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2008年4月5日
●少しずつ透明になるために
昨日の朝,起きがけに夢を見た。
なにかの紙切れの文章を読んでいる。
読んで驚いた。
なんと、そこにはわたしがその日に授業でいうべきことが英語で書かれていた。
最初の一文を読んだところで、物音で起きてしまったので
第二第三の文は読めなかったが、すぐ想像がついた。
なかなかサブボディモードに入りにくい生徒のことが気になっていた。
どうすれば意識を止めることができるのか、サブボディさんは寝ずに探り続けていたに違いない。
だが、寝ている間に英語の文にまで仕上げるとは!
言語思考は意識に属すると思い込んでいたが、
下意識も言語を使って仕事をしている領域がありそうだ。
ただし、読んだ文が英語だったところにポイントがある。
50代からはじめて英語で教え始めて、苦労しているわたしの下意識は
寝ている間中英語でどう言えばいいか、ずっと下書きしてくれているのだ。
英語で授業すると、言葉で伝えきれない部分はからだの動きで示す。
英語とからだの動きがいつも連動している。
わたしにとっての英語は日本語のような純粋な言語チャンネルではなく、
半分からだを動かす運動チャンネルに属している気がする。
わたしはその日の授業をあわてて書き写した夢で読んだ文章を読み上げることからはじめた。
その文章は、英語でこう書かれていた。
”After you relax and breathe calmly, you can receive a massage of 'Affirmation'
from you life---'Everything is OK' as you are.'.
In the life world, nobody denyes you.
You can enter into the subconscious world which is released from dualism
judgement--right/wrong, good/bad, self/others, beautiful/ugry, and so on.
These judgements belong in only daily world.
When you breathe calmly, you can feel subtle confortable feeling at the
entrance of mouth and nose tril, this is the message from life--- 'We are
affirmed.', 'we can enjoy everything freely.'
The border between consciousness and subconsciousness disappears, and they
transform a transparent mind.
When ego and daily mind disappear, your subbody comes out with the best
timing.
Your subbody knows well when, where, how should he come out in dance performance."
昨日は金曜日で、いつもの週末に予定されているサブボディ・コーボディ劇場の日だ。
少数の知人友人を観客に招待して見てもらっている。
そのパフォーマンスに備えて、もっともいい状態のからだになるには
どうすればいいか、生徒にどんな瞑想を勧めるのがいいか、いつも探っている。
この日の下意識さんが下書きしてくれた文章は、これまででも最高のものだった。
実際にここに書いた文には明記されていないが、それは2年ほど前に書いてすっかり忘れていた『肯定論』のモチーフと、今直面している意識を鎮める課題と、呼吸時に口や鼻の入り口の粘膜が空気に触れたとき微細な快感を感じていることに気づいてその快感をからだに広げる調体法が、密接につながっていることを発見した文章だった。
意識は常に規定し、否定する。だが、命には規定も否定もない。
自全のなかの全員を肯定すること、アメーバやアメフラシのようにのろのろ動くサブボディから、もっとも醜いサブボディ、そして死者にいたるまで、すべてを肯定してやればいい。
いや、命の非二元の世界には肯定人も否定する人もいない。
ただあるがままに肯定されている世界だ。
日常判断の囚われから解放されさえすれば、下意識のサブボディは自分が登場すべき最適の場面で最適のタイミングで出てくる。
今週はデュエットの場面を入れたが、自我や自分を捨てて、命が共振するに任せて、ただそれに従えばいい。
それだけで透明なデュエットが実現する。
昔舞踏家に転身しようとしたとき、岩下徹のワークショップをよく受けた。
