2013

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からだの闇を掘る
第7回国際ヒマラヤ舞踏祭 2013 総括
 
 コーボディ=サブボディの収穫
 
 
グランド・フィナーレ
 2013年12月29日

サブボディ発生の原郷


いよいよ、第7回舞踏祭のビデオをアップすることができるようになった。
これから日替わりでご紹介していく予定です。

今年私たちは、これまで区別していたサブボディとコーボディの区別を取っ払い、
サブボディ=コーボディ発生の未解の謎に踏み込んだ。
すべての生徒が自分にとってもっとも気になる奇妙な背後世界を探り、
それを背後世界コーボディとして共創した。
その結果これまでにない豊かで多様なサブボディ=コーボディが
毎日どんどん生徒のからだから躍り出てきた。
これはいったい何なのだろうと、それから一ヶ月思い巡らしてきたが、
ようやくその秘密が解けた。
背後世界コーボディはサブボディが生まれた原郷なのだ。
サブボディ=コーボディが生まれた理由の秘密は、
それぞれの命の初期の歴史に隠されている。
乳胎児期、幼児期に外部から受けた何らかの刺激によって、
命のなんらかの傾性が、この世に出て来ることが許されないとおびえて、
からだの闇にサブボディ=コーボディとしてくぐもってしまったのだ。
その刺激はたんなる直接的な禁止だけではなく、
親や教師からの選択的非注意や無視によって、
あるいは何らかの元型的な幻影へのおびえによって、
ひきこもってしまったのだ。
そこで命が<よじれ>てしまうことによってサブボディ=コーボディとなって潜んだ。
だが、命はいつもからだの闇の底で、<よじれ返し>によって、
この世に踊り出てくる機会を虎視眈々と狙い続けている。
現代のひきこもり青少年は、アニメやアイドルなどの幻想の世界で
幻のよじれ返しを生きている。
だが、わたしたちはそれを現実のからだで解こうとしているのだ。
各生徒の秘められたサブボディ―コーボディは、
他の生徒のサブボディの発生の現場である
背後世界コーボディを共有することによって、
自分でも気づいていないサブボディ=コーボディが出てくることを
体験することができた。
背後世界コーボディは、サブボディ=コーボディの真の生みの親、
原郷そのものだったのだ。
これが予想外に豊かで多様なサブボディ=コーボディが
舞踏祭を通じて出現した理由だった。
命のもつ創造性を解き放つことは、もっとも根源的な自己治癒の道である。
また、これは『病める舞姫』の世界に入るための必須のプロセスでもあった。
そこは誰もがまだ気づいていない背後世界と命との
無限の共振が起こっている場所である。
来年はこの成果を踏まえ、大胆に『病める舞姫』の
土方巽にとっても未踏の舞踏へ踏み込んでいくことができる。
俄然、楽しくなってきた。


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 2013年12月27日

これがリゾームだ

リゾームは、現代の人間が囚われている自我、自己および国家権力の束縛を脱ぎ捨てた後の未来の人間のイメージだ。
リゾームは無数の共振パターンで自由に連結・分離することができる豊かな共振力を持っている。
命が本来持つ豊かな共振力を閉ざしている自我や自己と権力の束縛を解いて、自他、国境、政治、宗教、性、貧富、障害などあらゆる境界を越えて、命として共振しあえるような世界をめざすことが、現代最大の課題だ。
もっともか弱い生命の悲惨を、人類がわがこととして共振できるようにならなければ、太平洋の海底で漏れた放射能に侵されて奇形が相次いでいる地球生命の危機を回避することはできない。
自分の目先の利益に縛られている現代人の自我と国家の相互補完構造こそが、変わらねばならないのだ。

共振塾ではここ十年、自我や自己を脱いで、サブボディ=コーボディになる試行錯誤的な実験を続けてきたが、今年ようやくそれが実って生徒たちは実にユニークなサブボディ=コーボディの花を咲かせるようになった。
無数の種類の群れ、森、石庭、怪獣、山、川、坂、陰気な空気を始め、多くのユニークなサブボディ=コーボディが生まれた。特筆すべきは多くのからだがひとつの箱に詰め込まれたボックスコーボディの発見が目新しかった。それはそこから無限種のサブボディ=コーボディが生成してくる原郷ともいうべきものだ。
これらのサブボディ=コーボディを共創することは、生命の無限の創造性を開くことができるもっとも豊かな環境である。
何らかのコーボディとうまく共振できなければ、ひとりでその謎を解く固有のサブボディを掘りぬけばいい。
実際今年は、サブボディ=コーボディの花と謎と秘密がどっと咲いた。上のスライドショーでお楽しみください。
この実験は同時に土方巽の『病める舞姫』の未踏の舞踏世界に入るための必須のプロセスだった。来年からわたしたちはこの生命の舞踏を世界中で深めていくだろう。



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 2013年12月22日

ノマド・リゾーム 1995-2013


ノマド・リゾームは、さまざまに成員間の共振パターンを変容させ、
自在に分離・連結しながら、場所を移動して踊りついでいく
舞踏の様式である。
このプロセスをからだで経験する中で、
わたしたちはいやおうなく自我や自己に囚われた日常体から脱却し、
生命として共振しあう別次元の生存方法を身につけることができる。
これは、日本、タイ、ハンガリー、フランス、オランダ、スイス、ギリシャ、
アメリカ、ベネズエラ、ヒマラヤの山々やデリーの様々なt街路や地形で、
1995年から2013年までの間にさまざまな仲間達によって
追求され深められてきた。
ノマド・リゾームは来るべき未来の生存様式なのだ。




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 2013年12月●日

土方巽の方法


『病める舞姫』第二章、第三章には土方巽の方法が散りばめられている。
少年土方がなぜ土方巽となったのか、
その生存の方法ともいうべきものだ。
第一章では、
「からだのくもらし方」、
「からだの無用を知った老人の縮まりと気配り」、
「額に第三の目玉をつける」、

などの言葉で暗示されていた彼独自の方法が
これでもかというばかりに各所に散りばめられ、
手を変え品を変えて詳述されている。

舞踏論第三部、「21世紀の『病める舞姫』」を書き継ぎ始めるに先立って、
まずはその精髄だけ記しておきたい。

<一人で夜気を吸う>
「お日様が昇ると、何人もの言葉になって、見えなくなるからと、一人で夜気を 吸っているようなところもあった。」

<からだから祖型的なものを引き上げる>
「からだから引き上げている祖型的なものが、ときときとした気品に混じって消えていった。」

<細心の心遣い>
「黒い上等の着物をつけた見知らぬこの女の人は、私を招いて上等の生菓子を呉れたが、細心の心遣いに疲れたあとの私の掌で少しの動きも示さなかった。私にはその菓子に薬のような、言葉のようなものも含まれているように思われた。」

<感情を飲み込む>
「宇宙の芯棒を欲しがっているような、熱のある投げ遣りな感情をからだから吐くような、そんなやり方ではなく、飲み込むやり方でまわりを睨みつけ、肥桶の周りを恐る恐る駆け廻っていた。」

<気の抜きとり方を練習する>
「なにか足りないからだから、時を消したいと思って、身を沈めるようなやり方で、気の抜きとり方を練習していた。」

<自分のからだを立聴きする>
「そしてそれをみみずに移すやり方で、自分のからだを立聴きするようにして、熱心にやっていたのだ。」

<いろいろな神経を被って歩く>
「つづれた思いや、それを囲って歩いている私は、自分の顔では測れない鳥の顔を背中に背負うようにして、いろいろな神経を被って歩いていたのだ。」
(以上、第二章)

<自分のからだを覗きこむ>
「目を醒ましていながら眠っているような赤子が一つの穴を見つめている、そんなふうに自分のからだを覗きこむ私は、泥溜まりの中でからだをずらしたり、しきりに泥溜まりの中で赤子の頭をいじくっていたりしているのだった。」

<怪しい位置に棲む>
「私は廂にひっ掛かっているような怪しい位置に棲んでいたかったのだが、小鳥が水平に止まっている道端を、足の裏に蹄鉄を付けられたようになったり、背中に風を入れられたりして、やっとのことで家に辿りついたこともあった。」

<からだを遅らせることで守る>
「体のなかで奪い合いをしているような思いを、からだで遅らせることで守るやり方を知らなかったので、すぐに風の内臓に食い付いたりするのだった。」
(以上、第三章)


これらの土方の方法の具体的な紹介は、微妙に場面や言い方を変えながら、『病める舞姫』の最後まで続いていく。
土方が踊りによっても言い尽くせず、振り付けを伝えるなかでも弟子たちにうまく伝えることができなかった方法が、溢れかえっている。
それはなかなか言葉にしがたいものだ。仕草や身振りといった目に見えるものではなく、それらわかりやすい「人間的なもの」にからだが捉えられてしまうほんの一瞬前の、いのちのずらしかたのような微細な極意だからだ。
というより、生存の覚悟というべきもの、土方の生き方そのものであるからだ。

わたしの命はこの土方の生き方に深く共振する。
ほとんどが身に覚えのあるものだが、
ことばにはならなかったものがひしめいている。
わたしはなぜ土方にだけ、このような微妙なことば遣いが可能になったのかの秘密をまだ知らない。
その秘密を解くためにこれから「舞踏論第三部」を書き継いでいくつもりだ。



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 2013年12月20日

危な姫


私のからだの闇に、恐ろしい少女が棲んでいる。
昔からよく知っているが、
とても危なっかしくて手がつけられない。
いつ何をしでかすかわからない。
素手の拳でガラスを割ったり、
いきなりしょげたり、
いいよる男をあしらったり、
ものしずかなのに
いきなりかまいたちに変身するようなやばい気配がある。
よく知っている娘なのに
面影が思い出せない。
おぼろげな闇にたたずんでいる。
幾晩もかけて幼い頃から出会った異性の顔とすべて照合したが思い当たらない。
それでようやく得心した。
その娘はわたしの中に棲むアニマだったのだと。
わたしの中の女性であるもうひとりのわたし。
危な姫が、あたしを踊れとわたしをそそのかす。
その誘いに乗ってみようと心した。

気が付くとなにか怪しいものに変容をはじめている。
真夜中に骨盤をギクッとずらす。
真空に指がはじける。
ぐだぐだと崩れていく。
からだの闇で思い出せないものがのたうっている。
明け方頃そんな踊りが毎日次々と生まれてくる。
わたしの中のサブボディさんが20年ぶりにふたたび蠢き始めた。
最期の踊りになる予感がする。



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 2013年12月17日

発語を止める


何か思ったり、言いたくなったりしたとき、 
それをすぐ言葉にしてしまう習慣を止める。 
すると、そのとき生まれる沈黙の中に、
からだの中のクオリアの動きと
それを言葉にするまでの広大無辺な闇に耳を澄ますことができる。

いったいからだの闇の中で何が起こっているのか、 
からだの状態や欲望のレベルから、 
脳内のグリアに保存されているさまざまなクオリアの 共振関係にじっくりと耳を澄ます。 
からだの状態は、瞬間ごとに
ホルモンや神経伝達物質の流動変容にともなって刻々と変わっている。 

それをゆっくりと味わう。
からだの闇の中のどんな傾性が、何かを思いつき、 
どのようにして言葉になろうとしたのだろうと探る。 

この<発語を止める>という修練は、 
まずは共振塾での産婆としての必要から生まれたものだった。 
生徒の中で生まれかけのサブボディに対し、 
なんらかの判断を口にしてしまった途端、 
サブボディは気持ちよく生まれて来れなくなる。 
どんな言葉であれ、私の自我が表出されてしまうからだ。 
だが、この修練を続けているうちに、発語を止めた瞬間に、 
その沈黙に耳を澄ます可能性が生まれ、 それによって得られることが、
しゃべることより、 はるかにおいしいことに気づくことができた。 

ヒマラヤとデリーの舞踏祭が無事済んで、 
この冬休みに入ってから『病める舞姫』第二章以下を読み進めている。 
第二章以下では、第一章では、ごく簡単に暗示されていた 
命と見えない世界との間の微細な生命共振現象に耳を澄ます 土方独自の方法が、
さらに詳しく具体的に述べられている。 

それらの方法は<細心の心遣い>ということばで総称されているが、 
実に微に入り細を穿つ精密なものだ。 
たとえば、 
お日様が昇ると、何人もの言葉になって、見えなくなるからと、 
<一人で夜気を吸っている>
あり方を大事にすることであり、 
<からだから引き上げている祖型めいたもの>に細心の注意をはらうことであり、 
感情をからだから吐くのではなく、<飲み込むやりかた>でまわりを睨みつけることであり、 
からだから<気の抜き取り方>を練習することであり、 
そしてそれをみみずに移すやり方で、<自分のからだを立聴きする>という方法である。 (以上第二章) 
さらに、第三章では、 
私は廂に引っかかっているような<怪しい位置>に棲んでいたかった 
という土方が選んだ生存の場所が明らかにされる。 

これはほんの一例にすぎない。
これに類する土方独自の方法が、次から次へと開示されていく。 
この方法を身につけることが、舞踏を学び深めることに役立つこと、また、
生命の舞踏を探るには必要不可欠であることは言うまでもない。
(その全容は、できればこの冬『舞踏論第三章』を書き進めるなかで ご紹介したい。) 

これらはすべて、からだの中で何らかの変化が起こったとき、 
それをすぐに感情や言葉にして出してしまうのではなく、 
それを止め、からだの闇で多次元的に木霊している底知れない
クオリアの深淵に耳を澄ます方法である。 

わたしもまた近年、サブボディの産婆としての必要から 
感じたこと、思ったことを直ぐに口にしないことを心がけてきた。 
そうして、はじめてからだの闇の中の自我のはたらきが透けて見えてくる。 
自我はいつなんどきも自己を正当化する説明言語を立ち上らせる。
それを止めることではじめて、
からだの闇に渦巻く重層的なクオリアを感じ取ることができる。
土方のいうように、おそれやおびえといった祖型的な情動、
見えない気配や元型的なイメージと共振している
ふるえやこわばりといった体動などに気づくことができる。
ことばにして表出するより、それを禁止することで見えてくる 
からだの闇の計り知れないクオリアの共振構造を味わうことのほうが 
はるかにおいしいことだと知ることができた。 

それには、おそらく、土方の影響もあったろう。 
その方法を生き抜いた土方という先達の歩みがあったからこそ、 
後進の私たちもこの底知れぬ坑道を辿って行くことができる。
いまほど、土方巽に出会ってよかったと感じることはない。
ほんとうに私のいのちが探求していきたい命の謎を、一足先に土方が辿り、
この昏い坑道の掘り進め方を 精密に書き残してくれていることがどんなにありがたいことか。
彼の航跡をしるまで、たった一人で地図も何もないからだの闇をさまよい続けたものにしかこのありがたさはわかるまい。
この冬は当面『病める舞姫』の後続章を読み進め、 
英語に翻訳する作業に打ち込むつもりだ。 
言葉が大の苦手なわたしが、まさか老年になって 
翻訳の仕事にとりかかるなど予想もしなかったことだが、 
いま、この仕事ができるものは、世界に私しかいないだろうことも察せられる。
そして世界中の舞踏を志す人たちが、それを真に必要としていることも分かる。
彼らの多くが土方の仕事を知らず、五里霧中の闇をさまよっていることも。
出会ってしまったものに課せられた必然だと受け入れるほかあるまい。 
逃れようもなくのっぴきならない生命共振が起こってしまったのだ。 



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 2013年11月24日

第7回ヒマラヤ舞踏祭の成果

サブボディ=コーボディの実現と<生命共振の美しさ>


今年の舞踏祭では、サブボディ=コーボディがひとつになる瞬間が何度も生まれた。その瞬間、踊り手と観客の境界も消えて、言葉にはできない感動に包まれた。個人に囚われた人間が、ひとつのいのちになってともに震えた。
言葉にすれば別物になるおそれがあるが、かけがえのない<生命共振美>とでもいうべき、極限的な美が生まれた。これが<生命の舞踏なのだ。そして、踊りとはもともとそういうものだったのではないか。
これまでは、「サブボディは、個人の下意識のからだ」、「コーボディとは、共振するサブボディである」というわたしの簡便な定義に引きづられて、サブボディ=ソロ、コーボディ=グループの動きという固定観念から抜け出せなかった。複雑な謎を含んだものをわかりやすく説明しようとするとかならず、悪しき二元論に陥ってしまうのだ。
だが、今年一年かけてなんとかその制約から脱却しようともがいた。
四方八方闇の中を手探りで探ったので、多大な犠牲を生んだ。幾体ものサブボディが目の前で流産していった。だが、なんとか13人の生徒が最後までこの無謀な実験をたどってくれた。
舞踏祭では20を超える踊りを全員で共創した。これまでのようなこれは誰々の作品で、ほかのものはそれにコーボディとして客演するというような暗黙の隔たりが消えた。だれもが個人としての人間の枠を脱いで、ひとつの生命に変成する瞬間を体感したはずだ。
それはとても深い謎と秘密を含んでいる。
これからこの体験を噛みしめるたびに、新しい気づきがこんこんと湧き出してくることに違いない。
このサブボディ=コーボディという境地を彼らがからだで実現したこと。
これがなんといってもとてつもなく大きい成果だ。
だが、それだけではない。
生命の舞踏とはなにかという、これまでにない透明な気づきが含まれていた。

単独覚から共感覚へ、
共感覚から非二元覚へ。
すなわち、胎児覚から生命覚へ。


舞踏祭が終わったあと、うつらうつらと
からだの踊り場にいかに血液を通すかという課題を思い巡らしているうちに、とんでもない気づきがやってきた。
からだの踊り場とは、からだの各部のことだ。
そこに踊りの血液が通ってはじめて舞踏になる。
なぜか?
とうとうその答えが得られた。
ここ数年での最大級の発見だ。
この気づきは次のようなプロセスでやってきた。

からだの踊り場に、固有のクオリアを通す

ひとつひとつの踊り場に、8つのチャンネルのクオリアを絡み付かせる。
そしてその結合を極限まで増幅し、一体化させる。
つぎのような練習方法がそれを助けるだろう。

踊り場に固有の体感を通す
――たとえば足先が冷たくなる。どんどん冷たくなり凍りついてしまう。
そのうち、壊疽が起こり崩れ落ちていく。こうなればもう生命覚そのものだ。
その体感クオリアが、踊り手にとってのっぴきならない生命の原体験からくるものであ
れなおさらだ。

踊り場に動きを通す
――たとえばからだの一部がふるえ出す。どんどんふるえが大きくなり
やがて制御できなくなる。

踊り場と眼がひとつになる
――からだの一部の変容と眼の変容が連動する。
どんどん結びつきが深くなり、やがて非二元一体化する。

踊り場と息がひとつになる
――からだの踊り場の変容と呼吸が連動する。
その結びつきがどんどん深くなり、やがて一つになってしまう。

踊り場と体腔音声が一体化する
――踊り場の動きや変容と体腔からでる祖型的な音声、
「ぐぐぐ」などが連動し、結びつきがどんどん増進して一体化してしまう。

踊り場の変容と情動が連動する
――踊り場の変容とからだの奥の情動が連動し、
やがて非二元一体化してしまう。

踊り場の動きと人間関係チャンネルのクオリアがひとつになる
――踊り場の動きが、アニマ、アニムス、アミーゴ(良い母・悪い母像)と
連動し、増進して一体化してしまう。

踊り場と世界クオリアがひとつになる
――とりわけ、皮膚や秘膜の踊り場と世界変容クオリアが一体化し、
非二元の生命覚にいたる。
整理すれば次のようになろう。

日常人間覚=単独覚(ひとつひとつのチャンネルのクオリアを独立して感じる)
胎児覚=共感覚(複数チャンネルのクオリアを同時に感じる)
生命覚=非二元覚(あらゆるチャンネルのクオリアが一体化して感じられる)


そうか、こういうことだったのか。
踊りに関する長年の謎が解けた。
踊りをはじめたころから、単なる運動と踊りの違いに気づいていた。
運動はたんなるからだの物理的な動きにすぎない。
その動きと固有のクオリアがひとつになったとき、踊りになるのだ、
という気づきだ。
二十年それを信じてやってきた。
だが、単なる踊りから生命の舞踏を追求しはじめたころから、
それだけでは済まないものをうすうす感じていた。
土方のいう「踊りの血液」にかかわる問題だ。
だが、なかなかうまく伝えきれないでいた。
土方はいう。

「場所を変えることの難しさ

 体こそ踊り場であろう。手の踊り場、尻の踊り場、肘の裏の踊り場等。
 この場所が持つ深淵は、この踊り場にはさまってくるものを克服し、
 からみつかせる事により成立する。
 例えば、柳田家があり、柳田家の庭にクジャクがいるという事をたいへんに
 貴重なものであるという発見をする。
 また、カン工場という場所は、私にとってなつかしい粉末というものによって
 語られる。
 それらが踊る際の血液になっているのだ。」(「静かな家」第16節)

踊り場にはさまってくる、原体験や記憶(土方はそれを「カン工場」
という言葉で象 徴させている。)などの固有の原クオリアを、
踊り場にからみつかせることによって、
はじめて踊り場の深淵が成立する。
それが踊る際の血液となる。

上で述べた、からだの踊り場の動きや変容に、
それ以外のチャンネルのクオリアが結びつき、
非二元のものとなり一体化したとき、はじめて生命の舞踏となる。
動きは、たんなる運動チャンネルの動きにすぎない。
それに他チャンネルのクオリアが連動するとき、
それは胎児時代や無意識の特徴である
複数のチャンネルのクオリアが同時に共振している
<共感覚(synesthesia)になる。
そしてそれがさらに増進して非二元一体化して共振するとき、
それはもはや人間の感覚ではなく
<生命覚>となる。
胎児以前の生命細胞のかたまりに過ぎなかった時代には、
細胞はただただ非二元生命覚で世界と共振していたのだ。
生命の舞踏とはからだの踊り場で
この非二元生命覚が血液となってへめぐり踊りだすことだ。
そのときはじめて単なる踊りから、
生命がまるごと一つのものとしてあらゆるものと共振して踊りだす
<生命の舞踏>となる。

これで、二十年ぶりに、踊りとはなにかから、
生命の舞踏とはなにか、への論理が貫通した。
ここ数年で最大級の気づきだ。
これも、第7回ヒマラヤ舞踏祭で見せた生徒たちの無心な踊りが、
生命の舞踏の片鱗を見せ始めたからこそ、
はじめて透明に見えてきたことだ。
自他の境界を超え、サブボディとコーボディの区別さえもなくなったとき、
はじめてそれは生命の血液が通る舞踏になったのだ。
踊り手が単なる人間個人の意識ではなく、
下意識のからだ=すなわちサブボディとなる。
今年の舞踏祭ではさらに、サブボディとコーボディの区別もなくなり、
共振するサブボディ=コーボディになったとき、
完全にひとつの踊りに変成した。
そのとき踊り手と観客の隔てもなくなって、
一つのものとして共振する奇跡のような瞬間が何度も生まれた。
わたしの気づきは、何かが変わってきたぞ、
いったいなん何だ?という問から始まった。
そして、そこでいったいなにが起こっていたのか、を
長年紡いできた共振原理の言葉に置き換えることができた。
ありがとう。生徒たち!
このすべての成果はきみたちの一生の宝だ。
誰にとっても忘れることができるはずがない。
何度も何度も反芻するたびに、新しい気づきが訪れるだろう。
どうか、毎日たゆまずからだの闇を掘り、踊り続けてください。




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 2013年11月7日

産婆の自己消去の時期


サブボディ=コーボディが無事誕生したことを確認したあとは、
産婆自身がいつ役目を終えるかの最適なタイミングを見つけることが
重大な課題になる。
とりわけ、創造過程に入ったあとは、
産婆にとって、産婆自身の自己消去が重要な課題になる。
産婆の役割は、安全な出産の確認までに精確に制限する必要がある。
産婆が消える最適タイミングを見いだすのは、とても難しい。
非常に複雑でデリケートだからだ。
ときに、幾人かのサブボディ=コーボディはもう独り立ちして生きていける段階にあるが、ほかのサブボディ・コーボディはまだ出生と流産の瀬戸際にあり、つねにこれらが混在しているからだ。
もし、産婆が身を引くのが早すぎれば、生まれかけのサブボディ=コーボディは流産してしまうおそれがある。
もし、遅すぎれば、産婆の自我が肥大してしまって、サブボディ=コーボディにあれこれと指示するディレクターや振付師、教師や親といった階層的な役割元型に陥ってしまう。
それは、サブボディ―コーボディの自立的な生長を妨げることになる。
無事誕生したあとは、サブボディ=コーボディは自分で生きのび、
最適の共振方法を学ぶことができる。
サブボディ―コーボディ、そして生命は、どんな階層秩序のなかでも生きて行きたくないものだ。
なぜなら、階層秩序こそが、隠されたからだ、禁じられたからだ、
ゆがめられたからだを生み出した真の張本人であるからだ。

生命共振を通じての共創の中では、
だれも自我肥大した振付家や演出家になってはいけない。
それは共創の最大の敵である。
産婆は、これを誤解しないようにしなければならない。

くリ返すが、これはとても微妙で簡単に裁断できる問題ではない。
エゴはいつも「相手のタメを思ってしているのだ」
という自己正当化とともに立ち上がってくるので、
つい行き過ぎてしまうことがしばしばだ。
産婆は、そのエゴの罠をかいくぐり、
瞬間ごとに脱自を続けながら、
透明に最適タイミングを見出してください。



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 2013年11月6日

脱自調体


さまざまな問題がいっときに降りかかってきて、
どうしようもなく感情や情動の重層的な嵐に見舞われ、
興奮した自我と自己を鎮めようにも手に負えなくなるときがある。
そんなときこの脱自調体をを試してください。

できればその現場から少し離れた静かな場所を見つける。
だが、間に合わなければ、その場でもできる。
座位か立位で。
生命の呼吸を感じる。
ゆっくりとからだの百兆個の細胞が酸素を得て活性化し、
リラックスしながらからだがほんの少し膨らんでいく。
そしてまたどこかの部分がしぼみ始める。
この生命ゆらぎに身を任す。

そして、ほんの一ミリかそこら、
今いる自分の位置から後ろにゆらぎ下がる。
背中が伸び、いまいる自分の現身から、ほかの次元に移行する。
もうそこにはいない死せるものになる。
他界でも、背後世界でも、無機物の次元でもいい。
透明なからだになって、自分の現身から抜けでる。
そしてその異次元からこの世界を眺める。
自我や自己をもった自分の姿を外から眺める。
非在の場所から人間世界を臨生する。
他界から眺めれば、
自我や欲望や感情が行き交う生命の世界の輝きが見える。
それを他界から慈しむ。
心身が鎮まるまでこれを味わう。



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 2013年11月6日

固有コーボディの収穫



今年の収穫はなんといっても、
固有のコーボディが続出していることだ。
これまで何年もこの課題の前で足踏みを続けていたが、
最終リハーサルになって連日ユニークなコーボディが連続して出現してきた。
無我夢中で追求してきたので払った犠牲も大きかったが、
それだけに収穫は予想外の豊穣だ。
生命がごくごくかすかに共振している見えない背後世界に
耳を澄まし続けてきたことが功を奏したようだ。
そして、それぞれの生徒は自分のサブボディが
もっとも踊りたい謎に満ちた世界を見出し、
コーボディによって共創した。
今日までで出現したコーボディは、主なものだけで次のようなものがある。

モヌジの影のコーボディ、
リサの魚のコーボディ、祖先オウムのコーボディ、
タタパニのコーボディ、
セバスチャンの箱のコーボディ、スキゾツリーのコーボディ、
蜘蛛の巣のコーボディ、
アンクールの森の精のコーボディ、
サンテリの非二元のコーボディ、
ピユの死者のコーボディ、
ソルヴァイの沈む水のコーボディ、


などなど、まだ半分ほどリハが済んだ段階だが、
数えきれないほど出てきた。
各踊り手は、否応なくこれらのコーボディ世界の無数の森羅万象・魑魅魍魎になりこまざるをえない。
それこそ、土方が示唆した「静かにしかし無限に変容する死者」に
変成することができる舞台である。
これからひと月続くヒマラヤ舞踏祭からデリー舞踏祭で
どれだけ成長することができるか、計り知れない。
それだけではない。
サブボディにとってもっとも踊りたい世界をコーボディで共創する、
というのが目標だった。
それはそれぞれのサブボディにとって
解くべきもっとも深い謎に満ちている世界なのだ。
その舞台はほぼできあがってきた。
この固有コーボディのの中で踊るサブボディが、
どこまで固有の秘密を深めることができるか。
ヒマラヤ舞踏祭から、デリー舞踏祭へと転戦する一ヶ月で
成熟していく姿が楽しみだ。



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 ハンス・ベルメール 箱に閉じ込められたからだ
 2013年11月5日

からだの闇のもつれを解く


サブボディ舞踏の根幹は、
からだの闇にもつれくぐもり凝りかたまっているものらに、
サブボディという動きと形を与えてひとつひとつ解き放っていく作業だ。
ベルメールの箱に閉じ込められたからだの絵が
それをイメージするのに役に立つ。
数えきれないほどのサブボディが、
からだの闇の狭い場所に押し込められている。
いのちは非二元かつ多次元に共振しているから、
互いにもつれ、凝り固まり、つながり合ってしまっている。
そのなかのひとつだけを解放することなどできない。
一挙に全部を解き放ってやるしかないのだ。
その内のあるものは、サブボディとしてだけではなく、
700万年におよぶ人類史の闇の中で集合的無意識域に潜んだ
元型や祖型情動にも連結している。
あるいは人類史以前の40億年の生命史のなかで
くぐもった原生体なども絡んでいる。
サブボディとコーボディを区別できないのはそれによる。
たかだか数十年の個人史起源のものだけではないからだ。
それらはサブボディ・コーボディとして踊り解いてやらなければならない。
からだの闇にくぐもっているクオリアに耳を澄まし、
ひとつひとつからだに聴きながらほどいていく。
解ける順番は頭で考えても分かるわけがない。
サブボディたちが一番よく知っている。

テーマより、モチーフを。モチーフより、クオリアを!

