| May-December 2008 |
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| からだの闇を掘る | ||
| 2008年12月25日 ●サブボディの前身――幻の少女との対話 この冬は若いころからつけている夢日記を読み返している。 もう何度目になるのだろう。 何度も何度もからだの闇の荒れ狂う荒野を耕すように読み返す。 20代のころの夢は性と殺人にあふれかえっている惨憺たるものだ。 自宅がいつの間にか暴徒の群れに取りかまれて応戦する夢、 無数の理不尽な殺人、それも対立者を殺すばかりではなく、 愛する自分の幼少の一人息子を夢の中で5回も殺している。 どうしてそんな夢を見たのか、60歳になってもいまだに腑に落ちない。 この腑におちないわりなさが、わたしをからだの闇の透明化に向かわせ続ける。 夢日記とは別にわたしは20代から30代のころ、 夜中に酔えば訪れてくる幻の少女との対話を続けていて、その会話の記録が残っている。 読み返すとそれは、下意識の別の性をもつ自分との対話、 ユングの言うアニマとの対話だったことが分かる。 彼が後年編み出したアクティブ・イマジネーション技法を当時の私は知らぬ間にあみだしていた。 20代の頃の私の昼の意識は、いかに国家を死滅させることができるかを探って、国家論に取り組んでいた。だが、深夜酔ってからの下意識の私は、延々と幻の少女、アニマとの会話にふけっていた。 それは今のサブボディの前身にあたっていることに気づいた。 30年前のからだの闇の坑道をたどり直してすこし掘り下げてみたい。 「 ――白くなる。呑んでいると、酔いと不酔のあわいで一瞬意識が真っ白になる瞬間がある。そんなとき、必ず訪れる少女がいる。 あなたは、自分の汚い部分、卑小な心、一瞬頭を通り過ぎるけれど、自分でも目をそらしたり、つぶったりしてしまう情動の風みたいなものが気になって仕方がないようね。だから他人とそれについておしゃべりして気を紛らそうなんて魂胆、見え透いているわよ。 ――そうだ。知ってるとも、そんなことに気がかりになって、いたたまれなくなるほどきたない心をしかと持っているのは俺だけだってこと。 とかいいながら、腹の底では、他の奴は、ことに女はその自分の汚さに気がついていないだけだ。うまく目をそらせているだけだ、と言いたいのでしょう。 ――たまげた。よく知ってるね。 あてずっぽうのはったりよ、でもあなたって知っててわざと引っかかったみたい。 ――見透かされている感じだね。あなたはいったいなにもの? あててごらんなさい。 ――ねえさん? いもうと? ううん違う。肉じゃない。血でもない。もっとまぼろしの…… そう、私は精神の娼婦。みんなそう呼んでいるわ。 ――からだは販らないの? なぜ、そんなことを聴くの? ――なぜって…… それは大事だからとっておきにしてるの。 」 また別の夜。 「 ――酒が入らなくても、幻の少女を呼び出せるかどうかの実験。 …… ――(幻の少女の代わりにむくつけき男が出てくる。 男は黙っている。男には、むくつけき自分自身を引き受けて生きている感じがある。) そうよ。 ――あっ、出た。 お化けみたいに言わないで。そんなことぐらい当たり前のことじゃないの。自分には自分自身しか引き受け手がいないから誰だって仕方なく自分を引き受けて生きているのよ。自分自身にさえ引き受けてもらえなけりゃ、あるがままの自分なんてたちまち幽霊みたいになっちゃうのよ。ちょうど、いまのあなたみたいに。 ――今日はいきなりきついね。でもほんとにその通り。ぼくは自分にも自分をよく引き受けにくくて、ずいぶん幽霊みたいにさまよい出していたものだ。君に言われて途端に眼が覚めたようだ。 あなた自身が最近うすうすと感じていたことをはっきりいったまでよ。 ――うん、そうかもしれない。 それにしてもあなたはまだ、自分で自分を引き受けられずに、自分の引き受け手をさがしてふらついていたときのみっともない自分の姿に気がついていないでしょう。 ――あ!? それはひどかったものよ。見てられなかったわ。 」 幻の少女はいつも、破れた初恋の少女や、会ったこともない腹違いの妹、いなかった姉さんなどに変幻して現れた。たぶん二十代の終わりか、三十代の初めだろうと思われるが、私は自分の生き方を見失い、愛する人を愛するしかたも分からずに、ありえない時空と偶然裂け目が開いてもんどり落ちる偶然の時空の間をあてどなくさまよっていた。大阪の環状線を何周もする夜もあった。たまたま出会った少女と話しこんだり、家までついて行ったりした。酒場でであった少女とホテルにもつれ込んだり、職場の少女の下宿に泊まり、友人の彼女や人妻と夜っぴいて戯れたりした。自分のからだの底でのたうつ性の暗がりが、身近な人を傷つけてしまう醜さにわれながら打ちのめされていた。見知らぬ力で私を突き動かすその汚さだけが私の確かな所有物だった。これはカフカの若き日の日記の言葉だが、私の所有物もそれ以外見当たらなかった。後年わたしはそれをからだの闇と名づけた。 ※この項はから闇と多重日記の双方にまたがる内容なので両方に掲載します。 |
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| 2008年12月8日 ●終わったとたんに原始生命モード 今年の共振塾も無事終わった。 幾人もの長期生とともに一年間衰弱体に集中したかいあって 今年は共振塾始まって以来の多彩な収穫があった。 サイトのレイアウトを一新して、 上の一覧からそれぞれの生徒のビデオ、写真、手記などにアクセスできるようにした。 これからじょじょにビデオや写真で生徒の創造をアップロードしていく予定だが、 インドでは頻繁にブロードバンド用の電話線が盗難にあって、なかなか復旧しない。 完全アップロードには時間がかかると思われるが、これがインドの時間だ。 ゆっくりとかつてない質の舞踏をお楽しみいただけると思う。 私は今年の授業が終わった途端に、何が一番したいのか私の生命に問うた。 生徒たちはここ数日の間にそれぞれに国に帰っていった。 わたしはもう生徒たちの前で人間のふりをしている必要もない。 すると私の生命は、生徒たちが去るのを待っていたかのように もんどりうってかつてなく深い原始生命瞑想に入った。 一日の多くの時間を40億年前に誕生した原始生命の身になりこんで時を過ごしている。 もうこれから3ヶ月間は人にあう用もないから、 見境なくアメーバかバクテリア状の生まれたばかりの微弱な生命になりこむことができる。 まだ始まって間もないが、かつて味わったことのない恐怖が容赦なく襲ってくる。 原始生命の周りはことごとく死の世界だ。 出会うものやエネルギーすべてがはじめて出会う未知のものばかりだ。 それらとどう共振すれば生き延びられるかもまったく分からない。 生命はずっと生か死かの激しいエッジに直面し続けてきたのだ。 地表には容赦なく死をもたらす紫外線や放射線が降り注いでいる。 原始大気中のメタンや酸素は原始生命にとって猛毒だ。 いきおい深い海底か地中に潜んで、 それらの環境と共存できる共振パターンが創出されるまで何億年も待たざるを得なかった。 今日のあらゆる生命細胞は、ナトリウムイオンやカリウムイオン、カルシウムイオンを 生体内に適度に取り入れ、放出することで細胞内外の電位差を生み出し、それを活動源にしているが、 そんなすぐれた生命共振のしくみも長い試行錯誤の歴史の中で磨き上げられてきたものだ。 まわりの死の世界との間に少しずつ少しずつ新しい共振パターンを創出していくことで 生命の歴史は築き上げられてきた。 一言で言えば、生命の歴史とは、死のがけっぷちで絶えざる生命共振を創出し続ける歴史だったのだ。 この冬はその歴史をからだで追体験していくことになりそうだ。 あらゆるものごとを生命共振の創出という相で捉え返すと、 これまでとはまったく違ったように世界が感じられることを知った。 私にとってもはじめての体験なのでどうなることか予測はつかないが、 ときどきは今日のように言葉モードのわたしに帰って、何が起こっているかご報告していきたい。 |
