January-February 2008

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2008年1-2月
2008年2月24日

反骨の変体舞踏


袋坂ヤスオは、1997年ごろ、天皇陛下が大阪の長居陸上競技場で
なにかの式典に参加したとき、観衆と警護の刑事でひしめく雑踏の中で踊ったことがある。
友人の山下信子がビデオを構え、わたしも友人数人とその場を見守った。
彼が雑踏の中に歩み出て、ほんの少しからだを奇妙にうごめかしはじめた瞬間、私服刑事が二三人走りより、
「ボク、具合が悪いのかい?」
とからだを抱え、あっという間に連れ去った。
「いったいここには何万の私服がいるんだ!」 
というほど雑踏に潜む私服刑事の密度が濃かった。
そうか、すこし頭が弱い子が変なことをしでかしたというふうに周りに見せかけて、荒立てないように異分子を排除するという方針だったのだ。
袋坂の踊りで警察の警備戦略が一挙にあらわになった。
袋坂と共に世界が三秒間舞った。
平和な日本の秩序の裏側の、その凶暴な暴力であらゆる不穏な動きを封じ込めるという秩序側の決意のすごさを見せ付けられた。
そういう不可視の暴力的結界によって、日常的な動作以外の余計な動きはすべて封印されて、日本の表向き平和な生活は続けられている秘密が露になった。
袋坂はその見えない結界をあらわにするために踊って見せたのだ。
機会があればわたしも踊りだそうと身構えていたが、
いくつもの反政府闘争の前科を持つわたしとのかかわりを明るみに出しては彼の背後関係などが、しつこく洗われて迷惑をかけるだろうと自重した。
山下信子さんが撮ったビデオは、当時京都のわたしの家で毎週行われていたビデオダンスパーティで上映された。
集まってくる若い人々の反応はまちまちだった。
これぞ、今年一番の踊りだと感激するもの、
「変な英雄主義じゃないか」と反発するもの、さまざまだった。
だが、わたしのまぶたにはその三秒ほどの袋坂の肉体と世界が共振した瞬間が焼きついてはなれない。
そういう鮮烈な瞬間はめったにない。
袋坂はいまも、変体舞踏と銘打って同様のパフォーマンスを続けていることをサイトで知った。
彼は踊りが成立する・しないの瀬戸際の、とてもユニークな場所を発見し、切り開き続けている。
そこではじめて、現代の人々がなぜ踊りや創造性を失っているのかが露わになるような、現代の分厚い元型や黙契の封殺力と抗いながら。

袋坂よ、疲れを知らぬ反骨の精神と肉体よ、健在なれ!

●袋坂ヤスオ プロフィール(彼のサイトから)

1996年よりソロダンスを始めた。雑居状態で繰り広げられる即興のはだかおどり。
「ダンス」というのも憚られる表現でお騒がせしています。
06年9月の安倍政権発足以来、変体舞「美しい国」を連続公演している。
「停滞」と「猥雑」そして、目指すは「不敬」、さらに「大逆」・・・。
捕まらないように頑張りたい。

●Yasuo Fukurozaka

After studying "Noh" and "Butoh", he started to do solo
dance performances. He collaborated with many musicians
when making improvised dances. Yasuo usually performs
outside of the theatre, for example, he once performed in
the basement of Osaka Tsutenkaku . From 2006 to 2007 he
created a series of performaces titled "Beautiful Japan".
which criticised Japan's Prime Minister of the day.
Fukurozaka is also an active member of the monthly
improvised dance get-together "Dosei no Kai".

袋坂ヤスオのサイト「噴炎二節棍」:
http://www.geocities.jp/fkrzkys0/



2008年2月23日

中島みゆきと吉田拓郎 『永遠の嘘をついてくれ』




「喉首伝う欲望をネクタイで締め」

そのようにしてわたし達は毎朝社会に出た。
これは清水昶の若い頃の詩の一節だ。
会社員をしていた20代の頃、毎朝のように
この詩を唱えて出社していたが、題名はもう忘れた。
欲望は命の友だ。
それはいつもからだの闇から不意に湧いてくる。
わたしたちは一生欲望ともっともよい付き合いを見つけるために生きる。

今日は中島みゆきの誕生日だ。
2年前のつま恋コンサートで、彼女が吉田拓郎とデュエットした映像をだしに、
今日は欲望について語りたい。

吉田拓郎のつま恋コンサート2006で、
中島みゆきが拓郎のために作詞作曲した
「永遠の嘘をついてくれ」を二人で歌った。
生まれてはじめての、そして、おそらく最後のデュエットだった。
二度とこんな出会いは起こらない。

はじめてこの映像を見たとき、
中島みゆきのからだのとてつもないぎこちなさに驚いた。
30年来彼女を見てきて、
もともと歌うときなにがしかはぎこちない人であり、
それが魅力でもあったのだが、
こんな強烈なぎこちなさを眼にしたのははじめてだった。
こわばった歩き方、拓郎に向けた引きつったような笑顔、
何万という観客をにらむまなざし、硬い声。
そしてからだの闇から時を超えてぬめりたつ欲望と
それを鎮めようとする無意識の両手の動き。

いったい彼女のからだで何が起こっていたのか?
長い間わたしは喉に刺さった魚の骨のように
このぎこちなさが気にかかって仕方がなかった。

わたしは自分のからだで起こっていることを透明に見たいと
意識と下意識とからだの関係を探求してきた。
その間にはねじれだのきしみだの、いや、言葉にできないほどの
多次元的な複雑な出来事が起こる。
生徒のからだをみても、意に染まないことをいやいややっているからだは、
正直にそのことを語っている。
からだの底からにじみ出てきた動きは、
一見どんな醜い動きでも生命のぬめりに満ちて輝いている。
自分や生徒のからだをみるように、
彼女のからだで起こっていることを透明に見ようとしていると、
少しずつ透き通ってきた。

(しまった。こんなはずじゃなかった。
もっとさりげなく会えるはずだったのに……)
さいしょにからだが感じたのはこの戸惑いだ。
なにかが違う。だが何が違うのかつかめない。
いきなり異次元に放り込まれたような、
強烈なめまいのようなものに包まれる。

この人を好きでたまらなかったのは、
あれはもう何十年も前のことだ。
疾うに過ぎ去ったことと心の整理もついていたはずだ。
だが、彼女にとって想定外だったのは、
目の前のむさくるしい六十男に向かう54歳の自分ではなく、
あの当時そのままのからだのクオリアがむくむくと
みずみずしいままよみがえってからだを捉えたことだ。

中島みゆきはデビュー前の学生時代、
コンサートの手伝いのバイトをしたり、
楽屋にミニスカートで出入りしたりと、拓郎の追っかけをしていたという。
じっさい、70年代初頭の吉田拓郎は彗星のように輝いていた。
詩人の北川透が、『詩的リズム』という書物で
拓郎の一音に二音節ずつ載せる独特のリズムの鮮烈さを
見事に分析したのは70年代の中ごろだ。
「きみ・の~・髪・が~・肩・まで・伸び・たら・
けっ・こん・しよ・うよ・ぼく・と~」
日本語の歌唱史上で、こんな独特なリズムが生まれたのは
彼の発明によるものだ。
その後多くの歌手がこの新しい変則リズムを受け継ぎ発展させた。
だが、フォークのヒーローも歳をとる。
1995年、スランプに陥った拓郎から作詞作曲を依頼されたとき、
中島みゆきは拓郎独特のリズムにのりうつってこの歌を創った。
いつまでも永遠の人でいてくれと、
老いたヒーローを鞭打ち、叱咤激励の願いをこめた。
そして、ついに手に入らなかった人への永遠の愛もこめた。

