2015-2

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からだの闇を掘る
 
 南インドの自然と文化と少数部族の人々
 
2015年12月27日

脳みそをインドの水でザブザブ洗おう!

南インドは各時代の人類の多様なありかたの生きた宝庫だ。

今年のインドツアーは、南インドの各地を歴訪する。
その中心となるバンガローやタンクールのあるカルナタカは
いまから15年前に何度も旅してジャングルや山岳地帯の
少数民の部落を訪れた。
アーリア人やドラビダ族がインドに来るはるか前の
10万年前にはじめてアフリカからインドに移住した人々の子孫が
今も同じ暮らしを保持して森の奥深く棲んでいる。
アフリカのピグミー族に似た真っ黒い顔、縮れ毛、短身の人々だ。
森の自然と共に生きる彼らアニミズムの人々から多くのことを学んだ。
「自然が俺たちの神様だ」と彼らの一人は言った。
おそらく今の生命共振という考え方は彼らから受け継いだものだ。
その後、メソポタミアから来たドラビダ族の子孫や
アーリア人が平地のヒンドゥの主流を占めているが、
彼らとは混じらぬ山岳民は驚くほど多彩な時代の文化を保存している。
石器時代以来の森の智慧を保つ少数部族民。
紀元前の原始仏教やその前のジーナ教の石窟や地下寺院も多い。
東南アジア源流の原始的な稲作の文化は驚くほど日本と似ている。
アレキサンダー大王の遠征の落とし子であるギリシャ人の子孫や、
ポルトガル人がアフリカから連れてきた奴隷の子孫も
彼らの文化を守って生きている。
南インドは石器時代から歴史時代を通じて、さまざまな時代の
人間のあり方を今も保存している人類史の生きた宝庫である。

現代の急速に発展しつつある高度情報化時代の生き方を、
過去や未来からの目によって相対化する眼差しを身につけるには
うってつけの場所だ。
わたしは15年前にインドのジャングルで生まれ変わった。
わたしたちはちっぽけな自分だけを大事にする自我や、
洪水のように押し寄せる情報にがんじがらめにされている。
南インドのジャングルは、現代的な思考を止め、意識を鎮め、
ごくごくかすかなイノチのふるえに耳を澄ます
サブボディ生命共振技法の隠れた源流のひとつなのだ。
(ああ、行きたいなあ・・・。)



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 百万視聴御礼!
 視聴数 1,024,853 ; 予約視聴者 1,203

YouTubeの共振塾ビデオが百万視聴を突破しました。
ご愛顧厚く御礼申し上げます。
今後も、生命共振のとてつもない面白さを追求していきます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

 
 壁を超える共振リゾーム
2015年12月26日

生命共振美の探求


私たちが行っているのは、生命共振の美の探求である。
従来、生命共振などというものに誰も目を向けなかった。
そんなものがあることさえ知らない人が多い。
だが、美のもっとも深い本質は生命共振なのだ。
目で見て美しいとか、耳に快いとかの情報レベルではなく、
深い無意識のからだのレベルで、
いのちがクオリア共振によって深く動かされるとき、
人間にとってそれが<美>という経験となる。


その昔、能の世阿弥が行き着いた<幽玄>という美もまた、
微細なあるかないかの、生と死の間でふるえている
生命共振美の発見であった。

土方巽が行き着いた究極の美は<癇の花>である。
にっちもさっちもいかないところまで追い詰められ、
見にくく変形凝固したイノチがなお生きようとする姿であった。

この夏ハンガリーで行った障害者とのワークショップで、
一週間いろいろ練習した中で、一番やりたいのはなにか?
と参加者に尋ねたところ、からだが石に変形した後、
そこから新しいイノチとして再生するというものだった。

この人生ではもう障害を持ったからだからは逃れようがない。
だが、舞台の上で違う生命に転生したいという
切実な希求が込められていた。
そこにこそイノチの究極の美が生成する。

これからわたしは、まだまだ未挑戦のさまざまな障害を持った人々との
共同を深めていきたいと思う。
ヨーロッパのオーガナイザーは、盲目の人々との共振や、
さまざまなトラウマに苦しむ人々との共働を計画してくれている。
未知の挑戦になるが、さいわいこれまでの経験を総合すれば、
どんな不都合が起ころうと、それを創造に転化することができる。
創造の世界ではマイナスはマイナスではなく、
創造の資源が埋蔵されている宝庫であることを知っているからだ。
プラスはマイナス、マイナスはプラス。
明るいは暗い、暗いは明るい。
それが舞踏マジックである。

新しい生き方を求める人来たれ、ヒマラヤへ!



