2020

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からだの闇を掘る
 
クオリアと弦理論y 
 2020年2月26日

 ひも理論
現代物理学の尖端のひも理論によれば宇宙の万物はすべてひもの共振パターンの変化によって生成されている。ひもは宇宙でもっとも小さい距離であるプランク長さに折り畳まれている。
プランク長さは1mのマイナス33乗、すなわち
0.00000000000000000000000000000000001m
というサイスである。原子が1mのマイナス8乗、クオークがマイナス14乗であるのに比べても極端に小さい空間で震えていることがわかる。
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図2 ひも共振があらゆる物質をつくる

ネルギーと質量
アインシュタインは、エネルギーと質量が同じものであることを発見した。それらは相互に変換することができる。相対論の有名な公式 E = mc2乗)は、エネルギーが質量に光速の自乗という巨大な定数をかけることにより相互変換が可能であることを示している。
すべての質量とエネルギーは、ひもの共振パターンの違いによってつくられている。標準物理学では、宇宙には4種類の力(相互作用)があり、重力、磁力、強い力、弱い力の4つの組み合わせによってあらゆる物質とエネルギーは生成変容するとされてきた。
11次元空間
ひも理論によれば、ひもは11次元空間で共鳴している。プランク長さに巻き込まれた6次元の極小カラビヤウ空間と、わたしたちの日常感覚でよく知られている3つの大きな空間次元と1つの時間次元、そしてひも自体がもつ1次元の合計11次元空間でひもは共振している。
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図3 6次元のカラビヤウ空間
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図4 ひもは宇宙のいたるところで共振している

<ひもの無数性>

ひもは数えることができない。ひもの持つ重要な特徴は、それが数を超えて共振連結・分離し、1つのひもがときに2つにも3つにも分離しかつまた連結によってその数を変えることができる点にある。粒子との根本的な違いだ。ひもは誰もそれを数えることができないリゾームとしての性質をもっている。
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図5 ひもは柔軟に連結・分離することでその数を変幻する
無限の共振パターン
ひもの共鳴パターンは無限である。彼らは無限にサイズ、形を変えることができる。

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図6 ひもの共振パターンは無限である
クオリアの共振パターンも無限
ひもの共振パターンが無限であると同様、クオリアもまた無限に変容流動する。宇宙に無限は一つしかないと思われるから、ひもとクオリアはどこかでつながっているだろう。その両者を結ぶものこそいのちである。

いのち
生命は地球上で40億年前に生まれた。ひも理論によると、宇宙の万物はひもの共振パタンの違いによって生成するから、生命もまたひもの独特の共振パターンによって生まれたことになる。
地球に生まれた生命は、それ以前の物質やエネルギーとはまったく異なる特別な共振パターンを持っていた。それが<生命共振としてのクオリア>である。



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非二元と二元クオリアの自在往還
2020年2月21日

非二元=八覚往還

非二元クオリアに耳を澄ます

瞑動によって日常の心身を鎮めからだの上に耳を澄ますと最初に出会うのは何ともわからない感じだ。

「これは感覚?想像?夢?幻想?情動?」

それが何であるか、すべてが混合一体化しているようで意識では判別できない不分明なものです。これを「非二元クオリア」と呼ぶ。

もともと単細胞だった生命には五感が分化していなかった。ただ一個の生命としてあらゆるクオリアと共振していた。いまもわたしたちのからだを構成する百兆個の細胞のいのちは、原初生命同様に重力、太陽の光、空気、温度、水分、音などの外界の無数のクオリアと同時に共振している。それらのいまここで共振している外クオリアばかりではなく、それらの40億年間の生命記憶のクオリアも内クオリアとして細胞内に保存されていて同時に共振している。非二元クオリアとは、これらすべての内外クオリアが混交し、一体化しているものだ。それはたえず変容しつつ流動している。これがいのちの非二元クオリアを明確に判別できない理由である。

非二元=二元ゆらぎを踊る

瞑動を続け、からだの姿勢を変えながら耳を澄ましていると、ときにある特定のクオリアが8チャンネルのクオリアとして現れてくることがある。温かい/冷たい、重い/軽いなどの体感チャンネルのクオリアや、自発的な動きのクオリアとなって出てきたり、ときには視覚的イメージや、音声・音楽の音像として訪れることもある。情動や人間関係、または世界像=自己像の変化、さらにはふと思いつく思考や言葉として現れることもある。そしてまた、非二元の国に返っていく。

これがクオリアの<非二元=二元ゆらぎ>であり、<リゾーム=ツリーゆらぎ>である。クオリアは常にそれらの間で揺らいでいる。そのゆらぎに耳を澄まし、からだの闇から出てくるものに全心身でついていくと、それがあなたのサブボディ=コーボディになる。

踊りながら、今自分は非二元クオリアを踊っているのか、どれかのチャンネルのクオリアを踊っているのか、透明に行き来すること、それが<非二元⇔二元自在往還>技法であり、<リゾーム⇔ツリー自在往還>技法である。

 
 
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 2020年2月15日

わたしたちはこの星を家とするひとつのいのちだ

いのちとはなにか?

現代ではいのちは「死ねば死にきり」と、個人に属するものであるかのように受け取られている。わたしも、若いころはそうだった。だが、それだけでは、いのちを捉えることはできない。

いのちとは何か

1.    わたしたち成人のからだは、およそ 100 兆個の細胞からなる。一つひとつの細胞はいのちを持っている。わたしたちのからだは、100 兆

個のいのちの共振体である。個体としてのいのちと、共振体としてのいのちは、どう関係しているのか。あるいは、いのちは物体のように誰かに所有されるものではなく、分かち持つという形で、それにいっときだけ参画できるものなのではないか。これが、いのちへの「第 1 の問い」である。

2.        個体としてのいのちは、100 年に満たないう寿命しかない。だが、わたしたちのからだを構成する 100 兆個の細胞に、「いくつですか?」と尋ねると、すべて等しく「40 億歳だよ」という答えが返ってくる。

そう、40 億年前に、地球上のどこかで生まれた原初的な生命以来、細胞分裂と種の分化を通じて、今日の多様な姿にまで生長してきたいのちは、ただ一度も途切れることなく、今日のわれわれのからだの細胞にまで続いている。

若いころに読んだ、若きマルクスが書いた一節を思い出す。

「死はたしかに個の生命を襲う残酷な力である。だが、人間は個としての存在のみならず、類として個体の死を超えて生き続ける類的存在である」(『経済学・哲学草稿』カール・マルクス)

個としてのいのちと類としてのいのちは、どう関わっているのか? 若いころに抱え込んだ謎は、70 歳になった今もなお解ききることができない。これが、いのちをめぐる「第 2 の問い」である。

3.上の問いは、人間の個と類の問題に留まらず、人間以外のいのち全体、40 億年前の生命誕生以来、延々と続いている一つの巨大な生命潮流としてのいのちとして捉える視点が必要だ。

個のいのちが尽きれば、預かり物を返すように、わたしたちはいっとき借りていたいのちを、巨大な生命潮流としてのいのちに返す。そう理解して、死を受け入れることができるようになった。だが、それで謎が解けたわけではない。むしろ深まるばかりだ。いのちとは何か。この問いは、わたしが出会ったもっとも深い問いの一つだ。まずは、読書の方々と分かち合いたいと思う。

クオリアとは何か

からだを構成する 100 兆個の細胞のいのちに、40 億年間生き続けているすべての生きとし生けるものを含む「巨大な生命潮流としてのいのち」に耳を澄まし続けていると、いのちはいっときもじっとしていず、たえず何かと共振して微細に動き続けていることに気づく。体感とも記憶とも夢とも想像とも妄想とも分別できない、「何か捉えがたいぼおっとしたもの」がからだの中やまわりを流れているのが感じられる。それを本書では<クオリア>と呼ぶ。<クオリア>とはいのちが共振しているものすべてを指す。いのちあるものと、ないものとを分かつのは、クオリアを感じるか否かにある。どんなバクテリアやアメーバのような原始的な生き物でも、すべてクオリアを感じ、クオリア共振を通じて生き延びている。だが、コンピュータやAIなど情報処理機器は、どんなに進化してもクオリアを感じることはできない。いのちだけが感じることのできる<クオリア>とはいったい何か? それは言語や情報とどう異なるのか?

