2011年
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多重人格肯定日記
解離性同一性障害を肯定する日記



2011年11月27日

誕生と死と再生と転生・舞踏家岩淵いぐの誕生

共振塾の最長の塾生、Ikukoは今年でサブボディ修行10年の過程を修了する。
先日Ikukoから
「これを機会に改名して転生したい。
ついては私のサブボディの育ての親のLeeさんに新しい名前をつけてもらいたい」
と、命名を頼まれてこの10日ほど思案を重ねてきた。
夕べ、Ikukoはこの十年間を総統合するかのような踊りを
「無妙鬼」という舞踏に見事に結晶してみせた。
舞踏家岩淵いぐが誕生するのを目の当たりにした。
彼女は親がつけた岩淵育子から結婚によって別の姓に変わり、
離婚によって岩淵育子にもどり、
この数年の修行中はIkukoをなのってきた。
それは舞踏家と産婆に転生する前の蛹のような変成期間中の名前だったのだろう。
昨日Ikukoは、その殻を見事に破って脱皮した。
つめ寄せた観衆の前で見事な舞踏家に転生してみせたのだ。
それを見て夕べ「岩淵いぐ」とすることに決めた。
本名の岩淵育子をほんのすこしだけいじっただけだ。
国際的な場では、「Igu」という表記か、「Igu Iwabuchi」のどちらでもいいと思う。
育子さん本人には、明日の朝伝えるつもりだ。

だが、今日でしか書けないことがある。
命名には忘れられない苦い思い出があるのだ。
奇しくも今日は私の一人息子清火の誕生日だ。
それは忘れもできない死と誕生が混成した日だっというのに、
歳を数えるのを忘れていた。
今日はなんと息子にとって40歳の誕生日だったのだ。
Facebookに、
じゃーな、30代のみんな。ひと足お先に、僕は行くよ。
という書き込みがあるのを見て、
不思議なめまいに急襲された。
自分の子供が40歳になったことを知らされるとき、
どんな驚愕が訪れるか、予想だにできないことだった。

40年前の11月の末もわたしは生まれてくる子供の名前をあれこれ思案していた。
女の子なら清香(さやか)にしようというところまで決めていた。
ところが、40年前の11月24日、大学時代の同志だった辻敏明が、
党派闘争の内ゲバで、殴り殺されて命を落とした。
1967年10月8日のベトナム反戦羽田闘争で死んだ高校の同級生山崎博昭に次ぐ
二人目の親しい友人の死だった。
辻は私が説得して革命組織に引き入れた男だった。
高校時代は大阪の天王寺高校剣道部の主将で、
「気は優しくて力持ち」
を絵に描いたような好青年だった。
そのとき私たちが属していた学生組織の全国副委員長というポストにいた。
その肩書のために対立党派に狙われて落命したのだ。
剣道に自身のあった辻は、
みずからもっとも困難と言われる殿戦を引き受けていたに違いない。
何百回もその最期の瞬間を終追体験した。
踊りをはじめて京都に居を据えたとき、
毎夜のように彼は私の夢枕に立った。
「おう。辻、元気だったのか」
私が声をかけると、彼はにっこり微笑みながら、
後ろを向いた。
後頭部の頭蓋骨が輝く超合金にすげ替えられていた。
それでやっぱり彼は死んでしまっていることを思い知らされるのだった。
その悪夢から解放されるために、辻は私のサブボディに転生した。
私の最初の踊り「伝染熱」の真の作者は辻敏明なのだ。

私はその2年前に政治活動から身をひいていたが、
彼が死んだときついていた学生組織の全国副委員長という役割は、
もし続けていたら私が引き受けていたかもしれないものだった。
関西地区の指導者がつくポストだったのだ。
だが、死んだのは私ではなく辻だった。
山崎のときも死んだのは率先して活動していた私ではなく、
その影響下であとから運動に参加した山崎だった。
高校時代に私は「死地へ!」という詩を書いて発表した。
自分だけ、俺は行くぜ、というつもりだったが、
それを読んだ山崎が先に逝ってしまった。

