2012

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からだの闇を掘る
 2012年12月30日 

生命共振の奇跡の書としての『病める舞姫』

『病める舞姫』第一章全文を書き写した。
これは英語に翻訳するために必要な基礎作業である。
第一章を書き写していているうちに
知らず知らず土方の文体の息遣いに共振していったのだろう。
書き写しながら、突然思い知った。
これはからだの闇で起こっている生命共振を
できるかぎりの精密さでたどった書なのだ。
そこでは現実界のように主体や客体が定かには分離していない。
ときに混融し、ときに分離する。
あらゆるものとの入れ替えが起こる。
外界が内界に混じり込んでくる。
文法をわざと捩り、不分明になっているのも、
からだの闇で起こっているクオリアの共振を、
あたうかぎりそのまま捉えようとするための必然の工夫である。
なんということだ。
ヒマラヤで掘り進めてきた生命論、クオリア論、共振論が
ここ数年、もう独自の共振言語を発明しない限り
一歩も進めない所まで来て足踏みしていた。
からだの闇で起こるできごとは主語述語の二元論言語では
精密にとらえることも記述することもできない。
粗大な二元論言語でそれを捉えようとすれば
その非二元世界を歪め強姦するようなことしかできない。
主体なき微細な共振言語を発明しなければならないのだ。
だが、『病める舞姫』はまさしく、
その求めていた共振言語の宝庫ではないか!
なぜ、この恐ろしく深い闇に取り掛かろうとしたのかが
やっとわかった。
土方が頼んで手を入れてもらった三好豊一郎や
その他の友人の手が入る前は、
もっともっと混沌としていただろう。
その混沌こそが非二元世界の特徴なのだ。
その混沌の闇は友人たちの手によって
少しばかり澄んで見通しがよくなった。
これは現実世界と折り合うための
ギリギリの選択だったのだ。
どうして土方にこういうことができたのか、
想像を絶するばかりの驚異の作業である。
ともあれ、ここ数年はこの闇を毟り喰おう。
どこにもないおいしい命の共振が生で味わえる。
そう、ここにどんな奇妙なことが書かれていたとしても、
すべてを命のクオリア共振だと捉えればすんなりと味わえる。
ただ、夢を見るときと同じ態度で受け入れればいいだけなのだ。
わたしはそこから、夢のリゾーム論理と
現実界のツリー論理を媒介するツリー・リゾーム論理をとり出していこう。
そうしない限り、二元論言語の英語に翻訳することは不可能だ。
その作業はまるで世界をうっちゃるような荒業が必要となる。
二元論という巨大な盲信の力士に土俵際まで追い詰められながら、
非二元界へ巻落とす、内掛る、うっちゃるなど、
盲信の思い込みの力の闇を利用する技を発明するしかない。
まだ生まれかけの<ツリー・リゾーム共振論理>が
ぶつかり稽古をさせてもらえる格好の相撲部屋に入門することになる。
そしてそれが、ぶつかっていた『生命・クオリア・共振論』の壁を
ぶちぬくことになる。
しばらくはこの「病める舞姫部屋」で土ばかり噛むことになりそうだが、
よろこんでこの土を喰おう。


2012年12月25日 

親鸞とエッジ

親鸞もまたエッジで生きた人だ。
親鸞の時代は、飢饉や圧政によって、
多くの民衆が明日の我が身がどうなるのかもしれない
生死のエッジ上で翻弄されながら生きていた。
その民衆の悲惨と共振するために、親鸞が編み出したのが
念仏だったろう。
自力に頼まず、ただ仏の慈悲に身を投じる。
現代においても、私たちの置かれている状況は
本当は親鸞の時代とそんなに変わりない。
情報網が地球上を覆い尽くしているために、
世界中の悲惨がいつも命を取り巻いている。
私たちの方法は、他力念仏とわずかに違って
命の創造性に働きかける。
これも自力で何とかしようとするのではない。
意識を止め、ひたすら命のふるえやゆらぎに耳を澄まし続ける。
命が勝手にサブボディやコーボディを通じて
何かを創造しようとする。
そのわずかな傾性をみつけて、
それに従い、からだで増幅するだけだ。
念仏とサブボディのどちらが優れているのかは
分からない。
ただ、命の創造性をひらくことのなかに、
なにか無限の可能性がひそんでいるように感じられるというだけだ。
命の共振と創造を深めることの中には、
この世界を変える可能性さえ遠くに見える。
あなたはどうお感じだろうか。
あとは親鸞同様、
「面々のはからい」だというしかない。


2012年12月25日 

エッジで踊る


ひだまりのような暖かい場所と、日陰の寒い場所の
境目をみつけ、半身はひだまり、半身は日陰に置く。
そのエッジに置かれたからだに何が起こるかを微細に感じ取る。
実際に冬場のひだまりのようなうってつけの場所が見つからなければ
想像上のエッジに立つ。
実際に今自分が直面しているエッジを踊るのは困難で
苦痛を強いられるが、ここではそうではなく、
ある状態とある状態との境界線上にからだを置いて
そこで起こるあらゆるクオリアに耳を澄ます。踊る。
暖と寒の境目、この世と他界の境目、幸せと悲惨の境目、
伸展と収縮の境目、安楽と苦痛の境目、などなどだ。
座位でも臥位でも、どんな姿勢でもいい。
そのエッジ上で背後世界を感じる。
ひだまりにいるからだに、冷たい世界から死神が近づいてきて
死の世界に引き入れようとするのを感じる。
からだにはそれに対する抵抗が起こる。
筋肉のどこかが収縮してそれに抗う。
その牽引と抵抗を続けていると、
からだにどんな変化が起こるか、耳を澄ます。
何度も死神の牽引にたいする抵抗を繰り返して収縮していると
長年のうちにからだにその痕跡が刻み込まれていく。
脳心身のある部分が緊縮したまま凝り固まってしまう。
その秘膜は畏れや怯えでいっぱいいっぱいになる。
それが<癇>に発展するのだ。
エッジ上の牽引する力とそれに対する心的抵抗と身体的抵抗が
交じり合い年月のうちにひとつの癇のからだに凝縮していく。
『病める舞姫』には癇という言葉は出てこないが、
『静かな家』を研究し抜いたわたしたちには、
全編を通じて登場する人物・事物のすべてが<癇>のからだの
多様な事例だということが分かる。
そう。
『病める舞姫』とは、<癇の花>のことなのだ。
土方舞踏における花の中の花だ。
癇の花を咲かせるには、まず、癇の体になりこむ方法を
知らねばならない。
この『エッジで踊る」は、その有力な方法のひとつである。



2012年12月25日 

探体技法の豊富化に向けて


舞踏論第三部においては、
『病める舞姫』の一句一文が孕む深層構造に、
からだごと入っていく体読法を記述している。
毎日の冬場の調体で、その実験を続けているが、
日々驚くほど多彩な微細かつ興味深い探体法が発見されている。
一行ごとが創造の無限の宝庫だ。
そこで見つかった具体的な坑道に沿ったからだの探求法を
舞踏論各章の<●体読法>のボックスコラムに書き止めていく。
それとともに、それをより一般化し、
普遍的な探体技法を定着していく作業を同時に進めていく。
それはまず、この『からだの闇を掘る』において
見出されたままにその都度書き留めていき、
それを『実技ガイドⅡ』に体系化して集積していく方法を取ろう。
その三者のうち、どれが残るかは進めながら明らかになっていくだろう。
よく似たことが、舞踏論とからだの闇と実技ガイドで、
すこしずつ違った仕方で展開されていくことになるが、
どうやらそれがもっとも創造性を活性化させる方法のようだ。
読む方にとっては煩雑さを余儀なくされるが、実際にきわめて
複雑な要素が絡み合っているものなので、ご容赦されたい。
事項では、その一つを記述する。

2012年12月24日 

自我と自己と生命の深淵


サブボディの浅い領域では、まだまだわたしたちは
日常世界の二元論的習慣に縛られている。
そこでは自我と自己、生命はまったく別の特性を
持つ別個のものとして認識されている。

だが、からだの闇にどんどん潜って行くと、
途中からこれらの別個のものと捉えていたものの境界線が
限りなく曖昧になっていく。
まず起こるのは自己と他者、内と外の境界線の曖昧化だ。
クオリアはそんな人為的な境界などにおかまいなく共振する。
自己と他者という日常の世界では相容れない対立物さえも、
投影、転移・逆転移、ドリーミング・アップとドリームド・アップ
の共振融合
などによって、だんだん混然としてくる。
わたしたちは深みに行くに従って、
じょじょに深い混乱に襲われ始める。

そして、さらに深部の深淵にいたると、
これらが一挙同時に渾然一体となった嵐に巻き込まれる。
「魔界嵐」と名付けた。
人生で三度これに巻き込まれたことがある。
一度目は学生時代の運動の終息期に
友人知人がどんどん命を落としていく事態の中で。
二度目は数年前のインド神経症の中で。
直近はつい先月だ。
全生徒が突き当たっているエッジのすべてを引き受け
共振しているうちに手に負えない事態になった。
自分の過去のトラウマのすべてがそれらと共振してぶり返してきた。
そこでは共振増幅によっって一挙に共振加速される。
この2つの共振概念はその中でつかんだ。
転んでもただでは起きない。
何もかもが一瞬で起こる。
意識できる速度よりはるかに速い。
一挙にアドレナリンモードのからだに持っていかれた。
「魔界嵐のメンゲン」だ。
これは命のクオリア共振が勝手に引き起こすことなので
意識などではどうにもならない。
自我・自己・他者・世界・生命の混然一体化した混沌体は、
時に世界さえ爆破して同時に自分も自殺しようとする。

わたしはただ生徒に無用の害をあたえないように
舞踏祭の最中は公演時間以外は自室に引きこもり
適切な安全距離を保つことしかできなかった。
世界と自己の境界が消え、
自我と生命の境界さえ消える。
自我と自己と生命を分かつ定義など吹っ飛んでしまう。
知性など何の役にも立たなくなる。
おそらく遠い遠い生命史のどこかで
自我という元型が発生した起源が紛れ込んでいる。
そのあたりに連れ戻されるのだ。
生命と死もまたそこでは渾然一体化する。
意識にはとても耐え切れない世界に突き落とされる。
あらゆる二元的な境界がなくなる。
これが非二元域なのだ。

非二元域での産婆の試練

産婆たろうとするものは、からだの闇の未曾有の
未知の深さに対する畏怖の念を怠ってはならない。
からだの闇を深く掘れば掘るほど、非二元の度合いもまた深まる。
初期の頃に出会う自我はまだ可愛いものだ。
非二元域に入ると、これまで正反対だと思っていたものが、
渾然一体となって襲いかかってくる。
大人の自我よりもっと手のかかる赤ん坊自我に振り回され、
更に深みに入ると、生命力龍と名付けたことのある
手に負えない追い詰められた爬虫類的生命の化物が
尻尾を激しく地面にたたきつけて自ら飛び出してしまう。
耐え難い窮地では、いやおうなく襲いかかってくる
ように感じられてしまうものを、
本能的に否定して生き延びようとする。
ととえそれが生徒の生まれかけのサブボディだったとしても、
ひねりつぶそうとしてしまうことさえ起こる。
境地に立つとはどっちが上だか下かもわからないのに、
決断しなければならなくなることだ。
考えによってではなく、からだが勝手に突っ走る。
エロスとタナトス、生あるいは性の欲望と死の本能が
見分けがつかなくなるとんでもない世界だ。

そこではこれまで正反対だと思っていた
自我と非我の生命が溶けて一つになる。
どんな論理も通用しなくなる。
まったく笑うしかないほどやりきれないのが非二元世界だ。

真の創造にとって 
この逆説と混沌に満ちた真実を受け入れることが必須であることを
からだで知る ことによってのみ、産婆になることができる。
何人も何十人ものサブボディの胎児を殺してしまった経験のみが
産婆を育てるといっていいほどだ。
深くなればなるほど細く厳しくなる境界線上を歩き続けるしかないのだ。絶えずほほ笑みを浮かべながら。


 
2012年12月19日 

現代最大の生命の奇形ー自我と国家ナショナリズム

これが現代の自我だ。
自分のことしかいきいきと感じられない。
自国の国境内の人しか人間と感じられない。
自我は国家にとらわれており、
そんな自我が国家を支えている。
自我も国家も現代最大の生命の奇形なのだ。
日本で25年間コピーライターとして働いていたわたしも
自分の命がおかしくなっていることに気づいて
日本を飛び出して脳みそとからだをじゃぶじゃぶ丸洗いしたくなった。
ヒマラヤに来て自分がなくしているものが
生命としての共振力だと気づいた。
まわりの生き物がすべて、おれたちはただ世界と共振して生きているのだと教えてくれた。
今日本では石原とかいう老人が
「戦争やっちゃえばいいんだ。そうすれば拉致問題なども解決する」
と若者を煽っているという記事を目にした。
そういう扇動に乗るのは圧迫され傷ついた自我なのだ。
だからその圧迫の解消を国家間戦争に投影してしまう。
今の若者がどれほど圧迫され傷ついていることか。
だが、この機に乗じて台頭してきたナショナリズムを許してはならない。


2012年12月18日 

魔界嵐のなかで『病める舞姫』への坑口が見つかった

今週から例年のごとく「冬場の調体」が始まった。
来年三月の新学期が始まるまで毎朝続ける予定だ。
ともすると、冬場は思わぬ寒気に体調を壊すことがある。
それを予防し絶えずからだに耳を澄ますことが最大の予防になるからだ。もう一つは、来年春から『病める舞姫』に取り組むための
特別の調体を見つけ出すことが今年の課題だ。
『病める舞姫』は、日常の意識状態ではもちろん、浅い下意識モードではなかなか入っていけない世界だ。
これまで以上の深いサブボディモードに安全に入り込むための
実験が必要になった。
かれは『病める舞姫』一冊を通じて、
「からだのくもらし方」の技術と
それによって得られる世界について書いたといってよい。
それはサブボディ技法とほぼ等しいが、
これまで以上にもう一歩深層まで降りる必要があるのだ。
それは多次元共振かつ非二元世界なので、
そこに入るために多次元的なアプローチを必要とする。
昨日の初日は、眠りと覚醒の間のほとりにたゆたう調体を行った。
今日は、暖かいひだまりで十分に足指の調体を行なってから、
足指の見る夢について行った。いわば足指の動きでユングの『創造的イマジネーション』の技法を行った。
驚いたことに、これまでにない多彩なサブボディがジオとクリスチャンのからだから出てきた。おそらく今年中でもっとも面白いものが出てきた。
多分長い舞踏祭の緊張から解き放たれて、サブボディがもっとも活き活きとしている状態だったのだろう。
このように今年の冬場の調体は次のような実験からなるだろう。

●ユングの「"アクティブ・イマジネーション」のからだによるアプローチ
●ミンデルの「ドリーミングボディ」の動きによるアプローチ
●ジェンドリンの『フォーカシング」の踊りによるアプローチ
●エリクソンの「自己催眠法」の動きによるアプローチ
●グロフの「ホロトロピック呼吸」のコーボディによるアプローチ
●生命遡行瞑想の微細化
●人生遡行歩行の重層化
●胎界遡行探体の深層化
●秘膜・秘液・などの隠されたクオリアの微細化・重層化調体
●最後に上記のすべてのメソッドの統合による『病める舞姫』への
安全な坑道の整備


上記の各技法はすでに何年も前にサブボディ技法の基礎に織り込まれ済みのものばかりである。これらはすべて下意識のからだに関わる技法として共通しており、その差異はごくわずかな力点の置き方の違いにある。
ほんの少しの違いが異なる坑道となったものだ。
これらの技法の多くは言葉でなされる場合が多いが私達はそれを
動きや踊りを含む全チャンネルを開きながら深化し、
それらのずべてを再統合することによって、はじめて
『病める舞姫』というこれまでにない非二元的な深層領域への
安全な掘削坑道に新入生をガイドすることができる。

