January-Febryary 2008

2008年 1−2月
中島みゆきと吉田拓郎
命の時間と共に生きる
日本語と英語の落差
命の語法
日本人のからだ
異次元開畳術の探求
24時間の生命共振
不透明な透明論
<圧迫されたこころ>
「うまくいかない」シリーズの夢
死者の霊とは何か? 
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2008年 1−2月

2008年2月23日

中島みゆきと吉田拓郎

「喉首伝う欲望をネクタイで締め」

そのようにしてわたし達は毎朝社会に出た。
これは清水昶の若い頃の詩の一節だ。
会社員をしていた20代の頃、毎朝のように
この詩を唱えて出社していたが、題名はもう忘れた。
欲望は命の友だ。
それはいつもからだの闇から不意に湧いてくる。
わたしたちは一生欲望ともっともよい付き合いを見つけるために生きる。

今日は中島みゆきの誕生日だ。
2年前のつま恋コンサートで、彼女が吉田拓郎とデュエットした映像をだしに、
今日は欲望について語りたい。

吉田拓郎のつま恋コンサート2006で、
中島みゆきが拓郎のために作詞作曲した
「永遠の嘘をついてくれ」を二人で歌った。
生まれてはじめての、そして、おそらく最後のデュエットだった。
二度とこんな出会いは起こらない。

はじめてこの映像を見たとき、
中島みゆきのからだのとてつもないぎこちなさに驚いた。
30年来彼女を見てきて、
もともと歌うときなにがしかはぎこちない人であり、
それが魅力でもあったのだが、
こんな強烈なぎこちなさを眼にしたのははじめてだった。
こわばった歩き方、拓郎に向けた引きつったような笑顔、
何万という観客をにらむまなざし、硬い声。
そしてからだの闇から時を超えてぬめりたつ欲望と
それを鎮めようとする無意識の両手の動き。

いったい彼女のからだで何が起こっていたのか?
長い間わたしは喉に刺さった魚の骨のように
このぎこちなさが気にかかって仕方がなかった。

わたしは自分のからだで起こっていることを透明に見たいと
意識と下意識とからだの関係を探求してきた。
その間にはねじれだのきしみだの、いや、言葉にできないほどの
多次元的な複雑な出来事が起こる。
生徒のからだをみても、意に染まないことをいやいややっているからだは、
正直にそのことを語っている。
からだの底からにじみ出てきた動きは、
一見どんな醜い動きでも生命のぬめりに満ちて輝いている。
自分や生徒のからだをみるように、
彼女のからだで起こっていることを透明に見ようとしていると、
少しずつ透き通ってきた。

(しまった。こんなはずじゃなかった。
もっとさりげなく会えるはずだったのに……)
さいしょにからだが感じたのはこの戸惑いだ。
なにかが違う。だが何が違うのかつかめない。
いきなり異次元に放り込まれたような、
強烈なめまいのようなものに包まれる。

この人を好きでたまらなかったのは、
あれはもう何十年も前のことだ。
疾うに過ぎ去ったことと心の整理もついていたはずだ。
だが、彼女にとって想定外だったのは、
目の前のむさくるしい六十男に向かう54歳の自分ではなく、
あの当時そのままのからだのクオリアがむくむくと
みずみずしいままよみがえってからだを捉えたことだ。

中島みゆきはデビュー前の学生時代、
コンサートの手伝いのバイトをしたり、
楽屋にミニスカートで出入りしたりと、拓郎の追っかけをしていたという。
じっさい、70年代初頭の吉田拓郎は彗星のように輝いていた。
詩人の北川透が、『詩的リズム』という書物で
拓郎の一音に二音節ずつ載せる独特のリズムの鮮烈さを
見事に分析したのは70年代の中ごろだ。
「きみ・の〜・髪・が〜・肩・まで・伸び・たら・
けっ・こん・しよ・うよ・ぼく・と〜」
日本語の歌唱史上で、こんな独特なリズムが生まれたのは
彼の発明によるものだ。
その後多くの歌手がこの新しい変則リズムを受け継ぎ発展させた。
だが、フォークのヒーローも歳をとる。
1995年、スランプに陥った拓郎から作詞作曲を依頼されたとき、
中島みゆきは拓郎独特のリズムにのりうつってこの歌を創った。
いつまでも永遠の人でいてくれと、
老いたヒーローを鞭打ち、叱咤激励の願いをこめた。
そして、ついに手に入らなかった人への永遠の愛もこめた。

舞台に登場すると、自分の年齢も相手の年齢も超えて、
大好きだった頃のクオリアがからだいっぱいに満ちてきた。
手に入らなかったものへの怨念や口惜しさでいっぱいになる。
いやそれどころか、生まれてはじめてデュエットしていることへの恍惚がたぎり立ってくる。
ここはどこ? いまはいつ?
わけが分からなくなる。
相手のからだをかきむしりたい衝動がからだを突き上げる。
激しい生命の共振が起こっている。
もう一歩よって、触れる距離まで詰めたくてたまらなくなる。
だからかえって、不自然な立ち位置の距離をとり続けるしかない。
からだの闇にまだこんな生々しい
クオリアがそのまま生き残っていたなんて!
驚いた中島みゆきは、取り乱すまいと、
からだを突き刺す無意識の衝動を抑えるのに必死になった。
ビデオを見れば、歌詞の二番を歌いだす前、
彼女の右手がからだの闇でわななくものを鎮めようと
左腕を取り押さえるために無意識に走る。
右手は理性の手だが、左手は下意識のものだ。
彼女は自分のからだの闇の衝動が、
なにかとんでもないことをしでかしそうで驚いている。

この無意識に起こるポーズはわたしにも経験がある。
無意識だからしかとは覚えていない。
だが、確かに思い当たるフシがある。
からだの芯からわなわなと
予期せぬ無意識の欲望がほとぼり出すとき、
それを取り押さえるために無意識にこの姿勢になるのだ。