(彼らは私が生き延びることと引き換えに殺された。)
生き残った奴は ふのよかと(運のいいやつ))
おそらく私らの父の戦争世代は皆この感覚に責めさいなまれながら
錯乱の中で戦後を生き抜いた。
(生き残った奴は、ふのよかと)
私もまた、私たちの時代の闘争をくぐり抜ける中で
戦争世代同様の錯乱を負うこととなった。
生と死がスレスレのところでゆらぎもつれる妄想にさいなまれて
生まれようとしている子供が男だった場合の名前を考える余裕など
一気になくなってしまった。
そして、その錯乱の渦中に生まれてきたのは女の子ではなく男だった。
何も考えることなど出来なくなっていた私は、
用意していた清香という女名前をそのままつけようとした。
だが、それはあんまりという妻の要望でさやかの「か」は、
女の子らしすぎる「香」ではなく、「火」という字に変えた。
すると今度は妻の姉さんから、
「名前の中に火と水がはいっているのはあまりにも不吉すぎる。
後生だから変えてちょうだい」
と泣いて頼まれた。
だが、結局妻と相談の結果、「清火」という名に決めた。
その名には、子供が女性性をも引き受けて生きるようにという
フェミニストだった両親の願いの糸がひそかに織り込まれていた。
それと、これは誰にも言っていないことだが、
一つの漢字に火と水が入っている「滅」という字への思いも込められていた。
政治活動から身を引いた直後の当時の私の秘めた思いを一言で言うと
「日本壊滅」というスローガンだったのだ。
(俺が死んだら、きみがこの思いを引き継いでくれ・・・)
未熟な親のそんな無茶苦茶な思いを、
息子はひそかに背負わされることになった。
長男の誕生と友人の死が同時にやってきた錯乱の中で
勝手な親の不吉な狂いを押し付けられてしまったのだ。
彼は小学校時代、クラスのボスのような女の子から
「男のくせに女名前をつけている」
といじめられ、
「なんでこんな名前をつけたんだ」
とさんざん恨まれることになってしまった。
だが、息子は名前から降り掛かってきた迫害をのりこえて強く育ってくれた。
今日の彼のfacebookには、多くの友人からのお祝いが溢れかえっている。

