2015

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からだの闇を掘る
2015年9月13日

心身の可動域を拡げる



週末、共振塾後期の第二週を前にして、
第一週の塾生の動きになりこんで、
何が求められているかに耳を澄ます。
これが毎日曜日の産婆としてのわたしの日課だ。

人間の現代の日常生活からやってきた新しい塾生の心身は
まだまだ日常生活の可動域に閉じ込められている。
新入生のうち、何人かは舞踏の経験もあるが、
舞踏に接するのがはじめてという塾生もいる。

何が求められているかというと、
からだの可動域と、心の可動域をサブボディ域に、
そしてさらに、生命共振の可動域にまで拡張することだ。
第二週はそれに焦点を当てよう。

日常体のからだの特徴は、
からだが現代の人間社会に求められる域に閉じ込められていることだ。
体幹を固定し、股関節と肩関節、指関節という<人間>の幻想に制約されている。

調体五番 秘関・秘筋を開く

まず第一は、その人間幻想を脱ぎ、忘れられている動物としての仙腸関節、胸鎖関節、手足の秘骨関節を開くことだ。

調体七番・序 リゾーム ウエーブ

第二は、立位のからだで下部から動くボトムウエーブ、頭から動くトップウエーブを身につけることだ。
足、足首、膝、股関節、仙腸関節、体幹の背骨を下部から首まで順に波打つように動かすのが、ボトムウエーブ、その逆に頭から順に波打つのがトップウエーブだ。
ボトムウエーブは、植物的な動き、トップウエーブは動物的な動きの基礎になる。

第三は、からだの中心やその逆の先端から動くセンターウエーブ、エッジウエーブの動きを習得することだ。
下肢(脚)の場合は、仙腸関節から、股関節、膝、足首、足の秘関節、第三、第二、第一の趾関節という順に波打つように動くセンターウエーブ、その逆に四肢の先端から蛇のように動くエッジウエーブの習得だ。
上肢(腕)も同じく、胸鎖関節、肩、肘、手首、指の秘関節、第三、第二、第一という順に動く、センターウエーブ、その逆のエッジウエーブを体得する。

調体七番・破 リゾーミング変容・密度を運ぶ

第四は、<密度を運ぶ>リゾーム変容術(=リゾーミング技法)の体得だ。
これは、まず上記のボトムウエーブ、トップウエーブ、センターウエーブ、エッジウエーブと同様の順に、
からだの密度を運んで、固体、流体、気体へ変容するボトムリゾーム、トップリゾーム、センターリゾーム、エッジリゾームを繰り返し練習する。
それが済めば、からだの任意の部分から変容するランダムリゾーム・背後世界の変化に共振するワールドリゾーム、時間の流れを変容するタイムリゾームへ進む。

<密度を運ぶ>とは土方巽の用語で、固体、流体、気体へとからだの密度を変えることによって、
石や木などの固体、動植物、原生生物、水や油の流体、雲や煙の気体へと変容する技法だ。
それは人間の動きだけではなく、宇宙の万物に変容するための必須の身体技法だ。

今期の第一週目は、ボトムウエーブとボトムリゾーム、トップウエーブとトップリゾームを練習した。
第二週目はセンターウエーブ、センターリゾーム、エッジウエーブとエッジリゾームを繰り返し練習することになる。

第五は、からだのどこからでも動き始め、変容し始めることができる上記の練習を基礎に、
自他の区別を超えて、どの部位も、他の部位と自在に連結し、
また分離することのできる<共振リゾーム>への変成だ。
リゾームとはツリー状の自他区別と階層構造の幻想を断ち切り、
からだのどこからでも動き始め、変容し始めることのできる柔軟な変容性と、
からだのどことどこが共振連結し、また自在に分離することのできる共振性をあわせ持つ
新しい人間のイメージだ。

これらは、調体七番の<リゾーミング調体>としてまとめられる。
リゾーミング技法は、かれこれ二十年以上も探求してきた技法だが、
<共振リゾーム>展開の中で、もっとも中心的な変容技法に位置づけられるようにまでなってきた。

それは、上記一番から三番への物理的なからだの可動域を拡張する調体が、
同時にこころの可動域を日常の人間的な制約から解き放ち、
下意識のからだ(サブボディ)の可動域である記憶や夢や元型的な妄想にまで広げ、
さらには、祖型的ないのちのふるえやおびえ、縮みとゆるみなどの生命共振域にまで拡張することだ。
下意識・無意識界では、日常域のからだとこころの分裂は消え、
自他の区分も消滅して非二元かつ多次元な共振変容が起こる。
その世界へまっすぐに降りていく坑道が、<共振リゾーム>であり、
それはまた、<生命の舞踏>の共創を開く道なのだ。

(事項・「ツリーリゾーム」に続く)



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 2015年9月13日

<ツリーリゾーム>論理の完成へ


(前項よりつづく)

方向も座標もないからだの闇を手探りで掘りつづけて、
やっと<共振リゾーム>という新しい道が開かれるところまで来た。
40代で舞踏家として踊り始める前も、ずいぶん若い頃からわたしは
からだの闇の底知れぬ謎と秘密に向き合い、掘り続けていたのだということを知った。
<共振リゾーム>と<生命の舞踏>は、
いよいよそれらすべての生きるためのあがきを統合することのできる道だ。
とりわけ、性の闇、関係の闇、世界という闇のすべてと格闘することのできる道だ。
十数年、産婆という役割のなかで眠っていたわたしのサブボディも、
<共振リゾーム>のなかで蠢き始めた。
これまで決して踊ろうとしなかったわたしの中の
幼いことに母をなくすことによって、幼児的な性欲に囚われてきた
わたしの中の<りゅうり>と呼ぶ第二人格も、
ようやくその問題を踊りの創造の中に昇華しようという
動きに目覚めてきた。
おそらく、<共振リゾーム>が、善悪・正誤・良否の二元判断から解放されたいのちの踊りを可能にするものであることが
<りゅうり>につたわり、その生命共振の闇を動かしたのだろう。
とりわけ、ハンガリーで各種の障害を持つ人々と踊るなかで、
こころの障害にとらわれてきた<りゅうり>も、
(ぼくも踊っていいのかな)と動かされたのかもしれない。
<共振リゾーム>のもつ大きな可能性が、
わたしのからだの闇でも確認されることとなった。
これは長年探し求めていた道なのだ。

「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。」

古代中国の儒者もまた、彼らなりの道を探っていた。
それはしかし、ツリー状の国家を中心とした階層秩序の世界をつくる道だった。
<孝>や祖先崇拝など、儒家の倫理はツリー秩序を強化しようとするものだった。
わたしは逆だ。
ツリーを解体し、国家をはじめとするあらゆる階層秩序が死滅する
リゾーム状の生命共振世界を実現する道だ。
それが<共振リゾーム>と<生命の舞踏>の道であることは
前項で述べた。

だが、ツリーとリゾームを単なる対立と捉えているだけではどこへもいけない。
ツリー状の思考とリゾーム的な生命共振を大統合する
<ツリーリゾーム>の方法が完成されなければならない。
調体七番のリゾーミング技法が、トップ―ボトム、センター―エッジという
二元論的なツリー思考を借りることから始めざるを得なかったように、
ツリーとリゾームを自在に行き来し、相互に翻訳可能な自在性を身につけるが必要だ。
それなくして、どうしてこのツリーとリゾームが混在する世界と関わることができるだろう。
だが、それはわたしがぶつかった謎と秘密の中でももっとも難度が深い闇だ。
ここ何十年もその闇の前で苦い足踏みを繰り返してきた。
二元的な言語思考と、リゾーム的なクオリア共振を自在に行き来する
<ツリーリゾーム>の完成には、なお長い時間がかかるだろう。
あと数年のわたしの生涯では、とうてい足りない。
世界の中の誰かが、このいのちのリレーを引き継いでくれることを願う。



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2015年8月3日

共振リゾームの輝き



共振リゾームを踊るいのちには、人類が5000年間束縛されてきたツリーシステムの束縛から解放された深い喜びと美しさがにじみ出る。
自我や国家や宗教や企業などの階層秩序がどれほどいのちの共振性と固有性と創造性を阻害し続けてきたか。そしてその束縛を断ったいのちがいかに歓びに満ちて輝いているか。
スペインのヒマラヤ山中での試みをとくと味わっていただきたい。
共振リゾームは、ごく簡単なゆらぎやふるえ調体によって日常の思考と判断を止め、内に50、外に50%開いた透明な下意識モードの
からだになることによって実現される。
ただ、いのちが本源的にもつ共振性を開くだけだ。
ほかのひとのふるえや動きと同じしかたで共振したり、
違ったしかたで共振するだけでめくるめくような多様な世界が開かれる。
スペインのワークショップ参加者たちの自由な輝きを見ても
あなたはまだツリーに束縛された今の生き方を続けたいと思いますか?
限られた短いいのちです。最高の生き方以外をしていてはもったいなさすぎる。わたしのいのちももうあとわずか、出会える機会も残り少なくなってきました。
いのちに耳を澄ましてください。
「いちばんしたいことは何かい?」
「どこでどうしていきたいかい?」
どの瞬間もいのちの内奥の声に従うことです。

未来の人間への道

共振リゾームは、単に踊りのあり方にとどまりません。
それは現代の階層秩序に管理されたツリーの束縛からいのちを解放し、未来の人間の共振性と創造性に満ちた<共振リゾーム>という生き方への転換につながります。
リゾームには中心も上下もなく、いつどこでも共振によって連結し、分離自在な未来の生き方です。
共振リゾームを体験する中で、はじめてツリー権力と排他的自我の長い歴史の中で封印されてきたいのちの共振性と固有性にみちた創造性が全面開花します。
あなただけのいのちの花を咲かせませんか?

エゴを克服する道

共振リゾームによって、自我(エゴ)を実践的に克服する道が開かれました。
長い歴史の中で、自我と国家や宗教などのツリー的な共同幻想は相補的に支えあってきました。どちらも自他対立の二元論理に貫かれています。わたしたちはその長い結ぼれの中で生きてきました。
現代の高度に成熟した情報化社会の中では、既成の政治はみな無効化されています。
だが、情報システムはいのちの共振は管理することができない。
生命共振によってのみ世界は深部から変わっていく。
これは一見遠回りに見えるけれども、
もっとも確実な世界を変える道なのです。
自我を鎮め、懸命に共振リゾームになろうとすることによって、
現代最大の元型であるエゴからも、
共同幻想からも同時に解放されていく実践的な未来への道が開かれます。
あなたもその道に踏み出しませんか?