それは、「少しずつ自由になるために」と題されたシリーズで、
からだに対する微細な感覚を開いてくれるものだった。
岩下徹の即興ダンスを何度も見たが、かれは実に透明なダンサーだった。
意識的な意図や自我などではなく、
ただ彼のからだが微妙な気配に感応して動いていることが透けて見える踊りだった。
その頃からだ、踊りにおける透明さとはなにかを真剣に考え始めたのは。
だが、透明さは考えて分かるものではない。
いつのまにかからだが勝手に透明に動くようになってはじめて分かるものだ。
体得という道以外ないのが踊りの世界だ。
十数年前に岩下さんのワークショップで探ったからだの闇の手触りが
今頃になって少しずつ透けて見えるようになって来た。
ありがとう。岩下さん、こういうことを伝えようとしていたんだね。
わたしが今やっている授業も、岩下さんに倣って言えば
「少しずつ透明になるために」とでも題するのがふさわしい。
意識と下意識と命の関係が透明に透けて見えるからだ、透明体へ至る坑道は、
毎年、ほんの少しずつ拓けてくる。
そして更なるやみの深さに気づかされる。
今朝の夢のような出来事もまた、からだの中で起こっていることに対する
透明な気づきを開いてくれるものだ。
下意識はいったいどんな複雑さからなっているのか計り知れない。
この営みの面白さと味わい深さを知れば、死ぬまで止めることはできなくなる。
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2008年4月3日
●言語チャンネルの逆転
わたしの脳に大異変が起こったようだ。
いままではかならず、サイトの記事の更新は、まず日本語で書いてから
それを英語に翻訳していた。
日本語を英語に翻訳すると、どうしても微妙なニュアンスが翻訳できず、
70パーセントぐらい薄い記事になってしまうのがつらかった。
そこで難渋しているうち、夜眠くなると、英語に翻訳し切れず、
英語サイトの記事はどうしても少なめになった。
ところが今月に入ってから、先に英語で書くほうが楽になった。
授業は英語で行っているため、そこでしゃべったことを
そのまま書けば、ブロークンながらすぐに書けることに気づいた。
授業では英語といっても、身振り言語の補助のように使っているだけで、
完全な英語ではない。
だから、読んだ人に伝わるかどうか気がかりなのだが、
毎日訪れてくれる熱心な外国の読者のために、書き続けている。
ところが、こんどは日本語がかけなくなった。
日本語で書くとなれば、授業の英語ではなく、
微妙なニュアンスまで書きたくなるのだが、その時間が取れなくなった。
ここ数日は、英語サイトの「実技ガイド」は毎日更新しているが、
日本語サイトの更新が遅れ気味だ。
授業内容をすぐ知りたい方は、英語サイトをご覧ください。
英語といっても、50歳から使い始めたもので、
初級単語しか語彙にないので読めると思われます。
それと、わたしにとっては、日本語は大脳の言語野の中心を占めているので、
日本語で書くとなると言語脳が活性化して意識モードになるが、
どうやら英語は授業でしか使わないので踊りと同じく、
なかば運動チャンネルに属している模様だ。
なんだか、考えずにしゃべったり書いたりしているようだ。
無重力状態にあるようなとても奇妙な体感だが、
日本人が舞踏を体感言語と英語で教えていると、こういう奇妙なことが起こるらしい。
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2008年3月31日
●創造的思考の逆説
毎日意識を鎮め、下意識モードで過ごす。
授業がある3月から十二月までは、基本的に毎日をできるだけ下意識モードで過ごす。
それがサブボディ共振塾の教師人格としてのわたしの毎日だ。
教師といってもなにかの知識を教えるのが仕事ではない。
生徒の中で生まれかけているサブボディの誕生を手助けする産婆となることが使命だ。
サブボディの産婆となるためには、自我意識を捨て去り、
生徒の中で生まれかけているサブボディの胎動の気配に耳を澄まし、
最適のタイミングで誕生を助ける必要があるからだ。
タイミングを間違えたサブボディは水子となって流れてしまう。
この状態に移行するには時間がかかる。
今月は冬休み中に堂々と出てきだした<仕事師>人格がなかなか退去しようとしないので、
意識モードのわたしと下意識モードのわたしが二重状態を続けている。
今年はこの状態を受け入れざるを得ず、かつ積極的に受け入れる覚悟なので、
産婆としてはやりにくい面が随分あるのだが、何とかやりくりしようとしている。
ただ、この二重状態を続けていると、はじめて、
下意識モードの自分と意識モードの自分の状態の違いがくっきり見えてきた。
下意識モードのときは、何も考えないで、ただ命に何がしたいのかを尋ね続ける。
それだけで次から次へと新しいことに気づく。
練習方法などもこれまでにないアイデアが毎日生まれてくる。