生命体としてのわたしたちにおいて言語意識が活動する以前に、からだの闇で、からだの全細胞や脳内の神経細胞間で共振している「下意識域でのクオリア共振」がまず存在する。それを基盤に、クオリアが言語化され、言語思考が成り立っ。

クオリアはいのちにしか感じられないものだが、言語化した途端、機械語に翻訳し、コンピュータなどの機器にも使用可能な情報になる。いのちにとって、意識は極小部分でしかない。むしろ、無意識や下意識の知られざる膨大な闇の中でこそ、細胞のいのちは無数のクオリアを感じ、呼吸し、共振している。

 粘菌先生たち


生命共振としてのクオリア

<クオリア>とはわたしたち人間の意識のみならず、100 兆個の細胞のすべてが感じている、<生命共振としてのクオリア>を意味する。人間だけではなくバクテリアやアメーバのような原始的な生き物のいのちも、クオリアを感じ生存のために活用している。クオリアは細胞のいのちにとって、生きるためのメインツールなのだ。

このことに気づかせてくれたのは、わたしにとってのいのちの教師「粘菌先生」たちだ。2000 年にインドに移住したとき、わたしは故郷・和歌山の南方熊楠博物館を訪れ、そこに展示してあった「キイロタマホコリカビ」のシャーレを一つ分けてもらい、こっそりヒマラヤで観察を続けた。毎夜毎夜、粘菌を眺めて暮らした。餌になる米粉小麦粉などをシャーレに入れると、一晩の間に粘菌は新しい地図を創る。

その動きは、当時発見されたばかりの大脳の海馬で生まれた新生神経細胞が、脳内の栄養物質に共振して脳内にネットワーク網を伸ばしていく動きとそっくりだった。わたしは粘菌先生から、細胞のいのちがどのようにクオリアと共振して活動しているかを目のあたりに学んだ。クオリアとは何か、という問いは、いのちとは何かという問いと同じだけ深い。

共振とは何か

ヒマラヤで、いのちに耳を澄まし続けていると、細胞のいのちが外界のあらゆるものと、微細に共振していることに気づきはじめた。そしてあらゆる現象を共振として捉え返そうという、長い試みが始まった。

ここで<共振>という言葉が出てきたのは、当時のわたしが物理学の「ひも理論」を読みこんでいた影響だ。

ひも理論によれば、それまでの物理学の標準理論の基礎になっている、電子やクオークなどの粒子や、重力、電磁気力などのエネルギーは、すべて微細な振動するひもの共振パターンの変化によってできている。

それを読んでわたしは、この宇宙のあらゆる物質やエネルギーが<ひも共>からなるのだとしたら、生命や生命が感じるクオリアもまた、ひもの共振パターンの変化によって生まれるのではないかという仮説を立てた。

共振には主体も客体もない。どちらからともなく起こる。そして、共振は違った二つのものを、共振によって一つにする。2 が 1 になったり、多が 1 になったりする。その逆も起こる。クオリア共振は意識でコントロールできるものではなく、勝手に絶えず変容流動している。数で数えられるものでもない。

これらの<いのち>、<クオリア>、そして<共振>という三つの謎を、わたしは生涯探求し続けてきた。」

 

生命クオリアの多重共振

この20年の生命クオリア共振の探求の中でなかで発見した最大のものは、生命が共振しているクオリアは、つねにいまここでの物理的な外クオリアと、細胞内に生命記憶として刻印されている内クオリアとが、二重に共振しているということだった。クオリアを内外のふたつに分類するのは、日常意識にも理解しやすくするための便法で、実際はクオリアは内外などにこだわらず、多次元的に共振している。だが、それは意識には把握しにくいので、二重共振として捉えることから始める。

各自の傷や結ぼれのクオリアを、創造に転化するのが舞踏である。共振塾では、各塾生は自分のからだの闇にくぐもっている影の人格やノット・ミー、解離された人格、思い出せない記憶、囚われている悪癖や悪夢やトラウマなど、生きるために解かねばならない謎と秘密を深く掘り下げ踊り続ける。その謎が深ければ深いほど、そのクオリアは単に個人的なものではなく、人類が共有している元型や祖型クオリアと共振しており、さらに細胞に生命記憶として刻まれている原生的なクオリアとも深淵で共振している事実に直面する。人間個人が体験する深淵のクオリアは、祖型・原生的クオリアと重層的に多重共振しているというのが、<クオリアの多重共振>である。

人間各自が個人として囚われている深い固有クオリアは、意識では思い出すことのできない乳幼児期の原体験クオリアや、分娩前後のクオリアと遠くで共振している。そして時を超えて人類の祖先が体験し、集合的無意識の底に沈んでいる元型や祖型的クオリアとも共振している。さらに40億年の歴史を持つ生命記憶の各時代の原生的なクオリアとも遠くで共振している。すべてのクオリアは重層的に多重共振しているのだ。


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生命共振舞踏とは

わたしたちは、あらゆる生きとし生けるものの苦難と痛みと共振する。人間だけではなく生物の種を超えて、わたしたちは一つのいのちだからだ。

からだじゅうのあらゆる細胞も、草も虫の細胞もバクテリアもみなひとしく40億歳のいのちだ。「人間」という最大の思い上がりを脱ぎ、いのちになる。いのちとして共振する。それが生命共振舞踏だ。これまでサブボディ舞踏を続けてきたが、サブボディになるだけではまったく不十分だ。いのちにならなければ。世界中のいのちが生きやすい世界を創る、いのちの世界革命を担えるようにならなければ。

生命の共振力の回復

舞踏が起こそうとしている革命は、まだあまり気づかれていないが、生命の持つ共振力の回復にある。土方が書いた『病める舞姫』は、その<生命共振の奇跡>を描いたものだ。そこでは人は現代の人間観を離れ、人類最初の思想であるアニミズムに深く覆われた、見えないものと無限に共振している人々の姿が描かれている。近代の人間概念の枠の中で、人間はあまりにも自我に囚われ、他のか弱い生命や、その障害と共振する力を失っている。それは、生命の未熟な形態に他ならない。土方が目指した生命の舞踏とは、近代の物質科学によって見えなくされた背後の世界との無限の共振を回復しようとするものだった。それは人間という概念をいのちにまで拡張しようとする動きなのだ。思考を止め、からだの闇に耳を澄ますと、いのちが地球上のあらゆるものと共振していることが分かる。あらゆる障害や悲惨を含めた、幸福と不幸のすべてに共振してかすかにふるえている。なぜなら、われわれは人間であるばかりではなく、同時に地球上で40億年間生きのびてきた一つのいのちなのだから。人間が自我や自己という狭い殻を脱いで、生命としての共振力を回復することは、今世紀の課題である。それには長い年月がかかるだろう。だが、その長いプロセスをたどることだけが、世界を変える唯一確実な方法なのだ。





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秘蔵クオリアに耳を澄ます 

2020年2月10日

秘蔵クオリアに耳を澄ます

秘関(秘蔵関節)

調体五番では、秘筋、秘関、秘腔、秘液、秘膜など、日常体が忘れ去っている部位のクオリアを開く。その一が秘められた関節、秘関である。

わたしたち人間の祖先が森で暮らしていた獣や猿たちと別れ、二足歩行をし始めたとき、それまで大活躍していた多くの関節が忘れ去られ、からだの闇に沈んでいった。これを秘関と呼ぶ。そこには現代では思い出されなくなった実に多くの生命記憶が眠っている。それらのクオリアを目覚めさせ、万物への変容に使うために、この調体5番は編み出された。

主な秘関には次のようなものがある。

  仙腸関節          胸鎖関節

 

 足の忘れられた秘関    手首と指の間の秘関

 脊椎間の秘関

これらの忘れ去られた関節とそれを動かす筋肉を目覚めさせるのが調体五番の秘関調体だ。主なものを下記に示すが、可能性は無数にある。各自探求して、他の人とシェアされたい。それが共振塾のめざす共同探求者=共同産婆になることだ。

からだには200以上の関節があるが多くは忘れ去られ、使われていない

秘関三元

右脚を伸ばし、左脚を骨盤の下に折り曲げてその上に座る。すると、右の骨盤だけが浮いた状態になる。その状態で、右骨盤(腸骨)を水平・矢状・戸板の三次元方向に動かす。各次元とも時計回りに三回、反時計回りに三回まわす。そして、操体呼吸を行いながら、上体・頭部・上肢を前屈させたり、ねじったり、後屈したりする。前屈ならば息を吐きながら上体を前に伸ばし、最大限の位置で大きく息を吸い、しばらく保息する。

そしてゆっくり息を吐きながら脱力する。これを基本に、曲げた片足の上に座り込んだポジションから、じょじょに腰を浮かし、しゃがんだ姿勢、中腰の姿勢に移りながら、先と同様に、上体・頭部・上肢を前屈・後屈・捻転する。焦点は仙骨と腸骨をつないでいる多くの腱や深層筋や筋膜を十分にストレッチし、流動性を回復することにある。このなれない動きを一時間から二時間かけてじっくり行うと、秘関や秘筋が悲鳴を挙げ、さすがにぐったりとした心地になる。だが、これが大切なのだ。