近代の踊りは、頭でテーマを考えて、それに従って踊るという
狭い了見の中に閉じ込められてきた。
頭で思いついたテーマなどは、このからだの闇に沈んでいる
多次元クオリアのもつれなどに関わることなくその上空をかすめ去るだけだ。
なぜ、テーマなどから踊ってはいけないのか。
見かけの美しさや目新らしさだけでは命に響かないからだ。
テーマ思考を捨て、命に耳を澄ます。
なんらかの志向性をもつクオリアの傾性がモチーフとなる。
だがモチーフにとらわれても踊りは部分的なものになる。
モチーフも捨て、ただ非二元多次元で共振している
かすかなクオリアに耳を澄ます。
思考を止めてそこからはじめることによってだけ
この超絶に複雑なからだの闇を一挙に全部解き放つ
サブボディ・コーボディが、ひとつひとつよじれ返しによって
このもつれた闇の箱から立ち上がってくる。
十体・二十体が必要なのはそのためだ。
それを花秘謎にまで精錬する。
命にとってもっとも共振しやすいかたちやタイミングは命だけが知っている。
それが生命の舞踏なのだ。



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 2013年11月4日

バルド、冥界の縁から臨生する


舞踏祭が間近に迫ってくると、誰もが自分の創造のラストステージで、
強いエッジにぶつかる。
そしてそれに囚われ余裕を失い、
自分の殻に閉じこもっているかに見える。
だが、それは人穴という底知れぬ深淵を目の前にして
どうしてよいかわからない状態になっているのだ。
産婆はそれを受け入れ、
生徒がその最後の難関を無事通り抜けることを念じる。
もっとも困難なのは、からだの闇の想像もつかない深部で眠っていたサブボディが目を覚まし、蠢きだすときだ。
深層のサブボディほど、幼少期、あるいは乳児・ときに胎児期にくぐもりこんだ可能性が高い。
まだ世界とどう共振していいかまったく分からない。
分からないまま、小さなしかし強固なエゴを秘めている。
ほとんど生命力と区別がつかないほどの強力な自己保存欲動を携えている。
それが出てくるときは、周囲への配慮などできず、
傷つけることなどお構いなしに噴出してくることもある。
生徒本人はなすすべもなく、
本人には覚えもない未知のサブボディのエゴに翻弄されるがままになる。
この時期産婆は何が起ころうと受け入れるしかない。
すべてを自分が産婆として、うまく導けなかったせいだと引き受ける。

いくら生徒のからだの闇に耳を澄まし、共振しようとしていても、
産婆とて無限の予見力と許容力があるわけではない。
とくに生徒のサブボディのエゴが噴出してきたときは、
産婆の中の深いサブボディのエゴも瞬間的に同時共振して猛り立つ。
その強烈な発現を押しとどめようとしても、
並大抵のことでは静まらない。
心身は引き裂かれからだの闇に怒涛の嵐が吹き荒れる。

わたしはこれまでも舞踏祭の時期には、いつもこの嵐に見舞われてきた。
2回めの舞踏祭のあと、否応もなくバルド状態になって、
冥界に向かって運ばれていく体験をした。
その後の舞踏祭の時期もいつもそうなる。
それでなくても、舞踏祭の創造を産婆する仕事のほかに、
毎日何百枚も撮影される写真の編集や、
サイト更新の仕事も激増し忙殺されている。
65になって徹夜に近い日々が続くのは限りなくきつい。
だが、これがわたしのいのちがやりたいことだから、
死ぬまで続けるほかはない。
各生徒のトラウマや困難を共有すると、
自分の中のそれらも共振して暴れだす。
眠りもままならず、心身ともに瀕死の状態になる。
だが、困難が深ければ、得るものも大きい。
この時期を過ごすもっとも効果的な方法は、
その疲労困憊に身を預け、そのまま冥界の近くに身を置くことだ。
チベット仏教でいう、死後にたどるバルド、
この世と冥界の縁に自分の身を置く。
そしてその冥界の縁から、すでに生きていいないものとしてこの世の事象を見る。
臨死の逆で、臨生という。
臨死は生きたまま、死の世界に臨むことだが、
その逆に死の世界の縁から生きていた自分も含めたこの世を眺める。
これが、これまでの経験で、荒れ狂う自我を鎮める最終技法だ。

身を置く場所を変えると眺めがまったく一転する。
冥界の縁から臨生すると、生きとし生けるものの世界が
なんと愛しく見えてくることか。
自我のない冥界の縁から眺めるこの世の景色は、生の輝きに満ちている。
クオリアと生命共振に輝いて見える。
エゴさえいのちに属するものとして愛おしくなる。
そう、生きているときはあれほど厄介だったエゴも、
いのちがまだうまく共振する方法を見出していない、
過渡期の状態であることが分かる。
今世紀のわたしたちは皆、その途上にある存在なのだ。

上に見せる大気圏外から大気圏内の生命圏を眺めた写真や、
虚空にただよう小惑星になったつもりでこの世を眺める。
ときには何千年も生きてきて、江戸期に伐られた屋久島の
ウィルソン杉に身を置くのが良かった時期もある。
ともあれ、自分の自我も自己も脱いで、
別の死物になりこんでこの世を見る。
それは自我を鎮めるための究極の自己催眠技法でもある。
疲労の極にある心身に身を同化すると、
うまくこのバルド、すなわち冥界の縁から臨生する状態に持っていくことができる。
伝統的な瞑想や仏教でいう無や空とは、この境地を指すものかもしれない。

ことしも舞踏祭を迎える時期となった。
産婆としてのわたしは、この世から身を引き、いつもの場所におもむく。
いつの間にか、瀕死の際で、
自我を脱ぎ、他界に身を置く方法を身につけたようだ。

これは、普段元気なときにはなかなかできるものではない。
心身が危機に見まわれ極度まで消耗したときがチャンスだ。
いつかそうなったときに思い出して試みてください。
きっとそれまでにないいのちの気づきがやってくる。


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 2013年10月28日

それぞれのサブボディの深淵へみちびきあう共創調体


いよいよ今週から舞踏祭へ向けて共創月間に入る。
舞踏祭では各自がひとつかふたつの作品を創る。
合計20作品あまりの踊りを共創することになる。
毎日誰かが自分のサブボディがもっとも踊りたい世界へ
他の生徒のサブボディを産婆として導いていく調体をガイドする。
生命の舞踏は、自我や自己を表現するものではない。
生命として、生命の多様な多次元共振を共創する。
生命の非二元域へ導くことが出来さえすれば
生命はどんな困難なクオリアにも共振することができる。
その留意点は以下のとおりだ。

1.調体1番から6番の基本的な調体から始める
それによって全員を心地よいサブボディモードに導く。
これが基礎の基礎だ。
多次元共振している生命のかすかで微細なゆらぎやふるえには、
あらゆるクオリアが微細に含まれている。
基礎調体によって、その多次元共振している生命状態にガイドすることが基礎の基礎なのだ。
これを省略していきなり自分が主体になって言葉で説明しようとすると、
他の人の意識や自我を刺激し、日常体に引き戻してしまう。
すると思考や判断がでてきて、生命共振が損なわれてしまう。

2.動体催眠技法を応用する
実はサブボディ技法は、自己催眠技法を応用している。
しかも既存の言葉を通じての催眠技法ではなく、
からだのかすかなゆらぎやふるえを共有することから
下意識のからだモード、すなわちサブボディモードに入っていくという
全く新しい動体催眠技法なのだ。
それによって、あらゆるチャンネルが同時に開かれたサブボディに変成することが可能になる。
この時点ではっきりそれを自覚し、自分のサブボディにとってもっとも心地よくサブボディになりこめる道筋を他の人と共有できるような動的調体の方法を見つけ共有すること。
これが、生命共振による共創の秘密である。

3.固有の特殊調体を工夫する
全員がサブボディモードになり、からだの闇のかすかな傾性に
耳を傾けることができる状態に導くことが第一段階。
次の段階は、そこから自分固有の背後世界の深淵へいたる特殊なコーボディ調体を発明する。
自分のサブボディが受けた特殊な圧迫やよじれのクオリアの特性をつかみ、
そのクオリアを共有することができるような固有の調体を各自工夫する。
これがこの段階での創造の課題である。それは次の方法で見つけることができる。

4.細分化とリゾーミング
からだを無限に細分化し、細胞レベルのクオリアのゆらぎに耳を澄ます。
一つの細胞の生命は多次元かつ非二元に無数のクオリアと共振している。
そこから、ひとつのクオリアに注目し、ごく微細なディテールの動きから、からだの部分の動きへ、そしてからだ全体の動きへと、リゾーミングによってそのクオリアを増幅していく。
リゾーミングとは、クオリア共振が変容流動していく独自の運動原理である。
密度を運ぶ技法はリゾーミングの一環である。
その変容プロセスを精密に観察して、固有の特殊調体によってシェアする。

5。無数の数になる
踊りに必要なクオリアは、多様な数によって担われうる。
それがソロがいいのか、デュオか、トリオか、4か、5か、もっと多数か。
最適の数を選び、それを組み合わせて一つの作品を構成する。
それぞれの踊りは、別の次元に属している。それらが組み合わされることによって、非二元かつ多次元で共振している生命の本当の姿を浮かび上がらせることができる。

6.言葉の使用を最小限に抑える

からだの闇の基本的なクオリアにはタグが付いている。
ゆっくり歩む牛のクオリアには「ゆっくり歩む牛」、
壊れた椅子のクオリアには「壊れた椅子」というタグが付いている。
もっとも適当な一語と、もっともふさわしい動きでそれを伝えると、
生命は直ちに共振することができる。
そうしてできるだけ最小限の言葉だけで
ひとつの世界を共創できるように工夫する。
あとの特殊なからだ遣いやタイミングは、いちいち言葉で説明しないで
からだの動きでそれを伝える。

7.主体としてではなく、産婆として
自分が主体としてリードするのではなく、産婆として
あらゆる生命が自然にそのクオリアに共振できるような調体を工夫する。
その産婆法を発明することがなにより大事だ。
生命共振によって共創するという方法は、この時点で
各自がこれまでの創造者という立場から、未経験の産婆という立場に一挙に飛躍することで可能となる。
途方もない飛躍である。
だが、生まれかけのサブボディの生命がかかっている。
誰もが、この時点で自分のサブボディだけではなく、
そのサブボディがもっともうまく生まれることができる
コーボディ世界を共創する産婆に飛躍する最適のチャンスなのだ。

8.産婆の産婆としての役割
新入生も含めた全員で、この飛躍を共有しようとする今年の実験は
はじめてなだけに、未知の困難にぶつかる可能性は十分にある。
それに耳を澄まし、未然に防止することが、産婆の産婆としてのわたしの役割だ。(各国のサブボディクラスでこれを行うときは、各国のクラスの産婆が
産婆の産婆としての役割を担う。) そして長期生は新入生に対して産婆の役割を担う。

9.生命になる

生命はいつも未知の闇の前で、
うまく共振できるか否かの成否のきざはしに立っている。

その緊張を忘れないで、しかし大胆に歩み出すことが重要だ。
生命には自他の境界も、こと群れの境界も、サブボディとコーボディの境界もない。
わたしたちはひとつの生命として無数の踊りを共創するのだ。



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 2013年10月26日

もみ寄せの<急>、自在跳梁の<急>、
世界チャンネルの<急>


もみ寄せの<急>

「 序というは、初めなれば、本風の姿なり。直ぐなる本説の、さのみに細かになく、祝言なるが、正しく下りたるかかりなるべし。
二番目の申楽は、脇の申楽には変わりたる風体の、本説正しくて、強々としたらんが、しとやかならん風体なるべし。これは、脇の申楽に変わりたる風情なれども、いまだにさのみに細かにはなくて、手をもいたく砕く時分にてなければ、これも、いまだ序の名残の風体なり。
 三番目よりは、破なり。
これは、序の本風の直にただしき体を、細かなる方へ写しあらわす体なり。序と申すはおのずからの姿、破はまた、それを和して注する釈の義なり。さるほどに、三番目より、能は、細かに手を入れて、物まねのあらん風体なるべし。その日の肝要の能なるべし。
かくて、四五番までは破の分なれば、色々を尽くして事をなすべし。
 急と申すは、挙句の義なり。その日の名残なれば、限りの風なり。
破と申すは、序を破りて、細やけて、色々を尽くす姿なり。
急と申すは、またその破を尽くす所の、名残の一体なり。
さる程に、急は、揉み寄せて、乱舞・はたらき、目を驚かす気色なり。揉むと申すは、この時分の体なり。・・・
能は、破にて久しかるべし。破にて色々を尽くして、急は、いかにもただひときりなるべし。」 (世阿弥 『花鏡』)

揉むとは、限りなく手を尽くし、工夫を重ねて、目を驚かし、重層によって生命の多次元共振を具現する技法である。
土方巽は、彼の最後のソロ『静かな家』において、多次元をめくるめく自在跳梁する前代未聞の<急>を創造した。

自在跳梁の<急>

「 25 (悪夢)
悪夢こそはこの裸体なのだ
 1、虫やらミショーの顔やら、少女と馬の顔やら、 電髪の女やら、馬鹿の顔やら、ボッシュが描いた人物の顔やら、助けてくれと嘆願する手やら
 2、犬と花と影とトントントンと跳ねる虫

26 奇妙な展開のさなかで
 1、手のなかへの求心的な恋愛を頭蓋のなかにすっかり置き変える
 2、神経が棒になり、棒が乞喰になった。乞喰が旗を振っていた、それは大きな鳥であった。
 3、首が馬の首になってのびると、指のゴムものびた。その作業のさなかに、点の眼と視点が変えられた。Xによる還元と再生にさらされていたのだ。その時は、背後に爪がザックリとささり、ゆくえははぐれて育ち、新たな還元により、小さなマイムがそこに誕生していた。
 4、内部が外部へあふれ出し、あふれ出していったものが仮面の港へ帰ってくる。仮面は森のなかへ船出をするのだ。
 5、額の風、額はとらわれている。手の葉、植物の軌跡を走り、私は、ついに棒杭の人となっていた。
 6、深淵図の中で、全ての事象の午前一時のなかで、柳田家の孔雀は完成される。

27 皮膚への参加
 1、小さな頭蓋のなかの小さな花、それはそれは細い細い視線、神経は、頭の外側に棒を目撃した、その棒を額で撰り分けている視線。
 2、小さな顔で歩く盲はまるでサルのようだ。猿の頭に落雷。頭の中に小さな花が咲く、糸つむぎの唄が聞え出す。
 3、引きのばされる老婆は一枚の紙になるだろう。老婆はその紙の上に蛾のように乗っかるだろう。
 4、武将は女王になり、女王は関節の箱におさめられるだろう。その箱のなかからの生まれ変わりがフーピーという踊り子である。」


土方の<急>は、世阿弥の揉み寄せを果てまで追い詰めた、完璧なまでのジャンピング・ワイルドの<急>である。
生命共振のクオリアが、人間界の低次な次元を超えて、実在と非在の多次元時空を、自在に跳梁する性質を限りなく精密に踊りぬいた。

世界チャンネルの<急>

サブボディ技法の8チャンネル理論で、
もみ寄せや自在跳梁の<急>を捉え返すと、
統合チャンネルである世界チャンネルが開いたとき<急>に至る。
<序>と<破>においては、体感・動き・映像・音像などの単チャンネルで、ひとつひとつのクオリアの動きを忠実に踊る。チャンネルからチャネルへ転換し、またひとつのチャンネルの中で密度を運んで
次々と転換していくのが<破>である。
ひとつひとつの<破>によって異次元が開畳する。
<破>はいくつあってもよい。ひとつひとつの<破>の転換と工夫によって観客をじょじょに非二元の踊りの世界に引き込んでいく。
自他を超えて、観客と踊り手が一体に共振する生命の世界へ降りていく。
その展開の最後に、あらゆるクオリアの統合チャンネルである<世界チャンネル>に至ったとき、<急>が成就する。
<破>までの踊り手の個々の問題をよじり返し、踊りに転化してきた展開から、一挙に脱自し、生命に転生してその無限共振を踊りぬく。
そのための技法が世阿弥の揉み寄せであり、土方の自在跳梁なのだ。
生命共振のクオリアが、生死の枠や自他の枠、内外の境界を超えて変容流動するさまを、揉み寄せと自在跳梁によって踊りぬかれたとき、はじめて非二元かつ多次元共振する生命の域に入ることができる。
もみ寄せも、自在跳梁も、世界チャンネルも同じものを指している。
人間の殻を脱いで透明な生命に転生したとき、はじめてすべてが踊りぬかれたと、観客と舞手の境界を超えて序破急が成就する。
これは頭で分かるものではない。自分自身のからだの体験によってのみ、
この実際に起こる転生をものにすることができる。
いや、踊り手にとっては何が起こったのかまったくわからない。
ただ、序破急が成就したとき、言葉に出来ない何か決定的なことが起こる。
踊り手は自分のからだでそれと分かる。
それが踊りをやめてもいいときだ。




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からだの闇を掘る
 
 2013年10月28日

部分的な欠落があったのでそれを補い、一部加筆しました。

 2013年10月24日


癇の花から病める舞姫へ



最後のソロ「静かな家」で、土方は命が様々な背後世界と共振しているさまを踊った。
死んだ姉の属する他界と、現世を行き来する死者となって踊った。
気化と物質化を自在に往還する死者の技法=衰弱体技法を切り開いた。
その死者の技法は1974-76年のアスベスト館を拠点とする白桃房活動で多様化し、花開いた。
1974年 「暗黒舞踊ゑびす屋お蝶」、「サイレン鮭」
1975年 「ラプソディー・イン”二品屋”」、「バッケ先生の恋人」、
「彼女らを起こすなかれ」、「小日傘」、「嘘つく盲目の少女」、「暗黒版かぐやひめ」
1976年 「梨頭」、「それはこのような夜だった」、「ひとがた」、「正面の衣装――少年と少女のための闇の手本」、「鯨線上の奥方」
――と、この三年間で主な土方舞踏作品が連打された。
だが、そのピークで周辺住民の反対運動によって土方はアスベスト館の封印に追い込まれた。
踊り手にとって劇場を封鎖されるということは、
手足をもぎ取られる刑罰に等しい。
手足をもぎ取られてダルマ同然となった土方は、
しかし口に筆を咥えて、『病める舞姫』を書き継いだ。
未だ踊られてないものがある。
まだまだ踊られねばならないものがいっぱいある。
その思いをすべて『病める舞姫』に吹き込んだ。
彼はそれを未来の舞踏家に託したのだ。

『静かな家』において、もっとも困難な花として、
<癇の花>が出てくる。
そこではまだほんの示唆される程度だが、土方にとってそれこそがこれから踊られねばならないものだった。
癇とは、生命が何らかの障害に出会い、うまく共振できずにその場で足踏みを繰り返し、壁にぶつかっている苦しみの姿だ。
それは、1974年から76年にかけての白桃房活動においても、まだ十分には展開できなかった土方にとっての未踏の舞踏だ。かれはその<癇の花>の多様な様態を『病める舞姫』に、これでもかというほど重層多彩に展開した。
そこには、土方巽自身の
<脱自>が投企されていた。
「静かな家」で、彼は彼の少年がもっとも慕っていた姉が、太平洋戦争を遂行しようとする日本国家によって、強制動員された娼婦として死ななければならなかったという、彼自身のもっとも深い悲しみを踊りきった。
40余年逃れることができなかったトラウマを、創造によじり返してユニークな舞踏に結晶化した。
「雨の中で悪事を計画する少女」という絶対的創出はそうして生まれた。
それは伝統的な<女体>から離陸する空前絶後の創造であった​​が、彼は、そのままでは自分がまだ個人的な傷に囚われていることに気づいていた。
彼は彼の自己を脱ぎすて、無数の苦難に直面して苦しんでいる生命そのものに転生することが必須だと感じていた。
だからこそ、『病める舞姫』で、
<脱自>という生命の最終課題が追求されたのだ。
自分の問題を掘り下げ踊るだけではなく、その底で自我や自己を脱ぎ捨て、生命としてあらゆる生きとし生けるものの苦難と共振する
<生命への生成変化>に身を投じるという最終舞踏が。
土方がその時期の未発表草稿に何度も刻み込んだ
「生命の名で呼ばれうる舞踏」、や「自他分化以前の沈理の関係へ」という言葉は、彼自身の生命への必然から搾り出されたものだったのだ。

『病める舞姫』のあらゆる登場人物や事物が、生命の苦難である<癇の花>の異なれる様態だと言っても言い過ぎではないほどだが、わかりやすい例だけ挙げても下記のように実に多岐に渡る。
これらをいかに踊るか、こそが未来の舞踏家の課題であるのはいうまでもない。
([]内の数字は第1章の段落番号―舞踏論第300章参照)


<老人と少年のからだのくもらし方>
 [1 そげた腰のけむり虫]  
 [からだの無用さを知った老人の縮まりと気配り]
 [からだのくもらし方]
 [うさん臭いものや呪われたようなもの]
 
<世界から乱入される少年のからだ>
 [2 脈を取られているような気分で発育してきた]
 [雪に食べられ、ばったに噛まれ、鯰に切られ、川に呑まれるからだ]
 [からだのなかに単調で不安なものが乱入してくるから、
からだに霞をかけて、かすかに事物を捏造する機会を狙っていた]
 [3 しょっちゅう腹に虫をわかした]
 [しょっちゅう熱を出して、赤いものや青いものを吐いていた]
[情弱で無意志に近いものの芽が、からだに吹き出るようだった]

<見えない背後世界と共振している人々>
 [4 泣く女と泣く物象の共振]
 [5 包丁を手にして額で辺りを窺う格好の煤け姫]
 [7 人間追い詰められるとからだだけで密談するようになる]
 [11 爆発の中を通ってきたかのような電髪の女]
 [ 便所の臭いをぷんぷんさせている女性とのそばにも、
少し壊れかけて腐っているものがそっと寄り添っていた]
 [15 密偵のような、敏速に見え隠れしながら連絡をとっているものたち]

<背後世界に睨まれ、湯気に掠め取られ、踊らされてしまっている、
作り話のような、喰われ続けるからだ>
 [8 睨む女と棒になる私]
 [9 転ぶ前に花になってしまうような媒介のないからだ]
 [11 すでに踊らされてしまったからだ]
 [私だけが踊られてしまっていたのではなかった]
 [13 輪郭をはずされたからだ]
 [14 あまりにも放って置かれ、湯気に掠め奪られ、すでに踊らされてしまっている作り話のようなからだ]
 [15 喰われ続けるからだ]


<世界から侵されきった病弱な舞姫と、舞姫に混融される少年>
 [16 ズタズタに引き裂かれた神様]
 [腑抜けになる寸前のありったけの精密さを味わっている人々]
 [17 人間である根拠はもう崩れていた]
 [18 物達の物腰に脅かされている関係]
 [19 畳にからだを魚のように放してやる病弱な舞姫のレッスン]
 [舞姫に混有されてしまう私]

<見えないものや隠れた様子に潜在するシグナルをキャッチする微細覚>
 [空気の中の見えない大きな生きものを見る額の目玉]
 [誰も知らない音の中に棲んでいる生きもの]
 [9 隠れた様子]
 [10 茫とした姿]
 [中腰のなかに滲みでている暗がり]
 [短い息の明暗]
 [20 はぐれていく私の観察]
 [21 ぼんやりとした心の暗がり]
 [22 寝床には神様も潜り込む]
[見えているものは暗い穴]

乳呑児
 [ただ生きているだけみたいな]
 [6 乳呑児――ここにはどんな世界が孵っているのだろう]











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 2013年10月23日


リゾーム ダート リー


2013年10月23日改名しました。
40億年の生命史にひとつのしみのような汚れを付け加えたものとして
慚愧の思いで自分の名前に汚れを刻みこむ。

「わたしのたったひとつの持ちものといえば、この惨めな汚れだけです。」  フランツ・カフカ『ミレナへの手紙』


十七の頃に心に沁みこんだカフカの言葉に、いまごろ再襲撃される。
そうだ。65年格闘してきても、この汚れは消えないどころか
ますます増長し、ついにわたしの名前まで侵食し始めた。

リゾームは未来の人間への希望、
ダートはわたしという汚れ、
リーは、本名の龍二の頭文字だ。
踊り始めたときは「り」の一字だけだった。
20年の間にだんだん長くみっともなくなってきた。

残された短い人生の時間の中で、
わたしはこの汚れをひとつの小さな美に転化できるかどうか
いますこしもがくつもりだ。
「舞踏とは不美から美を創出する錬金術である。」
だが、今度ばかりは万にひとつの望みもない。
おそらくわたしの人生は、
現代に残る最大最強の元型である利己的な自我に対する必敗の闘いだ。



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 2013年10月5日

生命共振によって、『病める舞姫』の世界に入る


20年間、『病める舞姫』と格闘してきた。
最初の十年はまったく歯が立たなかった。
ただ、床に上げられた魚のようにからだを放り出す
土方のレッスンはからだに沁みた。

「寝たり起きたりの病弱な人が、家の中の暗いところでいつも唸っていた。畳にからだを魚のように放してやるような習慣は、この病弱な舞姫のレッスンから習い覚えたものと言えるだろう。」

第一節のその一文が手がかりになった。
何年も床に転がってそのレッスンを続けていると、
やがて『病める舞姫』全体の登場人物や事物のすべてが
その床の上の魚のように、なにものかに翻弄され、
もだえている生命の不可視の共振の多様な相を、
たださまざまに描き分けているのだということがからだに落ちてきた。
昨年、『病める舞姫』を授業で研究し始めた際に、
第一章の登場人物=事物を六つに分けた。

空気中の見えない生きもの
胡散臭いもの
陰気な空気
病める舞姫たち
少年
赤子


そして生命=死者がこれらの多様な姿に変容しながら循環し、
多次元かつ非二元の重層的な生命共振を形作っているという
生命のあるがままの姿を、生徒とともにからだで探ってきた。
そうだ。わたしたちはただこれらのものに変成するだけでいい。
そのなかで命の傷やおびえを、よじり返す踊りを探求するだけでよい。
それらの命の多次元的な共振がさらに響きあって、
いとも異様な世界が創りだされる。
それこそが命にとって真に踊るべき場所なのだ。
土方はそのいのちの原初的な共振の世界を捉えるために、
近代的な情報や自我にまだあまり侵されていない東北秋田の
風土とともにある人々を必然的に選んだ。