わたしが意識で用意したり、準備することはごく大まかなことだけで、
具体的な細目はすべて下意識のサブボディが創造するに任せる。
生徒の状態の変化に微細に対応するだけで、じつに変化に富んだ局面が生まれる。
自我意識が強くてなかなか鎮められない生徒、いきなり忘我状態に入れる生徒、
自我を鎮めるこつをつかんでサブボディになりこもうと努力する生徒、
そのプロセスのずれの間の葛藤、などさまざまだ
。
それに応じて、自分のサブボディをそれぞれの深度で探る授業と、
生命共振を通じてコーボディになる授業との按配だけで、無数のパターンが生じる。
この按配が一番難しく、興趣が尽きない。
こういう仕事は意識モードでは絶対にうまく行かない。
わたしの自我意識がでてきて、自分でどうこうしたいということを、
生徒に押し付ようとするとサブボディはかならず反発して引っ込んでしまう。
サブボディの自発的な創造性をうまく引き出せないとしたら、
いつもかならず、教師の自我が邪魔しているのだ。
これまでの経験からそれだけは痛いほど重々学んだ。
わたしが仕事師の意識モードでいる時間は、
まったく授業の創造的なアイデアなど生まれてこない。
仕事師さんはただせっせとコンピュータに向かって仕事を進めるだけだ。
もちろん、サイトの改造などは仕事師さんの課題だ。
30年間のコピーライターや編集者としての経験は伊達ではない。
そのおかげで、このサイトもはじめた3年前に比べると随分多彩になってきた。
コンピュータは典型的なツリーシステムだが、それを使って
わたしのからだの闇のリゾーム状態に近づけるのが出発当初からの課題だ。
仕事師さんは、この課題の難しさに惹かれて出てきてくれたのだと思う。
いつもこれまでに誰もやったことのない課題に取り組むことの面白さにやられて
どんどん仕事中毒になっていった男だからだ。
そこに夜中に出てくる無数の分身たちがてんでに絵を描いたり、
音や映像を入れようとしたりする。
おかげで迷路が複雑になりすぎて、自分でもサイトを全部たどれるか、
たどれないかのぎりぎりの状態だ。
昨日のように、ひとつの日記の記事一覧を作るだけで、随分ツリー状の見通しがよくなる。
リゾーム的多次元混沌と、ツリー状のパースペクティブのよさとのバランスが課題だ。
この二重状態のなかで、だんだんすごいことが分かってきた。
意識モードになるとは、自由なクオリア思考を止めることなのだ。
意識は与えられた課題を解決するために、もてるだけの知識を総動員してことに当たるが、
それだけでは、創造的アイデアは生まれない。
どこかで気を失って、異時空をさまよう時間が必要だ。
その瞬間下意識モードに入って、自由なクオリアとクオリアが出会う
下意識のクオリア思考によって創発が生まれる。
創造的な資質が要求される仕事を長くしている人は
そのコツをからだで覚えているに違いない。
コピーライタ時代のわたしのやり方は、まず、ある領域のデータをすべて集め、
脳内をその未消化な情報で満杯にする。
そして夜中の25時を過ぎて、半ば朦朧とした意識状態で仕事を続けていると、
どこからか、アイデアや解決策がやってくる。
風呂やトイレ、散歩の最中に出てくるときもある。
今から思えば、おそらく創発が生まれるときは瞬間的に下意識モードに入っていたのだろう。
だが、そのころの意識はそのことに気づいていなかった。
下意識や無意識とは、意識には意識できないものだからだ。
だから、ずっと、自分が考え出したと思い込んでいた。
意識はそういうふうに下意識さんの仕事も自分の手柄だと
勘違いしてい上がってしまうところがある。
下意識のクオリア思考は、意識の枠組みから外れて、外から入ってきた外クオリアと
生命に記憶された内クオリアが自由に出会うことだ。
意識状態のときは、日常で定められた回路しかニューロンは通らない。
ニューロン自体は電気信号の通り道で、クオリアはおそらくグリア細胞に保存されていることが、
近年の研究で分かってきた。
(R.D.フィールド「思考をつかさどる陰の立役者 グリア細胞」 2004,
「White Matter Matters」 Sientific American March 2008)
グリアとニューロンは、シナプス間隙でクオリア交感をしているが、定番回路を高速で通るときは、
グリアの内クオリアはすでに既知のものとして無視される。
そこでは演算や分析、すでに固まった自分の考えをなぞることはできるが、
クオリアとクオリアの自由な出会いは制限されている。
ところが、睡眠中の夢や、瞑想中の下意識モードに入ったときは、
グリア-ニューロンネットワークは、新しく体験したクオリアと、
これまでに保存されている内クオリアとを、ランダムにぶつけ合わせる。
ありとあるシナプス間隙でニューロンとグリアとの相互作用を試すのだ。
そして、何らかの面白い反応が起こったクオリアを、
既存の内クオリアとの関連ある場所に長期記憶として保存する。
夢が荒唐無稽な出来事に満ちているのは、睡眠中の脳が、
