2020

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からだの闇を掘る
 
サンギータ フォーエバー リゾーム・リー
 
少女 土方巽 (1973)
2020年1月6日 

   

 

土方巽の最後のソロ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

土方巽は、最後のソロ『静かな家』(1974 年)のための、250 行に及ぶ詳細な舞踏譜を残している(全集第 2 巻)。ここには、かれが 1968 年の「肉体の叛乱」以降、それまでの挑みかかるような舞踏スタイルを脱ぎ捨て、人間という現代世界を覆う最大の元型の囚われから脱するために、必然的に到達した衰弱体技法のエッセンスが秘められている。

 

かれが希求した、「生命の呼称で呼ばれる舞踏」へ至るための遺言書でさえある。

 

これが収録されている土方巽全集は、1998 年に発行されている。

 

土方の舞踏譜は、独特の難解な暗喩に満ちているので、はじめは何を書いているのか、見当もつかなかった。だが、十年以上もこの深い闇に向き合っているうちに、だんだん自分のからだの闇からつかんだものが、この舞踏譜の世界につながっていることが感じられはじめた。

 

全部にではない。まだまだ未解明の部分は、数多く残っている。だがある日、頭ではなく、からだで透明に共振できるようになってきた。ここにくるまでに、かっきり 10 年かかったことになる。

 

『静かな家』ソロ           覚書き

 

舞踏譜は、全体で 250 行以上、27 節からなる。

 

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今日はその第 1 節からはじめよう。

 

節番号も行番号も、原本にはない。記述の便宜のために付け加えたものだ。

 

 

第1節 「赤い神様」

 

1.   雨の中で悪事を計画する少女

 

2.   床の顔に終始する

 

3.   さけの顔に変質的にこだわる

 

4.   〇はくせいにされた春

 

5.   〇森の巣だ  目の巣だ、板の上に置かれた蛾

 

6.   〇気化した飴職人または武者絵のキリスト

 

7.   〇額をはしる細いくもの糸

 

8.   〇乞食

 

9. 〇猫の腰

 

10.  〇背後の世界

 

11. 〇ごみ処理場

 

12.  鏡をこするとゆれる花影があった

 

13.  納屋の中でもろい物音がくずれた

 

14.  カン工場

 

15.  X による還元を再生

 

16.  鏡のウラ

 

一行ずつ見ていこう。

 

「赤い神様」

 

まず誰もが、最初にこれにつまずくだろう。

 

赤い神様とはいったい何だ?

 

頭で考えているうちは謎は解けない。

 

ただ意識を止め、土方が踊りながら共振したであろう「赤い神様」と、自分もからだで共振しているうちに、闇が透けて見えてくる。

 

土方は、赤い神様と踊ったのだ。

 

自分の意志や考えで動くのではない。

 

何ものかわけの分からないものに、いやおうなく突き動かされながら動く。動かされるといっても、衰弱体の動きは、ごく微細に、しかし驚くほど多次

 

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元的にゆらぐだけだ。

 

土方は、この自分を多次元的にゆらがせる何ものかを、「赤い神様」という象徴的な名前で呼んだ。

 

この節全体が、この自分を突き動かす得体の知れないものらに満ちている。「赤い神様」とは、それらわけの分からないものら全体の、シンボリックな呼称なのだ。

 

この一語を、西洋人に説明するときには注釈が要る。神とは、ユングが発見した集合的無意識を構成する<元型>の一種である。

 

だが、神の元型は文化圏によって大きく異なる。ここでいう神様とは、一神教文化の西洋的な神ではない。日本の神は、アニミズムの八百万の神々だ。その八百万の神々という日本固有の元型を、土方は自分なりにひねって「赤い神様」と名づけた。

 

元型に触れるときは、このひねりが重要である。

 

あるがままの元型と付き合おうとすると、必然的にそれに囚われる。元型とは、そういう強い拘束力を持ったものだ。その拘束から逃れて、何ごとかを創造するには、元型のもつ拘束力から身をかわすために、必然的に生まれるひねりが必須である。

 

その身をよじるひねりから、創造が生まれる。

 

土方は無数の元型をその舞踏に使ったが、それに拘束されてはいない。元型の力とは何か、それといかにつき合うべきかの智慧は沈理の世界、非

 

二元の闇を探る旅人には欠かせぬものである。

 

赤い神様という呼称は、わけの分からない力に身を預けて踊ろうとするものが、からだを預けながらも、ぎりぎりのところでそれに囚われずに身を守る、根源的な技能を持たねばならない。

 

それはやはり、わけの分からない強い力に身を預け憑依される、あらゆる巫女やシャーマンが持つ伝統的な智慧だ。その根源的な覚悟が、この「赤い神様」という呼称に秘められている。

 

1.雨の中で悪事を計画する少女

 

土方は、からだの闇に死んだ姉を飼っていた。

 