舞台に登場すると、自分の年齢も相手の年齢も超えて、
大好きだった頃のクオリアがからだいっぱいに満ちてきた。
手に入らなかったものへの怨念や口惜しさでいっぱいになる。
いやそれどころか、生まれてはじめてデュエットしていることへの恍惚がたぎり立ってくる。
ここはどこ? いまはいつ?
わけが分からなくなる。
相手のからだをかきむしりたい衝動がからだを突き上げる。
激しい生命の共振が起こっている。
もう一歩よって、触れる距離まで詰めたくてたまらなくなる。
だからかえって、不自然な立ち位置の距離をとり続けるしかない。
からだの闇にまだこんな生々しい
クオリアがそのまま生き残っていたなんて!
驚いた中島みゆきは、取り乱すまいと、
からだを突き刺す無意識の衝動を抑えるのに必死になった。
ビデオを見れば、歌詞の二番を歌いだす前、
彼女の右手がからだの闇でわななくものを鎮めようと
左腕を取り押さえるために無意識に走る。
右手は理性の手だが、左手は下意識のものだ。
彼女は自分のからだの闇の衝動が、
なにかとんでもないことをしでかしそうで驚いている。

この無意識に起こるポーズはわたしにも経験がある。
無意識だからしかとは覚えていない。
だが、確かに思い当たるフシがある。
からだの芯からわなわなと
予期せぬ無意識の欲望がほとぼり出すとき、
それを取り押さえるために無意識にこの姿勢になるのだ。

何万もの観衆の前でからだに起こった変化を
悟られてはならない。
彼女の左手はさらに欲望にわななく太腿を押さえ、
その左手を右手がきつく押さえ込む。
からだの無意識に卍巴の鍵をかけねばならなかったほど、
からだの闇の底ではわけの分からぬ欲望だか衝動だか
見知らぬクオリアがうずまいいていたのだ。

中島みゆきと吉田拓郎ができていたと憶測する人もいる。
そうかもしれない。そうでないかもしれない。
それは秘密なのだ。
他人の秘密に立ち入ってはならないことがあることを
知らない人だけがそういう無粋な憶測をもてあそぶ。

本当の欲望は手に入らなかったものにだけ
時を超えて永遠にたぎりつづける。
それが命の真実だ。

欲望は美しい。
中島みゆきは真っ裸の命の欲望のたぎりをみせてくれた。
透明体へ、中島みゆきもまたまっしぐらに歩んでいる人だ。
いまごろは彼女自身もこのとき何が起こっていたか
誰にも語らぬまま透明に見透かしているはずだ。


(この記事は当初欲望の探求という内容から、「からだの闇」に載せたものだが、
他の人の活動への共振という意味では「共振日記」に該当する記事でもあり、
これまでも中島みゆきに関する記事は共振日記に載せていたので、
それらとのつながりを確保するために両方に載せることにしました。
からだの闇の坑道は多様多次元にリゾーム状につながっている。
できるだけそのありのままのリゾームを実現したいので、こういうことになる。
本当はもっともっと混線しているだが、あまりにリンクを複雑にするとわけが分からなくなる。
このサイト全体がもともと、ツリーとリゾームを自在に往還する道を見出すための試行錯誤です。
了解されたい。)


2008年2月22日

天を蹴るさわ実の脚



久しぶりにYouTubeを散策していると、
土方のビデオが二つ新しくアップロードされていた。
上に貼り付けたのでどうぞ。

だが、意外な懐かしいダンサーにめぐり合えたのが思わぬ収穫だった。
いまから9年前、「ダンスリゾーム」というグループで
世界を踊りまわっていた頃の中核メンバーだった
福岡さわ実の元気な姿を発見した。

さわ実は1999年のダンスリゾームのツアーで、
タイ、インド、ハンガリー、フランス、オランダ、オーストリア、日本で踊った。
さわ実とわたしには奇妙に性向が似ているところがあった。
「舞台に立つ限り観客を驚かさねば気がすまない」という
得体の知れない「テーブル返し」の根性がそれだ。
さわ実は、旅の行く先々で次々と新しい技を発明した。
人間の歩き方を解体し、どこから動いているのか分からない
「エイリアン・ウオーク」、
目の玉をひっくり返す「トッケイ・アイ」、
空間に想像上の手足を想定し、それを動かすと
他のダンサーの手足が動かされる「イマジナリー・アーム」など、
鮮烈に記憶に残る技が生みだされた。

その後、さわ実は、わたしの親友デビッド・ザンブラーノの
フライング・ローテクニックを死に物狂いで習得し、
アムステルダムでわたしと一緒に見たエミオ・グレコの舞踊団の
オーディションを数年後に受け見事合格。
団員となって、『ヨーロッパのモンスター』と呼ばれて
活躍しているという風聞を耳にしていた。
このビデオはそのうわさを裏付けるものだった。

さわ実は地を歩くはずの脚で天を蹴り続けて
(蹴っているのかけいれんしているのか、謎の動きを見せて)、
持ち前の「テーブル返し」が少しは健在なことを示している。
昔の鬼神をも驚かさんばかりの迫力はないが、
「健康な体の動き」という元型に囚われている
ヨーロッパの舞台ではそこまではやれないのは分かりきっている。
エミオの舞踊団はいつのまにか若い団員も増え、
古参となったさわ実はいまやリーダー格で踊るようになっている。
成長した姿を眼にしてうれしかった。

いつまでも初心を忘れるな。さわ実。
テーブルを返し続けよ。
そのうち、自分の命はなぜ、テーブルを返し続けたがるのかを
問わねばならなくなる日が来る。
その頃にヒマラヤでまた会おう。



『共振日記」をもっと読む

2008年2月12日

ステップイーグルが旅立つ日



ここ数日晴天が続く。
満を持していたステップイーグルが毎日何十頭も
天空高く舞い上がり、東に向かって旅立っていく。
ネパールあたりまでまっすぐに飛び、ヒマラヤを越えて
チベット、モンゴル、シベリアあたりまで広がっていくそうだ。
数年前近所に住んでいたバードウオッチャーがほぼ60パーセン
トをカウントしたところ、1月から3月の春の時期に5400頭
、秋の時期に帰って来るのが8000頭を数えたという。
すべてで行き帰りとも一万頭を越えるステップイーグルがここか
ら飛び立ち戻ってくることになる。
なぜ、ダラムサラなのだろう。
鷲にとってよほど上昇気流の具合がいいのだろう。
毎朝気持ちよく円を描いて螺旋形に昇っていく。
高度3000メートルあたりまではカラスが邪魔するが、
高度5000メートルを越えると鷲の独断場だ。
高度8000メートルあたりで、いきなり東にまっすぐ頭を向け、
両翼を少し縮めて高速滑空体勢に入り、一目散に飛んでいく。
その瞬間、数千キロに及ぶ長旅が始まる。
その二念ない決意の瞬間を双眼鏡で捉ええた時は
からだに電気が走るほど感動的だ。
わたしもまた、他の地からここに渡って来たものだ。
彼らを飛び立たせるものは何なのか?
わたしを飛び立たせたものは何だったのか?
二つの問いが重なってゆれる。
鷲たちのからだで何が起こっているのかはある程度透明に見える。
春が近づき晴天が続くと、鷲のからだの細胞内で眠っていた
渡り用の即時遺伝子が目覚める。
DNAから渡りのための特別のたんぱく質の生産と
渡りを導くクオリアが活性化される信号が発せられる。
彼らはからだごと変わるのだ。
上昇気流を捉えて高度8000メートルまで昇っていくと、
からだがたった一つの方位を指し示す。
ひとつの方位の地磁気にからだじゅうのクオリアが共振する。
彼らはそれに従うだけでいい。
偏西風に乗るのだろうか、ほとんど羽ばたきはしない。
高度8000mは、零下数十度という酷寒の気温だ。
即時遺伝子によって極寒でも働くたんぱく質が増えているはずだ。
どこまで飛べばいいのかも、恐らくからだが決めてくれるだろう 。
とことん飛んで、疲れ切って着いた草原が彼らのひと夏の狩猟場だ。
わたしの場合も、意識で渡りを決めたのではない。
からだが日本にいるのを我慢できなくなった。
生命力龍と呼んでいるわたしのもっとも根源的な命が
ある日バシャンと大きな尾を地に打ち付けて、
その反動で国外に飛び出した。
何年間かは夢中で各国を踊り歩いた。
この地に定着することが決まったときはからだが火照って鎮まらなかった。
なにもかも鷲の渡りと同じようにわたしの命が決めたことだ。
わたしはそれに従ったまでだ。
今年も毎期十人前後の生徒が世界中から渡って来る。
みんななにものかに背中を押されて国を出、
ヒマラヤくんだりまで渡って来る旅人だ。
彼らの命ももうは燃えはじめているだろう。
見えなくても命が共振しているのが分かる。
これはすばらしいことだ。



