からだの闇を掘る
          


2006年 6−8月
                      

からだの闇の非時非空では、マルチディメンショナルな妙間次元が拡がっている。

2006年8月29日

起きながら見る夢

ベランダでからだを流れる甘露流を味わいながら、
心地よさのなかにたゆたっていると、
さまざまな会ったこともない夢人物が現れて、
そして、消えていった。
とうとう野口晴哉さんのように、
起きながら夢を見るようになってきた。
夢人物たちは、
今作ろうとしている第二サイトについて、
何か意見を伝えようとして、
見たこともないような特異な表情をして見せ、
そして去っていった。
何をいいたかったんだろう、と
その表情を思い出しては味わっている。

眠っている間もいまは下意識でサブボディさんが、
24時間の終夜運転でサイトを作り続けている。
夢の中ではもうかなり出来上がっていて、
それを人に見せていろいろ意見を聞き
微調整する段階に入っているのかもしれない。

わたしがこれまで避けてきた、
治癒やヒーリングの世界に
はじめて踏み込もうとするサイトだ。
サイトタイトルや内容のアイデアも
ずいぶんたまってきた。
いつか一気に実現するだろう。

原初生命と昏睡瞑想

アーノルド・ミンデルの
『身体症状に<宇宙の声>を聴く』
を読み進めている。
量子力学と心の関係という
人類未踏の領域を探るよい本だ。
ミンデルは量子力学で、わたしはひも理論で、
という違いはあるが、
まったく同じことを探求している
世界でもっとも心強い1先達だ。
量子力学もひも理論もほとんど同じところまで
微細世界を突き詰めていることが分かる。

最後のほうに出てくる昏睡瞑想は、
わたしの好む原初生命瞑想とそっくりだ。
まったく動けない原初生命のからだになりこむことと、
死を前にした昏睡のからだになりこむことが、
こんなに似ているとは。

動けないからだになりこみ、
そこででてくる微細なサブシグナルに従う。
臨死状態になりこもうとすると、
最初は恐怖でからだがすくむ。
その点は原初生命瞑想と異なる。
だが、勇気を出して臨死していくと、
原初生命とまったく同じ状態だということが分かる。
生命は生まれた瞬間から臨死していたのだ。

死ほど自分を、
自分のいちばんやりたいことに向かって
引き絞ってくれるものはない。

死を前にした目で見ると、
何が余計で、何が大事なことかが一目瞭然になる。
これまでもわたしを導いてきたのは
この死から自分を見る目だった。

日常の自分が囚われているものも、
死の目から見れば取り合うに足りないものばかりだ。
最初に日本で餌を拾う仕事から自分を解放してくれたのも、
この死からのまなざしだった。
日々の自分がコピーライターとして
囚われているクライアントとの確執などが
自分にとって何の本質的な意味など
持っていないことに気づかせてくれた。

そのときのすがすがしい気持ちは
生涯忘れることがない。
その解放を契機に
わたしは踊り手となる道を見出し、
さらに日本から離れ、
ヒマラヤで生きる人生が開けた。

いまわたしは可能な限りの時間を
酔生夢死の状態にただようようにしている。
この状態でからだから聴こえてくるものが
いちばん信頼が置けるものだ。
リゾナンス癒法を中心とする、
第二サイトへの志向もこのからだの状態から出てきた。


2006年8月28日

からだの闇の六万人格

微細な微細な次元に起こる
クオリアだけに耳を澄ませていく。
大きな咸じや、
言葉にできるはっきりしたクオリアではなく、
言葉になどならない、
微細なゆらぎや
ふっと掠めてすぐ消えてしまうような
クオリアだけに集中していく。

それらのクオリアは
あらゆる次元にまたがってゆらいでいる。
呼吸のたびに喉元をとおる甘い体感が
指先にまで走る。
体感から音感へ、
重さからかゆみへ、
幼年期の記憶から今朝の夢の感触へ、
何の前触れも法則もなく
クオリアはゆらぐ。
ゆらぎだすときりがない。
わずか一瞬間に人生の始まりから終わりまで、
世界の果てまでかけめぐる。

量子論的な次元にまで降りていくと
世界はとんでもない
量子的乱舞に満ちている。
ひもが多重次元で共振しているから
とんでもないことになるのだ。
物質が存在するか消え去るかの
境目で震えている
物質がエネルギーに転化しかけたり
また戻ってきたりする。

