2016

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からだの闇を掘る
 

微細な11次元のカラビヤウ空間で、ひもは非二元かつ多次元的に共振し続けている。いのちの共振するクオリアは、そのひも共振に未知の関わりをもっている。その無限の静寂に耳を澄ます。 
 2016年12月7日

非二元へ!

ここ数年のからだの闇の無意識の傾性を振り返ると、
どうやらわたしのいのちは、
非二元域への強い志向性を持っているようだ。
分別意識を止め、
わけの分からない
混沌こそを終の棲家とする
とりわけ今年の秋以降、一人になればかならず、
毎日非二元世界でたゆたっている。
四六時中ずっとかすかな生命共振クオリアに耳を澄まし続けている。
ときどき予期せぬ気づきが立ち上がってくる。
それをそっと書きとめ、サイトにアップする。
お百姓や漁師さんと同じように、
からだの闇からの収穫の日々が続く。

それもそうだろうなあ。
若い頃から二元的な言葉をいくら弄っても、
たいしたものはなんにも生まれなかった。
40代で、言葉を諦め、からだに転身して以来、
予期せぬものがからだの闇から、
次から次へと転がり出てくるようになった。
まるで、魔法でも見ているかのように、
サブボディやコーボディが続々躍りでてきた。
自分の踊りはもういいかなと、産婆に転身して、
他の人のからだの闇に耳を澄まし、
サブボディ=コーボティの誕生のための
ほんの少しの手助けをするようになって、
この驚きは加速した。
自分の限られたサブボディだけではない。
毎日毎日、新しいサブボディ=コーボディが、
塾生たちのからだから踊りだしてくる毎日になった。
そんな日々を12年生きてきた。

12年目の今年の舞踏祭の収穫は驚くべきものだった。
日毎誰かが突拍子もない踊りで驚かせ続けてくれた。
群れのコーボディも新しい地平を開いた。
わたしをこんなに驚かしてくれる舞踏祭ははじめてのことだ。
古い塾生が舞踏祭に還流するようになり、
新旧塾生の共振が活性化しはじめた。
この流れができるまでに12年の歳月が必要だったのだろう。

この趨勢は、今年のインドツアーでは一層拡大されることになるだろう。
塾生や同行衆だけではなく、行く先々の地元のインド人のからだの闇に
一緒に潜り、何が出てくるかわからない下意識や元型や祖型的なものと
共振して踊ろうというのだ。
からだの闇の非二元的な混沌が孕む、
いのちの創造性の底知れぬ豊穣さを掘り起こす作業が
楽しくて仕方がない。

ヒマラヤで、ここまで来るのに12年かかった。
インドや世界に広げていくには、どれだけの時間がかかるかわからない。
だが、わたしはもう一人ではない。
続々と産婆衆が生まれ、育ち、
わたしなしでも世界中に広がっていくだろう。
晴れていのちに帰ることができる日も近い。
そう。死ぬとはいのちに帰ることなのだ。




 
  インド共振ツアーの深層精神身体地図
 2016年12月5日

インド共振ツアーの深層精神身体地図



日常のわたしたちの考え方は、今日の
二元的で階層的なツリーシステムに縛られています。上下、内外、正誤、良否、自他、などなどの分別判断に。
それらは、生命共振の大地から切り離された現代の共同幻想です。
生命には、どんな二元論的区別も階層もありません。それらはすべて人間が投影した幻想にほかなりません。

わたしたちは日常思考を止め、現代の情報の束縛から解放される必要があります。
私たちは上図の青と黒いものを脱ぎ捨て、純粋ないのちになります。
インドツアーの参加者は毎回、思考や判断が立ち上がってくる度すぐにそれを止める必要があります。さもなければ、ツアーで出会う純粋な生命共振を妨げてしまうことになるからです。

わたしたちは、こころとからだの深部への旅を敢行します。
インドやユーラシアでは、いくつかの宗教的な山があります。仏教、道教、ヒンドゥー教、あるいはまだ山にはならな地域のシャーマニズムやヨガなどの丘があります。
それらは人類最古の心身共振パターンであるアミニズムに基づいています。
古代・中世の僧侶たちは、非二元の生命共振という地盤に基づいていた原始宗教から、さまざまな理論的な山を構築しました。それらの山々は二元論的かつ階層的な幻想に縛られています。
私たちが旅するのはそれらの山脈の地下、ユーラシアの人々のこころの深層に眠る元型や祖型的な生命共振クオリアの世界です。
最深部の、純粋な生命共振世界を共有します。
それは
非二元かつ多次元共振するリゾーム的なクオリアの世界です。そこには善悪・良否・内外・上下・自他などの二元的な境界線は一切ありません。

わたしたちはツアー中一緒に呼吸や瞑想をしたり、声や動きを通じて下意識モードに入り、からだの闇の中のすべての現象をひとつのいのちとして共有します。
それはどこにもないとてつもない深層への旅、
生涯忘れることのできない体験になるでしょう。
お楽しみください!


部分参加も受け付けています。
参加費:一地域(1~2週間、1万円、1ヶ月2万円、2ヶ月フル3万円。
交通費・宿泊費は自分持ちです)

申込み・問い合わせは:subbody@gmail.com


第3次インド共振ツアーをもっと見る



 
 汝は踊る星を生むための混沌を、いまもなお抱かえているか?
 

 からだの闇は個人的な下意識、集合的な無意識、
生物としての祖形的なクオリア、細胞記憶などが
時空を超えて多次元共振している文字通りの混沌だ。

2016年11月20日

混沌シェア

からだの闇は、個人的な下意識のみならず、
集合的無意識の元型、生物としての祖形的な反応、
細胞記憶などが時空を超えて多次元共振している
文字通りの混沌だ。
いままでもこの混沌こそがいのちの創造性の源であると、
もっとも大切にしてきた。
だが、いまは自分の混沌だけではなく、
他の人の混沌も自分のものとしてシェアする技法が見出された。
混沌シェア―これは、長年探し求めてきた『病める舞姫』という
未曾有の生命共振の混沌世界へ入っていく
ついに見出された王道である。
これは三段階からなる。

1.生命共振に耳を澄ます

第1段階はまず、からだを構成する百兆個の細胞の行っている
生命共振に耳を澄ますことから始める。
冬場は日差しが部屋の奥まで差し込む。
窓際に座り、ひだまりの部分にからだの一部(足、手、腰、顔など)を
入れて、その部分の細胞にどういう生命共振が起こっているかに
耳を澄ます。
細胞たちが日差しに温められ、膨らんだり、
流動性を増したりしているのに耳を澄ます。
そしてこれらの温かい物理的なクオリアと同時に、
心理的な快や、楽、嬉しいなどのクオリアが惹き起こされ
そういう記憶や夢や想像力などの内クオリアが
共振していることに耳を澄ます。
次に、その部分を日陰の冷たい場所に移す。
すると冷たいクオリアは、からだを硬直させ、
悲哀や悪寒や恐れなどのクオリア、
記憶や夢や情動などを触発させることに耳をすます。
足からはじめ手、腰、顔などの部分を次々と
日差しと日陰に入れ、その部分の細胞に何が起こっているか、
いのちの非二元多次元共振に耳を澄ます。

2.アクティブ・イマジネーション


つぎに、ユングが発明したアクティブ・イマジネーションをはじめる。
ソファがあればそこに腰掛け、
なければクッションなどで居心地の良い場所を設けゆったり座る。
そして、「ゆったりする。ゆったりする。一、二、三」と心のなかで唱える。
この言葉は、自分がもっともリラックスできる言葉に変えてよい。
そして、からだの中で気になる部分を一つ選び、そこに耳をすます。
そこで起こっていることは、いのちの非二元多次元共振、
まさしく混沌である。
現在の体感、昨夜の夢見、過去の体験、想像、妄想などが
入り混じっている。
やがてどこかの景色や空間につながっていくこともある。
予期せぬ世界が突如現れたり、変動したりする。
そのすべてを味わう。
10分か15分したら、いちど目覚めて旅の内容を書き留めるといい。
もし旅の続きを見たければ、もういちど
「ゆったりする。ゆったりする。一、二、三」
と心のなかで唱えて想像の旅を続ける。

3.混沌シェア

全員が旅の内容を書き終えたら、
それをからだの動きでシェアする。
やり方は色いろある。
まずことばで説明してから動きをガイドするのもあれば、
はじめから動きながら言葉でガイドする。
あるいはただからだの動きだけを示し、
他の人は同じ共振パターンでそれをコピーするのもいい。
各人のやりやすいやりかたでガイドする。
これを全員でやれば、とんでもない奇妙な世界変容の展開を
からだで体験することができる。
これは自分のからだの闇に耳を澄ますことから踊りを生み出していく、
これまで20年間のサブボディ技法の枠を破り、
自他の区別を超えて、からだの闇に従いながら踊りを共創する
新しいサブボディ=コーボディ技法の始まりである。

あいにく、今期は通常授業の最終日になって
この技法が創出された。
今週から2週間は第13回ヒマラヤ舞踏祭のリハーサルに入る。
この技法による具体的な展開は来年からということになる。
来年からの塾生は幸いである。
この新しいサブボディ=コーボディ技法の実験を
世界ではじめて体験することができる。
もっとも幸いと災いは紙一重の表裏一体のものである。
どんな予想もしないエッジや危険が待ち構えているかもしれない。
じっくりゆっくり歩いて行こう。



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 2016年11月22日

(混沌シェアの続き)

この日の明晰夢とからだでシェアした混沌

この日、塾生のからだの闇から出てきた明晰夢は次の通りだ。
来年以降のための忘備録として、
今日何が起こったかをつぶさに書き留めておこう。
あまりに多彩で、体験の種類もチャンネルも異なるので、
なかなか言葉だけでは書ききれない。それを承知で。

・多数の群衆に追いかけられて逃げ惑う。そのうち、群衆に踏みつけられ、蹴り飛ばされる中で踊っている。
・自分は得体のしれない怪物であり、ときに動く壁に呑み込まれたり、
そこから離れたり、壁と怪物に交互に変容する。
・からだじゅうの細胞が<跳べないノミ>になる。外側へ跳び出そうとするが、その力よりも強い力で内側に引き戻される。
・胸の奥の深い感情に耳を澄ます。そこから息や声や情動や動きなど、
さまざまなものが出てくる。蛇の巣のような群れになり、からだを引きあったり押し合ったりする。
・ある塾生は言葉ではなく描いた絵を見せた。私達はそれぞれにその絵に共振して動き、当人は目隠ししてその中で踊った。
・自由が効かなくなった両膝を引きずりながら動く。
・海の中のウミガメになる。やがてビーチに着き、熱帯のジャングルの中にジャンプする。夜空に満天の星。
・獄中で人々が苦悩している。そのうちの一人が自分(自分は獄の外にいる)に近づいてくる。獄中の人も大勢近づいてくる。その人らに押され、
転かされ、自分のからだの上を人々が転がる。カオスになる。
やがて光が指す。
・森にいる。鳥や猫なども。目が赤い砂漠の砂になる。檻に閉じ込められる。丘を駆け下る。
・プールの隅に全員が一塊になって、大きな布で覆われる。
その密集の中で、自我について思う。頭がそれに共振して動く。
固まって押し合う。やがて各自がそれそれの方向へ広がっていく。

こんなに多数多様の、謎に満ちた多くの世界を一日で体験したのは
はじめてだ。
長年、各塾生の固有夢を一日でシェアすることはあったが、
夢とこの日の明晰夢とは、味わいが異なる。
各人の深淵への志向性や、暗黙の希望や、
避けられぬ問いなどが微妙に関わってきている点で。
固有夢と明晰夢の共振関係を探るのは今後の課題だ。
ともあれ、とんでもなく面白い坑道がポッカリと口を開けた。





 
 羊水変 ピラーとリー
2016年11月13日

サブボディの分裂と多次元もつれ


ピラーに誘われて、なにげに踊ったとき、
いつになく、予期せぬサブボディが絡まり合いつつぞろぞろ出てきた。

ホースに巻かれたボトムボディ
魂の引き裂かれた神さま
ハンガリーのエリック
跳べない蚤の少女
りゅうり大魔王の喉首伝う欲望
それを叱ろうとする龍二の右手
それを透明に見ているまなざし

などなどだが、
それらは分別できるものではなく
それらすべてがもつれ絡み合い、重合的に共振していた。

そうなのだ。二元論的な分別意識ではからだの闇は解読できない。
このもつれからみ合っている非二元多次元共振そのものを
捉えることができないかぎり、駄目なのだ。

たしかに、からだの闇に同時に存在する数多の傾性のうち、
一時的にはひとつの傾性が優位になることはある。
とくに怒りや悲しみなどの情動に支配されているときは、
ひといろの傾性しか意識できない。
だが、そういう時でもからだの闇では非二元多次元な傾性が共振している。
一時的になにかが優位となって変形するだけなのだ。

このからだの闇の真実をどうすれば捉えることができるのか。
踊るしかないのはわかっている。
そこに言葉をどう絡みつかせ、あるがままの多次元共振を取り出すことができるか。

もう、幾つもの傾性のあいだの対立や争いとして捉えるのではなく、
非二元多次元共振をそっくりそのまま捉えるにはどうすればいいかという
焦眉の課題が迫ってきている。

ああ、踊るように言葉を扱えたらなあ!


(この項は、双方にまたがるので、下記の二箇所に収蔵します。)


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2016年11月13日

サブボディの分裂と多次元もつれ


ここ数年、死んだ友人山崎に関連して出てくる
サブボディ=コーボディを踊り続けていた。
それらは、あまりに政治的に走るので、
二度と政治はしないと決めた自分の中の確率にしたがって、
その踊りを封印した。
(そのせいで、とつじょ第一人格の<りゅうり>系のサブボディが
溢れ出てくるようになったのか?)

ピラーに誘われて、この踊りを踊った翌日、
ふと、自分のなかのサブボディ群が2つに分裂しているのか、
という気がしたが、いや、どうやらそう言い切るのは短絡にすぎる。
そんな二元的なことばで捉えることができるほど
からだの闇は単純ではない。
分別では捉えられないくらい超複雑に絡み合い、
もつれ合っている。
意識はいつも二元的なことばと論理を使って、
白黒をはっきりさせたがるが、
それは自分がすっきりしたいという意識の癖だ。
それに従うと、とんでもない的外れな自己誤解にとらわれる。
多次元共振している複雑な物事を、
単純な二元対立に還元しようとする意識の傾性を絶えず
無化し続けなければならない。

そして、非二元多次元共振する
とてつもなく複雑なサブボディ=コーボディの生命共振を踊るしかない。
ことばとからだをもっともつれあわせ、
微細に複雑にからまったまま共振させること。

なにかひとつの傾性に囚われず、
あらゆるサブボディ=コーボディの共振を
透明に踊れるようになりたいのだが、
いつの日か?
この日、ふとピラーに誘われて、
踊ったとき出てきたサブボディたちをつぶさに見れば、

魂の引き裂かれた神さま、
人生最初の恋人の跳べない蚤、
りゅうり大魔王
そしてりゅうり系のからだと、龍二系の精神との二元的対立として捉えようとする意識、

そう、この日は珍しく踊りながら、意識が出てきているのを透明に見た
そしてそれ以上踊れなくなった。
――これらがいりまじった複雑なこんがらがりだった。


からだの闇の探索は続く。
はてしない謎と秘密が結ぼれくぐもる国へ




(この項は、双方にまたがるので、下記の二箇所に収蔵します。)


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からだのくもらし方 
2016年11月12日

からだのくもらし方
――『病める舞姫』を踊るための身体変成技法


「そうらみろや、息がなくても虫は生きているよ。
あれをみろ、そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。
あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな」。
言いきかされたような観察にお裾分けされてゆくような体のくもらし方で、
私は育てられてきた。
からだの無用さを知った老人の縮まりや気配りが、
私のまわりを彷徨していたからであろう。」


土方巽は、『病める舞姫』の雑誌連載が終わり、
書物として出版するにあたって、上の節を冒頭に書き加えた。
2年間にわたって書き続けてきたこの書を一語に縮めるとすれば
「からだのくもらし方」とでもいうほかない未踏の身体技法で
象徴しようとしたのだ。

わたしは当初、この<からだのくもらし方>を、
からだを雲や霞のようなわけのわからないもので包み、
神秘化しようとする技法かと、捉えていた。

だが、『病める舞姫』全巻を読み終えたのち、
あたらめてこのことばにま向かうと、<からだのくもらし方>とは
この書で書かれたようなさまざまなからだと世界の共振によって
いのちが変形するクオリアのすべてをからだの各所の踊り場や、
秘膜層に着こむことだと腑に落ちてきた。
熟練した舞踏家はすべて、からだの各所に、
無数の固有のクオリアを溜め込み、着込んでいる。
そして、ときに応じてそれらのクオリアの雲から、動きが生みだされてくる。

そういうクオリアの雲を着込んだからだになることで、
外から見ても、何が起こっているのか分からない神秘的なからだに
変成することができるだ。

このビデオ講義は、新旧の塾生たちに、
この新身体技法の精髄を伝えようとしたものだ。
ながらく筆が止まっていた『舞踏論第三部 病める舞姫を踊る』だが、
この発見をもとに書き直しはじめることができそうだ。




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2016年11月7日

花とはなにか?
世阿弥と土方巽



いったいなぜ、ある特定の踊りだけが
命を震わせる力を持っているのか。
生涯忘れることのできない刻印を命に残すのか。
長年その秘密を探り続けてきた。
わたしの知るかぎり、世阿弥と土方巽もまた
同じ問いを問い続けた。
世阿弥は「花伝書」で次のように書く。
「花ト、面白キト、メヅラシキト、コレ三ツハ同ジ心ナリ。
イヅレノ花カ散ラデ残ルベキ。散ルユエニヨリテ、咲ク頃アレバメヅラシキナリ。能モ、住スル所ナキヲ、マヅ花ト知ルベシ。住セズシテ、余ノ風体ニ移レバ、メヅラシキナリ。」


晩年の「花鏡」では、さらにこれが深められる。
「面白き位より上に、心にも覚えず「あっ」という重あるべし。
これは感なり。
これは、心にも覚えねば、面白きとだに思わぬ感なり。
易には、感という文字の下、心を書かで、
ばかりを「かん」と読ませたり。
これ、
まことの「かん」には、心もなき際なるがゆえなり。


「拾玉得花」では、もう一段微細化される。
「以前申しつる、面白きといい、花といい、珍しきという、
この三つは一体異名なり。
これ、妙・花・面白・三つなりといえども、一色にて、
また、上・中・下の差別あり。
妙というは、言語を絶して、心行所滅なり。
言語を絶したりしは妙、
すでに明白となるは花、
一点つくるは面白きなり。
しかれば、無心の感、即心はただ歓喜のみか。
覚えず微笑する機、言語絶して,まさに一物もなし。
ここを妙なるという。
「妙なり」と得る心、妙花なり。
舞歌の曲をなし、意景感風の心耳を驚かすさかい、
覚えず見所の感応をなす。
これ妙花なり。
これ面白きなり。
これ無心咸なり。
この三箇条の感は、まさに無心の切なり。
心はなくて面白きとうけがうは何物ぞ。


この最後の世阿弥の問いに、
世阿弥を読み始めて何十年かたった今、答えることができる。
「心はなくて面白きとうけがうものは何物ぞ。」
命なのだ。
言語も心も絶した、命の震えをもたらすものこそが、
妙花、面白、無心咸なのだ。


「生命の呼称で呼ばれうる舞踏」を求め続けた土方巽もまた、
この生命の微細な震えこそがたいへんに貴重なものであると、
「静かな家」に刻み込んでいる。
友人の柳田家の庭で予想もしないクジャクに出会ったとき、
土方はそれを貴重な命の震えとしてからだの奥底にしまいこんだ。
土方が稀代の舞踏の振り付けを創ることができたのは、
その内奥の生命の震えが起こるかどうかを基準にしたからだ。

「体こそ踊り場であろう。
手の踊り場、尻の踊り場、肘の裏の踊り場等。
この場所が持つ深淵は、この踊り場にはさまってくるものを克服し、
からみつかせる事により成立する。
例えば、柳田家があり、柳田家の庭にクジャクがいるという事をたいへんに貴重なものであるという発見をする。
また、カン工場という場所は、
私にとってなつかしい粉末というものによって語られる。
それらが
踊る際の血液になっているのだ。」

命はいつもあらゆるものと、微細に共振している。
そして、その共振が高まり、新鮮な驚きや、胸の震えや、
高鳴りが起こった瞬間を克明に脳裏に刻みこむ。
言語や心を絶した妙花・無心咸は、
意識では創りだすことができない。
からだの闇の深淵に潜む命だけが知っているのだ。
命が震えるかどうか
踊りを創るとき、そして見るとき、
肝要なことはたったそれだけである。






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クオリアとは何か? 生命とは何か?  
2016年11月6日

クオリアとは何か? 生命とは何か?

