からだの闇を掘る
          


2005年

2005年12月1日


●自分の踊りの創始者になる

自分の踊りの創始者になること。大げさな言葉かも知れないが、他に適当な言葉が見つからない。

Sub-bodyになるということは、そういうことだ。

世界でただひとつしかない踊りを創る。自分の意識で考えて創るのではない。踊りは意識では創れない。

sub-bodyが勝手に動く、その後を追い、捕まえるだけだ。

sub-bodyを解放してやれば、誰のからだも自分独自の仕方で動こうとする。とても独創的な動きが次から次へと出てくる。

誰のからだからも、出てくる。

Sub-bodyのワークショップを続けていて、感動的なのは、誰のからだからもとても独創的な人が出てくるということだ。

だれもそのことに気づいていないだけなのだ。

誰でも、自分独自の踊りの創始者になれるとは、そういうことだ。

そして、自分独自の踊りの創始者になる中ではじめて、私たちは自分自身の全体とひとつになれる。

 

2005年10月26日

●ゆったりする。

静かな場所を選んで楽な姿勢で座る。ゆっくり呼吸しつつ、心身全体をゆったりさせていく。

足を前に投げ出して、はあーっとため息を出すように息を吐き出し、呼吸と共に前後にからだが自然に揺らぎだすのを待つ。

「ゆったりする。ゆったりする……」と口に出して、あるいは心の中でつぶやくといい。

からだが気持ちよく揺らぎだしたら、脳心身が下意識モードに降りてきた証拠だ。さらに吐く息と共に意識を捨てて、よりいっそうゆったりくつろいでいく。

しばらくその状態にたゆたっていると、からだ中にさまざまな感じが漂いだすのを感じるはずだ。

……あまい、心地よい感じや、細胞が緊張から解き放たれて膨らんでいくような感じが感じられ始めたらいい傾向だ。

意識が休まっていくにつれて、感じられる体感や質感の微妙なニュアンスが分かってくる。これらの微細な体感、質感、実感のようなものを総称して、クオリアと呼ぶ。これらのクオリアの発生は私たちの意識が始まるよりも早い時期から生まれてくる。まだ母親の胎内にいるころから、胎児はクオリアを感じ始める。胎内で5ヶ月を過ぎると耳が聴こえ始める。味覚も嗅覚も触覚もまだ分化する以前だ。真っ暗な闇の中から生まれてくるクオリアの海に漂っている。まだ自分が人間であることも知らないころだ。私たちは生まれる前から、皆このクオリア流動によって闇を見る力を持っていたのだ。これをクオリア流動覚とよぶ。

胎内の闇の中から光あふれる外界に出てきた瞬間に、私たちは闇の中でクオリア流によって、世界のすべてを感じ捉えていたことを忘れ始める。まぶしい外界の光とそれに対応する意識が、内部の闇の中の出来事を察知する力を持っていることを気づかなくさせてしまうのだ。

私たちが普段持っている意識は、私たちが意識の下部でこのクオリア流動による世界認識をしていることを分厚い黒雲のように覆い隠している。意識優先の意識状態の下で、クオリア流動覚は無意識の領域に追いやられてしまっている。

●意識という暗雲を脱ぐ

ゆったりして下意識モードに入るとは、このからだの闇の中でうごめいているクオリア流動覚に気づいていく作業である。それは、私たちの世界では早くから催眠と呼ばれてきた。だが、この言葉ほどひどい誤解を生むものはない。下意識状態とは決して眠り込むのではなく、普段の意識では見過ごしている、からだの内部の微細なクオリア流に気づくことのできるより深い覚醒状態に入ることなのだ。

逆説的だが普段の私たちは、意識という催眠にかかり、からだの声が聴こえない鈍い状態に閉じ込められているのだ。

●微細覚を開く

その意識の暗雲を脱ぎ捨てること。ゆったりする、ゆったりするとつぶやきながら、私たちはより深い覚醒状態である<微細覚>と呼ばれる鋭敏な覚醒状態に入る。からだの各部から、それまでの意識状態では気づかなかった極く微細なシグナルが聴こえてきはじめる。

先に述べた甘い快感だけではない。不快感も湧き上がってくる。それは大概、からだとこころのどこかに無理が来ているというメッセージだ。それが何を語ろうとしているのかに耳を澄ます。すぐには分からないことが多い。だが、何日もそれを聴き続けていると、やがて「ああ、そういうことだったのか!」という気づきがからだの底からこみあげてくる。

●自分の全体を感じる

下意識瞑想状態に入ると、実に色々なものがこみ上げてくる。伝統的な瞑想の中では、それらの雑念は、瞑想によって到達するより上位の意識状態に入ることを邪魔する障害物と捕らえられてきた。だが、サブボディ技法では逆である。こみ上げてくる雑念やふとよぎる思い、わけの分からない体感、……それらのすべてを等しく大事にする。すべて自分の全体からの貴重なメッセージなのだ。捨ててしまってはもったいない、それは自分の一部を無視し捨ててしまうことになる。それではせっかく意識を捨てた意味がない。意識によって周縁へ追いやられていたものすべてをもう一度、自分の全体のなかに引き受けてやること。まずこれが一番なにより大事なことなんだ。

 

2005年9月10日

●アンドロメダ星雲――なんだ! あれは?