クオリアもまた
ひもの次元で量子的に乱舞している
ひとつのクオリアが
生まれかけたり、
消えかけたりする

そこは非空非時のくにだから
40億年前の細胞記憶と
今朝の夢が交錯している
胎内の記憶に
誰かの悲鳴がまといつく

ありとあらゆることが
次々と瞬時に起こり
また別の次元に移行する
踊りの中でもときたま
クオリアの超伝導と呼ぶ
奇妙な状態がたまにやってくる

6月のクラスで、アナットと
キムに授業をやってもらって
その時間のなかで
即興で踊ったとき
その超伝導状態が起こった。

      

次から次へと自分の中の
ありとあらゆる人格が
立ち現れては消えていった。
こすっからし、おちょけ、
ひねくれ、もっとり、どすこい、
おろろん、とろろん、とうへんぼく
どろで、もすけ、むにゅ、
言葉でなどいえないやつらが
無数に出てきては
おれのからだを駆け抜けていった。

からだの闇には
30人格どころか、
6万人格が詰まっている。

美とはほど遠かったかも知れない。
ただもうそうなると
からだが勝手に面白がって
手がつけられなくなる。
やめられない、とまらない……
カッパエビセン状態だ。

めったに起こることではない。
何年かに一度あるかないかの
ことだ。
だがもしこれをうまく
制御する方法が見つかったら、
アド発作や、フラッシュバックへの
囚われから解放される道が
開けるかも知れない。

だが、あの6月はストレスもなく
いちばん調子がよかったときだった。
神経症時代を連想させる人物が現れるなど
対人関係場にストレス要因が
すこしでも混じるとそうはいかない。
からだから始終
アドレナリンが噴出してきて
あんなふうには踊れなくなる。

むずかしい。

2006年8月26日

自全に聴

ベランダの寝椅子に楽な姿勢で腰掛けて、ぼんやりする。
ころあいを見て、自分の全体に声をかける。
「自全さんよ、いまいちばん何がしたいだろうか?」
からだの具合を静かに聴く。
しばらくして、なにかしたいことが湧いてくる場合もある。
長い間沈黙していることもある。
自全さんのことをウミウシのようなからだだと考える。
のっそり、どこかの触手が伸びだす。
意識はもちろん、
やりかけの仕事がそこでどんなにたまっているか知っている。

だが、自全さんがそれらのどれかに気が惹かれることはめったにない。
いつもなにか思いがけないことを思いつく。
自分にとって新鮮なことでないとどうも気が向かないらしい。
だから、やりかけの仕事はどんどんたまる。
たいがいやりかけの仕事とは、
やっている間にどこかが面白くなくて放り出したものが多いから、
なかなか気が向かないのも分かる。

一日中ほとんどこうして
自全さんの意向に耳を澄ましている。
これがいちばんいいことに
いつか気づいたのだ。

今朝は思いがけないことに、
目を覚ますなり、遠い射程で
やりたいことが見通せた。
寝ぼけながらノートに取ったが、
ほぼ自全さんの意向は知れた。

「からだの闇を掘る」をもっとも基礎的な探求の場とし、
生命論や、リゾミューンの建設を
もっとも先端的な
理論的あるいは実践的な課題とする。
その中間に、舞踏学校の日々や
いま造りかけている第二サイトの
構想が位置する。
第二サイトでは、
わたしの解離した30ほどの分身たちの部屋をつくり
一人ひとりにちゃんとした場所を与えたい。
そして、解離の発作の苦しさを
自分でしのぐやり方を紹介していきたい。
これまでの七転八倒の中で
苦し紛れに見つけてきたしのぎ方を紹介することは
少しはほかの苦しんでいる人の
役に立つと思われるからだ。

自分のやりたいことが
遠くまで透き通って見通せることは
気持ちがいい。
存在が晴れ渡ってきたようだ。

依然、アド発作は定期的に襲い掛かってくるが、
これはもうどうにもしかたがないことだ。


2006年8月17日

サブボディの発見

人々の日常体を束縛している
数多くの共同観念を解いていく。
生徒と接するとき、
それが最初の私の仕事となる。

まず、自分が当たり前に人間であるという
思い込みが最大の癌だ。
それを胎内遡行や、
生命遡行の瞑想によって
生命が人間以外の生命との
つながりのうちにあることを知っていく。

目隠しをして暗闇をまさぐり、
自分の中に生命体としての原生感覚が
息づいていることをからだで思い出す。

胎児時代にまだ自分が人間であることなど
知らなかったころに見た
ほかの生命体の体感や動きや夢を味わいなおす。

そうして徐々に「人間」であるという
共同観念の呪縛から解き放たれていく。

自分の中に原初生命の動けないクオリア、
動かされるばかりのクオリアが
脈打っていることをからだのなかに見つける。

生命ははじめから自由になど動けたわけではない。
40
億年のうち30億年は単細胞生物の時代だった。
多細胞になってからも、
微々たる動きしかできない時代が何億年も続いた。