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2008年11月29日 ●自我を脱ぎ、クオリアに耳を澄ます 自我や意識は二元論的論理や発想に囚われている。 よい・悪い、上・下、正・誤、敵・味方、内・外、心・身体、善・悪、 ……プラトニズム的二項論理が深深と言語意識を浸潤している。 いくら修練しても、十分な調体ができなかった日は、自我が出てくる。 無意識裡に善悪判断や、二項論理思考が湧いてきて気がつけばそれに捕らえられている。 自我は、母胎との無限共振の崩壊に起源を持つ。 そして、生涯を通じて、家族、学校、企業社会の規律・訓練システムによって訓育され、強化され続ける。 今日の自我は歴史・社会的に造り上げられ、植えつけられたものだ。 このお仕着せの自我モードに囚われている限り人間はだめなのだ。 思考が立ち上がってきたり、判断や批評を始めてしまっていると気づいたとき、速やかにそれを鎮める。 自我には、他者への怒りや苛立ち、不満が伴うのですぐに分かる。 どうどうどうと、いきり立つ馬を鎮めるように、言語思考や判断、批評にささやきかける。 「君が大事なことは知っているよ。日常生活には欠かせない。 けれど今じゃない。今は創造のときだ。しばらくおとなしくしていてくれないか。」 十分に調体を行い、意識を止めた上で、 何度も何度もこれを繰り返していれば、やがて、 言語思考や判断も出てくるべきときを心得るようになる。 だが、調体不足の日には、かならず、自我が立ち上がる。 何年たってもこれは変わらない。 ふと他人のことを悪く思ったり、不満に感じたりして腹立たしくなっているときがある。 そんなときはその感情に囚われるのではなく、ただちにもう一度調体に向かうべきなのだ。 その感情を忘れ去るまでゆらぎ、からだに耳を澄まし、瞑想する。 すると、多次元で共振しているクオリアの海に出ることができる。 そこでは時を超え、いまここの時空を超えて、クオリアがはるかに共振している。 幼年期の記憶、胎内のゆらぎ、単細胞生物時代の体感などなどが多次元で響きあっている。 クオリア共振には善悪・正誤の二元判断がない。 そんなものは低次元の世界にしか成り立たない。 ひも理論のひものように、11次元で共振しているとしたら、 どちらが上とか、外とかという二元判断は意味を持たない。 命は非二元かつ多次元のクオリア変容の世界でたゆたっているのだ。 その世界に降りてここちよいゆらぎにひたりきる。 毎朝、この生活を続ける。何があってもこれを欠かさない。 これが一番大事なことだ。 |
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2008年11月28日 ●自我が出るとき ときどき、自我が出る瞬間をつかめるようになってきた。 一日のほとんどを意識と下意識が半々につりあうサブボディモードで過ごす。 このモードにならないと生徒のサブボディになりこんで、それを内側から共振しつつ感じることができない。 だが、朝の調体を十分できなかった日など、練習場に降り立った自分が自我に囚われている時がある。 そんなときは生徒のサブボディに耳を澄ますのではなく、 自分が勝手に立てた予定に生徒が従っていないと腹を立てている。 今週は二度それが起こった。 一つ目は三ヶ月目の短期コースのある生徒がエッジに直面することから 巧みに身をそらせて避け続けてきたことに対する失望が湧いた。 踊りが深まらずに、自己表現の域を出られないのは、 エッジから逃げ続けたからだと生徒を責める気持ちになった。 だが、3ヶ月でエッジに直面するところまで持っていくのは不可能なのだ。 人によるが、早くて半年かかる。 わたしが3ヶ月の生徒にエッジに直面するよう指導できていなかったのだから それは生徒のせいではなく、わたしの授業が不十分だったせいだ。 それなのにわたしの自我は自分の責を見ずに、それを生徒のせいにして腹を立てている。 自我というのはこのように本当に始末が悪い。 知らぬ間に無意識裡に立ち上がってきて、気がつけばわたしの主人顔して居座っている。 若いころはいつもこの自我モードだったから、気がつくもつかないもなかったのは仕方がない。 普段、自我モードを離れていることができるようになって、 はじめて自我に囚われている自分の状態が分かるようになる。 ようやくそれに気がつくようになって来た。 ここまでくるのに十年以上もかかったことになる。 自我を殺した産婆になりきるには、思っていた以上の時間がかかるのだ。 もうひとつは、生徒の創造直後の態度をめぐるものだ。 今年は最後の自分のサブボディの創造が終われば、直ちに産婆モードに移行して 他の生徒の創造を支援するよう生徒に伝えていたつもりだったが、 どうもそれがうまく伝わっていなかった。 だから、カツの手記に現れているように、 自分の創造が終わった瞬間に今年は終わったと感じてしまう生徒が出てきた。 それは自然な生理としてある程度は仕方がないものだ。 創造が終わった瞬間真っ白になってしまう。 だが、教師としてのわたしはその創造に伴う自然な生理を忘れ、 創造が終わった生徒はただちに産婆モードに移行するものと勝手に予定していた。 そして、生徒が自発的にそうならないことに悲しみ、腹を立て、意地悪い気持ちになっていた。 思わず強く指導したり、叱ろうとする自分が出かかったことがある。 だが、そのときこそわたしが自我に囚われている瞬間なのだ。 それは産婆としてあるまじき態度だとすぐに自己否定する。 自我は無意識裡に立ちあがってくるから、気づきにくい。 これに気づくにはただただ毎日のすべての時間を自我から離れて生きるよう修行するしかない。 そうすると、非自我モードの自分と、自我モードの自分の違いが分かるようになる。 サブボディモードへの調体の第一段階は、 日常の思考モードから微細なクオリアへのリスニングモードへ切り替えることだ。 だが、第二段階は、自我モードから非自我モードへの切り替えだ。 それを深く身につけることができてはじめて産婆コースに入れることができる。 いままで、生徒をよく産婆コースに導くことができていなかったのは 私自身がこの第二段階の調体の重要さとそれへの導き方に十分自覚的ではなかったからだ。 来年以降はきちんとこの段階への調体に導くよう、年間計画に織り込んでいこう。 今年までの経験から、産婆コースは半年では無理で、1年、あるいはそれ以上の2年、3年コースという 長い時間がかかるものなのかもしれない。 その時間性を私はまだ十分に把握していない。 そして、創造モードから、産婆モードへの切り替えをどう導いたらよいのかがまだ見えていない。 だから、今年は最後の創造を生徒が終えた瞬間に、 生徒がすべて終わったというモードに入ってしまうのをどうしようもなかった。 そして勝手に、生徒の自我が出たと受け取っていたが、大きな間違いだった。 わたし自身が自分の自我に囚われていたのだ。 ゆっくり、ゆっくり。 いつもこの呪文を手放してはだめだ。 自我が立てた勝手な予定の速度になどサブボディは従うものではない。 自我も自分もなくしてはじめて、命がたどっている命独自の変化の時間が聴こえるようになる。 まだまだ。 まだまだだ。わたしの耳は。 自分のからだの闇の中の騒々しい雑音にマスキングされて沈黙に聴き入ることができていない。 そうか。カツではなくわたし自身が、カツの手記にあったようにもう今年の仕事は終わったと早合点して 来年の予定や端境期の自分が出てくることを招きよせていたのだ。 他人を責めようとするときはいつも自分の内視盲点になっている問題を他人に投射している。 百パーセントの確率でそうだ。 この真理は今度の自我騒動でもまたわたしに当てはまったことになる。 |