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 共振リゾーム ワークショップ 透明になる リゾーム・リー
2015年7月13日

共振リゾームへ


今年の第10回ヒマラヤ舞踏祭で、はじめてわたしは
産婆に徹してきたこの十年の自制を破って踊り、かつ
一般聴衆への「共振リゾーム」ワークショップも行った。
それを通じてこれからの自分の突き進みたい方向が
くっきりと見えてきた。
それはこれまでのわたしの歩みのすべてが結晶したものだ。
それをとりあえず
<共振リゾーム>と呼ぶことにした。
そこにはいくつかの重要な要素が重合している。

透明になること

ひとつは<透明になる>ということだ。
人前で踊ろうとすると、わたしも含めて誰もが<自己>にとらわれる。
踊りはからだを使った自己表現だという近代西洋の観点を鵜呑みにしている現代の多くの踊りがそうであるばかりではなく、
意識を鎮めて下意識モードになって踊るサブボディ舞踏においてもそれは免れない。
それどころか、乳児期や幼児期にうまくこの社会で発現することを阻害されてからだの闇奥深く潜んだサブボディたちは、かならず未熟な小さな自我を秘め持っている。かれらはこの社会との上手な共振の仕方を知らないため、ときに暴発的に出てくることもある。
だが、その強い衝動に支配されてしまうと、その抑えられていた自我の暴発の勢いだけにとらわれて雑な踊りになってしまう。
透明であるとは、内側のさまざまな衝動にも、外側からの多様な圧力や影響にも、何ものにも囚われないことである。
そのために絶えず内に50パーセント、外に50パーセント耳を澄ますという絶妙のバランスを保つことが必要である。

それによってはじめて、なにものにもとらわれない透明な舞踏が可能になる。

自己と世界の共振を踊る

内と外に半々に開く、あるいは言葉を変えて
自己と世界に半々に開く透明体になるという課題は、
この20年探求し続けてきたが生半可な容易さではない。
だが、ようやく近年になってその道筋が見えてきた。
それは自己と世界を半々に踊るということである。
自己の側から50パーセント踊り、
世界の側になりこんで50パーセント踊る。
それをたったひとりで追求するのは非常に難しいが、
個と群の区別を超えて絶えず変容する<共振リゾーム>においては
ときに世界に脅かされる自己として踊り、
ときに自己を脅かす世界そのものになりこんで踊る両方の立場が
絶え間なく入れ替わり、固定した区別がなくなる。

そう、自己と世界という二元的な対立を超えて、
自己と世界が絶えず多彩な仕方で共振しながら変容している
生命共振の実体に限りなく近づくことができる。

変容する世界を共創する

自他を超えて変容する<共振リゾーム>によって、
これまでの<自己>の立場からのみ踊る舞踏の変容枠を超えて、
世界の森羅万象に変幻する生命の舞踏への道が開かれる。
それは
土方巽の『静かな家』や『病める舞姫』における
不可視の隠れた主人公である<背後世界>や
<空気中の見えない大きな生きもの>、そして
それらの象徴である<赤い神さま>そのものにもなりこんで舞踏する。
近代最大の元型として深い無意識域からわたしたちが囚われている
<自我>を脱ぐ<脱自>の境域へ踊り出る。
それは、わたしの哲学上の師
ジル・ドゥルーズが50年前に予言し、
奇しくも舞踏の師である
土方巽も同時期に志向した
「もはや自分であるとか、ないとかがたいした問題ではなくなる」
<生命の呼称で呼ばれうる舞踏>の地平である。


今年以降のわたしは、もう余計なことはしない。
わたしと一つ違いの、尊敬する舞踏家
室伏鴻さんが急死したように、
わたしもうあとどれだけの時間が残っているのか知れない。
いのちにとって、もっともやりたいことだけを
やりたいやり方でやり続ける。
それが<共振リゾーム>の展開である。
室伏兄も、ドゥルーズを深く愛し、
劇場で突っ立つ死体として踊るばかりではなく、
近年、南米の生徒とともに路上で見事な共振リゾームを展開した。
ツリー状の階層秩序に囚われきった現代の世界は、
もはや既存の政治的な行動によっては変革不可能である。
あらゆる情報が巧妙精緻にコントロールするシステムが完成してしまったからである。
ひとびとが「人間」を脱ぎ、生命として共振するリゾームになること。
これだけが世界を変えるために、
今わたしたちにできるたったひとつの道である。

いのちが共振するクオリアは、情報システムにも手が出せない。

今年夏のヨーロッパでのワークショップと
共振塾ヒマラヤの後期はその新しい探求の場となるだろう。
これがわたしの最後の活動になる。
同行衆の参加を切に待っています。




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June 30, 2015

サンチャゴからの手紙

サンチャゴから、直ぐに返事が届いた。
いつもの彼らしい洒脱に満ちたものだった。
ともあれ、これで3ヶ月間続いた生者のリストと死者のリストの間の
奇妙な混交にケリが付いた。
一件落着だ。
だが、わたしのからだの中ではまだ奇妙なものが渦巻いている。
死者とは何か、生者とは何か。
その差異は紙切れ一枚より薄いのではないか。
とくに、先日尊敬する舞踏家・室伏鴻さんが急死した。
彼とはたった一つ違いだ。
わたしもまたいつ死んでもおかしくない死の淵に立っている。
もうあと少しの生だ。
本当にやりたいことだけをやりたいやり方でやっていこう。


"Oh very funny! i like that story without the thinking you were maybe disapointed or sad for my death!
Another close friend of me had a similar story in 2000th another wrong message from another person.
who is that person who wants me to be dead, traveling around the world with such a strange purpose? an enemy or an angel ?
anyway if this an occasion for you to create a new dance i am really happy.
It makes me laugh my dear lee!
I am dancing still and giving yoga classes. my body and mind work rather good. Rolf became a yoga teacher too and we are living in the same place together with love.
very often i remember you as one of the best persons and true dancers i met in my life authentic human being even if you seem like a strange wild animal from the pre-historical age! I love your beauty like this , sincerely!
pictures you sent to me are very strong AND FULL OF ENERGY.
MY DANCE HAS CHANGE, MORE CALM, BUT I FEEL VERY VERY HAPPY WHEN DANCING AND PEOPLE LIKES IT THEY SAY. ...SO WHY STOP IT ?
So i don't have the project to die. i do meditation for my students and it's changing me inside but..... outside.... i am the same, even worse: loving life and people, nature, music and dance and men asses of course.
i am 60, long hair became white. feel very often happy, sometimes bowred before i have to take the metro---little lazy- but when i start is very very nice.
And you, my friend?
i have the intention to go to india for someday but i don't know when , in a year maybe? i´ll go to visit you of course.
So i am very glad you are alive also . I wasn´t completely sure either, because no one knows!
my friend a big abrazo ----ha ha ha ha!"


20年前に起こったサンチャゴとわたしとの
もっとも深い共振は、「透明さ」をめぐるものだった。
興味がある方は下記を参照ください。


「透明論」を読む

ビデオ(英語)を見る 透明体になる 

サンチャゴのサイトを見る: ここをクリック
http://santiagosempere.com/




 
 山崎、サンチャゴ、生き返れ! リゾーム リー
2015年6月29日

サンチャゴは生きていた!

スペイン人のダンサー・振付家のサンチャゴ・センペレは、
わたしがもっとも深い影響を受けた踊り手である。
20年前わたしたちは京都の私の家やパリの彼の家で共に住み、
踊り、語り、多くの踊りを共創した。
とりわけ、わたしの核ともいうべき<透明さ>への思いは彼から大きな影響を受けている。
それについてはこのサイトのもっとも古い文書「透明さについて (2005)」に書いたとおりだ。透明論という長い時間をかけてまだ書き上げていない探求もある。
最近わたしは生徒へのビデオレクチャーで、透明さについての最近の思いをまとめた。
Become Transparency 透明体になる

ところが、5年前にサンチャゴのダンスカンパニーで踊っていたというフランス人のダンサーが共振塾を訪れ、
「サンチャゴはエイズで死んだ」とわたしに告げた。
わたしは驚きすぐ彼のサイトを開いたが、
そこは荒れ果て、もう長い間見捨てられているように見えた。
それでわたしは悲しみとともに彼の死を受け入れた。
共振塾で彼について語るときも、死んだサンチャゴと紹介してきた。
ところが、この3月、サンチャゴと名乗る人からメールを受け取った。
「ハロー、リーさん、わたしは元気だ。きみも元気かい?」という短いものだった。
だが、彼の死を信じていたわたしにとって、だれかの悪い冗談だと思えた。
いったい誰だ?!と憤怒とともに彼のサイトをもう一度開いた。
すると今回はサイトは修復されていて、白髪になったサンチャゴの近影も掲げられていた。
わたしはたまげた。
するといったい彼の死を信じ、死者山崎博昭とともにサンチャゴを踊ってきたこの5年間は何だったのか?
生者のリストから死者のリストへ友人の名を移すことは、これまでにも何度もしてきた。
それはわたしたちの年代にとってごく日常的な作業だ。
だが、その逆、一度死者のリストに加えた友を、再度生者のリストに戻すことは実に大変なことだった。
うかつにやればわたしのからだの闇の死と生の均衡が崩れ去ってしまう畏れも感じた。
それが、3月に受け取った手紙の返事を書くのに一昨日までかかってしまった理由だ。
ともあれ、わたしは次のような手紙を書き、サンチャゴを踊った幾枚かの写真とともに彼に送ることができた。
なんと3ヶ月もかかったことになる。

Dear Santiago

Thank you very much for your mail.
I am so happy!

But, in fact, at first I was so surprized at knowing that you are alive. Because five years ago a French guy who was a dancer of your company visited my school in Himalaya and told me that you died by aids.
Immediately I visited your website. But your site was broken and seemed to be abandoned. Then I had to believe that you has gone.
I shifted your name from alive friend's list to dead list. as I have moved many names already.
But, the opposite process was completely unnatural thing. It took long time unexpectedly to accept your aliveness and move your name from the dead list to alive list.


Because, I have danced with my dead friends in 1967-70s for long years. When I find a rock, I hit it by stone as my friend's grave with shouting "Wake up! Revive! My friend!" and after that year, always your memorial shape of "Old Tree" came out from the rock, I entered into your shape and shout "Santiago! where are you now?!" So, you were
added into my dead friend's list.

For these years, I continued to dance the same piece in various place on the planet, Poland, Himalaya, Rajasthan, Kolkata, Greece, Italy, Switzerland, Netherlands, and so on. I have danced with dead Santiago so many times.

When I received your recent mail, I was afraid that someone doing a very bad joke, and after I confirmed your aliveness, I tried to shift your name from dead list to alive list, but it was so hard unexpectedly! Because as if I moved your name from dead to alive list, it seemed to influence all order between life and death in my darkness of body, it was so scared for me that I have never experienced.

It needed time for these several weeks to have done it. Now, I can accept you as alive Santiago. Hello!
Next time I will create a new dance about your reborn.

Anyway, this is the reason to be so late to reply you.
Understand and allow me. Now I can say congratulation from the bottom!

I attach some pics of recent dance with 'the dead Santiago' (Ha, ha, ha).

Hope to see you someday again!

Lee



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2015年5月31日

わたしの未踏

本当にやりたかったのに、まだやれていないこと。
踊ろうとすると、わたしの未踏が叫びを上げる。
そうか、そんなにまで「砂漠で迷路」をつきつめたかったのか。
はじめて知った。

1996年京都の薄暗い練習場で、
不意にサンチャゴが、ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』の中の
分裂病の少女の夢を読みはじめた。
わたしの大好きな一節だった。

「砂漠があるの。だからといってやっぱりそれは私が砂漠にいるという意味じゃないのね。それは砂漠のパノラマ的な眺めで、この砂漠は過酷なものでも無人のものでもなくて、ただその色彩、黄土色と、その熱くて影のない光のせいで砂漠なのね。その中に蠢く一つの群れ、蜜蜂の大群、入り乱れるフットボール選手かトゥレアレグ族の集団。私はこの群れの縁に、その周辺にいる――でも私はそれに所属している、わたしはそれに私の体の尖端で、片手か片足で結ばれているの。私には。この周辺が唯一可能な場所で、もしこの混乱の中心に引きずり込まれてしまったら死んでしまうこと、でも同じくらい確実に、この群れを手放してしまっても、死んでしまうことがわかっている。私の位置を保つのはやさしいことではなくて、立っていることさえとても難しいほどなの。なぜかっていうと、この生き物たちは絶えず動いていて、その運動は予測不可能で、どんなリズムも持っていないから。あるときは渦を巻くし、北の方へ向かうかと思うと突然東に向きを変えて、群れの中の個体のどれ一つとして他の連中に対して同じ位置にとどまったままでいない。だからわたしも同じように絶えず動き続けている――こういったことはみんなひどい緊張を強いるけれど、ほとんど目が眩むほどの強烈な幸福を私にもたらしてくれるの。」