体の一部をブロックして動きにくいからだになりこみ、
不自由な動きの体感を味わってみる。
それがどんなに深い響きをからだにもたらすか、
驚くような新鮮な発見があるだろう。

いろんな姿勢のブロック、顔のブロック、呼吸のブロック、
スムーズさのブロックを組み合わせて、
からだで味わってみる。
何らかの姿勢にからだが新鮮な反応を示したら
その姿勢の動きを探求する。
いろいろ試しているうちに、
からだから勝手に出てくる妙なリズム、
変わったタイミング、
変な動きに特別妙な親近感を感じるものがある。

それが自分のサブボディが求めていた動きだ。

その不自由にブロックされた姿勢から
どんな動きが出てくるか、
サブボディにたずねつつ全身で乗り込んでいく。

それが今日のサブボディダンスだ。


2006年8月12日

心身透脱


透明体になる訓練その1

ただただ微細にクオリアゆらぎに耳を澄ます。

 

1.静寂体になる

座位(実技ガイドのゆらぎ瞑想参照)でも
立位(同灰柱の歩行参照)でもいい、
もっとも静かなからだ(静寂体)になる。

そして、からだ(脳心身すべてをさしてこう呼ぶ)に起こる
クオリアゆらぎに耳を澄ます。

どこまで微細にクオリアのゆらぎを聴き分けられるか、
その違いを味わうことができるか、
ただただそれに聴き入っていく。

やることはそれだけである。
言葉にも動きにもしない。
ただからだで咸じる。
(こころではなくからだで感じるから咸と書く)。

からだのフィジカルな動きを最小にする。
どんなに静止しようとしても
生体はいつも微細にゆらいでいる。
フィジカルな動きを止めても
クオリアがゆらいでいる
クオリア止めても
生命がゆらいでいる

その極限の静寂体になったとき
はじめて粗大界のフィジカルと微細界のクオリアとの間で起こる
妙間次元の微妙な共振に触れることができる。

2.妙間次元に聴く

妙間次元とは、粗大な物質界と、
クオリアの存する微細界をつなぐ次元である。
そこに時間でも、空間でもない、
第三の妙間次元が存在する。
――妙間次元については、共振日記「妙間次元について」参照。
だが、いまそれはどうでもよい)

微細になればなるほど、
クオリアは多次元を自在に行き来し
複雑さと面白さと奇妙さを増していく。
これを味わっているだけで
どんな面白い長編映画を見ているより
われを忘れて時が過ぎていく。

共振が、どちらか一方から他方への働きかけによって起こるのではなく、
等価な両者の間の相互作用として起こっている実相に触れる。

脳のニューロンレベルの極小のフィジカルな動きがクオリアに転化し
微細なクオリアのふるえがフィジカルなゆらぎに転化する
両者の間の透明な相互転化に耳を澄ます。
そして、両者が一個二重の非二元であることを透咸する。

3.非二元の共振

両者と書いてきたが
実はそれはふたつの別物ではなくひとつなのだ
物質でもなく、非物質のクオリアでもない
ひもの共振からそれらが生まれていることを知る。
心でも体でもない
物質でも観念でもない
自も他もない
類も個もない
ひもの共振はひとつでもありすべてでもある
一でもあり全でもある
一の中に全がある
これが宇宙の根源なのだ
そして意識を消す
心身を透脱する

1から2へ観念で飛ばないことに注意する。
1,2両者の相互転化に耳を澄ましている中で、
両者という二が、共振という一であることを透咸する。

2006年8月11日

押し出されて出てくる動き

歯医者の診療台の上に横たわったときに出てくる舞踏は、いわば、生命体が異様な状況に閉じ込められたときに自然に出てくる拘禁反応のようなものだ。

今日も歯医者の診療台に横たわったとたん、ウミウシに変成したからだが、足先からもごもごと蠢きだしそこから逃げ出す道を探りはじめた。

「押し出されてくる出てくる動き」と土方は言った。

「踊りは押し出されて出てくる動きじゃなければだめだ」

押し出されて出てくる動きには、意識の関わらない生命体としてのどうしようもないクオリアがある。

それと比べると意識が思いついた動きや自我が自分を「表現」しようとする動きは、人間の社会規範に囚われていてなんとも薄っぺらい。

舞踏とはこの、三次元や四次元を当たり前の合意的現実とする日常界に異次元の、多元変容する生命界からいやおうなく押し出されて出てくる動きなのだ。

下意識のからだ、サブボディには「押し出されて出てくる動き」が、出てこれないまま無数のnot-meや解離された衝動として詰まっている。

日常界に安住する人は、そんな異世界が存在するなどと夢にも思っていないから舞踏を見ると驚く。そして、激しく反発し、否定する。打ち消してなかったことにしようとする。その野生的な生命の世界に蓋をして日常界に安穏と戻っていく。

