からだの闇を掘る
2007年
泡立つ多細胞共振体
ストリング共振瞑想
<多次元一如>という原理
自己不全感という最強のてがかり
<自我>に触れると痛む
カラビヤウ図の遊び方
ハッピーキャンサー
生存五欲瞑想
なぜ透明さを求めるのか
自我という仮面
悲しき日常体
日本とヒマラヤの落差
2006年
下意識モードの光と闇
いちばんよい問い
寒さのクオリア・恒星のクオリア
気とクオリア
透明体記念日
リゾーミングとは下意識を顕在化する技法だ
サブボディとコーボディ、類と個の謎
意識による下意識のマスキングについて
人間はどこまで透明になれるのか?
これがサブボディだ
40億歳の原生命
2006年9-10月
生体クオリア記憶
共振性原理の根本公式
共振ゆらぎについて
触れることの魔
無数の滅びた生命システムの中で
もっとも原生的な生命クオリアとは?
ユーザーイルージョン
胎児の気持ち
単細胞瞑想
インド人に学んだ原生感覚
治癒とは何か(第2稿)
毎日の日課
治癒とは何か
妙間の生
2006年1−8月
2005年
サブボディメソッド
生命論2011
クオリア論2010
透明論2009
   肯定論2008
共振論2007
舞踏論2006
透明論 2005
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共振タッチ技法
図解ツアー
キーワードツアー
サブボディ学校ジャーナル
リゾーム Leeの
探究坑道地図
からだの闇を掘る
リゾーム Leeのからだの闇探究のメイン坑道

ヒマラヤ共振日記
共振という観点から、世界をあるがままに捉えなおす。共振したものはなんでも記述していく日記。
多重人格日記
リゾーム Leeの多重人格=解離性人格障害を創造に生かしていこうとする深部坑道
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からだの闇を掘る
          


 subbody

わたしはからだの闇の探鉱夫だ。長年掘り続けていると、いつのまにか穴だらけのからだになった。
私はなおも掘り続けるだろう。体全部が透明になるまで掘り続けるつもりだ。
 リゾーム Lee

Jeff Bryant による
Mathimatica Visualization より。
Higher Dimensions
from String Theory

右の絵、または上のVisualization
のリンクをクリックし、
Jeff氏のサイトに飛んだ後、
アニメを右クリックすると
ご自分のパソコンにこのアニメーションを
保存することができます。

あとは、下記の
カラビヤウ図の遊び方
をご覧ください。

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2007年
2007年4月9日

泡立つ多細胞共振体

今朝、面白い体感の夢を見た。

からだの中の各細胞が発している微細な電気を
感じようとすると、感じることができるようになっていた。
何かからだの調子が悪いときの話だったが、
各部の細胞が発している微細な電気を感じつつ
ゆっくり転がりつつ蠢いていた。

その体感があまりにリアルで、面白かったので
一日中その体感を追っていた。

夢と付き合う技法

夢と仲良く付き合うには、
その視覚イメージにこだわらず、
夢の中の体感に付き従うのがいい。
夢の中の体感を何度も何度も味わいなおす。
すると、しばらく追っていると
別のチャンネルがふと開いたりして
思いがけない気づきを受け取ることができる。
その気づきは、下意識さんからの格別の贈り物だ。
わたしはこの技法をジェンドリンの
フォーカシング」技法から学んだ。
(興味のある方は、
『夢とフォーカシング』ユージン・T・ジェンドリン(福村出版)
を読まれるといい。この技法を身につけると
夢があなたの下意識の創造の宝庫に一変する。)

下意識からの贈り物

授業を終えて、すぐ横になってその体感を探っていた。
すると、体中の無数の細胞が、
疲れて眠り込みたいという傾向と、
新しい酸素を得て活気付いていく傾向とに
別れていることが感じられた。
600兆といわれるわたしたちを構成する
細胞たちは、さらに無数のシステムや臓器に別れ、
その中でもつねに多次元的な傾向が渦巻いている。
死んでいく細胞も日々何百万もあれば
生まれてくるものもほぼ同数ある。
疲れたり、何かの欠乏を感じたり、活気付いたり、
満ち足りたり、……と無数の多次元的な傾向に満ちている。

とくに、疲れている多細胞群が、
内呼吸によって新しい酸素を得たときに
ブクブクと泡立ちながら活性化していくイメージと
体感がやってきた。
酸素で活性化する細胞群が
泡立ちつつ他の部位をも巻き込んでいく。

泡立ちリゾーム

いままで、思いつくことのなかった
リゾームのイメージがやってきた。
下意識さんからのありがたい贈り物だった。

各細胞がさまざまな次元方向への傾向をもち、
それぞれの傾向が隣接部に広がり、リゾーム状に
蠢きながら、ひとつの全体の動きを形成している。
先週のセンタの、微細なクオリアにゆらぎながら転がる
透明な蠢きがその例として浮かんだ。
そのとき、蠢きは格別味わい深さを増す。

わたしたちは600兆の単細胞の共振体である。
彼らは、それぞれが一個の生命を持ちながら、
共存しなければひとつの全体的な命として
やっていけないことを知っている。
なんという叡智なのだ。
単細胞の癖に。
地球上で戦争して殺しあう人類のような馬鹿な真似はしない。
国境を越えて、胃と肝臓が戦争をはじめることもない。

しばらくこの多細胞共振体としての生命の動きを追求しよう。
先月の最後の日になってはじめて到達した地点から
4月コースの第1週をはじめることができる。
とんでもない未踏へ踏み込んでいくことになりそうだ。

癌細胞という例外

ただ、ひとつ例外があることに気づいた。
癌細胞だ。
共振を忘れて自己の増殖だけに躍起になる。
人間社会にもそういう癌細胞化してしまった人々がいる。
他国に侵略し、自己の利益のために
爆弾を消費し、殺戮する
軍事資本やフォードたちの一群は、
癌細胞化してしまった人間なのだ。
通常細胞がもつ生命共振の叡智のかけらもない。

人類の生命はやがて、この癌細胞を取り除いて、
共振しなければやっていけないという
生命の叡智を取り戻す日が来るだろう。

共振塾ヒマラヤは「そのとき」に向かって進んでいる。


ここをクリックすると、この絵のオリジナルサイトである、
ジーン・フランシス・コロナさんの
' A VIRTUAL SPACE-TIME TRAVEL MACHINE'に飛びます。
上の絵の拡大図が現れたら、その絵の上にマウスを置き、
クリックしてみてください。
上のひもが多次元で変容流動するムービーを見ることができます。
(ムービーを見るには、 'Windous media player'.が必要です
持ってない人は、ここをクリックしてダウンロードしてください。).
2007年4月1日

ストリング共振瞑想

休日の土曜、日曜はたいてい丸一日、
命に聴く瞑想に入る。

「命さんよ、何が一番したいんだい?」
シンプルな問いだが、
いままで試みたさまざまな自分への問いかけの中で
一番よい問い方がこれだ。

若い頃は、
「いかに生きるべきか」とか、
「何を生きるか」などと自分に問い続けていた。
だが、自分に問えば、
自己意識が立ち上がってしまう。
そして、思考回路で考え込み
思考の迷路に絡めとられてしまう。
思考チャンネルはこういう大きな問題に
対処するにはふさわしくないのだ。

45歳で踊り手として生きようと決めたときも、
思考で決めたのではなかった。
思考より先にからだがそう決めていた。
それ以来あらゆる大事な決定はからだに任せるようになった。
日本を飛び出し、諸外国を踊り歩くようになったのも、
旅の中で、インドのヒマラヤに練習場を創ることに決めたのも、
からだの底の意向に従った。
わたしがからだというときは
いつも脳心身のすべてを統合した基底にある
命の意向、傾向性のようなものを指している。
いまはそれを端的に命と呼ぶようになった。

命はいつもゆらいでいる。
そしてさまざまな多次元の傾向性に満ちている。
それをひとつひとつ聴き取っていく。

今日最初に浮かんだのは、
金曜日に生徒たちが踊ったサブボディダンスを
来週以降どう展開させていくか、
各個のサブボディがどこへ弾けて行きたいか、
一人ひとりの
サブボディの動きになりこんで感じてみる。

その結果出てきたのが、
昨日の共振塾ジャーナルに書いた、
<世界像チャンネルと自己像チャンネルを自在に往還する>
という課題だ。
次にどのチャンネルを開きたがっているか、
今なお閉ざされているチャンネルは何か、を感じ続けていると、
最良のアドバイスが自然にからだの闇から湧き上がってくる。
瞑想で自我を限りなく弱めた状態になると
自分のサブボディと生徒のサブボディは
自然に共振しはじめる。
そのうながしに従うだけでいい。
(具体的な生徒へのアドバイス内容は、
共振塾ジャーナルを読んでほしい。)

次にわたしの命が指向しているのは、
生徒に、サブボディの産婆になるとはどういうことか
を伝えることだった。
生徒のうちには、ここに何年か通って
サブボディメソッドの伝道者になろうと志向している人が
現れてきている。
その人たちに、自我を消し、
生徒のサブボディになりこむ方法を伝えたい。
サブボディの産婆になるためには、
それだけではなく、
サブボディの創造性を発揮して
サブボディの創造を立ち上がらせた後に
それを鎮めるカーミング(沈静)技法に習熟することが
大切になる。
生徒が悪夢に襲われたり、異様な体感に囚われたりする
<瞑眩(めんげん)反応>にいかにに対処するか、
リゾタッチ(共振タッチ)や指圧によって
からだの底の原生力に呼びかけ、
自己治癒の力を全開できる状態に
もっていくことができるようにならねばならない。
サブボディの産婆となろうとする人が
この現実社会とどう対応して活動を展開していけるかの
方法も見出される必要がある。

そして、第3には、
それらのすべての技法をもっともっと
クリアなものに理論化していくという課題だ。
サブボディの棲む非二元共振の世界の論理や、
それと二元論の分別意識の世界を自在に往還する
ツリーリゾーム論理はまだほんの少ししか取り出せていない。