クオリアとは何か?
生命とは何か?
共振とは何か?
この三つ巴の謎を塾生たちと共有したいと思った。
この三つにして一つの謎が、わたしにとってもっとも深い謎だ。
十年以上も、クオリア論、生命論、共振論に挑み続けているが、
未だに目処も立たない。
ただ、クオリアが宇宙史の中で生命に特有のもので、
物理学の4っつの力(相互作用)、重力、電磁気力、弱い力、強い力の
いずれにも関わりない第5の相互作用であること。
40億年前に地球上に誕生した生命が、
まわりの環界との共振によって起こった細胞の変化を
生命クオリア共振として、記憶し始めたことが
クオリアの起源であろうこと。
生命のクオリア共振は、現在の物理的な環界との共振(外クオリア)と、
細胞内に記憶されている内クオリアが絶えず多重に共振していること。
その多重性は、おそらくクオリアを生成している超微細なひもの
共振パターンの11次元での多重共振と関係しているだろうこと。
クオリアとクオリアが出会うと、直ちに新しいクオリアが創出されること。
生命の持つ無限の創造性は、その自動的な新しいクオリア創出性に
基礎をおいていること。
―など、今までにわかってきた主な発見に絞って語った。
わかりやすい英語なので、ぜひ聞いてみてください。



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ロベルト・マッタ 
2016年11月5日

共振力を深める

今月の練習中に、突然気づいた。
(そうか。わたしたちはいま、共振力を深める訓練をしているのだ!) と。
(これこそ、わたしのいのちがもっともやりたかったことにちがいない!) とも。

塾生たちがそれぞれにとっての大事なクオリアを、
言葉や、絵や写真や、音楽で提示して
みんなでそれに自由に共振していたときだった。
ふしぎなことに、つぎからつぎへとこれまでにない
新しい動きがからだから続々と飛び出してきた。
日常体が深く囚われている自他の境界を超えて共振が起こるときには
なんとも言えない爽快な状態になる。
ほんとうになにものにも囚われのない透明なからだを体験することができる。

共振力ということばは英語にはない。
だから無理やり"Resonativity(=Resonance ability)"
ということばを造語した。
造語の負い目もあって、いままであまりこのことを強調してこなかった。
だが、それも吹っ切れた。
いのちがもっともやりたいことなら、何を臆することがあろう。
共振力という言葉が英語にないのは、その文化に共振力をたっとぶ気風がないからだ。
その息吹を近代世界に吹き込んでいこう。
共振塾の活動だけではなく、
春夏のインド・ヨーロッパツアーはその機会でもある。
そうか、共振力かぁ。
新しい勇気が湧いてきた。

厄介な自我の鎧を脱ぎ捨てて、からだに生命共振の風が吹き通る。
なんという爽快さだろう。
この爽快さをすべてのひとと共有したい。



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 ハンス・ベルメール
2016年11月4日

もつれ・結ぼれを解きほぐす


上のベルメールの絵を見てください。
からだの闇では、うまくこの世に出てくることができなかった
無数のサブボディ=コーボディがもつれ・結ぼれて
狭いところに閉じ込められている。
これがサブボディ=コーボディの原型だ。
土方は、『静かな家」のなかで何度も何度も箱に詰め込まれ、
そしてそこから転生してみせた。

私は素っ裸で寝ている、そうして馬肉の夢をみた

  ゆくえは何処へ行ったのか?

  狂王は箱におさめられる

  箱のゆくえは細かい解体につながっている


関節の小箱―ハンス・ベルメール―武将―王女―虎

武将は女王になり、女王は関節の箱におさめられるだろう。

その箱のなかからの生まれ変わりがフーピーという踊り子である。

サブボディ技法の根幹は、からだの闇に耳を澄まし、
結ぼれを踊りに転化することによって、
その結ぼれをひとつひとつ解きほぐしていくことにある。
サブボディたちは、互いに結ぼれ、時空を超えてもつれ合っている。
出生時のトラウマが、悪夢と共振し、あらゆる原体験と共振し、
もつれ、結ぼれ、正体もなくくぐもっている。
自他の区別も、個と群れの区別も、時間の境界も超えて
結ぼれ合っている非二元かつ多次元共振世界だ。
共振塾では、自他の区別を超えて、
サブボディとコーボディのすべてを踊る。
自分のサブボディだけではなく、仲間のサブボディ=コーボディも
すべてわがこととして捉えて共振する。
そういう自他・内外にこだわらない透明なからだを育てていく。
そこには無数のエッジが待ち構えており、
絶えず誰かがそれに襲われ動けなくなる。
エッジや、古傷のフラッシュバックであるめんげん反応などを
すべて一緒に解決していく。
人生でまたとない貴重な体験をすることになる。
願わくば全員がこの闇を突っ切ってくれんことを!


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 少年土方の原体験

2016年10月20日

『病める舞姫』を読む3
少年土方の原体験

塾生の創造が進み、世界チャンネルが開かれるようになると、
いよいよ序破急の<急>に差し掛かる。
わたしたちは、『病める舞姫」に詳密に書き留められた
少年土方のからだがさまざまなものに脅かされ、
世界に喰われる土方巽の原体験を読み進んだ。

[1 そげた腰のけむり虫]

「そうらみろや、息がなくても虫は生きているよ。あれをみろ、そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな」。言いきかされたような観察にお裾分けされてゆくような体のくもらし方で、私は育てられてきた。

[2 からだの無用さを知った老人の縮まりや気配り]

からだの無用さを知った老人の縮まりや気配りが、私のまわりを彷徨していたからであろう。

[3 ただ生きているだけみたいな]

私の少年も、何の気もなくて急に馬鹿みたいになり、ただ生きているだけみたいな異様な明るさを保っていた。


[4 胡散臭いものや呪われたようなものに転んでいく視線]

そのくせ、胡散臭いものや呪われたようなものに視線が転んでいき、名もない鉛の玉や紐などに過剰な好奇心を持ったりした。鉛の玉や紐は休んだ振りをしているのだなどと、スパイのような目を働かすのであった。

[5 脈をとられ、食べられ、噛まれ、呑まれるからだ]

私は魚の目玉に指を通したり、ゴムの鳩を抱いた少女に言い寄ったりして、それからそれと生きてきたが、いつも実のところ脈をとられているような気分で発育してきた。
私は雪にしょっちゅう食べられかかっていたし、秋になれば、ばったにも噛まれた。梅雨どきには鯰に切られ、春先にはざくらっと川に呑まれたりして、自然に視線が、そういうものに傾いていったのであろう。

[6 単調で不安なものが乱入してくるからだ]

塩鮭を板で叩いたり、炎天下のリヤカーを眺めたり、ガラスに凹凸のある薬瓶を懐かしがったり、いちぢく浣腸を使っている人を訝しがったりした。
梅雨どきの台所にある赤錆びた包丁の暗さを探っては、そういう所に立って、涙の拭き具合を真剣に練習したりしていた。
からだの中に単調で不安なものが乱入してくるから、からだに霞をかけて、かすかに事物を捏造する機会を狙っていたのかもしれない。

[7 虫の息]

しょっちゅう腹に虫をわかし、虫も尻の穴の下のあたりをゆっくり蠢いていた。時には、尻の穴から出てくることもあった。裏の畑の青物を食べ過ぎたせいであったろうか。
また炎天下を走りすぎてそうなったのか、しょっちゅう熱を出して、赤いものや、青いものを、吐いていた。
大人達は、「こりゃ、えたいの知れねえ熱だ。」と言うのであった。
そう言われてみると、俺は何かに守られているのだという安堵感が、私をさらに虫の息に近づけるような、そういった塩梅の膨れ方をしていたのである。
どんな災難もあっさり解決してしまうような性癖や、情弱で無意志に近いものの芽が、からだに吹き出るようだった。

[11 からだだけで密談する]

人間、追いつめられれば、からだだけで密談するようになる。

[12 睨む女と棒になる私]

ある日、家の中で着物の着付けをしている女の人が、畳から一本の紐を銜えて少し伸び上がった。それから、恐ろしい顔になって帯のうしろに手を廻し、きっとした目付きで私の方を睨んだことがあった。
私はすうっと裏口から出ていって、もさっとした静かな家裏の廂に立て掛けてある変哲もない棒を見ていたことがあった。いつの間にか私は棒になって遊んでいた。


[14 媒介のないからだ]

私のからだは喋らなかったが、稚いものや羞じらいをもつものとは糸の切れているところに宿っている何かを、確かに感じとっていたらしい。からだは、いつも出てゆくようにして、からだに帰ってきていた。額はいつも開かれていたが、何も目に入らないかのようになっていた。歩きながら躓き転ぶ寸前に、あっさり花になってしまうような、媒介のない手続きの欠けたからだにもなっていた。そういうからだを手術しようとも私は思わない。手術できるものでもないだろうが。あまり楽しいときは、踊らないことにしているのだ。

[18 すでに踊らされてしまったような感じ]

私は白く汚れて、持たっと泣いている子供たちの方へいつも近づいていった。喰えなくなるほど育った葱の方へも吼えに行った。
私は何者かによってすでに踊らされてしまったような感じにとらわれた。
私は湯気に包まれるか、ただぽしゃらっと生命を失った物体のようになっていた。からだ自体の感ずる重力の無さ加減が、ふと思うことのなかに浮かんだ形を素早く食べてしまうような身振りを、私に教えてもいたのだろう。

[19 忘れられたからだ]

私の挙動には。情愛めいたものや分別めいたものが入り込む隙がなくなっていたようだ。
からだが自分の持ち物でないように、手脚を忘れからだ自体にも忘れられていたのであろう。
目に入ってくるものをつかめない証拠に、私は濡れた紙が黄ばんで乾き、その上に蝶々が止まっていたのを、小半時も眺めるようなところに立っていたのだ。
その故か、今でも私は饅頭を食べるときの箸の滑りを不安がるのだろう。
夕方になると急に元気がなくなったり、元気が出たりするう移ろい易い感情の行方は、私のからだに融け込んでしまって、捜すことも、精密にその行方をたどることも難しくなってしまっている。

[20 中腰のなかに滲みでている暗がりの練習]

しかし、こういう忘れられたからだの状態でも、漬物樽の上に白い粉を吹いている石の重さは忘れられない。石を持ち上げ、のびきった茄子を引き上げるときの中腰と、その中腰のなかに滲み出ている暗がりは、自然にからだに備わっていたものであろうが、私は練習もしていたのだ。

[21 絹の糸を怖がらぬようになるまで]

絹の糸を怖がらぬ様になるまで私は長い年月をかけたし、水屋に立って荒い息を吐きながら、使いものにもならない二つの乳房をたらしていた女を、美しいものだと認めるには、これもまた、さまざまな屈折を重ねてきたのである。

[22 輪郭をはずされたからだ]

いろいろなものが、輪郭をはずされたからだに纏いつき、それを剥がすと新しい風が印刷されるように感じられたが、風の方でもまちがいを起こし、私もまたあやまちを重ねただけにすぎなかったのだろう。

[23 空気の中の見えない大きな生きものを見る額の目玉]

額に目玉をつけてなければ、ぶらぶらとそこらじゅうに吊り下がってるものたちの争いに喰われてしまうし、空気のなかの見えない大きな生きものも見ることはできないのだ。そういうところにからだがはさまっていたようだ。(以下略か?)私はよく買い喰いをした。買い喰いの汚れた顔で表を歩いていた。途中ですれちがう犬に飴やするめを擦りつけて食べ直していた。そういう私で、あった・・・・・・・。

[24 あまりにも放って置かれたからだ]

石川五右衛門が出て来そうな空模様の下でコトコトと煮物の音が聞こえていた。むしろ、聞こえて欲しいと願っていたのだろう。聞こえるには聞こえているが、畳の目にあまり目玉を貸し過ぎて、考えの糸が切れていたのかもしれない。余りにも放って置かれた体のことに、ついつい考えが及ぶようになっていた。

[25 湯気に掠め奪られたからだ]

薄暗がりに炊かれた釜から吹きあげる湯気に吹かれていると、喰い気がなくなり、考えることも湯気のようになり、作り話のようなからだに育ってゆくのだった。こうして私は湯気にも掠め奪られてしまっていた。掠め奪られ、またすでに踊られてしまっているのに、それを奪い返し再生し続けるにはどうやればいいのか見当もつかないでいた。ぼやぼやと立ち昇る湯気の中には、私を笑っているような盲や獅子が隠れていたのだろうか。手で水を縛る思いのようにうまくゆかないもの、難儀なものが湯気の中に混じってもいた。

[26 私だけが踊られてしまっていたのではなかった]

いまにして思えば、濡れ雑巾に刺さっている魚の骨を懐かしがっているようなところにしか、辿りつけぬ行方がひそんでいたのかもしれない。私だけが踊られてしまっていたのではなかった。ぼわっとした子供たちを眺める豚を、じっと見つめ返していたこともあるし、鶏が空を見上げているようなうすら寒い日の下に立ったこともある。そういうとき私は、柱に噛みついて歯形をつけたり、畑の苦い胡瓜のことなど忘れようとしたりしていた。家の中で皺くちゃな紙を延ばしている人から、誰も知らない音の中に棲んでいる生きものの姿が覗かれたであろうに、私の若いからだは無理もない方へ、つまり飴色のゴムの靴下止めを迂回したり、恐がっている方へ、堕ちていったのだ。

[27 喰われ続けるからだ]

日暮れまで表で遊んでいて、声帯が黒砂糖のように甘く潰れかかっていた。昼間のほてりが夕方になっても抜け落ちないほどに、上着のボタンも潰れていた。家の中に入るなり、割り箸の先に綿をまき、黒い塗り薬を塗ったものを、這いつくばった尻にトントンと挿入された。帰ったあとはそんなわけで、そばにいた小動物の逃げ足の角度から、夕暮れがつながっていくというような風景があった。赤トンボに小さな虫が混じって顔にぶつかってくる。その虫を喉深く飲んでしまったので、いがらっぽい表情が私のからだにずっとつながっているのだろう。青っ洟をたらしているからだにアブもはげしくぶつかっていた。そんなからだの状態でいろいろな菓子を私は喰っていた。香煎、ザラメ、黒砂糖、生姜煎餅のカケラ、味噌パン、ねじり、拳骨飴、バクダン、バナナ菓子などだ。そういうものを食べているとどういうわけか、家の中から痩せた男がちょろちょろと出てきて、裏の畑に鍬を入れ、葱を抜いたりしていた。木通や李、巴旦杏、茱萸、すぐりなどを喰っているそばを、青い顔をした人が非常に早く走り去っていったのも不思議であった。こうしたあるいは密偵のような、敏速に見え隠れしながら連絡をとっているものたちと同じく、わたしは単純種だった。稚い古さやいろんな煙と別れ別れになって暮らしすぎると、舌を長々と出してふざけるだけで、誰でも一つ目小僧になれることすら忘れてしまう。泣いているものと溶けているものの区別がつかなくなり、「ああ、助けてくれーっ。」と叫んでいる子供の声も何かしら芝居じみて聴こえてきて、私は水底に降りていけなくなる。家の中の畳や障子はいつ見てもかわりばえしない面を保っていた。物もも恋する機会を持てないのかと察せられる日が続いた。そんなとき私は、身を捩り地団駄踏んで暴れ騒ぐのだが、からだの中を蝕む空っぽの広がりの速さに負けてくるのであった。喰いたい菓子や飴が本当に口に入らないということが解ると、平べったい犬や、紐のように延びた猫が頭のまわりに浮かんでくるのであった。犬も猫も飴なのだからというような奇妙な決め方をしていた。空に迅速な異変でも起こらぬ限り、このからだは、こうして喰われ続けていくのだろうということばかり考えていた。


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20 October, 2016

Proto Experiences of Boy Hijikata

For opening each one's world channel, we learned Hijikata's proto experiences which he wrote in the "Sick Dancing Princess" He discribed pricisely ao many experiences that his body was eaten by the world, both of physically and mentally as the following;


Sick Dancing Princess

 [1 The method of clouding the body]

Hey look at them!

Insects are alive without breathing.

Look! The thinned down smoke bugs have come walking this way.

Surely there could be a bug at the middle, reincarnating into something.

I've been brought up with the method to obscure the body,

participating in such as observations I overheard.

All because, shrink and attentiveness of old man which knew the uselessness of body had been wandering about me.

 

[Strange brightness and something shady]

Also the boy as me suddenly became stupid without any intention, and kept like a strange brightness but only just barely alive.

And yet, my eyes fell into something shady as if they were cursed, I had an excessive curiosity towards such nameless things as lead balls or string.

I was forced to work in the eyes like a spy, guessing that the lead ball and string must be pretending to rest.

 

[2. A body being eaten by the snow]

I have lived with passing through my finger in to the eye of the fish, or flirting with a girl who had a dove of rubber, in fact always I have been growing in the mood such as I was taken for a pulse.

I was about to be eaten often by snow, if I in the fall, was also bitten by grasshopper. In the rainy season I was cut by catfish, and in early spring I was swallowed by the river by whole body. And probably the eyes went inclined naturally to such things.

[A body stormed into by something monotonic and anxious]

I have hit a salted salmon with a plate or watching a bicycle-cart under  blazing sun, or felt nostalgic a medicine bottle with an uneven glass, or felt suspicious the people who would use an enema fig.

I explored the darkness of a rusty kitchen knife in the rainy season standing in such a place, and had been practicing how to wipe tears seriously. Because of monotonic and anxious things stormed into the body, I might be aiming faintly a chance to fabricate fake things with wearing a haze to the body.

 

[3. Worms and fever]

Always worms were generated in my belly, and they were wriggling slowly under the ass hole. Sometimes it came out of the ass hole. I wonder was it due to eating the greens of the backyard too much? Moreover, I always became fever and vomited red things and blue things.  I wonder the cause because I have run around under hot sun too much? Adult people said "This is a strange fever". When I heard such a thing, a sense of relief which I was guarded by something, made me closer to the faint breath further. I was swelling in such a way. My nature that would solve easily any misfortune, and a bud of weak heart and a thing close to no will, seemed to blow out from the body.

 

[7. Human that does huddle only by the body]

In case of being cornered, human, it becomes to huddle only by the body.

 

[8. A woman glared at me and I became a stick]

One day, a woman who was dressing a kimono in the house has a little stretch with chewing a piece of string from the tatami floor. After that, she turned the hands behind the band with a terrible face, and glared at me with tight eyes. I went out from the back door silently and was watching a mediocre stick that was leaning against the eaves quietly behind the house. Before I knew it, I became a stick and was playing.

 

[9. A hidden state]

 [A body without intermediary]

My body did not speak, but it seemed to sense something which lived at the place where was apart from infant things or things which has the shame certainly. The body had been like going out and retuning to body. My forehead was open always, but I had become as if eyes accepted nothing. It became a body with no intermediary procedures as if my body became a flower easily at a moment before stumbled and fell while walking. I also don't think to surgery such a body. But there would be not able to. When it is so much fun, I have decided not to dance.

 

[10. A vague figure]

A vague figure which I had inhaled with the smell of lunch which went bad, around the color of sour pickled eggplant which was blowing powders, would have been the precious thing.

 [Feeling which seems to have been already danced by someone]

I've always approached towards crying children who became dirty whitish. I also went to bark toward green onions unable to eat because grew up too much. I was caught in the feeling seems to have been already danced by someone. I was shrouded in steam, or became like an object lost life totally. The lack of the gravity which the body itself feels, would teach me a gesture that like I ate up quickly a form floating up by chance in a think.

[A body which was forgotten]

In my behavior, a room which something affectionate and thoughtful is able to get into would be gone. As if the body was not my property, I had forgotten my arms and leg, also the body itself was forgotten away. As the evidence that I could not grasp what came into my eyes, I was standing in a place like watching a wet paper during it turn yellowish and drying, and a butterfly stopped on it for an hour. Therefore or, I would probably be afraid of slipping of chopsticks during eating a bowl of eel and rice still. The whereabouts of my changeable feelings which I suddenly lose energy, and spirits rise up in the evening, gone melt into my body, it has become difficult to search, also to follow its whereabouts precisely.

[Practice of the gloom that oozes among the kneeling position]

However, even in such a state of the body that was forgotten, the weight of the stone on top of the pickle barrel that is blowing white powder is unforgettable. The kneeling position when I lifted the stone, and raise the stretched eggplant, and the gloom that oozed out from the kneeling position itself, probably it would be what provided in the body naturally, but on the other hand I had practiced it.

 

[12. Fear of silk thread]

I needed long years till to become not scared of silk thread, and I have experienced various refractions till I recognized a woman who was hanging two breasts while standing in a kitchen place with heavily breathing, as something beautiful.

 

[13. A body being removed the outlines from]

Various things enwind the body that was removed the outlines from, and if I peeled them off, I felt as if a new wind was printed on it, but also the side of wind had made a mistake, and maybe also I would merely have repeated a mistake.

[Eyeball for watching the invisible huge creature in the air]

If I had not an eyeball on the forehead, I would have been eaten by the fight against those which are hanging all over the place, and it was not able to see the invisible huge creature in the air. My body seemed to be sandwiched in that place. I often bought and ate foods. I was walking on the street with the dirty face of buying and eating. I rubbed the candy and dried squid to the dog passing each other on the way and was eating it again. I was, like that.....

 

[14. A body which was left alone too much]

Sound of boiling food was heard under the sky as if the Ishikawa Goemon(*) was likely to come out. Rather, I would have wished to be able to hear it. Or the strings of the thought might have been cut off, because I had lent my eyes too much to the pattern of tatami mat, though it might be able to be heard. My thought had been unconsciously led to the body which has been left alone too much.

* A legendary great thief

[Body which had been stolen by steam]

When I was blown by the steam from the boiling iron pot of rice in the dusk, I have lost appetite, my thought became like steam, my body had been growing up to such as a fictional body. Thus, my body was stolen even by the steam. Though it had been stolen and been danced by someone already, I had no idea how could I get back it and regenerate. I wonder that a blind and a lion like laughing me were hidden in the steam rising up faintly. What shall not succeed as a thought as binding the water by hand, something very difficult were also mixed in the steam.

