March-April 2008

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からだの闇を掘る
●●● 2008年4月22日

リゾクラシーな革命

夜中に仕事をする仕事師さんは、
とうとう夕べは一晩でタバコ2箱を吸うようになった。
限界だった。
からだのほかの60兆の細胞が騒ぎ出した。
口が苦くなり、息切れしだした。
毎日曜日に会う子供たちも、先週は縁日に出かけてふとタバコを口にすると
9歳のチングリから「向こうで吸ってくれ」と不快な顔で言われた。
リングリにも意外な顔をされた。(え?まだそんなもの吸っていたの?)
彼らの声が聴こえなくなっているとしたら問題だ。

でも、一番の問題は、先週末のサブボディ・コーボディ劇場で
生徒のサブボディに共振できずに、自我の判断に囚われてしまったことだ。
一人の生徒がコーボディ劇場の中で動けなくなり、
頭をかかえて壁に向かってうずくまり動かなくなってしまった。
そのしぐさが人間的だったので、わたしは「自我が出てきている」と勝手に決め付けて、
苦い顔で見ていた。
公演としてはもっともぶち壊しになる行為なので、その日サブボディの振付に集中して、
コーボディ練習を省いたのがこうなったと後悔していた。
いずれもわたしが善悪好悪の二元論的判断に囚われてしまっていた。
わたしの自我が出ると、生徒のサブボディに共振できなくなる。
かれがなぜうずくまってしまったのか、それにはそれなりの理由があるはずだ。
だが、そんな微細なことに耳を澄ますことができなくなってしまっていた。

やはりあまりに仕事師の意識人格に引きずられすぎて、
産婆としての仕事がおろそかになる段階にまで食い込んできたということだ。

以上すべての多様な要因で、からだじゅうの細胞が、おそらくそれぞれに共振しつつ、
決まったのだ。今日がタバコの止め時だと。
リゾクラシーな決定だった。
わたしがいやだった、単一の強い意志による決断で禁煙に踏み切るというのではなかった。、
タバコを吸う人格をわたしの中の誰かが指導統制する形で止めるのはいやだったが、
そうではなく、ある日突然、からだじゅうで決まった。
からだじゅうの60兆の細胞が共振してそうなった。
ごくごく静かな革命だった。
会議も議論もあったわけではない。ただからだの細胞たちが共振して決まった。
中心はどこにもない。宣伝機関もない。
ただ、そう決まったことは誰もが同時に知っていた。

タバコ吸いさんも、「リゾクラシーなら、仕方がないなあ」と受け入れてくれた。

人間とはこんなにも物語を必要とするものなのか、と愕然とした。
リゾクラシーという、あまりにもわたしにうってつけな言葉がたしか前日の夢の中で見つかった。
それによる革命なら仕方がないと、タバコ吸いさんはやすやすと引き下がった。
というより、このリゾクラシー革命を体得するために、
タバコ吸いさんは出てきてくれていたのかも知れない。
ふしぎなしずかな革命だった。
あの何から何までニセモノのデモクラシーという幻影に死を宣告するために、
それに替わる確固としたイメージが必要だった。
デモクラシーは、その発祥のギリシアでは、奴隷制の上に立った市民権をもつものらだけの
議論で物事を決めるというシステムだ。
あらかじめシステムにたてつくものらはそこから締め出されている。
近代でも、国家に忠誠を誓う限りで市民権が与えられる。
日本での在日韓国人や、米国での越境メキシコ人たちに市民権はない。
そのくせ自らを自由平等博愛のニセのイデオロギーで飾り立てる。
とんでもないニセの制度がデモクラシーだ。
ディープデモクラシーという言葉はあったが、
不徹底で気に入らなかった。
デモクラシーだの民主主義だのをあたかもいいものだと思い込んでいる人にであうと、
節穴ではないかと覗き込まないではいられなかった。
これほどみやすいニセものもないと思えたからだ。
ともあれ、それに替わるものがやっと見つかった。

<リゾクラシー>
それは、<Rhizo-cracy>であると同時に、<Reso-cracy>でもある。
なんと共振とリゾームは、日本語にすれば最初の二語は同じ発音なのだ。
まるで手品のようだ。
わたしは、この概念を発明するために、
20代以降の暗渠を延々と泥をすすって生き永らえてきたのだ。
見つけるまでに40年かかったが、これでもう未来の革命のイメージは出来上がった。
ただ、みんなで徹底して嫌がればいいだけだ。
国家や戦争を嫌がればいい。
それだけで必ずなくなる日が来る。
人類全体がある日突然それに気づく。
とりわけか弱い女子供たちが本気で嫌がればいい。
まだまだ本気さが足りないのだ。





●●● 2008年4月17日

リゾームLeeとツリーLee

なぜ、今年になって15年ぶりに<仕事師>さんが出てきて、
例年のように速やかにからだの闇の居場所に帰らずに居座っているのか、
そのわけがとうとう分かった。
わたしのツリーリゾーム論を身をもって推進させるために出てきてくれたのだ。

今朝、生徒の一人が新入生のために、百丹三元の図を描いて教えていた。
昨夕のミーティングで、さっぱり分からないという新入生の要請に応えてのものだった。
わたしは不思議に感じた。
わたしはサイトにはいくらでもイラストを掲載しているのに、
授業の現場でのわたしは、からだではやって見せても、
白板に図解することはなぜかする気になれなかった。
それをやった途端、意識モードの戻ってしまうのが不快だったからだ。
そこで気がついた。
リゾームLeeは、からだを通じて教えることはできるが、図解はしようとしない。
サイトにイラストを掲載しているのは、別の人格<仕事師>さんだったのだ。
自分の中に奇妙かつ微妙な裂け目がある。

もうひとつ気づいたのは、昼から、胎道を遡行する瞑想に入る前に、
受精後の受精卵がたどる道を新入生に見せるかどうか迷ったときだ。
図解イラストなどを見てから、胎内を遡行する瞑想に入ると、
何をやっているのか、意識にはよく分かるが、
意識に残るイラストに囚われて、よい瞑想状態に入ることが難しくなる。
見せるとすれば、別の機会にするべきなのだ。
ツリーの意識世界とリゾームの下意識世界の間の
もっともよい微妙な相互作用を見出すのがわたしの実践的な仕事なのだと気づいた。
イラストを描く仕事師さんは、この仕事を促進するために出てきてくれたわたしの重大なかたわれ、
<リゾームLee>に対して<ツリーLee>と呼ぶべき双子のかたわれなのだ。
この双子の間の相互作用が絶妙な呼吸で交わされるとき、
ツリーリゾームの論理は実践的に進展する。
今年の冬休みに、透明論を観念的な文字だけで、書こうとして頓挫したとき、
わたしはこれは日々の実践の中で解決されるべきものだと気づいて、
授業の中にその解決を探ってきたが、まさしくそれを遂行するために
<ツリーLee>さんは、<リゾームLee>の最高のコンビになる。
そんなことに気づかず、いままで、踊り手の<リゾームLee>は、
仕事師さんを嫌がっていた。
たしかに30代の嗜癖に囚われてタバコはぷかぷか吸うし、
サイトにアップロードする待ち時間を待ちきれずに、
コンピュータゲームに興じてはまり込み昔同様の夜更かしをする。
生徒のあらだになりこむどころか、
自分のからだに対してさえ配慮できない嗜癖に囚われた小さな自我の持ち主なのだ。
からだに悪いことばかりするのだが、コンピュータを使いこなすのは、
踊り手の<リゾームLee>には無理なので、したい放題にしていた。