第4には、以上のすべてを、授業やサイトを通じて
世界に開いていくという課題だ。
ここでやっていることを知る人はまだまだ少ない。
サイトを訪れるひともごく少数だ。
サイトの検索対策や、適当なサイトへの投稿、
呼びかけのしかたを工夫していく必要がある。

第5に、それらすべてが統合されてはじめて
世界のありようをいまの自我意識優先のあり方から
共振にみちた世界に変えていく
<世界共創>が実現していく。


<多次元一如>という原理

そこまで、取り出したとき、
これらすべての命の指向が、
単独ではなく、まるで11次元のカラビ・ヤウ空間で
共振しているひもそっくりの動きで
伸縮している光景が目に浮かんできた。
先日、Jeffさんのひも共振のイラストに触れて
それが以前よりさらにくっきりと映像イメージとして
見えるものになってきていたのだ。

これで明日の授業を
ストリング共振瞑想からはじめて
世界像流=自己像流を自在に往還するという
展開にする道筋がくっきり立ち上がってきた。

自分の命の各指向性が
11次元で共振しているストリング(ひも)同様に
多次元で共振しつつ、かつひとつであるというのが
命のクオリアの実相だ。
ひももまた、多次元で共振しつつ
かつひとつのひもはひとつである。
<一>であり同時に<多>であるという
ひもも命も日常世界の排他律とは
別の世界の論理にしたがって動いている。

命の指向が多チャンネル(多次元)に展開しようとしている
ことを、11次元のストリング(ひも)共振のさまと
重ね合わせることができる。

今日得られたこのイメージは、今までに思い描いた
もののなかで最良のものだ。
命の多次元変容流動の実相をもっともよく表している。

<多次元一如>

という言葉が浮かんだ。

これは、おそらく、宇宙と命とクオリアが、
多次元で共振している実相の
今のところ得られる最も優れた近似像だ。

<多次元一如>――これが、今後展開する
共振性原理やツリーリゾーム論理の柱のひとつ
となるだろうことも分かった。

長い間捜し求めていたものが
やっとひとつの形をとった。

<多次元一如>は、これまでに個別に取り出してきた
サブボディ世界の、心身一如、内外一如、
自他一如、世自一如、類個一如などの特性を
総合するものとなる。

ゆっくりこれを膨らませていこう。

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ストリング・セオリー(ひも理論)について詳しく知るには
ブライアン・グリーンによるThe Elegant Universeを訪れてください。
英語ですが、表紙の小さな絵をクリックすると、
いくつもの分かりやすい図解で、ひもとは何かがつかめます。 

『エレガントな宇宙』というタイトルで日本語の書籍にも翻訳されています。


' A VIRTUAL SPACE-TIME TRAVEL MACHINE'の表紙を開くには、
ここをクリック
上の絵以外のさまざまなコンピュータ・グラフィックスが楽しめます。



2007年3月29日

自己不全感という最強のてがかり

どうやら、この間感じ続けてきた妙な不快感は、
自分の中で、自己像と世界像が微妙な亀裂を
きたしていたことに起因していたことに気づいた。

この気づきは
さっき風呂に浸かっていたときに不意に訪れたから
下意識さんが届けてくれたものだろう。

からだの闇の中では
世界像流と自己像流が合い照らしあいながら
変容流動している。
その間に微妙なギャップが生まれると
からだの底から不全感が立ち込めてくる。
ごく微細な感じだが、
そのサブシグナルは、
何かがおかしいと告げている。

こういうときは大概、
世界像と自己像が食い違っているのだ。
理論的にはとうに分かっていたことだが、
今回の自分の状態に当てはめることができていなかった。

昨日の新入生徒の自我に触れて
なにが起こっているのかがはじめて分かった。

わたしは世界を、いまの人間が悲しい自我を
待たずには生きられないような世界のありかたを
変えたいと望んでいる。
悲しい自他区別、
悲しい非共振から飛び立つことができる
と思っているのだ。
それなのに、自分自身が
この冬の日本への旅で、
自分が昔の自我をもったからだに
返ってしまったことが、
もっとも深い原因だった。

日本国籍を持っただれそれであると
国家から証明されるパスポートを更新し、
国境を越えるためのビザを
取得しなければならなかったこと、
インドでの長期滞在外国人登録、
電気水道ガス電話をまともにもらうための
インドの役所への苦情、新学期開講準備、
すべての事務作業を遂行するためには
自我モードに返らなければならなかった。
ぼんやり自他の区別をなくした下意識モードでは
こういう手続きは何一つ行えないからだ。
それが、自分の望む世界像と亀裂し、
あの重層低音のような不全感となって
響きつづけていたのだ。

私のからだは、すこしでも
からだに常態とは違う
アドレナリンやテストステロンなどの
興奮性や攻撃性をもたらすホルモンが増えると
不快と反応するようになっている。
自我はこれらのホルモンを分泌し続けていたのだ。

今年の3月から始まったクラスの
メンバーはみなそのことをよく理解して
自我を表立たせず、下意識モードに入ることに
専念してくれていたので、
とてもよい雰囲気が醸成されていた。
それに助けられて私もすこしずつ
自我モードを鎮めることができていた。
生徒に助けられていたのだ。

それによって新入生の生まの自我に触れると
それが鮮烈に突き刺さってくる
体感となって現れたのだ。

自我は突き刺す。
自我は自分を守るために
自他区別し、他人を突き刺す。

日本をはじめ、先進国が
あんなにとげとげしい雰囲気を持っているのは
そんな自我が蔓延しているからだ。

だが、今学期のクラスの雰囲気を見れば
わたしたちがそこから抜け出す可能性を
持っていることを教えてくれる。
すこしずつこの自我から抜け出す輪を
ひろげていけばいいのだ。

並大抵のことではないが、
可能性がないわけではない。

このクラスで、共振性や創造性に
みちた命の原生力を回復し、
世界に帰っていく生徒が
すこしずつ周りの人を変えていくだろう。
その微細なさざなみの力を信じよう。

下意識さん、ありがとう。
とてもいい答えだよ。
とてもすっきりさせられました。



2007年3月28日

<自我>に触れると痛む

下意識モードに入るサブボディ瞑想を続けていると
徐々に日常体から離れ、サブボディモードが
恒常的な状態になってくる。

新学期も3週目に入り、
生徒も日常体から少しずつ
サブボディモードに入れるようになってきた。
わたしもようやく、日本への旅で
すっかり昔の日常体のからだに戻っていたのが
いつものヒマラヤでのからだに戻ってきた。

だが、こうなると厄介なことが起こりだす。
なかなかうまく、通常の日常体の自我と交通することが
できなくなってくる。

今日は、午前中の闇の歩行(ブラインドウオーク)
に続き、午後からは少しばかり
理論的なレクチャーの時間をとった。
3週間目にはいって、
生徒もサブボディ・メソッドが
からだに入っているので、
それを意識の言語で追体験できる頃合に
なったとみたからだ。

だが、この学校は随時、一ヶ月コースの
入学を受け付けている
(推奨はしないが、どうしてもという人が来れば
受け入れている)ので、
昨日から生徒の紹介で途中入学した
生徒が一人いた。
その生徒にとっては、
下意識の世界が、
二元論思考の囚われた日常世界とは根本的に異なる
多次元を変容流動している世界だなどといっても
まだ、からだで納得できるものには
なっていなかったのだろう。
質問をするだけではなく、
自分の見解を述べたり、
批判したりしはじめた。

こういう日常的自我の生まの反応に接すると
なぜか心がとても痛む。
わたしの中で鎮まっている自我が
刺激されて起こされてしまうことが
とても苦痛に感じる。

ことばの限界を感じる。
ことばは自我にとりつかれており
自我は二元思考の元凶だ。
<自>と<他>に分かつところから
自我は成長しだす。

自他の境界が消える境地について
自我は無知だ。
それどころかそんなことが
あるわけないとなかなか受け入れない。
私自身の自我も何十年も受け入れなかった。
自己催眠にも長年絶対かかろうとしなかった。

自分の下意識の世界に触れて、
じかにその感触をつかんでもらう以外に
伝えるすべはない。
言葉だけではとても伝えきれないことを
この学校では伝えようとしている。

だから、このサイトもことばだけで読むのではなく、
実技ガイドや共振塾ジャーナルに書いていることを、
実際に動きながら、
自分のからだの中の変化を読んでほしい。
それ以外に伝わりようがないのだ。

長年、日常体の二元論的思考=ツリー論理と
下意識の多次元を流動しているリゾーム論理の
両方を自在に往還し、使い分ける
ツリー=リゾーム論理を見出そうとしてきたが、
まだ見つかっていはいない。
そんなものがありうるのかどうかさえ分からない。

脳心身のすべてのモードを切り替えないと
サブボディモードには入れない。
そして、すぐさまでてくることも簡単ではない。
サブボディ・モードに入ると
日常的な計算もできなくなる。
するのがとても億劫かつ苦痛になるので
学費の集金なども生徒のひとりに
お願いしている現状だ。

ところが、知り合いのダンサーのなかには
この切り替えがとてもうまいやつがいる。
フランスのストラスブールの芸術監督をしていた
マーク・トンプキンだ。
かれはパリでデビッド・ザンブラーノを招いて
即興ダンスのフェスティバルなども主催している。
彼は踊っている最中に、
かけているCDを交換したり、
照明の切り替えの指示をしたりして
すぐまた踊りに戻ってくる。
そのくせ踊りの中では
とんでもなくクレイジーになることもできる。

天然のツリーリゾームを生きている
見本みたいな男だ。
どんな脳をしているのか
のぞいてみたいくらいだ。

たしかに、わたしよりは下意識モードの
浅いところを常態にしている。
いくつもの深浅の状態があるのだ。
その状態からは
わたしにとっては苦痛になる
二つのモードの往還が
比較的苦痛なしにできるのだろう。