「ぐったりした心持ちにつながっていなければ、人の行き交いはつかめぬものかも知れない。」

「人間追いつめられれば、からだだけで密談するようになる。」

「(漬物)石を持ち上げ、のびきった茄子を引き上げるときの中腰と、 その中腰自体の中に滲み出ている暗がり」

「この暗がりのなかに隠れることを好んだり、そこで壊されたがっているものがなければ、どうして目を開けてみることなどできるだろう。」(以上『病める舞姫』第一章)

「からだから引き上げている祖型めいたものが、ときときとした気品に混じって消えていった。」(第二章)

「わたしは廂にひっ掛かっているような怪しい位置に棲んでいたかった。」( 第三章)

『病める舞姫』では、このように心身を危機に晒すことが、からだの闇の深部に降りていく坑口にたどりつく、必須の道であるという土方巽自身の方法が、手を変え品を変えて記述されている。これまでのサブボディ技法では、からだを揺らしたり震えさせたりすることで下意識のからだ(サブボディ=コーボディ)モードに入っていったが、『病める舞姫』の微細な、見えない背後世界との生命共振の世界に降りるには、それだけでは不十分だ。土方の方法に学び、さらに困難でつらい上記のような調体と錬体が新たに必要となる。

冬場の脊椎三元(調体五番✕三番)

冬場には腰回りが縮み、硬結がおこりやすい。それを避けるために、ヒマラヤの冬場で特別の調体がうまれた。ゆっくりしたペースで固まりやすい腰回りを ほぐすことから始め、背骨や秘関、秘筋、秘腔、秘液など一つひとつのからだの踊り場をじっくり掘り進める。すると、毎日思いがけぬ発見がある。骨と骨の間に実に深いクオリアや思い出せぬ生命記憶が潜んでいる。それらはみないつかは踊りだしたがっている創造の宝庫なのだ。

秘筋(秘蔵筋肉)

からだには表層筋と深層筋がある。

表層筋は比較的まっすぐに関節と関節をつなぐ大きな筋肉で、意識で制御しやすい。日常行動やスポーツなどは、おもに表層筋で行われている。だが、からだを支え、動きの微細な調節は、意識的な表層筋だけでなされているのではない。

表層筋 深層筋   最深層筋

深層筋はまっすぐな表層筋の下を斜めにクロスに走り、無意識的にからだを支え、微妙な調節に無意識裡にたずわわっている。大脳の運動皮質の深層のみならず、意識できない小脳によって制御されている。

              頭蓋骨と頚椎間の秘筋    脊椎と骨盤・大腿骨を結ぶ大腰筋                     下肢の深層秘筋      上肢の深層秘筋 

 

 

表層筋と深層秘筋

動きの微細な表情を生み出すのは、深層筋である。意識されないからだに秘蔵されている筋肉だから、秘筋と呼んでいる。意識されず忘れ去っている秘密の関節(秘関)もまた、縦横斜めに走る秘筋によってつながっている。

深層サブボディと深層秘筋

意識されている大きな筋肉で動く雑なからだは意識にとってのメインボディであり、下意識の管轄下にある秘筋や秘関のからだはサブボディである。そこには無数のサブボディがくぐもっている。恐怖で身をすくめた記憶は秘筋と結びついている。喉元や舌の付け根の秘筋には、言いたかったのに言えなかったことがたまっている。顔の秘筋には出遅れた感情、表情がすくんだままになっている。やりたかったけれどできなかったこと、切望していたまま忘れてしまったこと、かなえられなかった願い、欲望、衝動、抑えられて封印されたからだが無数に潜んでいる。息をつめてかがんだ姿勢のまま何十年もうずくまったままになっている。その小さな人たちを解放してやる。表層筋を止め、秘筋だけで動く訓練をすることによって、一挙に見たこともない動きをするサブボディがでてくる。秘筋は命の創造の宝庫だ。

秘筋のためのツイストストレッチ

秘筋は斜めに走っているので、通常のまっすぐなストレッチでは秘筋は活性化されない。あらゆる部位を伸展位で極限までねじり、また、折りたたまれた屈曲位でねじり、ねじれ返すことが必要である。骨盤や肩甲骨、肋骨などを極限までねじった姿勢で、四肢や首をさらに動かし、触れたこともない未知の空間に未知のクオリアをまさぐる。

秘筋だけの動きを発明する

エイリアンウオーク

からだのあちこちの秘筋が、ランダムなリズムで収縮、伸展する。脚はその結果として位置を変える。決して自分で歩くのではない。

ブレイクダウン

からだを支えている秘筋が、下肢から順に弛緩して崩れ落ちる。あるいはその逆、またはランダムな崩れ。砕動による崩れ(第6章参照)など自分の崩壊のパターンを見つけからだに刷り込まれるまで練習する。

原生生物

見たこともない生き物になりこむ。人が使わない秘筋で動く生き物だ。あるいは筋肉などない絶滅したカンブリア生物や軟体動物の動きも秘筋を連動させることで生み出せる。きみだけの原生体を発明する。

傀儡体

傀儡もまた、他の力によって操られる。無限の動かされる動きをからだに刷り込む。

巣窟体

からだじゅうの秘筋に巣食ったサブボディが最小限の独特の震えやゆらぎをはじめることによって巣窟体に変成する。

異貌体

異貌の自己の動きも秘筋からなる。長い間からだの闇でうずくまっていたので奇妙な形に変形してしまっているかも知れない。ろくに歩き方やしゃべり方を覚える前にくぐもってしまったやつかもしれない。四肢や喉元、舌の付け根の秘筋を、ツイストストレッチで開放してやることで、言いたかったこと、やりたかったことを思い出すかも知れない。

十体技法へ

その他、各十体には、その十体独自の秘筋遣いがある。それをからだに蓄積していくことが十体創造の長いプロセスになる。(第11章 十体 参照)




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リゾーム=ツリー自在往還 

2020年2月5日

リゾーム⇔ツリー自在往還

リゾーム⇔ツリー自在往還とは、下意識と意識、非二元のクオリアと、二元的な言語や情報をうまくつなごうとするものだ。下意識の世界は多次元変容流動で、常にリゾーム状に変転している。これに対し、意識の世界はツリー状(階層秩序状)に構築され分別界で動いている。このまったく異なる二つの特性をうまく使ってからだの闇に降りる。

初期の頃わたしは、リゾームとツリー、クオリアと言語の二元論的な対立に囚われていたが、二元論などどこにもない。

クオリアと言語の中間の<クオリア言語>の発見が、二元論への囚われから解放してくれた(第7章「<クオリア言語>の発見)参照)。

リゾームとツリーの、両世界を自由に行き来する

クオリアと言葉の関連を透明に見る

クオリアと言葉には大きな違いがある。クオリアはいのちの共振であり、共振には主体も客体もなく、どちらからともなく起こる。言葉は頭の中で起こっている無限のクオリア変容を基礎に生まれる。

最初はあるクオリア群に特定の<ラベル>が結びつき、牛とか森とかの基本的な概念を表す<クオリア言語>が生まれる。下意識の脳内ではその<クオリア言語>が別の<クオリア言語>と共振し、と、と、と、というアンドで結びついて変容流動していく<クオリア思考>が起こっている。

それを日常言語の文法で整理し理性的な文章にする前に、からだの動きと、その原始的な<クオリア言語>でお互いの出会ったクオリアの変容流動をシェアするのが<クオリアシェア>だ。文法など無視して、クオリア思考のまま喋りシェアする。主語がすり替わったり、場面が突然変わるのもお構いなしでいい。そのクオリア思考は誰の脳にも起こっているものなので、からだの動きは容易にそれに付いていくことができる。<クオリア思考>は非二元多次元世界で共振しているので、前も後ろもない。上も下もない。階層秩序などまったく持たない。あるクオリアはいつでも流れから離れ、他の何とでも連結共振して一つになることができる。部分がいつでも全体になり、一つの全体がいつでもほかの何かの部分に繰り込まれることもある。クオリアには全体と部分、群れと個の違いもない。クオリアはそれらの制約を安安と飛び越えて自由に変容する。<クオリアシェア>によって互いの<クオリア思考>に共振できることの発見が大革命だった。

誰もが下意識の変幻自在なリゾーム=クオリアの世界と、言語意識のツリー世界とを自在に行き来できる二重の旅人になることができるようになった。サブボディ=コーボディのいのちに至るまでの苦難を共有しながら、いままでにないリゾーム共同体に近づいていくことが可能になった。