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| 2008年11月18日 ●からだの闇の非時の通路 (1) からだの闇は、4次元時空からなる現実界とは別の異次元にある。 日常界のような一次元的時間が過去から未来へ流れているのではない。 生命がたどってきたすべての時が一堂に会している。 意識を止めないとそんなことは分からない。 意識はいまここの一次元時間に強く規制されているからだ。 ゆらぎ瞑想その他の方法で覚醒と睡眠のあわいでゆらぐ透明覚を開く。 すると、人生で体験してきたすべてのクオリアが等価に共振しあっているのが分かる。 小さな頃に母が私の名を呼ぶクオリアと、いまここで誰かが私の名を呼ぶクオリアに優劣はない。 いやむしろ、小さな頃の母の声のほうがはるかに強く染み付いている。 60歳を過ぎるとそういうことが分かってくる。 三つ子の魂百まで、という言葉が、この非時の事実を指していることも 長く生きないとつかめない。 若い頃はそれは信念のようなものを指しているのだろうと勝手に想像していた。 だが、信念などではない。すべてのクオリアがそっくりそのまま持続しているのだ。 そしてそれは意識で記憶しているものに限らない。 60歳を迎えることとなった今年の誕生日、私は少し離れた温泉地の河原で踊った。 からだの闇のサブボディたちがどんな動きを動きたいのかに任せた。 すると、サブボディはただただ胎児の頃の世界に潜り込もうとした。 私が十ヶ月たゆたっていた子宮内の世界でいったい何が起こっていたのか、 ひたすらそれをからだが追い続けていた。 そして、その動きは日ごろ私が共振塾で教えている土方の衰弱体とは似ても似つかぬ 奇怪な動きになった。 まるで煮えくり返るはらわたがそのまま出てきたような動きだ。 それで私はようやく知った。なぜ私が私になったのかを。 戦争から帰ったばかりの若い父と、満州から帰ったばかりの若い母との間は、 その外側の新地の芸者の世界に血漿を垂れ流している脳髄のように、 荒れ狂っていたのだ。 悲怒と愛憎でたぎりたった大量のアドレナリンが胎内に流れ込んだに違いない。 私は疾風怒濤、シュトルムウントドラングに胎児の時代から見舞われていたのだ。 わたしの態変奇矯な性格がどこから来たのか、これまで不明だった起源がすこしだけ明らかになった。 そして、胎児の時代に見舞われたアドレナリンの嵐は その後の人生でも時と所を変えて何度も繰り返し味わうことになった。 世界を転覆せずには擱かない私の中の激しい否定感情も、 既成概念を疑い尽くす懐疑の根深さも、 その多くが胎児の時代に吸い込んだ大量のアドレナリンの嵐でかろうじて納得がいく。 彼らは私の中のアド系のサブ人格となった。 ・ことごとくの価値観を転覆せずにおかない<テーブル返し>、 ・ひとつの道が閉ざされるとたちまち別の抜け道を見つける<代替転換屋>、 ・人々が寝静まると高速で見失った母あるいはアニマを探し回る<ネズミ>、 ・17歳の情熱的革命家<山沢夙>、 ・20歳の暴力的な潰滅主義者<今故血人肉男>、 ・年齢不詳、正体不明の否定屋<否定人格> これらの傾向を持つ人格は、乳児期や幼児期に始まったとは考えられない。 おそらく、かれらの起源はアドレナリンで荒れ狂っていた胎児界に根を持つ。 わけの分からぬ興奮の荒波に見舞われて、わたしは退治のころから疑心暗鬼で過ごしていたのだ。 そして、生まれてからも父とのことで情動不安定な母の元ですごした3歳までの期間に これらの現実を信じない闇のサブ人格群が育っていったのだ。 60歳になった日にサブボディに任せて踊ったことで、 これまで起源が不明だったアド系のサブ人格群に少しだけ透明な見通しがついてきた。 闇の坑道をたどるのはなんともまあ、時間のかかることだ。 |
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| 2008年11月8日 ●恥ずかしいものなどない 自分の中に生命として恥ずかしいものなど何一つない。 からだの闇でうごめいているものたちは、 日常世界の規範で見れば、恥ずかしい、みっともないものだらけだが 生命としてはなにひとつ恥ずかしいものなどない。 どんな淫らで、とりとめもない妄想を湧かそうと、 どんな奇妙な欲望がうごめいていようと、 どんなみっともないものが好きであろうと、 それらはすべて生命現象なのだ。 からだの闇で起こっていることを 生命現象として受け止め、受け容れることだ。 自我や自己のものさしで判断したり、裁断したりしないことだ。 誰の自我も、どんな社会規範も、生命現象の正否を判断したり、裁いたりする資格などない。 あると思うのはとんでもない増長であり、自我肥大妄想だ。 からだの闇で起こっていることは、意識できることに比べて格段にかすかなクオリアに過ぎない。 脳心身を極限まで鎮め、かすかなサブシグナルをキャッチし、からだごとなりこんでいく。 かすかなクオリアをからだで増幅してでてくるサブボディになりこむ。 長年裸でサブボディを踊るうちに、身に着けたものは サブボディは生命現象だという確信だ。 生命が生命を恥じてどうする? からだはもとより、からだの闇のどんな妄想や妖魔のクオリアにも、 恥ずべきものなど何一つない。 それどころか、すべて人と人の間で共振可能なものだ。 わたしがヒマラヤに共振塾を開いた動機は あるいはそんなたったひとつことを伝えたかったからかもしれない。 からだの闇のもっとも醜いサブボディを掘り起こして踊ることを、生徒に勧めるのは、 それはちっとも醜いものではないことを確信しているからだ。 サブボディ舞踏は自我表現や自己表現などではない。 それは命の創発なのだ。 無明の命の美を彫り探るものだ。 社会規範から虐げられ、からだの闇の奥深くに封印されているものほど美しい。 それを醜い、恥ずべきものだなどと指弾する現代の社会規範の方こそ転倒しているのだ。 サブボディ舞踏とは、現代の転倒した、反生命的な社会規範、美の規範を すべてもう一度転倒し直すものだ。 人間の時代は終わった。 思い上がった自我や人間の時代ではなく、 共振するサブボディが切り開くのは生命の時代だ。 |
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| 2008年11月8日 ●胎界性欲 性的欲望や衝動の多形的奇怪さに耳を澄まし続けてきた。 そして、昨日山道をゆっくり谷間で下っているとき、ふと気づいた。 わたしの性欲の根底的な傾向は、フロイドのいう小児性欲でも幼児性欲でも 乳児性欲でもなく、胎児性欲とでもいうのがもっともぴったりくることに。 私の性的傾向はホモでもヘテロでもなく、フィータスなのだと。 性欲が特定の部位、性器や肛門や口唇に局限されないで、肌全体に広がっている。 あたかも胎内で羊水に触れつつ揺らいでいたかの状態を希求しているかのようだ。 それは実際の肌というよりは、秘められた肌、 Hidden skinに潜む欲動に領動されている。 しかもその胎界性欲が、60年の人生のあらゆる時期の性的欲望や味わった快楽と共振して発現してくる。 性欲が多形変容的奇怪さを持つのはそのためなのだ。 ホモ、ヘテロ、フィータス、サド、マゾ、フェチ、ショタ、ロリータ、糞尿、獣姦、死姦、自傷、他傷……の闇。 意識は拒否する。 「私にそんな傾向は微塵もない!」 だが、意識を消せば、生命はそのいずれのクオリアともかすかに共振しているのが分かる。 人間に起こることは必ず、共感可能であり、理解可能なのだ。 意識的記憶にはないが、細胞には、人間以前の時代の生命記憶が内クオリアとして保存されている。 単細胞時代の接合や分裂、無性生殖や有性生殖のあらゆる衝動とも深く共振している。 多形的な性欲パターンのうち、ホモは無性生殖、ヘテロは有性生殖の衝動と遠く響きあっているかもしれない。 そして、フィータスはそれらすべてを含むリゾーム的な接合や分裂の衝動と共振している。 ここまでくれば、性的欲望という言葉ではなく、フロイドが使ったリビドーという言葉のほうがふさわしい。 リビドーレベルのサブボディになりこんで、 かつて欲望と呼んでいた多形変容の世界を旅することができるかもしれない。 いままでは、あまりにカオスの度合いが強すぎて、手がつけられなかった領域だ。 