February 2008

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――
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2008年2月22日

水狂いの帰還

なんと長い間深い地層に人知れず潜んでいたことだろう。
わたしは20代の後半から30代にかけて水に首ったけだった。
その頃、社会に背を向けて、水の中の透明な生き物をずっと眺め続けていた。
京都の木津川・桂川・宇治川の三川が合流して淀川になる土地に住んでいたので、
水の生態系がとても複雑で面白かった。
毎年雨季が過ぎると、河原のあちこちにワンドと呼ばれる大きな水溜りができた。
そこは淀川水系の淡水魚の稚魚の天国だった。
毎日小さな網を持ってまだ幼い子供を連れて稚魚をすくいに出かけ、
それを二本の90センチ水槽で飼育していた。
淀川水系には500種ほどの淡水魚が棲むが、
そのうち200種ほどは実際に掬って飼育した。
魚の稚魚は数ミリの透明体で、大きさきさによって
食べることのできる微生物が限られていた。
彼らのためにミジンコやその子供、さらにミジンコの食べ物となる
植物プランクトンなどを生育する池を庭に掘り、
絶えず顕微鏡で観察を続けていた。
顕微鏡で見るそれら微生物の透明な世界は、まったくの異次元で、
うつくしい舞いをするノロというプランクトンや、
空恐ろしい形相の原生動物、
ミジンコの愛嬌のある動き、透き通った淡水えび、
ワムシや淡水クラゲのひょうきんな泳ぎ、
ラッパムシにツリガネムシらが、その頃のわたしの友だった。
彼ら、あまりに透明な水の中の生き物達と共振しながら、
わたしはその頃一心にからだの中の太古の闇を探っていたのだ。
十数年続いたその水狂いの生活の間に共振した小さな生き物達は、
踊りを始めて以来ずっと自分のからだで踊り続けてきた。
わたしのなかに棲んでいる無数の原生体を発掘し続けることから
わたしの踊り手としての人生が始まった。

長い間その世界から離れていたが、
今年の冬、庭の片隅にプールを造ったことから、
突如その三十年前の水狂いのわたしが帰ってきた。
プール用に雨水をろ過して使うためと、プールの水を循環ろ過るために、
三つのろ過槽を作った。
このろ過装置はわたしの水狂いの日々の最大の格闘の場だった。
ろ過装置に発生する硝酸バクテリアや亜硝酸バクテリアが、
生物の排泄物を消化し、きれいな水に替えてくれる。
だが、その管理を少しでも間違うと、
ろ過層は逆にさまざまな微生物の格好の棲息現場となる。
インドの水には、見知らぬアメーバやバクテリアが棲んでいて、
彼らに対する免疫のない外国人は激しい下痢に襲われる。
これまでに体験したことのないアメーバとの深い関係が始まる。
わたしの自全の深層で長いこと眠っていた水狂いが起きだして活動をはじめた。
いまはネットで、世界中のろ過装置を研究できる。
上から水を漉す伝統的な方式の他に、下から漉すもの、
横から漉す方式などさまざまな方式が生まれている。
これから長いろ過狂いの日々が続きそうだ。
アメーバやバクテリアほど手ごわい相手はいない。
なにしろ、彼らはその形のまま40億年を生き抜いてきたのだ。
人間などの新参者になかなか歯が立つ相手ではない。
彼らに相手をしてもらえるだけで幸せだ。
わたしの中の水狂いは、再び生きる場を得て、感涙にむせいでいるのがわかる。
踊りをするからだにこういう科学者系・エンジニア系の人格が割り込んでくると、
実に具合の悪いキメラのようなからだになるのだが、仕方がない。
自分全体を引き受けて生きることはわたしの本懐だ。
2008年2月13日