自他の壁を超えて

長い間言葉にすることはできなかったが、わたしが共有したいのは、わたしたちが囚われている自他の壁を超えて、 <他者を本当にわがこととして感じられるようになるにはどうすればいいか>という見果てぬ夢のような課題であった。だが、とうとう<クオリアシェア>によって実践的にそれに近づいていくことができるようになった。この課題は、現在の世界を未来の目から見る<未来からの目>からやってきた。わたしはそれをを埴谷雄高から学んだ。すべての問題が解決された未来社会から現在を見ることによって、何が問題になっているのかが透明になる。解くべき問題は自我であり、国家であり、二元論的な拘束である。 日常生活の目では、それを見透すことができない。だが、<サブボディ=コーボディ>や、<ドリーミングシェア>や<共振リゾーム>の実践を続けていけば次第に、次は何かが見えてくる。個人神話と世界神話の絡み合いの共創を通じて、全体としてどういう世界を生み出したいのか。どこへ行きたいのか? 次の課題がじょじょに透明に浮き出してくるだろう。だが、当面はただカオスでいい。リゾームのカオスがより集まり、うねり、高まり、プラトーとなってどこかへ動いていく。それだけでいい。それだけですでに何かの始まりなのだ




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創造性を失った日常体と、未来の自己


創造性を失った日常体と、未来の自己

頭の中の一本の木

「多くの人が頭の中に一本の木を生やしている」(『千のプラトー』ドゥルーズ=ガタリ)

「わたし」という幻想の木だ。この木から長い「自我という物語」が育つ。「自己同一性」という肯定的クオリアを無限回繰り返す内言語が紡がれる。それがいのちの創造性を阻害していることに気づかずに。

日常思考は、毎日同じクオリアを反復している

日常モードでいるとき、あなたが「わたし=自分」を感じる各瞬間ごとに、無意識裡に自分を支える無数の肯定的なクオリアを呼び寄せ、繰り返し自己の同一性を補強している。それに気づいていますか?

「わたしは大丈夫」、「わたしは強い」、「わたしは優しい」、「わたしは、これについては十分経験を積んできた。」、「わたしは、これについては経験が浅いが、何とかやり切れるだろう.....」、「わたしは....」,「わたしは.....」、「わたしは....

瞬間ごとにわたしたちはすべての肯定的なクオリアを繰り返し、自我という物語を強化し続けている。そうしないと自分からはぐれてしまう惧れがあるかのように、反復し、確認し、強化し続ける。それはまるで、そういうことをしない分裂病者の目、あるいは透明ないのちの目からみれば、なんと偏執的な神経症に掛かっているのかと見えるほどだ。

日々何千回、何万回も、自分を支える肯定的なクオリアを、無意識に繰り返して、「わたしという一本の木」を育てている。繰り返し支えていないと崩れてしまう幻想だからだ。

ひっきりなしに同じクオリアを反復しなければならないので、そこにはあるクオリアが別の珍しいクオリアと出会って新しいクオリアが生まれる<共振創発>の余地はかぎりなく少ない。それが、日常意識が創造性を発揮できない最大の理由だ。

「わたし」や自我や自己同一性が、クオリアとクオリアの意外な出会いを阻害してしまっているのだ。

「わたし」という物語から漏れ落ちたもの

稀な、珍しい、意外なクオリアの出会いによる<共振創発>は、自我の外側の下意識、サブボディー=コーボディで起こる。「わたし」という一本の木を支えるために役立たないクオリアは、「わたし」から漏れ落ち、サブボディ=コーボディとしてからだの闇に追いやられる。そこは周縁化され、解離された、稀で、奇妙で、内気で、のろまで、オロオロとしており、意外で、風変わりで、罪深く、面白いクオリアの棲家だ。それらのクオリアは、この世界とうまく共振できないクオリアたちだ。たった一度だけ経験しかけて、この世に受け入れられないことを知って、そのクオリアを二度と繰り返すことのないまま、からだの闇の奥深く沈み込む。だから、サブボディ=コーボディに出会うには、

1.うまく共振できなかったクオリアを探る。

2.一度も繰り返されたことのないクオリアを見つける。

3.それが嵩じて、こわばりや凝結、癖、心身の不自由などの<癇のクオリア>に変成してくぐもっているもの。

この三点を重点的に探ることがとりわけ重要だ。

サブボディと日常体との分岐点をつぶさに観察して、ようやくこの解に出会うことができた。土方巽が収集した多くの癇のクオリアをからだに落としているうちに、その共通点が自然と体に染み込んできた。

ドゥルーズもこの理解を助けてくれた。

「まだ一度も反復されたことのないもののなかに、未来の創造の可能性が埋まっている。」(『差異と反復』)

ドゥルーズは、「わたし」や自我や同一性が、無限回同じものを反復して着用していることを鋭く見抜いた。それらは着古されたものばかりからなっている。新鮮なものはそこには何もない。日常体が創造性から疎外されているのは、同じものを反復しているからだ。彼は、なぜ日常体が芸術や創造から疎外されているのかの理由を解明した。わたしもからだの経験から分かっていたことだが、これを読むまで、論理的には説明できなかった。ドゥルーズ、ありがとう。

同じクオリアを反復していることに気づけば、ただちに停止することだ。 人生は短い。同じものを反復し続けて歳をとってはたまらない。いっときもその繰り返しに陥るのを止め、上記三点に耳を澄まし続けることだ。24時間下意識モードになって耳を澄まし続ける。 これが日々創造性にあふれた人生を送る極意だ。
土方は下意識のからだになりこみ、癇のクオリアを発見した。ドゥルーズは日常体を批判し続けることで、この解に至った。 思えば両者と格闘し続けて半世紀が経った。 そしてようやく両者が一つになった。どちらも人類に新しい創造をもたらそうとしたものだ。つながっているのは当然だ。
だが、そのつながりの論理を見出し、共振によって一つになるのを発見し実践し続けているのは、わたしたちがはじめてだ。


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サンギータ フォーエバー リゾーム・リー
 
少女 土方巽 (1973)
2020年1月6日 

   

 

土方巽の最後のソロ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

土方巽は、最後のソロ『静かな家』(1974 年)のための、250 行に及ぶ詳細な舞踏譜を残している(全集第 2 巻)。ここには、かれが 1968 年の「肉体の叛乱」以降、それまでの挑みかかるような舞踏スタイルを脱ぎ捨て、人間という現代世界を覆う最大の元型の囚われから脱するために、必然的に到達した衰弱体技法のエッセンスが秘められている。

 

かれが希求した、「生命の呼称で呼ばれる舞踏」へ至るための遺言書でさえある。

 

これが収録されている土方巽全集は、1998 年に発行されている。

 

土方の舞踏譜は、独特の難解な暗喩に満ちているので、はじめは何を書いているのか、見当もつかなかった。だが、十年以上もこの深い闇に向き合っているうちに、だんだん自分のからだの闇からつかんだものが、この舞踏譜の世界につながっていることが感じられはじめた。

 

全部にではない。まだまだ未解明の部分は、数多く残っている。だがある日、頭ではなく、からだで透明に共振できるようになってきた。ここにくるまでに、かっきり 10 年かかったことになる。

 

『静かな家』ソロ           覚書き

 

舞踏譜は、全体で 250 行以上、27 節からなる。

 

174


今日はその第 1 節からはじめよう。

 

節番号も行番号も、原本にはない。記述の便宜のために付け加えたものだ。

 

 

第1節 「赤い神様」

 

1.   雨の中で悪事を計画する少女

 

2.   床の顔に終始する

 

3.   さけの顔に変質的にこだわる

 

4.   〇はくせいにされた春

 

5.   〇森の巣だ  目の巣だ、板の上に置かれた蛾

 

6.   〇気化した飴職人または武者絵のキリスト

 

7.   〇額をはしる細いくもの糸

 

8.   〇乞食

 

9. 〇猫の腰

 

10.  〇背後の世界

 

11. 〇ごみ処理場

 

12.  鏡をこするとゆれる花影があった

 

13.  納屋の中でもろい物音がくずれた

 

14.  カン工場

 

15.  X による還元を再生

 

16.  鏡のウラ

 

一行ずつ見ていこう。

 

「赤い神様」

 

まず誰もが、最初にこれにつまずくだろう。

 

赤い神様とはいったい何だ?