だが、その浅さではわたしにとっては
情動などの全チャンネルを開いて
踊ることができない。

だが、ここでわたしが使った<深浅>という概念もまた
二元論思考によるものだ。
二元論思考で、多次元の下意識世界の実相は
はかり知ることができない。

からだの闇の旅は
果てしがない。

ツリーリゾームへという課題に到達できる日は
まだまだ遠く感じられる。

こういう考えても解決できない難題に到達したときは
わたしはいつも寝る前に自分の下意識さんに
お願いしてバトンを渡す。
今日もそうして眠りにつこう。

「下意識さん、よろしくお頼みします。
二つの世界を行き来できるようになる
なにかヒントをください」ってね。

わたしの下意識さんは働き者で
不眠不休で答えを探してくれる。
下意識さんへの問いかけの仕方さえ
間違っていなければ、の話だが。

今日の問いはちゃんと受け取ってもらえただろうか。



2007年3月26日

カラビヤウ図の遊び方


<ストリング共振瞑想の材料を手に入れる>


1.カラビ・ヤウ図を保存する

このリンクをクリックし、
Jeff Bryant氏の ”Visualization”のサイトを開く。
カラビ・ヤウスペースのアニメにカーソルを置き、右クリック。
「名前をつけて保存」を選び、新しいフォルダに保存する。

2.そのフォルダを開きスライドショーで表示する

フォルダを開き、WindousXPの場合、「画像のタスク」から、
「スライドショーで表示する」を選ぶ。

3.ストリングが共振しているアニメが表示される

4.ストリング瞑想を始める

その絵を見つめながら、あるいは思いながら、
自分の生体を構成するあらゆる分子や原子が
さらに根源では、すべてひもの共振から
できていることを想像する。

5.ひもの振動なら共振しやすいはずだ

なるほど、わたしたちが粒子からなるなら、
共振といってもピンときにくいが、
もともと振動しているひもなら
共振するのも当たり前だと腑に落ちるまで
瞑想を続ける。
姿勢は寝転んでも、座位でもごろごろしても
風呂に入っても、
楽な姿勢なら何でもよい。
うとうとする心地よさを感じ続けること。

――まず、これだけで根源的に世界観が変わるはずだ。

6.あとは、あなたにどんな気づきが訪れるか
やってみてのお楽しみです。
飽きるまで続けてみてください。

<二元論思考の陥穽>

わたしの場合、昨日ほぼ丸一日を
このストリング瞑想ですごした。
半眠半覚になってただよううちに、
いつしか大きな気づきがやってきていた。

いままでできるだけこの世の常識となっている
二元論的思考や階層秩序的思考に
陥らないよう、それと根本的に違う
リゾーム原理の思考法を捜し求めてきた
(つもりだった)。
それらの二元論的思考は
複雑多次元な実際の世界を理解しやすいように
次元を減じて分かりやすくした
日常意識にとっての方便にすぎないからだ。
この世の根源がひも共振だとするなら
そこに正しい振動と間違った振動の区別などあるはずがない。
上位の高貴な振動と下位の下卑た振動に分かれるわけもない。
二元論はすべて人間にとって世界を分かりやすくするための
次元を減じて得られた仮想の幻影なのだ。

だが、気がつくと、いつの間にか、わたしも
二元論的思考の陥穽に陥っていたことを思い知らされた。

ひも共振のうち、粗大な振動成分が、
四次元世界の物質やエネルギーを生成し、
微細な7次元の振動成分が、生命とクオリアを
生成しているのではないかという仮説がそれだ。
お粗末な二元論そのものだ。
いままでの共振論やクオリア論は
書き換えられなくてはならない。
ひもにとっては、粗大も微細の区別などなく、
ただただ11次元で共振しているだけだ。

このアニメのひもの気持ちになって自分を見返すと
なんと情けない想像力しか持ってないやつだと
あきれかえった。
二元論的思考は、ものごとをわかりやすく
伝えようとするわたしの下心に忍び込み食い荒らす。

――ここをどう突破できるのか。

二元論的思考ではなく、多次元を流動変容する
リゾームを記述できる論理を見つけるしかない。
だが、リゾームには本当は論理もない。
詩の言葉のようにメタファーで語るしかない。

わたしは18歳で詩を書くことをあきらめた。
政治闘争の世界に殉じようと、
自分の中の文学的な部分を自殺したのだ。
それ以来40年たって、はじめて詩でしか語れない
ものに直面した。

わたしにふたたび詩の言葉が戻ってくるかどうか
分からない。
たぶん無理だと思える。

そう思って、詩の言葉をいろいろ思い出してみた。
愛読していた吉岡実や、
畏友佐々木幹朗の詩語は、
当時からツリー言語をうち破るリゾーム言語から
できていたことに気づいた。
手元に詩集はなく、
思い出せる詩句の記憶も消えてしまっている。
だが、たしかにツリー状の階層秩序言語では
なかったことだけははっきりしている。

<リゾームを解き放つサブボディダンス>

思い悩んで、またうとうとしているうちに、
そうか、わたしの言語は踊りなのだ、と気づいた。
踊ればいいのだ。
サブボディの踊りはもともとリゾームだ。
上も下もなく、正も悪もない。
どこで分離することも連結することも可能だ。
そうか、言葉ではなく、
踊り続けることだけが
このひも共振からなるリゾーム世界の実相に
触れることができる道だ。

これまで、踊りを自分にもほかの人にも
クリアに見えるように<序破急>にこだわってきた。
十年以上になる。
だが、そろそろ<序破急>以外の美意識も
見出してもいいころかもしれないという
思いがふとよぎった。

無数のクオリアが絡み合って流動するさまを
整理せずに一度に見せたら誰にも何が起こっているのか
分からないから、という理由で<序破急>を追求してきた。
だが、分からなくてもいいのではないか。
分かる、分からないというのとは違う次元で
クオリアの共振は存在する。
ただ共振する、それだけでいいのではないか。

………

少なくとも多くの観衆に見せる公演の場ではなく、
ここでの練習の場なら、いくらでも実験ができる。
そういう可能性に気づいた。
いつか機会を見て、生徒の踊りを
<序破急>から解き放ってみよう。
ほんとうのリゾーム状のサブボディダンスは
そこから始まるのかもしれない。






ブログパーツならStickam!
2007年3月22日

ハッピーキャンサー 

なんと、10年前のビデオだ。
近所の高校生のインド人バブル君が、
試験休みで、ビデオの整理の手伝いに来てくれて、
編集し、Stickamというサイトにアップロード
してくれようとしたが,
またブロードバンドがつながらなくなり
まだ成功していない。
もうすこしお待ちください。


ジョーとは、ハワイでの舞踏合宿で知り合った。
当時住んでいた京都のダンシング・コミューンに
毎年やってきて、一緒に踊りやビデオを創った。

体型も個性も違う二人が
にらみ合い、はらわたをつかみ合って踊る
当時動きは下手だったが、
ジョーとの出会いが結晶している。
好きな作品だ。

ハッピーキャンサーというのも、
伝染熱同様、
リゾームのメタファーのひとつだ。

切れるギリギリ
危ないスレスレ

という書き出しで始まるチラシを作った。

音楽は福島マリ子さんが作成してくれた。
ありがとう。


2007年3月18日

生存五欲瞑想

今日はほとんど一日を瞑想して過ごした。
春の日差しの中で、命に聴きこんだ。
昨日に比べからだの芯にあった
かすかな苛立ちのようなものが
かなりおさまっている。
命のゆらぎがやすらかだ。
久しぶりに生存五欲の一つ一つに問いかけていった。
もっとも原初的な欲望である生存欲望に問いかける。
何もいわないが、穏やかにゆらいでいるのがわかる。
快適欲望はどうか。
今日は朝からソーラーで温めている湯の
打たせ湯をたっぷり浴びた。
もう裸で滝を浴びるのが気持ちがいい時期になった。
快適欲さんも、ほぼ満ち足りてきもちよくゆらいでいる。
安全欲はどうか。
最近近所に泥棒が入ったという話だが、
それはインドではちょくちょくある話だ。
嵐も地震もなく、ほぼ平穏な環境だ。
つながり欲はどうか。
週日は生徒に触れ、週末の午後は
いつも近所の子供や友人が訪れる。
ささやかなつながりだが、それでちょうどよい。
実現欲はどうか。
サブボディ学校も順調に3年目を迎え、
サイトの更新もいつものペースで進んでいる。
昨日の瞑想で、透明論にとりかかることという
今後の仕事への取り組み態勢が自分の中で
はっきりしたので実現欲もほぼ落ち着いている。
自分がやろうとすることと、していることがわずかでも
ずれるとからだにかすかな苛立ちが立ち込めるので
すぐ調整できるようになって来た。
これはおそらく、ジェンドリンに学んだ
フォーカシングのおかげだ。
毎晩寝る前に読んでいるアーノルド・ミンデル
新著『身体症状に<宇宙の声>を聴く』や、
『24時間の明晰夢』は、共振することがいっぱいで、
自分のやっていることに大きな励ましを与えてくれる。
そのうち暇を見つけてサイトに「サブボディ共振BOOKS」
のページを設けようと思っている。
いろいろな人に助けられてここまでやってきた。
その共振の輪をさざなみのように広げていこうと思う。
これらの生存五欲が
バランスよくゆらいでいるかどうかを確かめる。
どれかひとつの欲望が突出しているときは
それに囚われてしまっているが、
すべてに満腹もせず強く渇望もせず
バランスよく活性化されている状態がいちばんよい。

最近タバコを吸っていた昔のからだに戻っていたので
ありありと思い出したが、
20代、30代は、つながり欲と
実現欲のバランスがいつも崩れていた。
何をして生きたいのかがつかめず、
始終空転し、生き急ぎ、なにかを始めても
すぐ、これじゃないと引き返す毎日だった。
今から思うとその命からはぐれている感覚が
酒やタバコやコーヒーや睡眠薬を呼び寄せ
命の退廃のるつぼに巻き込まれていたのだ。