「いぐ」にも言外の多次元的なクオリアが込められている。
だが、それは秘めて言わないことにしよう。
秘すれば、花。

その花は舞踏家として、産婆として転生する岩淵いぐが
踊りの中で咲かせてくれるだろう。


 2011年8月29日

バルドーからの贈り物

ヒマラヤを出てからたまたま陥ったバルドーを浮遊する状態のまま、生きている。
瀕死や臨死を通り越して、自分がもはやここにいないものとしてあらゆるものを眺めている。
すると、思わぬ気づきがつぎつぎと立ち現れてきた。
もっとも大きなことは自分が起こした過ちがすべて自分の小さな自我が
無意識裡に立ち上がって引き起こしたものだということが透けて見えてきたことだ。
これはバルドー状態からの予期せぬ大きな贈り物であった。
毎年一度か二度いつも生徒に対して否定的な評言をしたり、叱ったり、突き放したりしてしまうことが起こる。
それによって生徒の自我の反逆反応を引き出して、もつれてしまう。
意識状態では、だが、それが自分の無意識の自我が引き起こしたものだということが見えず、
自我特有の習性で、問題は相手にある、相手の落ち度だという物語を作って解釈してしまう。
今年も、フェスティバル直前の週になって、各自が自分の作品の創造のまえに
それぞれの深淵(アビス)へ導く調体をするよう言ったにもかかわらず、
生徒の一人がそれをまったく無視して、身体気象から借りてきた
大きく動く物理的な調体をはじめてしまったことがあった。
アビス調体とは、それぞれのサブボディの関わる背後世界へ降りていくものだ。
その生徒は彼自身の悪夢(原生夢)をもとに踊りを創っていたので、
その夢が立ち現れてくる深淵のなかに、他の生徒を導き入れてその悪夢の世界を共有することで
はじめてその固有の世界を共創することができるというものだ。
だが、おそらくそれをうまく伝えることができていなかったのだ。
わたしもはじめはそのエクササイズに参加したのだが、睡眠不足が続いている衰弱したからだには
走り続けることは激しすぎてすぐ疲れてしまい、その練習から身を引いた。
そのとき、からだの疲れとともに、なにか否定的な情動が立ちのぼり、わたしを支配していたようだ。
疲れたからだにわたしの中に眠っていた小さな自我が目を覚まし、
「ほれ見ろ、わたしのいうことを無視したから、きみのからだは微細なクオリアに耳をすますことが出来ず
粗大なダンスに終わってしまった。
参加した他の生徒もきみの夢の深淵を共有できず、与えられた振りをこなすだけに終わってしまったではないか。
というような意味の否定的な評言をぶちかましてしまったことがあった。
おそらく、わたしの指摘は当たっていたのだが、言い方が自我に侵された否定的なニュアンスに満ちていた。
他の自我からくる否定的な圧力に対して自我はかならず自己防衛反応からくる闘争的な反応で応えるものだ。
その生徒が期末に書いたフィードバックは、その闘争的な反応に満ちていた。
とても不愉快なものだったので、わたしはすぐには反応せず時を持った。
そして、その後バルドー状態で2ヶ月浮遊するなかで、それらの否定的な自体のすべてが
産婆としてのわたしが自分の自我をよくコントロールできていなかったことから引き起こされたものだという
かすかなつながりが透けて見えてきた。
それまでは、同様の自体が起こっても、私にはどうにもするすべがなく、
どう解決すればいいのかも見えなかった。
何が起こっていたのかさえも十分につかむことが出来なかった。
この一件をきっかけに、それまで犯してきた過ちもすべてわたしの見えない自我の発現から
起こっていたことが分かってきた。
これがバルドー状態がもらたした思わぬ福音だった。
今年の後期はインドビザのトラブルで、わたしのヒマラヤへの期間が開校より3週間も遅れることになってしまった。
その3週間は古い生徒にわたしに代わって、毎日の授業をガイドするように頼んだ。
それは産婆コースに進んでいる長期生にとってまたとない訓練のチャンスとなるだろう。
そしてそれらの長期生に、このわたしの経験を伝えよう。
ただ、わたしの場合、予期しないまま勝手にからだがバルドー状態に陥ってしまったので、
どうすればバルドー状態に入ることができるのかが、まだ十分につかめていない。
ギリシャでも最後の週に、このバルドー調体を試してみたが、
参加して1ヶ月やそこらのワークショップ参加者には通じなかったようだ。
バルドー調体技法を確立すること、これがこれからの大きな課題になる。
それは「死者の技法」を深めるために欠かせぬ環となる。
私たちにはまだまだ学ばねばならないことで満ちている。
チベット仏教をはじめとする密教系の仏教にはこれらの秘儀が隠されているだろう。
千日間山岳を駆けまわる「千日廻行」はそれに違いない。
たまたまギリシャに携えてきた哲学者古東哲明の『他界からのまなざし』や、
『現代思想としてのギリシャ哲学』には、プラトンが体験した擬死行の儀式「エレウシスの密議」もまた
生きながらの死を経て、再びこの世の生に戻ってくるものであったようだ。
ただ、密議の詳細は不明であるという。
だが、儀式の詳細はどうでもよい。
わたしにとっては、一回限りの儀式ではなく、死ぬまでバルドー状態を続けることが
もっとも大事なことのように思われる。
サブボディの産婆にとっては、日々の実践が自我を殺し、
自己を消滅させる「エレウシスの密議」そのものであり、「千日廻行」であるからだ。
その過程では一瞬一瞬、無数の予期せぬことが起こる。
それにただただ身を滅して接することだけが重要だ。
自分を無にし、死のがわに置かない限り、サブボディの誕生に対応できない。
これまで何度生徒の生まれかけているサブボディの流産に立ち会ったことか。
生死のゆらぎの否応無さに比べれば、個人の努力など無に等しい。
だが、私達には日々切羽詰まった自我との闘いを続けていく以外ないのだ。
自我はおそらく他の元型同様からだの闇の不可視の深淵から音もなく立ち現れてくる、
必竟、現代最強の元型である。
それは現代に残るもうひとつの最大の元型、国家と一対をなしている。
この謎を解くことこそ、生きることなのだ。