何万もの観衆の前でからだに起こった変化を
悟られてはならない。
彼女の左手はさらに欲望にわななく太腿を押さえ、
その左手を右手がきつく押さえ込む。
からだの無意識に卍巴の鍵をかけねばならなかったほど、
からだの闇の底ではわけの分からぬ欲望だか衝動だか
見知らぬクオリアがうずまいいていたのだ。

中島みゆきと吉田拓郎ができていたと憶測する人もいる。
そうかもしれない。そうでないかもしれない。
それは秘密なのだ。
他人の秘密に立ち入ってはならないことがあることを
知らない人だけがそういう無粋な憶測をもてあそぶ。

本当の欲望は手に入らなかったものにだけ
時を超えて永遠にたぎりつづける。
それが命の真実だ。

欲望は美しい。
中島みゆきは真っ裸の命の欲望のたぎりをみせてくれた。
透明体へ、中島みゆきもまたまっしぐらに歩んでいる人だ。
いまごろは彼女自身もこのとき何が起こっていたか
誰にも語らぬまま透明に見透かしているはずだ。


(この記事は当初欲望の探求という内容から、「からだの闇」に載せたものだが、
他の人の活動への共振という意味では「共振日記」に該当する記事でもあり、
これまでも中島みゆきに関する記事は共振日記に載せていたので、
それらとのつながりを確保するために両方に載せることにしました。
からだの闇の坑道は多様多次元にリゾーム状につながっている。
できるだけそのありのままのリゾームを実現したいので、こういうことになる。
本当はもっともっと混線しているだが、あまりにリンクを複雑にするとわけが分からなくなる。
このサイト全体がもともと、ツリーとリゾームを自在に往還する道を見出すための試行錯誤です。
了解されたい。)



2008年2月21日

命の時間と共に生きる

日本からヒマラヤに戻って、3週間が過ぎた。
この間のからだの変化を見守ってきたが、
まだ、一番調子のいいときの3割程度しか戻っていない。
思いのほか時間がかかる。
もっとも調子のいいときはいつも命のうねりと共に生きていた
感触があるが、いまだにそれからはぐれたままだ。
それで、もっとも好調のときと今とを比べてみると、
いまだに命とコンタクトする些細な習慣を見失ったままだという
ことに気づいた。

とくに失っていたもっとも大きな習慣は寝る前のお願いだ。
明け方にサブボディさんからの気づきをなかなか受け取れない、
という結果ばかりに気が行っていたが、
そのためには、夜寝る前にサブボディさんにいまの自分の
最大の課題の解決をお願いすることが不可欠なのだ。
そうすることではじめて、夜中じゅう働いているサブボディさんが、
お得意のグリア=ニューロン多次元検索の作業を通じて
意識には気づけない収穫をプレゼントしてくれるのだ。
もちろんそのためには、短期記憶を一次保存する海馬に
新しい体験のクオリアが毎日いっぱいたまっている状態でなければならない。
それで、夜中にサブボディさんは、海馬にたまった新しいクオリアを、
既存のどの内クオリアと結びつけて保存するか、
海馬とその他の大脳皮質のグリア=ニューロンネットワークと
ランダムに結び付けては切り替える作業を一晩中せっせと行い、
もっとも意味ありげな結びつきの回路を発見してくれる。
明くる日にそのできたばかりの新鮮な回路を、
何度もたどることで、その回路が補強され太い回路になる。
明け方のサブボディさんからのお告げを受け取るのは、
そのできたばかりの新鮮な回路がどこにあり、
既存のどんなクオリアとクオリアを結びつけたものなのかを
知ることである。
それをおきている間中たどりなおし味わいなおす。
からだでもたどってみる。
できれば多くのチャンネルを通せば通すほど良い。
それで、できたばかりのグリアニューロン・ネットワークが
さらに多くの結びつきを増やす。

一日のこの命とからだと意識と下意識の間の
交流をできるだけ多彩に保つこと。
それがサブボディを乗り回す鍵だ。
サブボディさんは、それらの間を自由自在に走行しうる
多次元移送機でもある。
それは多次元変容し続けるサブボディのひとつの顔だ。
古代のヒンドゥや密教の神が多数多様に変幻して見せたように
サブボディさんもまた、無数の顔とからだと働きを持つ。
そのようにイメージしたほうがいいことがようやく分かってきた。
権現、権化、変身、憑依、などが、
異次元開畳とともに追求されねばならない。
その両者は、世界像の変容と自己像の変容が
一個二重であることの二様の現れなのだ。
ユングが晩年にテーマとした<変容>こそ
サブボディの最大の特徴である。そして、
低次元時空の中の固定したものを
捉えることになれた意識にとってもっとも苦手なのが
<変容>という出来事なのだ。

これはわたしにとっても
今年以降のひとつの大きな探求テーマになるだろう。



2008年2月19日

日本語と英語の落差

日本からヒマラヤに帰ってきて三週間になろうとしている。
毎日晴天が続き、午前中いっぱいは屋上で、
頭上で舞う鷲を感じながらゆらぎ続けている。
鷲と共に天空に舞い上がり、高度5000メートルの空から
下界を眺め、零下数十度の気温の中を飛翔する鷲の体感になりこむ。
鷲のおかげで、日本であれだけ嵩じた意識の不快な緊張と、
それから逃れるためのタバコへの欲求もからだからほぼ抜けた。
日本にいたころとの時差も取れ以前どおりの睡眠が戻ってきた。
歳をとるとこういうことに時間がかかるようになる。
睡眠が戻るに連れて、長い間途絶えていた明け方の
サブボディさんとのコンタクトもうまく取れるようになってきた。
もうほぼ以前どおりのペースでいろんなことへの
気づきや練習法の発見が相次ぐようになって来た。
だが、まだそれは日本語で出てくるだけで、
それを英語にするときに苦しい壁にぶつかる。
なかなか英語にならないのだ。
この壁は前からもよくぶち当たってきたものだ。

これはいったい何なのだろうか?