 

頭で考えているうちは謎は解けない。

 

ただ意識を止め、土方が踊りながら共振したであろう「赤い神様」と、自分もからだで共振しているうちに、闇が透けて見えてくる。

 

土方は、赤い神様と踊ったのだ。

 

自分の意志や考えで動くのではない。

 

何ものかわけの分からないものに、いやおうなく突き動かされながら動く。動かされるといっても、衰弱体の動きは、ごく微細に、しかし驚くほど多次

 

175


元的にゆらぐだけだ。

 

土方は、この自分を多次元的にゆらがせる何ものかを、「赤い神様」という象徴的な名前で呼んだ。

 

この節全体が、この自分を突き動かす得体の知れないものらに満ちている。「赤い神様」とは、それらわけの分からないものら全体の、シンボリックな呼称なのだ。

 

この一語を、西洋人に説明するときには注釈が要る。神とは、ユングが発見した集合的無意識を構成する<元型>の一種である。

 

だが、神の元型は文化圏によって大きく異なる。ここでいう神様とは、一神教文化の西洋的な神ではない。日本の神は、アニミズムの八百万の神々だ。その八百万の神々という日本固有の元型を、土方は自分なりにひねって「赤い神様」と名づけた。

 

元型に触れるときは、このひねりが重要である。

 

あるがままの元型と付き合おうとすると、必然的にそれに囚われる。元型とは、そういう強い拘束力を持ったものだ。その拘束から逃れて、何ごとかを創造するには、元型のもつ拘束力から身をかわすために、必然的に生まれるひねりが必須である。

 

その身をよじるひねりから、創造が生まれる。

 

土方は無数の元型をその舞踏に使ったが、それに拘束されてはいない。元型の力とは何か、それといかにつき合うべきかの智慧は沈理の世界、非

 

二元の闇を探る旅人には欠かせぬものである。

 

赤い神様という呼称は、わけの分からない力に身を預けて踊ろうとするものが、からだを預けながらも、ぎりぎりのところでそれに囚われずに身を守る、根源的な技能を持たねばならない。

 

それはやはり、わけの分からない強い力に身を預け憑依される、あらゆる巫女やシャーマンが持つ伝統的な智慧だ。その根源的な覚悟が、この「赤い神様」という呼称に秘められている。

 

1.雨の中で悪事を計画する少女

 

土方は、からだの闇に死んだ姉を飼っていた。

 

長年その姉に共振していると、姉との多次元的な関係が透けて見えてくる。

 

異次元との関係は三次元空間的な単純なものではない。

 

176


姉が立ち上がると土方は転ぶというような複雑な関係だ。ここでも雨の中で悪事を計画する少女の計画が少しでも進むと、土方は微妙な影響を受ける。

 

そういう複雑な沈理の出会いを、無数に用意しているのがこの舞踏譜だ。

 

 

少女は、土方のアニマである。

 

舞踏譜の第 1 行目に、アニマを持ってきたことは重大である。人はその一生を賭けて、アニマの謎と格闘しなければならない存在なのだ。

 

アニマとは、内なる異性的要素である。

 

内なる異性像と外なる異性像は、絶え間なく共振している。恋愛とは、内なる異性像と共振する外なる異性との出会いである。わたしたちは、その内外クオリアの共振に、中々透明に気づけない。だからいつも、何ものかに振り回されてしまうのだ。アニマとの格闘は終生続く。

 

土方はこのとき 45 歳。

 

大野の代表作である「アルヘンチーナ」も「わたしのお母さん」も、大野のアニマである。自分のアニマと格闘し続けた土方だからこそ、大野のアニマとの生涯にわたる格闘ともよく共振し、それを振付けることができた。

 

大野がアニマを踊ったのは、70 歳から 80 歳になってからだ。若いうちは急ぐことはない。だが、覚悟はしておくほうがいい。いつかはアニマを、あるいはアニムスを踊らねばならないときがくる。

 

2.床の顔に終始する

 

床の顔とは、人間の表情をそぎ落とした、平坦な無の顔である。灰柱の歩行や、寸法の歩行の顔と、同様である。床が踏まれたり汚れたりすると、顔も微細に影響を受けひずむ。そういう微細精妙な顔を保ち続けるのが、衰弱体である。

 

3.さけの顔に変質的にこだわる

 

床の顔に終始しつつも、からだの闇から、そこに秘められている思わぬ衝動が突き上げてくる。偏執狂的な衝動は、土方自身の異貌の自己の一つである。そういう秘められ、解離されている影の人格たちにもからだを開く。

 

さけの顔は、よく見ると獰猛極まりない。肉食のさけは鷹同様の鋭い目と尖った口を持つ。そういう顔にこだわる、異貌の自己にも身を預ける。

 

ただし囚われるのではなく、絶妙のタイミングとサイズで

 

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それらが出てくる制御されたやり方で。

 

その精妙な制御術が、衰弱体には必要である。

 

4.〇はくせいにされた春

 

はくせいは、衰弱体にとって欠かせぬ変成のクオリアである。鳥や獣は、はくせいにされることで、生きていたときとは異なる時間をまとう。はくせいはゆっくりと変成する。

 

50年間、蔵のおくに仕舞われていたはくせいを取り出すと、内部が虫に喰われ、一触即壊の存在になり変わっている。ここではさらに、世界そのものがはくせいと化している。春の時空そのものが、はくせいになった世界で微細に踊る。

 

春の暖かさをはくせいにせよ。そのほんの暖かさによってさえ、一触即壊になる世界で踊れ。それが、衰弱体の世界なのだ。

 

5.〇森の巣だ   目の巣だ、板の上に置かれた蛾

 

巣は、土方独特の重要な用語である。

 

巣とは、多様なクオリアが渾然一体となったものを指す。

 

目の巣とは、腐った目や、ガラス玉の目や、死者の目や、眇めや、病んだ目や、さけや獣の目や、離見の目や、その他もろもろの目の住処であり、それらが入れ替わり立ち代わり現れる。

 

森はまた、巣同様の、しかし見知らぬクオリアたちの住処である。森の巣とは、したがって巣の巣、複雑怪奇な多次元の混淆世界を指す。そして多次元世界は、同時に非二元世界でもある。

 

たった一つの死んだ蛾でさえもまた、多次元を変容する非二元融即の世界を孕む存在である。

 

6.〇気化した飴職人または武者絵のキリスト

 

土方は若いころ、飴づくり職人のもとで働いていたことがある。その記憶は年月の中で気化し、非二元世界の住人となる。気化するとは、三次元的な空間世界の拘束から脱することだ。だから二次元の絵に描かれた世界とも、容易に共振する。

 

飴職人の顔立ちと、武者絵のキリスト像が混淆し、ゆらぎつつ入れ替わる沈理の出会いが起こる世界に入る。

 

178


7.〇額を走る細いくもの糸

 

8.〇乞食

 

9.〇猫の腰

 

これらの多様なクオリアが、からだの各部に巣食う。無数の舞踏の巣のからだから、さまざまな内クオリアが立ち現れ、通り過ぎる。それらの多数多様なクオリアがただ微細なゆらぎとなって暗示される(詳しくは第 2 部第 7 章「微細管理技法」参照)。

 

 

10.〇背後の世界

 

かれを動かすのは、不可視の異次元の何ものかである。それをここでは「背後の世界」と呼ぶ。いのちはいつも、そういう世界のクオリアと共振しているからだ。

 

舞踏家は、そういう不可視の世界と微細に共振しているいのちを踊るだけだ。それらの共振は、わたしたちの意志や考えによるものではない。それを超えて勝手に起こっている。

 

舞踏家は、ただ研ぎ澄まされた異次元への微細感覚を通じて、それらの生命共振にからだを貸す。

 

背後世界に耳を澄ませ。きみにとっての背後世界とは何か?

 

戦争の死者の世界か、思い出せないものの住む世界か、胎児のころの夢か、秘められた未来への希望か、世界中の不幸か?

 

それらの世界と共振している、いのちに対する微細覚を開け。背後世界と踊れ。

 

11.〇ごみ処理場

 

背後の世界にふれるには、無数の通路がある。

 

いのちが共振しているのは、いのちあるものだけではない。いのちあるものと、いのちなきものの、共振の場所に降りていけ。

 

生命発生以来、いのちはいつもいのちなき外界と、いのちがけで共振してきた。日常世界で役目を果たして、ただ滅びていこうとしているものら。ごみ処理場のような壊れ物が集積した場所もまた、背後世界への通路の一つだ。それらのものはまた、異次元に転生していこうとする途上にある。

 

 

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12.鏡をこするとゆれる花影があった

 

三次元空間世界を成り立たせている二次元、あるいは有と無の間でゆらぐ、どちらにも属さないものらのクオリアがある。

 

鏡をこすると花影がゆれる。

 

今ここではない異次元が、ふと顔を覗かせる瞬間だ。

 

日常体は、そういうものは何でもないものとして、無視して大股でまたぎこす。だが、舞踏家はそういう瞬間に敏感だ。いのちはそういうものとも共振していることを、知っているからだ。

 

13.納屋の中でもろい物音がくずれた

 

見えないものらが立てる物音に、いのちはいつも、いのちがけで耳を澄ましている。40 億年の生命史の中では、予測などできないことが次々と起こった。一寸先に何が起こるか分からない。不可視の物音への震えを通じて、いのちは背後の異次元と共振している。

 

 

14.カン工場

 

これは記録にないので定かではないが、カン工場にも土方の個人的な思い入れがあるようだ。いのちをなくしたものが、カンに詰められ、別の時間をたどりはじめる。そしてまた食べられることによって、いのちに同化され別の生命となる。カン詰は、前記のはくせいにも通じる、転生の一つのありかたなのだ。