午後からは近所の小さな親友リングリ・チングリと
山歩きに出かけようとしているところへ、
日本レストランで働く直子さん家族が、
チベット写真集で有名な松本榮一さんを連れてやってきた。
なぜ踊り始めたのか、なぜ日本を出たのか、
なぜこの地を選んだのかなどをめぐって
瞑想の続きのようにたんたんと語り合うことができた。
わたしがダラムサラを選んだのは、
わたしが20世紀の終わりごろ何年か世界を
公演とワークショップをしながら回って知った限りでは
この地に集まってくる人が
世界で最も面白いことがわかったからだ。
西洋と東洋の文化の間で何かを求めて旅を続けている人が
ここに集まってくる。
さまざまな瞑想修行や、からだの修行や、福祉やボランティアを
やってきた人がここに来る。
ただの観光地の享楽的な雰囲気は少なく、
みんな真剣に生き方を求道している。
それがこの地に独特の雰囲気をもたらしている。
松本さんは、わたしと同世代の写真家で、35年前に
大学を中退すると同時にインドに住み始めたという人だ。
ダライラマともその頃からの付き合いだという。
彼が撮ったダライラマの写真を一枚お土産にいただいた。
いまはこのダラムサラの磁場に惹かれて世界中から
やってくる人たちの本を執筆中とのことだ。
ここにいると自然に面白い人と出会う。
確かに優れた磁場に満ちた場所なのだ。
ダライラマも、亡命当初は日本に何とか助けてもらえないかと
いう希望を持っていたらしいが、最近では日本人のことを
かわいそうにと思うようになっているようだという。
いまの日本がどんなにとんでもないことになっているか、
長年国際的な視野で地球の上で起こっていることを
眺めてきたダライラマの目にそう映るのはよくわかる。

生存五欲瞑想は、自分の中をすっきりと
見通すことに役立つ。
これまで、去年までの授業では、
まず、1週目、2週目で、生命瞑想と、
からだや動き、映像、音像など
個別チャンネルを開く練習をつんだ後、
3週目、4週目になってはじめて
からだの底の欲望に問いかけるという
手順を踏んできた。
いきなり、欲望に問いかけると、
どんな抑圧された衝動が飛び出してくるか
生徒自身でその対処法がわからないうちに
それに向き合うのは危険だと考えていたからだが、
今年の生徒は安定度が高いように感じられる。
来週の2週目にこの生存五欲瞑想を
組み込んでもよいかもしれない。

1週目で生徒にひとりは情動のうごめきを捉えたが
それにどう対処すればいいのかわからないといっていた。
情動、対人関係チャンネル、そして生存五欲へと
いつもより早めに進んでいくことになるかもしれない。
今年は去年よりもじっくりしたペースで
命に問いかけることから始めた。
そして、生徒のからだの闇で今どんなことが起こり、
次にどんなチャンネルを開きたがっているか
どんなエッジにぶつかっているか、
生徒のサブボディの動向に耳を澄まし続けている。
ただ来週から参加する生徒が二人いるので
新しいさざなみが起こる。
授業の舵取りが難しくなる瞬間だ。
生徒のからだの闇にどこまで耳を澄ますことができるか、
わたしの産婆としての技量が問われる。


2007年3月17日

なぜ透明さを求めるのか

今年の冬、ミャンマーのインレイ湖のほとりで、
わたしはほぼ透明論の骨格部分を書き上げた(つもりになっていた)。
ヒマラヤへ帰ってきて、長い間ネットがつながらなかったのと
新学期の準備のためにアップロードできなかった。
ようやく新学期も順調に滑り出した。
週日は授業に専念しているが、
週末は自分のからだの闇にもぐり、
命に何が一番したいかを問いかける。

からだを静かな場所に横たえ、できるだけからだを鎮める。
浅い瞑想状態のからだになったら、
いまの自分のからだの奥に感じている
ささいないらだちのような不快感に注意を向ける。
しばらく、その不快感に共振しているいろいろなクオリアが
からだの中にさざなみのように広がっていくのを感じ続ける。
そのうち、そのいらだちの芯が浮かび上がってくる。
いまは、ミャンマーで書いた何本かの「多重人格日記」の原稿と、
『透明論』の原稿が、徹底的に推敲されないまま
ほおって置かれてあることに、
わたしの命がかすかないらだちというサブシグナルを
送っていたことに気づいた。

「多重人格日記」の原稿には、
著作権にかんする相羽香乃さんへの手紙と、
わたしの愛する少女への愛に関する気づきの文章を書いた。
その愛に気づくことで、
わたしは自分がはじめて自分自身になったと感じることができた。
それと、書き上げたつもりになったままの『透明論』が
その後取り組まれないまま放置されていることに、
わたしの命はかすかないらだちというブシグナルを発していたのだ。
自分が自分の全体からはぐれた状態になると
かならずこのちいさな苛立ちがからだの芯に頭をもたげる。
少女への愛に関するものは、いまはまだ秘密にしまっておきたい、と
別の社会的人格が制止していることをわたしは了解している。
命はそれならいまはこの透明論を書き継げと告げ続けている。
それはお前の中核的な仕事だ、なぜ遂行しないのかと。

ところが、今の自分のからだはとんでもないことになっている。
ミャンマー、日本の旅の間にしみこんだ日常体と
サブボディの間が切れて闇のなかを浮遊している。
つながりがうまく見つからず、
限りなく不透明なからだになっている。
とても、ミャンマーで書いた透明論を仕上げるどころではない。

事の起こりは、ミャンマーのインレイ湖で
水辺に住む現地のインダー人が作っていた
手巻きのタバコを一口吸ったとたん、くらっと来たことだ。
その酩酊感が、瞑想で下意識モードの入ったときの
微細な変性意識状態の感じと
あまりに酷似していたのだ。

これはいったいなんだ?

私は15歳でタバコを覚えてから、20代、30代と
ヘビースモーカーだった。
やめる直前には日に200本吸うまでになっていた。
ある日咳をしたとたん、
気道から10円玉くらいの真っ黒い
コールタールの塊が飛び出した。

こんなものを肺壁に擦り付けていたのかと驚いた。
コールタールは有名な発がん物質で、
毛の生えないヌードマウスの皮膚に塗りつけて
皮膚がんを誘発する実験に使われているのを知っていた。

それを契機にタバコをやめた。
ちょうど水泳やトライアスロンを始めたころで
タバコをやめると呼吸が楽になり
気持ちよく動けるようになった。
それ以来30年間タバコを口にする気にはならなかった。
それがミャンマーの一口の煙がもたらした
かすかな変性意識の兆候が
しばらくこれを研究してみようという
気持ちを起こさせた。
どうせすぐいやになるだろうと
高をくくっていた。

ところが、ヒマラヤへ帰ってからも
タバコがもたらす微細な変性意識とは何かを
考え続けるうちに、
タバコの嗜癖に囚われていた20代、30代の
頃のからだに戻ってしまった。
一口吸うたびに昔の友人や仕事の同僚のタバコを吸っている
顔が思い浮かびあがる。
タバコに状態依存づけられている体感や記憶の
クオリアのセットが一そろいで戻ってきたようなのだ。

なぜあの頃タバコに囚われていたのか?

仕事で過緊張状態になった大脳を休ませるために
タバコがもたらすかすかな変性意識状態を
求めていたのだろうと思い当たった。
タバコによる変性意識はごく短い。
大脳周辺の血管の圧力がわずかに変わり、
おそらくニコチンに誘発されたエンドルフィンか
エンケファリン系の体内麻薬物質が大脳を
気持ちよく痺れさせるのを感じることができる。
ごくごくかすかに、それ以前とは違う意識の状態になる。
それは2、3分間しか続かない。
だが吸うたびにごく手軽に味わえるという
特徴を持っている。

ヒマラヤに帰った当初一月あまりは
電気、ガス、水道、電話、インターネットと
あらゆるライフラインがずたずたで、修復するのに
何百回も電話したり、直接出かけねばならず、
結構なストレスにまみれていた。
そのストレス状態が日本にいた頃とよく似ていて
やすやすとからだはストレスからの3分間の逃避の罠に
かかってしまったようだ。

思えばわたしは若いころコピーライターの仕事をしながら
数々のアディクションに囚われていた。
毎日酒一升、タバコ200本、コーヒー2リットル、
さらに30代では、日に20時間も仕事するようになったので
寝る直前まで過緊張状態でオーバーヒートしている
大脳を、酒と睡眠薬をがぶ飲みして酔いつぶす
ことによってしか眠れないからだになっていた。

当時飲んでいたハルシオンという睡眠薬は
医院で処方してもらっていたものだが、
情動状態を変性させ、怒りっぽくなったり、
突然暴力的になったりする副作用を持つことが判明して
ヨーロッパではすでに発売禁止になっていたことを
止めた後で知ってぞっとした。

現在の先進国での意識過剰な生存状態は、
どこか根本的にからだによくないところがあると
気づき始めたのはそのあとでだ。
わたしはあらゆることを自分のからだで試してからでしか
物事の本質をつかむことができない。
地獄を果てまで味わって、地獄から這い上がる。
その繰り返しだった。

今回も、タバコとはなにか、
なぜ日常体はさまざまなアディクションに囚われるのか、
自分のからだで知ってみようという
無謀な思いに導かれていた。

わたしたちは、さまざまな不透明なものに支配されている。
なぜ自分がこういうことをするのか分らないまましていることが
あまりに多い。
わたしは自分の生が、不可視の他の力に制御されていると
感じるときとても不快に感じる。
この不快感が、わたしを自分を包むこの深い不透明な闇を
透き通ってつかみたいという情熱に駆り立ててきた。
ミャンマーでそのことに気づくことができた。

わたしが他の力に制御されているという
不快な感覚が最初にやってきたのは
家族の中の大人たちの策略で、
3歳から7歳まで一緒に暮らして実の母と感じていた
祖母から引き離されてしまったときだ。
二度と大人を信じまいと思った。
そして、手もなくだまされた子供である自分が
限りなく情けなかった。

その不快感が、
この自分が自分以外のところから来る不可視な力に
制御されている事態をすべて透き通ったものにしたいという
わたしの透明論の根源的なモチーフだったことに
突然気づいたのだ。

不透明なものは酒やタバコなどの嗜癖だけに限らない。
生存欲や、自我や、欲望や、情動や、
人間関係、社会的制約など、わたしたちは、
さまざまな不可視のものに突き動かされている。
食欲や性欲の好み、性格や”たち”と呼ばれているもの、
それらはすべて不可視のものの制御下におかれている。
なぜわたしが、少女にしか感応しないのか、
なぜ、海辺の食物に憑かれているのか。
なぜ、反骨精神に染め上げられているのか、
60年考え続けてきてもそれらの根拠は依然深い闇だ。
もちろん、おおむねは脈絡をつかむことができている。
わたしのサブボディの踊りがそれを教えてくれた。
だが、分かれば分かるほどさらに新しい謎が生起して
闇の深さを告げる。
今回のタバコをきっかけにして、30年も前の
昔のからだの状態に戻ってしまうようなことがなぜ起こるのか?
時とはいったい何なのか?