わたしの英語力は小学生並みの語彙しかないので、
日本語で書いた自分の文章を英語に翻訳しようとすると
極度に単純化されざるを得ない。
それは、下意識の高次元のリゾーム世界を、
低次元のツリー論理の言語に変換するときに起こる
次元数の違いに由来することに気づいた。

からだや命で起こる出来事は極めて多次元的なものだ。
正確に言えば非二元かつ多次元的なものだ。
いくつものチャンネルで起こることや、違った時空で起こっていることが
未分化に多次元的に交じり合い変容し続けている。
それはとても言葉にはしにくい。
あえて言葉にしようとすると、ひとまずその多次元的なありのままの出来事の次元数を削減して、単純な三次元や四次元の低次元の出来事に変換する必要がある。
それではじめて、からだの闇で起こっている超複雑なことを
他の人の意識にも伝えることができるようになる。
だが、そのとき日本語に変換するのが、たとえば十次元を四次元に低次元化することだとしたら、英語にすると一挙に二次元まで落ちてしまうのだ。
からだの闇で起こっていることも、四次元程度に圧縮して書くのなら、まだ我慢ができる。
だが、英語にすると二次元のぺしゃんこな、
味も素っ気もないニュアンスのない表現になってしまう。
これでは書くことが自分を展げることではなく、自分を押しつぶすことにしかならない。
惨めな気持ちになって書く気など失せてしまう。
だが、わたしの生徒の90パーセント以上は外国の人なのだ。
これが耐え難い葛藤を引き起こし不快な気分に襲われる原因だと気づいた。

これを解決するには、最初から一挙に英語で書くしかない。
授業で行っているように、身振り英語で、貧しい語彙を補って、
言葉だけでは二次元でも、身振りでもう二次元ほど補って、帳尻をあわすのだ。
サイトに載せる文章では、身振り言語は使えないが、
その代わり絵や写真などのビジュアルで足りない分を補完することができる。
去年の「今日のひらけ」はそのようにして身振りの変わりにビジュアルチャンネルを使うことで、
日英の語彙の次元差を補って帳尻を合わせていたのだ。
先に英語で書いた文をそのまま日本語にすると、平板な日本語になるが
本のすこしひねったりニュアンスのある言い回しを使うことで、
何とか我慢できるものになる。
もともとわたしはある時期に言葉を信じず、からだだけを信じるようになって、
詩的な比喩や暗喩をほとんど使わなくない平板な日本語遣いになっていた。
(これ自体大きな問題だが今は触れない。)

もともと、下意識の多次元世界の次元数が
英語にするときに極端に減じられてしまうという事実に直面したことから、
多次元リゾームと低次元ツリーとの間の相互変換という
ツリーリゾーム論そのものの課題が発見されたといういきさつがある。
つらいが、この50からはじめた英語と、60年使い続けている日本語との
極度の落差に耐えていくしかないだろう。
ほんとうに身を切るようにつらいのだが、仕方がない。
日本語でさえほとんど通じないサブボディや舞踏についての伝達を
外国で行なおうとすることは、わたしの命が自分で始めたことだから。


2008年2月7日

命の語法

命から意識へいつもかすかなメッセージが届けられている。
それは意識の語法とは異なる。
言語を使わないで伝わるものだから、
言語になれきった意識にはつかみにくい。
だが、ひとたび命の語法を会得すれば
つねに命とコンタクトすることができる。
私は外部からの言語情報の外圧のないヒマラヤで
探求してきたのはこの命独特の語法だ。
いくつか確かなものが見つかっているので
ご紹介しよう。
昨日の「朝のもやもや」にも関係するが、
朝目覚め前にからだのなかのもやもやとした体感を探る。
すると、そこには一晩中命がやっていた仕事の残り香りが漂っている。
夜中に命がする仕事は、
その日に起こった新しい体験のクオリアを整理することだ。
新しい体験はひとまず脳の海馬というところに保存される。
そして、一晩かけてそれらの一時記憶のうち
長期記憶として保存するべきものと、廃棄するものに振り分けられる。
どういう仕組みでその選別が行われているのか?
眠っている間におそらく命はその日に得た新しいクオリアと
過去に保存した内クオリアとをひとつひとつ突き合わせ
どういう共振が起こるかを試している。
そして既存の内クオリアとは異なる新鮮な共振が起これば
それは<新鮮なクオリア>として特定のグリアに永久保存される。
そしてこの新鮮なクオリアに対し、
既存のグリア一つひとつと突き合わせが行われる。
夢の中でさまざまな映像やストリーリーが展開されているのは、
この突き合わせ作業で起こっている出来事の反映だ。
そして、その新しいクオリアと既存の内クオリアとの間で
強い共振が起こればその新しいグリアと既存のグリアとの間に
ニューロンの分枝が形成される。
それが<新鮮な体感クオリア>として
明け方のからだのもやもやのなかに漂っているあの独特の
<新鮮なクオリア>だ。
もやもやのなかにこの<新鮮なクオリア>を見つければ、
それをつかんで離さないことだ。
しばらくからだの闇のなかで揺すぶっていると
それがどんなものかが浮かび上がってくる。
それは新鮮な気づきや発見をもたらしてくれる。
これが命からの第一の語法だ。

新しく長期保存された新入りクオリアは、だが、それ以外の無数のクオリアとはまだ、密接な関係を確立していない。
それは<どことなくしっくりこない>とか、
<落ち着きの悪さ>という
つかみにくい奇妙な体感として感じられる。
明け方のもやもやの体感の中に、
この<落ち着きの悪さ>のクオリアが見つかれば、
それは新しいクオリアがどこかに保存された証拠である。
落ち着きの悪さのクオリアをからだの中で転がしていると
やはりなにか新鮮な発見や気づきが訪れることが多い。
この<落ち着きの悪さ>が命からの第二の語法だ。