「とびきりの分裂病者の夢だ。」
とD=Gは書く。
「群れのただ中にあり、しかも同時に完全に外に、はるか遠くにいること――つまり縁(ボーダー)に。ヴァージニア・ウルフ流の散歩だ。(「もう決して言うまい、私はこれこれの者であるなんて」)。
「フロイドにはよく見えていなかった。無意識それ自体がまずひとつの群れであることを。」
「器官なき充溢せる身体とは、多様体によって満たされた身体である。・・・つまりリゾームである。多様体の夢の本質的特性の一つは、各要素が絶えず変化し、他の諸要素に対する距離を変更するということである。蜜蜂の大群は、縞模様のシャツを着たフットボール選手の乱闘、あるいはトゥアレグ族の集団に変わる。あるいはまた――狼たちの一党は、周辺を疾走するモーグリーの力によってドゥルス族の一味に対抗し、蜜蜂の大群と合流する。」
「狼とは群れなのだ。狼になること、孔になること。動物になること、分子的になること、非人間的になること。飛ぶ肛門、高速の膣。」
「個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が、およそもっとも過酷な非人称化の鍛錬の果てに、自己を隅々まで貫く多様体に自己を開くときなのである。」


そうだ。これがわたしの未踏だ。このなかにサブボディとコーボディの非二元一如の謎が潜んでいる。そして未来の人間という希望が。
取り組みたかったのに、他のことに紛れて掘り進めることができなかった坑道の入り口にいまようやく再び出くわした。
いったいわたしはこの未踏の前で、何十年迂回と足踏みを繰り返してきたのだろう。今年も例年になく、いい出足だった。だが舞踏祭を前に、この坑道を掘るのはもう時間がない。
来期はいきなりここから始めよう。大事なことを後回しにしていてはいつも時間切れになっちまう。


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2015年5月31日

わたしの未踏

本当にやりたかったのに、まだやれていないこと。
踊ろうとすると、わたしの未踏が叫びを上げる。
そうか、そんなにまで「砂漠で迷路」をつきつめたかったのか。
はじめて知った。

1996年京都の薄暗い練習場で、
不意にサンチャゴが、ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』の中の
分裂病の少女の夢を読みはじめた。
わたしの大好きな一節だった。

「砂漠があるの。だからといってやっぱりそれは私が砂漠にいるという意味じゃないのね。それは砂漠のパノラマ的な眺めで、この砂漠は過酷なものでも無人のものでもなくて、ただその色彩、黄土色と、その熱くて影のない光のせいで砂漠なのね。その中に蠢く一つの群れ、蜜蜂の大群、入り乱れるフットボール選手かトゥレアレグ族の集団。私はこの群れの縁に、その周辺にいる――でも私はそれに所属している、わたしはそれに私の体の尖端で、片手か片足で結ばれているの。私には。この周辺が唯一可能な場所で、もしこの混乱の中心に引きずり込まれてしまったら死んでしまうこと、でも同じくらい確実に、この群れを手放してしまっても、死んでしまうことがわかっている。私の位置を保つのはやさしいことではなくて、立っていることさえとても難しいほどなの。なぜかっていうと、この生き物たちは絶えず動いていて、その運動は予測不可能で、どんなリズムも持っていないから。あるときは渦を巻くし、北の方へ向かうかと思うと突然東に向きを変えて、群れの中の個体のどれ一つとして他の連中に対して同じ位置にとどまったままでいない。だからわたしも同じように絶えず動き続けている――こういったことはみんなひどい緊張を強いるけれど、ほとんど目が眩むほどの強烈な幸福を私にもたらしてくれるの。」

「とびきりの分裂病者の夢だ。」
とD=Gは書く。
「群れのただ中にあり、しかも同時に完全に外に、はるか遠くにいること――つまり縁(ボーダー)に。ヴァージニア・ウルフ流の散歩だ。(「もう決して言うまい、私はこれこれの者であるなんて」)。
「フロイドにはよく見えていなかった。無意識それ自体がまずひとつの群れであることを。」
「器官なき充溢せる身体とは、多様体によって満たされた身体である。・・・つまりリゾームである。多様体の夢の本質的特性の一つは、各要素が絶えず変化し、他の諸要素に対する距離を変更するということである。蜜蜂の大群は、縞模様のシャツを着たフットボール選手の乱闘、あるいはトゥアレグ族の集団に変わる。あるいはまた――狼たちの一党は、周辺を疾走するモーグリーの力によってドゥルス族の一味に対抗し、蜜蜂の大群と合流する。」
「狼とは群れなのだ。狼になること、孔になること。動物になること、分子的になること、非人間的になること。飛ぶ肛門、高速の膣。」
「個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が、およそもっとも過酷な非人称化の鍛錬の果てに、自己を隅々まで貫く多様体に自己を開くときなのである。」


そうだ。これがわたしの未踏だ。このなかにサブボディとコーボディの非二元一如の謎が潜んでいる。そして未来の人間という希望が。
取り組みたかったのに、他のことに紛れて掘り進めることができなかった坑道の入り口にいまようやく再び出くわした。
いったいわたしはこの未踏の前で、何十年迂回と足踏みを繰り返してきたのだろう。今年も例年になく、いい出足だった。だが舞踏祭を前に、この坑道を掘るのはもう時間がない。
来期はいきなりここから始めよう。大事なことを後回しにしていてはいつも時間切れになっちまう。


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 自在跳梁
2015年5月26日

 世界チャンネルの<急>


踊りの序破急の<急>では、
おのずから世界チャンネルが開かれることによって、
クライマックスを迎える。

それまでの<序>や<破>では、個別チャンネルでの
できごとを微細に開畳していくが、<急>では一気に
複合チャンネルである世界チャンネルへ移行する。
だが、ただの世界ではない。
クオリアの世界チャンネルはあらゆる境界を超えて共振する
多次元かつ非二元世界だ。
土方巽の「静かな家」の最後の三章はそれをよく表している稀有な例だ。

 

25 (悪夢)

 

悪夢こそはこの裸体なのだ

 1、虫やらミショーの顔やら、少女と馬の顔やら、

  電髪の女やら、馬鹿の顔やら、ボッシュが描いた人物の顔やら、

  助けてくれと嘆願する手やら

 2、犬と花と影とトントントンと跳ねる虫

個々のからだの踊り場で、単一チャンネルのシンプルなクオリアを
ひとつひとつ丁寧に踊ってきたこれまでの章とは明らかにリズムが異なる。
あらゆるクオリアを短時間に一気に詰め込んで踊る<揉み寄せ>のリズムに転換している。
無数の顔が重層し瞬時に入れ替わるのは、
土方の言葉では<森の顔>だ。
森の顔は25節にみるような<揉み寄せの顔>である。

 

26 奇妙な展開のさなかで

 

 1、手のなかへの求心的な恋愛を頭蓋のなかにすっかり置き変える

 2、神経が棒になり、棒が乞喰になった。乞喰が旗を振っていた、

  それは大きな鳥であった。

 3、首が馬の首になってのびると、指のゴムものびた。

  その作業のさなかに、点の眼と視点が変えられた。

  Xによる還元と再生にさらされていたのだ。

  その時は、背後に爪がザックリとささり、ゆくえははぐれて育ち、

  新たな還元により、小さなマイムがそこに誕生していた。

 4、内部が外部へあふれ出し、あふれ出していったものが仮面の港へ  帰ってくる。仮面は森のなかへ船出をするのだ。

 5、額の風、額はとらわれている。手の葉、植物の軌跡を走り、私は、ついに棒杭の人となっていた。

 6、深淵図の中で、全ての事象の午前一時のなかで、柳田家の孔雀は完成される。

26節の4では、内と外の境界を超えてクオリアが流動変容する
自在跳梁が美しい詩のような一節に結晶している。
内と外だけではない。マクロ次元とミクロ次元の境界や、
あらゆる時空のタガがはずれ、混淆し融合する。
これが<自在跳梁>の特徴である。

 

27 皮膚への参加

 

 1、小さな頭蓋のなかの小さな花、それはそれは細い細い視線、

  神経は、頭の外側に棒を目撃した、

  その棒を額で撰り分けている視線。

 2、小さな顔で歩く盲はまるでサルのようだ。猿の頭に落雷。  

  頭の中に小さな花が咲く、糸つむぎの唄が聞え出す。

 3、引きのばされる老婆は一枚の紙になるだろう。

  老婆はその紙の上に蛾のように乗っかるだろう。

 4、武将は女王になり、女王は関節の箱におさめられるだろう。

  その箱のなかからの生まれ変わりがフーピーという踊り子である。

 

最後の節では、土方の究極の理想の舞踏体である<踊り子フーピー>への夢が語られる。
チャンネルを超え、次元数の変化を超え、無数のサイズ、無数の密度を運ぶ踊り手は、最後に関節の小箱に閉じ込められ、
そこからの生まれ変わりとして踊り子フーピーが誕生する。
フーピーとは時空を自在に移行する
X還元技法を駆使し、
この多次元共振・非二元世界を自在跳梁して踊る
なにものにも囚われない透明な踊り子である。



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2015年5月23日

 十位十変

一時間かけて、からだの闇のすべてを踊るためには、
十体を踊るのみならず、それぞれの体で、
意識して十の体位・体高の変化を踊るようにする。
そして、十以上の変容の仕方を工夫する。

土方も、植物の展開、板の展開、気化、物質化、女体化、獣化、キメラ化、二次元化、一次元化など、X還元技法によって生涯さまざまな変容法を工夫しつづけた。

わたしも若年の頃から、無数の変容法を工夫し続けてきた。
その一部をご紹介しよう。


平面生物
完全な二次元世界で動く、粘菌かアメーバのような生き物になる。ただ体液の密度を運ぶことによって、ゾルゲル変化で動く。

流体ローリング
柔らかくゆでたスパゲティか、濡れ雑巾となって床の上を捻転する

濡れ落ち葉
個体だがなお幾らかの流体性も残っている、柔らかい濡れ落ち葉のようなからだで動く。

枯れ葉
乾ききって固形化した形のまま風に吹かれて動かされる。

転石
石になって形を固定したまま転がる。

板の展開
「静かな家」にある。からだの各部が二次元の板か棒になる。
それが組み合わさって箱や船などの三次元に展開していく。

傀儡起き
誰かに操作されて動かされる事によって、姿勢を変えあるいは立ち上がる

気化
からだの一部から気化する。

物質化
気化したからだが、地上のものの姿を借りて物質化する。

胎児位
坐骨を床につける胎児の姿勢で、細胞から胞衣、初期胎児後期胎児となって胎界を遡行する。

獣位
四足の獣、あるいはさまざまな生き物に成りこむ。

祖型位
獣と人の間、原始の人となる。大昔の人はみな元型や祖型の憑依に脅かされ続けた。それをみな引き受ける。

立位
近代人の立ち姿。そこから何らかの要素を削減・増幅することによって、さまざまな変成をおどる。

老人位
加齢によりからだの無用を知った老人が腰をかがめ、気配りと縮みによって歩く。

女体位
性転換し、男は女体に、女は男体に変容する。骨盤、肩甲骨の配置を変える。

空中位
ときに空に舞い上がる。特定の空中姿勢を焼き付ける。

二次元化
三次元の存在から一次元を削減して、二次元の平面になる。

一次元化
さらにもう一次元を削減して突っ立つ棒、横たわる棒になる。



(この項は「十体論」にも収録します)

「十体論」を読む

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 山崎、石もてわたしのからだを撃て!7 リゾーム・リー
2015年5月21日

 山崎、石もてわたしのからだを撃て!7 リゾーム・リー

山崎-を踊るのは、去年夏のポーランドで踊り始めてから
都合これで7回目になる。
だが、冬に西ベンガルで踊った6から、この7の間には
劇的な変化があった。

サンチャゴの蘇り

この踊りの中でわたしは死者山崎博昭のみならず、
多くの死者を踊ってきた。
そのなかのもっとも顕著な形をとっているものは、
このビデオのタイトルにしたサンチャゴ・センペレの「古い樹」のポーズだ。
数年前にサンチャゴの元カンパニーのダンサーだったという男が
共振塾を訪れ、サンチャゴがエイズで死んだとわたしに告げた。
驚いたわたしはすぐサンチャゴのサイトを開いたが、
それはもうホストから長く見放された廃墟のような壊れたままの
佇まいを見せていた。
それによってサンチャゴの死を信じたわたしは、
それ以後踊るたびに思い出のサンチャゴの姿勢をとって、
心のなかで(サンチャゴ~、どこにいるんだぁー)と叫んでいた。
だが、つい二週間ほど前、
死んだと信じていたサンチャゴからメールが届いた。
誰がこんな悪い冗談をするのだ、と腹が立ったが、
彼しか使うはずのない”Lee san”という呼びかけを使っていた。
驚いたわたしはサンチャゴのサイトを再び開いた。
すると真新しくリニューアルされて、幾分年老いたサンチャゴの
踊る写真も掲げられていた。