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食虫植物 エッシとコーボディ 
2015年12月24日

これが共振リゾームだ!


今年の舞踏祭で塾生たちのこの踊りを見たとき、
わたしは、生まれてはじめて本当の<リゾーム>が出現したと驚いた。
すべての踊り手が、存在の底からいきいきと、
次から次へと、信じられない程の変幻自在な展開を見せてくれた。
イノチの創造性がフルに開くとここまで面白くなるのかと驚かされたのだ。
今期から力を入れてきた<共振リゾーム>の実験のもっとも
成熟した達成だった。

このビデオや写真に沿って<共振リゾーム>とは何かを説明しよう。

<共振リゾーム>のエッセンスは、私たちが人間として囚われている
自我、自己、国籍、性、能力/障害などの境界をすべて取り払って、
自由に連結し、自在に分離する透明なイノチになることだ。
今年わたしたちは、からだの闇に潜って、出会ったすべてのクオリアを共有し、
自他の区別のないリゾームになって共振することを続けた。

リゾームとは、階層的な秩序や、善悪、正誤、自他などの
二元的な判断に縛られたツリーに対して
正反対のあり方を志向する未来の人間のあり方だ。
リゾームとは、他の人のからだの一部に自由に連結し、
いつでも分離することができるもっとも柔軟なからだとなることだ。

<共振リゾーム>は、以下の共振技法の統合によって生まれた。
まず、もっとも大切なことはなにものにもとらわれない
透明なからだになることだ。

<透明になる>

・ 内側に半分、外側に半分耳を澄ます
・自分の動きの50%は発明し、50%は他と伝染する
・内外、自他の区別を超え、任意のクオリアを受け入れ変成する
・一人、二人、三人、多数と柔軟に任意の数になって踊る。

<尋常でない空間と時間をみつけて踊る>

・通り抜ける
・すり抜ける
・他の人の背後、間、上や下、隅っこなどで踊る
・からだの任意の部位が他の人に絡みつく

<多様なサブボディ= コーボディになる>

・ときにはソロ、デュオ、トリオ、様々な数の群れに自在に生成変化する
・ 常に新しい共振パターンを発明する

今年の舞踏祭では塾生たちが上記の技法をじょじょに身につけ、
それらを駆使して踊れるようになった。

これらすべてを統合することで、各自がイノチの創造性、独創性と
共振性を全開することができた。
今後もわたしたちは、イノチがもっと自由に、
もっと変幻自在な透明体になるまで探求し続けるつもりです。

新しい生き方を探す人、ヒマラヤへ来たれ!
イノチの共振を磨こう!




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2015年12月20日

すべては生命共振からはじまる

何か、とんでもない変化が世界に起こっている。
人類史はじめて登場した世界を結ぶインターネットという
情報網の怪物が誰も予測できない速度で増殖し、
わたしたちの生活を変えつつある。
その行方はまだ誰も知らない。

今から15年前に舞踏ビデオをインターネットにアップロードし始めた頃
は、視聴数は毎日数人か数十人レベルだった。
だが、最近になって視聴数が爆発的に伸び始め、
いまでは毎日、世界中の数千人が共振塾ビデオを楽しんでいる。
そこに自由な生命共振という斬新な美があることを
世界中の人々が発見したからだ。
総視聴数はとうとう百万を突破した。
予約視聴者も1,200人に増加した。
マイナーな芸術だった舞踏ビデオを、
楽しみにする人々が世界中に増えてきたのだ。

この変化はいったい何を意味するのだろう。
今日たまたまfacebookで、ブラジルのグスタボ・田中氏の
「特別な何かが世界で起こっている。
ほとんどの人は気づいていないが」