以上は一時記憶から長期記憶に変換されるときに起こる出来事の
かすかなクオリアだ。
命の仕事は、だが、それだけではない。
もっと根底的に、昼間の意識がなにかに囚われて行っていることに対し
命が違和感を感じたときは<なんとなくそぐわない>とか、
<かすかな不快感>のクオリアを発する。
第二の語法とも酷似するが、
これにはもっと根底的な命からのメッセージが含まれている。
意識はいつも何か単独のクオリアにとりつかれて視野狭窄に陥りがちだ。
それに対四、命が違和感を感じたとき、
命は「なにか見落としていないかい?」というクレームを発して
身をよじろうとする。
アメーバが濃い酸や毒物に触れたとき
そこから遠ざかろうと身をよじるのに似ている。

去年の秋、私は前々からやりたかった「衰弱体」の授業を
はじめて行うチャンスを得たことで、それに夢中になっていた。
それに対し、一年の授業がすべて終わって後、
からだの中に言いしれぬ違和感のようなものが立ちこめた。この冬中味わっているうち、ようやく私自身が「衰弱体」に
囚われるあまり、それが持っている特殊性を無視して、

それを受け入れる準備がまだできていないわずか一ヶ月目の生徒にも
無理に押しつけていたことに気づいた。
いや、6ヶ月目のカツでさえ、縛られているようできつかったと
共振掲示板に書着込んでくれた。
衰弱体は土方でさえ、あらゆるタイプの舞踏を踊り抜いてきた後に、
いわば最後の境地としてたどり着いたものだ。
彼自身何年も、午前中いっぱい死んだ姉の着ものを着て
姉のからだになり込み続ける長い修行の後にようやく
身につけたものだ。、
踊りをはじめた当初のからだに衰弱体への必然性が
生まれてくるわけではないし、その技法を学んだところで
わずかな期間で身につくものでもない。
私が見落としていたのは衰弱体に至る長い時間性だ。
私自身もここ十年探求しているがまだ自分の踊りになっているわけでもない。
意識を鎮め、下意識に触れ、あらゆる契機を踊れるようになって後、
衰弱体への必然性が生まれてくる。
人は誰も自分の中で成熟してくる命の時間性を忠実にたどるしかない。
頭では分かっていたことだが、じっさいにやってみて
その時間性の重い壁にぶち当たってはじめて痛感させられた。
大事なことはいつもこういうふうに学ぶしかないものだ。

ともあれ、命から発する、<かすかなそぐわなさ>や、
<何ともいえない不快感>のかたちで届けられるものこそ、
もっとも大事な命からの語メッセージである。
フォーカシングのジェンドリンがいう「フェルトセンス」や、
ミンデルの「センシエント」は、すべてこの命の語法に
耳を傾けようとするものだ。
このかすかな不快感をつかんだら握りしめて手放さないことだ。
ごくごくかすかなものだが、このメッセージを解くと、
大きな発見に至ることが多い。

命からのメッセージは以上の三種のクオリアに大別される。
それ以上のディテールはさまざまな映像やストーリーの夢や
ビジョンとして現れてくる。
だが、前にも述べたように夢の具体的な映像やストーリーは
その日に蓄積された一時記憶を長期記憶に変換するかどうかの
より分け作業の最中にアトランダムに古い内クオリアと結びつけられ
保存するかどうかの線上で発生したものなので
偶然の産物であることも多い。
夢を見たら、その夢の特異な映像やストーリーばかりではなく
その夢に漂う体感クオリアをつかんで、
からだの中でしばらく頃がしていると
そのまま消えていくか、前記の三大クオリア、
<新鮮さ>、<落ち着きの悪さ>、そして
<かすかな不快感>のどれかに帰着するかする。
この三つは命にとって大事なものだから、
忘れないように握りしめてからだの闇で揺すり続ける。
するといつしかそれと共振するクオリアが見つかって
何を言おうとしているのかが解けてくる。
十数年、命の技法を解こうとしてきた。
ようやくみっつばかりの少しは確かなことを
つかみ出すことができるところまできた。
第二と第三が酷似しているので見分けにくいかもしれないが
あえて分別する必要はない。
どちらにせよ、不快感に属するものだ。
からだの中にそれまでになかった感じ悪いものが感じられたら
それこそ大チャンスだと思えばいい。



2008年2月6日

日本人のからだ

3週間日本に滞在しただけで、からだがとんでもないことになった。
昔の日本にいた頃のからだに戻ってしまったのだ。
日本では毎晩日本語での家族団らんの会話に浸っていたが、
それで言語中枢が異様に興奮したのか、
ある日風呂に入ると、差し水のゴボゴボという水音が
日本語のしゃべり言葉に聞こえてきた。
水を止めてもなお頭の中で延々と誰かがしゃべっている。
耳の奥で地虫が鳴くような幻聴はいつもあるが
声が聞こえてきたのは久しぶりの体験だった。
中学生の頃から超自我が自分を指令する声はしばしば聞こえたが
いつの間にか消えて久しい。
そうか、昔の神官や巫女はこんなふうに
実際に声が聞こえたのだと実感した。
彼らも言語中枢が異様に高揚した人々だったのだろう。

ヒマラヤに帰った翌日近所の長年の友達に会うと
「しゃべる速度も歩く速度も二倍速になっている」
と指摘された。自分では気がつかなかったが
いつのまにか日本の速度になじんでしまっていたのだ。