 

[It was not only me who had been danced by someone]

In retrospect, the whereabouts which cannot get might be hidden at only place like it missed the bones of a fish which pierced into wet cloth. It was not only me who had been danced by someone. I have been returned stare a pig which watched the dopey children, and have sometimes stood under the chilly Sun like a chicken looking up at the sky. At times like that, I've been trying to put a tooth biting a pillar, or forget such things of bitter cucumber in the field.

[Creature that lives in a sound that no one knows]

It might be able to be peeped the shape of creatures that lived in a sound that no one knew, through the people who were extending the crumpled paper in the house. But my young body has fallen into where not blame, or into where we bypassed the light brown robber socks stopper by afraid.

 

[15. A body which continues to be eaten]

I played in the street until sunset, my vocal cord was about to collapse like a brown sweet sugar. Also buttons of my jacket were smashed enough even if the daytime hot flashes were not fallen out in the evening. As I came home, I was inserted the cotton painted black ointment at the tip of disposable chopsticks into the ass in a groveling position.

After I went home, so there was scenery like the dusk was connecting from the angle of running away of small animals which was near me. Red dragonflies and mixed small insects hit my face. So, I have drunk them deep into my throat so that probably the expression of rough throat might connect to my body.

My body dripping blue nasal discharge was also violently hit by horsefly. I was eating various sweets by such a body.  Roasted fragments barley flour, granulated sugar, brown sugar, a piece of ginger rice crackers, soybean paste bread, twisted candy, fist candy, bomb, and banana sweets. Somehow when I eat those kinds of thing, a thin man came out from inside the house in trickles, and put a hoe in the back of the field, and he pulled out the green onions.





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2016年10月15日

『静かな家』の序破急成就

全部で27章からなる「静かな家ソロのためのメモ」の、
最後の3章が、<急>に当たる。
世阿弥がもっとも大事にしたのは、序破急成就である。
単なる序破急をつけるだけではない。
序破急は最後の最後に踊り手と観客の境を超えて
ひとつの生命共振に結晶せねばならない。がなければならない。
序破急成就とは、序から、幾たびもの破を経て、
その度に観客を踊りの世界に引きずり込み、
最後の急において、手数と工夫を尽くしてもみ寄せ、
一気に踊り手と観客のいのちが共振によって一つになることをいう。
「序破急成就せずんば、能にあらず(=踊りにならない)」
とさえ言い切っている。
たらたらといつ終わるかわからないようなふやけた終わりは
すべてをぶち壊す。
世阿弥と土方の<急>からもっと学んでほしい。
土方の「静かな家」の急は、まさしく世阿弥が述べている
<もみ寄せの急>
の典型である。
最後の3章に、これまで踊って来たすべてのエッセンスを凝縮し、
結晶化してみせた。
ただ、土方は「静かな家」では、踊りの肝心な部分は
物理的な動きを極力排除して、頭蓋の中の最小限の踊りに
凝縮するという途方もない実験を行った。
当時の観客には何も視えなかったのかもしれない。
公演後だれも公演評を書く者が現れなかったことがそれを示している。
以下に<急>部分の原文を示す。
静かな家のなかでももっとも美しい部分だ。
ビデオのレクチャーではわたしはそれを原寸で踊って見せている。
原寸大で踊るのか、半分のサイズに削減するのか、
それとももっと微細なサイズに還元して踊るのか。
いかにいのちからいのちへ踊りを届けるか、
その工夫と実験はわたしたちに委ねられている。

25 (悪夢)

 

悪夢こそはこの裸体なのだ

 1、虫やらミショーの顔やら、少女と馬の顔やら、

  電髪の女やら、馬鹿の顔やら、ボッシュが描いた人物の顔やら、

  助けてくれと嘆願する手やら

 2、犬と花と影とトントントンと跳ねる虫

 

26 奇妙な展開のさなかで

 

 1、手のなかへの求心的な恋愛を頭蓋のなかにすっかり置き変える

 2、神経が棒になり、棒が乞喰になった。乞喰が旗を振っていた、

  それは大きな鳥であった。

 3、首が馬の首になってのびると、指のゴムものびた。

  その作業のさなかに、点の眼と視点が変えられた。

  Xによる還元と再生にさらされていたのだ。

  その時は、背後に爪がザックリとささり、ゆくえははぐれて育ち、

  新たな還元により、小さなマイムがそこに誕生していた。

 4、内部が外部へあふれ出し、あふれ出していったものが仮面の港へ

  帰ってくる。仮面は森のなかへ船出をするのだ。

 5、額の風、額はとらわれている。手の葉、植物の軌跡を走り、私は、

  ついに棒杭の人となっていた。

 6、深淵図の中で、全ての事象の午前一時のなかで、柳田家の孔雀は完成される。

 

27 皮膚への参加

 

 1、小さな頭蓋のなかの小さな花、それはそれは細い細い視線、

  神経は、頭の外側に棒を目撃した、

  その棒を額で撰り分けている視線。

 2、小さな顔で歩く盲はまるでサルのようだ。猿の頭に落雷。  

  頭の中に小さな花が咲く、糸つむぎの唄が聞え出す。

 3、引きのばされる老婆は一枚の紙になるだろう。

  老婆はその紙の上に蛾のように乗っかるだろう。

 4、武将は女王になり、女王は関節の箱におさめられるだろう。

  その箱のなかからの生まれ変わりがフーピーという踊り子である。



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2016年10月8日

眠れ、山崎! 睡れ、山沢! リゾーム・リー(岡龍二)

49年前の今日、ベトナム反戦デモの中で、
畏友山崎博昭が死んだ。
この数年、山崎を目覚めさせようとして踊ってきたが、もういい。
山崎よ、眠れ。
そして彼といつも対で出てくるわたしの中の山沢夙よ、睡れ。
山沢は、無口で内弁慶だった幼いわたしが青年期に分泌した
政治=社会的傾性を持つ分身だ。
山沢は青年期、革命運動のオルガナイザーやアジテーターという
わたしに似合わない仕事をしていた。
運動をやめた時、二度と政治はすまいと決めた。
政治以外の方法で世界を変える方法を見つけよう、と。
だが、この数年、踊るたびにわたしの中の山沢が出てきて、
「山崎、目を覚ませ!」と世界中の山崎の墓標に見立てた山崎石を
石で叩き続けた。十数回以上世界各地で踊った。
そして、その踊りを群れの踊りにまで展開し、来年10月8日の
山崎博昭50回忌に開かれる慰霊碑の建立式で踊ろうと考えていた。
いや、そう考えていたのはわたしの中の分身山沢である。
山沢は十数名の各国ダンサーを日本に呼ぶために
旅費・滞在費などをカンパで集めようとした。
だが、その趣意書を書こうとして、まさしくこれはわたしが自分に禁じた
政治的行為そのものであることに気づいた。
死んだ山崎を、現在の政治に利用しようとするものだと。
たとえそれが「反戦」というような目的であろうと、
山崎を政治に使ってはならない。
わたしは諦める。
政治ではなく、ただ生命共振だけで世界が変わっていく道を追求する。
踊りを通じて、いのちからいのちに伝わる生命共振の力だけを信じる。
途方もない時間がかかる。
具体的な方法論や運動論など何もない。
ただ、わたしは共振塾の運動がわたしの死後も世界中に
継続的に発展していく態勢だけは整えた。
具体的な展開は後の世代に任せる。
何世代も、何十世代もかかるかもしれない。
だが、これが最も確実に政治や国家を死滅させる道なのだ。



(この稿は、「からだの闇」と「行方不明者の日記」の
両方にまたがるので、両方に掲載します。)



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無窮道の深淵で踊る 
 
2016年9月30日

問題に自分を喰わせる

「わたしはいつも、問題に自分を喰わせることによってそれを解決する。」
フランツ・カフカ


わたしもまた、いつもカフカ流に問題を解決しようとしてきた。
この数年からだのなかのもっとも低い傾性に
からだを喰われるままに任せてきた。
母なし児のりゅうり、あるいはりゅうり大魔王と呼んでいる。
幼児期から続くわたしのなかのもっともやっかいな傾性だ。
そしていま、その問題にからだじゅうを喰い散らかされ、
もはやそれが限界まで達したことを知った。

(もうこれ以上、もち堪えられない!)

それに圧殺されてきたほかのいのちの傾性たちが
いっせいに悲鳴を上げ始めた。
からだの闇の附置が地殻変動を起こし、
軋みの限界に達したのだ。
問題に自分を喰わせ続けていれば、いつかは必ずこの時が来る。

従来のわたしなら、ここですかさず、龍二系のだれか、
ときに山沢、ときに今故などがでてきてイニシアチヴをとるところだ。
ゆうべもたまゆらその気配を感じた。
だが、すかさず今故系の社会=政治的次元にせり上がろうとする傾性を
瞬時に抑制した。
従来通りの人格交替劇によっては何も変わらない。
二大政党の政権交代によって何も変わらないのと同じだ。
そうではなく、透明になること
内側の特殊な傾性にとらわれるのでもなく、
外側のあらゆる状況の変化にとらわれるのでもなく、
透明になること。

思考を止め、いのちに問う。

何を一番実現したい?
いのちさんよ。

かすかないのちの息吹に耳を澄まし、
わたしのいのちのあり方が根底的に変わらねばならない。

この秋にと、企図したまま進められていない『病める舞姫』をめぐる舞踏論の書き直しや
新しい練習法の深め方を遂行すること。
新旧の遠くにいる塾生にむけて、
ひとりでどのように修練するかのアドバイスをまとめよう。
たえずいのちに耳を澄まし、
まだ一度も繰り返したことのないクオリアに出会い、
それを創造に転化すること。

それを自分に適用する。
いつもやっていることだが、
こんな深いレベルで行うのははじめてのことだ。
その過程で新しいわたしが結晶してでてくるかどうか。
ここが正念場だ。
自分で実行できなければ、
わたしの言っていることはすべて嘘になる。

(この稿は、「からだの闇」と「行方不明者の日記」の両方にまたがるので、
両方に掲載します。)



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いかに『病める舞姫』を踊れるからだになるか 
2016年9月11日

いかに『病める舞姫』を踊れるからだになるか

その一 からだのくもらしかた


胡散臭いものとの共振



『病める舞姫』を読み始めてもう20年になる。
そして、今になって第一節冒頭に出てくる「からだのくもらしかた」について、
いままで一知半解だったことに気づいた。
いままではただ、外から見て何が起こっているのかわからない
雲をまとったからだ、と受け止めていた。
だが、いのちの内側から、このからだになりこむには、
みずからの生命共振のクオリアの雲を幾重にもまとう必要があるのだ。


『病める舞姫』 原文 第1章第1節 

[1 からだのくもらしかた]

「そうらみろや、息がなくても虫は生きているよ。あれをみろ、そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな」。言いきかされたような観察にお裾分けされてゆくような体のくもらし方で、私は育てられてきた。

からだの無用さを知った老人の縮まりや気配りが、私のまわりを彷徨していたからであろう。

私の少年も、何の気もなくて急に馬鹿みたいになり、ただ生きているだけみたいな異様な明るさを保っていた。

そのくせ、胡散臭いものや呪われたようなものに視線が転んでいき、名もない鉛の玉や紐などに過剰な好奇心を持ったりした。鉛の玉や紐は休んだ振りをしているのだなどと、スパイのような目を働かすのであった。


この第一節は、雑誌に連載した全原稿を書き上げた後、
書物出版前に土方が付け加えたものである。
この「からだのくもらしかた」とは、『病める舞姫』全巻を象徴するからだの技法だったのだ。
それは、おいおい明らかになるだろうが、
からだのまわりに幾重もの生命共振のクオリアの雲をまとう重層的な多次元共振体としての生命に変成することである。
ここで出てくるからだの無用を知った老人のように、見えない気配りを世界に拡げ、異変を察知すれば直ちに縮む、幾重ものクオリアの雲からなる秘膜をまとうからだである。
その雲は各自の災難の記憶や元型や生命の智慧のクオリアからなる。
いのちは不可視の世界や胡散臭い事物などに絶えず脅かされつづけている。
『病める舞姫』全巻は、それらの生命共振のクオリアについて、
『痴呆になる寸前の精密さで書き留められた書である。
いわばいかなるクオリアの雲ををからだの秘膜にまとい、
からだをくもらすかについて、詳述した書なのだ。

共振塾後期の第1週は、練習場に学校の内外で生徒が見つけた胡散臭い事物をならべ、
それらと微細な秘膜共振をするからだになる練習から始めた。
この夏のポーランドで見つけた練習法である。
ここ数年苦闘してきた『病める舞姫』の世界に入っていくための
からだの変成技法がやっと見つかった。
来週からは、これらのクオリアをあらゆるチャンネルに拡張し、
微細共振を重層化していく。



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原生夢 ホンザとコーボディ
2016年6月20日

表出ではなく、消失を


舞踏祭最後のホンザの原生夢劇場では、
彼の夢に出てきたという逆さまのわたしになって
舞台に担ぎだされた。
そのあと、
この日の3日前に世を去ったホンザの友人・ロブになって
ホンザの背後をさまよった。
死後数日は、死んだ人の濃密なクオリアが
あちこちに漂っている。
それを踊るのが、踊り手としてのとむらい方だ。
表出ではなく、消失のクオリアを踊る。
20数年前に、インドネシアのジャワ島で、
死んだ母を踊ったのが始まりだった。
山崎博昭、辻俊明、橋本憲二ら、
死んだ友人たちを無数回踊ってきた。
畏友サンチャゴ・サンペレの死を、彼の元ダンサーがダラムサラに来て告げた。
その後何回もサンチャゴの死を踊ったが、
数年後彼が生きていることが分かった。
今年の三月には高校大学の友人・太田俊明の死を踊った。
これから増えてくるに違いない無数の消失をわたしは踊るだろう。
前に出て踊るのではなく、ものかげや人影における
たんなる気配にまで自分を消して踊る。
自分を徐々に徐々に消していくこと。
いのちがゆっくりと非時非空に消えていくのを踊る。
これがわたしのじわじわとした長い死だ。
わたしの死をこのように創造する。

死を創造するとは、
このように固有の死に方を生きることだ。
ある日、死に喰われるのを待つのではなく、
一歩一歩いのちの消失を踊り深めることが、
わたしの創造的な死にかただ。
長年探ってきたものが、ようやく掌に落ちてきた。



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 ピラーの十年間の探求
2016年6月13日

ピラーの十年間の探求


ピラーは、2006年に初めて共振塾に来て以来、
自分の必然を探り続けた。
最初の年は、森のなかでテロリストに撃たれる悪夢を踊って衝撃を与えた。
いくども悪夢を反復し、
胎界に遡行して、帝王切開の恐怖を踊り続け、
世界中の水中で踊り、
アマゾンの森の民の歌を口ずさんだ。
鳥になり、獣になり、
魔女や、女神や、精霊に変成した。
つねに秘密を運び続け、
ついになんとも名付けようのないものに生成変化した。
産婆として、一人のサブボディの十年に渡る探求を
見守り続けることほど嬉しいことはなかった。
他の塾生も、彼女にならって、たゆみなくからだの闇を掘り続けてほしい。
かならずや、世界でたったひとつの踊りに結晶するのだ。


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2016年5月31日

リゾームになろう。粘菌先生に学ぼう!

わたしの生命の師、粘菌先生に関する美しい本が出た。
新井文彦『粘菌生活のススメ』。
これまでにない素晴らしい写真でいっぱいだ。
粘菌は、ときに単細胞、ときに多細胞と姿を変え、
生き様も動物的な生きようから、植物的なありように変幻し、
ときに胞子となって空中を浮遊する。
粘菌は、私にとって近代的な自我や自己に縛られた狭苦しい在りようから、
無限に変容流動する新しいリゾームという生き方へ導いてくれる
光明を与えてくれた。
リゾームとは哲学の師、ジル・ドゥルーズが見出した未来の人間の形態だ。
自在に連結し、自由に分離する、従来のツリー(ピラミッド)型の
階層秩序に縛られた組織とは完全に異なるありようを示した。
インドに来た最初の年、
紀州の南方熊楠博物館で分けてもらった粘菌をヒマラヤで育て
何ヶ月もながめくらした。
粘菌の動きを見ていると、毎夜大脳の海馬で誕生する新生脳細胞の
動きにそっくりであることにも気づいた。
かすかなクオリア共振に導かれてどんどん触手を伸ばし
外界や粘菌同士の無数の共振関係を生長させていく。
大脳の神経細胞も同様に共振を重合することによって生長していく。
共振の複合化と重層関係の積み重ねが生きることなのだ。
粘菌は生命のあり様を裸で観察できる最高の生きものである。
わたしが長年師事する所以だ。

読者の方々にもおすすめする。
機会があれば雨期の森に入り、粘菌の一欠片を採集して、
育てて見ることを。
シャーレのような皿に入れ、飯粒や大麦などの餌を置いておくと、
翌日には予想もしない動きの地図が出来上がっている。
それを見ながら問うて見ることだ。
いのちとは何か。
人生が百八十度逆転するだろう。

ちなみに、この写真は、ほぼ毎日見ている
糸井重里の『ほぼ日』で見つけた。
ありがとう、糸井さん。



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2016年5月1日

あらゆる性を生きる

透明な性になる。
生まれ落ちた性にも、育ちにも拘束されず、あらゆる性を生きる。
それが人間の未来の性を開く。
女性らしさも、男らしさも、無性のクオリアもすべて重要な生命の遺産で
ある。
だが、わたしたちはあまりにも深く、たまたま生まれ落ちた生物学的な性
や、社会的な性(ジェンダ
ー)に拘束されすぎている。

わたしたちは、人間という拘束を脱ぎ、生命になることでこれらの拘束の
すべてから解放されること
ができる。

まず最初に、わたしたちが囚われている性の罠のひとつひとつを紹介し
よう。
それらは、多次元・非二元的に絡み合い、結ぼれて訳がわからないほど
複雑怪奇なくぐもりとなっ
ている。

セクシュアリティとジェンダー

生物学的セクシュアリティ
異性のセクシュアリティ
生命としての単性生殖的なモノセクシュアリティ
社会的性的役割(ジェンダー)

セクシュアリティのバリエーション

異性愛
同性愛
をはじめとするマイナーなセクシュアリティ
マザーコンプレックス
ファーザーコンプレックス
ロリータコンプレックス
ショタコンプレックス
変態性欲
サディズム
マゾヒズム
フェティシズム
動物姦
死姦
単性セクシュアリティ
オナニー
暴力的な性
レイプ
痴漢
のぞき見
近親相姦
性的虐待
性的嫌がらせ(ハラスメント)
等々....