それら自分を動かしている見えないものの力をすべて
見透かし、意識とからだと下意識の間で起こっていることが
すべて透き通って見えるようになるまで、
わたしの探求は止めることができない。
サブボディ・メソッドとは、それらの脈絡が誰にとっても
透き通って見える透明体に至る技法を極めようとする道だ。

もちろんそうなるまでには
何万年もかかるだろうことも承知している。
道半ばで不意に倒れるのが人生だ。
わたしの敬愛するフーコーもドゥルーズ土方巽も、
埴谷雄高も、谷川雁も、みなその道半ばで倒れた。
フーコーは人間にとっての性という謎を解き明かそうと試みていた。
土方はからだの闇を掘り続けていた。
埴谷や谷川は、国家という闇を切り開こうとしていた。
わたしも走れるだけ走って不意にぶっ倒れるだろう。
それも、また、楽しからずや、じゃないか。


2007年3月4日

自我という仮面

日本で役所をめぐってパスポートやビザの
更新手続きをしている間に、私の中に日常体ととともに
いやな味のする自我がむくむくとよみがえってきた。
社会的な手続きを取り結ぶためには、
自我に外側から刻印されている
無数の社会的刻印を引き受けねばならない。

どこの生まれでどこに本籍があり、住民登録はどこでしているか、
パスポートはどこの役所に申請せねばならないか。
わたしはそれらに関する記憶をすっかりなくしていた。
いや、ここだと信じていた記憶がすべて間違っていてたじろいだ。
10年前に日本を出るとき
今とは別の人格にすり替わっていたことを知った。
その人が行ったことはすべて今の人格には記憶が残っていないのだ。
私は悪夢に翻弄されるかのごとく、これまでに住んだ場所の
七つの役所を経めぐり、ようやく戸籍や住民票を取り揃えた。
それらの社気的刻印をすべて引き受け直してようやく私は
インドビザの申請資格を取り戻した。
日本国籍のある日本人と認知された。
これらの社会的刻印がわたしの自我に刷り込まれることと
引き換えにわたしはインドビザを更新することができた。

ヒマラヤの修行では、わたしはこれらの社会的刻印を
すべて無化する努力をしてきた。
ここではわたしはどこの誰でもない。
ただの生命であり、
無数のクオリアと共振している生きものに過ぎない。
わたしは自分でさえなく、
生徒のサブボディを自分のサブボディであるかのように感じ、
その創造的発現をわがことのように喜ぶことができるようになっていた。

だが、ヒマラヤに帰ってからも、
電気、水道、ガス、電話などのあらゆるライフラインが
断線しズタズタになっていたため、やはり自我を使い
諸手続きをし、現地の上級警察にここで何をしているかの
書類を作成し外国人登録をするという煩雑な手続きに
ゆうに3週間を費やさねばならなかった。
その間わたしは自分の自我の働きを再び間近に感じた。
自我はいつも他と対立する形で自分を守っている。
ここはわたしの占めている空間だ、侵すな。
インドでは行列にすぐ割り込んでくる。
おっとここはわたしの順番だ、侵入するな。
自我はいつも排他的に自分を守り、他者を追い出さざるを得ない。
そういう惨めで利己的な自我を押し出さなければ
この社会ではうまく生きていけないのが悲しい。
こんな自我などわたしではない。
わたしの仮面に過ぎない。
だが、いまの先進国で生きている人はみな
この悲しい自我の仮面をつけて生きることを強いられている。
利己的な自我体制と利己的な国家体制が緊密に結びつくことで
今の秩序が支えられている。

わたしの思想は自我と国家のこの緊密な結びつきを解き
国家を死滅させる道をめざしている。
だがなんと遠い道であることか。

まずこの自我や日常体の悲しさに気づくことから
始めなければならない。
自我や日常体以外のありようが人間に可能であることを
思い出すことから始めていくこと。
わたしはへこたれない。
それはサブボディとコーボディという
輝かしい創造性と共振性に満ちた人間の別のあり方を
知ったもののつとめだ。

わたしの寿命はもう残り少ない。
今のペースで活動できるのはあと十年あるかないかだ。
その間にわたしの営みをついでくれる人が現れることを切に望む。
来たれヒマラヤへ! と
声を限りにわたしは呼びかけ続ける。


2007年2月26日

悲しき日常体

日本滞在中にからだにしみこんだ
しぶといざわめきの正体を探っている。
なにかが邪魔をしていつものように
からだの闇に耳を澄ますことを妨げている。
その力はとても強力で、
いつも外部からの雑音に攻め立てられているような感じだ。
命の声が聴こえず、
自分の命からはぐれてしまっているのが分かる。
これはとてもつらい。

これはいったいどういう状態なのか。

生命にとって外部の環境の変化に
迅速に対応することは生死の大事にかかわる。
だから、何をおいてもまず、外部環境から入ってくる刺激に
もっとも適切な対応をするようにできている。
これを外向的なチャンネルという。
これに対して、自分のからだの状態の変化を刻一刻と把握する
内向チャンネルもある。
生命が生きていくうえで、
からだの状態が適切な変動の範囲内に収まるよう制御していく
恒常性(ホメオスタシス)を保つことも大変重要なことだからだ。
単細胞から人間のような高度な多細胞生物にいたるまで、
特に意識せずともこの恒常性を保つ機能は無意識裡に働いている。

外向チャンネルと内向チャンネルの変化の仕方には
大きな違いがある。
外向チャンネルからの刺激のほうが
内向チャンネルのそれよりも
はるかに大き強いのだ。
それも何万倍も桁違いに違う。

外部からの強力な刺激が
内部からの微細なシグナルをマスキングして覆い隠してしまう。
だから、外向チャンネルからの刺激に対応している間は、
生体は内向チャンネルを無意識のままに放置していなければならない。
内奥の命の声からはぐれてしまいながら、
なおも生き続けなければならない。
それが日常体なのだ。
なんという惨めな状態だろう。
今回私のからだがこの日常体の状態に移行してしまって
はじめてこのことに気づいた。

おととし、サブボディ・クラスに参加した
南アフリカの生徒が
「このクラスに参加して、日常体の悲しさが分かった」
と最後の日につぶやいた声が
こだまのようによみがえってきた。

そのときは
(感受性の豊かな人だな)
という感想を抱いただけだったが、
今回、自分が、
からだの闇の奥からいつも聴こえていたはずの
微細な生命の声が聴こえなくなることが
こんなに悲しいことだと
はじめて身をもって体験した。

ずっとからだからの微細な声に
耳を澄ますことができていたから
それが聴こえない日常体の悲しさというものが
分からなかったのだ。
日常体から脱する方法を指南するのが
私の仕事だが、
つねに日常体とそうでない状態を行き来していないと
その落差について内視盲点になる。
それでは生徒をうまく導けるはずがない。

わたしは、生徒のからだの日常体の悲しみに
いつも触れ続ける術を身に着けねばならない。

今回の久しぶりの日本帰還によって
自分のからだが日常体に陥ってしまう
貴重な体験から取り出しえた教訓がこれだ。

サブボディの産婆となる修行は
とてつもなく大変な遠い道だ。
自分ひとりが日常体を脱すればそれでいいというのではない。
日常体から脱し得ないほかの人の悲しさに
心底から共振できるようにならなければならない。


2007年2月22日

日本とヒマラヤの落差

ミャンマー、タイ、日本への40日の旅から帰って10日になる。
だが、今回は旅先でしみこんだからだのざわめきが
10日たってもいまだに静まらない。
ブロードバンドがつながらなかったこともあるが、
なかなか以前のように毎日サイトを更新する
もとのからだに戻らなかった。
今もまだ本調子ではない。
こんなことは初めてのことだ。
いったい自分のからだに何が起こったのか。
このざわめきとは何なのか。

まず、2年ぶりの日本に10日滞在する間に、
膨大な密度の情報とクオリアにさらされた。
2年ぶりにお邪魔した山田家の人々は、
家族そろっておいしい料理や酒や、
とびきりうまい蕎麦屋などのご馳走で
もてなしてくれた。
ヒマラヤの粗食に慣れていた私の胃袋は
びっくりたまげてうれしさでひっくり返った。
日本は食物も酒もおいしすぎるのが問題だ。
<身土不二>という言葉があるが、
人のからだは生まれた土地の気候や食物に
きつく刷り込まれ、結び付けられている。
和歌山の海辺で育った私の胃袋は、
カニや貝や新鮮な魚などの海産物がないと
異変だと感じるようになっている。
その異変がすっかり癒されて
私のからだは日本人に戻った。

