2020

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からだの闇を掘る
 
からだの闇のトラベル・マップ
 
からだの闇の旅において、どういうクオリアに耳を澄ますべきか。この章では特に重要な3つのポイントについてガイドします。いずれも通常の言語意識の状態ではほとんど聞き取れないものなので、十分に瞑動を続けながら耳を澄ましてください。
2020年9月21日


第3章 耳を澄ます

瞑動

1.とても微細なクオリア

からだの闇の微細なクオリアに耳を澄ます

情報モードから、耳を澄ますモードへ

ヒマラヤと日本を往還すると、巨大なギャップに突き当たる。生命クオリアに耳を澄ましている状態と、情報に囚われている状態。ヒマラヤで十年かけて創った状態と、たった一月の日本滞在で陥った状態。この二つの違いに耳を澄まそう。一体なにが違うのか? いままでわたしは、日常体とサブボディモードの違いを単純に思考モードから傾聴モードへの移行と捉えてきた。人間であるという状態から生命へ。だが、日本で起こったわたしの脳心身の変化は、そんな簡単なものではなさそうだ。 一番顕著な違いは、受け取る刺激の基本レベルがまるで異なることだ。十年のヒマラヤでの瞑想生活でわたしはあらゆる外部からの情報を遮断し、言語を止め、ただただからだの闇の中のごくごくかすかな生命クオリアに耳を澄ますことに集中してきた。

情報モードのからだ

日本での一ヶ月の滞在中に受けた膨大な情報の刺激は、その生命クオリアに比べて何兆倍も強烈なものだった。それをひとたび受けてしまうと、それまで静まり返っていた脳心身が異様に興奮し、強烈な刺激レベルにだけ反応するようになった。これをさして情報モードのからだと呼ぶことにした。情報モードは、からだの闇に耳を澄ますモードに比べて何兆倍も粗大な刺激レベルにチューニングされている。このチューニングレベルを根本的に何兆分の一まで微細化する必要がある。

微細傾聴モードのからだ

新入生の多くも、情報洪水にまみれる欧米の先進国からくる。日本で情報に被爆されたわたしと同じ状態にあると見ていいだろう。新学期が始まるまで、わたしは情報被爆で火照って興奮した脳心身を鎮静することに務めた。そして、新学期が始まってからまず一週間はとことん静まり返った脳心身状態に導こうとプログラムを組んだ。といっても、考えて創ったのではない。ただただ生命に聴くことにした。毎朝即興で、練習場に降り立ったからだを生徒とともに鎮め切ることに費やした。生命の呼吸、共振タッチ、指圧、秘膜、秘腔、秘関 などかすかなクオリアに耳を澄ますことが自然と中心となった。そのおかげだろう。ほぼ生徒全員が日常体の思考モードではなく、すみやかに下意識に耳を澄ますサブボディモードになった。これまでの年の新学期に比べて、かなり穏やかな始まりとなった。

生命に耳をかたむけることがもっと大事なことだからだ。言葉による細かい指示はその傾聴モードを阻害するのだ。わたし自身が思考を止めることができずに、どうして生徒が思考を止めることができるだろう。できるだけ言葉少なに、できるだけただただ耳を傾けることのできるからだの状態へ、鎮静化すること。これに注力したのがよかったと思う。それと、練習中に言語思考が込み上げてくるタイミングをかなり的確に指摘できるようになった。自分の出番を待つとき、いろいろな判断に囚われやすい。他の生徒の踊りを見ているとき、批評家が出てきやすい。こういう二言論的な思考や判断が出てきそうなタイミングを見計らって、「思考や判断が出てきたら、そっと鎮めること」とタイミングよく促すのがいい。これは自分自身では一日に何十度もやっていたことだが、それをその都度生徒と共有するのがいい。

2.非二元・多次元のクオリア

非二元域に耳を澄ます

からだの闇は非二元である。日常世界のように内外、心身、自他という二元的な区別がない。体感チャンネルと運動チャンネルも区別されていない。

下意識のからだ=サブボディ=コーボディモードに入るとは、非二元域に入るということだ。下意識域では、下意識とからだは、意識界のように分かれていない。心身の区別も、内外、自他の区別もなくなる。過去と現在、類と個の区別も消えさる。それどころか、日常世界では体感、運動、視覚、聴覚、情動、対人関係、世界=自己、思考などに分化しているチャンネルの区別も消える。感覚と運動がひとつになる。だから、ゆらぎやふるえなどの動きに身を任せながらからだの闇を変容流動しているクオリア流に耳を澄ますゆらぎ瞑動などの調体技法が生まれた。

からだをなにものかに動かされるに任せながら、からだの闇に耳を澄ます。感覚と運動が分化する以前の非二元かつ多次元共振をしている生命クオリア共振に身を預けていく。サブボディ=コーボディになリこむとは、非二元域に降りることなのだ。

静かな場所をみつけて、座る。あるいはどんな姿勢でもいい。そのときどきのもっとも心地よい姿勢を見つける。そして、座った姿勢なら、からだを前後左右にゆらぎはじめるに任せる。横たわった姿勢なら、かかとを床につけ足を上下に震えさせる。ゆらぎや震えをからだ全部に通していく。もっとも気持ちのよい速度とサイズを見つけてその心地よさに脳心身すべてを委ねていく。動きと心地良い感覚がひとつになっていく。そのうち、どんな動きでもいい、なにか動きが出てきたらそれに従う。どんどんからだ全体を預け、乗り込んでいく。目の裏にイメージが浮かんでくればそれについていく。

身体から奇妙な声や音が出てきたらそれも解放する。からだの奥から訳の分からない情動が湧きだしてくればそれを踊る。ほかの生き物や人物像が感じられればそれと踊る。

身の回りの世界が、別の世界に感じられれば、その変容についていく。あらゆるチャンネルのクオリアが、境界を超えて共振し始める。自他の境界も消え、一緒に動いている人のクオリアがからだに入っていくる。主観と客観の区別もなくなる。自分で動いているのか、なにものかに動かされているのかも定かでなくなる。からだの闇で巨大な地すべりのようなものが起こった。これが共振塾ヒマラヤで毎日起こっていることだ。その非二元のカオスの中から必然の踊りを探りだす、一生続く長い旅がはじまる。

 

3.うまく共振できないクオリア

いのちがうまく共振できなかったクオリアを探る

自己不全感という最強のてがかり

からだの闇の中では非二元多次元のクオリアが絡み合いながら変容流動している。その間に微妙なギャップが生まれるとからだの底から不全感が立ち込めてくる。ごく微細な感じだが、そのサブシグナルは、何かがおかしいと告げている。こういうときは耳を澄ますチャンスだ。

 

一度も繰り返したことがないクオリアを探る

 「まだ一度も繰り返されたことのないものに出会うことによって、

あたらしい生の可能性を開くことができる。」(ジル・ドゥルーズ)

 『差異と反復』のなかのジル・ドゥルースの言葉を思い出す。 日常の自我や自己は毎日無数回同じクオリアを繰り返す。そして「自分」という幻想のアイデンティティを確認し続け、 無意識裡の反復によって自己を補強する。

これに対し、サブボディの探求プロセスでは、毎日違った坑道でからだの闇に潜り、まだ一度も繰り返されてないクオリアを掘り続ける。

この書の第4章以下に収められている多くの実技はすべて「思い出せないクオリアをからだで思い出す」ために工夫されている。そして、「まだ繰り返されたことのないクオリア」を探るものだ。

20年分の記録を総合すると、当初は1500ページを超えていた。そこから現在のページ数まで厳選した。どれも新鮮な体験が訪れるだろうことをお約束できる。お楽しみください。


 

 

 

 


 

 

 






 
瞑動=動く瞑想について 
拝啓

サブボディ技法は常に変化し、深まっています。
特に、最近では、瞑動技法や各種調体技法が新しく発見されました。解説記事とともに新しいビデオ講義シリーズを編集してアップロードします。
どうぞお楽しみください!

リー 
2020年9月16日

瞑動

サブボディ技法の最大の特徴は、瞑動にある。瞑動とは動く瞑想である。なにものかに動かされる瞑想というほうがより正確だ。

静かに座りあるいは立ち、横たわり、からだのいちぶが誰かによって見えない糸で何らかの方向に動かされていくのを感じ、それに従う。胸の糸によって前に動かされ、背中の糸が後ろに連れ戻す。じょじょに前後左右斜め、あらゆる方向に動かされるままに従う。ときには頭が床につくまで動かされ、自由になった脚が思わぬ方向に動かされる。床の上を転がされ、予想もしない姿勢になっていくに任せる。

動かされるに任せながら、同時にからだの闇のクオリアの流れに耳を澄まし続ける。からだのどこかの細胞が忘れていた生命記憶を思い出して、思わぬ動きが出てくるかもしれない。出てくる動きに判断抜きで付いて行く。それが今日のサブボディ=コーボディだ。動きが出てくるようになれば各自調体から探体に移って自由に探る。

 

瞑想状態の脳瞑動状態の脳

瞑想と瞑動の違い

第1章6の「瞑想と瞑動」の項で紹介したふたつの図を思い出してください。からだの動きを封じる古典的瞑想では、大脳の運動野と呼ばれる部分がまったく働いていない。それではいのちの全体的なクオリアに触れることができない。からだを動かしながら瞑想する瞑動によってはじめて大脳の全分野が活性化し、さまざまなクオリアが出会い、予想もできない<共振創発>が起こって新しいクオリアを生み出す。脳心身がもっとも創造的な状態になるのが瞑動の特徴だ。

 

 

 


 

 

 






 
 
日本の友人・読者のみなさま

温かいご支援ありがとうございます。
幸い、皆様のおかげで、大腸がんの手術は成功し、予後も順調に回復しています。ただ、すでにがんは大腸周辺のリンパ節にも転移しており、さらなる転移を抑えるために抗がん剤治療を続ける必要があります。すでに3ヶ月抗がん剤を受けてきましたが、その副作用は 聞きしに勝る激しいもので、 からだごとの拒否反応を示し、正常な精神生活を続けるのは難しい程です。
ですが、その困難と真向かい、毎日40分のジョギングを始めとするリハビリと次著の『生命共振哲学』の執筆を続けています。
この本はこれまでのわたしの生涯の探求と発見を統合するもので、クオリア革命、リゾーム革命、共振革命、生命革命など、全分野にわたって未来の世界を創るための変革を提起しています。
この本さえ書ききればもういつ死んでも本望です。あと二年間だけ生き延びることができるよう、みなさまのご支援を訴える次第です。ご支援者には次著完成次第、御礼に贈呈させていただきます。なにとぞよろしくお願い申し上げます。

リゾーム・リー (岡龍二) 
生命共振出版
 

舞踏革命・実技編

第4版

Kindle E-Book版 1742円

印刷版もまもなく刊行!

 
 
実技編・第4版より、ぜひお読みいただきたいエッセンスを紹介しています。

本日は、私たちの世代しか知り得なかったフーコー、ドゥルーズ、土方巽の

海を超えた同時代的生命共振の奇跡に触れています。
2020年9月11日

   胞衣(プラセンタ)に包まれた胎児

これらの不可視の皮膚(秘膜)を駆使していのちは外界と複雑微妙に共振している。秘膜感覚を目覚めさせることは、人間からいのちに変成するための、特別訓練でもある。胎児は次のような幾層もの秘膜によって守られ、それを通じて外界と共振していた。

 

秘膜各層の由来

秘膜は、生命がこの40億年間にさまざまに姿を変えてきた名残だ。多細胞生物の哺乳動物になっても、それ以前の生物段階特有の秘膜クオリアが生命記憶として刻印されている。尾がなくなった今でも尾の神経が残存し、それを活性化することで動きがずいぶん助けられるのはダンサーなら誰でも知っている。姿形が変化しても以前の生物段階の秘膜クオリアがからだの闇に深く残っている。各層の秘膜の起源と、その呼び覚まし方を述べよう。

秘膜第1層 胞衣(えな)層

哺乳類は胎内では、薄い胞衣(Plaxenta)と呼ばれる皮膜に包まれている。

出産時にはそれが破れるが、哺乳動物の親はそれを丹念に舌で舐め取り食べてしまう。これまで、触れるか触れないかの不即不離の距離、と呼んできた秘膜層の起源は胞衣にある。

出産後も、いわば第二の皮膚として、この秘膜は生き続ける。生命はこの胞衣層の秘膜で世界を感じ、共振している。物理的な触覚や痛覚に特化した皮膚そのものよりも、世界の微細な変化に対し鋭敏なもっとも深い感受性、受苦性をもつ。なぜなら、胎児時代には、からだが振動するより先に、

この胎児にとってもっとも薄い胞衣が振動し、胎児へのショックを和らげ、吸収し、胞衣の微細なふるえを通じ、胎児は世界の微細な変化と共振していたからだ。初期の胎児は五感は分化せず、この胞衣層の世界覚とともにすべてのチャンネルのクオリアが一体的に共振していた。おそらく胞衣は、体感から世界チャンネルのすべてのクオリアを分化せず一体化して受け取っていた単細胞時代の原形質膜に起源を持つものだ。

生命はある時代の感覚器官を失っても、脳内にはそれに対応していたグリア―ニューロンの神経細胞が生き残っている。クオリアを保存しているグリア細胞は胞衣がなくなったことを知らない。尾がなくなっても尾のクオリアを保存しているグリアはなくならない。手足をなくしたとしても、幻肢という感覚が残存するのはそのためだ。五感に分化した感覚と、胞衣の非二元的な世界知覚は大人になっても共存し、たえず共振して総合的に世界を把握している。この胞衣の距離で不即不離のコンタクトを行うと、だれでも胎児時代やそれ以前の生物段階のようなえもいえぬ夢心地に誘われるのはそのためだ。

 

秘膜第2層 羊水層

胞衣の外側は、羊水層である。胎児時代だれもが十ヶ月この羊水とともにゆらいでいた。この第1層も古い起源を持つ。生命発生以来単細胞として大洋のなかでゆらいでいた大洋ゆらぎのクオリアに由来するからだ。大きな波に動かされる体感は心地よい。誰もが思い出せるのは、生命が40億年間も体験してきたものだからだ。

 

秘膜第3層 子宮層

胎児は胎水ごと子宮壁に保護されている。子宮はいわば安全を守る生命のシェルターだ。大きくなっても、ベッドの中や、個室、トイレ、風呂場といった小さな空間でくつろげるのは、そこが子宮に代わるシェルターだからだ。時にはこの層は家の建物全体や、庭も含めた敷地全体、住み慣れた地域全体にひろがることもある。

 

秘膜第4層 母体層

胎児にとっては、子宮の持ち主母親のからだが世界である。母親が感じているものは胎児も敏感に察知し共振している。その人の自我人格以前の性質(たち)と呼ばれるものはこの胎児時代の母体との共振経験に起源を持つのかもしれない。社会学では「個体間距離」という概念でこの母体層の秘膜距離を捉えている。

 

秘膜第5層 世界層

母体層のさらに外は未知なる荒野、フロンティアである。はじめて外国に行くときや、未知の文化に触れるとき、わたしたちはこの外世界層の秘膜に直面する。未知の土地を歩くとき、からだは無意識裡に交感神経モードとなりアドレナリンに満ちた警戒状態のからだになる。

 

 

 


 

 

 






 
多大なご支援ありがとうございます。おかげで生き延びることができました。 
2020年6月19日

ご支援ありがとうございました。

みなさまの温かいご支援によって、大腸癌の緊急手術を受けることができました。
いのちが一人で生きているのではなく、大きな命によって支えられていることを実感しました。
手術は、大腸のみならず、患部に癒着していた小腸、胆のう、小腸ヘルニア、食道狭窄拡張手術と9時間に及ぶ大手術となりましたが、経過は良好、今週帰宅することができました。
今後、ガンの転移を防ぐ抗がん剤による化学療法を受ける必要があります。
皆さまに甘えっぱなしで恐縮なのですが、引き続きご支援をお願いしなければならなくなると思います。その節はよろしくお願い申し上げます。
ほんとうにありがとうございました。

リゾーム・リー (岡龍二)




 
 Max Discharge Thanks for your support Japanese
 
2020年5月21日

緊急ご支援のお願い


 親愛なる友人・読者の方々へ

長引くコロナ禍のなかいかがお過ごしでしょうか?
未曾有の困難に深く共振します。
残念ながら、インドの2ヶ月間のロックアウト中にわたしのからだに予期しない異変が生じていたようです。
今週、私は内視鏡検査の結果、大腸がんを宣告されました。
でも無一文で、手術費もままなりません。わたしには友人・知人にご支援を願いするしかありません。できるだけで結構ですから、もう少し生き延びることができるようにご支援いただければ幸いです。やりたいことをしてきたので、いつ死んでも思い残すことはないのですが、現在最後の『生命共振革命』という本を執筆半ばです。この本はわたしの71年の生を総括し、世界の変え方に関してわたしがつかんだ方法を次世代に残そうとするものです。後少しだけ生き延びて、書き上げたいのです。ご支援いただいた方にはもれなく贈呈させていただきますので、subbody@gmail.com
までご住所を知らせください。書き上げ、出版次第お届けします。

下記のうち、ご都合のよい方法でお願いしたします。

1. SMBC銀行への送金

銀行名:SMBC銀行
支店名:京都支店
口座種類:普通
口座番号:5686713
口座名:岡龍二

2. PayPalならいますぐご自宅から送金いただけます

www.paypal.com を開きます。
サインインまたはログイン、
そして私あてご送金ください。
アカウント名:オカ リュウジ
Eメール:subbody@gmail.com

ご支援いただきありがとうございます!