わたしたちは特定の性的傾向によって拘束されているとき、からだが特
定のホルモンモードになる。
これが、性の罠がとてつもなく強力な理由である。
意識や意志によってそれを制御することはとても困難だ。
自分が囚われている状態を透明に見透かして、
そこから解放されるための独自の調体技法を発明する必要がある。
性的モードには強い快感がともなうため、
それを克服するのは限りなく不可能に近いほど難しい。
だが、なんらかの折り合いを見つけっるしかないのだ。

わたしたち人間は、からだの状態だけではなく、次にのべるような
無数の幻想的なクオリアに囚われている存在だ。
吉本隆明はそれらを<対幻想>と呼んだ。
性的なクオリアが対の形で共振的に絡み合い囚われとなったものだ。

性的クオリアの対幻想的共振絡み合い(=家族という闇)

-母
-父
-妻
-夫
-娘
-息子
-姉妹
-兄弟
-恋人
-愛人
-ガールフレンド
-ボーイフレンド
等々

これらの性的(対幻想)クオリアはからだの闇深くに棲む無数の元型や
祖型的なクオリアとも共振し拘束されている。


セクシュアリティの元型

アニマ (男性にとっての理想の女性像)
アニムス(女性にとっての理想の男性像)
(だがこれらは自分の内なる(=気づいていない)異性クオリアの投影
共振である。)

グレートマザー(太母)
イマーゴ(理想の母親像)
英雄

女神
悪魔

女王
トリックスター
賢者
魔女
天使
妖精
幽霊
怪物
男の子
女の子
まれびと

などなど

生命としての祖型的クオリア

安全欲の傾性---恐怖、震え、こわばり、金縛り
快適欲の傾性--- 習慣、悪癖、中毒
つながり欲の傾性---触る、接触させること
実現欲の傾性---100%本当の自分を実現する
共振欲の傾性---最適の共振パターンを見つける


人間関係の共振パターン

転移
投影
ドリーミングアップ
憑依
被害妄想
迫害妄想
三角関係

なにが起ころうとも、これらのすべてがクオリアの共振パターンの
多様なもつれであることを透明に見透かすことが何より大事である。


これらのもつれから解放される方法

「n個の性を生きよう!」とジル・ドゥルーズは言った。
ただひとつの性的なありように囚われず、無数の性を生きようということ
だ。
男性は女性になり、女性は男性になろう。子供になれ。群れになれ。
瀕死の体になれ。不具になれ。狂いを生きよう。
動物になれ。植物になれ。虫になれ。細菌になれ。
水、風、光、石になろう!
わたしたちは、クオリア共振によって無数の性を生きることができる。
生命の舞踏とは、いのちの持つ無限の創造性、独創性、共振性を拡張
することなのだ。

これは、現代の人間の自由の枠を超える
未来の生命の深い自由を開く生き方である。


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自我の罠を超えて 
2016年4月30日

自我の罠を超えて


わたしたちは、同じ罠に繰り返しかかってしまう存在だ。
とりわけ、自我という罠をはじめ、
からだの闇に棲むさまざまな元型の罠に繰り返し囚われる。
ここでは、からだの闇に待ち構えているさまざまな罠の特徴と、
そのすり抜け方について紹介した。


自我の止め方

生命の創造性と、自我・超自我・元型

 

生命の創造性をフルに発揮するためには、

自我(エゴ)や超自我(スーパーエゴ)や元型への囚われから脱する必
要がある。

現代の人々が生命の創造力を発揮できない状態に置かれているのは、
自我を持たねばならないようにしむけられ、自我の止め方を知らないか
らだ。

自我や超自我ほど創造の障害になるものはない。

それらは二元論的判断に囚われているからだ。

あれはよい、これは悪いというような判断をしている限り創造などできな
い。

自我や超自我を鎮めるには、

まず、かれらがどういう現われをしてくるかを知り尽くさねばならない。

日常の中で人は無意識裡に自我や超自我に囚われてしまっているが、

相手を知らずにそれを制御することはできないからだ。

自我や超自我がどのような形で現れてくるか、そのあらましを述べよう。

誰でも思い当たることばかりだ。

 

 

自我の現われ

 

自我はおおむね次のようなかたちで現れる。

それに気づいたら、ただちに挨拶して別れる。

「よう、君のことはよく知っているよ。

(日常生活には大事な存在だからね)。

だが今じゃない。また後であおう。」

今は創造のときなのだ。そこでは自我は邪魔者でしかない。

それを自我にきっぱり言い聞かさねばならない。

最初はもちろん自我は抵抗するが、

上の挨拶を繰り返していると次第に分かってくれるようになる。

自我でいるより生命になりきるほうがよほど楽なことを知っていく。

 

 

1.領土保全者

 

自我はいつも「ここは私の領域だ」というような領土化を行っている。

自分の安全圏を確保したいという衝動に突き動かされている。

自我は不安に囚われている。

自分ひとりになれる静かな環境をみつけ、

心配しないでもいいんだよ。

ここではだれも君を侵そうとしないから、と

まずは、自我を安心させ落ち着ける環境をみつけることが

真っ先に大事なことだ。

 

2.私的所有者

 

自我は「これは私のものだ」という私的所有の衝動に染み付かれている。

1や2は私たちが私有財産制の資本制社会に生まれ育ったことに規定
されている。

だが、それだけが人間のあり方ではない。

自我の執着を離れ、生命の国に降りていく。

そこでは自他の境界などなく、あらゆる生命がただ共振している世界だ。

そういう別世界があることを自我に知らせてあげる。

 

3.自己正当化

 

自我はいつも自己を正当化し続けている。

「俺は間違っていない」という自覚抜きに自信をもって生きられない。

生命の世界には正誤善悪などという二元論的判断をするものなど誰
もいない。

忙しく自己正当化などし続ける必要などないのに

人間だと思い込んでいるからそんな作業に追い込まれる。

 

4.物語作者

 

そのために自我はいつも自分の物語を作り続けている。

自分で作った物語を信じている限り、自分はいつも正しい自分でいるこ
とができる。

たとえそれが自分のでっち上げる言い訳に過ぎないとしても、

自我はそんなことに気づかない。

気づいた途端に自分を支えることができなくなるから

そんな馬鹿なことは決してしないのだ。

 

5.いい人のふり

 

自我はいつも装っている。

自分をよく見せることに忙しい。

そのためにも自分で作り上げる物語をまず真っ先に自分が信じる必要
がある。

どこかにいつも嘘寒い風が吹いているのを自我は知っている。

ただそれには必死に見向きもしないことで

「いい人」であるという装いを自分だと思い込んでいる。

 

6.皮肉な観察屋

 

自我が人を見るときはいつもあらを探す。

他人が信じている自我物語の幻想が剥げ落ちていないかを見張ってい
る。

他人の物語の破綻を見逃さない周到なまなざしだけが

自分のつむぎだす物語を破綻から救うからだ。

 

7.情態性

 

自我はいつも無意識裡に体の具合やそこから立ち上る情動に規定され
ている。

だが、自分ではそのことになかなか気づかない。

自我の行いはすべてこの無意識の情態性に促されたものだ。

その促しはごくごくかすかなシグナルしかもたらさないので

日常意識のままではなかなか気づけない。

自我意識を止めてはじめて

自我とからだや情動との無意識のつながりが透明に見えてくる。

後の「第6章 祖形からの透脱」で詳しく触れるだろう。

 

 

超自我の現われ方

 

自我はまだしもかわいい。超自我の容赦ない否定に比べれば。

超自我は、無意識の深い層の集合的無意識のに住む<元型>の一
種である。

その支配力は強力で、囚われてしまえばなかなか抜けだせない。

 

8.検察官

 

検事か判事のような判断者というのが、超自我の最大の特徴だ。

狭い「いい・悪い」の二元論的判断を振り回して、

白黒をすべて自分で決めようとする。

そして容赦なく否定し切り捨てる。

自分はいつも正義に属すると信じている検事ほどたちの悪い存在は
ない。

だが、誰の中にも検事や判事が生きている。

出てくるたびに、鎮める続けることだ。

おそらく、超自我はのちに述べる元型の一種であり、

気づかないうちにそれに囚われている。

無意識の深い層に住む<元型>との付き合い方を学ぶ中で

少しずつ超自我による囚われを鎮めていく。

 

9.批評家

 

皮肉で冷笑的な批評ばかりをする超自我もいる。

いつも否定的な批評で、新しい試みにけちをつけ

すべてを台無しにしようとする。

新しい変革に臆病な、もっとも保守的な否定者だ。

 

10.正義漢

 

検察官や判事のなれの果てが、正義漢だ。

自分は正しいと信じ込み、振り回す。

昔は男に多かったが、いまは少なくなった。

逆に女性のアニムスにとり憑いているケースにしばしば出くわすよう
になった。

誰の中にもこの正義漢は生きながらえている。

私も生涯自分の中の正義漢面するやつと闘ってきたが、息の根を止め
ることはできていない。

とくに自分がアニムスに侵されていることに気づいていない

フェニミズムの女性はこの正義漢という超自我にやすやすと食われて
しまっている。

正義というアニムスと結びつくことは性的にも快感なので

ひとたびやられると逃れられなくなるのは、

男性がアニマのとりこになる場合と同じだ。

だが、無意識だからどのフェニミストの女性も、

アニマのとりこの男性もそれに気づくことができない。

私にとってもいまだに最大の難関だ。

 

11.老婆心

 

老婆心は日本のような母系性社会に特徴的な超自我かも知れない。

老婆の前では誰もが未熟な子供になってしまう。

だが、どんな社会にも、過剰な用心を強調して

新しい冒険を押しとどめようとする傾向は存在する。

 

 

 

 

自我や超自我の止め方

 

自我や超自我の現われに気づくことができる静かな状態で

毎日を過ごすことがまず大切である。

人と言葉を使って話している限り、自我や超自我は

無意識裡に立ち上がってくる。

外部でも内部でも言葉を使って話すことを止めることが大事だ。

そして自分のからだの闇の微細な変化に

絶えず気づくことができる透明な心身状態を保つこと。

そうすると、自我や超自我が現れてくる瞬間に気づくことができる。

その瞬間に、上記の挨拶を自我や超自我に贈る。

「今じゃない、後で会おうね」

決して自我や超自我を頭ごなしに否定してはならない。

彼らをいきり立たせるだけの逆効果になる。

自我も超自我も自分の全体の中の必要な役割だという

相互的な尊敬が必要である。

自我を発揮することなしにだれも今の日常世界では生きていけない。

そして、人間が自我や超自我に囚われている限り、

人間は国家や権力という共同幻想を支え続ける。

人間を支配する力が威を振るっている限り、

生命の創造力は人々から疎外され続ける。

人間にとって本当の解放は、自我、超自我、元型からの解放と

国家や政治の死滅という共同幻想からの解放が一体になった

一個二重の総合的な課題である。

私はとりあえず、自我や超自我をいかに鎮めるかという

自分にいまできる領域からその課題に取り組んでいる。
この課題に別の側面から取り組んでいる人がいれば切に共闘を願っ
ている。

だが、おそらくそれはわたしの死後の時代にはじめて実現するものだ
ろう。

 

 





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2016年4月18日

あらゆる心身現象をクオリア共振として解く


からだの闇を旅していると、無数の奇妙な現象に出会う。
からだの闇に棲む影やノット=ミーと呼ばれる異貌の自己(Hidden Body
)、原始的な下等動物のようにのろのろと蠢く原生体(Proto Body)、獣の
ような獣体(Animal body)、石のように凝り固まった体底体(Bottom body)、
なにものかに動かされる傀儡体(Kugutsu body)、煙や精霊のように異世
界をただよう気化体(Vaporized body)、弱々しい衰弱体(Weakened body)、
などなどだ。
そして、それらが他の存在と関係を持つ時に起こる投影や転移、ドリーミ
ングアップなどの現象、なにものかに取り憑かれて動く憑依体(Possessed
body)などの奇妙な現象が起こる。
トラウマのフラッシュバックや激しい情動に拘束される現象など無数の奇
妙な現象が日常茶飯に起こる。

古代の人はこれらの現象を、なんらかの目には見えない魂や精霊のよう
なものの仕業として捉えた。
それらは元型としてわたしたちのからだの奥深く潜んでいる。
だが、現在のわたしたちはそれらに囚われることなく、これらの奇妙な現
象のすべてを生命共振、クオリア共振として透明に見据えることができる。
憑依やフラッシュバックや投影が起こっているさなかに、脱自してその現
象をクオリアの共振パタ-ンのひとつとして捉え直す、透明共振体になる。

奇妙なクオリア共振に囚われているさなかにのみ、透明体に生成変化す
るという必須の課題がやってくる。

脱自と透明化

透明化は生き延びるために書かせぬ課題である。
自分自身で沈静化する調体を編み出し実践しながら、
苦しみのさなかで脱自し、クオリアの多次元=非二元を透かしみる。
それは胎児期から分娩前後の胎道を通過する世界変容のクオリアや、
祖先が味わった危機や災害、さらに古い生命時代の氷河期や気象異変
・地殻変動などの世界変動のクオリアとも遠く共振しているかもしれない。

いまここでからだに起こっているクオリアと、原生的・祖型的あるいは元
型的クオリアは常に同時に多重共振している。

生命の舞踏とはこの無限に変容する生命共振のすべてを踊ることな
のだ。




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2016年4月18日

見えないものを踊る


目には見えないものについて、
人類はさまざまな元型的イメージを蓄積してきた。
魂、精霊、神、悪魔、悪霊、天国、地獄など無数の元型がある。
それらはわたしたちのからだの闇の深部に巣くっていて、
時に応じて躍りだしてくる。
悪霊憑き、狐憑きなどの<憑依>現象や、神経症を襲うさまざまな
被害妄想、対人恐怖、閉所恐怖、投影・転移・ドリーミング・アップなどの
奇妙な対人関係妄想など数えきれない。
だが、いまわたしたちはそれらのすべてを生命クオリアの共振現象として
捉え返すことができる。
いのちだけが感じるクオリアは目に見えない。
生命共振クオリアは瞬間ごとに多次元=非二元域で共振し、
変容しつづけている。
クオリアは物質やエネルギーとは異なる独自の共振変容論理を持つ。
赤のクオリアと白のクオリアが出会うとただちにピンクのクオリアを
共振によって創出する。
ピンクのクオリアと象のクオリアが出会うと、
ただちにピンクの象が脳内で歩き始める。
わたしたちは意識でそれを止めることができない。
クオリアの共振は意識よりはるかに速いからである。
この見えないもの、いのちが感じるクオリアとはなにか。
一言で言えば生命共振である。

原初のいのちが誕生して以来、いのちは世界で出会うものとのあいだで
クオリア共振を始め、この40億年の間に無数の共振パターンを生命記
憶として細胞内に蓄えた。これが内クオリアである。
内クオリアはたえず、現実に出会う外クオリアと共振し、新しいクオリアを
共振創出し続けている。
クオリアには時空の制限も自他・内外の区別もなく非二元・多次元的に
共振する。

いったいこのクオリアはどこにあるのか?

20世紀の半ばに誕生した物理学のひも理論(超ひも理論、超弦理論)
とも呼ばれる)は、宇宙のすべての物質やエネルギーは、微細に振動す
るひもの共振パターンの変化から生まれるという仮説を見出した。
それまでの分子や原子などの粒子からなる標準理論を超えて、最小の
粒子であるクオークや(電子)エレクトロンの正体を、宇宙最小のプランク
長さの、微細な11次元時空で共振するひもの共振パターンの変化が、
あらゆる粒子や、粒子間の相互作用(物理学の4つの力=重力・電磁力
・弱い力・強い力)を生成していることを見いだした。
この仮説はまだ検証不可能だが、もしそれが本当なら、いのちが創発し
たクオリアもまた、ひもの共振パターンの変化からうまれることになる。
ただしクオリアは粗大に膨張した4次元時空の物質やエネルギーではな
く、時空の各点に巻き込まれている微細7次元におけるひもの共振パタ
ーンの変化をクオリアとして感知し、生命記憶として細胞内に保存する力
を得た。
生命共振によるクオリアは、微細次元のひも共振パターンの変化と関わ
っている。

これはわたしだけの<クオリア=ひも共振仮説>だが、それ以外にクオ
リアの生成存在する場所は想定できない。
遠い未来にひも理論と生命科学が統合された時に明らかになるだろう。

わたしたちはそんな理論的な解明のいかんにかかわらず、いまここのク
オリア共振を踊る。
無数のクオリアの共振パターンの変化にからだを預け、踊りながらこの
謎を解いていくのがサブボディ共振舞踏だ。




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 いかにソロを深めるか
2016年4月16日

いかにソロを深めるか

3月、4月とからだの闇にさまざまな坑道を掘リ続けてきた。
その旅で出会ったクオリアをひとつのソロに統合する。
まずは、自分のいのちにとって、踊る必要のあるクオリアを10個探す。
からだの各部に絡みついているさまざまなクオリアを探る。
癖やしこりなどのある部位からはじめ、
じょじょにからだの闇の奥のくぐもり、結ぼれなど
不快な気がかりになるクオリアを踊る。
だが、まだこの段階では最奥の囚われ、幼少期からのトラウマなどは
安全な距離をとって、いきなり踊ろうとしないことが大事だ。
ささいな問題に感じるクオリアを踊っているうちに、
すべてのクオリアは共振しているので、
知らず知らず、すこしずつその問題に近づいていくのがいい。

土方は最奥の傷・死んだ姉を踊ることができるまで40年も待った。
大野一雄が母を踊れるまでには80年を要した。
わたしもこの20年踊れるようになる日を待ち続けている。
それを踊ることができれば、いつ死んでもいい、というような
複合的なクオリアの絡みつきを誰もが抱えている。
その深淵にすこしずつ近づいていくのが生きることだ。



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2016年4月14日

深層調体技法

3月、4月と基礎的な調体技法によって、
日常体の思考・感情・判断を鎮め、サブボディモード
(=からだの闇に耳を澄ますモード)に変成して、
微細なクオリアを探ってきた。
塾生のサブボディ=コーボディが30分以上に育ってきた
今週からは、それらを統合してすこし長いソロに育て上げる
創造過程にはいる。

そのための技法が深層調体技法だ。
基礎的な調体は12種類からなる。
それらを掛けあわせ、より複合的なクオリアに出会うのが
深層調体だ。

基礎調体はつぎの12からなる。

調体0番 呼吸
調体一番 ふるえ
調体二番 ゆらぎ
調体三番 百丹三元
調体四番 獣体
調体五番 5つの秘蔵クオリア
調体六番 六道クオリア
調体七番 7つのリゾーミング
調体八番 8チャンネル
調体九番 微細化
調体十番 十体・十経絡
調体十一番 コーボディ共振(共振タッチ・生命共振指圧)

深層調体は、これらの十二の調体の二つあるいは三つを掛けあわせ、
複合する。より深い多次元共振クオリアを体感しつつ探る。
これを踏まえて、原生夢(固有夢)世界の共創や、
共振リゾームの練習を通じて、非二元かつ多次元的なクオリア共振を踊
るより深い創造過程に進むことができる。

例えば、三番の百丹三元と、六番の六道クオリアをかけ合わせると、
からだにある百以上の筋肉や関節に、六道クオリア(震え・ゆらぎ・うねり
・ショック・崩壊・死のクオリア)を通す。
それによってからだの各部の踊り場が、思い出せないクオリアを思い出
し、思いがけなくも、そこに絡みついている生命記憶や原生・祖型クオリ
アを踊ることができる。

「一度も反復されたことのないクオリアを反復することによって、
従来の自分ではない別のものに生成変化する可能性が開かれる。」
(ジル・ドゥルーズ)

そう、生きるとは、フーコーのいう通り、もとの自分から、別の自分に生成
変化することなのだ。
そのために未知のクオリアを探り続け、踊りに転化し続けているのだ。






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2016年4月9日

生命クオリアの多重共振


この二十年、クオリアとは何か、共振とは何か、生命とは何かを探求し続
けてきた。
その中で、発見した最大のものは、生命が共振しているクオリアは、つね
にいまここでの物理的な外クオリアと、細胞内に生命記
憶として刻印されている内クオリアとが、二重に共振しているということで
あった。
そして、近年の共振塾の試行錯誤の中で、それは単に二重共振ではなく、
さまざまなクオリアが時を超えて重層的に共振している<クオリアの多重
共振原理>へと深まった。

各自の傷や結ぼれのクオリアを、創造に転化するのが舞踏である。
共振塾では、各塾生は自分のからだの闇にくぐもっている影の人格やノッ
ト・ミー、解離された人格、思い出せない記憶、囚われている悪癖や悪夢
やトラウマなど、生きるために解かねばならない深い謎と秘密を深く掘り
下げつつ踊り続ける。
その謎が深ければ深いほど、そのクオリアは単に個人的なものではなく、
人類が共有している元型や祖型クオリアと共振しており、さらに細胞に生
命記憶として刻まれている原生的なクオリアとも深淵で共振している事実
に直面する。

人間個人が体験する深淵のクオリアは、祖型・原生的クオリアと重層的に
多重共振しているというのが、<クオリアの多重共振原理>である。

人間各自が個人として囚われている深い固有クオリアは、意識では思い
出すことのできない乳幼児期の原体験クオリアや、分娩前後のクオリア
と遠くで共振している。
そして時を超えて人類の祖先が体験し、集合的無意識の底に沈んでいる
元型や祖型的クオリアとも共振している。
さらに40億年の歴史を持つ生命記憶の各時代の原生的なクオリアとも
遠くで共振している。
すべてのクオリアは重層的に多重共振しているのだ。

この発見はサブボディ技法と、土方の舞踏技法をひとつにつなげること
になった。
土方巽は、『病める舞姫』で無数の微細な生命共振クオリアの実例を来
るべき<生命の舞踏>のために探求し、「痴呆になる寸前の精密さで」
記述した。

「老人の縮まりと気配り」
「何年も寝たきりの病める舞姫」
「魂がズタズタに引き裂かれた神様」
「空気中に棲む見えないおおきな生きものを感知する額の目玉」
「ひもや鉛の玉に潜んでいる気配に脅かされる」
「湯気や煙や物干しの洗濯物にさえ、脅かされるいのち」
「世界からも内からも襲われ喰われつづける土方少年」


などなど、無数の微細な生命共振が刻まれている。

<生命の舞踏>とはなにか?
土方自身でさえまだ踊ったことのない生命の舞踏をめぐって何年も苦闘
した。
インド共振舞踏ツアーを始めたのも、その苦闘をもはや日本や西欧では
消失してしまった「病める舞姫」世界が存続する少数部族の棲む未踏の
地で深めようとするものだった。
そしてようやくのことで、生命の舞踏とは、自分の解かねばならない問題
を掘り下げながら、同時に祖型的原生的な生命クオリアの時を越えた多
重共振のすべてを踊ることだということにようやく気づくことができた。

意識で捉えられる限りの自分のトラウマや囚われを踊ろうとするだけでは、
踊りが狭い意識の枠内に制限される。
だが、それらが同時に祖型や原生クオリアと共振していることに気付き、
同時にその多重共振そのものを踊ることのできる透明共振体になること
ができれば、その踊りはいのちからいのちに伝わる透明な生命共振舞
になる。
一歩ごとに祖型的なものや原生的なものを吸い上げるからだになり、覚
えもないからだの一部がふるえ、微細なディテールの舞踏に満ちた非二
元かつ多次元生命共振体となって踊る。
土方の舞踏がからだをくもらす技術によって、意識では捉えがたいもの
になっているのは、人間としての自分の傷ばかりではなく、同時に祖型・
原生クオリアとの多重共振を踊っていたからなのだ。

去年から、なぜかはわからないままがむしゃらにやってきた<透明にな
ること>や<共振リゾーム>とは、この多重共振する生命クオリアの無
限の多様性に出会う実験だった。そして同時に『病める舞姫』の世界へ
踊り込むからだを準備することでもあった。
なにもかもが<生命クオリアの多重共振>という発見によって一つにつ
ながった。

いよいよ来週からは塾生とともに『病める舞姫』に秘められた未踏の舞踏
の世界へ入っていくことができる。
わくわくするばかりだ。



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 2016年4月6日

これがスウォームだ



今共振塾ではちょうど、各自のクオリアを
さまざまな共振パターンでシェアしている最中だ。
そのなかでも基本になるのがこのスウォーム(群れ)だ。
無限に変形を続けるスウォームは、
分離も連結も自在なリゾームの見本である。
見ているだけで楽しくなる。
わたしがもっとも好きなリゾームのひとつである。

スウォームの成員はすべて同じクオリアを共有しているのに対して
フォレスト(森)は、アマゾンの森のようにさまざまな種類の植物が
混在する多様性を保ちながら、ひとつの森を構成する。
剥製の春や、陰気な空気も多様性と同一性を併せ持つフォレスト型の
共振パターンである。

これをベースに、共振塾の歴史の中では無数のコーボディの
共振パターンが蓄積されてきている。
今年はそれが爆発的に多様化しようとしている。
楽しみだ。





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 2016年4月3日

なぜ思考を止める必要があるのか?