わたしたちは、自我を止め、自己を可能な限り鎮めて、
生命そのものになったとき、さまざまな事物や人物に変容しながら
きわめて多次元重層的な生命共振のまだ人々にあまり知られていない不気味なありようを共創することができる。
これを踊ろうとする舞踏手は、ためらいもなく上記六つに分類される
さまざまなものに変成する技術を身につける必要がある。
繊細な縮まりと気配りにからだをくもらしている老人に学び、
虫のおびえ、鳥のおびえに精通し、
キメラのごとく絶えず変容し重合している
生命共振クオリアの専門家にならねばならない。
その総合的な変成の総合が、共振によって
誰にも予測不可能な不気味な世界を現出する。
それこそが生命が本当に置かれている世界なのだ。
その世界を共創し、踊り手と観衆の違いを超えて
ありとある生命をその世界にいざなうこと。
それが生命の舞踏である。
すべては、だれかの意図や意識によってではなく、
予期できぬ生命共振によって生成される。
情報によっては決してコントロール出来ないたった一つのものこそ
生命共振なのだ。
そこにだけ、未来への希望が存在する。



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からだの闇を掘る
 
赤子落とし
息子が歌い、おやじが踊った。2009年

 息子はこの35年ほど前に、その父によって戯れに空中高く投げ上げられ、父はその赤子を受け損なって、目の前で地上に激突してクラッシュしてしまうという悪夢の主人公だった。その息子がそれから35年後にヒマラヤを訪れたとき、この『赤子落とし』のサブボディが出てきた。
誰もが、踊られねばならない秘密をからだの闇に秘め持っている。
本人からさえも隠されているので、必死に探さなければ見つからないにしても。

 
 わたしの踊りの真の作者、山崎博昭の46回忌に。
 2013年10月8日

 わたしの踊りの真の作者、山崎博昭の46回忌に


「あなたはなぜ、戦争に反対するのですか。
醜いからです。」 ー山崎の手記より


今日10月8日はわたしの踊りの真の作者、
1967年羽田のベトナム反戦闘争で死んだ山崎博昭の46回忌だ。

あの日から46年、山崎博昭よ、きみは冥界で歳を取らず、
わたしはこの世で46年過ごした。
その間にきみは幾度もわたしのからだに忍び込み踊りだした。
わたしの踊りの真の作者はわたしではない。
山崎や、その後を追うように闘いのなかで死んだ辻敏明、橋本憲二ら、
わたしの中の死者たちだ。
踊る先々で世界中の死者たちと共振した。
ここ十年ばかり少しだけ静まっていたが、
当時と同じように再び戦争へ向かおうとする嫌な気配に気づいて
おちおちと眠っていられないようで、
最近また夢のなかで何度もわたしを小突きだした。
だがね、この46年間でほんの少しだけ、気づいたことがある。
今日はきみにそれを報告したい。
本当に戦争のない、
つまり戦争を遂行する国家のない世界を生み出すためには
どんな政治運動も無効だ。
そうではなく、私たち自身が大きく変わらなければならない。
戦争を遂行しようとする国家は私たちの自我や自己に支えられている。
私たちが自分の利益や安心に囚われている限り、
それを脅かす不安が国家を支える力になっている。
自我は国家とギブ・アンド・テイクの密約を結んでいる。
醜いのは戦争だけではなく私たちが囚われている自我や自己だ。
当時の私たちは若すぎて、自分の中の問題には気がつくことができなかった。
だが、戦争を引き起こすかすかな要因はわたしたちの自我に巣食っているのだ。
自我と国家は支えあっている。
これがこの46年で気づいたことだ。
この関係を変えるには政治はまったく無効だ。
自我を止め、いのちとして生きること。
自我と国家の暗黙の保障関係など必要ないと笑い飛ばす
生命共振を回復することが重要なのだ。
私たちは生命共振だけでうまくやっていける。
ヒマラヤ共振塾この十年続けてきた実験は、
じつは未来の人間関係のひな形を見出そうとするものだった。
それは見つかりつつある。
いまだ踊りの共創という狭い世界の枠内でだが、
互いに抱えた傷を掘り下げ、そこから出てくる
生命ののっぴきならないよじり返しを共有することによって
ギブアンドテイクではない透明な生命共振関係が生まれつつある。
この生命共振のさざなみを少しずつ世界に広げていくこと。
これがいまもっとも確実な未来を変えていく道だ。
一見迂遠そうだが、これが一番早道なのだ。
山崎よ、 やすかれ。
生命共振のさざなみがいつか戦争も国家もない世界をつくるまで、
見守っていてくれ。



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 2013年10月6日

指圧と舞踏の一体性


指圧と舞踏創造は車の両輪だ。
ずっとそう思ってやってきたが、ようやくその真価が形をとって現れてきた。
ほんとうに切っても切り離すことができない深い関係を持っていることが
実践的に明らかになってきた。
わたしが遠藤喨及師から学んだタオ指圧では、
一応のツボや経絡に関する基礎知識をえたあとは、
相手のいのちがどこを押して欲しいかを共感的想像によって見つける。
ツボの位置は日によって変わる。
そして、もっとも適切な圧になるようにからだの重さをかける。
一押しごとに、「エゴを見、エゴを抱き、そしてエゴを消す」と念じながら押す。
自分が何かをして上げているなどと思い上がるのもエゴだし、
どこがツボの位置かを知識で探るのもエゴだ。
そういうものをすべて振りほどいてはじめて、
ツボの底で相手の痛みやもっとも深い悲しみと一つになることができる。
それが本当に身につくにはまだまだ長い時間がかかるにしても。

舞踏の創造でも同じだ。
一挙手一投足ごとに、エゴを見、エゴを抱き、エゴを消す。
とりわけ、仲間がいのちの受けた苦しみを<よじれ返し>によって
創造に転化して打ち返そうとしているときは、
それをどうすれば助けることができるかを探る。
世界から受けた圧迫に対して抗っているときは、
その世界の圧迫そのものになる。
見えない何かにおびえているときは、
その不可視の得体のしれないものになりこむ。
いま、共振塾で行っている実験は、エゴを脱いで、
指圧と同じように、仲間が求めているものにコーボディで変容することだ。
なんのためらいもなく瞬間的にもっとも求められているものになりこむことのできるからだになる。
日常的な人間的な意識を持ったままでは、
そんなことが分かるわけがない、不可能だと決めつける。
だが、それは自我や自己という幻想の壁に囚われているからにほかならない。
サブボディの調体技法で、意識を鎮めれば、
共振しているいのちそのものになることができる。
そして、互いのいのちがもっとも必要としている
<よじれ返し>の創造を共創することができる。
これが長いあいだ、無意識裡にコーボディの謎にこだわってきた
本当の理由だった。
いのちにとってもっとも必要な創造を一緒に共創することの出来る関係。
生命共振によって、創造と癒やしが一つになる。
エゴとエゴの関係ではない未来の関係を創出したかったのだ。

無意識に両輪としてやってきた指圧と舞踏が
ようやく文字通りひとつに溶け合い、
これまで気づくことができなかったいのちの真意に近づいてきた。



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 Hijikata Tatsumi
 
 2013年10月2日

傷という技術と形の戒め


生命共振の歴史は、からだにさまざまな痕跡を残している。
乳児期、幼児期からの個人史は深い外傷体験を刻印している。
それ以前の分娩前後の体験や胎児期は、
もっと深い思い出すこともできない傷を残している。
個人史だけではない。700万年に及ぶ人類史の体験は、
わたしたちの無意識域に元型や祖型情動という刻印を残している。
さらに、わたしたちのからだを構成する100兆個の細胞は、
40億年の生命記憶を保持している。
それらすべてが多次元的かつ非二元一如に共振しているのがわたしたちの生命だ。
舞踏の創造はその生命共振のごくかすかなくぐもりや結ぼれに耳を澄ますことから始まる。
ときにそれらはからだの部分の硬結や癖、習慣となってわたしたちを縛り、
ときに影の人格やトラウマのフラッシュバックという形でわたしたちを見舞う。
それらすべての傷や悩みや問題をひとつひとつに真向かい、解きほぐしていく。
見えない世界によってねじられた生命を<よじれ返し>によって創造に転化していく。
それが共振塾の主な営みだ。
これは土方自身が舞踏を創造するときの秘密でもあった。
土方は書いている。

「踊ることとの関係でからだを考えると、
苦しみとは何かということ、
それはわたしたちの人生の一部だということに本当に気づく。
外から探っても見つからない。
自分自身を掘り下げるという方法以外には、
それを見つける方法はないのだ。」

「舞踏を成立させているものも、やはり傷という技術なのだが、
舞踏はその傷にすでに形(かたち)という戒めを、
告げてもいるのだということを重視する必要もあろう。
体はそのような戒めの形を告げているものを通常見せているのだ。」
(土方巽全集・未発表草稿)


生命にとっての創造はすべて<よじれ返し>だ。
傷を受け、ねじれてしまったた生命は、
長い時間堪えて、それを解放する機会を待っている。
土方のいう<傷という技術>も同じことを指している。
サブボディは生命の自然なよじれ返しの反応として出てくる。
だが、そのままではサブボディはうまく世界と共振できない。
長年からだの闇の狭い場所に押しこめられていたからだ。
サブボディは出てきた当初は赤子同様なす術を知らない。
突然踊りだす奴もいれば、なすすべもなくたたずんでいる人もいる。
大声を放つ奴、暴れだす奴もいる。
そのサブボディたちに最善の共振方法を身につけさせること、
その現れに最適のサイズ、密度、速度などを見つけることが必要だ。
<形という戒め>を与えるという言い方で、土方はその重要性を記している。
ただの野放しの解放では踊りにも美にもならない。
それぞれのサブボディがもつ最適のタイミングと形や密度・速度をみつけて
はじめて踊りの序破急の中でたったひとつの<美>となる瞬間がある。
多次元で共振している生命がほとばしり出るときの、
たったひとつのタイミングをみつけること。
それが土方のいう<形という戒め>を与えることだ。
だが、それは簡単ではない。
土方は<場所を変えることの難しさ>という自戒として
『静かな家』のための覚書に記している。
この節は『静かな家』のエッセンスの中のエッセンスだ。

「場所を変えることの難しさ

 体こそ踊り場であろう。手の踊り場、尻の踊り場、肘の裏の踊り場等。
 この場所が持つ深淵は、この踊り場にはさまってくるものを克服し、
 からみつかせる事により成立する。
 例えば、柳田家があり、柳田家の庭にクジャクがいるという事をたいへん  に貴重なものであるという発見をする。
 また、カン工場という場所は、私にとってなつかしい粉末というものによっ  て語られる。
 それらが踊る際の血液になっているのだ。」


<場所をかえることの難しさ>とは、踊りの自在跳梁(ジャンピング・ワイルド)を管理することの困難を指す。
『静かな家』の最終25,26,27節で示される驚くばかりの多次元自在跳梁に到達するまでに
土方自身が無数の困難に直面し、それを乗り越える必要があった。
ともすればわたしたちはひとつの傷に囚われ、まといつかれる。
だが、それはからだの各踊り場から踊り場へ、めくるめく転換を図ることで
乗り越えることができる。
それぞれの転換のタイミングに、柳田家でクジャクに出会ったときの
意外な命の震えを大切にし、最適の転換や変容を工夫して異次元を自在跳梁すること。
そうなってはじめて多次元かつ非二元域で共振している命そのもののあり方に近づくことができるのだ。
傷の囚われているばかりの自我や自己という人間の軛を脱ぎ、
狭い思考や感情や判断の軛を振りほどいて、
生命にならない限りそれは可能ではない。

今日から生徒たちは十個の囚われやくぐもりなどの問題を掘り始めた。
その作業はこれから二ヶ月続く。
すべての瞬間が自我を脱ぎ、鎮め、生命になる訓練だ。
さまざまなコーボディ世界に出遭い、襲われ、格闘する中で
その踊りは生命の名で呼ばれうる舞踏へと成長していくだろう。
これが今年の本格的な生命の舞踏創造のプロセスだ。



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からだの闇を掘る
 
 2013年9月26日

虫の歩行の深淵
ー無限変容する世界の中で千変万化して踊る




虫の歩行は、土方の最晩年期、ワークショップ用に創られたものだが、
初心者用にも使えるだけではなく、よく読めば彼のあらゆる創作技法が
凝縮されて詰まっている。

とりわけ、最後の破から急にかけて、
世界が幾重にも無限変容する中で、踊るという場面は
芦川羊子のソロと群舞を交互に織り交ぜて構成した白桃房時代の
作舞法を基礎に創られている。
これは一人で「虫の歩行」を踊るだけでは
短時間で通りすぎてしまいがちな
最後の<急>の世界変容の場面を、
サブボディ・コーボディで共創することによって
土方がなぜこういう作舞法を採ったのか、
その必然をからだで追体験していくことにする。

「虫の歩行」

<序>
1.右手の甲に一匹の虫
2.左首筋からうしろへ降りる二匹目の虫
3.右の内ももから上がってくる三匹目の虫
4.左肩から胸を降りる四匹目の虫
5.五匹目 自分で知覚
6.あっちも こっちもかゆい その場にいられない かゆさに押し出される
<破の序>
7.あごの下 耳のうしろ ひじのうしろ 膝のうしろ ベルトのところ に
五百匹の虫
8.目のまわり 口のまわり 耳の中 指の間 すべての粘膜に五千匹の虫
9.髪の毛に虫
10.毛穴という毛穴に虫
<破の破の1>
11.その毛穴から 内臓に虫が喰う 三万匹
<破の破の2>
12.さらに侵食し 毛穴を通って外に出る虫 身体のまわり 空間を虫が喰う
<破の急>
13.さらに空間の虫を喰う虫
<急>
14.その状態に虫が喰う
15.(樹木に五億匹の虫――中身がなくなる)
16.ご臨終です (意志即虫/物質感)」


これまで、簡便化して通ってきた破から急にかけての部分は、
微細に読めば、上記のように複雑な序破急が設けられている。
この破から急にかけての部分は、
一人でそれを踊るのは余程の力量がなければできない。
だが、世界変容の部分をコーボディで共創することによって
サブボディもその世界変容に応じて変わっていけるので
比較的容易にその序破急を体験することができる。
土方が白桃房の芦川羊子に課した<千変万化>する踊りが
なぜ、必然だったのか、からだで味わおう。

<練習方法>

調体一番から六番の任意の調体で、
サブボディモードから、自分固有の記憶が詰まっている
「カン工場」の世界に入っていく。
そこで触れた固有のクオリアによって世界が変容していく動きを創り
コーボディで共有する。

固有クオリアは任意のxでいい。
xによる還元と再生の手法を使って任意のサイズ、速度、密度に
変換することによって、あらゆるクオリアを増幅することで
世界変容を引き起こすことができる。

今期の生徒たちはこれまでに下記のような固有クオリアを
からだの闇から探し出し、それをコーボディで共有することによって
固有の背後世界・固有の深淵を共創してきた。

門をくぐると異世界に入る
毛布の中の異世界
ホコリに満ちた暗黒の洞窟世界
違う重力や生物のいる別の惑星
ヒューマノイド世界
内臓が踊りだす世界
からだが風船に変容する世界
水位が深くなる川に入っていく世界
背後霊の世界
ワニのいる水辺の傾斜を滑り落ちる世界
目の見えない4歳の少女の世界
大事なものをなくしてしまう世界
母親に折檻される世界
教師に殴られる世界
からだの一部が取れてしまう世界
誤解に満ちた人間関係世界
悪臭に息が詰まる世界


これらのクオリアは、誰もが経験している。
思い出すか忘れ去っているかの違いだ。
それを生命共振によってシェアした途端、
自分の背後世界になる。
生命共振に世界には著作権などないのだ。
ただし、その苦しみの謎と秘密は自分がからだごと
その世界に飛び込んでよじり返しの解決を求めて踊るしかない。
苦しみや傷を踊りの創造に転化することによって、
その固有の苦しみを乗り越える道が開く。

固有世界をコーボディの動きで共創し、
その世界との交互作用をサブボディ=コーボディで
踊るという方法はそこから生み出された。




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 2013年9月22日

コーボディの謎


サブボディとコーボディの間の謎についてここ十年以上追求してきた。
いよいよその謎を極めるときがきた。
いくつかの曖昧にしか捉えられていなかったものが透き通って見えてきだした。
まずそのひとつは、
コーボディは人間世界でのグループではないという点だ。
個人が、なにかの集団のメンバーになるということとは根本的に違う。
コーボディになるとは、生命共振によって群れ自体になるということだ。

生命は40億年前に単細胞生物として生まれた。
そして約30億年前に多細胞生物になるという
新しい共振パターンが発明された。
それは巨大な変化だったが、その間をつなぐものとして
「群体生物」という過渡的段階を経ている。
何億年もかけての実験だったろう。
その過渡期には単細胞という生命のあり方から、多細胞へ飛躍する
謎の一切が秘められている。

下意識のからだであるサブボディ=コーボディは
時間と空間を超えて40億年の生命史のさまざまま段階に移行することができる。
それは、わたしたちの個々の生命が、子宮内で単細胞生命から、
多細胞生命の各進化段階をすべて追体験しているからだ。
わたしたちの意識はそれを覚えていないけど、
わたしたちのからだを構成する百兆個の細胞には、
その生命記憶が刻み込まれている。
それが、サブボディとコーボディが、単細胞や群体生物や多細胞生物に
自在になり込める理由だ。
もともと、サブボディは無限のコーボディとサブボディに、
自在に変容することができる。
人間にとっては不可能に見える個と群の間の境界を自由に超えて
透明に行き来できる特性を持っている。


なりこむということ、生成変化するということ

「なりこみ」こそは舞踏の最も本質的な方法だ。
わたしたちは森羅万象になって踊る。
宇宙の中の、想像世界も含めたありとあらゆるものに変容する。
「なりこみ」は、演劇のように人が何らかの役割や人格を演じることとは根本的に異なる。
自分は「人間」であるという思い込みを脱ぎ捨てない限り
不可能なことだ。
不思議なことに、土方のなりこみと同じことを
ドルーズ・ガタリがその著『千のプラトー』で繰り返し強調している。

「子どもになること。女性となること。動物になること。」
これらはすべて生成変化と訳されるBecomingという言葉が使われている。
「蜜蜂の群れになること。トアレグ族の群れになること。
分子状の群れになること。」


これは、土方の舞踏譜にそのまま通じている。

「死者は無限に変容する。
少女、精神、魂、虫、棒、牛、滑稽な熊、船、遠い森、行方、
はく製の春、ゴミ処理場、鏡の裏、悪夢、深淵図・・・
けむり虫、胡散臭いもの、怪しげな空気・・・
これらになんの疑いもなくなリこむこと。」


このすべての生成変化に、のっぴきならないきみの血液を通せ。
自在に密度を運び、
任意のXで還元し、ただちに再生する。
自在に跳梁する踊り子フーピーになれ。
これが生命の舞踏だ。




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 2013年9月19 日

うっすらとある陰気な空気



「うっすらとある陰気な空気に人は撃たれる」 
(土方巽 全集「舞踏譜」)

なぜか。

人はみなうちに不気味なものを秘めもっている。
それが知らず知らず共振しだす。

「「隠されているはずのもの、秘められているはずのものが表に現れてきた時は、何でも気味悪いと呼ばれる。」
そしてこの「不気味」なという意味は明らかにその反対であると思われるところの「秘密」の、内密の、知られていない馴染みの親しみのあるなどという意味と一つの言葉の内部で共存しうるほどに密接な関係にあることを証明する。
つまり不気味なものとは、新しく出現したもの、意外なものの出現、得体のしれぬ怪奇なもののことではなくて、その反対にそれはわれわれのよく知っているものであり、親しんだものであり、人目から「隠れるほど」に我々が内密に所有しているもののことである。」
                              (土方巽全集「未発表草稿」) 

共振塾の新入生は、誰もがはじめてサブボディモードを経験した当初は、
自分の下意識に見知らぬ不気味なものが潜んでいることに驚き、
身動きできなくなる。
こんな暗い見知らぬものが自分のからだの闇に潜んでいるはずがないと、
否定し、逃れようとする。
エッジ・クオリアと呼んでいる。
だが、それは否定しようもなく、
自分のからだの闇の住人であることを、じょじょに受け入れていく。
それに比較的すぐ慣れる人もいれば、長い時間かかる人もいる。
中にはそれに堪えられずに逃げだす少数の人もかならずいる。
「人間」とはこの世でもっとも崇高かつ偉大な存在だという
西欧近代の共同幻想に包まれて、幸せに育ってきた人なら当然のことだ。
美しい自分という幻想が根っから覆されてしまうのだから。

それに耐えぬいた人だけが、サブボディ共振舞踏の道に分け入ることができる。

そこでは、自己は個体ではなく、その存在の底が抜け、
どこか見知らぬ異世界につながっているものとして、
再認識せざるを得なくなる。
下意識の深層には、お化けや亡霊などの元型的イメージや、
おびえやおそれなどの祖形的情動、
震えや縮こまりなどの母型的体動が潜んでいる。
土方はその深層につながるありかたを人という穴、人穴と呼んだ。
『病める舞姫』の第一章の末尾には、その不気味な穴が穿たれている。
絶妙の配置というほかない。

「あの見えているものは確かに馬や牛だが、あれは暗い穴そのものなのか、
その穴の中に入って見えなくなってしまうものだろう。」(『病める舞姫』一章)


同じ時期の手記に土方は書いている。

「我々は、自己の深処になにかしら自己でないもの
暗く、重く、穴のようなものを感覚する。
自分というものがなくなってしまう。」

「古代の地層と葉脈を透かして目に見える道、と
記憶の次元にうっすらと印画される古代の道と、
ゆきつけぬ黄泉の道のおぼろげな複合体」
                              (土方巽全集・未発表草稿)


現代的な知性をそぎ落とす。
すると誰もがきづく。
言いようもない不気味なものがからだの闇に潜んでいることに。
日常的な意識はそれから目をそらし続けているだけだ。
そんなものに囚われたら、日常生活をうまく送れなくなるという
おそれに縛られているからだ。
なんの囚われもない創造者になるためには、
その日常意識の桎梏から身を解きほぐす必要がある。
日常意識状態では、いつも内語が無意識裡に立ち上ってくる。
そして、判断したり、批評したり、自己正当化をしたりしている。
その内的思考言語が、無意識裡にたちのぼる瞬間を捉え、
直ちに鎮静化する。
サブボディモードを保つには、その絶えまない努力が必要である。
それさえできるようになれば、
からだの闇にはつねに言いようのない不分明なもの、
不気味なものが漂い続けていることにきづく。
それに耳を澄ますのが、舞踏の基礎、灰柱の歩行や
寸の歩行、虫の歩行などの基礎となる
微細動の歩行である。
その微細なクオリアの震えやゆらぎは生命の震えやゆらぎ、
おびえそのものである。
その微細なクオリアの震えを、任意のサイズや速度に増幅することで、
あらゆる種類の動きが出てくる。
それに従い続けるのがサブボディ舞踏である。

土方はそれを、微細なディテールの踊り、
からだの部分の動き、
そしてからだ全体の身体イメージの変容に分けて
意識的に制御する技法を発明した。
その各動きが背後世界とさまざまな共振をしている。

「静かな家」第一節の
「○額をはしる細いくもの糸
○乞喰
○猫の腰
○背後の世界」

がそれである。

微細動の歩行から、陰気な空気の共創へ

一人で微細動の歩行から、さまざまなディテールや部分や
からだ全体の変容によって
さまざまなサブボディを踊ることができるようになれば、
つぎはそれをコーボディで行う。
各踊り手が見えない背後世界と共振し、
おびえや震えやゆらぎ続ける。
それを全体としてみれば、
「うっすらとある陰気な空気」となる。
不分明な何か不気味な雰囲気が醸成される。
その陰気な雰囲気を、X還元によって、密度を高め、
静止したまま長い年月を経させれば、
一触即壊の
「剥製化した春」になる。

陰気な空気や剥製化した春は、密度を運ぶことによって
相互転生可能なものになるのだ。
今年の生徒はその技術を身につけはじめた。
土方の「静かな家」のあらゆる技法を、コーボディとして共有することで、
「病める舞姫」の本質である「陰気な空気」という
異世界を共創することができる。
今年以降の共振塾では、この新たな実験を始める。
それは生命がある本当のあり方を踊ろうとする試みだ。
興味ある人は、ヒマラヤに馳せ参じよ。
チャンスは二度とない。



 
 
"私が誰だか聞かないでください。
複数の人が、私同様にすっかり顔を消すために書いている。
私の中の残りの人たちにも、同様に誰だかたずねないでください。"
                        - ミシェル・フーコー

 2013年9月14 日

透明になる

人間の死滅を宣言したフーコーは、
もちろん自分のことを、何らかの人格だの性質だのを持った「人間」として扱
われることを拒んだ。
からだの闇には社会に向けている表層人格だけではなく無数の傾性がある。
それら複数の傾性がリゾーム状に連結分離しながら、混合=協同して書い
ている。
自己をいまだに「人間」だと誤解している多くの質問者が、
フーコーを自分自身同様の「人間の中の誰か」というラベルを貼ろうとするのがたまらなかったのだ。
フーコーは人間の条件をすべて脱いで、
そうではないなにか「人間以後のなにものか」になろうとして生きた。
それを名付ける言葉はまだない。
ニーチェのように「超人」などと呼ぶことはおこがましい。
フーコーは名付けないまま死んだ。
フーコーの盟友ドルーズとガタリは、
「リゾーム」というあり方を発見した。
それはさまざまな現代の「人間」の条件を脱いで、
「人間以後の未来の人間」に生成変化していく途上のあり方を指している。
彼らの弟子であるわたしは、その途上を生きているので、
「リゾーム」という名前を受け継いだ。
からだの闇から踊りだすサブボディやコーボディは、
単一ではなく、数えられないものである。
つねに変容し、他のサブボディやコーボディに自在に連結・分離し
変容し続けている。定まった顔も居所もなく、中心も辺境もない。
まさしく、サブボディ=コーボディはリゾームなのだ。
フーコーにおいては、複数の人が顔を消すために書いていたように、
私たちにとっては、十体以上のサブボディ・コーボディが出入りしながら
透明になるために踊る。

透明さとは、内側にも外側にも束縛されていないことを指す。
自我や自己の衝動に支配されることも、外側の誰かや見えない力に
囚われることもない状態を意味する。
だが、そうなるためには、からだの闇の無数の不透明なものを踊り尽くす必
要がある。

よじれ返し

よじれ返しは、サブボディ共振舞踏の根幹の技法だ。
生命はその歴史の中で、さまざまなものによって、
抑えつけられたり、ねじられたり、曲げられたりする。
それがからだの闇に、くぐもりや結ぼれ、しこり、囚われとなって潜んでいる。
傷やトラウマとなったり、解離された人格になる場合もある。
総じてそれら全体を生命にとっての<よじれ>と呼ぶ。
創造とはそれらからだの闇のよじれを材料に、
それをからだごと<よじれ返し>て、踊りに転化することだ。
サブボディ・コーボディはすべてこのよじれ返しを通じて
からだの闇から躍り出てくる。

生命にとってのっぴきならない創造を共有する

40億年の生命史を通じて、生命は多くの創造的発明を積み重ねてきた。
生命の3大発明はおそらく、
酸素呼吸の発明、
光合成の発明、
多細胞共振の発明
に尽きるだろう。
これらすべての発明は、よじれ返しによって生まれた。
今の私たちは酸素呼吸ができるので、酸素に親しみを感じているが、
生まれたばかりの原初生命にとって酸素ガスがもつ強い酸化力は
強烈な毒以外のなにものでもなかった。
原初生命は酸素の脅威から逃れるために、
最初の十億年は水中や地底など、酸素ガスと安全な距離を保てる場所で
しか生存できなかった。これが<よじれ>だ。
生命はこのよじれに何億年も耐え続けたが、
ついに三十億年ほど前にプロテオバクテリアが、
ついに酸素からエネルギーを取り出す、酸素呼吸のしかたを発明した。
これが<よじれ返し>としての生命の創造だ。
他の単細胞生物は、プロテオバクテリアと細胞内共生をすることによって
その大発明をシェアした。 
これが<よじれ返し>の共有だ。
ブロテオバクテリアはやがて細胞内器官としてのミトコンドリアに変化し、
現在の地上生物の全細胞内で生き続けている。