今日は雨期のインドには珍しく満天の星の夜だった。屋上に出て見上げると、今まで見たこともないほどの星があふれかえっていた。

早速寝椅子にあおのけになって、双眼鏡で星空を探索した。

南の空からまっすぐに天の川が立ち上り、さそり座が見事な尻尾を跳ね上げていた。

しばらく星空を見回しているうち、北のそらのカシオペア座の近くで、突然奇なぼんやりした星が視野に入った。ピントが狂ったのかと思って調節してみたが、周りの星にはピントが合っているのに、その星だけぼんやりぼやけている。“こりゃあ星雲だ。しかも超特大の!”とぴんときた。その位置をようく覚えてから、星の本で調べてみると、案の定アンドロメダ大星雲だった。これまで知識ではお隣の銀河だと知ってはいたが、直接目で見るのは初めてだった。本には293万光年かなたの銀河とある。一番近くの銀河が293万光年なのだ。興奮しながら、このほぼ300万年前にアンドロメダ星雲から発進した光が、今ここに届いているのだと感じてみた。300万年前というと、人類の原人さえまだ現れていない。地球にはまだ、猿人しかいない時代だ。

●ひもの共振について思いめぐらす

アンドロメダ星雲との距離を思い、向こうからこちらを見たらどう見えるのかと離見してみた。アンドロメダ星雲は天の川とほぼ70度くらいの角度で交わっている。すると向こうからもこちらの銀河は70度ほど傾いた楕円形に見えるのだろうか。渦巻きの足がどれほど立派に広がっているか想像してみた。その渦巻きの足のひとつの程よい中間あたりに太陽系がみえるはずだ。よほどすぐれた望遠鏡があれば、俺の姿も300万年後に向こうに届いてキャッチされることだろう。

光について思い巡らすうち、宇宙物理学のひも理論によれば、宇宙のあらゆる物質や力は、振動する極微のひもの共振パターンの変化によってできているということを、実際に感じようとしてみた。

そして、アンドロメダ星雲からの光も、この宇宙に偏在する極微のひもが次から次へと特定の共振を繰り返すことによって、ここまでやってきたのだと、感じようとした。数え切れないひもが300万年もかけて共振してきたのだ。何しろひものサイズときたら、原子核の10の20乗分の一だという。1cmの10億分の一の、10億分の一の、10億分の一の、そのまた100万分の一の大きさだ。

ひも理論によれば、あらゆる素粒子も、重力や電磁力、核力といった力もみな、この極微のひもの共振パターンの違いからなるという。

強く共振しているひもが集まれば夜空の星星になるのだろうし、光のかたちに共振すれば光になる。重力はもっとも単純な共振パターンらしい。

そして、ここから先は俺の想像だが、それらのひもの共振パターンがあるとき奇妙なことに円環をなして自己複製するようになったとき生命が生まれた。

生命の発達の中で、われわれの頭脳の神経細胞の特定の発火パターンに応じたひもの共振パターンが、同時にわれわれが感じているクオリア(物事の質感や体感。赤を見てだれもが赤らしいと感じるもの)を生むようになった。

物理学者たちは、まだ宇宙に存在する4つの力しか対象にしていなが、やがて優れた誰かがこのクオリアを生み出すクオリア力の存在に気づき、この第5の力が考究される時代が来るだろう。それを解くには5000年くらいかかるかもしれないけれど。

●アンドロメダからの光のクオリア

アンドロメダ星雲の光芒を双眼鏡で見ているとき、それが見えているということは、星雲から300万年かけて届いた光に、私の脳細胞が特定の発火パターンでそれを受け止め、刻々とその輝くクオリアを生み出しているということだ。そして、そっと眼を閉じてみる。おぼろげだが同じ映像を思い浮かべることができる。

だが、これは、アンドロメダから直接届いた光に私の脳細胞が共振しているのではない。

すでに私の脳細胞にアンドロメダ星雲に共振するクオリアが生まれ、わたしはそのクオリア画像を見ていることになる。その画像は、自由に変形して渦巻きを想像することもできるし、つい先刻星の本で見たアンドロメダ星雲の鮮明な写真と勝手に入れ替わってしまったりする。双眼鏡で見る画像より、写真のほうがはるかに鮮明で強烈だからだ。これからさき、わたしはこのアンドロメダ星雲のクオリアを感動と共に死ぬまで保ち続けるだろう。そして、どんどん変形されていくだろう。