長年その姉に共振していると、姉との多次元的な関係が透けて見えてくる。

 

異次元との関係は三次元空間的な単純なものではない。

 

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姉が立ち上がると土方は転ぶというような複雑な関係だ。ここでも雨の中で悪事を計画する少女の計画が少しでも進むと、土方は微妙な影響を受ける。

 

そういう複雑な沈理の出会いを、無数に用意しているのがこの舞踏譜だ。

 

 

少女は、土方のアニマである。

 

舞踏譜の第 1 行目に、アニマを持ってきたことは重大である。人はその一生を賭けて、アニマの謎と格闘しなければならない存在なのだ。

 

アニマとは、内なる異性的要素である。

 

内なる異性像と外なる異性像は、絶え間なく共振している。恋愛とは、内なる異性像と共振する外なる異性との出会いである。わたしたちは、その内外クオリアの共振に、中々透明に気づけない。だからいつも、何ものかに振り回されてしまうのだ。アニマとの格闘は終生続く。

 

土方はこのとき 45 歳。

 

大野の代表作である「アルヘンチーナ」も「わたしのお母さん」も、大野のアニマである。自分のアニマと格闘し続けた土方だからこそ、大野のアニマとの生涯にわたる格闘ともよく共振し、それを振付けることができた。

 

大野がアニマを踊ったのは、70 歳から 80 歳になってからだ。若いうちは急ぐことはない。だが、覚悟はしておくほうがいい。いつかはアニマを、あるいはアニムスを踊らねばならないときがくる。

 

2.床の顔に終始する

 

床の顔とは、人間の表情をそぎ落とした、平坦な無の顔である。灰柱の歩行や、寸法の歩行の顔と、同様である。床が踏まれたり汚れたりすると、顔も微細に影響を受けひずむ。そういう微細精妙な顔を保ち続けるのが、衰弱体である。

 

3.さけの顔に変質的にこだわる

 

床の顔に終始しつつも、からだの闇から、そこに秘められている思わぬ衝動が突き上げてくる。偏執狂的な衝動は、土方自身の異貌の自己の一つである。そういう秘められ、解離されている影の人格たちにもからだを開く。

 

さけの顔は、よく見ると獰猛極まりない。肉食のさけは鷹同様の鋭い目と尖った口を持つ。そういう顔にこだわる、異貌の自己にも身を預ける。

 

ただし囚われるのではなく、絶妙のタイミングとサイズで

 

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それらが出てくる制御されたやり方で。

 

その精妙な制御術が、衰弱体には必要である。

 

4.〇はくせいにされた春

 

はくせいは、衰弱体にとって欠かせぬ変成のクオリアである。鳥や獣は、はくせいにされることで、生きていたときとは異なる時間をまとう。はくせいはゆっくりと変成する。

 

50年間、蔵のおくに仕舞われていたはくせいを取り出すと、内部が虫に喰われ、一触即壊の存在になり変わっている。ここではさらに、世界そのものがはくせいと化している。春の時空そのものが、はくせいになった世界で微細に踊る。

 

春の暖かさをはくせいにせよ。そのほんの暖かさによってさえ、一触即壊になる世界で踊れ。それが、衰弱体の世界なのだ。

 

5.〇森の巣だ   目の巣だ、板の上に置かれた蛾

 

巣は、土方独特の重要な用語である。

 

巣とは、多様なクオリアが渾然一体となったものを指す。

 

目の巣とは、腐った目や、ガラス玉の目や、死者の目や、眇めや、病んだ目や、さけや獣の目や、離見の目や、その他もろもろの目の住処であり、それらが入れ替わり立ち代わり現れる。

 

森はまた、巣同様の、しかし見知らぬクオリアたちの住処である。森の巣とは、したがって巣の巣、複雑怪奇な多次元の混淆世界を指す。そして多次元世界は、同時に非二元世界でもある。

 

たった一つの死んだ蛾でさえもまた、多次元を変容する非二元融即の世界を孕む存在である。

 

6.〇気化した飴職人または武者絵のキリスト

 

土方は若いころ、飴づくり職人のもとで働いていたことがある。その記憶は年月の中で気化し、非二元世界の住人となる。気化するとは、三次元的な空間世界の拘束から脱することだ。だから二次元の絵に描かれた世界とも、容易に共振する。

 

飴職人の顔立ちと、武者絵のキリスト像が混淆し、ゆらぎつつ入れ替わる沈理の出会いが起こる世界に入る。

 

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7.〇額を走る細いくもの糸

 

8.〇乞食

 

9.〇猫の腰

 

これらの多様なクオリアが、からだの各部に巣食う。無数の舞踏の巣のからだから、さまざまな内クオリアが立ち現れ、通り過ぎる。それらの多数多様なクオリアがただ微細なゆらぎとなって暗示される(詳しくは第 2 部第 7 章「微細管理技法」参照)。

 

 

10.〇背後の世界

 

かれを動かすのは、不可視の異次元の何ものかである。それをここでは「背後の世界」と呼ぶ。いのちはいつも、そういう世界のクオリアと共振しているからだ。

 

舞踏家は、そういう不可視の世界と微細に共振しているいのちを踊るだけだ。それらの共振は、わたしたちの意志や考えによるものではない。それを超えて勝手に起こっている。

 

舞踏家は、ただ研ぎ澄まされた異次元への微細感覚を通じて、それらの生命共振にからだを貸す。

 

背後世界に耳を澄ませ。きみにとっての背後世界とは何か?