クオリアとクオリアを無限に出会わせているからだ。
眠らぬまま意識を鎮めて、このクオリアとクオリアとの出会いに耳を傾けるのが
下意識モード、サブボディモードの特徴だ。
だから、醒めたまま無限の創発が起こる。
下意識の創造性を解放するとはこのことだ。
ユングはこの下意識の創造性に気づいていた。
だが、まだそれを万人にどう解放できるかの具体的方法までは及ばなかった。
ほんとうに創造的な思考をするためには、意識を止める必要がある。
意識を止めてただゆらぎ、からだの闇に耳を澄ます役割に徹する。
そうすればシナプス間隙でグリアとニューロンの間で交わされている
微細なクオリアとクオリアの相互作用で起こっている無限の創発に立ち会える。
下意識がなにか創発した瞬間にだけ意識は飛び出してそのアイデアを記録する。
意識を従来のディレクターという定位置から、
リスナーと書記という地味な役割へ後退させるのがサブボディ・メソッドの鍵だ。
そうすることで、意識優先の意識状態とは異なる、創造性に満ちた<透明知>の地平が開く。
こんなことに気づくまで、60年かかった。
わたしが育った戦後日本の教育者や知識人の中には、
こんなことを教えてくれる人がただ独りもいなかった。
世界の現代思想者の中にもいなかった。
近代西洋の意識優先の枠組みにみんな閉ざされていたのだ。
自我と意識を堅く保持するもの、それが「人間」だという悪夢に囚われていたのだ。
最近、対称性人類学の中沢新一が、この枠組みを破って、古代の流動的知性と、
近代的意識とを統合して、新しい<知>の地平を切り開こうとしている。
今後どう切り開いていけるかが問題だが。
彼もまた、その新しい知の様式を「言葉と物』で予言したミシェル・フーコーの弟子なのだ。
(この記事は、「からだの闇」と「多重日記」の両方にまたがる内容な
ので、両方に記載する。二つの坑道はいたることろで交錯しだしてきた。)
「からだの闇」をもっと読む
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超ひもは微細な11次元で、瞬間ごとに、互いに姿や数を変容しながら、共振している。
生命が感じているクオリアもまた、このように変容している。
その千変万化の変容を透明に見せるからだになるのがリゾーミング技法だ。
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2008年3月14日
●クオリアとリゾーミング技法
長年、別個に掘り進めてきたクオリア坑道と、
リゾーム坑道がやっとつながった。
サブボディ舞踏の独自の技法にリゾーミング技法がある。
実技ガイドの「リゾーミング変容法」の章を書いているとき、
なぜリゾーミングでなければならなかったのかのわけが分かった。
言語はツリーだが、クオリアはリゾームである。
言語を使った近代思考は生命が感じているあらゆるクオリアを、
内外、上下、自他、善悪、類個などの二項論理によって分かち、
階層状のツリーにまとめ上げる。
だがクオリアには、そのような境界などなく、ツリー構造の
下層にあるもののさらに下に上層のものが連結する。
内の内奥に外がつながる。
自他、心身、類個も融合する。
もとより、生命の感じているクオリアに正誤、善悪の境界などない。
一即多、多即一も成り立つ。
クオリアはツリーとは別種の、リゾーム状に変容流動しているものだ。
日常言語は多次元リゾームの次元数を削減して、
日常意識にも分かりやすい三次元や二項論理などに
低次元変換することによって成り立っている。
クオリアがリゾームなのは、ひも理論に従えばこの世のあらゆるものを
生成しているひもがリゾームだからだ。
ひもはその数をかぞえることができない。
たえず、隣接したひもと融合、分離を続けている。
おそらく単なるひもにとどまらず、メビウスの輪のような面になったり、
千切れたり、絶えず次元を超えて変形している異数の世界の存在なのだ。
瞬間ごとに変形流動するものを分節することはできない。
クオリアを捉えるには、分節言語による思考を止め、
ただ生命とクオリアのかかわりを無心に味わい、それに従って動くしかないのだ。
リゾーミングとは、ツリー状の日常観念にがんじがらめになった日常体の封印を解き、
生命とクオリアのままに変容流動するからだになることである。
クオリアがリゾームだから、からだもまたリゾームに変成する必要があったのだ。
濃い霧が晴れるときはいつも、なあんだ、なぜ、こんなことに今まで
気がつかなかったのだろう、という軽い落胆と共にやってくる。
それだけ自分自身が分節思考に侵されて、
内視盲点になっていたことがしみじみと身にしみる。
リゾーミング技法について、くわしくは、いま、改訂中の
「実技ガイド」の変容法の項を見ていただきたい。
今年はこのリゾーミング技法をみっちり深めようと思う。
そして、ツリーからリゾームへ、リゾームからツリーへ、
