からだの闇を掘る
| からだの闇を掘る |
| 2007年8月 |
| 40億歳の命として |
| 2007年7月 |
| 素っ裸で踊ってきたさ |
| 非二元かつ多次元 |
| からだの闇の精密な地図 |
| 振り付けとは何か |
| 振り付けと即興の関係 |
| 元型の二面性 |
| 多次元でゆらぐからだ |
| 40億年の命として |
| 2007年6月 |
| からだの闇に棲む人たち |
| からだの闇の音像流 |
| 無意識と下意識 |
| とてつもなく深い静けさ |
| 命になりこむための静けさ |
| 自我の終焉 |
| 命にふける |
| 2007年5月 |
| 2007年4月 |
| 2007年3月 |
| 2006年11-12月 |
| 2006年9-10月 |
| 2006年1-8月 |
| 2005年 |
| サブボディメソッド |
| 生命論2011 |
| クオリア論2010 |
| 透明論2009 |
| 肯定論2008 |
| 共振論2007 |
| 舞踏論2006 |
| 透明論 2005 |
| 実技ガイド |
| 共振タッチ技法 |
| 図解ツアー |
| キーワードツアー |
| サブボディ学校ジャーナル |
| リゾーム Leeの 探究坑道地図 |
| からだの闇を掘る |
| リゾーム Leeのからだの闇探究のメイン坑道 |
ヒマラヤ共振日記 |
| 共振という観点から、世界をあるがままに捉えなおす。共振したものはなんでも記述していく日記。 |
| 多重人格日記 |
| リゾーム Leeの多重人格=解離性人格障害を創造に生かしていこうとする深部坑道 |
| サブボディ舞踏スクール ヒマラヤ ホームページ |
| RSS FEED |
|
←BACK ■ NEXT→ |
| 2007年8月 |
2007年8月4日 ●40億歳の命として 一週間の授業が終わり、 週末のサブボディ=コーボディシアターも終わって、 生徒と一緒に露天風呂に入った後は、 屋上のハンモックにからだをゆだねてまどろむ。 毎週もっともくつろげる時間だ。 そして、まどろみながら、いつものように命にたずねる。 一番したいことはなにか? それも、40億歳の命として何が一番したいか、と問う。 これがここヒマラヤに来て見つけたもっともよい問いだ。 40億年の中では、60年の個人的生など瞬間のしゅの字にもならない 。 この瞬間的な生として、何を発明し、生命にどんな貢献ができるか 、を問う。 重要なのはそのことなのだ。 それに比べれば他のことは何ほどでもない。 上の問いが最もよい問いであることは、 最もよい答えが返ってくることから分かる。 わたしの命は、二念なく、 生命共振への気づきに人を産婆すること、 これが最もやりたいことだと答えてきた。 共振塾の授業も、来週から開くことに決めた サブボディ=コーボディシアターの公演なども いかにこの多次元の生命共振の実相を 人に伝えていくことができているか、 という観点から見通すことが大事だ。 それ以外の余計なことは、 どうでもよいこととして扱えばよい。 60年の瞬間のわたしの自我がどうだとかということは、 実際どうでもよい余計なことにすぎない。 だが、いったいなんと長い間 この余計などうでもよいものに囚われてきたことか。 |
| 2007年7月 |
| Fever三部作 リゾーム Lee |
| 上のビデオをクリックすると、拡大画面で見ることができます。 |
| 2007年7月25日 ●素っ裸で踊ってきたさ ブロードバンドがようやくつながるようになったので、 昔世界を踊り歩いていた頃のビデオを編集して アップロードした。 伝染熱(infectious Fever) 死者熱 (Dead Fever) 暗黒熱 (Black Fever) のフィーバー三部作だ。 1998年から2002年にかけて、京都、大阪で踊り、バンコク、チェンマイ、ダラムサラ、パリ、ストラスブール、アムステルダム、ブダペスト、ルーマニア、ユーゴスラビア、スロバキア、ベネズエラ、アメリカで踊った。 わたしではない。わたしの中の反戦闘争で死んだ友人が、 アウシュビッツや南京、ベトナムの死者と共振して踊った。 わたしは涙を流しながら、死んだ友人とひとつになった。 素っ裸で踊ることはすがすがしい。 自分の中の脳みそやはらわたの状態や、 性器の縮み具合さえ透明に見せて踊った。 それは、からだを死者に貸し出すことと同様に、 とても、すがすがしくすっからかんになれた、 生涯に二度とあるか、あるまいかの、ことだった。 |
| 2007年7月18日 ●非二元かつ多次元 からだの闇のサブボディの世界の特徴は、 非二元かつ多次元である点だ。 非二元というのは、上下、内外、自他、心身、類個などの 二元的な区別がないということだ。 多次元というのは、同時に無数の要素が 多次元的に共振しあっている超高次空間である点だ。 これに似た世界は日常世界には、 なかなかないので理解されにくい。 かろうじて似ているのが夢の世界だ。 ひとつの夢はいつのまにか、別の夢に変わってゆく。 その変わり行くさまを綿密に観察すると、 夢の世界では、無数のクオリアが多次元的に共振し合っていて、 そのうち、どれかの要素が前面に出てくることによって 次元が転換していくことが分かる。 <異次元開畳>というサブボディメソッド独特の 転換理論は、サブボディ世界に起こる転換が、 夢の世界同様に ひとつの次元で共振している多数のクオリアのうち 目立たなかったひとつのクオリアが増幅されていくことによって 、 いつのまにか異次元が開畳してくる事からくる。 サブボディ界での転換は、日常界での転換とは質が違うのだ。 この非二元かつ多次元という特性を押さえると、 それまでつかむにも手がかりのなかったからだの闇に、 一筋の光明が差し込んでくる。 