 

戦争の死者の世界か、思い出せないものの住む世界か、胎児のころの夢か、秘められた未来への希望か、世界中の不幸か?

 

それらの世界と共振している、いのちに対する微細覚を開け。背後世界と踊れ。

 

11.〇ごみ処理場

 

背後の世界にふれるには、無数の通路がある。

 

いのちが共振しているのは、いのちあるものだけではない。いのちあるものと、いのちなきものの、共振の場所に降りていけ。

 

生命発生以来、いのちはいつもいのちなき外界と、いのちがけで共振してきた。日常世界で役目を果たして、ただ滅びていこうとしているものら。ごみ処理場のような壊れ物が集積した場所もまた、背後世界への通路の一つだ。それらのものはまた、異次元に転生していこうとする途上にある。

 

 

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12.鏡をこするとゆれる花影があった

 

三次元空間世界を成り立たせている二次元、あるいは有と無の間でゆらぐ、どちらにも属さないものらのクオリアがある。

 

鏡をこすると花影がゆれる。

 

今ここではない異次元が、ふと顔を覗かせる瞬間だ。

 

日常体は、そういうものは何でもないものとして、無視して大股でまたぎこす。だが、舞踏家はそういう瞬間に敏感だ。いのちはそういうものとも共振していることを、知っているからだ。

 

13.納屋の中でもろい物音がくずれた

 

見えないものらが立てる物音に、いのちはいつも、いのちがけで耳を澄ましている。40 億年の生命史の中では、予測などできないことが次々と起こった。一寸先に何が起こるか分からない。不可視の物音への震えを通じて、いのちは背後の異次元と共振している。

 

 

14.カン工場

 

これは記録にないので定かではないが、カン工場にも土方の個人的な思い入れがあるようだ。いのちをなくしたものが、カンに詰められ、別の時間をたどりはじめる。そしてまた食べられることによって、いのちに同化され別の生命となる。カン詰は、前記のはくせいにも通じる、転生の一つのありかたなのだ。

 

 

15.Xによる還元を再生

 

以上の多くは、X による還元としてまとめられる。

 

X  による還元というのもまた、土方の沈理の思想をよく表している。還元とは、あるものからその次元数を差し引くときに、物事が変容するあり方である。

 

X には何を代入してもよい。

 

水素が酸化してできる水から、酸素を差し引くと水素に戻る。三次元の地形から一次元を減じると、二次元の地図になる。そこからまた、三次元の地形を再生することができる。

 

顔から表情を差し引くと、床の顔になる。床の顔にモノマニアックな衝動がこみ上げると、さけの顔がふと現れる。目の前にある紙から時間を差し引

 

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くと、過去の樹木になる。その樹木は、アマゾンの密林だったかも知れない。

 

死んだ蛾は、生きた蛾から時間を差し引かれて、静止する蛾となった。だが差し引かれた生きた時間を加えることで、蛾は再生する。

 

ありとあらゆるものが、この方法で変容する。いのちは、平気でありとある変容に共振している。いのちは、日常の人間のように自他、心身、内外、生死などの二元論に束縛されていないからだ。

 

変容には自他、心身、生死の境もない。いのちが創造する夢の世界には、死者や今ここにないものが、境を越えていくらでも登場し交錯する。沈理の出会いとは、二元論や四次元時空を超えた出会いである。

 

土方の弟子が残した稽古ノートにも、この言葉が見える。

 

X  による還元とその再生は、いのちのレベルで起こっていることに学べという、土方が生徒たちに与えた想像力を鍛える試金石でもあったのだ。

 

 

(余談だが、この一行を英語に翻訳するのは実に難航した)

 

regenerate, replay, reborn, rebirth…日本語の再生は多義語である。それに「X による還元」の X が、多義性に拍車をかける。再生は、これらの英語のすべての意味を統合してはじめて成り立つ。

 

X による還元を再生する」とは、土方が生命クオリアの多次元かつ非二元の変容流動の機微を、精確に捉えようとした沈理の思想が込められている。非二元界の沈理は、とらえどころのなさをもともと持っているのだ。

 

この節の「X による還元と再生」の例題も、多数多様性を含ませている。

 

 

16.鏡のウラ

 

鏡の裏には何があるか? 何が見える?二次元や三次元の低次元思考で考えるな。これは異次元界を示す暗喩なのだ。ただいのちになって感じよ。

 

見えるものと不可視のものの間で共振している、いのちになれ。生と死のあわいで震えている、いのちになれ。

 

存在と非存在の境を越えて生きている、透明ないのちになれ!

