July 2006
| 多重人格日記 ――解離性同一性障害を肯定する日記 |
| 2006年6-7月 |
| 勇み足すれすれ |
| 胎界起源の無数のサブボディたち |
| 多次元を多重に生きる |
| 「多重人格を創造に生かす日記」に改名 |
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2006年7月6日 私の中に言葉だけで猛り立っていくものがいる。毎日更新している文章はまずはからだの闇から出てきたものだ。それを体感や動きで確かめるのが私の毎日だ。だが、そこで見つけたことを書こうとして書き出してのち、筆が走り出した瞬間にのりうつってくるやつがいる。そして、記述の流れを乗っ取って、ひとえに猛り立ち、勇み足をしていく。 ことなる心身障害者の間で、からだの闇のネットワークをつくり、互いの症状から解放されていく闘いを共有できないかと構想した「肯定論」を読み返してみると、至るところで、その勇み足が憑依し、かってに走りだしている。ろくに自分の多重人格も理解し切れていないのに、分裂病や、うつ病の人のことを自分が得ている小さな知見から推し量って決め付け、ずいぶん勇み足な発言をしている。これまでの人生の間中、ものを書くときにずっとこの勇み足が私に付きまとっていたように思う。自分の書くものにこいつが混じり始めるととたんに文章の味が悪くなる。自分でも書くことがいやになって、何度も筆を折ってきた。 これはいったい誰なのだ? いつも近くにいたのに、いまだに正体をつかんでいないとは、なんて頓馬なことなのだ。 自分がいいことをしていると思い込んだ瞬間にそれは取り付いてくる。そして、いけしゃあしゃあとずうずうしくなる。押し付けがましく、正義面をしだす。知らぬ間に、<正義>に、私の言葉が乗っ取られてしまっている。この世でもっとも嫌いなものが<正義>だったはずだのに、いつの間にかそいつが私の背後からのりうつって私を奪っている。クラインの壺に紛れ込んだかのような恐ろしいことが人生ではいくらでも起こる。こういう体験をずいぶんしてきたように思う。あの時も、あの時もあの時もそうだった。 しばらく、こいつと付き合ってみよう。いくら嫌いでも私の自全の一員だ。一概に否定するわけにもいかない。 そもそも、正しいとか、いいことというものは、クオリアの多次元変容流動の世界にはありえないものなのだ。ただ無数の差異があるだけの世界だ。そういう原則論を知っているはずなのに、書き言葉になぜそんなものが混じりこむのか。いいこととか、正義とかには人をしびれさせる麻薬のようなところがあるらしい。それにやられてしまうのだなきっと。ダンスの楽しさの中にもその麻薬がまじっている。スポーツもそうだ。 書き言葉は、自我肥大を生む。自分がなにかいいことを言ったり、したりしているという感覚が、知らぬ間に、自我の肥大カーブと共振しだす。風船のように自我が自信と錯誤で膨らんでいく。 <いいこと>をしているという思いが、<正しい>ことに変質するともう見るも無惨な醜態をさらしだす。偉ぶったり、強ぶったりしだす。そして、押し付けがましくなる。 自分の中のもっともか弱いもの、ひ弱で死に瀕しているものを忘れてしまう。大またですたすたとまたぎこしていく。 大またで踊るときは注意しなければならない。その一歩がどんな動けないクオリアをまたぎこしているかを、知っていなければならない。こんな大きなレンジの注意は、意識にできる仕事ではない。下意識の透明覚を開くしかない。 |
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2006年7月5日 生徒ひとりひとりに自分がこの一月で受け取ったものをほかの人に伝え返す授業をやってもらったことを今日の「共振塾ジャーナル」に書いた。リバース授業と呼んでいる。 今日は生徒の導きに沿って、始原生命への遡行瞑想で、わたしたちが胎内でたった一つの単細胞であった時代に導かれて行った。 わたしは一心に原初の細胞になりこみ、生きているクオリアとはどんなものかをからだのなかに探り続けた。言葉にはならないが、なにやらからだの中でうごめいているものがある。そのうごめきに聴き入っているうちに、突然、なにやら異様なサブボディがうごめき出した。外界の騒々しさや、自分の胎内に入ってくる異様なクオリアに反応して、なにやらわけの分からないことをつぶやきだすサブボディが出てくる。これまで出したこともないような妙な声を出していると、声の異様さに導かれて、次から次へと違うサブボディが出てくる。何十分かそのサブボディが出てくるままに踊った。ありとあらゆるサブボディがほとばしり出るままに任せた。