2019

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からだの闇を掘る
 
 
 2019年1月20日
 

癇の歩行

 

虫の歩行から癇の歩行へ


冬期集中コースでは思わぬ発見が相次ぐ。
これまで、、虫の歩行は第一段階として、虫の痒さに突き動かされて歩く、
第二段階として、虫を固有のクオリアに置き換えて動かされる、にとどまっていた。
今回第三段階として、虫の代わりに、土方が収集した癇のクオリアに置き換えて実験した。

虫の歩行と癇のクオリアは以下の通りだ。

「虫の歩行」

1.右手の甲に一匹の虫
2.左首筋からうしろへ降りる二匹目の虫
3.右の内ももから上がってくる三匹目の虫
4.左肩から胸を降りる四匹目の虫
5.五匹目 自分で知覚
6.あっちも こっちもかゆい その場にいられない かゆさに押し出される
7.あごの下 耳のうしろ ひじのうしろ 膝のうしろ ベルトのところ に
五百匹の虫
8.目のまわり 口のまわり 耳の中 指の間 すべての粘膜に五千匹の虫
9.髪の毛に虫
10.毛穴という毛穴に虫
11.その毛穴から 内臓に虫が喰う 三万匹
12.さらに侵食し 毛穴を通って外に出る虫 身体のまわり 空間を虫が喰う
13.さらに空間の虫を喰う虫
14.その状態に虫が喰う
15.(樹木に五億匹の虫――中身がなくなる)
16.ご臨終です (意志即虫/物質感)」


癇のクオリアの一部を示す。

えぐられて溶ける
きしむ空気
こめかみから鳥が飛び立つ
こめかみを植物がはう
どこまでも壁に染みる
ヒビが入る
ぶれた花がさまよう
むずがゆさ
もやの中へ消える
ゆくえをからだの中に入れる
メスカリンの神経の重層
一瞬の網の目に捕捉
下痢に雨が降る
人形がぶすぶすと燻る
体の中の針金
体の中を機関車が通過する
余白で成り立つ
俯瞰される
光に襲われる
光の蜘蛛の巣
兎に囓られる踝
内臓が体の外にぶら下がる
内臓から鶴の首が伸びる
内臓の水路を上に辿る
内部に塗り込められる顔
前方にぶれていく顔
剥離
吸い取られる呼吸
埃の飼育
墓守の顔に変貌
奥歯に染みる隙間風
しっぽが生えて開く骨盤
接吻されている老婆
曖昧なものを正確に包囲
木目をたどる指先の感触
水晶に閉じ込められる
無数の視線の通過
空間を裂く視線
耳の内部をさまよう
焦げる羽
胸の小部屋に鍵がかかる
膿をずるずると引っ張る
追いかけられる馬鹿
遠くの森から少女が近づく
闇を携えせり上がる
頭蓋の中に木の葉がはらはらと落ちる


思わぬ効果が出た。
はじめたばかりの初心者の動きが、まるで何年も修行してきた人のような動きになった。
それで確信した。
癇のクオリアこそ土方舞踏の精髄なのだと。
何年修行しようと核心を外していてはどこへもいけない。
癇、すなわちいのちがうまく共振できないクオリアを踊ることこそが
土方の衰弱体舞踏、そしていのちの舞踏なのだ。
虫を癇に置き換える実験は意外な発見をもたらした。
いまはまだ土方の収集した癇のクオリアのうちから、
気にかかったものをランダムに踊るだけだが、
やがて順序を定めて、<癇の歩行>の舞踏譜を作り上げてみよう。
来期は、癇の花を深める探求が中心の一つになりそうだ。

そして、第四段階として、虫の歩行の12から16にかけての世界変容部分を
各自のもっともうまく共振できない世界変容クオリアをシェアしてみた。
するとそれもまた、深い味わいのある世界共創になった。
上のビデオはただ適当な音楽を流して自由共振してみたにとどまるが、
ここから<癇の共振リゾーム>へ深めていく道も見えてきた。

どうやら今年は癇とリゾームの元年になりそうだ。

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 2019年1月16日
 

クオリア・リゾーム・共振

 

クオリア、ひも、いのちは共振するリゾームである


これまで、リゾームはそれを支持する人々の間でさえその特殊な形態、非中心的な多様体などとして理解されてきた偏りがある。だが、リゾームはもっと動きとして、いつでもどこでも自由に連結し柔軟に分離できる動きとして捉える必要がある。