という同じ問いに関する記事に触れた。
彼の視野は経済・政治・文化・精神・生き方にわたる広いものだが、
そのなかで、次の箇所に深く共振した。
「世界中の人々の精神や生き方が変わりつつある。
たとえば、ヨガや瞑想は、かつては変人奇人や難解なことを志向する
ごく少数の人のものだった。
だが、ヨ ガや瞑想をする人々が増加し、ひとびとが現代社会の
<自分のための自分>という狂ったアイデンティティを脱いで、
世界の生命とともに共存在していることに気づきつつある。」


舞踏もまたかつては変人奇人、難解趣味の少数者の芸術だった。
それが急激に百万視聴者というレベルに変化した。
全世界の人口70億人という数字に比べれば、百万などまだまだその
0.01%に過ぎない。
だが、インターネットの普及は急速度に進んでいる。
ヒマラヤの山村ダラムサラの子どもたちも多くが
モバイルを手にするようになった。
世界中のひとびとが、国家や宗教、文化の境界を超えて、
最先端のアートに触れることができるようになる日は近い。
このなかで、舞踏はこれまでの特異な少数者の芸術から、
世界に広く生命共振を開く、新しい地平へ脱皮しなければならない。

共振塾の踊りも今年、自我や自己に囚われていたこれまでの
狭い視野を超えて、自我や自己をひとつのイノチに変成して共創する
<共振リゾーム>へと脱皮した。
それが世界中の視聴者のイノチの共振を呼び起こした。
わたしたちはこれを機に、なじみにくく、説明もしにくい
「サブボディ=コーボディ」という名称を押し出すことを控え
もっとシンプルに<共振舞踏>へと名を変えようと思う。

すべてはかすかなかすかな生命共振から始まる。
もっと深く普遍的な生命共振の美を共創する地平へ躍りこんでいこう。
21世紀を、これまでの狭い境界から解き放たれる
生命共振の世紀とするために。



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2015年11月5日

透明さと自在跳梁

それまで、まったく別のものだと捉えていたふたつのものが、
突然ひとつのものを別の側面から見たものだということに
気付かされることがある。
気付きはたいていその形でやってくる。
<透明さ>と<自在跳梁>もそうだ。
<透明さ>は、若い頃からの理想のものだった。
なぜかは分からないが透き通ったものに惹かれ続けた。
水晶、魚の稚魚、笛の音、などなどだ。
踊りをはじめてから、その傾向はますます嵩じていった。
自我や思い込みなど不透明なものが見える踊りはつまらない。
そんなものは踊り以外の世界に満ち満ちている。
踊りで見たいのは透き通ったイノチの震えや息遣いだ。

そして、<自在跳梁>のほうは、
わたし自身の伝染熱などのサブボディが、なんの脈絡もなしに
次から次へ別世界や別次元へぴょんぴょんと転換していく
性質を持っているのを不思議に思ってきたが、
土方巽の『静かな家』の舞踏譜の最終3節が、
<自在跳梁>の見事な見本を見せていることに縫合して、
確信を深めた。
それがクオリア共振のもつ普遍的な性質であることに。
夢や神話が論理を超えて跳梁するのも同様だ。

そして、同時に創造に<自在跳梁>が求められるのは、
意識や思い込みなどの二元論的な制約から解放されるためにも、
このクオリア=生命共振の論理にしたがう必要があるからだ。
くわしくはビデオを御覧ください。
中学レベルの英語で、うまく喋れているかどうかは
心もとないのですが。



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ドリームボディ
2015年10月28日

もっとも原生的なイノチのふるえを踊る

10月の最後の週は原生夢に取り組んでいる。
生涯で見たもっとも印象深い夢、繰り返し見る夢、
忘れることのできない夢を原生夢あるいは固有夢と呼ぶ。
これまでのドリームボディ劇場と少し違うのは、
すべての塾生が原生夢の中にイノチのもっとも根源的なフルエを
きっちり捉えていることだ。
きちんともっとも深い謎や秘密が潜んでいる夢を取り出してきた。
そしてそれを全員でシェアし、共創している。
文字通りの<共創=共同創造>が実現しようとしている。
透明な生命共振に集中してきた今期の成果だと思う。
というより、なぜこんなに長い時間がかかってしまったのか、
自分にはがゆい。
ドリームボディはもう20年も取り組んできているのに、
生徒に対して、その最深部にあるイノチのフルエに焦点を当てるのだと
明晰に導くことができていなかった。
口先で自我や自己を脱ぐと千回万回口走ってきたが、
その実、自分の気づけないところで
どんなに深く自我や自己に囚われていたことか。

だが、こんなものなのだろう。
何かが熟成していく時間とは。
ハイデガーが言ったようにものには固有の時熟の時間がある。
熟してはじめてそれと分かるのだ。



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 Video: Sergio, Interview: Jonathan
2015年10月14日

共振リゾームとはなにか?