性的傾向はその基底部では生命傾向と区別がつかないところがある。 性の多次元変容度が強いのは、 性の衝動は生命の起源となった自己維持と創発の生命衝動とも響きあっているからだ。 この坑道をたどれば、生と死の間でゆらいでいるエロスとタナトスの領域へ降りていけるかも知れない。 性よりもっと無明の、生命の闇へ。 私にとって、晩年のフロイドが導入したタナトス(死の欲動)は、性的欲望の闇よりさらに深い闇だった。 そんなものがほんとうにあるのか。ありそうにも思うし、なさそうにも感じる。 そんなごくかすかな有と無のあわいへ降りていこう。 ハイデガーはこの無明の闇へ問うた。 有とはなにか。時とはなにか。 この闇では今なお若きハイデガーの問いがこだましている。 有への問い、時への問いは、生命とはなにかという問いの中で、 無への問い、非時への問いに共振し、ふくらんでいく。 かすかなかすかな原初生命クオリアが発生の瞬間でいまなおふるえている。 死から生への跳躍はいかに起こったか。 生と死、有と無、時と非時のゆらぎの中で生命は生まれた。 その原初の体感に耳を澄ます。 初源の生命が感じた最初の生命衝動とはどんなものだったのか。 胎界性欲は、原初生命衝動と深く共振している。 そこでは性欲と生存欲の境界がない。 だからだったのだ。それがとてつもなく味が深いのは。 |
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| 2008年11月6日 ●40億年を見通す透明な目 この数日、自分のからだの闇でとりとめもなく蠢く性衝動のあまりに多形的な節操のなさに われながらあきれ返り、お前たちはいったいどこから来たんだいと、 問うことさえ忘れて立ちすくんでいた。 毎度のことだ。 性衝動の奇怪で節操のない振る舞いには60年付き合ってきても慣れることができない。 今日このサイトの「からだの闇」のリンクが途切れているのを発見して、 その補修のために昔のページを開いたとき、 去年の7月に自分で書いた記事に教えられた。 「 透明覚を開くとは、あらゆるものを40億年の命として見、 感じることができるようになることだと分かってきた。 人間という小さな自己に囚われている限り透明にはなれない。 自我だけではなく、自己にさえ囚われていては不自由なのだ。 たとえば、この間取り組んできたn個の性にしても、 40億年の命として見てみれば実に当たり前のことだと分かる。 生命40億年の間には、生命の性のあり方も、 単細胞生物の分裂による単性生殖、接合による生殖、 そして、雌雄両性への分化と合体による有性生殖へと多様化してきた。 あらゆる多細胞生物は、受精直後の単細胞生物の相と多細胞生物の相をもつ。 有性生殖をする生物でも、多くは一生の間に、無性時代と有性時代を過ごす。 一生の間に雌雄が転換する生物もいる。 40億年の歴史を見通すと、生命は本来多形的な性を持っていることが分かる。 男だの女だのという<元型>に囚われねばならない理由はない。 ありとあるタブーもまた元型のひとつだ。 人類の長い歴史の間には、兄妹や近親が僻地や孤島に閉ざされ 長く近親相姦を繰り返さねばならなかったこともある。 異属との交わりのほうがタブーであったことも、 交わりを避けて単性のまま終える生も、 乱交と乱婚を生きた世代もあったろう。 おまけに人は幻現のクオリアの二重性を等価に生きる。 妄想の中で体験する恍惚や多様な性感を入れれば 性の多形性は無限のクオリアの多次元的多様性をもつ。 多形多次元的な性こそ生命の本質なのだ。 種の多様性の創発が生命の本質であるように。 40億年の生としての透明覚を開くと、 これまで闇に閉ざされていた謎が 面白いように透けて見えてくる。 そして、人間が何億という分厚い文化の<元型>に囚われ 雁字搦めになってしまっているかということも。 」 自分が昨日まで囚われていた性の多形性の奇怪さも、 40億年のまなざしで見通せばなんの不思議もないことだと分かる。 昨日書いた、国家の死滅に関しても、40億年の命に聴けばいい。 命は断じて国家など必要ないと答えるだろう。 命にとって必要ないものは必ず消え去る。 一時繁栄して消え去ったカンブリア紀の生物種たちのように。 アメリカも、日本の国家も消える。 先月のわたしは、わずか2週間で急ごしらえの踊り手になろうとした切迫のあまり、 サブボディたちの持つ小さな自我に振り回されすぎた。 その間いちどとして40億歳の命にたずねることを忘れていた。 短い時間で何かをしようとするとかならず、何かがゆがむ。 いろんなものを見そこわないために、 40億年間を長く見通せる透明な目を鍛えることが何より大事だと思い知った。 |
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| 2008年11月5日 ●国家と民主主義が死ななければならない 60歳を過ぎた。 今まではなぜか歯に衣を着せてしかしゃべれなかった。 これからは、ほんとうのことだけを包み隠さず言うことにする。 アメリカの大統領選挙という茶番が終わった。 誰もこの茶番の本質を言おうとしない。 選挙という仕組みの本質は、もっとも重要な問題を覆い隠すことにある。 民主党が勝とうと共和党であろうと、アメリカが現在の戦争政策を継続することに変わりはない。 選挙の目的は戦争とそれを推進する国家そのものがもはや死ぬべきときを迎えているという、 最も本質的な歴史の分岐点から国民の、そして国際世論の目をそらすことにある。 現在の体制の維持こそが根本目的なのだ。 その茶番は現在の体制を維持したい者たちによって 体制維持のための大量の情報洪水を引き起こして終わる。 民主党も共和党も体制の根本的維持のためのふたつのオプションに過ぎない。 日本にしても同じだ。 民主党であれ、自民党であれ、日米同盟を堅持し、 アメリカの国際政治の支持者であり続けることは微塵も揺るがない。 選挙は本質的な変化から目をそらし続ける情報洪水で国民を総洗脳する大規模情報装置に他ならない。 民主主義という制度の本質は生まれながらにしてそこにあった。 ギリシャで民主主義が生まれたとき、議会の誰ひとりも、 ギリシャを支えている奴隷制への疑問など提出しない言論枠の中でのみ、かりそめの議論がなされた。 アメリカの選挙でも、アメリカを支えている世界資本主義という国際支配制度への疑問や、 国家そのものを疑う言説などは、前以って封殺されている情報マトリクスの中でのみ 見せ掛けの「言論の自由」が演じられる。 その見せ掛けを構成する「言論の自由」や「人権」などという 現代民主主義の振りかざす旗を信じてはならない。 そんなもので歴史が動いたためしはない。 それらの言論によって覆い隠されているかすかな息吹に耳を澄ますことだけが重要だ。 旧世界の耳 覆い隠されているかすかな息吹とは何か? 国家が死滅を目前に控えているという世界史の生々しい息吹だ。 そして、民主主義と言う国家制度に代るあらたな政治の死滅システムの創出こそが 人類の火急の課題となっているという歴史的事実だ。 「言論の自由」という名の情報操作技術に制御されたデモクラシーではなく、 全世界の生命が沈黙裡に共振するリゾクラシーによって本当の歴史は決まる。 貴族制を終えたり、植民地制度を死滅させたりという歴史的段階の規模の、 これまでの世界史の帰趨を根底で決めてきたものも生命のリゾクラシーだった。 1989年のベルリンの壁を崩壊させ、ソ連圏の社会主義国家を一夜のうちに解体したものも 生命の世界的な共振によるリゾクラシーによるものだった。 その生命共振の方向に耳を澄ますことだ。 すると次はアメリカの崩壊であることは火を見るより明らかだ。 アメリカを中心とする現代資本主義国家群が一挙に解体する日が来る。 かすかなかすかな気配だが、耳を澄ませれば誰にも聴こえる。 国家の死滅はもはや目前に迫った歴史的課題だということが。 それが聴こえないとしたら、気をつけなければいけない。 触って見るがいい。君の頭の両横には、 植民地制度の消滅の前夜にそんなことがありえるはずがないと信じなかった 旧世界の耳が生えていないかい? |