2008年1月11日

パニール・プロジェクト ホームページ


アメリカのKatsから彼のホームページとブログのアドレスが届いた。
6ヶ月のサブボディスクールの体験が英語で綿密に記されている。
これから入学を検討している方は、
お読みになると参考になることが多いと思う。

カツのブログを読む

また、彼のミネソタにおける多彩な活動振りが紹介されている。
4月からはサブボディのパフォーマンスとワークショップもはじめるそうだ。
また一段と生長してヒマラヤに戻ってくることだろう。

カツ君よ、何でこんな立派なサイトを持っていることを今まで言わなかったんだい?
カツは見かけによらず、奥ゆかしいというか、シャイというか、そんなところがある。
アメリカに住んでいても日本人だねえ。

カツのホームページを見る

2008年1月10日

「死者の霊」という元型について

先日の「命って何だ」という書き込みに続いて、
カツからつぎのような第二の質問が共振掲示板に書き込まれた。
わたしはこの問いにまつわってちょうどまとめていた透明論の方法を
今日のひらけ』に「方法の問題」として書いた。
だが、そこでは死の問題や死後の霊については触れられなかったので、
この場で詳述してみよう。

わたしにとっても死とはなにか、
死後の霊とはなにかは、未知の問題に属する。
一般に一部の人が信じる「死後の霊」は、
わたしにとっては、<元型>に属すると考える。
<元型>とはユングが言うように、太古から面々と続く生命が
死を怖れ続けた40億年間の長い経験が遺伝子に刻み込まれ、
今日のわたしたちにも時にまぎれて<元型>として襲い掛かってくる。
わたしたちが元型に囚われるのは、大きなストレスにさらされ、
命が「酵母のように変形」したときだ。
わたしがいう<元型>は、<元型>概念を発見したユングが分析した
影、アニマ、アニムス、グレートマザー、老賢者、童子、
トリックスター、精神、などの自己像元型だけではなく、
天国、地獄のような世界像元型をも含む。
日本ではユングとは別に思想家・吉本隆明が名著『共同幻想論』で、
禁制(タブー)、憑依、他界、罪意識、法・宗教・国家という
<元型>の秘密を「共同幻想」という概念で独自に究明した。
集合的無意識の世界を探ったユングとそれを共同幻想として捉えた
吉本の仕事は根底で共振している。
カツのいう「死後の霊」も、吉本の「他界論」で触れられている。
吉本の分析の圧巻は、人々が共同幻想に囚われるときは、
かならず、人々が何らかの圧迫によって
心性が「酵母のように変形させられている」ときだという鋭い分析にある。

わたしもつい昨日、深夜の不意の暴風雨とすさまじい落雷に加えて、
生まれてはじめて巨大な落雹の音に驚かされて起きたとき、
何が起こっているのかが瞬間分からず、
覚えず畏怖のかたちに命が縮み上がった。
こういうときに油断すると、縮み上がって震える心が、
何らかの<元型>に鷲づかみにされてしまうのだと気づいた。
太古の人々は、現代のような堅固な家には住んでいない。
自然の猛威、国家の引き起こす戦乱や
圧政の猛威に吹き去らされて生きていた。
彼らがもろもろの<元型>や<共同幻想>に囚われていたのも
至極当然だと実感したしだいだ。
(これについては稿を改めて「からだの闇」に書くつもりだ。
現代社会の人々も、社会の先行き不安や、
かつてない情報の猛圧に心の髄まで浸かっているから、
ばかげた国家や国民という<元型>に喰われてしまっているのだ。
今朝目覚めた瞬間走り書きした下書き原稿が存在するが
今日はアップロードする時間がもうない。)

さて、カツの第二の手紙に移ろう。


命って何だ その二

Lee先生、

先生の霊媒についての解釈、なかなかですね。
でも解せないのは、霊って場所や物についたりするでしょ?
 霊感のある人は、ある場所に行くだけでそこで死んだ人に共振してしまう。
霊に憑かれるなんていいますが。
そういう場合には誰か生きてる人に共振しているわけではないでしょう?
 でもそれは、死者の霊がそこにいるんじゃないんでしょうか? 
なんか中途半端に霊感があるとよく霊に憑かれちゃうんだそうです。
日本では成仏できない魂が霊になるなんていいますし...
先生が言っていたよるような霊媒をこっちでは「Empath」というそうです。
Empatheticの略で、人の情感に共振しやすい人、という意味らしい。

人が死んだ時点で、体は物質というある意味では低次元の共振パターンに変わるでしょう? でも「命」、「エゴ」そして「セルフ」というような共振パターンはどうなるんでしょうね?



わたしは共振掲示板につぎのように答えた。
カツの問いには<元型>的な「死者の霊」にとどまらず、
ひも理論をも踏まえた問いが含まれていたので、
それにもできる限り答えようとした。
いや、答えたのではなく、じぶんで探るしかないと示唆した。
答えないというのが答えだった。
未知の闇に属する事柄については、知ったかぶりをして答えてはならない。
一人ひとりが自分のからだの闇に耳を澄まして探るしかないからだ。



Katsさま

カツのこの質問に関連して、
今日の「ひらけ」に「方法の問題」と題してわたしの方法を書きました。
人間の命や意識だけを捉えようとするのではなく、
原初生命の根源から捉えるということです。



1.[生命原理] : 原初生命の根源から捉えなおす

意識や無意識、心、クオリアなど人間に関する
未解決の「難しい問題」を捉えるためには、
それを原初生命のもっとも根源的な
発生の姿において捉え返す必要がある。
そうすることによってはじめて、、
ひとつながりの全体として理解することができる。
心や意識とは何かを捉えようとする現代の科学者は、
複雑な人間の意識のみをいきなり対象化しようとしている。
たとえば、かつてワトソンとともにDNA螺旋を発見した
クリックはその後コッホとともに意識の解明に向かったが、
かれが始めたのは脳の視覚野の研究からだった。
それがもっとも彼にとって取っ付きやすかったのだろうが、
そんな高次な分野からはじめたのは根底的な間違いだった。
また、多くの脳科学者は、ニューロンネットワークの研究に携わってきた。
だが、かれらがみなしているように
ニューロンネットワークが意識を生み出すのではない。
人間の意識といえ、脳のグリアとニューロンという
一個一個の単細胞たちが支えている。
意識は原初の単細胞の生命が感じていた
微細なクオリアのふるえにその最小の起源を持つのだ。
アメーバやバクテリアの命が感じているクオリアとは
どんなものか、そこで起こっていることは
私たちの脳細胞で起こっていることと原理的に同じはずだ。
人間の意識は、私たちのからだを構成する60兆の細胞が感じている
微細なクオリアが共振して生成している。
60兆分の一の個々の細胞が感じているクオリアとはどんなものか、
そこから始める必要がある。
原初の生命がどう外界と共振し、どんなクオリアを捉えていたのか
という根源から理解することが必要だ。