2011年8月21日

バルドーの旅と世界チャンネルの魔


第2回舞踏祭が7月のはじめに終わって、
ヒマラヤインドから、スイス、ギリシャのシーロス島へと旅を続けてきた。
ヒマラヤを出る車の中で味わった、バルドーの旅は未だに続いている。
この世でもないあの世でもない時空の裂け目を通って、
死出の道行をなにか見えない力によって運ばれている体感だ。
どこにいてもそれをこの世の名残として見ているわたしがいる。
旅先で目に入るヨーロッパの景観も、ギリシャの海の光も、死後の世界には持っていけ
ない。
今だけのたった一回限りのクオリア共振だ。
ワークショップで踊る各国の参加者の踊りも、死後の世界から眺めているわたしがいる。
どんなことも一期一会のものとして感じるとき、言いようのない輝きを放つ。
これはなかなかいいものだ。
どんな瞬間ももう二度とは味わえない。
そのとき限りの生命の共振をただただ愛おしく受け取ることができる。
だがいったい、どういうことからこんなことになったのだろう。
舞踏祭は一昨年の末、一年の授業が終わった瞬間に、
わたしの中の誰かが思いついた。
そのいきさつは2年前の「世界チャンネルの魔」に書いている。
誰であるかは察しが付いている。
世界チャンネルと関わるときはいつも、20歳の革命青年だった山沢夙という人格が出
てくる。
舞踏祭はたんにヒマラヤだけの舞踏祭ではなく、各国に散らばっている生徒が力をつけ
それぞれの土地に小さな生命共振の共同体を創り、
それを結ぶリゾナンスネットワークを通じて、踊り手が国境を超えて踊り歩ける世界を創
ろうと構想している。
それが世界を生命共振によって変えようとしている山沢の世界構想だ。
今年はさらに、スイス、ギリシャを旅する中で、スイスではすでにピットがスイスの舞踏祭
を立ち上げている。
ギリシャのアンジェリキも十数人のグループを持ち、すぐにでも舞踏祭を立ち上げる力を
持っている。
こういう各国の舞踏祭を結ぶ、インターフェスティバルがありうるのではないかと思いつい
た。
思いついたのは言うまでもない、20歳の山沢だ。
山沢は思いついた瞬間、直ちに実行に移るのが特徴だ。
ギリシャのアンジェリキらに図ると、二念なく賛同してくれた。
山沢はおそらくここ数年以内に、その企画を実現に移すだろう。
実際のわたしがもう足腰もおぼつかなくなって、
死出のバルドーの道行を音もなく滑っている状態だというのにお構いなしだ。

