May 2007
| 2007年5月29日 ●このフレアがいい 夕べはコロナのビデオをいろいろ楽しんだ。 そのなかで、このビデオが抜きん出ていた。 コロナの爆発をフレアという。 漢字で耀斑というのもいい感じだ。 これほど素敵な踊りをするやつはちょっといない。 俺は17歳の頃からコロナのフレアのファンだった。 40年前にはこんな動画などなかったろうに、 俺にはこの動画像と同じイメージができていた。 だからやけに懐かしい。 フレアもやはりひも共振の連鎖によって起こる。 いったいどんな激しいひも共振パターンなのか。 想像力を極限まで鍛えるのに、 ひも共振ほどふさわしいものはない。 微弱さの極限から、激しさの極致までそろっている。 これに比べれば後のものは皆甘いんだよね。 中途半端なんだ。 微細さも、強烈さも、中途半端は一番いただけない。 なぜわたしはこんな過激な性向に生まれついたのか。 ほぼ事情は透明に見渡せている。 父親はわたしがまだ1歳にならないときに 腹違いの妹を新地の芸者に孕ませた。 その手切れ金に祖父が建てた家屋敷を売り払わねばならなかった。 父親は養子だったのだ。 大阪から買い主になった家族がその家に引っ越してきた。 その家族にひとつ年下の目が丸くふくよかな顔つきの男の子がいた。 おそらく、その頃一緒に住んでいた祖母に毎日吹きこまれたのだろう。 あの子にだけは負けるなと。 わたしの中にその少年に対する敵愾心が刷り込まれた。 なぜだか知らないが、その後転校するたびに必ず、 その少年に似た裕福そうで目の丸い顔つきの少年に出会い、 その都度、無性に敵愾心が掻き立てられた。 向こうも分かるらしく、その顔つきの少年は、 行く先々でことごとくわたしに敵対してきた。 そういうわけで、わたしは軟弱なものすべてを敵視するようになった。 フレアのイメージが好きになったのもその文脈からよく納得できる。 父親が浮気をすると、その息子がフレアを踊る。 風が吹くと桶屋が儲かる話のような回りまわった因果だ。 |
| 2007年5月28日 ●太陽のコロナ爆発を踊る 太陽観測衛星ひのでが、昨日から全画像データの公開をはじめた。 昔から、太陽のコロナが大好きだった。 何度も詩に書いたほどだ。 その様子が鮮明な画像で見ることができるようになった。 太陽の表面温度は6000度Cだが、 上空に舞い上がるコロナの炎の先端部は100万度Cに達するという。 そこから強烈なX線が発射されている。 正確に言えばX線を生成するひも共振パターンが発生している。 人間には感知できないX線のひも共振とは どういうものだろうと想像する。 そして、心の中で踊ってみる。 やはり、ひもに成りこむのが、 現在ではもっとも自由に想像力とからだを 解放することができる。 詳しい記事は、「国立天文台ひのでホームページ」へ もうひとつ、YouTubeのこの画像も フレアの様子がよく見えて面白い。 |
| 2007年5月14日 ●桂勘 タイムマシン YouTubeで偶然、桂勘さんのビデオを見つけた。 桂勘は私が45歳でコピーライターをやめて 舞踏の道に進もうとしたとき、もっともお世話になった人だ。 土方巽以外の唯一の舞踏の師といえる人だ。 1990年代の数年間、インドネシア、ハワイ、韓国、タイ、 シンガポールなどの合宿と公演に参加した。 多くのものを彼から学んだ。 このビデオ「タイムマシーン」は 2005年のニューヨーク舞踏フェスティバルでのもの。 何度も見た美しい作品だ。 懐かしく許可もなく掲載させていただいたが、 私は彼が著作権などけち臭いこの世の原理に 囚われている人でないのを知っている。 彼は舞踏とは現世とは別の次元に生きているものと 共振するものであることを示唆してくれた。 勘さん!健在振りを目にできて何よりです。 |
| 2007年5月12日 ●静かな共振生活 土日の休日はただただひとりで生命の共振を感じて過ごす。 5月になると、庭の樹々の緑が濃くなり、さすが奄美大島と 同じ緯度の亜熱帯の森の様相を見せ始める。 樹々はもの静かにただただ太陽の光を存分に浴びて 光合成を続けている。 それを感じつつ、その静けさを少し分けてもらう。 およそ35億年前にシアノバクテリアが光合成を発明しなかっ たら、 この地球の生命も随分違ったものになっていただろう。 大気はメタンや窒素ガス、炭酸ガスに満ちていただろう。 酸素を供給する植物が生まれなかったとしたら、 酸素を呼吸して生きる好気性のバクテリアも、 動物も生存する余地はなかっただろう。 生命は嫌気性バクテリアとして、 地中や泥の中でメタンや硫黄とともに生きるしかなかっただろ う。 