土方自身が、非二元の深淵で出会う恐ろしい体験をくぐり抜けることによってはじめて『病める舞姫』を書くことができたのだ。
これは、全生徒のエッジクオリアを一身に引き受けていた
舞踏祭の間の体験の中でわたし自身が巻き込まれた「魔界嵐』と名付けた体験のなかでやってきた大きな気づきだった。
個々のエッジ後だけではなく、関係チャンネルで起こる投影、転移、逆転移、ドリーミング・アップ、その逆のドリームド・アップなどのあらゆる
事象を体験し、しかも最後は
それらが一挙同時に襲い掛かってくる最大級の混沌を体験した。
そこではからだの深層に潜んでいる邪気や悪魔、悪霊、鬼などの、
歓迎せざる元型群が活性化し、同時に襲い掛かってくる体験だ。
「魔界嵐」と名付けたが、そのさなか、突然『病める舞姫』を書いている
土方との共振が起こったのだ。
この20年間何度も『病める舞姫』を読もうとしてきたが、
いつも坑口さえ見つけられず、地団駄を踏んでいた。
『病める舞姫』に関する知識人たちの研究にも目を通したが
彼らは意識で分析するというとんでもない間違いをしでかしていて
しかもそれに気づいていないようだった。
それは『病める舞姫』の世界で起こっているクオリアの
かすかな多次元共振現象をみすごし、
似て非なる低次な二元的情報に置き換える作業でしかない。
それも一般読者のためには必要かもしれないが、
わたしたちは意識を捨て裸の命としてその世界に入ることで
はじめてそれを書いた土方の命と共振することができる。

いったいなぜ彼は1977年という年にそれを書くことができたのか?
それは彼の人生の中で最悪の年だった。
1976年の12月、彼の劇場 "アスベスト館"は周辺住民の反対運動によって封印を余儀なくされた。
騒音や消防法に違反しているだのという周辺住民の反発に
ついに屈して活動の休止に追い込まれたのだ。
わたしも舞踏祭の最中はいつもインド警官の監視下にあり、
ピリピリしている。
そしてもし、村や街の住民が共振塾の活動に反対運動を起こし
それに屈して活動を禁止されたとしたら、どうなるか想像した。
踊り手にとって踊れなくなることは死に等しい痛苦だ。
両腕両足をもぎ取られたからだで生きよと言われるに等しい。
土方はその年、そういう状態に突き落とされたのだ。
それはからだの闇に住むサブボディにとっては、
世界から拒まれた体験として受け止められる。
するとそのときは必ず、からだの闇の深層に棲んでいる否定的な世界元型が活性化し、一挙同時に襲い掛かってくる。
邪気、鬼、悪魔、悪霊、死霊などの渾然一体群に襲われる
「魔界嵐」を土方もまた体験したことをリアルに追体験した。
しかし、最悪の経験の中でもっとも貴重な気づきを得るという逆説が存在する。
だからこそ、土方はその魔界嵐の中でしか書けないこの本を書いたのであり、
私もまた、その中でこれを書いた土方に共振することができた。
その年の土方にはもう、怖いものなどなかった。
もっとも大切なものを失ったのだから、何に遠慮することもない。
彼はただ遠い未来に向かってからだの闇のできごとをありのまま書いたのだ。
そして、ひとつの奇跡のようにこの本が生まれた。

来年からこれに取り組もうとしているが、
私には生徒に「魔界嵐」を体験させることはできない。
準備もなくそんなことをすれば死者が出る恐れが十分にある。
安全に、少しずつ降りていける坑道を掘り進めなければならない。
この世界の特徴は無数の入り口があるということだ。
だからこそ上に挙げた多くの技法をもう一度学び直し、
再統合する必要があるのだ。
各技法ともこの20年で驚くほど深化刷新されている。
それらの多くは言葉と対話の技術だが、
それらをもう一度からだと動きに落とし、かみくだし、
調体・探体・創体技法に再編すること。
全チャンネルを開く練習法をつくり上げること。
これが、この冬の私の仕事だ。
少数の長期生がこの実験を手伝ってくれるだろう。
冬場の調体の参加者は、その果実だけを受け取ることができる。


2012年11月18日

産婆道5 
<邪気>元型の正体


サブボディプロセスをたどり、
からだの闇の非二元の<世界=自己チャンネル>が開いてくると
予想もできない奇妙なことが次から次に起こってくる。
その概要は、前項4に箇条書きで示した。
だが、さらに深層部の無意識のからだ域に入ると、
とんでもない恐ろしいことが次から次に起こりはじめる。
そして、奇妙な現象が重層し、加速度を強めてくる。
一挙に世界が、あるいは回りにいる誰もが
自分に敵対し襲い掛かってくる幻影にとらえられる。
これは前項で書いた個別の現象が、ランダムに重層し、
いっしょくたになって起こる現象だ。
古来から<邪気>や<魔>、<悪霊>のしわざ
としてとらえられてきた元型群は、
内クオリアの時空を超えた多次元共振が亢進し、
加速度的に一挙同時に起こる脳心身の混沌現象として
透明に見透かすことが必要だ。
●●

<無方向>
まず、命にとっての世界チャンネルとは、
単に目に見える現実世界だけを意味しないことだ。
命は時間や空間を超えた無数のクオリアと共振している。
そこでは、地上の世界のように定かな方向や位置感覚が働かない。
どこに居るのか、まったくわからない。
記憶や想像をたどっているうちに、知らないうちに現実世界から
未知の異次元に迷い込んでいる。
日常の現実と、異次元の現実がどこかでつながったり
切れたりしている。
生命の感じるクオリアがいつも幻現二重に共振しているからだ。
<異時間>
空間が不定形なだけではない。
そこでは時間の進み方が地上とはまったく違う。
一瞬で心身状態が急変したり、逆に時間が恐ろしくゆっくり進む。
とくにトラウマに出会うと、過去の外傷体験に結びついた
ホルモンが瞬時に脳心身を支配し、
心身がからだごと持っていかれてしまう。
<状態依存性ホルモン>
あらゆる外傷体験は
<状態依存性ホルモン>と呼ばれる特定のホルモンや
神経伝達物質と結びびついている。
アドレナリンが発すると心身が闘争か、逃走かの
極限状態に追い込まれる。
そういう典型的な症状にとどまらず、多様なホルモンが
複合して分泌されて複雑奇っ怪な心身状態に巻き込まれる。
悲しみや妬みなどの情動に支配され尽くすこともある。
出所がわからない不安の雲に巻き込まれることもある。
<即時発現性遺伝子>
近年の遺伝子研究は、遺伝子のなかに即時発現性をもったものが
数多くあることを発見しつつある。
いわゆる世代間の遺伝だけに関わるのではなく、
いまここで、細胞の状態を変える遺伝子群だ。
ごくかすかなクオリアによってこれらが発現されると、
直ちに細胞の状態を変えてしまうのだ。
これが脳心身がからだごと持っていかれてしまう現象につながる。
細胞レベルで物理的な瞬時変化が起こることを
意識や意志で制御できるわけはない。
かろうじて呼吸法やふるえ瞑想、ゆらぎ瞑想などの調体技法で
ほんの少し鎮静し軽減することができるだけだ。
そこからからだを創造的に動かす探体状態にもちこめれば
なんとかなるのだが、からだが動こうともしないときが
もっとも手強い。
癇のサブボディが出たときがそれに当たる。
もっとも深い創造の可能性につきあたっているのだが、
それはいつも生死の淵で打ち震えている状態なのだ。
以上のニ項の知識は、精神生物学のロッシから学んだ。
この技法はまだまだ探求し始めたばかりの鳥羽口にある。
<三界共振>
わたしたちが創造界とよぶ心身の創造的な状態とは、
日常の分別界だけではなく、
胎像界と呼ぶ、胎内にいた頃の、
世界と自己がまだ分離していない混沌や
原初生命期の非二元クオリアがぶり返す。
生命が三界の境界を超えて激しく共振している状態であることを
わきまえておく必要がある。
<出生トラウマ>
とりわけ大きな危険は、おそらく出生時の外傷体験に根ざしている。
もっとも思い出すことができない潜在記憶のクオリアが
突然現在のクオリアと共振し始めるのだ。
世界全部が自分を殺そうと敵対してくるという妄想は
子宮収縮が始まり、生死の境界をさまよった産道体験に結びついている。
あらゆる哺乳動物はこの恐怖を通り抜けてこの世に産み落とされる。
だが、けっして思い出すことはできないので、
世界中のわけのわからないものに襲い掛かられているという
妄想に支配される。
<不定形情動支配>
ほんのささいなことがきっかけで、悲しみがこんこんと湧いてくる。
寂しさや孤独感、無力感にさいなまれる。
でどころがわからないだけにもっとも厄介な事態の一つだ。
だが、しずかにからだの闇を探れば幼年期の体験や
それが思春期や青年期にぶり返して
強化された共振パターンとなっていることが多い。
<投射や転移・逆転移>
からだの闇ではクオリアが二重三重、いや多重に共振しているので、
ほんの少しでも似た状況に陥ると、過去のいやなクオリアが
共振し始める。
それが投射や転移の共振原理だ。
心理学では投射は自分の中の否定的な要素を他者のなかに感じること。
転移は、過去のうまく共振できなかった体験が現在の関係のなかに
登場してくること、などと区別されるが、
すべては多次元的なもっと複雑な共振が存在する。
そのほんの一部が心理学で知られているにすぎない。
<ドリーム・アップ>
ミンデルの発見したドリームアップもクオリアの共振で起こる。
自分の妄想のなかに他者を取り込んでしまうことだが、
クオリアの幻現二重共振性から見ればごくごく普通の現象にすぎない。
ただ、自分でそれと自覚できないときに厄介な事態を引き起こす。
<否定自我>
自我は否定のクオリアから始まるといってよい。
外界とうまく共振できない乳児期や幼児期では
まだ世界とうまく共振する仕方を知らない。
非共振が起こったら、自分を守るために
自分が悪いのではなく、外界のせいにするしかない。
自己肯定クオリアと、他者否定クオリアはひとつのものである。
他者や社会に対する否定的な感情が湧いてきたときは
まずは幼児期の小さな自我が出てきたなと用心して
すぐにはその否定的なクオリアを発しないことが大事だ。
<複合して突発する>
以上の現象は個別に起こるとは限らない。
無数の要素が瞬時に共振して強大化する。
ホルモンが発出してからだごと変わってしまう。
耐え切れない情動に囚われてしまう。
こんなときはただ透明覚を開くことに集中する。
<透明覚を開く>
意識を鎮め、からだの闇で起こっていることに耳を澄ます。
なにが起ころうと驚かない。
しずかに命の不思議を受け入れる。
非二元の混沌の中で、
つらい情動に支配されながらも、
自分がどんな未知の傾性に囚われているのかを
透明に見透かす透明覚を開くことだけが
この事態に対処できるたったひとつの極意だ。

(混沌とした走り書きだが、書かないよりはましだ。
いや、コレを書くのが遅すぎた。
すでに多くの長期生がてひどいエッジ・クオリアにぶつかって
生死の淵で苦しみ抜いている。
それをすこしでも軽減すること。
そのために何ができるかを24時間探求すること。
それが創造プロセスの最後に起こる疾風怒濤の事態をのりきる
産婆のつとめだ。)



2012年11月14日

産婆道4 
世界チャンネルの危険な陥穽


舞踏祭が近づき、年間最後の創造月間に入ると、
ほとんどの生徒が固有の世界チャンネルを開きはじめる。
固有の背後世界や深淵(アビス)に巻き込まれる。
踊りを深化させるためには避けて通れない必須の道だ。
だが、ここには無数の未知の危険が待ち構えている。
毎週のように長期生の誰かがその陥穽に落ちて
一週間ほどもがき苦しむ事態になってきた。
わたし自身が経験した危険は、多重日記の
「世界チャンネルの魔」などで何度か書いたことがあるが、
ここでは、すべての探求者のために、
どういう危険が待ち構えているのかについて述べる。

1.非二元世界の混沌
<無方向>
まず、命にとっての世界チャンネルとは、
単に目に見える現実世界だけを意味しないことだ。
命は時間や空間を超えた無数のクオリアと共振している。
そこでは、地上の世界のように定かな方向や位置感覚が働かない。
どこに居るのか、まったくわからない。
記憶や想像をたどっているうちに、知らないうちに現実世界から
未知の異次元に迷い込んでいる。
日常の現実と、異次元の現実がどこかでつながったり
切れたりしている。
生命の感じるクオリアがいつも幻現二重に共振しているからだ。
<異時間>
空間が不定形なだけではない。
そこでは時間の進み方が地上とはまったく違う。
一瞬で心身状態が急変したり、逆に時間が恐ろしくゆっくり進む。
とくにトラウマに出会うと、過去の外傷体験に結びついた
ホルモンが瞬時に脳心身を支配し、
心身がからだごと持っていかれてしまう。
<状態依存性ホルモン>
あらゆる外傷体験は
<状態依存性ホルモン>と呼ばれる特定のホルモンや
神経伝達物質と結びびついている。
アドレナリンが発すると心身が闘争か、逃走かの
極限状態に追い込まれる。
そういう典型的な症状にとどまらず、多様なホルモンが
複合して分泌されて複雑奇っ怪な心身状態に巻き込まれる。
悲しみや妬みなどの情動に支配され尽くすこともある。
出所がわからない不安の雲に巻き込まれることもある。
<即時発現性遺伝子>
近年の遺伝子研究は、遺伝子のなかに即時発現性をもったものが
数多くあることを発見しつつある。
いわゆる世代間の遺伝だけに関わるのではなく、
いまここで、細胞の状態を変える遺伝子群だ。
ごくかすかなクオリアによってこれらが発現されると、
直ちに細胞の状態を変えてしまうのだ。
これが脳心身がからだごと持っていかれてしまう現象につながる。
細胞レベルで物理的な瞬時変化が起こることを
意識や意志で制御できるわけはない。
かろうじて呼吸法やふるえ瞑想、ゆらぎ瞑想などの調体技法で
ほんの少し鎮静し軽減することができるだけだ。
そこからからだを創造的に動かす探体状態にもちこめれば
なんとかなるのだが、からだが動こうともしないときが
もっとも手強い。
癇のサブボディが出たときがそれに当たる。
もっとも深い創造の可能性につきあたっているのだが、
それはいつも生死の淵で打ち震えている状態なのだ。
以上のニ項の知識は、精神生物学のロッシから学んだ。
この技法はまだまだ探求し始めたばかりの鳥羽口にある。
<三界共振>
わたしたちが創造界とよぶ心身の創造的な状態とは、
日常の分別界だけではなく、
胎像界と呼ぶ、胎内にいた頃の、
世界と自己がまだ分離していない混沌や
原初生命期の非二元クオリアがぶり返す。
生命が三界の境界を超えて激しく共振している状態であることを
わきまえておく必要がある。
<出生トラウマ>
とりわけ大きな危険は、おそらく出生時の外傷体験に根ざしている。
もっとも思い出すことができない潜在記憶のクオリアが
突然現在のクオリアと共振し始めるのだ。
世界全部が自分を殺そうと敵対してくるという妄想は
子宮収縮が始まり、生死の境界をさまよった産道体験に結びついている。
あらゆる哺乳動物はこの恐怖を通り抜けてこの世に産み落とされる。
だが、けっして思い出すことはできないので、
世界中のわけのわからないものに襲い掛かられているという
妄想に支配される。
<不定形情動支配>
ほんのささいなことがきっかけで、悲しみがこんこんと湧いてくる。
寂しさや孤独感、無力感にさいなまれる。
でどころがわからないだけにもっとも厄介な事態の一つだ。
だが、しずかにからだの闇を探れば幼年期の体験や
それが思春期や青年期にぶり返して
強化された共振パターンとなっていることが多い。
<投射や転移・逆転移>
からだの闇ではクオリアが二重三重、いや多重に共振しているので、
ほんの少しでも似た状況に陥ると、過去のいやなクオリアが
共振し始める。
それが投射や転移の共振原理だ。
心理学では投射は自分の中の否定的な要素を他者のなかに感じること。
転移は、過去のうまく共振できなかった体験が現在の関係のなかに
登場してくること、などと区別されるが、
すべては多次元的なもっと複雑な共振が存在する。
そのほんの一部が心理学で知られているにすぎない。
<ドリーム・アップ>
ミンデルの発見したドリームアップもクオリアの共振で起こる。
自分の妄想のなかに他者を取り込んでしまうことだが、
クオリアの幻現二重共振性から見ればごくごく普通の現象にすぎない。
ただ、自分でそれと自覚できないときに厄介な事態を引き起こす。
<否定自我>
自我は否定のクオリアから始まるといってよい。
外界とうまく共振できない乳児期や幼児期では
まだ世界とうまく共振する仕方を知らない。
非共振が起こったら、自分を守るために
自分が悪いのではなく、外界のせいにするしかない。
自己肯定クオリアと、他者否定クオリアはひとつのものである。
他者や社会に対する否定的な感情が湧いてきたときは
まずは幼児期の小さな自我が出てきたなと用心して
すぐにはその否定的なクオリアを発しないことが大事だ。
<複合して突発する>
以上の現象は個別に起こるとは限らない。
無数の要素が瞬時に共振して強大化する。
ホルモンが発出してからだごと変わってしまう。
耐え切れない情動に囚われてしまう。
こんなときはただ透明覚を開くことに集中する。
<透明覚を開く>
意識を鎮め、からだの闇で起こっていることに耳を澄ます。
なにが起ころうと驚かない。
しずかに命の不思議を受け入れる。
非二元の混沌の中で、
つらい情動に支配されながらも、
自分がどんな未知の傾性に囚われているのかを
透明に見透かす透明覚を開くことだけが
この事態に対処できるたったひとつの極意だ。