今世紀で一番重要な問題はね、
だれがどうして世界を変える方法を発明するかってことなんだ。
<共振リゾーム>はそのための仮説の一つにほかならない。
この夏スペインの山中で開いたはじめての
<共振リゾームワークショップ>の最終日、
主催のジョナサンのインタビューに答えて水辺で少し語った。
良い音で録音してくれている。


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2015年10月12日

土方巽とは誰か?

土方巽は、なぜ舞踏を創出せねばならなかったのか。
また、最期になぜそれまでの暗黒舞踏をすべて脱ぎ捨て、
衰弱体舞踏に行きつかねばならなかったのか。
自分自身のからだの闇を毟り、
イノチの必然に耳を澄ます作業を深めれば深めるほど、
土方の必然ともより深く共振できるようになる。
自分が誰であるかを知ることと、
土方が何者であったかを知ることは密接に共振している。
10月の初め、塾生たちにこれまで50年の
土方巽とのからみ合いのごく一部を語った。




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2015年10月11日

透明になるまで差っ引く

自分の中から余分なものを差っ引く。
無意味に強気な自我や、元気ぶっている仮面の自分。
ぐずり続ける赤児のわたし、粘菌のような性衝動。
ときおり顔を出す代替転換屋、テーブル返し。
わけのわからない不透明なものらすべてを踊りに転化することによって
自分から差っ引く作業が、創造だ。
土方巽の<Xによる還元>とは、平たく言えばそのことだ。
土方も、死んだ姉と共振できる透明なイノチになるまで、
自分自身の強気な踊りやパフォーマンスを差っ引き続けた。
透明になるまで差っ引き続ける。
この二年、すこしずつ踊りを再開しはじめて分かった。
それらのものを差っ引かないかぎり透明なイノチになることができない。
差っ引き、差っ引き、残ったものが透明なイノチだ。
透明なイノチになりたい。
そう思って生きてきた。

イノチとしてのわたしは、40億年続いている生命潮流の一部である。
その生命史から無限のクオリア共振パターンを受け継いでいる。
イノチは百年かそこらに限られた個的な存在であるばかりはない。
イノチは透明な類的存在なのだ。
個としては、やがて数年のうちにこの世から消えるほかないが、
そのとき、何を40億年の生命史にお返しできるかが問題だ。
わたしがイノチから受け継ぎ、ほんのわずかな発見と創造を付け加えた。
いまわたしはそれを<共振リゾーム>と呼んでいる。
いろんな別け隔てを超えて、共振連結し、自在に分離する、
イノチの新しいありかただ。
この生き方を世界に伝えていきたい。
だが、まだうまく伝えるには至っていない。
狭いサブボディ共振舞踏という枠内から飛び出さなければならない。
透明なイノチのほうへ。
どうすればその坑道を開けるか。
正念場に差し掛かっている。



