2020 |
←BACK ■ NEXT→ |
からだの闇を掘る |
少女/土方巽 |
「赤い神様」とは何か
2012 年の 4 月第 1 週、共振塾ヒマラヤでは土方巽の最後のソロの舞踏譜、『静かな家』の体読に取り掛かった。 もう 3 年目になるので、これまでの解読や朗読の段階の次に、一つひとつのセンテンスが含む深いクオリアを動きの中で追体験し、自分固有のクオリアを見つけ出していく体読技法が見つかってきた。 「共振塾ジャーナル」に掲載したものを加筆訂正して、ここに「舞踏論第 2 部 静かな家の体読法」としてまとめていくことにする。 1 週間で進んだのは、小見出しも入れてたった次の 7 行だ。 1 「赤い神様」 雨の中で悪事を計画する少女 床の顔に終始する さけの顔に変質的にこだわる ○はくせいにされた春 182
○気化した飴職人または武者絵のキリスト まず、第 1 節の小見出しになっている「赤い神様」をからだでつかむまでに、3 月いっぱいをかけた。これは日常体にとっては、まったく未知の、方向も行く先も分からない、生命の非二元かつ多次元共振世界の暗喩だからだ。そこでは、日常世界ではくっきり分かれている自己と世界が、混交して一つになる。その混沌世界の旅人になるためには、長い準備が必要とされる。フクシマショックから始まった世界のクオリアによって、自己に関するクオリアが異常に圧迫され、その中で自己とは何か、世界とは何か、いのちとは何か、に関するクオリアが、通常の日常世界の安定を喪失し、何かわけの分からないものに突き動かされ、翻弄されているクオリアを味わう<世界自 己混濁体験>が必要だった。 「赤い神様」とは、まさしくその混濁そのものだからだ。 自分ではない、わけの分からない何ものかが、自分を突き動かして踊っている。その何ものかを、土方は「赤い神様」と名づけた。 土方がこの最後のソロを踊るまでには、7 歳で愛する姉が目の前から消え、数年後に死体となって戻ってくるという、かれにとっての最大のトラウマの呪縛力と格闘する 37 年間が必要だった。姉が移住した神戸にその年の夏、土方は単身会いに行っている。姉は、圧化粧と豪華な着物に身を包んでいた。(なぜ、愛する姉は目の前から消えたのか? 誰が姉をわたしから引き離したのか? 姉はいったい神戸で何をしていたのか? あの化粧と着物はいったい何を意味するのか? なぜ姉は死なねばならなかったのか?) 何がいったい、わたしたちの運命を翻弄しているのか? そういうわけの分からないものに突き動かされているという、土方の生涯のクオリアが「赤い神様」という言葉が暗喩しているものである。 土方は、あらゆる年代で無限回、自問自答を繰り返し、無限回、姉の夢を見、姉が見たかもしれない夢をたどったことだろう。 成人してからは、姉が故郷を離れざるを得なかったのは、第 2 次世界大戦を遂行する日本国家が、徴兵した兵隊の性欲を定期的になだめるために設け 183
た慰安婦という戦争政策の犠牲になったのだと理解することができた。 でもそれで収まるはずがない。 無数の見も知らぬ男たちの性欲が通過して、姉のからだはいったいどんなひどい悪夢に見舞われただろう。40 年に及ぶ姉のいのちの追体験が、1 行目に結晶した。 雨の中で悪事を計画する少女 床の顔に終始する さけの顔に変質的にこだわる 悪事とは、誰かわけの分からぬものに対する、生命のよじり返しの発露である。復讐しようにも、相手は日本国家である。いったい何ができるというのか。 だが抑えようもなくこみ上げてくる殺意を隠すために、顔は終始のっぺらぼうの床の顔を保たねばならない。隠そうとしても、さまざまな衝動がさけの顔のようにこみ上げてくる。からだの輪郭が、いつのまにか少女から獣の輪郭に変容してしまっている。 