リゾーム・リー こと
岡龍二


 
 共振ヨガ  
 2020年5月 15日  


共振ヨガ

 数年前から始めたことに、毎朝の共振ヨガがある。かつてはわたしか、ほかの産婆が毎朝の調体をガイドしていたが、 一人ひとりが自分や仲間のサブボディ=コーボディの誕生を助け合う相互産婆に生長するために、全員がそれぞれ短い調体を工夫し、それをシェアするようになったのが始まりだ。 そのためにも最初に述べたように、全員が調体を毎朝の習慣にすることが欠かせない。毎朝の自己調体で見つけたもっともいい方法を他の人とシェアする。これが共同探求、共同産婆の基礎となるものだ。

内にに半分、外に半分開く二重操作

ほかの人の調体を共有するとき、なにもしないでそれに従おうとすると、自我が起き出して、 批評や否定的な判断を始めることがある。退屈してそれに囚われることも起こる。その自我を鎮めるために編み出されたのが二重操作だ。 半分は他の人のガイドする調体に従いからだを動かしながら、もう半分は自分のからだの闇に耳を澄まして、からだの一部に別のクオリアの動きを付け加える。あなたのからだが同時に異なる二重のクオリアと共振している状態を創りだす。これは50%外に、50%内に開いている透明なからだの状態にもっていく稽古でもある。この二重操作を身につけると、共振ヨガを行いながら同時に自分固有の調体を探ることにもなるので、退屈に囚われることや、批評家が現れる余地もなくなる。

共振ヨガの中で、そレをガイドしている人のからだに入り込み、そのひとがどのようなしこりや囚われを解決しようとしているのか、共感的想像力によって、内側から感じてみてください。これは自分の問題だけに囚われるのではなく、お互いのサブボディ=コーボディの誕生を助け合う相互産婆になり合うための第一歩になります。




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背後世界 
 
 2020年5月 09日  


背後世界を踊る

いのちの世界は、日常的な人間世界とはまったく異なっている。目に見える世界だけではなく、目に見えない背後の世界と共振しているのが命だ。現代の人間世界は、物質的科学がもたらす共同幻想に侵されて三次元的な空間に時間次元がひとつ加わった四次元時空という狭い世界観に縛られている。それが現代人の合意的現実とされている。

だが、命は単に3次元空間や四次元時空に縛られてはいない。命は物質だけでできているのではない。命が感じるクオリアは、時空を超えて共振している。幼児期の母の声、胎児期の生命記憶、死んだ人の記憶とも強く共振している。命は人間サイズの個体だけが持っているのではない。からだを構成する100兆個の細胞一つひとつが命を持っている。それらは40億年前に地球上で誕生して以来、一度の死も体験せずに生き続けている。

すべての細胞の年齢は40億歳なのだ。人間の細胞だけではない。草木やアメーバやバクテリアの細胞の年齢もまったく同じ40億歳だ。すべての細胞には40億年間の生命記憶が刻み込まれている。これら細胞に生命記憶として保存されているクオリアを内クオリアと呼ぶ。記憶や夢や妄想や想像はすべて内クオリアが構成する幻想的な世界のバリエーションだ。そして、細胞は同時に身の回りのあらゆる物質やエネルギーと多次元的に共振している。重力のクオリア、日光のクオリア、空気のクオリア、匂い、音、味のクオリアと今ここで共振している。このいまここで物理的な外界の様々なものと共振しているクオリアを外クオリアと呼ぶ。そして、この外クオリアは、細胞内に保存された内クオリアとも絶えず二重に共振している。(クオリアを内外のふたつに分類するのは、日常意識にも理解しやすくするための便法で、実際はクオリアは内外などにこだわらず、多次元的に共振している。)生命は実に多数多様なクオリアと多次元的に共振しているのだ。

いのちの舞踏を踊ろうとするとは、この生命の多次元共振を踊ることだ。

生死を超え、時空を超えて共振しているいのちの不思議を無視して生命の舞踏はない。この生命の多次元共振を踊る技法が土方巽が未来への遺言として「静かな家」に書き残した「死者の技法」だ。

「死者は静かにしかし限りなくその姿を変えるのだ。彼等は地上のものの形をほんのふとした何気なさで借用することも珍しくない。」

土方はその世界を踊るために、目に見える世界の背後の、生命が共振している内クオリアからなる幻想的な世界を背後世界と呼んだ。目に見える物質的な世界と、目に見えない不可視の背後世界からなる多次元的な生命共振が起こっている世界像を確立した。

死者の技法の図地兆

死者はその両者を自在に行き来することができる。人間が踊るダンスの世界では、目に見える図と地のふたつを意識するだけでよい。目に見える物質世界は、ある瞬間に焦点が当たっていると焦点が当たっていない背景であるのふたつからなる。この両者は瞬間ごとに刻々と変化する。

だが、死者として舞台に立つ舞踏手は、目に見える図とそのバックグラウンドとなる地のふたつを踊るだけでは不十分である。生命は常に不可視の背後世界と微細に共振している。この微細な共振クオリアを兆しと呼ぶ。

図と地に加えて、不可視の背後世界からの兆しからなる三者を透明に制御しつつ変容する技法が<図地兆>である(第8章「図地兆リゾーミング)参照)。兆しはごくごく微細なクオリアなので、粗大な日常意識のままでは感知できない。日常意識を止め、からだの踊り場にまといついている深層記憶や悪夢や妄想などの内クオリアが、時空を超えて多次元共振している微細な命のふるえに耳を澄ましてはじめてキャッチできる。

日常世界の背後に広がる生命共振の多次元世界との共振を媒介するのがごくごく微細な兆しである。背後世界と行き来する兆しをとらえるために、舞踏者はからだの闇を掘り、思い出せない記憶や、からだに刻印された悪夢や、喉首つたう欲動や、逃れられないトラウマを掘り出し、からだの踊り場に脈動する血液を通す。背後世界からの兆しを踊るかどうかが、ダンスと舞踏を分かつもっとも大きな違いだといってよい。




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非二元と二元を自在往還する
 
 2020年5月 05日  


非二元と二元を自在往還する

非二元クオリアに耳を澄ます

今日は、からだの闇でなにが起こっているか、<透明離見>することを

はじめます。

離見とは、自分を外からの眼差しで見つめること。

室町時代に能を創始した世阿弥にとっての重要な技法でした。

自分の気持ちや段取りだけで動くことを「我見」と呼び、

我見を去ることを目的に、<離見>が生まれました。

舞踏にとっても同じです。

土方巽は、「何十、何百の目玉に見つめながら踊れ」と、弟子に言いました。

舞台で踊りながら、その自分の姿を観客の眼差しで見つめること。

無意識のからだになりこんでも、無意識の離見で自分を見つめることができるように、訓練します。

非二元クオリア

心地よく動かされる瞑動によって無意識のからだ(アンボディ=アンコンシャスボディ)になりこみます。

からだの闇に耳を澄ますと、最初は<非二元クオリア>が瞬間ごとに変容して流動していることが感じられます。

<非二元>とは、自分が感じているものが、感覚なのか、記憶なのか、想像力なのか、夢なのか、なにが何やらまったく区別できません。

それが<非二元クオリア>です。

非二元クオリアはまた、リゾームでもあります。中心も序列もなく、くっついてひとつになったり、自由に分離したりしています。クオリアには数というものがなく、一が二になり、三になり、多になり、いつのまにか一に返っています。

その非二元クオリアを感じながら、心地よくなにかに動かされるままに動いていると、面白いことにそのうち、二元チャンネルのどれかが開きます。体感、運動、映像、音像、情動、人間関係、世界像=自己像、思考などのチャンネルのどれかが開いてその世界に入っていきます。その微妙なプロセスに耳を澄ますのが今日の練習です。非二元からどれかのチャンネルが開いてまた、非二元に戻っていくプロセスをじっくり味わってください。

体感チャンネル

からだの温かさ・冷たさ、硬さ・柔らかさ、重い・軽いなどの体感が感じられはじまます。

体感クオリアには外向体感クオリアと、内向体感クオリアの二種類があります。

外向体感クオリアとは、いまここでいのちが物理的な外界と共振して感じているクオリアです。これに対して、内向体感クオリアとは、細胞生命に保存されている細胞記憶のクオリアです。生命共振においては、この2つがいつも同時共振しています。

この外向・内向クオリアの同時二重共振によって、いのちは、今自分のからだに’起こっていることを感知することができます。気温にしても、昨日よりすこし温かいとか冷たいとかを知ることができます。これによっていのちは40億年間も生き延びてくることができました。

やがて、体感チャンネルが閉じ、いつのまにか非二元クオリアの世界に戻ります。

一度に一つだけのチャンネルが開かれることができます。

動きのクオリアのチャンネル  

からだのどこかが動く時、いつも外向運動チャンネルと内向運動チャンネルのクオリアが開いて同時共振しています。

それでいのちは、今自分のからだにどんな動きが起こっているかを精妙に知り、動きの速度やサイズを微妙に調節することができるのです。

動きのチャンネルが開くとともに、あなたのサブボディ・アンボディが出て来ます。どんな動きが出てきても、正誤・善悪などの判断をせずに、存分にお楽しみください。

やがて運動チャンネルが閉じていき、いったん非二元クオリアの世界に戻ります。

そのうち、視覚的な映像チャンネルが開いてくることがあります。

映像チャンネル

いろんな視覚的イメージが浮かんでくることを、映像チャンネルが開くといいます。イメージに従って踊ります。やがて映像ちゃんねるが閉じ、非二元にかえり、べつのチャンネル、たとえば、聴覚的、音像チャンネルが開きます。

音像チャンネル

外向・内向音像クオリアが共振します。いろんな声が出てきたり、思い浮かんだりします。

情動チャンネルが開くこともあリます。

情動チャンネル

外向・内向の情動クオリアが同時共振していろんな情動の記憶と現在の情動が同時共振します。ここまでは単チャンネルで、これ以降いくつかのチャンネルのクオリアが混合する複合チャンネルが開くこともあります。

人間関係チャンネル

外向・内向の人間関係クオリアが同時共振します。忘れていた母親の呼び声が聞こえたり、死者の囁きが聞こえたりします。

つぎの世界像=自己像チャンネルは最大のチャンネルで、あらゆるクオリアが複合します。

世界像=自己像チャンネル

母親の胎内にいたころの記憶が出てくれば、その時の世界像は子宮で、自己像は胎児ということになります。小学校の記憶の中では、世界像が学校で、自己像が生徒である自分になります。

思考チャンネル

踊り終わった後に開いてくるのが思考チャンネルで、いろんな気付きや、啓示や、ときには悟りが訪れることもあります。

今日はこういう微細で精妙なクオリアの、非二元と二元の間を行き来しながら変容流動していることに耳を澄まし、じっくり味わってください。

クオリアに耳を澄ましていると、非二元と二元チャンネルの間を行き来している不思議な仕組みに驚きます。

非二元クオリアから、いずれかのチャンネルが開いてくる瞬間はとても味わい深いものです。また、いつのまにか二元から非二元に返っていくプロセスも不思議な謎に満ちています。

では、存分にお楽しみください。




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心地よさ瞑動(融通無碍瞑動)コロナウイルスを瞑動で克服しよう 7 リゾーム・リー 
 2020年5月 01日  


心地よさ瞑動

コロナウイルスの克服 7

すべての「すべき」を忘れる

「エクササイズはこのようなものでなければならない」のようなすべての事前概念を忘れてください。

からだにとって心地よく動くことが、いのちにとって一番いいのです。難しく考える必要は何もありません。ただからだが何かによって、もっとも心地よい速度とサイズで動かされるに任せます。

仏教には「融通無碍」という言葉があります。何をするにもどんな差し障りもないことを言います。

そう。からだに何が起ころうとただ心地よく付いていってください。

架空の生き物があなたのからだに入って内側から動かします。小さな蛇があなたの背骨に入る、などです。

宇宙の万物があなたのからだに入り、あなたを変容させます。

あなたのいのちにとって一番きもちいいことは?

わたしはヒマラヤで20年間毎日この瞑動を続けながら、いのちにたずね続けました。

「どうなることが一番ここちよいのかい?」と。
どうやらいのちは、単調な繰り返しより、無数の多様な変容をより楽しむようです。

いわばいのちは宇宙のすべてのものになりこむときが一番心地よさそうです。

想像力を全開し、あなたのからだが妖精、海藻、タコなどに変容するに任せてください。想像力や妄想の力、忘れられた記憶を開きます。

すると、クオリアはクオリアと出会い、<共振創発>によって新しいクオリアが生み出されていきます。

これによっていのちのもつ無限の創造力を開くことができます。 

ストレス克服のために

毎日1時間か2時間お試しください。

それだけでストレス、フラストレーションを克服し、家庭内暴力を防ぐことができます。

今日の要点を’繰り返します。

すべての「すべき」を忘れてください。

ただいのちにとってもっとも心地よい動きに身を委ねてください。それが一番いいのです。

今日は「快適瞑動」、別名「融通無碍瞑動」を紹介しました。

これで一緒にコロナウイルスを克服しましょう。

ご支援のお願い

いまヒマラヤ共振塾は陸の孤島のような状態に置かれています。全インドの公共交通は遮断され、国際航空も止まったままです。この状態から以前のような自由な世界交通が回復されるまでには、1年か2年はゆうにかかるでしょう。その間、わたしたちはずっと無収入のまま耐えなければなりません。あなたに少しでも余裕があれば、少しでも結構です。ご支援をお願いします。

わたしのペイパルのアカウントは、オカリュウジ、メールは

subbody@gmail.comです。

銀行振込の場合は下記にお願いします。

銀行名 SMBC信託銀行

支店名 京都支店

支店番号 043

口座種目 普通預金

口座番号 5686713

口座名 オカ リュウジ 

ありがとうございました。




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 五欲の旅
 2020年4月 27日  





五欲の旅

いのちには5つの基本的な欲求(傾性)がある。それらが満たされている状態と、満たされていない状態の両方を味わいながら、旅を続ける。

1. 共振欲(傾性)

生命としてのもっとも基本的な傾性は、よい共振パターンを求める共振欲だ。欲望というより、そういう傾性をもっている。単細胞の生命でさえ、環境との最良の共振パターンを追求し、それが見つかるまでは待つという非二元の傾性をもっている。細胞には五感の感覚器官も神経もない。からだ全体で非二元多次元なクオリアのよい共振パターンを求めている。この傾性が人間のさまざまな欲望や欲動の基礎にあるもっとも基礎的な傾性だ。灰柱で歩きながら、いのちが世界とうまく共振できているクオリアと、うまく共振できていないクオリアを交互に味わう。五欲の旅のはじまりだ。

2. 安全欲

次の3つの欲求は、多細胞生物が生きものとして持つ基本的な欲望である。灰柱で歩きながら、世界と安全に共振でき、安全欲が満たされているクオリアに耳をすます。しばらくして、その安全が何かによって脅かされる不全なクオリア、危険に直面しているクオリアを味わう。それがからだの一部、たとえば背骨の反応として出てくればそれを踊る。祖型的なおびえやふるえ、閉塞などが、深い深層筋に隠されているかもしれない。

3. 快適欲

歩きながら、心地よく快適なクオリアを味わう。食べ物、飲み物、呼吸、環境などが快適さに満ちている。そして、それらが満たされなくなる不快なクオリアを味わう。自分の普段の習慣や嗜癖について、それが満たされている快適さと、満たされない不快感をどちらも味わう。それをすべての秘腔の反応として踊る。腸、胃、肺、心臓、喉、口、鼻、舌などで。

4. つながり欲

生きものはすべて仲間とのよいつながりを求めている。性欲はつながり欲が特化したものだ。いのちに聴く。何につながりたいか、そして、そのつながりが満たされないときどうなるか、欲望はねじれ、くぐもり、さまざまな情動の虜になる。それらのすべてを味わい尽くす。さまざまな層の秘膜の踊りが出てくるだろう。

5. 個性化欲・自己実現欲(創造欲)

個性化欲(創造欲)は、人間だけが持つ。「100%自分になりたい」、「自分のもつすべての可能性を実現したい」いう特別な願望だ。自己実現浴とか創造欲と呼べるかもしれない。自分が十分に自分自身になることができているクオリア、そしてなにものかがそれを妨げているクオリアの両方を味わい踊る。その中で自分に問う。

「わたしとは誰か?」、「いのちは何になりたいのか?」、「なにを創造したいのか?」、「それができていないのはどうしてか?」

これらの五欲(傾性)をたっぷり味わい、踊るなかで透き通って見えてくるものがあるはずだ。その気づきを書き留める。それが大きな次の創造へのヒントになる。

生存五欲瞑動


調子がいいとき、あるいは悪くなったとき、生存五欲の一つ一つに問いかけていく。

もっとも原初的な欲望である共振欲に問いかけ、快適欲、安全欲、つながり欲、実現欲に問いかけていく。いのちがやりたいことと、実際にしていることがわずかでもずれるとからだにかすかな苛立ちが立ち込めるのですぐ分かる。

ジェンドリンが創始したフォーカシング技法はフェルトセンスとよぶかすかな不快感に焦点を当てて耳を澄ます技法だ。

プロセス指向心理学のアーノルド・ミンデルも、センシエントというあるかなきかのかすかなクオリアを重視する。1次プロセスと彼が呼ぶ合意的現実の中の自分と、2次プロセスと呼ぶ、ドリーミングプロセスの間で起こるさまざまなギャップが不快感の震源地だ。

それらはまず。非二元の不快なクオリアあるいはかすかな不全感としてやってくる。生存五欲瞑動はそれをさらに五欲について検討するものだ。それらがバランスよくゆらいでいるかどうかどこかに滞りが起こっていないかに耳を澄ます。どれかひとつの欲望が突出しているとき、あるいは逆に抑えすぎているときはそれに囚われている。生存五欲瞑動は、自分の中をすっきりと見通すことに役立つ。




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 世界中に無償の贈与をあふれさせよう 瞑動でコロナウイルスに打ち勝つ6 リゾーム・リー
 
瞑動で無意識のからだになる―コロナウイルスに打ち勝とう5 リゾーム・リー 
 2020年4月 20日  

サブボディの突然変異

―コロナウイルスに打ち勝とう 5


突然変異によって進化するのは、コロナウイルスだけではない。

細胞生命の方も、ウイルスとの共振によって変化する。

わたしは、ロックダウン中も、これまでに変わらず、24時間かすかな瞑動に身を預けながら、からだの闇に耳を澄まし続けました。そしてある日、とんでもない当然変異が起こったのです。今日はそれをみなさんとシェアしたいと思います。