意識によって作られた踊りと実際のサブボディ(=下意識のからだ)
の踊りとの間には大きな違いがある。
意識的なダンスは、狭い思考や意図、そして無意識の癖、傾性によ
ってがんじがらめに拘束されている。それを見ることは踊り手が囚
われている狭い限界を見せられることになる。それを見せつけられ
ることほど悲し行ことはない。
これに反して、実際のサブボディはそのような日常体の制約に縛ら
れていない。
それは純粋な生命共振である多次元共振クオリアに満ちている。
いのちは常に意識できるものよりはるかに広い非二元かつ多次元の
クオリアと共振している。
それを見ても意識によって理解することはできないが、いのちから
いのちに直に共振して伝わる。踊りによって言いようのない深い感
動を得るのはそのためだ。
この大きな違いを理解してほしい。

共振塾4月の創造コースでは、生命共振のより深い領域に入る。
塾生はそれぞれのいのちの深淵を探る。自分にとって生きるために
踊らなければならないもっとも深いクオリアを探り踊る。そして全
員で各自の固有クオリアをシェアし、いくつもの深淵世界を共創す
る。
お互いにとって必然の世界を共創しくぐり抜ける中で、同時におの
れのサブボディとコーボディを深める。
それは避けようもなくいのちの多次元共振クオリアに満ちたものに
なる。
これこそ、からだの闇を探求するためのもっとも豊かな環境である。
共振塾とは、そういう場所なのだ。



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 2016年4月3日

何が一番やりたいのかい?


いつもいのちに問いつづける。
「なにが一番やりたいのかい?」

しばらくしていのちが応える。
ときには夢のなかで、ときにはふとした気がかりで、
ときにはふとした気分の傾きや、幻影のかたちで。
ときには言葉の断片で。

3月コースが終わったあとの週末、わたしはいつものように
いのちに尋ねた。
いつもの共振シートを広げると、幾つかの言葉がほとばしり出て
きた。

「透明になること」
すなわち、「内なるものにも、外なるものにも、
何ものにもとらわれないこと。」
「生命クオリアの自在跳梁・無限変容を踊ること」
「謎と秘密を運び、深めること」
「ツリーとリゾーム、情報とクオリアを自在往還する
ツリー・リゾーム技法を究めること」
「世界を共創する共振リゾームを深めること」

やりたいことはほぼこれらに尽きる。
そして驚いた。ほぼすべてを3月コースの一月で塾生とシェアし終
えたことを。
もちろんこれらすべてをうまく受け取ってくれた保証はない。
ほとんど消化不良のままだろう。
4月からはまた少数の新入生が入ってくる。
彼らを交えて、今度は創造技法を学びながら、
これらを螺旋的に深化しながらもう一巡り降りていこう。

序破急
鮮深必
花秘謎
図地兆
などなどの創造技法と絡ませながら、
透明になることをはじめとした、もっとも大事なことを
繰り返そう。
これさえ伝えきれたら、いつ死んでもよい。



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 2016年4月3日

太田俊明よ、安らかに眠れ


先月の中ほどに、
高校大学時代の親しかった友・太田俊明の訃報を受けた。

岡龍二様
ご無沙汰しています。

太田俊明君が3月5日に逝去されました。
昨年8月に肺がんが判り、
既に手術はできない段階まで進行していたとのことです・
残念です。
取り急ぎお知らせまで。
北本修二



わたし自身の死期もそう遠くないことを思い知らされ、
しばらくは言葉も出なかった。
俺たちは狭い金魚掬いの水桶のなかの金魚のように、
恋も革命も、ほとんど同じ体験を何年も共有して生きた仲だ。
共振塾の授業中も、彼との濃密な思い出が繰り返し思い出された。
ただ、大学の全学バリケード封鎖闘争のなかで
太田と俺の運命が分かれた。
君は片目を棒で突かれて失明した。
そしてその後精神を病んだ。
俺は何度も京都の山中の精神病院にいる君を訪問した。
投薬によって豊かだった君の想像力はボロボロにされていた。
退院してからは家に行ってなにも喋らずただ碁を打った。
いまはあの無言が懐かしい。

大田よ、安らかに眠れているかい?
俺にはどうもそう思えないのだ。
だが、これは失明もせず、精神の危機もなんとかきり抜けて
生き残った俺の勝手な想像だ。
いや、失明し、精神を侵された君への俺の負い目だ。
残された時間のなかで君のいのちのくぐもりを踊ろう。
だが、もうすぐまた道は一つに繋がる。
わたしもあと数年、あるいは2,3年、
いつ死んでもよいように生きていくしかない。

なんてこったい、

俺の時間も縮まってしまったぜ!


これまでもそのつもりで生きてきたつもりだったが、
君の死の知らせは、俺の生きている時間を、
無意識のうちに明日のない時間に縮みあがらせたようだ。
「いつ死んでもいいように、一番大事なことからシェアする。」
と授業の中で何回か口走った。
いつもなら、なにが起こってもじっくりと待つ
共振塾でサブボディの産婆として生きている俺の平成さ狂わせ、
突如、縮み上がった時間に急き立てられ、
古い塾生への産婆らしからぬ介入が起こった。
からだが彼・彼女の癖に囚われた動きを制止した。
(俺にはもう明日がないのだから)と、
胎児の息吹に耳を澄まして待つことを忘れ、焦りがにじみ出た。
塾生のサブボディは仰天して怒りに包まれた。
産婆失格だった。

瞬間脱自法を

たとえ明日死ぬことが明らかになろうと、歩みの速度を変えぬこと。
自我が出てきたとき、これまで以上に厳密な
瞬間脱自法を発明し、身につけなければならない。
一年ごとに死を覚悟するとはどういうことであるのか、
課題が具体性を増してくる。
友の死によって自分のいのちの時間が共振して縮むこともある。
これも生命共振現象のひとつなのだ。
近づいてくる死に、生きている時間を駆り立てられないことが
重要であることをまざまざと思い知らされた。

太田俊明よ。
君の死はわたしにその気づきを届けてくれた。
安らかに眠ってくれ。
俺ももうすぐそちらに往くことになる。
また、ゆっくり下手な碁でも打とうではないか。



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非連続の連続と自在跳梁
ビデオレクチャー リゾームリー
 
 非連続に連続する多次元 ロベルト・マッタ
 

2016年3月31日

非連続の連続と自在跳梁


「深みを秘めよ!どこに? 表面に。」 ホフマンスタール
 

寸法の歩行は舞踏の初心者向けワークショップの舞踏練習譜として
土方が創ったものだが、その表層には土方にとってもっとも大事な
創造技法へのヒントが秘められている。

「寸法の歩行」

イ 寸法になって歩行する
ロ 天界と地界の間を歩くのではなく移行する
ハ ガラスの目玉 額に一つ目をつける
ニ 見る速度より 映る速度の方が迅い
ホ 足裏にカミソリの刃
へ 頭上に水盤
ト 蜘蛛の糸で関節が吊られている
チ 歩きたいという願いが先行して 形が後から追いすがる
リ 歩みの痕跡が前方にも後方にも吊り下がっている
ハ ガラスの目玉 額に一つ目をつける
ホ 足裏にカミソリの刃
へ 頭上に水盤
ヌ 奥歯の森 からだの空洞に糸
ル 既に眼は見ることを止め 足は歩むことを止めるだろう
  そこに在ることが歩む眼 歩む足となるだろう
オ 歩みが途切れ途切れの不連続を要請し 空間の拡がりを
  促す

イ 寸法になって歩行する


「途切れ途切れの不連続」とはなにか。
ここには、土方がその最後のソロ「静かな家」で到達した
<自在跳梁する死者>
というもっとも大事な技法が詰められている。

2 重要

 

「死者は静かにしかし限りなくその姿を変えるのだ

彼等は地上のものの形をほんのふとした何気なさで借用する
とも珍しくない。


27節からなる舞踏譜の最後の25,26,27節の<急>部分
で、その自在跳梁は最大限に発現される。

 

25 (悪夢)

 

悪夢こそはこの裸体なのだ

 1、虫やらミショーの顔やら、少女と馬の顔やら、

  電髪の女やら、馬鹿の顔やら、ボッシュが描いた人物の顔
  やら、助けてくれと嘆願する手やら

 2、犬と花と影とトントントンと跳ねる虫

 

26 奇妙な展開のさなかで

 

 1、手のなかへの求心的な恋愛を頭蓋のなかにすっかり置き変
  える

 2、神経が棒になり、棒が乞喰になった。乞喰が旗を振って
  いた、それは大きな鳥であった。

 3、首が馬の首になってのびると、指のゴムものびた。

  その作業のさなかに、点の眼と視点が変えられた。

  Xによる還元と再生にさらされていたのだ。

  その時は、背後に爪がザックリとささり、ゆくえははぐれて
  育ち、新た  な還元により、小さなマイムがそこに誕生し
ていた。

 4、内部が外部へあふれ出し、あふれ出していったものが仮面
  の港へ帰ってくる。仮面は森のなかへ船出をするのだ。

 5、額の風、額はとらわれている。手の葉、植物の軌跡を走り
  私は、ついに棒杭の人となっていた。

 6、深淵図の中で、全ての事象の午前一時のなかで、
  柳田家の孔雀は完成される。

 

27 皮膚への参加

 

 1、小さな頭蓋のなかの小さな花、それはそれは細い細い視線、

  神経は、頭の外側に棒を目撃した、

  その棒を額で撰り分けている視線。

 2、小さな顔で歩く盲はまるでサルのようだ。猿の頭に落雷。  

  頭の中に小さな花が咲く、糸つむぎの唄が聞え出す。

 3、引きのばされる老婆は一枚の紙になるだろう。

  老婆はその紙の上に蛾のように乗っかるだろう。

 4、武将は女王になり、女王は関節の箱におさめられるだろう。

  その箱のなかからの生まれ変わりがフーピーという踊り子で
  ある。

 

 

この日わたしはこの新しい気づきを塾生と共有した。
読むだけではなんのことか分からないだろう、急部分の自在跳梁を

からだで示した。それがこのビデオである。
中学生程度の英語しか使っていないので
だれにもお楽しみいただけます。




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2016年3月28日

サブボディ技法の自己革命

今年わたしが試みているのは、サブボディ技法の自己革命だ。
これまでのわたしは、日常世界で自己形成してきた新入生が
すこしずつ下意識の世界に順応できるようにという老婆心から
段階的な教育論に囚われてきた。

からだの闇の下意識のからだ=サブボディの世界は
日常世界とはまったく異なった世界だ。
だが、今年わたしは段階的教育論へのこれまでの囚われを脱いだ。
いきなり非二元の生命共振世界へあたまからからだごと飛び込むような
授業を進めている。
真に土方舞踏を学ぶためには、それが必要だと痛感したからだ。

「人間の条件をすべて捨てること。これだけは忘れないで下さい。」
(土方 巽)

「人が自分を「人間」だと思うときほど、思い上がりに囚われることは
ない。」(ニーチェ)


今週は、土方技法の根幹、<Xによる還元と再生>を学ぶ。
これまで古い塾生は人間の8つの主要チャンネルの一つ一つで、ある要
素を削減することで、衰弱体(=削減体)への移行を身に着けてきた。
だが、今年の塾生はいきなり非二元のカオスに飛び込む。

3月の第一週は、いきなり透明になることからはじめた。
第二週は、二元的なツリー状の日常世界と、非二元のリゾーム世界を行
き来するツリー=リゾーム技法を学んだ。
第三週は、各塾生のもっとも印象的な世界像のクオリアをシェアし、次々
と世界像の転換を旅しながら、多数世界を共創してきた。
第四週となる今週は、<Xによる還元>を極限まで徹底し、すべての人
間の条件を脱いで、いきなり非二元かつ多次元的な生命共振世界に飛
び込む。
右み左もわからない胎内世界のようなまったくのカオスだ。
そこはおびえやふるえのような生命の祖型的なクオリアに満ちている。

「舞踏家は虫のおびえ、鳥のおびえに精通していなければならない。」
(土方巽)


祖型的なクオリアは、元型よりも深いあらゆる生命が共有しているいのち
のクオリアだ。おびえ、ふるえ、こわばり、縮こまり、伸びあがり、などなど
の祖型的なクオリアを探り踊る。
そのカオスから、単チャンネルの<Xによる還元>技法によって、
微細なデテールの踊りや、部分の踊りや、からだ全体のボディーイメージ
を変容させる踊りが析出してくるプロセスをたどる。

これまでは、何年も共振塾で学んだ極少数の塾生だけが身につけること
ができたツリーとリゾームを自在跳梁する透明技法の習得を
いきなり学期のはじめから目指そうとするものだ。
生徒のからだの闇は、未曾有の混乱と嵐に見舞われるだろう。
だが、その非二元かつ多次元の深淵(アビス)こそ、
真の創造の泉なのだ。

その創造の泉に直に触れることこそ、今年の革命の狙いだ。
未曾有の混沌をかいくぐり、生き延びたサブボディ=コーボディが
未曾有の花と秘密と謎に満ちた今年の舞踏祭を飾るだろう。

この実験を実行するにあたっては、塾生がエッジに突き当たったり、
深い混乱に陥ったときに、それを共有し、全員で解決するという
生命共振技法の完成を待たねばならなかった。
何が起ころうとも乗り越えられるという自信が持てるまで
ゆうに十余年がかかった。
今年までこの非二元革命が遅延したのはそのためだ。

今週から土方巽の
「寸法の歩行」
「虫の歩行」
「静かな家」
「病める舞姫」

などの衰弱体舞踏の精髄を学んでいく。
これまでの三週間を体験した塾生は、すでにその世界を学ぶ下地が十
分にできている。
今週から参加する3名の新入生も、これまでのプロセスのエッセンスを共
有しながら土方技法の世界に導き入れる重層的な授業の織込みが試さ
れる。



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2016年3月27日

かすかなかすかなクオリアに耳を澄ます

村上くんはヒマラヤに来る以前から、
下意識の微細なクオリアに気づいていたまれな人だ。
下記の「2つのライター」という文章にはそれがよく表われている。
日常社会の意識なら気にもかけずにまたぎ越してしまうような、
ごくごく些細なクオリア(ここでは2つのライターの微細な差異のクオリア)
に気付き、こだわり、からだの闇の秘密として運び続けている。
こういう人が一人いると、他のみんなも、
ああ、そういうものを踊ればいいのか、と気づきやすい。

じつはわたしもそうだった。
人には言えないささいなクオリアに気付き、こだわってきた。
いまも若年の頃からの秘密と謎を運び続け、
それらが透明になるまで踊り続けている。
それらこそからだの闇にひそむ創造の資源だからだ。
さまざまなクオリアはからだの闇で絡み合い、もつれ合い、
ときに結ぼれやくぐもりになる。
それら全部を踊ることだ。
踊るなかですこしずつ透明になってくる。
気がかりや結ぼれや囚われを踊り、固有の創造に転化することによって
だけ、わたしたちはその囚われから自由になることができる。

それらに対する良し悪しの判断をすべて止めて、
出会うクオリアのすべてを踊り続ける。
先週は各自にとってもっとも印象深い世界変容のクオリアを踊り、
一つの世界からいくつもの別の世界への変容を共創した。
いく人もの塾生が抱える謎や秘密を自分のものとして共有すると、
はじめはただただ深い混沌を体験する。
その混沌こそが創造の資源なのだ。
来週からはそろそろその謎と秘密の混沌の中から固有の花を咲かせる
花秘謎技法や、図地兆技法を学び、
いのちが勝手に多くの踊りの最適の序破急を見つけてくれるプロセスに
耳を澄ます。





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2016年3月27日
 

2つのライター 村上直樹


ライターが2つある。
ひとつは、紺色で小さいサイズ。火打石を歯車みたいなので擦るタイプ。
誰かにもらったような気がする。たしか、誰かにもらったんだ。「Peace」
の印刷。オマケで付いてくるもの。ピースは吸わない。
もうひとつはあとからやってきた。知らない言葉かたくさん書いてある。
ピンク色で、標準的な百円ライターのサイズ。指でスイッチを押し込むだ
けで、簡単に火をつけれる。それと、オイルの量がわかるのがいい。
ひとつめしかなかったとき、いつ火がつかなくなるかとずっと気にして
いた。
思いのほかもっているのだけど。

煙草を吸おうとライターを探すとき。無意識に、紺色のほうをとり着けか
ける。その動きを止めて、ピンクのライターを探す。つまり、紺色のほうが
なくなってしまってはいけないと、そうしたのだ。
そのときに、思い出すことがある。いつも、どっちを使えばよいかと考えた
ものだ。いつも、どちらを使ってもなにか違和感がある。わたしは、いまど
ちらを使うべきなのか、わたしとして。
とにかくいつも小さなことが気にかかってしまう。

平均をとって、お互いの寿命が一番長くなるように使えば、ふたつは長く
一緒にわたしの手元にある。わたしは、ものをどこへやったか忘れやす
いから、そういうとき、ふたつあれば見つかる確率が増えてストレスがな
い。なくしても、まだひとつある。それに、ちょっとかわいそうだし。
片方を使いきってしまえば、早くにライターはひとつになる。ものの数が
減って、部屋が散らからないし、ひとつのほうが認識がシンプルに済む。
認識がシンプルにならないのは、意外とストレスなのだ。それはやっぱり、
こういうことを考えなきゃいけないから。
わたしが、どちらにより多くストレスを感じるだろう。わたしは果たしてライ
ターを無くすだろうか?いまは自宅じゃないけれど、帰るまでになくさなけ
れば、ひとつのほうがいい。確率は?可能性をパーセンテージにしてみる?
予測で。
パーセンテージにして、それをなくしたストレスに掛けて、比較してみる?
そんなことできる?ほんとに?

だいたい、このようなこと。ふたつのライターの使い方について、いくつも
の情報があって、なにがよいのかわからない。そういうことがこのふたつ
のライターに渦巻いていて、ちくちくと、脳のなかで動き回る。それが煙草
に火を着けるたび、うっすらと感じられるものだから、納得がいかないわた
しの部分がどんどんと大きくなる。それがどんどんと広がっていく。残って、
自分がやっていない、という、きちんとやっていない、という意識が溜まっ
ていく。
そう、いつもそうなんだ、と思い出していた。
そうして、自分はきちんとやっていない人として、他人なりするべきことな
りに向かい合って、ほんとうに自信がないものとして、存在する。

とりあえず、わたしは、ピンクのライターを使って、火を着けて、今後も当
分はそうしようと思う。

かつて、そうであって、いま。
目の前のふたつのライターには、もう少し柔らかいものが感じられる。ラ
イターとライターの間に、なにか繊維状のものが行き来しているような。
この目の前のふたつのライター。
それらが変わったのではない。わたしが変わったのだ。わたしが変わっ
て、それで、ふたつのライターも変わったのだと思う。

ひとつひとつのこと、部屋がちらかりやすくなったり、ひとつだけになって
認識しやすくなること、それらがアメーバみたいにうにょうにょと動いてい
るのだと思う。わたしの状況、いる場所、機嫌、昨日なにをしたか、明日
なにをするか、そういうことで、全部変わっていくものだ。
だから、これが善いなんて決まらない。そうすると、すこしラクだ。

わたしは、自分の周囲のいろいろな物事で変わっていって、このふたつ
のライターも、またそうで、そのことをわかってあげようと思う。
このふたつのライターが示すこと、わたしに感じさせること、それを受け取
って、わたしは態度を示す。そのことで、ふたつのライターのアメーバは、
いろんな状況に触れる。そのことをわたしは見てあげようと思う。そうして、
まわりの様々なことと、うまくいったり、ちょっと不便があったりする。
それから、また、わたしの態度も変わる、というものだ。わたしもまた。

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 からだの各部に関わる大脳神経細胞の数に比例して
各部を拡大縮小している。

手と顔だけで半分以上を占めているのが分かる。


2016年3月15日

手の踊り場が告げるもの


わたしの膝がまだ完治しないため、
今月の2週目から、午前はリー、午後はサティが産婆役をつとめている。
今日の午後はサティが手の踊りをガイドし、
各自の手の踊りをそれぞれの序破急でシェアした。
それを見ながら、各自の手が最初に何に触れようとしているかによって、
そのサブボディが誰であるかを指し示していることに気づいた。
手に関わる大脳神経細胞の数は、上の図にあるように、
大脳の体感・運動にかかわる神経細胞のおよそ3分の1を占めている。

わたしの手は常に不在の母のクオリアを探っている。
人生で5回も母親役の女性が替ったわたしは、3才のときに消えた
最初の母の不在のクオリアを探り続けている。
幻の母体のクオリアを弄り、膣から子宮内の非二元時空をさまよい続け
る。
それ以外のクオリア、たとえば妖精とか、生きものとか、アニマとかに
触れているときも、常に母のクオリアと二重に重層共振している。
いかにわたしのサブボディが不在の母に拘束されているかが分かる。
わたしはこの囚われを脱いで、透明になりたいのだ。
大野一雄の手は、第二次大戦中にフィリピンの島で死んだ
戦友の魂と共振している。
土方巽の手は死んだ姉とのありえない情事を追求している。
もちろん彼らの手は無数の他のクオリアも踊った。
だが、その時もいつも底流では彼らがもっとも拘束されたクオリアとの
多重共振が起こっているのだ。