だが、わたしにとってもっとも重大な課題を遂行するために
<リゾームLee>のほかに<仕事師>=<ツリーLee>を必要としているのだ。
わたしはこの二人を統合したとき、はじめて自分自身になれるのかもしれない。
どのようにそれが可能なのかはまだ分からない。
タバコを意志的に禁じるのはしたくない。
両者をうまく統制できないいまの無政府状態のほうが自分らしいと感じる。
超自我的に禁じるのではなく、<ツリーLee>がみずからそれを自然に放棄する
ようになるのを待つしかない。
おそらく、この間「からだの闇」と「多重日記」の区別が薄れてきたのも、
統合前夜の、あと薄皮一枚残したところにさしかかっているからかも知れない。
そのときは、「からだの闇・多重日記」と改名してふたつの日記をひとつにしよう。

まだまだ、ロリとその他の性的人格の分裂というおおきな課題も残っているから
そう簡単にはいかないかもしれないが。
<ツリーLee>と<リゾームLee>の統合とは、
意識と下意識の統合という課題に相当するだろう。
その次は、多岐に避け果てた欲望の統合という課題に直面するのだろうか。
生きている間にそれを解決することなど可能なのだろうか。
それとも、無理やりひとつに統合するのではなく、ドゥルーズのいうごとく、
「n個の性」を生きるというリゾームになる道がありうるのだろうか。
いよいよわたしの人生のもっとも深い謎に直面する日が近づいてきた。

(この記事は、多重日記と重なる内容なので、どちらにも掲載しました。)

多重日記を読む


●●● 2008年4月12日

スーパーレイティブな共振

共振にもいろいろある。
一斉にひとつの音色に共振する全体主義あるいは国家主義的な共振もあれば
すべての音色が異なっている共振もある。
法や政治はもちろん、宗教も斉唱的な共振を強いてくる力だ。
マントラや聖歌の共振は一見美しいが、
多彩さが貧し過ぎてわたしは唱えることができない。

わたしが追求しているのは、
あたうかぎり異なったクオリアとクオリアが出会って起こる多彩な共振である。
じっさい命に微細に耳を澄ますと、
命はありとあらゆる異なったクオリアと共振していることが分かる。
時空を超え、とてつもない遠隔のクオリアとさえ共振している。
細胞には生命発生以来のずべてのクオリアが織り込まれている。
わたし達には潜在的な共振能力を持っているのだ。
近代意識によって封印されているだけで、
意識さえ鎮めれば、遠くのかすかなクオリアとも共振して振るえていることが分かる。
どうすればこの多彩な共振を、国家主義・全体主義的な斉唱的共振に替えて、
世界中の人と共有することができるのか。
命に毎日「なにを一番実現したいんだい?」と尋ね続けていると、
どうやらそれが一番したいことだと分かってきた。
わたしの命にとっての最も遠い課題だ。
日常の営みも、その遠い課題に向かってにじり寄っていくように
注意深く組み立てていくことだ大事だ。

まず、最初に取り組めることは、
ありとある中心や同一性を強いてくる力から遠ざかり、
可能な限り異なったクオリアとクオリアが出会える場を実現する方法を発明し、
発見していくこと。
おそらくこれしかないだろう。
サブボディ・コーボディ劇場はそのための実験の場だ。
サブボディ同士が、多彩な三界共振のなかで変容しながら関わると、
とんでもなく多彩な出会いが起こる。

この間、スーパーレイティブという超関係概念を探っているのはその一環だ。

11次元のひも共振を捉えるには、1対1の関係概念では間に合わない。
クオークのような三者が1にも2にもなる変容さえ捉えられないのだから。
二者関係のレラティブの論理から、三者変容のトリレイティブな世界へ、
さらに多次元超関係のスーパーレイティブへ
と歩を進めなければならない。
多次元の謎を解くには、多次元独自の論理が要るのだ。
ツリーリゾーム論理は低次元と多次元を自在に行き来し、
相互翻訳するための論理だ。
これらを仕上げるにはわたし一人の人生では間に合わない。
多くの人が多彩さの限りの花を咲かせ、自在に共振できる力を身につけること。
その積み重ねが、スーパーレイティブな多彩さの次元数を増し、
かぎりなく豊かな多数多様多次元共振を実現していくことができるだろう。
要は、今の日常の活動を積み重ねて、
多彩共振の度合いをどうすれば深めていくことができるのかの
方法を透明にしていくことだけが今のわたしたちにできることだという、
いつもながらの結論に落ち着く。

だが、すこしずつ、先が見通せてきたことも事実だ。
図地兆というサブボディ独自の技法も、これを導くものだという発見があった。

意識に囚われた(コンシャス・バインドの)目には、図か地しか見えない。
だが、下意識の透明覚にとっては、図と地だけではなく、
異次元からのかすかな兆しのシグナルがいつも聞こえている。
最低三つの次元に耳を澄ませる力を研ぎ澄ますこと。
じつは異界からのサブシグナルは、ひとつやふたつではない。
生命記憶や胎内記憶、生命傾向、ノットミー、元型からのささやき、
不可視の衝動や、創造の萌芽など無数の内クオリアが同時に渦巻いている。
そしてそれは複雑多彩に共振しあっている。
これら無数の多次元からのサブシグナルを透明に捉えることのできる人を
とにかくたくさん生み出すこと。これが当面の仕事だ。
サブボディ・コーボディシアターがどれだけ多彩になったかがその指標になる。
そういう仕事の進み具合を常に検証できる場を持ててわたしは幸いだ。



●●● 2008年4月6日

からだの闇の布置の変動に耳を澄ます

重大なことに気づいた。
からだの闇は非二元・多次元世界だから、
そこを探るには、日常界とは別のものさしで見なければならない。
からだに耳を澄ますとき、具体的なメッセージではなく、
意識と下意識と生命の間の布置のかすかな変化に聞き入ることが大事だ。

布置とはなにか、大変に言うことが難しいが、
からだの闇の中の意識と下意識と生命との間の力関係の変化や、
おおきなうねりの変動の感じに耳を澄ますことだ。
マグマの変動のようなものとしてイメージするのが視覚化しやすい。
視覚化してしまうと、実際の不可視の多次元変容流動を、
低次元変換してしまうことになり、
フロイドのような古典力学的な単純化に陥りやすいが
それを用心しつつ使うしか今のところ仕方がない。

実際そこで起こっている布置の変動から、日常世界へ現れてくるときは、
影やサブ人格の形をとって現れてくるかに見えるが、
それは日常界のまなざしで捉えているからだ。
実際、解離した人格が日常世界へ予告もなしにどんどん噴出してきた数年前は、
それら一つ一つの現われを数えられる人格として捉える必要に迫られていたが
最近人格の現れ方が随分変わってきた。
なにか、下意識の見えないうねりのようなものが変わってきていて
ぬらりくらりと現れてくる。
もう突出した形ではなくなってきたのは、
おそらく、すべてわたしの自全の中の要素だと自認したからだ。
自全の中に生まれてきたすべての要素は、
一見どんな欠陥を持っていても否定せず、日常世界の判断で汚さず、
生まれてきたままに住まわせることがなにより大事だと覚悟を決めたからだ。