そして今、わたしたちはリゾームのその動きを生み出すものとしての<共振>をその規定に付け加えることができる。

リゾームのすべての動きと形は、共振によって生み出されている。
 

1.クオリア

 生命の創造性はクオリアの共振に基づいている。クオリアが他のクオリアに遭遇すると、共振によって自動的に新しいクオリアを生成する。わたしたちはそれをクオリアの<共振創発>と名付け、それがいのちの無限の基礎にあることを発見した。

 
ひも理論

現代物理学のひも理論によれば宇宙の万物はすべてひもの共振パターンの違いによって生成されている。
ひもは宇宙でもっとも小さい距離であるプランク長さに折り畳まれている。

プランク長さは1mのマイナス33乗、すなわち0.00000000000000000000000000000000001m
というサイスである。原子が1mのマイナス8乗、クオークがマイナス14乗であるのに比べても極端に小さい空間で震えていることがわかる。

 
図1 ひも共振があらゆる物質をつくる

ネルギーと質量

アインシュタインは、エネルギーと質量が同じものであることを発見した。それらは相互に変換することができる。相対論の有名な公式 E = mc(2乗)は、エネルギーが質量に光速の自乗という巨大な定数をかけることにより相互変換が可能であることを示している。

すべての質量とエネルギーは、ひもの共振パターンの違いによってつくられている。宇宙には4種類の力(相互作用)があり、この重力、磁力、強い力、弱い力によってあらゆる物質とエネルギーは生成変容する。

 

11次元空間

ひも理論によれば、ひもは11次元空間で共鳴しています。 プランク長さに巻き込まれた6次元の極小カラビヤウ空間と、わたしたちの日常感覚でよく知られている3つの大きな空間次元、そしてひも自体がもつ1次元の合計11次元空間でひもは共振している。


図2. 6次元のカラビヤウ空間


図3. ひも弦は宇宙のいたるところで共振している

 

ひもは数えることができない

ひもの持つもう一つの重要な特徴は、それが数を超えて共振連結・分離し、1つのひもがときに2つにも3つにも分離しかつまた連結によってその数を減じることができる。誰もそれを数えることができないいゾームとしての性質をもっていることだ。


図4 ひもは柔軟に連結・分離することでその数を変える。

 

無限の共振パターン

ひもの共鳴パターンは無限である。彼らは無限にサイズ、形を変えることができる。

 

図5,6 ひもの共振パターンは無限である

 

クオリアの共振パターンも無限

ひもの共振パターンが無限であると同様、クオリアもまた無限に変形流動する無限である。宇宙に無限は一つしかないと思われるから、ひもとクオリアはどこかでひとつにつながっているのではないか。
そしてその両者を結ぶものこそいのちである。
 

3. いのち

生命は地球上で40億年前に生まれた。ひも理論によると、宇宙の万物はひもの共振パタ―ンの違いによって生成するから、生命もまたひもの独特の共振パターンによって生まれたことになる。
地球に生まれた生命は、それ以前の物質やエネルギーとはまったく異なる特別な共振パターンを持っていた。それが<生命共振としてのクオリア>である。
生命は環境との共振を通して自分の細胞の状態の変化をクオリアとして認識することができ、かつそれを細胞記憶として保存する力を持っている。
上の現在の物理的変化は<外クオリア>、下の細胞記憶は<内クオリア>」と呼ばれる。そしてこの両者はいつも二重に共振し、それによって生命は現在の状況を把握することができる。
これは宇宙の中で生命だけが持っているまったく新しい力である。生命共振としてのクオリアは、上記の宇宙の4つの力以外の5番目の力である。

 
4. リゾーム

上で見てきたように、クオリアやひもの形態や動きは、リゾームである。
いつどこでも共振によって連結し、新しいクオリアやひもの共振パターンを生み、そして自在に分離する。
宇宙の万物を生んだひもがリゾームであるからこそ、その生成物であるクオリアやいのちもまた数えることのできない変容自在のリゾームなのだ。
クオリアやひもこそリゾームそのものであり、リゾームではもっとも共振創発が起こりやすい。だからこそひも共振はこの無限の大宇宙を生み、いのちもまた無限の創造性を持っているのだ。