きみの手のサブボディのいのちに耳を澄まして聴いてごらん。
「何に一番触れたいのかい?」
きみのからだの闇の深層に潜む異貌の自己の一人が誰だか分かるだろ
う。
サブボディの異貌体は一人ではない。
からだの闇には何人も見知らぬ人が棲んでいる。
一人ひとりと友達になっていくことだ。





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2016年3月13日

非二元多次元共振というイノチのリアリティ


3月第1週の授業は、<透明になること>からはじめた。
共振塾12年のなかでもはじめての試みだ。

塾生たちから幾つかの気付きや質問を受けた。
深く共振することばかりだった。

ある塾生は見せることに悲しさが付き纏うといった。

見せること。

そう。見せることには得体のしれない悲しさがつきまとう。
わたしもいつも悲しかった。
とりわけ舞台上の踊り手と、観客を隔てる壁の存在が。
わたしを突き動かす若いサブボディたちが勢いで乗り切ってい行ったけ
れど。


人前で踊るとき、そこには無限の非二元かつ多次元的な生命共振が起
こっていて、その総体が訳の分からない悲しさとして感知されていること
に気づくだろう。
悲しさとか虚しさとかいうクオリアは、非二元の闇から立ち上ってくる、そ
れ 自体が底なしの闇そのものだ。
その悲しさを掘り、劇場という仕組み以外の踊りの可能性を長年探ってき
た。昨年からの<共振リゾーム>には、その壁を突き崩す可能性が秘め
られている。

集中力について

ある塾生は「わたしは様々な要素が常に頭にちらつく体質で、集中力が
ない」といった。
日常社会における価値観は、からだの闇ではすべて逆転する。あるいは
無化される。
意識を止めれば、からだじゅうの百兆個の細胞のいのちがつねに無数の
クオリアとごくごく微細に共振していることが分かる。
意識以外のさまざまなこおtが常に頭にちらつくのは、すでに非二元かつ
多次元共振といういのちのリアリティに気づきはじめているということなの
だ。
実はわたしも若い頃からそうだった。しかも、言語意識で捉えることのでき
るものよりも、言葉にならないことのほうがよほど大切なものだという気が
してならなかった。
それがおそらくわたしをからだの闇の探索に駆り立てたものだ。
意識化できるもの、言語化できるものにとらわれるだけではなく、からだの
闇で起こっているすべてを価値判断なしに透明に見透かしたいという欲求
、そしてすべてが透明に透けて見えるようなからだになりたいという欲求
がわたしをここまで連れてきた。

自我意識や言語意識による無視という暴力

見せることに悲しさが含まれるのは、おそらく自我意識や言語意識による
<うまく意識や言葉で捉えられないもの>に対する圧殺や無視という暴
力が起こっているからだ。
暴力は自分の意識によってであれ、他人の意識によるものであれ、それ
が振るわれると繊細ないのちは無意識の生命共振によって傷つく。

この問題に対するわたしが見つけた処方箋の幾つかを紹介しよう。

ひとつはわたしたちが持っているすべての既成概念を疑い、それにとら
われることのない安全な距離をとって、留保することだ。

この世でふつうのこととされている、あるいはよいものとされている意識優
先の意識や、自我意識や、表現という概念、それを見せるということ、劇場
や展示会というシステムなどなどをわたしは疑い留保した。

そしてさまざまな調体によって、意識を鎮め、いのちに耳を澄ます。
いったいそこでなにが起こっているのだろうと。

するとじょじょに、そこではさまざまな生命クオリアのただただ多数多様な
共振が起こっていることが腑に落ちてくるようになった。

たとえば、「見せるということ」ひとつとっても、じつは起こっているのは、
ただいのちといのちの間の等価な生命共振にほかならないのに、
それを「(わたしが、他の人に)見せる」ととらえるのは、わたしたちが現代
世界で共通の幻想になっている<主体>という概念に囚われているから
に他ならないことに気づくだろう。
「主体であるわたしが、見せる、表現する」、という幻想に現代芸術はどっ
ぷり侵されている。
劇場や展覧会というシステムもその幻想に支配されて出来上がっている。
既成のそれらにとらわれない仕組みを長年探り続けてきた。共振塾はそ
れらの実験の場だ。

第二は、透明共振離見を開くこと。
主体という人間の幻想を離れて何が起こっているかを見れば、
ただただ生命クオリアの共振が起こっていることが透けて見えてくる。
しかも無限に微細な言葉にならない、感覚でも捉えきれないほどの
いのちの震えが起こっている。
すべてを共振現象として捉える視点が重要だ。
自己の表現とか、主張とか、アッピールとかという粗大な傾性ではなく、
生命共振によってこれまでにないクオリアが創出されたら、たぶんいのち
は直ちにそれを他の生命と共有するのがいのちの自然な流儀だ。
とくにそれを志向するというのではなく、いのちにとってはそれを自分だけ
の秘密にしておく理由がない。もともと自分と他者という区別すらないの
だから。
ただただ普通に分かちあうよい共振パターンを探るだけでいいのだ。

傷つき、傷つけることについて

わたしも若い頃からこれをめぐって長い堂々巡りを続けてきた。
いまは、その仕組が少し透明に見えるようになった。
わたしたちが人を傷つけたり、傷ついたりするのは、
じつはわたしたちのからだの闇の深いところからエゴ(自我)という古い
元型が前面に出てくるからだ。
自我元型の特徴は、自分だけを肯定して、他者を否定する点にある。
ドイツの古い哲学者ヘーゲルはそれを、「意識は他者の死を追求してい
る」(精神現象学)と言った。
おそらく自我元型の源泉は、とても古くか弱いいのちが身につけた自己
保存衝動につながっている。
その元型が容赦なく自他を傷つけるのだ。

自我という元型を鎮める

それに気づいた後わたしは、自分のなかで自我が出てくる瞬間に注意深
く耳を澄まし、出てきた瞬間に自我を鎮める<脱自>という調体技法を編
み出した。
見つけた瞬間わたしはは発語を止める。そして、いのちとしてのもっともよ
い共振方法が見つかるまで待つ。
共振塾のもっとも基礎的なルールとして、「しゃべらないこと」、「議論しない
こと」を据えているのはそのためだ。

自我は平気で他者を傷つけるが、いのちに耳を澄ますと、いのちはただ良
い共振パターンを求めているだけで、傷つけるという傾性はほとんどない。
動物細胞が植物細胞や他の動物細胞のいのちを食べなければ生きてい
けない宿命にあるのは致し方ないが、それ以上に、不必要に傷つける指
向性はいのちにはないと思われる。

まあ、まだ始まったばかりだ。
ゆっくり歩いていこう。


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透明論 2016

この冬休み、三度目の試みとして『透明論』をかきあげようとしたが、
最後の最後に、先に書いたような新たな情報爆発の問題に出会って、
立ち止まった。
そこで、まとめた部分を少しずつ掲載して、
授業の進展とともに書き継いでいくことにした。
過去の2005年、2010年の試みと区別するために
『透明論 2016』とよぶことにする。

過去の『透明論2010』
『透明さについて2005」を読むには
それぞれ上のタイトルをクリック

 

2016年3月10日

踊る星を産むための混沌


わたしがわたしになることとなった、
宿命的な言葉に何十年かぶりにfacebookで再会した。
そうか、英語ではこういうふうに訳されているのか。

"you need chaos in your soul to give birth to a dancing star." 

Friedrich Nietzsche


17の頃、わたしが読んだ日本語訳は、たしか次のような言葉だった。

「汝の魂はなおも、踊る星を産むための混沌を孕んでいるか。」

フリードリッヒ・ニーチェ

この言葉は永劫回帰のように、その後何十年も、
わたしのからだの闇でこだまし続けていた。
若い頃はいくつもの職場や職業を変わったが、
そのつど、こぼさないように細心の注意を払って、
からだの闇のわけの解らない混沌を大事に大事に運び続けた。
そしてそれに耳を傾け続けてきた。

そして、45歳のとき、とうとうわたしの踊る星は、
ほんとうにからだからとびだして踊りだしてしまったのだ。
その後もからだの闇の混沌を何より大事なものとして
それに耳を澄まし続けている。
この不透明な混沌をすこしでも透けて見えるようにすること。また、からだ(脳心身のすべて)で起こっていることが透けて見えるようなからだになることがこの透明論の課題だ。
若い頃は、ただ混沌としてしか感じられなかったものも、
いまでは少しだけ透明になって、

多次元かつ非二元の生命共振

と捉えるようになった。

そう呼び替えることができるようになったことが何十年かの苦闘の少しの生長だ。

底知れぬ闇であることは今も変わりないが。
それが命のクオリアの多次元=非二元共振であるという
正体が定かになって、つきあい方も深まった。
共振塾におけるわたしの産婆としての主な仕事は
生徒が自分のからだの闇の混沌に気づき、
それに耳を傾け続けるという生き方に導くことだ。
それこそ命の無限の創造性と固有性を開く
最大の宝庫だと信じているからだ。
その解き難い謎と秘密は、「生命論」、「クオリア論」、「共振論」、
「舞踏論」などの多様な坑道で掘り続けている。

17歳でこの言葉に出会った時は、
まさか自分が踊り手になろうなどとは夢にも思わなかった。
だが、無意識では知っていたのだ。
人生のあらゆる時期にからだの闇の中に
躍りだそうとしている何ものかが潜んでいることをうっすらと感じていた。

一度出会えば二度と忘れることのない
そして生涯の間いのちを導き続けてくれる
宿命的な出会いというものはあるものだ。




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2016年3月7日

透明になるとは、何にも囚われなくなることだ


今日から、新学期がはじまる。
新入生は、ビザの都合で遅れている人を除けば、
ほぼダラムサラ入りした。
インドツアーを終えた、サティ、ホンザ、ピラーらも
早朝にはデリーからの夜行バスで到着する。
何年も続けている産婆コースの古い塾生たちだ。
この機会に、透明になる、すなわちからだの闇の出来事にも、
外で起こることにも囚われず、すべてにいのちとして透明に共振する
透明坑道をともに掘り進めたい。
はじめての人たちの共振サブボディコースと、
産婆コースの二重のクラスになる。
初心者は産婆コースの塾生から多くを学べるだろう。
これまでになかった、これからもいつ訪れるかもしれないチャンスだ。
初日はまず、各自の希望、なぜここへ来たか、ここで何をしたいか、
そして抱えている心身両面の問題を全員でシェアすることから始めよう。




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 いま、従来とは比べ物にならないほどの
情報爆発時代を迎えようとしている。

2016年3月5日

情報爆発時代を、共振するいのちとして生き抜く
には



あと2日で共振塾の新学期がはじまる。
新入生も三々五々ダラムサラに到着している。
この冬書き継いできた「透明論」は書き上げられそうもない。
そのなかで、現在わたしたちが直面している新たな問題にぶつかったからだ。
とんでもない速さで進んでいる情報爆発だ。
わたしは、十数年前日本の情報洪水から逃れ、新聞もテレビもないヒマラヤで、
からだの闇に耳を澄ます暮らしを続けてきた。
からだの闇にうごめくごくごくかすかな生命共振クオリアだけが
あらゆる創造のみなもとだと信じてやってきた。
共振塾開校以来、インターネットと口づてだけで世界と交信してきた。
だが、このインターネットという怪物が驚くべき速度で肥大化して
情報爆発時代をもたらしている。
情報爆発時代とは、情報管理技術が生命クオリア共振を包囲する時代だ。

テレビや新聞という従来のマスコミに代わって、パソコンやスマホで世界中の
人が新しい質と仕掛けを持った情報の怪物と日々向き合っている。

インターネット情報の特質は、一見の自由選択制にある。
だが、どのページを開こうと、高度化した情報管理システムによっておいしく
調理され、隠密裏に命に働きかける高度な管理技法を秘めた
情報網に囲繞されることとなる。

現代の情報システムは、総合的な多次元手法で、
命のクオリアに直接働きかけてくる。

その鍵は<快感>だ。

本人は自由にネットサーフィンをしているつもりでも、
システム自体が高度な多次元情報操作技術でいのちの快感を刺激し、
それによって導かれる仕組みになっている。

見かけ上の自由さもまた<快感>をもたらす一要素だ。
だが、いのちは快感に弱い。
その弱点をついて、あの手この手で快感に導くように仕組まれている。

20世紀には、企業広告や政治宣伝で「サブリミナル効果」が
話題となったことがある。
意識の識閾下で届けられるごく短い映像や言葉や音が、
下意識に働きかけ、一定方向に導くというものだ。
旧来のサブリミナル技法は多くの国では法律で規制されている。
ネットでの言論でも、あえて旧来の瞬間的に露出する映像や言葉に
矮小化されて議論されている。
だが、それは真実から目を背けさせるために仕組まれた矮小化である。
現代の政府や広告業では、旧来のそれにとどまらない
遥かに高度化した多次元的な手法が研究され、使われている。
映像や音楽や言葉にとどまらず、あらゆるチャンネルの情報が
すべて多次元統合的に、性や食や遊びの快感を刺激し、
<快>と感じられる方へ方へと導いている。
ネットで調べた楽しいもの、うまいもの、異性との出会い、遊び、
より効率的に快を得るための学習などの機会に導く情報に導かれて
街を歩かされている。
現代都市はまた、ネットと並ぶ快感情報が溢れかえる一大展示場だ。
どこへ行こうと、快感に誘う情報から逃れることはできない。

そして快感に導かれ、決して疑問を抱かないまま<快感>に導かれる
狭い生に閉じ込められている。
それが現代の生命を取り巻く最大の闇だ。

共振塾では、これまで出来るかぎり情報から身を遠ざけ、
沈黙のなかでからだの闇に耳をすましてきた。
だが、これからはそれだけでは十分ではない。

今年は、まず現代の情報の怪物といかに向き合い、
それに囚わず、透明ないのちになってからだの闇に耳を澄まし続ける生活を
いかに確立するか、から始める必要があるだろう。

そして、単に情報に背を向けるだけではやっていけない。
この情報爆発時を、生き抜くためには、情報のツリー世界と、
からだの闇の生命共振クオリアのリゾームの世界のどちらにもとらわれることなく、
自在に行き来する透明なツリー・リゾーム技法の習得が急がれる。
今年の授業は、その点に焦点を絞ったものになるかもしれない。
これは共振する命として生きようとするわたしたちにとって、
大きなチャレンジになるだろう。


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 これがサブボディ共振舞踏ワークショップだ
 

2016年3月1日

透明になる


今月も、机の前に座り込んで、すでに出版した「舞踏論-静かな家の深淵」、
「からだの闇を掘る1・2」に続いて、「透明論」の執筆・編集に没頭した。
あと数日で新学期が始まるので、この休み中に発刊できるかどうかは未定だ。
だが、透明論のエッセンスは短い言葉で言い表せる。
それをしばらく、書き留めておくことにしよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

透明になる

思考を止める
判断を止める
意図を止める
感情を止める
からだの闇に耳を澄ます
からだの内外を流れている見えない微細なクオリアに耳を澄ます
内に50%、外に50%正確にバランスを取って耳を澄ます
クオリアに従って透明に動く
動きの半分はからだの闇の内からのクオリアに従い、
動きの半分は外界や他の人の動きとの共振に従う
すべてを透明に味わう

そレを続けているうちに
すべてが生命共振だ
ということが腑に落ちてくる。
それからだ。
からだを透明に磨く技法を工夫し始めるのは。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
たったこれだけのことだ。
共振塾では、
これを塾生に伝えるために日々の調体・探体・創体の動きのなかで
折を見て、これら透明になることの要点を言葉の端々に散りばめ
挟んでいくことによって、一年の間に少しずつからだに染みこんでいく。

催眠の大家エリクソンの弟子が、エリクソンの催眠技法を解析するなかで
<散りばめ技法>として取り出した技術だ。
今年の授業では透明になるためのエッセンスを
この<散りばめ技法>を駆使して新しい塾生に丁寧に伝え、
その技法を産婆コースの古い塾生に受け継いでもらえるように
集中して工夫してみよう。
今年は、ピラー、サティ・ジオ、カスカ、ホンザら、久々に古い塾生が
何人か揃うので、技法の伝達の好機だ。

しかし、からだを使わない一般読者に対する電子出版では、
百万言を費やしてもことばだけでは伝わるとは思えない。
わたしの言葉への諦めが深すぎるのか、
言葉の技術が足りないのか、
からだの動きにつながるような書き方を工夫すべきなのか。
優れた小説家は、この<散りばめ技法>を駆使して
些細な描写の端々にまで心を砕き、
さまざまな伏線を設け、それを統合的に回収する技術を持っている。
現代の高度に発達した情報システムも、
無数のサブリミナルな快感をもたらす暗示映像や音像を散りばめ、
暗々裏に人々の欲望や行動を管理する膨大な技法を集積している。
情報ではなく、生命共振クオリアに命をかけるわたしたちも、
それに劣らぬ技術を集積する必要があるのだ。
『透明論』を書き上げるにはまだまだ修行が必要なようだ。
まあ、まだ始まったばかり。
急ぐまい。


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これが共振舞踏ワークショップだ
Video: Sergio, Interview and Subtitle: Jonathan

2016年2月20日

共振リゾームワークショップのビデオ in スペイン

去年夏の、スペインでのワークショプの模様を、ジョナサンとセルジオがビデオ
にまとめてくれた。
なんと、わたしの聞き取りにくい大阪弁の英語をいちいちサブタイトルに書き起
こしてくれている。
かなりの難行だったに違いない。とても優れた出来だ。
ありがとう。

今年もイタリア、ハンガリー、スペイン、ポーランドと、夏期ワークショップツアー
の準備が進んでいる。

冬場はインド、夏はヨーロッパを駆け巡るいいリズムができてきた。
しかも、わたしがいなくても、そのツアーが拡大していく。

サティ、ホンザ、カスカ、パメラ、ゴルカ、イザら、この冬のインドツアーを成功さ
せた経験は大きくモノを言うだろう。
半分は前もって予定が組まれていたが、半分以上は旅をしながら、行き先の活
動を組み立てていくのだから。

今日からカルカッタでの舞踏祭がはじまっている。楽しみだ


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近日発刊! 

2016年1月24日

この冬は、傷めた膝の養生のために、まったく出歩かず、
座ったまま、昔の記事を編集し、
アマゾンで電子出版する作業に没頭しています。
すでに「舞踏論」は出版済み、現在編集中の
この「からだの闇」の昔の記事に、
サブボディ技法をはじめて学ぶ人のためになる記事を見つけました。
以下に再録します。

「からだの闇を掘る「第1巻には、2005年から2009年の、
第2巻には2010年から2015年までの記事を掲載。
現在時点で、なお重要と思える部分には、下記のように赤字で強調し、
写真も豊富に添え、現在の目で再編集しました。
一覧するだけで、共振塾11年の歩みと、サブボディ技法が
日々刻々と深化されてきた歴史がわかります。
近日中に刊行予定です。
お楽しみに!