わたしたちのサブボディ共振舞踏の創造は、
この酸素呼吸の発明に比べればおどろくほど小さいかすかなものだ。
だが、それが生命が抱え込んだ<よじれ>を、
<よじれ返し>た創造である限り、
いくら小さくても生命にとってシェアする値打ちのあるものだ。

<よじれ返し>の創造の連続によって
透明な生命になる


透明になるとは、内側の問題にも外側の問題にも拘束されないことを意味
する。
私たちは、内部のおおきな<よじれ>である自我や自己、
自分の個性や性格だとみなされている小さな<よじれ>、
社会や国家の共同幻想に囚われた階層意識やナショナリズムという
<よじれ>、セクシュアリティの<よじれ>など、
すべての<よじれ>を<よじり返し>、
創造に転化することによって、はじめてそれらから自由になることができる。
引用したフーコーの短い文でかれは、
<顔>という一語に、上で述べた「人間」の条件のすべてを含意している。

からだの闇の中の多くの束縛から解放されるために、
わたしたちは無限の<よじれ返し>による創造を続けるしかない。
私たちの生は<透明な生命>になるための長い旅なのだ。




 2013年9月12日

生命共振によって創造する



わたしたちは今ヒマラヤで、これまでにない実験を続けている。
それは生命としての共振によって舞踏を創造するという未曽有の実験だ。
これまでの舞踏はともすれば自我や自己表現の実験に陥った。
そんなものは舞踏する値打ちがない。
自我や自己の表現はこの世に腐るほどあふれている。
それらは近代の「人間」という大きな共同幻想にとらわれている。
「人間」としての自我や自己は自分が「主体」であるという、
近代最大の元型に無意識裡に囚われている。

「人間の条件をすべて捨て去る。
これだけは間違わないでください。」 土方巽


「人間」としてではなく、「生命」として創造する。
それはいったいどうして可能になるのか。
これまで二十年間、その試行錯誤と実験を続けてきた。
そして、いまようやくその方法が見つかった。
生命は多次元的にさまざまなクオリア共振をしている。
その生命共振のままに創造することだ。
まず、意識を止め、主体であることを停止する。
身体を構成する百兆個の細胞に耳を澄ます。
かすかなふるえやゆらぎに従い増幅して動きにしていく。
それがサブボディだ。
これまではサブボディとコーボディを区別せざるを得なかったが、
サブボディ同士は生命として共振しているので、本当は区別などない。
仲間の一人のサブボディに共振するサブボディ=コーボディになりこむ。
それだけでいいのだ。

サブボディは生命の現れだ。そのサブボディ=生命が共振している
見えない背後世界や生命記憶に
じかに共振して一つの踊りの世界を共創していく。
全員が内にも外にも等価に開かれた透明な
サブボディ=コーボディになりこむことでそれが可能になる。

今年の後期はその実験が予想以上の成果を生み出しながら進んでいる。
最大の成果は、長年追求してきた各人固有のコーボディ世界を生み出し
それをコーボディとして共振することができるようになったことだ。
固有のコーボディといえるものが具体的な姿をはじめて表したのは、
2年前に古い生徒のひとり、ピラーが


「水面下を歩む象の群れ」

を他の生徒とともに共創したのが始まりだ。
真率な美しさと迫力を持ってそのコーボディは姿を現した。

その後、そのような固有のコーボディの創造が、
他の生徒にもいかにして可能となるのかを探り続けてきた。
各人の固有夢=原生夢の世界に入り込むことは、長年毎年続けてきていた。
そこでも確かに固有の強烈な世界の創造が生まれていた。
だが、固有夢以外にはないのか?
何年もそのデッドロックにぶつかっていた。

それを解くヒントは土方の「静かな家」の「カン工場」にあった。

「6 (カン工場)
鏡の表と裏にひそむ
「カン工場」

「16 場所を変えることの難しさ

 
体こそ踊り場であろう。手の踊り場、尻の踊り場、肘の裏の踊り場等。
この場所が持つ深淵は、この踊り場にはさまってくるものを克服し、
からみつかせる事により成立する。
 例えば、柳田家があり、柳田家の庭にクジャクがいるという事をたいへんに
貴重なものであるという発見をする。
 また、
カン工場という場所は、私にとってなつかしい粉末というものによって
語られる。
 それらが
踊る際の血液になっているのだ。」


カン工場とは土方が数々の生きたクオリアを汲み出してくる
固有の生命記憶の泉の比喩だ。
各人にとってもっとも強烈な記憶が詰まった場所のことだ。
「静かな家」では、カン工場の世界はまだカン工場そのものや、
その外に広がる「森の巣」や「遠い森」として
おぼろげな遠い気配として捉えられていたに過ぎなかった。
だが、土方が現実的な舞踏創造を停止せざるを得なくなった1976年から
書き始められた未踏の舞踏の書、『病める舞姫』においては、
彼が生まれ育った<東北>の具体的な森羅万象が、
カン工場そのものになって現れる。
カン工場という固有記憶の場所が、その多次元かつ非二元の生命共振の
全体像をとうとう具体的に獲得したのだ。
そうだ。
各人にとってもっとも深い記憶の場所に降りていくこと、
そこは生命にとってもっとも深い内クオリアとしての記憶が詰まっている場所だ。 
そこには生と死の境で震えていた生命の経験が刻み込まれている。
『静かな家』では土方はそれを<深淵>と呼んでいる。
固有の生命記憶の場所=固有のカン工場=固有の深淵(アビス)は
ひとつながりにつながっている。
そこで得られたクオリアが踊りの血液として、
全員のからだを生命共振しながら駆け巡るとき
はじめて
「生命の名で呼ばれる舞踏」を共創することができるだろう。
これが今年一番の発見となった。

今年後期の実験のひとつは、学期のはじめから、
その固有の生命記憶や各人が抱えるしこりや結ぼれ、
くぐもりの世界に降りていくことを続けてきたことだ。
深層調体三番や五番その他を通じて、
毎日のようにその世界に生徒を導いてきた。
その成果はめざましく、8月からその調体を続けてきた生徒全員が
固有の生命記憶=固有のカン工場=固有の深淵につながる世界クオリアを
コーボディとして共創し、シェアすることができた。
これは共振塾始まって以来の画期的な出来事だった。
ビザの都合などで遅れていた古い生徒たちも合流する来週からは、
全員でこの実験成果を共有し、
一気に世界共創のプロセスに入ることができそうな勢いだ。

今年はわたしも生徒に混じって踊っているので、
例年のようにいちいちくわしく書く余裕がないのが残念だが、
今は書くことより実際にこの実験を行うことのほうがはるかに大事だ。
ともあれ、この秋は長年やり遂げたかったことに向かって
当分全力疾走が続く。




 
 2013年9月7日

フラマンの寝技と「密度を運ぶ」



昨日の授業での発見。
フラマンの寝技の基礎は、密度を運ぶことにある。

「 「灰娘」

 

魂と精霊

ゆくえ

もうだれも訪れない

もう誰も眠れない

○かんの花

○過度の充実が来て彼女はとほうもない美しい者になった

○死者達のさまざまな習慣を覚えた

○馬肉の夢

○座しきから引き出されてきた男

○イスに座って狂った大人子供=ケダモノ

○裸でカンチェンの出だしを踊る

○フラマンの寝技をつかう

○嵐が来た朝

○物質化


 

鏡の裏―光の壁

 密度を運ぶ自在さの中には、めまいや震えや花影のゆれがひそんでいる。」

 

                    『静かな家』第3節、9節 土方巽


今朝の授業で、生まれたばかりの生命体になりこんだ。
まったく動けなかった原初生命は、
体液の密度を運ぶことで最初の動きを発見していった。
その過程がすっとからだに降りてきた。
ゾルからゲルへ、ゲルからゾルへと
その流動性と粘度を変容させることで少しずつ動きを学んでいった。
25年間も寝たきりの瀕死の病人であるフラマンも
その原初生命と同じ密度を運ぶ技法で
何とか動けないからだを必死に運んだ。
奥座敷で寝かされていた男が、最後の馬肉の晩餐に参加しようと
必死に体液の密度を運び、痙攣やめまいやふるえまでも動きに生かし、
じりじりといざっていく。
瀕死の死者と原初生命になりこむことは同じことなのだ。
どちらも生と死の瀬戸際でゆらいでいる。

くわしく書く余裕が無いので、覚書きだけ書き留めておきます。


2013年9月6日

カフカと土方巽とサブボディの共通の出発点



「わたしのたったひとつの持ちものといえば、この惨めな汚れだけです。」

「わたしはいつも問題にわたしを食べさせることで、問題を解決する。」

                                   
フランツ・カフカ


カフカは、彼のたったひとつの持ちものである汚れから、
あの作品群を生み出した。
彼はからだの闇に耳を澄まし、汚れやくぐもりやこだわらざるを得ない体感を
それらの問題に自分を差し出し、喰われるに任せるまでに増幅し、
そして、創造にねじり返した。
汚れというとすこし倫理的なニュアンスを帯びるが、
鋭敏すぎる感受性を持っていたカフカは、普通なら見過ごすような
かすかな皮膚感覚のきしみや、不快な体感にこだわった。
有名な『変身』は、からだがなんだかムズムズする奇妙な体感に耳を澄まし、
からだ全体がその奇妙な体感に侵食され、
喰い尽くされるまで増幅することで生まれた。
『審判』はある日どこかから見知らぬ男が現れ、彼を拉致し連れ去る。
見えない力によって生存が監視され操作され拘束されているという
かすかな不安から出発し、それがいつ自分を脅かし始めるかしれないという
現代人なら誰もが感じているかすかな体感や予感を創造に転化した。
『城』もまた、現代の巨大化し不可視となった秩序に対する
生命としてのかすかなおそれから始まっている。
『ミレナへの手紙』は、そういう過敏すぎる感受性を、自分で汚れとみなし、
そういう奇妙な自己が世間的な愛を成就することの不可能性への
つらい予感に喰い尽くされていくプロセスをたどる。
そのどれもが若年のわたしにとっても切実な問題だった。

踊りを創りはじめたときも、共振塾を営む今も、
その若いころにカフカと共振しながら気づき始めた
からだの闇のかすかなきしみやくぐもりや結ぼれの感覚に
耳を澄ますことを続けてきた。

『静かな家』や『病める舞姫』を土方巽の舞踏譜として詳細に研究しはじめてから、
土方もまた、カフカと同様にからだの闇の定かならぬ
おびえやふるえに耳を澄まし続け、そこから舞踏を創造し続けた人だったことを知った。

「これらを舞踏するために、登場する何者かは、鳥のおびえ、虫のおびえに、通じていなければならない。」


「鏡の裏―光の壁

  密度を運ぶ自在さの中には、めまいや震えや花影のゆれがひそんでいる。」 
   
                           土方巽「静かな家」

ここで強調されているおびえやめまいや震えと、カフカが耳を澄まし、彼の創造にまで増幅したかすかな不快な体感とは同一である。また、それらはわたしが踊りを創り始めたときに手がかりにしたくぐもりやわだかまりや結ぼれとも共振している。

わたしはそれらをひっくるめて<原生的な情動あるいは体動>と呼んでいる。
別の言葉で言えば、<原生的なクオリア>だ。
意識下でかすかにうごめいているそれらに耳を澄ますことができるようになるのが、調体技法の眼目だ。
言語意識に縛られたままではそういうかすかな不快感はまたぎ越してしまう。
意識を止め、かってに立ち上がってくる内語を鎮めることで、
はじめてサブボディモードに移行することができる。

実は、十数年前にサブボディ技法を創り始めた頃は、
カフカでも土方でもなく、プロセス指向性心理学のミンデルと、
フォーカシングのジェンドリンに学び、
かれらのいう、センシエントやフェルトセンスという
微細な不快体感に焦点を当てる方法を、
下意識から踊りを創造するサブボディ技法に転化した。
カフカのことはすっかり忘れていたし、
そのころ土方の舞踏譜はまだ読み込むことができていなかった。

だが、今になってみると、これらすべては共振している一つ事だということが
腑に落ちてくる。
そうだ。それは皆、からだの闇の多次元かつ非二元世界で
共振しているクオリアである。
そこでうまく共振できないクオリアが、くぐもりや結ぼれ、わだかまりとなる。
土方の、虫のおびえ、鳥のおびえ、めまいや震えとなる。
カフカの『変身』や『城』や『審判』もまたそれと同じ
世界と自己との間の生命共振のもつれから出発している。

では、なぜそこから出発することが重要なのか。
生命にとって、値打ちのある創造がなぜそこから生まれるのか。
次回はその問題にまで踏み込んでいきたい。



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2013年9月6日


カフカからの贈りもの



昨日のカフカとのたまたまの出遭いに触発されて、
彼から無意識に受け取ったものが思いの外大きいことを知った。
若いころに読んで震撼を受けたカフカの言葉を
わたしはずっと秘密の宝石のようにからだの底にかかえて生きてきた。
それは、次のような言葉だ。

「わたしのたったひとつの持ちものといえば、この惨めな汚れだけです。」

記憶が曖昧になっているがおそらく、「ミレナへの手紙」の一節だっと思う。
生きていてこれほど深く共振した言葉はないと言っていいほどだ。
何十年もわたしを支え続けてきてくれた。
毎日、幾度となくわたしはわたしというちっぽけな汚れに直面する。
そのたびにわたしなど生きてる値打ちがないのではないかというほど打ちのめされる。
そして、なお、生めやもと思い直すのだ。
(カフカだってそうだったのだから・・・)という生命共振に力づけられて
何とか生き延びてきた。
ものごころついて以来この連続だった。
カフカはその汚れと格闘しながら、作品の創造に転化して生きた。
わたしはその汚れを踊りによじり返し、
共振塾で生徒のサブボディ・コーボディを産婆するエネルギーに転化しながら
なんとか死なずに生きている。

この言葉によって力づけられる人が、
ひょっとすればわたしの他にもいるかもしれない、と思って
このちいさな秘密を紹介する。



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 「わたしはいつも問題にわたしを食べさせることで、問題を解決する」
“I usually solve problems by letting them
devour me.”

 フランツ カフカ 
Letter to Max Brod
2013年9月4日


カフカと土方巽と調体10番の、トリプル共時性!



興味深い共時性(シンクロニシティ)が起こった。
それも三重の。
今、共振塾では土方の「虫の歩行」を研究している。
そして今朝、わたしはからだの10経絡を開く調体十番をガイドした。
調体十番は小指の経絡から順に一本一本の経絡を意識しながら開いていくものだ。
そのなかで四番目の人差し指は、空に向かって開いた指の間から今の自分の問題に
直面する。
そこでわたしはいつも次のように言う。
「問題に直面しているとだんだん問題が大きくなってわたしたちを押しつぶし始める。
問題に囚われた囚人となり、問題に食べ尽くされてしまう。・・・」

そして、その後昼休みの日課になっているフェイスブックをチェックしていると
上の写真煮添えられていたカフカの言葉に出会った。

“I usually solve problems by letting them devour me.”

見慣れないdevourという単語があったので辞書で引いてみると
「(人・動物が、物を)むさぼり食う。がつがつ食う」とあった。
それでとことん驚いた。

 「わたしはいつも問題にわたしを食べさせることで、問題を解決する」

今朝の調体十番で言ったこととそっくり同じだったからだ。
そして、それは土方の「虫の歩行」ともまるごと共振していたからだ。
虫の歩行とは次のようなものだ。

「虫の歩行」

1.右手の甲に一匹の虫
2.左首筋からうしろへ降りる二匹目の虫
3.右の内ももから上がってくる三匹目の虫
4.左肩から胸を降りる四匹目の虫
5.五匹目 自分で知覚
6.あっちも こっちもかゆい その場にいられない かゆさに押し出される
7.あごの下 耳のうしろ ひじのうしろ 膝のうしろ ベルトのところ に
五百匹の虫
8.目のまわり 口のまわり 耳の中 指の間 すべての粘膜に五千匹の虫
9.髪の毛に虫
10.毛穴という毛穴に虫
11.その毛穴から 内臓に虫が喰う 三万匹
12.さらに侵食し 毛穴を通って外に出る虫 身体のまわり 空間を虫が喰う
13.さらに空間の虫を喰う虫
14.その状態に虫が喰う

15.(樹木に五億匹の虫――中身がなくなる)
16.ご臨終です (意志即虫/物質感)」



虫の歩行の第一段階はからだを虫が這うかゆさによって突き動かされて動く。
そして、やがてその虫がからだの内臓を喰い、
内臓を食い尽くしたあとは外部の空間をも食いつくす。
その空間を別の虫が喰い、
最後はその状態を別の虫が喰いつくす。

ここまでが第一段階である。
土方はさらにそれを固有の創造に発展させる鍵を最後の文に潜ませている。

(意志即虫/物質感)」


がそれだ。
最初はなんのことか気づかなかったが、
第一段階では意志の代わりに虫によって突き動かされる。
そして、第二段階はその虫を任意の物質感に置き換えて練習せよという
指示であることに数年前に気づいた。
土方の時代にはクオリアという言葉は知られていなかったが、
物質感という言葉は、いまのサブボディ技法でいえばさまざまなクオリアのことだ。
共振塾では、虫の代わりに生徒固有のクオリアを探し、
そのクオリアによって突き動かされる練習に進む。
先週はそこまでやって生徒たちはそれぞれ固有のクオリアの序破急によって
つき動かされる踊りを創りかけていた。

今日わたしはそれをもう一段深めて、
自分固有の問題によって突き動かされ、
その問題に喰いつくされるところまで推し進めようと
調体十番を行ったわけだ。
これによって去年までの第二段階から
第三段階の自分固有の問題と格闘し、それに喰いつくされ、
世界変容が起こるところまで深めようとしたのだ。

その途端に上のカフカの言葉に出会い、
なんと、土方、カフカ、そしてわたしの間で三重の共時性が起こっていることに
気づいて驚いた。
共時性とは、生命共振が時空を超えて起こる現象で、
生命のクオリアは3次元空間や4次元時空を超えて、
多次元かつ非二元に共振しているので、どんな共時性が起こっても不思議ではない。
それどころか、わたしはほとんど狂喜した。
じつは、自分のなかの十個の問題に真向かい、
それを踊るというのはわたしの処女作の「伝染熱」で用いた方法だった。
だが、それをっ生徒にも勧めることには、あまり自信がなかった。
今年の前期にそれを促した時、それまでにない深い踊りが生徒のからだの闇から
次々と躍り出てきたので、はじめてすこし自信を持ったばかりだった。

それがカフカもまた同じことを言っていたことを知って、嬉しかったのだ。
そうだ。カフカは自分のからだで感じるごくかすかな違和感を増幅して、
『城』や『審判』という長編を書き、
その違和感にからだごと食べられ、侵食されるまで増幅することで
有名な『変身』にまで結晶させた。
わたしはまったく忘れてしまっていたが、
あるいはこのカフカの言葉を若いころに読んでいたのかもしれない。
彼の小説だけではなく、『カフカの日記』や恋人に書き送った『ミレナへの手紙』なども
むさぼるように愛読していたからだ。
それが無意識裡に、調体の十番のことばになって現れていたのかもしれない。

そして、土方もまた、自分の問題にからだが喰い尽くされるに任せることによって
問題を創造に転化してきたのだ。
だからこそ「虫の歩行」のような、
くみ尽くせないほど秀逸な舞踏練習譜を残すことができた。
あらゆる偉大な創造はみな、こうして生まれてきたとさえい言い切れるかもしれない。
個々の創造者の生命がぶち当たり、苦しみ抜いた問題を、創造に昇華し、
その解決法を暗示しているからこそ、全生命に共有される値打ちがあるのだ。

共時性による気づきは、ときどきこのように
深いところで共振している真実に気づかせてくれるかけがえのない体験だ。



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2013年9月1日

予期しなかった変化


この夏から、生徒と一緒に踊りを創り始めた。
10年踊らない間にからだの闇が不透明になって、
あまりに多くの問題が噴出してきたので、
やむにやまれずそうせざるを得なくなった。
これまでは毎日午前中と午後の2時間半ずつの授業のうち、
一時間か一時間半の調体と探体をガイドした後、
生徒に20分か30分の自己探体の時間を設けて
その間は二階の自室にこもり、次の練習課題が何かをからだに耳を澄まして
見つけるようにしてきた。
だが、この後期からはその時間も生徒と一緒に動きながら探体を続けている。
毎日からだを動かしながら踊りを探るのは壮絶に至福の毎日だ。
だが、予期していなかったいくつかの大きな変化が現れてきた。

もっとも大きな変化はまったく書けなくなった点だ。
これまでは、ほぼ毎日その日の気づきを文にしてきた。
それが膨大な実技ガイドや、共振塾ジャーナル、からだの闇などの記事になってきた。
だが、踊りだすと言葉のチャンネルがまったく開かない。
気づきはたくさんやってくるのだが、言葉にする余裕がない。
まして、私の場合日本語と英語の両方で書かなければならない。
生徒のほとんどは外国人だし、読者層もそうだ。
だが、この三週間というもの、よほど深いサブボディモードに入っていたのだろう。
まったくと言っていいほど文を書けなかった。
このままではサイトを維持できないと危機感に襲われ、
この土日は自分の状態に荒手術をして、無理やり書く人を呼び戻した。
具体的には吸いたくもないのにタバコを吸って、
無理やり昔のコピーライター時代の人格を呼び出した。
おかげで、懸案だったいくつかの文や延ばし延ばしにしていた生徒への手紙を書いた。
へとへとになったが、これからも週日は踊り手、週末は書く人に戻るのが
なんとかバランスを保てる振り分けだろうと思える。
週日の書けない分は、新しい試みとしてビデオレクチャーの模様をビデオ撮りして
生徒の協力で編集してもらってサイトに掲載する方法を計画している。
わたしのめちゃくちゃな英語の講義など、誰に読んでもらえるのか分からないが、
生徒は我慢して聞いてくれているのだから、ないよりはマシかもしれない。
特に今年は毎日の練習内容がころっと変わった。

もう一つの大きな変化はこれまで毎日の終わりに設けていた
サブボディ・コーボディ劇場の時間をこの三週間なくしたことだ。
これまでは毎日少しずつ短い踊りをためていって、週末の劇場で短い踊りに
統合して踊る。月の終わりには4週分を統合して少し長い踊りに育てる。
学期の終わりに一時間の踊りに育て上げる。
だが、この段階論的な考えはどこか不自然だ。
自分でやってみても、毎日短い振り付けを創造するのは無理がありすぎる。
生徒もそういうので、思い切ってやめてみた。
それでも、先週末は随分固有のクオリアによる虫の歩行の序破急に習って、
長い踊りの構成が生徒全員からほとばしり出てきた。
今後どうなるのかは未定だが、どうやら新しい創造のプロセスが生まれてきそうだ。
振付と即興の統合という古くて新しい課題に取り組んで行く道が予感できる。

もうひとつの変化は、もっとも大事なことに最初から焦点を当て続けることだ。
これまで、透明体になるという課題と、世界チャンネルを開くという課題は
わたしの段階論的な思考の習癖によっていつも最後に回されてきた。
だが、今年からは段階論的な幻想を脱ぎ捨て、最初から
内に50%、外に50%耳を澄まし続けるという課題を追求し始めた。
同時に世界と自己のからだの闇で起こっている微細なくぐもりや結ぼれ、
囚われなどのクオリアに最初から焦点をあてて耳を澄まし続けるという課題を導入した。
一つの子宮の中の共胎児になるという共振塾ジャーナルに書いた調体を通じて、
最初から世界と生命の間のうまく共振できないクオリアに焦点を当てる方法が見つかった。
これ以外にもいくつかまだあるが、今日はここまでにしておきたい。
週末だけのにわかライターとしてこれが限界だ。

まあ、いつも予期せぬ未知の課題にぶつかり続けるのは
からだの闇の旅においてはふつうのことだ。
踊りの創造と気づきを言葉に翻訳するという矛盾を
とにかく何とか切り抜けていくしかない。





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2013年8月17日

もう一度踊る
――頭ではなくからだで共振するために



さあ、ここからが正念場だ。
あらゆるものは共振している。
命はあらゆるものと共振している。
これは頭でいくら考えても捉えきれない。
からだに耳を澄ますこと、
より正確に言えば、からだというよりも命で、
下意識とからだがひとつになったサブボディで
命の共振そのものになること。
それ以外には生命共振を理解する道がないことを思い知った。

この十年、共振塾とサブボディ技法の基礎を築くために
わたしは生徒のサブボディの誕生を助ける産婆という位置に身をおいてきた

自分自身の踊りをどうでもよいものとして脇におかなければ
生徒のサブボディやコーボディの産みの苦しみに耳を澄まし
それを助産することができなかったからだ。
だが、この十年で基本的な技法はほぼ確立した。
ここから先は私自身ももう一度、
サブボディ・コーボディの産みの苦しみに
直面しながら、同時に産婆としての役割も果たすという
二重の作業なしにどうにもならない所まで来た。

自他分化以前の生命共振へ

生徒と産婆を区分するのではなく、自他の区分以前の
何もかもが渾然一体とした非二元の命の世界にまるごと
入らなければ、解決できない問題が山積みしている。
そうしない限り去年から今年にかけて直面した今までにない
非二元の闇の危機を乗り越えることができない。
生徒が二年目、三年目を迎えると、生徒のからだの闇と
わたしのからだの闇は渾然一体となり、あらゆる事象が
それまでに体験したことのない、投影や転移・逆転移、
ドリーミング・アップなどの奇妙な様相を帯び始める。
それを意識で捉えようとしても駄目だった。
頭での観察はもっとも肝心な生命共振が欠けてしまう。
共感的想像なき規定や判断に囚われて大きな失敗を重ねた。
今までうまく行っていたのに、一体どういうことになったのだろうと
この一年悩み続けた。
そして分かったのは、より深い非二元共振の世界に入ったことに
気づいていなかったということだ。
もう、思考や判断を一切停脱ぎ捨て
からだごと生命共振体にならなければならないことを痛感した。
大きな犠牲を払った。
今年の前期は二年目の生徒と、三年目の産婆との間に
発生した転移・逆転移の問題に見まわれ、
それをうまく解決できなかった。
今だに解決できていない。
わたしも言葉に出来ない程苦しんだが、
生徒はもっと苦しんだはずだ。
そしてそれをどうすることもできなかった。
それが踊らなければならないと決心させた要因だ。

なぜ、非二元共振なのか

なぜ、その自他分化以前の世界に降り立つ必要があるのか

命の世界では、非二元の生命共振だけが存在する。
それを人間の日常界の慣わしに囚われて、
主体と客体との間の出来事として捉えている限り
永遠に誤解する。自我や自己が囚われている
主体という幻想に邪魔されてしまうのだ。
それによって、ただ生命共振が起こっているだけなのに、
自己や他者が意図してそれを行っているかのごとく錯覚してしまう。
自己を観察者の位置においている限りそれが避けがたいのだ。

命の世界の出来事は主体も客体もない、
共振として捉えなければならない。
しかもそれは頭ではなくからだで、
より正確にはサブボディ・コーボディの踊るからだで
それを生き、体得するしかないのだ。

わたし自身が踊らない観察者としての産婆の殻を脱ぎすて、
自らも踊りながら同時に産婆もつとめる
実践的な産婆に転生しなければならなくなったのは
そういうわけだ。

十年前に踊ることをやめたとき、
いつかはもういちど踊らなければならない日が来ることは予感していた。
漠然と70まで生きたら踊ろうと考えていたが5年ほど予定が早まった。
さあ、ここからが正念場だ。



「からだの闇」をもっと読む


 

 図Ⅰ 大脳皮質は6層の柱状コラム構造を持つ

第Ⅱ・Ⅲ層は左右の皮質間の連絡を、第Ⅳ層は感覚系、
第Ⅴ・Ⅵ層は運動の発現に関わる。
言語思考を止めると、第Ⅱ・Ⅲ層を行き交う電気信号が弱まり、
第Ⅳ―Ⅵ層のグリア・ニューロン間で起こっているかすかな
クオリア共振に耳を澄ますことができる。

図はセンゴダイ(1978)、西宮紘『多時空論』より転載

 2013年8月11日

大脳表層の言語思考を止め、からだの闇に耳を澄ます



新学期、ダラムサラへ着いて、最初にすることは
長旅で興奮した心身を休め、鎮めることです。
心身の緊張を解き、思考を止め、ただただ眠ることです。
眠りと覚醒の間のうつらうつらした状態を
一日中保てるようになるまでこれを続けます。
そして一心にからだの闇のごくごくカスカなクオリアに耳を澄まします。
思考を止めない限り、下意識は自由に動けないし、
からだの闇の微細なクオリアの流れに耳を傾けることもできません。

なぜ思考を止めなければならないのか?


