーグなどはドアを開くのが
第二次大戦後以来そのときが二度目だった。
分厚い埃が30センチほども積もっていた。
3000席ほどもある大聖堂の空間には
いまだに成仏しきれない亡霊が
無数に飛び交っているかのように感じられた。

おうともさ!
きみらと踊りに来たんだ。
と飛び交うアウシュビッツの亡霊たちに声をかけた。
16歳のとき、フランクルの『夜と霧』で見た、
無数のアウシュビッツの死体の山の写真は忘れることがない
骨と皮ばかりにやせこけ、しかも死後硬直していた。
あるいはあまりにやせこけすぎて死後硬直が解けないままに
山と積まれていた。
彼らのクオリアはわたしのからだの闇に長年棲みつき
そのときまで、踊られるのを待っていたのだ。

からだに染み込んだ死者のクオリアは消えない。
何度も何度も一緒に踊ることによってだけ
少しずつ、少しずつ鎮まっていく。
そんな死者たちがわたしのからだの闇に
無数に棲んでいる。


ビデオを見る
2007年4月
2007年1-3月
2006年

| コメントを書くメールを送るBack to top サブボディ舞踏スクールホームページ |  

Google
WWW を検索
subbody.com を検索

調べたいキーワードを、上の検索欄に入力して、[Google検索]をクリックしてください。
お望みのキーワードのあるページが見つかります。

| コメントを書くメールを送るBack to top サブボディ舞踏スクールホームページ |  

からだの闇を掘る
2007年5月
解けない謎
生命の共振志向性
一個多重の命
ひとつの存続する生命への気づき
ただひとつの生命瞑想
ひもの<一個多重>性
単細胞になって共振覚を開く
ただのゆらぎに過ぎない
存在の無底の恐怖
暗黒熱 2000 
2007年4月
2007年3月
2006年11-12月
2006年9-10月
2006年1-8月
2005年
サブボディメソッド
生命論2011
クオリア論2010
透明論2009
   肯定論2008
共振論2007
舞踏論2006
透明論 2005
実技ガイド
共振タッチ技法
図解ツアー
キーワードツアー
サブボディ学校ジャーナル
リゾーム Leeの
探究坑道地図
からだの闇を掘る
リゾーム Leeのからだの闇探究のメイン坑道

ヒマラヤ共振日記
共振という観点から、世界をあるがままに捉えなおす。共振したものはなんでも記述していく日記。
多重人格日記
リゾーム Leeの多重人格=解離性人格障害を創造に生かしていこうとする深部坑道
サブボディ舞踏スクール ヒマラヤ ホームページ
RSS FEED

わたしはからだの闇の探鉱夫だ。長年掘り続けていると、いつのまにか穴だらけのからだになった。
私はなおも掘り続けるだろう。体全部が透明になるまで掘り続けるつもりだ。
 リゾーム Lee

 subbody