わたしは、今日はじめて、アンドロメダ星雲からの光と共振した。そして、今日以後、私の中に生まれたアンドロメダ星雲のクオリアを介して、さらに複雑なアンドロメダ星雲との共振関係をうみだしていくようになった。

このように私たちは万物と共振している。私とあなたが今このサイトを通じて共振しているように。

2005年98

これまで、からだの闇を掘る中で分かってきたことは、自分というのは、心でもからだでもなく、また固定したものでもなく、心身が一如になって流動しているものだということだ。そういう流動しているものの全体とひとつになろうとすることがなにより大事だ。

●自分の全体とひとつになる 

座った姿勢で、眼を閉じからだをゆるめて少しゆらぐ。呼吸がからだに回るのを感じてゆらぐ。そうしてゆらいでいる心ともからだとも分かつことができない全体が、じぶんなのだと感じてみる。

(以下、この色で書くことはからだをこの通りに動かしながら読んでみてください。ただ眼と頭で読むより、からだでなぞるとよく分かってもらえます。)

からだの中をさまざまなものが通り流れている。呼吸につれてからだはふくらんだりしぼんだりする。そのゆらぎと共に、血流や体液が流動しているのを感じる。

そしてそれと同時に流れている、かたちなきものがあることに気づく。

それは生命をもっている。というより生命そのものだ。生命のゆらぎに耳を澄ます。

●生命ゆらぎを聴く 

生命はからだのゆらぎと一緒に膨らんだり、萎んだりしつつ、ゆらぎ流動している。

生命は少し調子がいいとくつろぎ、手足を伸ばして動きたいという欲求をふくらませる。そして、少し動いて疲れると休みたくなる。生命はいつもこのふくらみと萎みのリズムを繰り返している。からだの細胞ごとに持っている固有の微細な波動から、各部位ごとのリズム、そして、自分の全体のリズムもある。

意識はこれらのゆったりしたリズムから離れ、意識独自の軽やかさで動きたがるものだが、そういう欲求が出てきてもそっと置いておく。

ここまで、からだを揺らがせずに、ただ眼と頭だけで読んできた人は、このゆったりした文体のリズムに我慢できなくなっているはずだ。あるいはもう読むのをやめてしまった人も多いだろう。意識のリズムと、からだの闇を流れているリズムはまるで別物なのだ。いじいじしている人はぜひゆったりからだを揺らしながら読んでください。するとこの気持ちよいゆったりしたゆらぎに浸ることができる。

からだをゆったり揺らぎに預けて、その気持ちよさを感じる。そして、ただこのゆったりした自分の全体の流れやゆらぎとひとつになることに努める。

自分の全体はいったい何がしたいのだろう? とその流れ揺らいでいるものにたずねてみる。

このゆったり流れている自分の全体からの応えに細心の注意をもって耳を澄ます。

からだからの応えは、言葉で言えば大きく二つの感じに分けられる。ここちよく快適な感じと、鈍重な不快な感じのふたつだ。それがイエスとノーをあらわしている。 

だが、このふたつの大きな傾向の間に、言葉には言い表せない、幾万幾億通りもの微細なニュアンスの差異がある。その微細さは、頭や言葉で捉えようとしても捉えられない。ただからだ全体で虚心に感じ取ろうとすることによってだけ感じ分けることができる。

普段の私たちの意識は、からだの闇から立ち昇る、このような微細な体感のゆらぎや感じのささいな変化を受け取らず、ざっくり大股でまたぎこしている。そしてそれらは下意識の分野に追いやられている。それが現代人特有の意識のありかただ。

この微細なシグナルの差異を受け取り聞き分けられるようになるには、普段の粗大な意識を止める必要がある。

意識を止めると、このからだの闇からの微細なシグナルを微細なニュアンスのまま聞き分けることができるようになる。その特殊な心身状態を<微細覚>と名づけている。

さてもう一度ゆったりしたゆらぎにもどって、からだの中をどんな感じが流れているか、耳を澄ませてみる。

かすかに甘いような気持ちのよい気だるさのようなものが流れているのを感じないだろうか。もしそれが感じられるときは、生命や心身の調子がいいときだ。

またその反対に、どこか不機嫌な嫌な不快感がたちのぼってくるときもある。

言葉で書くと、そういう大雑把な言い方しかできないが、先にも触れたように、このニュアンスには千変万化している微細なニュアンスの差異がある。わたしたちは普段の言語意識の基部に、言葉以前の、物事の微細な質感や体感の差異を聞き分ける原始的な流動覚をもっている。