。。。。

(長くなるので、この続きはサイトの「今日の開け(1月10日)」をご覧ください。)

カツの提起する第二の問題について、「今日のひらけ」では
死の問題や死後の問題には触れていませんが、
「単細胞生物が感じていたクオリアは、彼らが死んだら
どうなるのか」という観点から捉えてみてください。
人間についてだけ考えるよりは、
少しは問題の構図がすっきりするはずです。
もちろんこの方法によっても、
死はもっとも捉えることが難しい問題です。
そうは間単に死になりこむことはできないからです。
でも何百万という個々の体細胞は日々死んでいっています。
死んでいく体細胞になりこんで感じてみてください。
長い時間がかかると思いますが、いまわたしに答えられるのは、
この方法を提示することしかありません。

わたしにとっても、生命が生きている間は、
生命が感じたクオリアは内クオリアとして細胞内に
微細なひも共振パターンとして保存されている、
人間のような脳神経をもつ多細胞生物では
内クオリアはグリア細胞に保存されているだろうと推定できる。
だが、個体生命が死んだ後、
その細胞内に内クオリアとして保存されていたひも共振パターンが
どうなるのかは推定できない。

<元型>的な死霊の捉え方が起こるのは、
単に生きている人の脳に保存されている死者に関する内クオリアが
勝手に共振して、あたかも実在する死者の霊がどこかに実在し、
自分を揺り動かすかに感じられることによって起こる現象だ。
死に対する畏怖や死者への罪責の念に
「酵母のように」圧迫されている心性に起こりがちな現象だ。
霊媒に交霊を依頼する人の心はは皆、
死者への負い目や悔恨によって変形させられている。

だが、死者の脳で振動していたひも共振がどうなるのかは
また別の未知の問題だ。

(赤字の部分は新たにここで付け加えた。)

それを取り出す命との共振がなくなったのだから
共振的に生成したものは、共振的に消滅するのか、
それとも共振していた生命がなくなっても、
永遠に微細次元で振動し続けるのか、想像が付かない。
それは未知の深い闇の中に閉ざされている。
何世紀か、あるいは何十世紀かのちに、
宇宙と生命を統一的に捉える新しい知が生まれたときに
はじめて解明される領域の問題だ。
ただ、今のわたしたちにとっては、
今日の科学者が染まっている<意識信仰>という
現代の元型に囚われることもなく、
霊媒や宗教者が染まっている伝統的な元型に喰われるのでもない
第三の透明な知の道を切り開くことだけが必要なのです。
長い時間をかけて生と死を、自分のからだ全体で捉えていってください。
それこそが人間にとって来るべき知の新しい様式を切り開くことになります。




2008年1月9日

出会うべき人に出会う

2、3日前、「からだの闇」に、死者の霊とはなにかという記事を書いた。
(『共振日記』にも下欄に転載した。)
フィンランドのKatjaという今年の受講を申し込んでいる生徒と、
アメリカのカツから、死者の霊や憑依現象について、
よく似た質問を受けたので、答えたものだった。
この手の問題は、思い切り微妙な問題なので、
なかなか言葉でうまく言えるものではない。
日本語でも危ういのに、
わたしの英語でうまく言い切れたのかどうか、
心もとなかった。
だが、Katjaから次のような手紙をもらった。
なんと、わたしの伝えようとしたことが、受け止めてもらえたことを知った。
月面にある針の穴を通すような、まれな出来事だと思った。
でも、浜の砂より多いこの惑星に生きる人々の中で、
出会うべき人に出会うことができている。
心の底からこの、ごくごくまれな共振をうれしく思った。


'
Hello Lee!

I read your text "Sinking into darkness of the body" and it really makes sense to me!! I have always been sceptical about gurus, religious leaders and so on. I think that there is always a big risk in shamanism, in religion, in almost everything to fall into egos traps, to arhetypes as you describe, to see only the surface and let these spirits, images, archetypes or whatever to mislead you from the most original essence of life.

It is very difficult to explain these things because they are beyond the archetypes, beyond words, beyond intellectual way of seeing things, beyond everything we normally in our modern society believe, think and value as the truth. Finally I understand that we have been experiencing similar things, "seen" and felt this multidimensional vibrantly resonating reality where everything is connected. There is no separation but oneness and once you have experienced this your compassion and life vibrance starts to increase.

I think that I will read your text many times becauses there are so many things I have only known somehow but couldnt explain them. Thank you for dreaming, for processing, for teaching and for putting these things into words. I will wait for us to meet and experience life together:)

Katja
'

2008年1月5日

「うまくいかない」シリーズの夢(『からだの闇』より転載)

去年の暮れから今年にかけて同じテーマの夢を見続けている。
最初は、土方巽がサブボディスクールで
なにか踊りを創ろうとしているのだが、
なぜかうまくいかないという夢だった。
舞踏論に「衰弱体」について書いたばかりだったので、
その内容がどこかしっくりしないところがあるという
サブボディからのメッセージだという気がしたので、
土方の舞踏譜を読み返した。
すると、これまで歯が立たなかった舞踏譜が
かなりすらすら解読できてきた。
次は、「土方の舞踏譜について」書くときがきたようで
その後取り組んでいる。

次の夢も土方だった。
やはりクラスに参加して、サブボディメソッドの
「序破急」メソッドに沿って踊りを創っているのだが、
やはり何が悪いのか、うまくいかないという夢だった。
今度は「序破急理論」に問題があるのかと、さすがに
気分が落ち込みながらも、自分のからだに聴き入ってみると
自分自身が今までの序破急では踊りたくないといっている。
これまでずっと、昔伝染熱などを創ったときに得た序破急理論を
教え続けていたのだが、私のサボボディは、
もうあんなアドレナリンに満ちた観客に挑みかかるような
めまぐるしい転換を続ける踊りはできないと
告げていることを思い知らされた。
そのサボボディの変化に理論がまだついていっていないのだ。
これはこれから何年かかるか分からないが、
これまでにない序破急の踊りを創っていく中で
解決していくしかないだろう。

三回目は若い女性の生徒が、
やはりクラスで何かに取り組んでいるのだが、
寸前のところで見えない壁にぶつかって
苦しんでいるという夢だった。
その生徒が不意にわたしに向き直り、
「うまくいくときと、行かないときの
微細な違いってどんな感じですか?」
と質問した。
私はそれを聞いてギクッとした。
そういう問いが出てくるとは、まさにリアルに
できそうでできない歯がゆい微妙な瀬戸際に
立っているという証拠だからだ。
そういう微妙なクオリアはわたしもよく体験したものだ。
何かほんの微細なものが見つからなくて突破できないクオリアだ。
私自身自分のそのときのクオリアをよく聴いて
答えねばならないと、自分を追い詰めていた。

四回目は今朝だった。
今度はスタッフのロメスの三歳の息子のラビが、
やはり何かに取り組んでいるのだが、うまくいかない。
そのうまくいかないときの歯がゆく胸苦しい感じが
私ののども元までこみ上げてきた。
その体感があまりに強烈だったので、突然これまでの
すべての夢でも、生徒がうまくいかないときは
私もそれに共振して生徒と同じ苦しいクオリアを
感じていたことに気づいた。
これまでもうまく意識を止められないとか、
サボボディに触れられないとか、
生徒がうまくいかないときほど、その苦しみに
共振してわたしもまた、とても苦しく感じていた。
その<共振の実在>を、
この「うまくいかないシリーズの夢」は
伝えようとしていたことに不意に気づかされた。
思い返せばそれまでの三つの夢でも、
私もまた「うまくいかないクオリア」を
たっぷり感じていた。
だが、今日までそのことに気づかなかった。

死者の霊とは何か? 