1973 年の夏の嵐の中のソロ「少女」の冒頭で土方が踊ったのは、そういう不可避的な、隠すことと、見せることの矛盾である。 土方が逢着した最後の踊りのモチーフを理解するには、それぞれが自分の人生の全体もまた何かわけの分からぬものに規定され強いられ、突き動かされ、翻弄されていることを体感としてつかむ必要がある。それがフクシマショック以来、わたしたちが体験した疾風怒濤のような一ヶ月だった。 舞踏譜は、からだで読むものだ。 静寂体あるいは灰柱で歩きながら、舞踏譜の言葉によって励起される内クオリアを、忠実にたどる。微細なサブシグナルを感じたら、それに脳心身全体でなりこんで、からだの動きにまで増幅いく。 す 生命の持つ共振性を全開する。途中で自分固有の記憶や想像に摩り替わっ ていっても、一向に構わない。というより、それを増幅して自分固有のクオリアを探る。それが、踊る際の血液になるのだ。 他人から注入された血液のままでは、自分の生命の踊りにはならない。まして、舞踏の元型である元型クオリアに従うだけでは、血液が凝固する。固 184
有のクオリアを探り、生きたサブボディ・コーボディの血液で、世界でたった一つの踊りを創る。 からだの闇のクオリア流が、唯一無二の結晶体に結晶するまで磨き上げる。 それが創造である。 生命のとうとうたるクオリア流の遺産を引き継いで、創造が生まれる。その創造を、わたしたちは生命に返す。それが舞踏公演であり、ワークシ ョップである。決して、自分の自我や自己の表現などではないのだ。 そして、やがては自分が受けとった創造の技法を、ほかの人の創造の胎児が無事生まれるように助ける産婆へとつなげていく。 これが土方の舞踏譜を、創造の無限宝庫に転化していく体読法である。『静かな家』を体読するとは、土方から渡されたいのちのバトンを受け継ぎ、創造的な生命共振のリレーに参加することなのだ。 ○はくせいにされた春○森の巣だ、目の巣だ、板の上に置かれた蛾○気化した飴職人または武者絵のキリスト 続く 3 行は、土方の姉と土方が体験した姉の見ただろう悪夢の中の布置である。 はくせいにされた春とは、姉が見ただろう悪夢と、土方自身が襲われた悪夢が渾然一体となった、非二元世界の風景の暗喩である。姉が持っていた暖かいもの、生気にあふれたもの、姉の青春、姉の貞操、それらすべてが無残 はくせい にも奪われ、剥製にされた春の中に、はめ込まれている。 その中で目は腐り果て、替わりにからだじゅうの皮膚が目となり、周りのわけの分からぬものが潜む、森の巣と共振している。 森の巣とは無数の森が重層し、混濁一体化して、わたしたちを取り囲んでいる状態、目の巣とはからだに生えた無数の第 3 の目を指している。 舞踏譜の別の場所では、目の巣から複眼、そして皮膚への参加と深化されていく。 皮膚への参加とは、サブボディ技法における秘膜において、生命と世界の間で起こっている多次元共振をそのまま受け取る生命になることだ。 板の上に置かれた蛾とは、そういうごくごく微細な共振で震えている自分 185
であり、また死んで板戸の上に横たわって運ばれてきた姉の記憶と重なっている。
森の巣と目の巣が空間的な世界=自己像の、多次元かつ非二元共振を表しているとしたら、次の、飴職人-キリスト-武者絵とは、生命の細胞に内クオリアとして刻まれた記憶が時間の中でめくるめき変容を遂げるさまを暗示している。
若いころに働いた飴をつくる職場の友人の顔は、記憶のおぼろげな想起の中で、キリストにも変容し、武者絵の中の表情ともだぶってくる。クオリアの無限変容性を、ここでは指し示している。
夢や想像や妄想の中で、あらゆるものがあっという間に別のものに変容することを、わたしたちは毎日体験している。ときに徐々に変容し、ときに瞬時にすりかわる。ただ、意識はその変容を認めると現実的な統覚を失うので、無意識裡に無視することによって頑固な自分を保っている。