四季の移ろいを日本で50回も味わってきた
私の肌は、日本の季節の移ろいの微妙さと
それを古代から愛でてきた文人歌人たちが捉えた
微妙なクオリアの輝きと
全脳心身で自動的に共振するようになっている。
とくに山田家の家族は詩人の家族なので
家族全員が百人一首などの有名な歌はそらんじていて
ことあるごとに誰かが口ずさむ。
そして、山田家の人々の見るテレビを見ると
日本のテレビのクオリアコントロールの質の高さに驚いた。
天気予報や地方ニュースやドラマのディテールに
日本各地の季節のクオリアがちりばめられていて
それを見るだけでいやがおうにも
日本人として生まれたことの懐かしさに
しびれさせられる。
たんなる言語情報だけではなく、
一見意味のないデテールのクオリアこそ
人々を無意識のうちに
この国のアイデンティティに
縛り付けているものだと気づいた。
日本に住んでいるころは私自身がそれらに
無自覚で気づくことができなかった。

たった10日間だが
それらの濃いクオリアにずっぽりと首まで浸かって
私のからだは日本で暮らしていたころのからだに
タイムスリップしてしまったようだ。
ヒマラヤで毎日静かなからだに静まり返り
からだの奥のかすかなゆらぎに聴き入っている
ここでの生活に比べて
日本人のからだは何億倍も強烈な外部情報やクオリアに
さらされていることを思い知った。
しかもそれらはとてもおいしく調理されているのだ。
アジアのテレビ番組に比べ日本のそれは
なんと洗練され、美味なクオリアに満ちたものに
調理されていることか。
こんなものに毎日さらされていれば
たまったものではない。
存在ごと持っていかれても仕方がないと感じた。


●日常への配慮という囚われ

日常体のざわめきの正体は
日常生活に必要な些事へのもろもろの配慮に
脳心身が取られてしまっていることにある。
日本でパスポートやビザやクレジットカードなどを切り替えるために
多くの役所を訪れねばならなかったこと。
パソコンやビデオの修理などを
10日間で完了させねばならなかったこと、
などの多忙な些事に没頭させられた。
旅から帰れば帰ったで、
電気、水道、ガス、電話、ブロードバンド、ソーラーシステムなど
あらゆるライフラインが一挙同時に故障、断線するという
インド特有のライフライン・トラブルを
ひとつひとつ復旧するのにたいそう手間がかかった。
インド人は苦情を言ってもなかなか動かない。
役所の小官僚は賄賂を要求してくるので
顔を合わすだけではらわたがむかつき、煮えくり返る。
私はインド特有の賄賂を拒否し続けているので
他の4つはなんとか10日で解決したが
ブロードバンドはいまだにつながっていない。

ここほどではなくても、文明圏で生活しいてると
見えない些事へのきめ細かい配慮に自分の一日が取られてしまう。
仕事をしていると仕事に取られ、
街を歩くと街の情報に取られる。
友人知人との交際への配慮に取られ
もっと親しい人との関わりへの配慮に取られる。
それだけで、毎日を消して終わる。

外部から押し寄せてくる情報との対応に
自分の24時間が取られっぱなしで、
とても自分のからだの闇に耳を澄ますことのできる
時間も空間もない。
しかも、生まれてこの方何十年も
そんなことをせずに生きているから、
自分のからだの闇の声が聴こえないという
自覚も痛覚もない。
これが日常体だ。
今回、自分のからだが日常体に取られる経験をして始めて
文明圏から、この共振塾に来る生徒たちが
こういう日常体を引っさげてやってきていることに気づいた。
こういう日常体の粗大な囚われをすべて止めて
かぎりなく静かなからだにならないと
からだの闇でゆらいでいるさまざまなクオリアの動きに
触れることができない。
それらのクオリアは日常体を捉えている粗大な情報に比べて
何万倍も何億倍もかすかなものだからだ。

私自身、日常体と日常意識への囚われから脱するのに
十有余年を費やした。
生徒が一月やそこらの短時間では、なかなか
サブボディの世界に触れることができない場合があることの
理由がわかった。
これらの日常体の粗大な出来事への事象を止めることではじめて
開く微細なクオリアがゆらめく次元が存在するということ
そのものに気づけなかったのだ。
私自身十分深く意識に囚われていたので
それ以外の世界があるなどと信じられなかった。
私は、修行時代のそれぞれの時期に
死に物狂いで無我夢中でやってきたので
ある部分は十分に意識されず
生徒にうまく伝えられていない可能性がある。
今日の

日常体や日常意識以外の世界があることに気づくこと

という点が、
去年、ある生徒は、共振塾の授業に戸惑いを示し
ここで何が起こっているのかを知りえないまま学校を去った。
とても残念に思って気にかかっていたが、
その責任は十分明示的に伝えきることができていなかった
私の不明にあったのだ。

私はこれまでそれらのプロセスをできるだけ透明に見透かして
他の人とシェアできる普遍的なメソッドにまで高めようと努力してきた。
だがまだまだ不透明なままの部分がある。
今回自分のからだが再び日常体に囚われたのは
すごく貴重な体験だ。
これをチャンスに、自分のからだを生徒のからだに見立てて
日常体のざわめきをいかにすれば止めることができるかに
もう一度取り組みなおすことにしよう。


2006年
2006年12月26日

下意識モードの光と闇

冬休み中は、一日のうち可能な限りを下意識モードで過ごす。
それがもっとも下意識の創造性を発揮する道だということが
わかっているからだ。
うまくいけばとてつもない創造性を次から次へと発揮してくれる。
このサイトに掲載する暇もないくらいの速度で
次から次へと新しいことを思いつき切り開いていく。
そんなことがずいぶんたまっている。
だが、それにはさまざまな予期せぬ不都合も付きまとう。
ひとつは、下意識はやりたいときにやりたいことしかしようとしない点だ。
意識的自我のように、
自分で設定した目的によって自分を縛るということをしない。
だから、ある日あるとき興に乗って書いたことも、
そのときにサイトにアップしないと、
次の波が来るまでおはこ入りとなる。
下意識が創造し、意識が大慌てで書き留めた文章が
ずいぶんたまってしまった。
そういうものを処理する仕事は下意識さんは苦手だ。
極端に嫌がる。
興に乗ったことしかしない。

私は昔は律儀な意識モードで生きていたから
そのときと比べると性格が正反対に変わってしまった。
昔の意識モード一点張りの私は
自分の中のこういう下意識の気まぐれをたぶん、
「怠け癖」とでも呼んで自分の中で周縁化していたのだ。
自分の中にこういう気まぐれな怠け者がどっぷりたゆたっていることなど
想像もできなかった。
そのころ、今の私の下意識モードそっくりの行動をする人と
会ったことがある。
ひとつ家に暮らし、一緒に踊りを作ったり、旅行したりした。
とてもきらめくいいものを持っているのだが
なにしろ気が向かないと絶対に動こうとしない。
だから約束もできない。
約束はするのだが守ることがない。
私はその人と付き合うのを断念したが、
彼女は自分の下意識モードを大切にする方法を
知っていたのだ。
今の私になってはじめて理解できた。

「囚われず、こだわらず、流されず」
というのが彼女のモットーだった。
弘法大師の言葉だといっていた。

下意識モードに入ることを人に教えるのが
今の私の仕事になった。
だが、その功罪をすべて捉えておかないと
大変なことになる。
特別危険なことはほぼ果てまで自分で体験したから
危険を避けるようにアドバイスはできる。
だが、この下意識の天性のきまぐれさは
そのままで現代社会に適応するのはとても難しい。
ここから先を切り開いていくことを、
私は自分の仕事として引き受けねばならないだろう。
サブボディモードと現代社会との
かかわり方そのものを発明していかなければ
現実に使い物にならない。
安易な適応や妥協ではなく、本質的に新しい関係を
創出する必要がある。

いよいよ面白くなってきた。


2006年12月15日

いちばんよい問い


一日のうち、可能な限りの時間を下意識モードですごす。
腰を回し、心地よいゆらぎに聴き入っていると
意識が鎮まり、意識半分、下意識半分の状態に入れる。
自己催眠のもっとも軽い状態と考えてもいい。
そして、自分の命に問いかける。
「一番したいことはなんだい」
「一番したいことをして生きていいんだよ」
「一番したいことを、一番したいところで、
一番したいやり方でやって生きていこう」
すぐ答えが返ってこなくてもいい。
とにかく一年中、四六時中、
命に問いかけ続けることだ。
ときにはすごく小さな答えが返ってくる。
からだを伸ばしたいとか、そういう類だ。
それでもいい。
命の言うとおりからだを伸ばす。
時には大きな答えが見つかる。
日本を出て、外国へ行こう、とかのレベルだ。
さらには生き方に関する命の意向を聴けるときもある。
ともあれこれは
58年間の私の人生で見つかった
もっといい問いだ。

この問いが見つかるまでは
悪い問いを結構自分に問いかけていた。
「なぜお前はいつもこうなるんだ」
「なぜ、こうしかできないんだ」
――これらの問いは悪い問いの見本である。
自分を痛めつけるだけで
命の創造性を解放してくれない。
これらの問いを発しているのは
誰の中にもいる上位自我、批評家、検察官だからだ。
こいつらの言うことを聴いてはならない。
いや、彼らの一応自全の一員だから
声だけは聴いておく。
知っているよ君がそう思っていることは。
一応聴いとくね。
それでさっと別れる。
声を聴いてやれば
彼らの気は済む。
だが、囚われてはならない。
そんなことをすれば人生のときを失うだけだ。
わたしも彼らに囚われて
ずいぶん膨大な時間をどぶに投げ捨ててしまった。
自分を痛めつけ、
酒を飲んで酔い、
からだを壊すまで飲んだ。