だが、一度見てしまった舞踏は、それに共振した下意識のからだの中で踊り続ける。サブボディは伝染力が強いのだ。

そして、25年ほどからだの闇で無意識裡に踊り続けた後、ようやく意識が気づくところとなる。

……(あれ?もしかしたら、わたしが本当に生きたいのはこんな踊りを踊ることだったのかもしれない)……

 

わたしが踊り手として生きようと決心したのは、20歳のときに土方の「ギバサン」という暗黒舞踏公演を見てからちょうど四半世紀経った45歳のときだった。そのときわたしは25年前に見た土方の舞踏から受けた衝撃が、まるで大きな釣鐘にゴーンと頭をどつかれた響きが、25年間鳴り続けていたことを知ったのだ。

わたしも、わたしの踊りを見た人が25年ぐらい後に、舞踏家になろうとするような踊り手になりたい、とそのとき思った。

一度受けた強烈なクオリア共振は、この粗大な日常界とは別の異次元で、まったく当初の新鮮さを失わないで鳴り響き続けていることもそのとき思い知った。(これはいったいなんなのだ?)そのとき抱え込んだ疑問はいまだに懐き続けている。

その後、ひも理論を知ることによって、この宇宙が、わたしたちの知る4次元以外に、不可視の微細な7次元を含む11次元からできているという説を知って、ああ、あの衝撃はこの微細な異次元でなり続けていたのか、と納得することができた。

 

粗大界と微細界をつなぐ妙間次元

ウミウシになったまま、からだに起こっているさまざまなクオリアに聴き入った。まず、口の中で高速に回転し続けているモーター音が脳みそをかき乱し狂わせてくる。モーター音には自然界の音がもっているf分の一ゆらぎがないから生体に辛いのだ。コンピュータの中に仕込まれている風冷モーターの音もf分の一ゆらぎがないので、鎮まりたいときには大きな障害となる。これに反して、たとえば雨期の今は窓を開ければごうごうという川水の音が絶えず鳴り響いている。だが、水や風や生き物の出す音はすべてf分の一ゆらぎを持っているので生体として気にならない。それどころか心地よいのだ。

生命は、f分の一ゆらぎのクオリアを聴く力を持っている。絶えず聴き入りそれと共振しながら、生きているのだ。

台上のウミウシは相変わらず、口を開いたまま、足指だけがこっそりと歯科医の目を盗んでかすかにのたうちはじめている。自由を奪われた顔のぴくぴく、頬のもわもわと足指が共振している。

そのクオリアゆらぎに聴き入っていると飽きない。人間はどんな微細なクオリアゆらぎにも聴き入る力を持っている。

そうだ! ここが踊りの発生地点なのだ! 

――と不意に気づいて飛び上がりそうになった。

粗大界のフィジカルな動きと、微細界のクオリアの動きのかかわりの間で踊りは生まれる。

わたしは長い間、わたしたちがどうして、粗大な時間次元と粗大な空間次元に属しながら、なぜ、微細次元で生起しているクオリアをキャッチすることができるのかを考え続けてきた。

そして、その疑問を解決するためには、時間でも、空間でもない別の次元を通じて、生命体は粗大次元のフィジカルなからだの微細な変化と、微細界でのクオリアのゆらぎを結びつけているのではないかという仮設に到達した。

とりあえずこの媒介次元を<妙間次元>と呼ぶことにした。

踊りはまさにこの妙間次元で発生する。

フィジカルなからだの動きを最小限度まで微細にしていく。そして、その微細な動きとクオリアの微妙なかかわりに耳を澄ます。これが舞踏のアルファでありオメガでもある。つまり、そのすべてがこの粗大界の動きと微細界のクオリアの微妙なつながりから生まれるのだ。妙間とはまたわれながらよく名づけたと思う。微妙極まりない妙間を生きる。それが舞踏の創造だ。

微細でゆっくりした動きに徹しないと、この妙なる連関を聞き続けることはできない。舞踏の微細な動きには必然性がある。ダンスの粗雑な動きをすべてそぎ落とさなければ、この妙間次元に降りることができないのだ。

大きな動きには、日常体のからだが快感に襲われるという大きな落とし穴がある。よく動けば日常体のからだが気持ちよくなってしまう。すると、こんな微細な妙間次元のクオリアゆらぎなどに、聴き入ることができなくなる。取るに足りないつまらない世界に思えてしまうのだ。それほど日常体の快感は大きい。それに囚われていると微細ゆらぎなどマスキングされてしまうのだ。