この宇宙のなかで物質やエネルギーの世界は、これまでに発見されている4つの力、4つの相互作用(重力、電磁気力、強い力、弱い力)で生成変化することが分かっている。
だが、生命を理解するためには第5の相互作用、<生命共振としてしてのクオリア>の論理を取り出す必要がある。クオリアは4つの相互作用では捉えることができない。生命誕生とともに宇宙に生まれた第5の相互作用なのだ。
近現代の知性は、人間主義的な主体幻想に囚われてきた。そしてその人間主体幻想は、プラトニズムやキリスト教の人間中心的な階層秩序幻想と結びついた資本主義によって、資本を持つ「人間」が地球環境を思い通りに改変できるという思い上がりによって、破壊し続けてきた。
だが、いまやその人間主体幻想を打ち砕き、<生命共振>という原理によって、世界を作り変えなければならないときを迎えている。
<生命共振>はこれまでの既成論理のような主語述語関係とは根本的に異なるものである。
共振には主語も述語もない。どちらからともなく自然に起こる。それが共振である。
あらゆる現象をこれまでわたしたちは、人間=自己を主体として解釈することに慣れてきた。
だから、I see the flower. わたしが花を見る。という言い方を不思議もなくしてきた。だが、それは共振論の見地から透明に見ると、人間的な主体幻想に囚われた妄想にすぎない。わたしが『見る』より先に、花とあなたの目との間に光の共振が起こっている。それは花とあなたとの生命共振である。光を媒介したあなたと花との共振の結果、花の映像があなたの視覚神経細胞を刺激し、あなたの脳において「わたしが花を見ている」という幻想が成り立つ。
わたしたちはいのちに関わるあらゆる現象を、もう一度、<クオリア共振>として捉え返す必要があるのだ。もし、実際に起こっていることを人間的主体幻想のバイアスなしにありのままに捉えようとするならば。

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 2019年1月9日


産婆技法の原則

1.透明になる
内に半分、外に半分耳を澄ます
何ものにも縛られない
2.自分のベストをシェアする
3.サブボディ=コーボディのすべてを肯定する。
すべてを途上の存在として受け入れる。
それに対する批判や否定に固執しない。
癇のサブボディ=コーボディが生まれたら、大切に育てる。
4.脱自
自我や思考が立ち上がる気配に気づく
念を継がない
5.いつも半分はコーボディ世界を共創し、半分は自分の秘密を運び続ける
6.合わせ離れ技法を自在に使う
7.問題に直面したら、直ちにそれを解決する調体を発明工夫する




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 バニヤンリゾーム in プネ (2015)
 2019年1月7日


調体7番 リゾーミング


「調体7番 リゾーミング」は、この二十年間で毎年のように変わってきた。それだけ、うまく定義しにくく、かつ調体内容も揺れに揺れてきた。それだけ、格闘してきたのだといえる。
だが、二十年経ってようやく、最終的な定義に到達することができた。以下の通りだ。

リゾーミングとはリゾームになることだ。リゾームとはからだの任意の部分が他のどの部分とも自由に連結し、かつ分離することができる。つまり、日常体が持つ内的階層秩序、頭がトップで、そこからからだを司令するという内的ツリーを破壊し、脱領土化し、ノマドのように、自他の境界を越えて自由に旅する体になることだ。わたしの腕がきみの尻にくっつき、きみの頭がわたしの背中に連結する。
肛門が飛び、高速の膣が走る。ときにミツバチの群れになり、モグラのトンネル、伝染熱になる。
それがリゾームだ。ツリーの制約を超えて、もっともクオリアとクオリアの意外な共振創発が起こりやすくなる状態だ。


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 2019年1月6日


リゾーム革命元年



一匹狼になれ!
狼は一匹でも群れであり、リゾームである。
自分が信じる道をたった一人で切り拓け!
論議や会議の承認はいらない。
会議のときはそれぞれが切り拓いた成果を持ち寄り、
それらの間の最適の共振を見つけるだけでいい。
われわれは実践的なリゾームになる。
これまでの20年間は、ヒマラヤの共振塾という、外界から切り離され
守られたいわば子宮のなかでリゾームは胚胎する実験を繰り返してきた。
いまや、それぞれが社会との接点を求めて、世にでるときだ。
ことしからわたしは、一切の共振塾経営業務から身を引いて塾生たちの共振運営に任せることにした。
経営といってもこの15年間、毎年の収入は必ず出費を下回り、恒常的な赤字経営だった。それが15年も続けてくることができたのは、Leeが30代のコピーライター時代に稼いだ貯金を毎年食いつぶしてきたからだ。だが、その貯金も去年で底をついた。で、この絶好の機会に退場して、塾生たちにゼロから経営を立て直してもらういい機会だと判断した。
すると去年の後半から、産婆陣が多くの改善案を持ち寄り、それぞれがベストと思える方法で改善を推し進めてくれるようになった。
わたしは、ただ創造と産婆と執筆に集中することにする。それができるようになったのがとてもうれしい。