そして、この夢が、共振掲示板を通じて、
アメリカに帰ったカツが発した「死者の霊と何か?」という
質問への答えになっていることに気づいた。
同時にフィンランドのKatjaという今年の受講を申し込んでいる生徒からも
Facebookを通じて、同様の質問を受けていた。
彼女はシャーマニズムをもう十年も研究しているという人だった。
だが、とても英語で答えきる自信がなかったので
今度あったときに直に話しましょうと、ペンディングしていた。
その質問についてもわたしのサブボディさんは、
答え続けようとしていたのだ。

カツからの手紙は次のようなものだった。
通常はすぐ返事を書くのだが、この問いは
とても微妙なものなので、すぐ返答せずに
サボボディさんにからだの闇に答えを探してもらっていた。


Lee先生、

年末に霊媒の出るテレビ番組にはまっちゃいまして、そこで「霊って何だ?」なんて考えちゃいました。この霊媒の人たちが接す る霊たちは、生きていたときの記憶や性格を持っていて、それで残された家族の人たちに何か言ったりするんですよ。体外こういうのはインチキ臭かったりする んですけど、先生のばあちゃんも霊媒さんだったから、先生もこういうの見たことあるでしょう?

でもこういった形で現れる霊ってのは、本当 に命の形なんでしょうか?オイラたちのサブボディーの観点からすれば、こういった霊って「エゴ」や「セルフ」ではあっても「ライフ」って感じじゃないです よね。残留思念なんて言葉がふと頭をよぎりますが、なんか命の共振の残り物みたいな感じ。気や命の世界は無我、無意識の世界であるわけでしょう?じゃあ何 で意識や自我が霊として残るんだ?

まあ、こんなこと言うとオイラ達のやっていることをなんかのカルトや宗教みたいに思われちゃうので、あ まりいいことじゃないかもしれないけど、でもひも共振や指圧の気の世界を見つめ続けていくと、どうしてもこういったものにもぶち当たったりしちゃいますよ ね。オイラの知り合いの中でも、オイラがなんかの教徒になって帰ってくるんじゃないかと心配していた人たちがいましたが...

命って深いですね。

まあこういう感じで、2008も始まるわけです。



私の祖母も霊媒だった。
子供のころに目のあたりにした憑依の現象は
私にとって長い間謎だった。
わたしは一生かけてこの問いに取り組んできたといっても
過言ではない。
その問いにようやく明確な答えができるようになった。
霊媒の人たちはただただクライアントが暗黙裡に示す
クオリアに共振しているのだ。
霊媒は依頼人から死んだ人との交霊の依頼を受けたとき、
依頼人が発する暗黙の不安や死者への負い目などの
微細なサブシグナルを瞬間的に察知してしまう。
そして、実際の交霊行為に入るときには、
その依頼人との間絵体感した共振クオリアに従い
からだごと乗り込み増幅していく。
霊媒には、依頼人が負い目に感じている、
死者が懐いて死んだであろう恨みや泣き言に
からだごとなりこんでいく。
サボボディのなりこみテクニックと同じだ。
からだの闇に折りたたまれているnot-meやサブ人格は
まだ自我が成熟しない小さいころに発生し、
この世にうまく受け入れてもらえなかった不満や鬱屈の塊である。
未成熟ないびつな自我を持っているのが特徴だ。
それと共振する下等生物の形をとって出てくることも多い。

交霊憑依の要望が出てくる場合も、
依頼人と死者との間に生起したが、
死者の存命中には解決不能だった些細な揉め事、
互いの立場の違いからくるどうしようもない齟齬、
行き違いなどに両者が雁字絡めになっていたケースが多い。
日本で言えば嫁と姑のいさかい、
何とかしようとしているのにうまくいかない
家族や親族間には発生する問題、
立場や出自の違いからくるどうしようもなかったしがらみに
悩まされ続けていることが圧倒的だ。
霊媒はその地でもっとも世知に長け、
かつ共振能力の異常に高い人だから、
依頼人と死者との間にどういうしがらみがあったのかを
本能的に察知して乗り込み、
全チャンネルを使ってからだごとなりこんでいく。
死んだ人の霊がどこかに実在するのではなく、
依頼人の脳のグリア細胞のなかで時を超えて振動している
ひも共振からくる内クオリアが正体なのだ。
霊媒は依頼人との短いふれあいの中で
暗黙裡にその内クオリアを受け取り共振し、増幅してみせる。
依頼人はもともと自分一人の心の奥深くしまっていたはずの
死者とのしがらみのクオリアが、言葉ではなにも言っていないのに
霊媒から出てくる言葉がすっかりそれに対応したものなので
「すべて察知されている」感じてぶったまげて畏れわななく。
そのモードに取り付かれてしまえば、
一言でも思い当たることを霊媒がしゃべれば、
すっかり死者の霊そのものが
そこに降霊してきたかのように受け取るのだ。
「死者の降霊」とは、関係チャンネルの<元型>に他ならない。
交霊術とは、関係チャンネルの<元型>に基づき、
それを共振・増幅する技術だ。
わたしは60年かかって、小さいときに目のあたりにした
霊媒の秘密を徐々に解いてきた。
今日の夢は、相手と自分の間にそっくり同じクオリアが
共振している事実を告げ知らせた。
そして、その体感クオリアの共振こそが、
降霊現象の正体なのだ。
外界に霊があるのではないが、
死者との共振は依頼人の内クオリアで続いている。
その共振に霊媒が共振する。
実在するのはこれらの共振と共振の連鎖なのだ。

(ここから先はカツへの私信になる)

指圧をしていきたいという先の手紙にありました。
タオ指圧もまた、同様の共振術です。
相手と短い言葉を交わし、そのクオリアやからだに触れることで
どこがどうダメージを受けているのかを全身で共振察知する。
意識を止め、原始感覚が目覚めると、
相手の生命が苦しんでいるのと同じクオリアが、
自分の中に共振して存在するのを痛切に感じることができる。
それができたとき、治癒者になるのだ。
終わりのない長い修行の道だけれど、
カツには素養があるから大丈夫だ。
暗黙裡に存在する相手と共振しているかすかな体感に
気づいてください。

カツもこれからワークショップを開くなかで、
かならず、生徒がうまくいかないことが出てくる。
そのとき教えるほうもからだがとてもつらくなる。
とてもいやなクオリアなので放り出したくなる。
でも、そのいやな感じのするクオリアこそ、
共振からくるものなので、一番大事にしてください。
問題を解く鍵はすべてそのネガティブな体感のなかに
降りたたまれている。
すぐには解けなくて
このいやな体感はやればやるほどたまっていく。
でも、それだけがサボボディの産婆の財産なのです。
産婆に必要な無私の共振力は、このからだにためた
「うまくいかないクオリア」に比例して深まる。
一見いやな味のするこのクオリアこそ産婆にとっての
最高の富なのです。

でも、この富がたまりすぎると、
元型のひとつである<老賢者>の知恵に転化する。
経験を積み、少し知恵がついてきたときいい気になると、
<老賢者>の元型に喰われて<グル>になってしまう。
世界各地にいるグルや新興宗教の教祖たちは、
みなこの種の元型に喰われた人たちだ。
オームの麻原もその一人だったろう。
もっと強烈な<神>の元型に喰われてしまったのが
キリストやマホメットだ。
元型はいたるところに潜んでいる。
そしてとても強い力で私たちに襲い掛かってくる。
大概ちょっと力がついたかなといい気になったときは
何かの元型の力を借りてそうなっていることが多いから、
気を配るように。

いい気分には元型の罠が潜んでいる。
逆にいやな体感には、未知の気づきの鍵がある。
いつも多次元的な発想を忘れず、
しなやかに危険から身をかわす術を身に着けてください。