自我やアイデンティティとは、その強固なよろいを形成する現代最大の元型である。人間としての意識を止め、微細な生命になりこんだときにだけ、その無限変容を受け入れることができる。土方舞踏はそれを要求しているのだ。 |
雨の中で悪事を計画する少女 土方は 11 兄弟の末っ子に生まれた。 戦前の日本で、7,8 歳の子供が秋田から神戸まで旅をするのは、どんなに大きな冒険だったか計り知れない。後年、土方はその冒険を振り返って、姉が思いのほか派手な化粧と派手な着物を着ていたことを語っている。 着るものでもみな昔の柄です。銘仙なんかでも頼んで捜すわけです」 また(何度も書くが)、公演「風だるま」でも、より詳細に語っている。 長年わたしは、土方と、そのからだの闇の死んだ姉との交感に耳を澄まし続けてきた。そこではどんなことが起こっていただろうか。何 10 年もそれを続けていると、もうどんな不思議が起こっても何の不思議でもないことが分かってくる。 とは、からだの闇が一つになり、両者の夢さえも溶け合ってしまうことなのだ。 地底深くの深成岩の晶洞で、長い年月をかけて鉱物の結晶が析出していくように、姉のクオリアはからだの闇で発酵し、腐敗し、そして、きらめく創造へと変成した。 「雨の中で悪事を計画する少女」
雨の中で悪事を計画する土方の姉が、それ以後すべての舞踏譜の変容を担っている。 二百数十行にわたる舞踏譜は、実に多彩な内容を持つ。だが、それらのすべてがこの第 1 行目のモチーフと深く多次元的に共振している。 共振には、主語も客体もない。 大野一雄は、やはりかれのアニマとなったアルヘンチーナに出会ってから、それを踊るまで 50 年かかっている。「わたしのお母さん」で、もう一つのアニマである母を踊るまでには何と 80 年だ。 何 10 年単位というタイムスパンで、人生に起こることがある。アニマへの囚われと、そこからの解放にはそれぐらい長い時間がかかる。人がそのいのちを生ききるために必要な、たった一つの踊りに出会うのは、そういうタイムスパンで人生の全体を見たときに、はじめて透明に見えてくるできごとなのだ。 |
映画『君が死んだあとで』予告編 1967年10月8日、ベトナム反戦闘争で死んだ山崎博昭をめぐる50年の対話 |
いまから50年前アメリカのベトナム植民地支配に対するベトナム人民の独立闘争とそれを支援する若者のベトナム反戦闘争の中で、18歳の学生・山崎博昭君が死亡した。この映画はその死の意味を50年以上も問い続けた同時代の人々の内なる死者山崎との対話の記録である。 |
2021年2月19日 時代の証言集 映画『きみが死んだあとで』がまもなく全国上映される。それに伴って映画の中で行われた、わたしを含む8人の山崎博昭に関わる友人たちのインタビューが書き起こされて書物として発行されることになった。このほど映画監督の代島氏から、著者校正のための原稿が送られてきた。それを掲載します。映画と本のなかでわたしは当時の名前、岡龍二で登場している。 護送車のバックミラーに写った顔を見たら憑かれた顔で 「これが二十歳の俺なんやなあ」って。 岡 龍二さん (大手前高校の同学年) 十三番目に撮影したのが岡龍二さんだった。大手前高校時代に山﨑博昭さんも参加した「マルクス主義研究会」の中心メンバーは全 員撮影したかった。岩脇正人さん、佐々木幹郎さん、北本修二さん、向千衣子さん、三田誠広さん、黒瀬準さん、そして岡龍二さん。岡
さんはインド北部のダラムサラで舞踏学校・共振塾を主宰していた。 ぼくとカメラマンの加藤さんは2019年 4 月中旬、ニューデリーへ飛んだ。ニューデリーーダラムサラ間の移動にはもっと時間 がかかった。険しい山岳部を抜ける深夜バスに揺れること 10 時間、ぼくらはほとんど一睡もできずに朝陽を浴びたダラムサラのバス停に着いた。ダライ・ラマ 14 世が暮らす亡命チベット人の街には、日本とは違う「気」が流れていた。 ヒマラヤ山脈をのぞむ岡さんの舞踏学校兼自宅の建物は「ハウルの動く城」を思わせた。そして、岡さん本人は城を動かす火の悪