旅の間中のべつゆらぎ続けていたので体調はいい。
いつも仙腸関節から動いていたので
どこでも踊り出せるからだを維持できた。
だが、命は過敏だ。
知らないところで異様な緊張に堪え続けていたようだ。
なれない乗り物で長時間移動する緊張と、
3時間半の時差が帰る日までとれなかった。
時差で睡眠時間が狂うと、私にとってもっとも大事な
朝の起きがけのサブボディからのもやもやとした
メッセージを探ることがまったくできなかった。
3週間の間、パスポートやビザの申請期間をぎりぎりに
とっていたので、役所に行く時間を間違えてはならないという
緊張を強いられた。
周りをおびただしい言語やデザインという自分のものではない
情報圧力に取り囲まれていることもヒマラヤになじんだ命には異常だった。
いっそ日本にいた頃のからだに戻る方が堪えやすいと、
タバコを吸う習慣が戻った。
これは去年の旅でも同じだったので驚かない。
ミャンマーで山岳民の娘たちが手で巻いていた
手作りタバコを一息吸ってみたときくらっときた。
それが瞑想のときの変成意識によく似ていたので
タバコとは何かを自分のからだに尋ねようとしてはまってしまったのだ。
私は30代のコピーライターの頃一日200本を吸うヘビースモーカーだった。
なぜあの頃の自分がタバコを必要としていたのか
その謎を解きたかったのだ。

二年かけて謎は少し解けた。
日本で仕事をしているときは
絶えず膨大な情報を処理する必要があった。
生命は本当はその緊張した意識状態を好きではないのだ。
だから、仕事の合間に一服してほっと一息入れるのが楽しみになる。
それは3分間で燃え尽きる瞬間的な変成意識だが
命はそれを無意識的に求め続けていたのだ。
200本も吸っていたわたしは一日に200回もその変成意識に
逃れる必要があったのだろう。
それだけではない。
一日20時間も仕事をすれば
言語脳が興奮しすぎてまるで寝付けなかった。
一升酒と睡眠薬で自分を酔いつぶしてはじめて眠ることができた。
だがそれは毎晩自分を壊すような眠りだった。
なにも外部からの言語情報が入ってこないヒマラヤの暮らしを続けているからだには、
日本にいるだけで周りから迫ってくる言語情報の分厚さが
命に対する外圧として違和感を感知するようになっていた。
言語だけではなく、街の建築物や通行人が発するデザインに
含まれる情報も外から命を圧迫していると敏感に感じられた。
こんなに外部情報の圧力が強ければ
内部のかすかな命の声など聞こえるわけがない。

脳内のグリア細胞間を流動している下意識の内クオリアは
ニューロンのような電気信号を使わず、
微細な化学信号だけで交通している。
そのエネルギーは電気信号に比べると
おそらく何億兆倍もかすかなひも共振のエネルギーに過ぎない。
言語意識が興奮していると、それにマスキングされてクオリアがかき消されてしまう。

今私は自分のからだが元に戻るまでどれだけの時間がかかるのか、
ストップウオッチを握りしめているかのような面持ちで計っている。
都会生活を続けてきた新入生徒がいきなりここへ来ても
すぐには言語意識を鎮められない。
長年それを続けてきた私でさえヒマラヤへ帰ってもう5日経つのに
まだ完全には元に戻らない。
朝のサブボディからのもやもやしたメッセージとのコンタクトも
まだ回復することができない。
新入生にとってはもっともっと長い時間がかかるのだと痛感した。
今年の授業は最初の自我意識と言語意識を鎮めるプロセスに
もっともっとゆったりと時間をかけることにしよう。
いままでの授業のペースは速すぎた。
一週間や二週間で言語や自我が鎮まるわけがない。
意識を止め下意識に触れることさえできれば
創造性は無限に湧き上がってくるのだから急ぐことはないのだ。
大事なことを日本滞在から学んだ。

2008年2月2日

異次元開畳術の探求

去年の後半は衰弱体に焦点を絞ったために
サブボディ舞踏の本質である異次元開畳を磨くことができなかった。
一年が終わって何かが思うようにいっていないという
かすかな違和が感じられたので、それ以来その違和のクオリアを
からだの底でゆらし続けてきたがようやく
何が足りなかったのかの合点がいった。
下意識の世界と意識の世界が本質的に異なるのは
意識の世界が三次元や四次元という比較的低次元で展開するのに対し
下意識の世界は多次元なので、低次元世界の展開の仕方とは
まったく異なる展開を見せる点にある。
それを一言で言ったのが異次元開畳である。
異次元開畳には恐ろしいほどさまざまな種類がある。
それは言葉ではなかなかとらえがたいので
知られていないが、サブボディ舞踏の特質は
それをもっぱら追求するところにあるのだ。

なにかに囚われることはよくない。
全体が透明に見渡せなくなる。
衰弱体に囚われたために、異次元開畳の探求が
おろそかになってしまっていたことに気づいた。
異次元開畳を探求するのは難しいが
材料はすぐ身近にある。
夢や妄想や独りでに出てくる思いや動きが
どんなふうに現れるかをつぶさに観察するだけでよい。
それはいつも意図を超えて行われる。
いつのまにかシーンが変わっていたり、
不意にパックリ違う世界が開いたり、
知らぬ間になにかのクオリアがにじみ出してきたりする。
その意図を超えた展開に従うだけでいい。
意識で判断してしまうと切れる。
分別意識が介入するとそれを分節化してしまって違うものに変質する。
意識で作った踊りとサブボディ舞踏が根本的に違うのはそこだ。
だから、サブボディ舞踏を創ろうとしても、
意識が介入すると、全く不自然な作為的なものになる。
違いがすぐ分かるのはそのためだ。
だがそれを言葉で指摘することは難しい。
生徒の創った踊りに、意識的な作為が紛れ込むのは仕方がないが
私自身がそれを適切に指摘する言葉を持たなかったことが
訳の分からない違和感の正体だった。
去年の11月は一年の最後なので一ヶ月だけの生徒も含めて
最後に自分の好きな場所を選んで作品を創ったが、
おそらく作品化を急ぎすぎたことも原因のひとつだ。
ことしは春から生徒自身が自分の下意識の世界の展開法を
観察して自分で自分なりの異次元開畳術を身につけることが
できるようにしよう。
それではじめてサブボディ舞踏らしいものに近づくはずだ。