2008年2月7日

命の語法

命から意識へいつもかすかなメッセージが届けられている。
それは意識の語法とは異なる。
言語を使わないで伝わるものだから、
言語になれきった意識にはつかみにくい。
だが、ひとたび命の語法を会得すれば
つねに命とコンタクトすることができる。
私は外部からの言語情報の外圧のないヒマラヤで
探求してきたのはこの命独特の語法だ。
いくつか確かなものが見つかっているので
ご紹介しよう。
昨日の「朝のもやもや」にも関係するが、
朝目覚め前にからだのなかのもやもやとした体感を探る。
すると、そこには一晩中命がやっていた仕事の残り香りが漂っている。
夜中に命がする仕事は、
その日に起こった新しい体験のクオリアを整理することだ。
新しい体験はひとまず脳の海馬というところに保存される。
そして、一晩かけてそれらの一時記憶のうち
長期記憶として保存するべきものと、廃棄するものに振り分けられる。
どういう仕組みでその選別が行われているのか?
眠っている間におそらく命はその日に得た新しいクオリアと
過去に保存した内クオリアとをひとつひとつ突き合わせ
どういう共振が起こるかを試している。
そして既存の内クオリアとは異なる新鮮な共振が起これば
それは<新鮮なクオリア>として特定のグリアに永久保存される。
そしてこの新鮮なクオリアに対し、
既存のグリア一つひとつと突き合わせが行われる。
夢の中でさまざまな映像やストリーリーが展開されているのは、
この突き合わせ作業で起こっている出来事の反映だ。
そして、その新しいクオリアと既存の内クオリアとの間で
強い共振が起こればその新しいグリアと既存のグリアとの間に
ニューロンの分枝が形成される。
それが<新鮮な体感クオリア>として
明け方のからだのもやもやのなかに漂っているあの独特の
<新鮮なクオリア>だ。
もやもやのなかにこの<新鮮なクオリア>を見つければ、
それをつかんで離さないことだ。
しばらくからだの闇のなかで揺すぶっていると
それがどんなものかが浮かび上がってくる。
それは新鮮な気づきや発見をもたらしてくれる。
これが命からの第一の語法だ。

新しく長期保存された新入りクオリアは、だが、それ以外の無数のクオ
リアとはまだ、密接な関係を確立していない。
それは<どことなくしっくりこない>とか、
<落ち着きの悪さ>という
つかみにくい奇妙な体感として感じられる。
明け方のもやもやの体感の中に、
この<落ち着きの悪さ>のクオリアが見つかれば、
それは新しいクオリアがどこかに保存された証拠である。
落ち着きの悪さのクオリアをからだの中で転がしていると
やはりなにか新鮮な発見や気づきが訪れることが多い。
この<落ち着きの悪さ>が命からの第二の語法だ。

以上は一時記憶から長期記憶に変換されるときに起こる出来事の
かすかなクオリアだ。
命の仕事は、だが、それだけではない。
もっと根底的に、昼間の意識がなにかに囚われて行っていることに対し
命が違和感を感じたときは<なんとなくそぐわない>とか、
<かすかな不快感>のクオリアを発する。
第二の語法とも酷似するが、
これにはもっと根底的な命からのメッセージが含まれている。
意識はいつも何か単独のクオリアにとりつかれて視野狭窄に陥りがち
だ。
それに対し、命が違和感を感じたとき、
命は「なにか見落としていないかい?」というクレームを発して
身をよじろうとする。
アメーバが濃い酸や毒物に触れたとき
そこから遠ざかろうと身をよじるのに似ている。

去年の秋、私は前々からやりたかった「衰弱体」の授業を
はじめて行うチャンスを得たことで、それに夢中になっていた。
それに対し、一年の授業がすべて終わって後、
からだの中に言いしれぬ違和感のようなものが立ちこめた。
この冬中味わっているうち、ようやく私自身が「衰弱体」に
囚われるあまり、それが持っている特殊性を無視して、

それを受け入れる準備がまだできていないわずか一ヶ月目の生徒にも
無理に押しつけていたことに気づいた。
いや、6ヶ月目のカツでさえ、縛られているようできつかったと
共振掲示板に書着込んでくれた。
衰弱体は土方でさえ、あらゆるタイプの舞踏を踊り抜いてきた後に、
いわば最後の境地としてたどり着いたものだ。
彼自身何年も、午前中いっぱい死んだ姉の着ものを着て
姉のからだになり込み続ける長い修行の後にようやく
身につけたものだ。、
踊りをはじめた当初のからだに衰弱体への必然性が
生まれてくるわけではないし、その技法を学んだところで
わずかな期間で身につくものでもない。
私が見落としていたのは衰弱体に至る長い時間性だ。
私自身もここ十年探求しているがまだ自分の踊りになっているわけ
でもない。
意識を鎮め、下意識に触れ、あらゆる契機を踊れるようになって後、
衰弱体への必然性が生まれてくる。
人は誰も自分の中で成熟してくる命の時間性を忠実にたどるしかない。
頭では分かっていたことだが、じっさいにやってみて
その時間性の重い壁にぶち当たってはじめて痛感させられた。
大事なことはいつもこういうふうに学ぶしかないものだ。

ともあれ、命から発する、<かすかなそぐわなさ>や、
<何ともいえない不快感>のかたちで届けられるものこそ、
もっとも大事な命の語法のメッセージである。


フォーカシングのジェンドリンがいう「フェルトセンス」や、
ミンデルの「センシエント」は、すべてこの命の語法に
耳を傾けようとするものだ。
このかすかな不快感をつかんだら握りしめて手放さないことだ。
ごくごくかすかなものだが、このメッセージを解くと、
大きな発見に至ることが多い。

命からのメッセージは以上の三種のクオリアに大別される。
それ以上のディテールはさまざまな映像やストーリーの夢や
ビジョンとして現れてくる。
だが、前にも述べたように夢の具体的な映像やストーリーは
その日に蓄積された一時記憶を長期記憶に変換するかどうかの
より分け作業の最中にアトランダムに古い内クオリアと結びつけられ
保存するかどうかの線上で発生したものなので
偶然の産物であることも多い。
夢を見たら、その夢の特異な映像やストーリーばかりではなく
その夢に漂う体感クオリアをつかんで、
からだの中でしばらくころがしていると
そのまま消えていくか、前記の三大クオリア、
<新鮮さ>、<落ち着きの悪さ>、そして
<かすかな不快感>
のどれかに帰着するかする。
この三つは命にとって大事なものだから、
忘れないように握りしめてからだの闇で揺すり続ける。
するといつしかそれと共振するクオリアが見つかって
何を言おうとしているのかが解けてくる。
十数年、命の技法を解こうとしてきた。
ようやくみっつばかりの少しは確かなことを
つかみ出すことができるところまできた。
第二と第三が酷似しているので見分けにくいかもしれないが
あえて分別する必要はない。
どちらにせよ、不快感に属するものだ。
からだの中にそれまでになかった感じ悪いものが感じられたら
それこそ大チャンスだと思えばいい。



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サブボディ出版
 

静かな家の深淵

この十年書き継いできた舞踏論の一部を
アマゾンから電子出版、お手軽にお読みいただけるようになりました。 

キンデル価格 351円

ここをクリック


なぜ、舞踏は暗いのか?
なぜ、そんなに醜い姿で、変形されたからだで踊らねばならないのか?
舞踏にとって衰弱体の必然性とは何なのか?

この書は、それらの問いをめぐるわたしの苦闘の歴史です。
なぜなら、それ以外の楽しく踊りたいというような傾向も
からだの中にあったからです。
はじめて土方の舞踏に触れ大きな衝撃を受けた20代のはじめ以来、
今日に至るまでわたしは毎日毎夜いのちに聴き続けました。
「ほんとうにやりたいことは何なのかい?」
やがて、自分のいのちの必然と土方巽の必然とが共振し
いのちにとって美とはなにか、をめぐってひとつに結晶しました。
美は生命共振にあり。
わたしたちがもっとも傷つき歪んだかよわい死にかけのいのちになったとき、
はじめてこの地球上のあらゆるいのちの悲惨と共振することができる。
見かけ上の強さと、共振力は反比例するのです。
透明になりたい。
透き通ったいのちになりたいかたは
ヒマラヤにおいでください。
一緒にいのちの共振美を探求しましょう。


あとがきから

日本を離れ、ヒマラヤへ来て15年が経ちました。
この間、ウエブサイトに書きためてきた舞踏論の一部を
まとめてアマゾンから電子出版しました。
土方巽の舞踏は衰弱体に転換した1972年以来、
一般の美意識に反する瀕死のいのちを踊り続けてきたため、
暗い、おぞましい、醜い、気持ちが悪いと敬遠されて来ました。
衰弱体だって?
なぜ健康なからだを踊らないの?
この本は、その問題に焦点を絞っています。
わたし自身にとってもおおきな課題だったからです。
土方巽がなぜ、衰弱体に行き着かざるを得なかったのか。
なぜ生と死のはざまでゆらぐいのちのありようを踊らねばならないのか。
自分自身の必然と土方巽の必然が共振してひとつになるまでの
ヒマラヤでの十余年の苦闘をご覧いただけます。
この本はやはり同じ疑問に直面する共振塾ヒマラヤの塾生ともに行った
生命共振の試行錯誤の成果でもあります。

この場を借りて、共振塾ヒマラヤへの入学案内をさせていただきます。
毎年3月の第2週から、12月の第2週まで、
1年コースの募集を行っています。
毎週月曜日から金曜日まで、朝10時から夕5時まで、
呼吸法やからだをゆらしたりする調体によって日常的な言語意識を止め、
からだに耳を澄まします。
すると、からだの内外にかすかなクオリア(クオリアとはいのちが感じているあらゆるものの
質感、体感を指します。)が感じられ始めます。
それにからだを預けて行くと、自然とからだの闇に長年潜んでいた下意識のからだ
(サブボディ)が出てきます。
それを美にまで磨き上げる作業をこの十年、塾生とともに続けてきました。
巣立った塾生は千人を超え、世界各地で活躍しています。

情報洪水に押し流される日本から、
ヒマラヤへ来てからだに耳を澄ましてみませんか。
いつもいのちに「なにがいちばんしたいのかい?」と問い続けていると、
いつかかならず、自分でも気づかないからだの底から、
いのちの応えが返ってきます。
現代人が忘れているいのちの動向とともに生きること。
それがもっとも大事なことではないでしょうか。


2015年1月21日
                       リゾーム・リー

アマゾンを見る 
 
スペインの渓流での共振リゾーム 
2016年1月15日

スペインの渓流での共振リゾーム 


これは<共振リゾーム>の記念すべき最初の成果である。
去年夏のスペインでのワークショップは
スペインとポルトガルの国境に近い山脈の中腹で行われた。
はじめての<共振リゾーム>に集中したワークショップで
これはその最終日のものだ。
参加者の誰かが、渓流の場所と動きを率先すると、
他の人はそれに共振して群れになって流れ落ちたりする
かつてなく興味深いものになった。
15人の参加者のうち大半がジョナサンのサブボディ研究所の
クラスの経験者で、手放しで楽しんでくれた。
踊り手がモダンダンスのような、何かを表現しようとするような
狭い人間的意識を脱ぎ捨てて、いのちが感じる瞬間的なクオリアに
身を任せて動き出し、透明な生命共振を開くだけで、
予測もできないような面白いことが起こる。
共振には主体も客体もなく、どちらからともなく起こる。
そしてからだのどこかが他の誰かと任意の部位で連結したり
自在に分離したりするリゾームになる。
この成功で自信を持って、去年の後期も<共振リゾーム>に集中した。
それが第11回舞踏祭のこれまでにない面白さを実現した。
今年も<共振リゾーム>に更に磨きをかけるつもりだ。
そのなかでも透明になることに力を入れる。
<透明さ>とは内側の特定の思いや情動にも、
外側からの情報や圧力にも、なにものにもとらわれないことだ。

今までは<透明さ>とはもっとも難しい課題に思えて
学期の終わりまで後回しにされて、結局時間切れで取り組めないままに
終わってきた。
わたしが段階論的教育論のようなものに囚われていたせいだった。
だが、もっとも大事なことには最初からその中心に向かって取り組むべき
なのだ。
さあ、今年はとりわけ面白いことが起こりそうだ。



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2016年1月12日

透明になる

透明になろう。
透明ないのちに。
死者の国と生けるものの境界を超えて行き来できるからだになろう。
人間は多くの幻想の境界をこの世に生み出してしまったいきものだ。
だが透明ないのちには国境も人種の差もない。
宗教や文化や男女、貧富、健常・障害者の違いも超えて共振している。
自己と他人との境界すら半ば以上は幻想だ。
命はあらゆる境界を超えてただ共振している。
人間だけが自ら生み出してしまった幻想の境界に囚われて苦しむ。
ヒマラヤでは今、インド中からスッテプイーグルが集まってきて
上空高く飛翔し、ヒマラヤ山脈にそってネパールまで飛び、
ヒマラヤを超えてモンゴル高原まで渡ろうとしているのがみえる。
鳥たちにも魚たちにも国境はない。
こだわっている人間を笑っているようだ。
ヒマラヤに来て、そんな目で一度自分を見つめなおしてみませんか。




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山崎、石もてわたしのからだを打て! 6
in シャンティニケタン、ウエストベンガル、インド 
2016年1月10日

山崎、石もてわたしのからだを打て! 6


第1次 インドツアーの間、行く先々の地でわたしはこの踊りを踊り、
磨き続けた。
山崎とはわたしの高校時代の友人で、
48年前のベトナム反戦運動の中で命を落とした故山崎博昭だ。
それぞれの場所にある一つの石を彼の墓標に見立てて、
生き返れ、生まれ変われ! と石で叩き続けた。
そんなことが無理なことくらい分かっている。
何かを変えたかっのだ。
叩いている間に、逆転してわたしが山崎に打たれている気がした。
石のように固まってしまったわたしのからだを叩いて、
「いったい、何をしているんだ。
日本は昔よりもっと、とんでもないことになってしまっているじゃないか
!」
そう、伝えたがっているかにも感じた。
山崎がそんなことを言う男ではないことはよく知っている。
おそらく、黙って唇を噛んでいるだろう。
わたしの自責の念の一人踊りかもしれない。

だが、この踊りをひとりで続けている間に、ソロではじめた踊りから、
山崎が多くの国の踊り手に転生して一緒に踊り出すという群れの踊り
に変わってきた。
この後の、プネや、去年の第10回舞踏祭や、
8人の古い塾生と踊ったドイツの舞踏祭を経て
この踊りは<共振リゾーム>へと成長してきた。
<共振リゾーム>にはリーダーも振付家もない。
ただ踊り手が自分の創造性と固有性をフルに発揮して踊る。
それはツリー上の階層秩序に囚われた現代社会を根本から変える
未来の人間のありかたの雛形だ。
生きていれば山崎もきっと賛同してくれるはずの試みだ。

なんとか、この未来への希望を日本にも届けたいのだが。



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以下は保留のまま


やがて、二年後の2017年10月8日、羽田空港近くの
山崎博昭慰霊碑の建立に向けて、この踊りを完成して
何人かの踊りてとともに日本にもっていけないかと考えている。
せめてなら、東京だけではなく、京都、大阪など山崎ゆかりの地や
舞踏のふるさと秋田や、震災から復興中の福島の人々にもお見せした
い。
ただ、そのためには膨大な資金がかかる。
まことに心苦しいのですが、
読者の方々、友人諸君、もしご賛同いただけるなら、
資金カンパのご支援をお願いします。
支援の方法は追ってご通知申し上げます。



資金カンパ振込先

銀行名と住所

State Bank of India, Mcloedganj,
Teh. Dharamsala, Distt. Kangra, H.P. India. pin 176215

受取人住所氏名

Ryuji Oka, C/O Beant Dev
Village Jogiwara, Post Office McleodGanj,
Teh. Dharamsala, Distt. Kangra, H.P. India. Pin 176215

振込時に求められるバンクコードは、
下記データをコピーしてお示しください。

Account Holder Name -  Ryuji Oka

Account Number -  31687887679

State Bank of India Mcleodganj

Code no. - (04250)

Swift Code no. - SBiNiN BB 676

IFSE/ NEFT/ RTGS - SBIN  0004250

MICR Code no. - 17600 2009

Pin Code - 176219

どうかよろしくお願い申し上げます。

.:








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バニヤン ツリー=リゾーム in プネ  
スネーハル、リーとコーボディ 
「山崎、石もてわたしのからだを打て ver.08」

2016年1月6日

バニヤン・ツリー=リゾームの秘密

15年前、南インドのジャングルを歩いていたとき、
わたしの森林ガイドをしてくれていた少数民の青年が
奇妙な木を指差して、バニヤンツリーの秘密を教えてくれた。
見ると、一本の樹が別の平たい蔓状の樹によって全身を覆われ
今にも息を引き取りそうな具合だった。
「バニヤンツリーっていうんだ。
これはすごく生命力が強くて、他の木よりもはるかに早く成長する。
そして全体を覆ってしまって乗っ取るのさ。」
森のなかではバニヤンツリーに覆われている樹がたくさんあった。
バニヤンはいたるところから新しい枝や、根や気根を伸ばし、
気根が新しい幹になって支え、枝が生え、根を伸ばし、
他の木を覆い、一本の樹が森のように生長していく。
わたしは感動した。
「バニヤン、きみはわたしのツリー=リゾームの師だ!」


バニヤンツリーの秘密
他の木を覆い尽くそうとしているところと、
元の樹が腐ってがらんどうになっているバンヤンの内側。
第1回インドツアーで、ラジャスタンの巨大なバニヤンツリーでドナが踊った。
プネでは地元のアーティストのスネーハルが、バニヤンのリゾーム性を増幅して、
わらで根や枝や気根を増殖させたインスタレーションを創ってわたしたちを待っていた。


スネーハルのインスタレーションにさらに踊り手がからだを接続して絡
みこみ、互いにも連結=分離を自在に繰り返すリゾームとなって踊っ
た。
はじめての、完璧な<共振リゾーム>が現出する踊りとなった。
この中でわたしはまた、何度目かの
「山崎、石もてわたしのからだを打て!ver. 08 」を踊った。
この三年間、世界のあちこちで踊るたびに、
ひとつの石を、1967年10月8日のベトナム反戦闘争で死んだ
旧友の山崎博昭の墓標に見たてて、生き返れ!と叩き続けてきた。
叩き続けていると、いつの間にか逆転して、
山崎がわたしのからだを叩き、鼓舞しはじめる。
そして、最初はソロであった踊りが、
いつのまにか多くのコーボディとともに踊るようになった。
夏にはドイツの舞踏祭で、8人の古い塾生とともに 
「山崎・・・ver.08」を踊った。
山崎が50年のときを経て、多国籍の踊り手に転生して踊り出す
踊りの原型が3年かけて出来上がった。
来年の2017年10月8日、
羽田に山崎博昭の50周忌記念碑が建立される折に、
踊りたいと思ってこの三年間この踊りを育て上げてきたのだ。
だがそれと同時に、今は日本で踊ることは
断念しなければならないと思った。
日本は世界から遠くお金のかかる国だ。
多数の多国籍の踊り手とともに日本ツアーをしようとすれば
旅費・滞在費・制作費など莫大な資金が必要になるが、
そんな資金集めをする余力も時間もわたしにはない。
むしろ、それよりもやりたいこと、求められていることがいっぱいある。
昨年に続く障害者との共創や、カースト外の部族民などとの障壁など
世界中のあらゆる障壁を超える<共振リゾーム>を展開することに
残りの人生を捧げたい。
山崎はわかってくれると思う。
死者には生者が囚われているような国境はないからだ。
この世界をなんとか変えることができそうなところからやり始めよう。



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2016年1月3日

 「奇形による癒やし」ーインドの新聞記事のまっすぐさ 

プネでの舞踏公演には多くの新聞社が取材に来た。
何本ものインタビューも受けた。
中でも”Healing with Deformity"(奇形による癒やし)と題した記
事はあまりに深い理解と共振にあふれていて、驚かされた。
わたしたちの踊りは先進諸国ではたいがい見向きもされないか、
鼻つまみものにされているからだ。
(なぜ、わざわざ醜い格好をするんだ。嫌な感じがするだけじゃないか
。)
先進国の日常的情報はすべて丸く甘く味付けされているので、
人々の口にあわないのだ。
だが、インド人たちは食い入るように固唾を呑んで見守った。
記事(英文)を読む

そうだ、わたしたちは、もつれ、ねじれ、壊れて奇形化した多くの
サブボディ=コーボディを踊った。
からだの闇に長年隠れ住まざるを得なかったサブボディたちは、
みな小さな暗い場所に縮こまって身を潜めているからだ。
しかも、それらが自他を越えて、からみ合いつつ変容流動している
リゾーム状のカオスをそのまま踊った。
それがスネーハルの、バニヤンツリーのリゾ―ム度を更に増幅した
インスタレーションと一体になって動き出し、時空が一変した。
だが、それに「奇形による癒やし」と題する記事を書くには、
わたしたちの踊りを見て、記事を書いた人のからだの闇のなにかが、
動かされたという生命共振の事実なしには出てこない言葉だろう。
なんと素直な魂を持った記者だろうと驚いた。
舞踏に対する既成概念に汚され、自分の中の醜いものから目をそらす
いまの日本や欧米の新聞にこんな直截な生命共振そのものの言葉が
載ることなど考えられない。
インドにはまだまだ希望が潜んでいる。
だがわたしたちは、インドだけにとどまっているわけにはいかない。
このインドリゾーミングツアーで獲得したリゾーム舞踏の衝撃力を
更に磨いて欧米や日本に再上陸するだろう。
その日をお楽しみに!




3 January, 2016

"Healing with Deformity"
-- an deep resonant article of Indian
newspaper


J
apanese artist Rhizome Lee's performance of
Butoh, an art form that evolved after the
Holocaust, explored the concept of beauty hidden behind
layers of grotesque make-up.


AASHAY KHANDEKAR

It WAS A sight to remember. The eyes of spectators
stayed glued to the Butoh dancers who crawled in a
hyper-controlled demeanor, with their intimidating
make-up intensifying the mystery and tension in the air,
which was slithering in-between pauses of shallow
breaths. As if bewitched by a spell, for nearly an hour,
nobody moved from their place, making the act,
Resonating to the Last Echoes, performed by Rhizome Lee
and his students from Subbody Resonance Butoh School
in Dharamsala, one of the most enthralling performances
at the ongoing Pune Biennale.

Butoh, as an art form, was originally invented to
vent out the emotions after the holocaust of Hiroshima
and Nagasaki in World WarⅡ. Modified and taught by Lee
in the holy land of Himalayas for last 20 years, he
brought it to the city on Friday at Deccan College, in a
collaboration with two installation artists from the
city, as his performance weaved the installation art
work as a part of the "healing" process.
The installation artists include Snehal Kulkarni
Dutt, who displayed her work 'Gone To Grass' along with
collaborator Rucha Kulkarni, who brought a mysterious
dimension to the installation with her aboriginal
sculpture of Indian diety along with mirrors.
Explaining the concept behind the performance, which
was carried out in an extreme and absurd looking
environment, Lee said, "Subbody Butoh is generally
considered as an art form that helps to heal the body,
mind and spirit. In the process of exploring and
creating movement, a practitioner often encounter
his/her physical and emotional blockages. In this
particular installation, we tried to show the complexity
of human beings in comparison with the simplicity of
trees."
Lee has derived the word Subbody from two different
word--subconscious and body. "In the realm of the
subconscious, away from the boundary of ego and daily
consciousness, our mind and body melt into oneness and
create a world completely different from what we
encounter daily," says Lee. The new world formed by Lee
and his fellow dancers in the periphery of 20 meters is
also a challenge posed to the defined concepts of beauty
and wellness.
Throwing light on the rebellious nature of the
performance, Lee said, "After the World WarⅡ, many
people in Japan were born with deformities. The after-
effects of the nuclear blunder were devastating.
However, during the same time, people in the Eastern
countries started realising that the concept of beauty
is not the one defined by Western thought. The true
beauty lies in the beauty of mind and soul, which is hwy
the dance was performed with grotesque make-up."
Talking about her contribution n the installation,
Dutt said, "I wanted to explore a sense of entanglement
in changing times through the rots. When I met rhizome
for the first time through a common friend, who was his
student in Dharamsala, we came up with collaboration
idea." Kulkarni, on the other hand, had a different
point of view. "The purpose behind the idol was to show
the interdependence of 'prakriti and purush',as
described in the ancient texts. The mirrors created an
optical illusion as people thought it was water," she
says.
To create the installation, the artists had to work
for more than four weeks. Expressing his joy at the
success of the event, Lee said, "I performed at the
first time. This was also the first time we worked in
collaboration with installation artists.
I wish to
perform the same act in collaboration with these
artists in Japan in 2017.
Subbody Butoh's next
performance will take place at the Kala Choda Arts
Festival in Mumbai next week.