魔・カルシファーのような不思議な、そして魅力的なひとだった。岡さんを撮影する前に、ぼくは複数の高校同級生から岡さんにまつわるエピソードを聞いていた。それはすべて「貧乏物語」だった。 「京大を受験するときに受験料が払えなかった。だから、友だちみんなでカンパした」とか「電車をキセル(無賃乗車)して駅員に捕まった」とか。父が消えてからは、母親が女手ひとつで男の子三人を育てたという。岡さんはその長男だった。 1969年の『アサヒグラフ』に掲載された原稿で、岡さんは高校時代の山﨑さんをこう描写している。 《デモがあったあくる日、奨学金を受取りに行った学生部の窓口の前で偶然出会ったぼくらは、お互いの機動隊に蹴られた足の傷やアザを見せ合いながら、「昨日は酷かったなあ」といって話し始めた。 「やっぱり貧乏ってことかなあ」と、もらったばかりの三枚の千円札を恨めしそうに眺めながら闘いの動機を語り始めた君に、僕は共感してしまった。》 岡さんはいまも山﨑さんに共感しながら、「山﨑博昭の記憶」を 踊りつづけている。 |
毎週末、一年中、金曜日は午後3時から5時でパフォーマンスしてるんですね。今週は「山﨑デイ」で、山﨑に関してあれこれやってきたんですけども、山﨑が無意識のうちに僕にくれたのがリゾーミングテクニックっていって、小さな部分から見えないくらいの変容が起こり、それが知らんまに身体の全体に広がっていく。そうした、じわっとした変容が 20年前に突然身体に降りてきたんですわ。 岡さんのインタビューはインドのヒマラヤの麓にある舞踏学校を 訪ね、まず彼の授業を見学した。 今日は、山﨑からもらった僕のギフトを生徒に返す、みんなと シェアしたいっていう授業をしました。最初はちょっと恐ろしかったです。なんか自分と違うものが自分のなかで蠢いているって感じがね。大昔のひとは「憑依」とかいって恐れたんですけども、いまの僕は「命のクオリア」、共振が起こっているってことなんやと 思っている。僕のなかで、山﨑の記憶が延々と
50年続いています。 学校卒業してから 40になるまで、20年間は京都によう帰らんかったんですわ。一歩でも足を踏み入れたら怖いことが起こりそうなんで。40過ぎだったかなあ。もう子供も大きくなって、ひとりになって何をはじめようか。そう思ったときに舞踏やなって。当時、舞踏のワークショップは京都にしかなかったんですよ。 山崎が僕のからだ体に降りてきた それで京都に移り住む。いろんなワークショップにも参加するという段になって、京大のそばの浄土寺っていうところに家を借りて移り住んだんです。ところが一晩目から魑魅魍魎みたいな悪夢が毎晩やってきて、眠れへん。ヘトヘトになってた。悪夢を見るっていうのも生命共振で、自分のなかの忘れていたクオリアが夢になって出てきてるんやなって。そういうふうに受け止めることができていたんで、恐怖はなかったんです。 というのも僕のおばあさんがね、和歌山の町の口寄せ巫女みたい
なシャーマンやったんです。いつも町内の地蔵さんの守りして掃除 したり、拝んだりしていて。町の人がやってきては「死んだおじい ちゃんに会いたいんだけども」と言われると、ちょっとあれしてた
んです。僕が 4つか
5つのときにおばあさんとよその家に行って、祭壇作って、線香を燃やし、鉦や太鼓を叩く。そのうち突然「お前、ワシをいじめたな」とかいうことを言うんですよ。そしたらその家
の人は「おじいちゃん。ごめん」と泣き出す。それでスカッとする んです。 嫁と姑とか、嫁とおじいちゃんとか、家々のストラグルをばあさんは全