もちろん、その条件下でも嫌気性の生命系が40億年のうちに 多彩に開花したかもしれない。 メタンと共振するメタン呼吸法が発明され、 好メタン生命が大進化していたかも知れない。 庭の石垣にはこの5年の間に無数の小さな植物が棲みついてい る。 インド固有の、日本では見かけない種も多い。 インドで野草として生き残るためには、 全土に放牧されている牛の食欲から身を守る鋭い棘や、 苦いアクを持つ必要があったようだ。 野あざみの棘の強さは日本の比ではない。 棘に刺されると三日ほど痛む草もある。 ●命からの苦い便り 共振を味わうには、こういう痛い共振も避けて通れない。 痛みや不快感は生命の深いメッセージにつながっている。 生き延びるためのクオリアなのだ。 通常ネガティブと受け止められ、 無視されがちなクオリアを馬鹿にしていはいけない。 重要な気づきの種はいつもまったく取るに足りないほどの 微細な体感の中に折りたたまれている。 それも、いい体感ではなく、 どちらかというとかすかに不快な、居心地の悪い、 奇妙な体感の中に含まれていることが多い。 良薬、口に苦し。 命からの便りはいつもかすかに苦いのだ。 私はここ数日の間、 体内を時おり過ぎる奇妙な体感を探り続けている。 血圧が急に変わるときのような、 世界を失うかのような、奇妙に悲しいクオリアだ。 今のところまだそれが何を告げているのかは分からないが、 これまでの重要な気づきは、 いつもこういうかすかに不快なクオリアから始まったことを思 うと、 今回も見逃すわけにはいかない。 通常の日常意識モードの自我は、 これらのかすかな気持ちの悪い体感など相手にしない。 気づかないか、気づいても取るに足りないこととして すぐ忘れてしまう。 「ソンナ取リ合ウニ足リナイツマラナイモノニ カカズリアッテイル暇ハナインダ。 私ニハモットシナケレバナラナイコトガアル」 そう、そこに命からの大事なメッセージが 折りたたまれているというのに、自我はそれを無視し、 別の『大事な仕事』に取り掛かる。 だがいったい、生命の声を聴くより大事な仕事などあるのだろうか? わたしも15年前まではそうだった。 こうして、日常体は命から遠ざかる。 生命の声に耳を閉じ、自分のからだからはぐれる。 生命共振を忘れた自我に立てこもり、窮屈な一生を送る。 自分を人間だという近代の思い込みには、 私たちが生命であるという気づきを覆い隠す 巧妙な仕掛けが仕組まれている。 自我というあたかも自分の持ち物のような小さな建物に立てこもることは、 私たちが生命であり、誰のものでもない40億年も続いてきている生命を 分かち合っているだけであるという生命の事実を忘れさせる。 この重大な隠蔽によって、他国の生命を奪ったり、樹々を切り倒したりする、 近代資本主義やその国家が行う世界史的な蛮行を可能にしたのだ。 |
| 2007年5月9日 ●ミンデル、共振原理を理解する数少ない一人 アーノルド・ミンデルの近著 『からだの症状に<宇宙の声>を聴く』は、名著だ。 もともとは物理学出身のミンデルが、 長いドリームボディワークの臨床経験や 世界ワーク・昏睡ワークなどの幅広い経験から得た 真実を渾身の力で書ききっている。 これまでは、量子力学までを 視野に入れているにとどまっていたが、 この著作でははじめて最近のひも理論までを 視野に入れて展開している。 その結果、人間が主体として何かを認識したり、 行動したりすることが、実は幻想・錯覚であり、 実際には、ひとと向こうから来る何ごとかが出会っているのだ、 とする共振性原理そのままの認識にまで踏み込んで 述べているくだりが感動的だ。 私以外にこんなことに気づく人がいたことに驚いた。 わたしは共振性原理は、アインシュタインの相対性原理に匹敵するか それ以上のとんでもない原理の発見だと思っている。 近代の自我や主体や意識に基づいた認識が すべて幻想だったというものなのだから。 だが、違った道からミンデルもこのことに気づいていたとは! いったいミンデルはどんな道を通ってこんな認識に至ったのだろう。 ミンデルがこういったからといって、 すぐには理解されないだろう。 共振性原理やミンデルの理解に届こうとすると、 近代的な知性や自我意識をすっかり捨てることが できなければ到底無理だ。 しかもその上で、東洋の伝統思想や先住民の思考や、 近代の科学の成果を等価に受け入れる透明さが必要なのだ。 それらのどれかひとつの穴ぼこに入ったままでは透明になれない。 今の世の中は小さな不透明な穴ぼこにはまったままの人ばかりだ。 いわゆる科学系の人の穴ぼこ、東洋系の人の穴ぼこ、 そんな穴にはまったままの不透明な知性には もう世界は捉えられなくなってしまっているのだ。 だが、穴ぼこの中の人にはそのことに気づくこともできない。 ミンデルは、科学にも、東洋思想や先住民の思考にも、 瞑想やからだの闇に耳を澄ますことにかけても、 透明な境地に透脱している。 東西のなんらの思潮傾向にも染まらず、 世界が本当に透明に見えている人だ。 |