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| 2008年11月1日 ●クオリアの共振が創造性の秘密だ |
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| ベランダの天井に反射したプールのさざなみ | ||
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| 大脳のグリア細胞に保存されたクオリアが、カルシウムウエーブとともに共振している映像 | ||
休日の午前、暖かいインドの秋の日差しを背に受けてベランダでぼんやりするのが日課だ。 何も考えないで、ただ感じているクオリアのすべてがひとりでに共振するにまかせる。 すると脳内のそれぞれの場所のグリア細胞に保存されたクオリアが、勝手に共振し、 新しい結びつきを見出していく。 ときどきとんでもない発見がやってくる。それを待ち受けるだけが私の仕事だ。 今日は寝椅子にもたれていつものようにベランダの天井に反射するプールのさざなみを楽しんでいた。 するとそれがいつかどこかで見たことがあることに気づいた。 しばらくしてそれが、昔ネットで見つけた脳内のグリア細胞が カルシウムウエーブによって順々に活性化していく画像にそっくりなことに気づいた。 そうか、脳内のグリアに保存されている内クオリアは、こんなふうにいつも共振しあっているのだ。 四六時中共振しているから、そのうち何か新しい共振パターンがひとりでに生まれ出るのだ。 それが命が行う創造だ。 瞑想状態ではゆっくりしたアルファ波が立つことが知られているが、 見慣れた一次元の脳波形ではなく、こうして平面の写像としてみると クオリアたちが共振していることがくっきりと見て取れる。 実際には、11次元もの多次元で共振しているのだから、 そこで新しい共振パターンが生まれる可能性は無限大だ。 下意識の命が秘めている創造性の大きさがよく分かった。 プールの水をかき混ぜるとどうなるか実験してみた。 するととても細かい波が忙しく立ち、ゆっくりした共振は感じられなくなった。 言語を使って思考するとそうなるのだ。 特定の方角へ方向付けられた思考が起こると、普段の共振はマスキングされて隠れてしまう。 意識的な思考状態では自由な共振による創造が起こらなくなるのがとてもくっきりと見えた。 来週のクラスは生徒とともにこのべランダのさざなみを見ながら 脳内のクオリア共振を瞑想することから始めよう。 |
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| 2008年10月26日 ●60歳の初心 命に問う。 何が一番したいのか? あっという間に60歳まで生きた。 ここまでは人生ひとっ走りだった。 もう後は人生のおまけのようなものだ。 いや、ご褒美だと受けとるのがいい。 これまでの人生は、どこかやりたいことと、やらなければならないと感じることの間で微妙にぶれていた。 これからはもう世間のしがらみだの、世界からの使命だのに縛られるのではなく、 本当にやりたいことだけをやって残りの生を生きようと思った。 で、一番やりたいことは何なのか? 命さんよ。 命の不思議をできるかぎり透明に見通すことだ。 起源が知れぬ衝動や欲動が私のからだの闇でうごめいている。 自分がなぜこんな特異な欲動や衝動に突き動かされるのか? 長いことそれが人生最大の不審事だった。 それらをすこしでも透明に見透かせる透明覚を磨きたい。 そして、意識と下意識とからだの間で何が起こっているのかを 透明に見せることのできる透明体になること。 わたしの踊りの最後の境地は透明共振体である。 ここ十数年の探求で、それらの不思議は 命に記憶された内クオリアと外界から受ける外クオリアの共振で すべてが起こっていることまでは見えてきた。 幼年期体験にさえ思い当たらぬことも、 胎内での体験にまでさかのぼれば、関係が突き止められることも分かってきた。 だが、まだあまりに漠然としている。 いままでにまだ踊れていない母や父をめぐって、60歳の誕生日に探った踊りでも、 私のサブボディはただただ胎界の出口あたりでわけも分からぬままもがいていた。 人生の残り時間をかけて、内クオリアと外クオリアの共振のありようをできるだけ緻密に取り出したい。 そこに創造の秘密も封印されている。 言葉で言うと、内クオリアと外クオリアという二項論理になるが それは便宜上そう大別したまでで、 本当はそこでは多数多次元のリゾーム的共振が起こっている。 内や外という二項論理を超えて、それを捉える言葉から発明しなおさなければならない。 来週からの授業は創造技法をめぐるものになる。 各人が自分固有の創造の核をつかむにはどうすればいいのか。 起こっている内クオリアと外クオリアの共振にどうすれば気づき、捉えることができるのか。 難しいがこれがつかめないと何もはじまらない。 脳内の言葉を止めることができねばならない。 言葉が立ち上がるとクオリア共振を感知する微細覚が妨げられる。 失敗を恐れず、もういちど、ここからはじめよう。 言葉を一概に否定するのではなく、ことばのうまい使い方を同時に伝授すべきであることに気づいた。 言葉からはじめるのではなく、からだの闇で捉えたクオリアに最もぴったりする言葉をみつける。 それが見つかるまでは空欄にしておく。 言葉を与えぬままただクオリアを感じ続けるプロセスが大事なのだ。 「からだの闇」をもっと読む |
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| 2008年10月22日 ●リゾクラシーを覚えはじめたサブボディたち ほぼ十年ぶりに、新しい踊りを創ろうという気になって二週間が過ぎようとしている。 明日はそのきっかけになった60歳の誕生日だ。 還暦記念になるようななにかというと私には踊りしかないのは明白だった。 十年前にはじめてサブボディが出てき始めた時と違うのは、 この十年で出てきた無数のサブボディたちが互いに知り合いになったことだ。 はじめは、長年同じからだの闇で棲息していたくせに見知らぬものばかりで 互いに驚きたじろいでいたが、それも十年にもなるとさすがにみな顔見知りになって 互いの相反する性質も了解済みになった。 あとは、どううまく共振できる瞬間を見つけるかだ。 踊りの中には、どんな醜い、無様な要素であれ、絶妙のタイミングさえみつければ どんな不美であろうと美に転化する瞬間がある。 これが踊りのいいところだ。 (おそらく他の分野でもありうることだろうけれど、今はおく) 夜中を問わず、日中を問わず、一日中、さまざまなサブボディたちが 自分の絶妙の出番を求めてリハーサルを続けている。 サブボディさんたちは互いにリゾクラシーを発揮して、暗黙裡に最適の共振を見出すのが 一番いいことを了解し始めているようだ。 アグレッシブなやつも、弱弱しいやつも、いやらしいやつもいる。 おまえは動きが激しすぎるから今回は遠慮しろということもやめた。 いまの弱りきったからだで踊れるサブボディだけが出てくるだろう。 だが、互いに違っていれば違っているほど、かえって引き立てあえる仲であることも分かってきたようだ。 わたしの意識の役割は、絶妙のタイミングが見つかったときにそれをすばやく書きとめ記録することだ。 すでにいくつも見つかった。 明日は、当初予定していたヒマラヤのトリウンド峠の2500メートル地点が雪に覆われてしまって、 泊りがけではいけなくなったので、急遽下界のガランパニ(温泉)に場所を変更した。 水場は水場で私の中の水好きたちが出番を見つけて喜んでいる。 今度の踊りに不可欠の石や砂もふんだんにある。 いったい何人のサブボディが、最適のタイミングを見つけて登場してくることか、 まだ、出番の瞬間を見つけていないなじみのサボボディがいくらもいる。 ひとりキツツキ バンコクウインド デリーロード アキレウス 炸裂姫 清姫 野口さん サンチアゴ 空也上人 スターフィッシュ 飛びクラゲ アウシュビッツ …… 数えていけばきりがない。 彼らが今夜から明日にかけてどう打開するか、今から楽しみだ。 きっと出番を見つけるに違いないという、 サブボディさんらへの信頼のようなものがいつのまにか生まれている。 そして、不思議なことに長期の生徒たちのサブボディの間にも、 これと同じようなことが起こり始めている。 |