境界を透明化せよ

ひとつ気がかりがある。
塾生たちの間に、ナショナリズム的な境界が存在することだ。
とりわけ、インド人と西洋人との間に抜き難い溝がある。
それをそのままにしていては何もはじまらない。
サブボディ=コーボディになるには、あらゆる人間の条件を脱ぎ捨てる必要がある。
とりわけ、自我あるいは自己同一性、性別、国家の3つを脱ぎすてること。
それらは現代でもっとも強い元型だ。無意識域で刷り込まれているため、簡単には脱げない。
1秒間に18回以上の頻度で絶えず脱自する必要がある。
自我は自己を肯定し、他者を否定する傾性に染められている。
それに気づいたら、たちどころに沈静化すること。
それを「サティ」という。ミリ秒単位のサティによる脱自が必要になる。
それを訓練し続けること。


Crick here to see Lee's Wiki


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 2019年1月1日


リーのWiki Pageができました


おかげさまで、ダラが書いてくれたLeeのWikiページが承認されたようです。
簡潔によくまとめてくれている。
ありがとうダラ。
他の誰でもこのページに追加したり、編集したりすることができます。
ご自由にどうぞ。


Crick here to see Lee's Wiki


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  The death of God and the Disappearance of Man
Michel Foucault (1966)
 2019年1月1日


神の死と人間の消滅

ミシェル・フーコー (1966)



新年おめでとうございます。
今日は特別、20世紀でもっとも重要な哲学的発見について紹介したいと思います。
それは、19世紀におけるもっともj重要な出来事であったニーチェによる
神の死と並ぶ、フーコーによる人間の消滅という事件です。
それは1966年フランスで起こった。
そして、驚くべきは、ちょうど同じ時期海を超えた日本で、
「人間の条件をすべて捨てる」という土方巽の舞踏が実践されていたという
共時性だ。
いのちは深いところで一つにつながって共振している事実を
まざまざと体験した。これはわたしたちの世代にしか分からない共時性だ。
だが、いつかまた世界中のいのちがリゾームに共振する日がきっと来る。
ツリー状の階層秩序がいのちの創造性を封じ込めていることに
いつか世界中の気づく日がかならず来る。
わたしはそれを信じている。


[Foucalt's speech in the video]

"I believe that the human has been If not a bad dream, a specter, at least a very particular figure, very historically determined and situated in our culture. It’s an invention.
In the 19th century and also the first of the 20th century, it is believed that the human was the fundamental reality of our interests.
One had the impression that the search for the truth about man had animated all research, perhaps of science, and for sure of philosophy.
When we look at things more closely, we have to ask if this idea of the human has basically always existed, and always there waiting to be taken up by science, by philosophy.
We have to wonder if this idea isn’t an illusion, an illusion of the 19th century. Until the end of the 18th century, until the French Revolution, we never dealt with the human as such. It’s curious that the notion of humanism that we attribute to the beginning, the notion is very recent.
You can’t find the term ‘humanism’ earlier because humanism is an invention of the late 19th century.
Before the 19th century, it can be said the human didn’t exist.
What existed were a number of problems, a certain number of forms of knowledge and thought, where it was a question of nature, or a question of truth, or a question of movement, a question of order, or a question of the imagination, or a question of representation, etc.
But it wasn’t actually a question of the human.
The human is a figure constituted near the end of the 18th century and beginning of the 19th century which gave rise to what has been and still are called the human sciences.
This new notion of the human invented at the end of the 18th century also gave rise to humanism, the humanism of Marxism, of Existentialism, which are the most obvious expressions at present.
But, I believe that, paradoxically, the development of the human science is now leading to a disappearance of the human rather than an apotheosis of the human. Indeed, this is happening now with the human sciences. The human sciences did not discover the concrete essence of the individual, of kinds of human existence.
On the contrary, when you study, for example, the behavioral structures of family, as Levi Strauss did, or when you study the great European myths, as Dumezil did, or when you study the very history of our knowledge, you discover, not the positive truth in man. What one discovers is great of thought of large formal organizations which are like the ground in which individualities historically appear. Which means that current thought has completely reversed from a few years ago.
I think we are currently experiencing a great break with the 19th and early 20th century.
This break is at the bottom of our experience of not a rejection, but a distance from Sartre. I think that Sartre is a very great philosopher. But Sartre is still a man of the 19th century.
Why? Because Sartere’s whole enterprise is to make man in some way adequate for his own meaning. Satre’s whole enterprise consists in wanting to find what is absolutely authentic in human existence. He wants to bring a back to himself, the possessor of meaning which could escape him. Sartre’s thought is situated in the philosophy of alienation.
We wish to do just the opposite, to show, on the contrary, that what is individual, what is singular, what is properly lived as human is but a kind of glittering surface on top of large formal systems, and our thought must now rebuild those formal systems on which floats every so often the foam and image of man’s own existence.