(混沌とした走り書きだが、書かないよりはましだ。
いや、コレを書くのが遅すぎた。
すでに多くの長期生がてひどいエッジ・クオリアにぶつかって
生死の淵で苦しみ抜いている。
それをすこしでも軽減すること。
そのために何ができるかを24時間探求すること。
それが創造プロセスの最後に起こる疾風怒濤の事態をのりきる
産婆のつとめだ。)



 生命が共振する背後の世界
2012年11月10日

創造技法6 図地兆

1. 背後世界


命の世界は、日常的な人間世界とはまったく異なっている。
目に見える世界だけではなく、目に見えない背後の世界と
共振しているのが命だ。
現代の人間世界は、物質的科学がもたらす共同幻想に侵されて
三次元的な空間に時間次元がひとつ加わった
四次元時空という狭い世界観に縛られている。
だが、命は単に3次元空間や四次元時空に縛られてはいない。
命は物質だけでできているのではない。
命が感じるクオリアは、時空を超えて共振している。
幼児期の母の声、胎児期の生命記憶、
死んだ人の記憶とも強く共振している。
命は人間サイズの個体だけが持っているのではない。
からだを構成する100兆個の細胞一つひとつが命を持っている。
それらは40億年前に地球上で誕生して以来、
一度の死も体験せずに生き続けている。
すべての細胞の年齢は40億歳なのだ。
人間の細胞だけではない。
草木やアメーバやバクテリアの細胞の年齢もまったく同じ40億歳だ。
すべての細胞には40億年間の生命記憶が刻み込まれている。
これら細胞に生命記憶として保存されているクオリアを
内クオリアと呼ぶ。
記憶や夢や妄想や想像はすべて
内クオリアが構成する幻想的な世界のバリエーションだ。
そして、細胞は同時に身の回りのあらゆる物質やエネルギーと
多次元的に共振している。
重力のクオリア、日光のクオリア、空気のクオリア、匂い、音、味のクオリアと今ここで共振している。
このいまここで物理的な外界の様々なものと共振しているクオリアを
外クオリアと呼ぶ。
そして、この外クオリアは、細胞内に保存された
内クオリアとも絶えず二重に共振している。
生命は実に多数多様なクオリアと多次元的に共振しているのだ。
命の舞踏を踊ろうとすることは、
この生命の多次元共振を踊ることだ。
生死を超え、時空を超えて共振している生命の不思議を無視して
生命の舞踏はない。
この生命の多次元共振を踊る技法が
土方巽が未来への遺言として「静かな家」に書き残した
「死者の技法」だ。

死者は静かにしかし限りなくその姿を変えるのだ

彼等は地上のものの形をほんのふとした何気なさで借用することも珍しくない。」


土方はその世界を踊るために、
目に見える世界の背後の、生命が共振している
内クオリアからなる幻想的な世界を背後世界と呼んだ。
目に見える物質的な世界と、
目に見えない不可視の背後世界からなる
多次元的な生命共振が起こっている世界像を確立した。
死者はその両者を自在に行き来することができる。
人間が踊るダンスの世界では、
目に見える図と地のふたつを意識するだけでよい。
目に見える物質世界は、ある瞬間に焦点が当たっている
焦点が当たっていない背景であるのふたつからなる。
この両者は瞬間ごとに刻々と変化する。
だが、死者として舞台に立つ舞踏手は、
目に見える図とそのバックグラウンドとなる地の
ふたつを踊るだけでは不十分である。
生命は常に不可視の背後世界と微細に共振している。
この微細な共振クオリアを兆しと呼ぶ。
図と地に加えて、不可視の背後世界からの兆しからなる
三者を透明に制御しつつ変容する技法が図地兆である。
兆しはごくごく微細なクオリアなので、
粗大な日常意識のままでは感知できない。
日常意識を止め、からだの踊り場にまといついている
深層記憶や悪夢や妄想などの内クオリアが
時空を超えて多次元共振している微細な命のふるえに
耳を澄ましてはじめてキャッチできる。

「静かな家」の第一節には命が多次元的に共振する
背後世界の概観が詳述されている。

1 「赤い神様」

雨の中で悪事を計画する少女

床の顔に終始する

さけの顔に変質的にこだわる

○はくせいにされた春

○森の巣だ 目の巣だ、板の上に置かれた蛾

○気化した飴職人または武者絵のキリスト

○額をはしる細いくもの糸

○乞喰

○猫の腰

○背後の世界

○ごみ処理場

○鏡をこするとゆれる花影があった

○納屋の中でもろい物音がくずれた

○カンコウ場

Xによるかんげんを再生

○鏡のウラ


これらすべてが、日常世界の背後に広がる
生命共振の多次元世界との交感のありようを示している。

その共振を媒介するのがごくごく微細な兆しである。
背後世界と共振する兆しは、舞踏手のからだにとっては、
創造技法4で触れた、
踊りの血液と同義である。

背後世界と行き来する兆しをとらえるために、
舞踏者はからだの闇を掘り、
思い出せない記憶や、からだに刻印された悪夢や、
喉首つたう欲動や、逃れられないトラウマを掘り出し、
からだの踊り場に脈動する血液を通す。
背後世界からの兆しを踊れるかどうかが、
ダンスと舞踏を分かつもっとも大きな違いだといってよい


2 兆しと<ため>

図地兆は、実際の踊りの中では<ため>の技法として現れる。
<ため>は、従来から動きの最適のタイミングを見出す
伝統的な技法として重視されてきた。
土方も「静かな家」で、<ため>のために特別に一節を設けている。

 

12 崩れる
  叫びと少女―くずれてゆく前のふるえ


いきなり崩れては、崩れる必然性を観衆と共有できない。
崩れるにしろ、どんな動きをするにしろ、
それには必然性がなければならない。
その必然を観衆と共有できてはじめて
踊り手と観衆がひとつになることができる。
どんな動作をするにしろ、背後からか、内側からか、
世界から押し出されて動くにしろ、
その兆しが熟して動きになるまでの
最適の<間>を取る必要がある。
踊り手はいつも背後世界からの微細な兆しに耳を澄まし、
その機が熟するのをまつ。
その<間><ため>なのだ。

世阿弥は、ここでいう図地兆技法の<ため>や<間>を、
別の捉え方で
<一調、ニ機、三声>と呼んでいる。

「一舞・一音の内にも、面白きは序破急成就なり。
舞袖の一指、足踏と一響にも、序破急あり。
私にいう、一調・二機・三声も、調子を含むは序なり。
機を出すは破なり。
すでに出声急なり。
この三、心耳に感をなして面白きは、成就なり。
しかれば、万曲に通じて、一風・一音・一弾指の機にあたるも、
序破急成就なり。」
 (『拾玉得花』

調とは、踊りを支える背後世界の流れをからだに通し、
その世界からの兆しに耳を澄ますことである。
土方のいうくずれるまえの内的な叫びやふるえがこれに当たる。
とはたったひとつの最適タイミングを捉えることである。
とは、目に見える動きや耳に聞こえる音声に出すこと。
土方の文では「くずれる」に当たる。
たったひとつの機を捉えなければ、
どんな動きの序破急も不成就に終わる。

<ため>の体得法
<ため>とはなにかを、
だれにも一瞬で体得できる方法がある。

1.息を止める。
2.からだに耳を澄ます。からだじゅうの細胞が酸素を欲しがって
内的な叫びを上げ、もがきはじめるのが分かるだろう。
そのふるえが最大限に達したとき、思い切って息を吸う。
だれもがその必然性に共振することができる。
その最適の機をみつけて動くことが<ため>なのだ。
3.つぎに、からだや手足を折り曲げ、硬直させて血液をとめる。
そして、命が感じる兆しをとらえ、それが十分になるまで<ため>る。
からだがたまらなくなって、
何らかの動きが押し出されて出てくるのを待つ。
兆しが動きの必然性になるまで<ため>るのだ。
記憶や夢や情動のクオリアからなる踊りの血液が
からだにたまって最適の機で動き出す瞬間を見つけて動き出す。
4.自分の踊りのどんな微細な動きも、ただ動くのではなく、
あらゆる瞬間に兆しに耳を澄まし生きた血液の脈動を通していく。
前項で書いた、
命が震える踊りを創造するとは、
背後世界との間で命が震える兆しをとらえ、
それをからだの踊り場に血液の脈動として通していく
緻密な作業を積み重ねることなのだ。



「創造技法4 踊りの血液を通せ!」を読む

 2912年11月6日

命が震える踊り――世阿弥と土方巽

いったいなぜ、ある特定の踊りだけが
命を震わせる力を持っているのか。
生涯忘れることのできない刻印を命に残すのか。
長年その秘密を探り続けてきた。
わたしの知るかぎり、世阿弥と土方巽もまた
同じ問いを問い続けた。

世阿弥は「花伝書」で次のように書く。
花ト、面白キト、メヅラシキト、コレ三ツハ同ジ心ナリ。
イヅレノ花カ散ラデ残ルベキ。散ルユエニヨリテ、咲ク頃アレバメヅラシキナリ。能モ、住スル所ナキヲ、マヅ花ト知ルベシ。住セズシテ、余ノ風体ニ移レバ、メヅラシキナリ。」


晩年の「花鏡」では、さらにこれが深められる。
「面白き位より上に、心にも覚えず「あっ」という重あるべし。
これは感なり。
これは、心にも覚えねば、面白きとだに思わぬ感なり。
易には、感という文字の下、心を書かで、
咸ばかりを「かん」と読ませたり。
これ、まことの「かん」には、心もなき際なるがゆえなり。」


「拾玉得花」では、もう一段微細化される。
「以前申しつる、面白きといい、花といい、珍しきという、
この三つは一体異名なり。
これ、妙・花・面白・三つなりといえども、一色にて、
また、上・中・下の差別あり。
妙というは、言語を絶して、心行所滅なり。
言語を絶したりしは妙、
すでに明白となるは花、
一点つくるは面白きなり。
しかれば、無心の感、即心はただ歓喜のみか。
覚えず微笑する機、言語絶して,まさに一物もなし。
ここを妙なるという。
「妙なり」と得る心、妙花なり。
舞歌の曲をなし、意景感風の心耳を驚かすさかい、
覚えず見所の感応をなす。
これ妙花なり。
これ面白きなり。
これ無心咸なり。
この三箇条の感は、まさに無心の切なり。
心はなくて面白きとうけがうは何物ぞ。」

この最後の世阿弥の問いに、
世阿弥を読み始めて何十年かたった今、答えることができる。
「心はなくて面白きとうけがうものは何物ぞ。」
命なのだ。
言語も心も絶した、命の震えをもたらすものこそが、
妙花、面白、無心咸なのだ。


「生命の呼称で呼ばれうる舞踏」を求め続けた土方巽もまた、
この生命の微細な震えこそがたいへんに貴重なものであると、
「静かな家」に刻み込んでいる。
友人の柳田家の庭で予想もしないクジャクに出会ったとき、
土方はそれを貴重な命の震えとしてからだの奥底にしまいこんだ。
土方が稀代の舞踏の振り付けを創ることができたのは、
その内奥の生命の震えが起こるかどうかを基準にしたからだ。

「体こそ踊り場であろう。
手の踊り場、尻の踊り場、肘の裏の踊り場等。

この場所が持つ深淵は、この踊り場にはさまってくるものを克服し、

からみつかせる事により成立する。

例えば、柳田家があり、柳田家の庭にクジャクがいるという事をたいへんに貴重なものであるという発見をする。
また、カン工場という場所は、
私にとってなつかしい粉末というものによって語られる。
それらが踊る際の血液になっているのだ。」


命はいつもあらゆるものと、微細に共振している。
そして、その共振が高まり、新鮮な驚きや、胸の震えや、
高鳴りが起こった瞬間を克明に脳裏に刻みこむ。
言語や心を絶した妙花・無心咸は、
意識では創りだすことができない。
からだの闇の深淵に潜む命だけが知っているのだ。
命が震えるかどうか、
踊りを創るとき、そして見るとき、
肝要なことはたったそれだけである。




2012年11月5日

ヴァレリアの漆黒の顔

ヴァレリアが、ドアの影から現れた瞬間は
本当に驚かされた。
普段、ロシア人特有の真っ白い顔をしている彼女が
漆黒の顔で現れたからだ。
すぐにそれはとっくりセーターを
顔まで伸ばしてかぶっていたことが知れたが
最初の驚きは消えなかった。
土方がクジャクといったのはこのことだ。
予想外の驚きが、どうして花と係るのかはよく分からないが
命は驚きを克明に脳裏に刻みこむものだ。
世阿弥が「花伝書」で次のように述べていることをすぐに思い出した。
「花ト、面白キト、メヅラシキト、コレ三ツハ同ジ心ナリ。
イヅレノ花カ散ラデ残ルベキ。散ルユエニヨリテ、咲ク頃アレバメヅラシキナリ。能モ、住スル所ナキヲ、マヅ花ト知ルベシ。住セズシテ、余ノ風体ニ移レバ、メヅラシキナリ。」