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| 2008年10月21日 ●強がる必要はないんだよ わたしがヒマラヤへ来て学んだ最大のことは、 強がる必要はまったくないということだ。 振り返れば人生は無数の強がらねばならない契機に満ち満ちている。 外部からも強くあれというメッセージは明示・暗示を問わず、押し寄せ続けていたし、 内側からも、それを受けて強くありたいというエゴの衝動に長く囚われていた。 わたしたちは、強さへの無意識の傾性に囚われている。 それに気づくまでに何十年もかかった。 44歳のときそれまで何十年も続けてきたスポーツを一切止めたのも 自分が幼いころから刷り込まれてきた強さを競うゲーム論理に、 いまだに喜ばされている自分に気づいたからだ。 勝つと快を覚え、負けると悔しい、こんな単純な二項論理に一喜一憂されるよう訓育されてきた 長年の社会的産物がわたしの感性だと気づいた。 それ以来一切競うことを止めた。 創造においては、一切競わされてはならない。 この世の競争原理は、創造の世界にもコンクールや、グラントや、 批評言説などのシステムを通じて忍び込んで来ている。 ヒマラヤへきたのは、それら一切の仕組みと手を切るためだ。 だが、ことはそれほど単純ではない。 日常体が対社会用のペルソナ=エゴに囚われているのは見やすいが、そればかりではなく、 からだの闇細々と棲息を続けてきた異貌のサブボディたちもまた、 彼らが形成された幼年期に持っていた未完成なエゴ、 弱いがゆえに必要以上に他を畏れ、遠ざけようとする小さな幼年期エゴの傾向を色濃く持っているということだ。 1998年に伝染熱ができたときは、 おそらく20歳ぐらいのわたしのサブボディがわたしのからだに乗り移って踊りだした。 伝染熱を踊るたび私のからだは、脳心身全体で20歳のころの、青年革命家だったわたしに戻った。 世界に対して一か八かの闘いを挑むアドレナリンに満ちたからだに返った。 アドレナリンモードのからだは、 免疫や消化、生殖機能をすべて停止して闘かうか逃げるかの瀬戸際に追い込まれる。 それを続けることは生命にとって自殺行為だ。 それが続けられなくなったのは、生物としてのからだが、 細胞全体のリゾクラシーで決まったことだと思う。 それから10年、わたしは踊りを創らなかった。 それまでのアドに満ちた踊り以外の創造に向かうには、 からだや精神ごと変わらねばならないと感じたからだ。 からだの激しい訓練はすべてやめてよぼよぼのからだに変成しようとしてきた。 何十年も鍛え続けたからだはなかなか衰えようとしなかった。 それが今年になって明らかな衰えを見せてきた。それまでできた片手逆立ちや、 変則ジャンプなどがまったくできなくなった。 石の姿勢で転がるのも苦痛でできなくなった。 ようやく衰弱体へ一歩近づいたかと思われた。 だが、今月十年ぶりに踊りを創ろうとすると、 これまで息を潜めていた無数のサブボディがいっせいにざわめきたった。 その中には威勢のいい若いサブボディがなお多くひしめいている。 今のからだにはもうできない動きを夢の中でどんどん創りだす。 目覚めたわたしのからだは、伝染熱の頃同様の激しい、 しかし今となっては不可能な動きのイメージでいっぱいになっている。 思っても見ない引き裂かれようを体験した。 サブボディは歳をとってくれないのだ。 十年続けてきた衰弱体への変成の成果は確かに少しはある。 だが、内側からこみ上げる若いサブボディたちの衝動を抑え切ることができない。 今度はお前たちの出番じゃないんだよ、と言っても耳を貸そうともせず、 飛んだりはねたりし続けている。 その内的圧力を持ちこたえられずに自壊寸前になる。 どなることやら、予想もつかない。 このまま踊れば自己破綻するに違いない。 何もかもばらばらのままひとつになろうとしない。 「強がることはないんだよ」 これは確かにわたしがつかんだ真実だ。 だが、こんな弱弱しい呪文をすべてのサボボディが聞きいれてくれるかどうかは まったく分からない。 まだ衰弱体を踊るには早すぎるのかもしれない。 60歳まで後二日となって、うろたえている。 「からだの闇」をもっと読む |
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| 2008年10月18日 ●必然の布置=淵で踊る 死ぬまでにどうしても踊っておかなければならないものがある。 それに出会うためにこれまでからだの闇を旅してきたのだ。 通常時の探体は<鮮深必>のうち、鮮のアンテナを張って行う。 からだに新鮮だ、珍しい、と感じられるクオリアならすべて乗り込んで試してみる。 命には底知れない好奇心がある。 60歳になっても、子供のような好奇心が衰えることはない。 先週は毎日長期生のだれかが独自な授業を行い、わたしは生徒になった。 毎日新しい切り口でからだを探った。 いくつもの新しい動きが出てきて、面白さが止まらなかった。 踊りはやはり、教師をやるよりダンサーであるほうが数千倍面白い。 来週も後三人の長期生の授業がある。 もう一週間だけ、この生徒の立場を満喫させてもらおう。 この過程で、わたしは生起してくる創造の受け止め方と、 その統合のしかたを身をもって見せるつもりだ。 踊りを創ろうとするときは、通常時の<鮮>や<深>の探体から、 <必>の探体に切り替える。 「何を一番したいんだい?」という命への問いかけから、 「一番踊る必要があることはなんだい?」という問いかけに替えるのだ。 自分に問うのではない。 命に問いかける。 まず、からだの闇を縦横に旅し、内的布置をたどりつくす。 どこに山があり、どこに谷があるか。 どこに大きな圧力があり、どこに未解明の闇があるか。 どこに心地よいクオリア流があり、どこに不快なエッジがあるか。 エッジの中でも、もっとも不快なエッジ、中位のエッジ、軽度のエッジは それぞれどこにあるか。 その中で、今取り組むことのできる、踊るべきエッジはどれか。 今、命がそこから解き放たれることが必要な囚われは何か。 わたしは18年前桂勘が主催したインドネシアの舞踏合宿に参加した。 そのとき、「父は泣け、母は嗤えといった」という踊りを創ろうとしたがならなかった。 なぜ、できなかったのか。 当時は舞踏を始めたばかりで、まだ自分に技術がないためだと思っていたが、 そうではなかった。時期がきていなかったのだ。 それから今日まで18年待った。 ようやく時が熟した。 ようやく私のからだの闇の不可視の布置の中から どうしても踊らねばならないものがなにかが分かってきた。 偽子宮と石つぶての世界だ。 世界が突如偽子宮だったことが判明して やわらかい手触りのものがことごとく砂混じりの手触りに変転する。 愛は突然憎しみに変わる。 世界から飛んでくる石つぶてに見舞われる。 そのわけの分からなさだけが死ぬまでにどうしても踊らねばならないものだ。 なぜそんなものを踊らねばならないのか。 長くからだの闇を旅している間に、その必然が透明に見えてきた。 この10年ずっと母のからだに入りつづけた。 わたしは生涯母とうまく関われなかった。 幼いころ手放された不信感をぬぐうことができなかった。 それを克服し得ない限り、わたしは3歳で止まった時間に支配されたままだ。 からだの闇の旅は時間のない非時の国の旅だ。 そこではすべての時間が通底している。 わたしを受胎したとき、母のからだをとんでもない異変が見舞った。 母がわたしを身ごもっていた1948年、戦争から帰ったばかりの若い父は 養子に入った家に居つけず、新地に女を作り腹違いの妹をもうけた。 