ここから先、下意識を探るには、
これまでのように「人格」というような数えられる日常界の論理を適用していてはだめだ。
もっと、多次元変容流動世界に即した、数えられないもの、
多数多形に変容する布置のうねりのようなものとして捉える必要がある。
これは、じつに捉えにくい。数も形もないものだからだ。
ただ、なにかうねりやぬめりのようなものが変容流動している。
耳を済ますとそれだけがわずかに感じられる。
ここから再出発するしかない。

今日は幼年期からの布置のうねりを図にしてみた。
すると、母に育てられていた頃のクオリアのうねりが、
母から切り離されたときにからだの闇に伏流していることがよく分かった。
祖母に育てられていた頃は甘えたの一人っ子として育てられていた。
祖父によく「内弁慶外ねずみ」と言われていた。
母の元に引き取られたとき、その甘えたのわたしは存在を許されず、
からだの闇に伏流して、表向きはかしこいにわか長男として自我を形成していった。
だが、甘えたのか弱いわたしもまた、確実にからだの闇で棲息を続けていた。
それが60歳になっても、布置の変動によってときどき現れてくる。
ロリや、アドも、苔丸・魚輔・鳥吉ら自然に親しむうねりも同じだ。
30代の仕事師は踊りをし始めてから、踊りを妨げる意識人格として
毛嫌いされからだの闇に潜んでいたが、
とうとう今年からどうどうと現れて、仕事をする代わりにタバコを吸い出した。
それも、自全のなかの全メンバーをなるだけ否定しないように
踊り人格からの圧迫が少なくなったからだ。
そして、だんだん、「人格」という解離された形から、
もっと形のないものに変容しつつある。
もういくつの人格というような算数で捉えられるようなものではなく、
多次元変容流動そのものを捉える新しい論理が必要とされている。
サブボディメソッドの「図地兆」もその試みのひとつだ。
フロイドやゲシュタルト心理学のバローズは、
二項論理に囚われた近代の意識の病理を対象としたために、
みずからも「意識と無意識」、「図と地」という二項論理に囚われていた。
だが、そんな二項論理は日常意識の囚われの中にしかない。
からだの闇は二項や三項どころか無数の次元が上下も左右もなく絡み合っている。
これを解くには、従来の二項論理ではない論理が必要とされる。

ここから先は荒唐無稽な試論だ。
未完成だが、覚え書風に書き留めておく。

<Superlative>という概念

二項関係は、<Relativity>で捉えられる。わたしとあなたという日常世界から
アインシュタインの相対性理論、
すなわち物質とエネルギーのE=mc2という相対的な関係まで、
二項論理で何とか処理できた。
だが、陽子の中に三つあるとされるクオークの動きがいまだに捉えられないのは
この三者論理を捉える<Trilative>な論理がいまだにないからだ。
クオークのような三者関係の次元を捉えるには、二項論理の寄せ集めではなく、
<Trilativity>という別次元の論理が要る。
クオークはじつは3ではない。時に2に結合し、1に連結しすぐに離れる。
ひも共振の世界には数えられる数というものがない。
絶えず各瞬間ごとに変わっているものを数えられるわけがないからだ。
だからもう従来の数式が意味を持たなくなる世界だ。
E=mc2という二項論理では、
絶えず数も形も変わるひも共振の世界を解明できないのだ。
世界中のひも理論研究者が現在突き当たっている壁もそこにあるだろう。
かれらも必死で探しているだろうが、まだ数式のない数学を完成させていない。
中沢新一の三位一体論は、そこに切り込む数少ない斬新な試みだ。
だが、<Trilative>な論理でもそれ以上の多次元には通用しない。

ひも理論の11次元のような多次元世界を捉えるには、
<Superlativity>と呼ぶべき、超高次元独自の論理が要る。
<Trilative>さえ未完の現在からすれば気が遠くなる。
いまのところその謎は下意識の布置の変動を捉えるときのような
うねりやふるえやぬめりのような、数値化できないクオリアを
味わいつつ探っていくしかない。

言語ではなく、クオリアを使ったまったく新しい探求方法を発明することが急がれている。

この多重人格日記も、「人格」というような言語で捉えられるものではなく、
もっとからだの闇の深層のうねりをあるがままに捉えていく方法を見出す以外
深まりようがないところまで来た。
布置を捉えるという課題が浮かび上がって来たにはそういう背景がある。
からだの闇を透明に見るという課題と、宇宙の謎を解くという課題は
驚くべきことに同じ困難を前にして足踏みしている。
一見荒唐無稽に見えるが、
この二つの領域が密接に関連しているのは考えれば当たり前のことだ。
生命という最大の謎がこの両者に相渉っているからだ。

この間、多重日記とからだの闇との双方に分類するしかない、
今日のような気づきの記事が増えてきたこともそれに関係している。
そのうち二つの日記を統合するべき日が来るかも知れない。

やがては(何百年か、何千年先か分からないが)、
生命論と宇宙論が大統合される日が来る。
からだの闇はその日を首を長くして待っている。
いったい闇をこんなに不透明にしているものは何なのか?

それよりももっと不思議なのは、
この世の人はなぜ、自分がわけの分からない欲動に衝き動かされたり、
理由もなくあるものを好み、あるものを毛嫌いするというような
自分の不透明さが気にならないのだろう?
なぜ、だれもこの不透明さを解こうとしなかったのだろう?
どうして、できの悪い大雑把な二項論理などに囚われた
意識なんぞで我慢していられるのだろう?

この謎を解くことのほうが大事なのかもしれない。
この謎はなぜ、この世の人がろくでもない国家などの存在を許しているのか、
という謎につながるからだ。
仕事師をからだの闇から出てくるに任せたのはこの謎に取り組むためだ。
ヒマラヤでサブボディの産婆になってしまったわたしより、
仕事師のほうがまだしも現代社会の人々との深い関連をたもっているからだ。





●●●
2008年4月5日

少しずつ透明になるために

昨日の朝,起きがけに夢を見た。
なにかの紙切れの文章を読んでいる。
読んで驚いた。
なんと、そこにはわたしがその日に授業でいうべきことが英語で書かれていた。
最初の一文を読んだところで、物音で起きてしまったので
第二第三の文は読めなかったが、すぐ想像がついた。
なかなかサブボディモードに入りにくい生徒のことが気になっていた。
どうすれば意識を止めることができるのか、サブボディさんは寝ずに探り続けていたに違いない。
だが、寝ている間に英語の文にまで仕上げるとは!
言語思考は意識に属すると思い込んでいたが、
下意識も言語を使って仕事をしている領域がありそうだ。
ただし、読んだ文が英語だったところにポイントがある。
50代からはじめて英語で教え始めて、苦労しているわたしの下意識は
寝ている間中英語でどう言えばいいか、ずっと下書きしてくれているのだ。
英語で授業すると、言葉で伝えきれない部分はからだの動きで示す。
英語とからだの動きがいつも連動している。
わたしにとっての英語は日本語のような純粋な言語チャンネルではなく、
半分からだを動かす運動チャンネルに属している気がする。

わたしはその日の授業をあわてて書き写した夢で読んだ文章を読み上げることからはじめた。

その文章は、英語でこう書かれていた。
”After you relax and breathe calmly, you can receive a massage of 'Affirmation' from you life---'Everything is OK' as you are.'.
In the life world, nobody denyes you.
You can enter into the subconscious world which is released from dualism judgement--right/wrong, good/bad, self/others, beautiful/ugry, and so on.
These judgements belong in only daily world.