そして、このバルドーの仮死状態から山沢を見ると、彼にはひとつ大きな問題があること
が見えてきた。
強烈すぎる自我と意志と自分流のやりかたを持っていることだ。
他人のことなどお構いなしに勝手に事を運ぶ。
自分のやっていることが正しいと盲信しているのだ。
それがわたしの20歳だった。
未だに変わっていない。
生命共振革命だなどと、今のわたしの地平を共有しているつもりでも、
もっとも生命共振を知らないのが山沢だ。
これには大きな危険がつきまとう。
生命共振なしに自我だけで事を運ぼうとすると、ただちにそれに関わる他の人々と軋轢
を生じる。
今年の舞踏祭の実行中にも、この問題が起こった。
モンスーンで舞踏祭への出足が悪いのを見て取った山沢は、直ちに生徒たちの尻を叩
いて観客の動員をはかろうとした。
創造が世界水準にさしかかり、世界へ羽ばたこうとするとき、
それを支援する観客の温かい拍手があってはじめてサブボディは自信をつけることができ
る。
実際幾人かの生徒の踊りはあきらかに世界水準に達しようとしていた。
それを支援する観客の生命共振がどうしても必要だった。
山沢は山沢なりの政治判断で、観客を動員しようとした。
20歳の頃はデモや集会があると街中にビラを貼りまくり、手当たり次第に人々を勧誘し
ていた。
その当時のやり方そのままで押し通そうとした。
それが山沢にとってはふつうの行為なのだ。
だが、時代も状況も変わり、共振塾に来ている生徒たちは、昔の学生仲間ではない。
創造の最終局面で苦難している生徒たちに多大なプレッシャーをかける事になった。
それまで普段は生徒のからだから生まれようとしているサブボディの胎児の出産に耳を
澄まし、
静かにその出産の手助けをしている産婆としてのわたしの姿からは想像もできない豹変
ぶりに
大いに戸惑ったに違いない。
Leeは自分の為に舞踏祭を実行しようとしていると、反発した生徒もいた。
その反発でわたしは少し目が覚めかけた。
自分の中にまだ未処理の自我が眠っていることに。
そして時々こうしていきなり人格交替して、しゃしゃり出てくる事態をどうにも制御できて
いないことに。
バルドーの仮死状態にはいってはじめてそのことがありありと見えてきた。
もう、自分の中の解離された人格の分裂状態は、収束しかけたと高を括っていたのだ。
バルドーの旅にわたしを導き出したものは、この未処理の自我に気づかせようとしていた
のかもしれない。
ほとんど瀕死の状態にならないと、こういうことは透けて見えてこないようだ。
見えてきても、わたしはまだ自分の中の20歳の山沢の自我を鎮める方法など分からな
い。
かれはわたしの手の届かないからだの闇の奥深くでひそかに棲息を続けている。
山沢だけではない。ロリのわたしもしぶとく生き続けている。
久しぶりに、この多重日記を開いて出会う、彼ら以外のもろもろの人格たちも
何一つ変わってはいない
そして、もっとも問題なのは私には決して彼らを殺そうとする動機がないことだ。
自分の中のどんな解離された人格も、それぞれの理由があって生まれてきたものだ。
どんな生命も肯定されねばならない。
からだの闇にはまだまだ私自身に制御できないもろもろ衝動が埋まっている。
山沢の自我も、ロリの劣情もその内の一部分にすぎない。
カフカの日記の中の痛い言葉を思い出す。
「ちっぽけな汚れの」数々だけがわたしの全財産だ。」
だが、いったいそれらは汚れなのか?
生命ではないのか?
生命とはいったい何なのだ。?
この問題を解決するにはまだまだわたしは、バルドーの旅を続けなければならないだろう

他界からのまなざしで自分のありのままの姿を見つめるとき、
はじめて何が起こっているのかを透明に見通すことができる。
だが、見えるということと、解決できるということはまったく別のことだ。
この問題にはこれまでも何度もぶつかってきた。
そして、解決とは、より深い混沌の中に降りていくことだということも知っている。
からだの闇の底なしの深淵へ、頭からもんどり打って落ちて行くこと。
わたしの生はこの基本姿勢を死ぬまで続けなければならないだろう。
 2011年8月21日

他界からのまなざしで生命を見る

スイスからギリシャに来て、3週間が過ぎた。
依然バルドーの旅は続いている。
アンジェリキが、丘の上の一軒家を用意してくれたので、
ワークショップ以外の時間はとても静かに過ごすことができる。
シーロスは小島なので、丘の上に登ると海上から上る朝日も日没も、月の出も月の入りも
一箇所から見ることができる。
こんな経験はインド南端の岬に立ったとき以来だ。
わたしは海の近くで育ったが、家からは海は見えず、
いつも夕日を見るために海辺まで通って眺めていた。
だがここではベランダから一日海を見下ろすことができる。
まるでソラリスに来たような気分だ。
わたしはすでに死んだ世界にいて、そこから海を眺めている。
海は不思議な生命のようにも見えてくる。
ギリシャでのワークショップの期間は一ヶ月だが、
3週目になって半分以上の参加者が入れ替わって新しい人が入ってきた。
みんな熱心に学ぼうとしているのだが、思考を止めることの意義は短期間ではなかなか腑に落ちない。
いくら、喋らないことがただひとつの規則だと言っても、
ギリシャ人たちはすぐ無意識裡に言葉を発してしまう。
その度に鎮まっているわたしの生命がかき乱される。
おしゃべり止め、内的な思考と言語を止める、サブボディになる調体がまたいちから出直しになる。