瞑動とは無意識のからだに成り込むこと

24時間瞑動しながら、からだの闇に耳を澄ます、と言いました。

まず、その仕方からご紹介します。

一日中、どんな姿勢をしているときも、からだのどこかがなにものかによって動かされ続けます。ごく小さな部分が思わぬ方向に動かされる。それに身を預けてできるだけゆっくり動き続けます。こんな具合です(ビデオ参照)。

からだを細分化して動かされるに任せる

これにはコツがあって、まずからだを百か千くらいの小さな部分に分けます。

からだ全体の1%か、0.1%の微細な部分が動かされるに任せます。

座っているときはこんなふうに、寝ているときはこんな具合になります(ビデオ参照)。

これを一日中ずっと続けます。時々忘れてしまうことがありますが、問題ありません。思い出したらまた続けます。そしてからだに一心に耳を傾けます。

寝床でもこれを続けます。そのうち眠り込んでしまいます。目覚めたらまた続ければいいです。これが瞑動という、無意識のからだになりこむ技術です。これを続けながらからだの闇にどんな変化が起こるか、それだけに耳を傾けます。

内臓と顔も百ほどの微細な部分に分ける

きょうはもう一歩踏み込んだ瞑動の技法と耳の澄まし方をご紹介します。

内臓を百ほどの微細な部分に分け、各部が色んな方向に動かされます。内臓の状態の微細な変化に耳を澄ましていると、かならずごくかすかなクオリアが感じられるので、それに従うだけで結構です。こんな具合の動きになります(ビデオ参照)。

そして、顔も百ほどの微細な部分に分け、各部分が微細に内臓と共振して動くに任せます。こんな具合です(ビデオ参照)。

行動心理学では「マイクロジェスチャー」と呼ばれています。ごくごくかすかな瞬間的に出てくる無意識の動きです。

やがて、からだの各部もそれに共振してさまざまに動き始めます。

三無共振

図に示すとこんなふうに、内臓の無意識の動きと、顔の無意識の動きと、からだの無意識の動きが相互に共振して動いています。これについていくだけです。

これがわたしたちの無意識のからだに成り込む道です。ではいったい無意識のからだは、何に突き動かされているのでしょうか。

細胞生命がクオリアを交換している

わたしたちのからだは、百兆個の細胞からなる共振体です。百兆個の細胞たちはいろいろな伝達物質を出し合って、各部の変化を全体に伝え続けています。伝達物質というのは、細胞の状態の変化を示すクオリアを伝えます。

足が冷たい。お中が空いた。糖分が不足している。酸素が足りない。疲れた、しんどい。休憩したい。細菌が入ってきた、助けて。調子が悪い、栄養物質送って。などなど無数のクオリアを交換しています。この仕組はわたしたちの細胞生命が単細胞時代から、群体細胞を経て、多細胞生物になるに従って徐々に出来上がって来たものです。20世紀ではホルモンのほか、少数の神経物質などが知られるばかりでしたが、21世紀に入って突然無数のクオリアを伝えるための、無数の伝達物質があることがわかってきました。その多くはペプチドというタンパク質の破片が、特別のクオリアを細胞から細胞へ伝えるために使われています。






からだの百兆個の細胞が、クオリアを交換して働いている。無意識はいつもなにかに共振して蠢き、なにか分けのわからないものに突き動かされている。じつは細胞間の生命共振クオリアに動かされているのです。

内臓は内臓の変化を知らせ、筋肉や骨はその状態の変化を知らせます。情動というのはそういうからだからこころへのメッセンジャーである。顔の微細な筋肉はいつもからだの変化や無意識の情動に微細に共振している。

三無共振は、実際通りの無意識のからだに起こっていることそのものに成り込む技法です。

サブボディからアンボディへ

コロナウイルスのロックダウン中にわたしのからだに起こった20年に一回級の突然変異とは、この発見にあります。

わたしはヒマラヤに来て20年間、下意識のからだ(サブボディ=サブコンシャス・ボディ)に成り込む技法を探求し、世界中から集まる塾生とシェアしてきました。

でも、今回のは、下意識を通り越して、無意識のからだ(アンボディ=アンコンシャス・ボディ)そのものに成り込むものです。サブボディからアンボディへ、突然変異したわけです。

このアンボディに比べれば、昔のサブボディはまだまだ浅瀬にしか潜れていなかったことを痛感しました。

では、この無意識のからだを存分にお楽しみください。

次々と面白いことが起こりだす

動いているうちに、なにが起こっても決して善悪や正誤の判断をせず、からだで付き従ってください。いのちには判断するものなどいません。

判断と意識を止めて動き続けていると、徐々にとんでもなく面白いことが起こり始めます。

歩いている脚が突然夢のなかに迷い込んだり、

からだのどこかが想像上の生き物に変容したり、

忘れていた記憶に動かされたり、

妄想に襲われて逃げ出そうとしたり、

実にさまざまなしかたで、からだの動きのクオリアが、忘れていたクオリアと出会って、<共振創発>によって勝手に第三の新しいクオリアを生み出します。

それを思う存分お楽しみください。

では、今日は、一段深い、<無意識のからだに成り込む瞑動>の仕方をご紹介しました。

つじはこれはコロナウイルスで囚われの身になった時期に、わたしのからだの闇で起こった突然変異です。

20年前に下意識のからだ(サブボディ)に出会ったことに続く、大きな出来事でした。みなさんのからだのなかではどんな新しいクオリアが生まれるでしょうか?

それはきっと皆さんのこれまでの生き方をコロッと変えてしまうくらいの大きな変化につながるかもしれません。コロナウイルスによる隔離状態、監禁状態はじつは思わぬ変化への扉になるかもしれません。




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 無意識のからだに成り込む
 2020年4月17日  

無意識のからだに成り込む

生命共振哲学 1-1


突然変異によって進化するのは、コロナウイルスだけではない。

細胞生命の方も、ウイルスとの共振によって変化する。

わたしは、ロックダウン中も、これまでに変わらず、24時間かすかな瞑動に身を預けながら、からだの闇に耳を澄まし続けました。そしてある日、とんでもない当然変異が起こったのです。今日はそれをみなさんとシェアしたいと思います。

瞑動とは無意識のからだに成り込むこと

24時間瞑動しながら、からだの闇に耳を澄ます、と言いました。

まず、その仕方からご紹介します。

一日中、どんな姿勢をしているときも、からだのどこかがなにものかによって動かされ続けます。ごく小さな部分が思わぬ方向に動かされる。それに身を預けてできるだけゆっくり動き続けます。こんな具合です(ビデオ参照)。

からだを細分化して動かされるに任せる

これにはコツがあって、まずからだを百か千くらいの小さな部分に分けます。

からだ全体の1%か、0.1%の微細な部分が動かされるに任せます。

これを一日中ずっと続けます。時々忘れてしまうことがありますが、問題ありません。思い出したらまた続けます。そしてからだに一心に耳を傾けます。

寝床でもこれを続けます。そのうち眠り込んでしまいます。目覚めたらまた続ければいいです。これが瞑動という、無意識のからだになりこむ技術です。これを続けながらからだの闇にどんな変化が起こるか、それだけに耳を傾けます。

内臓と顔も百ほどの微細な部分に分ける

きょうはもう一歩踏み込んだ瞑動の技法と耳の澄まし方をご紹介します。

内臓を百ほどの微細な部分に分け、各部が色んな方向に動かされます。内臓の状態の微細な変化に耳を澄ましていると、かならずごくかすかなクオリアが感じられるので、それに従うだけで結構です。こんな具合の動きになります(ビデオ参照)。

そして、顔も百ほどの微細な部分に分け、各部分が微細に内臓と共振して動くに任せます。こんな具合です(ビデオ参照)。

行動心理学では「マイクロジェスチャー」と呼ばれています。ごくごくかすかな瞬間的に出てくる無意識の動きです。

やがて、からだの各部もそれに共振してさまざまに動き始めます。

内臓の無意識の動きと、顔の無意識の動きと、からだの無意識の動きが相互に共振して動いています。これについていくだけです。

これがわたしたちの無意識のからだに成り込む道です。ではいったい無意識のからだは、何に突き動かされているのでしょうか。

細胞生命がクオリアを交換している

わたしたちのからだは、百兆個の細胞からなる共振体です。百兆個の細胞たちはいろいろな伝達物質を出し合って、各部の変化を全体に伝え続けています。伝達物質というのは、細胞の状態の変化を示すクオリアを伝えます。

足が冷たい。お中が空いた。糖分が不足している。酸素が足りない。疲れた、しんどい。休憩したい。細菌が入ってきた、助けて。調子が悪い、栄養物質送って。などなど無数のクオリアを交換しています。この仕組はわたしたちの細胞生命が単細胞時代から、群体細胞を経て、多細胞生物になるに従って徐々に出来上がって来たものです。20世紀ではホルモンのほか、少数の神経物質などが知られるばかりでしたが、21世紀に入って突然無数のクオリアを伝えるための、無数の伝達物質があることがわかってきました。その多くはペプチドというタンパク質の破片が、特別のクオリアを細胞から細胞へ伝えるために使われています。







からだの百兆個の細胞が、クオリアを交換して働いている。無意識はいつもなにかに共振して蠢き、なにか分けのわからないものに突き動かされている。じつは細胞間の生命共振クオリアに動かされているのです。

内臓は内臓の変化を知らせ、筋肉や骨はその状態の変化を知らせます。情動というのはそういうからだからこころへのメッセンジャーである。顔の微細な筋肉はいつもからだの変化や無意識の情動に微細に共振している。

瞑動は、無意識のからだに起こっていることそのものに成り込む技法です。

サブボディからアンボディへ

コロナウイルスのロックダウン中にわたしのからだに起こった20年に一回級の突然変異とは、この発見にあります。

わたしはヒマラヤに来て20年間、下意識のからだ(サブボディ=サブコンシャス・ボディ)に成り込む技法を探求し、世界中から集まる塾生とシェアしてきました。

でも、今回のは、下意識を通り越して、無意識のからだ(アンボディ=アンコンシャス・ボディ)そのものに成り込むものです。サブボディからアンボディへ、突然変異したわけです。

このアンボディに比べれば、昔のサブボディはまだまだ浅瀬にしか潜れていなかったことを痛感しました。

では、この無意識のからだを存分にお楽しみください。

次々と面白いことが起こりだす

動いているうちに、なにが起こっても決して善悪や正誤の判断をせず、からだで付き従ってください。いのちには判断するものなどいません。

判断と意識を止めて動き続けていると、徐々にとんでもなく面白いことが起こり始めます。

歩いている脚が突然夢のなかに迷い込んだり、

からだのどこかが想像上の生き物に変容したり、

忘れていた記憶に動かされたり、

妄想に襲われて逃げ出そうとしたり、

実にさまざまなしかたで、からだの動きのクオリアが、忘れていたクオリアと出会って、<共振創発>によって勝手に第三の新しいクオリアを生み出します。

それを思う存分お楽しみください。

では、今日は、一段深い、<無意識のからだに成り込む瞑動>の仕方をご紹介しました。

つじはこれはコロナウイルスで囚われの身になった時期に、わたしのからだの闇で起こった突然変異です。

20年前に下意識のからだ(サブボディ)に出会ったことに続く、大きな出来事でした。みなさんのからだのなかではどんな新しいクオリアが生まれるでしょうか?

それはきっと皆さんのこれまでの生き方をコロッと変えてしまうくらいの大きな変化につながるかもしれません。コロナウイルスによる隔離状態、監禁状態はじつは思わぬ変化への扉になるかもしれません。





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Coronavirus hits India's poor especially hard 
 2020年4月11日

弱者の問題をわがこととして共有する未来を築くために

 

インドではコロナウイルスに立ち向かうために、13億人のロックアウトが実行されて

もう2週間以上が過ぎた。

インドでの事態を見つめていると、出稼ぎ労働者など、社会的弱者への対応の

貧しさが目に余る。

都会で急に稼げなくなったために、故郷に帰るほかなくなったデリーの1万人以上の

出稼ぎ労働者のために、政府が用意したバスはわずか数台、残りの大半の人々は

何百キロもの道を歩いて帰ることを余儀なくされている。

彼らへの生命共振の眼差しがインド政府官僚にないことをさらけ出した。

アメリカでも、コロナウイルスによる死者の多くは、黒人やヒスパニックが占めている。

高額の健康保険には入れず、病院での無保険診療は高額すぎて受けられないことによる。

コロナウイルス問題が照らし出したのは、現代の世界のこうした矛盾だ。

どれほど出来損ないの世界をわたしたちは作ってきたことか。

今真に問われているのは、

いかに社会的弱者の問題をわがこととして共振できるか、ということだ。

自分だけが良ければいいのではなく、もっとも弱い人々、貧しく、

健康保険にも入れず、障害を持ち、通常の市民から除外されている人々の問題を

他人事とせず、解決していける世界をいかに築いていくかという

未来への遠い眼差しを用意することだ。




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操体瞑動でコロナウイルスに打ち勝とう4 リゾーム・リー
 
 ヒマラヤからの緊急メッセージ
 2020年3月23日

コロナウイルスによる「監禁状態」を瞑動でのりこえよう

 ――ヒマラヤからの緊急メッセージ

世界中の皆さん、コロナウイルスによるさまざまな困難な状態に直面していることと思います。深く共振いたします。

わたしはインド北部のヒマラヤ山麓のダラムサラという寒村に共振塾という舞踏学校をひらいて20年になるリゾーム・リーと申します。
人里離れたここヒマラヤでも、先週から事実上の外出禁止、4人以上の集会禁止令が敷かれ、自宅で身動きできない状態に置かれています。

これはかつてフランスのカミュという小説家が『ペスト』という作品で描いた過酷な監禁状態を、いま全世界のわたしたちが今、身を持って体験することになったわけです。

この監禁状態の中で、わたしたちは普段の日常生活ではアタリマエのことと思っていた自由外出や人と合うことが制限され、おもわぬストレスやフラストレーションに直面させられることとなりました。家の中の少人数空間でみんながこのストレスに晒されることにより。心身の不調やおもわぬいさかいなどを体験されていることと思います。

ここでわたしは、この困難な状態を逆手に取って、この逆境を乗り越える道をご紹介したいと思います。

これはヒマラヤの共振塾でこの20年間実践し、深めてきた方法で、誰でも、どこでもからだ一つでできるとても簡単な方法で、瞑動といいます。

瞑動のしかた

瞑動とは一言で言えば動く瞑想です。瞑想といえば皆さん日本の禅の修行のように、からだを動かさず、ただじっと座って頭や心だけを使ってするものだとお考えでしょうが、瞑動はからだを自由に動かしながら瞑想するものです。こんな監禁状態で、瞑想するのは、からだを動かさないのは、健康にもよろしくありません。

瞑動はからだを自由に動かすので、健康にも良く、どこでも、ひとりでもできるし、仲間と一緒にすることもできます。

では、その方法を簡単にご紹介します。

できるだけ静かな場所を選んでお座りください。

脚のかたちに決まりはありません。どのような座り方でも、結構です。

頭の天辺に糸がついて上に引っ張られると想像してください。からだの脊髄が真っ直ぐに伸びた状態です。

そして、胸のあたりか、どこかが誰かに前や後ろに引っ張られると想像してください。

ひとりでに胸が前に動いたり、後ろに動いたりします。

だんだん前後だけではなく、左右や上下にも動かされます。からだにもっとも気持ちの良い速度やサイズで動かされます。やがて、胸だけではなくからだのあちこちがいろんな方向に動かされていきます。しばらく続けているとからだ中に心地よい感じが溢れてきます。

そうなると、もっと色んな場所が思わぬ方向に動かされるままに、からだでついていくことができるようになります。

頭が床につくと、普段はからだの支え役になっている脚が様々な方向に踊りだします。はじめはこれだけで結構です。これを存分にお楽しみください。

ごくかすかなクオリアに耳を澄ます

2,3日続けて慣れてきたら、同じようになにかに動かされながら、からだのなかのいろんな「感じ」が変わることに気づけるようになります。

どこかが忘れていた夢を思い出したり、不意に震えだしたり、浮き上がって漂いだしたりするあるかな帰化の、かすかな感じに耳を澄ましてください。これまで一度も動かしたことのないやりかたでからだがなにかに動かされるのを楽しんでください。

この「感じ」はごくごくかすかなもので、しかも瞬間的に生まれたり消えたりしています。千分の一秒くらいの間感じられ、すぐ消えたり、別の「感じ」に変わっていったりしています。

この「感じ」をクオリアと呼びます。クオリアとは、わたしたち人人間だけではなく、あらゆる生きとし生ける細胞のいのちが感じていることのすべてを指します。

生命の創造力の秘密

このクオリアには不思議な特徴があって、あるクオリアと別のクオリアが出会うと、たちまち第三の新しいクオリアが勝手に生まれることもその特徴のひとつです。それは自分の意識でコントr-るできることではありません。細胞のいのちが感じているクオリアが自動的に共振して新しいクオリアを生み出します。

ためしに、みなさん、あたまのなかでピンク色のクオリアを思い浮かべてください。そしてもうひとつ象のクオリアを思い出してください。でも、お願いします。決して「ピンクの象」だけは思い浮かべないでください。

どうでしょう。そう、自分でコントロールすることはできません。すでに皆さんの頭の中ではピンクの象があるき始めていることと思います。これがクオリアの不思議です。でもこのクオリア不思議が、いのちのもつ無限の創造性の秘密なのです。

瞑動によって心地の良い速度でなにかに動かされるままにしていると、いつのまにか日常の言語意識は消え、下意識状態のからだになります。

この下意識や無意識と言われている状態ではじめてからだの闇に隠されているいのちの無限の創造性を開くことができるのです。

生命共振芸術へ

瞑動はからだの動きをつかうダンスや舞踏だけではなく、どのチャンネルにも有効です。絵が好きな方は、からだガウが動かされているうちに浮かんできた映像のイメージを絵に描いてください。音楽が好きな人は意外なメロディーや浮かんでくることもあります。言葉が得意な方は、次々に浮かんでくる言葉を文字で書いてください。詩や俳句、和歌の形でも出てきますし、小説のような長い物語になることもあります。わたしたちはこれらすべてを『生命共振芸術』とよんでいます。

ことしからヒマラヤの共振塾は舞踏だけではなく、あらゆる芸術分野での生命共振芸術のための芸術センターに発展しました。

もしこの瞑動から始まる創造性を開くことに興味が湧いた方は、コロナウイルスが消息して自由に旅行ができるようになったときに、一度ヒマラヤの生命共振芸術センターを訪れてください。

世界中からさまざまなジャンルの芸術が集まり、自由に出会うスペースとして一年中、年中無休で開いています。

では、瞑動で「監禁状態」を乗り越え、健康な毎日を送られるようヒマラヤよりお祈りしています。ご視聴ありがとうございました。

このヒマラヤからの緊急メッセージはさらに第二弾、第三弾と続けていきます。お楽しみにしてください。


 
 「原発事故とこの国の行方」小出裕章さん講演@宮崎 2019 05 24
 
 原発メルトダウン 危機の88時間/最前線で戦った人々
 3.11 40m巨大津波の謎
 
報道映像 3月11日 
 

今なお福島原発から漏れ出た放射能は

太平洋を汚染し、いのちを害し続けている。

忘れてならないのは、今みんなが忘れてしまった

ふりをしているこのことだ。 


 
生命の創造性とは| リーゾーム・リー
 2020年3月

透明になる

いのちの無限の創造性とは何か

なぜ生命は無限の創造性をもつのか?