図2 言語思考は、大脳深層で起こっている微細なクオリア共振を
マスキングして覆い隠す


言語思考は大脳の表層第2,3層で右脳と左脳の言語野の間で
ニューロンが連結発火して、電気信号を交わして行われる激しい活動だ。
これに対し、第2,3層の言語活動を鎮静して、
瞑想状態やからだの闇への傾聴モードになってはじめて、
大脳深層の第4,5,6層のグリア=ニューロン間で共振している
感覚=運動クオリアに耳を澄ますことができる。
グリア・ニューロン間で交わされるのは、微細な神経伝達物質を介する
化学的な信号だ。それはニューロンネットワークの電気信号に比べて
何兆倍もエネルギーレベルが低い。
言語思考の電気信号が表層を交錯している状態では、
それにマスキングされて、大脳深層の微細なクオリアがかき消されてしまう。


思考モードから傾聴モードへ



図3 言語思考を止めてはじめて、
大脳深層のかすかなクオリア共振に耳を澄ますことができる




図4 瞑想状態や傾聴モードでは、思考時のベータ波が収まり、
ゆるやかなアルファ波が主になる


言語思考を止めると、大脳表層を飛び交う強烈な電気信号の発火がおさまる。
大脳の脳波は、思考中の忙しいベータ波が収まり、
ゆるやかなアルファ波がメインになる。
そうなってはじめて大脳深層のグリア・ニューロン間で共振している
さまざまなクオリアの微細な信号に耳を澄ますことができる。
Ⅳ層の体感クオリアと、Ⅴ・Ⅵ層の動きのクオリアが一つになって
サブボディとして自由に動き出す。
サブボディとは下意識のからだという意味だが、
下意識ではからだと下意識は分離せず、
ひとつのサブボディとして動いている。
思考を止め、傾聴モードに移行すること。
これがサブボディプロセスのアルファでありオメガです。
それができてはじめて、下意識の無限の創造性が開かれ、
サブボディが勝手に出てくるからだになる。
だから、思考を止め、傾聴モードに移行するのが
ここでする第一の仕事であり、最後まで残る難しい課題となります。

というのも、私たちの思考は無意識裡に立ち上がり、
気を許していれば、いつも気づかぬうちに思考が始まり、
気がつけばすでに思考に囚われてしまっている自分に出会うことがしばしばです。

いつなんどきも、余計なことを考えないこと
自分にも他者にもとらわれず、からだの闇に透明に耳を澄まし続けること
―これができるようになるまでに何年も、あるいは何十年もかかるのです。
(次回は、わたしが今年おかした大失敗をご紹介しよう。)




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 深層調体一番 微細動調体

1.深層筋微細ゆらし

からだの深層筋をランダムにあらゆる方向に揺する。
脊椎をつなぐちいさな深層筋、骨盤、肩甲骨まわりなどの深層筋、
脚、腕の平行に走る大きな表層筋の下の斜めの深層筋は、
からだの姿勢を保つために、絶えず無意識に緊張している。
ランダムにごく小さく揺すっていると、じょじょにその緊張が取れてくる。

0. 操体ストレッチ

実際は、深層筋を揺する前に、表層筋をたっぷり時間をかけてストレッチしておくのがいい。
操体呼吸を使いながら、各部を息を吐きながら伸ばし、極限で息を吸い止める。そしてはあっと吐きながら脱力する。あらゆる大きな表層筋をこの操体ストレッチで伸ばし、休ませる。そののちに深層筋だけが小刻みに揺れるからだになることができる。

2.座位、臥位、立位、四ツ位、胎児の姿勢、ボトム姿勢など、
姿勢をどんどん変えながら、からだの各部を最小限のサイズでランダム方向に揺する。

3.最初はごく短い直線状にゆする。じょじょに複雑な曲線状にゆする。さらに直線と曲線を混ぜた複雑な線にそってゆする。

4.「どう動きたいかい? 好きなように動いていいんだよ」
命に尋ねながら、耳を澄ます。かすかな傾性を捉えて、それに従う。
からだごとそれに乗り込み、増幅していく。
それが今日のサブボディだ。

 2013年7月14日

『病める舞姫』を踊るための深層調体シリーズ


今年の冬以来、共振塾では土方巽の『病める舞姫』をからだで探求してきた。

虫の息
けむり虫
からだのくもらし方
老人の縮まりと気配り
世界に喰われるからだ
自他分化以前の関係世界
さまざまな背後世界と微細に共振するからだ

などなど、『病める舞姫』や、その時期の未発表草稿に記述されているからだに
変成するためにはどういう調体が必要とされるか。
近代的な自我や自己を保ったままでは、
土方にとっての未踏の舞踏である『病める舞姫』の世界に入ることはできない。
それを追求する過程で、これまでの調体技法を深化し、
新しい調体技法を切り開くことが要請された。
今年の共振塾前期の生徒と共に推し進めた実験を通じて
新しい調体技法がどんどん生まれてきた。

これらの成果と、これまでの『静かな家』研究の地平を統合して、
新しい深層調体シリーズが生まれた。
ここ暫くの間それらを紹介したい。
これはこれまでの日常体から、下意識モードのサブボディに
移行するための基礎的な調体技法や、探体技法に続き、
より深層の自他未分化なサブボディ=コーボディに変成するための調体技法である。

とりあえず、
深層調体〇番 多次元皮膚呼吸
深層調体一番 多次元重層微細動
深層調体二番 多次元重層ゆらぎと気化体
深層調体三番 多次元重層うねりと自在跳梁するからだ(Jumping Wild)
深層調体四番 気化と獣体・体底体への物質化、密度を運ぶからだ(Carrying density)
の前半部分を紹介する。

この後、
深層調体五番 多次元五秘調体 異貌体変成
深層調体六番 原生体六道 縮まりと気配り
深層調体七番 憑依体リゾーミング
深層調体八番 八覚から非二元覚調体
深層調体九番 九触 多次元重層微細共振
深層調体十番 十体変成調体
深層調体什一番 多次元重層コーボディ共振

の、より深化した調体=探体=創体技法へとつなげていく。
これが完成すると、サブボディ十体のための調体・探体技法が完成することになる。
それは今年後期の実践的な課題となるだろう。

これらはすべて今年後期の共振塾での探求の基礎となるものなので
新旧の共振塾生は、この夏から毎日実行して
からだに染みこむまで身につけるようにして貰いたい。




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 2013年7月14日

深層調体〇番 皮膚呼吸


1.体底(ボトム)呼吸

静かな場所を見つけ、ゆったり座る。
息を吐きながら、胴体の底(ボトム)の肛門周りと腹筋最下部を収縮する。
最大まで収縮してから、ボトムをゆるめると、自然に空気が体内に入ってくる。
その空気をからだじゅうに送り届ける。

2.皮膚呼吸

からだ中の皮膚が無意識に行なっている皮膚呼吸に耳を澄ます。
体底呼吸を行いながら、吸気のときからだの各部位の皮膚から
空気が流入することをイメージする。
例えば額から空気が入ってくることをイメージすると、
その部分がふくらみ、涼しくなる。
これをからだの各部の皮膚で行う。
からだの各部位で皮膚呼吸していくと、じょじょに外界と体内をへだてる皮膚が
消え、からだの内外を多彩なクオリアが出入りする透明なからだになっていく。

3.透明体

皮膚で呼吸し、皮膚を消して、透明体へ変成する。
あとは、命に聴き、かすかな傾性をとらえてそれに従い、ゆっくり乗り込んでいく。
透明な命の動きに従う、静かなサブボディの動きを楽しむ。
命が早く大きく動きたくなれば、それに従う。
自在にサイズ、速度、リズムを切り替えて、多彩な透明サブボディに変成する。




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 2013年6月27日

深層調体9番
見えないものを踊るからだに変成する



前期最後の授業で、この半年の探求を総括した。
今年は土方の未踏の舞踏への思いが込められた
『病める舞姫』の世界に生徒と共にはじめて分け入った。
そこは土方が志向した、<自他分化以前の、非二元かつ多次元で、
あらゆるクオリアと微細に共振している生命そのものの世界だった。
生命共振は目には見えない。
言葉や映像によっても捉えきれない。
ただ人間の条件をすべて脱ぎ捨てた生命そのものになったときにだけ、
かすかにからだで共振的に感知することができる。
『病める舞姫』の生命共振世界を踊るには、
そういうごく微細な共振体に変成する必要がある。

そのために、編み出されたのが新調体9番である。
今年前期の探求をすべて統合することによって、
その全貌がおぼろげにつかむことができるようになった。
共振塾後期は、この収穫をもとにさらなる探求をすることになるだろう。
今はただ、その要点だけを記しておく。
新調体9番は、9つのからだの踊り場の微細覚をひらくものだ。

新調体9番 見えないものを踊るからだに変成する

1.尻尾
背後世界のさまざまなクオリアとと共振する。
背後霊、祖先、赤い神様、などなど。
土方の有名な振り付け「尻の諮詢」も、
背後世界とつながっている尻や尻尾で
見えない闇のクオリアをまさぐるものだ。

2 足
地面に接する足の裏が、地底や地下のクオリアと微細に共振する。
地霊などその場所にのみ存在する不可視のクオリアを捉えて踊る。

3 触覚顔
顔のすべての微細なディテールが、昆虫の触角、かたつむりの角、
温度を感知する蛭の頭部になる。
額、眉、まつげ、頬、鼻毛、耳、唇の端、あごひげなどが
不可視の微細クオリアを感知する触覚に変成する。

4 手
手もまた、不可視の大きな生きものや、陰気な空気を感知する
微細な共振器官となる。
掌、手の甲のすべての細胞の微細覚を開く。

5 第三の目
額に大きな目玉をつけていなければ、
「空気中に棲む見えない大きな生きもの」を捉えることなどできない。


6 呼吸
呼気、吸気を通じてからだに入り込んでくる
微細な見えないクオリアと共振する。 
空気によって動かされるからだとなる。
※これは、舞踏の先輩・屋久島に棲む藤枝虫丸さんが
長年探求している「呼吸によって動く」ワークから示唆された。
学ぶ所大である。

7 秘膜
からだの物理的な皮膚だけではなく、そのまわりに
幾重にもひろがる重層的な秘膜共振をひらく。
これは『静かな家』における土方にとって、
「皮膚への参加」という彼のメインチャンネルである。
わたしもまた、ずっと主にこのチャンネルで踊ってきた。

8 体内の微細震え
からだの深層の秘筋がかすかに震え続ける。
秘腔の内臓の動き、無意識の情動の変化に耳を澄ます。

9 離見
つねに外部から見つめ続ける。
からだの闇に何が起こっているかを把握し続ける
多次元かつ非二元の透明覚をひらく。

以上だ。
この9つのからだの踊り場の微細覚を開くことは、
この夏、世界各地に散らばる新旧の共振塾生にとって、
自分固有の深淵につながる調体法を編み出すよい指標になるだろう。
今年の後期は、その成果をシェアしあうことから始めたい。



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 2013年6月14日

闇の重層術



今年の舞踏祭の特徴は、生徒たちの踊りが
「闇の重層術」とでも呼ぶべきこれまでにない技法を得つつあることだ。
3月から、土方の『病める舞姫』に書き込まれている
生命が不可視の背後世界と共振している境域をなんとか
踊りにする技法を探求してきた、その成果が現れてきた。
しかも生徒全員がそれぞれに探求する実験を
全員でシェアしてきたことによって、
アンネリの光の実験、
ハビエールの黒幕の重層遣い、
クリスチャンの隠れた体腔音の探求、
リサの糸との微細共振、
ソルヴァイの極小空間での動きの探求、など、
背後世界と微細に共振する各チャンネルのクオリアが
いつのまにか全員に共有され、
それらすべてを重層する舞台が出現しだした。
毎日、わたしが驚かされるほど、独創的な舞台づくりが出現している。
観客とのコミュニケーションのしかたも、
実にさまざまな実験が繰り広げられている。
そう、わたしが解き放ちたかったのは、この無制限の創造力なのだ。
生命のもつ創造力の無尽蔵さに、改めて感嘆する毎日だ。




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 2013年5月26日 

未踏の生命共振の実験の場としての舞踏祭


今年の舞踏祭は、生徒がこれまでに展開してきた
さまざまな形態での生命共振の未踏の可能性を統合する。
踊り手同士の即興、たえず変わる場との即興、
流動する観衆との即興の可能性を探求する。
舞踏公演だけではなく、連日自由参加のワークショップが
生徒の手で開かれる。
その中で踊り手と観衆の間の垣根がじょじょに溶解していく。
日常の人間の枠に閉じ込められている生命が
共振によって囚われから解放されていく。
生徒たちの踊りが、観衆の生命を動かすまでに深まって来なければ
こんな実験はできない。
だが、半数以上が長期生という今年の環境が
それを可能にし始めた。
いよいよ面白い生命共振の実験が始まりそうだ。



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 2013年5月26日 

コーボディとしてのリアルタイム共振技法


すでに3月から育ってきた生徒のコーボディは、
じょじょに一つの生きもののように、
コーボディとして最適の序破急を創造する力を身につけ出してきた。
ヒマラヤの山河で踊り、毎週末に公演を続け、
チベット人学校で踊り、レストランで踊り、
昨日は地元の催しで2千人ほどの観衆の前で踊った。
今日もジオが続けてきたオープンワークショップの締めで、
参加者らと踊っている。

からだの外側に半分、自己のうちに半分開く
透明体はこういう多彩なプロセスを経て生長していく。
自己のサブボディだけにこだわるのではなく、
同時にコーボディとして劇場全体の序破急展開に耳を澄まし続ける
習慣を磨いてきた。
それがコーボディとして、群れのからだで実現できるようになるには
時間がかかる。
群れのなかにひとりでも自我にこだわる踊り手がいれば
群れでのダイナミックな展開は阻害される。
そんなものに耳を澄ましていれば、自己が萎むと怖れていれば
このダイナミズムに飛び込むことができない。
内に半分、外に半分という透明体の境地だけが
自己にも他者にも囚われない、
なにものにも囚われることのない巨大な自由を開くのだ。

今年の舞踏祭は、リアルタイムな生命共振の未踏の可能性をさぐる。
踊り手同士の即興、たえず変わる場との即興、
流動する観衆との即興の可能性を探求する。
舞踏公演だけではなく、連日自由参加のワークショップが
生徒の手で開かれる。
その中で踊り手と観衆の間の垣根がじょじょに溶解していく。
日常の人間の枠に閉じ込められている生命が
共振によって囚われから解放されていく。
より多彩な生命共振の実験場になりそうだ。








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 2013年5月26日 

即興と振り付け――リアルタイム生命共振と生涯彫琢


踊り始めた頃は、長年即興と振り付けの違いの謎に囚われていた。
いったいどちらがいいのだろう、などと。
どちらもやった。
共振塾でもどちらもやる。
やり続ける中で、即興と振り付けの二元的対立が解けてきた。

共振塾は1年制をベースにしている。
2年以上在籍すると<産婆>資格を得ることができる。
その共振塾に舞踏祭が夏冬二回ある。
前期の末の6月と後期の末の11月末だ。
一年かけて必然の踊りを探求する生徒にとって、
前期の終わりの舞踏祭は、どちらかというと探求途上であり、
どちらかと言うと振付よりは即興により重点を置いたものとなる。

第6回舞踏祭(6月)――どちらかと言うと即興寄り
第7回舞踏祭(11月)――どちらかというと振り付け重視

6月時点でモチーフを獲得した踊りは、半年も探求すれば
からだの各踊り場に振り付けが降り積もり、染みこんでいく。
即興で偶然出てきた動きが、時間をかけて必然の振り付けに
生長していく。
だが、もとより、振付と即興には厳然たる区別などない。
即興の中にも長年の内に貯蓄された部分的振り付けが
最適の登場のタイミングを見つけて踴り出てくる。
ガチガチに振り付けを固めても、踊る場所と時が違い、
観客が異なれば、違った生命共振が現出する。
踊りは瞬間コミュニケーションだからだ。
そういう過程を経て長い年月をかけてひとつの舞踏が生長していく。
振り付けの深化は延々えと続く生涯彫琢である。
踊りの成長の中で、すべての瞬間瞬間が、
リアルタイムな生命共振なのだ。
人生のすべての瞬間がリアルタイムな生命共振であるのと同じだ。

創造過程では、当初のイメージなどにこだわらず、
できるだけフレキシブルにあらゆる変化する条件に即興し、
織り込み、成長させていくのがいい。
共振塾でさまざまな場所や山野で踊るのはそのためでもある。
振付が固まってきても、一瞬一瞬の間には
まだまだ新しい微細なデテールの踊りを挿入し深める余地がある。

リアルタイム共振と生涯彫琢。

即興と振り付けの二元的な対立はこの多次元共振のなかに
新しい命の発露を見出すだろう。


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 2013年5月22日 

これからくる未知の秩序


「人間はまだ神話的秩序や歴史歴な秩序、
これから来る未知の秩序に、百万分の1も触れていない。
外部の秩序や、開放感は随分変わったし、発達して、
人間をいじめているように見えるけれども、
この奇形的な体を一目見れば、
こういうからだのなかに隠れているということが分かる。
これからいろんな恐怖に見舞われる機会があるだろう。」

(土方巽全集・未発表草稿)



現代の人間は、近代教育によって自我を植え付けられ、
自我には無数の情報が洪水のように注がれて育て上げられてきた。
その結果、すべての事象を自他区別する
自我の色メガネを通じて見聞きし、
内外・善悪・正誤・好悪などの単純な二元論で判断するようになっている。
だが、それでは生命の多次元共振している真実の姿を
誤解し続けるばかりだ。
生命の世界には二元論的判断は一切ない。
ただあらゆるものと多次元的に共振している非二元世界だ。
土方の予感した<これから来る未知の秩序>とは、
人間が自我や近代的人間の殻を脱ぎ捨てて、
生命に生長していく過程で現れてくる多次元共振世界を指している。

土方はその未知の秩序に焦点を当てて一心に見つめ続けた。
『病める舞姫』には、土方が彼の皮膚とからだで察知した
<これから来る未知の秩序>が詰まっている。
それは見えないもの、定かでないもの、
背後世界と命との無数の共振のしかたに関する
新しいからだの知であり、その用法である。
別の草稿ではこれまでに何度も触れた
<自他分化以前の沈理の関係>
という呼び方をしている。
それは近代的なエゴによって自他分割された共同幻想を脱ぎ、
人間から命に生長していくプロセスである。

今年はこのコーボディの透明体の育成を目標としてきたが、
ようやく軌道に乗ってきた。
今週初めから、12人の生徒の謎と秘密、その背後世界を
シェアしていく作業を続けている。
これはこれまでにない生命の舞踏の共創実験だ。
個人の創造力ではなく、この生命の透明体群が秘め持つ
莫大な創造力を解放する実験だ。
これこそ、土方の『病める舞姫』が黙示している
未踏の生命共振舞踏の可能性である。


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 2013年5月17日 

クオリアは、何を失うことによって情報になるのか


長い間、うまく解けない謎だった
クオリアと情報との関係が少し解けはじめた。

クオリアが情報に転換されるとき、何を失うのか。
この問が立ちあがってきたとき、はじめて光明が見えた。
何を失うことによって、クオリアは情報になるのか。
生命共振だ!

クオリアは生命がクオリア共振する限りにおいて
共振的に生成する。
クオリアが情報に変換されるとき、
生命共振というクオリアの生成の現場を離れ、
情報というモノに転化する。
言語や映像や音の情報はすべて、
0と1からなる二進法の機械語に翻訳することができる。
そのとき、
生命共振を失うことによって、クオリアは情報に転化する。

そういうことだったのだ。
マルクスや吉本のいう<原生的疎外>関係が
クオリアと情報との間に存在する。
いまはこれを確認しておくだけに留める。
ようやくここから、クオリアと情報との間の
深い謎に立ち向かっていくことができる。
そういう地点をやっとのことで見つけることができた。
もう酒は呑めないからだになってしまったが、
今夜は架空の祝杯を空けよう。

おそらく、この決定的な気付きがやってきたのは、
土方の『病める舞姫』に取り組んできたからだ。
思えば『病める舞姫』とは、情報ではなく不可視の背後世界との
微細な生命共振のクオリアによってのみ書かれた奇跡のような書物だ。
土方はそれを踊れといっている。
俺は踊れなかったが、
お前たち未来の舞踏家こそこれを踊ってくれと伝えている。
ありがとう、土方巽。
彼の導きなしにはここまで来ることは不可能だった。
命のリレーなしには。





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 2013年4月16日 

定かでないものを踊る


定かでないものだけが踊るに値する。
踊るとは定かでないもの、
頭で考えても解けない謎と
未知の秘密のからだでの探求なのだ。


未知の、不確かな、正体不明の、不明瞭な、なじみのない、漠然とした、かすんでいる、形のない、、、ファジー曇った、あいまいな、薄暗い、薄暗い、陰気、軽微不明瞭を踊る。

もののけ
ものに憑かれる
もの忌み
もの悲しい
もの寂しい
もの憂い
もの恐ろしい
もの静か
もののあわれ

●●●

明確なものはダンスのための価値はありません。
明確なテーマと明確な目的は、ライフレゾナンスのために有害である。
全く方向、ライフレゾナンスでは何の意味もありません。
生命は、宇宙のすべてとちょうど共振している。
日陰者を踊る。それだけでダンスをする価値がある。

Motivテーマより、
motivよりMatier、
matierより不明瞭。

ライフレゾナンスは不明瞭だ。


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 2013年4月15日 

これからくる未知の秩序


「人間はまだ神話的秩序や歴史歴な秩序、
これから来る未知の秩序に、百万分の1も触れていない。
外部の秩序や、開放感は随分変わったし、発達して、
人間をいじめているように見えるけれども、
この奇形的な体を一目見れば、
こういうからだのなかに隠れているということが分かる。
これからいろんな恐怖に見舞われる機会があるだろう。」

(土方巽全集・未発表草稿)



現代の人間は、近代教育によって自我を植え付けられ、
自我は無数の情報を洪水のように注いで育て上げられてきた。
その結果、すべての事象を自他区別する
自我の色メガネを通じて見聞きし、
内外・善悪・正誤・好悪などの単純な二元論で判断するようになっている。
だが、それでは生命の多次元共振している真実の姿を
誤解し続けるばかりだ。
生命の世界には二元論的判断は一切ない。
ただあらゆるものと多次元的に共振している非二元世界だ。
土方の予感した<これから来る未知の秩序>とは、
人間が自我や近代的人間の殻を脱ぎ捨てて、
生命に生長していく過程で現れてくる多次元共振世界を指している。

『病める舞姫』には、土方が彼の皮膚とからだで察知した
<これから来る未知の秩序>が詰まっている。
それは見えないもの、定かでないもの、
背後世界と命との無数の共振のしかたに関する
新しいからだの知であり、その用法である。

今年はこの透明体群の育成を目標としてきたが、
なんとかここまでこぎつけることができた。
これを基盤に来週からは、
これまでにない生命の舞踏の創造実験を始める。
個人の創造力ではなく、この生命の透明体群が秘め持つ
莫大な創造力を解放する実験だ。
これこそ、土方の『病める舞姫』が黙示している
未踏の生命共振舞踏の可能性である。


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ボトムボディの元型
 2013年4月19日 

ボトム元型とアニミズム

2 重要

「死者は静かにしかし限りなくその姿を変えるのだ彼等は地上のものの形をほんのふとした何気なさで借用することも珍しくない。」

土方の最後のソロ「静かな家」は、魂や精霊、気化したからだとなった死者が、任意に地上の物質や人のかたちを借用して形あるものに成り込むことからなっている。これは人類最古の心であるアニミズムの世界に入り込むことなのだ。

『病める舞姫』でも、冒頭のけむり虫に象徴されるように、
あらゆるものは「生まれ変わりの途中」 にあるものとして登場する。
「誰にも見えない空気中の大きないきものこそが
変容の主人公なのだ。
少年土方は、鉛玉やひものような、

「うさん臭いものや呪われたようなものは、
(その見えない精霊が)
休んだ振りをしているのだ」
と見えないアニミズム世界の秩序に対する
スパイのような目を働かす必要があった。
私たちもまた、土方の未踏の舞踏を学ぼうとすれば、
石や鉛玉などのうさん臭い事物にからだごとなり込むことによって、
アニミズム世界の秩序にからだごと入り込むことが要求される。

気化してさまよう透明な精霊と、
それが休息する媒体としての
石や山や木や箱や瓶やランプなどの
ボトム元型が、太古から続いてきたアニミズムの主要登場人物である。
ボトム元型は世界中にあまねく存在する。
おそらくグレートマザーのようなひとがたを取る以前の、
もっとも古い層の元型が路傍の石や、
大樹の元に置かれた石などに象徴されるボトム元型なのだ。
日本では消失しかけているが、インドではいまだに
いたるところに路傍の石が祀られている。
中沢新一がその『精霊の王』で取り組んだ「シャジク石」もまた、
人類の古層のボトム元型そのものである。
ボトムになり込み、もっとも古い人類の心になりこみ探る。
ボトムボディには人類700万年の心の秘密が詰まっている。
土方が誘っている未踏の舞踏とは、現代の狭い心身のあり方を脱ぎ、
700万年の人類史の各段階の心身を自在に行き来しうる
融通無碍な透明体になることなのだ。



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 2013年4月19日 

元型を踊る際の注意

わたしたちは森羅万象を踊る。
見えるもの、見えないもの、すべてを踊る。
元型はわたしたちのからだの闇の古くからの住人である。
当然さまざまな元型を踊らねばならないときがかならず来る。
元型は太古から人類が遺伝的に受け継いできた想像力の母型なので
とても強い拘束力をもっている。
一度捉えられたら、抜け出すことは困難だ。
強力な囚われによって、想像力も創造力も奪われ惨めな存在に陥ってしまう。
影、アニマ、アニムス、老賢者、トリックスター、少女、少年、王、女王、神、鬼、悪魔、そして自我が自己像の元型群である。
なかでも自我が元型であることを知らない人が多い
だが、それは現代最強の元型なのだ。
あまりにほとんどの人が囚われてしまっているがゆえに、
あたかも不可避の人間の性質だと誤解されている。
実際一生仕事になるが、自我の囚われから離脱することは、
現代人にとって最大の課題である。
さもなければ、わたしたちは生命のもっとも重要な資質
共振力を回復することができない。
あらゆる元型を踊る必要があるのは、
その無意識の拘束から解放されるためである。
とことん踊りきることによってのみ、
その拘束から逃れることができる。
踊るには細心の注意が必要だ。
それになりこみながらも、それに喰われてしまわない
安全な距離を保たねばならない。
紙一重ギリギリのエッジで踊るしかない。
さもなければ、われわれは簡単に元型に喰われてしまい
その虜となる。
グルという惨めな状態はそうして生まれる。