(サブボディスクール入学してきた人の中でも、そういう日常体の快感追求に囚われている人は、けっして微細なクオリアゆらぎを味わうまでに至らなかった。そして、ここで何をしているのかが分からなくて途中でやめていった。そういう人々には日常体の快感に囚われているという共通点があった。レイブ的なパーティダンスの快感を求めていたヒロ、習い覚えたバレエの大きく動く快感を忘れられなかったシャニ、彼らには共通点があったのだ。今ごろになってそれに気づいた。もっと速く気づいていれば彼らの落伍を救うこともできたのだが。今後の人に生かすしかない。)

ともあれ、舞踏は粗大な空間で踊るのではない。粗大な時間にも属さない。非空非時の妙間を踊るのだ。大昔から気づいていたことだが、ここまではっきりと断言することができなかった。


2006年8月10日

下意識のクオリア思考のしくみ

朝目覚めたとたん、
次のような考察が下意識さんから届けられているのを知った。
一気に書き写した。

夕べ寝る前に、
「微細覚とは、粗大界の光や音やにおいを捉える五感以外の、
微細界で起こっているクオリア共振を捉える力である」
と枕元に置いたノートに記して眠りについた。

一晩のうちに下意識さんは、
彼独特のやり方でリサーチし、
目覚めると下記のようなクオリア思考の仕組みを届けてくれたのだ。

言語意識の下部では、
クオリア流動を使った思考が行われている。
クオリアとは物事の質感だ。
心ではなく、心の下部にあるからだの闇で捉えるから、
私はクオリアに質咸という言葉をあてる。

クオリアを使った思考は、
言語を使った意識の思考の仕組みとは
ぜんぜん違った方法で行われている。

クオリアは、それを捉えるためには、
日常の粗大な意識や五感をすべて鎮め、
静まり返った状態でとても微細なゆらぎを捉える
特別な心身状態にならなければない。
この心身状態のことを私は微細覚と呼ぶ。
英語では
Subtle senseという。
略して私は
S覚と呼んでいる。
以下、
S覚と微細覚の両方の用語を併用する。
言葉ではうまく説明できない微細な語感の違いを
使い分けたいからだ。
お許し願いたい。

からだの闇の下意識では、
粗大界の五感や意識に届けられる八覚各チャンネルのクオリア以外に、
五感以外の微細なクオリア共振が起こっている。
下意識の思考は、微細覚によって、
このクオリア共振の具合を聴き分けていくやり方を取る。
S覚サーチと名づけた。
下意識はこの
S覚サーチを使って、
Googleサーチのように、
どこかの未知の情報空間から、
見事に目当ての回答を探し出してくる。

長年そのありさまがどうなっているのか探ってきた。
その結果分かったことは、
S覚はそのとき課題となっている問題をめぐる、
ひとつのクオリアの共振パターンを保ながら、
ありとある他のクオリア共振パターンとの共振具合を
次から次へとしらみつぶしに当たっていく。

といっても、微細界には時間次元もなく、
空間も極小のサイズに折り畳まれている。
あらゆるひもが同時にあらゆるひもと
少しずつ違った共振パターンで結びつき、共振している。

全宇宙のひもはすべてつながり、
何十億年も共振パターンを維持している。
宇宙のどこかで起こった出来事は、
共振パターンの変化として、
時空を超えて、あらゆるひもに伝わる。

それらの無数のひも共振の連鎖のネットワークの中に、
自らのクオリア共振パターンと強く響きあう
共振パターンがやってくる方角を11次元に探る。
そして、11次元のどこかに
自らが捜し求めている問題を解決する
クオリア共振パターンを探し当てる。
これが
S覚サーチ、すなわち微細覚クオリア共振思考の仕組みである。

夜寝る前に、いま自分がかかえている最大の問題を
分かりやすい言葉にして、クリアな形で下意識さんに伝え、
その解決を見出してくれるようお願いする。
肝に念じるというようなやり方でからだの闇にしみこませるのだ。

すると、五感からの粗大な感覚の刺激が停止した夜の間に、
下意識さんは微細覚を使い、
静まり返った微細なクオリアの海を
(海といっても11次元の海だ)サーチする。

自分の問題の持つクオリア共振パターンに
最も強く響き返してくるクオリア共振の連鎖を
次々にたどっていく。
次々といっても、
微細界には粗大界のように拡張した時間も空間もない。
すべてがビッグバン以前の
プランク長さの最小の時空の中の出来事だ。