同様の世界を探索していても、ケン・ウィルパーのように、 非二元かつ多次元という実相をありのままに捉えることができず、 そこに日常世界同様の階層秩序(ヒエラルヒー)を持ちこんで 捉えようとするような失策をしてしまう人が多い。 自分が囚われている日常界の観念を投射して、 未知の世界を理解したつもりになることほど こっけいなことはない。 スピリチュアルというはやり文句には、すでに 現実の日常世界の上に、尊い世界がいるという プラトニズムやキリスト教を捉えた手ごわい元型に囚われている。 その先は現代の神学の世界だ。 だが、プラトニズムやキリスト教を捉えた、 いと高きイデアの世界があるという元型の力はあまりに強い。 無数の人がその元型に囚われてきた。 ウィルパーもその元型に囚われたまま、元型との対決を避けた。 ヘーゲル同様、自分だけの観念の殿堂を 築き上げる快感に抵抗できなかったのだ。 だが、スピリットやたましいの世界に上下秩序があるなどという人のことは 信用しないほうがよい。 そういうひとは、この世界の既成概念に囚われたまま、 その世界に既成概念を持ち込んでいる人だから。 生命やサブボディが棲む、 非二元かつ多次元という独特の世界を捉えるために、 透明な目を鍛えつづけなければならない。 |
| 2007年7月17日 ●からだの闇の精密な地図 振り付けと即興の関係についてときどき質問を受ける。 わたしにとってもこの二つの関係は長い間の謎だった。 どちらも好きだった。 あれかこれかという問題のたて方をしていた間は この謎を解く鍵はみつからなかった。 そう、この両者はとても複雑な 多次元的な関係を持っていたのだ。 ●振り付けとは何か 一般の人は、振り付けとは踊りの動き方を固定したものだ という捉え方をしているだろう。 だが、サブボディ・メソッドにおける振り付けとは まったくそんなものではない。 そもそも、踊りの振り付けは、自分の意識でつくるものという 根源的な誤解に囚われている。 わたしも長い間そうだった。 だが、踊りをつくるのは自分の意識ではない。 おどりは下意識のからだ、サブボディさんが 勝手に生み出すものだ。 意識はそれに驚きたじたじとしながら、 忘れまいと必死で追いすがることができるに過ぎない。 サブボディの踊りの振り付けとは、 からだの闇にどこをどうたどって入っていけば、 からだがどんな状態になり、そのときどんな人が踊りだすか、 という精密な地図なのだ。 だから、調体と呼んでいる からだのコンディショニング(調整法)から、 探体=からだの闇の坑道をどう掘り進め、どう探り出したか、 創体=実際の踊りを創る段階までのからだの流れを そっくり保存し、精密に固定することで そのプロセスを精確にたどりさえすればいつでも 同じからだの状態になり、 おなじ人が出てきて同じ踊りをしてくれる、というものだ。 サブボディには、原生的な下等生物的な動きをする <原生体>の系統や、 からだの闇に封印されているサブ人格や、影、not-meなどの <異貌体>の系統、 他の人やいきものが勝手に入ってくる<憑依体>の系統など さまざまな系統がある。 これらの系統のいずれにせよ、みなそれぞれの 手続きと精確なプロセスをたどることで からだに呼び出せるようになる。 その呼び出し方が振り付けなのだ。 だから、動きの道筋だけではなく、 その人たちの呼び出し方ともいえる調体がとても大切になる。 からだの闇の不可視の多次元空間に、少しずつ坑道を掘り進め、 さまざまな十体を呼び出す精密な地図を作っていくこと。 これが自全の探索である。 そのうち穴だらけのからだになることは間違いがない。 無数の分身たちへの坑道が縦横に走りぬける。 風通しがよくて、とてもすがすがしいものだ。 なれれば、さっとひとつの十体ボタンを押せば、 すぐそのからだに変成できるようになる。 たとえばわたしの<侏儒体>という小人のからだは 次のような分身坑道をたどって呼び出す。 1.ちょっと内気な気持ちになる 2.首をすくめていく 3.斜め上下に目を素早く動かす 4.さらに背骨を小さくすくめる 4.タイの山岳民の友達の顔を思い出す 5.いいたいことがたまって口が歪む 6.よちよちと用心しながら手を差し出す 7.これでできあがり。 このあと、この侏儒が登場する作品によって、 さまざまな動き方の違いがあるがそれは省略する。 ことばで書けない微妙な心身のコントロールが、 これ以外にかなり占めているが、 書ける分だけ紹介すればこんなものだ。 何十度もたどった坑道だから、間違える余地はない。 必ず、同じやつが出てきてくれる。 これがサブボディの振り付けだ。 ●振り付けと即興の関係 つぎに即興だ。 一度見つけた十体は、いろいろな異なる状況場で踊るとよい。 違った場で同じ振り付けの分身坑道をたどって、場と即興する。 新しい場の要素と即興するたびに、徐々にその十体サブボディが 多彩に肉付けされ、生長していく。 そういう生長を経てはじめて、その振り付けのサブボディが きみのからだの闇に棲む盟友となる。 盟友となったサブボディは、 ことあるたびにきみを助けてくれるだろう。 わたしは十年前に創り、各国で百回以上公演した <伝染熱>というサブボディさんに、その後幾度助けられたか 数え切れないほどだ。 メソッドづくりや、練習法、学校経営などに行き詰ったとき、 いつも貴重なヒントをくれて、意外な道が拓けた。 即興で踊るとき、ときどきとんでもない面白いやつが 躍り出てくるときがある。 だが、即興だけだと、そいつにこんどまたいつ会えるか保障がない。 そんなとき、調体-探体-創体のプロセスを含めて、精密な振り付けを作っておくと、いつでも再会できる友となる。 逢瀬を重ねるごとにその友はきみのかけがえのない親友に育っていく。 わたしの経験では人生でこれほど神秘的で驚きに満ちた豊かな出来事は またとないことだった。 |