 

土方の最後のソロ、『静かな家』のためのこのメモは、いのちの呼称で呼ばれる舞踏を開く秘伝書である。

 



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癇の花 
2020年1月6日 

   

 

土方が書いた舞踏譜の多くは、彼の弟子たちの膨大な「舞踏ノート」に記されている。

その中から土方巽アーカイブの森下隆さんが、1300あまりの基本的な舞踏譜ワードをピックアップした。10年ほど前にそこを訪れたとき、森下氏が収集した1300の中から『癇の花』に関するものを探し出した。ここに紹介するのはその一部である。便宜上3つに分類したが、仮のものである。順不同にからだで味わってください。なお、土方は初心者向けの「舞踏練習譜」も多く書きのこした(第5章「歩行」参照)。

<癇>とはなにか

この言葉は日本語の意味も多義にわたる上、英訳不能なので、どう翻訳すればよいか、何年も試行錯誤を繰り返した。そのうちに<癇>の本質とは、<生命がうまく共振できなクオリア>であることが見えてきた。あらゆる問題や、その凝り固まりが<癇>なのだと、英語では、思い切って<KanDisability>と意訳することにした。<癇>を<生命がうまく共振できないクオリア>として捉えれば、土方の舞踏譜の言葉は、多くが広義の<癇の花>に関するものだ。共振しようとしても、うまく共振できないとき、生命はただそれに耐えて、よい共振方法が見つかるまで待つ。だがそのあいだに、うまく共振できないクオリアは、からだに変調をもたらす。さらに、それが続けば、長いあいだに存在自体が<癇>に変成する。『病める舞姫』では、そういう人々が主人公として出てくる。

ここでは、

        うまく共振できない癇の体感

        心身の一部に凝結した癇
        存在全体が変成した癇

3 部に分けて紹介しよう。これらの多彩なバリエーションをからだで踊ることを通じて、<癇>とは何かをつかみとっていただきたい。

        うまく共振できない癇の体感

土方は、生命が、何かとうまく共振できないときの、一瞬の微細な体感を、実に精確に捉えている。普段は見過ごしがちな、それらの奇妙な体感群に耳を澄まして探れば、誰もが固有の<癇>を見つけることができる。

きしむ空気
えぐられて溶ける

こめかみを植物がはう

こめかみから鳥が飛び立つ

どこまでも壁に染みる

ヒビが入る

ぶれた花がさまよう

むずがゆさ

もやの中へ消える

ゆくえをからだの中に入れる

メスカリンの神経の重層

  一瞬の網の目に捕捉

  下痢に雨が降る

  体の中の針金

  体の中を機関車が通過する

  余白で成り立つ

  俯瞰される

  光に襲われる

  光の蜘蛛の巣

  兎に囓られる踝

  内臓が体の外にぶら下がる

  内臓から鶴の首が伸びる

  内臓の水路を上に辿る

  剥離 

  吸い取られる呼吸

  埃の飼育

  墓守の顔に変貌

  奥歯に染みる隙間風

 しっぽが生えて開く骨盤

   接吻されている老婆

 曖昧なものを正確に包囲

 木目をたどる指先の感触

水晶に閉じ込められる

無数の視線の通過

空間を裂く視線

耳の内部をさまよう

焦げる羽

胸の小部屋に鍵がかかる

膿をずるずると引っ張る

追いかけられる馬鹿

遠くの森から少女が近づく

闇を携えせり上がる

頭蓋の中に木の葉がはらはらと落ちる

などはその象徴だ。

誰もが無視している些細なものだが、よくよく探れば思い当たる微細な体感群だ。土方は、からだの闇に、一心に耳を澄まして、これらのクオリアを取り出した。

        心身の一部に凝結した癇

そして、それらはやがて、くぐもり、ひきつり、凝り固まって、かさぶたとなる。心身は一如なので、心の凝結とからだの変形が一つになるのだ。これらのかすかな変調も、凝り固まると、さまざまな凝結や奇妙な形に、固形化する。土方は、からだの踊り場に起こる、これらの変形し歪んだ形を収集し続けた。これらが、もっとも典型的な<癇>である。

岩の蝉の目玉
引きつったかさぶた

あばたの男

つまむ奇妙な人

ぶれたまま固まる

よだれを垂らす子供

カサカサに乾く内臓

ギブスをはめた人

ゴヤの膿の顔

ざくろ歯の顔

ドライフラワーの顔

内部に塗り込められる顔

前方にぶれてゆく顔

右目と左半分が溶けている顔

暗い煤けた顔

森の顔

爪と歯の起源

目と口の中のほこら

真に救われない顔が出る

老婆の干しぶどうの目

肉の区分けをする男

        存在全体が癇に変成

これらからだの踊り場の変調が、凝結して<癇>となる。やがてそれが全心身に波及すると、不具や奇形となる。<癇>の最終形態だ。だが、目をそむけてはならない。近代の情報管理システムによる「差別語というめくらまし」で、見ないふりをして通りすぎてはならない。これら、見放された悲惨の極地を踊り、花に転化する「生命の舞踏」だけが、かれらの不幸と真に共振できるのだ。