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2015年10月8日

バニヤン・リゾーム in プネ

今日は、ベトナム反戦闘争のなかで死んだ山崎博昭の48回忌だ。
あれからもう半世紀近くも経ったことになる。
日本を離れて長いがたまに目にするニュースでは
日本は半世紀前より、ますますひどくなっている。
戦争の惨劇を知らない人が増えたのか、
エゴに囚われている人が多数を占めるのか。
もう、帰りたい故郷ではなくなってしまった。
この二年間、世界のあちこちで踊るたびに、
山崎石を叩き続けてきた。
一つの石を山崎の墓標と見立てて、石で叩いていると、
いつの間にか逆転して、山崎がわたしのからだを叩き始める。
そして、最初はソロであった踊りが、
いつのまにか多くのコーボディとともに踊るようになり、
山崎が50年のときを経て、
多国籍の踊り手となって再来するようになった。
二年後の2017年10月8日、
羽田に山崎博昭の50周忌記念碑が建立される折に、
踊りたいと思ってこの二年この踊りを育て上げてきた。
ポーランドで踊り始め、インドリゾーミングツアーで、
ラジャスタン、カルカッタ、そしてプネで踊ったのがこのビデオだ。
スネーハルが、生きたバニヤンツリーの根や気根に、
わらで創った根を連結させて、
リゾーム度を増幅させたインスタレーションに、
さらに踊り手が絡むことで、
リゾームそのものがはじめて現出した踊りになった。
このなかでも山崎石を叩き、石に叩き返される踊りを試みた。
この夏にドイツで踊ったときには、山崎石叩きのあと、
山崎が多くの古い塾生に転生して踊りだした。
それによってこの踊りの原型は出来上がった。
だがそれと同時に、もう日本で踊ることには
それほどの意味が見いだせなくなった。
日本は遠くお金のかかる国だ。
多数の踊り手とともに日本ツアーをしようとすれば莫大な資金が
必要になるが、そんな資金集めをするエネルギーが湧いてこない。
むしろ、それよりもやりたいことがいっぱいある。
障害者や、カースト外の部族民などとの間の障壁を越える
共振リゾームを展開することに残りの人生を捧げたい。
山崎はわかってくれると思う。
死者には生者が囚われているような国境はないからだ。
さらば、日本。
わたしたちは世界に求められている。



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2015年9月13日

心身の可動域を拡げる



週末、共振塾後期の第二週を前にして、
第一週の塾生の動きになりこんで、
何が求められているかに耳を澄ます。
これが毎日曜日の産婆としてのわたしの日課だ。

人間の現代の日常生活からやってきた新しい塾生の心身は
まだまだ日常生活の可動域に閉じ込められている。
新入生のうち、何人かは舞踏の経験もあるが、
舞踏に接するのがはじめてという塾生もいる。

何が求められているかというと、
からだの可動域と、心の可動域をサブボディ域に、
そしてさらに、生命共振の可動域にまで拡張することだ。
第二週はそれに焦点を当てよう。

日常体のからだの特徴は、
からだが現代の人間社会に求められる域に閉じ込められている
ことだ。
体幹を固定し、股関節と肩関節、指関節という<人間>の幻想に
制約されている。

調体五番 秘関・秘筋を開く

まず第一は、その人間幻想を脱ぎ、忘れられている動物としての
仙腸関節、胸鎖関節、手足の秘骨関節を開くことだ。

調体七番・序 リゾーム ウエーブ

第二は、立位のからだで下部から動くボトムウエーブ、頭から動く
トップウエーブを身につけることだ。
足、足首、膝、股関節、仙腸関節、体幹の背骨を下部から首まで
順に波打つように動かすのが、ボトムウエーブ、その逆に頭から
順に波打つのがトップウエーブだ。
ボトムウエーブは、植物的な動き、トップウエーブは動物的な動き
の基礎になる。

第三は、からだの中心やその逆の先端から動くセンターウエーブ、
エッジウエーブの動きを習得することだ。
下肢(脚)の場合は、仙腸関節から、股関節、膝、足首、足の秘関
節、第三、第二、第一の趾関節という順に波打つように動くセンタ
ーウエーブ、その逆に四肢の先端から蛇のように動くエッジウエー
ブの習得だ。
上肢(腕)も同じく、胸鎖関節、肩、肘、手首、指の秘関節、第三、
第二、第一という順に動く、センターウエーブ、その逆のエッジウ
エーブを体得する。

調体七番・破 リゾーミング変容・密度を運ぶ

第四は、<密度を運ぶ>リゾーム変容術(=リゾーミング技法
)の体得だ。
これは、まず上記のボトムウエーブ、トップウエーブ、センターウ
エーブ、エッジウエーブと同様の順に、
からだの密度を運んで、固体、流体、気体へ変容するボトムリゾ
ーム、トップリゾーム、センターリゾーム、エッジリゾームを繰り返
し練習する。
それが済めば、からだの任意の部分から変容するランダムリゾー
ム・背後世界の変化に共振するワールドリゾーム、時間の流れを
変容するタイムリゾームへ進む。