二つの異質な世界を変幻自在に往還できる、ツリーリゾームの論理を駆使できる
透明体に至る道を生徒と共に掘り進めよう。
ツリーリゾーム坑道の坑口にまでたどり着いたことになる。
開校以来4年目にしてようやく、3ヶ月から半年以上の中期生が集まったことが、
それを可能にした。
短期ではとてもたどれぬ深い闇の中に降りよう。
ツリーリゾーム坑道の闇は深い。3ヶ月やそこらでは生徒は
そのほんの断片に触れることしかできまい。
だが、この闇の歩き方だけでも身に着けてくれたら、
後は自分で掘り進めることができる。
そして、自分で掘った坑道の成果を人にも伝え、
いつかまたここに来て他の生徒と分かち合ってほしい。
実際去年の生徒は、カツをはじめとして、世界のあちこちで
ワークショップを開催して経験と研鑽を深めている。
この流れが定着すれば、やがて世界各地でサブボディ=コーボディ坑道が
掘削されるビッグバンを迎える日が来るだろう。
そのときだ。新しいツリーリゾームの透明知の様式を、
幼児期から呼吸して生きる世代が生まれるのは。
*****
去年は生徒から、子供連れで参加していいかという申し出があり、
自分でも前からの課題のひとつだったので考え続けたが、
いまはまだ子供にサブボディ・メソッドをどう教えたらよいか
の見通しがつかずに、断念した。
ツリーとリゾームの関係をもっと極める必要がある。
いつも遊ぶヒマラヤの村の子供たちに教えようとしたことがあったが
、歯が立たなかった。
子供の世界はもっと変容流動していて、すぐ遊びにまぎれてしまう
。そして、同時に社会や学校からツリー論理を学ぶ圧力を受けている。
それに逆行するような、リゾーム原理を教えると、
子供の中でどんな混乱が起こるのか予想がつかずに怖れたのだ。
ジェンドリンのフォーカシングは、アメリカの12歳の中学生には
ちゃんと受け止められたという。
いったい何歳からサブボディをこどもに伝えることができるか、
これは今後の大きな課題だ。
「からだの闇」をもっと読む
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2008年3月10日
●非二元かつ多次元について
「イラストガイド」を更新していて、
いきなり「タオ」という言葉が出てきているのが気になった。
特にタオイストでもないわたしが使うのは、
あまりに説明不足なので、今日はタオについて少し述べる。
いうまでもなくこれは、若い頃から愛読してきた老子や荘子の概念である。
「「道」 が語りうるものであれば、それは不変の 「道」 ではない。
「名」 が名づけうるものであれば、それは不変の 「名」 ではない。
天と地が出現したのは 「無名」 (名づけえないもの) からであった。
「有名」 (名づけうるもの) は、万物の母に過ぎない。」
(『老子』「中公クラシックス」小川環樹訳)
これを加島祥造は下記のように口語訳している。
「これが道 (タオ) だと口で言ったからって
それは本当のタオじゃないんだ。
これがタオだと名づけたって
それは本物の道じゃないんだ。
なぜってそれを道だと言ったり
名づけたりするずっと以前から
名のない道の領域が
はるかに広がっていたんだ。
まずはじめは
名の無い領域であった。
名の無い領域であったから
天と地が生まれ、
天と地のあいだから
数知れぬ名前が生まれた。
だから天と地は
名の有るすべてのものの 「母」 と言える。」
まあ、感じだけ受け取ってもらえればいい。
タオとは、言語で表現し得ないものだ。
言語はすべてを分節化することからはじまる。
それは分節しえないものを表現できない。
言語意識のみが優先される近代では、
言語で分節できないものがあることさえ忘れ去られる。
だが、意識を鎮め、からだの闇に潜れば、そこは
どのようにも分別できない世界であることがすぐに分かる。
「からだの闇」という言葉で、
わたしは下意識や無意識から生命を包摂する領域を指している。
なぜ、無意識ということばを使わないか。
無意識という言葉は、意識が優先される近代ヨーロッパの
神経症を治療する過程でフロイドが使い有名にした。
だが、無意識という概念は近代ヨーロッパの心性特有の
意識によって「抑圧」されたものというニュアンスが色濃く染め上げている。
そういう偏りを避けるために、無意識という言葉を捨てた。
下意識という言葉は、催眠療法家がよく使う。
このほうがまだしも、抑圧というニュアンスが少ないので
わたしもときおりそれを使う。
だが、本当はこれも正確ではなく、
下意識とからだは分化していない。
サブボディということばは、その両者が渾然一体となっている
未分化な状態を指すために造語する必要があった。
からだの闇といい、サブボディというのも
同じものを指している。
ただ、からだの闇はどちらかといえば、世界像を指し、
サブボディは自己像を指す。
だが、それもまた、人間本位の言い方に過ぎない。
生命にとっては自己像も世界像もない。