長くなりました。
ではまた。

2008年1月8日

ラウラの身体変容





去年の授業の最後の週に、オランダからデリーにアーティスト・レジデンスでデリーに滞在していた若い芸術家ラウラが訪れた。
このサイトを見つけ共感して、写真やビデオから描いた多くのスケッチを持参して見せてくれた。
その最後の週をダラムサラに滞在し、生徒のサボボディをスケッチし続けた。
最終日には生徒のマリーのパフォーマンスにも飛び入りで参加した。
彼女から彼女のサイトと、彼女の作品が届いた。
人間のからだが、日常次元を超え、さまざまに変容していく絵だった。
舞踏者はからだと動きのチャンネルを使い、絵描きは映像チャンネルでそれを捉える。チャンネルの違いはあれ、私たちのサブボディ世界が共振しあっていることがよくわかる。
こういう共振が起こるのは楽しいことだ。

興味のある方は彼女のサイトを訪れ、もっとお楽しみください。

Laura de Zanger Homepage


2008年1月3日

ナンビクアラの人々に学ぶ生命共振



わたしはいつも冬休みには、アジア各地の山岳少数民の部落に行く。
かれらは現代人がなくしてしまった大事なものをもって生きている。
それを学びに行くのだ。
これまでに、タイ、ネパール、インド、ミャンマーなどの山岳少数民の部落を訪ねた。
彼らはアニミズムを信じ、自然が神様だという。
自然の中のあらゆる生き物と共振して生きている。
人と人も深く共振して生きている。
現代人のような利己的なエゴに冒されていない。
彼らを見ると、自我や自己に囚われて生きる現代人のありかた以外の
可能性を知ることができる。
われわれが持つ自我や自己はかならずしも絶対的なものではない。
現代社会から刷り込まれたものだということが分かる。
われわれが今のあり方以外の別の生き方ができることを思い知らされる。
かれらのやわらかい感性に触れて、脳みそをざぶざぶと洗う。

わたしがもっとも魂を洗われたのは、レヴィ・ストロースの写真集
『ブラジルへの郷愁』に収められたナンビクワラ族の人々の写真だ。
裸で暮らし、抱き合い、喜びに満ちたあり方に強い衝撃を受けた。
もちろん暮らしは楽ではない。だが、悲しみも災難もすべて分有して生きている。
現代人が囚われているように、生命は個人の私有物ではなく、
私たちは40億年続いている大きなひとつの生命を分有して
生きている存在なのだということが、肌で伝わってくる。
わたしたちはこういう生き方ができるはずなのだ。

いつかナンビクワラの人々のもとに行きたいと願っていた。
だが、すでに大分前にナンビクワラの人々を訪れた川田順造の本を読むと
もう彼らの森の暮らしは破壊され尽くしてしまっていることを知った。
レヴィ・ストロース自身が、この写真を撮った1930年代のすぐ10年後に再訪したときには
すでに彼らの多くは伝染病や人的な要因で激減してしまっていた悲しい事実を伝えている。
それ以前に西洋人の入植者によって、かれらの多くが猿のように撃ち殺され、
狩られていたことも彼は記している。
なんと大事なものを近代文明は滅ぼしてしまったことか。

墓銘碑のように、この写真集だけが残された。
だが、命の共振に耳を澄ますことのできる人がひとりでも増えることで
この世界は変わっていく。
この写真集は、生命共振の可能性を人類に示す教科書のような本だ。
最悪の事態の底から、本当のものが始まっていく。
いつか人類全体が生命共振を取り戻し、
自我や国家に囚われずに生きることのできる日がくることを信じている。
その希望をあなたに伝えたくて。





2007年12月25日

山田詩を読む・異次元世界の歩きかた

去年日本へ帰ったとき、
いつも居候させていただいている山田さんから
『ポヨン』と題する新しい詩集の草稿をいただいた。
この冬また日本へ帰る段取りをする時期になって
読み返してみた。
すると、この一年共振塾でやってきたこととの
面白いほどの共振性が立ち上がってきた。
そうかあ、わたしがからだで掘ってきたサブボディ世界を
山田さんは言葉で掘り続けていたのだ。
そう合点した。

山田詩については去年の8月に
第一詩集『惑星ごっこ』について感じたことを
書き記した(参照)。

そのとき気づいたことが二つあった。
第一点は、きがかりやこだわりを感じることは
何年でも握り締めてかみしめ続けていればいい。
時間がたてば分かる日が来る

―というものだった。
山田さんの詩にはときどき
ひらがな表記とカタカナ表記がぶれて混じる独特の言葉が出てくる。

「かラからと鳴った」
「かシッと噛みしめる」
「ブいぶい呻きながらのぼる」
「もうひとつの手の指をソろっとおなかに入れ」
....の類だ。
最初25年前に読んだときは「なんじだこれ?」と違和感を感じて
うまく受け取れなかった。
自我と自我がこすれあい、違和感だけが感知される、
そういう具合だった。
だが、25年間その違和感を抱きしまたまま山田さんと付き合い
25年ぶりに詩を読んでみると、いつの間にか違和は消え、
「かラから」も「かシっ」もその表記どおりの
微細なクオリアのゆらぎとともに受け取ることができるのに気づいた。
そうだろう、ここは「かラから」じゃなければ
ならなかったんだろうなあ、と感じた。
わたし自身が自分の自我の尖りが世界理解を妨げていることに気づき
それを寛恕させる時間が必要だったのだ。

去年気づいた第二点目は、詩の一番おいしい読み方は
詩句にからだごと成りこんでそのクオリアをからだで味わう
という極意だった。
これはここ十数年の舞踏の訓練のたまものだった。

「立てた親ゆびが
ますます反りくりかえってしまう
元に戻そうとしても戻らない
....
とんでもない始まりか破局だ
とでもいうようにまたさらにのけ反っていく」

わたしもそのように極限までのけぞってみる。
からだで味わうと、その詩の
世界像も自己像も同時に味わえる。

水俣病やダウン症児のからだの苦しみや喜びを
味わうにはそのゆがみになりこむことだ。
わたしは世界中の死者、不具者、障害者のからだに
成りこむ旅を続けてきた。
ゆがんだからだにはゆがんだからだにしか味わえない
独特の世界がある。
その固有性を理解せずに同情だけするのは
健常者の狭い傲慢だ。
なにも五体満足なだけが人間ではない。
人間はすでに多様性をもって生まれてくる。
その多様性のすべてを肯定し、
楽しみ味わえ会えばよいだけだ。

山田さんは、数年前に脳梗塞で半身片麻痺のからだになった。
不自由には違いないがそのからだと付き合いを深めると
そのからだでしか見えない独特の世界像=自己像が見つかる。
この新しい詩集草稿『ポヨン』で示されているのは、
その新しい宇宙像=身体像だ。
ひとつの固有の夢から開かれてくる世界をくまなく辿っている。
奇しくもその世界は、ヒマラヤで私が追求している
サブボディ(下意識のからだ)の世界と瓜二つだ。
サブボディとドリームボディは同じ命から出てくる
兄弟のようなものだ。
わたしがからだで追求してきた世界を
山田さんは言葉で追求してきた。
その場で消える踊りと違って、ことばの利点は後々まで残る点だ。
サブボディ・メソッドで読み解くと、
『ポヨン』は<異次元世界の歩きかた>とも言える
サブボディ=ドリームボディ世界への格好のガイドになる。
下意識世界に入るための、いくつかの坑口(坑道の入り口)が
きわめて明瞭にとり出されている。
われわれも山田詩に沿ってその世界へ入っていこう。