わたしはこの世阿弥の
「住する所なきを、まづ花と知るべし」
という言葉が昔から好きでたまらない。
一瞬たりとも住してやるものかという意気込みで踊ったものだ。
忙し過ぎる意外な転換の多さが、
逆にわたしの癖となり欠点ともなったのだが、
いまだに克服していない。
生き急ぎ過ぎているのだろう。
たぶん、死ぬまでこのままだという気がする。
毎日違った練習を編み出せば、かならず生徒のからだの闇から
新しいサブボディ・コーボディが転げだしてくるのが
楽しくて、面白さが止まらないからだ。
今年の生徒は毎日激しいエッジに見舞われな上がらも
次から次へとわたしを驚かせてくれる。
産婆は一度始めたらやめられない。


「共振塾ジャーナル」をもっと読む

 
 2912年11月4日

飯詰――土方舞踏の原点

「共振日記」に引用した小林嵯峨さんの文章でも触れられていたが、
幼少期、寒風吹きすさぶ秋田の田んぼの真ん中に
飯詰(いづめ)に押し込まれ、
逃げ出さないように縛られて放置された体験が、
土方にとって舞踏の出発点になった。
歩こうとしても足は凍りつき、動けない。
動くこと能わぬからだから、願いだけが身体から離れて飛翔する。
動けぬからだが土方のボトムであり、
そこから離魂しさ迷いだす願いが、
気化するからだの原点だ。
土方の最初のソロ「種子」は、その動けないからだのまま
舞台の上をただ転げまわるものだった。
それは土方のボトムであり、癇のサブボディであった。
モダンダンスやバレエの常識では種子はやがて発芽し、
生長し、花を咲かせるだろうことが期待された。
だが、土方はそういうモダニズムの期待を見事に裏切ってみせた。
芽を出すことも、動くこともできない衰弱したからだにさえ
土方はこれまで誰も見出さなかった花を咲かせた。
それが後の「癇の花」という舞踏独特の美となった。
癇の花が、舞踏の原点である所以である。

からだのなかに、きみ固有の癇を探せ。
動けないもっともみじめな、情けないクオリアを探せ。
じぶんではどうすることもできない生命の原生的なクオリアを探せ。
おびえやふるえ、めまい、ゆらぎなどコントロールすること能わぬ
体感や情動こそ生命の舞踏の出発点である。
わたしたちの命はわけの分からぬものばかりに囚われている。
思考の癖、からだの変な習癖、嗜癖、欲望、衝動、妄想、悪夢
それら一つひとつを解いていく踊りこそ、
きみの命にとって踊らねばならない必然の踊りとなるだろう。









 2012年11月4日

8つのおびえを踊る

先週の土曜日、ひとりのインド人女性がわたしを訪ねてきた。
週末のサブボディ・コーボディ劇場に何度かきている観客の一人だった。
彼女はデリーに劇場を持つ振付家で、
現在はダラムサラでチベット仏教を学んでいるという。

彼女はチベット仏教の教えにある8つのおびえ(Fear)を元に
振り付けを創るうえでの助言を求めってきた。
思わぬ共時性に驚いた。
この日曜日にジオもまた、
おそれをテーマにした公開ワークショップを予定していたからだ。

一晩待ってもらって今日ジオを交えて彼女と話した。
昨夜のうちに私のサブボディは8つのおそれに関する
興味ふかい練習法を編み出していた。


チベット仏教で教える8つのおそれ、おびえとは以下のごとくだ。

1.火のおそれ――怒り
2.ライオンのおそれ――自尊心
3.象のおそれ――無視
4.蛇のおそれ――ねたみ
5.泥棒のおそれ――間違った見方
6.水のおそれ――愛着
7.幽霊のおそれ――疑い
8.囚人のおそれ――囚われ


昨夜サブボディさんが見つけた練習法は以下のようなものだ。
<おそれを踊る第一段階の練習>
①8つのおそれの中から三つを選ぶ。
その三つのおびえ、おそれに結びつく
三つのからだの踊り場を見つける。
②それぞれの踊り場からはじまる序破急の踊りをつくる。
大事なことは、いきなり怒りだの自尊心だの、
無視だのねたみなどという大きな問題に取り組まないことだ。
それらはわたしたちをすでに深く侵食している。
言い換えればわたしたちはそれらに侵食されて、
まるごと囚われ悩んでいる主体意識に取り込まれている。
そこからではなく、ひとつの生命細胞にとって
怒りが始まるのはどういう共振からなのかという微細な
始まりに耳を澄まし、そこからディテールの踊りをはじめることだ。
③ ――からだの踊り場の微細なディテールに耳を澄まし、
自分が選んだおびえ・おそれがどのように始まるのかを踊り、
そこからそれがからだの一部や心身全体に
どのような共振が波及していくのかを追っていく。
これが「静かな家」の、到来する嵐の前の
鳥のおびえ、虫のおびえに通暁するという段階だ。

これらを舞踏するために、登場する何者かは、鳥のおびえ、虫のおびえに、通じていなければならない。

こういう部分に関る体で嵐の襲来を待ち受けている、

まるで嵐がくる事を予感した子犬や、スプーンやホタルのように。

そうして、それらに関る視線を舞踏家は持たねばならない。

この視線こそ、桃色インコの目玉である。


桃色インコの目玉とは、共振塾でいう透明覚、透明離見、あるいは共振離見にあたる。


④ ――からだの一部で一番目の微細なおびえが
共振によって二番目のおそれ・おびえに転化し、発展していく。
これはじつにさまざまな回路をたどる。

密度を運ぶ自在さの中には、めまいや震えや花影のゆれがひそんでいる。

叫びと少女―くずれてゆく前のふるえ

背後からも内部からも襲われて、路上の花を摘む

   ふるえて、床にも、空にも、そのはもんは、拡がってゆく。

24 (ふるえ)

 鏡をこするとゆれる花影があった

 1、耐え忍ぶ剥製のとほうもないきたならしさ

 2、牛と木のワルツがふるえている

 3、鏡をこすると背後からゆれる花影があった

 4、ふるえている

 5、路上の花摘―歩く盲―犬

 6、スプーン―老婆 

 7、ふるえている

 8、方眼紙の網目に小さな花や小さな顔がかかっている

 9、ふるえている

 10、床にも空にも


体感チャンネルのおびえが、運動チャンネルのふるえに発展する。
ふるえには無数の微細な差異がある。
その差異の展開・変転を丁寧かつ執拗に追いかける。

⑤ ――その流れがついに脳心身全体に波及し、
さまざまなチャンネルの似たような恐れと共振し、
多次元的に増幅され
ついに人間関係チャンネルや、世界チャンネルにまで発展し、
8番目の全体的な囚われにまで発展していくプロセスを追う。
そして、それらの共振が最大限まで増幅されたのち、
鎮静化していくきっかけを見つけ、どのように消滅していくかを踊る。
この急にいたる段階は、静かな家では
25節から最後の27節まで展開されている。
参照――舞踏論29章 「静かな家」全文


<おそれから自分の問題を踊る発展段階の創造>

おそれやおびえ、ふるえはすべての命に共有されている
原生的なクオリアだ。
それは意識ではコントロールすることができない。
おそれを踊った後は、それを自分固有の問題に置き換えて
踊りを創造する。
その踊りは自分の命にとって解決することが
のっぴきならない必然の踊りとなるだろう。
わたしが処女作「伝染熱」を創ったときは
自分が囚われている問題を十個選び、
その問題と次々に取り組み格闘していく踊りとなった。
最初は立ち方や歩き方、眼差しの使い方などの
小さな問題から始めた。
じょじょに上位自我やアニマへの囚われなどの
大きな問題に展開していった。
踊っている最中にわたしではなく、わたしの死んだ友人たちが
わたしのからだを乗っ取って勝手に踊り出した。
わたしは彼らにからだを預け、踊るに任せた。
わたしの命にとって死んだ友人への罪意識や囚われから
解放されることがのっぴきならない必要だったのだ。





 2012年11月2日

産婆道3 癇の花を見逃すな

先週末、わたしは産婆として大きな過ちを犯した。
自我を十分に鎮め切れずに、
週末の石庭劇場を交通整理するという役割に囚われて、
一人の生徒から生まれかけていた癇のサブボディを
流産させてしまったのだ。
一昨日の夜、土方の「静かな家」を日英サイトに掲載しようとして、
癇の花の適切な翻訳をまだ確定していなかったことに気づいて
あれこれ試行錯誤して最終的に
”Flower of Kan(Flower of Disablility of Resonance)"
に確定した。
そのとたん、まざまざと先週末自分が犯した
最大級の過ちに気付かされた。 
癇とは、間の病、生命共振の病である。
なにかとうまく共振できない病が膏肓となって
心身障害・変形にまで嵩じた状態を指す

からだの闇から癇のサブボディが生まれ出ようとするときは、
ほとんど息も絶え絶えの身動きもできない
生死ギリギリの状態で姿を現す。
それはあらゆるサブボディの中でも、もっとも衰弱の極の
醜い死にかけの姿で出てくる。
日常の意識はそのあまりのおぞましさ・みじめさに
目を当てることができず、無視し、
排除しようとする激しい衝動に駆られる。

先週末の石庭劇場で、多くの生徒が狭い舞台でひしめいていたとき、
それを交通整理しようとしていたわたしを襲ったのも
その激しい否定衝動だった。

石庭劇場とは共振塾の用語で、
全員が石庭のなかのひとつの石となる。
ひとつの石は龍安寺の石庭がそうであるように
それぞれの宇宙を体現する異次元に属する。
舞台上に多数の異次元が開畳する多次元共振劇場のことだ。

一人の生徒がとりわけ深いサブボディモードに入り、
時間も空間も忘れてどっぷりその中に浸っていた。
次から次へと激しいサブボディがからだの闇から噴出していた。
90分を予定していた石庭劇場の中で、
その生徒は一時間以上も踊り続けた。
60分を過ぎた頃から他の生徒も待ちかねて舞台に上がり、
70分頃には6人の踊り手が狭い舞台でひしめく混雑状態となった。
見ると一人の新入生がまだ出そびれていた。
(このままでは今日この生徒のサブボディが誕生できないまま
流産してしまう・・・)
と危惧に駆られたわたしは、思わず声を発した。
「ジオ、パン! 他の生徒にも空間を与えるように。
2,3分のうちに終わりを見つけなさい」、と。
これは練習ではよくあることだ。
パンの方はすぐ舞台から出たが、
ジオの方は舞台の隅にうずくまったまま動かなくなってしまった。
実はジオは始まる前に、
「今朝の練習で目新しいサブボディに出会ったので、
確かめるために長く踊ってもいいか?」と了解を求めていた。
「いいよ。」と、わたしは応えていた。
だから、その生徒は(一度了解したくせに、掌を返すなんて!)
と、内心怒りに打ち震えているのが見えた。
それをわたしはその生徒のエゴと捉えてしまったのだ。
(きょうは自分が何をしているかを外からも内からも透明に
離見する透明覚を開くようにといったはずだ。)
わたしはその生徒のうずくまった姿に、
<透明覚が開けていない>という否定的判断を下してしまったのだ。
教師であることを否定しているわたしが、教師と交通整理役という
2つの役割に憑依され、囚われてしまった瞬間だった。
わたしは大声で、「ジオ! 自分の姿を外から見てみよ!
空間を占拠するな!」と怒鳴りつけた。
だが、そのときわたしが怒鳴りつけたその対象とは、
まさしく今年一年かけて追求しようとしていた
「癇の花」へのなりかけそのものだったのだ。
はじめて目にする癇のサブボディのあまりの目も当てられぬ
おぞましさにたじろぎ、それを思わず排除しようとしてしまったのだ。
その途端、その生まれ出ようとしていた癇のサブボディは死んだ。
その生徒はショックのあまり、荷物をまとめて走り出ていった。

わたしがこの大きな過ちにきづくまでに一週間かかった。
わたしは自分下した判断の皮を一枚一枚そぎ落とし続けた。
その過程で実に様々なことが起こった。

一枚目の皮、「透明覚が開けていない!」
――だがこれはわたしの教師としての予定に他ならず、
生まれかけているサブボディの胎児の知ったことではない。
二枚目の皮、「他の生徒のサブボディの誕生を阻害していることに気づいていない。」
――ジオはすでに二年目の産婆コースに在籍しているが、
生まれかけていたサブボディそのものは産婆ではない。
三枚目の皮逆転移
その生徒にメールで上記の点を指摘したとき、
その生徒から意外な反撃が返ってきた。
「去年の舞踏祭でも、Leeはわたしの意に反する指示を強いた。
そのときは泣く泣く従ったけれど、今回は我慢出来ない。
もう共振塾にはいられない。
カンボジアに行って貧しい女性のための
ボランティアとして働くことに決めた。」
それを聞いて、わたしの中に逆転移が起こった。
ラジカル・フェミニストだったわたしの妻から同様の
男性の権力的態度に対する激しい指弾を何百回となく受けていたが、
ついにそれに耐え切れなくなって別れたときのトラウマが
どっとぶり返してきたのだ。
(女性がこういう正義の論理を振りかざして男性に反駁するときは
アニムスに憑依されているのだ!)という判断がよみがえった。
その生徒に、「アニムスに憑依されかけている! 
危険だから身動きするな! 鎮まるまで生命に聴く瞑想を続けるように」と書き送った。
――だが、この「アニムス憑依」というのも、わたしの逆転移がもたらした
一面的判断にほかならなかった。
四枚目の皮、だが、それらの判断をそぎ落としていっても、
わたしが大声を挙げた瞬間に、わたしがなにか見てはいけない
<おぞましいもの>を目にしたかのような、
激しい嫌悪に駆られていたという
情動の謎は解けなかった。
わたしはそのときわき起こった情動の謎に耳を澄まし続けた。
五枚目の皮、そして一昨夜、土方の癇の花を訳そうとしている最中、
わたしを襲った嫌悪感とは、
はじめて癇のサブボディを目の当たりにしたときのショックと
嫌悪排除反応だったことに気づいた。
六枚目の皮、いくら言葉で全肯定からはじめると繰り返し、
20年以上も世界中の悲惨と共振しようとし続けてきたわたしにとってさえ、
癇のサブボディは<おぞましいもの>として震え上がらせるような
強烈な力を持ったものであることを知った。
七枚目の皮、自分の最初の反応を信じないこと。
ましてそれに振り回されないこと。
最初の反応は自我の二元判断に囚われている。
引き続いて起こる反応も、転移や投影に染め上げられている。
それらすべての初期反応が鎮まってようやく、
ピュアな生命共振に至ることができる。

今朝、わたしはジオに会い、わたしが犯した罪を詫びた。
それで彼女の心が動くかどうかはわからない。
すでにこの一週間でインドを離れる準備を始めていたからだ。
手遅れだったとしたら、
わたしの気づきがやってくるのが遅すぎたのだ。
死んだサブボディは取り返しがつかない。
産婆を続けるとは、こういう殺人、殺サブボディ・コーボデイという
罪を積み重ねることである。
私はほとんど息も絶え絶えの瀕死体だ。
だが、他の生徒もみな未曾有のエッジにぶつかり、
生死の淵をさまよっている。
ここで産婆が斃れるわけにはいかない。

(ここまで書いたとき、ジオから次のメールが届いた。
怖くてすぐには読めなかった。
だが、手遅れではなかったことを知った。
やれやれ。
どっとでてくる安心で寝込みそうだ。)

「癇の花」についてくわしくは、
「舞踏論第二部第4章 癇の花」を御覧ください。

 ジオからの手紙
Dear lee

Thanks for the moring, kan flower..
After coming back, I experienced somthing unexpected moment.
I'd love to share that moment with subbody friends and you.
So I uploaded on facebook and send you as following.
I need more time to listen to my subbody about what's next.
Anyway tomorrow morning i'll visit you.




Dear Subbody Butoh friends

I’m not sure if I can give you about her(gio) experience exactly
in these sentences or not. I’d love to share through body but
in the limits of space I hope to resonate beyond space by these writing.