(プランク長さについての分かりやすい説明はここをクリック

想像しにくければ、宇宙の全クオリアが
サッカーボール大の時空に凝縮されて
共振しあっているさまを思い浮かべればいい。

微細覚の仕事に時間は掛からない。
夜寝る前に頼んだ課題の答えは
翌朝には必ず見つけて意識に手渡すよう用意されている。

たまたま早朝の訪問者や嵐などの闖入者によって妨げられない限り、
下意識から意識へのバトンタッチはうまくいく。
例外なく回答は朝には用意されているのだ。

このときわたしたちの下意識は、
子猫をよその町に連れ去られた親猫が子猫を探し出す力や、
伝書鳩や渡り鳥が本能的に目的地を見つけてたどりつくのと
同じ力を使っているのである。

それは、光や音や匂いという
粗大界の情報だけを解析しているのではない。
微細界で共振し続けている無数のクオリアの
共振ネットワークに耳を澄ませて
最も濃い方向に進むことによって
目的地や解答を見出しているのである。
五感によらない第六咸による判断はすべての生き物が行っている。
人間だけがまだそれをうまく使う仕方を自覚していないだけだ。

最初のころ、下意識さんからの回答は、
いつも夢を通じて、少し変容された形で届けられていたので、
夢の解読に慣れるまでは手間取ることもあった。
だが、夢のどこかに必ず回答が秘められていることを信じて探すと、
かならず見つかるのだった。

夢の世界を探索するときは、
意識を鎮めて半眠半覚の微細覚を用い、
下意識さんと同じように微細なクオリアサーチをしながら降りていくとよい。

形や人物など粗大なクオリアを超えて、
微細なクオリアのつながりが見えてくる。
そのつながりが
S覚で捉えられるようになってくる。

それに習熟してくると、最近では夢の形象を経ずに、
いきなり最初から生のクオリア共振の形で
直接回答が届けられるようになって来た。

今書いているこの文章の内容も、
今朝目覚めた瞬間と同時に、
すでに届けられていたクオリア共振の回答にしたがって、
それをそのまま言語に翻訳して書き写したものだ。

今朝の贈り物は大きい。
S
覚思考の全体の仕組みを一気に届けてくれたものだからだ。
部分的には何年も前から気づいていたことだが、
今朝のようにクリアな全体の描像が得られたのははじめてのことだ。

いつも少しずつ覆っている分厚い霧が晴れ、
見通しが拡がっていくように、
全体の仕組みが透明に明らかになっていく。
わたしが透明さに魅せられたのは
この闇の世界が透明に晴れ上がっていくときの
えもいわれぬ感動が忘れられないからだ。
人生でこれに勝る深い快感はない。

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2006年8月7日

歯医者の診療台の舞踏

歯医者に行くと、いつも土方巽の体感と同期する(『舞踏論7』参照)。

今日も診療台に横たわるなり、すぐじわじわと戦後すぐ秋田から東京に出てきた土方のからだが忍び込んできた。

歯茎に麻酔を打たれ、口に中にさまざまな金属棒が突っ込まれ、電気ドリルが鋭い回転音で回っている。助手がいないのか私はバキュームのパイプをつかまされ口の中に固定しなければならない。すこし場所を間違うと舌の裏の粘膜を吸い込んでしまって痛む。奥歯一本を抜かれる間わたしはほとんど気を失って、もう一つのからだが、診療台の上で奇妙な舞踏を始めるのを見ていた。

手足が萎縮し、小刻みに震えよろめいている。その姿は何かを嫌がっている動きのように見えた。嫌がっているのだが、自由に肢体を操れないため、逃れようとしているのか、逆に喜びにむせいでいるのか、どちらとも取れるようなあいまいでおぼろげな動きになる。

土方が最後期の舞踏で見せた衰弱したからだは、秋田の農家の家の薄暗い奥部屋で寝たきりになったままの病人の見る夢に似ていた。

「寝たり起きたりの病弱な人が、家の中の暗いところでいつも唸っていた。畳にからだを魚のように放してやるような習慣は、この病弱な舞姫のレッスンから習い覚えたものといえるだろう。彼女のからだは願いごとをしているような輪郭でできているかに眺められたが、それとてどこかで破裂して実ったもののような暗さに捉えられてしまうのだった。だれもが知らない向こう側の冥(くら)さ、この暗い甦りめいた始まりを覚えていなかっただろう。」

『病める舞姫』のなかの最も美しい一節のひとつが甦り、わたしのからだに降りてくる。

インド人の歯科医には見えない次元で微細に踊りながら、このいやがるクオリアにはどこか深い味わいがあることに思い当たった。

いやがるクオリアの中には、強い生きようとする生の傾向がある。心地よく生きたいから、苦から逃れようといやがりのたうつのだ。どんなみすぼらしいからだになってもなお、保たれている生体としてのもっとも根源的なクオリアだ。