When you breathe calmly, you can feel subtle confortable feeling at the entrance of mouth and nose tril, this is the message from life--- 'We are affirmed.', 'we can enjoy everything freely.'

The border between consciousness and subconsciousness disappears, and they transform a transparent mind.
When ego and daily mind disappear, your subbody comes out with the best timing.
Your subbody knows well when, where, how should he come out in dance performance."

昨日は金曜日で、いつもの週末に予定されているサブボディ・コーボディ劇場の日だ。
少数の知人友人を観客に招待して見てもらっている。
そのパフォーマンスに備えて、もっともいい状態のからだになるには
どうすればいいか、生徒にどんな瞑想を勧めるのがいいか、いつも探っている。
この日の下意識さんが下書きしてくれた文章は、これまででも最高のものだった。

実際にここに書いた文には明記されていないが、それは2年ほど前に書いてすっかり忘れていた『肯定論』のモチーフと、今直面している意識を鎮める課題と、呼吸時に口や鼻の入り口の粘膜が空気に触れたとき微細な快感を感じていることに気づいてその快感をからだに広げる調体法が、密接につながっていることを発見した文章だった。
意識は常に規定し、否定する。だが、命には規定も否定もない。
自全のなかの全員を肯定すること、アメーバやアメフラシのようにのろのろ動くサブボディから、もっとも醜いサブボディ、そして死者にいたるまで、すべてを肯定してやればいい。
いや、命の非二元の世界には肯定人も否定する人もいない。
ただあるがままに肯定されている世界だ。
日常判断の囚われから解放されさえすれば、下意識のサブボディは自分が登場すべき最適の場面で最適のタイミングで出てくる。
今週はデュエットの場面を入れたが、自我や自分を捨てて、命が共振するに任せて、ただそれに従えばいい。
それだけで透明なデュエットが実現する。

昔舞踏家に転身しようとしたとき、岩下徹のワークショップをよく受けた。
それは、「少しずつ自由になるために」と題されたシリーズで、
からだに対する微細な感覚を開いてくれるものだった。
岩下徹の即興ダンスを何度も見たが、かれは実に透明なダンサーだった。
意識的な意図や自我などではなく、
ただ彼のからだが微妙な気配に感応して動いていることが透けて見える踊りだった。
その頃からだ、踊りにおける透明さとはなにかを真剣に考え始めたのは。
だが、透明さは考えて分かるものではない。
いつのまにかからだが勝手に透明に動くようになってはじめて分かるものだ。
体得という道以外ないのが踊りの世界だ。
十数年前に岩下さんのワークショップで探ったからだの闇の手触りが
今頃になって少しずつ透けて見えるようになって来た。
ありがとう。岩下さん、こういうことを伝えようとしていたんだね。
わたしが今やっている授業も、岩下さんに倣って言えば
「少しずつ透明になるために」とでも題するのがふさわしい。
意識と下意識と命の関係が透明に透けて見えるからだ、透明体へ至る坑道は、
毎年、ほんの少しずつ拓けてくる。
そして更なるやみの深さに気づかされる。

今朝の夢のような出来事もまた、からだの中で起こっていることに対する
透明な気づきを開いてくれるものだ。
下意識はいったいどんな複雑さからなっているのか計り知れない。
この営みの面白さと味わい深さを知れば、死ぬまで止めることはできなくなる。




●●●
2008年4月3日

言語チャンネルの逆転

わたしの脳に大異変が起こったようだ。
いままではかならず、サイトの記事の更新は、まず日本語で書いてから
それを英語に翻訳していた。
日本語を英語に翻訳すると、どうしても微妙なニュアンスが翻訳できず、
70パーセントぐらい薄い記事になってしまうのがつらかった。
そこで難渋しているうち、夜眠くなると、英語に翻訳し切れず、
英語サイトの記事はどうしても少なめになった。
ところが今月に入ってから、先に英語で書くほうが楽になった。
授業は英語で行っているため、そこでしゃべったことを
そのまま書けば、ブロークンながらすぐに書けることに気づいた。
授業では英語といっても、身振り言語の補助のように使っているだけで、
完全な英語ではない。
だから、読んだ人に伝わるかどうか気がかりなのだが、
毎日訪れてくれる熱心な外国の読者のために、書き続けている。
ところが、こんどは日本語がかけなくなった。
日本語で書くとなれば、授業の英語ではなく、
微妙なニュアンスまで書きたくなるのだが、その時間が取れなくなった。
ここ数日は、英語サイトの「実技ガイド」は毎日更新しているが、
日本語サイトの更新が遅れ気味だ。
授業内容をすぐ知りたい方は、英語サイトをご覧ください。
英語といっても、50歳から使い始めたもので、
初級単語しか語彙にないので読めると思われます。

それと、わたしにとっては、日本語は大脳の言語野の中心を占めているので、
日本語で書くとなると言語脳が活性化して意識モードになるが、
どうやら英語は授業でしか使わないので踊りと同じく、
なかば運動チャンネルに属している模様だ。
なんだか、考えずにしゃべったり書いたりしているようだ。
無重力状態にあるようなとても奇妙な体感だが、
日本人が舞踏を体感言語と英語で教えていると、こういう奇妙なことが起こるらしい。
●●● 2008年3月31日

創造的思考の逆説

毎日意識を鎮め、下意識モードで過ごす。
授業がある3月から十二月までは、基本的に毎日をできるだけ下意識モードで過ごす。
それがサブボディ共振塾の教師人格としてのわたしの毎日だ。
教師といってもなにかの知識を教えるのが仕事ではない。
生徒の中で生まれかけているサブボディの誕生を手助けする産婆となることが使命だ。
サブボディの産婆となるためには、自我意識を捨て去り、
生徒の中で生まれかけているサブボディの胎動の気配に耳を澄まし、
最適のタイミングで誕生を助ける必要があるからだ。
タイミングを間違えたサブボディは水子となって流れてしまう。
この状態に移行するには時間がかかる。
今月は冬休み中に堂々と出てきだした<仕事師>人格がなかなか退去しようとしないので、
意識モードのわたしと下意識モードのわたしが二重状態を続けている。

今年はこの状態を受け入れざるを得ず、かつ積極的に受け入れる覚悟なので、
産婆としてはやりにくい面が随分あるのだが、何とかやりくりしようとしている。
ただ、この二重状態を続けていると、はじめて、
下意識モードの自分と意識モードの自分の状態の違いがくっきり見えてきた。