部知ってるんですよ。どうしてかというと、地蔵守りしているから。そこでみんな悩みを言いにくるんです。子供の僕は「何が起こって
いるんやろ」と不思議だったんですけども。 きっかけは、二十歳を過ぎた、21か 2 の頃に、はじめて土方さんの舞踏「燔義大踏館」が京大の西部講堂に来て公演したことが あったのを、当時身重だった女房と見に行ったんです。そうです。もう学校をやめて、子供のために働きはじめてた頃です。 土方のことは高校生のときから知っていたんですよ。『鎌鼬』っていう写真集が評判になって本屋に山積みしていたんですよね。僕はお金ないから買えへんけど、すごいやつがいるなあって。そういうふうに土方の世界には若い頃から馴染みはあったんです。71年か 72年に京大へ来てパフォーマンスしたときは西部講堂は千人くらいのキャパなんですが、そこに二千人が入った。舞台の上の三分の二にも観客が座るもんだから、踊るところがないくらい凝縮した、 活気にあふれたパフォーマンスやったんです。 僕の記憶ではね、床下とか壁とかに戸板を貼り付けて、その下から隠れていた舞踏家が出てくる。「水俣の手」がすごくクリアに僕の魂を打ったんですよ。僕らはもうだいぶ前から水俣病がはじまっているのを知ってましたけど、ベトナム反戦とか安保反対とかの運動のほうが火急の課題だと思っていたので、これが終わったらすぐにかけつけるんで、と。だけども土方さんのを見て、舞踏というのはこんな形で水俣の人とか、障害をもった人とかと共振することができるんやなって。ガーンと影響を受け、いますぐにでも舞踏家になりたい。帰り道には踊ってた。 それを見ていた女房が「あんたはまだ踊ることはできへん。子供育てる義務がある」と言うんで、25年間はコピーライターをやったんですけどね。子供も大きくなり、離婚もして、一人になった。何しようとなったのが 30代の終わり頃だったか。(この文削除) 一人になったらもう何して生きたらいいかが全然わからへん。 酒ばっかり飲んでぶくぶく太って、狭心症とか痛風とかの怖い病気になったんですよ。このままじゃ死んでしまうとなって水泳をはじめ、仲間とトライアスロンはじめ、今度はただただ体を鍛えていたんです。アホみたいに。何したらいいかわからへん。この空っぽの体に何ができるんやろう。 さいわい身体のほうはまだ 20代くらいの体力をもってたんで、踊りやろうか。ようやく舞踏家になることを決めたのが 43か 4 です。土方さんはもう亡くなっていたんですけども、土方さんに代 わって大野(一雄)さんが脚光を浴びはじめていた。80の人が 踊ってるんだったら、40の俺にも踊れるやろうって、励ましにな
りましたね。もちろん何度も観に行ったんですけども、身体はヨボヨボでも胸を打つんですよ。 それからダンシング・コミューンっていうネットワークを作って
いたんですね。世界中に二百人くらい振付家とかダンサーの友達が おって、その伝手を頼って、日本からタイ行って、インド行って、 フランス、スペイン、いろんなとこで踊り出したんですよ。もう止
まらへんのですわ。踊りはじめて数年しか経っていない素人なのに、なんか止まらん勢いになって、3年か4年あちこちで踊って踊って
ました。汽車で 10時間移動してはワークショップするという生活 を続けたんですけども、そのうちにヘトヘトになってきてましてね。ある日、気づいたんですわ。このままアドレナリンモードを続け てたら、お前死ぬでって。そこで次の地を探し始めた。 なにもないヒマラヤに移住 ベネズエラの広場もよかったな。タイのあそこもよかったな。そんなこと考えていたうちのひとつがダラムサラで。ここはもう何にもない。山しかない。食べ物はものすごく貧しい。海からも遠いから。 僕、和歌山で育ったんで魚が大好物なんだけど、魚なんか全然手