だれもが小さいころ、土を掘っていて誤って傷つけてしまったミミズが激しくいやがってのたうつ瀕死の舞踏に肝を抜かれて見入った体験があるだろう。生きとし生けるものは自分の生が損なわれようとすると全力でいやがりのたうって逃れようとする。

今の現代社会の日本人が失ってしまったのは、この生体として最も根源的な、いやがるクオリアの動きである。よほどひどい目に遭わされているのに、(この世とはこんなものだ)と騙されて眠り薬を効かされ、じっと耐えている。

歯科医の診療台の上で出てきた舞踏は、その日本人が陥った状態から逃れでようとする土方巽の渾身の舞踏だった。極限まで無力に衰弱したからだに変成して、なお残るかすかな生命のはしくれで、現代の日本人が陥ってしまっている<死>の世界から逃れでようとする土方の生命が見せた生を求める原生クオリアだった。それを土方はヒューマノイドと化した現代日本人に気づかせようとしたのだ。
土方の最後の踊りとは、死に瀕したミミズの舞踏だった。ミミズですらここまで踊ることができるぞ。さあ、お前はどうだ?!

わたしも日本で長く暮らしたため、このいやがるクオリアの動きをずっとからだの奥に忘却たままだった。それを思い出すために、こんなヒマラヤくんだりまで来て歯科医の診療台の上にからだを投げ出す必要があった。

秋田から上京してきたばかりの土方のからだは、東京という街全体がこんな金属棒やわけの分からない機械に魂をいじられ整形される、歯科医の診療台に感じられて、いやがりのたうっていたのだ。土方はそういう、自分のからだの奥底で蠢く微細なクオリアを見つける天才だった。

今日のわたしたちでも、よくよく意識を鎮め、原生感覚を取り戻していけば、誰もが、自分のからだの闇に蠢きひしめくクオリアを捉えることができるはずだ。だれの体の闇にも、ミミズの一匹、アメーバの群れくらいは棲んでいるものだ。

もしうまくそれを取り出し、踊りにすることができれば、誰もがあの土方のように世の中の規範にこびず、奇想天外な世界でただひとつの舞踏の創始者になることができる。

ヒマラヤのサブボディ舞踏スクールで静かに進行しているのは、そのようなプロセスだ。それにはもっともっと静かで気の長い変成の時間性が必要なことが次第に明らかになってきた。去年の1週間コースから、今年は1ヶ月コースに切り替えたが、それでも短すぎる。秋からは幸い3ヶ月コースの予約者が集まってきたので、もうすこしじっくりした授業を組むことができる。来年は1年コースをメインにしたい。その次は3年コースだ。人間が変わるためにはそれぐらいの時間をかける必要がある。ぐらぐらと煮え立つ坩堝に自分の心身を叩き込んで、3年ほどかけてぐつぐつと炊き上げる。その煉獄の修羅場を経て初めてなにものかに変成することができる。

あるものは土方のような世界でただ一人の舞踏家に、あるものは野口晴哉のような生命共振によって人を癒す道に進む。サブボディメソッドの伝道者となってこの世の人に少しでも本来の生命共振を取り戻してもらうことに生きがいを見出す人もいるだろう。いろんな生き方を発明していけばいい。

人間としてもっとも大事なことは、自分の生き方を発明することだ。

ここはその発明力を身につける世界でたったひとつの場所なのだ。そのような場となれるように、サブボディメソッドをもっともっと深く磨きぬいていこう。


2006年8月4日

●自全ぬめりと多次元ゆらぎ

生命の味をたどる。ゆらぎ瞑想を十分にしてから、口をぽかんと開け、ほとんど痴呆寸前の顔つきになって、始原生命のクオリアを探る。半眠半覚のときも探る。意識が最低減のレベルに落ちてくれる、そういうときにしか生命の味などに触れることはできない。

自分を大きいアメーバのようなものだと感じる。口腔内で感じられるぬめりのあるクオリアが、もっとも始原生命のそれに近いと感じられる。その咸じをからだ全体に広げる。口腔から内臓にそのぬめりのあるクオリアがつながっているのが咸じられる。

この生命クオリアを、<自全ぬめり>と名づけた。

以前に、生命のクオリアとして、みっつ特徴を挙げた(参照:「生命のクオリアに触れる」)

1.いつもゆらいでいること

2.世界と共振していること

3.原生的体感チャンネルであること

これに対し、第4の特徴として、

4.自全ぬめりをもつこと

――これが挙げられる。

踊るときは、この自全ぬめりのクオリアがいろいろ変容流動していく。そのときにそのつながりが途切れないことがもっとも大事だ。意識が介入したとたん切れる。この切れる感じは踊っているとすぐ分かる。その切れ目をなくして、どこまでも自全ぬめりが変奏していくのを握り締めて放さないことが大事だ。