この40億年間の生命史の間に、生命は驚くほど多様な共振パターンを創造してきた。発生当初の原初生命はおそらくごくごくわずかなものとしかうまく共振できなかった。水やアミノ酸、ナトリウムイオンやカルシウムイオンなど、限られたものとしかうまく共振できなかった。今日の多くの細胞がもつ酸素ガスとの共振さえうまくできず、一億年以上深い海中や地底でしか生存できなかった。生命はうまく共振できないものとは、よい共振パターンを発見するまで、ただ、安全な距離をとってひたすら待つ。30億年ほど前に、プロテオバクテリアが酸素呼吸の仕方を発明すると、ただちにその仕組みは、内部共生というしかたで多くの単細胞生命に共有されるところとなった。今日のほとんどの細胞が待つミトコンドリアは内部共生していたプロテオバクテリアの名残である。

細胞生命は、あらゆるものとの共振パターンを、クオリアという形で細胞内に保存している。重力のクオリア、光のクオリア、酸素のクオリア、色のクオリア、触感のクオリアなどなどという生命記憶として保存されている。わたし達の指先が木に触れたとき、それを木として認識できるのは、細胞内部に保存された木の触感の内クオリアと、今現在触れている木の外クオリアとが同期共振することによっている。クオリアの大きな特徴は、クオリアとクオリア同士で共振することによって、新しいクオリアを創造できる点にある。

<象>+<ピンク>=<ピンクの象>

ためしに、象のクオリアを思い浮かべてください。そしてもう一つピンクのクオリアも。そのふたつを思い浮かべるだけで、止めようとしても勝手に<ピンクの象>があなたの脳内を歩き始めているだろう。意識によってではなく、クオリアとクオリアが勝手に<共振創発>することによって新しいクオリアが生まれる。それが生命の持つ無限の創造性の仕組みだ。

しかも生命クオリアは非二元かつ多次元時空で共振しているのでその創造の可能性は無限である。その無限の生命の創造力を開くこと、それがサブボディ技法の根幹である。

それは二元的な情報に囚われた言語思考や判断を止めることによって可能となる。土方巽があの無類の創造を発揮したのも、生命の無限の創造力の開き方を身に着けていたからである。

「解剖台の上のこうもり傘とミシンの出会い」―ブルトンによってシュールレアリズムのバイブルとされたロートレアモンのこの言葉は、意外なクオリアとクオリアの出会いによって新しい創造が生まれることを語っている。土方は1060年代に行った無数の「ハプニング」やダダ的な実験によってその極意を追求した。そして、1968年の伝説的な「肉体の叛乱」公演の後、数年間まったく外部的な活動を停止して、アスベスト館二階の自室にこもり、ひたすらからだの闇をむしり続けるなかで、生死の境を超え、自他の境界を無化する生命クオリアの無限の共振を開く坑道を掘り進めていった。

からだの闇に飼育する死んだ姉との交感によって、人間の枠を超え、生死の境界、自他の分別を超える「死者の技法」を獲得した。1972年から1976年までの爆発的な創造はそれによって起こった。「疱瘡譚」、「ギバサン」、「すさめ玉」、「静かな家」などの衰弱体舞踏と、自身のソロを中止した以降、芦川羊子をはじめとする弟子に振りつけた白桃房公演で花開いた超絶的な技巧に至る創造はすべて、生命ののっぴきならないクオリア=クオリア共振が全面的に開花したことによる。

クオリアの<共振創発>

クオリアは無限の共振性を持つ。あるクオリアが別のクオリアと出会うと、まるで磁石のように吸引しあい、合体してひとつになり、新しいクオリアが生まれる。これがいのちの創造性の根源にある秘密<クオリアの共振創発>だ。人類史上まだ誰もこの秘密を探査していない。創造性とは何かという秘密を解いたものもいない。クオリアは生命共振そのものだが、その秘密もまだ解明されていない。いま、世界中でわたしたちだけが、生命=共振=クオリアという三つ巴の謎に迫ろうとしている。

いのちの望みに従ってここまできた

いのちは、自分がもっとも創造的になれる場をつくって、そこで生きることを求めている。これがわたしが70年の生でつかんだいのちに関する何事かだ。いのちがもっとも望むものに耳を澄まし、それに従ってここまできた。

生まれてから45年間は、自分の命が何を生きたいのか、つかむことができなかった。頭でっかちだったからだ。意識の止め方も知らず、いのちへの耳の澄まし方も知らなかった。ずいぶんの惨憺たる暗闇をさまよい歩いた。10代から20代は、文学、美術、音楽をはじめ、ありとある芸術分野にトライして挫折した。15から20までは本気で革命を目指して、自滅した。何人もの友人が命をなくした。

20から30までは、一人暗渠に潜り、国家論、現代思想、古典思想、

植物、魚、虫、動物、エコロジズム、考古学、鉱物学、まるで狂ったように渉猟した。どの世界へ飛び込んでも、生きる場はここじゃないとすごすごと引き返さざるを得なかった。

からだのことを何も顧みずに酒を浴びていた。気がついたら狭心症、痛風、肥満の成人病の巣になっていた。30から44までは、泳ぎ走り潜り登りの山海のスポーツにからだを燃焼し命を消費しつづけた。トライアスロンを10年やって、ようやく頭が空っぽになったころに、45で舞踏者として生きる道を見つけた。

青年期を過ごした京都に帰った。毎夜のように死んだ友人が夢枕に立った。

その亡霊を鎮めるために、死者たちと踊る踊りを創った。

50歳から、死者たちとの踊りとともに、世界中を狂ったような勢いで踊り歩いた。疲れを知らない子供のようだった。トライアスロンで鍛えたからだのおかげだった。各地で踊りながら自分のいのちはどの地で生きたいと思っているか、自分の生きる場所を探した。

2001年、53歳で、からだが勝手に、ヒマラヤインド・ダラムサラで生きることにきめた。しずかで、世界中から面白い人が集まってくる場所だったからだ。舞踏学校・共振塾を造るのに3年かかった。途中で酷い神経症にかかった。解離性の多重人格症も本格化していくつもの分身に分裂した。

それは今も続いている。だが、今のわたしはこれまでの人生でもっとも創造的な生を送ることができている。

若いときも日々25時間、あれこれ試みていたが、毎日ここまで新鮮な創造が生まれてくる体験をしたことがなかった。いまは、毎日の授業が済めば、くたくたになって落眠する。だが、夜中にサブボディさんが目覚めて

明日の授業を創りだす。毎日、これまでにない授業が生まれていく。わたしはすでに、何千もの授業メニューを持っているが同じことを繰り返すことはない。毎日新しい授業が創造されていく。いのちと共振に関する探究も進む。わたしが創造するのではない。創造主はサブボディさんだ。毎日その旺盛さに驚かされる。(たまには休みなよ)といっても聴かない。

この創造の鬼はいったい何なのだ。いのちだとしか言いようがない。いのちがひとたび自分の限りを発揮する場を見つければとことんやる。わたしはただただいのちに追いすがるだけだ。

(おおい、待ってくれ、そんなに早くは歩けないよぅ!……)

サブボディは24時間不眠不休だから、追いつけるわけがない。

ふうふう。

これがわたしの20年続けてきた毎日だ。

土方巽と同様の無限の創造性を開くからだになる

20年前にサブボディ技法は、瞑動によって意識を止め、下意識モードの心身になりこむ技法として生まれた。当初はわたし独自のものと思っていたが、土方巽の『静かな家』や『病める舞姫』(第10章参照)に取り組み続けているうちに、彼もまた、日常意識から離れ下意識モードになる方法を無限に探り続けていたことを発見した。サブボディ舞踏と、土方舞踏は同じだったことが分かった。土方も独自の下意識モードになる技法をたくさん発見していた。だからこそあんなに稀代の創造を続けることができたのだ。

闇の中を手探りで転びつつ歩を進めてきたわたしたちは、ようやく最近になって見出された<ドリーミングシェア>、<クオリアシェア>などの新しい技法を使って、土方と同じ下意識モードのからだになり、彼と同じように忘れていた幼少期の潜在記憶や細胞の生命記憶を探り出し、からだでシェアし合いながら踊りを共創する方法を確立することができた。

これは踊り手全員が土方と同質の方法でいのちの創造性をひらくからだになることを意味する。

からだの闇のクオリア流動をそのまま言葉にしようとすると、その言葉は二元的な論理的な言葉ではなく、いわば<クオリア言語>とも言うべき、クオリアの特徴を色濃く保つもっとも基礎的な言葉で表出されることになる(第7章参照)。そしてそれらのクオリア言語は明確な主語述語などの文法にとらわれず、主体が自在に変容して変容していったり、突然場面が変わったりという、夢や神話や土方の『病める舞姫』同様に自在変容することもからだでつかんだ。そう、ついにわたしたちは、長年探し求めていた<リゾームツリー技法>をからだで体現・深化することのできる方法に出会ったのだ。からだの闇のリゾーム的なクオリア流動の非二元世界と、ことばによるツリー的な階層秩序の二元論的世界とを自在に往還する<非二元=二元自在往還>あるいは<リゾーム=ツリー自在往還>を活用しながら、この二世界を旅し、いのちの無限の創造性を誰もが開けるようになった。これがこの20年間の最大の成果だ(「非二元=二元自在往還」については第4章調体八番「非二元=八覚自在往還」、「リゾーム=ツリー自在往還」については第8章2「リゾーム=ツリー」参照)。





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透明さ 
 2020年2月29日

透明になる

長い間、透明になりたいと思ってきた。 小さい頃からだ、大人たちが子供に対して さまざまな秘密を包み隠している不透明な存在だということに気づいて、それへの反発だったのかもしれない。20代30代の頃は、水に潜り微小な水中動物を捕らえては、水槽で飼育し、その透明な生体に憧れていた。透明エビ、透明ナマズ、淡水クラゲ、ヒドラ、あらゆる魚の幼生は透明である。卵の中に目玉だけが黒点となって現れ、やがて激しく体を振って生まれ出てくる。食べたのものが消化する過程もすべて透けて視える。透明な水晶やトパーズを探して鉱山に潜り、透明な空気の振動を味わいながら笛を吹いた。どうすればそういう透明な存在になることができるのか。踊りを始めてからもずっと透明さにこだわり続けてきた。1996年にはじめて「透明さについて」という短い文章を書いた。知り合ったサンチャゴ・サンペレが、奇しくも透明さにこだわる踊り手だったからだ。わたしたちは透明さへの共振によって深くつながった。

 共振塾を建設し、サイトを立ち上げた2005年にも『透明さについて』という少し長い文を書いて、サイトに掲げた。 初期の生徒はその文に共振して入塾してくれたのかもしれない。なぜわたしが透明さにこだわってきたのか、どうすれば透明になることができるのか。この何十年間の探求の精髄を一言で言えば、からだの闇に無意識にひそんでいる さまざまな傾性、欲望や祖型や元型や自我、超自我など強いエネルギーをもってわたしたちを突き動かしてくるものらすべてを踊り、それらの支配から自由になることだ。

透明覚へ

随分昔から探求しているのに、なかなか他の人と共有することができなかった。それが透明覚だ。 踊っている最中に、これが透明覚か、と実感したことがある。だが、それをことばで伝えることがなかなかできなかった。ことばで言おうとした途端に、何か別物にすり替わってしまいそうで うまく言えないまま、この20年を過ごしてしまった。だが、この20年の逡巡には根拠があった。透明覚は、書くこと、知的に解き明かされることによって闡明されるものではなかった。 現代的な「知性」とは、根本的に違うものだということが、少しずつ分かってきた。 書くこと、言葉で説明することへのこだわりに囚われていたのだ。

透明覚は、書くこと、頭で理解することの正反対のものだ。 現代の分別的知性のように、ひとつひとつの部分を分析し、 理解することによって全体的な把握に近づこうとするものではなく、あらゆるものをからだごと、いのちとしてまるごと瞬間的に統握するものだ。同時に、透明覚の統合的な把握は、なにものにも囚われていないことだ。 内側からのなにかにも、外側からのなにかにも、縛られていないこと。

 生命共振には内も外もない。対象と自分が分断していることを前提にした二元的知性の幻想を脱ぎ、 生命共振としてひとつになっているまま、あらゆるものを透明に統把するのが<透明覚>ではないか。

それはわたしの最初の経験どおり、 踊っている最中にだけ訪れる状態なのかもしれない。ともあれ、今後は最初から踊る中で透明覚を分かち合うことを目指す。まったく新しいチャレンジが次々続々湧き上がってくる。

 

40億年の命として見透す

わたしのいのちはいったい何歳だろうか。いつから数えるかでずいぶん違ってくる。だが、数えるとすればこの地球上にはじめて生命が発生した40億年前から数える以外ない。すべての生命体はおなじ年齢だ。一分一秒と違わず、同じなのだ。昔ガラス水槽で魚の孵化を試みていたとき、不意にそのことに気づいて深い感動に見舞われた。ガラスの向こうで透き通る体を見せている稚魚たちもわたしも、水槽に植わっている水草たちも、等しくみなおなじ40億年の生命の年齢をもつ。個体としての寿命など、その命の連続の中で見れば言うほどのことでもない。いのちは少しずつ変異してべつの生命体に変わっていくプロセスを担っている。

自分の命に何が一番したいかを尋ねるときはこの40億年の寿命を踏まえていま何をしたいかを聴くことだ。たぶん、もっとましな生命体になりたいというに違いない。小さな自我に囚われている今の状態を40億歳の生命が喜んでいるはずがない。

40億年の生命史の中で、最大の発明者は誰だろうか。おそらく、細胞呼吸を創発したプロテオバクテリアが東の横綱に違いない。プロテオバクテリアはその後真核細菌に取り込まれて独自の種ではなくなる代わりに、ミトコンドリアとしてすべての細胞内で細胞呼吸に携わる栄誉ある転生を果たした。

ついで、地球の大気をいまのような比率に作り変えたシアノバクテリアが西の横綱だろう。ラン藻の一種として一時代を築いた後、やはり葉緑体として真核細胞に取り込まれいまの植物の祖となった。植物が地球の大気を生産し続けていることを思えばその恩恵をこうむっている動物にとっても大恩ある存在だ。

その次が当初単細胞だった生命が、群体細胞時代を経て、多細胞生物としての共振パターンを確立したことだろう。

この3つの創発に比べると、あとの創造はずいぶん格が落ちる。まして、人間の個としての創造にこだわるなど泣けてくるほどみすぼらしい。プロテオバクテリアやシアノバクテリアや群体細胞をライバルと考えて創造に取りむのがいい。すると、いまの人間にとってどういう創発がっとも必要とされているか、生命史的課題が見えてくるはずだ。

わたしは長い間抱え込んできたサブボディ=コーボディの間の相互転化の謎を解こうとしてきた。そしてついに、<ドリーミングシェア>や<共振リゾーム>などの、振付家を不要とする踊りの共創技法を完成した(第7,8,9章参照)。

この20年でわたしがもっとも解きたかった謎をようやく解くことができた。あとは、生命、クオリア、共振の謎をこの書の実践的解答をもとに、理論化することだ。それは、次著『生命共振革命』と『透明論』で取り掛かり始めている。それもこの共振塾の授業の中で他の共同研究者とともに実験し、解明していくことができる。わたしは幸せ者だ。

透明離見

わたしは離見を世阿弥に学んだ。世阿弥にとっての離見は、踊り手が自分の姿を観客の眼で見る技法だった。わたしはその方法を無限に拡張できることに気づいた。それを少し紹介しよう。きっと読者の方にも思わぬ発見が訪れるに違いないだろう。

時間の尺度を変えて離見する

いのちを透明に、囚われなく見通そうとするには、世俗的な狭い事情に囚われた日常のスケールとは違った尺度で考えることが重要だ。

まず、時間的な尺度を変えてみること。授業が一区切り付いたときはいつも、屋上のハンモックで一眠りして、40億年の命になり、自分を振りかえる。40億歳の命として、なお、同じことをわたしはし続けるだろうか、と。然り! と答えられるときは幸せだ。たかだかヒマラヤの山村の舞踏学校だが、生命共振を学べるのは世界でここだけだ。人類史に確実にこれまでににないものを付け加えている。

いや違う。生命共振は40億年の昔からあった。今の人間が忘れているだけだ。生命共振の大事さを、一人でも多くの人に伝えること。40億歳の命としても、これならやりがいがある。

人類が今日のような生命共振を忘れた意識優先の意識に囚われ出してから、

まだたかだか二、三百年に過ぎない。近代文明にまだ侵されていない山奥の少数山岳民の部落を訪れれば、かれらがまだ生命共振豊かな驚くほど透き通った心を持っていることで、それが分かる。