25年間寝たきりのフラマン

いじけた若い墓守

せむし

だらしない少女

ぼおっとした馬

アウシュビッツ

オルガンを弾く幽霊

ソコヒの少女

フラマンの剥製

ミショーの人物乞食の崩壊

人形がぶすぶすと燻る

仮面の裏の熊の顔

内股のヤモリ

剥製化した蜘蛛の巣

土塊の人形の生成と解体埃でできている人

壁に塗り込められた人

子供の顔をくわえた幽霊

密度の牛

小児麻痺の狂人

崩れてしまいそうな危うい人

湯気の膿の衣を引っさげた法王

暗い瓶が危うく立つ

紙の上で踊る虫にアウシュビッツが重層する

背後の闇に包まれている少女

…など、存在全体が<癇>そのものに変容する。これらの<癇>をいったい、いかにすれば<花>に昇華することができるか。それらをただ並べるだけでは、美とはならない。のっぴきならない生命の、ほとばしりとしての必然の踊りの中で、最適の<序破急>を発見することによって、はじめて胸が震える<花>に転化する。共振したくて仕方がないが、できない、できない、できない…長い間できないまま、耐えて、待って、待って、待って、ついに一つの、のっぴきならない動きが創発される、その瞬間を捉えて踊ることだ。そのとき、醜い癇の蠢きが、得も言われぬ美に転化して、どんないのちも共振を禁じることのできな<癇の花>に昇華する。

この極意を極めよ。からだの闇でうずくまり、くぐもり、ひきつり、かさぶたとなっているクオリアを掘り出せ。そして、それがどう動き出したがっているのか、どんな共振を求めているのか、探り抜け。誰のからだの闇にも、<癇>は存在する。ただ忘れさり、気づけなくなってしまっているだけだ。

自我という最大の<癇>

自我は、<癇>を知らない。目を背け、忘れ去ってしまっている。そんなもの俺の中にはないと、逃げ出そうとする。実は自我こそ最大の<癇>、<癇の中の癇>なのだ。自我は、自分が<癇の中の癇>であることも、もちろん知らない。自我は、<癇>から目を背けさせる、最大の<癌>である。

土方が、

「人間の条件をすべて放棄することだけは忘れないでもらいたい」


と言い続けた真意は、自我を捨て去れということだ。その自我を止めなければ、からだの闇の<癇>のクオリアからの、かすかなシグナルを捉えることさえできない。いつかは最大の<癇>である、<自我>をも踊らねばならない日が来るだろう。その日は遠い。一番最後になるかもしれないが、自我という<癇>の消滅、自我という最大の<癌>からの自己治癒は、現代人すべての課題である。

癇の歩行

舞踏譜「癇の花」に掲載した土方巽が生涯をかけて収集した癇のクオリアをからだに通す共同研究をした。そこから抜粋して下記の癇の歩行の舞踏譜を創った。

癇の歩行

1. 灰柱の歩行

2. きしむ空気

3. 内臓からこめかみへ植物が這い上がる

4. それが鳥になってこめかみから飛び立つ

5. 行方をからだに入れる

6. 機関車がからだを通り抜ける

7. えぐられて溶ける

8. からだのなかのワイヤ

9. 壁に染み込む

10 裂ける

11. 岩の蝉の目

12. 引き裂かれた神様

13. 25年寝たきりのフラマン

この舞踏譜を練習したのち、わたしは皆に宿題を出した。土方の癇のクオリアの中から深く共振できるものを選んで独自の舞踏譜を創ってくること。最低3行、最大10行ほど。すると、次の日皆がほとんど独自のクオリアを集め、土方の癇のクオリアともうまく噛み合わせて、いくつものユニークな舞踏譜が出揃って驚いた。なんだ。やればできるのか。いまままで、舞踏譜をつくるという課題に挑戦しなかったのは、わたしが言葉が苦手だという、わたし自身の限界に規制されていたに過ぎなかったことを思い知った。いつもこれに思い知らされる。産婆であるわたしが皆の創造力の爆発を抑えつけていたことに。だが、これからはこの経験をもとに、どんどん舞踏譜による舞踏の共創に挑戦していくことができそうだ。今までにない新しい地平が開かれた。



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2020年1月2日 

   

新年の小さな贈りもの

 