いったいなぜ言語思考を止めることが必要なのだろうか。

わたしは自分がいま陥っているバルドーの境位に参加者たちを導くことにした。
陥っているというと語弊がある。
このバルドー状態が始まったのは、ダラムサラを後に汽車の駅迄時間の車の中で、
眼覆いと耳栓をして、座席のシートを倒して走っているときだった。
光も音も遮断された見知らぬ時空を、横たわって静かに滑るように運ばれていた。
何処へ行くのだろうか。
2週間に渡った舞踏祭の間は殆ど眠れなかったので極限まで疲れきってほとんど生気のない心身にとって、
これは長い死出の旅の始まりなのだと感じられた。
それがスイスについて古く美しいジュネーブの街を歩いているときも、
山中のワークショップで生徒のからだから出てくるサブボディを見ているときも、
それが続いた。
私自身はもうこの生きた世界に属していない。
どこか草葉の陰のような異界からそれを眺めている。
すると、目に入り耳に入るどんなことも、まばゆい生命共振であることが
透けて見えてきた。
生命が感じているクオリアの無限の豊かさ、
どんな小さなこともどんなにまばゆいことなのかが痛いほど感じられる。
わたしはたまたま陥ったこの状態をすすんで受け入れた。
他界からの死のまなざしでこの生きた世界を眺めることによってだけ、
生命の感じているかすかなクオリアの無限の豊かさを感じ取ることができる。
ようやくこの境位がどんなものかが、からだに入ってきた。
日々の生活をすべてこの状態で過ごすこと。
長いその経験のはてに他界からのまなざしがからだに沁み込んでくる。
最後の週となった、来週は、この死んだ世界に自分の身をおく深い瞑想からはじめよう。
ふるえやゆらぎの調体からはじめ、やがてふるえもゆらぎも止まって、死んだからだになる。
その死の世界からのまなざし出、生きたこの世界を眺める。
するとごくごく微細な生命の震えの中にいかに豊かな階調があり、
まばゆいバリエーションに満ちているかが感じられる。
その微細なゆらぎに従いほんの少し増幅するだけで無限の踊りが生まれてくる。
これがサブボディメソッドの根幹だ。
土方巽もまた、そこから彼の最後の舞踏をはじめた。
「静かな家」の探求のなかで土方の舞踏技法とサブボディ技法がひとつになった。
これこそが晩年の土方が求め続けた「生命の呼称で呼びうる舞踏」なのだ。
短期で身に付くものではないが、これこそがもっとも大事なことであることだけは
受け取ってもらわないと、ワークショップに参加した意味がない。
そこからどんなサブボディが出てくるか、それを創造にいかにつなぐかは
ほぼワークショップで伝えることができた。
アンジェリキたちが一年のクラスで引き継いでくれるだろう。
あとは本人たちの精進次第だ。



 

舞踏祭の終わりのバルドー体験

20113


舞踏祭最終日は恒例のチベッタン障害者施設ニントブリンを訪れて、
子供たちとダンサー、参加者が生命共振の喜びを共にすることで終わった。

去年の最終日には、帰りのバスの中で
「今日が死ぬにはもってこいの日だ」と感じた。
公演数が去年の5から20公演以上に増えた今年は、
それ以上のところへ転がり落ちた。
すでに生死の境を越えかけるほど疲労と睡眠不足が溜まっていたらしく、
ニントブリンに付いたとたん、会場になるお寺の仏像の裏の暗がりで
死んだように眠りこんでしまった。
子供たちとダンサーがお寺の本堂で踊り、歌い、歓声を上げて楽しんでいる様子を耳にしながら
まったく反応できない自分のからだは、あたかもチベット仏教でいう
バルドーという生死の間の時空を漂っているかのように感じた。
去年より一歩死のそばに近づいたようだ。
からだがもう動こうとしないバルドー域に近づいて、
生死の境の巨大なギャップを味わっていると、
生きていた頃に囚われていた、「もっといいやり方を追求する」とか
「何をやり残しているか」とかというこだわりが、まったく消え落ちてしまうことを知った。
死んでどんなクオリアとも共振できなくなることを思えば、
生きてわずかなぬくもりや物音が感じられる生命のいとおしさを
ただただいくつしむようになる。

これまでも何度も生死の淵を体験してきたが、ことあるごとに異なる。
ネパールのヒマラヤで一晩に何万発もの雷に遭遇したときは
これまでの人生の記憶が次から次へと現れて消えた。
学生時代の乱闘で後頭部を棍棒で殴られて意識はあるのにからだがピクリとも動かなくなったときは、
その姿を上空から眺めている臨死体験によくある離魂を体験した。
踊りの高揚の中で、自分が自分でなくなり、ピュアな生命の透明な共振を体験できることもある。