See the newspaper

Yes, we danced many entangled, twisted, broken and
deformed subbody=cobodies.
Because, subbodies are hidden in the darkness of body with shrunken, twisted shapes for many years.
Moreover, we danced the Rhizome-like chaos which are transforming and flowing while entangling beyond self and others.
The space-time has changed completely by becoming
oneness with the installation by Snehal which amplified the degree of Rhizome of natural Banyan tree.
But, to write the article entitled "Healing with Deformity",
it must be necessary that something was moved or
changed in the reporter's darkness of body by looking at
our performance.
How straightforward word of pure Life resonance it is!
I was surprised at such a honest soul the press has.
Such a straight word must be impossible in Japanese or
Western newspaper which was stained by stereotype for
butoh, and looking away from their ugly things inside of
them.
It is so happy that there is lurking hopes still in India.
But we are not afford to have remained only in India.
We have to polish further the impact force of "Butoh
Rhizome" that was found through the India Rhizoming
tour, and we shall be re-landing on Europe and Japan
some day.
Have a fun on that day!

Read more "India Rhizoming tour"


 視聴数 1,045,514 ; 予約視聴者 1,222

YouTubeの共振塾ビデオが百万視聴を突破し、
続々と視聴者を増やしています。
ご愛顧厚く御礼申し上げます。
今年も、生命共振のとてつもない面白さを追求していきます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

 
 
障害の壁を超える共振リゾーム
ハンガリー 2015 
2016年1月1日

生命共振美の探求


私たちが行っているのは、生命共振の美の探求である。
従来、生命共振などというものに誰も目を向けなかった。
そんなものがあることさえ知らない人が多い。
だが、美のもっとも深い本質は生命共振なのだ。
目で見て美しいとか、耳に快いとかの情報レベルではなく、
深い無意識のからだのレベルで、
いのちがクオリア共振によって深く動かされるとき、
人間にとってそれが<美>という経験となる。


その昔、能の世阿弥が行き着いた<幽玄>という美もまた、
微細なあるかないかの、生と死の間でふるえている
生命共振美の発見であった。

土方巽が行き着いた究極の美は<癇の花>である。
にっちもさっちもいかないところまで追い詰められ、
見にくく変形凝固したイノチがなお生きようとする姿であった。

この夏ハンガリーで行った障害者とのワークショップで、
一週間いろいろ練習した中で、一番やりたいのはなにか?
と参加者に尋ねたところ、からだが石に変形した後、
そこから新しいイノチとして再生するというものだった。

この人生ではもう障害を持ったからだからは逃れようがない。
だが、舞台の上で違う生命に転生したいという
切実な希求が込められていた。
そこにこそイノチの究極の美が生成する。
世阿弥の<幽玄>、土方の<癇の花>を通底する普遍的なものは、
<生命共振の美>である。
あらゆる美の根源はイノチのふるえ、生命共振にあるのだ。
人間の自己や自我は諸々の境界に囚われているが、
イノチは国籍や人種、宗教、文化を超えて共振している。
生命が感じるクオリアは自他や生死の境をも超えて共振しているのだ。

これは無数の障壁に満ちた世界を変えていく
ほんの小さな小さなはじまりにすぎない。
これからわたしは、まだまだ未挑戦のさまざまな障害を持った人々との
共同を深めていきたいと思う。
ヨーロッパの友人たちは、盲目の人々との共振や、
さまざまなトラウマに苦しむ人々との共働を計画してくれている。
未知の挑戦になるが、さいわいこれまでの経験を総合すれば、
どんな不都合が起ころうと、それを創造に転化することができる。
創造の世界ではマイナスはマイナスではなく、
創造の資源が埋蔵されている宝庫であることを知っているからだ。
プラスはマイナス、マイナスはプラス。
明るいは暗い、暗いは明るい。
それが舞踏マジックである。

新しい生き方を求める人来たれ、ヒマラヤへ!



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サマーワークショップガイド 2016
in Italy, Spain, Hungary, Poland


 
この夏のヨーロッパ。ワークショップツアーの日程が
次のように定まりました。近くにおいでの節はお立ち寄りください。

イタリア: 6月下旬
at Piedinterra (Pavia, Italy)
organized by Chiara

ハンガリー
: 6月4日ー18日
壁を超える共振リゾームワークショップ
organized by Andrea, Judit and Tamas


スペイン: 6月24日-8月7日
at El Cielo de la Vera, near Madrid
organized by Jonathan
(こレに続いて 第1回イベリア舞踏祭 in Madrid.)

ポーランド
: 8月下旬
organized by Kaska

詳細は近日中に追って掲示します。

 
 南インドの自然と文化と少数部族の人々
 
2015年12月27日

脳みそをインドの水でザブザブ洗おう!

南インドは各時代の人類の多様なありかたの生きた宝庫だ。

今年のインドツアーは、南インドの各地を歴訪する。
その中心となるバンガローやタンクールのあるカルナタカは
いまから15年前に何度も旅してジャングルや山岳地帯の
少数民の部落を訪れた。
アーリア人やドラビダ族がインドに来るはるか前の
10万年前にはじめてアフリカからインドに移住した人々の子孫が
今も同じ暮らしを保持して森の奥深く棲んでいる。
アフリカのピグミー族に似た真っ黒い顔、縮れ毛、短身の人々だ。
森の自然と共に生きる彼らアニミズムの人々から多くのことを学んだ。
「自然が俺たちの神様だ」と彼らの一人は言った。
おそらく今の生命共振という考え方は彼らから受け継いだものだ。
その後、メソポタミアから来たドラビダ族の子孫や
アーリア人が平地のヒンドゥの主流を占めているが、
彼らとは混じらぬ山岳民は驚くほど多彩な時代の文化を保存している。
石器時代以来の森の智慧を保つ少数部族民。
紀元前の原始仏教やその前のジーナ教の石窟や地下寺院も多い。
東南アジア源流の原始的な稲作の文化は驚くほど日本と似ている。
アレキサンダー大王の遠征の落とし子であるギリシャ人の子孫や、
ポルトガル人がアフリカから連れてきた奴隷の子孫も
彼らの文化を守って生きている。
南インドは石器時代から歴史時代を通じて、さまざまな時代の
人間のあり方を今も保存している人類史の生きた宝庫である。

現代の急速に発展しつつある高度情報化時代の生き方を、
過去や未来からの目によって相対化する眼差しを身につけるには
うってつけの場所だ。
わたしは15年前にインドのジャングルで生まれ変わった。
わたしたちはちっぽけな自分だけを大事にする自我や、
洪水のように押し寄せる情報にがんじがらめにされている。
南インドのジャングルは、現代的な思考を止め、意識を鎮め、
ごくごくかすかなイノチのふるえに耳を澄ます
サブボディ生命共振技法の隠れた源流のひとつなのだ。
(ああ、行きたいなあ・・・。)



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2015年12月20日

すべては生命共振からはじまる

何か、とんでもない変化が世界に起こっている。
人類史はじめて登場した世界を結ぶインターネットという
情報網の怪物が誰も予測できない速度で増殖し、
わたしたちの生活を変えつつある。
その行方はまだ誰も知らない。

今から15年前に舞踏ビデオをインターネットにアップロードし始めた頃
は、視聴数は毎日数人か数十人レベルだった。
だが、最近になって視聴数が爆発的に伸び始め、
いまでは毎日、世界中の数千人が共振塾ビデオを楽しんでいる。
そこに自由な生命共振という斬新な美があることを
世界中の人々が発見したからだ。
総視聴数はとうとう百万を突破した。
予約視聴者も1,200人に増加した。
マイナーな芸術だった舞踏ビデオを、
楽しみにする人々が世界中に増えてきたのだ。

この変化はいったい何を意味するのだろう。
今日たまたまfacebookで、ブラジルのグスタボ・田中氏の
「特別な何かが世界で起こっている。
ほとんどの人は気づいていないが」

という同じ問いに関する記事に触れた。
彼の視野は経済・政治・文化・精神・生き方にわたる広いものだが、
そのなかで、次の箇所に深く共振した。
「世界中の人々の精神や生き方が変わりつつある。
たとえば、ヨガや瞑想は、かつては変人奇人や難解なことを
志向するごく少数の人のものだった。
だが、ヨ ガや瞑想をする人々が増加し、ひとびとが現代社会の
<自分のための自分>という狂ったアイデンティティを脱いで、
世界の生命とともに共存在していることに気づきつつある。」


舞踏もまたかつては変人奇人、難解趣味の少数者の芸術だった。
それが急激に百万視聴者というレベルに変化した。
全世界の人口70億人という数字に比べれば、百万などまだまだその
0.01%に過ぎない。
だが、インターネットの普及は急速度に進んでいる。
ヒマラヤの山村ダラムサラの子どもたちも多くが
モバイルを手にするようになった。
世界中のひとびとが、国家や宗教、文化の境界を超えて、
最先端のアートに触れることができるようになる日は近い。
このなかで、舞踏はこれまでの特異な少数者の芸術から、
世界に広く生命共振を開く、新しい地平へ脱皮しなければならない。

共振塾の踊りも今年、自我や自己に囚われていたこれまでの
狭い視野を超えて、自我や自己をひとつのイノチに変成して共創する
<共振リゾーム>へと脱皮した。
それが世界中の視聴者のイノチの共振を呼び起こした。
わたしたちはこれを機に、なじみにくく、説明もしにくい
「サブボディ=コーボディ」という名称を押し出すことを控え
もっとシンプルに<共振舞踏>へと名を変えようと思う。

すべてはかすかなかすかな生命共振から始まる。
もっと深く普遍的な生命共振の美を共創する地平へ躍りこんでいこう。
21世紀を、これまでの狭い境界から解き放たれる
生命共振の世紀とするために。



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 Video: Sergio, Interview: Jonathan
2015年10月14日

共振リゾームとはなにか?

今世紀で一番重要な問題はね、
だれがどうして世界を変える方法を発明するかってことなんだ。
<共振リゾーム>はそのための仮説の一つにほかならない。
この夏スペインの山中で開いたはじめての
<共振リゾームワークショップ>の最終日、
主催のジョナサンのインタビューに答えて水辺で少し語った。
良い音で録音してくれている。


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 2015年9月13日

<ツリーリゾーム>論理の完成へ


(前項よりつづく)

方向も座標もないからだの闇を手探りで掘りつづけて、
やっと<共振リゾーム>という新しい道が開かれるところまで来た。
40代で舞踏家として踊り始める前も、ずいぶん若い頃からわたしは
からだの闇の底知れぬ謎と秘密に向き合い、掘り続けていたのだと
いうことを知った。
<共振リゾーム>と<生命の舞踏>は、
いよいよそれらすべての生きるためのあがきを統合することのできる
道だ。
とりわけ、性の闇、関係の闇、世界という闇のすべてと格闘すること
のできる道だ。
十数年、産婆という役割のなかで眠っていたわたしのサブボディも、
<共振リゾーム>のなかで蠢き始めた。
これまで決して踊ろうとしなかったわたしの中の
幼いことに母をなくすことによって、幼児的な性欲に囚われてきた
わたしの中の<りゅうり>と呼ぶ第二人格も、
ようやくその問題を踊りの創造の中に昇華しようという
動きに目覚めてきた。
おそらく、<共振リゾーム>が、善悪・正誤・良否の二元判断から
解放されたいのちの踊りを可能にするものであることが
<りゅうり>につたわり、その生命共振の闇を動かしたのだろう。
とりわけ、ハンガリーで各種の障害を持つ人々と踊るなかで、
こころの障害にとらわれてきた<りゅうり>も、
(ぼくも踊っていいのかな)と動かされたのかもしれない。
<共振リゾーム>のもつ大きな可能性が、
わたしのからだの闇でも確認されることとなった。
これは長年探し求めていた道なのだ。

「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。」

古代中国の儒者もまた、彼らなりの道を探っていた。
それはしかし、ツリー状の国家を中心とした階層秩序の世界をつ
くる道だった。
<孝>や祖先崇拝など、儒家の倫理はツリー秩序を強化しようと
するものだった。
わたしは逆だ。
ツリーを解体し、国家をはじめとするあらゆる階層秩序が死滅する
リゾーム状の生命共振世界を実現する道だ。
それが<共振リゾーム>と<生命の舞踏>の道であることは
前項で述べた。

だが、ツリーとリゾームを単なる対立と捉えているだけではどこ
へもいけない。
ツリー状の思考とリゾーム的な生命共振を大統合する
<ツリーリゾーム>の方法が完成されなければならない。
調体七番のリゾーミング技法が、トップ―ボトム、センター―エ
ッジという二元論的なツリー思考を借りることから始めざるを得
なかったように、
ツリーとリゾームを自在に行き来し、相互に翻訳可能な自在性
を身につけるが必要だ。
それなくして、どうしてこのツリーとリゾームが混在する世界と
関わることができるだろう。
だが、それはわたしがぶつかった謎と秘密の中でももっとも
難度が深い闇だ。
ここ何十年もその闇の前で苦い足踏みを繰り返してきた。
二元的な言語思考と、リゾーム的なクオリア共振を自在に
行き来する<ツリーリゾーム>の完成には、なお長い時間
がかかるだろう。
あと数年のわたしの生涯では、とうてい足りない。
世界の中の誰かが、このいのちのリレーを引き継いでくれることを願う。



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2015年8月3日

共振リゾームの輝き



共振リゾームを踊るいのちには、人類が5000年間束縛されてき
たツリーシステムの束縛から解放された深い喜びと美しさがにじみ
出る。
自我や国家や宗教や企業などの階層秩序がどれほどいのちの共
振性と固有性と創造性を阻害し続けてきたか。そしてその束縛を断
ったいのちがいかに歓びに満ちて輝いているか。
スペインのヒマラヤ山中での試みをとくと味わっていただきたい。
共振リゾームは、ごく簡単なゆらぎやふるえ調体によって日常の思
考と判断を止め、内に50、外に50%開いた透明な下意識モードの
からだになることによって実現される。
ただ、いのちが本源的にもつ共振性を開くだけだ。
ほかのひとのふるえや動きと同じしかたで共振したり、
違ったしかたで共振するだけでめくるめくような多様な世界が開か
れる。
スペインのワークショップ参加者たちの自由な輝きを見ても
あなたはまだツリーに束縛された今の生き方を続けたいと思いま
すか?
限られた短いいのちです。最高の生き方以外をしていてはもった
いなさすぎる。わたしのいのちももうあとわずか、出会える機会も残
り少なくなってきました。
いのちに耳を澄ましてください。
「いちばんしたいことは何かい?」
「どこでどうしていきたいかい?」
どの瞬間もいのちの内奥の声に従うことです。

未来の人間への道

共振リゾームは、単に踊りのあり方にとどまりません。
それは現代の階層秩序に管理されたツリーの束縛からいのちを
解放し、未来の人間の共振性と創造性に満ちた<共振リゾーム>
という生き方への転換につながります。
リゾームには中心も上下もなく、いつどこでも共振によって連結し、
分離自在な未来の生き方です。
共振リゾームを体験する中で、はじめてツリー権力と排他的自我の
長い歴史の中で封印されてきたいのちの共振性と固有性にみちた
創造性が全面開花します。
あなただけのいのちの花を咲かせませんか?

エゴを克服する道

共振リゾームによって、自我(エゴ)を実践的に克服する道が開か
れました。
長い歴史の中で、自我と国家や宗教などのツリー的な共同幻想
は相補的に支えあってきました。どちらも自他対立の二元論理に
貫かれています。わたしたちはその長い結ぼれの中で生きてきま
した。
現代の高度に成熟した情報化社会の中では、既成の政治はみな
無効化されています。
だが、情報システムはいのちの共振は管理することができない。
生命共振によってのみ世界は深部から変わっていく。
これは一見遠回りに見えるけれども、
もっとも確実な世界を変える道なのです。
自我を鎮め、懸命に共振リゾームになろうとすることによって、
現代最大の元型であるエゴからも、
共同幻想からも同時に解放されていく実践的な未来への道が
開かれます。
あなたもその道に踏み出しませんか?



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 共振リゾーム ワークショップ 透明になる リゾーム・リー
2015年7月13日

共振リゾームへ


今年の第10回ヒマラヤ舞踏祭で、はじめてわたしは
産婆に徹してきたこの十年の自制を破って踊り、かつ
一般聴衆への「共振リゾーム」ワークショップも行った。
それを通じてこれからの自分の突き進みたい方向が
くっきりと見えてきた。
それはこれまでのわたしの歩みのすべてが結晶したものだ。
それをとりあえず
<共振リゾーム>と呼ぶことにした。
そこにはいくつかの重要な要素が重合している。

透明になること

ひとつは<透明になる>ということだ。
人前で踊ろうとすると、わたしも含めて誰もが<自己>にとらわれる。
踊りはからだを使った自己表現だという近代西洋の観点を鵜呑みにし
ている現代の多くの踊りがそうであるばかりではなく、
意識を鎮めて下意識モードになって踊るサブボディ舞踏においてもそ
れは免れない。
それどころか、乳児期や幼児期にうまくこの社会で発現することを阻害
されてからだの闇奥深く潜んだサブボディたちは、かならず未熟な小さ
な自我を秘め持っている。かれらはこの社会との上手な共振の仕方を
知らないため、ときに暴発的に出てくることもある。
だが、その強い衝動に支配されてしまうと、その抑えられていた自我の
暴発の勢いだけにとらわれて雑な踊りになってしまう。
透明であるとは、内側のさまざまな衝動にも、外側からの多様な圧
力や影響にも、何ものにも囚われないことである。
そのために絶えず内に50パーセント、外に50パーセント耳を澄ま
すという絶妙のバランスを保つことが必要である。

それによってはじめて、なにものにもとらわれない透明な舞踏が可能
になる。

自己と世界の共振を踊る

内と外に半々に開く、あるいは言葉を変えて
自己と世界に半々に開く透明体になるという課題は、
この20年探求し続けてきたが生半可な容易さではない。
だが、ようやく近年になってその道筋が見えてきた。
それは自己と世界を半々に踊るということである。
自己の側から50パーセント踊り、
世界の側になりこんで50パーセント踊る。
それをたったひとりで追求するのは非常に難しいが、
個と群の区別を超えて絶えず変容する<共振リゾーム>におい
ては
ときに世界に脅かされる自己として踊り、
ときに自己を脅かす世界そのものになりこんで踊る両方の立場が
絶え間なく入れ替わり、固定した区別がなくなる。

そう、自己と世界という二元的な対立を超えて、
自己と世界が絶えず多彩な仕方で共振しながら変容している
生命共振の実体に限りなく近づくことができる。

変容する世界を共創する

自他を超えて変容する<共振リゾーム>によって、
これまでの<自己>の立場からのみ踊る舞踏の変容枠を超えて、
世界の森羅万象に変幻する生命の舞踏への道が開かれる。
それは
土方巽の『静かな家』や『病める舞姫』における
不可視の隠れた主人公である<背後世界>や
<空気中の見えない大きな生きもの>、そして
それらの象徴である<赤い神さま>そのものにもなりこんで舞踏する。
近代最大の元型として深い無意識域からわたしたちが囚われている
<自我>を脱ぐ<脱自>の境域へ踊り出る。
それは、わたしの哲学上の師
ジル・ドゥルーズが50年前に予言し、
奇しくも舞踏の師である
土方巽も同時期に志向した
「もはや自分であるとか、ないとかがたいした問題ではなくなる」
<生命の呼称で呼ばれうる舞踏>の地平である。


今年以降のわたしは、もう余計なことはしない。
わたしと一つ違いの、尊敬する舞踏家
室伏鴻さんが急死したように、
わたしもうあとどれだけの時間が残っているのか知れない。
いのちにとって、もっともやりたいことだけを
やりたいやり方でやり続ける。
それが<共振リゾーム>の展開である。
室伏兄も、ドゥルーズを深く愛し、
劇場で突っ立つ死体として踊るばかりではなく、
近年、南米の生徒とともに路上で見事な共振リゾームを展開した。
ツリー状の階層秩序に囚われきった現代の世界は、
もはや既存の政治的な行動によっては変革不可能である。
あらゆる情報が巧妙精緻にコントロールするシステムが完成し
てしまったからである。
ひとびとが「人間」を脱ぎ、生命として共振するリゾームになること。
これだけが世界を変えるために、
今わたしたちにできるたったひとつの道である。

いのちが共振するクオリアは、情報システムにも手が出せない。

今年夏のヨーロッパでのワークショップと
共振塾ヒマラヤの後期はその新しい探求の場となるだろう。
これがわたしの最後の活動になる。
同行衆の参加を切に待っています。



非二元多次元共振というイノチのリアリティ