生命にとっては世界も自己も分化せず、
未分化に一体化している。
そのときはじめて、
非二元かつ多次元というしかなくなる。
生命が感じているクオリアは、
そういう非二元かつ多次元を変容流動している。
タオとは、そういう非二元かつ多次元の世界を
古代中国の思想家がはじめて捉えた言葉である。
だから、かれらに敬意を表してタオという言葉を使った。
もちろん、アニミズムやシャーマニズムの文化では、
それぞれにこの非二元かつ多次元を指す言葉が無数にある。
東南アジアの「マナ」、インドのアートマン、仏教の「空」そして「無」、……。
だがそれらの多くは、近代の分節言語意識におかされた
知識人の解釈にまみれていて、使い物にはならなくなっている。
「タオ」もまた、「絶対者」などと、
近代哲学の分節言語で解釈している人もいるから、
そんな訳で読めば台無しになり、五十歩百歩なのだが、
まだしも、そういう誤解にまみれている度合いが少ないというだけだ。
踊り手としての今のわたしはタオという言葉も使うことはないが、
「イラストガイド」の作者である30代のころのわたしである仕事魔さんは、
そのころまだ、非二元かつ多次元なものを指す言葉として、
この言葉しか知らなかったのだ。
(この辺のややこしさは、「多重日記」を参照して下さい。
このサイトは、わたしのからだの闇に棲む30あまりもある
分身人格たちがよってたかって創っている。)
わたしが尊敬するプロセス指向心理学のアーノルド・ミンデルもまた、
無意識という言葉を避けて、「二次プロセス」や
「ドリームランド」という言葉を使うようにしている。
既成の認識や元型を離れて
からだの闇に自分の坑道を掘ろうとすれば、
言葉から発明していかなければならない。
あなたもまた、自立した生を生きようとするなら、
自分に一番ぴったりする言葉を発明すればいいのだ。
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2008年3月5日
●サブボディの贈りもの
1998年にわたしがその後長く踊ることになる
『伝染熱』、『死者熱』ができたとき、
わたしはなぜこんな踊りが自分のからだから出てきたのか、
わけが分からなかった。
わたしの意識で創ったのではなく、
ある日突然からだから勝手に出てきたように感じた。
踊りは自分にとっても謎から謎へ展開する
不思議な展開に満ちたものだった。
その不思議に衝き動かされて、
わたしの中の隠れた創造者としての「サブボディ」
(下意識のからだ)というものを仮定し、
その後今日まで十年間探索を続けてきた。
この冬はじめて、体腔三元、口腔三元という練習法を発見した。
その具体的内容は、(十分には書けていないが)
実技ガイドを見ていただくしかないが、
その練習を続けていると、その後体腔や口腔だけではなく、
鼻腔や眼腔、体腔のなかの胸腔、腹腔、下腹腔も、
三元方向に変形することができることに気づいた。
それらの変形を統御する微細な深層筋を誰もが持っているのだ。
それを鍛錬し、自在に動かせるようになれば、
それによって誰でも手足の表層筋の動きではなく、
存在の深部からからだごと別の存在に変容する技法を身につけることができる。
体腔・口腔などの変形にともなう奇妙で新鮮な体感に追いすがるだけで、無限のサブボディへの変容への道が開ける。
これこそ、長い間捜し求めていた謎のリゾーミング・テクニックを開くからだの鍵だ。
そして、わたしは思いあたった。
十年前の『伝染熱』がここにつながっていることを。
伝染熱は冒頭から顔の変形から始まっていた。
賢ぶる自分の知性を解体しようとしているのだと、
当時は受け取っていたが、それだけではなかった。
それはこの体腔・口腔変成にいたる坑道のほんの坑口に過ぎなかった。
伝染熱の本質は、ここへ至る坑道の存在を見つけたということだったのだ。
あれからちょうど十年になる。
十年かけて、その坑道をさまよい続けた挙句、
ようやくからだの闇深くへ至る普遍的な坑道を
ひとつ掘りぬいたことになる。
普遍的なという意味は、口腔呼吸-体腔・口腔三元-体腔変成という坑道を降りていけば、だれでも、自分のからだの闇から
自分固有の創造的なサブボディを掘り出せるという意味だ。
それは、その次の異次元開畳技法、そして、その基礎となるリゾーミング・テクニックにつながる。
十年前にひょっこりからだから生み出されてきた伝染熱という
サブボディさんは、いまもわたしを導きつづけている。
サブボディから受ける贈り物はことのほか大きい。
こんな無償の気前のいい存在は他にありえない。
まさに生涯の「師」であり、「友」でもある
「盟友」というほかない存在だ。
これから自分のサブボディを見つけようとする人は、
そこに自分のすべてを、意識も下意識も欲望も衝動もこだわりも理想も、なにもかもを投入して創るのがいい。
理由や意味やテーマなどを意識でつけようとせず、
自分でわけが分からない謎の動きのつながりばかりでいい。