異次元世界への坑口① 形態変容

ポヨンは、一連の夢から始まる。
ゆめのなかで母親から車の鍵を受け取り、
車に向かう。

「車は子ネズミくらいの大きさでコオロギみたいな生きものだった」

わたしが近づくとそいつは
節足動物の身軽さでひょいひょいと逃げ出した。
わたしはそいつを台所まで追いつめる。

「ネズミといってもいいけど
その姿はまるで雲古の形というのがもっとも似ていた
その口におフクロがもってきてくれた鍵を差し込み右に回した
そのときそいつは嗽いするように喉をひくつかせ
胃カメラのように呑みこんだ」

「あんな生きものはみたことがない
...
大事なことはこの夢でポヨンと名づけるつもりの
奇怪なものと出会った
または手に入れたということである」

まさしく、山田氏はこのとき畢竟の盟友と出会っている。
ポヨンとはほかでもない山田さんの<ドリームボディ>、
=<サブボディ>そのものである。
終生の友とも敵ともなれる相手と。
要するにもうひとつの異次元世界の坑口を見出したのだ。
誰の人生にもこういうことがときたま起こる。
その世界へうまく入り込む方法を見つければ
そこが無限の創造性に満ちた宝庫であることが分かる。

『ポヨン』には、異次元世界を歩くとき、
覚えておけば役に立つ指標がいくつか登場する。
それはそこに下意識世界への坑口が開くという
目印のようなものである。
ひとつめの坑口は上の引用部分にもでてきた

車―ネズミ―コオロギ―雲古

という形態変容である。
誰の夢、誰の下意識でもこれが起こる。
夢の材料となる内クオリアが共振して震えているからだ。
クオリアとは命が感じているものの全てをさす。
感覚器官を通じて外界からそのつど得られる外クオリアに対し
命の内部に長期記憶として保存されているものを内クオリアと呼ぶ。)
そこは日常世界とはまったく別の法則が支配する世界だ。
それは人類の遺伝子に刻み込まれている。
こういう形態変容が起これば、ああ、いまから
異次元世界へ入ってくのだなあ、と楽しめばいい。
訓練をつめば目覚めながらその世界へ入ることもできる。
全ての芸術家は醒めて異次元世界の夢を見る達人だったのだ。


異次元世界への坑口② 体感変容

もうひとつの坑口は、類似した体感同士がつながっていることだ。
夢は本当は体感チャンネルで見ている。
近代的な意識にとっては視覚映像チャンネルが優先されているので
意識されにくいが、生命にとっては体感チャンネルのほうがもっと深い。
上の引用部分でも、視覚的形態だけではなく
なまめかしい体感がうねる。
「その口におフクロがもってきてくれた鍵を差し込み右に回した
そのときそいつは嗽いするように喉をひくつかせ
胃カメラのように呑みこんだ」

あるいは、

「ポヨンは鍵穴そのものかもしれない
人のからだには鍵穴のようなものが幾つかあって
そこにキーを差しこむとあーんと口みたいに開いて
ずるっとキーは奥まで達する
するとからだは震えだしやがて回転をあげていく
さあポヨン…」

なまめかしい官能的な体感だ。
セックスのような、あるいはそれ以上のなまめかしい生きた世界と
のっぴきならない交合をするときのような体感だ。
この体感変容こそ夢の世界のもっとも普遍的共通言語である。
こののちもこれがしばしば登場し、
どんどん異次元が開畳されていくのをみるだろう。


異次元世界への坑口③ 動体感覚

体感と並んで動いているからだ独特の
動体感覚も異次元への入り口になる。

「やっとキーを入れるところまで追いつめると
ポヨンの豹変に驚いてしまう
脚の痕跡など無くなってうずくまってしまうのだ」

「ポヨンに揺られてひょいひょいと運ばれる私が
車を運転しているようなつもりになってしまうのは
どういう分けなんだろうか
それがとてもいい気分で同時に車酔いの前のように
平衡感覚が変になってしまったりする時もある」

車を運転したり、性交したり、酔ったり、踊ったりするとき
私たちは異次元の入り口に差し掛かっている。
とくにいい気分になるというのが特徴だ。
そのとき私たちは気分がよければ
理屈に合わなくてもどうでもいいという気持ちになる。
踊るからだが異次元とつながっているのはそのためだ。
注意すれば普段呼吸するときも、寝入る瞬間にも
この心地よさを味わっている。
別世界への坑口はどこにもあるのだが
近代的な意識は大股でまたぎこしてしまいがちだ。
この詩集で扱われているような微細な体感や動体感覚に
気づけるようになるには長い訓練がいる。
その微細な世界に入るも日常世界にとどまるもきみ次第だ。


異次元世界への坑口④ 世界=自己変容

山田氏は片麻痺によって、
天気や気圧の微妙な変化を命が敏感に感じ取って、
過剰な防御反応をからだに惹き起こしてしまう
異変に苦しめられるようになった。
いくつかの詩篇でそれが捉えられている。

「言葉も記憶も
ちゃんと残ったのはよかった
けれど低気圧が海上を移動するのさえ
なぜ脳幹は察知してしまうのか
第二次(視床下部)中継点から皮質へ
過剰に処理された情報がとどけられ
あるいはありもしない情報が送りこまれ
防護のための過剰な指令が発信される
麻痺の半身は筋肉を硬め軋ませる
腕も掌も指も背も瀕死の魚たちを閉じ込めた網さながら」

命はこの用心深さがあったからこそ
40億年も生き延び続けてこれたのだ。
ひとたび生死の危機を体験した命は、
それに似た信号をキャッチするたびに
過剰な反応で身を守る。
わたしもインドでの神経症でこれを知った。
これはもう命がすることだから仕方が無い。
意識でそれを捉えても止められはしない。
ただ、命の神秘に触れて感嘆するしかない。

「もっとも脳幹のみの古い生命は
それをしも察知しなければならなかったはずである
目ばちこを出しながら
自転車で駆けずりまわっていた少年が
あの氷スイカを察知したように」

これを知ることによって私たちは、
幼年期の虐待や暴力のトラウマに苦しめられ、
解離に苦しむ人を理解することができるようになる。
そして、不用意にトラウマを与えない人に成長することができる。
この世には自分の自我を抑えられずに、
他人の命を傷つけてやまない人があまりに多い。
でも自分が不治の病になったときだけは気づくチャンスがくる。


異次元世界への坑口⑤ 異次元開畳のしかた

異次元が開くときは一種独特の開け方をする。

「そこにピンポン玉ぐらいの大きい蜘蛛が下りてきたなと見ていると
それが弾けて数え切れない数の蜘蛛の子が壁一面に四散した
蜘蛛の子を散らすというのはこれなんだ
一瞬の光景 みごとな現前だ
まるでそこはマジシャンのステージだった」

そうなんだ。
夢の異次元はいつもこういう見事な開き方で出現する。
この夢の異次元開畳の極意に学べば
いくらでも面白い舞台を創ることができる。
小説や詩の世界の展開もうまくなる。
誰の下意識の夢の世界もこういう創造性に満ちている。
降りていけばいいだけなのだ。

あるいはまた、次のようなひらけ方をすることもある。

「蜘蛛がポヨンにもっとも似ている ネズミではなくて
巣を走るようすから気づいた
ことに乗り心地とか…
(ポヨン=徐々に判明するはず)」

この最後の<徐々に判明するはず>という
時間性を持つのも特徴のひとつだ。
ポヨンがすでに車や生きものだけではなく、
母や幼年期の時空や、もっと深いものとも
遠く共振していることが暗黙裡には感じられている。
だが、まだ言葉にはならないという段階がある。
異次元が開畳するときには必ずこの段階を通る。
これが、<徐々に判明するはず>という独特の時間性だ。
うまい小説家や劇作家はそれとなく複線をしのばせる。
複線のテクニックが生きるのは、
この<徐々に判明するはず>という時間性による。