| 2007年7月14日 ●元型の二面性 からだの闇にはおびただしい元型が棲んでいる。 至るところに無数の元型パターンが待ち受けている。 元型は、ユングによれば、われわれが遺伝によって継承している <集合的無意識>の内容である。 『未開人の思惟』を研究したレヴィ・ブリュルはそれを<集団表象>と呼んだ。 吉本隆明は『共同幻想論』で、<共同幻想>と名づけた。 影、アニマ、アニムス、ペルソナ、などがもっとも典型的な元型だ。 だが、元型は深い誤解に包まれてきた。 注意深くユングの言葉を引用しよう。 「集合的無意識は個々人において発達するのではなく、遺伝していく。 それは存在に先んじる形式であるいくつもの元型から成り立っている。」 「元型は神話的なイメージやモチーフそのものとしてよく誤解されてきたが、 そのような具体的なものではなく、 それらのモチーフやイメージを形作る傾向である。」 「元型は、ア・プリオリに存在している。意識は元型に魅了され、 まるで催眠にかけられたかのようにその虜になってしまう。」 「元型の支配下に落ちた人間は必ず悪の餌食にならざるを得ない。」 (C.G.ユング『元型論』ほか) 元型は強力な二面性を持つ。 元型はまず、励まし、力づける。 元型に出会うと、まず、一定のパターンの中に誘い込まれ、 一挙に世界=自己イメージがふくらむ。 なんだ、こうすれば簡単じゃないか! 生命が何度もたどってきた道筋だ。 安定しているに決まっている。 だが、同時にそのパターンの中に閉じこめられる。 安易にその道に入ることができる。だが、安易には出られない。 人はそのようにして元型に出会い、元型に食われる。 元型はつねに促進と規制という二側面を持つ。 なぜ、元型のようなものが生まれてきたのか。 生命史を振り返ってみよう。 生命はその発生以来、40億年の歴史の中で、 実にさまざまな状況に出遭い、 そのつど、無数の対応様式を創発し、生を持続してきた。 生命はその原生力ともいうべき、生きていこうとする傾向、 生存衝動、生への欲動としてのエロス、リビドー、各種欲望を持つ。 それらは同時に無数の発現パターンとしての元型をもあわせ持っている。 生命は、いわば、それを推進するエネルギーとしての原生力と、 その発現のノウハウとしての元型力とが一個二重となった、 原元二重のクオリアを遺伝してきているのである。 エゴやペルソナ、影、アニマ、アニムス、精神、スピリッツ、…… ユングは主に自己像の元型に注目して研究したが、 元型は生命が発現するあらゆるチャンネルに現れる。 ――それは、この間さまざまな元型に囚われた日常体の心身を 脱ぐことことからはじめる、 共振塾の実践のなかで必然的に見出されてきた。 自己像元型だけではなく、世界像にも元型が存在する。 あらゆる神話や民話は、 天国や地獄、動乱や洪水という世界像元型を持つ。 神や仏や、英雄、被虐者という自己像元型は 絶えずそれらの世界像元型と一体になっている。 感情チャンネルにも元型がある。 喜怒哀楽は感情の元型である。 日常体はそれらの感情元型に囚われている。 自分は怒っているとか、悲しんでいるとかの感情に囚われて疑問にも感じない。 だが、日常体を脱げば、喜びと怒りの間、怒りと悲しみの間に無数の諧調があり、 その微細な変容流動ゆらぎを味わうことができる。 思考チャンネルは分節言語と、二項論理という思考元型に囚われている。 言語だけをを使って考えることに囚われると、 上下、内外、貴賎、美醜という二項が存在するという 妄想から出ることができない。 そういう二項の区別がない、多次元にゆらぐクオリアを じかに感じ取ることができなくなる。 だが、日常体のもっとも深い囚われは、<自我>だ。 人々は自己同一性(アイデンテティ)をもつという幻想、 ひとつの自我、ひとつの人格をもつという妄想に囚われている。 世界中の先進国のひとがそろってこれに囚われているので 誰も疑問にさえ感じない。 「元型の支配下に落ちた人間は必ず悪の餌食になる」 というユングの予言を思い出そう。 現在の自我に囚われた人間が、フーコーの言うように 人々の生産的生活を促進すると同時に人々をそこに閉じ込める国家を支える 臣民的自我として訓育されている。 それらの人々が、国家が起こす戦争で他国の人々を殺戮することを 疑問に思わないという今日の姿は、 まさしく人間が悪の餌食となっていることをし召して余りある。 もし、人々が創造的な生を求めるとすれば、 あらゆる元型にぶつかり、死に物狂いで 元型の支配から脱することが必要となる。 とりわけ、自我と国家という最大の元型を脱がなければならない。 それは、この道を歩く人が陥りやすい、魂やスピリチュアルという 現代的な元型を脱がなければならないことと同様の課題である。 自我や人格や国家や魂が幻想であり、 われらを捕らえる元型であることは、 からだの闇に潜ってみれば一目瞭然に分かることだ。 私たちは自己同一性をもった自我や人格などではなく、 多次元をゆらぐもっととりとめないものだ。 生命はただ共振をもとめてゆらいでいる。 そのとき国家や宗教など、どこに成立する余地があるのか? |