下意識モードのときは、何も考えないで、ただ命に何がしたいのかを尋ね続ける。
それだけで次から次へと新しいことに気づく。
練習方法などもこれまでにないアイデアが毎日生まれてくる。
わたしが意識で用意したり、準備することはごく大まかなことだけで、
具体的な細目はすべて下意識のサブボディが創造するに任せる。
生徒の状態の変化に微細に対応するだけで、じつに変化に富んだ局面が生まれる。
自我意識が強くてなかなか鎮められない生徒、いきなり忘我状態に入れる生徒、
自我を鎮めるこつをつかんでサブボディになりこもうと努力する生徒、
そのプロセスのずれの間の葛藤、などさまざまだ

それに応じて、自分のサブボディをそれぞれの深度で探る授業と、
生命共振を通じてコーボディになる授業との按配だけで、無数のパターンが生じる。
この按配が一番難しく、興趣が尽きない。
こういう仕事は意識モードでは絶対にうまく行かない。
わたしの自我意識がでてきて、自分でどうこうしたいということを、
生徒に押し付ようとするとサブボディはかならず反発して引っ込んでしまう。
サブボディの自発的な創造性をうまく引き出せないとしたら、
いつもかならず、教師の自我が邪魔しているのだ。
これまでの経験からそれだけは痛いほど重々学んだ。

わたしが仕事師の意識モードでいる時間は、
まったく授業の創造的なアイデアなど生まれてこない。
仕事師さんはただせっせとコンピュータに向かって仕事を進めるだけだ。
もちろん、サイトの改造などは仕事師さんの課題だ。
30年間のコピーライターや編集者としての経験は伊達ではない。
そのおかげで、このサイトもはじめた3年前に比べると随分多彩になってきた。
コンピュータは典型的なツリーシステムだが、それを使って
わたしのからだの闇のリゾーム状態に近づけるのが出発当初からの課題だ。
仕事師さんは、この課題の難しさに惹かれて出てきてくれたのだと思う。
いつもこれまでに誰もやったことのない課題に取り組むことの面白さにやられて
どんどん仕事中毒になっていった男だからだ。
そこに夜中に出てくる無数の分身たちがてんでに絵を描いたり、
音や映像を入れようとしたりする。
おかげで迷路が複雑になりすぎて、自分でもサイトを全部たどれるか、
たどれないかのぎりぎりの状態だ。
昨日のように、ひとつの日記の記事一覧を作るだけで、随分ツリー状の見通しがよくなる。
リゾーム的多次元混沌と、ツリー状のパースペクティブのよさとのバランスが課題だ。

この二重状態のなかで、だんだんすごいことが分かってきた。
意識モードになるとは、自由なクオリア思考を止めることなのだ。
意識は与えられた課題を解決するために、もてるだけの知識を総動員してことに当たるが、
それだけでは、創造的アイデアは生まれない。
どこかで気を失って、異時空をさまよう時間が必要だ。
その瞬間下意識モードに入って、自由なクオリアとクオリアが出会う
下意識のクオリア思考によって創発が生まれる。
創造的な資質が要求される仕事を長くしている人は
そのコツをからだで覚えているに違いない。
コピーライタ時代のわたしのやり方は、まず、ある領域のデータをすべて集め、
脳内をその未消化な情報で満杯にする。
そして夜中の25時を過ぎて、半ば朦朧とした意識状態で仕事を続けていると、
どこからか、アイデアや解決策がやってくる。
風呂やトイレ、散歩の最中に出てくるときもある。
今から思えば、おそらく創発が生まれるときは瞬間的に下意識モードに入っていたのだろう。

だが、そのころの意識はそのことに気づいていなかった。
下意識や無意識とは、意識には意識できないものだからだ。
だから、ずっと、自分が考え出したと思い込んでいた。
意識はそういうふうに下意識さんの仕事も自分の手柄だと
勘違いしてい上がってしまうところがある。

下意識のクオリア思考は、意識の枠組みから外れて、外から入ってきた外クオリアと
生命に記憶された内クオリアが自由に出会うことだ。
意識状態のときは、日常で定められた回路しかニューロンは通らない。
ニューロン自体は電気信号の通り道で、クオリアはおそらくグリア細胞に保存されていることが、
近年の研究で分かってきた。
(R.D.フィールド「思考をつかさどる陰の立役者 グリア細胞」 2004,
「White Matter Matters」 Sientific American March 2008)
グリアとニューロンは、シナプス間隙でクオリア交感をしているが、定番回路を高速で通るときは、
グリアの内クオリアはすでに既知のものとして無視される。
そこでは演算や分析、すでに固まった自分の考えをなぞることはできるが、
クオリアとクオリアの自由な出会いは制限されている。
ところが、睡眠中の夢や、瞑想中の下意識モードに入ったときは、
グリア-ニューロンネットワークは、新しく体験したクオリアと、
これまでに保存されている内クオリアとを、ランダムにぶつけ合わせる。
ありとあるシナプス間隙でニューロンとグリアとの相互作用を試すのだ。
そして、何らかの面白い反応が起こったクオリアを、
既存の内クオリアとの関連ある場所に長期記憶として保存する。
夢が荒唐無稽な出来事に満ちているのは、睡眠中の脳が、
クオリアとクオリアを無限に出会わせているからだ。
眠らぬまま意識を鎮めて、このクオリアとクオリアとの出会いに耳を傾けるのが
下意識モード、サブボディモードの特徴だ。
だから、醒めたまま無限の創発が起こる。
下意識の創造性を解放するとはこのことだ。
ユングはこの下意識の創造性に気づいていた。
だが、まだそれを万人にどう解放できるかの具体的方法までは及ばなかった。

ほんとうに創造的な思考をするためには、意識を止める必要がある。
意識を止めてただゆらぎ、からだの闇に耳を澄ます役割に徹する。
そうすればシナプス間隙でグリアとニューロンの間で交わされている
微細なクオリアとクオリアの相互作用で起こっている無限の創発に立ち会える。
下意識がなにか創発した瞬間にだけ意識は飛び出してそのアイデアを記録する。
意識を従来のディレクターという定位置から、
リスナーと書記という地味な役割へ後退させるのがサブボディ・メソッドの鍵だ。
そうすることで、意識優先の意識状態とは異なる、創造性に満ちた<透明知>の地平が開く。
こんなことに気づくまで、60年かかった。

わたしが育った戦後日本の教育者や知識人の中には、
こんなことを教えてくれる人がただ独りもいなかった。
世界の現代思想者の中にもいなかった。
近代西洋の意識優先の枠組みにみんな閉ざされていたのだ。
自我と意識を堅く保持するもの、それが「人間」だという悪夢に囚われていたのだ。
最近、対称性人類学の中沢新一が、この枠組みを破って、古代の流動的知性と、
近代的意識とを統合して、新しい<知>の地平を切り開こうとしている。
今後どう切り開いていけるかが問題だが。
彼もまた、その新しい知の様式を「言葉と物』で予言したミシェル・フーコーの弟子なのだ。

(この記事は、「からだの闇」と「多重日記」の両方にまたがる内容な
ので、両方に記載する。二つの坑道はいたることろで交錯しだしてきた。)



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超ひもは微細な11次元で、瞬間ごとに、互いに姿や数を変容しながら、共振している。
生命が感じているクオリアもまた、このように変容している。
その千変万化の変容を透明に見せるからだになるのがリゾーミング技法だ。