********************************************
This morning she(gio) encountered an amazing moment.
She visited Lee and Lee told to her an unexpected phenomen...
on.
She faced a big blockage in subbody mode on the stage last week.
Her strange subbody couldn’t move, couldn’t follow Lee’s direction even though she was watching the whole process from outside as transparent eye.
She was going to less less less body, felt like becoming a dust in the strange light, to extreme shrunken condition. Anyhow finally her subbody escaped from the subbody hall and was closed from this visible world. The subbody was trying to come outside from her deep memories, but couldn’t come out instead it hid in abyss again. At the same time her conscious body was closed from outer world making huge distance and starting to move out to new world to breathe. The process was mystery and incomprehensible for her, maybe also for lee.

Anyway this morning, Lee has found the clue of the phenomenon as ‘Kan flower.’
She was able to accept the clue naturally, deeply with crying.

The following is what she wants to share with butoh friends.
After visiting Lee, She came back to her space and started to move, dance very spontaneously. She didn’t do any conditioning, but her various subbody came out one by one with strange sounds, languages, breathings. She couldn’t stop. Her hidden, pressed deep subbody was quaking to come out desperately. In that moment her body was not hers, really. She could see what’s happening clearly.

She remembered one phenomenon which she watched at the exorcism performance in Korea. The people who wanted to get exorcism believed that their one of dead family was floating with mortification gotten from this world before dying as forgotten spirit. In the performance of shaman, suddenly the shaman was possessed by the dead spirit and started to cry, move, dance, and talk with living people. When the process went to climax, the sprit was disappeared and everything was calm down. Maybe today’s experience of gio was different from the performance. But she felt some connection with that in some point, the pressed forgotten spirit and her pressed forgotten subbody by outer visible world.

One more thing what she wants to share is about being midwife.
You know, her subbody has been being born one by one and mixed by Lee and you guys.
Since last year, all subbody friends, you were her subbody’s mother, though the experiment as midwife you gave her birth, fed to grow up.

My dear friends and also mothers..

She encountered a big awareness through this morning experience.
The thing is the final midwife for her subbody is ‘SHE’
For now ‘SHE’ could give a new birth to her or kill the pressed subbody knocking the womb’s door desperately. ‘SHE’ has to take on all responsibilities and possibilities for her subbody from some moment. SHE(gio) is facing on very complicated state on the various borders, listening to her subbody’s yelling behind the door. SHE is looking for some space to give a birth to her subbody, until yesterday the space was for just other life to live in but now for safe space for giving a birth.

In this process she wanted to resonate more strongly with her friends and to take their wisdoms as her subbody’s mothers.
She misses you, your energy, your breathing, your subbody.
She wishes you be the best midwife for others and also for your own hidden subbody in your abyss.

Friends, Mothers with earth energy
Send warm resonance and light

much love, Dust Gio


 

血液を通す―ペアでの振り写し

1 調体3番、4番、5番、6番、7番、8番などで
十分にからだのあらゆる部位と深層記憶を活性化する。
2 強い記憶や固有夢や体験と結びつくからだの踊り場を三つ選ぶ。
3.その部位と独自の背後世界や記憶や悪夢との間を、
忘れることのできない強いクオリアで結びつける。
それを<踊りに血液を通す>という。
4. ペアになり、一人(A)が三つのからだの踊り場と三つの背後世界を結ぶ血液を通しながら、2,3分の踊りの振り付けを創り、踊って見せる。
5 もうひとり(B)がそれをじっくり観察し、どの踊り場がどんな血液で背後世界とつながっているのかに共振する。
そして同じ踊りを踊ってAに見せる。
Aはそれをじっくり見る。
6 AB二人で並んで、同じ振り付けの踊りを踊る。
7 つぎはBが踊り、上の振り写しを繰り返す。
8 このペアあるいはトリオでの振り写しを、日によって次のように
ポイントを移しながら繰り返し深めていく。
10月の末から次のように深めてきた。

いかに微細振り付けを創るかー深化発展プロセス
1 ABのペアになり、まずAが好きなように1分踊る。
最初は足の立ち位置を固定した動きに限定するといい。
2 Bはそれをじっくり観察し、同じ動きを1分間踊る。
3 ABふたりとも目を閉じ、同じ踊りを1分間踊る。
(ここまでは実は畏友デビッド・ザンブラーノが新潟でのワークショップの4日目にやったことだ。
これをサブボディ舞踏技法で次のように段階的に発展深化させ、
微細化と重層化を深めてきた。)
 2012年10月31日

共振の重層性への気づき

命はいつもさまざまなものと幾重にも重層的に共振している。
だが、二元論に囚われた日常意識は、
その重層性に気づくことができない。
エッジワークや、なんらかの困難に向き合っているとき、
気づきはふだん気付けない命のクオリア共振の
重層性に気づくという形でやってくることが多い。

 2012年10月31日

創造技法4 血液を通せ!

一挙手一投足に踊りの血液を通せ
指の間の闇に、内股の湿りに、尻の秘膜に、
忘れられない記憶を通せ
喉元につたう欲望を通せ
言い切れなかったもだえを通せ
背中の震えに森羅万象への畏れを通せ
凍える肩先にきみの悪夢を通せ

ありとあるからだの踊り場に血液が通ってはじめて舞踏になる。
土方の微細極まりない振付は、
そこに確かな血液を通そうとする試みだった。
わたしは若いころから世界中の踊りを見て歩いたが、
23歳、京都の土方の舞踏公演で
命が震え上がった体験は二度となかった。
何が不満だったか、今頃わかった。
血液が通っていなかったからだ。
血液の通っていない形骸だけの踊りが命をゆすぶるわけがない。
型だけなぞって形骸化したBUOTHが世界中をゾンビのように漂っている。
あるいは土方も嘆いた自我や自己を表現するモダン舞踏がはびこっている。
舞踏家を名乗る人たちの、研鑽不足が目に余る。
なぜ、人間を脱ぎ、生命の舞踏に至るための土方の遺言を
千回読んで噛み締めないのだ。
いや、その遺言の存在すら知らない人が多すぎる。

場所を変えることの難しさ

 

体こそ踊り場であろう。手の踊り場、尻の踊り場、肘の裏の踊り場等。

この場所が持つ深淵は、この踊り場にはさまってくるものを克服し、

からみつかせる事により成立する。

例えば、柳田家があり、柳田家の庭にクジャクがいるという事をたいへんに

貴重なものであるという発見をする。

また、カン工場という場所は、私にとってなつかしい粉末というものによって語られる。

それらが踊る際の血液になっているのだ。

(土方巽「静かな家」ソロのための覚書き 第16節)

この覚書が掲載されている「土方巽全集」が発行されたのは1998年。
わたしが日本を脱出した年だ。
わたしは万冊を超えた蔵書を処分して5冊だけに絞って
ヒマラヤインドに移った。
その5冊のうちの一冊が土方巽全集だった。
わたしより先に日本を出てしまった舞踏家たちには、
土方巽全集を入手する機会がなかっただけかもしれない。
あるいは土方の語り口の晦渋さにへこたれたのかもしれない。
現代社会を洪水のように埋め尽くす情報に溺れて
大事なものを見失ったのかもしれない。
土方を理解するには時間がかかる。
わたしはほかになんの情報もないヒマラヤで貪るように読みこんだ。
それから十余年。
「静かな家のための覚書き」に土方の遺言が結晶していることを
突き止めたのが8年前。
それを咀嚼翻訳して外国人の生徒に伝えることが
できるようになってきたのはついこの5年ほど前からだ。
からだの踊り場に、各自固有の血液を通す方法を
産婆できるようになったのは、ほんのこの2,3年。
その具体的な練習法がほぼ確立したのは実は今年がはじめてだ。
毎年熱心な良い生徒に恵まれて、生徒たちとともに取り組み、
全速力で走りつづけても15年かかったことになる。
だから、不満を言うまい。
他の人たちはそれに気づく機会に恵まれなかっただけなのだ。
ただ、すべての舞踏に関わる人に、おすすめする。
今からでも遅くない。
「静かな家」に取り組むことだ。
それは生命の呼称で呼ばれる舞踏をめざした土方巽の遺言である。
幻現・生死の時空を超えた多次元で共振する生命を捉えようとした
土方の一生の発見が込められた後世への贈り物なのだ。



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 2012年10月29日

クオリアの幻現二重性

過去の多重日記を読み返していると、
いまの転移や投影の問題を解く
良いヒントになる記事が見つかったので掲載します。
なんと2005年の「多重人格日記」からの引用です。



クオリアは、それを感じている本人にとって、
現実に目の前のものに対して生じているときも、
からだの闇に収蔵された過去のクオリアが共振しているときも
まったく同じように感じてしまう特性を持っている。
というより、クオリアはいつも
今ここの現実に対して生起しているものと、
過去の収蔵庫に収められているものが、
共振して二重に生起しているのだ。

日常意識が強いときは
私たちは今自分が感じているクオリアが
今ここの現実のなかで生起しているものだと
強く自覚しているため、混乱は起こらない。
だが、恐怖や怒りなど
過去に強い情動を引き起こされたのとよく似た体験をすると、
脳心身全体がその状態特有の
<状態依存的記憶>とともに、
特定の状態にセットされてしまう。
そうなると、今ここで起こっているクオリアと、
過去に引き起こされた強烈な情動に導かれたクオリアが
一緒になってからだを駆け巡り、
私たちを混乱の極に突き落とす。
これがクオリアの幻現二重性の怖いところだ。
あらゆる妄想の根拠がここにある。
いくらそう分かっていても、
からだの底から変わってしまうため、
からだは恐怖や怒りなど
その状態特有の強い反応を示してしまうのだ。

2012年10月29日

産婆道2 産婆心得

創造プロセスが深まり、
みんなが非二元領域の深淵に触れ始めると
予測のできない奇妙なことが次々と起こり始める。
それらに事前に対処できるように、
産婆が心得ておかねばならない
いくつかの特徴的な現象について、
箇条書きにしておきます。
これらすべての現象にとらわれるのではなく、
それを<生命共振>として透明に捉え返し、
少しでも良い共振のしかたを見つけるようにしてください。


1. 全肯定
からだの闇のあらゆる傾向を受け入れる。
思考で判断しない。
うまく共振できないものとは安全な距離をとって共振できるときを待つ。

2.誕生優先
からだの闇のサブボディ・コーボディの胎児の息吹に耳を澄ます。
それをなにより優先する。
じぶんのプランや計画をそれらに優先させない。
いつ何時も、何が起ころうと
サブボディの生まれてくるプロセスを第一義的に支援する。

3.エッジワーク
生徒が耐え難いエッジにぶつかっているのを察知すれば
ただちにエッジワークを行う。
タイミングを逃すと手遅れになる。
最初のエッジは、日常体の第1プロセスと、
からだの闇から出てこようとするサブボディ・コーボディの
第2プロセスとのあいだの非共振から発生する。
影や、ノット・ミー、副人格などと呼ばれてきた異貌体との
共振の仕方を見つけることが課題となる。

4.アニマ・アニムス、その他の元型の憑依
影やノット・ミーとのエッジを克服しても、それで終わりではない。
からだの闇には、生物学的な性とは異なる性的な傾向が潜んでいる。
男性の中の女性的要素をアニマ、
女性の中の男性的要素をアニムスと呼ぶ。
アニマ・アニムスの支配力は恐ろしく強い。
その発見者のユングは、アニマ・アニムスに比べれば
影などは門前の小僧のようなものだと言っている。
わたしのからだの闇の中でももっとも手強い謎だ。
毎年取り組もうとしては打ちのめされ、
先送りにしてきたが、もうそれではやっていけないところまできた。 
生徒の一人が明らかにアニムスに憑依されて、
持っていかれようとしている。
その問題を解かねばその女性の一生は無惨なものになる。
ここで起こることはすべてわたしの責任だ。
何とかしてこの問題を解かねばならない。
アニマ・アニムス問題が厄介なのは、
それが事項のような関係チャンネルに現実的な問題を持ち込むからだ。

5 投影、転移・逆転移・ドリーミング・アップ
投影とは、自分のからだの闇の不快なエッジ・クオリアを
他の人に投影して、他の人に不快を感じる現象だ。
転移とは、古い非共振クオリアが現在の関係のなかに
再現されてくることだ。
たとえば、学校の男性教師とうまく共振できなかった女性は、
過去の男性教師への憎しみを、
今の教師や治療者にたいして感じる。
逆転移とは、クライアントの転移に触発されて、
教師や治療者のなかに潜む過去の問題が
現在の関係のなかにでてくることだ。

ドリーミング・アップとは、ミンデルの用語で、
自分の夢想のなかに他の人を巻き込んでしまうことだ。

注意しなければならないのは、
以上のような概念は、治療者と被治療者が画然と区別されている
非対称的な心理療法の世界で生み出されてきた概念である。
だが、治療者と被治療者の区別は社会的な制度のほかならない。
その制度によって生命共振が歪められて捉えられている。
本当の命の世界にはそんな階層性は存在しない。
以上に紹介した事例は
すべて生命共振のバリエーションにほかならない。
共振には主体も客体もない。
どちらからともなく起こるものだ。
創造の場では、これらの現象をすべて
自然な生命共振のバリエーションと捉えて、
うまく共振できる方法を見つけることが大事だ。
ただ、そうそう簡単にはいかない。
クオリア共振には日常世界とは違った想像もつかない面があるからだ。
それを列挙しておく。

6 下記の危険を心得ておくこと

★ウルトラスピード
とりわけ怒りや悲しみなどの強い情動に囚われるときは
まず瞬間的にからだから変わる。
心身を司るホルモン状態が変わってしまってから、
見知らぬ情動が強い勢いで噴き上げてくる。
そうなった時にはすでに意志の力では制御不能なまでに
からだごと変わってしまっている。
とりわけ、アドレナリンモード(交感神経モード)に
なってしまったからだは、意識では統制できない。
その変化は目にも留まらぬウルトラスピードで起こる。
そうなる直前に察知して問題から遠ざかり、
距離を取ることが出来るだけだ。
だが、たいていは間に合わない。
前もって危険から遠ざかることが必要だ。

★情動アタックに備える
転移や逆転移は過去にうまく共振できなかった体験が
ぶり返すことだが、その際とても耐え難い情動が伴う。
大概これにやられて身動きできなくなってしまう。
産婆は自分の身に転移や逆転移が起こったとき、
それを透明に見透かして、それに伴う耐え難い情動から
身を引き剥がすことができねばならない。
クオリアはいつも幻現二重に共振している。
普段からそれに慣れておけば、すこしは冷静に耐えることができる。

★フラッシュバック
転移や逆転移がウルトラスピードで、
しかも強烈な情動アタックを伴って起こるのが
トラウマ(精神的外傷体験)のフラッシュバックだ。
これにはほとんど抵抗するすべがない。
頭から布団をかぶって寝るしかない。
だが、どんなきつい体験も、時間の経過の中で
通りすぎるものだということを知っておくのは悪くない。
どんな苦しみもいつまでも続かない。


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大野一雄さん、106歳おめでとうございます。

大野さん、106歳。
最後に大野さんにお会いしたのは、
1997年頃の大阪公演だ。
公演後大野さんは会場の出口に裸で立ち、
観客に挨拶してくれていた。
日本を離れようとしていたわたしは、
おそらくこれが最後だろうという気持ちで
大野さんのからだを抱きしめた。
子供のように小さいからだだった。