<密度を運ぶ>とは土方巽の用語で、固体、流体、気体へとか
らだの密度を変えることによって、
石や木などの固体、動植物、原生生物、水や油の流体、雲や煙
の気体へと変容する技法だ。
それは人間の動きだけではなく、宇宙の万物に変容するための
必須の身体技法だ。

今期の第一週目は、ボトムウエーブとボトムリゾーム、トップウエ
ーブとトップリゾームを練習した。
第二週目はセンターウエーブ、センターリゾーム、エッジウエーブ
とエッジリゾームを繰り返し練習することになる。

第五は、からだのどこからでも動き始め、変容し始めることができ
る上記の練習を基礎に、
自他の区別を超えて、どの部位も、他の部位と自在に連結し、
また分離することのできる<共振リゾーム>への変成だ。
リゾームとはツリー状の自他区別と階層構造の幻想を断ち切り、
からだのどこからでも動き始め、変容し始めることのできる柔軟
な変容性と、からだのどことどこが共振連結し、また自在に分離
することのできる共振性をあわせ持つ新しい人間のイメージだ。

これらは、調体七番の<リゾーミング調体>としてまとめられる。
リゾーミング技法は、かれこれ二十年以上も探求してきた技法だが、
<共振リゾーム>展開の中で、もっとも中心的な変容技法に位置
づけられるようにまでなってきた。

それは、上記一番から三番への物理的なからだの可動域を拡張
する調体が、
同時にこころの可動域を日常の人間的な制約から解き放ち、
下意識のからだ(サブボディ)の可動域である記憶や夢や元型的
な妄想にまで広げ、
さらには、祖型的ないのちのふるえやおびえ、縮みとゆるみなどの
生命共振域にまで拡張することだ。
下意識・無意識界では、日常域のからだとこころの分裂は消え、
自他の区分も消滅して非二元かつ多次元な共振変容が起こる。
その世界へまっすぐに降りていく坑道が、<共振リゾーム>であ
り、それはまた、<生命の舞踏>の共創を開く道なのだ。

(事項・「ツリーリゾーム」に続く)



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 2015年9月13日

<ツリーリゾーム>論理の完成へ


(前項よりつづく)

方向も座標もないからだの闇を手探りで掘りつづけて、
やっと<共振リゾーム>という新しい道が開かれるところまで来た。
40代で舞踏家として踊り始める前も、ずいぶん若い頃からわたしは
からだの闇の底知れぬ謎と秘密に向き合い、掘り続けていたのだと
いうことを知った。
<共振リゾーム>と<生命の舞踏>は、
いよいよそれらすべての生きるためのあがきを統合することのできる
道だ。
とりわけ、性の闇、関係の闇、世界という闇のすべてと格闘すること
のできる道だ。
十数年、産婆という役割のなかで眠っていたわたしのサブボディも、
<共振リゾーム>のなかで蠢き始めた。
これまで決して踊ろうとしなかったわたしの中の
幼いことに母をなくすことによって、幼児的な性欲に囚われてきた
わたしの中の<りゅうり>と呼ぶ第二人格も、
ようやくその問題を踊りの創造の中に昇華しようという
動きに目覚めてきた。
おそらく、<共振リゾーム>が、善悪・正誤・良否の二元判断から
解放されたいのちの踊りを可能にするものであることが
<りゅうり>につたわり、その生命共振の闇を動かしたのだろう。
とりわけ、ハンガリーで各種の障害を持つ人々と踊るなかで、
こころの障害にとらわれてきた<りゅうり>も、
(ぼくも踊っていいのかな)と動かされたのかもしれない。
<共振リゾーム>のもつ大きな可能性が、
わたしのからだの闇でも確認されることとなった。
これは長年探し求めていた道なのだ。

「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。」

古代中国の儒者もまた、彼らなりの道を探っていた。
それはしかし、ツリー状の国家を中心とした階層秩序の世界をつ
くる道だった。
<孝>や祖先崇拝など、儒家の倫理はツリー秩序を強化しようと
するものだった。
わたしは逆だ。
ツリーを解体し、国家をはじめとするあらゆる階層秩序が死滅する
リゾーム状の生命共振世界を実現する道だ。
それが<共振リゾーム>と<生命の舞踏>の道であることは
前項で述べた。