わたしはすっかり混乱してしまった。
この数年間てっきり死んだものと思っていたサンチャゴが
どうやら生きていたようなのだ。
では、数年前共振塾を訪れた男がわたしに嘘を告げたのか、
だがいったいなんのために?
ともあれ、死んだと信じていたサンチャゴが生きていることが
腑に落ちるまでずいぶんとかかった。
まして毎回「サンチャゴ~」と心のなかで叫んで踊っていたわたしは
いったいなんだったのか。
じつはいまだにわたしのからだの闇の附置はうまく回復していない。
サンチャゴにもまだメールの返事を書くことができていない。
生きていることを知って嬉しいのはもちろんだが、
まだちゃんと受け入れることができない。
生きていると思っていた友人の死を知らされて、
生者から死者へ席を移したことは何度もある。
だが、その逆の手続きははじめてだ。
そして思いの外難しい。
サンチャゴを死者として付き合ってきたこれまで5年間の経験を
まだうまく整理しきれないのだ。
回復するまでもうすこしかかりそうだ。



サンチャゴのサイトを見る:http://santiagosempere.com/

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2015年5月21日

胎界遡行

ある塾生の要請で、久しぶりに胎界遡行ワークを行った。
胎児になるひとりを他の全員が子宮となって包み込み、
グロフの見つけた分娩前後の4つの世界を体験するというものだ。

第Ⅰ期 大洋エクスタシー-いつまでも続くかと思われる胎内ゆらぎの悦楽

第Ⅱ期 楽園からの追放
ー世界の急変・出口なし

第Ⅲ期 死と再生の葛藤
ーパニック・暴力性・生物的怒り・火山的エクスタシー

第Ⅳ期 死と再生の体験
ー死と自我・深淵への旅・気付き

出生後に体験する大きな出来事は、すべてこの4つのフェーズのどれかとつながり、共振増幅される。
あらゆるクオリアは時空を超えて共振する。
いまここで起こっている物理的な体験の外クオリアは、
細胞内に保存されている40億年の生命記憶、
それを10ヶ月に凝縮して追体験する胎内体験の内クオリア、
そしてグロフのいう分娩前後の4つの内クオリアと共振し、
予測できない速度と強度で共振増幅される。

このワークが危険なのは、いつ、どの程度の強度で
この共振増幅が起こるか、予測できないからだ。
細心の注意でのぞみ、何が起こっても全員がそれを自分の問題として直面し、解決する共同性の下地が必要である。
さいわい、今年の塾生間にはそれが醸成されている。
それどころか、このワークを体験するだけではなく、
これを通じて、あらゆる強烈な人生体験のクオリアと、
この分娩前後の4位相のクオリアが何らかの共振をしていることまで
透明に透かし見るという課題を共有しうるところまで来た。
ここまでこれたのは十余年の共振塾の歴史の中ではじめてだ。
やれやれ。



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2015年5月20日

新しい共創プロセス

今期は4月頃から各塾生がユニークな踊りをつくりはじめ
コーボディでそれを共創する経験もずいぶん積んできた。
そこで今週はこれまでにない共創の実験を始めている。
ミンデル技法に学んで、瞑想のあとからだの一部に耳を澄まし、
そこから共振によって導かれていく景色や世界に旅をし、
そこでであう真新いクオリアをみんなでシェアするというものだ。
ここ二三日だけで、次のような味わい深いクオリアをシェアすることができた。

・初雪の無言ーSilence of first snow
・藪の枝に突き刺されながら歩くーPoked by the stick in the bush
・溶けた鉄ーMelting Iron
・永遠の動きーEternal motion
・細胞のスォーム(群れ)ーCell's swarm
・間・背後で踊るーBehind and between
・捻られて箱づめにされるーTwisted box
・それがキメラコーボディになるーChimera cobody
・壊れやすい人形ーFragile doll
・死体の生の名残ーDead sparkle body
・ダンシング・オイルーDancing oil
・かいこの繭ーCocoon


このうちいくつかのものは、すでに短いシーン展開にまで発展した。
それぞれの塾生にとって重要なシーンをこうして共創していけば
来週のリハはずっと深いところで行うことができる。
言葉による余計な説明がいらなくなるからだ。
随分前からこれが必要とされていたが、これまでは時間切れで
いきなりリハーサルに入らざるを得なかった。
ようやく理想的な時間配分が見つかったことになる。



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2015年5月13日

透明になる

長い間、透明になりたいと思ってきた。
小さい頃からだ、大人たちが子供に対して
さまざまな秘密を包み隠している不透明な存在だということに気づいて、
それへの反発だったのかもしれない。
20代30代の頃は、水に潜り微小な水中動物を捕らえては、
水槽で飼育し、その透明な生体に憧れていた。
透明エビ、透明ナマズ、淡水クラゲ、ヒドラ、
あらゆる魚の幼体は透明である。
卵の中に目玉だけが黒点となって現れ、
やがて激しく体を振って生まれ出てくる。
食べたのものが消化する過程もすべて透けて視えた。
透明な水晶やトパーズを探して鉱山に潜り、
透明な空気の振動を味わいながら笛を吹いた。
どうすればそういう透明な存在になることができるのか。
踊りを始めてからもずっと透明さにこだわり続けてきた。
1996年にはじめて『透明さについて」という短い文章を書いた。
知り合ったサンチャゴ・サンペレが、
奇しくも透明さにこだわる踊り手だったからだ。
わたしたちは透明さへの共振によって深くつながった。
共振塾を建設し、サイトを立ち上げた2005年にも
『透明さについて』という少し長い文を書いて、サイトに掲げた。
初期の生徒はその文に共振して入塾してくれたのかもしれない。
時が流れ、今週のはじめに、なぜわたしが透明さにこだわってきたのか、どうすれば透明になることができるのか。
この何十年間の探求の精髄を伝えた。
一言で言えば、からだの闇に無意識にひそんでいる
さまざまな傾性、欲望や祖型や元型や自我、超自我など
強いエネルギーをもってわたしたちを突き動かしてくるものらすべてを踊り、それらの支配から自由になることが重要だということだ。
くわしくは、下記の記事や上記ビデオをご覧頂きたい。
英語だが、中学生英語しかわたしは喋れないので、
お分かりいただけることと思う。


透明論を読む

透明さについて(2005)を読む

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2015年5月10日

祖型の歩行

共振塾では長年灰柱の歩行から授業を始めるのが常だった。
だが、『病める舞姫』の世界に入っていくには、灰柱では足りない。
はるかに微細な不可視の生命共振クオリアを秘膜も含めた
からだ全身で感知する多次元共振体技法のようなものが必要だ。
長年『病める舞姫』世界を行き来しているうちに、
そのエッセンスをまとめたからだを図にすると、
ビデオの中で描いた奇怪なキメラのような生き物になる。

皮膚全体にまなこ
額に軟体動物のような触角
空気中に棲む大きな生き物をとらえる第三の目
中腰のくらがり
短い息の明暗
ナンバの二軸歩行
足下から祖型的なものを引き上げる摑み足
不可能な願いにすがりつく指
物たちの物腰に脅かされている
尻の諮詢(しじゅん)
背後世界と密談するからだ

ーーなどなどだ。

ここしばらくはこのからだへの変成をみっちり訓練する。
即座には塾生のからだになかなか入っていかない。
まして彼ら自身の技法となるには何年もの時間がかかるだろう。
だが、時間をかける値打ちがある。
これなしにはもう既存の地平から一歩も進めない所まで来てしまったのだ。
この新しい技法によって出会うからだのクオリアが、
各塾生の踊りの必然と出会い、ひとつになる瞬間に、
それはその人にとってのっぴきならない踊りとなる。
そういう豊穣な出会いがあることを信じて。



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2015年5月4日

クオリアの専門家になる

創造に携わるものは、情報の専門家になってはいけない。
おしゃべりな創造者など見たことあるかい?
低次な二元論にとりつかれている情報ではなく、
非二元かつ多次元で共振しつつ超複雑に変容流動している
クオリアの専門家になることが必要なのだ。
このことが腑に落ちない限りおしゃべりの魔から離れられないだろう。
おしゃべりや自我から離れられない人にろくな創造はない。
ことばや自我などの二元論の亡霊にとりつかれたら終わりだ。
なぜ、共振塾では一日中沈黙を守り合うか、
沈黙の中にすべてが存在するからだ。
耳を澄まし続けること。

いやもっと言えば、透明な沈黙の生命共振のなかにすべてがある。
クオリアから生命共振を削減すれば情報になる。
不可視の非二元多次元時空で無限に変容しているものが生きたクオリアだとしたら、
そこから生命共振を取り去ったあとの死体のようなものが情報なのだ。

明日、5月の初日は創造とクオリアの授業からはじめよう。
わたしにとってもはじめての挑戦だが、もうこれを避けては通れないところまで来てしまったのだ。









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2015年5月3日

視えないどころか、
気がつけば消えてしまうクオリア


いきなり難しいところに来た。
今年は4月までに「寸法の歩行」、「虫の歩行」、ドリームボディ、
そして『静かな家』をあらかた済まし、
5月からは『病める舞姫』に本格的に取り組もうとしている。
例年にない速度だ。
そこで扱うことになるきわめて微細な生命共振は
うつらうつらしているときにだけ存在し、
覚めた意識状態になれば消えてしまうクオリアが鍵になる。
わたしにとっても、目覚める直前の前意識状態では、
5月になすべきことがくっきりとつかめているのに、
目覚めるともうおぼつかなくなってしまう。
半眠半覚で書いたメモを見ても、
見慣れた文字が並んでいるだけに見える。
『病める舞姫』の難しさはここにある。
それは土方自身が半眠半覚の下意識状態で口走ったものを生徒や妻の元藤さんが筆記し、その文法もなにもない判読不可能な原稿をもとに、詩人の高野喜久雄が、なんとか読むに耐えるものに最小限の手を入れることによって成立したものだ。もともと、下意識のなかでいきいきと変容流動しているクオリアの流れを、複雑な手続きを経て言語化したものだ。
最小限に読めるまでには言語化されているが、その本質は
つまり意識にとっては存在しないかすかなクオリア流動そのものなのだ。
それを塾生全員にキャッチしてもらうことができるだろうか。
3月からの長期生はなんとかなるだろう。
二ヶ月間、視えないものだけに焦点を絞る授業を行ってきたからだ。
だが、5月からの新規の短期生が落ちこぼれないか、心配だ。
いきなり、日常意識にとって存在しないかすかなクオリアを感じろといっても狐に摘まれたような気になるだろう。
3月からの長期塾生にとっても、ここまで来るまでに優に二ヶ月を要したのだ。それを途中参加の短期生はごく短い期間で追いつく必要がある。だが、土台無理な話なのだ。
事実、4月に途中参加した短期生は、下痢になったこともあって長期休暇の後、落伍してしまった。
西洋社会での日常的自我を保ったまま途中参加する短期生に等しく起こる症状が、精神的についていくのがきついかなという危惧と下痢の同時発生だ。毎年途中参加の短期生に、もう何人かこの症状が続いている。この現象は鋭く対象化して対策を講じる必要がある。
二部制の授業を持てれば理想だが、まだその余裕はない。
やれやれ、今年のように長期塾生の深化が急すぎると、
かえって短期生とのギャップが大きくなる。
うれしい悲鳴ではあるのだが。

明日は、明日から途中参加する二人の短期生のために、
その点に絞ってプライベートレッスンを試みるつもりだ。
何年経っても、いや経てば経つほどより難しい課題に直面するようになる。これが産婆道の逆説なのか・・・・
甘くない。