そのとき、怒りと悲しみで母のからだはアドレナリンで荒れ狂った。 胎内にいた私のからだにへその緒を通じて激しいアドレナリンが流れ込んだ。 子宮内が赤剥けに灼熱し爛れた。 胎内でまどろんでいたわたしにとって晴天の霹靂のように 世界は突如激変し崩壊するものとして現れた。 わたしの人生でときおり理由もなく激しく灼熱する竜巻が燃え立ち 世界を破壊をし尽くそうとして止まないのはそのときの名残だ。 その胎内アドレナリン体験と、 3歳で母に捨てられ、必死で探し回った幼児期のアドレナリン体験、 青年期にゲバ棒、投石、火炎瓶の嵐の中ですごした数年間のアドレナリン体験、 それらがすべて時を越えて激しく共振している。 からだがアドモードになると、たとえようもなく不快に見舞われる。 だが、わたしはそれを避けることができない。 これらの理由もなくわたしを襲うアドレナリン体験と、 ちゃんとした共振ができない限りわたしは死ねない。 それらの体験の視えない闇のつながりを踊るしかないのだ。 偽子宮 胎内アド 砂嵐 石つぶての飛来 かぐや姫 ロリ 母の子宮 母のワギナ りゅうり大魔王 石 地走りヒトデ 赤子落とし 胎界崩壊 異貌の胎児 父の荒御魂 星落ち王子 闇の転落 これまで脈絡なく訪れてきたサブボディたちは 闇の脈絡でつながっている。 それをひとつにすることが踊りだ。 うまく踊れるかどうかはわからない。 ただからだごと乗り込み成否を賭けるしかない。 |
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| 2008年10月15日 ●リゾクラシーとデモクラシー 長い間人類はデモクラシーのような見るからに露骨な権力支配のシステムを 為政者から最高の統治形態だという幻想とともに押し付けられてきた。 だが、それは真っ赤な幻想に過ぎない。 デモクラシーは騒々しい言葉の議論に囚われている。 情報操作技術とそのための既得権をもっているものが支配を続ける仕組みに過ぎない。 暗黙裡の共振によるリゾクラシーこそ、生命のやり方なのだ。 古代の雄弁術であるか、現代の高度情報技術であるかを問わず、 それが言葉、すなわち情報操作による権力形成の技術であることは明らかだ。 古来それが疑われなかったのは、権力を持つものによってそれに対する疑問が封殺されてきたためだ。 近代の社会主義革命がことごとく党権力の肥大によって破産したのは、 その思想が自我の弊害とその死滅の方法を知らず、 自我と自我の抗争に過ぎないデモクラシーを採用するしかなかったためだ。 国家の死滅を予言したマルクスもレーニンも、自我の問題には盲目だった。 彼らの師であるヘーゲルが早くから「意識は他者の死を追求している」と指摘していたにもかかわらず、 自我意識がもつ問題は、西洋文化圏の知性に囚われていた彼らにとって内視盲点だったのだ。 そうだ。西洋文化全体において、自我や自己は決して疑いの対象とならなかったという意味で 最大の内視盲点だったのだ。 それは人間という概念が近代西洋文化において疑いの外に置かれていたことと軌を一にしている。 フーコーがはじめて、現代の人間概念を支えている自己というテクノロジーがいかに生まれ、 西洋の知性を支配してきたかを探り始めたが、残念なことに道半ばで彼は斃れ、 自己や自我への根源的問いは誰も後を引き継ごうとしないままになっている。 フーコーの不肖の弟子である私は、彼の予言した人間以後のあり方を模索してきた。 その細々とした歩みが切り開いてきたのが自我の死滅と沈黙の生命共振によるリゾクラシーだ。 自我や自己は、言語という低次元変換された二元論に囚われているから駄目なのだ。 言語に囚われている限り、生命が息づいている豊かな多次元変容世界に触れることができない。 そこではただ生命が共振している。 その美しさは、言葉や二元論で判断しようとしたとたん消え去ってしまう。 沈黙のうちにただ生命共振によってすべてを運んでいくのがリゾクラシーだ。 言葉なしに社会を維持していくなど不可能だとお思いだろう。 だが、私たちのからだを構成する60兆の生命細胞が、 どんな言葉も使わずその生命を維持し創発し続けていることに学べば、不可能ではないはずだ。 今はまだ、そういうことしかできないが、この可能性は時間さえあれば掘りぬける。 共振塾で始まった十個の衰弱体間に起こる言葉なしの共振を見届けようとする実験は それを先駆けるものだ。 舞踏家とは人類の新しい可能性を切り開く比類なき冒険者の群れなのだ。 「からだの闇」をもっと読む |
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| 2008年10月13日 ●ゆるみを取る 久しぶりにTao指圧の基本手技を読み返しているとき、 遠藤さんがしきりに繰り返している「ゆるみを取る」という言葉にふと立ち止まった。 ――なんのためにゆるみを取るのだろう? ――ゆるみのあるからだとはどんな状態なのか? ――ゆるみが取れるとどんなからだになるのだろう。 ちょうどその朝は背中を拡げる背面呼吸が気持ちよくて何度も繰り返していた。 背中に呼吸を送り、拡げていくと、背中の皮膚にゆるみがなくなる。 なんだか、それに関係がありそうな気がした。 ゆるみがなくなると、全身の動きにつながりが出てくる。 からだの一箇所を動かすだけで、それが隣の部位や遠くの部位にビビッドに伝わる。 そうか、日常体はこの全身の共振からはぐれてしまっているのだ。 だから、からだの一部の動きはそこで終わる。 各部位がばらばらでゆるみによってしかつながっていないからだ。 ゆるみとは、日常体がからだにもたらしている無意識だ。 無意識に喰われたからだはゆるみ、たるみに満ちている。 野生の獣のからだにはゆるみがない。 リラックスしていても、全身がビビッドにつながって共振している。 一足ごとにいまこの地を踏んでいる外クオリアと これまでに踏んだ無数の内クオリアとが共振して最適解を生み出している。 ゆるみが取れたからだとは、 からだで起こっている一瞬一瞬の共振パターンの変化に透明に気づいているからだだ。 部分部分の物理的集合ではなく、全心身が一如となったからだだ。 指圧とは、一時間かそれ以上の時間をかけてからだのゆるみをとり続けることによって、 生命共振を回復した心身一如となったからだに変成することだったのだ。 だからこそ一如となったからだが持つ原生的な生命力、自己治癒力を回復することができるのだ。 何年たっても指圧から学ぶことは尽きない。 からだの闇の未知の闇へ降りていく貴重な縄梯子のようなものだ。 |
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| 2008年10月8日 ●死者は死なない |
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今年も山崎博昭の命日が来た。 この日が近づくと私は10代の頃の過激派革命青年に戻る。 死者は私の中で二度と死ぬことがない。 生き続け何事かをささやき続けている。 死んだ友人の山崎や辻だけではない。 あの頃の無数の戦争の死者が私の中で死に切れずにいる。 今日は写真を整理しているとき、1968年2月1日に、サイゴンで頭を拳銃でぶち抜かれて銃殺されたベトコン青年の死の瞬間の体感を、私はもう何十回もまざまざと追体験していたことを思い出した。 夢でも白昼夢でも何度も何度も私もまた頭を打ちぬかれ、脳みそが飛び散った。 それほどきつく脳裏に焼きついて離れない。 サイゴンで焼身自殺した多くのベトナム僧侶の燃える体感も忘れられない。 山崎や辻や本多が頭をぶち割られて死ぬ瞬間はもはや何千回と体験した。 それらのクオリアは私の脳のグリア細胞で、永遠に振動し続けている。 わたしは死者たちと語り続ける。 ●山崎博昭への手紙 山崎よ、18歳の君がベトナム反戦デモで警察機動隊に虐殺されてから42年経った。 俺は60歳になる。 少しだけ、今の世界について報告しておこう。 