| 2007年5月6日 ●糸井重里の、とても本当さ 糸井重里は時々とても本当なことをさらりと言ってのける。 特異な才能の持ち主だが、 今日の「ほぼ日刊イトイ新聞」の「ダーリンコラム」にはうならされた。 今までで一番深く共振した文章だった。 「 <世のお父さんは、みんな卑怯だった> 「世のお父さんは、みんな不良だった」のだけれど、 それはすべて自分の証言によるものである。 「悪いことはさんざんやった」と、 うれしそうに言うけれど、 どうしてそれが自慢そうに語られるのだろうか。 「不良だったおとうさん」たちは、言いたがる。 社会に怒っていた、 曲がったことだけはしなかった、 弱いものいじめだけはしなかった、 ‥‥というようなことを、みんなが言いたがるのだ。 その話は、ほんとうに、ほんとうなのか。 ほんとうにほんとうに、ほんとうなのか? ぼくは信じない。 世のお父さんが、 みんな「不良だった」と言いたがるのは、 まぁまぁいいことにしよう。 でも、もっと大人たちは、憶えていたほうがいい。 自分が、(すべて心ならずも、と考えてもいい) ウソをついたこと、 裏切ったこと、 卑怯なふるまいをしたこと、 約束をやぶったこと、 問題に立ち向かえなくて逃げたこと、 見栄を張って飾ったこと、 ずるいルールやぶりをしたこと、 弱いものいじめをしたこと、 強いものにへつらったこと、 わかりもしないことを知ったかぶりしたこと、 こっそり他人の足をひっぱったこと、 人に暴力をふるったこと ‥‥などなどなどを、 自分が、 やった、 ということを忘れないほうがいい。 言いたくはないけれど、ぼくはやってきている。 好き好んでやってきたとまでは言いたくないけれど、 ひととおりの悪いこと、いや、 (悪いこと、というのはちょっとかっこよすぎる) みにくいことを、やってきている。 だから、人のやるみにくいことについて、 そう簡単に責めたりはできないと思っている。 「恥を知れ!」というようなことを、 よく言いたがる人たちこそ、 もっと恥ずかしいと思ったほうがいい。 その人たちは、大人として生きてきて、 「みにくいこと」をやってこなかったという、 いちばんタチの悪いウソをついている。 」 かなり省略したので、原文を読んでほしい。 「ダーリンコラム」へはここをクリック! 赤字で引用したみにくいことを、 わたしもすべてやってきた。 いやぁ、この程度ではすまない。 もっともっとひどいことをやってきた。 それを書いてしまうと、もうだれもこの学校に来てくれなくなるので 書けないほどのことをいっぱいやってきた。 それらをしないで生きていこうとする 殊勝なやつもわたしの中にいた。 だが、かならず、それを裏切る小ずるいやつもいた。 理性の制止を超えて素早くほとばしり出てしまうやつがいた。 それらすべてを透明に見通し、 すべてを自分として引き受けることしか生きる道はない。 みにくいこととか、卑怯なことをやったということを 自我は認めたがらない。 覆い隠し、自分でもなかったことにしてしまう。 大概の人はその分厚い自我の皮を被って生きているが、 糸井重里はそれを被らないことを信条としてやってきた。 同い年だから、長い間それを感嘆しつつ見てきた。 ここまで自分のやってきた卑怯なことやみにくいことや弱さを 引き受けられるやつはそうそういない。 団塊の世代がみんな白い腹みせて浮かび上がっている現在、 稀有な存在だ。 どうか、長生きしてほしい。 |