2007年7月9日 ●多次元でゆらぐからだ 命は常にあらゆるものと共振している。 何も人間の命でなくともよい。 アメーバでもバクテリアでも、 命はいやおうなく、重力、光、空気、水、音、他の物質、 記憶、内的クオリア、……と一挙同時に共振している。 その共振の全貌は、おどろくほど複雑な多次元さだ。 現実的な物質やエネルギーは4次元時空に属するが、 記憶や内クオリアは4次元時空に属さない。 それらは4次元時空とは異なる微細多次元で共振しているのだ。 これが手に負えない複雑さの元凶だ。 11次元のひも理論を解かねば、命は解けない。 それには500年かかるだろう。 5000年かもしれない。 それを待つ時間はわたしたちにはない。 命は時空を超えたクオリアと共振している。 そのことにどう向き合えるのか? 思考では間に合わないとしたら? 思考ではないやりかたで命へ接近する道を発明すればいいのだ。 頭ではなくからだで命になりこむという方法だ。 それが今のわたしたちにとってもっともよい命に触れる道だ。 命は無数のクオリアと多次元で共振しゆらいでいる。 ――これが命のあるがままのありかただ。 このあるがままにできるだけ沿ったからだに変成すること。 それがサブボディの課題だ。 これまでに見出された異界ゆらぎや、 リゾーミング・テクニックなどを統合して 多次元でゆらぐからだへの生成変化の 坑道を掘るのがこれからの仕事だ。 そのためには、4次元時空に縛り付けられた日常体を どう解き放つか、という課題から始めなくてはならない。 昔、ダニエル・C・デネットの『解明される意識』(1998)を読ん だとき、彼が提唱する「意識の多元的草稿」(multiple drafts) モデルはごく当たり前のこととして受け入れることができた。 脳そのものには中心はなく、意識は創発的な現象であって、 か弱い回路が多数集まってできる分散型ネットワークから生じる。 言語の草稿は同時に何通りも存在しており、 意識はあるものを選びあるものを抑制する。……云々。 いまでは、デネットのいう言語の多次元草稿は、 その下部で命が行 っているクオリア共振の変容流動そのものから、生起してくるものであることが透明に見えてきた。 4次元時空を超えた、多次元時空で命がゆらいでいるさまを 透明に透かし見せることのできるからだ、これが透明体だ。 透明体に至るには、多次元揺動体を身に着けることが必須だ。 つまり、 「 異界ゆらぎ、リゾーミング調体 ↓ 多次元でゆらぐからだ(多次元揺動体) ↓ 透明体 」 こういう変成のリップル(さざなみ的変化)が想定される。 うまく整理されていないが、リゾーム世界とはこんなものだ。 整理した途端、嘘に転化する。 いつも自分のことばにさえ裏切られないよう 用心しておかなければならない。 美しい整合性はツリーの罠。 たえずそこから逃げ続けるのがリゾームになる極意だ。 わたしの意識はまだまだ見かけ上の美しさに囚われすぎる。 |
2007年7月6日 ●40億年の命として 命を透明に、囚われなく見通そうとするには、 世俗的な狭い事情に囚われた 日常のスケールとは違った尺度で考えることが重要だ。 まず、時間的な尺度を変えてみること。 一ヶ月の授業が終わった後はいつも、 屋上のハンモックで一眠りして、 40億年の命になり、自分を振りかえる。 40億歳の命として、なお、同じことをわたしは し続けるだろうか、と。 然り! と答えられるときは幸せだ。 たかだかヒマラヤの山村の舞踏学校だが、 生命共振を学べるのは世界でここだけだ。 人類史に確実にこれまでにないものを付け加えている。 いや、生命共振は40億年の昔からあった。 今の人間が忘れているだけだ。 生命共振の大事さを、一人でも多くの人に伝えること。 40億歳の命としても、これならやりがいがある。 人類が今日のような生命共振を忘れた 意識優先の意識に囚われ出してから、 まだたかだか二、三百年に過ぎない。 近代文明にまだ侵されていない山奥の少数山岳民の部落を訪れれば かれらがまだ生命共振豊かな驚くほど透き通った心を持っていることで、それが分かる。 フーコーが言う、人間が人間という近代西洋型の観念に囚われだしたのと、それは機を一にしている。 人類が国家のような余分なものを作り出してしまったのも たかだかここ五千年のことに過ぎない。 人類がチンパンジーと分かれてからの五百万年の歴史に比べれば 0.1パーセントの瞬間に過ぎない。 ホモ・サピエンスが新石器革命を起こした五万年前からでも 国家を持ったのはここ一割の時間に過ぎない。 その観点から見れば、国家も近代的な自我も 少し立てば消え去るものであることがよく分かる。 そんなものに囚われて生きるのは馬鹿らしいことも。 時間だけではなく、 空間的な尺度を変えて考えることも大切だ。 人間のからだは60兆の細胞からなる。 その一つ一つにそれぞれの命がある。 それらの細胞になりこんで命を考えること。 それぞれ細胞には意識や自我はなくても 他の生き物同様生きようとする傾向性をもっている。 そこに命の生きようとする傾向性を感じ取ること。 脳心身全体で、その細胞になりこむこと。 そういうところから捉えないと命には届かない。 頭で考えるのではなく、からだでなりこんで思考するのだ。 細胞よりさらにサイズを縮めて 一挙にひもレベルまで降りてみる。 1mのマイナス33乗というプランク長さの空間で ひもは共振している。 命とはそのひもの一連の共振連鎖が、自己をどこまでも 持続し創発し続けようとする傾向性をもったときに発生した。 命のもつ生きようとする傾向性は、 そのひもの一連の共振連鎖がもった傾向性に基づいている。 そこまで降りないと命についてはつかめない。 そういう微細レベルでも生きようとする傾向性が存在する。 命とは何か。 命とは40億年前に、ひもの一連の共振連鎖が 生き続けようとしだしたときに始まり、 無数の生物種に分化しながら今日まで続いている 40億年間生き続けてきたものなのだ。 人間も含めて生物の個体とは、 40億年の命がその歴史を通じてとり続けてきた 瞬間のかりそめのかたちに他ならない。 命を担う個体の姿はどんどん変わる。 われわれもまた、その一環に他ならない。 個体として、この巨大な命の潮流に 何を付け加えることができるのか、という観点から 自分の人生を振り返ることだ。 何が大事で何がどうでもいいことか 透き通って見え出すだろう。 |