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 2013年4月18日 

地母神(グレートマザー)のクオリア

チベット学校での今週末のアースディの公演のために
今週は大地のクオリア、底のクオリアを探求してきた。
地や底のクオリアの探求では必然的に地母神(グレートマザー)を
避けて通ることができない。
大地が母でもあるというのは、
人類にとっておそらく最古の元型のひとつだ。
すべてを生み、すべてを喰い、すべてを愛し、すべてを破壊する。
生成と死滅のエネルギーの源。
太古の人は、人の力を超えたクオリアを
すべて原初の精霊グレートマザーに投射した。
時代が下ると、それは日月、善悪、創造と破壊、昼夜など
さまざまな神格に分化していくが、
分化する以前の非二元の元型がグレートマザーだ。
人類はなぜ精霊や神というような観念や
宗教を生み出してしまったのかをからだで探るには、
そこまで遡るねばならない。
仙腸関節を最大限に広げ、広く大きな骨盤になって
内臓の底から吼え、産み、あらゆるものを喰い歩くと、
男でもグレートマザーの体感になりこむことができる。
体感としてもっとも深い謎を秘めている。
何回成り込んでも尽きせぬ味わいがある。
アースディという機会が、開いてくれた探求のひとつだ。



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土方のボトムボディ あるいは箱に入れられたからだ
 
 飯詰め(いずめ)
 
ベルメールの箱に詰められたからだ
 
生徒のボトムボディ
 2013年4月13日 

アースとボトムとアビス(地と底と深淵)の謎


からだの闇は底なしの闇だ。
非二元かつ多次元の闇だ。
そこを探るには、単純な二元論的概念は役立たない。
世界の基底がアース(地)であり、
あるいはボトム(底)であるというような概念に慣れると
それに束縛される。
その囚われに立ち止まるのではなく、
常にその底を割るアビス(底なしの深淵)というような
新しい発想を導入する必要がある。
アビスもまた、別の次元によってそのうち底を割られるだろう。
生命共振の多次元の闇を探るとはこういうことだ。

ボトムボディの謎を探求し始めてもう20年になろうとしている。
最初それは偶然やってきた。
石と呼んだ小さな縮こまったからだだった。
不思議な体感があったので、その後その姿勢に入り、
かつそこから出る変幻を何百何千と踊った。

その20年間におよぶ探求の中で、
じょじょに自分とは何か、
なぜいかにしてこの変な自分が生まれたのか、
じょじょに謎が解けてきた。

最初は自分だけの特殊なものかと思えていたが、
他の生徒にとっても人によってはそれがからだの闇の探索のおおきなきっかけになることがわかったので、毎年続けてきた。
そのうち、土方にも同じような姿勢があることに気づいた。
彼の処女作である「種子」という踊りも、小さな種子の姿勢のまま
発芽せずに転がるだけというものだったという。
飯詰め(いづめ)に入れられて寒野に放置されていた
彼の幼年体験が関係していることも知った。
立とうとして立てない凍え縮かみ、衰弱した脚もそこから生まれた。
ベルメールの小箱に詰め込まれたからだのイメージとも強く共振した。

そして、無限変容する死者になったとき、気化してさまよう精霊が
ときに任意の物質の形を借りて休息するものとして、
石や山や木や箱や瓶やランプなどの形をとった
ボトムボディの元型がアニミズムの太古から
あまねく世界に存在することも知った。
土方の最後のソロ「静かな家」のための覚書きには
その探求のエッセンスが詰まっている。

ボトムボディの探求は、一筋縄ではいかない。
多次元的な謎が交錯する要でもある。
地のクオリア、底のクオリア、深淵のクオリア、
背後世界のクオリアという幾層もの
多次元世界と命との謎を解く場所である。
この底なしの謎は生涯かけて探求するに値する。
ことしも共振塾の生徒たちはその探求を始めた。
一年かけてどんなボトムが転がり出てくるか、
どんな宿命のアビスに出会うか、
今から楽しみだ。

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 2013年3月18日 

サブボディ=コーボディの謎と、未来の倫理

「自分を発現させ過ぎないこと。
他者とともにある自分を発現させ過ぎないこと。
他者を発現させ過ぎないこと。
発現したものすべてをこの世界に住まわせること。
私たちの世界を多様にすること。」


自己と他者という謎、サブボディとコーボディという謎、
個的な存在と類的存在という謎、個別的な命と、巨大な生命潮流の間の謎・・・
かつてドゥルーズが刻んだ「未来の倫理」が輝き出すのは、
この謎に直面し、この謎と格闘するときだ。
私たちは、自我や自己に囚われた「人間」から、
生命に向かう生長の途上にある存在である。
ドゥルーズの「未来の倫理」はこの未来への道を歩く人に与えられた
ごく控えめなアドバイスだ。
これらの深い謎と取り組むにあたって、ドゥルーズのこの短い文は
限りない励ましと慰めを与えてくれる。



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 2013年3月18日

サブボディとは何か?

( 「生命・クオリア・共振」から続く)

サブボディとは、一言で言えば、下意識のからだである。
下意識の領域では、下意識とからだは、日常の世界のように、心と体にはっきりと分離されていない。
そこは、自他、心身、内外、類個が分化する以前の非二元の世界だ。
そこではすべてが一つであり、また多である。
あらゆるクオリアが非二元かつ多次元で共振している。

ふるえやゆらぎなどの調体技法を通じて、
わたしたちは日常体の状態から、思考を鎮め、判断を停止して
サブボディモードに移行することが出来る。
サブボディになりこむことは、からだの闇を旅するためのもっとも有効な手段である。
からだの闇では、自我、自己、そして生命が混在している。
あらゆるクオリアが変容流動しているその世界を旅するには、
からだごとサブボディになってその世界に降り立つ以外ない。
生命の創造性に満ちたその世界を旅するための手段であり、いわば乗り物のようなものである。ときに地に潜り、海を漂い、空を飛ぶ変幻自在の生きた乗り物なのだ。

コーボディとは何か?

生命はあらゆるものと共振している。サブボディもまた、常にあらゆるものと共振している。
昨年までは、わたしたちは、コーボディとは共振するサブボディであると捉えてやってきた。
それ自体はその通りなのだが、実際の練習では、
サブボディは個人の動き、コーボディは群れの動きと、
使い分けてしまいがちだ。
すると、わたしたちは、簡単に 個と群れの二元論的了解に縛られてしまう。
その弊害を避けるために、今年はコーボディを群れの動きを指すことばとして使うことを止めることにした。
サブボディそのものがすでにあらゆるものと共振している。
幼児期にからだの闇に潜んだ異貌体などのサブボディは
まだうまく共振する方法を知らない<未共振(ディゾナンス)>という特徴を持っているが、それもまた広義の共振である。
サブボディはコーボディであり、コーボディはサブボディである。
わたしたちはサブボディ=コーボディとしてすべてを踊る。
コーボディという言葉を使うときは、これまでのように共振するサブボディという意味だけではなく、むしろ、自他や類個の境界を越えた非二元世界の謎に向かって問いかける問いとして使うのがいいと思う。
それは生命の謎、クオリアの謎、共振の謎に向かって問いかける問いそのものなのだ。

常に生命の微細な共振するクオリアに耳を傾けつづけること。
生命共振の無限のバリエーションを味わうこと。
わたしたちが非常に貧しいパターンに縛られていることに気づくこと、
とくに自我と自我との区別や対立という貧しいワンパターンにいかに深く縛られているか。葛藤、争い、戦い、判断、拒否、無視、解離、自尊、嫉妬、見下し、など。現代の日常世界でおなじみの自我の共振パターン以外に、生命にはもっともっと豊かな共振パターンが無限にあることを学ぶ。それこそがもっとも大事なものだからだ。

 
祝! 伝説の写真集「鎌鼬」復刻
 2013年3月13日

不可視の鎌鼬を踊る

うれしいニュースに触れた。
細江英公の写真集「鎌鼬」が、新しい写真を加えて復刻されるという。
土方はこの写真集で一挙に有名になった。
この写真集が大当たりして、当時最高の文部大臣賞を取って、
書店の店頭に平積みされて展示されていた。
1969年、貧しい学生だった私は書店の店頭で何時間も立ち見をした。
すべての写真が一度見たら忘れることができないほど強烈だった。
とりわけ、そのタイトルに魅せられた。
かまいたちってなんだ?
吹雪の中から現れて人々の皮膚を切り裂くという、
東北の伝説の生きものらしい。
土方にとって鎌鼬は、見えないもののシンボルだ。
『病める舞姫』では、次のように記されている。

「額に目玉をつけてなければ、ぶらぶらとそこらじゅうに吊り下がってるものたちの争いに喰われてしまうし、
空気のなかの見えない大きな生きものも見ることはできないのだ。
そういうところにからだがはさまっていたようだ。」


ちょうど今日は、「見えないものを踊る」に取り組んだ一日だった。
生徒が見つけた原生体のサブボディが、
見えない何ものかに出会って、一波乱が起こる。
その出来事を共振によって見えるようにするという日だったので、
その好事例として鎌鼬を紹介した。
土方は生涯鎌鼬を踊り続けた。
無数のバリエーションがある。
『病める舞姫』には不可視のものと命との共振だけが
これでもかというくらい延々と描かれている。
それくらい書いても、人には伝わらなかったのだ。

今日は空気のなかに棲む見えない大きな生きものと抗うを踊りにした。
明日はそれがからだなかに忍び込んで、
からだの中からそれに踊らされるという日にしよう。
新学期が始まったばかりだが、
初日の生命・クオリア・共振、
二日目の動かされるクオリア、
三日目の見えない世界の共創、
四日目のからだを伝うクオリア流と、
これでもうたった一週間で
もっとも大事なことの要点は伝えきったことになる。
かつてないほど濃密な始まりとなった。



 2013年3月9日

生命・クオリア・共振

これらの3つはSubbody共鳴法の最も基本的なアイデアです。
それらのすべてはまだ私たちにとって未知の謎である、従って私達はそれに調査する必要があります。

生命とは何ですか?

人生は毎日の物理的な世界とは完全に別のロジックを持っています。
人生は数えることができない。人生は同時に1とすべてです。
私たち人間の体は100000000000000細胞で構成されています。
各セルには、生命を持っており、個々の身体だけでなく共振する。私たちの体は100000000000000細胞の共鳴体である。
個々の身体は生命を持っています。
同時に、巨大な生命潮は生命の起源から4億年の寿命を持って続けています。それらのすべては一緒に共鳴する。
地球上の生命とは何ですか?
私は生命の言葉を使用するときは、これらの謎のすべてを含んでいます。
Subbodyになるために、私たちはこの謎を探求することにより、subbodiesも時には単独で、時には一緒に共鳴しています。

クオリアとは何ですか?

クオリアは生命が共鳴すべてです。
それは、どちらのエネルギー物質ではありません。また、それは私たちの想像力によって製品ではありません。
我々が何かを感じたり思ったりする前に、すでに100000000000000細胞の生命が何かのクオリアと共鳴し、我々は、感じたり、私たちの体のクオリア共鳴に基づくsomehting考えることができます。
おそらく、クオリアは、ライフレゾナンスそのものです。
クオリアは無限です。それが常に変化してストリーミングされているため、クオリアは、カウントすることができません。時には彼らは共鳴し、別のクオリアになる。クオリアは、シングル、ダブル、倍数です。クオリアは、毎日世界のロジックとは異なる別のロジックを持っています。
舞踏は、この目に見えないクオリアを踊ることです。
したがって、我々はそれに調査する必要があります。

共鳴とは何ですか?

寿命が世界のすべてと一致しています。
共鳴は主語とはオブジェクトを持っていません。
共振が自発的にすると同時に、両方の側から発生します。
我々はまだよく共鳴をキャッチするために適切なロジックを持っていません。
生命とクオリアは常にマルチディメンションで共振している。
私たちは一緒にこれらの謎を探求しなければならない理由だ。
しかし、私たちの思考はそれらを適切にキャッチすることはできません。
その後、我々はsubbody = cobodyになるために必要な、ライフレゾナンスの総経験を通して、私たちは体内でこれらの謎を深めることができます。
謎を解くことは、我々はより深い謎を満たしていることです。我々は、これらのパラドックスのすべてに同意する必要があります。


 2013年3月3日

生命共振舞踏とは何か?

命の共振は、人間的な共感とか、共鳴とは違う。
しようとしてするものではない。
思うより先に、気づくより前に
すでに命はあらゆるものと共振してしまっている。
からだじゅうの百兆の細胞生命は、
40億年前の誕生以来、多くの種に分化したほかの仲間と同じ
40億年間生き長らえてきたひとつの命だ。
細胞の生命記憶は、時空を超えて世界と共振している。
地球の重力とも、太陽の光とも、
氷河時代の凍えの記憶とも、
遠くの地震とも、戦争の死者とも、
漏れた放射能で突然変異が起こっている小さな命とも、
たえず共振している。
大事なのは人間としての利己的な自我を脱いで
命のかすかなふるえに気づくことなのだ。
生命の共振は自分の意識や意志に関係なく、
すでに起こっているものだ。
それに気づき、それを踊る。
それが生命共振舞踏だ。
3.11 
この星の一つの命のふるえに耳をすまそう。



 2013年3月1日

クオリアと情報ー人類の顔の変化

(承前)

私の少年も、何の気もなくて急に馬鹿みたいになり、
ただ生きているだけみたいな異様な明るさを保っていた。


昨日書いた昭和の子どもの異様な明るさとはなにか、
もう少し気づいたことがある。

この数十年間で起こった命の変化を、
昨日は情報化の進展と、食料衛生事情の変化を挙げた。
たが、それだけでこんなに大きな顔つきの変化が起こるわけがない。
昭和の子どもの顔をじっくり眺めていると、
かれらが胎児の頃の面影を色濃く残していることに気づく。


図1 右上から受胎32日、34日、36日、38日の胎児の顔の急激な変化 
(くわしくは上のスライドショーで味わってください。)


図と説明は、三木成夫の「胎児の世界」、「人間生命の誕生」から。
三木氏によると、胎児は生命発生の歴史を繰り返す。


「受胎後32日は、ちょうど鰓と原始肺が共存するデボン紀の初期、上陸と降海の二者択一を迫られた古代魚類の時期。体長はアズキ粒大。


受胎34日は、鼻がすぐ口に抜ける両生類のおもかげ。


受胎36日は、原始爬虫類の相貌。3億年前に古代緑地へ上陸を完了したころ。体長13mm。


受胎38日は、原始哺乳類のおもかげ。」
人類はこの短い時期に魚類から哺乳類までの生命史をたどって生長する。



そして、この時期に人間の脳はまた、
脳幹を中心とした爬虫類脳から、
大脳古皮質の原始哺乳類脳、
大脳新皮質の新哺乳類脳へと進化の道をたどる。
爬虫類脳にはいわゆる本能と呼ばれてきた原生的なクオリア共振パターンが保存され、
原始哺乳類脳=大脳古皮質
には、人類が共有する祖型的な情動や体動のクオリアが蓄えられている。
新哺乳類脳=大脳新皮質はこれらの祖型的クオリアと共振を保ちながら発展する。
だが、言語脳や視覚脳は、
外部から直接入ってきた言語情報や視覚情報を処理することができる。

情報とクオリア


情報とクオリアの関係はいまだ深い謎に包まれたままだが、
一言で違いを述べると、
情報はクオリアに基づくが、
生のクオリアがもつ無限の共振パターンの変化を疎外し、
捨象することによって機械にも扱える情報に転換される。

クオリアの持つ無限の共振と変容を捨象し、
0と1の二元的記号に還元したものが情報だ。


情報化時代がもたらした変化は、
上の古層の脳の祖型的なクオリアと切れたかたちで、
大脳新皮質にクオリアから疎外された情報が洪水のように
流入するようになったことだ。

胎児期、乳児期、幼児期の記憶や夢や無意識の体験は
深くこれら祖型的なクオリアや、
元型的なイメージと共振して大脳新皮質に刻み込まれる。
情報化以前の日本やアジア社会では、
誕生後も乳児は長く母とともに過ごし、
胎児期の延長とも言える母子一体的な
非二元世界にたゆたいながら生長した。
そこは民話や神話の元型的なイメージや
おそれやふるえという祖型的な情動・体動に満ちていた。
大脳が自我や言語意識の二元論に縛られず、
比較的限られた情報は無限のクオリア共振に裏打ちされていた。
顔つきもまた、胎児時代の面影を残しながらゆっくりと生長した。
三木さんの時代の日本人には、
上の4つの写真の面影を残した顔が随分みられた。
三木さんは生徒を捕まえては、
「きみはデボン紀型の顔だね」と冗談をいうことができた。
私にもすぐ思い当たる顔が幾つもある。
昨日の昭和の子どもの顔つきも、実に多彩に
胎児期の面影を残している。
だが、今日ではこういう原型的な面影を残した顔は
ずいぶん少なくなった。
情報化の進展と、西洋型の育児方式によって、
みながみな、乳児期の早期から母性から切り離された寂しさと
それをこらえる硬い自我の緊張を強いられ、
自我のペルソナを堅くかぶるようになった。
幼児期からテレビやインターネットを通じた
ヴァーチャルな情報を呼吸して育つ子どもが世界中に増えてきた。
多くの情報を操作できるが、
情報には生のクオリアが脈打っていない。


上の図に見られるように、大脳新皮質は、さまざまなしかたで
旧皮質や、脳幹部と共振している。
猫と猿でその共振パターンが異なるように、
昔の顔と、情報化以後の顔の違いは、
この共振パターンの変化と関連している。
情報は、深部のクオリアから離れて
左右の大脳新皮質だけを往還することができる。

これが、ここ数十年の情報化社会の世界的拡大が
生命にもたらしたもっとも大きな影響のひとつである。
情報に躍らされるのではなく、クオリアの無限共振を踊ろうとする
生命の舞踏にとって、クオリアと情報の謎を解くことは
愁眉の課題だ。
そこには、マルクスが解明した生産物と、貨幣との間以上の
死の飛躍がある。
はるかに複雑な未知の関係が潜んでいる。
だが、まだ誰によってもその謎は解かれていない。
そこで一体何が起こっているのか。
誰にもわからないまま、
巨大な謎の変化が進行している。
生命の舞踏は、この謎に直面している生きた現場なのだ。



 
 2013年2月27日

生きているだけみたいな命の異様な明るさ

土方は『病める舞姫』の最初の段落に
一見奇妙な一文を挿入している。

私の少年も、何の気もなくて急に馬鹿みたいになり、
ただ生きているだけみたいな異様な明るさを保っていた。


何度も読み返しているうちに、
そうだなあ。こんなふうに言うしかないようなところがあったと、
思い当たるようになってきた。
情報化社会になる前の時代の子供には、
こういうところがあった。
それは情報社会以後の人にはなかなか
想像もできないことだろうと思う。

ただ、生きているだけみたいな異様な明るさ。

いったい何をいっているのか?
とくに現代の西洋人には見当もつくまい。
『病める舞姫』の翻訳のとんでもない難しさは、こういうところにある。
現代ではもう影も形もなくなってしまったものがあるからだ。
そこで、せめても顔だけでも見てもらおうと、
ネットで「昭和の子供」などで画像検索すると、
土門拳をはじめとする写真家がとらえた
一昔前の子供の顔が蘇ってきた。
それが上のスライドショーだ。
生命の原生的な状態の顔だ。
そうだ、戦後すぐに生まれたわたしや兄弟もおそらく
多かれ少なかれこんな顔で生きていた。
今の日本にはもう見当たらない。
アジアの山岳小数民の村の子供はいまでもこういう顔をしている。
ダラムサラでも十数年前のチベットから来たばかりの子供らは
こういう顔をしていた。
だが、ダラムサラで生まれた二世代目の子供はもうこんな顔ではない。
現代の日本人と区別がつかないくらいだ。
おそらくこの間に急速に進んだ情報化と、食糧・衛生事情の変化が
総合的に関わっているだろう。
いったい、この数十年に何が起こったのか。
私にとってそれは深い謎だった。
簡単に解けるものではないことは重々わかっているが、
一言で違いを言えば、
この子らは生命のクオリアを直に呼吸しているということだ。
それに対して現代の子供は、
生のクオリアが一度情報化された情報を呼吸して成長してきた。
おそらく脳に起こったその変化が、人類の顔まで変えてしまったのだ。

土方がいつも言っていた、
「人間の条件をすべて捨てることだけは忘れないでください」
という言葉は、こういう、何の気もなくて馬鹿みたいになり、
ただ生きているだけの命から出発せよということだ。
そうなってはじめて、情報に囚われた意識や判断に邪魔されずに
命が見えない背後世界とごくごく微細に共振している
かすかなふるえそのものになることができる。
命が共振しているかすかなクオリアを踊るのが舞踏だ。
だが、いったい情報化時代以後の世代に
どうすればそれが可能になるのか。

原理的なことはこの十数年のサブボディ技法で解明した。
調体によって意識と自我・自己を止めればいいだけだ。
人としての思い悩みや意識や感情を止め、命に耳を澄ましてみる。
すると、下意識の命はみな、ただ生きているだけなのだ。
人も獣も、木々や草や鳥や虫たちも、
命はみなただ生きているだけだ。

だが、意識や自我を止めることは生やさしいことではない。
毎年西洋人の生徒の極めて頑強な自我の抵抗に出会う。
生徒は苦しみ抜き、産婆も同じ生みの苦しみを味わう。
とくに『病める舞姫』を学ぼうとする今年は、
このただ生きているだけの異様な明るさをものに出来るか
どうかが大きな課題になりそうだ。

どうか、騙されたと思って、毎朝、朝一番にからだをゆすり、その日の最も気持ちのよいサイズや速度を探しながらゆすり続けてほしい。だんだん広がる心地よさに心身をゆだねて、思考が止まり、からだの中を流れるごくごくかすかな体感クオリアが感じられるまで続ける。そして命に尋ねる。「いちばんしたいことはなにかい?」、「今やっていることはほんとうにきみのしたいことなのかい?」と。
それだけでいいのだ。
ここまで情報化社会が発展した今、すべての情報を遮断することなど、もう私たちにはできない。ヒマラヤにいて、テレビや新聞を見なくても、インターネットは欠かせないものとなっている。
だからこそ、毎日の調体によって命に耳を澄まし続ける習慣をつくり上げることだけが、情報洪水に惑わされず、命として生きていく道なのだ。
この習慣を築くことは、おそらくこれからますます情報化が進展する今世紀にあって、もっとも大事な生の課題となるだろう。


 2013年2月26日

見えないものを踊る

舞踏は、動きやからだを見せるのではない。
見えないものを踊るのだ。
生命が見えないものとさまざまな仕方で共振し、
格闘している様を踊る。
『病める舞姫』を心の目で読み深めていくと、
土方が書こうとしているのはそれであるとじょじょに分かってくる。
共振はものではないから、可視化できない。
ただ、生命共振をつうじてだけ命から命へ直に伝わる。
動きやからだだけを見る、情報社会に侵された目には何も見えない。
情報を見ようとする目を脱ぎ、舞踏手と同じ目ぐされの目にならなければ、そこで何が起こっているのかさえ、捉えることができない。
土方が最後のソロ、「静かな家」を踊ったとき、
観客のほとんどはそこで何が踊られているのかを
捉えることができなかった。
起こっていることが見えない背後世界との
ごくごく微細な命の共振だったからだ。
公演後、一行の批評もでなかったのはそのためだ。
土方はそれを、「大正情緒に委ねすぎたための失敗だった」
と語っているが違う。
命の不可視の微細共振を舞踏しようとした土方の実験が、
何百年も早すぎたのだ。
それまでのがに股や、微速動など、目に見えるものを発見してきた
批評家たちには、このときは何も目新しいものが入らなかったのだ。
そしてただ、退屈を覚え、柔らかい新劇場のソファー座席に
身を委ねて眠り込んでしまった。
土方の落胆は想像を絶するものだったろう。
それ以来、自ら踊ることを止めた。
そして、弟子の芦川羊子たちにもう少しわかりやすい振付を
振り付けることで、白桃房活動に転位した。
不可視のものを可視化する技法を探求した。
それは一定程度成功した。
だが、やはり相当悔しかったのだ。
自身が「静かな家」で踊ろうとしてうまく伝えきれなかったことを
アスベスト館を拠点とする白桃房活動が
周辺住民の反対運動によって続けられなくなった1977年、
『病める舞姫』にすべて書き込んだ。
命と見えない背後世界の間には、
こんなに豊かな共振が起こっているではないか。
誰かは知らないが、いつかこれを踊ってくれる
未来の舞踏手に向かって、
これでもか、これでもか、というぐらいに
執拗に土方はそれをえぐり出し書き留めた。
実際、命の多次元共振には無限のバリエーションがある。
一度それを書きだそうとすれば、いくら書いてもきりがないほどだ。
土方がそれを書いてから36年経った今、
ようやくそれを踊る方法が見えてきた。
はっきりと不可視の命の背後世界との微細共振に焦点を定め、
その多数多様な共振を命から命に届くように工夫をこらして踊ることだ。
これまではただ、思考を止め、
からだの闇に耳を澄ますことに主眼を置いてきた。
それでも頭で創る踊りよりははるかに深い踊りが出てきた。
だが、それだけではもう足りない。
からだではなく、不可視の命の震えに焦点を当て
耳を澄ますことが必要だ。
いままではその焦点の当て方に絞りきれていなかった。
だが、その過激な焦点の当て方なくしては、
『病める舞姫』という土方の遺言に応えることはできないことがわかった。。
今年、ヒマラヤ共振塾に集まる若い世代がそれを踊りだすだろう。
時間がかかったが、それは仕方がない。
今までの生徒には申し訳ないが、
今年以降の共振塾の授業に注目してほしい。
二元論に髄まで犯され、かたちあるものに囚われていた
わたしの目が腐るまでに何十年もの年月が必要だった。

これからはじまるのだ。
生命共振の世紀が。


 
 2013年2月24日

生命の共振力の回復

舞踏が起こそうとしている革命は、まだあまり気づかれていないが、
生命の持つ共振力の回復にある。
土方は手記に書いている。

「人間はまだ神話的秩序や歴史的な秩序、これから来る道の秩序に、百万分の1も触れていない。」

土方が書いた『病める舞姫』は、その、<これから来る未知の秩序>を描いたものだ。
そこでは人は現代の人間観を離れ、
見えないものと無限に共振している姿が描かれている。
近代の人間概念の枠の中で、人間はあまりにも自我に囚われ、
他のか弱い生命や、その障害と共振する力を失っている。
それは、生命の未熟な形態に他ならない。
土方が目指した生命の舞踏とは、
近代の物質科学によって見えなくされた背後の世界との
無限の共振を回復しようとするものだった。
それは人間という概念を拡張しようとする動きなのだ。
思考を止め、からだの闇に耳を澄ますと、
命が地球上のあらゆるものと共振していることが分かる。
あらゆる障害や悲惨を含めた、幸福と不幸のすべてに共振して
かすかにふるえている。、
なぜなら、我々は人間であるばかりではなく、
同時に地球上での一つの生命なのだから。
人間が自我や自己という狭い殻を脱いで、
生命としての共振力を回復することは、今世紀の課題である。
それには長い年月がかかるだろう。
だが、その長いプロセスをたどることだけが、
世界を変える唯一確実な方法なのだ。


 2013年2月23日

命に耳を澄まし続ける

冬場のワークショップは午前中だけなので、
ほかの時期より時間がある。
その時間のすべてを命に耳を澄まし続けている。
「何を一番したいんだい?」と問いながら。
いまじぶんがやっていることが、本当にやりたいことなのか。
少しでもずれてはいないか?
やらねばならないことはいつもあるが、
それに少しでも気乗りがしないような感じがあれば
その感じに耳を傾ける。
命からのメッセージは、かすかな不快感としてやってくることが
ほとんどだからだ。
若いころはこれができなかった。
からだの中に異和感があれば、
ただちに目を背け、耳を閉じた。
それしか解消の仕方を知らなかったのだ。
だが、そのかすかな違和感の中に命からのもっとも大事なメッセージが潜んでいることをじょじょに学んだ。
大きな発見は必ずといっていいほど、その違和感や不快感に
耳を澄まし続け、それを突破するなかでやってきたからだ。