そういう下意識の創造にはかならず、
自分にとってのっぴきならない元型もまといつく。
はねのけることなどできない強い力で忍び込む。
その元型の支配から逃れるためには、
それを踊りながら一生かかって闘争するしかない。
その闘争から自分の命が本当にやりたいことは何なのかが
次第に見えてくる。
「伝染熱」には、わたしの生涯の敵あるいはライバルである
上位自我元型のほかに、かぐや姫伝説と、
わたしの生まれ故郷である和歌山の安珍清姫伝説が
色濃く忍び込んできた。
当時はなぜか分からなかったが、
今から思えばすべてわたしが生涯にわたって真向かい続けている
未解決の課題に直結するものばかりだ。
母、性欲、ロリータをはじめとする無数の分身・行方不明者たち、そしてエゴ。
それらは『伝染熱』やそれにつづく『熱』シリーズでは
まだ十分に踊れていない。
だが、まだ踊れていないことはいつも痛感させられてきた。
その後も取り組みを続けているが生きている間に
踊れるようになるかどうかは分からない。
サブボディの踊りはそういうことすべてを知らせてくれる。
サブボディの贈りものとして遠慮なく受け取ればいい。
それは命の謎に至る道なのだ。
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2008年3月1日
●啓蟄、気功の速度で蠢き出す
三月だ。ここヒマラヤの気候はすっかり春満開だが、
わたしの中のからだの時間は日本にいたころの生命記憶に
囚われているのか、暦が三月になってようやく春めいてきた。
啓蟄という言葉を思い出した。
冬篭りの虫が地中からごそごそ這い出してくる。
からだの闇で眠っていた細胞も共振して蠢きだす。
こういう季節や天体の動きと、地中の動き、そして人体が
共振しているという捉え方は、道教や風水、気功の伝統の中で
色濃く醸成されてきた。
気功の動きはすべて天地人の共振性を開くものだ。
気功独特のあのゆっくりとした動きの速度は
体内60兆の細胞が互いにそして、外界の変化とも共振しつつ
変化しているのを捉え感じることのできる最適速度に設定されている。
今日は朝から、気功の速度で動いてみた。
冬の間はゆらぎからはじめたが、春のからだはもっと動きたがっていると感じられたからだ。
少し学んだ気功の型はすっかり忘れたが、
あの独特の速度だけはしっかりからだに残っている。
型に囚われず、からだに聴きながら、あらゆる方向、
あらゆる次元を開きながらゆっくり動いてみる。
からだが山や空や風や樹々と心地よく共振して漂いだす。
ものの三十分も動けばからだのなかのしこりや囚われが取れて
すっかりいい気分がからだに満ちる。
蠢きながら、からだがヨガのようなポーズに入りたがれば
そこで静止する。
そして、つぎの蠢きがからだに満ちてくれば
つぎの動きや静止に入る。
呼吸を楽しみたくなればゆっくり呼吸しながら動く。
体腔をさまざまな形に変形していくと、
恐らく細胞の生命記憶に刻まれているさまざまな
古生物の体感が滲み出してくる。
口腔を変形すれば情動と連動し、
からだの闇に眠るさまざまな異貌の自己の体感に触れることができる。
それらすべての内クオリアは、風、音、光、鳥の声、
そして重力を通じて地球と密接に共振している。
その心地よい生命共振を取り戻していく中で、
日常体が囚われているさまざまなこだわりや滞りが解かれていく。
春の調体は、気功の速度がいい。
そこから、無限の共振が飛び立っていく。
なにか面白い動きが出てくればそれに従う。
体腔から声が出てくればそれを増幅する。
口腔の形を変えると無数の情動や感情が飛び立ち流れ始める。
サブボディの十体の萌芽が無数に蠢いている。
こういう命の多次元変容流動へからだごと入り、
それをあるがままに解き放ってサブボディ探体へつなげる道は、
多次元リゾームから多次元リゾームへの道だ。
リゾーム・リゾームと名づけている。
これに対し、百丹三元など、いったん幾何学的な三次元方向にからだを解きほぐしてから、
サブボディの探体に入るのは、ツリー・リゾームの道だ。
まだ意識が十分鎮まらない日常のからだから、
意識にも分かりやすいように
一度ツリー上の三次元の抽象的空間の中に日常体の癖を解きほぐしていく。
このツリー・リゾームの道を通るか、
リゾーム・リゾームの坑道にいきなり入るか、どちらもある。
からだに聴きながら、両者をフレキシブルに併用すればいい。
囚われず、こだわらず、流されず。
風のリゾームになる。
春がそれを応援してくれる。
(今日の日記は「共振塾ジャーナル」に転載した。そちらの方にふさわしい内容だからだ。
だが、昨日や明日以降の「からだの闇」の内容とも密接につながっているので、
ここにも載せておくことにする。
からだの闇のリゾーム上の坑道は多様多次元でつながっているので、
一筋縄ではいかない。
無数の坑道が絡み合い、分岐しあい、よじれあっている。