 

 

15.Xによる還元を再生

 

以上の多くは、X による還元としてまとめられる。

 

X  による還元というのもまた、土方の沈理の思想をよく表している。還元とは、あるものからその次元数を差し引くときに、物事が変容するあり方である。

 

X には何を代入してもよい。

 

水素が酸化してできる水から、酸素を差し引くと水素に戻る。三次元の地形から一次元を減じると、二次元の地図になる。そこからまた、三次元の地形を再生することができる。

 

顔から表情を差し引くと、床の顔になる。床の顔にモノマニアックな衝動がこみ上げると、さけの顔がふと現れる。目の前にある紙から時間を差し引

 

180


くと、過去の樹木になる。その樹木は、アマゾンの密林だったかも知れない。

 

死んだ蛾は、生きた蛾から時間を差し引かれて、静止する蛾となった。だが差し引かれた生きた時間を加えることで、蛾は再生する。

 

ありとあらゆるものが、この方法で変容する。いのちは、平気でありとある変容に共振している。いのちは、日常の人間のように自他、心身、内外、生死などの二元論に束縛されていないからだ。

 

変容には自他、心身、生死の境もない。いのちが創造する夢の世界には、死者や今ここにないものが、境を越えていくらでも登場し交錯する。沈理の出会いとは、二元論や四次元時空を超えた出会いである。

 

土方の弟子が残した稽古ノートにも、この言葉が見える。

 

X  による還元とその再生は、いのちのレベルで起こっていることに学べという、土方が生徒たちに与えた想像力を鍛える試金石でもあったのだ。

 

 

(余談だが、この一行を英語に翻訳するのは実に難航した)

 

regenerate, replay, reborn, rebirth…日本語の再生は多義語である。それに「X による還元」の X が、多義性に拍車をかける。再生は、これらの英語のすべての意味を統合してはじめて成り立つ。

 

X による還元を再生する」とは、土方が生命クオリアの多次元かつ非二元の変容流動の機微を、精確に捉えようとした沈理の思想が込められている。非二元界の沈理は、とらえどころのなさをもともと持っているのだ。

 

この節の「X による還元と再生」の例題も、多数多様性を含ませている。

 

 

16.鏡のウラ

 

鏡の裏には何があるか? 何が見える?二次元や三次元の低次元思考で考えるな。これは異次元界を示す暗喩なのだ。ただいのちになって感じよ。

 

見えるものと不可視のものの間で共振している、いのちになれ。生と死のあわいで震えている、いのちになれ。

 

存在と非存在の境を越えて生きている、透明ないのちになれ!

 

土方の最後のソロ、『静かな家』のためのこのメモは、いのちの呼称で呼ばれる舞踏を開く秘伝書である。

 



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癇の花 
2020年1月6日 

   

 

土方が書いた舞踏譜の多くは、彼の弟子たちの膨大な「舞踏ノート」に記されている。

その中から土方巽アーカイブの森下隆さんが、1300あまりの基本的な舞踏譜ワードをピックアップした。10年ほど前にそこを訪れたとき、森下氏が収集した1300の中から『癇の花』に関するものを探し出した。ここに紹介するのはその一部である。便宜上3つに分類したが、仮のものである。順不同にからだで味わってください。なお、土方は初心者向けの「舞踏練習譜」も多く書きのこした(第5章「歩行」参照)。

<癇>とはなにか

この言葉は日本語の意味も多義にわたる上、英訳不能なので、どう翻訳すればよいか、何年も試行錯誤を繰り返した。そのうちに<癇>の本質とは、<生命がうまく共振できなクオリア>であることが見えてきた。あらゆる問題や、その凝り固まりが<癇>なのだと、英語では、思い切って<KanDisability>と意訳することにした。<癇>を<生命がうまく共振できないクオリア>として捉えれば、土方の舞踏譜の言葉は、多くが広義の<癇の花>に関するものだ。共振しようとしても、うまく共振できないとき、生命はただそれに耐えて、よい共振方法が見つかるまで待つ。だがそのあいだに、うまく共振できないクオリアは、からだに変調をもたらす。さらに、それが続けば、長いあいだに存在自体が<癇>に変成する。『病める舞姫』では、そういう人々が主人公として出てくる。

ここでは、

        うまく共振できない癇の体感

        心身の一部に凝結した癇
        存在全体が変成した癇

3 部に分けて紹介しよう。これらの多彩なバリエーションをからだで踊ることを通じて、<癇>とは何かをつかみとっていただきたい。

        うまく共振できない癇の体感

土方は、生命が、何かとうまく共振できないときの、一瞬の微細な体感を、実に精確に捉えている。普段は見過ごしがちな、それらの奇妙な体感群に耳を澄まして探れば、誰もが固有の<癇>を見つけることができる。

きしむ空気
えぐられて溶ける

こめかみを植物がはう

こめかみから鳥が飛び立つ

どこまでも壁に染みる

ヒビが入る

ぶれた花がさまよう

むずがゆさ

もやの中へ消える

ゆくえをからだの中に入れる

メスカリンの神経の重層

  一瞬の網の目に捕捉

  下痢に雨が降る

  体の中の針金

  体の中を機関車が通過する

  余白で成り立つ

  俯瞰される

  光に襲われる

  光の蜘蛛の巣

  兎に囓られる踝

  内臓が体の外にぶら下がる

  内臓から鶴の首が伸びる

  内臓の水路を上に辿る

  剥離 

  吸い取られる呼吸

  埃の飼育

  墓守の顔に変貌

  奥歯に染みる隙間風

 しっぽが生えて開く骨盤

   接吻されている老婆

 曖昧なものを正確に包囲

 木目をたどる指先の感触

水晶に閉じ込められる

無数の視線の通過

空間を裂く視線

耳の内部をさまよう

焦げる羽

胸の小部屋に鍵がかかる

膿をずるずると引っ張る

追いかけられる馬鹿

遠くの森から少女が近づく

闇を携えせり上がる

頭蓋の中に木の葉がはらはらと落ちる

などはその象徴だ。

誰もが無視している些細なものだが、よくよく探れば思い当たる微細な体感群だ。土方は、からだの闇に、一心に耳を澄まして、これらのクオリアを取り出した。

        心身の一部に凝結した癇

そして、それらはやがて、くぐもり、ひきつり、凝り固まって、かさぶたとなる。心身は一如なので、心の凝結とからだの変形が一つになるのだ。これらのかすかな変調も、凝り固まると、さまざまな凝結や奇妙な形に、固形化する。土方は、からだの踊り場に起こる、これらの変形し歪んだ形を収集し続けた。これらが、もっとも典型的な<癇>である。

岩の蝉の目玉
引きつったかさぶた

あばたの男

つまむ奇妙な人

ぶれたまま固まる

よだれを垂らす子供

カサカサに乾く内臓

ギブスをはめた人

ゴヤの膿の顔

ざくろ歯の顔

ドライフラワーの顔

内部に塗り込められる顔

前方にぶれてゆく顔

右目と左半分が溶けている顔

暗い煤けた顔

森の顔

爪と歯の起源

目と口の中のほこら

真に救われない顔が出る

老婆の干しぶどうの目

肉の区分けをする男

        存在全体が癇に変成

これらからだの踊り場の変調が、凝結して<癇>となる。やがてそれが全心身に波及すると、不具や奇形となる。<癇>の最終形態だ。だが、目をそむけてはならない。近代の情報管理システムによる「差別語というめくらまし」で、見ないふりをして通りすぎてはならない。これら、見放された悲惨の極地を踊り、花に転化する「生命の舞踏」だけが、かれらの不幸と真に共振できるのだ。

25年間寝たきりのフラマン

いじけた若い墓守

せむし

だらしない少女

ぼおっとした馬

アウシュビッツ

オルガンを弾く幽霊

ソコヒの少女

フラマンの剥製

ミショーの人物乞食の崩壊

人形がぶすぶすと燻る

仮面の裏の熊の顔

内股のヤモリ

剥製化した蜘蛛の巣

土塊の人形の生成と解体埃でできている人

壁に塗り込められた人

子供の顔をくわえた幽霊

密度の牛

小児麻痺の狂人

崩れてしまいそうな危うい人

湯気の膿の衣を引っさげた法王

暗い瓶が危うく立つ

紙の上で踊る虫にアウシュビッツが重層する

背後の闇に包まれている少女

…など、存在全体が<癇>そのものに変容する。これらの<癇>をいったい、いかにすれば<花>に昇華することができるか。それらをただ並べるだけでは、美とはならない。のっぴきならない生命の、ほとばしりとしての必然の踊りの中で、最適の<序破急>を発見することによって、はじめて胸が震える<花>に転化する。共振したくて仕方がないが、できない、できない、できない…長い間できないまま、耐えて、待って、待って、待って、ついに一つの、のっぴきならない動きが創発される、その瞬間を捉えて踊ることだ。そのとき、醜い癇の蠢きが、得も言われぬ美に転化して、どんないのちも共振を禁じることのできな<癇の花>に昇華する。