フーコーが言う、人間が「人間」という近代西洋型の観念に囚われだしたここ2,3世紀の変化と、それは機を一にしている。人類が国家のような余分なものを作り出してしまったのもたかだかここ五千年のことに過ぎない。人類がチンパンジーと分かれてからの700万年の歴史に比べれば0.1パーセント以下の瞬間に過ぎない。ホモ・サピエンスが新石器革命を起こした五万年前からでも国家を持ったのはここ一割の時間に過ぎない。

その観点から離見すれば、国家も近代的な自我も少し経てば消え去るものであることがくっきりと見えてくる。そんなものに囚われて生きるのが馬鹿らしいことも。

空間の尺度を変えて離見する

時間だけではなく、空間的な尺度を変えて離見することも大切だ。

人間のからだは100兆の細胞からなる。その一つ一つにそれぞれの命がある。それらの細胞になりこんで命をからだ感じること。それぞれの細胞には意識や自我はなくても他の生き物同様、世界とのよい共振を求める傾向性をもっている。いのちのもつ傾性を透明に感じ取ること。脳心身全体で、その細胞になりこむこと。そういうところから捉えないと命には届かない。頭で考えるのではなく、からだでなりこんでクオリア思考するのだ。

細胞よりさらにサイズを縮めて一挙にひもレベルまで降りてみる。1mのマイナス33乗というプランク長さの空間でひもは共振している。命とはそのひもの一連の共振パターンが、自己を持続し創発し続けようとする傾性をもったときに発生した。そこまで降りないと命についてはつかめない。そういう微細レベルでも生きようとする傾性が存在する。

いのちとは何か。

命とは40億年前に、ひもの一連の共振パターンが自己を持続し、創発を繰り込んで生き続けようとする傾性を獲得した時に発生した。そして、クオリアの<共振創発>が起こるに任せて無数の生物種に分化しながら今日まで40億年間生き続けてきた。人間も含めて生物の個体とは、40億年の命がその歴史を通じてとり続けてきた瞬間のかりそめのかたちに他ならない。命を担う個体の姿はどんどん変わる。われわれもまた、その一環に他ならない。個体として、この巨大な命の潮流に何を付け加えることができるのか、という観点から自分の人生を振り返ることだ。何が大事で何がどうでもいいことかが透き通って見え出すだろう。

自己と世界の共振を踊る

内と外に半々に開く、あるいは言葉を変えて自己と世界に半々に開く透明体になるという課題は、この20年探求し続けてきたが生半可な容易さではない。だが、ようやく近年になってその実践の道筋が見えてきた。それは自己と世界を半々に踊るということである。自己の側から50パーセント踊り、世界の側になりこんで50パーセント踊る。それをたったひとりで追求するのは非常に難しいが、個と群の区別を超えて絶えず変容する<共振リゾーム>(第8章参照)においては、ときに世界に脅かされる自己として踊り、ときに自己を脅かす世界そのものになりこんで踊る両方の立場が絶え間なく入れ替わり、固定した区別がなくなる。

そう、自己と世界という二元的な対立を超えて、自己と世界が絶えず多彩な仕方で共振しながら変容している生命共振の実体に限りなく近づくことができる。



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クオリアと弦理論y 
 2020年2月26日

 ひも理論
現代物理学の尖端のひも理論によれば宇宙の万物はすべてひもの共振パターンの変化によって生成されている。ひもは宇宙でもっとも小さい距離であるプランク長さに折り畳まれている。
プランク長さは1mのマイナス33乗、すなわち
0.00000000000000000000000000000000001m
というサイスである。原子が1mのマイナス8乗、クオークがマイナス14乗であるのに比べても極端に小さい空間で震えていることがわかる。
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図2 ひも共振があらゆる物質をつくる

ネルギーと質量
アインシュタインは、エネルギーと質量が同じものであることを発見した。それらは相互に変換することができる。相対論の有名な公式 E = mc2乗)は、エネルギーが質量に光速の自乗という巨大な定数をかけることにより相互変換が可能であることを示している。
すべての質量とエネルギーは、ひもの共振パターンの違いによってつくられている。標準物理学では、宇宙には4種類の力(相互作用)があり、重力、磁力、強い力、弱い力の4つの組み合わせによってあらゆる物質とエネルギーは生成変容するとされてきた。
11次元空間
ひも理論によれば、ひもは11次元空間で共鳴している。プランク長さに巻き込まれた6次元の極小カラビヤウ空間と、わたしたちの日常感覚でよく知られている3つの大きな空間次元と1つの時間次元、そしてひも自体がもつ1次元の合計11次元空間でひもは共振している。
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図3 6次元のカラビヤウ空間
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図4 ひもは宇宙のいたるところで共振している

<ひもの無数性>

ひもは数えることができない。ひもの持つ重要な特徴は、それが数を超えて共振連結・分離し、1つのひもがときに2つにも3つにも分離しかつまた連結によってその数を変えることができる点にある。粒子との根本的な違いだ。ひもは誰もそれを数えることができないリゾームとしての性質をもっている。
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図5 ひもは柔軟に連結・分離することでその数を変幻する
無限の共振パターン
ひもの共鳴パターンは無限である。彼らは無限にサイズ、形を変えることができる。

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図6 ひもの共振パターンは無限である
クオリアの共振パターンも無限
ひもの共振パターンが無限であると同様、クオリアもまた無限に変容流動する。宇宙に無限は一つしかないと思われるから、ひもとクオリアはどこかでつながっているだろう。その両者を結ぶものこそいのちである。

いのち
生命は地球上で40億年前に生まれた。ひも理論によると、宇宙の万物はひもの共振パタンの違いによって生成するから、生命もまたひもの独特の共振パターンによって生まれたことになる。
地球に生まれた生命は、それ以前の物質やエネルギーとはまったく異なる特別な共振パターンを持っていた。それが<生命共振としてのクオリア>である。



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非二元と二元クオリアの自在往還
2020年2月21日

非二元=八覚往還

非二元クオリアに耳を澄ます

瞑動によって日常の心身を鎮めからだの上に耳を澄ますと最初に出会うのは何ともわからない感じだ。

「これは感覚?想像?夢?幻想?情動?」

それが何であるか、すべてが混合一体化しているようで意識では判別できない不分明なものです。これを「非二元クオリア」と呼ぶ。

もともと単細胞だった生命には五感が分化していなかった。ただ一個の生命としてあらゆるクオリアと共振していた。いまもわたしたちのからだを構成する百兆個の細胞のいのちは、原初生命同様に重力、太陽の光、空気、温度、水分、音などの外界の無数のクオリアと同時に共振している。それらのいまここで共振している外クオリアばかりではなく、それらの40億年間の生命記憶のクオリアも内クオリアとして細胞内に保存されていて同時に共振している。非二元クオリアとは、これらすべての内外クオリアが混交し、一体化しているものだ。それはたえず変容しつつ流動している。これがいのちの非二元クオリアを明確に判別できない理由である。

非二元=二元ゆらぎを踊る

瞑動を続け、からだの姿勢を変えながら耳を澄ましていると、ときにある特定のクオリアが8チャンネルのクオリアとして現れてくることがある。温かい/冷たい、重い/軽いなどの体感チャンネルのクオリアや、自発的な動きのクオリアとなって出てきたり、ときには視覚的イメージや、音声・音楽の音像として訪れることもある。情動や人間関係、または世界像=自己像の変化、さらにはふと思いつく思考や言葉として現れることもある。そしてまた、非二元の国に返っていく。

これがクオリアの<非二元=二元ゆらぎ>であり、<リゾーム=ツリーゆらぎ>である。クオリアは常にそれらの間で揺らいでいる。そのゆらぎに耳を澄まし、からだの闇から出てくるものに全心身でついていくと、それがあなたのサブボディ=コーボディになる。

踊りながら、今自分は非二元クオリアを踊っているのか、どれかのチャンネルのクオリアを踊っているのか、透明に行き来すること、それが<非二元⇔二元自在往還>技法であり、<リゾーム⇔ツリー自在往還>技法である。

 
 
HOME --We are One Life on this planet
 2020年2月15日

わたしたちはこの星を家とするひとつのいのちだ

いのちとはなにか?

現代ではいのちは「死ねば死にきり」と、個人に属するものであるかのように受け取られている。わたしも、若いころはそうだった。だが、それだけでは、いのちを捉えることはできない。

いのちとは何か

1.    わたしたち成人のからだは、およそ 100 兆個の細胞からなる。一つひとつの細胞はいのちを持っている。わたしたちのからだは、100 兆

個のいのちの共振体である。個体としてのいのちと、共振体としてのいのちは、どう関係しているのか。あるいは、いのちは物体のように誰かに所有されるものではなく、分かち持つという形で、それにいっときだけ参画できるものなのではないか。これが、いのちへの「第 1 の問い」である。

2.        個体としてのいのちは、100 年に満たないう寿命しかない。だが、わたしたちのからだを構成する 100 兆個の細胞に、「いくつですか?」と尋ねると、すべて等しく「40 億歳だよ」という答えが返ってくる。

そう、40 億年前に、地球上のどこかで生まれた原初的な生命以来、細胞分裂と種の分化を通じて、今日の多様な姿にまで生長してきたいのちは、ただ一度も途切れることなく、今日のわれわれのからだの細胞にまで続いている。

若いころに読んだ、若きマルクスが書いた一節を思い出す。

「死はたしかに個の生命を襲う残酷な力である。だが、人間は個としての存在のみならず、類として個体の死を超えて生き続ける類的存在である」(『経済学・哲学草稿』カール・マルクス)

個としてのいのちと類としてのいのちは、どう関わっているのか? 若いころに抱え込んだ謎は、70 歳になった今もなお解ききることができない。これが、いのちをめぐる「第 2 の問い」である。

3.上の問いは、人間の個と類の問題に留まらず、人間以外のいのち全体、40 億年前の生命誕生以来、延々と続いている一つの巨大な生命潮流としてのいのちとして捉える視点が必要だ。

個のいのちが尽きれば、預かり物を返すように、わたしたちはいっとき借りていたいのちを、巨大な生命潮流としてのいのちに返す。そう理解して、死を受け入れることができるようになった。だが、それで謎が解けたわけではない。むしろ深まるばかりだ。いのちとは何か。この問いは、わたしが出会ったもっとも深い問いの一つだ。まずは、読書の方々と分かち合いたいと思う。

クオリアとは何か

からだを構成する 100 兆個の細胞のいのちに、40 億年間生き続けているすべての生きとし生けるものを含む「巨大な生命潮流としてのいのち」に耳を澄まし続けていると、いのちはいっときもじっとしていず、たえず何かと共振して微細に動き続けていることに気づく。体感とも記憶とも夢とも想像とも妄想とも分別できない、「何か捉えがたいぼおっとしたもの」がからだの中やまわりを流れているのが感じられる。それを本書では<クオリア>と呼ぶ。<クオリア>とはいのちが共振しているものすべてを指す。いのちあるものと、ないものとを分かつのは、クオリアを感じるか否かにある。どんなバクテリアやアメーバのような原始的な生き物でも、すべてクオリアを感じ、クオリア共振を通じて生き延びている。だが、コンピュータやAIなど情報処理機器は、どんなに進化してもクオリアを感じることはできない。いのちだけが感じることのできる<クオリア>とはいったい何か? それは言語や情報とどう異なるのか?

生命体としてのわたしたちにおいて言語意識が活動する以前に、からだの闇で、からだの全細胞や脳内の神経細胞間で共振している「下意識域でのクオリア共振」がまず存在する。それを基盤に、クオリアが言語化され、言語思考が成り立っ。

クオリアはいのちにしか感じられないものだが、言語化した途端、機械語に翻訳し、コンピュータなどの機器にも使用可能な情報になる。いのちにとって、意識は極小部分でしかない。むしろ、無意識や下意識の知られざる膨大な闇の中でこそ、細胞のいのちは無数のクオリアを感じ、呼吸し、共振している。

 粘菌先生たち


生命共振としてのクオリア

<クオリア>とはわたしたち人間の意識のみならず、100 兆個の細胞のすべてが感じている、<生命共振としてのクオリア>を意味する。人間だけではなくバクテリアやアメーバのような原始的な生き物のいのちも、クオリアを感じ生存のために活用している。クオリアは細胞のいのちにとって、生きるためのメインツールなのだ。

このことに気づかせてくれたのは、わたしにとってのいのちの教師「粘菌先生」たちだ。2000 年にインドに移住したとき、わたしは故郷・和歌山の南方熊楠博物館を訪れ、そこに展示してあった「キイロタマホコリカビ」のシャーレを一つ分けてもらい、こっそりヒマラヤで観察を続けた。毎夜毎夜、粘菌を眺めて暮らした。餌になる米粉小麦粉などをシャーレに入れると、一晩の間に粘菌は新しい地図を創る。

その動きは、当時発見されたばかりの大脳の海馬で生まれた新生神経細胞が、脳内の栄養物質に共振して脳内にネットワーク網を伸ばしていく動きとそっくりだった。わたしは粘菌先生から、細胞のいのちがどのようにクオリアと共振して活動しているかを目のあたりに学んだ。クオリアとは何か、という問いは、いのちとは何かという問いと同じだけ深い。

共振とは何か

ヒマラヤで、いのちに耳を澄まし続けていると、細胞のいのちが外界のあらゆるものと、微細に共振していることに気づきはじめた。そしてあらゆる現象を共振として捉え返そうという、長い試みが始まった。

ここで<共振>という言葉が出てきたのは、当時のわたしが物理学の「ひも理論」を読みこんでいた影響だ。

ひも理論によれば、それまでの物理学の標準理論の基礎になっている、電子やクオークなどの粒子や、重力、電磁気力などのエネルギーは、すべて微細な振動するひもの共振パターンの変化によってできている。

それを読んでわたしは、この宇宙のあらゆる物質やエネルギーが<ひも共>からなるのだとしたら、生命や生命が感じるクオリアもまた、ひもの共振パターンの変化によって生まれるのではないかという仮説を立てた。

共振には主体も客体もない。どちらからともなく起こる。そして、共振は違った二つのものを、共振によって一つにする。2 が 1 になったり、多が 1 になったりする。その逆も起こる。クオリア共振は意識でコントロールできるものではなく、勝手に絶えず変容流動している。数で数えられるものでもない。

これらの<いのち>、<クオリア>、そして<共振>という三つの謎を、わたしは生涯探求し続けてきた。」

 

生命クオリアの多重共振

この20年の生命クオリア共振の探求の中でなかで発見した最大のものは、生命が共振しているクオリアは、つねにいまここでの物理的な外クオリアと、細胞内に生命記憶として刻印されている内クオリアとが、二重に共振しているということだった。クオリアを内外のふたつに分類するのは、日常意識にも理解しやすくするための便法で、実際はクオリアは内外などにこだわらず、多次元的に共振している。だが、それは意識には把握しにくいので、二重共振として捉えることから始める。

各自の傷や結ぼれのクオリアを、創造に転化するのが舞踏である。共振塾では、各塾生は自分のからだの闇にくぐもっている影の人格やノット・ミー、解離された人格、思い出せない記憶、囚われている悪癖や悪夢やトラウマなど、生きるために解かねばならない謎と秘密を深く掘り下げ踊り続ける。その謎が深ければ深いほど、そのクオリアは単に個人的なものではなく、人類が共有している元型や祖型クオリアと共振しており、さらに細胞に生命記憶として刻まれている原生的なクオリアとも深淵で共振している事実に直面する。人間個人が体験する深淵のクオリアは、祖型・原生的クオリアと重層的に多重共振しているというのが、<クオリアの多重共振>である。

人間各自が個人として囚われている深い固有クオリアは、意識では思い出すことのできない乳幼児期の原体験クオリアや、分娩前後のクオリアと遠くで共振している。そして時を超えて人類の祖先が体験し、集合的無意識の底に沈んでいる元型や祖型的クオリアとも共振している。さらに40億年の歴史を持つ生命記憶の各時代の原生的なクオリアとも遠くで共振している。すべてのクオリアは重層的に多重共振しているのだ。


Description: Life-reso-turtle600


生命共振舞踏とは

わたしたちは、あらゆる生きとし生けるものの苦難と痛みと共振する。人間だけではなく生物の種を超えて、わたしたちは一つのいのちだからだ。

からだじゅうのあらゆる細胞も、草も虫の細胞もバクテリアもみなひとしく40億歳のいのちだ。「人間」という最大の思い上がりを脱ぎ、いのちになる。いのちとして共振する。それが生命共振舞踏だ。これまでサブボディ舞踏を続けてきたが、サブボディになるだけではまったく不十分だ。いのちにならなければ。世界中のいのちが生きやすい世界を創る、いのちの世界革命を担えるようにならなければ。

生命の共振力の回復

舞踏が起こそうとしている革命は、まだあまり気づかれていないが、生命の持つ共振力の回復にある。土方が書いた『病める舞姫』は、その<生命共振の奇跡>を描いたものだ。そこでは人は現代の人間観を離れ、人類最初の思想であるアニミズムに深く覆われた、見えないものと無限に共振している人々の姿が描かれている。近代の人間概念の枠の中で、人間はあまりにも自我に囚われ、他のか弱い生命や、その障害と共振する力を失っている。それは、生命の未熟な形態に他ならない。土方が目指した生命の舞踏とは、近代の物質科学によって見えなくされた背後の世界との無限の共振を回復しようとするものだった。それは人間という概念をいのちにまで拡張しようとする動きなのだ。思考を止め、からだの闇に耳を澄ますと、いのちが地球上のあらゆるものと共振していることが分かる。あらゆる障害や悲惨を含めた、幸福と不幸のすべてに共振してかすかにふるえている。なぜなら、われわれは人間であるばかりではなく、同時に地球上で40億年間生きのびてきた一つのいのちなのだから。人間が自我や自己という狭い殻を脱いで、生命としての共振力を回復することは、今世紀の課題である。それには長い年月がかかるだろう。だが、その長いプロセスをたどることだけが、世界を変える唯一確実な方法なのだ。





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秘蔵クオリアに耳を澄ます 

2020年2月10日

秘蔵クオリアに耳を澄ます

秘関(秘蔵関節)