だからこそ、この探索は一度始めたら止められないほどおもしろいのだ。)
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2008年2月28日
●数年で一度級のひらけ
明け方、サブボディに耳を澄ましていると、
うれしい気づきが訪れてきた。
去年の授業が終わった後、この冬こそは、
去年の冬休みに書こうとしてほぼ大部分できあがっていたにもかかわらず、
書ききれなかった『透明論』を仕上げようと思った。
日本へ行く前に少しだけでも形を作っておこうと、
方法論の部分だけをまとめてアップした。
だが、旅先のネット・カフェでそれを読み返してみると、
なんだかまったく気に食わない。
何が気に入らないのか分からなかった。
今月、ようやく落ち着いてきたので、昨日からその続きにとりかかろうと、
これまでのノートやメモを読み返した。
構成は混沌としているが、内容はかなりできている。
だが、まだなにかがすっきりしない。
これまで書いてきたものは、自分が本当に書きたいものから、
薄ぼんやりとした不透明な膜で隔てられているような気がした。
明け方、これまでの『透明論』がぶち当たっていた壁は
わたしの中にあったことに気づいた。
わたしは、『透明論』をそれ以外の考察、生命論、共振論、クオリア論、
舞踏論などに対して、
認識論にあたるものとうっすらと位置づけていた。
それが壁だった。『透明論』はこれまでの人間の知の様式をを
根源的に覆そうとするものなのに、それを従来の哲学の範疇内の
認識論にあたるなどと位置づけたことがぼんくらだった。
それによって、従来からある認識論という
元型的制約の虜になってしまっていたのだ。
一月に書いた文も、方法論と呼ぶことによって、
堅苦しい枠にはまってしまっていた。
そんなふうに従来の哲学や学問の枠に囚われるのではなく、
その枠自体を突破しない限り、なにも透明にならない。
認識論や方法論がまずあるのではなく、
サブボディの実践の中に、すでに透明論で書こうとしていた
異次元開畳や次元数の増減という手法はすでに立ちあわられていた。
ただ、それを捉え直し、書けばいいのだと気づいた。
実際に行っている実践と認識を切り離すと、
従来からの二項論理の罠に陥る。
実践しながら、同時に書き、
二つを一個二重の過程として統合しながら、
その罠をかいくぐっていくしかないのだ。
たとえば、これまでも行ってきたからだの闇に耳を澄ますということは、
からだの闇という非二元かつ多次元で変容流動しているものの中に、
まずは体感チャンネルにおけるサブシグナルを捉えるという
生命にとってもっとも基底的原生的なクオリアを
意識にとっても捉えることのできる
単次元チャンネルから捉えていこうとするものだ。
これこそ、透明論の主題のひとつとして書こうとしていた
ツリーリゾーム変換そのものであり、
生命やサブボディが属す多次元の次元数を、
単次元に次元数を削減して始めることだ。
体感チャンネルには、無数の単次元が含まれている。
生命と重力場との共振の中で生まれる、重い・軽いという重力の次元、
温かい・冷たいという温度の次元、硬い・柔らかい、
鎮まっている・ざわめいている、
痛い・かゆい、などなどの単次元が含まれる。
それ以外にからだは言葉にできない無数の微妙な体感の次元をもつ。
この世界に触れることによって、意識に住み着いている二項判断は、
二次元や三次元の低次元においてしか成立しないことが分かる。
重い・軽いは重力の次元においてのみ意味を持つ。
重い・軽いの二項判断を
温かい・冷たいという温度の次元に持ち込んでも意味をなさない。
明るい・暗いの光の次元でも働かない。
生命が感じている体感クオリアは、
実際は無数の多次元の要素を同時に感知しつつ流動しているが、
意識がこれを捉えようとした瞬間、
次元数を削減した低次元に変換して捉えてしまうのだ。
意識ががんばってできるのは、
かろうじて少数の単次元のクオリアを、加算する程度のことだ。
重くて温かい、重くて温かくて暗い、
……二三の次元ならかろうじて捉えられる。
だが、それ以上加えていくとだんだんわけが分からなくなる。
重くて温かくて暗くて柔らかくてかゆくて膨らんでいる……
ストップ!
意識がそれ以上無理をすることはない。
あとはそれらの多次元体感の専門家である下意識や
下意識のからであるサブボディに任せればいいのだ。
意識はこれまでの判断者の位置から、
サブボディに耳を澄ますリスナーの位置へ引き下がればいい。
下意識やサブボディは意識のように二項判断に囚われず、
多次元世界で自在に変容流動している。
ただそれに従い、見守り、楽しむだけでいい。
わたしは、これまでの透明論の書きかけをすべてくずかごにほうりこむ。
からだの闇を探る中で、闇に闇文字で書き直していこう。
まとめるのはまた来年以降でいい。
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