この極意を極めよ。からだの闇でうずくまり、くぐもり、ひきつり、かさぶたとなっているクオリアを掘り出せ。そして、それがどう動き出したがっているのか、どんな共振を求めているのか、探り抜け。誰のからだの闇にも、<癇>は存在する。ただ忘れさり、気づけなくなってしまっているだけだ。

自我という最大の<癇>

自我は、<癇>を知らない。目を背け、忘れ去ってしまっている。そんなもの俺の中にはないと、逃げ出そうとする。実は自我こそ最大の<癇>、<癇の中の癇>なのだ。自我は、自分が<癇の中の癇>であることも、もちろん知らない。自我は、<癇>から目を背けさせる、最大の<癌>である。

土方が、

「人間の条件をすべて放棄することだけは忘れないでもらいたい」


と言い続けた真意は、自我を捨て去れということだ。その自我を止めなければ、からだの闇の<癇>のクオリアからの、かすかなシグナルを捉えることさえできない。いつかは最大の<癇>である、<自我>をも踊らねばならない日が来るだろう。その日は遠い。一番最後になるかもしれないが、自我という<癇>の消滅、自我という最大の<癌>からの自己治癒は、現代人すべての課題である。

癇の歩行

舞踏譜「癇の花」に掲載した土方巽が生涯をかけて収集した癇のクオリアをからだに通す共同研究をした。そこから抜粋して下記の癇の歩行の舞踏譜を創った。

癇の歩行

1. 灰柱の歩行

2. きしむ空気

3. 内臓からこめかみへ植物が這い上がる

4. それが鳥になってこめかみから飛び立つ

5. 行方をからだに入れる

6. 機関車がからだを通り抜ける

7. えぐられて溶ける

8. からだのなかのワイヤ

9. 壁に染み込む

10 裂ける

11. 岩の蝉の目

12. 引き裂かれた神様

13. 25年寝たきりのフラマン

この舞踏譜を練習したのち、わたしは皆に宿題を出した。土方の癇のクオリアの中から深く共振できるものを選んで独自の舞踏譜を創ってくること。最低3行、最大10行ほど。すると、次の日皆がほとんど独自のクオリアを集め、土方の癇のクオリアともうまく噛み合わせて、いくつものユニークな舞踏譜が出揃って驚いた。なんだ。やればできるのか。いまままで、舞踏譜をつくるという課題に挑戦しなかったのは、わたしが言葉が苦手だという、わたし自身の限界に規制されていたに過ぎなかったことを思い知った。いつもこれに思い知らされる。産婆であるわたしが皆の創造力の爆発を抑えつけていたことに。だが、これからはこの経験をもとに、どんどん舞踏譜による舞踏の共創に挑戦していくことができそうだ。今までにない新しい地平が開かれた。



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2020年1月2日 

   

新年の小さな贈りもの

 

生命40億年目の新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。

新年の小さなプレゼントとして、書き上げたばかりの『舞踏革命実技編』をPDFでお届けします。フルファイルは要領が大きすぎてダウンロードが困難なので、ダイジェスト版にせざるを得ませんでした。全部をお読みいただきたい場合は、アマゾンでお求めください。

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まもなくアマゾンでオンデマンド出版でお求めいただくこともできるようになります。ここにはヒマラヤ20年の舞踏実験で得たあらゆる実践的・理論的成果が凝縮されています。

特に第一章から第三章と第十二章をお読みいただきたいと思います。それ以外の章は具体的な舞踏技法に特化していますが、この部分は舞踏に関係なくお読みいただけます。また、次の仕事への幕開けの位置を占めています。

わたしは現在、狭い舞踏家の世界を脱ぎ捨て、全生的な次著『生命共振哲学』の執筆に邁進しています。

『生命共振哲学』まえがき

『生命共振哲学』は来たるべき『生命共振革命』実現のための理論的かつ実践的な哲学である。
生命共振が見落とされ、あるゆる領域でいのちといのちの共振が失われている現代、わたしたちは全心身的かつ社会的領域を見直し、生命共振を覆い隠しているものの見方と、生き方を変更する必要があります。

第一章「クオリア革命」では、現代世界を覆っている物質と情報という概念が、いかに生命共振としてのクオリアを覆い隠し、目をそらしてきたかを闡明し、言語や情報が生まれる根源にある「生命共振クオリア」と、言語や情報とを自在に行き来する新しい知性への転換を提起します。

第二章「リゾーム革命」では、情報や言語が囚われているツリー状の階層秩序が、いかなる仕組みによって形成され、いかなる共同幻想の産物であるかを解明する。自然過程の中に「階層性」を見出す現代科学が、いかに「人間」の内なる階層的な共同幻想の投影によるものであるかを闡明し、それを乗り越える<リゾーム=ツリーを自在往還>する柔軟な知と行動のあり方を提起する。ヒマラヤ20年の生命共振舞踏の実験によって、振付家という単独の指導者による階層的秩序なしに、より面白いサブボディ=コ―ボディ舞踏の共創を実現したリゾーム実践を全人間関係・社会領域にまで拡張する。

第三章「共振革命」は、現代的な意識の主体幻想を撃ち、宇宙や心的・社会的領域で生起している現象を<共振>として捉える視点を提起する。現代物理学の尖端で多くの成果を生み出しつつある「超ひも理論」の「宇宙のあらゆる物質やエネルギーは、微細次元で共振しているひもの共振パターンの変化によって生成している」という<共振原理>を、物理学以外の分野にも適用し、あらゆる現象が<共振>であることを解明する。

第四章「生命革命」は、1-3章の成果を統合して、新しい「生命共振哲学」の構築を目指す。わたしの哲学上の師、フーコーやドゥルーズの生命哲学に欠けていた「クオリア」や「生命共振」、「リゾーム=ツリー自在往還」、「非二元=二元自在往還」などの実践的技法を統合し、「生命共振哲学」を再構築する。

第五章「生命共振芸術」は、これまでの狭い舞踏実験の殻を破り、全芸術領域で瞑動(動く瞑想)によっていのちの創造性を全開することによって、誰もが自分らしく生き、誰もが世界でたった一人の芸術家に生まれ変わることのできる実践的な道を切り開く。

第六章「生命共振革命」では、以上の成果を全社会領域で実現するためのリゾーム=ツリーを自在往還する組織論、非二元=二元を自在往還する運動論を展開する。

生命共振哲学は、一人ひとりが「人間」という現代最大の桎梏を脱ぎ、いのちになろうとする自己革命と、世界革命を同時進行することによってのみ実現が可能になる。世界は生命共振革命によって、生命史上はじめて<いのちの世界>として実現されるだろう。

以上のレジュメによって明らかな通り、これまで20年間舞踏家に身をやつしてきたわたしが、その小さな世界を脱ぎ捨て、革命の哲学者に転生しようとする人生最後の仕事になります。舞踏の共振塾は若い世代に任せることにしました。わたしはこれを書き上げればいつ死んでも本望です。

もし少しでも共振していただければ、一文無しのわたしの最後の仕事を完遂できるようご支援していただけないでしょうか。これが最後のお願いです。何卒よろしくお願い申し上げます。

ご支援金振込先

銀行名: 三菱UFJ銀行三宮支店

アカウント名: Ryuji Oka

アカウント番号: 462-3383192 

突然の不躾なお願い申し訳ありません。

何卒宜しくお願いします。 

リゾーム・リーこと 岡龍二

 



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土方舞踏との出会い
2020年1月2日 

   

 

  青白い人間概念が砕け散った

 わたしは 1972 年、京都大学西部講堂で行われた土方巽の「燔犠大踏艦」  1 回京都公演の現場で、青白い魂を断ち割られて立ち竦んでいた。

 暗い舞台に敷き詰められた、古畳や戸板の陰に長い間潜んでいた舞踏手た ちが、最後の最後に水俣病患者さながらの、ちぢかんだ手足をもそもそと動かして踊りだしたとき、わたしは追い詰められて泣いた。わたしの青白い人間理解は、そのとき根底から転倒させられたのだ。

 それまでわたしは、西洋哲学から学んだありきたりの人間概念、すなわち頭は理性の座、顔は良識の窓、まっすぐ意志的に動く健康なからだ、肉体の下のほうに欲望がうずまいているというような、ピラミッド型の人間理解に囚われていた。だが、土方舞踏の舞踏手たちは、顔の真ん中に無意識を噴き出し、ゆがんだからだは何者かに操られ、乗っ取られ、苦悶にゆがみ、良心なんぞは尻の穴に半分突っ込まれてぶらぶら揺れていた。わたしの青年期の人間概念は、ひとたまりもなく砕け散った。それが何とも爽快だったのだ!