今までどおりのやり方を発展したり、変えたりするときには
からだのなかにかすかな違和が湧く。
からだの闇にはさまざまな傾性が同居しているからだ。
同時に今までどおりのやり方を続けていくことに対しても、
たえず違和が存在する。
革新派と守旧派というような単純な二分法では割り切れない
実に多次元的な傾性が存在している。
授業中の産婆としてのわたし、
ぼおっと白昼夢をみているわたし、
眠りに落ちる寸前にだけ顔を出す人、
睡眠の最中に不意に起き上がる人、
眠りから覚める瞬間に一晩中働いていたサブボディさんの発見を伝えてくれる人、
数えられない傾性が生きている。
私はそれらすべての傾性をできるだけ押さえつけないで
全員解放してやろうと生きてきた。
その中には隠れた人格と呼べるほどの大きな傾性や、
それには至らない微細なクオリアだけの傾性などさまざまなレベルがある。
長年からだの闇暮らしを続けてきた世間知らずがほとんどなので、
なかには増長してとんでもない失策をしでかす奴もいるにはいるが、
それらすべてのバランスが大事なのだ。
それぞれの傾性やサブボディはそれぞれ違った世界と共振している。
その間でたえず発生している微妙なきしみ、ずれ、
行き違い、齟齬に耳を澄まし続ける。

これはおそらく新しい生の統合の様式である。
自我に先導されたアイデンティティを保つのではなく、
それをもたなければならないという近代的な人間の殻を脱いで、
からだの闇の多数多様な傾性が多次元的に共振する生命になること。
この地球上のあらゆるか弱い生命と共振できる存在になること。
その方法がからだ闇に耳を澄まし続けるという生き方なのだ。



 2013年2月10日

多次元共振呼吸

生命の呼吸からはじめ、ボトム呼吸、全身呼吸を経て
多次元共振呼吸へいたる。
せわしなく口や鼻で呼吸している人間を脱いで、
あらゆるものと多次元的に共振している生命になりこむ。
前項の「自己治癒力と全身呼吸」でも少し触れたが、


 
 海馬―形がタツノオトシゴそっくりなのでこう名付けられた。
 2013年2月10日

海馬の新生ニューロンの生長をうながす


前項の「自己治癒力と全身呼吸」からもう一歩進めよう。
大脳の基底部にある海馬では毎夜新しい神経細胞が生まれている。
十数年前までの脳科学では、成人の脳の細胞はただ死滅していくだけだと捉えられていた。
とくにストレスに遭った脳細胞はたやすく死滅する。
当時、インドで学校建設をしている最中に、激しいストレスから
神経症に見まわれていた私は、こうして毎日大脳の神経細胞が
死滅して二度と再生されないのかと、絶望に見舞われたものだ。
百年続いた脳科学のドグマだった。
だが、20世紀の末に大脳の海馬で、
毎夜神経細胞が新生していることが発見された。



図1、2、3 新生ニューロンの成長

そして、ニューロンの新生は、適度な運動や新鮮な経験によって促進されることが解明された。
生きる希望が湧いてきた。
よし、それでは死滅していくより速い速度で新生ニューロンを成長させてやろうと、研究を重ねた。
脳科学者は、何もない貧しい檻の中で育てたマウスに比べ、
多数の運動具や迷路がある豊かな環境で育てたマウスの方が、
新生ニューロンが旺盛に成長することを見つけた。
新生細胞は日々の新鮮な経験を古い記憶が保存されている
大脳皮質の細胞と結びつけるために必要なのだ。
これに対して新鮮な経験を得ることができない貧しい環境で育てられた
マウスの新生細胞は用がないものとして死滅していく。
そうか、そうか。
では思いきり毎日とんでもなく新鮮な経験をしてからだを動かしてやろう。
からだの闇の探索が加速化されたのは、その頃からだ。
共振塾では毎日、これでもかというほど、思いもつかない坑道を通って
からだの闇を掘る。
そして、出会った新しいクオリアをからだで踊る。
サブボディ技法を勇気づけ勢いづけてくれたのは、
十数年前の脳科学の発見だった。

からだの闇に潜んでいるさまざまな傾性を掘りに掘った。
まったく動きたくない怠惰な傾性から、アメーバや想像上の原生生物になりこむ、原生体の探体や、
影やノットミーと呼ばれる隠れた人格になりこむ異貌体
何かに強いられて動く傀儡体など、
誰のからだの闇にも潜んでいる傾性に耳を澄ましてなりこんでいく
サブボディ技法が開かれていった。
とりわけ、自分の中のサブボディだけではなく、
他の生徒のサブボディにも直ちに共振するコーボディは、
思ってもみない新鮮な体験になる。
そして、眠っている内にその新しい経験を古い記憶と結びつけるために
海馬で生まれた新生ニューロンが、どんどん伸びていくのだ。
サブボディの産婆とは、これら新生ニューロンの産婆となることでもある。
だから、ときに生徒はなんでこんなとんでもない経験をさせられるのだと
産婆に反感を抱くこともあるだろうが、意に介することはない。
苦しいエッジにぶつかることも、苦労してそれを克服することも
すべて新鮮な体験となり、新生ニューロンの生長をうながす。
気づかないところでその人の脳心身を活性化しているのだ。
調体や探体はただのからだの運動ではない。
全脳心身の共振を多次元的に活性化し、
創造性に満ちたものにつくりかえることだ。

昨日の「全身呼吸」から、
次は「多次元共振呼吸」に一歩進めよう。



「からだの闇」をもっと読む


 2013年2月9日

サブボディ共振舞踏

これまで、日本語のサイト名は「サブボディ共振塾 ヒマラヤ」で、
英語のサイトは、「Subbody Butoh Himalaya」と、
共振の文字を入れてこなかった。
だが、デリーのアグが、”Subbody Resonance Butoh”という名の
クラスを開くという便りを聞いたとき、
それがなんとも心地よい響きを持っているのを感じた。
なんだ、そうだったのか。
これまでもその名は何度も考えたことがあったが、
なんだか長すぎるかと感じて、採用しなかったが、
ただの危惧に過ぎなかったことに気づいた。
そうか、サブブディ共振舞踏と名乗っていいのだ。
英語のサイト名は、さっそく
”Subbody Resonance Butoh Himalaya”
に変更することにした。
これで何とか日本語サイトと釣り合いが取れる。
塾だけは、うまく訳せないが、それは措いておこう。


 2013年2月8日

生命の自己治癒力と全身呼吸


あらゆる生命のうちで人間だけが病院に行く。
他の生きものは自分で治す。
人間も生物として自己治癒力を持っているのに忘れている。
病院を脱ぎ捨て、生命の自己治癒力を開こう。


図1 細胞間のさまざまなコミュニケーション

自己治癒の仕組みには、40億年の生命の叡智が詰まっている。
人体が持つ100兆の細胞は互いに共振している。
図1で示すように、さまざまな方法でコミュニケートしている。
人体のような複雑な多細胞共振システムでは、
呼吸系、循環系、神経系、免疫系などさまざまなシステムを通じて
多次元共振している。、
悪い所があれば、その部分の細胞は救援信号を出す。
するとその救援信号に応じて、免疫系の白血球が集合して
問題になっているバクテリアや初期がん細胞などを食べて治癒する。(図2)

(図2)免疫システム

(図3)からだの細胞からの信号に応じて、さまざまな救援物資、生長ホルモンや栄養素が送られる。

そして血流を通じて生長ホルモンや栄養素が送られ、
眠っている間に修復される。(図3)
だが、ときに体が凝ったり、精神的に解離されると、
その全身共振の一部がブロックされ阻害される。
怒りや過度な緊張に囚われていると、
全身が交感神経モードになり、
免疫系が停止し、問題に対処することができなくなる。
多忙な仕事や問題に殺到されているときに、
癌になりやすいのはそのためだ。

全身呼吸とサブボディ探体

共振塾では、毎朝生命の呼吸、全身呼吸などの調体0番からはじめる。
そして、各種の調体・探体を通じて、全脳心身の共振を活性化する。
からだの各部を多次元的に動かし、
脳心身のあらゆる細胞に新鮮な血液を通す。
サブボディ技法の特徴は、
からだだけの血行を良くするだけではない点だ。
からだを多彩に動かすことで、
脳細胞内の内クオリアもまた活性化される。
日常の意識が忘れている記憶や夢に触れ、
さまざまにからだを動かす。
とくに、なんだかよく分からないかすかな不快感や、
触れたくないおそれの感覚にも毎日触れる。
触れたくないことでも毎日触れていれば次第に馴染みになってくる。
想起するということはその都度再編集することなのだ。
それによって、解離されていた記憶やからだの細部の凝結がほぐれる。
新しい経験と発見が毎日訪れる。
いつも全脳心身間の多次元的共振を活性化し続ける。
脳内の海馬では毎晩新しい神経細胞が生まれている。
新しいからだの経験があった日は、新生した神経細胞から、
古い神経細胞に枝が伸び、結びつくことによって定着する。
新しい心身の経験がなければ新生細胞は用がないものとして死んでいく。
からだの闇の忘れていたクオリアをからだで動いて、
全脳心身の多次元共振を活性化し続けることが
もっとも本質的な健康につながる。
脳心身の微細な凝結をほぐし、解離を解き、
これまでであったことのないクオリアとクオリアの新鮮な出会いによって
新しい創造が毎日生まれ続けるからだになることだ。

今日は次の項で毎朝の全身呼吸をご紹介しよう。



 全身呼吸


生命の呼吸

ここちの良い場所に座り、生命の呼吸を感じる。
全身の100兆の細胞が、ない呼吸によって新鮮な酸素を得て
ほんの少し活性化し、膨らむ。
その総合でからだ全体がゆっくり時間をかけて膨らむのを感じる。
10秒から1分かけて膨らみ、しぼんでいくからだのリズムを感じる。

ボトム呼吸

生命の呼吸によって心身が静まれば、次に、
息を吐きながら、からだの底、肛門のまわりの筋肉を収縮させる。
そして、最大まで収縮したとき、それをゆるめる。
空気が勝手にからだの中に入ってくる。
そしてまた、息を吐きながらボトム呼吸を続ける。

全身呼吸

立ちあがって、ボトム呼吸をつづける。
そして、からだの各部に空気を送る。
からだの全面に送り、すこし反り返る姿勢になる。
息を止め、背中中の細胞に新鮮な酸素が行き渡るのを待つ。
そして脱力し萎む。
からだの背面に空気を送り、背中を膨らます。
そして、息を止め、脱力して萎む。
萎むときにじょじょに、からだをかがめていく。
反り返るときも腕がじょじょに上がっていく。
呼吸のたびに全身の膨らみとしぼみの度合いを少しずつ増幅していく。
最後はもっとも小さな姿勢まで屈みこむ。

次に床に寝転んで全身呼吸をする。

小指の丸みに沿って、体重をかけ、小さな姿勢のまま横たわる。
そして、息を吸って床にからだを大きく伸ばす。
収縮と伸展を繰り返しながら、
じょじょにさまざまな姿勢に変化していく。
からだに、「どこをどう伸ばしたいかい?」とききながら、
いろいろな姿勢にからだをねじったり、折り曲げたりしながら
全身の各部に十分な酸素が行き渡るまでこれを続ける。
終わった頃は、その日の調体・探体を行なう
十分な脳心身の準備ができているはずです。
あとは、実技ガイドに従って、
自由にからだの闇を旅してください。

実技ガイドを読む




 2013年2月7日

六道と探体技法


調体六番は、次の6つの動きのチャンネルを
じょじょに開いていくものだ。
1.からだの闇のもっとも小さな波長に耳を澄ますふるえ
2.その波長が少し伸びてランダムに揺らぎ始めるゆらぎ
3.その波長がさらに拡大されるとうねりになる。
4.1から3の波長は生体内に固有のものだが、それが外部の刺激に出会うと、ショックを引き起こす。それによって生体固有の波長は影響を受け変質する。
5.ショックが嵩じ、長期化すると、生体内の動きが凝結し、
凝り固まってしまう。生体内に凝結・崩壊を引き起こす。
6.最後はあらゆるクオリアが消滅する死。
この6つの動きをからだに落としていく。
からだのあらゆる部分でこの6つの動きを練習する。
それが調体六番である。
だが、単なる物理的な動きだけでは自分の舞踏にならない。
からだの闇では、記憶や夢などの内クオリアと、動きは結びついている。
物理的な動きと、内的なクオリア流が一つになってはじめて踊りになる。
その結びつきを探るのが探体である。
ここでは、調体六番から、探体に進めていく方法を述べる。
これはひとつの探体の深め方にすぎない。
他にも無限の探体法がある。
だが、以下の基本的な方法には、
それだけでサブボディ十体のうち、主なものに出会えるという
メリットとがある。
産婆の方々には、明快な探体の進め方の一つとして
参考にしてもらえると思う。

これまでの十数年の経験を統合すると、
日々の探体を行なうには、次のような順番で行なうのが
もっとも無理が少ない。
とくに短期のクラスでは、ふるえ、ゆらぎ、うねり、
辺りまでに重点を置いて進めるのがよい。
異貌体は中期のクラス、
癇は半年以上の長期コースで取り扱うのがよい。


灰柱の歩行――静寂体をさぐる

これは基礎の基礎である。
物理的なからだが燃え尽き、灰柱となって突っ立つ。
そのからだを、できるだけ静かに運ぶ。
調体のあとは、毎日ここから始める。
そして意識を可能な限り鎮め、
外に50%、内に50%開いた透明な静寂体を身につける。

ふるえの歩行――衰弱体をさぐる

六道の一番、ふるえに耳を澄ます。
生体内には無数の種類のふるえの内クオリアが保存されている。
意識は忘れているが、動き出すとさまざまなふるえのクオリアが活性化される。
ふるえのサイズや強度、姿勢を変えて、
さまざまな部位をふるえさせて行く。
すると、
寒さに対するふるえ、
怖さに対するふるえ、おののき
驚きのふるえ、
喜びのふるえ
さびしさのふるえ、
怒りのふるえ
など、無数の意識には上らない内クオリアが
動きや姿勢と結びついて活性化されて出てくる。
実に多くのふるえの動きがでてくるだろう。
その中から、命に問う。
「今日はどの動きを一番追求してみたいかい?」
命はもっとも強い印象の動きを勝手に選びとるものだ。
その動きを探求し、その日の自分固有の「ふるえの動き」として
からだに刻みこむ。
適当な名前をつけて覚えこむのもいい。
この震えの動きは、衰弱体の基礎となるものだ。
できるだけ多様なふるえをからだに蓄積していく。

ゆらぎの歩行――気化体をさぐる

ふるえの波長は微細で細かい。
それがすこし間延びするとゆらぎになる。
固体や液体のからだは皮膚に包まれているが、
外界と内部を分かつ皮膚が消え、外部が内部に入り込み、
内部は勝手に外部に流れだす。
からだが人としての輪郭を外され、湯気や煙のような
気体に化す気化体をさぐる。
こころも分別が薄れ、熱が出たときや夢のなかのような
茫っとしたここちになる。
めまい、恍惚、見境の無さ、融通無碍、
などの内クオリアがこれに結びついている。
からだの各部にさまざまなゆらぎを通しながら、
それらの内クオリア、記憶や夢や妄想、想像のクオリアをさぐる。
それらとゆらぐ動きとひとつになったとき、
自分固有の気化体の動きが見つかったことになる。
気化体ももっとも重要な十体のひとつだ。
からだの各部にその動きを書き込んで貯めていく。

うねりの歩行――獣体・原生体をさぐる

ゆらぎが増幅されるとうねりになる。
二次元方向のエネルギーだけではなく、
三次元方向の力が加わるとひねりとなる。
からだの闇に、人間以外の生きものの動きの痕跡を探る。
これらのうねりやひねりは、あらゆる生物固有の動きと結びついている。
腰に猫の動きが入り、背骨が蛇のうねりを思い出す。
体液と皮膚がアメーバの原形質のようにうごめく。
うねり・ひねりは、十体のうち、
獣体や原生体の動きを見つけるのに適している。

ショックの歩行――異貌体をさぐる

生物が外界からなんらかのショックを受けると、
当然その影響を受けて動きが変化する。
その変化を受けた記憶の痕跡が内クオリアとして残る。
さまざまな生きもののからだで、さまざまな種類の
一時的なショックを経験する。
そして、それらのショックや衝撃が強く残ると、
生命が持っていた多様な傾性のうち、
乳児期や幼児期に外部とうまく共振できなかった傾性は、
芽を摘まれ、うちにくぐもり、外に出てこれなくなる。
表層の人格からは解離されて、からだの闇の住人となる。
これがサブボディ・コーボディたちの源泉だ。
なかでもとくに強く解離された人格は、異貌体となる。
幼い頃の何らかの外界からの圧迫がトラウマ(精神的外傷)となって
これらの異貌体を押しとどめている。
心理学では影、劣等人格、not-meなどと呼ばれているが、
これらはサブボディの大半を占めている。
下意識の創造性はじつは、意識が知らない
これらの隠れた傾性の多様性と多次元共振性によっている。
異貌体を探ろうとすると、ときにさまざまな不快なエッジに出くわす。
意識はせっかく解離して忘れているトラウマを思い出したくないのだ。
日常的自我の激しい抵抗に出会う。
そのエッジとの何らかの折り合いのつけ方を学んでいくのが
長いサブボディ・プロセスとなる。

壊れの歩行――癇のからだをさぐる

ショックの波長が、こんがらがり、結ぼれ、固定化する。
からだやこころのどこかが自由に動かなくなり、壊れてしまう。
からだの闇に潜ったままの地下生活者がサブボディ一般だとしたら、
その中でもとくに重症の、凝結が長期化して器質的な不具となったり、
奇形化してしまったのが、癇のからだだ。
もっともフラジャイルなか弱いサブボディであり、もっとも探り当てにくく、踊りにくいものだ。
だが、そんなもっとも深く傷ついた癇のからださえ、
最適の序破急を見出すことで<花>に昇華するこtができる。
それが、<癇の花>だ。
癇の花を踊れぬ舞踏はいまだ浅瀬の舞踏にすぎない。
世界中の生命の不幸と共振できる透明な共振体になるためには、
まずは自分の中の悲惨な不幸を踊れることが基礎になる。
長くつらい道だが、これだけが世界生命共振に到る道だ。
あせらず、ゆっくり掘り進んでほしい。

死――無限変容する死者となる

最後の死の動きを経て、はじめて死者となることができる。
生命の世界はクオリアの輝きに満ち、共振に満ちているが
死の世界にはクオリアも共振もない。
その死者の世界に降り立ち、他界からの眼差しで
この世を見つめる。
死者はゾンビではなく、無限に変容する多次元共振体である。
一度死んだからだが、無限に変容流動するクオリア流そのものに
変幻するマジックが舞踏である。




 2013年2月7日
(以前に書いた、畏姉・速水智也子に関する文が出てきたので
再録します。)

生存のキメラ


からだの中の微細な亀裂に耳を澄ます。
たったこれだけのことができるかできないかで
人生は大きく変る。
現代社会に適応して生きていくためには、
からだの闇で生じる微細な違和感などにいちいち耳を傾けていれば
歩くことができない。
多くの日常体はそんなものを大股で跨ぎ越して顧みない。
そうでもしないと危うい自分のアイデンティティを守っていけないのだ。
だが、そういうあり方がなんだか偽物だと感じてしまうときがある。
無理してしまっている自分に気づく。
歩みを止める。
病気や失職などマイナスの事件がきかっけになってくれることが多い。
それまでの忙しい日常の時間から降りる。
するとごくごく微細な命のつぶやきが聴こえてくる。
かすかな軋み、ねじれ、ほんの少しの違和感、そういうものに耳を傾ける。

わたしの人生では父母の都合で、五回も母が変わり、家が変わり、
住む場所が変わった。
幼なじみや友人や同級生の顔がごそっと入れ替わった。
その都度、幼い命は目もくらむような異界の暗がりに落ち込んだ。
何回もその転落を経験するとやがて幼い命は学習しだす。
この世界が一様な空間ではないこと。
さまざまな生存条件が入り交じるキメラ状になっていること。
そこで生き抜くには自分をさまざまに変形する必要があることを学ぶ。

とりわけ、生まれ故郷だった和歌山を離れ、
はじめて大阪という都会で棲息する人間に接したとき、
まるでエイリアンの群れだと感じた。
田舎では出会う人がみな見知った顔である。
ひとはみなぶらぶらゆっくり歩いている。
ところが都会では見知らぬ人が無表情に高速度ですれ違っている。
田舎の人が人間ならば、ここの人は人間の形をしたロボットに違いない。
もしここの人が人間ならば、田舎の人はいったいなんなんだ?

思春期のはじめに都会に触れたとき、すざまじい亀裂を感じた。
それは終生わたしの感受性の固有の傷として刻み込まれた。
おなじ傷を持った人はすぐ分かる。
土方巽もそうだった。
秋田から東京に出てきた彼は強烈な亀裂に直面した。
そして、からだの闇の奥深くにしまいこんだ。
彼が踊るときにはその潜んでいる亀裂のクオリアが血液のようにほとばしり出る。
金属棒で脳みそをかき混ぜられるような体感、
周りの人皆が金属の神経で出来ているかのような違和感、
だからことさら鶏を抱えたまま舞台の上を転げまわる必要があったのだ。
何時までも芽が出ず立つこともできない種子になってうずくまり続けることが踊りだったのだ。
偽の人間の皮を脱いで、死者に化けることが生き返ることだったのだ。

私にとっての和歌山と大阪との落差、
土方にとっての秋田と東京の落差は、
単なる田舎と都会の違いなどではない。
まったく文化の質が異なるのだ。
秋田や和歌山の田舎とは古代から延々と変わらず続くアニミズムの世界だ。
そこでは死者と生者が共振して交感している。
近代の都会にはそんなものはない。
健康な生者だけがあくせくと生存競争をさせられている牢獄のような場所だ。
わたしにも土方にも大阪や東京の生活はそんなふうに見えた。
最近なくなった畏友速水智也子さんも、和歌山の最奥・熊野の出で、
おなじく熊野と大阪の巨大な亀裂を抱えて生きていた。
何日も彼女のからだに成り込んで一緒に歩くと、
どんな気持ちで生きていたのか、ありありと共振できる。
死んだひとは生きていた時よりもはるかに身近な存在になる。

命に亀裂をもたらすキメラのクオリアは、
何も田舎と都会に限らない。
自分の中の女性性と男性性、
子どもと大人、
思考と感情、
強さと弱さ、
高貴と下劣、
人間として複雑な布置の中で生きる中で、無数の亀裂が命にキメラを刻印する。
日常体ではこれらの亀裂のクオリアは等閑視されている。
そんなものはないと、大股で跨ぎ越すのが日常体だと言ってよい。
それくらい粗雑でなければ自己だの自我だのという厄介なものを守っていけないのだ。
ある日、きみはそれらに守る価値がないことに気づく。
自己だの自我だのとは、懸命にでっち上げ続けることによってのみ
存続している幻想であることに気づく。
その幻想を勇気を出して脱いだときに、
からだの闇で行き違い齟齬し合っているキメラ状のさまざまなクオリアに出会うことができる。
それらの収拾のつかないリゾームが自分の命の実情であることに出会う。
そして、それを受け入れる。
それだけでいいのだ。
それだけでそれまでのニセの生存からおさらばできる。
からだの闇で異質なクオリアが出会うたびに新しいクオリアが生まれる。
それが生命の創造性だ。
現代社会に適応しているニセの自分を脱ぐだけで、
一生この生命の創造性と共に生きていけるようになる。

跳ぶんだ、今。
そんな命の声が聞こえてきたら、チャンスを逃してはならない。
今の暮らしをやめて行き先なしの旅に出るんだ。
それが命と一つになる道だ。





 2013年2月5日

『病める舞姫』を動きのチャンネルに落とす


冬場の調体ワークショップを続けながら、
『病める舞姫』をいかにからだで読むことができるか、
いろいろ実験を続けてきたが、
一ついい方法が見つかった。
灰柱で歩きながら、調体六番の、ふるえ、ゆらぎ、
うねり、ショック、壊れ、死という動きのそれぞれに、
『病める舞姫』から抽出した舞踏譜をちりばめていく。
それによって、たんなる動きが無数の具体的なクオリアによって
豊富化されていく。
以下のごとくだ。

<ふるえ>

老人の縮まりと気配り
体内に虫がわく
虫が肛門から出てくる
泣く女と泣く物象の共振
絹の糸を恐がる
物達の物腰に脅かされる

<ゆらぎ>
そげた腰のけむり虫
からだのくもらし方
ただ生きているだけみたいな
単調で不安なものに乱入されるからだ
虫と熱
忘れられたからだ
輪郭をはずされたからだ
あまりにも放って置かれたからだ
湯気に掠め奪られたからだ
煤け姫
隠れた様子
茫とした姿
短い息の明暗
ぼんやりとした心の暗がり

<うねり>
虫と熱
中腰のなかに滲みでている暗がり

<襲われ>
雪に食べられるからだ
単調で不安なものに乱入されるからだ
睨む女と棒になる私
媒介のないからだ
電髪の女
喰われ続けるからだ

<壊れ>
ズタズタに引き裂かれた神様
人間である根拠はもう崩れていた
病弱な舞姫のレッスン
舞姫に混有されてしまう

<総合:背後世界=秘膜共振>
老人の縮まりと気配り
からだだけの密談
空気の中の見えない大きな生きものを見る額の目玉
胡散臭いものへのスパイの目
密偵のように敏速に連絡をとっているもの
乳呑児
すでに踊らされてしまったからだ
私だけが踊られてしまっていたのではなかった
誰も知らない音の中に棲んでいる生きもの
はぐれていく私の観察
寝床には神様も潜り込む
見えているものは暗い穴


以上のようなグルーピングした動きを「寸法の歩行」や
「虫の歩行」のような実践的な舞踏譜に製錬していく。
そして、毎日探体のなかで、自分固有のふるえ技、ゆらぎ技、
うねり技、襲われ技、壊れ技、秘膜技などの
ユニークな動きを見つけ、名前をつけて収集していく。
これまでの共振塾では、毎日短い踊りを創り、
それを貯めこんでいくという方法をとっていたが、
なかなか定着しなかった。
忘れてしまうのだ。
自分の経験を振り返えると、短いシークエンスを定着していくことに
加え、ごく短い小技を創り、名前をつけて収集していくことをしていた。
短い小技のほうが覚えやすく、からだに残っていることを思い出した。
今年はこの小技の創造からはじめてみようと思う。

これが今発見されつつある『病める舞姫』をからだで読み
からだに落としこんでいく方法だ。
これだと、生徒も『病める舞姫』の難解な文章を解読し、
理解するという無駄な努力を強いられることなく、
『病める舞姫』の世界に入っていくことができる。
私自身『病める舞姫』を頭で理解しようとして、
十余年の足踏みを強いられた。
生徒にはその愚を繰り返してもらいたくない。
いま発見されつつあるさまざまな体読法をつうじて、
まず、『病める舞姫』のエッセンスをからだに落としこむことが
何より大事だ。
『病める舞姫』全体を理解するのは
それを通じておいおい深まっていけばいい。



 

Leeの10年前のサブボディ十体マップ
図をクリックすると拡大されます。

 2013年2月3日

10年前のサブボディ十体マップ


書類を整理していたら長い間行方不明になっていた
図が出てきた。
10年ほど前に自分のサブボディたちを
マッピングした図だ。
十体間の変容がどんな契機で起こるのかを整理している。
今よりもずっと少ないサブボディだから、
かえってスッキリしている。
今ならあまりに複雑すぎて絵になど描けない。
皆の探体の参考のために見てくれればよい。
これが初歩的な多次元共振の例だ。

生命が共振するクオリアは、
3次元空間や4次元時空に存在しない。
不可視の多次元かつ非二元で共振変容している。
心がどこにあるか、思いめぐらすだけでそれは分かる。
それがいったいどのように共振しているのかを
探るのがサブボディ舞踏だ。
探り始めて十年ほどすれば、
だれでもこのくらいのサブボディと出会う。
さらに十年ほど経てば、それらの整理しようもない
複雑な共振関係が浮かび上がってくる。
不可視の背後世界との共振関係も見えてくるから
複雑さが重層されて、捉えようもないものになる。
今翻訳を進めている土方の『病める舞姫』などは
気が遠くなるほどの複雑な重層的共振関係をもっている。
闇はどんどん深まるばかりだが、
この旅ほど楽しいものはない。