上位自我は物事が育つに必要な
時間を知らないで責め立てる。
当為を強いることしかしらない。
上位自我はある種の欠陥人間である。

これに対し、産婆や育成者は
物事が成熟するに必要な時間を知っている。
それは生命が何かの形に創発して出現したがっている
かすかな気配に耳を澄まし、
その成熟度を慎重に見守り続ける。

毎日毎朝、生命に
「さあ、今日は一番何がしたいかい?」
「一番何になりたいのかい?」
と問いかけ続けることは
自分の命に産婆や育成者のまなざしを投げかけることである。

じっくりからだにゆらぎを通し、
凝りや滞りをなくし、
心的な囚われや心配事からも離脱する。
そして、生命に
「さあ、いつだって一番したいことをしていいんだよ」
とささやき続ける。

そう、まるで念仏衆が念仏を唱えるように
この問いを問いかけ続けるのだ。
この問いはあらゆる念仏や題目や祈りの言葉よりも
生命の原生力を解き放つ効力がある。
いわば生命マントラなのだ。


2006年12月3日

寒さのクオリア・恒星のクオリア

すこしゆっくり時間を取れるときは、
からだの中でたゆたっているクオリアの海に
直接耳を澄ますのがいい。
ひとつのクオリアがどんなにいろんなクオリアと
共振しあっているかがわかる。

ヒマラヤも寒くなってきた。
日中、晴天の日はぽかぽかと
一年中で一番心地よい日差しを浴びることができる。
ここは日本の奄美大島と同じぐらいの緯度だから
日差しも強いのだ。
だが、すこし陰るととたんに寒くなる。
ここは標高1500mで
すぐ前に5000m級のヒマラヤがそびえているので
強烈な寒気が直接滑り降りてくる。

寒さのクオリアはとびきり複雑に
あらゆるクオリアと共振している。
まず、快適欲のレベルでからだがくぐもる
体全体の調子がわずかに落ちるのが体感でわかる。
それから安全欲でもなにかしら不安が襲ってくる。
自分のいる場所が十分安全ではないという不全感だ。
とびきり強く影響するのはつながり欲だ。
なにか暖かい生き物と触れ合いたい衝動が湧く。
手近に触れ合う相手がいないときは
先行き不安な寂しい感じに襲われる。
だが、自己実現欲のレベルでは
寒さは逆に作用する。
他人や外界に頼るのではなく
自分で燃えなければという引き締まった状態にさせてくれる。
惑星や衛星のように他の星のエネルギーで光るのではなく、
太陽や恒星のように自分で燃える星となるのだ。
恒星体と私が呼んでいるもっとも積極性にあふれた
サブボディの状態だ。

チベット仏教の僧侶は雪の中で瞑想しても
自ら熱を発して凍えることがないという。
恒星体に変容できたら
それが可能になる。
生命は燃え続け、
創発し続けている限り倒れない。
強く回転する駒と一緒だ。

私が学校を創り、
このサイトを創ったのは
恒星として燃え続けるための工夫だ。
毎日生徒に何を教えるか、
からだに潜って最適の授業を掴み出してこなければならない。
サブボディは生ものだから、
お仕着せの授業プランなど何の役にも立たない。
生徒のサブボディに潜り、今一番何を求めているかを
掴まねばならない。
だが、それができるようになってくると
とことん授業が面白くなる。
そう、毎日が創発の連続となるからだ。
この11月は今年で一番生徒と私のサイクルが最もうまくかみ合って
毎週毎週とんでもなく面白いサブボディが
生まれ続けた。
特にリゾーミング・テクニックを
生まれて初めてうまく伝えられるようになったことが大きい。
サブボディの創造性の宝庫に至る道を
ついに見つけた。そう思える。
こんなに強力だとは自分でも思っていなかった。
来年はこのリゾーミング・テクニックを
さらに磨き豊富化していく年になりそうだ。



2006年11月19日

気とクオリア

長い長い間、禁句にしてきた言葉がある。
<気>という言葉だ。
これほど人々に乱暴に使われ、
手垢にまみれ、その実、
気とは何かについて、
誰も納得のいく説明をしていない言葉も珍しい。
君子危うきに近寄らず、
ではないが、恐ろしくて使えない言葉だった。
自分で納得ができる厳密な定義ができるまでは
使わないと決めた言葉だ。

だが、今朝の明け方、不意に気づいた。

なあんだ。
今私が毎日使っているクオリアとは、
気のことだったのだ!
――と。

クオリアと気、
双方の言葉の出自を考えると
またなんと途方もない出会いだろう。
だが、まさしく両者とも同じものを指しているのだ。

クオリアは、あらゆる物事に対して
生命がからだで感じ取る体感だ。
重力、空気、光、音、味、匂い、触感、……
などなどあらゆる種類のクオリアがある。

気もまた、あらゆる物事に対して
生命がからだで感じ取るものだ。
天の気、地の気、人の気、
背後の気、前方の気、などなど
あらゆるものに気を感じることができる。
人間ばかりではなく、
ほかの下等動物はもっと
気に敏感である。
おそらく、植物やバクテリアも
微細な気を感じているに違いない。
あらゆる生命体が微細なクオリアを感じているように、だ。

このつながりの発見には
心底驚かされた。

もちろん、気とクオリアでは
かなり違う面もある。
それは今後厳密に掘り下げなければならないだろう。
だが、本質上同じ現象を捉えていることは間違いない。

こういう隠されていたつながりが
突如明るみに出てくるときほど
面白い感動的なものはない。

2006年11月16日

透明体記念日

なぜ、全チャンネルリゾーミングが
あんなにまで生徒のサブボディを
透明に見せたのか、
その理由がわかった。

サブボディ 下意識ワールドには
チャンネルの区別がない。
あらゆるクオリアが無数の次元を
自由自在に変容流動している。

それをそのまま表現しても
なにがなんだかわからない。
そこで起こっていることを
ほかの人とも共有できるかたちに
変形するのが創造の仕事である。

踊りの序破急の序破破破急の破のプロセスで
ひとつのチャンネルから別のチャンネルへ転換し
すべてのチャンネルをじょじょに開いていくことによって
ついには全チャンネルまるごとのクオリアが再現される。

からだや動きだけのチャンネルではなく
序破急の急では、全チャンネルの踊りへいたるか、
統合チャンネルである世界チャンネルへいたることで
ようやく急に達することができるのはそのためだ。

そう下意識・サブボディ界で起こっていることを
まるごとほかの人に伝えることのできる
自全の舞踏に転成するのだ。

全チャンネルリゾーミングは
まさしく下意識とからだで起こっていることを
意識の目にも透明になるように創造する技法である。

長い間なぜ透明さにこだわってきたのか
自分でもその理由はわからなかった。
そして、リゾーミング技法が何を表しているのかも
つかんでいなかった。
ばらばらだったものがある日突然
密接につながっていることが明らかになる。
ものごとが明るみに出るときはいつもこの形をとる。
厚い巻物を巻いていくときのように
霧が晴れ見通しがついていく。

2006年11月15日

リゾーミングとは下意識を顕在化する技法だ

自分が10年も追求してきた
リゾーミングテクニックが、
その実何であったのかが
ようやくわかった。

それは下意識での出来事を
顕在化する技法だったのだ。

からだの一部で感じられる
かすかなサブシグナルをキャッチする。
サブシグナルとは下意識界から届く
かすかなあるかないかのサインである。

普段は意識はそんなかすかなものには注意を払わない。
意識を可能な限り休め
意識と下意識が半々につりあう
<透明覚>と呼んでいる状態になって
はじめてそういうサブシグナルを
感知できるからだになる。

そして、つかんだサブシグナルを
徐々に増幅していく。
からだの一部から隣の部位へ、
さらに全身へと伝染病が広がるように
伝播していく。
その下意識とからだと意識の間で
起こっていることをすべて透明に
見せるのがリゾーミングテクニックだ。

すなわち、下意識から意識に見える形で
からだに顕在化してくるものをみせる技法なのだ。

そして、下意識とからだと意識の間で
起こっていることが透明にみえるからだこそ
<透明体>であれば、
リゾーミングこそ
透明体になるテクニックであるといえる。
このふたつがこんなに密接につながっているものとは
今日の今日まで気づかなかった。

今日、11月生の生徒とともに
八つのチャンネルで
リゾーミングの練習をしたののち
生徒に説明しているうちに
突然それに気づいた。

今日の練習中、生徒の下意識の中のものが
驚くべき鮮明さで生徒のからだに
立ち上ってくるのをまざまざと眺めていた。
そう、生まれてはじめて<透明体>の出現する
瞬間に遭遇したのだ。
こんなに感動的なこともめったにないことだった。
とうとう、自分だけではなく
ほかのひとのからだも透明体に変成する
事態が起こりだした。
技法はほかの人に伝えられるようになって
はじめて本物になったといえる。

11月15日は記念すべき日かもしれない。

そう、「透明体記念日」と名づけよう。


2006年11月14日

サブボディとコーボディ、類と個の謎

長年握り締めてきた、サブボディとコーボディの間の謎は、
結局、生命がもつ二重性、
個的生命と、類的生命の二重性の謎に行き着く。

すべての人は個的な年齢とともに、
生命としての40億年の類的年齢を持つ。

かつては、人類としての類的存在を考えていたが、
命としては人類であろうと藻類であろうと大差がない。

むしろ、人類だけが40億年の生命の歴史を踏まえて生きることができる。
40億歳の生命としてどう生きるべきかを考える想像力を持つ。
そのことのほうが重要だ。

西洋の人が40億年の生命という立場に立って考えるのが苦手なのは
やはりキリスト教の伝統に制約されているだろう。
キリスト教の人間中心的な考え方は
いまなお西洋の文明を色濃く制約している。
40億年の生命の立場に立って生きるという発想は
西洋の哲学的伝統にも、宗教的伝統にも登場したためしがない。