異次元開畳をからだで実現するためには
からだの一部から、あるいは世界の一部から
いまそれが属していない異次元のクオリアがにじみだして
いつのまにかからだあるいは世界を覆い尽くすという
リゾーミングの技法に習熟する必要がある。
これもまた身につけるには、日常体が閉ざされている
あらゆるヒドゥンジョイント(隠れ関節)の封印を解き
日常のからだに囚われずに動けるようになる必要がある。
これにはずいぶんと時間がかかる。
それを十数年追求し続けている私でさえ
この冬にはじめてできるようになった動きがある。
日常体の封印力はそれほどきついのだ。
急がないこと、急げば急ぐほどゆっくりと歩くこと、
それが未踏へたどり着く唯一の歩き方なのだ。
私のこれまでの誤りのほとんどは急ぎすぎたことから起こっている。
ゆっくりゆっくりを口癖にしていても
私はいつのまにか失踪してしまう。
十歳からランナーとして生きてきたわたしのもっとも悪い癖だ。
急ぎすぎぬことを、今年の自戒としよう。




2008年1月28日

24時間の生命共振

朝から晩までゆらぎ続ける。
一日中足の先から頭のてっぺんまでの
60兆の細胞が感じている生命共振に耳を澄まし続ける。
あらゆるチャンネルのごくごく微細なクオリアが共振しつつ
からだを経めぐっていることに気づいて生きる。
各細胞の生命は、絶えず重力、光、電磁波、音、空気、呼吸、血流、
脳脊髄液環流、ホルモン流、内クオリアの記憶流、関係像流、
世界像=自己像流などと共振している。
いまここで感じている外クオリアと
細胞内に蓄えられている内クオリアリアが時を超えて共振している。
内クオリアには、個体として蓄えた記憶だけではなく
40億年前の生命発生以来の
生命記憶が蓄積されている。
極寒の気候に触れ続け、かじかんだ細胞は
氷河期に即時遺伝子に刻印された生命記憶が
発現されて寒冷期用のタンパク質を生産し始める。
恐怖や怒りにとらわれた生体は、
全身がアドレナリンモードに染め上げられて
逃走=闘争状態になる。
そのとき生長ホルモンや免疫システムは停止される。
すべて40億年の生死の危機を乗り切ってきた
細胞が持つ生命の知恵なのだ。
その叡智に耳を傾け続ける。

日常の自我意識は、こういう
微細な生命共振のクオリアの感知を
自己ブロックしている。
自我と意識を止めなければ生命の叡智がどのように働いているのかに
触れることができない。
ゆらぎ続けるとは、
24時間生命の叡智に耳をすまし続けることなのだ。

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2008年1月23日

10日ぶりに少し時間がとれたので更新します。
今回の旅では一日中からだを揺り動かしているので
体調がすこぶるいい。
冬場は、三元時計ゆらぎや百丹三元ゆらぎを続けていると
からだの内部からあったまる。
飛行機や電車の中でも家に入っても続ける。
街角を歩きながら、人通りがなくなると瞬間的に踊る。
都会の地下街にも時折人気がなくなる瞬間がある。
通行者が来ると元の歩きにもどる。
いつでもどこでも踊りだせるからだを保って旅をしている。

不透明な透明論

ヒマラヤから日本への旅の途中、
バンコク空港のネットカフェから到着時間を日本に連絡した。
少し時間があったのでこのサイトを開いてみた。
すると、「透明論」が全然読めなかった。
とっつきにくく、どんなサイトなのかも分からない。
踊りのサイトの冒頭になんで透明論のような
観念的な文章が置かれているのか。
透明論のでだしがちっとも透き通っていない。
何を書こうとしているのか、
他人の目で見てみるとまるで独りよがりな独白に見える。
なんとも言えない気持ちの悪さがこみ上げてきた。
日本へ着いてからもからだの奥のわだかまりは消えなかった。
夕べその気持ち悪さに聴き入っていると
あれを書いたときの私自身が時間に追われるなか
<圧迫されたこころ>になっていたことが
原因であるとわかった。
日本への旅でサイトの更新が中断するので
出発前に急いでまとめようとして、
まるで締め切りに追われるライターのような
切迫する時間の中で書いたものだ。

<圧迫されたこころ>

時間や空間によってであれ、関係によってであれ、
観念によってであれ、
命はとても圧迫されやすいものだ。
命がもっとも保ちたい状態以外の状態を強いられると
すぐ圧迫されて歪む。
吉本隆明の『共同幻想論』とユングの『元型論』は
そのゆがみを探求しようとして書かれた本だ。

<圧迫されたこころ>には簡単に元型や共同幻想が忍び込む。
私は切迫する時間の中でタバコを一年ぶりに吸い、
昔のからだとこころに戻ってしまっていた。
からだから切り離された意識が
自分を押し出す文章になってしまっている。
必要でもない科学者批判が頻繁に顔を出しているのも
<自我という最大の元型>を野放しにしたまま書いたからだ。
バンコクで旅人の目で感じた違和感は、
そういう無意識に出てきている自我元型を目の当たりにして
こっぱずかしくてしかたがなかったのだ。
自我によって不透明になる。
それを書こうとした私自身の文章が
もっとも不透明な自我の霧に覆われていた。