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2015年4月28

衰弱体の歴史

メキシコで公演を終えたパメラから、長い手紙がきた。
衰弱体の必然性に関する問いが主なものだった。
なんという共時性!
ちょうどこの日、今期の塾生と土方のビデオを見ながら、
なぜ土方が衰弱体に向かわねばならなかったかを、
歴史を追って解説したところだった。
それを元に、古い塾生の問いにも応えられるようにまとめてみた。
土方巽の衰弱体には、無数の階梯があり、多様性がある。
じっくりとその多彩さと深まりの歴史を追ってみよう。

『肉体の叛乱』1968

おそらく、衰弱体の必然は、この伝説的なソロを踊ったあとに胚胎した。
当時の反体制運動のピークで踊られたこのソロによって、土方は若者たちのヒーローになった。
だが、土方のからだの闇に棲む死んだ姉は機嫌を損ねていた。
おそらく土方は彼女の声を聞いたに違いない。
「あんたは表現だの創造だのと、夢中になってやっているけれど、ほんとうに表現したいものは
なにか表現しないことによって現れるのではないのかい?」
そうだ。
からだの闇で死んだ姉が泣いていた。
いや、土方自身が踊りを通じて姉と一体化することができないことに地団駄を踏んでいたのだ。
二年間、土方は活動をやめていのちに耳を澄ました。
なにが一番やりたいのかい?
姉だ。
死んだ姉だけはまだ踊れていない。
二年の沈黙の中で土方は衰弱体の必然に出会った。
表現しないことによって可能となるかもしれないものに賭けようとしたのだ。

『疱瘡譚』1972

瞽女唄のソロ


1972年の「疱瘡譚」で、瞽女唄とともに踊られる立位の踊りは、
おそらくはじめて衰弱体舞踏がこの世に出現した瞬間である。
このときはまだ、からだの各部がランダムに震えながら動き、ときおり硬化したり、
箱に詰められたり、なにものかによって動かされる傀儡体であったりした。


異界の怪物の共創

土方のソロの終盤、玉野黄市をふくむ男性舞踏手が群舞のコーボディで
異界の怪物を共創して通り過ぎた。ただ通りすぎるだけだったが、人々の肝をつぶし、
マギー・マランなど西洋の振付家に大きな影響を与えた。


「レプロシー」

その後半座位で踊られた「レプロシー」は、
初期衰弱体の結晶とも言える息を呑むほど美しい踊りである。


「沈んでいくコーボディ」

「疱瘡譚」の最後、内ももを震えさせつつ、立位から沈んでいくプロセスは、芦川羊子らの女性舞踏手によって、コーボディ化され、これまた
類例のない美しいエンディングが共創された。


「フラマン」

25年間寝たきりだった「フラマン」が床を這う踊りは、何度も繰り返し踊られている。
最弱の衰弱体のひとつとして、いつまでも記憶されるだろう。


「水俣」

わたしが学生のときに京都公演で見た「ギバサ」では、
公演の間中長時間床下に潜んでいた多くの舞踏手が、
最後に床板や古畳の下から、水俣病の歪み縮んだ肢体で立ち現れた。
若いわたしの人間観を転倒するに十分の衝撃を与えた。

だが、土方巽にとってはこれらの初期衰弱体ではまだ不十分だった。
死んだ姉と一体化する踊りにまで結晶するためには、『夏の嵐』から『静かな家』にかけて
発明された新しい衰弱体、死者の技法による気化体が必要だったのだ。

『夏の嵐』1973

「少女」ソロ


この冒頭は『静かな家』のメインモチーフである次の一節から始まる。

雨の中で悪事を計画する少女

そして、ほぼ全編を通じて、死者の技法、気化したからだで踊られる。
ときおり、死者はなんの気兼ねもなく地上のものの姿を借りて物質化する。
つずめて言えば全編が気化と物質化の往還なのだ。


「気化体」

4 (気化)
一番―花、雨、少女、全部使う
   仮面、あるいは虫
   人形―灰娘―洗たく―もう誰も訪れない
二番―走って鳥から少女、少女気化して座り技
三番―魔女A気化する
四番―赤いシャケの頭にかかわる魔女気化している
五番―馬肉の夢を見る大魔女気化している
六番―さまざまなゆくえが気化している
   水、お盆―遠い森ー死者

15 ゆるやかな拡散
    いっ気に気化状態へもってゆかぬよう心掛けるべし。
    気化状態のなかでこそ展開がこころみられるべきだ。
    この問題もやがてはっきりするだろう。


「密度を運ぶ」


9 (鏡の裏)
鏡の裏―光の壁
 密度を運ぶ自在さの中には、めまいや震えや花影のゆれがひそんでいる。


『静かな家』では、Xによる還元技法が駆使される。
からだの密度を自在に変化させることによって
固体から液体、気体のからだへと変幻する。
あるいは次元数を自在に減じて、三次元の立体から
二次元の平面、一次元の棒まで次元数を運ぶ。
その際、それを媒介するのは、
めまいや震えや花影のゆれといった変成意識状態のからだである。

「自在跳梁」

『静かな家』の<急>パートである25,26,27節は自在跳梁の優れた見本である。
冒頭から探求されてきた、X還元や、気化や、物質化や、密度を運ぶや、ためや、その他すべての<死者の技法>が見事に統合され、
いわば一片の詩として結晶化している。
踊りたまえ、これに負けないほどに密度を運び、自在跳梁する<急>を。
それはわたしたち全員の課題である。

25 (悪夢)
悪夢こそはこの裸体なのだ
 1、虫やらミショーの顔やら、少女と馬の顔やら、
  電髪の女やら、馬鹿の顔やら、ボッシュが描いた人物の顔やら、
  助けてくれと嘆願する手やら
 2、犬と花と影とトントントンと跳ねる虫

26 奇妙な展開のさなかで
 1、手のなかへの求心的な恋愛を頭蓋のなかにすっかり置き変える
 2、神経が棒になり、棒が乞喰になった。乞喰が旗を振っていた、
  それは大きな鳥であった。
 3、首が馬の首になってのびると、指のゴムものびた。
  その作業のさなかに、点の眼と視点が変えられた。
  Xによる還元と再生にさらされていたのだ。
  その時は、背後に爪がザックリとささり、ゆくえははぐれて育ち、
  新たな還元により、小さなマイムがそこに誕生していた。
 4、内部が外部へあふれ出し、あふれ出していったものが仮面の港へ
  帰ってくる。仮面は森のなかへ船出をするのだ。
 5、額の風、額はとらわれている。手の葉、植物の軌跡を走り、私は、
  ついに棒杭の人となっていた。
 6、深淵図の中で、全ての事象の午前一時のなかで、柳田家の孔雀は完成される。

27 皮膚への参加
 1、小さな頭蓋のなかの小さな花、それはそれは細い細い視線、
  神経は、頭の外側に棒を目撃した、
  その棒を額で撰り分けている視線。
 2、小さな顔で歩く盲はまるでサルのようだ。猿の頭に落雷。  
  頭の中に小さな花が咲く、糸つむぎの唄が聞え出す。
 3、引きのばされる老婆は一枚の紙になるだろう。
  老婆はその紙の上に蛾のように乗っかるだろう。
 4、武将は女王になり、女王は関節の箱におさめられるだろう。
  その箱のなかからの生まれ変わりがフーピーという踊り子である。

『病める舞姫』


「病める舞姫」は、土方自身によっては踊られることがなかった未踏の舞踏の書である。
そこではいのちの更に微細な視えないものとの多数多彩な共振が、「痴呆になる寸前の精密さ」で描かれている。
土方以外に、これらの生命共振を踊る必然に出会う人が現れるだろうか。それは未来にかかっている。



「舞踏論第二部 静かな家の深淵」を読む

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2015年4月27日

キメラ・リゾームへ!

キメラへ、
ツリーを脱いでキメラ状のリゾームへ!
からだが幾千もの微細な部分に細分化される。
そして、それぞれの部分が多数多彩な異次元と共振しながら、
Xによる還元と再生によって、勝手にリゾーミング変成を始める。
X還元と、幾層もの秘膜・秘液・秘腔・秘関・秘筋の、
キメラ状のリゾーミングがやがて混濁一体化するまで。
だれにも捉えることのできないたった一つの秘密になるまで。

10 (メスカリン
 手の恋愛と頭蓋のなかの模写は断絶してつながっている。
指さきの尖たんにメスカリン注射がうたれる。
そこには小さな花や小さな顔が生まれる。
 細い細い糸のあみ物、無窮道のあみの目、
炎を吐く鳥とこっけいな熊が、ゆらゆらと狂王に従う。
そのさなかに頭部がいまひとつのゆくえを追っているのだ。
 全てのマチエールは背後によってささえられている。
複眼と重層化は混濁し一体のものとなる

11 (キメラ)
ベルメール―こっけいな熊へ―馬の顔へ
鹿の視線から―棒へ―乞喰へ―虎
鼻毛の鳥―花―狂王へ―複眼―ゆくえ
虫―犬へ―オランウータン―福助の耳へ
耳がつつかれる―目まい―鏡の表裏へ
複眼のなかでいき絶えているもの
 人形―仮面―パパイヤ―ほたる―板の展開
 小さな花等がある
馬の顔―少女の顔―犬―スプーン
虫と木の合体―背後へ―ふいに植物の軌跡で展開をはかるものへ


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2015年4月25日

リゾーミングとX還元

土方巽の秘密の変容技法である<Xによる還元と再生>と、
20年ほど前にわたしを訪れた
リゾーミング技法が、
コインの表裏のような関係にあることに気づいた。
これまでまったく別のものとして捉え、関わりを見いだせなかったが、
どちらも非二元多次元の生命共振クオリアの変容に関わる秘められた論理(土方は「沈理」と呼ぶ)であるかぎり、関連がないわけがない。
それどころか、同じものを別の視角からとらえたものであることに、
ある夜更け突然気付かされた。

X還元とは、通常の人間の身体や動きから、X=何らかのクオリアを削減することによる衰弱体への変成技法だ。
Xにはどんなクオリアをも代入しうる。
たとえば人間の動きから速度を削減すると、<超微速動>になる。
年齢を削減すると、大人から、子供、赤子、胎児、胞衣、単細胞にまでどんどん遡っていく。

リゾーミングとは、人間から自我を持った社会的人間という、ツリー幻想を削減して、からだをひとつひとつの細胞レベルにまで細分化する。
その上で、からだのどこかの細胞に起こった微細な変化を隣り合った細胞や部位に伝染していくという
いわば変容プロセスの微分技法である。
これらの変容はすべてX還元である。
からだの一部が冷えて、凍りついていく凝結や石へのリゾーミング変成は、
X=温度が削減されていくX還元プロセスである。
あるいは密度が増幅されていくX還元である。

何を削減するかに力点をおいて捉えるのがX還元であるのに対して、
リゾーミングは同じ変化を微細なプロセスに微分することによって捉えられたものである。
20年も経ってから、両者がおなじものを表していたことに気づく。
気付きとはこんなものだ。いつも途方もなく遅れてやってくる。
哲学が夕暮れに鳴くミネルバの森のフクロウであるといったヘーゲルのことばは
この遅れの必然を苦く噛んでいる。

だが、この気付きによって、じつは『病める舞姫』におけるあらゆる微細な生命共振現象が、リゾーミング技法によって、具体的な変容の練習法として解くことができることに気づいた。
そうだ。
あらゆるクオリアの共振による変容現象は、X還元であり、
かつまたリゾーミングなのだ。
これに気づいたとき、深夜のわたしはこみ上げてくる笑いを止めることができなかった。
これによって、たった今から、
これまで歯が立たなくて立ち往生していた『病める舞姫』を
リゾーミングによってからだで読み解いていく授業が可能になったのだ。



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 ベルメールと関節の小箱
2015年4月16日

船の解体と再生

「静かな家」では<Xによる還元と再生>の技法
最初から最後まで、縦横無尽に使われている。
冒頭の第1節でまず紹介され、
第5節では「きわめて緩慢な少女」が登場する。

5 精神のかげりとして捉えられたもの

  

   きわめて緩慢な少女

   のびきったキリスト

   のびきったままおろされたキリスト

カンチュイン

狂王の手―虫、鳥、棒

坐せるカトンボ

これらはワルツによってほとんど踊られる

そうして、Xによる還元と再生はあの遠い森や、目の巣から飛び立っている、

尚、死者は、これらのものにことごとく関与している

これらを舞踏するために、登場する何者かは、鳥のおびえ、虫のおびえに、

通じていなければならない。

尚、少女は馬の顔になり、そこで停止する。

また、いま一人の少女は立ちあがり、トンボをへて人形に至る。

そこで全てのゆれは停止する。


微速動の動きもまた、X還元の技法にかかわっている。
Xに速度を代入し、通常の動きから速度を減衰させると微速動になる。
数々の土方舞踏の変容技法を、たった数語の普遍的な論理にまで抽象化することによって、<Xによる還元と再生の技法>として完成されたものである。

 

6 (カン工場)

 

鏡の表と裏にひそむ「カン工場」

 

7 (馬肉の夢)

 

私は素っ裸で寝ている、そうして馬肉の夢をみた

  ゆくえは何処へ行ったのか?