その点宗教の中でも仏教はもっとも生命としての普遍性を
射程に入れている。
「生きとし生けるもの」という生命に対する
普遍的発想をもつのは仏教だけだ。

仏教が苦手なのは創造性を繰り入れることだ。
生命は共振と同時に創発を本質的な特性として持つ。
その創造性をどう発揮していくかという点だけが弱い。
それは東洋の思想・宗教先般についていえることだ。
タオ、ヨガ、仏教、ヒンドゥー、イスラム……すべてその弱点を持つ。

だから、洋の東西のどちらに囚われても
制約を受けることになる。
東西の中点に透明に立つことだけが重要なのだ。

フロイドの個人的無意識と
ユングの集合的無意識――このふたつもまた、
類と個の謎をめぐっている。

生命の類性と個体性の謎は
私にとってもっとも深い謎だ。
たぶん一生かけても解ききれないかもしれない。

このサブボディとコーボディ、類と個の謎は、
ツリーとリゾーム、
二元論理と多元論理の両方を
いかに使い分けていくかという
課題と並んで、透明論の大きな柱となる。

そろそろ透明論に取り掛からなければならない
時が来ているようだ。

9月から参加している生徒たちが
いま激しくサブボディとコーボディの
壁にぶつかって悩んでいる。
ヨーロッパで字が形成してきた人にとって
サブボディを追求することはたやすくても
なかなかコーボディにはなれないという壁が立ちはだかる。
下意識の深いところまで自我が浸入しているのだ。

サブボディ・コーボディシアターでも、
自分のサブボディの序破急を発揮するばかりではなく、
全体のコーボディとしての序破急をも生きるという
透明な二重性を持つためには
ある時点で潔く自我を捨てきることが
鍵になる。

今私たちが直面しているのは
この課題なのだ。
だが、並大抵のことではここから先に進めない。

この壁を何とか突破する方法を見出さない限り
どこへもいけないところまで来た。

下意識・サブボディさん、
お願いしますだ。

この謎をとく鍵をください。

2006年11月11日

意識による下意識のマスキングについて

クオリアを微細な、微細な次元に分け入って耳を澄ましていくと、
ついには細胞が感じ取っているクオリアにいたる。
バクテリアやアメーバなど単細胞生物には、特別の感覚器官はない。
あらゆるクオリアをからだひとつで感じ分けている。
重力のクオリア、光のクオリア、熱のクオリア、
空気のクオリア、化学物質のクオリア、動きのクオリア……
彼らにできているものなら、
人間のからだを構成している60兆の細胞も
個々別々にかすかなクオリアを感じ取っているはずだ。
それはあまりにかすかなクオリアなので
人間の意識で感知できる閾値をはるかに下回っているだろう。
だが、たしかに感じているはずだ。
それを知る方法はないか。

意識で特定のクオリアを感知するためには、
何十億というニューロンが同時発火する必要がある。
だが、下意識で感じとっているクオリアは
そこまで多くのニューロンの同時発火を必要としない。
これが意識と下意識の根本的な違いだ。
下意識で比較的少数のニューロンの発火によって
感知しているクオリアは、それだけ弱いので
意識が活動すると下意識界での出来事は
すべてマスキングされて感知できなくなる。
からだが下意識で感じているクオリアに耳を澄ますためには
よほど徹底的に意識を鎮めることが必要になるのはそのためである。

からだの一部から変成がはじまり
他の部位に伝播していくという
私独特のリゾーミング技法を
人に伝えることに最近まで失敗してきたのは、
この意識による下意識クオリアのマスキングについて
知り抜いていなかったからだということに気づいた。

それについては学校ジャーナルに書いたとおりだ。
ここでは、私自身の探求として
細胞レベルで感知している微細なクオリアを
どうすれば感じ取ることができるかを探っていきたい。
新しい課題に直面したときは
とんでもないことのように思われるが、
これまでも当初はとんでもないと思われていたどんな課題も
いつのまにか予想もしなかった次元からのアプローチで
解けてしまうことを経験してきた。
とても解けないと感じるのは
ひとつの次元に囚われているからに過ぎない。
すべての次元は予想もしない仕方でつながっている。
それを発見すれさえすればいいのだ。
といっても意識でそれを探せるわけはない。
いつもどおり下意識のサブボディさんにお願いするだけでいい。
未知の次元を探るのは、下意識さんの得意領域だ。
なんといってもその多次元世界の住人なんだから。
現地のことは原住民に尋ねよ、だ。


2006年11月4日

人間はどこまで透明になれるのか?

自我意識は常に自分をありのままではなく、
それよりもよく見せようとする。
それがあらゆる不透明さの根源になっている。

自我意識によって、自分を覆わないこと。
非必要に装わないこと。

意識と下意識を等価に保つ透明心身となり、
意識と下意識の間で起こっていることをすべて透明に見通し、
サブボディダンスとして創造していくこと。

そのことがどれだけ君と君の周りの世界を楽に、自由にすることか。

サブボディダンスで自分の隅々と交わりあい
それを踊りに創造することで
君は自全(自分の全体)とともに生きはじめることができる。
その生き方は世界の全体(世全)を変える力を持つ。

自分をさらけ出すと不利になる、
――社会からそう思い込まされることで
私たちは自分を鎧い、
自分と周りの世界との間に戦闘態勢を準備し、
すべてを不透明にしてきた。
だが、そんなことはもう必要ではない。

私たち自身には争いあう理由など何一つない。
国家や階級を維持しようとする旧来の勢力だけが
いまだに諸国民と諸国民を対立させ争い合わせようとしている。
この間の軍事産業の走狗となったフォードのアフガン諸国への
戦争政策はその醜い本質を世界中にさらけ出した。
軍事産業がその剰余生産物を消費する場として
アフガンやイラクの人々の命がが犠牲に供された。

これからの世界に求められているのは
そういうことを見抜き、
自我も国家も笑い飛ばし、
自全と世全にまたがって生きる
透明な存在だ。



2006年11月3日

これがサブボディだ

そうだ。雌伏三十年。
ようやく
これがサブボディだ、
といえるものがこの世に出現し始めた。
この感動を忘れないでおこう。

まだほんのその胎児の形でしかないけれど。
ビデオや写真にその萌芽が映るまでになってきた。
萌芽の萌芽に過ぎないけれど、
芽は出て育ちつつある。

人間はどこまで自由に、どこまで透明になれるのか?

現代社会によって刷り込まれる自我意識優先の意識に囚われることなく
意識と下意識を半々に保つ、透明覚をひらき、育てる。 
いま、ヒマラヤで始まっているのは、
現代の人間のありかたではない
それ以降のあり方を問う試みなのだ。

今のさびしく狭い自我意識に囚われた自分から脱け出たければ
ヒマラヤにくるのがいい。
世界中でここにしかない、
とびきりの実験が行われている。

一度しかない人生を与えられた形で終わるのはあんまりだ。
与えられた意識の形、与えられたからだの動かし方、
刷り込まれた人間関係の形、
定められたかのように思われる社会や国家、世界とのかかわり方、

それがすべてではない。
人間はそれ以外の形でも生きられるのだ。

刷り込まれた人間の形を笑い飛ばすこと。
ヒマラヤにくれば、それができる。
日本に閉じこもっていてはその呪縛から逃れられない。
人間には転地療法が大事なときがある。

2006年10月23日

40億歳の原生命

私の命はいったい何歳だろうか。
いつから数えるかでずいぶん違ってくる。
だが、数えるとすればこの地球上にはじめて
生命が発生した40億年前から数える以外ない。
すべての生命体はおなじ年齢だ。
一分一秒と違わず、同じなのだ。
昔ガラス水槽で魚の孵化を試みていたとき、
不意にそのことに気づいて深い感動に見舞われた。
ガラスの向こうで透き通る体を見せている稚魚たちも
私も、水槽に植わっている水草たちも、
等しくみなおなじ40億年の生命の年齢をもつ。

個体としての寿命など、
その命の連続の中で見れば
なんと言うほどのことでもない。
少しずつ変異してべつの生命体に変わっていく
プロセスを担っている。

自分の命に何が一番したいかを尋ねるときは
この40億年の寿命を踏まえて
いま何をしたいかを聴くことだ。
たぶん、もっとましな生命体になりたいと
いうに違いない。
小さな自我に囚われている今の状態を
40億歳の生命が喜んでいるはずがない。

40億年の生命史の中で、最大の発明者は誰だろうか。
おそらく、細胞呼吸を創発したプロテオバクテリアが
東の横綱に違いない。
プロテオバクテリアはその後真核細菌に取り込まれて
独自の種ではなくなる代わりに、ミトコンドリアとして
すべての細胞内で細胞呼吸に携わる栄誉ある転生を果たした。
ついで、地球の大気をいまのような比率に作り変えた
シアノバクテリアが西の横綱だろう。
ラン藻の一種として一時代を築いた後、
やはり葉緑体として真核細胞に取り込まれ
いまの植物の祖となった。
植物が気球大気を生産し続けていることを思えば
その恩恵をこうむっている動物にとっても
大恩ある存在だ。
この二種に比べると、
あとの創発はずいぶん見劣りがする。
まして、人間の個としての創造にこだわるなど
泣けてくるほどみすぼらしい。
プロテオバクテリアやシアノバクテリアを
ライバルと考えて創造に取りむのがいい。
すると、いまの人間にとってどういう創発が
最も必要とされているか、
生命史的課題が見えてくるはずだ。

私は長い間抱え込んできた
サブボディ=コーボディの間の相互転化の謎を
解こうと思っている。
この10年で私が最も解きたかった謎がここにある。
それは、もっと若いころから抱き続けていた
類と個の謎だ。

どうして創造はその頂点で、
交通を志向するのか。
自分独自のサブボディの踊りを深めていくと
なぜ、コーボディ=共存在に転化するのか。
人間が類的存在であるとはどういうことなのか。
いよいよ人生最大の謎に取り組める日が来た。
それもこの舞踏学校の授業の中で
実験に継ぐ実験を行うことができる。
私は幸せ者だ。


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