| 2007年6月 |
| 2007年6月28日 ●からだの闇に棲む人たち 誰のからだの闇にもいろんな生き物が棲んでいる。 アメーバやクラゲになりたい衝動は誰にもある。 サブキャラクターも無数に封印されている。 死者さえ棲みついている。 それを引き出してやれるからだになれば いつだって出てくる。 アウシュビッツや南京の硬直した死者のからだは、 もう幾万回もわたしのからだを通って出てきた。 死んだ山崎や辻はわたしの踊りのほとんど主人公だ。 ブダペストのダウン症児、デリーの道端の瀕死の男、 バンコクの市場の人ごみの地べたを這う不具者、 そういう人らをからだの闇に飼い始めてもう十年以上になる。 私が舞踏を始めてから、心のそこで決めたことがある。 それは、世界中の死者、狂者、病者、障害者、犯罪者など、 近代社会の正常枠から放逐されてしまった人々と 共振して踊るということだった。 1960年の反安保闘争の死者、 1970年代の反戦闘争の死者、 第二次大戦の死者、 アウシュビッツの死者、 南京大虐殺の死者、 滅ぼされていく先住民の死者、 などなど、行く先々で多くの死者に出会い、 人間のさまざまな死にざま、殺されざまと共振し、交感した。 そういう踊りは写真やビデオにはなりにくい。 だが、片鱗だけはたまに写ることもある。 写真に現われた片鱗だけを感じ取ってもらえれば幸いだ。 |
2007年6月17日 ●からだの闇の音像流 からだの闇にはサブボディだけではなく、 とてつもなく自由な音像流が詰まっている。 その開き方がだいぶ分かってきた。 そしてその音像流がとても共振しやすいことも分かってきた。 今月に入って、音像共振の実験が俄然面白くなってきた。 まずは、つぎのように準備する。 体底呼吸をしながら喉の緊張を取る。 わたしたちの日常体はいつも<人間の声>を 出さなければならないという無意識の緊張にある。 まずそれをほぐすのだ。 はあっとため息を出すような具合に、喉の日常的緊張を解く。 そして、からだから自然に出てくる音に従い、それに乗り込み、増幅していく。 からだが、人間の声以外の音声も出してもいいことを思い出すと、なににも囚われないでたらめな音像流が次から次へと勝手に出てくる。 それをただ楽しむ。 からだを動かすとそれに連れて出てくる音も変わる。 めいめいに床を転がりながらサブボイスを楽しむ。 いつのまにか、それぞれの音像が共振していることに気づく。 シベリアのシャーマンや、アフリカのピグミーソングや、ソロモン諸島の音楽など、ワールドミュージックの世界を渉猟していると、近代音楽の世界の外側に、12階音階や西洋音楽理論に囚われない豊かな音像の世界が無限に広がっていることを知った。 その音楽の原理は自然な生命共振だ。 わたしたちの下意識のからだの闇の中には、 誰の闇にもそれらシベリアやソロモンの音楽につながる 自由な音像流が詰まっている。 これはサブボディボイスというより、 ライフソングと呼ぶのがふさわしいかもしれない。 いずれにせよ、近代西洋音楽とは根本的に別の、 もうひとつの音楽世界だ。 今わたしたちはその世界の開きかたを発見しつつある。 難しいことは何もない。 自我意識を止め、音階理論などを大胆に無視し、 心地よく生命のうごめきに付き従うだけでいい。 私自身の音像チャンネルは、 ごく最近までうまく開いていなかったので、立ち遅れていたが、 促せば生徒の多くがすぐに反応できることが分かった。 もちろんかつてのわたしのように、 音像チャンネルが開けない生徒も一定程度いつもいる。 これもなぜ人によって音像チャンネルが閉じているのか、 そして、いかにそれを開くことができるのか、 深い謎を解くよい素材になる。 もともと、わたしたちの下意識領域のからだの闇が、 不思議なつながりをもっていることに気づいたことから サブボディ=コーボディメソッドを追及してきた。 それが、ここにきてさまざまなチャンネルを超えて、 サブボディの動きと体感と声と情動と世界像=自己像が 共振しあうことが分かってきた。 もともとサブボディとは下意識から立ち上ってくる動きを 捉え、それに乗り込んでいくものだが、 サブボディの動きと下意識から自動的に立ち上ってくるサブボイス、あるいはライフソングはとても共振しやすい。 からだの闇にはどうしてこんなに面白い興味深いものが いっぱい詰まっているのだろう。 この解き方がじょじょにわかって来ると、 楽しさがとまらない。 |
| 2007年6月10日 ●無意識と下意識 無意識ということばをわたしは極力使わない。 それは意識優先の意識を強いられてきた近代西洋型の意識にとってだけ成立する現象だからである。 フロイドやユングによって、無意識と呼ばれている領域は、意識優先の日常意識にとっては、完全に交通不能の不透明な闇の中にあるが、 日常意識にとって当たり前になっている意識優先の意識を瞑想や自己催眠の技法によって可能な限り鎮め、意識と下意識が半々に釣り合うほどにまで意識レベルを落とすと、意識と下意識を隔てていた不透明な膜が徐々に透明化してくる。 かすかなかすかな下意識で生命が感じているクオリアがすべて透き通って感じられるようになってくる。 このとき、それを無意識といってしまうと、完全に意識できないものというニュアンスが強いため、適当な用語ではなくなる。 そこで、これも不適当には違いないが、下意識という用語のほうを多用する。こちらのほうがまだ、到達可能なニュアンスが含まれているからだ。 じっさい、無意識が強大なものとして問題になってきたのは近代西洋社会であり、そこで、意識優先の意識のみがひとびとに強いられてきたからだ。24時間鮮明な意識状態を保つこと。