調体五番では、秘筋、秘関、秘腔、秘液、秘膜など、日常体が忘れ去っている部位のクオリアを開く。その一が秘められた関節、秘関である。

わたしたち人間の祖先が森で暮らしていた獣や猿たちと別れ、二足歩行をし始めたとき、それまで大活躍していた多くの関節が忘れ去られ、からだの闇に沈んでいった。これを秘関と呼ぶ。そこには現代では思い出されなくなった実に多くの生命記憶が眠っている。それらのクオリアを目覚めさせ、万物への変容に使うために、この調体5番は編み出された。

主な秘関には次のようなものがある。

  仙腸関節          胸鎖関節

 

 足の忘れられた秘関    手首と指の間の秘関

 脊椎間の秘関

これらの忘れ去られた関節とそれを動かす筋肉を目覚めさせるのが調体五番の秘関調体だ。主なものを下記に示すが、可能性は無数にある。各自探求して、他の人とシェアされたい。それが共振塾のめざす共同探求者=共同産婆になることだ。

からだには200以上の関節があるが多くは忘れ去られ、使われていない

秘関三元

右脚を伸ばし、左脚を骨盤の下に折り曲げてその上に座る。すると、右の骨盤だけが浮いた状態になる。その状態で、右骨盤(腸骨)を水平・矢状・戸板の三次元方向に動かす。各次元とも時計回りに三回、反時計回りに三回まわす。そして、操体呼吸を行いながら、上体・頭部・上肢を前屈させたり、ねじったり、後屈したりする。前屈ならば息を吐きながら上体を前に伸ばし、最大限の位置で大きく息を吸い、しばらく保息する。

そしてゆっくり息を吐きながら脱力する。これを基本に、曲げた片足の上に座り込んだポジションから、じょじょに腰を浮かし、しゃがんだ姿勢、中腰の姿勢に移りながら、先と同様に、上体・頭部・上肢を前屈・後屈・捻転する。焦点は仙骨と腸骨をつないでいる多くの腱や深層筋や筋膜を十分にストレッチし、流動性を回復することにある。このなれない動きを一時間から二時間かけてじっくり行うと、秘関や秘筋が悲鳴を挙げ、さすがにぐったりとした心地になる。だが、これが大切なのだ。

「ぐったりした心持ちにつながっていなければ、人の行き交いはつかめぬものかも知れない。」

「人間追いつめられれば、からだだけで密談するようになる。」

「(漬物)石を持ち上げ、のびきった茄子を引き上げるときの中腰と、 その中腰自体の中に滲み出ている暗がり」

「この暗がりのなかに隠れることを好んだり、そこで壊されたがっているものがなければ、どうして目を開けてみることなどできるだろう。」(以上『病める舞姫』第一章)

「からだから引き上げている祖型めいたものが、ときときとした気品に混じって消えていった。」(第二章)

「わたしは廂にひっ掛かっているような怪しい位置に棲んでいたかった。」( 第三章)

『病める舞姫』では、このように心身を危機に晒すことが、からだの闇の深部に降りていく坑口にたどりつく、必須の道であるという土方巽自身の方法が、手を変え品を変えて記述されている。これまでのサブボディ技法では、からだを揺らしたり震えさせたりすることで下意識のからだ(サブボディ=コーボディ)モードに入っていったが、『病める舞姫』の微細な、見えない背後世界との生命共振の世界に降りるには、それだけでは不十分だ。土方の方法に学び、さらに困難でつらい上記のような調体と錬体が新たに必要となる。

冬場の脊椎三元(調体五番✕三番)

冬場には腰回りが縮み、硬結がおこりやすい。それを避けるために、ヒマラヤの冬場で特別の調体がうまれた。ゆっくりしたペースで固まりやすい腰回りを ほぐすことから始め、背骨や秘関、秘筋、秘腔、秘液など一つひとつのからだの踊り場をじっくり掘り進める。すると、毎日思いがけぬ発見がある。骨と骨の間に実に深いクオリアや思い出せぬ生命記憶が潜んでいる。それらはみないつかは踊りだしたがっている創造の宝庫なのだ。

秘筋(秘蔵筋肉)

からだには表層筋と深層筋がある。

表層筋は比較的まっすぐに関節と関節をつなぐ大きな筋肉で、意識で制御しやすい。日常行動やスポーツなどは、おもに表層筋で行われている。だが、からだを支え、動きの微細な調節は、意識的な表層筋だけでなされているのではない。

表層筋 深層筋   最深層筋

深層筋はまっすぐな表層筋の下を斜めにクロスに走り、無意識的にからだを支え、微妙な調節に無意識裡にたずわわっている。大脳の運動皮質の深層のみならず、意識できない小脳によって制御されている。

              頭蓋骨と頚椎間の秘筋    脊椎と骨盤・大腿骨を結ぶ大腰筋                     下肢の深層秘筋      上肢の深層秘筋 

 

 

表層筋と深層秘筋

動きの微細な表情を生み出すのは、深層筋である。意識されないからだに秘蔵されている筋肉だから、秘筋と呼んでいる。意識されず忘れ去っている秘密の関節(秘関)もまた、縦横斜めに走る秘筋によってつながっている。

深層サブボディと深層秘筋

意識されている大きな筋肉で動く雑なからだは意識にとってのメインボディであり、下意識の管轄下にある秘筋や秘関のからだはサブボディである。そこには無数のサブボディがくぐもっている。恐怖で身をすくめた記憶は秘筋と結びついている。喉元や舌の付け根の秘筋には、言いたかったのに言えなかったことがたまっている。顔の秘筋には出遅れた感情、表情がすくんだままになっている。やりたかったけれどできなかったこと、切望していたまま忘れてしまったこと、かなえられなかった願い、欲望、衝動、抑えられて封印されたからだが無数に潜んでいる。息をつめてかがんだ姿勢のまま何十年もうずくまったままになっている。その小さな人たちを解放してやる。表層筋を止め、秘筋だけで動く訓練をすることによって、一挙に見たこともない動きをするサブボディがでてくる。秘筋は命の創造の宝庫だ。

秘筋のためのツイストストレッチ

秘筋は斜めに走っているので、通常のまっすぐなストレッチでは秘筋は活性化されない。あらゆる部位を伸展位で極限までねじり、また、折りたたまれた屈曲位でねじり、ねじれ返すことが必要である。骨盤や肩甲骨、肋骨などを極限までねじった姿勢で、四肢や首をさらに動かし、触れたこともない未知の空間に未知のクオリアをまさぐる。

秘筋だけの動きを発明する

エイリアンウオーク

からだのあちこちの秘筋が、ランダムなリズムで収縮、伸展する。脚はその結果として位置を変える。決して自分で歩くのではない。

ブレイクダウン

からだを支えている秘筋が、下肢から順に弛緩して崩れ落ちる。あるいはその逆、またはランダムな崩れ。砕動による崩れ(第6章参照)など自分の崩壊のパターンを見つけからだに刷り込まれるまで練習する。

原生生物

見たこともない生き物になりこむ。人が使わない秘筋で動く生き物だ。あるいは筋肉などない絶滅したカンブリア生物や軟体動物の動きも秘筋を連動させることで生み出せる。きみだけの原生体を発明する。

傀儡体

傀儡もまた、他の力によって操られる。無限の動かされる動きをからだに刷り込む。

巣窟体

からだじゅうの秘筋に巣食ったサブボディが最小限の独特の震えやゆらぎをはじめることによって巣窟体に変成する。

異貌体

異貌の自己の動きも秘筋からなる。長い間からだの闇でうずくまっていたので奇妙な形に変形してしまっているかも知れない。ろくに歩き方やしゃべり方を覚える前にくぐもってしまったやつかもしれない。四肢や喉元、舌の付け根の秘筋を、ツイストストレッチで開放してやることで、言いたかったこと、やりたかったことを思い出すかも知れない。

十体技法へ

その他、各十体には、その十体独自の秘筋遣いがある。それをからだに蓄積していくことが十体創造の長いプロセスになる。(第11章 十体 参照)




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リゾーム=ツリー自在往還 

2020年2月5日

リゾーム⇔ツリー自在往還

リゾーム⇔ツリー自在往還とは、下意識と意識、非二元のクオリアと、二元的な言語や情報をうまくつなごうとするものだ。下意識の世界は多次元変容流動で、常にリゾーム状に変転している。これに対し、意識の世界はツリー状(階層秩序状)に構築され分別界で動いている。このまったく異なる二つの特性をうまく使ってからだの闇に降りる。

初期の頃わたしは、リゾームとツリー、クオリアと言語の二元論的な対立に囚われていたが、二元論などどこにもない。

クオリアと言語の中間の<クオリア言語>の発見が、二元論への囚われから解放してくれた(第7章「<クオリア言語>の発見)参照)。

リゾームとツリーの、両世界を自由に行き来する

クオリアと言葉の関連を透明に見る

クオリアと言葉には大きな違いがある。クオリアはいのちの共振であり、共振には主体も客体もなく、どちらからともなく起こる。言葉は頭の中で起こっている無限のクオリア変容を基礎に生まれる。

最初はあるクオリア群に特定の<ラベル>が結びつき、牛とか森とかの基本的な概念を表す<クオリア言語>が生まれる。下意識の脳内ではその<クオリア言語>が別の<クオリア言語>と共振し、と、と、と、というアンドで結びついて変容流動していく<クオリア思考>が起こっている。

それを日常言語の文法で整理し理性的な文章にする前に、からだの動きと、その原始的な<クオリア言語>でお互いの出会ったクオリアの変容流動をシェアするのが<クオリアシェア>だ。文法など無視して、クオリア思考のまま喋りシェアする。主語がすり替わったり、場面が突然変わるのもお構いなしでいい。そのクオリア思考は誰の脳にも起こっているものなので、からだの動きは容易にそれに付いていくことができる。<クオリア思考>は非二元多次元世界で共振しているので、前も後ろもない。上も下もない。階層秩序などまったく持たない。あるクオリアはいつでも流れから離れ、他の何とでも連結共振して一つになることができる。部分がいつでも全体になり、一つの全体がいつでもほかの何かの部分に繰り込まれることもある。クオリアには全体と部分、群れと個の違いもない。クオリアはそれらの制約を安安と飛び越えて自由に変容する。<クオリアシェア>によって互いの<クオリア思考>に共振できることの発見が大革命だった。

誰もが下意識の変幻自在なリゾーム=クオリアの世界と、言語意識のツリー世界とを自在に行き来できる二重の旅人になることができるようになった。サブボディ=コーボディのいのちに至るまでの苦難を共有しながら、いままでにないリゾーム共同体に近づいていくことが可能になった。

自他の壁を超えて

長い間言葉にすることはできなかったが、わたしが共有したいのは、わたしたちが囚われている自他の壁を超えて、 <他者を本当にわがこととして感じられるようになるにはどうすればいいか>という見果てぬ夢のような課題であった。だが、とうとう<クオリアシェア>によって実践的にそれに近づいていくことができるようになった。この課題は、現在の世界を未来の目から見る<未来からの目>からやってきた。わたしはそれをを埴谷雄高から学んだ。すべての問題が解決された未来社会から現在を見ることによって、何が問題になっているのかが透明になる。解くべき問題は自我であり、国家であり、二元論的な拘束である。 日常生活の目では、それを見透すことができない。だが、<サブボディ=コーボディ>や、<ドリーミングシェア>や<共振リゾーム>の実践を続けていけば次第に、次は何かが見えてくる。個人神話と世界神話の絡み合いの共創を通じて、全体としてどういう世界を生み出したいのか。どこへ行きたいのか? 次の課題がじょじょに透明に浮き出してくるだろう。だが、当面はただカオスでいい。リゾームのカオスがより集まり、うねり、高まり、プラトーとなってどこかへ動いていく。それだけでいい。それだけですでに何かの始まりなのだ




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創造性を失った日常体と、未来の自己


創造性を失った日常体と、未来の自己

頭の中の一本の木

「多くの人が頭の中に一本の木を生やしている」(『千のプラトー』ドゥルーズ=ガタリ)

「わたし」という幻想の木だ。この木から長い「自我という物語」が育つ。「自己同一性」という肯定的クオリアを無限回繰り返す内言語が紡がれる。それがいのちの創造性を阻害していることに気づかずに。

日常思考は、毎日同じクオリアを反復している

日常モードでいるとき、あなたが「わたし=自分」を感じる各瞬間ごとに、無意識裡に自分を支える無数の肯定的なクオリアを呼び寄せ、繰り返し自己の同一性を補強している。それに気づいていますか?

「わたしは大丈夫」、「わたしは強い」、「わたしは優しい」、「わたしは、これについては十分経験を積んできた。」、「わたしは、これについては経験が浅いが、何とかやり切れるだろう.....」、「わたしは....」,「わたしは.....」、「わたしは....

瞬間ごとにわたしたちはすべての肯定的なクオリアを繰り返し、自我という物語を強化し続けている。そうしないと自分からはぐれてしまう惧れがあるかのように、反復し、確認し、強化し続ける。それはまるで、そういうことをしない分裂病者の目、あるいは透明ないのちの目からみれば、なんと偏執的な神経症に掛かっているのかと見えるほどだ。

日々何千回、何万回も、自分を支える肯定的なクオリアを、無意識に繰り返して、「わたしという一本の木」を育てている。繰り返し支えていないと崩れてしまう幻想だからだ。

ひっきりなしに同じクオリアを反復しなければならないので、そこにはあるクオリアが別の珍しいクオリアと出会って新しいクオリアが生まれる<共振創発>の余地はかぎりなく少ない。それが、日常意識が創造性を発揮できない最大の理由だ。

「わたし」や自我や自己同一性が、クオリアとクオリアの意外な出会いを阻害してしまっているのだ。

「わたし」という物語から漏れ落ちたもの

稀な、珍しい、意外なクオリアの出会いによる<共振創発>は、自我の外側の下意識、サブボディー=コーボディで起こる。「わたし」という一本の木を支えるために役立たないクオリアは、「わたし」から漏れ落ち、サブボディ=コーボディとしてからだの闇に追いやられる。そこは周縁化され、解離された、稀で、奇妙で、内気で、のろまで、オロオロとしており、意外で、風変わりで、罪深く、面白いクオリアの棲家だ。それらのクオリアは、この世界とうまく共振できないクオリアたちだ。たった一度だけ経験しかけて、この世に受け入れられないことを知って、そのクオリアを二度と繰り返すことのないまま、からだの闇の奥深く沈み込む。だから、サブボディ=コーボディに出会うには、

1.うまく共振できなかったクオリアを探る。

2.一度も繰り返されたことのないクオリアを見つける。

3.それが嵩じて、こわばりや凝結、癖、心身の不自由などの<癇のクオリア>に変成してくぐもっているもの。

この三点を重点的に探ることがとりわけ重要だ。

サブボディと日常体との分岐点をつぶさに観察して、ようやくこの解に出会うことができた。土方巽が収集した多くの癇のクオリアをからだに落としているうちに、その共通点が自然と体に染み込んできた。

ドゥルーズもこの理解を助けてくれた。

「まだ一度も反復されたことのないもののなかに、未来の創造の可能性が埋まっている。」(『差異と反復』)

ドゥルーズは、「わたし」や自我や同一性が、無限回同じものを反復して着用していることを鋭く見抜いた。それらは着古されたものばかりからなっている。新鮮なものはそこには何もない。日常体が創造性から疎外されているのは、同じものを反復しているからだ。彼は、なぜ日常体が芸術や創造から疎外されているのかの理由を解明した。わたしもからだの経験から分かっていたことだが、これを読むまで、論理的には説明できなかった。ドゥルーズ、ありがとう。

同じクオリアを反復していることに気づけば、ただちに停止することだ。 人生は短い。同じものを反復し続けて歳をとってはたまらない。いっときもその繰り返しに陥るのを止め、上記三点に耳を澄まし続けることだ。24時間下意識モードになって耳を澄まし続ける。 これが日々創造性にあふれた人生を送る極意だ。
土方は下意識のからだになりこみ、癇のクオリアを発見した。ドゥルーズは日常体を批判し続けることで、この解に至った。 思えば両者と格闘し続けて半世紀が経った。 そしてようやく両者が一つになった。どちらも人類に新しい創造をもたらそうとしたものだ。つながっているのは当然だ。
だが、そのつながりの論理を見出し、共振によって一つになるのを発見し実践し続けているのは、わたしたちがはじめてだ。


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サンギータ フォーエバー リゾーム・リー
 
少女 土方巽 (1973)
2020年1月6日 

   

 

土方巽の最後のソロ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

土方巽は、最後のソロ『静かな家』(1974 年)のための、250 行に及ぶ詳細な舞踏譜を残している(全集第 2 巻)。ここには、かれが 1968 年の「肉体の叛乱」以降、それまでの挑みかかるような舞踏スタイルを脱ぎ捨て、人間という現代世界を覆う最大の元型の囚われから脱するために、必然的に到達した衰弱体技法のエッセンスが秘められている。

 

かれが希求した、「生命の呼称で呼ばれる舞踏」へ至るための遺言書でさえある。

 

これが収録されている土方巽全集は、1998 年に発行されている。

 

土方の舞踏譜は、独特の難解な暗喩に満ちているので、はじめは何を書いているのか、見当もつかなかった。だが、十年以上もこの深い闇に向き合っているうちに、だんだん自分のからだの闇からつかんだものが、この舞踏譜の世界につながっていることが感じられはじめた。

 

全部にではない。まだまだ未解明の部分は、数多く残っている。だがある日、頭ではなく、からだで透明に共振できるようになってきた。ここにくるまでに、かっきり 10 年かかったことになる。

 

『静かな家』ソロ           覚書き

 

舞踏譜は、全体で 250 行以上、27 節からなる。

 

174


今日はその第 1 節からはじめよう。

 

節番号も行番号も、原本にはない。記述の便宜のために付け加えたものだ。

 

 

第1節 「赤い神様」

 

1.   雨の中で悪事を計画する少女

 

2.   床の顔に終始する

 

3.   さけの顔に変質的にこだわる

 

4.   〇はくせいにされた春

 

5.   〇森の巣だ  目の巣だ、板の上に置かれた蛾

 

6.   〇気化した飴職人または武者絵のキリスト

 

7.   〇額をはしる細いくもの糸

 

8.   〇乞食

 

9. 〇猫の腰

 

10.  〇背後の世界

 

11. 〇ごみ処理場

 

12.  鏡をこするとゆれる花影があった

 

13.  納屋の中でもろい物音がくずれた

 

14.  カン工場

 

15.  X による還元を再生

 

16.  鏡のウラ

 

一行ずつ見ていこう。

 

「赤い神様」

 

まず誰もが、最初にこれにつまずくだろう。

 

赤い神様とはいったい何だ?