40年前と今とでは何が変わり、何が変わっていないか。 アメリカはあれからずっと戦争をし続けている。 ただ、ベトナム戦争の失敗から学んで、湾岸戦争以来戦争を隠す技術が発達した。 国民にたいしても世界中の人にたいしても、 本当に戦争が行われているという実感を伝えるような画像はことごとく検閲されて届かない。 戦争の死者の映像はもとより、死者の数さえ綿密に隠されている。 国家に管理された、殺戮の悲惨さを決して感じさせない限られた映像だけが配信される。 アメリカの独占資本は軍事産業と情報産業を独占支配することで、戦争を続けて兵器を消費し続け利益を 得続けるために、戦争を隠してしまう手品のような管理技術を完成させたのだ。 だから、実際には第二次大戦後、朝鮮、ベトナム、アフガン、イラクとアメリカは戦争をし続けているのに その実感は国民の目にも、他国の目にも届かない。 おそらく、アメリカ国民は自分たちの税金で他国の人々を殺し続けているアメリカの戦争推進政府を支持し続けていても、なんの苦痛も感じないですんでいる。 そういうSFを地でいく管理世界が実際に完成し到来した。 だが、極限まで進化した手品は、実は破綻寸前の境界線上で死にもの狂いで突っ立ている死体と同じだ。 そして、とうとう、最近あらゆる場面でぼろぼろと破綻が露呈し始めた。 まずは、経済の手品が破綻した。 つぎは戦争政治の番だ。 歴史の舞台にブッシュというアメリカの石油や軍需産業の番頭丸出しの馬鹿役者が登場して、 これまでの政治と戦争が誰の利益のために行われてきたかをの秘密をあからさまに暴露してしまったのだ。 それでも、これまで極端な隔離情報によって操作されてきたアメリカ国民は気づかない振りをしている。 だが、アメリカ人の自我も国家も、もはや覆い隠しようもない自己破綻を ぎりぎりのエッジでこらえて震えているのがありありと透けて見える。 自分たちが世界中の人々からゾンビか、心を持たないヒューマノイドのように見られていることが 覆い隠せないほど分厚い圧力になって彼らに襲い掛かっている。 アメリカや西欧の知性は耐えかねる自己欺瞞によって発狂寸前だ。 自我も国家も自己欺瞞の恥ずかしさによって自壊する寸前だ。 少数の人はすでにそれに気づいている。 あとは柿が熟して落ちるのを待てばいいだけだ。 歴史のことだから何百年かかるか、何十年かは分からない。 だが、それはもうそんなに遠い未来のことではない。 ひょっとすれば十数年先かもしれない。 これまでは、国家や戦争の死滅など、はるかかなたの夢かと思われていた。 それに変わるシステムのイメージが得られなかったからだ。 だが、そうではなくなった。 リゾクラシーという、国家なしにやっていけるリゾーム社会のシステム原理が発見された。 ただ、生命が共振しあっていることに気づき従うだけでいい。 長い目で見れば、いつだって歴史を突き動かしてきたのは、民衆のリゾクラシーだ。 中世の封建体制を終わらせたのも、リゾクラシーだった。 市民革命の原理はデモクラシーではなく、 それを根底で突き動かしているリゾクラシーだったのだ。 デモクラシーのようにおしゃべりや議論をする必要はまったくない。 ただ自分たちの感じていることを感じ、思っていることを思えばいいだけだ。 それは生命共振を通じて瞬時に世界に伝わる。 1989年にベルリンの壁や旧ソ連圏の国家体制を終わらせたのもリゾクラシーだ。 国家と自我が自己欺瞞を続けている恥ずかしさによって自壊したのだ。 終わるべきシステムは一夜にして終わる。 戦後世界を牛耳ってきたアメリカの世界体制も、終わるときには一夜にして終わるだろう。 国家なきあり方を人類は程なく発見するだろう。 震えがくるほど楽しい予感を抱いて死ねる時代になった。 俺が君のいる他界へ入るのもそう先ではないが、そのときは あの世に長い君に、ちょっとしたこの世の変化の風を持っていけそうだ。 その一言だけを報告したかった。 |
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| 2008年10月4日 ●リゾームがれ場 何か、未知の可能性を前にしている予感がする。 激しい胸騒ぎ。 十年に一度あるかないかのものだ。 これはなにか? どこから来るのか? 先週から共振塾近くの岩山で授業を進めている。 ヒマラヤの山はどこも45度の傾斜を持つ。 雨のたびに崩れていっている生きた傾斜だ。 そこには、無数の複雑な地形が生まれる。 ちょうど10人の生徒がそれぞれのサブボディの布置にぴったり地形が見つかるような 複雑多様に岩や樹が配置されているがれ場がある。 すぐそばにあったのに実は今まで気づかなかったのだ。 ここで岩や樹と同じくらいまでに鎮まった複数の衰弱体サブボディが 個になり、群れになり、多次元共振的に動き出す。 私が見たかったのはそういう決してほかでは見ることのできないものだ。 それがあのがれ場では可能になる。 私たちは今これまでにない未知の可能性に直面している。 それをゆっくり開示していこう。 今日生徒のオゼークがグループリサーチという新しい視点を提案してくれた。 わたしもその場にいて、グループで未知の動きの創出を探るというのは 確かによい方法だ。課題をクリアに共有することで全員がひとつになれる。 群れであり同時に個であるという創出したいリゾームのイメージをくっきりと伝え、 それを共同のグループリサーチの課題にすることだ。 わたしはこのリゾームのイメージを今まで口に出せずにいた。 だが、とうとうそのときがきた。 群れの動きの中で、個々が個に反転する瞬間を見つけ出すこと。 中沢新一が田辺元論で書いたように、 「種の論理(群れの動き)のダイナミズムの中で 個が突き上げられるように出現する」瞬間を見つけ出すこと。 岩山を10個のリゾームが音もなく滑るように移動する。 アメーバやトカゲの時間を共有しながら、まずはたっぷりと45度の傾斜がもたらす ヒマラヤ独特の重力に慣れてもらうことからはじめよう。 45度の傾斜では、転がることと落ちることの区別がつかない。 自分では決められない。ほとんどは重力が決める。 そういう受動態になる訓練が自然にできる。 3、4人が一組になり、互いの動きのタイミングを微妙に共有している群れの時間をたっぷりと味わう。 同時に動き、同時に止まる。同時に生きている。それが群れだ。 そして、群れであることのダイナミズムをすべて味わった後に そこからどのように異様な個が突き上げられるように出現してくるか。 各人がコーボディの群れの中で自分とは何かをぎりぎりに探ったすえに顔を出すサブボディの出現を待つ。 各人が自分の布置にはまったときは、うってつけのコーボディからサブボディに変成する瞬間だ。 舞台では難しかったがこのがれ場を群れで移動する流れの中ではその瞬間が自然に見つかる。 私が長い間求めていたのはそういう群れから必然的に個が析出される瞬間であり、 かつまた群れに返っていくリゾームのダイナミズムなのだ。 そこに人類の未来がかかっている。 あの岩山のがれ場はついに見つかったリゾーム変成のための道場なのだ。 まるで長年探していたアニマがすぐそばにいることに気づいたかのような不思議な気分だ。 |
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| 2008年6月13日 ●鎮魂! 樺美智子さん |
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| 2008年5月21日 ●秘められたもうひとつの皮膚 |
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| ヒドラなど目のない時代の生命にとっては皮膚が目だった。 眼と皮膚は同根なのだ。 |
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| 最後の土方、衰弱体の舞踏 | ||
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