今日はそれから15年、
大野さんも今頃は冥界でクラゲとなって
旧戦友たちと泳いでいるだろう。

大野さんにまつわる幾つかの思いを垂れ流す。

大野一雄のボトム

大野一雄さんの写真の中から、あえて一般に流布されている
両手を上げて空に広がっている写真以外のものを集めた。
どうか、これらを命の目でとくと味わって欲しい。
大野さんのあの独特の極めポーズだけが世界に流布し、
あたかもそれが大野さんの舞踏スタイルでもあるかのような誤解がひろがっていることに
長い間強い危惧を抱いてきた。
西洋の大野さん系の舞踏家から影響を受けた人々の舞踏スタイルも
多かれ少なかれ、その流布された写真ポーズから影響を受けている。
それを見るたび身を切られるように辛くなる。
なんと文化は伝わりにくいものか、と。
それはたしかに、大野さんの踊りの中の花のひとつには違いないだろう。
だが、花が花だけで花になることはありえない。
花は目には見えない暗闇の中の秘密や謎に支えられてはじめて花となるのだ。
大野さんは踊りの中で膝から下の世界を模索し、死者と対話し、
生死のエッジとま向かう中から、最適の瞬間をつかんであのポーズをとったのだ。
大野一雄の息子の義人さんはいう。

「『膝から下の世界」という世界を一雄はもう一つ持っている。
そこにもう一つの宇宙がある。
『膝から下の世界』というのは大事です。
モダンダンスなんかでは、上に、重力に逆らってというふうな思いが強いでしょう。
一雄の場合は、本人がそう感じたとき、反対に落下します。
その時の落下する速度は凄いです。
あっという間に床に行ってます。」
(『大野一雄 魂の糧』)


だが、写真家にとって、うつむいて膝から下の世界をまさぐっているような図は、
おそらく絵にならないと判断されたのだろう。
謎や秘密に触れているみすぼらしい姿の写真など数えるほどしか撮られていない。
その写真家の美意識や判断が大野さんの舞踏の世界を歪め、
上滑りのBUTOHのイメージを世界にまき散らしてしまった。
大野一雄の舞踏のもっとも深い花と謎と秘密は、
そこにあるというのに見過ごされてしまうこととなった。
その誤ったイメージに毒された西洋圏の舞踏家や生徒に数多く出会った。
そのとんでもない悲しい誤解を解くために、大野さんの写真の中から
両手を上にあげていない写真だけを探して上に紹介した。
ほとんど無視されて撮られていないから、見付け出すのに苦労した。
幸い手持ちの資料の中から池上直哉氏の膨大な写真の中から
わずかながら集めることができた。
感謝します。
見やすい大きい花と違って、謎も秘密も目には見えない。
それに触れた命が微細にふるえているだけだからだ。
ただ、日常意識を止め、思考をやめたときにだけ、
生命が震えるように何か見えないものと共振していることが感じ取れる。
そして、本当の花もその心の目にだけ映る。
いや心というとまだ人間の枠内を離れることができない。
こころでさえなく、命になって大野さんの舞踏世界の奥底を感じてください。
人間の持ち物をすべて投げ捨てないと触れられない世界がこの世にはあるのです。

形と魂をめぐる伝統的な誤解

よく大野さんと土方の違いを説明するのに、
「形が魂に追いすがる」と、
「魂が形に追いすがる」
という言葉が引用される。
多くの西洋の友人はそれを真に受けている。
だが、それは頭のいい批評家がでっち上げた物語にすぎない。
大野さんも土方も、どちらも上の両者を往還して踊っていた。
片道通行などあるわけがないのは、
からだで踊ろうとしたものならばすぐに分かる。
フィジカルな外クオリアと、メンタルな内クオリアが
ひとつに融け合ってはじめて動きが踊りに昇華する。
大野さんがニューギニアから引き上げてくる船上で
多くの戦友が飢えや疲労で命を落とし、海の藻屑と消えていったとき、
彼らを踊ろうと心に決め、クラゲの踊りを繰り返した。
それを21歳の土方が見て衝撃を受け、
「劇薬ダンス」と名付けた逸話はよく知られている。
それ以後二人の共振は、
物質的なからだと目に見えない異界を往還して踊るという
一点で結びついたのだ。
共振とはどちらからともなく起こるもので
主体と客体の違いなどない。

土方が突然衰弱体舞踏に転換していった70年代は二人はもっとも
遠くで共振していいた。
その間、土方は1974年の「静かな家」で、
気化と物質化を往還する衰弱体技法として仕上げ、
その自在に変容し往還するものを<死者>と呼んだ。

1980年代になって、
大野一雄が「ラ・アルヘンティーナ」と「わたしのお母さん」
という2つの代表作の振り付けを土方に頼んだのは、
大野さん自身が自分に必要なものとは何かを
土方がよく知っていることを知尽していたからだ。
土方が大野さんの代表作である2つの踊りに持ち込んだものを
一言でいえばボトムである。
大野さんはもともと天性の即興ダンサーで、
クラゲの踊りを踊らせたらいつまでも踊れる人であることを
土方はよく知っていた。
その大野さんの天性の踊りをもっとも引き立てるものとは何か、
それこそがボトムなのだ。

アルヘンティーナの冒頭、
豪華なドレスをまとう大野さんを観客席に座らせ、
首がカクカク動く傀儡の動きで立ち上がらせたのも
それがもっとも対照的にクラゲの踊りを引き立てるものであったからだ。
その後も、各章の繋ぎ目ごとに静止や棒杭だのという
ボトムを効果的に挿入した。
とりわけ、グランドピアノを運び入れ、
その前に身じろぎもしない大野さんを立たせたのは、
後半の鳥の踊りなどの大野さんの踊りをもっとも支えるものこそ
思い切り長い静止であることをよく知っていたからだ。

ともあれ、舞踏は土方と大野さんという稀代の共振から始まった。
それだけは覚えていていいのだ。




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2012年10月27日

産婆道1 無限肯定

秋が深まるとともに創造が深まっていくこの季節には
思いもかけぬことが次から次へと起こる。
産婆は何が起ころうと対処できるように
細心の注意で進まねばならない。
新入生が体調を壊して、登校できないことに気を取られている間に、
古い生徒が今までにない深いエッジにぶつかり、
大変な事態に見舞われていることに気づくのが一瞬遅れた。

エッジも最初に出会うのは、からだの闇に棲むノット・ミーなどの
副人格群、サブボディの用語で言えば異貌体に出会うことから始まる。
だが、それはほんの入口にすぎない。
からだの闇にはもっともっとしぶとく恐ろしい元型が隙を見て
襲いかかろうと待ち構えている。

そうだ。アニマ・アニムスだ。
ユングは、アニマ・アニムスの強大な力に比べれば
影はほんの丁稚のようにかわいいものだと言っている。

一人の女性の生徒が、先週私に訴えてきた。
他の男性がガイドする調体に、支配的なメッセージが含まれすぎていて
耐えがたいと。
そうだねえ。少しその傾向があるね。
でもみんな未踏の地平を切り開こうとしているんだから、
多少の行き過ぎには目を瞑ってあげないとねえ。
などとのんきな応答をしている間に、
その矛先が私に向けられてきた。

先週末の石庭劇場で、その生徒は
今日は新しく大きな発見に出会ったので
それを確かめるために、少し長めに踊りたいと言ってきた。
ああ、いいよ、と答えた。
90分の出入り自由の石庭劇場だった。
その生徒は、始まって10分後に舞台に出、その後ずっと踊り続けた。
最初は人数が少なかったから問題はなかった。
だが、60分を過ぎた頃から、
入るタイミングを見計らっていた他の生徒がどんどん舞台に出てきた。
その女生徒は、さらに盛況に入っていて
終わる気配がまったく見られなかった。
70分を過ぎて、舞台には6人の生徒が登場して満員になった。
一人の新入生が入るタイミングを見つけられずに
ためらっているのが見えた。
あと20分しかない。
とうとう、私はしびれを切らせて、最初からいつづけている生徒に、
終わりのタイミングを見つけるよう声をかけた。
その声に、自分を外から離見する透明覚が開けていないぞ、
という叱責の音色がこもっていた。
その生徒があまりに自分の内部にのみこだわって、
外に対して耳を閉ざしてしまっている姿を見せていることに気づいていないので
そんなんじゃ駄目だ (いったい何年修行しているのだ!)というような
叱責の声音がこもってしまったのだ。
それを聞いて、その生徒は舞台の隅にうずくまったまま動かなくなってしまった。
(最初に長く踊りたいと了解をとっていたのに、今更手のひらを返すとは)
と、不満を体いっぱいにたたえてうずくまっていた。
その姿がまた、舞台の透明さを壊すもっとも醜いものに見えたので、
(自分の姿を外から見よ! 空間を占拠するな!)と
更に叱責した。
その生徒はそれを聞いて、荷物をまとめて家に走り帰っていった。
そしてその夜、もう学校をやめるというメールを寄越した。
舞踏ではなく、前々から考えていたカンボジアで貧しい難民のために
ボランティアとして働きたい、と。
私はがっかりしたが、そんな生き方もあるだろうと、
勝手にしなさい、ただ、舞台で自分にかまけて、
他の人の可能性を殺していることに気づかないのは
もっとも情けないと指摘した。
その生徒は、わたしの声音や文体に、家父長的な権力を嗅ぎとって
去年もあるときそんなふうに私を責めた、
そのときは泣く泣く従ったけれど、
今度はもう我慢出来ない、と更に私を攻撃してきた。

それを見てわたしは、悪無限に繰り返す悪夢を見ているような気分になった。
若い頃から、わたしの最初の妻となる女性からも
いつもそのような意外な攻撃を受けて、
立ち往生する経験を無限回繰り返してきたからだ。
ラジカル・フェミニストだったその女性は、
世の中のあらゆる男女差別の責任を
私に押しかぶせて攻撃してきた。
世の中にポルノ雑誌が出回っているのも
それを黙認している私が悪いと攻めたててきた。
私自身もフェミニストだったので、
自分で気づかないまま女性を傷つけていることに
気づかせてくれる妻からの攻撃を、
サンドバッグのように受け止め続けていた。
だが、そんなことが十数年続いたころ、
ある日私のからだがその攻撃にもう1グラムも
耐え切れなくなっていることに気づいた。
強靭な駱駝の背骨も、折れるときは最後のわら一本で折れる、
という格言どおりの折れ方だった。
ポキン。
それが二十年ほど前の出来事だ。
それ以来、女性がそのように男性に対して攻撃的になる時には
女性が自分の集合的無意識に棲むアニムスに
憑依されてしまっているのだということをユングを通じて学んだ。
女性のアニムスは男性以上に堅い論理で武装されており、
融通が効かない。
アニムスは、世界平和とか、女性解放とか、貧者救済とか、
誰にも反対できないような正義を身に鎧っている。
そしてその論理にしたがって闘い続けるのだ。
それに囚われてしまった女性は一生を男性的論理に喰われたまま、
女性性を再統合できずに、悲惨な人生を送ることになる。
男性がアニマに囚われるときは、永遠の女たらし、スケコマシ、
ドンファンとして過ごすようになるのとは
根本的に異なるタイプの悲劇に見舞われる。
何人もの女性の友人がそうなってしまうのを、何もできずに見送った。

女生徒が人が変わったようにわたしを攻撃しだしたとき、
その口調に、これまでの男性に対する憤懣がすべて私に投影されていることを感じた。
そして、わたしの最初の妻のようにアニムスに憑依されかけていることも。

だが、産婆としてはそのように自己を正当化することは許されない。
言葉を使って書き始めると、かならず、自己を正当化しようとする
自我が出てくる。上の文章にも色濃くそれが出ている。
産婆にとってはその無意識に出てくる正当化する自我を
克服することが第一の課題となる。
不都合が起こったときそのすべての責任を我が身に引き受けるのが産婆だ。
相手はまだ生まれていないサブボディの胎児なのだから、
非を胎児に押し付けるわけにはいかない。
起こったすべての不都合の責任は、わたしのなかに非を見つけ出す必要がある。
今回の場合は、その女性がほかの男性からのメッセージが耐えがたいと悩みを漏らしたときに
すばやくエッジワークを行なうべきだったのに、その機を逃してしまったことが第一の失敗だった。
そして、第二は、その女性が透明覚を開けずに自分にこだわったことも、
透明覚をひらく調体や練習を十分にガイドできていなかったわたしの責任である。
それなのに、女生徒に非をかぶせるような
叱責調の声音が混じってしまうのを
うまくコントロールできなかったわたしのミスだ。
自分にこだわりすぎている女性を叱るのが
その女性のためにいいことだという、
教師根性が出てしまったのだ。
わたしは普段は教師ではなく産婆として生きている。
良いことを教える教師であろうとなどせずに、
ただただ生徒のまだ生まれていないサブボディの胎内の息吹に耳を澄まし続けている。
だが、ほんの一瞬の気の緩みから、世の男性教師のように叱りつける音色がこもってしまった。
それをその女性のサブボディが耳ざとくききとがめたのだ。
ほんの些細な不注意からでた声音が彼女のサブボディの誕生の機会を奪い、発展の可能性を閉ざしてしまった。

思い返せば、これまでにも何度となく、生まれかけているサブボディや、コーボディの胎児を
うまく産婆できずに流産させてしまったことがある。
それらは忘れられない痛恨の記憶としてわたしのからだの闇に刻み込まれている。
こんかいもまた、過ちをひとつ重ねてしまった。

しかも、修復のしかたがまるで見えない。
アニマ・アニムス問題はわたしの中でもまだ解けていない最大の難題だ。
しかも、母や妻との別れのトラウマに結びついていて、情動的にもっとも苦手な領域である。
だが、いまはそんな個人的な弱音にとらわれているときではない。
生徒全員、あるいは長期生による産婆会議で、この問題をどう解決していけるか、
掘り下げる必要がある。

もともとわたしの基本的立場ははっきりしている。
男は自分の中の隠れた女性性を統合し、
女性は自分の中に潜んでいる男性性を統合して、
生物学的な性的制約を超えた生命として生きたいと若い頃から思いつづけてきた。
だが、そのためにはアニマ・アニムスという超歴史的な強豪を相手にしなければならない。
まだまだその力はないと先送りにしてきたが、もうこれ以上立ち止まっているわけにはいかない。
生徒全員で、男性は自分のアニマをどう克服するか、
女性は自分のアニムスをどう克服するかを探求し、
その成果を交換することから始めよう。
それを通じて、アニマ・アニムス問題をめぐる男女間のもっともよい
共振の仕方を見つけていくことができるだろう。
気づかずに男女間で傷つけあっている問題が存在する。
そういう社会で生まれ、そういう社会からここにやってきたのだから、
男女問題を避けて通ることはできない。
死にものぐるいでこの難関を突破しなければならない。
いままで快調に進んできたと思われた今年の後期に
こんな陥穽が待ち構えていたとは。
一寸先は闇、というからだの闇の鉄則を今更ながら思い知らされる。


2012年10月25日

創造技法4 踊りの血液
踊りの血液を探るータイム・リゾーミングによる生命遡行

これまで、調体7番のリゾーミングの7番目を
うまく定義できないままでいた。
リゾーミングとは、さまざまな背後世界と共振して
からだの一部から変成が始まり、全身に波及するという
サブボディ技法特有の変容技法だ。
1から6は、上下、前後、内外という空間次元から変容が起こる。
だが、そのようには空間や方向を特定できない変容もある。
これまではそれを、トータル・リゾーミングとか、
ランダム・リゾーミングとか、曖昧なままにしておいた。
だがそれらは、タイム・リゾーミングとして統括できることに気づいた。

1.ボトム・リゾーミング
2.トップ・リゾーミング
3.ビハインド・リゾーミング
4.フロント・リゾーミング
5.インナー・リゾーミング
6.ワールド・リゾーミング
7.タイム・リゾーミング