いくつかのからだのモードについて

ステップイーグルの旅立ちを眺めながら、
ここ数日は午前いっぱいを屋上で過ごしている。
空を眺めながらイーグルのからだにずっとなりこんでいる。
何が彼らを飛び立たせるのか?
早春になり温かい日が続くと、かれらの細胞内で眠っていた
即時遺伝子が蠢きだし、長い渡りに耐えるからだに造り替える。
高度10000メートルの零下数十度という極寒の中を
何千キロも飲まず食わずで渡っていける
極度の戦闘状態のような鋼鉄のからだに変成するのだ。
だから、今日が旅立ちと決まった鷲の飛び方は一目で分かる。
何の迷いもなく高度8000メートルあたりまで舞い上がり、
その高度に達すれば、一直線に東に向けて滑翔飛行に入る。
地磁気や地形や空気の匂いなどの総合的な外クオリアに、
生命記憶の内クオリアが強く共振する方角が一点だけある。
その方向にただ向かえばいい。
それがからだで分かる、という感じがわたしにも共振できる。
その潔さは、見ているだけで胸を打つ。
その鋼鉄のような飛び方に比べ、
まだ飛び立つ日に熟していない鷲の飛び方は
ふらふらと所在無げだ。
いかにも調整中です、といわんばかりのゆらぎに満ちている。
からだのモードがまるで違うのが飛び方で分かる。

動物には大きく分けて交感神経モードと、
副交感神経モードの区別がある。
だが、微細にからだのクオリアを聴き続けていると
交感神経モードにも多様な程度の差異があり、
副交感モードにもさまざまに細分化される多様性があることが分かる。
闘うか逃げるかののっぴきならない最高度の戦闘状態から、
鷲など渡り鳥にとっての渡りモード、
余裕のある闘争モード、警戒モード、
やや緊張しているモードなど、
興奮にも無数の階梯がある。

副交感モードのからだでも、
食欲モードと性欲モードではまるで違う。
休息や瞑想モードにも深浅の差異が無数にある。
意識状態にも、言語モードが活性化しているとき、
人間関係の中で自我が発動されているとき、
静かにからだに耳を澄ませられているとき、
など、下意識モードとの間に無数の階梯がある。
下意識のサブボディモードにも、
どのチャンネルが開いているかで大きな違いがある。
からだの体感クオリアがよく感じられるとき、
ひとりでに動きが出てくるとき、目がよく動くとき、
息や声や音像流が出てくるとき、情動が沸き立つとき、
関係像が入り乱れるとき、世界像と自己像がどんどん変わるとき、
何らかの欲望に突き動かされているとき、
自分が欲望に動かされていることが透明に見えるとき、
など実にさまざまだ。

四六時中わたしは、自分の心身のモードの微妙なたちゆらぎに
聴き入っている。
毎日やっていることのほとんどすべてがそれだといっていいほどだ。

解離性のサブ人格を数多く持つわたしには、
これらの一般的なモード変化のほかに
独特の解離人格モードが存在する。
親しい人との別れを体験して悲しまないために
感情を凍結するヒューマノイドモード、
わずらわしい大人の社会的出来事から逃れるために
自然とのみ親しむ鳥吉、魚助、石麻呂、苔丸などの
自然逃避モード、
成熟した女性を感じず、関係を遠ざけるロリモード、
そして、命を賭けた闘争状態のからだに
突如過剰に入りこんでしまう修羅モード、
その他名づけられない微妙なモードがまだまだいくつかある。
そして、学校の授業がある時期は、
ここ数年これらの人格分裂状態を統御する教師人格が
強く立ちはだかってきた。
いままで、これらの解離した人格状態はいきなりわたしをのっとるように現れてきたが、ここ数年は教師人格が強固に立ちはだかっているのと、透明覚を絶えず働かせているおかげで、
それらの交替の出来事がかなり透明に見透かされるようになって来た。
これらの解離した人格状態が現れやすい契機を生活の中から
限りなく排除したことにもよるが、最近は解離人格にたやすく
のっとられることも少なくなった。

だが、どんでん返しはいつも油断の中心で起こる。
昨日あるほんの小さな出来事があっただけで
わたしの心は突如感情を閉ざしたヒューマノイドモードに
急転換して自分でも驚かされた。
まるで太平を夢見ていた世で時限爆弾が発火したかのような出来事だった。
そのきっかけとなった出来事は秘めて書かない。
わたしの心の最大の弱点がそこに存在することだけは確かだ。
はじめて知った驚きに、とてもまだそれについて考える
心の準備ができていない。
こういう問題はいきなり触れずに、
じっくり遠巻きにして温めておくのがいい。
取り組める準備ができれば自然に取り組んでいくものだ。
それにしても、からだの闇には、
見覚えのない怖い秘密が詰まっている。
少しでも侮れば死と破滅があるのみだ。



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