 

頭で考えているうちは謎は解けない。

 

ただ意識を止め、土方が踊りながら共振したであろう「赤い神様」と、自分もからだで共振しているうちに、闇が透けて見えてくる。

 

土方は、赤い神様と踊ったのだ。

 

自分の意志や考えで動くのではない。

 

何ものかわけの分からないものに、いやおうなく突き動かされながら動く。動かされるといっても、衰弱体の動きは、ごく微細に、しかし驚くほど多次

 

175


元的にゆらぐだけだ。

 

土方は、この自分を多次元的にゆらがせる何ものかを、「赤い神様」という象徴的な名前で呼んだ。

 

この節全体が、この自分を突き動かす得体の知れないものらに満ちている。「赤い神様」とは、それらわけの分からないものら全体の、シンボリックな呼称なのだ。

 

この一語を、西洋人に説明するときには注釈が要る。神とは、ユングが発見した集合的無意識を構成する<元型>の一種である。

 

だが、神の元型は文化圏によって大きく異なる。ここでいう神様とは、一神教文化の西洋的な神ではない。日本の神は、アニミズムの八百万の神々だ。その八百万の神々という日本固有の元型を、土方は自分なりにひねって「赤い神様」と名づけた。

 

元型に触れるときは、このひねりが重要である。

 

あるがままの元型と付き合おうとすると、必然的にそれに囚われる。元型とは、そういう強い拘束力を持ったものだ。その拘束から逃れて、何ごとかを創造するには、元型のもつ拘束力から身をかわすために、必然的に生まれるひねりが必須である。

 

その身をよじるひねりから、創造が生まれる。

 

土方は無数の元型をその舞踏に使ったが、それに拘束されてはいない。元型の力とは何か、それといかにつき合うべきかの智慧は沈理の世界、非

 

二元の闇を探る旅人には欠かせぬものである。

 

赤い神様という呼称は、わけの分からない力に身を預けて踊ろうとするものが、からだを預けながらも、ぎりぎりのところでそれに囚われずに身を守る、根源的な技能を持たねばならない。

 

それはやはり、わけの分からない強い力に身を預け憑依される、あらゆる巫女やシャーマンが持つ伝統的な智慧だ。その根源的な覚悟が、この「赤い神様」という呼称に秘められている。

 

1.雨の中で悪事を計画する少女

 

土方は、からだの闇に死んだ姉を飼っていた。

 

長年その姉に共振していると、姉との多次元的な関係が透けて見えてくる。

 

異次元との関係は三次元空間的な単純なものではない。

 

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姉が立ち上がると土方は転ぶというような複雑な関係だ。ここでも雨の中で悪事を計画する少女の計画が少しでも進むと、土方は微妙な影響を受ける。

 

そういう複雑な沈理の出会いを、無数に用意しているのがこの舞踏譜だ。

 

 

少女は、土方のアニマである。

 

舞踏譜の第 1 行目に、アニマを持ってきたことは重大である。人はその一生を賭けて、アニマの謎と格闘しなければならない存在なのだ。

 

アニマとは、内なる異性的要素である。

 

内なる異性像と外なる異性像は、絶え間なく共振している。恋愛とは、内なる異性像と共振する外なる異性との出会いである。わたしたちは、その内外クオリアの共振に、中々透明に気づけない。だからいつも、何ものかに振り回されてしまうのだ。アニマとの格闘は終生続く。

 

土方はこのとき 45 歳。

 

大野の代表作である「アルヘンチーナ」も「わたしのお母さん」も、大野のアニマである。自分のアニマと格闘し続けた土方だからこそ、大野のアニマとの生涯にわたる格闘ともよく共振し、それを振付けることができた。

 

大野がアニマを踊ったのは、70 歳から 80 歳になってからだ。若いうちは急ぐことはない。だが、覚悟はしておくほうがいい。いつかはアニマを、あるいはアニムスを踊らねばならないときがくる。

 

2.床の顔に終始する

 

床の顔とは、人間の表情をそぎ落とした、平坦な無の顔である。灰柱の歩行や、寸法の歩行の顔と、同様である。床が踏まれたり汚れたりすると、顔も微細に影響を受けひずむ。そういう微細精妙な顔を保ち続けるのが、衰弱体である。

 

3.さけの顔に変質的にこだわる

 

床の顔に終始しつつも、からだの闇から、そこに秘められている思わぬ衝動が突き上げてくる。偏執狂的な衝動は、土方自身の異貌の自己の一つである。そういう秘められ、解離されている影の人格たちにもからだを開く。

 

さけの顔は、よく見ると獰猛極まりない。肉食のさけは鷹同様の鋭い目と尖った口を持つ。そういう顔にこだわる、異貌の自己にも身を預ける。

 

ただし囚われるのではなく、絶妙のタイミングとサイズで

 

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それらが出てくる制御されたやり方で。

 

その精妙な制御術が、衰弱体には必要である。

 

4.〇はくせいにされた春

 

はくせいは、衰弱体にとって欠かせぬ変成のクオリアである。鳥や獣は、はくせいにされることで、生きていたときとは異なる時間をまとう。はくせいはゆっくりと変成する。

 

50年間、蔵のおくに仕舞われていたはくせいを取り出すと、内部が虫に喰われ、一触即壊の存在になり変わっている。ここではさらに、世界そのものがはくせいと化している。春の時空そのものが、はくせいになった世界で微細に踊る。

 

春の暖かさをはくせいにせよ。そのほんの暖かさによってさえ、一触即壊になる世界で踊れ。それが、衰弱体の世界なのだ。

 

5.〇森の巣だ   目の巣だ、板の上に置かれた蛾

 

巣は、土方独特の重要な用語である。

 

巣とは、多様なクオリアが渾然一体となったものを指す。

 

目の巣とは、腐った目や、ガラス玉の目や、死者の目や、眇めや、病んだ目や、さけや獣の目や、離見の目や、その他もろもろの目の住処であり、それらが入れ替わり立ち代わり現れる。

 

森はまた、巣同様の、しかし見知らぬクオリアたちの住処である。森の巣とは、したがって巣の巣、複雑怪奇な多次元の混淆世界を指す。そして多次元世界は、同時に非二元世界でもある。

 

たった一つの死んだ蛾でさえもまた、多次元を変容する非二元融即の世界を孕む存在である。

 

6.〇気化した飴職人または武者絵のキリスト

 

土方は若いころ、飴づくり職人のもとで働いていたことがある。その記憶は年月の中で気化し、非二元世界の住人となる。気化するとは、三次元的な空間世界の拘束から脱することだ。だから二次元の絵に描かれた世界とも、容易に共振する。

 

飴職人の顔立ちと、武者絵のキリスト像が混淆し、ゆらぎつつ入れ替わる沈理の出会いが起こる世界に入る。

 

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7.〇額を走る細いくもの糸

 

8.〇乞食

 

9.〇猫の腰

 

これらの多様なクオリアが、からだの各部に巣食う。無数の舞踏の巣のからだから、さまざまな内クオリアが立ち現れ、通り過ぎる。それらの多数多様なクオリアがただ微細なゆらぎとなって暗示される(詳しくは第 2 部第 7 章「微細管理技法」参照)。

 

 

10.〇背後の世界

 

かれを動かすのは、不可視の異次元の何ものかである。それをここでは「背後の世界」と呼ぶ。いのちはいつも、そういう世界のクオリアと共振しているからだ。

 

舞踏家は、そういう不可視の世界と微細に共振しているいのちを踊るだけだ。それらの共振は、わたしたちの意志や考えによるものではない。それを超えて勝手に起こっている。

 

舞踏家は、ただ研ぎ澄まされた異次元への微細感覚を通じて、それらの生命共振にからだを貸す。

 

背後世界に耳を澄ませ。きみにとっての背後世界とは何か?

 

戦争の死者の世界か、思い出せないものの住む世界か、胎児のころの夢か、秘められた未来への希望か、世界中の不幸か?

 

それらの世界と共振している、いのちに対する微細覚を開け。背後世界と踊れ。

 

11.〇ごみ処理場

 

背後の世界にふれるには、無数の通路がある。

 

いのちが共振しているのは、いのちあるものだけではない。いのちあるものと、いのちなきものの、共振の場所に降りていけ。

 

生命発生以来、いのちはいつもいのちなき外界と、いのちがけで共振してきた。日常世界で役目を果たして、ただ滅びていこうとしているものら。ごみ処理場のような壊れ物が集積した場所もまた、背後世界への通路の一つだ。それらのものはまた、異次元に転生していこうとする途上にある。

 

 

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12.鏡をこするとゆれる花影があった

 

三次元空間世界を成り立たせている二次元、あるいは有と無の間でゆらぐ、どちらにも属さないものらのクオリアがある。

 

鏡をこすると花影がゆれる。

 

今ここではない異次元が、ふと顔を覗かせる瞬間だ。

 

日常体は、そういうものは何でもないものとして、無視して大股でまたぎこす。だが、舞踏家はそういう瞬間に敏感だ。いのちはそういうものとも共振していることを、知っているからだ。

 

13.納屋の中でもろい物音がくずれた

 

見えないものらが立てる物音に、いのちはいつも、いのちがけで耳を澄ましている。40 億年の生命史の中では、予測などできないことが次々と起こった。一寸先に何が起こるか分からない。不可視の物音への震えを通じて、いのちは背後の異次元と共振している。

 

 

14.カン工場

 

これは記録にないので定かではないが、カン工場にも土方の個人的な思い入れがあるようだ。いのちをなくしたものが、カンに詰められ、別の時間をたどりはじめる。そしてまた食べられることによって、いのちに同化され別の生命となる。カン詰は、前記のはくせいにも通じる、転生の一つのありかたなのだ。

 

 

15.Xによる還元を再生

 

以上の多くは、X による還元としてまとめられる。

 

X  による還元というのもまた、土方の沈理の思想をよく表している。還元とは、あるものからその次元数を差し引くときに、物事が変容するあり方である。

 

X には何を代入してもよい。

 

水素が酸化してできる水から、酸素を差し引くと水素に戻る。三次元の地形から一次元を減じると、二次元の地図になる。そこからまた、三次元の地形を再生することができる。

 

顔から表情を差し引くと、床の顔になる。床の顔にモノマニアックな衝動がこみ上げると、さけの顔がふと現れる。目の前にある紙から時間を差し引

 

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くと、過去の樹木になる。その樹木は、アマゾンの密林だったかも知れない。

 

死んだ蛾は、生きた蛾から時間を差し引かれて、静止する蛾となった。だが差し引かれた生きた時間を加えることで、蛾は再生する。

 

ありとあらゆるものが、この方法で変容する。いのちは、平気でありとある変容に共振している。いのちは、日常の人間のように自他、心身、内外、生死などの二元論に束縛されていないからだ。

 

変容には自他、心身、生死の境もない。いのちが創造する夢の世界には、死者や今ここにないものが、境を越えていくらでも登場し交錯する。沈理の出会いとは、二元論や四次元時空を超えた出会いである。

 

土方の弟子が残した稽古ノートにも、この言葉が見える。

 

X  による還元とその再生は、いのちのレベルで起こっていることに学べという、土方が生徒たちに与えた想像力を鍛える試金石でもあったのだ。

 

 

(余談だが、この一行を英語に翻訳するのは実に難航した)

 

regenerate, replay, reborn, rebirth…日本語の再生は多義語である。それに「X による還元」の X が、多義性に拍車をかける。再生は、これらの英語のすべての意味を統合してはじめて成り立つ。

 

X による還元を再生する」とは、土方が生命クオリアの多次元かつ非二元の変容流動の機微を、精確に捉えようとした沈理の思想が込められている。非二元界の沈理は、とらえどころのなさをもともと持っているのだ。

 

この節の「X による還元と再生」の例題も、多数多様性を含ませている。

 

 

16.鏡のウラ

 

鏡の裏には何があるか? 何が見える?二次元や三次元の低次元思考で考えるな。これは異次元界を示す暗喩なのだ。ただいのちになって感じよ。

 

見えるものと不可視のものの間で共振している、いのちになれ。生と死のあわいで震えている、いのちになれ。

 

存在と非存在の境を越えて生きている、透明ないのちになれ!

 

土方の最後のソロ、『静かな家』のためのこのメモは、いのちの呼称で呼ばれる舞踏を開く秘伝書である。

 



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癇の花 
2020年1月6日 

   

 

土方が書いた舞踏譜の多くは、彼の弟子たちの膨大な「舞踏ノート」に記されている。

その中から土方巽アーカイブの森下隆さんが、1300あまりの基本的な舞踏譜ワードをピックアップした。10年ほど前にそこを訪れたとき、森下氏が収集した1300の中から『癇の花』に関するものを探し出した。ここに紹介するのはその一部である。便宜上3つに分類したが、仮のものである。順不同にからだで味わってください。なお、土方は初心者向けの「舞踏練習譜」も多く書きのこした(第5章「歩行」参照)。

<癇>とはなにか

この言葉は日本語の意味も多義にわたる上、英訳不能なので、どう翻訳すればよいか、何年も試行錯誤を繰り返した。そのうちに<癇>の本質とは、<生命がうまく共振できなクオリア>であることが見えてきた。あらゆる問題や、その凝り固まりが<癇>なのだと、英語では、思い切って<KanDisability>と意訳することにした。<癇>を<生命がうまく共振できないクオリア>として捉えれば、土方の舞踏譜の言葉は、多くが広義の<癇の花>に関するものだ。共振しようとしても、うまく共振できないとき、生命はただそれに耐えて、よい共振方法が見つかるまで待つ。だがそのあいだに、うまく共振できないクオリアは、からだに変調をもたらす。さらに、それが続けば、長いあいだに存在自体が<癇>に変成する。『病める舞姫』では、そういう人々が主人公として出てくる。

ここでは、

        うまく共振できない癇の体感

        心身の一部に凝結した癇
        存在全体が変成した癇

3 部に分けて紹介しよう。これらの多彩なバリエーションをからだで踊ることを通じて、<癇>とは何かをつかみとっていただきたい。

        うまく共振できない癇の体感

土方は、生命が、何かとうまく共振できないときの、一瞬の微細な体感を、実に精確に捉えている。普段は見過ごしがちな、それらの奇妙な体感群に耳を澄まして探れば、誰もが固有の<癇>を見つけることができる。

きしむ空気
えぐられて溶ける

こめかみを植物がはう

こめかみから鳥が飛び立つ

どこまでも壁に染みる

ヒビが入る

ぶれた花がさまよう

むずがゆさ

もやの中へ消える

ゆくえをからだの中に入れる

メスカリンの神経の重層

  一瞬の網の目に捕捉

  下痢に雨が降る

  体の中の針金

  体の中を機関車が通過する

  余白で成り立つ

  俯瞰される

  光に襲われる

  光の蜘蛛の巣

  兎に囓られる踝

  内臓が体の外にぶら下がる

  内臓から鶴の首が伸びる

  内臓の水路を上に辿る

  剥離 

  吸い取られる呼吸

  埃の飼育

  墓守の顔に変貌

  奥歯に染みる隙間風

 しっぽが生えて開く骨盤

   接吻されている老婆

 曖昧なものを正確に包囲

 木目をたどる指先の感触

水晶に閉じ込められる

無数の視線の通過

空間を裂く視線

耳の内部をさまよう

焦げる羽

胸の小部屋に鍵がかかる

膿をずるずると引っ張る

追いかけられる馬鹿

遠くの森から少女が近づく

闇を携えせり上がる

頭蓋の中に木の葉がはらはらと落ちる

などはその象徴だ。

誰もが無視している些細なものだが、よくよく探れば思い当たる微細な体感群だ。土方は、からだの闇に、一心に耳を澄まして、これらのクオリアを取り出した。

        心身の一部に凝結した癇

そして、それらはやがて、くぐもり、ひきつり、凝り固まって、かさぶたとなる。心身は一如なので、心の凝結とからだの変形が一つになるのだ。これらのかすかな変調も、凝り固まると、さまざまな凝結や奇妙な形に、固形化する。土方は、からだの踊り場に起こる、これらの変形し歪んだ形を収集し続けた。これらが、もっとも典型的な<癇>である。

岩の蝉の目玉
引きつったかさぶた

あばたの男

つまむ奇妙な人

ぶれたまま固まる

よだれを垂らす子供

カサカサに乾く内臓

ギブスをはめた人

ゴヤの膿の顔

ざくろ歯の顔

ドライフラワーの顔

内部に塗り込められる顔

前方にぶれてゆく顔

右目と左半分が溶けている顔

暗い煤けた顔

森の顔

爪と歯の起源

目と口の中のほこら

真に救われない顔が出る

老婆の干しぶどうの目

肉の区分けをする男

        存在全体が癇に変成

これらからだの踊り場の変調が、凝結して<癇>となる。やがてそれが全心身に波及すると、不具や奇形となる。<癇>の最終形態だ。だが、目をそむけてはならない。近代の情報管理システムによる「差別語というめくらまし」で、見ないふりをして通りすぎてはならない。これら、見放された悲惨の極地を踊り、花に転化する「生命の舞踏」だけが、かれらの不幸と真に共振できるのだ。