生命40億年目の新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。

新年の小さなプレゼントとして、書き上げたばかりの『舞踏革命実技編』をPDFでお届けします。フルファイルは要領が大きすぎてダウンロードが困難なので、ダイジェスト版にせざるを得ませんでした。全部をお読みいただきたい場合は、アマゾンでお求めください。

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まもなくアマゾンでオンデマンド出版でお求めいただくこともできるようになります。ここにはヒマラヤ20年の舞踏実験で得たあらゆる実践的・理論的成果が凝縮されています。

特に第一章から第三章と第十二章をお読みいただきたいと思います。それ以外の章は具体的な舞踏技法に特化していますが、この部分は舞踏に関係なくお読みいただけます。また、次の仕事への幕開けの位置を占めています。

わたしは現在、狭い舞踏家の世界を脱ぎ捨て、全生的な次著『生命共振哲学』の執筆に邁進しています。

『生命共振哲学』まえがき

『生命共振哲学』は来たるべき『生命共振革命』実現のための理論的かつ実践的な哲学である。
生命共振が見落とされ、あるゆる領域でいのちといのちの共振が失われている現代、わたしたちは全心身的かつ社会的領域を見直し、生命共振を覆い隠しているものの見方と、生き方を変更する必要があります。

第一章「クオリア革命」では、現代世界を覆っている物質と情報という概念が、いかに生命共振としてのクオリアを覆い隠し、目をそらしてきたかを闡明し、言語や情報が生まれる根源にある「生命共振クオリア」と、言語や情報とを自在に行き来する新しい知性への転換を提起します。

第二章「リゾーム革命」では、情報や言語が囚われているツリー状の階層秩序が、いかなる仕組みによって形成され、いかなる共同幻想の産物であるかを解明する。自然過程の中に「階層性」を見出す現代科学が、いかに「人間」の内なる階層的な共同幻想の投影によるものであるかを闡明し、それを乗り越える<リゾーム=ツリーを自在往還>する柔軟な知と行動のあり方を提起する。ヒマラヤ20年の生命共振舞踏の実験によって、振付家という単独の指導者による階層的秩序なしに、より面白いサブボディ=コ―ボディ舞踏の共創を実現したリゾーム実践を全人間関係・社会領域にまで拡張する。

第三章「共振革命」は、現代的な意識の主体幻想を撃ち、宇宙や心的・社会的領域で生起している現象を<共振>として捉える視点を提起する。現代物理学の尖端で多くの成果を生み出しつつある「超ひも理論」の「宇宙のあらゆる物質やエネルギーは、微細次元で共振しているひもの共振パターンの変化によって生成している」という<共振原理>を、物理学以外の分野にも適用し、あらゆる現象が<共振>であることを解明する。

第四章「生命革命」は、1-3章の成果を統合して、新しい「生命共振哲学」の構築を目指す。わたしの哲学上の師、フーコーやドゥルーズの生命哲学に欠けていた「クオリア」や「生命共振」、「リゾーム=ツリー自在往還」、「非二元=二元自在往還」などの実践的技法を統合し、「生命共振哲学」を再構築する。

第五章「生命共振芸術」は、これまでの狭い舞踏実験の殻を破り、全芸術領域で瞑動(動く瞑想)によっていのちの創造性を全開することによって、誰もが自分らしく生き、誰もが世界でたった一人の芸術家に生まれ変わることのできる実践的な道を切り開く。

第六章「生命共振革命」では、以上の成果を全社会領域で実現するためのリゾーム=ツリーを自在往還する組織論、非二元=二元を自在往還する運動論を展開する。

生命共振哲学は、一人ひとりが「人間」という現代最大の桎梏を脱ぎ、いのちになろうとする自己革命と、世界革命を同時進行することによってのみ実現が可能になる。世界は生命共振革命によって、生命史上はじめて<いのちの世界>として実現されるだろう。

以上のレジュメによって明らかな通り、これまで20年間舞踏家に身をやつしてきたわたしが、その小さな世界を脱ぎ捨て、革命の哲学者に転生しようとする人生最後の仕事になります。舞踏の共振塾は若い世代に任せることにしました。わたしはこれを書き上げればいつ死んでも本望です。

もし少しでも共振していただければ、一文無しのわたしの最後の仕事を完遂できるようご支援していただけないでしょうか。これが最後のお願いです。何卒よろしくお願い申し上げます。

ご支援金振込先

銀行名: 三菱UFJ銀行三宮支店

アカウント名: Ryuji Oka

アカウント番号: 462-3383192 

突然の不躾なお願い申し訳ありません。

何卒宜しくお願いします。 

リゾーム・リーこと 岡龍二

 



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土方舞踏との出会い
2020年1月2日 

   

 