バルドーにはじつにさまざまな様相があるのだ。
慣れてくれば、生と死の境は単純なオン・オフで分かたれるのではなく
実に味わい深いクオリアの旅からなることが分かってくる。
このすべてを体験しながら死んでいくのはなかなかいいものだ。
「死者」となり、他界からのまなざしで踊るとは
こういう限り無く豊かなクオリアを生きることなのだ。



2011年3月9日

中島みゆきとモーニング娘

中島みゆきとモーニング娘。
何たる取り合わせだ。
食い合せで腹痛になりそうだ。

それはまるで裏と表の別世界。

日常体のからだにとってはそう受け取れる。

だが、その粗雑な二元論的判断をすこし控えて、
わが身を実験台にして両者の異なる音楽にただただ共振してみようとした。

 

中島みゆきを数十年聴き続けてきた。

毎夜寝る前に一枚ずつCDを掛けて子守唄のように聞きながら眠るのが習慣になっていた。

モーニング娘は聴いたことがなかった。

もちろん日本に住んでいた頃はいやでも耳に入ってきていた。

だから、知ってはいるが耳で拒んでいる、という状態だったと思う。

去年、モーニング娘と同じプロダクションのベリーズ工房を知って、

数年前の奇跡のような少女の輝きに触れた。

その驚きは多重日記の「少女速度」シリーズで書いたとおりだ。

それでも 同じつんくという人によってディレクトされているモーニング娘には耳を閉ざしていた。
あまりに有名で分厚い既成観念が私を遠ざけていた。

今年の冬はじめて系統的に聴いた。

ここ十数年の間、それがメンバーチェンジによって

変遷してきたこともはじめて知った。

何週間か聴いていいるうちに、からだが変わってきたのを知った。

モーニング娘の音楽はそこから受ける情報の刺激のレベルが

中島みゆきに比べてまるで違う。

聴覚的にも、視覚的にも、言語的にも、

何十倍も強い刺激を五感に与え続けて、休むことがない。

慣れるとからだはその強烈な刺激を快感と感じるようになっていく。

一言で言えばモーニング娘の音楽は愉快なのだ。

その音楽に触れ続けていると、中島みゆきの音楽は暗く地味にしずんで感じられて、

あまり聞きたいものではなくなるのを感じて驚いた。

愉快ではなく不快にさえ感じられるようになる。

中島みゆきの音楽でさえ刺激的でなくなり聞けなくなるのだから、

それより何兆倍も刺激レベルの低い

かすかな生命のクオリアに耳を澄ませることなど到底出来ない。

モーニング娘を聴きなれたからだには、生命のクオリアなど存在しなくなる。
人間の脳は一定の刺激レベルに慣れれば、

それより刺激レベルの低い情報は消えてしまうのだ。

マスキングという現象だ。

この冬ビザのトラブルで余儀なく日本で一ヶ月過ごしている間に、

わたしのからだもそういうからだになってしまった。

強烈で愉快な刺激にさらされて、

それに比べてはるかに刺激のかすかな生命クオリアが存在することなど

気づくことも想像することもできない。

そうか。

人々は今こういう強烈な情報環境で生きているのだ。
これを知るために日本でのひと月の滞在が必要だった。

ヒマラヤにやってくる生徒たちも、それぞれの国で高度な情報刺激に晒されて育ってきた。

モーニング娘よりももっと強烈なロックやパンクのような音楽もある。

ヨーロッパツアーの最中、一度ハンガリーのドナウ川の中洲の島で催された

ロックフェスティバルの中で踊ったことがある。

何十もの劇場が架設されていた。

踊ったあと、夜が明けるまで一晩中、

耳をつんざく大音響が続く中で眠られない仮眠をとった。

まるで高速道路の真中で寝ているようだった。

そうか、ここから始めなければいけないのだ。

おびただしい情報が行き交うの高速道路の真中で育ったからだから

いかに生命に耳を澄ますからだに変成することができるか。

今年はこの新しい課題に挑もう。

 

 

 

 

 

 

 

 



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