  狂王は箱におさめられる

  箱のゆくえは細かい解体につながっている

  髪毛の踊りる

  船

  Xによる還元と再生

 

  目の巣について

羅漢

トンボ

虫のワルツを踊る髭、すなわちワルツの髭

グニャ、グニャの猫

ゆくえのグニャグニャ

  これら全ては船の部分を構成している

 

  鼻毛ののびた鳥と箱になった鳥

  これらもまた船が化けたものである。

  あるいは解体された船としてもながめられよう

  私は遠い葉っぱや身近なナッパをみて飛ぶ

  これらがカン工場で嗅いだものである

 


とりわけ第7節ではサイズ的にもっとも大胆な
船の解体とその再生がはかられる。
船とは土方にとって彼の舞踏集団「燔犠大踏艦」そのものを暗示するものであったろう。
狂王(=土方の異貌体)は箱におさめられ、
箱のゆくえは細かい解体につながっている。
船は一枚一枚の板にまで解体され、
ぐにゃぐにゃの行方や髪の毛の踊りにまで細分化して雲散霧消し、
そしてまた「板の展開技法」によって大きな船にまで組み立てなおされる。

あるいはまた、19節では、
ハンス・ベルメールの傀儡が関節の小箱におさめられ、
武将や、王女や、虎に変幻する。
からだの密度を運びながら、無限の変容が試みられる。

19 (関節の小箱)

 

   関節の小箱―ハンス・ベルメール―武将―王女―虎


死者のX還元の技法によって、
土方は無限の変容の可能性を手にしたのだ。



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2015年4月15日

ツリーの地下は、菌類のリゾームでつながっている!


BBCのサイトに興味ふかい記事が載った。
森の植物たちは、地下の腐食土に棲む菌類のインターネットを通じて、
交信し、助けあって生きているという研究成果だ。
前々から、そうだろうと思っていたが、研究者が現れてうれしい。
これによってこれまでのツリーとリゾームを単純に対立的なものとして捉える初期の見方から、ツリーとリゾームを自在に往還するツリーリゾームの技法の現実性が強まってきた。
地下の見えない生命共振のリゾームと、日常世界のツリーを自在に行き来する身のこなしを修行していきたい。

"Plants talk to each other using an internet of Fungus.
Hidden under your feet is an information superhighway that allows plants to communicate and help each other out. It’s made of fungi."


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2015年4月13日

とても深い透明な静寂

<Xによる還元と再生>
は、土方巽の衰弱体舞踏にとって、
最も大事な秘密の変容技法である。
今回は視覚と聴覚チャンネルの粗大なクオリアを
可能な限り無限に削減してみよう。

まず、光を消す

舞踏では<目腐れ>といって、たとえ目を開けていても、外界からの光の刺激と見ようとする意志を削減して、記憶や夢や妄想などの内クオリアを50%、視覚的な外クオリアを50%に保つ透明体になることを目指す。
はじめのうちは、両目を目隠しで覆って光を絶つのがもっとも簡単だ。
するととたんにそれまで眠っていた皮膚が目覚め、外界のかすかな変化をキャッチするようになる。

音を消し、言語思考を消す

一日中喋らない。
頭のなかに無意識裡に言語思考や判断や情動が立ち上がってくれば、
その都度それを鎮める。
とても深い透明な静寂の中でしか、
生命共振のかすかなクオリアに気づくことはできない。
粗大な体動と、視覚・聴覚・感情・思考などの
主な人間的チャンネルをすべて鎮めてはじめて、
かすかないのちの共振に耳を澄ますことができる。

共振の無限のさざなみに耳を澄ます

共振は目に見えない。
胸で感じることが出来るだけだ。
大事なことはいつもこの見えない命の共振に耳を澄ますことだ。
毎朝、心身を調体によって十分に鎮める。
とても深い透明な静寂のなかでだけ、
かすかな生命共振に耳を澄ますことができる。
すこしでも自分や自我に囚われてしまえば、共振が感じられなくなる。
共振が伝わりにくいのはそういうことだと気づいた。
今の時代はみんなが自分のことにかまけすぎだ。
自分が無色透明ないのちになってはじめて共振が聴こえ出す。
少しでも自分にかまけたら、自我の雑音にすべてかき消されてしまう。
怖いのは自分だけではない。
他者も同じくらい怖い。
今の時代多くの人が携帯を身につけている。
いきなり電話音が鳴って、朝から準備してきた静寂の深みを踏みにじり
暴力的に割り込んでくる他者が怖くないのだろうか。
怖くないひとは自分の中の静寂がそれほど深くないのだろうか。
音に対する感受性には人によって違いがある。
わたしは電話が大敵だが、ある塾生は踊っている時の
カメラのシャッター音が気になるらしい。
わたしはカメラ音は気になったことがない。
風の音や鳥の声と同じように聴き流している。
音は不思議だ。まだまだ謎が多い。
だが、静寂の深さが必要なことだけは変わりない。
指圧の師遠藤喨及師は、一秒間に18回、
出てくる自我を鎮める必要があると言った。
今はそれが何らの誇張をも交えていないことがよく分かる。
自我や思考や情動などによって絶え間なく遮られるこの静寂を保つには、
絶えざる瞬間ごとの自罰が必要なのだ。



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 八覚(8チャンネル)
(BodyとMovementの位置を入れ替えてください。)
 
八覚(8チャンネル)の精密な構造 
(日本語のイラストがなくなった。Extrovert=外向、Introvert=内向
Non-dual=非二元に置き換えてご覧ください)
2015年4月7日

粗大なからだや動きを消す

<Xによる還元と再生>
は、土方巽の衰弱体舞踏にとって、
最も大事な秘密の変容技法である。
それを、8つのチャンネルに適用して見よう。
各チャンネルは外向クオリアと内向クオリアからなる精細構造をもち、
生命の次元ではあらゆるチャンネルの境界がない非二元域となる。
外向チャンネルとは、物理的な体感や運動のチャンネルであり、
内向チャンネルとはそれらの記憶や夢、想像、妄想などの内クオリアで構成されている。
伝統的なアジアの瞑想思想では、外向的なからだを粗大体(グロスボディ)、内向クオリアからなるからだを微細体(サトルボディ)と呼んでいる。
(サブボディにはもともと2つの意味があり、ひとつは下意識のからだ(サブコンシャス・ボディ)であり、もうひとつはサトルボディである。この2つの言葉を凝縮一体化してサブボディという概念が生まれた。下意識界では、日常界のように意識とからだが分離しておらず、心身一体化している。それを指すためのサブボディという新しい呼称が必要だった。)

粗大なからだを消す
体感チャンネルは、冷温、痛、圧、触、緊張・弛緩などのからだの状態そのものへの感覚である。
微細な体感としては首元にある血液成分の変化を感知する神経細胞などのはたらきによるものもある。
まず、体感チャンネルから粗大な、物理的なクオリアとその意識を消す。するとそれらの記憶や想像のクオリアだけからなる下意識の微細なからだ(サトルボディ)に変成することができる。
土方の気化体は、魂や精神そのものに変成するための技法である。
そして、同時にアニミズムでは石や傀儡は、浮遊変容する死者の魂の
依代であった。
気化から凝固・液化へと変成する技法を土方は<密度を運ぶ>と呼んだ。<Xによる還元と再生>の応用である。
Xにはどんなものでも代入できる。
からだの一部をそぎ落としたり、ある感覚(視覚・聴覚・触覚など)や神経をそぎ落としたり、減衰することによってさまざまな衰弱体を創造することができる。
<Xによる還元と再生>のように、非常に抽象度の高い水準まで理論を結晶化すると、それは万人に共有できるものとなる。
だれもが固有の衰弱体を創造することができる。
それが理論の力なのだ。

(他のチャンネルの減衰の仕方は、別の機会に展開しよう。)



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 土方少年たち
2015年3月31日

世界に喰われ続けるからだ

『病める舞姫』は、上の写真にでてくるような土方少年と、
世界に喰い尽くされてボロボロになったさまざまな病める舞姫たちとの間に起こった生命共振の物語である。
この書では、土方少年のからだが無数のやりかたで、
世界から襲われ、喰われ続けたことが繰り返し語られる。
主なものを列挙してみよう。

 [2 雪に食べられるからだ]
 [単調で不安なものに乱入されるからだ]
 [8 睨む女と棒になる私]
 [媒介のないからだ]
 [すでに踊らされてしまったからだ]
 [忘れられたからだ]
 [13 輪郭をはずされたからだ]
 [14 あまりにも放って置かれたからだ]
 [湯気に掠め奪られたからだ]
 [15 喰われ続けるからだ]

こうして世界から喰われ続けたからだだけが持つ
深い瞬間的な生命共振が存在する。
言葉を覚える前の、ただ生きているだけみたいなあやうい命こそ、
瞬間的な生命共振力をもつ。


どこの家へ行ってもズタズタに引き裂かれた神様の一人や二人はいたし、どこの家の中にも魂の激情をもう抑えきれない人が坐っていて、あの懐かしい金火箸を握って金切り声を出して叫んでいた。
腑抜けになる寸前のありったけの精密さを味わっているこれらの人々を、私は理解できるような気がして、眺めていたのだろう。


 寝たり起きたりの病弱な舞姫の存在の付け根にそって靡いてしまい、私はすぐにこの舞姫に混有されてしまうのだった。

『病める舞姫』は、舞姫やズタズタに引き裂かれた神さまと土方少年のからだとの間に起こった、類まれな瞬間的な生命共振の書である。
この書を20年読み続けてきて、やっとこのことに気づくことができた。
土方が伝えたかったことはこの奇跡のような生命共振の力だ。
わたしたちはこの生命共振力の回復に向かうだろう。
その先にだけ生命の未来が遠望できるからである。




 
ただ生きているみたいな異様な明るさ
2015年3月21日

からだの闇の中の病める舞姫と土方少年

この冬のインドリゾーミングツアーでは、
もう日本や先進国では決して出会うことのできない
かまどの前にうずくまる煤け姫や、鼻を垂らした土方巽少年や、
医療に見放された多くの瀕死の病める舞姫たちに出会った。
すべてが異様に輝いていた。

私の少年も、何の気もなくて急に馬鹿みたいになり、ただ生きているだけみたいな異様な明るさを保っていた。


おそらくわたしは、彼らに出会いたくてインドツアーに出かけたのだ。
だが、ひと冬インドをさまよい歩き、踊り歩いた挙句の気付きは、
かれらはみなからだの闇に棲んでいるという当たり前の事実だった。
わたしが忘れていただけに過ぎなかった。
彼らと会うために長旅もタイムマシーンも必要としない。
サブボディ技法を深く学んで、意識の止め方さえ身に付ければ
だれでもからだの闇に棲む病める舞姫や土方巽少年に出会い、
彼らと一緒に踊ることができる。
ずっと前から知っていたはずの事実にもう一度出会うために
わたしにとって、三ヶ月のインドツアーが必要だったのだ。