それができないと人でないと見下されさえする。ヨーロッパの地下鉄で居眠りする人がいないのはその強い社会的規範のせいだ。 だが、東洋ではそういう強い社会規範はない。あってもゆるい。あっても学校や企業などの表向きの生活領域でのみ強調される。その外側の電車や公園で眠りこけ、いっぱい飲み屋で気を緩め、銭湯に入ってからだも緩める。これが日本社会の構造だ。 タイやミヤンマーではさらに仏教寺院でひとびとは眠りこける。 意識優先の意識よりも、かなり下意識の側に広がった心的領域で生きている。これはアジアの山岳地帯の文明社会から隔たって生きている少数山岳民の部落へ行くと、もっと下意識領域が豊かに膨らんだ心身生活を送っていることがわかる。 そこでは、下意識はたんなる心的領域にとどまらず、心身状態となる。下意識とからだとが未分化な、サブボディ状態で生きている状態に触れることさえできる。 近代西洋で成立した意識と無意識という分別は、近代西洋化した現代社会でしか成り立たない。世界の民衆は西洋型知性からは不可視のもっとひろい心身状態で生きている。 意識状態が当たり前と思っているから、山岳民らのサブボディに触れたとしてもそれが見えるとは限らない。 こういうわたしもまた、西洋哲学や思想の強い影響下で自己形成してきたから、サブボディの存在に気づいたのもごく最近だ。十年に満たない。 今週の一週間の命になりこむ瞑想によって、わたしはわたしの初心とも言うべき、静寂体の大事さに思い至った。 静まり返らないと何も始まらない。 この6月からはじまる長期コースでは、じっくりと静まり返ることからはじめよう。 それが命になりこむ瞑想の直接の成果として受け止めよう。 本当は命とクオリアをめぐってもなにか新しいものをつかみかけているのだが、それをことばにする道が見つからない。わたしの知るどんなことばを使っても書き切れない何事かなのだ。これについてはまだしばらくことば以前のクオリアを感じることのなかに漂うしかないと思う。 ことばで説明することはできなくても、生徒と一緒にからだの変容プロセスをたどり共有することはできる。 わたしは言葉でも踊りのパフォーマンスでも伝えられないものを 伝えたくてこのヒマラヤでの学校という生き方を発明したのだ。 |
| 2007年6月9日 ●とてつもなく深い静けさ 今週の命にふける試みで分かったことは、 命のゆらぎが聴こえるまでに耳を澄ますことができるためには、 従来考えていた以上の、とてもつもなく桁違いの静けさが 必要とされるということだ。 もともとわたしがサブボディメソッドを からだの闇から掘り出してきたのは ずっとたった一人の作業を通じてだった。 そこで、対人関係的な配慮や、日常的な思考など 人間が日常的に行っていることすべてをいったん 止めないと命には届かない。 数字で言うことなど不可能だが、あえて言うとすれば 日常の意識活動にくらべて何千万倍も静まった状態になることが 必要なのだ。 それくらい桁違いの静けさが要る。 思考したとたん何千万ものニューロンが同時に連結発火する。 大脳のそのざわめきを最低限まで鎮めねばならない。 修行の中でそばに人がいるとまったくだめになったのは そういうことだったのだ。 かつてハイデガーが『存在と時間』で、 日常の人間は身の回りのものへの配慮(Zorge)の 中に捉えられていると喝破したのはそのことだった。 周りへの配慮は日常体にとって あまりに当たり前だから内視盲点になっている。 この人間的に当たり前とさえ信じられている <配慮>さえ脱ぎ捨てる必要がある。 ひとりになり、日常的な思考を止めて、 自分が人間であることも忘れて ただの透き通った耳になる。 そのときにだけ命のかすかな営みに触れることができる。 命がかすかにさまざまなクオリアと共振しているゆらぎが聴こえてくる。 来週の授業はまずこの静けさに達することからはじめよう。 これまでにない授業の次元への取っ掛かりがやっとつかめてきた。 |
2007年6月8日 ●命になりこむための静けさ からだとこころをもっとも静かなレベルにまで鎮める。 命になりこもうとすれば、人間としての心身のざわめきを 可能な限り抑えなければならない。 思考だの周りの人への社会的配慮だのが働いている限りだめだ。 ここ数日の試みでそれが分かってきた。 だが、もう今日が最後だ。 もう夏学期の生徒がぼちぼち到着し始めた。 すると、もう彼らへのオリエンテーションや諸手続きで 忙殺される。今月の授業予定もサブボディさんはすでに 創り始めている。 明け方のサブボディさんからは、来月からの 長期コースに向けてのアイデアが次々と出てくる。 朝の調体をリゾーミング技法ではじめようとか、 二ヶ月目に入った生徒には朝の調体のリードを任せてみようとか、 サブボディと、コーボディと同様、 サブボイスと、コーボイスを創る可能性とか、 サブアートの中に、世界自己チャンネルを開いて入っていく方法と か、 いきなり世界像と自己像のギャップの感覚を動いてみるとか、 これまでにない新しい実験への示唆がどんどん出てきている。 それらのサブボディの自発的な予行演習をもすべて沈静化しないと 命になりこむことはできない。 何か具体的なことをめぐる想念が起こると、その力は強いので 命聴く作業はマスキングされて不可能になる。 おそらく今回は今日が最後のチャンスだ。 横たわって、原初の単細胞になりこむ。 からだ中の各部の緊張と想念を完全に鎮め、 ただ重力に身を任せている生命体となる。 ――昨日今日とこれに取り組もうとしたが、もう時間を越えたらしい。 命になりこもうとしても、 サブボディは、休むことなく、来週からの授業計画を どんどん進めていく。 こうなるともう下意識レベルから脳が騒がしくなって、 命になりこむことは不可能だ。 