●●●
2008年3月14日

クオリアとリゾーミング技法

長年、別個に掘り進めてきたクオリア坑道と、
リゾーム坑道がやっとつながった。
サブボディ舞踏の独自の技法にリゾーミング技法がある。
実技ガイドの「リゾーミング変容法」の章を書いているとき、
なぜリゾーミングでなければならなかったのかのわけが分かった。
言語はツリーだが、クオリアはリゾームである。
言語を使った近代思考は生命が感じているあらゆるクオリアを、
内外、上下、自他、善悪、類個などの二項論理によって分かち、
階層状のツリーにまとめ上げる。
だがクオリアには、そのような境界などなく、ツリー構造の
下層にあるもののさらに下に上層のものが連結する。
内の内奥に外がつながる。
自他、心身、類個も融合する。
もとより、生命の感じているクオリアに正誤、善悪の境界などない。
一即多、多即一も成り立つ。
クオリアはツリーとは別種の、リゾーム状に変容流動しているものだ。
日常言語は多次元リゾームの次元数を削減して、
日常意識にも分かりやすい三次元や二項論理などに
低次元変換することによって成り立っている。

クオリアがリゾームなのは、ひも理論に従えばこの世のあらゆるものを
生成しているひもがリゾームだからだ。
ひもはその数をかぞえることができない。
たえず、隣接したひもと融合、分離を続けている。
おそらく単なるひもにとどまらず、メビウスの輪のような面になったり、
千切れたり、絶えず次元を超えて変形している異数の世界の存在なのだ。

瞬間ごとに変形流動するものを分節することはできない。
クオリアを捉えるには、分節言語による思考を止め、
ただ生命とクオリアのかかわりを無心に味わい、それに従って動くしかないのだ。

リゾーミングとは、ツリー状の日常観念にがんじがらめになった日常体の封印を解き、
生命とクオリアのままに変容流動するからだになることである。
クオリアがリゾームだから、からだもまたリゾームに変成する必要があったのだ。
濃い霧が晴れるときはいつも、なあんだ、なぜ、こんなことに今まで
気がつかなかったのだろう、という軽い落胆と共にやってくる。
それだけ自分自身が分節思考に侵されて、
内視盲点になっていたことがしみじみと身にしみる。
リゾーミング技法について、くわしくは、いま、改訂中の
実技ガイド」の変容法の項を見ていただきたい。

今年はこのリゾーミング技法をみっちり深めようと思う。

そして、ツリーからリゾームへ、リゾームからツリーへ、
二つの異質な世界を変幻自在に往還できる、ツリーリゾームの論理を駆使できる
透明体に至る道を生徒と共に掘り進めよう。
ツリーリゾーム坑道の坑口にまでたどり着いたことになる。
開校以来4年目にしてようやく、3ヶ月から半年以上の中期生が集まったことが、
それを可能にした。
短期ではとてもたどれぬ深い闇の中に降りよう。
ツリーリゾーム坑道の闇は深い。3ヶ月やそこらでは生徒は
そのほんの断片に触れることしかできまい。

だが、この闇の歩き方だけでも身に着けてくれたら、
後は自分で掘り進めることができる。
そして、自分で掘った坑道の成果を人にも伝え、
いつかまたここに来て他の生徒と分かち合ってほしい。
実際去年の生徒は、カツをはじめとして、世界のあちこちで
ワークショップを開催して経験と研鑽を深めている。

この流れが定着すれば、やがて世界各地でサブボディ=コーボディ坑道が
掘削されるビッグバンを迎える日が来るだろう。
そのときだ。新しいツリーリゾームの透明知の様式を、
幼児期から呼吸して生きる世代が生まれるのは。

*****

去年は生徒から、子供連れで参加していいかという申し出があり、
自分でも前からの課題のひとつだったので考え続けたが、
いまはまだ子供にサブボディ・メソッドをどう教えたらよいか
の見通しがつかずに、断念した。
ツリーとリゾームの関係をもっと極める必要がある。
いつも遊ぶヒマラヤの村の子供たちに教えようとしたことがあったが
、歯が立たなかった。
子供の世界はもっと変容流動していて、すぐ遊びにまぎれてしまう
。そして、同時に社会や学校からツリー論理を学ぶ圧力を受けている。
それに逆行するような、リゾーム原理を教えると、
子供の中でどんな混乱が起こるのか予想がつかずに怖れたのだ。
ジェンドリンのフォーカシングは、アメリカの12歳の中学生には
ちゃんと受け止められたという。
いったい何歳からサブボディをこどもに伝えることができるか、
これは今後の大きな課題だ。



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●●● 2008年3月10日

非二元かつ多次元について

イラストガイド」を更新していて、
いきなり「タオ」という言葉が出てきているのが気になった。
特にタオイストでもないわたしが使うのは、
あまりに説明不足なので、今日はタオについて少し述べる。
いうまでもなくこれは、若い頃から愛読してきた老子や荘子の概念である。

「「道」 が語りうるものであれば、それは不変の 「道」 ではない。
「名」 が名づけうるものであれば、それは不変の 「名」 ではない。
天と地が出現したのは 「無名」 (名づけえないもの) からであった。
「有名」 (名づけうるもの) は、万物の母に過ぎない。」
(『老子』「中公クラシックス」小川環樹訳)

これを加島祥造は下記のように口語訳している。

「これが道 (タオ) だと口で言ったからって
それは本当のタオじゃないんだ。
これがタオだと名づけたって
それは本物の道じゃないんだ。
なぜってそれを道だと言ったり
名づけたりするずっと以前から
名のない道の領域が
はるかに広がっていたんだ。           

まずはじめは
名の無い領域であった。
名の無い領域であったから
天と地が生まれ、
天と地のあいだから
数知れぬ名前が生まれた。
だから天と地は
名の有るすべてのものの 「母」 と言える。」

まあ、感じだけ受け取ってもらえればいい。
タオとは、言語で表現し得ないものだ。
言語はすべてを分節化することからはじまる。
それは分節しえないものを表現できない。
言語意識のみが優先される近代では、
言語で分節できないものがあることさえ忘れ去られる。

だが、意識を鎮め、からだの闇に潜れば、そこは
どのようにも分別できない世界であることがすぐに分かる。
「からだの闇」という言葉で、
わたしは下意識や無意識から生命を包摂する領域を指している。

なぜ、無意識ということばを使わないか。
無意識という言葉は、意識が優先される近代ヨーロッパの
神経症を治療する過程でフロイドが使い有名にした。
だが、無意識という概念は近代ヨーロッパの心性特有の
意識によって「抑圧」されたものというニュアンスが色濃く染め上げている。
そういう偏りを避けるために、無意識という言葉を捨てた。

下意識という言葉は、催眠療法家がよく使う。
このほうがまだしも、抑圧というニュアンスが少ないので
わたしもときおりそれを使う。
だが、本当はこれも正確ではなく、
下意識とからだは分化していない。
サブボディということばは、その両者が渾然一体となっている
未分化な状態を指すために造語する必要があった。

からだの闇といい、サブボディというのも
同じものを指している。
ただ、からだの闇はどちらかといえば、世界像を指し、
サブボディは自己像を指す。
だが、それもまた、人間本位の言い方に過ぎない。

生命にとっては自己像も世界像もない。
生命にとっては世界も自己も分化せず、
未分化に一体化している。
そのときはじめて、
非二元かつ多次元というしかなくなる。
生命が感じているクオリアは、
そういう非二元かつ多次元を変容流動している。