-Let me ask a question. How can any political outlook atem from your work?
Of course, this is probably the question that is posed to all forms of reflection that are destroying a myth and which have not yet rebuild a new mythology.
For example, for a long time, philosophy ha a kinship with hology.
The role of philosophy was to define morality or what politics, we can and should deduce from the existence of God.
When philosophy and the culture discovered that “God is dead”,
It was immediately proclaimed that everything is permitted. If God is dead, morality isn’t possible. If God is dead, what policy could we adopt?
Experience has shown that moral and political reflection never had been more alive and abundant that it had from the moment of God’s death. And now that man is disappearing, the same question is asked that had been formally raised of God’s death.
If man is dead, all is possible, or more precisely, we’ll be told that all is necessary.
What is discovered in the death of God, what was discovered in the great absence of a supreme being, was a space for freedom.
What is now discovered in disappearance of man is a thin space left by man which must arise in the frame of a kind of necessity, the large network of system to which we belong and is to be necessary. Well, it’s likely that just as there’s a space for freedom left the death of God, for great political and moral systems, like that of Marxism, of Nietzsche, or of Exitentialism can be built.
We may see above this grid of necessities which we are trying to navigate, great political options, great moral options and we have to say that even if we don’t see it, since, after all, no one can prejudge the future.
It doesn’t matter if we don’t. It is being discovered in recent years that literature is no longer made just to entertain, no music just to provide visceral sensations. Well, I wonder if we won’t discover that thought an be used for something other than to prescribe to men what they have to do.
It would be all well and good if thought could think of itself entirely, if thought could uncover what unconscious in the very depths of what we think."

We will start from here to the future.
What will happen after the disappearance of man?

Hear Hours of Lectures by Michel Foucault: Recorded in English & French Between 1961 and 1983

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2018年12月28日

自在跳梁リゾーム


一つの練習が済んだ後、どこへ向かうべきか。
それにはいつも非二元・多次元共振の方へ一歩進むことだ。
クオリアの自由な共振創発を促進させるには、
非二元多次元のなかで自在跳梁するリゾームになるのがいい。
もともと、いつどこでも連結分離自由なリゾームが、
時空を越え、自他を越え、あらゆる境界を超えて横超するとき、
くオリアは最大限の予期せぬ出会いを起こす。
どんどん新しいクオリアが生まれ、次から次へと共振創発して出てくる。
超電導状態とも呼ぶべき、もっとも創造的な状態が生まれる。

これをサブボディ=コーボディの動きとしていかに実現するか。
産婆の工夫のしどころだ。
毎日、参加者のからだの闇の変化に耳を澄まし、
そこで自在跳梁を疎外しているものは何かを探る。
自我、思考癖、自己同一性、反復する自己ストーリー、批評癖、他者への否定性、などなどだ。
サブボディ=コーボディがいまだにかぶっている日常体の残滓だ。
それをなんとか脱ぎ捨てるように導かねばならない。
だが、自我は直接攻撃されると、激しい抵抗を示す。これは本能的な抵抗なのでどうすることもできない。
それを躱すには、それらの残滓を脱ぐように直接働きかけるのではなく、より面白いものを提案するのがいい。
自我もなんとなく、普段の自分のやり方とは違うけれどなんとなく面白そうだと、殻を破って挑戦し始める。
それが<自在跳梁リゾーム>だ。
からだは脱領土化して、ノマドになる。他の人のからだの任意の場所に連結し、分離する。いくつもの別のクオリアがのからだに同居するキメラになる。
それが無限に変容し、不可視の世界と共振して新しいクオリアの創発起こる。
いかに参加者がそれを心から楽しんでくれる環境や雰囲気を創るかが成否を分かつ。
遊びのように始めるのがいい。

「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」
(梁塵秘抄)

<新リゾーミング調体・探体>

1.クオリアトラベル
からだにボトムからトップへ、トップからボトムへうねりや震えやさまざまなクオリアを通す。

2.クオリアキャッチボール
さまざまなクオリアがあらゆる方向に通るからだになったら、一人の人のクオリアトラベルが、他の人に飛び火し、他の人のからだを通る。クオリアはその過程で自由に変容して、他の人のからだに飛び火する。それを楽しむ。

3.脱領土化
ときにはからだごと、ある人のからだの一部が他の人のからだのどこかに接続する脱領土化・再領土化が起こる。

4.自在跳梁
自分一人であらゆるクオリアがからだをかけ抜けるように通す。ときにはそれが他の人のからだに連結分離する。
5.背後世界

ときには、各自の見えない背後世界と共振して予想できない異変が起こる。

5.自在跳梁・共振リゾーム
以上のすべてを統合して遊び戯れる。



 

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2018年12月25日

ツリーを脱し、リゾームになろう!