に入らないから胃袋には我慢してもらった。でも、ここは人がいい んですよ。ダライ・ラマがちょうどノーベル(平和)賞をもらった 後に世界中から面白いやつが集まってきてたんですわ。街でちょっ
とチラシ貼ったら、ワークショップの参加者が来る。ここやったら、やっていけそうやと。 2001年ごろですね。一年くらい場所を探していたら、30年(借地)契約、インドのお金で 6ラック。1ラックは20〜30万円くらいで、建物建てるのに 30ラックくらいでしたね。 日本を飛び出す動機になったんは、日本は情報が緊密でスピードもすごく速い。もう耳をすます余裕がないんですよね。そやから、次に住みつくところは身体の闇に耳をすませることのできる、何もないところがええなあ。ここは、静かな上に人が集まる格好の場所やったんで決めました。 踊りがからだから出てくるに任せる ←ここから 共振塾では瞑動という動く瞑想で、下意識モードの体になります。するとそこからいろんな動きが勝手に出てくる。昨日の授業中でも生徒のからだやお互いの間でいろんなことが起こっていたでしょう。振り付けた踊りよりもそういう踊りの方がもっと面白い。なんせ一人の演出家が振り付けようと思っても限られていますよね、創造力が。でも、全員が命の創造力を全開にしたら、ほんまに予想もしないことが起こるんですよ。 このやり方が未来をたぶん予感してるんちゃうか。これは踊りだけじゃない。音楽とか、他の芸術、インスタレーションとか、あるいはもっと社会運動とかにも広がる可能性はある。もう昔みたいなツリー(ピラミッド型の階層秩序)にツリーでぶつかるみたいな政治運動はまったく無効やと思っているんです。 ええ。質問してもらっていいですよ。僕が踊ってる「山﨑リボー
ン」(身体に泥土を塗りたくって踊るパフォーマンス)というのは、 「山﨑生き返れ」と山﨑の墓名碑を石で叩く。はじめはそうだったんですが、革命の心とか、未来
を作るんだとか、若い心の生き物みたいなのを忘れているかもしれ へんので、それを思い出させるために自分を叩いていたんですよね。 ヒマラヤでやっているのは、思考を止めるということが日本にいてたらできるわけないんですよ。ここへ来たらほんまになんもない。日本の友達とも音信不通。小さい観光の街ですけれども、街からも 離れていて、山しか見えへん。そういうところだからこそはじめて、ここで思考を止め、ただ身体を揺らすことができた。 瞑動という動く瞑想で下意識のからだになる この方法は「瞑動」っていうんですけどね。動きながら瞑想やっているうちにだんだん思考が止まっていって、身体の忘れてた細胞とか、瞬間的にくるものに耳をすますことができるように
なったんですよ。これは体感だけでもないし、想像力でもない。夢でもないし、妄想でもない。なんかわからん。そのわからんものが自分を動かして、下意識の世界から自分を突き動かして、わけのわからん動きが突然出てくるんです。「ペルソナ」っていうか、ここへ来たら社会的な仮面は必要ないんで、それを脱いでしもうたら、ずうっと自分のなかで眠ってた悲しい記憶、3歳のときに母親に捨てられ、わんわん泣いてた自分の記憶が出てきて、それが踊りになっていくんですよ。 僕は 3歳までは母親に可愛がられ、ものすごいふわーとした幸せな自分がいたのが、突然それが崩れてしまう。母親に捨てられ、おばあさんを「母親」と信じてなついている自分がいてて。おばあさんが僕のことを、名前は「龍二」なんですけども、和歌山弁では 「じ」が「り」になって「りゅうり」になる。おばあさんになついている「りゅうり」という人格がいて、その「りゅうり」もまたおばあさんに裏切られ、突然母親のところへ連れていかれ、そうすると母親は僕のこと「りゅうじ」と呼ぶ。 今度は「りゅうじ」という小学校頃の人格ができて、この「りゅうじ」時代にある日、母親と父親が「兄貴の家へ売ってしまおう か」という話しているのをたまたま聞いてしまう。