 帰りの寂しい夜道、わたしはかれらの踊りをなぞるように踊り狂った。わたしは 22 歳だった。舞踏を生きたいと思った。学生結婚していたわたしの身重の妻が、わたしの狂態を諫めて止めた。

 その一夜以来、わたしは 22 年間踊らなかった。すぐに生まれた子供の子育てと、不慣れな身過ぎ世過ぎに追われて、長い間生き迷った。子育てをほぼ終えた年、まとっていたつくりかけの家を脱いで、わたしは舞踏家になった。

  わたしが舞踏家として生きる決心をしたのは、はじめて土方の舞台を見てから 22 年経た 1994 年だ。

  だが、頭の中で 22 年前に見た土方の舞踏から受けた衝撃が、まるで巨大な釣鐘で頭をゴーンと殴られたように 25 年間鳴り響いていたのだ。そのような舞踏を踊りたいと思った。だが、そのときすでに土方はこの世にいなかった。

 第  2 世代、第 3 世代の舞踏家たちが「BUTOH」と呼び変えて舞踏を名乗っていたが、わたしには、それは土方舞踏とはまるで別物に見えた。何が違

うのか、直観では違いが分るのだが、それをうまく説明できなかった。 

舞踏とは何か。わたしはただ、自分のからだの闇に潜り、土方の踊りから受けた衝撃が、どこから生まれたのかを探り続けることしかできなかった。長い間、泣いていた。舞踏とは何かを探して、闇をさまよい続けていた。からだの闇は寒いところだ。誰もいない。物音一つしない。ただ、真っ暗な暗闇に坑道を一つ、また一つと掘り続けるしかなかった。

 からだの闇を掘って、10 年があっという間に過ぎた。わたしは日本を離れ、世界を踊り歩くことも止めて、ヒマラヤ・インドに小さな練習場を開いた。日本や西洋社会にいては情報が多すぎて、からだの闇に耳を澄ますことができないと感じたからだ。ヒマラヤにきて 5 年が過ぎた。意識を消し、からだや下意識と同じくらいにまで鎮めることで、はじめてからだの中を流れ変容しているクオリア(意識ではなく、いのちが感じているあらゆるものの質感や、体感、実感の総称)がつぶさに感じられるようになる。そして、それをたどることで、ようやくわたしは、からだの闇から舞踏の巣を見つける鉱脈にたどり着いた。

  わたしは土方独りが見つけた舞踏を、誰もが自分のからだの闇を掘る中で見つけ出すことができる、坑道を探していたのだ。土方は自分の舞踏をただ踊って見せることと、自らが踊ることを止めた 1973 年以後は、弟子たちに振付けることで伝えようとした。おびただしい独特の舞踏言語が、土方全集や生徒たちのノートから伝わってくる。土方の舞踏と舞踏言語が何を伝えようとしているのか、自分のからだの中でそれと共振するクオリアを見つけ出す以外に、わたしには方法はなかった。それに 10 年かかった。

 舞踏とは何か

 土方の舞踏を、舞踏たらしめているものが三つある。

 1.人間の条件を捨て、死者狂者不具者と共振するからだになる

 2.人間界以外の異次元を開畳し、転生する

 3.異界からこの世を見つめる臨生のまなざし

 これらを抜きに、土方の舞踏はない。逆にそれ以外の、白塗りとか、ガニ股とか、たまたま現われた見かけ上の特徴から理解された舞踏理解は、どう 

でもよい仮象に惑わされた誤解でしかない。

 土方にとって舞踏とは、人間概念を拡張する闘いだった。西洋のダンスは、人間のいわゆる美しい姿や健康的な躍動のみを美とすることで、その狭い世界を形作っている。そのいわゆる「美しい」ダンスを、青年の土方は踊ろうとして踊れなかった。いわゆる日本人のガニ股の足で、バレエやモダンダンスを踊ろうとしてもこっけいでしかない。

 そこに土方は西洋流の人間概念が、すらっとした肢体、よく伸びる手足、ジャンプなど、理想的な形を美の典型として見せつけることによって、「そうできない人間に対する威嚇として働く残虐さ」を見てとったのだ。それは狭い人間概念に、人を閉じ込めようとするものではないのか。

 逆に、いわゆる西洋のダンスが美として認めないものの中に、これまでにない美を発見すること、これが土方舞踏が掘りぬいた最も本質的な、第 1 の仕事だった。

 ちなみに<開畳 >とは、英語の「fold-unfold」に対応する、わたしの造語で、<微細な空間に折り畳まれていたクオリアが開かれて出てくるさま>を指す。これからも多々、登場してくるので、注意をお願いしたい。

 人間の条件を捨てる

 土方が、舞踏の門下生たちに真っ先に伝えたことは、

人間の条件を捨てる。これだけは間違わないでくださいよ」

であった。

自分が人間だなどと思い上がっている限り、その枠に囚われ舞踏などできない。異界に転生するための、それは必須の課題なのだ。その課題は、概要三つある。

 第  1 に、土方の後期舞踏を一貫する衰弱体の収集の作業は、水俣病や、らい病、疱瘡病、老婆、愚者など、世界中の死者狂者疾者不具者と共振するクオリアの中に、美を発見することだった。ヒューマニスティックな同情などで、そうするのではない。己れのからだの闇の中に棲む、死者狂者疾者不具者が、かれらと共振してやまないのだ。それによって近代西洋文化が秘め持つ、いわゆる健常者以外を社会から掃除して締め出す、近代人間概念の持つ 

残忍な狭さを撃った。

 第  2 は、土方の作る舞台の位相は、ちょうど世阿弥の夢幻能と同じく、この世の生きた人間ではなく、人間の条件をすべて脱いだところに現われる、もう一つの人間の層に降りて踊ることだった。生者の次元ではなく、他界や前近代の人間が生きる流動的な多次元世界(わたしが「多次元」や「異次元」などと語るとき、それは「時間」をも含む「時空次元」だと思っていていただきたい。「時間」も次元であり、わたしたちは過去とも未来とも共振しうる)を開き、そこに転生する踊りを追求した。そこは、人間と動物、生者と死者が、等価に関わりあう世界である。近代的な人間の心身を脱落させることによってのみ、その世界に触れることができる。言うまでもなく土方は、この世界とその世界を自由に行き来する力を開くことで、人間概念をはるかに拡張することができることを身をもって示したのだ。 

3 の本質的な特徴は、その異次元の世界から、いわば死者の棲まう他界から、この生きた世界を臨生するまなざしだ。ただ、他界に遊ぶのではない。かれの異界からのまなざしは、いつも何事かを強烈に問うてゆらいでいる。それが何であるかは、土方の舞踏を前に、各自が自分のからだの闇のどんなクオリアが震えるのかを体験することで知るしかない。言葉でなどで言えるものではない。 

以上が、もっとも本質的な舞踏の欠かせぬ特徴である。それ以外の見掛け上の特性など、実は、必ずしもそれである必要はないものなのだ。どうでもよいものだけが、世界にはばかることで、舞踏が長いあいだ誤解されてきた。

 多次元をリゾーム的に流動する

 死者狂者疾者不具者などとの共振、異次元転生、異界からの臨生―これらが舞踏を舞踏たらしめているものである。舞踏が、人類の世界史の中で、何事か大きな革命でありうるのは、これらによっている。白塗りやガニ股などの見かけによってでないことは、明らかであろう。

 さらにいえば、土方舞踏が拓こうとした新しい人間概念の拡張の試みこそ、かつてフーコーが予言した「人間の死」、いうまでもなく、狭い近代的人間概念を脱いで、新しい生存様式と知の様式を発見していく道を開こうとする、さきがけであった。それは、とてつもないエネルギーと長い射程を持った、

 このとんでもなく縮こまった人間外念に支配される現代世界に対する転覆の試みなのだ。



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2020年1月1日 

いのちの40億年目の新年おめでとうございます 
   

2005年から15周年を記念して、サイト名を生命共振ヒマラヤに刷新しました。
わたしたちはもっと懸命に狭い「人間」を脱ぎ、いのちになる必要があります。
いのちの目を開き、いのちに起こるあらゆる現象をわがこととできるような存在になりたい。
いのちは「人間」のように判断にも思考にも感情にも囚われません。ただあらゆるものと生命共振を続けます。もし、うまく共振できないクオリアに出会ったら、いのちはうまく共振できる方法が見つかるまで待ち続けます。今年以降、そのいのちの流儀を限りなく深く探求しまだない『生命共振哲学』を掘り進めていきたいと思います。

新年から、新著『舞踏革命・実技編』のエッセンスと、それに関するビデオ講義を定期的に掲載していく予定です。


今年もどうぞよろしくお願いします。

リゾーム・リー



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