長年の間、リゾームをうまくサブボディ技法の中に位置づけることができなかった。
だが、長年下意識のからだの闇に潜り、ひとびとの秘められた創造性をいかに開いていくかという産婆活動の中でようやく透明に透けて見えてきた。
いのちの創造性はクオリアとクオリアが勝手に出会い新しいクオリアを共振創発することに基づく。その発見がリゾームのかけがえのない重要さに気づかせてくれた。
いつどこでも連結し、かつ自由に分離するリゾームこそが、いのちの創造性を発揮させる最良の場である。
だから、自信を持って「ツリーを脱し、リゾームになろう!」ということができるようになった。

なぜリゾームは創造性に満ちているのか?

長年謎だったが、ようやくその訳も解けてきた。
いつどこでも分離自由、連結自在なリゾームでは、くオリアとクオリアの非日常的な出会いが頻繁に起こる。
そして、クオリアの共振創発によってどんどん新しいクオリアが生まれでてくる。
ツリー状の秩序を無化するだけでいい。それだけのことだったのだ。
下意識ではとっくに気づいていたことだ。
わたしのこれまでの活動のすべては、世界を少しずつリゾームに変えていく道を探ることだった。ただそれが論理な言葉になるまでに、20年かかった。

リゾームがいのちの創造性の基盤である、クオリアとクオリアの出会いを促進する。

ツリー状の階層秩序に束縛された日常生活では、クオリアの自由な出会いが起こらない。日常体がいのちの創造性から疎外されているのはそのためだ。
世の中はツリー上の階層秩序によって、息苦しくさせられている。
現代の日常生活では、クオリアとくオリアの自由な出会いが禁じられているのだから、いのちがそこでのびのびと生きることができないのは当たり前だ。

クオリアとクオリアが持っとも自由に出会い、新しいクオリアが共振創発される場を創ること。
それがいのちの創造性を最大限に発揮する道だ。
そのためには、それを制限しているツリー状の階層秩序を無化し、自在に連結・分離することのできるリゾームに変成することだ。
世界中のあらゆる人が、国家・宗教・会社・家族・自我・自己同一性などのあらゆるツリーシステムから脱却できるようにすること。ツリーの中のあらゆる階層にリゾームが忍び込み、喰い破っていく。あらゆる境界や階層を超えて、思いがけぬ分離連結が起こることで、ツリーは内側から瓦解する。
階層秩序に閉ざされた生命共振クオリアを、そのあるがままの非二元かつ多次元共振の中に解き放つこと。
それはまず創造の現場で始まり、やがて社会関係のあらゆる場でリゾーム化が進んでいくだろう。
世界中の日常体が創造者に転換していく。それはなんと素晴らしいことだろうか。
だれもが創造者になれる世界、誰もの日常生活が限りなく創造的なものになる世界を創ろう。
そうなればどんなに世界が面白くなるか。
生命共振芸術の目的は、あらゆる桎梏を取り除き、全人類のいのちの創造性を全面開花させることだ。

世界中のツリー状の階層秩序を打ち破り、リゾームに変えていこう。

もちろん、現在のツリー階層秩序によって利益を得ているものは、激しく抵抗するだろう。かれらはすでに政治的・経済的権力をもち、情報管理システムを支配している。人類史上かつてない規模での専制的世界権力が出来上がっている。だが、心配することはない。どんなシステムもいのちの生命共振を禁止することはできない。いのちはただいのちと共振し、ある日突然世界規模の生命共振の波が、そびえ立つ世界権力をうち滅ぼすだろう。
奴隷制が滅び、封建制が滅んだように、現在の政治・経済・情報権力も打ち消されていくだろう。
いまはそれを想像するだけでいい。やがてその想像が現実になる日がかならず来る。

「ああ、未来の国家。それだけのこと」

かつて工作者詩人・谷川雁はつぶやいた。
いまわたしは、国家なき未来を思い、こうつぶやく。

「ああ、未来のリゾーム。それだけのこと」

変革の精神は変容しながら、いのちのリレーとして受け継がれていく。
国家がリゾームの中に無化され消失していく道がおぼろげながら浮かび上がってきた。
それを具体化するのは、いくつもの世代を待たなければならないかもしれない。
すでにヒマラヤから次の走者たちが世界中に走り出している。
彼らを引き継ぐ人々もやがて現れよう。
私はそれを夢見ながら、笑っていのちの潮流の中に帰っていくことができる。



 

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2018年12月22日

創造性とはなにか?