それで「りゅう じ」は大人のいうことは絶対に信じられへん。ものすごく用心深く、 疑い深く、耳をすます子になるんです。 でも、学校の勉強は平気でできていた。でも、その裏には「りゅうり」がひっついてるんですわ。賢いふりしてるけども、おばあ ちゃんに抱きつきたい「りゅうり」と「りゅうじ」の二重性が中学、高校に入っても続いてました。 なぜ反戦運動や革命闘争を始めたか そうそう、その話ですよね。運動に関わるのは高校に入る前、中学くらいから母親が 60年の安保闘争のデモに参加していたこともあって、この日本の資本主義社会って間違ってるんちゃうかとは
思っていた。特に自分は貧しい家に育ちましたから、中学 1年から2年にかけてそっちの方面の本を読みだすんです。ロシア語を勉強しはじめたりしてね。 高校は大阪の大手前高校へ行ったんですけども、中学時代に共産党の学生組織の「民青」に入ってましたし。地区の共産党の活動家の家に行っては、毎週ミーティングに参加してましたわ。そやから高校入ったら民青に入ろうと友達探したんですけども、勘違いして
いるような子たちばかりで、どうも合わへん。探したら面白いクラ ブがあって、佐々木(幹郎)が部長になっている美術部に入ったり、 「社研部」。社会科学研究部ですね。岩脇(正人)がそこの部長
やったんですけども、出入りするようになったり。僕自身は文芸部の部長をやって読書会などを主催してました。ほかにも、僕は小さい頃から新聞配達してたんで、走るのが好きだったから陸上部にも入ったり。4つクラブを掛け持ちしていたんで、忙しい放課後生活を過ごしてたんです。 それで社研部の岩脇と一緒にマルクス主義研究会っていうのを
作ったのが 2年のはじまりくらいやったかなあ。ポスターを学内に貼り巡らしたら 10人から 20人くらい、基礎的なマルクス主義の文献を読むグループができたんですわ。あの頃、反戦高協を作ろう かっていうようなことは、たぶん日韓闘争のあとやったと思うけど。岩脇が議長で、僕が書記長。大阪中の高校の社研とかあるところへ
行っては「反戦高協入らへんか」って。文芸部や新聞部をオルグに 行きました。その結果、他の学校からも反戦高協に入るようになっ て、二百人くらいが集まる組織が3年の頃にはできていました。 正式な名称は「ベトナム戦争と植民地主義に反対する高校生協議会」。それを縮めて反戦高協なんですけど、岩脇はどっしり座ってこうしてるやつで、外へオルグに行くのは僕でしたね。夏休みには大阪の高校生代表として広島でやった全学連大会にヒッチハイクして、トラックの後ろに乗せてもらって行きました。東京の全学連大会には東海道線をキセル(無賃乗車)して、あのときは 20円の切符拾って改札を出てましたね。 京大には一年浪人して入るんですが、浪人時代の最初の半年は工場で働いたり、ペンキ塗ったり、溶接したり。昼間はいろんな仕事をしながら夜ちょっとだけ勉強する。そんなんやったんですが、10 月 9日に大阪の街をやがて女房になる女性とデートしてるときに同級生と出会って「山﨑、昨日羽田で死んだぞ」と聞かされた。そうしたらもう突然モードが変わってしまった。なんとしてでも京
大へ入って、山﨑の仇を打とうというので受験勉強に没頭しだした。戦闘モードというか、復讐モードというか。だから大学に入った 途端、そういう戦闘モードの自分が自我の中心でオルグしてゆく。死にもの狂いで。でも、こんなやつはなかなか死なんもんでね。 当時は毎月のように反戦デモの連続で朝早う起きてビラをガリ版で切って、印刷して。朝校門に立って学生に配る。授業が始まる前には各クラスに行って、ガラス戸をがらっと開けるとマイク持って 「学生諸君、何月何日のデモに結集せよ。ベトナム戦争を黙って見て過ごすんかあ」と恫喝みたいなアジテーションをやってまわり、週末はデモです。