  青白い人間概念が砕け散った

 わたしは 1972 年、京都大学西部講堂で行われた土方巽の「燔犠大踏艦」  1 回京都公演の現場で、青白い魂を断ち割られて立ち竦んでいた。

 暗い舞台に敷き詰められた、古畳や戸板の陰に長い間潜んでいた舞踏手た ちが、最後の最後に水俣病患者さながらの、ちぢかんだ手足をもそもそと動かして踊りだしたとき、わたしは追い詰められて泣いた。わたしの青白い人間理解は、そのとき根底から転倒させられたのだ。

 それまでわたしは、西洋哲学から学んだありきたりの人間概念、すなわち頭は理性の座、顔は良識の窓、まっすぐ意志的に動く健康なからだ、肉体の下のほうに欲望がうずまいているというような、ピラミッド型の人間理解に囚われていた。だが、土方舞踏の舞踏手たちは、顔の真ん中に無意識を噴き出し、ゆがんだからだは何者かに操られ、乗っ取られ、苦悶にゆがみ、良心なんぞは尻の穴に半分突っ込まれてぶらぶら揺れていた。わたしの青年期の人間概念は、ひとたまりもなく砕け散った。それが何とも爽快だったのだ!

 帰りの寂しい夜道、わたしはかれらの踊りをなぞるように踊り狂った。わたしは 22 歳だった。舞踏を生きたいと思った。学生結婚していたわたしの身重の妻が、わたしの狂態を諫めて止めた。

 その一夜以来、わたしは 22 年間踊らなかった。すぐに生まれた子供の子育てと、不慣れな身過ぎ世過ぎに追われて、長い間生き迷った。子育てをほぼ終えた年、まとっていたつくりかけの家を脱いで、わたしは舞踏家になった。

  わたしが舞踏家として生きる決心をしたのは、はじめて土方の舞台を見てから 22 年経た 1994 年だ。

  だが、頭の中で 22 年前に見た土方の舞踏から受けた衝撃が、まるで巨大な釣鐘で頭をゴーンと殴られたように 25 年間鳴り響いていたのだ。そのような舞踏を踊りたいと思った。だが、そのときすでに土方はこの世にいなかった。

 第  2 世代、第 3 世代の舞踏家たちが「BUTOH」と呼び変えて舞踏を名乗っていたが、わたしには、それは土方舞踏とはまるで別物に見えた。何が違

うのか、直観では違いが分るのだが、それをうまく説明できなかった。 

舞踏とは何か。わたしはただ、自分のからだの闇に潜り、土方の踊りから受けた衝撃が、どこから生まれたのかを探り続けることしかできなかった。長い間、泣いていた。舞踏とは何かを探して、闇をさまよい続けていた。からだの闇は寒いところだ。誰もいない。物音一つしない。ただ、真っ暗な暗闇に坑道を一つ、また一つと掘り続けるしかなかった。

 からだの闇を掘って、10 年があっという間に過ぎた。わたしは日本を離れ、世界を踊り歩くことも止めて、ヒマラヤ・インドに小さな練習場を開いた。日本や西洋社会にいては情報が多すぎて、からだの闇に耳を澄ますことができないと感じたからだ。ヒマラヤにきて 5 年が過ぎた。意識を消し、からだや下意識と同じくらいにまで鎮めることで、はじめてからだの中を流れ変容しているクオリア(意識ではなく、いのちが感じているあらゆるものの質感や、体感、実感の総称)がつぶさに感じられるようになる。そして、それをたどることで、ようやくわたしは、からだの闇から舞踏の巣を見つける鉱脈にたどり着いた。

  わたしは土方独りが見つけた舞踏を、誰もが自分のからだの闇を掘る中で見つけ出すことができる、坑道を探していたのだ。土方は自分の舞踏をただ踊って見せることと、自らが踊ることを止めた 1973 年以後は、弟子たちに振付けることで伝えようとした。おびただしい独特の舞踏言語が、土方全集や生徒たちのノートから伝わってくる。土方の舞踏と舞踏言語が何を伝えようとしているのか、自分のからだの中でそれと共振するクオリアを見つけ出す以外に、わたしには方法はなかった。それに 10 年かかった。

 舞踏とは何か

 土方の舞踏を、舞踏たらしめているものが三つある。

 1.人間の条件を捨て、死者狂者不具者と共振するからだになる

 2.人間界以外の異次元を開畳し、転生する

 3.異界からこの世を見つめる臨生のまなざし

 これらを抜きに、土方の舞踏はない。逆にそれ以外の、白塗りとか、ガニ股とか、たまたま現われた見かけ上の特徴から理解された舞踏理解は、どう 

でもよい仮象に惑わされた誤解でしかない。

 土方にとって舞踏とは、人間概念を拡張する闘いだった。西洋のダンスは、人間のいわゆる美しい姿や健康的な躍動のみを美とすることで、その狭い世界を形作っている。そのいわゆる「美しい」ダンスを、青年の土方は踊ろうとして踊れなかった。いわゆる日本人のガニ股の足で、バレエやモダンダンスを踊ろうとしてもこっけいでしかない。