だが、ツリーとリゾームを単なる対立と捉えているだけではどこ
へもいけない。
ツリー状の思考とリゾーム的な生命共振を大統合する
<ツリーリゾーム>の方法が完成されなければならない。
調体七番のリゾーミング技法が、トップ―ボトム、センター―エ
ッジという二元論的なツリー思考を借りることから始めざるを得
なかったように、
ツリーとリゾームを自在に行き来し、相互に翻訳可能な自在性
を身につけるが必要だ。
それなくして、どうしてこのツリーとリゾームが混在する世界と
関わることができるだろう。
だが、それはわたしがぶつかった謎と秘密の中でももっとも
難度が深い闇だ。
ここ何十年もその闇の前で苦い足踏みを繰り返してきた。
二元的な言語思考と、リゾーム的なクオリア共振を自在に
行き来する<ツリーリゾーム>の完成には、なお長い時間
がかかるだろう。
あと数年のわたしの生涯では、とうてい足りない。
世界の中の誰かが、このいのちのリレーを引き継いでくれることを
願う。



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2015年8月3日

共振リゾームの輝き



共振リゾームを踊るいのちには、人類が5000年間束縛されてき
たツリーシステムの束縛から解放された深い喜びと美しさがにじみ
出る。
自我や国家や宗教や企業などの階層秩序がどれほどいのちの共
振性と固有性と創造性を阻害し続けてきたか。そしてその束縛を断
ったいのちがいかに歓びに満ちて輝いているか。
スペインのヒマラヤ山中での試みをとくと味わっていただきたい。
共振リゾームは、ごく簡単なゆらぎやふるえ調体によって日常の思
考と判断を止め、内に50、外に50%開いた透明な下意識モードの
からだになることによって実現される。
ただ、いのちが本源的にもつ共振性を開くだけだ。
ほかのひとのふるえや動きと同じしかたで共振したり、
違ったしかたで共振するだけでめくるめくような多様な世界が開か
れる。
スペインのワークショップ参加者たちの自由な輝きを見ても
あなたはまだツリーに束縛された今の生き方を続けたいと思いま
すか?
限られた短いいのちです。最高の生き方以外をしていてはもった
いなさすぎる。わたしのいのちももうあとわずか、出会える機会も残
り少なくなってきました。
いのちに耳を澄ましてください。
「いちばんしたいことは何かい?」
「どこでどうしていきたいかい?」
どの瞬間もいのちの内奥の声に従うことです。

未来の人間への道

共振リゾームは、単に踊りのあり方にとどまりません。
それは現代の階層秩序に管理されたツリーの束縛からいのちを
解放し、未来の人間の共振性と創造性に満ちた<共振リゾーム>
という生き方への転換につながります。
リゾームには中心も上下もなく、いつどこでも共振によって連結し、
分離自在な未来の生き方です。
共振リゾームを体験する中で、はじめてツリー権力と排他的自我の
長い歴史の中で封印されてきたいのちの共振性と固有性にみちた
創造性が全面開花します。
あなただけのいのちの花を咲かせませんか?

エゴを克服する道

共振リゾームによって、自我(エゴ)を実践的に克服する道が開か
れました。
長い歴史の中で、自我と国家や宗教などのツリー的な共同幻想
は相補的に支えあってきました。どちらも自他対立の二元論理に
貫かれています。わたしたちはその長い結ぼれの中で生きてきま
した。
現代の高度に成熟した情報化社会の中では、既成の政治はみな
無効化されています。
だが、情報システムはいのちの共振は管理することができない。
生命共振によってのみ世界は深部から変わっていく。
これは一見遠回りに見えるけれども、
もっとも確実な世界を変える道なのです。
自我を鎮め、懸命に共振リゾームになろうとすることによって、
現代最大の元型であるエゴからも、
共同幻想からも同時に解放されていく実践的な未来への道が
開かれます。
あなたもその道に踏み出しませんか?