この言葉以前の質感や体感のことをクオリアと呼ぶ。わたしたちは言葉以前に、実はいつもあらゆるものをこのクオリアの微細な差異と変化を捉え行動している。 

クオリアとは、からだの闇の中で流動し、流通している言語である。だが、その言語は私たちが普段使っている言語とはまるで異なった性質を持っている。

このクオリアの動きの特性を捉えることが、私のからだの闇を掘る作業の大きな一部分を占めている。

わたしたちは、言葉を覚える以前の乳幼児期や、それ以前の母親の胎内にいた胎児期には、このクオリア流動覚だけで、世界を感知し、捉え、心身で反応することを続けていた。

言葉を知らない動物も、このクオリア流動覚だけですべてを判断し、捉え、行動している。

そして実は、言葉を覚えた今も、言語意識の下部では、このクオリア流動覚によって、あらゆるものを経験し、味わい、心身で反応して、大きな生きる方向を決めている。さっきから揺らぎながら触れようとしていたものは、この自分の全体を異貫きながら流れているクオリア流動が示す微細なニュアンスなのだ。

意識は通常この流れを感知していない。意識が働きだすと、その基部で働いているクオリア流動覚による活動は、私たちが下意識や無意識と読んでいる暗い辺縁に追いやられ、見えも気づきもできなくなってしまう。

そして、意識は、すべてが自分が捉え、判断し、行ったことだと了解している。ほんとうは意識は、からだの闇の中のクオリア流動が下した大きな流れを、追認しているだけなのだ。だが、この大きな勘違いの中に意識は眠り続けている。

●意識とは実は眠っている状態なのだ。

日々意識がどんな大きな勘違いをしているかは、先に述べたように意識を止め、からだの闇を流れているクオリア流動の語るものを虚心に聞けるようになればすぐ分かる。

すべてはこのからだの闇の中をゆったり動いている下意識のクオリア流動が判断を下し、方向を決め、足を踏み出して行っているのが分かる。意識はそれをわずかに遅れて認知し、自分が決めたかのように振舞っている。

私たちはすべて、意識優先の日常意識を持つことがさも当たり前のことのように思い込んで生きている。誰も意識を疑わない。だが、それは現代社会の私たち全員が<意識状態>という特殊な状態にそろって囚われてしまっていることをあらわしている。世の中の人全員が囚われているから誰もおかしいと気づかないだけなのだ。

だが、それをおかしいと感じる感性さえ失わさせられているとすれば、恐ろしいことではないか。

からだの闇の中のクオリア流動に気づかない意識優先状態とは、じつはみんなでそろって狭い日常意識という催眠状態にかかっていることなのではないか。

私が数年前、日本を脱出し、インドのヒマラヤの山腹にまで引きこもらなければならなかったのは、日本の社会の中にいれば見えなくなってしまっている巨大なとらわれから、存在ごと身を引き離したかったからだ。

もちろん、当時の私の意識でそれを自覚していたわけではない。すべては私の意識ではなくからだの闇の中をゆったり流れているもう一人の私がそれを決定し、私を突き動かした。

わたしは、そのからだの闇の中でうごめいているもうひとつのからだを、サブボディと名づけた。

意識――――――下意識

コンシャス――――サブコンシャス

ボディ――――――サブボディ

――というわけだが、このからだの闇の中では、サブコンシャスとサボボディは、日常界で意識と身体が画然と別れているようには分かれていない。むしろ心身がひとつとなって流れている、一個二重のプロセスである。この一個二重性は、sub-bodyやクオリア流動の重要な特性のひとつだ。今後じっくりと掘り進めていこう。

200597

●からだの闇

からだの闇を掘る。それが俺の仕事だ。

もう何十年も掘り続けて、俺のからだは竪穴、横穴の坑道が無数に走る、風通しのいい穴だらけのからだになった。

どこまで掘ってもからだの闇はいまだに底知れず深い。

だが、闇の中でからだの闇をむしって食べる俺なりのやり方も多少は身につけた。

今日から、このからだの闇を掘る作業を書き記していこう。

俺のほかにこんな作業に興味を持つ人がいるかどうかは知れない。そういう人が現れるのは5000年くらい先かもしれない。その人に,これを届ける。

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わたしはからだの闇の探鉱夫だ。長年掘り続けていると、いつのまにか穴だらけのからだになった。
日本で、ベネズエラで、ハンガリーで、タイで、世界中で掘り続けた。私はなおも掘り続けるだろう。
体全部が透明になるまで掘り続けるつもりだ。
           リゾーム Lee

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