山﨑の一周年デモは僕がデモ指揮して、途中でジグザグデモになった途端、警官に飛びかかられてパクられてしもうた。1ヶ月ほど、いや、あのときは 1週間か 2週間、留置場に入って。その次の10・21国際反戦デーは大阪駅前に全関西から集まった 1万人くらいのデモをやったんですけど、それもデモ指揮やってました。やはり警官隊とぶつかり合いになって、機動隊に追いかけられて捕まった。今度は 1ヶ月ほど留置場、いや拘置所やったな。 おかげで誕生日が 10月 23日なんですけども、21日のデモでパクられ護送されていく車内のバックミラーに顔が写っているんですけども、見たらもう闘いに取り憑かれた顔で「これが二十歳の俺なんやなあ」って。 山崎の他にも、橋本憲二、辻敏明と二人の親しい友が運動の中で死にました。橋本は反戦高協を一緒につくった北野高校の同志で、辻敏明は京大の僕の一年後輩です。ものすごい人格のええや
つでね。天王寺高校の剣道部のキャプテンで、恰幅もいい。男前で、強いし。僕が一番かわいがってました。デモなんかも何十回と一緒
に行って、いつも隣りに辻がいてる。辻が京大闘争で逮捕されて京 都の拘置所に入っているときには面会に行って、差し入れもしました。学内の状況を伝えると辻はキリッとして「一生懸命勉強しています」と言ってましたよね。 当時、中央の革共同の方針がものすごい軍事主義的で「一人一 殺」とか「滅私奉公」とか、太平洋戦争の日本軍のスローガンのようものが機関紙の「前進」に載ったりして。へんなとこへ行ってるなあっていうのは感じてました。そういう中央の方針への疑問と、もう自分の身体がもてへん状況になって活動を離れたんです。しばらくちょっと休憩しますみたいなものを、二回生のときに革共同に送ったような記憶があります。 それで辻が死んだとき(71年 12月 4日、革マル派の襲撃を受け亡くなった)はすごいショックで、大阪のコピーライターの会社に就職してて、京都の八幡に住んでいたんですけども。大阪の梅田駅で、昔知った後輩の連中がカンパしてるんですよ。「辻が死んだ」と亡霊のような顔になってカンパ活動している高校の一級下の連中とかに出会いましたが、「俺はいま何もできへんなあ」って。それから辻の死んだ情景を何度も、何度も夢に見るんですよね。 辻は剣道の腕立ってたからゲバ棒持ってもピカイチで、そういう強いやつだからみんなを逃がすために、最後の防波堤になろうとして何十人もに襲撃されて死んだんやろうなとか。 ああ、あのときにカンパしたかどうかは覚えてません。後輩で僕らのあとの反戦高協のリーダーだったやつと長話したんだけは覚えています。実際の襲撃された状況とかいろいろ聞いて、それがまた悪夢になってよみがえるんですけども。 それが僕のなかで無限にリピートして、踊りのなかに出てくるんです。抑えようと思っても、突然出てくるですよ。山﨑とか、殴り殺された辻とか。ヒマラヤへ来て日本から離れると、彼らがひとつのかたまりになって出てくるんです。あの時代が終わったあと、僕は領導した一人として、あの闘争の何が間違ってたんか。根本的に僕らが何に気づいてなかったから、ああなったんか。考えながら20代、30代、40代と暮らしてきたんですけど。僕は日本にいてる友達にも言いたいし、若い人にも言いたいんやけど、日本は絶対に捨てなあかんのですわ。日本にいてる限り、全然見えないこと、感じられへんことが多すぎる。 僕は日本を捨てて、命の震えみたいなものに耳をすますことができるようになったし、世界がくっきり見えるようになってきた。日本にいたら、もう自我自我の世界やから、命に耳をすますなんてことは絶対にできへんかったなあって。お願いだから、みんな日本出てくれ。なんで日本にとらわれてるんやと思いますね。 |
コンディショニング#3次元 |