ほかの人とコミュニケートするのもいれば、一人で踊りたがるのもいる。実にさまざまだ。 じぶんでも驚くほど、からだの闇には、奇妙なサブボディがまだまだいっぱい詰まっている。その体験から、たぶん私の中からときどき顔を出す未知の人格は、おそらく胎児時代に起源を持つだろうということが分かってきた。 今日の胎児に遡行した体験では、外界のざわめきに一心に聴き入り、その異様なざわめきに反応しているサブボディの手ごたえが感じられた。 私の父は、わたしが母の胎内でまどろんでいたころ、すでに新地と呼ばれる赤線地帯に出入りし、別腹の妹をもうけていた。それを知った母との間で激しい応酬があったに違いない。その諍いはわたしが生まれてからも延々と続き、わたしが中学3年のころにとうとう離婚するまで続けられた。それが子供時代の環境だったから気がつかなかったが、胎児時代からそれが始まっていたとすると、胎児のわたしに対し、母の激怒や悲しみが、アドレナリンやその他のホルモンの急激な放出として、へその緒をつうじて体内に流れ込んで来たに違いない。私の中でうごめく起源が不明だった怒りや悲しみの人格たちの起源はおそらくその胎児時代の異変に発しているだろう。 その胎内起源のサブボディが、乳幼児期の体験を通じて、状態依存的記憶として固定・沈着したものが、解離された人格状態となったのではないか。そして、驚くべきことに、人格状態にさえならなかった無数のサブボディたちが、まだまだからだの闇のそこにうごめいていることを知った。今日の胎内遡行の体験でであった見知らぬサブボディたちは、おそらくまだ人格として現われてこない人格状態の素のような存在ではないか。 多重人格の人から、次々と人格状態が生み出されてくるのは、この胎界起源のサブボディたちが素になっているのではないか。 この記述を読まれた解離性障害の人がもし、思い当たることがあればお伝えください。わたしたちには、からだの闇を探るネットワークのようなものが必要です。それはあまりに深い闇で、しかもどこかであなたの闇と私の闇が連絡している、そんな奇妙な多次元を変容流動している闇なのです。 サブボディメソッドは、この胎内起源のサブボディを含め、自分の中に眠るさまざまな、解離されたノットミーや、サブ人格たちを踊りの場に呼び出し、一緒に踊っていくものです。それを通じ自分の全体(自全)に触れ、自全のすべての構成物を肯定し、友達になり、その中の垣根をなくしていくプロセスを育てます。 どんな惨めなみっともないサブボディでも、踊りの世界に最適の序破急をもって踊りだすタイミングさえ与えられれば、最高の踊り手になります。それが舞踏の序破急マジックです。 さまざまな心身障害に悩む人たちを含めた、世界中の人のからだの闇のネットワークをつくっていく、これは世界でも始めての試みです。共感する人の参加を持っています。 |
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2006年7月1日 わたしたちのからだの闇を探索すれば、そこは、わたしたちの日常意識が親しむ、三次元空間や四次元時空という低次元の世界とは似ても似つかない多次元変容流動世界だということが分かってくる。わたしはその興味深いからだの闇を掘りすすめて長い時間がたった。わたしはその世界で出会う面白い自分の中の分身たちと共に踊ってきた。かれらは下意識とからだがひとつになっているのでサブボディと名づけている。 ちょうど夢の中の出来事と同じように、かれらは誰かのように振舞っていたと思えばすぐ別のものに変容し、別の時空に移動している。多次元を自由自在に変容流動している存在なのだ。 この多次元変容流動世界は創造にとってはなくてはならない世界である。 私がかつて日常世界と深いかかわりを持って生きていたときは、自分の多重人格(解離性同一性障害)がでてくると色々問題になった。周りの人を驚かし、傷つけるし、また自分自身が十分傷ついていた。 だが、ヒマラヤインドに隠棲し、ここだけを舞台として踊りを創造する世界を生きはじめると、自分が多重人格(解離性同一性障害)であることが病気であるとは感じなくなった。それどころか、むしろ創造者としてはむしろ有利な資質であることが分かってきた。 自分の中から次から次へと違った自分が出てきて、違った味わいの踊りを踊りだす。踊りとしてみればこれほど面白いことはない。生徒の顔も自然に緩みだす。 だが、踊りの中ではいくら面白くても、日常世界に違った人格がどんどん飛び出してきては困る。周りが傷つくことに加え、多重である自分が徹底して傷ついてしまう。 