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 共振リゾーム ワークショップ 透明になる リゾーム・リー
2015年7月13日

共振リゾームへ


今年の第10回ヒマラヤ舞踏祭で、はじめてわたしは
産婆に徹してきたこの十年の自制を破って踊り、かつ
一般聴衆への「共振リゾーム」ワークショップも行った。
それを通じてこれからの自分の突き進みたい方向が
くっきりと見えてきた。
それはこれまでのわたしの歩みのすべてが結晶したものだ。
それをとりあえず
<共振リゾーム>と呼ぶことにした。
そこにはいくつかの重要な要素が重合している。

透明になること

ひとつは<透明になる>ということだ。
人前で踊ろうとすると、わたしも含めて誰もが<自己>にとらわれる。
踊りはからだを使った自己表現だという近代西洋の観点を鵜呑みにし
ている現代の多くの踊りがそうであるばかりではなく、
意識を鎮めて下意識モードになって踊るサブボディ舞踏においてもそ
れは免れない。
それどころか、乳児期や幼児期にうまくこの社会で発現することを阻害
されてからだの闇奥深く潜んだサブボディたちは、かならず未熟な小さ
な自我を秘め持っている。かれらはこの社会との上手な共振の仕方を
知らないため、ときに暴発的に出てくることもある。
だが、その強い衝動に支配されてしまうと、その抑えられていた自我の
暴発の勢いだけにとらわれて雑な踊りになってしまう。
透明であるとは、内側のさまざまな衝動にも、外側からの多様な圧
力や影響にも、何ものにも囚われないことである。
そのために絶えず内に50パーセント、外に50パーセント耳を澄ま
すという絶妙のバランスを保つことが必要である。

それによってはじめて、なにものにもとらわれない透明な舞踏が可能
になる。

自己と世界の共振を踊る

内と外に半々に開く、あるいは言葉を変えて
自己と世界に半々に開く透明体になるという課題は、
この20年探求し続けてきたが生半可な容易さではない。
だが、ようやく近年になってその道筋が見えてきた。
それは自己と世界を半々に踊るということである。
自己の側から50パーセント踊り、
世界の側になりこんで50パーセント踊る。
それをたったひとりで追求するのは非常に難しいが、
個と群の区別を超えて絶えず変容する<共振リゾーム>におい
ては
ときに世界に脅かされる自己として踊り、
ときに自己を脅かす世界そのものになりこんで踊る両方の立場が
絶え間なく入れ替わり、固定した区別がなくなる。

そう、自己と世界という二元的な対立を超えて、
自己と世界が絶えず多彩な仕方で共振しながら変容している
生命共振の実体に限りなく近づくことができる。

変容する世界を共創する

自他を超えて変容する<共振リゾーム>によって、
これまでの<自己>の立場からのみ踊る舞踏の変容枠を超えて、
世界の森羅万象に変幻する生命の舞踏への道が開かれる。
それは
土方巽の『静かな家』や『病める舞姫』における
不可視の隠れた主人公である<背後世界>や
<空気中の見えない大きな生きもの>、そして
それらの象徴である<赤い神さま>そのものにもなりこんで舞踏する。
近代最大の元型として深い無意識域からわたしたちが囚われている
<自我>を脱ぐ<脱自>の境域へ踊り出る。
それは、わたしの哲学上の師
ジル・ドゥルーズが50年前に予言し、
奇しくも舞踏の師である
土方巽も同時期に志向した
「もはや自分であるとか、ないとかがたいした問題ではなくなる」
<生命の呼称で呼ばれうる舞踏>の地平である。


今年以降のわたしは、もう余計なことはしない。
わたしと一つ違いの、尊敬する舞踏家
室伏鴻さんが急死したように、
わたしもうあとどれだけの時間が残っているのか知れない。
いのちにとって、もっともやりたいことだけを
やりたいやり方でやり続ける。
それが<共振リゾーム>の展開である。
室伏兄も、ドゥルーズを深く愛し、
劇場で突っ立つ死体として踊るばかりではなく、
近年、南米の生徒とともに路上で見事な共振リゾームを展開した。
ツリー状の階層秩序に囚われきった現代の世界は、
もはや既存の政治的な行動によっては変革不可能である。
あらゆる情報が巧妙精緻にコントロールするシステムが完成し
てしまったからである。
ひとびとが「人間」を脱ぎ、生命として共振するリゾームになること。
これだけが世界を変えるために、
今わたしたちにできるたったひとつの道である。

いのちが共振するクオリアは、情報システムにも手が出せない。

今年夏のヨーロッパでのワークショップと
共振塾ヒマラヤの後期はその新しい探求の場となるだろう。
これがわたしの最後の活動になる。
同行衆の参加を切に待っています。




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