わたしたちの探求はいよいよ佳境に差し掛かってきた。
創造性とはいったいなになのか?
この問に応えることのできる日がきた。
創造性の根源はクオリアの共振創発性にある。
クオリアは無限の共振性を持つ。
あるクオリアが別のクオリアと出会うと、まるで磁石のように吸引しあい、合体してひとつになり、新しいクオリアが生まれる。
これがいのちの創造性の根源にある秘密だ。
人類史上まだ誰もこの秘密を探査していない。
創造性とは何かという秘密を説いたものもいない。
クオリアは生命共振そのものだが、その秘密もまだ解明されていない。
いま、世界中でわたしたちだけが、生命―共振―クオリアという三つ巴の謎に迫ろうとしている。

クオリアの共振創発が創造性の根源

いのちの持つ創造性は生命共振クオリアのもつ共振創発性に基礎を持つ。
そしてその仕組を暗黙理に気づいたひとだけが、その秘められた能力を開く術を得た。だが、その秘密が人に語られた例はない。
たしかに、近来、下意識が秘め持つ創造性に注目する人々が現れ、自己催眠技法などによって下意識モードに導いて、その創造性を開く研究は進んできた。
それらの現象の基礎にあるのが、<クオリアの共振創発性>だ。
クオリアは放っておいても出会って勝手に新しいクオリアを共振創発する。
だが、日常体は、日々の営みや社会生活から押し寄せてくる分厚い情報の洪水やツリー状の判断に囚われて、クオリアとクオリアの自由な出会いを起こせる環境にない。

瞑動で閉ざされた日常体を開く

われわれのいのちをこの日常体の閉ざされた状態から引き出し、クオリアとクオリアが自由自在に出会うことのできる下意識の非二元かつ多次元共振モードに持っていくのがサブボディ技法である。
サブボディ技法の根幹は瞑動調体にある。
瞑動とは、動きながら瞑想することである。からだが誰かにゆっくりと動かされるに任せ、同時に内に50%、外に50%耳を澄ます透明体に移行していく。
従来の古典的瞑想は、体動チャンネルを閉じ、思念のみに集中して瞑想してきたが、いのちの根源である体動チャンネルを閉じていては、いのちの非二元多次元共振状態になることができない。
何千年もの伝統と歴史を持つ古典的瞑想は自ずからいのちの創造性を疎外する陥穽に陥っていた。
サブボディ技法は、その陥穽を打ち破り、いのちのもつ無限の創造性へ、わたしたちの日常生活を開くものである。
この技法はまず、体動チャンネルを主に開く舞踏ダンスの場で20年前に発見され発展深化してきた。

生命共振芸術

だが、今日ではこの技法は舞踏ダンスにとどまらず、視覚聴覚、人間関係、世界像=自己像チャンネルに関わるあらゆるジャンルの芸術に、誰もが参与できる可能性を開くものだ。
わたしたちはこれを<生命共振芸術>と名付けた。
世界中の誰でもが、ただ瞑動にからだをあずけるだけで、
いのちの持つ無限の創造性、固有性、共振性を開いて、
世界中でたった一人のユニークな創造者になることができる。

生き方を変えたい人はたったいまヒマラヤへおいでください。
わたしたちは、一年中あなたを迎える用意ができている。



 

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2018年12月19日

<共振舞踏譜>の可能性

 

『秘膜の歩行』は、まず好評のうちにダンサーたちのからだに迎え入れられた。

感想の一つに、読み上げる時間は、その一行がからだにじっくり染み込んで来る時間をとったほうがいい、という意見があった。

そうだ。早すぎると行が上空をかすめ去ってしまう。

音楽とともに進行する時間をフィックスすればどうだろう。

この舞踏譜にサボボディ=コーボディがどう反応しようといい。

その多様な可能性をすべて含めて、この舞踏譜の上演とすれば良い。

今はまだ、サブボディの舞踏譜だけだが、これがサブボディ=コーボディの舞踏譜に発展すれば、それは世阿弥が幾多の「能」を書いたように、「舞踏」を書くということになるのではないか。