今週の前半の静けさはもう掻き消えてしまった。 来週からは、半年コースの生徒、3ヶ月コースの生徒、 2ヶ月コースの生徒、1ヶ月コースの生徒と、 期間の異なる生徒が混在するので、 よほどうまく計画していかないと、 全体への目が配れない。 サブボディさんはそれを見越して、 (命へのなりこみは、べつの機会にしなさい)と告げている。 わたしは、命へのなりこみの試みをあきらめた。 サブボディさんの言うとおりだ。 わたしの営みは、まず、 自分でからだの闇にもぐる実験が土台になっている。 そこでなにかをつかめたら、この「から闇」に書く。 そして、つぎはその体験を他の人とも共有できる道を授業で探る。 授業はいつも自分で体験したことを、どうすれば他の人も 体験できるかの方法を見出す実験である。 その模様は「共振塾ジャーナル」に書いている。 このサイクルが回っているのがいい状態だ。 命になりこむ試みは、まだ自分でも完遂していないのだから 生徒と共有できるタイミングはもう少し後になる。 サブボディさんは、その時を待てと告げたのだ。 だが、 自分で掴んでいるかいないか、ぎりぎりのところが 自分では一番興味がある領域なので、 ときどき授業でも行き先が未知のまま実験することもある。 そういう中から新しい発見が生まれることもある。 そういえば、未知の課題に挑戦したときほど、 予期せぬ発見が転がり出ることが多い。 今回もわたしの中の冒険好きの実験屋は、 表人格の隙を見て、命になりこむ授業を進めようとするかも知れない。 授業のなかでどうすれば命のゆらぎに耳を澄ますことのできる 極限的な静けさを実現できるか。 膨大なざわめきに満ちた日常世界からヒマラヤにやってきた 生徒がその静けさを身にまとえるまでに何週間かかるか。 大きな課題だ。 これまでも、ときどきこうして、解離された分身たちも 授業に割り込んできていたのかも知れない。 すると、わたしもまた、授業を通じて自全との交通を図っていたのだ。 生徒は覚悟しておいてほしい。 どこへ転ぶか分からない。 何が飛び出してくるか不明。 分かりきったことではなく、 まだよく分からないことに取り組む。 これが、リアルタイム即興授業の醍醐味なのだ。 |
| 2007年6月7日 ●自我の終焉 自我が終焉したがっている。 生命ゆらぎに聴き入っていると、 かすかなその気配を感じる。 フロイドの死の本能ではない。 自我ではない、もっと大きな命へ転生しようとしている。 わたしの自我は強大で、 その自己主張にはわれながら辟易とさせられてきた。 5年前に公演を止めたのはそのためだ。 いくら死者と踊るといったって、自全を踊ろうとすれば 自我も出てくる。 それも未熟なまま解離された幼年期の自我が。 わたしの自我の分身たちは、世界に挑みかかり、 人々が乗っているテーブルを転覆して驚かせ、 打ち据えられてボロボロになるまで踊り止めようとしない。 全裸で「伝染熱」を踊るわたしのからだの変化を、 ゲイの友人が克明に観察して伝えてくれたことがある。 最初に舞台に立ったときは、性器はだらんと長く垂れている。 それが踊りが進むに連れて徐々に小さくなり、 最後に世界に挑みかかる<急>の踊りにさしかかったときは 子供の性器のように小さく縮み上がっているという。 死に物狂いでたたかうからだは、 アドレナリンに満ちた闘争状態に変化して、 生殖も免疫も消化もすべて停止する。 わたしの踊りは世界とのたたかいの続きだった。 (……このまま続けたら死んでしまう。) おそらくわたしの中の生命力龍がそう判断したのだ。 ふっつり踊らなくなったのも、 わたしではなくからだが決めたことだ。 「自己を発現しすぎないこと」 ドゥルーズの未来の倫理がからだに降りてきたのかもしれない。 なぜ踊らなくなったのか、自分でも分からなかったが、 わたしのサブボディは、この数年をかけて、 個体としての自我の生から、 類的な生へと転生する道を探っていたようだ。 サブボディ共振塾で、自分の踊りではなく、 他の人のサブボディが生まれてくるのに手を貸す 産婆としての生を生きだした、とはそういうことだった。 実際、ヒマラヤで長く生命瞑想を続けていると、 個人としてのたまゆら数十年の生は、 命にとってはかりそめの見せ掛けで、 40億年生き続けて地球上に拡がった巨大な生こそが、 命の実態であることがからだにしみこんでくる。 この巨大な生命の全体に、個的生命として何を発明して付け加えることができるか、 それこそがたったひとつの重大な問題であることが分かってきた。 いまのわたしは、自我と国家に囚われた現在の人間の現状に対し、 人間が生命の共振生を取り戻すことによって、 障壁国家と障壁自我とが支えあう無意識の相補関係を終焉させることができると信じている。 共振塾の活動こそがわたしが類としての生命に贈る贈り物なのだ。 類的生命への転生。 これこそが、人生の最後の舞台だ。 その舞を舞い続けているうちに個としていつ死ぬことになっても惜しくはない。 名残もない。 こういう一見悟りめいたことを言うのは 誤解を招くので極力控えてきた。 小さい頃から、この世の矛盾を前に何もできずに手をこまねいているくせに そのくせ悟りきっているという禅坊主の顔を想像するだけで 許せない気持ちになってきたからだ。 わたしは永遠に悟らない。 この世の矛盾が消えない限りわたしの戦いは終わらないし、 わたしの中のたたかう分身たちが眠ることはないからだ。 悟るなどとは、かれらの存在に目をふさぐことだ。 むしろ、わたしの中の幼い時期に解離された 小さな自我を持つ分身たちはいつまでも暴れ狂うだろう。 それを透明に見据え続けるしかない。 悟りなどとは縁のない時空で生きる かれらは成熟することがない。 解離されて生まれた瞬間の非時の時空にはめ込まれているからだ。 だが、わたしはやがて彼らすべての分身とともにこの世を去る。 だれも、抵抗しないだろう。 してもどうにもならないことぐらいは、 分身たちも学んできたのだ。 |