わたしたちの周りの日常生活の論理は、支持者も多く、自らを疑うことがないだけに強く図々しく、<正しい、疑いない>こととしてその論理を押し付けてくる。 この無自覚な図々しさこそ、非日常の世界にまだないものを探ろうとする繊細な創造の精神にとって、最大の敵なのだ。まだないクオリア(質感・体感)を探すものは、支持者もなく自分の感性以外に何の根拠も持たない。いつも風前の灯のようなはかない存在なのだ。 そんなかすかなろうそくの炎のようなはかないものに対し、日常世界はブルドーザーのような論理を無自覚に押し付けてくる。 母は母の感情を当たり前のこととして子供に押し付け、妻は妻で当たり前のこととして夫を縛ろうとする。結婚前の女性は回り同様結婚したという自分の欲望を当たり前のこととして振りかざす。創造者の繊細の精神を知らないひとは、みんな赤ん坊が泣き喚くのと一緒の「赤ん坊権力」をブルドーザーのように振り回していることに気づかない。 日常の論理は一億の支持者を持つが、創造者の繊細な精神はいつも自分ひとりだ。一億対一のような、自明に不利な闘いをし続けてはならない。 すたこらさっさと逃げればいいのだ。別の生の次元へ。 それ以外に繊細の精神に自分を守って生きる道はない。 どうすればいいのか。私は答えを発見した。 日常世界への囚われからおさらばするのだ! 日常世界と創造世界を中途半端に行ったりきたりするのではなく、創造世界を中心に生きる生活を組織しなおせばいいのだ。
私はヒマラヤに自分の踊りを創造し生徒に踊りの創り方を教える学校を創った。ここで生きていると誰に迷惑をかけることもない。一人でいるときに多重人格のうち誰が出てこようと自由だ。昼間は踊りの人格リゾーム Lee。ここに無数のからだの闇にうずくまっていたノットーミー人格が躍り出てくる。夜は仕事師の人格がせっせとサイトを更新していく。私は子供時代から壁新聞や学校新聞や、文芸同人誌や、政治ビラや、文集をつくり続けてきた。これが主人格の龍二系列だ。昔、街角でビラをまき、町中にポスターやステッカーを貼りまわっていたのと同じ感覚で世界中のメッセージボードに活動を伝えて周る人格もいる。前科三犯の20歳の山沢夙だ。夜中に寝る前に、どこかのBBSにこっそりへんなことを書き込みに行ったりする人格が出てくる程度だ。3歳のりゅうり大魔王。まあ、たいした害毒をもたらすわけではない。 今の私は、瞑想と練習と授業の準備と学校で生徒と共に過ごす創造の時間がすべてだ。踊りの中の創造の世界にどんな変なわたしが出てこようと、生徒達は受け入れてくれる。もともと、自全の中のすべてを肯定し踊りの中に解放してやろうというのが私のサブボディメソッドだ。何が起ころうともそれがLeeの独特のダンスだと思ってくれるから。そして、遠い国からわざわざそのとびきり変な踊りの創り方を学びに来てくれている人たちだから。 私だけではない。日本や先進国社会の日常生活に傷つく人は誰でもここに来て新しい生き方を始めることができる。 多重人格の人はもともと多次元を多重に生きることの天性を持っている。 分裂症(統合失調症)のひとは、今の平均人とは違った仕方の想像力の広げ方を知っている。異次元を開くのが得意な人だ。 どんなに自分に才能がない、自信がないと思う人でも、自分なりにからだや心を動かすことはできる。その動きに最適のタイミングを見出せば固有の美になるのだ。誰もが世界でただひとつの自分の踊りの創始者になることができる。 サブボディメソッドはからだに潜って自分の踊りを作り出す創造技法と、互いの生命に共振し力づけあう共振タッチの技法とからなる。このふたつを車の両輪のように回して、自分の生き方を見つけていく。そこでは、世界でひとつしかない自分の特性を創造に生かしていく道を見つけることもできるし、心身の障害に苦しむほかの人を助けることのできる力も身につけることができる。ここは肯定力を鍛える学校である。 ヒマラヤインドは物価が安いので、日本で1年暮らすお金で5年過ごせる。私は今、「ヒマラヤ共振村」というような互いに助け合う定住圏づくりを構想している。 そしてやがては世界中に肯定と共振のさざなみを広げていくのだ。共振塾の卒業者は、このヒマラヤだけではなく世界中の物価の安い地域に、互いに肯定する生き方を育てる拠点をつくっていくという生きがいに満ちた生をはじめることができる。はじめは小さい波でも、それが本当に今の人々に必要なものだということがわかれば自然に広がっていく。 さあ、ヒマラヤはこれから雨期だ。日本の長野のような涼しい季節になる。からだの闇にうち込むにはうってつけの季節だ。
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