 そこに土方は西洋流の人間概念が、すらっとした肢体、よく伸びる手足、ジャンプなど、理想的な形を美の典型として見せつけることによって、「そうできない人間に対する威嚇として働く残虐さ」を見てとったのだ。それは狭い人間概念に、人を閉じ込めようとするものではないのか。

 逆に、いわゆる西洋のダンスが美として認めないものの中に、これまでにない美を発見すること、これが土方舞踏が掘りぬいた最も本質的な、第 1 の仕事だった。

 ちなみに<開畳 >とは、英語の「fold-unfold」に対応する、わたしの造語で、<微細な空間に折り畳まれていたクオリアが開かれて出てくるさま>を指す。これからも多々、登場してくるので、注意をお願いしたい。

 人間の条件を捨てる

 土方が、舞踏の門下生たちに真っ先に伝えたことは、

人間の条件を捨てる。これだけは間違わないでくださいよ」

であった。

自分が人間だなどと思い上がっている限り、その枠に囚われ舞踏などできない。異界に転生するための、それは必須の課題なのだ。その課題は、概要三つある。

 第  1 に、土方の後期舞踏を一貫する衰弱体の収集の作業は、水俣病や、らい病、疱瘡病、老婆、愚者など、世界中の死者狂者疾者不具者と共振するクオリアの中に、美を発見することだった。ヒューマニスティックな同情などで、そうするのではない。己れのからだの闇の中に棲む、死者狂者疾者不具者が、かれらと共振してやまないのだ。それによって近代西洋文化が秘め持つ、いわゆる健常者以外を社会から掃除して締め出す、近代人間概念の持つ 

残忍な狭さを撃った。

 第  2 は、土方の作る舞台の位相は、ちょうど世阿弥の夢幻能と同じく、この世の生きた人間ではなく、人間の条件をすべて脱いだところに現われる、もう一つの人間の層に降りて踊ることだった。生者の次元ではなく、他界や前近代の人間が生きる流動的な多次元世界(わたしが「多次元」や「異次元」などと語るとき、それは「時間」をも含む「時空次元」だと思っていていただきたい。「時間」も次元であり、わたしたちは過去とも未来とも共振しうる)を開き、そこに転生する踊りを追求した。そこは、人間と動物、生者と死者が、等価に関わりあう世界である。近代的な人間の心身を脱落させることによってのみ、その世界に触れることができる。言うまでもなく土方は、この世界とその世界を自由に行き来する力を開くことで、人間概念をはるかに拡張することができることを身をもって示したのだ。 

3 の本質的な特徴は、その異次元の世界から、いわば死者の棲まう他界から、この生きた世界を臨生するまなざしだ。ただ、他界に遊ぶのではない。かれの異界からのまなざしは、いつも何事かを強烈に問うてゆらいでいる。それが何であるかは、土方の舞踏を前に、各自が自分のからだの闇のどんなクオリアが震えるのかを体験することで知るしかない。言葉でなどで言えるものではない。 

以上が、もっとも本質的な舞踏の欠かせぬ特徴である。それ以外の見掛け上の特性など、実は、必ずしもそれである必要はないものなのだ。どうでもよいものだけが、世界にはばかることで、舞踏が長いあいだ誤解されてきた。

 多次元をリゾーム的に流動する

 死者狂者疾者不具者などとの共振、異次元転生、異界からの臨生―これらが舞踏を舞踏たらしめているものである。舞踏が、人類の世界史の中で、何事か大きな革命でありうるのは、これらによっている。白塗りやガニ股などの見かけによってでないことは、明らかであろう。

 さらにいえば、土方舞踏が拓こうとした新しい人間概念の拡張の試みこそ、かつてフーコーが予言した「人間の死」、いうまでもなく、狭い近代的人間概念を脱いで、新しい生存様式と知の様式を発見していく道を開こうとする、さきがけであった。それは、とてつもないエネルギーと長い射程を持った、

 このとんでもなく縮こまった人間外念に支配される現代世界に対する転覆の試みなのだ。



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2020年1月1日 

いのちの40億年目の新年おめでとうございます 
   

2005年から15周年を記念して、サイト名を生命共振ヒマラヤに刷新しました。
わたしたちはもっと懸命に狭い「人間」を脱ぎ、いのちになる必要があります。
いのちの目を開き、いのちに起こるあらゆる現象をわがこととできるような存在になりたい。
いのちは「人間」のように判断にも思考にも感情にも囚われません。ただあらゆるものと生命共振を続けます。もし、うまく共振できないクオリアに出会ったら、いのちはうまく共振できる方法が見つかるまで待ち続けます。今年以降、そのいのちの流儀を限りなく深く探求しまだない『生命共振哲学』を掘り進めていきたいと思います。

新年から、新著『舞踏革命・実技編』のエッセンスと、それに関するビデオ講義を定期的に掲載していく予定です。


今年もどうぞよろしくお願いします。

リゾーム・リー



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