| 2007年6月4日 ●命にふける 3、4、5月の春学期が終わった。 6月11日に夏学期がはじまるまで一週間の休みがある。 「この一週間は命に耽れ」 明け方のサブボディがそっとささやくのを聴いた。 直ちに目が覚め、忘れないようにメモして再び浅い眠りについた。 命にふける。 授業という日々の日課に縛られない身になってはじめて 命がどのようにゆらいでいるのかに耳を澄ませることができる。 この生命ゆらぎがどのような経路を経て、 さまざまな欲望や情動となって立ち上がってくるかを 静かに見つめることができる。 本当に、下意識で24時間休みなしに働いてくれている サブボディさんはいつも最も的確なアドバイスをくれる。 命にふける。 ふむ。今のわたしにとって、 これ以上すてきな休日の過ごし方はきっとない。 そして、意識では絶対に思いつけない根本的な発想だ。 命にふける。 おうとも、この一週間、たっぷりふけってみよう。 細胞レベルでの生命ゆらぎ。 細胞レベルで命を聴く。 わたしたちが個体としての限られた命をもつことも事実だが、 わたしたちは40億年間続いている巨大な命のたまゆらの宿舎でもある。 命の個体的側面にのみ囚われ、 思い悩むのは自我に囚われた人間の錯覚に過ぎない。 自分が人間であるという思い込みから脱することができたとき、 はじめてこの巨大な命そのものの実質に触れることができる。 そして類的存在としての自分の使命を生きることができるようになる。 これに気づくだけで人生は決定的に転回する。 60兆といわれるわたしたちのからだを構成する自我なき細胞たちが どのように生き死に、どのようにゆらぎつつ共振しているのか。 そのありさまに耳を傾けることができる。 分子レベルでの生命ゆらぎ。 分子レベルから見た生命現象の根幹は、 細胞膜のナトリウムーカリウムポンプの開閉によって それぞれの細胞が、Na+イオンとK+イオンを 周期的に流入、流出させることによって、 細胞内外の電位差を安定させている。 このNa-Kポンプの働きによって起こる電位ゆらぎは 細胞が生きていることの証しのひとつだ。 ミリ秒単位のゆらぎだから、 感覚で感知することはできないが そのゆらぎが起こっていることを想像し 生命ゆらぎの感触に耽ることはできる。 ひもレベルでの生命ゆらぎ。 分子レベルの生命現象から、 原子レベル、クオークレベルを飛ばして、 一挙にひも共振レベルまで降りてみる。 原子、クオークレベルまで想像していると 煩雑すぎて収拾がつかなくなる。 わたしたちの想像力が超精密化するまでは、 このジャンプは致しかたのない便法なのだ。 このジャンプによって、わたしたちの日常体が囚われている 粒子状の固定化した世界像から、 変容流動するひも共振の世界像への 決定的な世界像変換が可能になる。 細胞の生命活動を、ナトリウムやカリウムイオンなどの物質の出入りや、 それによって起こる電位差などのエネルギー変化を、 一挙にひも共振現象として、質量やエネルギーが生成する 以前の相において統一的に把握することが可能になる。 あらゆる物質もエネルギーもひも共振から生まれる。 その根源において捉えれば、 ただひもたちが共振パターンを変化させつつ舞っている 超複雑かつ華麗な世界の実相が見える。 世界と命の実相を、 ひもたちの舞として視覚像化して捉える修行を積む。 それを命の体感に落とす修行を積む。 それによって、ようやく日常体の自我の習慣からすこしだけ 遠ざかることができる。 これは長い飽くことのない修行だ。 科学者やアーティストが描くカラビ・ヤウ空間の イラストやアニメを基に、 それをイマジネーションの世界で動かし、からだ全体で踊り味わう。 それが分子レベルの生命現象とどう関わっているのかを探求する。 この探求の想像力が体感レベルまで落ちて からだにしみこんでくるには長い時間がかかる。 この長い時間を生きることを選ぶ。 それは全チャンネルでの命の探求だ。 これほど面白いものはちょっとない。 このイマジネーションとからだの訓練の果てに ひとつの決定的な気づきが訪れる。 それは、生命が物質やエネルギーを構成するひも共振のみならず、 クオリアを構成するひもの動きとも共振しているという 生命だけが持つ特質への気づきだ。 この気づきは全チャンネルでやってくるときに重みを増す。 思考だけではなく、からだの体感や動きや映像や音像や 情動チャンネルでも納得できるときに これは疑えないものだということが分かる。 この気づきは、現象学でいう本質直観と少し似ている。 だが、哲学者たちのように思考チャンネルだけではなく、 からだも含めた全チャンネルでそう感じられるときに わたしたちはそれをまごうかたなき人生の「ほんとうのこと」として 受け入れることができる。 サブボディメソッドが哲学や瞑想と別れるのはその点だ。 全チャンネルで生きる。 命にふけることは、 命が持つあらゆる次元と共振することだ。 命は意識のようにチャンネルに分化していない。 日常意識の限られたチャンネルから、 たえず命の無チャンネルの世界に越境していくこと。 それがサブボディメソッドが切り開き、不断にめざす生き方だ。 (この項つづく) |
| 2007年5月 |
| 2007年4月 |
| 2007年1-3月 |
| 2006年 |
|
調べたいキーワードを、上の検索欄に入力して、[Google検索]をクリックしてください。 |
わたしはからだの闇の探鉱夫だ。長年掘り続けていると、いつのまにか穴だらけのからだになった。
私はなおも掘り続けるだろう。体全部が透明になるまで掘り続けるつもりだ。 リゾーム Lee
subbody