1から6は空間次元で起こるリゾーミング変容であるとすれば
7は時間次元で変容が起こる。
現在の時間から離れ、人生を過去へ遡行したり、
胎内へ、原初生命の異時空へ、遡る。
それぞれの時空はそれぞれの速度や静止などの固有時をもつ。
時間を自在に変幻するのがタイム・リゾーミングだ。
調体を十分に行い、自己催眠と同じく、
無数の異時間へ降り立ち、そこでの固有のクオリアを採集する。
幼児期のクオリア、乳児期の血液、糞尿、母乳の匂いなど
つよくからだに染み付いているクオリアを探しだし、
それと結びつく動きを見つける。
動きが、独特のクオリアと結びついたとき、
ただの動きから踊りになる。
調体7番のリゾーミング、とりわけタイム・リゾーミングによる
人生遡行や生命遡行は、日常体が忘れ去っている
踊りの血液を採集するのに欠かせない。
また、創造技法の4番に踊りの血液の項を入れた。
からだの踊り場にまといつく固有のクオリア、カン工場に象徴される
固有記憶、クジャクという生命共振の高ぶりなどが、
物理的な動きと一つになってはじめて踊りとなる。
3番の透明覚を開くとは、それらをすべて透明に見透かし、
かつそれらが見えるからだになることである。

サブボディ創造技法は、下記の7つの要諦が組み合わさり
重畳することによって、多次元生命共振j技法として、
じょじょに完成されていくだろう。

1 全肯定
2 鮮深必
3 透明覚
4 踊りの血液
5 序破急
6 図地兆
7 花秘謎



2012年10月25日

生命が激しく打ち震える瞬間

踊りを創るとは、からだの闇を掘りまくり、
人生の中で命が打ち震えた瞬間を掘り当てることだ。
頭で美しいと思えるものを作り出すのではない。
命が美を知っているのだ。
感動あるいは震撼という形で。
土方はそれをクジャクと呼んだ。

16 場所を変えることの難しさ

 

体こそ踊り場であろう。手の踊り場、尻の踊り場、肘の裏の踊り場等。

この場所が持つ深淵は、この踊り場にはさまってくるものを克服し、

からみつかせる事により成立する。

例えば、柳田家があり、柳田家の庭にクジャクがいるという事をたいへんに

貴重なものであるという発見をする。

また、カン工場という場所は、私にとってなつかしい粉末というものによって語られる。

それらが踊る際の血液になっているのだ。


動物園やインドの山でクジャクを見ても誰も驚かない。
だが、民家の庭でいきなりクジャクに出会うと、命は飛び上がるほど
驚き打ち震える。
その思いがけなくやってくる命の震撼の瞬間こそ<美>なのだ。
生命共振の振幅が異常に大きくなったとき、
命はそれを貴重な美の体験として蓄積してきた。
意識はそういう命の体験を忘れ去って、情報や思考に囚われている。
だが、踊っている中で、ときに思いがけず面白い瞬間に出くわすことがある。
その瞬間を狩るのだ。
今日は石庭の石から気化して、ふたたび物質化するまでの
動きを探ったが、午前中に見つけた踊りの中で、
さらにクジャクの瞬間を見つけよという課題を課した。
頭で予定したものではなく、踊っている最中に出てくる
思いがけない転換や、展開を見つけて狩ること。
午後からはそれをコーボディとしてシェアした。
実に不可思議奇妙な世界転換が次々と出てきた。
それは全体の序破急のなかに、
異次元開畳の瞬間をもたらすものになる。
幻現多次元を行き来する舞踏の序破急でもっとも肝心なものだ。
ほぼ各生徒がそれに触れかけ、それを全員のコーボディの
転換で創り出せることを知った。
それが今日の大きな収穫だ。

名前  Peacock cobody 
 アクシ  Stories of the wall
 ソルベイ  Turning feet Animal
 ジオ  Shaking Dying
(O-ttugi)
 クリスチン  Saved face
 カツ  Falling backward into Abyss
 パン  Inauguration of the Satyr

明日はいよいよ、舞踏の血液だ。

2012年10月19日

探体技法 <鮮・深・必>
 


からだの闇の掘り進め方がある。
その探体技法が<鮮深必>だ。
ここでは今までに実技ガイドに書いた記事を
一つにまとめ直した。

 まず探体の第一段階は<鮮>のクオリアを見つける。

意識を鎮めて、秘関、秘筋、秘腔、秘膜などを開きつつ、
からだをいろいろな方法で変化させて、
命が新鮮だと感じられるサブシグナルを見つける。
ふと、珍しい、面白い、目新しいと感じるクオリアだ。
それを見つけたら、そのからだの感じに従い、付いていく。
からだ全体で乗り込み、極限まで増幅する。
それで第一段階のサブボディが見つかる。
この段階ではあらゆる方面に広げるといい。


第二段階は<深>の探体だ。

<深>とは、なぜか分からないが自分の深部に引っかかってくる動きだ。
からだの闇のクオリアはすべて時を超えて多次元的に共振しあっている。
その生命共振のネットワークが布置だ。
その中で、引っかかりを感じた動きは、布置のなかのいずれかの問題につながっている。
遠い昔にからだの闇に沈んだままのユングの言う「影」(=劣等人格、副人格)や、
サリバンのいう「ノット・ミー」などの表向きの自分から切り離された、
解離された人格やくぐもりのいずれかと共振している。
もっと昔、乳児期や胎児期の生命傾向、
さらに細胞生命に刻み込まれた原初生命記憶などと共振しているクオリアもみつかる。
それらの深部の生命共振のネットワークと響きあうクオリアを見つければ
されに従い、増幅し、サブボディの動きに育て上げる。
それらは、原生体、異貌体などの重要なサブボディとなる。
これまではただ全般的にからだの闇に耳を澄まし、
新鮮なクオリアを見つける練習だったのに対し、一気に深みに入ることになる。
そこではさまざまなエッジと出くわして当惑したり、思わぬ苦痛に出会うことになるので、
共振タッチから指圧に進んで、からだの布置の変動からくる戸惑いを自分で癒し鎮めつつゆっくり進むことになる。
急いでは無理がたたってどこかで立ち往生してしまう生徒が続出するからだ。

その進展具合に注意深く耳を澄ませつつ、大多数の生徒がその次の段階に進む準備ができていると確信できたとき、
第3段階の<必>の探体に入る。

これまでに見つかっている<鮮>や<深>のサブボディを統合し、さらに
自分の命にとって本当に必要な踊り、生きるために必須の舞踏を見つける。
それは自分が囚われている諸問題に直面し、
それに取り組み自分がこれまで囚われてきた見えない力と対決し、そこから自分を解放する闘いの段階である。
それができると、からだの闇の見えない囚われを再編するような命にとっての創造となる。
すべての創造は常に命がこうむってきた圧力や制約によって生じたよじれを、
よじり返す命の<よじり返し>である。
最初から難しい囚われに取り組む必要はない。
からだの闇には無数の囚われやくぐもりが存在しているので
そのなかからまず今の自分に取り組めるかぎりの問題に直面し
それをよじり返し、再編する。
再編するたびに、それまで手がつけようがない思われてきた問題も
じょじょにほぐれてくる。
もしどうしても身動き取れないエッジにぶつかったときは、
共同のエッジワークでみんなで助け合う。

サブボディを生きるとはこのプロセスを無限に繰り返し、
らせん状に深めていくことである。
サブボディ舞踏とは命にとっての必須の踊りを求め続けることなのだ。

問題はあくまでテンポの適正さである。
サブボディを産婆するひとは、自分を捨てて生徒のサブボディ・コーボディにもぐりこみ、
そのかすかな産声に耳を澄まし続けなければならない。
早すぎた無理な要求は生徒をつぶしてしまうことになる。
遅すぎると誕生の最適の機会を逃してしまう。
サブボディの産婆になるとは、一生自分を捨て去っていく修行である。
これほど困難なことはないが、
またこれほど生きる値打ちのある生き方もまたとない。


1 鮮

からだの闇を探りながら、これまでに味わったことのない新鮮なクオリアに触れたら、
迷わずそれについていく。
どんなものでもいい。
これまで閉じ込められていた日常体のくびきを破るものならなんでもいい。
善悪、良否の判断をしない。
今までそれに囚われてとんでもない目にあってきたのだから。
あるかないかのかすかなシグナルに、からだごと乗り込んで増幅していく。
極限まで増幅して、そのクオリアが導く世界を探索する。
出てくる新鮮な動きをとことん味い、自分のからだを拡充し、解放していく。

2 深

鮮のなかで見つかったサブボディの体感や動きのクオリアと、
からだの闇に眠っている内クオリアとの結びつきを探る。
なんだか分からないが、この動きはからだの深いところとつながっていそうな気がする
というものにぶつかったら、とことんそれを探求する。
自分にしかない、かすかなひっかかりのようなクオリアだ。
思い出せない夢や、潜在記憶、命の固有のこだわり、
それらは無意識領域にあるため、意識では取り出せない。
ただからだごとサブボディに乗り込んで味わっているうち、
それらの潜在クオリアが共振してうごめきだす。
とりわけ、秘関や、秘腔、秘筋など、下意識の管轄化にある部位を
さまざまに動かしているうちに、そこに長年封印されていた内クオリアが動き出す。
それは世界のどこにもない自分固有の命のふるえだ。
意識、下意識の区分を超えて、自分の全体がひとつになっていく。
それに従い、増幅していくと、かけがえのないたったひとつの動きが出てくる。
それを命の絶対的創出にまで磨き上げていく。
<鮮深必>の深は、ただ深いというだけでは足りない。
本当は神と書きたいところなのだ。
神というと宗教がかるので使えないが、
なにか訳の分からない神秘的なものが絡みついている。
ただ、くすんでいるような陰気な雰囲気や、
謎めいた秘密が潜んでいる感じが欠かせない。
生命共振には、憑依や共時性など、
理性では説明の付かない不思議さや不気味さが含まれている。
全部言葉で説明できるようなものだけなら、
からだで踊る必要などないのだ。
この問題はさらに深められねばならない。


3 必

人間を超えて、命に至るのっぴきならない道を見つけるのが必だ。
生きるためになくてはならない踊りを見つける。
朝にそれを見つけたら、夕べに死すとも可なり、というような必須の創造だ。
なかなかそんなものが簡単に見つかるわけはない。
だが、生きるために必要なのっぴきならない創造とは何なのかを探り続けることが、生きることなのだ。
日々刻々命に聴き続ける。
何が一番したいのかい?
どんな世界を創りたいのかい?
これは自他の分け隔てを超えた命の世界へ至る道なのだ。




<必>の三要素

自分の命にとって本当に必要な踊り、生きるために必須の舞踏を見つけるのが、<必>の探体だ。
それは自分が囚われている諸問題に直面し、それに取り組み
自分がこれまで囚われてきた見えない力と対決し、そこから自分を解放する闘いの段階である。
それができると、からだの闇の見えない囚われを再編するような命にとっての創造となる。

すべての創造は常に命がこうむってきた圧力や制約によって生じたよじれを、
よじり返す命の<よじり返し>である。
と、<鮮深必1>で書いた。
これをもう少し詳しく述べよう。
よじれやよじれ返しを圧力や制約として捉えている限り、
よじれがすべての創造の父であり、
よじれ返しが創造のすべての母であるとはいい切れない。
だが、それらを生命が受け入れざるを得ない宿命のようのものと拡張して捉えれば、
命にとっての<必然的な創造>に至るには、次の三つの契機がある。

1 よじれ
ひとつは、ここで述べているように、命がこうむってきた無数の圧力や制約条件と
それによって生じたよじれをじっかりと捉えることである。
すべてのサブボディは社会や世界からの何らかの力によって
日のあたる場所で生きることを許されず、からだの闇の奥底に追い込まれてきた命の傾性である。
サブボディの被ったよじれをできるだけ微細に、忠実に捉えることから始める。

2 よじれ返し
よじれの動きをどこまでも追求していくと、やがて命からのよじれ返しの動きが出てくる。
わかりやすく言えば、腕をねじられれば、命は反対方向に動いてそれから逃れようとする。
単に物理的な圧力だけではなく、自分のクオリアに生じたバイアスのようなものを感じる。
すると、よじれやバイアスや自分の制約に対してそれを打ち破る動きがでてくる。
そのよじれ返しがでてくる必然的なタイミングを捉えることだ。
どんな動きにもたったひとつの必然的なタイミングがある。
その瞬間を捉えればどんな見苦しい動きでも美に転化する。
それが序破急マジックだ。

3 非二元一如
よじれとよじれ返しをとことんやっていくと、
やがて、よじれもよじれ返しも何でもござれ、という境地になる。
自他や内外に囚われた二元的なツリーの世界では、よじれまたはよじれ返しとなるが、
命の棲む非二元の世界には本当はそんな区別などないことがわかってくる。
どんなよじれでもよじれ返しでもやってこい、
すべて踊ってやるというリゾームに転化する。
非二元一如の命に転生する。
それがどんな踊りになるかは各人の発明に属することだ。
ともあれ、鮮深必の<必>の踊り、
<生命にとっての必然的な創造>にいたるには、
上の三つの契機をたどることが必然だと思われる。
それによって命と世界との関係の全貌がはじめて顕わになるからだ。


サブボディの産婆になるひとは、自分を捨て去り、
各人の探体の進み具合に応じて、日々もっとも適切な調体と探体のメニューを組み、
どんなサブボディがどんなタイミングで出てこようとしているかに耳を澄まし続けることが必要だ。
それは困難に満ち、おびただしいサブボディの堕胎や流産を経験することになる。
産婆はその非を自分以外の誰にもかぶせることはできない。
サブボディ自体は胎児であり、
その宿主である各人も自分のからだの闇にサブボディがいるることなど知らないからだ。
すべての責を引き受けなければならないのが産婆の宿命だ。
堕胎や流産に出会うことほど悲しいことはないが、
またあらゆる苦難を乗り越えて、サブボディの誕生を迎えること程おおきな喜びもない。
それはその宿主が栄えある創造者に脱皮する瞬間だからだ。
産婆は天国と地獄の間をひっきりなしに行き来する稼業だ。

 

 

 
 
2012年10月19日

皮膚の裏から踊る
 

今日生徒の一人ソルベイが、皮膚にまつわるコーボディを創った。
上の図がそのイメージだが、なかなか興味深い。
彼女は皮膚が神経や脳の起源であることを述べて、
皮膚の背後世界を開こうとした。
以前に書いていた「脳と皮膚の関係」という記事を
参考に掲載する。
ここには生命のまだまだ未解明の深い秘密が潜んでいる。
------------

秘膜の謎について長い間探求してきた。

わたしは言葉をつかって舞踏譜を書いたことがない。

言葉ではなく、わたしの踊りの記憶はすべて皮膚や胞衣層の透明な秘膜に刻み込まれている。

そんなことはわたしだけのことかと長年思っていたが、

「静かな家」の舞踏譜を読み深めるうちに、土方もそうであったことが分かってきた。

それどころか、20節以降の<急>部分になると、すべての奇妙な出来事が

秘膜の上で起こっている。

ひょっとすれば、秘膜は生命にとって普遍的なものにつながるのかもしれない。

 

20 (全体の花)

 

全体の花と皮膚への参加は均質なものである。

たれさげられた手の状態で全てが行為された場合の悪夢は裸体特有のものである。

 

21 (はもん)

 

背後からも内部からも襲われて、路上の花を摘む

ふるえて、床にも、空にも、そのはもんは、拡がってゆく。

 

22 (ヘリオガバルス

 