タオとは、そういう非二元かつ多次元の世界を
古代中国の思想家がはじめて捉えた言葉である。
だから、かれらに敬意を表してタオという言葉を使った。
もちろん、アニミズムやシャーマニズムの文化では、
それぞれにこの非二元かつ多次元を指す言葉が無数にある。
東南アジアの「マナ」、インドのアートマン、仏教の「空」そして「無」、……。
だがそれらの多くは、近代の分節言語意識におかされた
知識人の解釈にまみれていて、使い物にはならなくなっている。
「タオ」もまた、「絶対者」などと、
近代哲学の分節言語で解釈している人もいるから、
そんな訳で読めば台無しになり、五十歩百歩なのだが、
まだしも、そういう誤解にまみれている度合いが少ないというだけだ。
踊り手としての今のわたしはタオという言葉も使うことはないが、
「イラストガイド」の作者である30代のころのわたしである仕事魔さんは、
そのころまだ、非二元かつ多次元なものを指す言葉として、
この言葉しか知らなかったのだ。
(この辺のややこしさは、「多重日記」を参照して下さい。
このサイトは、わたしのからだの闇に棲む30あまりもある
分身人格たちがよってたかって創っている。)

わたしが尊敬するプロセス指向心理学のアーノルド・ミンデルもまた、
無意識という言葉を避けて、「二次プロセス」や
「ドリームランド」という言葉を使うようにしている。

既成の認識や元型を離れて
からだの闇に自分の坑道を掘ろうとすれば、
言葉から発明していかなければならない。
あなたもまた、自立した生を生きようとするなら、
自分に一番ぴったりする言葉を発明すればいいのだ。

2008年3月5日

サブボディの贈りもの

1998年にわたしがその後長く踊ることになる
『伝染熱』、『死者熱』ができたとき、
わたしはなぜこんな踊りが自分のからだから出てきたのか、
わけが分からなかった。
わたしの意識で創ったのではなく、
ある日突然からだから勝手に出てきたように感じた。
踊りは自分にとっても謎から謎へ展開する
不思議な展開に満ちたものだった。
その不思議に衝き動かされて、
わたしの中の隠れた創造者としての「サブボディ」
(下意識のからだ)というものを仮定し、
その後今日まで十年間探索を続けてきた。

この冬はじめて、体腔三元、口腔三元という練習法を発見した。
その具体的内容は、(十分には書けていないが)
実技ガイドを見ていただくしかないが、
その練習を続けていると、その後体腔や口腔だけではなく、
鼻腔や眼腔、体腔のなかの胸腔、腹腔、下腹腔も、
三元方向に変形することができることに気づいた。
それらの変形を統御する微細な深層筋を誰もが持っているのだ。
それを鍛錬し、自在に動かせるようになれば、
それによって誰でも手足の表層筋の動きではなく、
存在の深部からからだごと別の存在に変容する技法を身につけることができる。
体腔・口腔などの変形にともなう奇妙で新鮮な体感に追いすがるだけで、無限のサブボディへの変容への道が開ける。
これこそ、長い間捜し求めていた謎のリゾーミング・テクニックを開くからだの鍵だ。
そして、わたしは思いあたった。
十年前の『伝染熱』がここにつながっていることを。

伝染熱は冒頭から顔の変形から始まっていた。
賢ぶる自分の知性を解体しようとしているのだと、
当時は受け取っていたが、それだけではなかった。
それはこの体腔・口腔変成にいたる坑道のほんの坑口に過ぎなかった。
伝染熱の本質は、ここへ至る坑道の存在を見つけたということだったのだ。
あれからちょうど十年になる。
十年かけて、その坑道をさまよい続けた挙句、
ようやくからだの闇深くへ至る普遍的な坑道を
ひとつ掘りぬいたことになる。
普遍的なという意味は、口腔呼吸-体腔・口腔三元-体腔変成という坑道を降りていけば、だれでも、自分のからだの闇から
自分固有の創造的なサブボディを掘り出せるという意味だ。
それは、その次の異次元開畳技法、そして、その基礎となるリゾーミング・テクニックにつながる。

十年前にひょっこりからだから生み出されてきた伝染熱という
サブボディさんは、いまもわたしを導きつづけている。
サブボディから受ける贈り物はことのほか大きい。
こんな無償の気前のいい存在は他にありえない。
まさに生涯の「師」であり、「友」でもある
「盟友」というほかない存在だ。

これから自分のサブボディを見つけようとする人は、
そこに自分のすべてを、意識も下意識も欲望も衝動もこだわりも理想も、なにもかもを投入して創るのがいい。
理由や意味やテーマなどを意識でつけようとせず、
自分でわけが分からない謎の動きのつながりばかりでいい。
そういう下意識の創造にはかならず、
自分にとってのっぴきならない元型もまといつく。
はねのけることなどできない強い力で忍び込む。
その元型の支配から逃れるためには、
それを踊りながら一生かかって闘争するしかない。
その闘争から自分の命が本当にやりたいことは何なのかが
次第に見えてくる。

「伝染熱」には、わたしの生涯の敵あるいはライバルである
上位自我元型のほかに、かぐや姫伝説と、
わたしの生まれ故郷である和歌山の安珍清姫伝説が
色濃く忍び込んできた。
当時はなぜか分からなかったが、
今から思えばすべてわたしが生涯にわたって真向かい続けている
未解決の課題に直結するものばかりだ。
母、性欲、ロリータをはじめとする無数の分身・行方不明者たち、そしてエゴ。
それらは『伝染熱』やそれにつづく『熱』シリーズでは
まだ十分に踊れていない。
だが、まだ踊れていないことはいつも痛感させられてきた。
その後も取り組みを続けているが生きている間に
踊れるようになるかどうかは分からない。
サブボディの踊りはそういうことすべてを知らせてくれる。
サブボディの贈りものとして遠慮なく受け取ればいい。
それは命の謎に至る道なのだ。
2008年3月1日

啓蟄、気功の速度で蠢き出す

三月だ。ここヒマラヤの気候はすっかり春満開だが、
わたしの中のからだの時間は日本にいたころの生命記憶に
囚われているのか、暦が三月になってようやく春めいてきた。
啓蟄という言葉を思い出した。
冬篭りの虫が地中からごそごそ這い出してくる。
からだの闇で眠っていた細胞も共振して蠢きだす。
こういう季節や天体の動きと、地中の動き、そして人体が
共振しているという捉え方は、道教や風水、気功の伝統の中で
色濃く醸成されてきた。
気功の動きはすべて天地人の共振性を開くものだ。
気功独特のあのゆっくりとした動きの速度は
体内60兆の細胞が互いにそして、外界の変化とも共振しつつ
変化しているのを捉え感じることのできる最適速度に設定されている。
今日は朝から、気功の速度で動いてみた。
冬の間はゆらぎからはじめたが、春のからだはもっと動きたがっていると感じられたからだ。
少し学んだ気功の型はすっかり忘れたが、
あの独特の速度だけはしっかりからだに残っている。
型に囚われず、からだに聴きながら、あらゆる方向、
あらゆる次元を開きながらゆっくり動いてみる。
からだが山や空や風や樹々と心地よく共振して漂いだす。
ものの三十分も動けばからだのなかのしこりや囚われが取れて
すっかりいい気分がからだに満ちる。