とりわけ、共振塾ではソロ舞踏のみならず、多くの人の複雑な共振によるサブボディ=コーボディ舞踏が共創されている。共振リゾームという生命共振によって展開されていく舞踏形式もある。そこにおける共振パターンを取り出し、音楽とともに定着することができるのではないか。

<共振舞踏譜>を新たなる形式で、音楽とともに書くことができれば、これらを未来に残すことができるかもしれない。

これは音楽編集が簡易にできるようになった今日だからこそ、開けた可能性だ。

アナログで音を流していた土方の時代にはとても発想すらできなかったことだ。

この新しい可能性を発見して、少しワクワクした。

音楽付きの<共振舞踏譜>を書いてみよう。

千年先でも上演可能な舞踏を書き残す。

ようやく創造の次の地平が見えてきた。


秘膜の歩行

1.内側に50%、外側に50%開いて耳を澄ます。何ものにも束縛されない透明なからだになる。

2.からだの細胞のいのちの、もっともかよわいクオリアに耳を傾ける。

3.からだの無用を知った老人になり、からだの秘膜を世界に向けてそっと静かに膨らまし耳を澄ます。なにか得体の知れないものに出会うと秘膜は縮む。

4.一足ごとに、異なる時空に入りこんでいく。現在時から五歳の頃の幼児の世界に、胎児だった頃の自分に、祖先の時代に移行する。

5.人間以前の生き物だった時代に、さらには40億年前の原初生命の時空に遡る。

6.地面から足裏を通じて祖型的なものがきときとと輝きながらからだに忍び込む。

7.二本の触手があなたの額から空中に伸びて妖精、天使、精霊などの元型と交信する。

8.背後世界から背筋に冷たいクオリアが近づいてきて背中を凍りつかせる。

9.内臓の忘れていた欲望が波打ち始める。魂がからだを抜け出し前の方で踊っている。
からだはそれに追いすがろうとするがかなわない。からだと魂の分裂を踊る。

10.腕と脚の神経が指先から抜かれ盗まれてしまう。

11.情動や感情を吐き出さずに呑み込んで、世界とうまく共振できないクオリアが世界で一つの「癇の花」へと発酵するのを待つ。

12. たとえば「岩の蝉の目」で世界を睨み返す。

13. 多様な癇の花を編み出しながら歩く。それを通じて世界との奇妙な関係が始まる。

➖➖この後自由共振で序破急を共創。



今日は、この舞踏譜のそれぞれの行がからだに染み込む時間を見計らった。
明日あるいは来週、これに音楽をつけて実験しよう。




 

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2018年12月17日

秘膜の歩行


新しい舞踏譜が生まれた。いつも共振塾のクラスで言っていることを十数行に凝縮した。
できるだけ多彩な忘れていたクオリアが蘇り、まったく異なるクオリアと出会って、新しいクオリアが創出されるように工夫した。
今の冬期集中コースの参加者に、これをからだに通しながら歩いてもらって
どんなサブボディ=コーボディが出てくるか、どんなものが出てきにくいかを検証し、
練磨していくつもりだ。


1.内側に50%、外側に50%開いて耳を澄ます。何ものにも束縛されない透明なからだになる。

2.からだの細胞のいのちの、もっともかよわいクオリアに耳を傾ける。

3.からだの無用を知った老人になり、からだの秘膜を世界に向けてそっと静かに膨らまし耳を澄ます。なにか得体の知れないものに出会うと秘膜は縮む。

4.一足ごとに、異なる時空に入りこんでいく。現在時から五歳の頃の幼児の世界に、胎児だった頃の自分に、祖先の時代に、人間以前の生き物だった時代に、さらには40億年前の原初生命の時空に移行する。

5.地面から足裏を通じて祖型的なものがきときとと輝きながらからだに忍び込む。

6.二本の触手があなたの額から空中に伸びて妖精、天使、精霊などの元型と交信する。

7.背後世界から背筋に冷たいクオリアが近づいてきて背中を凍りつかせる。

8.内臓の忘れていた欲望が波打ち始める。

9.腕と脚の神経が指先から抜かれ盗まれてしまう。

10.情動や感情を吐き出さずに呑み込んで、世界とうまく共振できないクオリアが世界で一つの「癇の花」へと発酵するのを待つ。

11. たとえば「岩の蝉の目」で世界を睨み返す。

12. 多様な癇の花を編み出しながら歩く。それを通じて世界との奇妙な関係が始まる。



 

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