25年間寝たきりのフラマン

いじけた若い墓守

せむし

だらしない少女

ぼおっとした馬

アウシュビッツ

オルガンを弾く幽霊

ソコヒの少女

フラマンの剥製

ミショーの人物乞食の崩壊

人形がぶすぶすと燻る

仮面の裏の熊の顔

内股のヤモリ

剥製化した蜘蛛の巣

土塊の人形の生成と解体埃でできている人

壁に塗り込められた人

子供の顔をくわえた幽霊

密度の牛

小児麻痺の狂人

崩れてしまいそうな危うい人

湯気の膿の衣を引っさげた法王

暗い瓶が危うく立つ

紙の上で踊る虫にアウシュビッツが重層する

背後の闇に包まれている少女

…など、存在全体が<癇>そのものに変容する。これらの<癇>をいったい、いかにすれば<花>に昇華することができるか。それらをただ並べるだけでは、美とはならない。のっぴきならない生命の、ほとばしりとしての必然の踊りの中で、最適の<序破急>を発見することによって、はじめて胸が震える<花>に転化する。共振したくて仕方がないが、できない、できない、できない…長い間できないまま、耐えて、待って、待って、待って、ついに一つの、のっぴきならない動きが創発される、その瞬間を捉えて踊ることだ。そのとき、醜い癇の蠢きが、得も言われぬ美に転化して、どんないのちも共振を禁じることのできな<癇の花>に昇華する。

この極意を極めよ。からだの闇でうずくまり、くぐもり、ひきつり、かさぶたとなっているクオリアを掘り出せ。そして、それがどう動き出したがっているのか、どんな共振を求めているのか、探り抜け。誰のからだの闇にも、<癇>は存在する。ただ忘れさり、気づけなくなってしまっているだけだ。

自我という最大の<癇>

自我は、<癇>を知らない。目を背け、忘れ去ってしまっている。そんなもの俺の中にはないと、逃げ出そうとする。実は自我こそ最大の<癇>、<癇の中の癇>なのだ。自我は、自分が<癇の中の癇>であることも、もちろん知らない。自我は、<癇>から目を背けさせる、最大の<癌>である。

土方が、

「人間の条件をすべて放棄することだけは忘れないでもらいたい」


と言い続けた真意は、自我を捨て去れということだ。その自我を止めなければ、からだの闇の<癇>のクオリアからの、かすかなシグナルを捉えることさえできない。いつかは最大の<癇>である、<自我>をも踊らねばならない日が来るだろう。その日は遠い。一番最後になるかもしれないが、自我という<癇>の消滅、自我という最大の<癌>からの自己治癒は、現代人すべての課題である。

癇の歩行

舞踏譜「癇の花」に掲載した土方巽が生涯をかけて収集した癇のクオリアをからだに通す共同研究をした。そこから抜粋して下記の癇の歩行の舞踏譜を創った。

癇の歩行

1. 灰柱の歩行

2. きしむ空気

3. 内臓からこめかみへ植物が這い上がる

4. それが鳥になってこめかみから飛び立つ

5. 行方をからだに入れる

6. 機関車がからだを通り抜ける

7. えぐられて溶ける

8. からだのなかのワイヤ

9. 壁に染み込む

10 裂ける

11. 岩の蝉の目

12. 引き裂かれた神様

13. 25年寝たきりのフラマン

この舞踏譜を練習したのち、わたしは皆に宿題を出した。土方の癇のクオリアの中から深く共振できるものを選んで独自の舞踏譜を創ってくること。最低3行、最大10行ほど。すると、次の日皆がほとんど独自のクオリアを集め、土方の癇のクオリアともうまく噛み合わせて、いくつものユニークな舞踏譜が出揃って驚いた。なんだ。やればできるのか。いまままで、舞踏譜をつくるという課題に挑戦しなかったのは、わたしが言葉が苦手だという、わたし自身の限界に規制されていたに過ぎなかったことを思い知った。いつもこれに思い知らされる。産婆であるわたしが皆の創造力の爆発を抑えつけていたことに。だが、これからはこの経験をもとに、どんどん舞踏譜による舞踏の共創に挑戦していくことができそうだ。今までにない新しい地平が開かれた。



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2020年1月2日 

   

新年の小さな贈りもの

 

生命40億年目の新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。

新年の小さなプレゼントとして、書き上げたばかりの『舞踏革命実技編』をPDFでお届けします。フルファイルは要領が大きすぎてダウンロードが困難なので、ダイジェスト版にせざるを得ませんでした。全部をお読みいただきたい場合は、アマゾンでお求めください。

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まもなくアマゾンでオンデマンド出版でお求めいただくこともできるようになります。ここにはヒマラヤ20年の舞踏実験で得たあらゆる実践的・理論的成果が凝縮されています。

特に第一章から第三章と第十二章をお読みいただきたいと思います。それ以外の章は具体的な舞踏技法に特化していますが、この部分は舞踏に関係なくお読みいただけます。また、次の仕事への幕開けの位置を占めています。

わたしは現在、狭い舞踏家の世界を脱ぎ捨て、全生的な次著『生命共振哲学』の執筆に邁進しています。

『生命共振哲学』まえがき

『生命共振哲学』は来たるべき『生命共振革命』実現のための理論的かつ実践的な哲学である。
生命共振が見落とされ、あるゆる領域でいのちといのちの共振が失われている現代、わたしたちは全心身的かつ社会的領域を見直し、生命共振を覆い隠しているものの見方と、生き方を変更する必要があります。

第一章「クオリア革命」では、現代世界を覆っている物質と情報という概念が、いかに生命共振としてのクオリアを覆い隠し、目をそらしてきたかを闡明し、言語や情報が生まれる根源にある「生命共振クオリア」と、言語や情報とを自在に行き来する新しい知性への転換を提起します。

第二章「リゾーム革命」では、情報や言語が囚われているツリー状の階層秩序が、いかなる仕組みによって形成され、いかなる共同幻想の産物であるかを解明する。自然過程の中に「階層性」を見出す現代科学が、いかに「人間」の内なる階層的な共同幻想の投影によるものであるかを闡明し、それを乗り越える<リゾーム=ツリーを自在往還>する柔軟な知と行動のあり方を提起する。ヒマラヤ20年の生命共振舞踏の実験によって、振付家という単独の指導者による階層的秩序なしに、より面白いサブボディ=コ―ボディ舞踏の共創を実現したリゾーム実践を全人間関係・社会領域にまで拡張する。

第三章「共振革命」は、現代的な意識の主体幻想を撃ち、宇宙や心的・社会的領域で生起している現象を<共振>として捉える視点を提起する。現代物理学の尖端で多くの成果を生み出しつつある「超ひも理論」の「宇宙のあらゆる物質やエネルギーは、微細次元で共振しているひもの共振パターンの変化によって生成している」という<共振原理>を、物理学以外の分野にも適用し、あらゆる現象が<共振>であることを解明する。

第四章「生命革命」は、1-3章の成果を統合して、新しい「生命共振哲学」の構築を目指す。わたしの哲学上の師、フーコーやドゥルーズの生命哲学に欠けていた「クオリア」や「生命共振」、「リゾーム=ツリー自在往還」、「非二元=二元自在往還」などの実践的技法を統合し、「生命共振哲学」を再構築する。

第五章「生命共振芸術」は、これまでの狭い舞踏実験の殻を破り、全芸術領域で瞑動(動く瞑想)によっていのちの創造性を全開することによって、誰もが自分らしく生き、誰もが世界でたった一人の芸術家に生まれ変わることのできる実践的な道を切り開く。

第六章「生命共振革命」では、以上の成果を全社会領域で実現するためのリゾーム=ツリーを自在往還する組織論、非二元=二元を自在往還する運動論を展開する。

生命共振哲学は、一人ひとりが「人間」という現代最大の桎梏を脱ぎ、いのちになろうとする自己革命と、世界革命を同時進行することによってのみ実現が可能になる。世界は生命共振革命によって、生命史上はじめて<いのちの世界>として実現されるだろう。

以上のレジュメによって明らかな通り、これまで20年間舞踏家に身をやつしてきたわたしが、その小さな世界を脱ぎ捨て、革命の哲学者に転生しようとする人生最後の仕事になります。舞踏の共振塾は若い世代に任せることにしました。わたしはこれを書き上げればいつ死んでも本望です。

もし少しでも共振していただければ、一文無しのわたしの最後の仕事を完遂できるようご支援していただけないでしょうか。これが最後のお願いです。何卒よろしくお願い申し上げます。

ご支援金振込先

銀行名: 三菱UFJ銀行三宮支店

アカウント名: Ryuji Oka

アカウント番号: 462-3383192 

突然の不躾なお願い申し訳ありません。

何卒宜しくお願いします。 

リゾーム・リーこと 岡龍二

 



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土方舞踏との出会い
2020年1月2日 

   

 

  青白い人間概念が砕け散った

 わたしは 1972 年、京都大学西部講堂で行われた土方巽の「燔犠大踏艦」  1 回京都公演の現場で、青白い魂を断ち割られて立ち竦んでいた。

 暗い舞台に敷き詰められた、古畳や戸板の陰に長い間潜んでいた舞踏手た ちが、最後の最後に水俣病患者さながらの、ちぢかんだ手足をもそもそと動かして踊りだしたとき、わたしは追い詰められて泣いた。わたしの青白い人間理解は、そのとき根底から転倒させられたのだ。

 それまでわたしは、西洋哲学から学んだありきたりの人間概念、すなわち頭は理性の座、顔は良識の窓、まっすぐ意志的に動く健康なからだ、肉体の下のほうに欲望がうずまいているというような、ピラミッド型の人間理解に囚われていた。だが、土方舞踏の舞踏手たちは、顔の真ん中に無意識を噴き出し、ゆがんだからだは何者かに操られ、乗っ取られ、苦悶にゆがみ、良心なんぞは尻の穴に半分突っ込まれてぶらぶら揺れていた。わたしの青年期の人間概念は、ひとたまりもなく砕け散った。それが何とも爽快だったのだ!

 帰りの寂しい夜道、わたしはかれらの踊りをなぞるように踊り狂った。わたしは 22 歳だった。舞踏を生きたいと思った。学生結婚していたわたしの身重の妻が、わたしの狂態を諫めて止めた。

 その一夜以来、わたしは 22 年間踊らなかった。すぐに生まれた子供の子育てと、不慣れな身過ぎ世過ぎに追われて、長い間生き迷った。子育てをほぼ終えた年、まとっていたつくりかけの家を脱いで、わたしは舞踏家になった。

  わたしが舞踏家として生きる決心をしたのは、はじめて土方の舞台を見てから 22 年経た 1994 年だ。

  だが、頭の中で 22 年前に見た土方の舞踏から受けた衝撃が、まるで巨大な釣鐘で頭をゴーンと殴られたように 25 年間鳴り響いていたのだ。そのような舞踏を踊りたいと思った。だが、そのときすでに土方はこの世にいなかった。

 第  2 世代、第 3 世代の舞踏家たちが「BUTOH」と呼び変えて舞踏を名乗っていたが、わたしには、それは土方舞踏とはまるで別物に見えた。何が違

うのか、直観では違いが分るのだが、それをうまく説明できなかった。 

舞踏とは何か。わたしはただ、自分のからだの闇に潜り、土方の踊りから受けた衝撃が、どこから生まれたのかを探り続けることしかできなかった。長い間、泣いていた。舞踏とは何かを探して、闇をさまよい続けていた。からだの闇は寒いところだ。誰もいない。物音一つしない。ただ、真っ暗な暗闇に坑道を一つ、また一つと掘り続けるしかなかった。

 からだの闇を掘って、10 年があっという間に過ぎた。わたしは日本を離れ、世界を踊り歩くことも止めて、ヒマラヤ・インドに小さな練習場を開いた。日本や西洋社会にいては情報が多すぎて、からだの闇に耳を澄ますことができないと感じたからだ。ヒマラヤにきて 5 年が過ぎた。意識を消し、からだや下意識と同じくらいにまで鎮めることで、はじめてからだの中を流れ変容しているクオリア(意識ではなく、いのちが感じているあらゆるものの質感や、体感、実感の総称)がつぶさに感じられるようになる。そして、それをたどることで、ようやくわたしは、からだの闇から舞踏の巣を見つける鉱脈にたどり着いた。

  わたしは土方独りが見つけた舞踏を、誰もが自分のからだの闇を掘る中で見つけ出すことができる、坑道を探していたのだ。土方は自分の舞踏をただ踊って見せることと、自らが踊ることを止めた 1973 年以後は、弟子たちに振付けることで伝えようとした。おびただしい独特の舞踏言語が、土方全集や生徒たちのノートから伝わってくる。土方の舞踏と舞踏言語が何を伝えようとしているのか、自分のからだの中でそれと共振するクオリアを見つけ出す以外に、わたしには方法はなかった。それに 10 年かかった。

 舞踏とは何か

 土方の舞踏を、舞踏たらしめているものが三つある。

 1.人間の条件を捨て、死者狂者不具者と共振するからだになる

 2.人間界以外の異次元を開畳し、転生する

 3.異界からこの世を見つめる臨生のまなざし

 これらを抜きに、土方の舞踏はない。逆にそれ以外の、白塗りとか、ガニ股とか、たまたま現われた見かけ上の特徴から理解された舞踏理解は、どう 

でもよい仮象に惑わされた誤解でしかない。

 土方にとって舞踏とは、人間概念を拡張する闘いだった。西洋のダンスは、人間のいわゆる美しい姿や健康的な躍動のみを美とすることで、その狭い世界を形作っている。そのいわゆる「美しい」ダンスを、青年の土方は踊ろうとして踊れなかった。いわゆる日本人のガニ股の足で、バレエやモダンダンスを踊ろうとしてもこっけいでしかない。

 そこに土方は西洋流の人間概念が、すらっとした肢体、よく伸びる手足、ジャンプなど、理想的な形を美の典型として見せつけることによって、「そうできない人間に対する威嚇として働く残虐さ」を見てとったのだ。それは狭い人間概念に、人を閉じ込めようとするものではないのか。

 逆に、いわゆる西洋のダンスが美として認めないものの中に、これまでにない美を発見すること、これが土方舞踏が掘りぬいた最も本質的な、第 1 の仕事だった。

 ちなみに<開畳 >とは、英語の「fold-unfold」に対応する、わたしの造語で、<微細な空間に折り畳まれていたクオリアが開かれて出てくるさま>を指す。これからも多々、登場してくるので、注意をお願いしたい。

 人間の条件を捨てる

 土方が、舞踏の門下生たちに真っ先に伝えたことは、

人間の条件を捨てる。これだけは間違わないでくださいよ」

であった。

自分が人間だなどと思い上がっている限り、その枠に囚われ舞踏などできない。異界に転生するための、それは必須の課題なのだ。その課題は、概要三つある。

 第  1 に、土方の後期舞踏を一貫する衰弱体の収集の作業は、水俣病や、らい病、疱瘡病、老婆、愚者など、世界中の死者狂者疾者不具者と共振するクオリアの中に、美を発見することだった。ヒューマニスティックな同情などで、そうするのではない。己れのからだの闇の中に棲む、死者狂者疾者不具者が、かれらと共振してやまないのだ。それによって近代西洋文化が秘め持つ、いわゆる健常者以外を社会から掃除して締め出す、近代人間概念の持つ 

残忍な狭さを撃った。

 第  2 は、土方の作る舞台の位相は、ちょうど世阿弥の夢幻能と同じく、この世の生きた人間ではなく、人間の条件をすべて脱いだところに現われる、もう一つの人間の層に降りて踊ることだった。生者の次元ではなく、他界や前近代の人間が生きる流動的な多次元世界(わたしが「多次元」や「異次元」などと語るとき、それは「時間」をも含む「時空次元」だと思っていていただきたい。「時間」も次元であり、わたしたちは過去とも未来とも共振しうる)を開き、そこに転生する踊りを追求した。そこは、人間と動物、生者と死者が、等価に関わりあう世界である。近代的な人間の心身を脱落させることによってのみ、その世界に触れることができる。言うまでもなく土方は、この世界とその世界を自由に行き来する力を開くことで、人間概念をはるかに拡張することができることを身をもって示したのだ。 

3 の本質的な特徴は、その異次元の世界から、いわば死者の棲まう他界から、この生きた世界を臨生するまなざしだ。ただ、他界に遊ぶのではない。かれの異界からのまなざしは、いつも何事かを強烈に問うてゆらいでいる。それが何であるかは、土方の舞踏を前に、各自が自分のからだの闇のどんなクオリアが震えるのかを体験することで知るしかない。言葉でなどで言えるものではない。 

以上が、もっとも本質的な舞踏の欠かせぬ特徴である。それ以外の見掛け上の特性など、実は、必ずしもそれである必要はないものなのだ。どうでもよいものだけが、世界にはばかることで、舞踏が長いあいだ誤解されてきた。

 多次元をリゾーム的に流動する

 死者狂者疾者不具者などとの共振、異次元転生、異界からの臨生―これらが舞踏を舞踏たらしめているものである。舞踏が、人類の世界史の中で、何事か大きな革命でありうるのは、これらによっている。白塗りやガニ股などの見かけによってでないことは、明らかであろう。

 さらにいえば、土方舞踏が拓こうとした新しい人間概念の拡張の試みこそ、かつてフーコーが予言した「人間の死」、いうまでもなく、狭い近代的人間概念を脱いで、新しい生存様式と知の様式を発見していく道を開こうとする、さきがけであった。それは、とてつもないエネルギーと長い射程を持った、

 このとんでもなく縮こまった人間外念に支配される現代世界に対する転覆の試みなのだ。



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2020年1月1日 

いのちの40億年目の新年おめでとうございます 
   

2005年から15周年を記念して、サイト名を生命共振ヒマラヤに刷新しました。
わたしたちはもっと懸命に狭い「人間」を脱ぎ、いのちになる必要があります。
いのちの目を開き、いのちに起こるあらゆる現象をわがこととできるような存在になりたい。
いのちは「人間」のように判断にも思考にも感情にも囚われません。ただあらゆるものと生命共振を続けます。もし、うまく共振できないクオリアに出会ったら、いのちはうまく共振できる方法が見つかるまで待ち続けます。今年以降、そのいのちの流儀を限りなく深く探求しまだない『生命共振哲学』を掘り進めていきたいと思います。

新年から、新著『舞踏革命・実技編』のエッセンスと、それに関するビデオ講義を定期的に掲載していく予定です。


今年もどうぞよろしくお願いします。

リゾーム・リー



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