とりあえず、冒頭の透明論は後ろに回し、
実技ガイドを冒頭に置いて、冬の間の読者が
からだに潜る便宜を図ることにした。
いつもゆらぎつづけ、一番いいからだの状態を保つこと。
いつどこへでも踊りだせるからだで一日を過ごすこと。
幸い今年は旅の間も日本へ着てからもゆらぎつづけているので
体調は壊れていない。
テレビや新聞受ける情報はできるだけ遠ざけている。
だが、都市はそれ自体で強烈な情報群なのだ。
ヒマラヤから出てきたからだには、
街にあふれる日本語やデザインが飛び込んでくる。
街のビルや商店や行きかう人の全身にまといついている情報が
毒のようにきつく感じられる。
まともに車内吊りの広告や車窓からみえる看板や街のデザインに
反応していては命がもたない。
だから日本の人々は電車の中ではケイタイか、
ゲーム機かヘッドフォンステレオに籠り、
命を防御せざるを得ないのだと納得した。
しかしそれにしても、
現代日本には<圧迫された命>があふれかえっている。
命やこころやからだが圧迫されていることにも、
意識がそれらからはぐれてしまっていることにも気づいていない。
人々が今浴びている情報量の被爆量は人類史上はじめての規模だから、
何が起こっているのかさえ、分からないまま進んでいる。
「人間とはこんなものだ」という新しい<人間元型>に
人々の命は喰われてしまっている。
元型に喰われた命は、本来もつ創発の力を発揮することができない。
インフルエンザ・ウイルスさえ、
年々新しい型を創発して生き延びているのに。



2008年1月5日

●「うまくいかない」シリーズの夢

去年の暮れから今年にかけて同じテーマの夢を見続けている。
最初は、土方巽がサブボディスクールで
なにか踊りを創ろうとしているのだが、
なぜかうまくいかないという夢だった。
舞踏論に「衰弱体」について書いたばかりだったので、
その内容がどこかしっくりしないところがあるという
サブボディからのメッセージだという気がしたので、
土方の舞踏譜を読み返した。
すると、これまで歯が立たなかった舞踏譜が
かなりすらすら解読できてきた。
次は、「土方の舞踏譜について」書くときがきたようで
その後取り組んでいる。

次の夢も土方だった。
やはりクラスに参加して、サブボディメソッドの
「序破急」メソッドに沿って踊りを創っているのだが、
やはり何が悪いのか、うまくいかないという夢だった。
今度は「序破急理論」に問題があるのかと、さすがに
気分が落ち込みながらも、自分のからだに聴き入ってみると
自分自身が今までの序破急では踊りたくないといっている。
これまでずっと、昔伝染熱などを創ったときに得た序破急理論を
教え続けていたのだが、私のサボボディは、
もうあんなアドレナリンに満ちた観客に挑みかかるような
めまぐるしい転換を続ける踊りはできないと
告げていることを思い知らされた。
そのサボボディの変化に理論がまだついていっていないのだ。
これはこれから何年かかるか分からないが、
これまでにない序破急の踊りを創っていく中で
解決していくしかないだろう。

三回目は若い女性の生徒が、
やはりクラスで何かに取り組んでいるのだが、
寸前のところで見えない壁にぶつかって
苦しんでいるという夢だった。
その生徒が不意にわたしに向き直り、
「うまくいくときと、行かないときの
微細な違いってどんな感じですか?」
と質問した。
私はそれを聞いてギクッとした。
そういう問いが出てくるとは、まさにリアルに
できそうでできない歯がゆい微妙な瀬戸際に
立っているという証拠だからだ。
そういう微妙なクオリアはわたしもよく体験したものだ。
何かほんの微細なものが見つからなくて突破できないクオリアだ。
私自身自分のそのときのクオリアをよく聴いて
答えねばならないと、自分を追い詰めていた。

四回目は今朝だった。
今度はスタッフのロメスの三歳の息子のラビが、
やはり何かに取り組んでいるのだが、うまくいかない。
そのうまくいかないときの歯がゆく胸苦しい感じが
私ののども元までこみ上げてきた。
その体感があまりに強烈だったので、突然これまでの
すべての夢でも、生徒がうまくいかないときは
私もそれに共振して生徒と同じ苦しいクオリアを
感じていたことに気づいた。
これまでもうまく意識を止められないとか、
サボボディに触れられないとか、
生徒がうまくいかないときほど、その苦しみに
共振してわたしもまた、とても苦しく感じていた。
その<共振の実在>を、
この「うまくいかないシリーズの夢」は
伝えようとしていたことに不意に気づかされた。
思い返せばそれまでの三つの夢でも、
私もまた「うまくいかないクオリア」を
たっぷり感じていた。
だが、今日までそのことに気づかなかった。

死者の霊とは何か? 

そして、この夢が、共振掲示板を通じて、
アメリカに帰ったカツが発した「死者の霊と何か?」という
質問への答えになっていることに気づいた。
同時にフィンランドのKatjaという今年の受講を申し込んでいる生徒からも
Facebookを通じて、同様の質問を受けていた。
彼女はシャーマニズムをもう十年も研究しているという人だった。
だが、とても英語で答えきる自信がなかったので
今度あったときに直に話しましょうと、ペンディングしていた。
その質問についてもわたしのサブボディさんは、
答え続けようとしていたのだ。

カツからの手紙は次のようなものだった。
通常はすぐ返事を書くのだが、この問いは
とても微妙なものなので、すぐ返答せずに
サボボディさんにからだの闇に答えを探してもらっていた。


Lee先生、

年末に霊媒の出るテレビ番組にはまっちゃいまして、そこで「霊って何だ?」なんて考えちゃいました。この霊媒の人たちが接す る霊たちは、生きていたときの記憶や性格を持っていて、それで残された家族の人たちに何か言ったりするんですよ。体外こういうのはインチキ臭かったりする んですけど、先生のばあちゃんも霊媒さんだったから、先生もこういうの見たことあるでしょう?

でもこういった形で現れる霊ってのは、本当 に命の形なんでしょうか?オイラたちのサブボディーの観点からすれば、こういった霊って「エゴ」や「セルフ」ではあっても「ライフ」って感じじゃないです よね。残留思念なんて言葉がふと頭をよぎりますが、なんか命の共振の残り物みたいな感じ。気や命の世界は無我、無意識の世界であるわけでしょう?じゃあ何 で意識や自我が霊として残るんだ?

まあ、こんなこと言うとオイラ達のやっていることをなんかのカルトや宗教みたいに思われちゃうので、あ まりいいことじゃないかもしれないけど、でもひも共振や指圧の気の世界を見つめ続けていくと、どうしてもこういったものにもぶち当たったりしちゃいますよ ね。オイラの知り合いの中でも、オイラがなんかの教徒になって帰ってくるんじゃないかと心配していた人たちがいましたが...