蠢きながら、からだがヨガのようなポーズに入りたがれば
そこで静止する。
そして、つぎの蠢きがからだに満ちてくれば
つぎの動きや静止に入る。
呼吸を楽しみたくなればゆっくり呼吸しながら動く。
体腔をさまざまな形に変形していくと、
恐らく細胞の生命記憶に刻まれているさまざまな
古生物の体感が滲み出してくる。
口腔を変形すれば情動と連動し、
からだの闇に眠るさまざまな異貌の自己の体感に触れることができる。
それらすべての内クオリアは、風、音、光、鳥の声、
そして重力を通じて地球と密接に共振している。
その心地よい生命共振を取り戻していく中で、
日常体が囚われているさまざまなこだわりや滞りが解かれていく。
春の調体は、気功の速度がいい。
そこから、無限の共振が飛び立っていく。
なにか面白い動きが出てくればそれに従う。
体腔から声が出てくればそれを増幅する。
口腔の形を変えると無数の情動や感情が飛び立ち流れ始める。
サブボディの十体の萌芽が無数に蠢いている。

こういう命の多次元変容流動へからだごと入り、
それをあるがままに解き放ってサブボディ探体へつなげる道は、
多次元リゾームから多次元リゾームへの道だ。
リゾーム・リゾームと名づけている。

これに対し、百丹三元など、いったん幾何学的な三次元方向にからだを解きほぐしてから、
サブボディの探体に入るのは、ツリー・リゾームの道だ。
まだ意識が十分鎮まらない日常のからだから、
意識にも分かりやすいように
一度ツリー上の三次元の抽象的空間の中に日常体の癖を解きほぐしていく。
このツリー・リゾームの道を通るか、
リゾーム・リゾームの坑道にいきなり入るか、どちらもある。
からだに聴きながら、両者をフレキシブルに併用すればいい。

囚われず、こだわらず、流されず。
風のリゾームになる。
春がそれを応援してくれる。


(今日の日記は「共振塾ジャーナル」に転載した。そちらの方にふさわしい内容だからだ。
だが、昨日や明日以降の「からだの闇」の内容とも密接につながっているので、
ここにも載せておくことにする。
からだの闇のリゾーム上の坑道は多様多次元でつながっているので、
一筋縄ではいかない。
無数の坑道が絡み合い、分岐しあい、よじれあっている。
だからこそ、この探索は一度始めたら止められないほどおもしろいのだ。)

2008年2月28日

数年で一度級のひらけ

明け方、サブボディに耳を澄ましていると、
うれしい気づきが訪れてきた。
去年の授業が終わった後、この冬こそは、
去年の冬休みに書こうとしてほぼ大部分できあがっていたにもかかわらず、
書ききれなかった『透明論』を仕上げようと思った。
日本へ行く前に少しだけでも形を作っておこうと、
方法論の部分だけをまとめてアップした。
だが、旅先のネット・カフェでそれを読み返してみると、
なんだかまったく気に食わない。
何が気に入らないのか分からなかった。
今月、ようやく落ち着いてきたので、昨日からその続きにとりかかろうと、
これまでのノートやメモを読み返した。
構成は混沌としているが、内容はかなりできている。
だが、まだなにかがすっきりしない。
これまで書いてきたものは、自分が本当に書きたいものから、
薄ぼんやりとした不透明な膜で隔てられているような気がした。

明け方、これまでの『透明論』がぶち当たっていた壁は
わたしの中にあったことに気づいた。
わたしは、『透明論』をそれ以外の考察、生命論、共振論、クオリア論、
舞踏論などに対して、
認識論にあたるものとうっすらと位置づけていた。
それが壁だった。『透明論』はこれまでの人間の知の様式をを
根源的に覆そうとするものなのに、それを従来の哲学の範疇内の
認識論にあたるなどと位置づけたことがぼんくらだった。
それによって、従来からある認識論という
元型的制約の虜になってしまっていたのだ。
一月に書いた文も、方法論と呼ぶことによって、
堅苦しい枠にはまってしまっていた。

そんなふうに従来の哲学や学問の枠に囚われるのではなく、
その枠自体を突破しない限り、なにも透明にならない。
認識論や方法論がまずあるのではなく、
サブボディの実践の中に、すでに透明論で書こうとしていた
異次元開畳や次元数の増減という手法はすでに立ちあわられていた。
ただ、それを捉え直し、書けばいいのだと気づいた。
実際に行っている実践と認識を切り離すと、
従来からの二項論理の罠に陥る。
実践しながら、同時に書き、
二つを一個二重の過程として統合しながら、
その罠をかいくぐっていくしかないのだ。

たとえば、これまでも行ってきたからだの闇に耳を澄ますということは、
からだの闇という非二元かつ多次元で変容流動しているものの中に、
まずは体感チャンネルにおけるサブシグナルを捉えるという
生命にとってもっとも基底的原生的なクオリアを
意識にとっても捉えることのできる
単次元チャンネルから捉えていこうとするものだ。
これこそ、透明論の主題のひとつとして書こうとしていた
ツリーリゾーム変換そのものであり、
生命やサブボディが属す多次元の次元数を、
単次元に次元数を削減して始めることだ。

体感チャンネルには、無数の単次元が含まれている。
生命と重力場との共振の中で生まれる、重い・軽いという重力の次元、
温かい・冷たいという温度の次元、硬い・柔らかい、
鎮まっている・ざわめいている、
痛い・かゆい、などなどの単次元が含まれる。
それ以外にからだは言葉にできない無数の微妙な体感の次元をもつ。
この世界に触れることによって、意識に住み着いている二項判断は、
二次元や三次元の低次元においてしか成立しないことが分かる。
重い・軽いは重力の次元においてのみ意味を持つ。
重い・軽いの二項判断を
温かい・冷たいという温度の次元に持ち込んでも意味をなさない。
明るい・暗いの光の次元でも働かない。
生命が感じている体感クオリアは、
実際は無数の多次元の要素を同時に感知しつつ流動しているが、
意識がこれを捉えようとした瞬間、
次元数を削減した低次元に変換して捉えてしまうのだ。
意識ががんばってできるのは、
かろうじて少数の単次元のクオリアを、加算する程度のことだ。
重くて温かい、重くて温かくて暗い、
……二三の次元ならかろうじて捉えられる。
だが、それ以上加えていくとだんだんわけが分からなくなる。
重くて温かくて暗くて柔らかくてかゆくて膨らんでいる……

ストップ!
意識がそれ以上無理をすることはない。
あとはそれらの多次元体感の専門家である下意識や
下意識のからであるサブボディに任せればいいのだ。

意識はこれまでの判断者の位置から、
サブボディに耳を澄ますリスナーの位置へ引き下がればいい。
下意識やサブボディは意識のように二項判断に囚われず、
多次元世界で自在に変容流動している。
ただそれに従い、見守り、楽しむだけでいい。

わたしは、これまでの透明論の書きかけをすべてくずかごにほうりこむ。
からだの闇を探る中で、闇に闇文字で書き直していこう。
まとめるのはまた来年以降でいい。


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