| 2007年5月6日 ●共振ゆらぎの暮らし 土日は丸一日ただただ、 身の回りのクオリアと共振しゆらぎ続ける。 朝目を覚ますと、半眠半覚状態で ぼやーとしたクオリアを味わい楽しむ。 大概わたしのサブボディは一晩中 授業の予行演習をしていることが多い。 明け方に次の課題を思いつくことが多いのは、 その成果なのだろう。 ときにとんでもない夢の名残にも出会う。 その余韻のクオリアを味わう。 いつか誰かと起こりそうで起こらなかった 性的な接触未遂のクオリアが好きだ。 夢の中でもそういうクオリアを反芻し、 変奏しているようだ。 目を覚ますと、起きだして座り、 腰を回す。 毎日睡眠中に腰の位置が少しずれて重くなる。 その重苦しさが消えるまで腰を回しゆする。 目に触れる木々の緑は日に日に色を変えていく。 虫や鳥が空を横切る。 実にさまざまな命のクオリアを味わえる庭だ。 鷲、鷹、隼、禿鷹、鳶、烏、燕、鸚鵡、尾長、 さすがにヒマラヤインドだ。 マングースの一家は年中健在だ。 黒面白毛のマヌカン猿が樹の新芽を食いに来る。 近所の猫の兄弟姉妹が訪れるようになった。 この村人はみな野菜しか食わないので 猫は空中にジャンプして蝶や蛾を捉えて 動物性たんぱく質を確保している。 唯一魚を食うわたしの出す魚の骨目当てに やってくるようになった。 そうしてゆらいでいる間に新しい調体法を思いつく日もある。 ここ二三日は、立ってゆらぐことの可能性を味わった。 実技ガイドの「ゆらぎ立ち」に書いたが、 五月のコースはこれまでになく、 立ってゆらぐことからはじめてみようと思う。 立つことから、歩行へ。 出てくる動きも変わってくるはずだ。 ひとゆらぎしてから朝粥懐石朝食を摂る。 いろんなものをほんのすこしずつ皿に乗せて味わう。 インドで作っている糠付けの大根、人参、胡瓜。 にんにくの甘酢漬け、ビートの甘酢漬け、 鰹節と味噌を混ぜた金山寺味噌。 祖父はいつもこれだけで朝飯を済ませていた。実にうまい。 のりの佃煮、ナメタケの瓶詰め、川魚の佃煮、 出し巻き、キャベツ炒め、…… これらのクオリアをほんの少しずつ味わいながら 朝食を摂る。 食うこともゆらぎつつクオリアを舌と胃袋で味わうことだ。 微細なクオリアゆらぎを味わう。 すべてのチャンネルのクオリアを同時に味わうと 味わいが無限に深くなる。 これを好み、これを味わい、これを楽しむ。 宣長のように山桜にこだわるのではない。 すべてのクオリアは味わい深いことを知っていく。 好き嫌いなど自分のこだわりは すべて思い込みであることが分かってくる。 ところが、 いつまで経っても自分の好みというものは 思いこみだと分かっても快適で甘いものだ。 思い込みだからこそ甘いのかもしれない。 自我のもつそういう自己愛的コクーン癖は 子宮内の胎児時代に起源をもつものだろう。 ただゆらぐ。 自己とも自己という錯覚ともゆらぐ。 ただクオリアをゆらぎつつ味わう。 これがヒマラヤでの クオリアゆらぎの暮らしだ。 長い時間をかけて、お気に入りの暮らしを つくり上げてきた。 世界にはこのクオリアゆらぎの暮らしを 妨げる力があることを知っている。 そういう力は極力遠ざけてきた。 戦争や国家の暴力を報じるテレビや新聞はもちろん見ない。 自分で自我の処理ができない人との交際も注意深く避ける。 そういう人はどこかしらで、自我を赤ん坊のように押し付けてくる。 何とかしてよと擦り付けてくる。 自立できていない人とは会わないことにした。 ただ、そういう国家や自我優先の社会をいかにすれば 変えていくことができるのか、 その方向へ少しずつにじり寄っていく。 それは微細な力だが、この微細な力が共振して 世界の潮流になるとき 国家や自我優先の社会は死滅への道を歩み始める。 すでに世界各地からアジア、インド、ヒマラヤへ旅してくる世界の若者は、 多かれ少なかれ、現代国家や先進国社会のシステムを 忌避する潮流を形成しつつある。 世界の主流派の人々と比べれば、微々たる潮流だが、確実に存在する。 今、少ないからといって悲観することは何もない。 クオリアの共振は瞬間的に全世界に伝播する。 一瞬にして世界中の人の心が、一斉に共振する事が起こりうるのだ。 1968年に先進国の学生労働者をバリケードストライキと、 街頭闘争に駆り立てたのも、この瞬間的な世界共振の力だった。 ただただ、本音を伝え続けることだ。 声高な政治的主張ではなく、微細なクオリアほど共振する力が強いのだ。 感受性の傷つきやすさのようなクオリア。 自我や国家を忌避するクオリアの微細なふるえを伝えあうことだ。 それだけ続けていれば、いつか一瞬にして、世界は変わっているだろう。 うそだと思う人は、このページの上のイラストをようく眺めてほしい。 もしひも理論が正しければ、 この世のすべてのものは、共振しているひもからなるのだ。 特に、命が感じるクオリアは、物質やエネルギーという重い共振から 解き放たれている。ごくごく微細なひもの共振からなるのだ。 命が感じあうクオリアの共振力こそ、おそらく、 宇宙でもっとも共振力の高いものなのだ。 |
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