異次元世界への坑口⑥ 独特の指標

ひとつの異次元が開畳するとき、
それ固有の独特の指標から始まることがある。

『ポヨン』の中でもいくつかそれが現れる。

「うどん屋と豆腐屋は揚げで繋がっているのだ
うどん屋と神社の繋がりは分からない
生田の森とこの話は湯気と一緒に現れる」

ここでは湯気が指標となっている世界が登場する。
次は氷スイカだ。

「煤煙の帯が街の空を覆い
暑さは灰とともに人の上に被さってくる
自転車で走ったこの街の夏は
大盛りの氷スイカといっしょに現れる」

さらに、蝶骨。

「年に一度 登行のつもりだった武奈岳のみち
いくつかのコースが絡んで
蝶骨の入江に沈んでいる
それをたぐるだけで
燃える紅葉も雪の沢も風も水も岩も浮上してくる
いまこそ満ち足りた登行
失ったというよりも得たというべき」

もう登山できなくなったからだになってはじめて
命に保存されている内クオリアの
つながりの使い方に長けてくる。
蝶骨(=骨盤の腸骨)と仙骨の間の仙腸関節には
日常世界では忘れられているが、獣の動きにかえらねばならない
登山や闘いのからだの記憶が沈んでいる。
それをちょっと活性化するだけでいくらでもその世界に
入ることができる。
「失ったというより得たというべき」
というのはまさにその通りなのだ。
わたしも共振塾の授業で日常体が忘れているこれらの隠れ関節を開くと
ずいぶん多くのサボボディが生徒のからだの闇から出てくるのを見た。
からだを使わない山田さんがまるでユングの共時性のように
この隠れ関節の秘密を解いていたのには驚かされた。


異次元世界への坑口⑦ 母という結節点

からだの闇にはさまざまな多次元世界があるが、
それらが繋がる最大の結節点がある。
母親というクオリアだ。
山田氏のポヨンも、繋がりを追い詰めていくと
母にたどり着く。あるいはすべてが母から発している。

「鍵を持ってきてくれたのはおフクロだった」

「母がキーをもってきてくれたことについて
少しずつ気になりだした」

それから母に何かをねだって、斧で追いかけられた記憶に繋がる。
そして母の死。

「病室にはいると近親のものたちはほぼ集まっていた
ベッドを囲んで息をつめて見まもっている
進行していく有様 もう止めようもない成り行きだ
母のからだは生きたまま死に侵されていた」

「口にも鼻にも何本かの管が差しこんであった
母の手が動いた
管を外そうとしたようだ
 
 これはまるでポヨンの姿だ」

「その母は痕跡でしかない
ポヨンは痕跡でしかない母を乗せて
全て私は痕跡でしかない母に乗って」

そうだ。
ポヨンとの旅は必然的に母との旅に繋がる。
母の前で私たちの全てのクオリアは
胎児期の自他一体のクオリアに溶け込む。
そこが無数の異次元の入り口になり、
出口にもなるのは必須なのだ。


異次元世界への坑口⑧ 非時の次元へ

命が保存するクオリアは
時を超えて永遠に輝き続ける。

「そんなとき歌が聞こえた
...
聞き覚えのあるヒゴサヒゴドコサ…
おかっぱの少女三人(おかっぱに違いない)
....

わたしだけの夕焼けのにおうようなその場に
少女が鞠を突くその場に
私は居合わせる

なくなったものこそ在りつづける
それはわたしのなだけのこととは限らない
それが本来ポヨンなのだ フムフム」

命の蓄える内クオリアは時を超えて存在する。
その異次元世界にはいれば
わたしたちはいつもいまこことは別の光景の前に
居合わせることができる。

私たちは問う。
ここはいったいどこなのだ。
私たちはどこで生きているのか。

ポヨンは自ら変容しながらさまざまな世界に導いてきた。

おフクロ―鍵―車―ネズミ―コオロギ―雲古―蜘蛛―母―性―
幼年期時空―カエル―湯気―氷スイカ―原生生命感覚―手毬歌―蝶骨―山―海―蛸

最後の詩篇「毛さんの海」では、蛸壺から半身をずり出して
腰まで海にさらしている蛸のからだに同期していく。

「脚は遠くまで海を捉え
海の内側の丸味を撫でて
これっぽっちとは信じがたいと感じる
たくさんの吸盤は内側の見えもしない空を
ゆらゆら踊りながら見まわし
揺れて動いているともいえないのに
少しはゆれうごいているというしかないかと
戸惑いながら浸っている

そんなふうにそらはいつも気配に満ちていて
蛸は嘴と肛門と性器がいっしょにくっついた
脚のつけ根をずり出して腰まで海にさらして冷やしている」

これはもう衰弱体の極みの身体像であろう。

「けれど蛸にとって
じつに探索した海は
蛸壺のうちに満ちている
そこに蛸は浸って踊っていて
脚の疣は海とも空ともつかない信号を送る
蛸にも視床下部らしき核があって
虚ろな信号はまともな信号につくりかえられる
虚ろな信号は送るのが難しいので
太古の海のなかで 蛸にも
まともな信号を送るように決められているらしい
まともな信号を送るように…」

生命が保存する内クオリアは
虚ろな信号とまともな信号の間でゆらいでいる。
ゆらぎはときに生命を助け、ときに不都合をもたらす。
何が虚ろでなにがまともかは生命には分からない。
ただそのゆらぎの中で生命は創発する。
そのゆらぎの変異がこの『ポヨン』詩群という
異界探索の労作を生んだように。

命が秘め持つ内クオリアの異次元世界は、
うまくそこに出入りする方法を知れば
無窮の創造性の宝庫である。
誰もがその世界を持つ。
山田詩はその世界の歩き方を示した。

そうさ、誰もがその無限の創造性と固有性に満ちた世界に入って行ける。
そして、山田氏のように言葉でその世界を探索することも、、
サブボディ・メソッドのように、からだで踊りこむこともできる。






ヒマラヤ共振日記
2008年1-2月
反骨の変体舞踏
中島みゆきと吉田拓郎
『永遠の嘘をついてくれ』
天を蹴るさわ実の脚
ステップイーグルが旅立つ日
パニール・プロジェクト
「死者の霊」という元型について
出会うべき人に出会う
「うまくいかない」シリーズの夢
死者の霊とは何か?
ラウラの身体変容
ナンビクアラの人々に学ぶ生命共振
2007年
山田詩を読む・異次元世界の歩きかた
フォーカシングから学ぶ
なぜわたしはLeeと名乗るか?
ネズミたちの還暦
ジョンレノン・イマジン
80年代の愛聴盤に入っていた!
マオリ・Tuhoeの人々の闘い
ラッセル・ワルダーについて
ニュージーランドからの生命共振
老国語学者大野晋の慧眼に快哉!
堀川久子とホンシンガー
ベトさんの死を悼む
ミクロな生命のダンス
追悼! 長井健司氏
堀川久子の舞
桂勘のワークショップ
明日の記憶
ブレードランナー・ファイナルカット
ピタールの流動覚
気づきとアイデア
ある詩人からの手紙
広島忌
ロベルト・マッタと異次元開畳
生命の欲動を聴く
はかなく、つたなく、しどけなきもの
国家というこころの麻酔薬
生命は死者とも共振する
加藤登紀子と山崎博昭
赤ん坊のかなしみ移る赤ん坊
ヒマラヤのバブル経済?
このフレアがいい
太陽のコロナ爆発を踊る
桂勘 タイムマシン
静かな共振生活
命からの苦い便り
ミンデル、共振原理を理解する数少ない一人
糸井重里の、とても本当さ
共振ゆらぎの暮らし
生命について
チョ・スンヒ事件に共振する発言。一人だけ
覆い隠された無意識の人種差別
殺人者の心と共振する
トビに学んだ共振原理
共振するひもたちよ!
万物の根源のひも共振
土方巽の『疱瘡譚』
土方巽と細江英公
命を鼓舞する中島みゆき
ステップイーグルの旅立ち