インドツアーは、実はわたしにとって、もう一つの転機をもたらすものだった。
この十年」わたしは生徒のサブボディにとっての産婆になりきることに集中した。
自分の踊りはひとまず脇において十年を過ごした。
その長く見捨てられていたわたしのサブボディ=コーボディが
十年ぶりに踊り始めた。そのリハビリを兼ねての旅だった。
リハビリはいまも続いている。
ジオが授業をガイドする午後はわたしは踊り手にもどって生徒と一緒に踊っている。
すると、すべてのサブボディ=コーボディは、土方巽が書く

何の気もなくて急に馬鹿みたいになり、ただ生きているだけみたいな異様な明るさ」

を持っていることがからだで納得できる。
大事なことは、思考や判断をまったく止めることだ。
もっとも、それは、命がけでないと身につかない。
よほど一生懸命にならなければ無意識の思考の習慣から
解放されることはできない。
学期の初めだからこそ、何度も繰り返す。
命がけで思考を止め、自我を脱ぎ捨てる術を身につけよ。
さもなくば、いくら共振塾に滞在していても、
サブボディ技法も『病める舞姫』の技法もまったく身につけることはできない。
しばしの間塾生のふりをして、通り過ぎていくことにしかならない。



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 ただ生きているだけみたいな明るさ
2015年3月20日
病める舞姫と土方少年

『病める舞姫』は、上の写真にでてくるような、
「ただ生きているだけみたいな明るさ』を持った土方少年と、
世界に喰い尽くされてボロボロになったさまざまな病める舞姫たちとの間に起こった生命共振の物語である。
この書物から学ぼうとするものは、ただ生きているだけみたいな土方少年になる必要がある。

土方巽少年はまず、次のように現れる。


「そうらみろや、息がなくても虫は生きているよ。あれをみろ、そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな」。言いきかされたような観察にお裾分けされてゆくような体のくもらし方で、私は育てられてきた。
からだの無用さを知った老人の縮まりや気配りが、私のまわりを彷徨していたからであろう。
私の少年も、何の気もなくて急に馬鹿みたいになり、ただ生きているだけみたいな異様な明るさを保っていた。


そうだ。あの頃の少年少女は皆、
ただ生きているだけみたいな異様な明るさを保っていた。
そんな少年になってはじめて世界からさまざまに脅かされ、
喰い尽くされた「病める舞姫」たちとのピュアな生命共振を体験できる。
土方巽はある種の病める舞姫を、引き裂かれた神様とさえ呼んでいる。


[16 ズタズタに引き裂かれた神様]

どこの家へ行ってもズタズタに引き裂かれた神様の一人や二人はいたし、どこの家の中にも魂の激情をもう抑えきれない人が坐っていて、あの懐かしい金火箸を握って金切り声を出して叫んでいた。
腑抜けになる寸前のありったけの精密さを味わっているこれらの人々を、私は理解できるような気がして、眺めていたのだろう。

[17 人間である根拠はもうまわりの方からも崩れていた]

 確かに、めざとく見つけ出したものなどは、こういう状態に較べれば、おおかたは破損され、型の亡骸でしかないものだろう。人間である根拠はもうまわりの方からも崩れていたから、私が考えなくてもいいように眺められたのだろう。

[18 物達の物腰に脅かされている関係]

茄子をもいでいる静かでひょろっとした人や、ぶぁぶぁ飛んでいる蝶や、あの確かな太さを持っている醤油瓶や、豆炭の重さや金槌の重さだって、寒いところから帰ってきたような浴衣だって、みな人間の激情をそそのかしているものなのだった。こういうわずかばかりの道具類に接した解剖の場で、疑わしいような惑わされているような不透明なからだはヒステリーを起こしていたのだろう。しかしもしこういう物達の物腰に脅かされている関係から眺めたら、息の方が、ひとりでにからだのなかからでていくようなことがおこるのかもしれないと思い、警戒しいしい暮らしを暗く仕立てていたはずだ。人間を驚かすキラっとした眼の介入を、無意識のうちに一種の疾病として片付けていたのかも知れないのだ。

キラっとした眼の介入を方付ける

土方巽は書く。自我や意識に侵された若い世代のために。
「キラっとした眼の介入を、無意識のうちに疾病として片付けていた」
そうだ、意識のまなざしや言葉を使った思考が立ち上がる前に、
それらを疾病として片付ける必要がある。
ほとんど無意識のうちにそれができるようになるまで、
下意識モード、すなわちサブボディになる訓練を積む必要がある。
それができてはじめて、『病める舞姫』の世界に
からだごと入って行くことができる。
意識の眼で読んでも、弾き返されるだけだ。
それは通常の世界ではない。
それは下意識モードになってはじめてキャッチできる生命共振の世界であり、
クオリアが非二元かつ多次元で共振している世界なのだ。
尋常では無いことが次から次へと起こる。
だが、なにひとつ驚く必要はない。
君が毎夜見ている夢の世界と同じだ。
キラっとした意識の眼差しや言葉が介入すると、
たちどころにたち消えてしまう。

『病める舞姫』を読むにあたって要求されているのは
なによりも意識を消す訓練をタップリと積むこと、
ただ生きているだけみたいないのちの明るさになること、
これである。




 
2015年3月19日

いのちの不具・障害と共振する

今年は例年になく3月の第二週から、
『病める舞姫』のクラスを始めた。
サブボディ技法の基礎と、土方巽の舞踏技法を
区別する必要がなくなったからだ。
この数年間のもがきによって、
いつのまにか両者はひとつに溶け合ってきた。
調体を複合し深めていく道に、『病める舞姫』からの学びが重なっていく。
それは後に紹介するとして、今日は『病める舞姫』のなかの
直接病める舞姫に言及している節を紹介しよう。
それを一言に縮めて言えば、いのちの不具・障害と共振せよ!になる。

[19 病弱な舞姫のレッスン]

寝たり起きたりの病弱な人が、家の中の暗いところでいつも唸っていた。畳にからだを魚のように放してやるような習慣は、この病弱な舞姫のレッスンから習い覚えたものと言えるだろう。彼女のからだは願いごとをしているような輪郭でできているかに眺められたが、それとてどこかで破裂して実ったもののような暗さに捉えられてしまうのだった。誰もが知らない向こう側の冥さ、この暗い甦りめいた始まりを覚えていなかっただろう。だから教わって習うなどできないようなところで、私も息をついて育っていったのである。こういう病人を眺めさせっれると、弁慶の泣き処を棒のようなもので思いっきり殴られて、からだを解きほぐしたいといういう欲望が、からだから削ぎ出されてくるのだった。が、たいがいのとき、からだは無欲で畸形の影を跨ぐようにして動いた。

[ 舞姫に混有されてしまう私]

何にでも噛みつかれるからだを、構成し捉え直したいと思わぬでもなかったが、この寝たり起きたりの病弱な舞姫の存在の付け根にそって靡いてしまい、私はすぐにこの舞姫に混有されてしまうのだった。

小賢しい自我や思考の習癖を脱ぎ捨て、
ただ生きているだけの命になれ。
子供の頃、不具や障害を持ったいのちに最初に出会ったときの
衝撃を思い出せ。
だれもが土方巽少年のように、すぐさまその舞姫に混有され、
からだの一部が本当に動かなくなってしまうような
生命共振の体験を持つはずだ。
『病める舞姫』が始まるのは、
思考がその衝撃を隠す前の純粋な生命共振への驚きからだ。
「わたし」と思ってしまってはもう遅い。
「わたしは彼じゃない。彼はわたしではない」という
二元論的な思考の囚人になってしまうからだ。
ただ生きているいのちになり、
思考が始まる前に存在するかすかな生命共振を思い出すことだ。



2015年3月11日

なぜ衰弱体になる必要があるのか?―3.11生命共振記念日に

強くありたいという自我の習癖を脱ぎ捨て、
限りなく弱くなること。
衰弱したいのちになること。
弱くなればなるほど、
強い自我がまたぎ越してきた、
弱り切ったいのち、侵され憔悴しきったいのち、
壊れかけたいのち、死に瀕しているいのち・・・
らの、微細にふるえる癇の花に気づくことができる。
自分もまた、おなじく微細に震えているいるからだ。
そう、「自分」の強さと、共振力が反比例していることに気がつく。
そして、世界中の悲惨が国家や自他をこえて、
ひとつにつながっていることに。
生きとし生けるものがひとつのいのちであることに、
からだが目をさます。

土方巽も、1968年の伝説的なソロ、
「土方巽と日本人ー反乱する肉体」を踊り終えて、
周囲は賞賛の嵐が吹き荒れ、門下生が日本中から詰め寄せてくる中、
はっと気がついた。
こんな強い英雄的な踊りをしている限り、
からだの闇に棲む死んだ姉さんは、振り向いてもくれないことに。
夢枕に立った姉さんのささやきが聞こえたのだ。
「くにおちゃん(くにおは土方の幼名)、
お前が踊りだの表現だの無我夢中になってやっているけれど、
表現できるものは、何か表現しないことによってあらわれてくるんじゃないのかい。」

そういってそっと消えていった。

「ぐったりしたこころ持ちにならなければ、
人の行き交いはつかめぬものらしい。」


『病める舞姫』に記された一行は、
その土方の人生の転回を語っている。

強い舞踏から、衰弱体舞踏へ。
自分を表現しようとすることから、
表現しないことによってはじめてあらわれてくる
生きとし生けるものの、死に瀕する「癇の花」との共振へ。

誰にも転回はある。
3.11がその転回になった人も多い。
思い出そう。
もっとも悲惨な目にあったときのいのちの震えを。
あらゆるいのちが微細にしかし限りなく多彩に震えていることへの気づきを。
わたしたちが掘り抜くべき未踏の坑道の入り口がそこに開いている。
その坑口を降りるか、またぎ越すかはあなた次第だ。

だが、毎年の3月11日は、
その坑口の存在に気づかせてくれる
今に生きるいのちの共振記念日なのだ。


 
2015年3月8日

からだの闇、すなわち非二元かつ多次元の
リゾーム的共振世界へ、ようこそ!