 2013年1月30日

<図地兆>と<幽玄>

図と地という概念は、ドイツのゲシュタルト学派によって見出された。
目に入るものが図であり、その背景に沈むものが地だ。
ときにそれは入れ替わることもある。
有名なランプと人の顔のがそれを示す。
意識が何に注目しているかが、図と地を決める。
これを受けて、西洋の近代ダンスは、
もっぱら目に入る図を重視する。
図と地の交代という理論もそのために利用される。
人の注目を惹く図をいかに焼き付けるかが重要事で、
地や図と地の交代理論はそのために利用される。

図式化すれば図>地だ。
舞踏にとって重要な<兆>などは見向きもされない。
<兆>とは、西洋の近代では無視されている生命の背後世界から
届けられるごくごく微細なサブシグナルだ。
西洋の舞踏に興味を示す人たちにとっても、
まず、眼を惹かれるのは初期土方の荒唐無稽な実験や、
「肉体の叛乱」の派手な舞台のようだ。
ネット上に存在する舞踏情報の95%はそれに関するものばかりだ。
後期の衰弱体に関するものはわたしの知るかぎりほとんどない。
共振塾に来る外国人の生徒もそれらの情報に囚われている。
悲しいことだが、無理もない。
目立つ<図>に目が惹きつけられるのは意識と自我の習性だ。
わたしも若いころはそれらに魅せられたものだ。
だが、それだけでは何かが足りないと感じはじめた頃、
ようやく、70年代以降の土方の衰弱体舞踏への転回の意味が
呑み込み始めた。
それでも、『病める舞姫』をわがこととして読み込めるまでには、
ゆうに30年の歳月を必要とした。
意識や自我の観点から、下意識の生命に転回するには
世界に無茶苦茶にされる人生経験と、歳月が要る。

自我と意識を重視し、テーマだの表現だのをもっぱらとする
西洋のダンスは、いまだに、図>地という図式に囚われている。
それは意識にとっての自然だからだ。
だが、生命の舞踏においては、その重点は逆転する。
あえて図式化すれば、兆>地>図という関係になる。
日本の伝統舞踊である能においても、この図式は成立する。
<図地兆>の不可視の<兆>を踊る技法は、
能においては、晩年の世阿弥が、<花>よりも上位に据えた
<妙>という境地に洗練され、磨き上げられた。
世阿弥はそれを<幽玄>と呼んだが、土方は言葉を残していない。
世阿弥はその幽玄を現出するために、現世と他界を往還する
<複式夢幻能>という形式と技法を築き上げた。
舞踏に於いては、まだそのような形式や技法は確立されていない。
これからという時期に土方は他界してしまった。
それは残されたわたしたちの仕事である。
今年、共振塾では昨年にもまして、
コーボディによって無数の背後世界を共創することと、
それによって可能となる多様な背後世界と踊り手との間でかわされる
<兆>を踊る技法の確立を目指す。
昨日の原稿では、自分で気づいたかのように書いたが、
気づかせてくれたのは、実はわたしではない。
いままでのサブボディ・コーボディ舞踏に欠けていたものは
何だったのか、この冬中、眠る前にサブボディさんに尋ね続けた。
ある夜中に、突然<図地兆>の<兆>だと教えてくれた。
飛び起きてメモした。
そして机の上に広げられていた舞踏論第302章のための
『病める舞姫』の構造を示す6つの項目に整理された
小見出し一覧を見ると、その間に交わされている関係こそ
無限の<兆>の実例であることに気づいた。
それを元に書き留めたのが、昨日の原稿だ。
サブボディさん、ありがとう。
きみはほんとに働き者だ。



2013年1月29日

図地兆の
<兆>


背後の世界とのさまざまな共振の兆に耳を澄ます


サブボディ技法の中の<図地兆>は、これまで
もっともうまく伝えることのできない技法であった。
他の、<序破急>、<鮮深必>、<花秘謎>などは、
なんとか伝えられても、<図地兆>だけはなかなかだれにも
身につけてもらえなかった。
だが、それは生徒の責任ではなく、
わたしがいまだにうまく産婆することができないというだけの話だ。
そんななか、『病める舞姫』第一章を訳し終えて、
その全体をつらつら眺めているうちに、そこに<図地兆>の
優れた実例が無数に埋め込まれていることに気づいた。
そうか、今まで足りなかったものは、こういう豊かな具体例なのだ。
それに気づいた瞬間、わたしの心が小踊りするのを禁じえなかった。
それを残してくれた土方に感謝する。

「うっすらとある陰気な空気に人はうたれる」
というある生徒の舞踏譜の中の彼の言葉は、
見えない背後世界と、命の間のかすかな共振を踊れということだ。
後期土方舞踏の舞台に漂っている独特な雰囲気は、
このうっすらとある陰気な空気だ。
そして、それはどういうかたちで現れてくるかという
無限の実例を『病める舞姫』に残した。

『病める舞姫』には、登場する人物や事物と、
見えない背後世界との間の微細な共振の
<兆し>
いっぱい詰まっている。
兆しとは、目に見える図でもその背景となる地でもなく、
見えない世界との間でかわされる微細なサブシグナルだ。
その兆しを以下に(⇔)で示した。
『病める舞姫』の真の主人公は実はこれらの不可視な兆しなのだ。
土方は、これに気付き、これに耳を澄まし、
これを踊れと私たちに告げている。
それこそがまだよく捉えられも、
踊られもしていない重要ななにものかであると。


『病める舞姫』第一章の微細な<兆し>一覧
                    
そげた腰のけむり虫⇔「何かの生まれ変わりの途中」⇔
       ⇔老人の縮まりと気配り⇔ ⇔からだのくもらし方少年)               
胡散臭い事物⇔                   ⇔スパイの目少年)
(鉛玉、ひも、台所の錆びた包丁、……)
           

<見えないもの>
空気の中の見えない大きな生きもの
       ⇔額の目玉(少年)
誰も知らない音の中に棲んでいる生きもの 
                         ⇔見えているものは暗い穴

<見えない世界>⇔<少年>
喰われ続けるからだ
虫と熱
絹の糸を恐がる

雪に食べられるからだ
単調で不安なものに乱入されるからだ
媒介のないからだ
すでに踊らされてしまったからだ
忘れられたからだ
輪郭をはずされたからだ
あまりにも放って置かれたからだ
湯気に掠め奪られたからだ

<見えない世界・隠れた様子胡散臭い事物>⇔<病める舞姫>  ⇔泣く女と泣く物象の共振⇔
 ⇔煤け姫⇔
 ⇔電髪の女⇔            
 ⇔からだだけで密談する人⇔
 ⇔密偵のように敏速に連絡をとっているもの⇔
 ⇔ズタズタに引き裂かれた神様⇔
 ⇔人間である根拠はもう崩れていた⇔ 
 ⇔物達の物腰に脅かされる関係⇔
 ⇔人間の激情をそそのかすもの⇔
 ⇔病弱な舞姫のレッスン⇔
   ⇔舞姫に混有されてしまう少年
                          ⇔睨む女と棒になる私

<隠れた様子>
 茫とした姿                   ⇔はぐれていく私の観察
                        ⇔ぼんやりとした心の暗がり
                   ⇔中腰のなかに滲みでている暗がり
                               ⇔短い息の明暗 

                        

<乳呑児>⇔<見えないもの>
 ただ生きているだけみたいな
 乳呑児



この項は、やがて「21世紀の『病める舞姫』」のどこかの章で
詳述されるだろう。
いまは心覚えのために、ここに記しておく。



2013年1月21日 

山本望よ、安らかに眠れ

旧友から、高校・大学の同級生だった山本望が、
クモ膜下出血で急逝したとの知らせが入った。
一昨年数十年ぶりにあって、1967年10月8日の羽田反戦闘争で斃れた
同級生・故山崎博昭の墓参りを一緒にしたばかりだったという。
青春時代の何年間かを、ベトナム反戦・世界革命をめざして
血を流して闘った仲間の一人だ。
1967年の羽田闘争当時、私は浪人していたので参加できなかったが、
現役で京都大学に入った山本はその闘争の現場にいたはずだ。
その後、大阪の母校の大手前高校の教師をしていたこともはじめて知った。
きっと良い教師だっただろう。
とうとう、私たちの世代も、こうしてひとりずつ旅立っていく知らせを
受け取る時期を迎えたことを思い知らされた。
私もあと何年間かだ。
山本よ、
あとひと踊りしたら、俺もすぐに行くよ。
なんてことはない。
俺たちの願いは、あとの世代が引き継いでくれるさ。
命のリレーはもうしっかり始まっているんだ。
向こうで時を忘れていつまでも話そう。
安らかに眠れ。

リゾーム・リー 岡龍二

「からだの闇」をもっと読む


 Book Link

 読書案内(Book Link)に 何冊かの本を追加しました。
この冬読んで学ぶところの多かったものです。
アクティブ・イマジネーション関係の二冊は、
「からだの闇」に、サブボディ技法との関連を記しました。
フォーカシングに関しては十年ほど前に、その創始者ジェンドリンから
多くを学んだのですが、今年になってその弟子たちが
創ったよりわかりやすいマニュアルから、その深化の程を学びました。
エリクソンの催眠技法も、本人の書いたもの以上にわかりやすく、
弟子たちが催眠の原理と手法を精密に解析してします。
いよいよ催眠技法も長かった誤解から解き放たれようとしている。

くわしい読書案内は、ここをクリック
 
 アクティブ・イマジネーションによるドローイング
 2013年1月17日

アクティブ・イマジネーションとサブボディ技法

前稿で、土方の『病める舞姫』とユングのアクティブ・イマジネーションの関係について触れた。
今日はアクティブ・イマジネーションとサブボディ技法の関係について整理しておこう。
ユングの発見したアクティブ・イマジネーションは
東洋の古典的瞑想法とも通じる意識と下意識を統合する
普遍的な方法の一つである。
わたしもそれらから多くを学んだ。
世界中の無数の心身技法は、使うチャンネルの差異によって区分され得る。
チャンネルの総覧は以下のごとくだ。
チャンネルというものについてわたしは、
ユングの弟子ミンデルから学んだ。

日常的な心身状態では、無意識のうちに、このうちどれかの
チャンネルがメインになっている。
外向(Extrovert)チャンネルとは、今ここで心身が共振している
外クオリアがメインになっている状態である。
内向(Introvert)チャンネルとは、細胞内に生命記憶として保存されている内クオリアがメインになっている状態だ。
瞑想とは、外向チャンネルを鎮め、内向チャンネルのクオリアに耳を澄ます状態になることだ。
催眠も、内クオリアに従う心身状態を指す。
夢は、動きのチャンネルが静まっている睡眠中に、内向視覚チャンネルがメインとなって夢見の状態となる。
フロイドの夢分析は夢を思考チャンネルで解釈することだ。
ミンデルのドリーミング・ボディは、夢とからだのチャンネルの一体性に着目して理解しようとしている。
ユングのアクティブ・イマジネーションは、瞑想や自己催眠同様内向チャンネルを開いて、そこで感じたクオリアを思考チャンネルの言語を使って記述する。
アクティブ・イマジネーションのドローイング例を示した上のスライドは、言語の代わりに視覚チャンネルに置き換えたものだ。
(上のスライドにはルソーしか入れてないが、ダリやシャガールなど優れた画家や芸術家はみなアクティブ・イマジネーションと同様の方法を独自に身に着けていたのは言うまでもない。それは生命の創造性、下意識の創造性を開く普遍的な方法でである。)
これらすべては、意識と下意識の間の共振を探り、その間に良好な関係を再構築する心身療法ともなる。
サブボディ技法は、上のあらゆる技法とは異なり、一部のチャンネルだけではなく、思考チャンネル以外の全チャンネルを開くことが特徴だ。
体感、動き、視覚、聴覚、情動、人間関係、自己像=世界像の
あらゆる内向チャンネルのクオリアを開き、それをいまここで外向チャンネルに変換すると、実際のからだの動きとなって現れる。
それを統合するサブボディ・コーボディ創造において、
はじめて解離している私たちの意識と下意識とからだの全体を統合することができる。
思考チャンネルにおける深い気づきは、創造を終えた瞬間に勝手に吹きあげてくる。
それは最後に開かれるのだ。
サブボディ・コーボディ技法はたんなる心身療法やヒーリングにとどまらず、人生を創造的なものに再編・転換する生存の革命技法である。
サブボディ技法が、全チャンネルを使うものであるがゆえに、
一部のチャンネルだけを開く、他の技法の特徴も理解できるのだ。
内向チャンネルに保存されている内クオリアは、その深層ではチャンネルの区分を持たない。
上図の中心の非二元(Non-dual)クオリアの域に入る。
深い瞑想やサブボディ・コーボディモードの深淵では、あらゆるチャンネルのクオリアが混融一体化して現れる。
単独で自分の下意識だけをひらくサブボディモードだけでは、
この非二元の混沌世界には入れない。
サブボディとコーボディが混然一体化する集合的無意識を体験することによって非二元クオリアの世界に入ることができる。
そこではじめて、土方が志向した
「自他分化以前の沈理の関係」
「生命の呼称で呼べる舞踏」とは何かが分かるのだ。
ソロの舞踏だけにとどまっていてはそこまで行けない。
土方の『病める舞姫』の世界は、まさしくその深層の非二元クオリアを精密に描き出している。
土方は独自に、ユングのアクティブ・イマジネーションと同じ方法を発見して、しかも深層の非二元クオリアをできるだけあるがままに精密に書き留めた。
自己や自我の表現にとどまっている西洋的なダンスやパフォーミング・アーツではなく、
「生命の呼称で呼べる舞踏」を目指した土方だからこそ
「自他分化以前の沈理の関係」に精確に焦点を当てそれを捉え描き出すことができたのだ。
そこでは、二元論的な文法の規則を無視し、主体や客体がどんどん変容一体化したり、転換、入れ替え、混融、分離が融通無碍に起こっている。
それを思考チャンネルだけで理解しようとしても、訳がわからないのは必至だ。無理にそれを行えば、非二元世界の特徴を破壊することになる。
それは日常的な頭ではなく、それを止めて深いサブボディ・コーボディ状態となって、からだ全体で成り込むことによってのみ理解できる。
また、それによって、『病める舞姫』という非二元クオリアの宝庫を創造的な舞踏譜に転換する作業も可能となる。
長年、サブボディ・コーボディの深層を探り抜いてきたわたしたちだけがその作業の可能性を開くことができているのもそのためだ。
今年は、土方巽の生命の舞踏と、
それとは別個にヒマラヤで深めてきたサブボディ・コーボディ技法が、
いよいよ統合一体化される記念すべき年になるであろう。
無我夢中で突っ走ってきたが、
やれやれ、やっとここまで来ることができた。


(なお、ユングのアクティブ・イマジネーションの実際は、
次の書によって学ぶことができる。

「アクティブ・イマジネーションの世界」 
バーバラ・ハナー 老松克博訳 創元社
「アクティブ・イマジネーションの理論と実践③
元型的イメージとの対話」 老松克博 トランスビュー


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 2013年1月15日

『病める舞姫』とアクティブ・イマジネーション

『病める舞姫』第一章の英訳と、それを
からだで読むための工夫と実験を進めている。
わたしの仕事は、『病める舞姫』を
それが監禁されていた難解至極な日本語の密室から解放し、
万人の創造に役立つ実践的な舞踏譜へと開くことだ。

第一章を書き写し、翻訳を進めているうちに
これは生命共振をできるかぎりの精密さでたどった書であることに、気づいた、と少し前に書いた。
なぜ、土方にそれが可能になったのか。
おそらく、土方はユングの発見したアクティブ・イマジネーションと同じ方法を独自に発見していたのだ。
ひとりで一室に籠り、独自の瞑想法によって、
からだの闇の生命記憶にそのまま入り込み、
その世界をできるだけ透明に取り出そうとした。
土方はそこでつかんだものを、弟子たちに口述筆記してもらい、それにさらに手を加えた。
だが、その段階ではまだあまりに文法を無視した文章だったので誰にも伝わらないと感じたのだろう。
雑誌「新劇」に連載する直前には友人の詩人三好豊一郎に
頼んで最小限の手を入れてもらった。
そして、書物として出版される前にも
友人たちに頼んで雑誌掲載原稿に最小限の手を加え
段落を整理するなど読みやすくし、
自分自身もかなりの手を入れている。
おそらく口述筆記の段階ではもっともっと混沌としていただろう。
その混沌こそが非二元世界の特徴なのだ。
その混沌の闇は友人たちの手によって
少しばかり澄んで見通しがよくなった。
これは現実世界と折り合うためのギリギリの選択だったろう。
だが、からだの闇の非二元世界の特徴は可能な限り
そのまま残されている。
生命のクオリア共振の世界では、現実界のような
主体や客体という二元論的な制約への囚われがない。
夢の世界と同様に、論理など無視した多次元かつ
非二元的な変容がひっきりなしに起こる。
主体と客体の分離というような近代的な幻想などなく、
クオリアは共振によって、たえまなく混融かつ分離し、
入れ替わり、一体化し、新しいクオリアを創発しつつ、
変容を続けている。
『病める舞姫』の文章が文法を捩じり伏せ、
主語述語が不分明になる寸前のところで、変容や飛躍や
非論理的な転換を可能な限り保存しているのは、
からだの闇で起こっているクオリアの共振を、
あたうかぎりそのまま捉えようとするための必然の工夫である。
土方の友人たちは土方の降りていった特異な世界を
可能な限り尊重している。
わたしの翻訳力は英語という極めて二元論的制約に囚われた
英語文法を捩じり伏せる力はない。
だがその代わりにからだでそのまま、読む方法を見出しつつある。

土方の『病める舞姫』に対して、
ユングやその弟子の指導のもとで、患者が無意識の世界に降りていき、それを文章化するアクティブ・イマジネーションは
とても面白く豊かな世界を開くが、出来上がった物語は
かすかな特有の偏向が余儀なくされている。
言語化する際に、二元論的な言語の限界に囚われ、
元型的イメージやファンタジックな物語化という傾向が色濃く出る。
それは言葉というものの限界なのだ。
土方はそれらの元型の侵食に堪えながらそれに囚われず
驚くべき透明さで叙述している。
土方の発見した独自の方法は、ユングのそれよりも
生命共振のあるがままの姿にはるかに精密である。
病弱な舞姫やからだの無用さを知った老人と共振し
生命クオリアをとりかこむ<見えない世界>との共振全体を、
「腑抜けになる寸前の精密さで」書き留めた。
それが『病める舞姫』という奇跡の書となった。

この書は頭ではなく、からだで共振しながら読むと、
生命共振の計り知れない豊かさに触れることができる。
生きている間に、こんな豊かな生命の共振言語そのものに
出会えたことは限りない幸いだ。

(なお、ユングのアクティブ・イマジネーションの実際は、
次の書によって学ぶことができる。

「アクティブ・イマジネーションの世界」 
バーバラ・ハナー 老松克博訳 創元社
「アクティブ・イマジネーションの理論と実践③
元型的イメージとの対話」 老松克博 トランスビュー

アクティブ・イマジネーションは下意識の世界を旅し、それを言葉で記述する。
サブボディ技法はそれをからだと動きのチャンネルで行ない、舞踏の創造に結びつける。
使うチャンネルは異なるが、下意識を統合しようとする志向性は一緒だ。
今ごろになって、ユングの技法との親縁性に思い至った。)



 
2013年1月11日 

めぐりくる宿命的なものよ!

私たちの内側の状況は意識でつくられていない。
それは宿命的な必然のサブボディ舞踏として
出てこさせてあげる必要がある。
さもなければ、それは運命として私たちを訪れ、苦しめ続ける。
関係を損なわせ、愛を失敗させ続ける。
一つや二つ踊っただけでは追いつかない。
十や二十でもどうにもならない。
百や二百は踊らねばならないだろう。
私のからだの闇にも、まだまだ踊られていないくぐもりが存在する。
そして折りにふれ、悪夢や、思わぬ行動として出現する。
それは投影や転移やドリームアップによって関係を損なわせ、
愛を失敗し続けさせる。
産婆としての的確な判断を狂わせ、取りこぼす。
そう、いつまでたっても、<まだ踊られていないもの>が存在する。
そして、掘れば掘るほど、難しい奴に出くわす。
一筋縄ではいかない。
さかしらな知識では捉え切れない多次元複合的な、非二元の闇だ。
そこではこれまで蓄えてきた知識のかけら、
アニマや、元型や、トラウマや、解離や、憑依、欲望、情動などが
混融一体化してとぐろを巻き、ときに共振加速して吹きあげてくる。
一瞬にして脳心身ごと魔界嵐に襲われる。
「行方不明者の日記」や「多重日記」で長年追究してきた
あらゆる解離された交代人格たちが、人間的な人格を脱ぎ、
生命の欲望や情動の微細な傾性群に解体し、
非二元域で、もっととらえどころのない妖怪や、
生命力の怪物のようなものに変容する。
現世に現れる「龍二」と「りゅうり」という基本的な二重人格が、
深淵では、乳呑児の破天荒な妄想を実現しようとして
奸計をはりめぐらす「りゅうり大魔王」に姿を変える。
さらに魔界嵐など未曾有の危機に見舞われたときは
「生命力龍」に変容する。
まるで爬虫類のような生存本能で巨大な尻尾を地に叩きつけて
飛び跳ね脱出しようとする。
その力はおそろしく意識などでは太刀打ち出来ない。
さかしらな理論などはひとたまりもない。
この何度も何度もめぐり来て襲いかかる不透明な宿命を
なんとかとらえようとして長年鍛えてきた下意識の透明覚も、
まだそれらすべてを捉えるまでには育っていない。
いつも間に合わないのだ。
予想でもしなかったとんでもない目にあって、
はじめて、もっと深く透明になる必要を噛み締めさせられる。
それが日常世界に現れるととても危険だ。
だからこそ、細心の注意をはらって
サブボディ=コーボディとして創造界に解放してやる必要があるのだ。

無意識に何度も喰われそうになったユングは
その恐ろしさを知っていた。
だからもっとも肝心なことは語っていない。
ミンデルも『シャーマンズ ボディ』でそれと対決した。
土方も、舞踏公演の拠点アスベスト館を封印せざるを得なくなったのち、
死にものぐるいでからだの闇に潜り、『病める舞姫』をとり出した。
<まだ踊られていない不透明なもの>との、闘いは続くのだ。
もっとも大事なものを失ったとき、私達はそれに気づく。
死ぬまで続けるしかない。
大事なものを失い、失意に満ちたよぼよぼの最後のからだで
生死ギリギリの境界線上をたどるしかない。
板子一枚下は、いつも死の闇だ。


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2013年1月7日 

クオリアの共振増幅と共振加速

多重日記に「りゅうり系と龍二系の確執」
という記事を書いた。
そのなかでクオリアの共振増幅と、共振加速という
ふたつの原理について触れた。
ここではそれをすこし展開しておこう。
からだのなかにはさまざまな傾性を持ったクオリアが変容流動している。
そのうちのひとつの傾性を持ったクオリア群が一瞬のうちに
共振加速され、共振増幅される。
その結果解離や憑依がもたらされるのだ。
クオリアの共振増幅は想像もつかない速度と規模で起こる。
脳心身の全域にわたってクオリアの共振増幅が加速しあって
からだごと持っていかれるのだ。
去年の晩秋に体験した「魔界嵐」と呼ぶ現象の中でも
この共振増幅と共振加速が働いていた。
この原理はこれまで捉えようもなかった現象を解く鍵になるだろう。
とりあえずは、このようやく発見された共振原理の
ほんの小さなかけらを育てていこう。
解離と憑依は表裏一体である。
対人関係で起こる投影や転移や逆転移
ドリーミング・アップやドリームド・アップなどの現象もまた
クオリア共振によって起こる。
これらをつらぬく新しい共振原理が見つかるかもしれない。
ともあれ、これらの謎の全体をとらえる視点が
ようやく見つかりそうになってきた。

(まだ、ほんの気付きの欠片にすぎないので
発表するほどのものではない。
自分のための覚書としてここに書き留めておくに留める。)



 2013年1月6日 

原初生命にとってのエッジ・クオリア

生命はおそらく原初の海の海底の熱水噴出孔のあたりで生まれた。
高温の環境下では物質の化学反応が激しい速度で進行する。
その中から奇跡のように生命が生まれた。
生命の特徴は、自己組織化と自己複製、
そして絶えざる新しい共振パターンを創発することにある。
原初の生命が共振し得たのはごくわずかの物質やエネルギーだけであったろう。
水やアミノ酸などの生命細胞の素材となる物質や
ナトリウムイオン、カリウムイオン、カルシウムイオンなどが
細胞膜を通して出入りするときに発生する
わずかな細胞内外の電位差が生命細胞の活動エネルギーとなった。
それらの反応には最適の温度が必要だったろう。
寒冷化では生命反応が程よい速度で進まない。
熱水噴出孔は、原初生命にとって欠かせぬ熱エネルギーの供給源だった。
いまだにわたしたちが程よい温度に快感を感じ、
過度な冷たさにすくんでしまうのは原初生命時代からの名残なのだ。
冬場のひだまりはそんなことを思い出させてくれるまたとない環境だ。
熱水鉱床から吹き出る熱水は400度にものぼるという。
あまりに近すぎてもだめ、遠ざかり過ぎても死が待つだけだ。
生命細胞にはこの温度を感じ分ける微細なクオリアが
生死を分かつエッジクオリアとして刻印されている。





 
 2013年1月5日 

コーボディ坑道の可能性の闇

昨日共振日記のほうでスイスの動きを紹介した。
このコーボディの発展をみて、
去年わたしたちが何を始めたのかが、少し明らかになってきた。
去年一年間わたしは、コーボディの新境地をひらく実験をした。
十数年前はコーボディばかりやって、
サブボディの掘り方がわからなかった。
それでここ数年サブボディを深めることに少しばかり
重きを置きすぎていたと感じたからだ。
便宜上使い分けているがサブボディとコーボディは別物ではない。
下意識の生命は、単独相ではない。
命は個の相にも、群れの相にもなるし、
40億年間延々と続く類としての生命潮流でもある。
融通無碍に分離結合共振変容をする個と群れと類の変容体なのだ。
ヒマラヤの共振塾でやった実験を、スイスでは一ヶ月に凝縮した。
すると思いもかけぬ群れの動きが次から次へと出てきた。
スイスの山や川で、ジュネーブの街で、フェスティバルで、
ノマドのように移動し、リゾームのように変容して踊り続けた。
長く個人主義的な教育を受けてきた参加者にとって、
それは新鮮な経験であったのか、
みんな嬉々として多様な群れを創発した。
夏のワークショップのあとも、
かれらはさまざまなフェスティバルや催しで群れになり個になり、
他の舞踏家らともつながって踊り続けた。
そしてそれが<舞踏クラウン牧歌芸術集団>という
ユニークな集団に発展した。
踊りだけではなく、いろいろなアートやマッサージの交換や
貨幣を使わないで生きる独特の
エコロジー的な活動なども含まれている。
ジャンルを超えた今後の展開が楽しみだ。
コーボディの闇を掘ると、まだまだ未知の可能性が開けそうだ。
来年取り組む予定の土方の『病める舞姫』も
生命の群れそのものである<けむり虫>から始まっている。
土方の群舞は西洋に大きな衝撃を与えた。
だが、かれれらは、個が群れをつくるという既成概念に囚われている。個である「人間」という思い込みを脱いではじめて
生命の個でもあり群れでもあり、類でもある
非二元の謎に触れることができる。
そこに行くには無数の厄介なエッジを超えなければならない。
今年の共振塾でもコーボディになれない生徒が出た。
自我を脱ぐことへの抵抗は計り知れなく頑強だ。
だが、強い抵抗のあるところほど未知の宝の鉱床なのだ。
この困難な可能性をどう掘るか、今年の新しい課題だ。