命って深いですね。

まあこういう感じで、2008も始まるわけです。



私の祖母も霊媒だった。
子供のころに目のあたりにした憑依の現象は
私にとって長い間謎だった。
わたしは一生かけてこの問いに取り組んできたといっても
過言ではない。
その問いにようやく明確な答えができるようになった。
霊媒の人たちはただただクライアントが暗黙裡に示す
クオリアに共振しているのだ。
霊媒は依頼人から死んだ人との交霊の依頼を受けたとき、
依頼人が発する暗黙の不安や死者への負い目などの
微細なサブシグナルを瞬間的に察知してしまう。
そして、実際の交霊行為に入るときには、
その依頼人との間絵体感した共振クオリアに従い
からだごと乗り込み増幅していく。
霊媒には、依頼人が負い目に感じている、
死者が懐いて死んだであろう恨みや泣き言に
からだごとなりこんでいく。
サボボディのなりこみテクニックと同じだ。
からだの闇に折りたたまれているnot-meやサブ人格は
まだ自我が成熟しない小さいころに発生し、
この世にうまく受け入れてもらえなかった不満や鬱屈の塊である。
未成熟ないびつな自我を持っているのが特徴だ。
それと共振する下等生物の形をとって出てくることも多い。

交霊憑依の要望が出てくる場合も、
依頼人と死者との間に生起したが、
死者の存命中には解決不能だった些細な揉め事、
互いの立場の違いからくるどうしようもない齟齬、
行き違いなどに両者が雁字絡めになっていたケースが多い。
日本で言えば嫁と姑のいさかい、
何とかしようとしているのにうまくいかない
家族や親族間には発生する問題、
立場や出自の違いからくるどうしようもなかったしがらみに
悩まされ続けていることが圧倒的だ。
霊媒はその地でもっとも世知に長け、
かつ共振能力の異常に高い人だから、
依頼人と死者との間にどういうしがらみがあったのかを
本能的に察知して乗り込み、
全チャンネルを使ってからだごとなりこんでいく。
死んだ人の霊がどこかに実在するのではなく、
依頼人の脳のグリア細胞のなかで時を超えて振動している
ひも共振からくる内クオリアが正体なのだ。
霊媒は依頼人との短いふれあいの中で
暗黙裡にその内クオリアを受け取り共振し、増幅してみせる。
依頼人はもともと自分一人の心の奥深くしまっていたはずの
死者とのしがらみのクオリアが、言葉ではなにも言っていないのに
霊媒から出てくる言葉がすっかりそれに対応したものなので
「すべて察知されている」感じてぶったまげて畏れわななく。
そのモードに取り付かれてしまえば、
一言でも思い当たることを霊媒がしゃべれば、
すっかり死者の霊そのものが
そこに降霊してきたかのように受け取るのだ。
「死者の降霊」とは、関係チャンネルの<元型>に他ならない。
交霊術とは、関係チャンネルの<元型>に基づき、
それを共振・増幅する技術だ。
わたしは60年かかって、小さいときに目のあたりにした
霊媒の秘密を徐々に解いてきた。
今日の夢は、相手と自分の間にそっくり同じクオリアが
共振している事実を告げ知らせた。
そして、その体感クオリアの共振こそが、
降霊現象の正体なのだ。
外界に霊があるのではないが、
死者との共振は依頼人の内クオリアで続いている。
その共振に霊媒が共振する。
実在するのはこれらの共振と共振の連鎖なのだ。

(ここから先はカツへの私信になる)

指圧をしていきたいという先の手紙にありました。
タオ指圧もまた、同様の共振術です。
相手と短い言葉を交わし、そのクオリアやからだに触れることで
どこがどうダメージを受けているのかを全身で共振察知する。
意識を止め、原始感覚が目覚めると、
相手の生命が苦しんでいるのと同じクオリアが、
自分の中に共振して存在するのを痛切に感じることができる。
それができたとき、治癒者になるのだ。
終わりのない長い修行の道だけれど、
カツには素養があるから大丈夫だ。
暗黙裡に存在する相手と共振しているかすかな体感に
気づいてください。

カツもこれからワークショップを開くなかで、
かならず、生徒がうまくいかないことが出てくる。
そのとき教えるほうもからだがとてもつらくなる。
とてもいやなクオリアなので放り出したくなる。
でも、そのいやな感じのするクオリアこそ、
共振からくるものなので、一番大事にしてください。
問題を解く鍵はすべてそのネガティブな体感のなかに
降りたたまれている。
すぐには解けなくて
このいやな体感はやればやるほどたまっていく。
でも、それだけがサボボディの産婆の財産なのです。
産婆に必要な無私の共振力は、このからだにためた
「うまくいかないクオリア」に比例して深まる。
一見いやな味のするこのクオリアこそ産婆にとっての
最高の富なのです。

でも、この富がたまりすぎると、
元型のひとつである<老賢者>の知恵に転化する。
経験を積み、少し知恵がついてきたときいい気になると、
<老賢者>の元型に喰われて<グル>になってしまう。
世界各地にいるグルや新興宗教の教祖たちは、
みなこの種の元型に喰われた人たちだ。
オームの麻原もその一人だったろう。
もっと強烈な<神>の元型に喰われてしまったのが
キリストやマホメットだ。
元型はいたるところに潜んでいる。
そしてとても強い力で私たちに襲い掛かってくる。
大概ちょっと力がついたかなといい気になったときは
何かの元型の力を借りてそうなっていることが多いから、
気を配るように。

いい気分には元型の罠が潜んでいる。
逆にいやな体感には、未知の気づきの鍵がある。
いつも多次元的な発想を忘れず、
しなやかに危険から身をかわす術を身に着けてください。

長くなりました。
ではまた。

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