明日から新学期が始まる。
例年なら、晴天のヒマラヤの空をステップイーグルや
ヒマラヤン・グリフォンが大きな羽を広げて滑空する写真を掲げて
歓迎するところだが、ことしは異常な荒天が続き、
青空はめったに見えない。
そこで、今年は不可視のからだの闇の世界へご招待しよう。
共振塾では、日々刻々思考と内的なおしゃべりを止め、
からだの闇に耳を澄まし、かすかなシグナルにからだを預けて
からだごとその世界に入り込んでいく。
それは日常世界の二元的論理や階層的思考などが
まったく役立たない、異次元・異世界である。
土方巽はそれを「自他分化以前の沈理の関係の世界」と呼び、
ドゥルーズ・ガタリは階層秩序のツリーに対して、リゾームと呼んだ。
古い東洋の瞑想者たちはそれが非二元世界であることを知っていた。
そこでは、日常界のように、こころとからだは分離していない。
下意識(サブコンシャス)とからだはサブボディとして一つになり変容流動している。
その世界にからだで潜っていく。
行く手がどんな世界であるのか、
現代物理学のひも理論が切り開いている
11次元のカラビヤウ空間での多次元共振のイメージが
かろうじて行く手をほのかに照らしてくれる。
クオリアと同様に非二元多次元で共振しているものは、
ひも理論における11次元の極小微細空間で共振し、
宇宙の万物を生成しているひも以外にはない。
生命だけが感じるクオリアもまた、
おそらくひもの共振によって生み出され、変容流動しているだろう。
低次な日常思考を止めなければ、
一歩も入ることもできない世界だということが少しは分かるだろう。

過去何人かの新入生はその世界をおそれ、
触れることもなく日常世界へ帰っていった。
何が起こっても驚かない心準備が必要なのかもしれない。
ときには、古代の人が恐れた憑依のような現象も普通に起こる。
なに、恐れることはない。ただの生命共振なのだ。
生命が感じるクオリアの多次元非二元共振は、
日常ではありえないような、とんでもない形や
想像もつかないような速度や規模でいくらでも起こる。
自他や生死、群れと個などの日常界では絶対的とみなされている
境界もいたるところで消失し、横超が起こる。
今日のスライドショーは、産婆としての老婆心からのものだ。
これを好み、これを味わい、これを楽しんでください。


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2015年2月8日

<すり抜け>と<間・背後で踊る>

この十年、人前で踊ることから遠ざかっていた。
だが、その間、わたしには妙な癖があった。
共振塾で塾生がそれぞれに自分のからだの闇に潜って探体しているとき、
その背後や、脇や、脚の間や、足の下や、
二人の塾生の間にできるさまざまな間隙で短く踊ることを常としていた。
ずいぶん長い間それを続けていたらしいが、
それと気づいたのはようやく去年のことだ。
去年の夏のポーランドで「山崎、・・・」を踊るまで、
ずいぶん長い間人前で踊ることから遠ざかっていたが、
その間にわたしのサブボディさんは、間・背後で踊るという
新しい踊り場の可能性を探求していたらしい。
自分のサブボディがなにげにやっていることの意味を
意識でそれが何であるのかをはっきり把握するまでには時間がかかる。
わたしも今年になるまでなぜわたしのサブボディ=コーボディさんが、
間・背後で踊ることを好むのか、気づくことができなかった。

インドリゾ―ミングツアーで、何十年かぶりに、昔よくやっていた
<すりぬけ>という技法の練習を再開した。
人と人の間を通りぬけ、すりより、変幻して、かすめるように離れる。
そうすることでひとりひとりが離れて単独で踊るよりも、
はるかにダイナミックに場が変容流動し始めるからだ。
そして、そのすり抜けと、わたしのサブボディが無意識で行っていた
間・背後で踊ることの間に密接な関係があることに気づいた。
人の間や背後や脇で踊ると、自分では予想もしなかった
未知のサブボディが出てくる。
しかも他の人との間・背後ででてくるのでサブボディとコーボディの区別もない。
わたしのサブボディ=コーボディさんは無意識にいつも塾生の背後や間隙で踊ることによって、
その新しい探体の坑道を掘り進めていたらしい。
このふたつが結びつくことによって、これまでのノマド・リゾームに
さらに無限のサブボディ=コーボディ変容が起こる。
これがリゾームになるための新しい変容技法だ。

各人がそれぞれに踊るだけでは、彼らは無意識に
常世界の個体間距離を保って離れて踊るので面白みにかける。
これまでも共振塾では互いに等距離の個体間距離を保つことを
「シティ・パーク」と呼んで避けてきた。
そのかわりに、日本の石庭のように互いに変化に富む
絶妙の距離をとって、共振を開くようにガイドしてきた。
<石庭コーボディ>と呼んできた。
<すり抜け>と<間・背後で踊る>は、それをさらに
発展深化してさらに無限の変容力をもつリゾームになろうとするものだ。

リゾーミングの深化へ


長い間、ここ20年以上もリゾームにこだわり、
リゾームになる技法としてリゾーミング技法を編み出してきた。
当初のリゾーミング技法は、からだを細胞単位にまで細分化し、
その一部の細胞があるクオリアに共振変容することによって
その変容がからだの一部位から他の部位へ波及変容していくというものにとどまっていた。
だが、リゾーミングがすり抜けや間・背後の踊りと結びつくことによって、
個と群れの間の境界があいまいとなり、
どこからでも変容が始まり、波及伝染していく統体としての
リゾーム変容がいたるところで起こることになる。
リゾーミングは、個人のからだ単体で起こっている限りでは
まだ十分ではない。人と人の間で、個と群れの区別さえ消失するところまで行かねばならない。

わたしであるとか�、ないとかいうことがどうでもよくなる地点まで

いままではこの最後の壁を通りぬけることができなかったのだ。
ソロだのデュオだのという既成の公演形態に縛られている限り、
パフォーマンスが自我や自己を見せびらかすことにしかならないという
どうしようもない限界がある。
踊り手を自我や自己の枠内に縛り付けてしまうのだ。
そこを突破してリゾームという未来の人間のありようを示すには
劇場を超えた別の公演形態が創出されねばならない。
畏友デビッド・ザンブラーノのパッシング・スルーや
マーク・トンプキンの即興劇場は、そこを抜け出ようという試みの一つだった。
パッシング―スルーだけではサブボディ=コーボディの深みが抜け落ちてしまうのが難点だった。
だが、そこからもっと遠くに行かなければならない。
サブボディとコーボディの区別が消え、
私であるとかないとかということがどうでもよいことになる
未来の人間の地平を開くまで。
どうやらこれが私たちの最後の大仕事になりそうだ。
インドリゾ―ミングツアーのプネビエンナーレでは
出品作品の間や背後をすり抜け、絡みつき、交じり合いながら
風のように駆け去っていく新しいノマドリゾームのありようを追求してみようとおもう。
わずか1週間でどこまで行けるかわからないが。
残る課題は2015年共振塾でじっくりやるつもりだ。
やっと、楽しくなってきた。



 
2015年2月5日

これがリゾームだ!

ムクドリの群れがパレスチナの上空で見事な空中芸を見せた。
2つの群れが合流し、合体し、自在に分離する。
まるで地上の人間が国境や宗教や政治などの共同幻想に縛られ、
うまく共振できないのを笑うかのように、
未来の人間の手本をあざやかに示した。
これぞ、リゾームだ。
個と群れの変幻の師だ。
人間という幻想を脱ぎ、
自己=主体という近代の悪夢を脱ぎ捨ててはじめて
わたしたちは変幻自在なリゾームになることができる。
2015年の共振塾は、ここに焦点を当てる。
もう、よそ見はしない。
インドリゾ―ミングツアーで、
間・背後で踊ることと、すり抜けの技法を磨いてきた。
これを統合すると、「自己=主体」幻想に囚われた
ソロだのディオだのグループダンスだのという区別は消える。
長い間囚われてきたサブボディ(個人の下意識のからだ)、コーボディ(その共振形態)という二元論的な当座の定義からもおさらばできる。
すまない! これまでの塾生諸君!
なによりも、共振塾を押しとどめていたのは、私自身の
「自己=主体」という囚われだった。
その囚われのために、自己=サブボディが主体として
背後世界や、飛び交う精霊を感じて踊るという近代二元論的な
解釈しか塾生に届けることができなかった。
主体として踊るのでも自己を表現するのでもない。
同時に個でもあり群れでもあるリゾームになること。
同時に主体でも客体でもある非二元的なリゾームにならなければ
何も始まらないのだ。
この気付きにたどり着くためにわたしにとって
インドリゾ―ミングツアーが必要だったのだ。
今年以降の共振塾に期待してほしい。
リゾームはたった一人でも群れであり、すべてである。
人間を脱いで、リゾームになろう。
死者にも精霊にも、宇宙の森羅万象にも変幻する
あらゆる境界を超えて変容自在なリゾームとして生きよう。
やれやれ、
やっと本音を口にすることができるようになった。
そしてほんとうに必要なリゾームになる技法を見出すことができた。
ここまで来るのに20年かかった。





 
2015年1月19日

石を叩く

去年のポーランドから、今年のインドツアーにかけて
いたるところで石を見つけては叩いた。
跳ね返る石で自分のからだを叩き続けてきた。
まるで死に場所をさがすように、石をさがす。
石はどこにでもある。
いたるところで踊り場が見つかる。
いったいわたしは何を叩いているのだろう。

生命共振を忘れ凍りついたからだを叩きつづけている。
いつか、山崎が生まれ変わり、
私たちのからだを借りて踊り出すだろうと信じている。
いのちが時空を超えて共振しはじめると。

途方もない夢だ。
この途方もない夢を生き続けて死ぬつもりだ。

インド西ベンガルのシャンテニケタンでは水蓮池のほとり
にレンガの塔を建てて叩いた。
叩くレンガが砕け散った。


2015年1月5日

インドリゾ―ミングツアー、今後の課題


フェイスブックのインドリゾーミングツアーのページに、
旧友かつわたしの最初の舞踏の師・桂勘さんの書き込みがあった。


今年はLee さんの世界をかいま見たいです、いつ頃がいいでしょうかお知らせください。謹賀新年、京都は銀世界、百万遍からみた大文字山が真っ白ですが大の字はくっきりです。」

その返信を書いているうちに、こ思いがけなくのツアーの深部の動機や
今後の課題がくっきり浮かび上がってきたので、そっくり掲載します。
舞踏に関する微妙な困難を語り通じ合える相手はごくごく少ない。
相手がいなければ言葉にすることもなかったかもしれない。
勘さん、ありがとうございます。
************************************

桂勘さま

興味を持って頂いて恐縮です。
実はこのインドツアーは、ここ数年共振塾で取り組んできた、
土方巽の『病める舞姫』の土方巽にとっても未踏の舞踏世界を切り開くために、
生徒を誘おうとする試みがことごとく挫折した挙句の窮余の一策として出てきたものです。
そんな世界は日本をはじめ先進国の社会からは情報化の波に洗われて根こそぎなくなっていて、若い人にはもう理解も想像もつかないようです。
そこで、土方巽やわたしの幼少期にはまだ残っていた土俗のアニミズムの精霊たちと身近に触れ、不可視の背後世界におびえ震えつつ暮らしている人々のありようを、生徒にからだで知ってもらいたくて実験したものです。
『病める舞姫』とはそういういのちの根源的な震えから踊る未来の舞踏、「生命の名で呼ばれうる舞踏」を志向したものだと思います。
インドのカースト外の少数部族の人々の間には、『病める舞姫』と同じかすかなしかし多彩で豊かな生命共振をしながら暮らしている人々が残っていることを過去の旅で知っていたので生徒を連れ出しました。
今年の旅はほんの様子見で、かれらの匂いを嗅いですり抜ける以上のことはどこまで出来るかわかりませんが、
来年の冬12月―2月には第2回インドリゾ―ミングツアーとして、
アッサム、シッキム、マニプール、ナガランドなどのヒマラヤ山麓のモンゴロイド系の山岳部族の地を訪ね、しばらく一緒に暮らしながら修行したいと思っています。
そちらのほうがもっと『病める舞姫』にそっくりな暮らしが残っているはずです。古来日本の入り母屋の家、味噌汁の匂いが流れてくる村、干支をもつ少数部族もいます。
部分参加でも結構です。ぜひご一緒ください。

今年の共振塾の予定は3月9日から6月初旬の舞踏祭までが前期、
7,8月はスペイン・ドイツ・ハンガリーでのヨーロッパでのワークショップ、
9月から11月下旬の舞踏祭までが共振塾の後期、
そして12-2月が第二回インドリゾ―ミ ングツアーとなります。
今年の旅を踏まえた『病める舞姫』への取り組みは
4,5月と10月頃になるかと思われます。
勘さんがいらしたら、一緒に共同研究ができれば幸いです。

では、今年もよろしく

Lee カルカッタ奥の寒村より


追 2017年秋には9-11月の日本ツアーを計画しています。
東北や北海道に舞踏の原風景をたどることが可能かどうか、検討中です。もう日本にはあまり期待しないほうがよいのかもしれませんが。
さいわい岩手の一関に東北共振塾を開いてほそぼそとやっているイグという古い塾生がいますので、そこを手がかりに秋田の土方巽研究会などの力も借りることができればと思っています。



 

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 2015年1月1日

明けましておめでとうございます

 
写真はラジャスタンのオーシャンの小さな砂漠で
太陽が地平線に沈む日没時に撮った。
光の回析現象か、レンズの仕様か分からないが、
からだの一部が日光に喰われて写った。

今年もよろしくお願いします。

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