 

そして、もうひとつ、上の1と2にも関係するが、

5.多次元傾向性をもつこと

――これはまだぴったりする言葉ではないのだが、いつも無数の異次元に向かって動こうとしている傾向性を持つことを表している。いつもどこかへ行こうとしている志向性といってもいいのかも知れない。<多次元ゆらぎ>というほうが、語感としてはいいのだが、傾向性を持っているというニュアンスがうまく伝わらない。<多次元傾性>と縮めたほうがすっきりするかもしれない。

いまのところ、このあたりで保留しておこう。時が来ればもっともふさわしい言葉が自然に残る。

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2006年7月1日
2006年6月6日

この世のありのままの姿

この世界の本当の姿とはどんななのか。
ひも理論が言うように総てのものが極微のひもの共振パターンからできているとして、
そのひもは実際どのように振動しているのか。

11次元で共振しているスーパーストリングの動きにサブボディが迫る。
今日からはじめた「サブボディ アートギャラリー」では、
11
次元の謎に可能な限り2次元の絵画で肉薄しようとしてみた。

でもこれを書いているのは、
実際に微細多次元を含む
11次元で共振しているクオリアそのものである
サブボディが書いたものだ。
だから、何がしかは本当さを含んでいるはずだ。

この世をありのままの姿で見る、
透明なまなざしを得る、というのは
2000年も前にできた仏教の基本的な考え方だ。 

2000年経ってはじめて、仏教者以外のものも、
その視点の重要さに気がついた。
仏教者以外のものとは、
ほかでもない私のことだ。

私は仏教から多くのものを得ている。
だが仏教者ではない。

この問題についてはいまだによく考えきることができないままだ。
いましばらく保留しておくしかない。

タオからも多くを得ている。
だが、タオイストではない。

この問題もまた、考え切れていない。

ただ、私は総てをからだの闇に聴く態度を貫いている。
サブボディ者なのだ。

サブボディ者とはなにか。
サブボディに起こることだけを信じるもののことだ。

意識に起こることには間違いが多い。
取り違えや囚われ、こだわり、思い過ごし、……。
サブボディは考えずただ共振する存在だから、
意識の陥るそういう錯誤から自由だ。

たぶん、何も信じようとしなかったわたしが、
唯一信じられるものとして出会ったのが、
サブボディだったのだ。

   

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2006年6月3日

 命のクオリアに触れる

生命そのもののクオリアに触れるにはどうすればいいか。

何年か前に、毎朝、生命ゆらぎを聴くという瞑想から
毎日の日課を始める習慣がついてきた。
まわりにヒマラヤの自然以外何もないところだから、
ほかのものに災いされずに、
自分の命に耳を傾けることができる。

といっても始めた当初は、
「命なんていったい自分の中のどこにあるのだろう?」
というような手探り状態だった。

何年か経つうちに、
命はいつもゆらいでいるという感触がつかめ始めた。

なにか知らないが、じっとしていないものがある。
それは大きな波動やごく短い波動など
さまざまな波動を身にまとっていつもゆらいでいる。

そのゆらぎは、すこし元気になったり、
元気を失ったりというゆらぎや、
強くここにいるという感覚と
あまり強くここにいないという感覚との間の
ゆらぎであったりする。

その生命ゆらぎに耳を澄ましていると、
いろんなことが分かってきた。
自分がわけの分からない不調に見舞われるときはいつも、
この命のゆらぎのリズムにどこかで反しているときだということ。


どこかで命のゆらぎの波動とともに生きていることから
はぐれてしまった状態、
これが不調や不全の根源にあること。

日本で生きているときは、
この命のゆらぎにうまく聴き入ることができていなかったこと。

インドに来てからも、工事が続き、
インドと日本の間の文化ギャップに襲い掛かられてきていたころは、
生命ゆらぎに聴き入る余裕など持てなかったこと。

そう、工事が終わって
周りの日常社会とのわずらわしい関係のすべてを
滅却することが可能になったここ2,3年のことだ。
命のゆらぎに耳を澄ませることができ始めたのは。

生命のクオリアをめぐって、
この後書きたいことがいくつかある。

それがゆらいでいることが一番だとしたら。
二番目はそれが世界と共振していることだ。

そして、三番目は、それを感じとる最もふさわしいチャンネルは
運動とからだが一体となった、
原始的な体動チャンネルだろうと思われること。

この三点についてじっくり探究していきたい。

 
                                                       

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