深淵図には複眼よりもむしろ皮膚への参加に注目されねばならない。

ただ一回のヘルオガバルスがある、

耐えるもの―それはめくるめく節度の別の顔であった

 

27 皮膚への参加

 

1、小さな頭蓋のなかの小さな花、それはそれは細い細い視線、

神経は、頭の外側に棒を目撃した、

その棒を額で撰り分けている視線。

2、小さな顔で歩く盲はまるでサルのようだ。猿の頭に落雷。

頭の中に小さな花が咲く、糸つむぎの唄が聞え出す。

3、引きのばされる老婆は一枚の紙になるだろう。

老婆はその紙の上に蛾のように乗っかるだろう。

4、武将は女王になり、女王は関節の箱におさめられるだろう。

その箱のなかからの生まれ変わりがフーピーという踊り子である。

 

 

 土方は静かな家の舞踏譜で、眼の巣と森の巣の多次元共振から、複眼をへて、
最終的に皮膚への参加に至る。
土方が見る目を閉ざし、眼腐れへ、第三の眼へ、複眼へと、眼の起源と根拠を追い求めるうち、
眼がその原生的な出生地である皮膚へ彼を導いていった。
そうだ。眼も神経も脳も、もともとは皮膚から生まれた。
多細胞生物の表皮である外胚葉から、眼も神経も脳も分化したのだ。

 

 

 

 

 

そんな矢先、ヒドラの皮膚の分化図を眺めながら、
ヒドラのからだになり込んでいて気づいた。

(特に上の日本語の図が分かりやすい。)

外胚葉から分化したヒドラの表皮では皮膚細胞と感覚細胞、
神経細胞が同居している。

そうか、これが秘膜の起源なのだ。

内胚葉から生まれた胃腸の内臓壁には食細胞、消化細胞が同居している。

その間の薄い中胚葉の層に動きをつかさどる筋肉細胞が存在している。

これはまるで6層構造を持つ大脳皮質の構造の起源を示しているではないか。
この原始的な皮膚の層が、いまもなお大脳の6層構造と共振している。
ソルヴァイの「皮膚の裏コーボディ」はこの未知なる共振へ誘い込むものだった。



第6層が運動、第4,5層が感覚、第2,3層が右脳と左脳を連絡している。
4,5層の感覚機能は、ヒドラの表皮層の感覚神経細胞にあたり、
その下の運動機能は、表皮層の第2層の筋肉層に該当するだろう。
秘膜特有の非二元的なクオリアはこれら感覚神経と運動神経が共振して
一体となって生み出されるクオリアなのだ。

もともと脳と皮膚はひとつだったのだ。

皮膚と脳が同じ外胚葉という共通祖先から生まれたことは、知識としては

ずいぶん昔から三木成夫の解剖学を学んできたからよく知っていた。

だが、いままでそれは秘膜との関係につながらなかった。

そうだ。皮膚と脳は同様にもともと細胞の外胚葉にほかならなかった。

同じ祖先を持つのだから、共通の性質を多く分け持っていても不思議ではない。

 

これが秘膜の起源ではないか。

 

皮膚も脳ももともと外界のさまざまなクオリアと多次元的に共振する

細胞膜の役割を専門化して発展した。

様々なクオリアとの無数の共振パターンが生命記憶として刻み込まれている。

生命の記憶は脳のグリア細胞に保山されているだけではない。

からだじゅうのあらゆる細胞に脳細胞同様内クオリアが記憶されている。

そして、からだの細胞生命と脳細胞の生命は絶え間なく共振している。

この共振が秘膜であり、秘関、秘筋、秘腔、秘液なのだ。

だからフィジカルにどこにどんな記憶が刻み込まれているというのではない。

生命全体として共振している中に絶えず記憶が共振によって生成するのだ。
保存されている内クオリアは各秘膜層で今ここに生じている外クオリアと共振し、
絶えず新たに創造される。

 

踊りが生成する場所は、この眼には見えない秘膜における

非二元かつ多次元の生命共振なのだ。

 

 

 

 

2012年10月19日

全肯定からはじまる。

昨日一昨日は、一泊二日で近くの温泉場タタパニに行った。
2日にわたって、河原や森や田園や寺で、
多くのサブボディ=コーボディが出現した。
今日はその自然の風土や事物に触発されて出てきたサブボディらを
抽象的な舞台空間でいかに振り付けるかという
創造にとって真の意味での収穫に入る。

踊りの振り付けを創造するにあたって、
重要なポイントは次のごとくだ。

1 からだの闇のすべての傾向を肯定すること

頭で考えないこと。
頭は二元論判断に囚われきっている。
これはいい、これは悪い。
人間だけに通用する狭い観念に縛られるのは馬鹿馬鹿しい。
人間の思考や判断を脱ぎ捨て、命になる。
命には二元的判断はない。
からだの闇のあらゆる傾向を肯定すること。
どれだけ惨めで醜く感じようと、
その感性的判断を脱ぎ捨て肯定すること。
生まれようとしているサブボディはまだ良い共振の仕方を知らない。
知らないからといって子供を否定すれば何も育たない。
全肯定すること。
まずはここがはじまりだ。
このあと。創造技法は

1 全肯定
2 鮮深必
3 透明覚
4 踊りの血液
5 序破急
6 図地兆
7 花秘謎


と続く。
来週からは創造月間へ移行していく。
そのなかでおいおい展開していこう。

2012年10月16日

エッジワークとめんげん

今日の午前はパンが産婆になってクラスをガイドした。
エッジワークから始めた。
ちょうど昨日新入生のひとりが自分では解決困難なエッジに
ぶつかっていると相談を受けたところだったので、
ドンピシャのグッドタイミングだった。
ペアになり、ひとりひとりのエッジ・クオリアを相手に与え、
それを自分で受けるという方法で全員でシェアしていった。
産婆のパンは全員のエッジを一身に引き受けて味わった。
何かに押しつぶされそうになるクオリア、
締め付けられるクオリア、
息がしにくくなるクオリアなどなどを
次から次へと味わいあった。
最後にパンのエッジクオリアを全員で受けた。
からだが何者かによって限界まで反らされるという動きだった。
わたしがそれを受けたとき、
瞬間的な激痛と全身のこわばりに襲われた。
わたしにはもう40年来の腰痛がある。
第4腰椎が分離滑り症になっている。
30代には幾度となくぎっくり腰に見まわれながら
性懲りもなくトライアスロンを続けていた。
まる一週間寝たきりになっったことが10回ほど、
3日寝たきりは30回ほど、
一日の痛みは数え切れない。
いまもときどき瞬間的な痛みが走る。
パンのからだを反らすエッジを味わっていたとき、
おそらくほんの少しだけ受忍限度を超えたのだ。
「駱駝の背骨もさいごの藁一本で折れる」ということわざがある。
痛みとともに全身にパニックが走った。
「めんげんだ!」と気づいた。

めんげんとは、古傷に対するからだの防御緊張パターンが
一挙にぶり返すことだ。

身体的な緊張と精神的な緊張が非二元同時に湧き上がって
激痛やこわばりをもたらす。
解離性同一性障害などさまざまな精神・神経症で起こる、
トラウマのフラッシュバックとめんげんは同じものだ。

指圧や鍼灸の治癒過程で必然的にともなうプロセスだ。
エッジワークでもめんげん反応が出るのは必須のプロセスだ。
さいわい、そばにいたカツにすぐ指圧治療を頼んで、
からだのこわばりを解いてもらったので事なきを得た。
エッジとめんげんは切り離すことができない。
産婆は生徒全員のエッジをいつもすべて引き受けながら
すすめる必要がある。
その過程で細心の限度制御(リミットコントロール)を
身につけなかればならない。
エッジ・クオリアは限度近くまで達しなければまったく意味がない。
だが限度を超えると、めんげんはじめさまざまな障害を引き起こす。
めんげんを自分のからだで味わえたことは大きな収穫だった。
多くのことを学んだ一日だった。


 
石庭のコーボディ 
2012年10月15日

十五の石が違った夢を見ている

コーボディその3 
<石庭のコーボディ>ー多次元共振世界


さて、いよいよ最後の石庭だ。
群れも森も、見かけからして個体が何らかの仕方で寄り集まった
コーボディだとわかるが、
石庭はコーボディだか、サブボディだかわからない。
一つ一つの石は、個体でもあり、全体の中の欠かせぬ要素でもある。
一つ一つの石は、別個の宇宙を象徴していると見ることもできる。
見る人と石の間の共振次第で、なにものにでも変容する、
多次元共振世界、それが石庭である。
わたしは中学の頃から、何十回も龍安寺を訪れ、
膨大な時間を過ごした。
妄想癖は、小さい頃の海と、思春期の龍安寺で形成された。
踊りを始めてからは、空間配置だけではなく、
時間的な序破急の展開を龍安寺から学んだ。
これ以上は言わない。
行って何時間かそこに座ることをおすすめする。
みずからが多次元共振世界そのものになりこまないで
生命共振を理解することなどできない。
多次元共振世界では、重要なのは、
ひとつひとつの石のみならず、
石と石の間の<間>なのだ。
そして見る人と石との<間>である。
<間>とは一刻一刻変化する共振である。
踊り手は舞台に入った途端、いついかなるときでも
一つの石庭の一つの要素になる。
そして、いかなるものにでも変容することができる。
それによって無限のクオリア共振を生成する。
他界の声を聴き死者となって紛れ込むことも、
悪夢の一断片を踊ることもできる。
石庭とは生命が非二元かつ多次元で共振している
世界そのものになりこむことである。
森羅万象が千変万化する。
物質やエネルギーの世界を超えて、
記憶や夢や妄想が、現実の関係と入り乱れ
多次元的に交錯する。
それが石庭という舞台なのだ。

ここからさきは、前人未踏の闇である。
サブボディとコーボディの間の謎など、
まだ誰も掘ったことがない課題である。
だが、群れと個の謎、類的存在と個的生存の秘密が解けなければ
命について何もわからない。
生命はそれらの区別のすべてが無効になる
非二元性を本質的に隠し持っているからだ。
ともあれ、この秋は思いがけず随分面白い旅が始まった。
群れと森と石庭のコーボディとサブボディを往還する中で
ありとある共振パターンを体験することができる。
サブボディとコーボディの謎と秘密を存分に探求する場を
ついに発見することができた。
わたしはこの謎の中に存在ごと頭から飛び込みたかった。
生徒とともにこの謎を腹いっぱい食べたかった。
ようやく長年の願いがかなうところまで来た。

 
 森のコーボディ
2012年10月14日

コーボディその2 
<森のコーボディ>
ー多様性が共存する


生命発生後30億年以上経った後、
単細胞から多細胞生物としての共振パターンが生まれ、
カンブリア紀の種の大爆発を経て、
地球上のさまざまな環境に適応した多彩な生物種が共生する
豊かな生態系が生まれた。
特定の環境下で特定の生態系が発展し多様化を進めた。
海洋では海洋の、砂漠では砂漠の生態系が存在する。
熱帯雨林はもっとも多様な生物種が共存する生態系である。
絶えず豊かな水が循環し、多彩な種類の植物、昆虫、鳥、獣が
多様な共振パターンを無限に発展させてきた。
<森のコーボディ>は、このような豊かな生態系のもつ
共振パターンである。
海洋もまた豊かな生物種が共生する<森のコーボディ>の一つである。
人間もまた、誕生当時はもっともか弱い種の一つであり、
群れで行動することを余儀なくされた。
そして、10万年ほど前にアフリカのジャングルとサバンナから出て、
世界各地の多彩な環境に拡散していった。
そのなかで採集、狩猟、農耕、放牧、商業、鉱工業、情報通信などの
多彩な文化を発明してきた。
わたしたちは、<森のコーボディ>という概念を、
当初のモデルとした自然の生態系から、
人類独特の農村や都市、工場やインターネットという
無数の多様性を内包する人類特有の共振パターンまで
拡張することができる。

だが、あらゆる文化は両刃の刃である。
人類の共同体は、それぞれに成員を拘束する
規則や刑罰などの共同幻想とともに発展してきた。
原始的な部族はおびただしい禁制や黙契によって成員を縛り付けた。
それなくしてはその共同性を維持できなかった。
宗教もまた、それぞれの禁制によって支えられてきた。
現代になお残る国家はその負の遺産で凝り固まっている。
人類最後の共同幻想が国家という怪物なのだ。
わたしが日本を飛び出したのは、「日本国民」などという
自分が望んだわけでもない制約に縛られるバカバカしさに
耐え切れなかったからだ。
だが、国家が存在する限り、ビザやパスポートという
形で国家はいつまでも付きまとってくる。
わたしたちのうちの誰が望んだわけではないのに、
人類は自らを縛り付ける怪物を生み出してしまったのだ。
いつか遠い未来に、人類がこの怪物の死に立ち会う日も来るだろう。
なくなればいいと望んで、未来からの眼差しで現在を見つめていれば
いればいつかはかならずなくなる。
植民地主義や奴隷制がなくなったように、
国家も消えるべきいっときの存在である。
その中で、わたしたちが探求するべきは、
豊かな群れとしての共振パターンを深めることだ。
群れの豊かさとは、その成員を拘束することなく多様な共振パターンを
さらに一層発展させ、多様化することのできる共同体である。
その未来の解放に向けての探索が、
共振パターンの多様性を発展させることのできる群れ、すなわち
<森のコーボディ>という共振パターンである。



 
群れのコーボディ 
2012年10月14日

コーボディ その1 
<群れのコーボディ>ー生死エッジの共振


生命はあらゆるものとのあいだで無数の共振パターンをもつ。
そのすべてが40億年間の生命史で蓄積してきた生命の富だ。
だが、いったいそれはどのようにして発展してきたのだろう。
40億年前に誕生した生命が最初に獲得した共振パターンは
どんなものだったろう。
わたしはことあるごとに原初生命になりこんでそれを探ってきた。
想像してみたまえ、まわりは一面死の世界だ。
たまたま誕生した生命の細胞群だけが生きている。
ほんの少しのものとだけうまく共振できる。
水やカルシウムイオンや、ナトリウムイオン、アミノ酸・・・
うまく共振できるものは数えるほどしかない。
そのほかのものとはまだどう共振していいいかわからない。
そういうものに出会ったとき、うまく瞬間的に共振する方法が
見つかれば生き延びることができる。
さまなくば死だ。
発生時のぎりぎりの生死のエッジに立たされていた。
生命にとってもっとも起源的な共振とは、
この一瞬ごとの生死エッジのクオリアだった。
うまく共振できるか、否か。
成功か、失敗か。
生か、死か。
瞬間的によい共振パターンを見つけた細胞だけが生き延びてきた。
おびただしい仲間が死んでいった。
40億年間で生命が遭遇した厳しい状況、
小惑星の衝突、地震、火山、洪水、氷河期などの
厳しい状況下では、多くの生命が死に絶え、
一握りの細胞だけが生き延びることができた。
生命はボトルネックと呼ばれている幾度もの試練の中で
選別され、分化し、新しい共振パターンを生み出してきた。
各環境の各状況下で最善の特定の共振パターン群を
共有した生命が種として生き延び発展してきた。
あらゆる種はその種特有の共振パターンを共有している。
その共振パターンを<群れのコーボディ>と呼ぶ。
群れのコーボディになることは、
生命にとってもっとも基本的な生き延びる方法だったのだ。
群れのコーボディと、生死エッジのクオリアは一つである。
生命は生きるために、群れになるという共振パターンを身につけたが、
人類の群れは恐ろしいパラドックスに満ちている。
軍隊のような殺すための群れもあれば、
アウシュビッツのような殺されるための群れもある。
そこでは個性も思想も顔さえも剥ぎ取られる。
群れになりこまなければ分からないことが多すぎる。
個とは何か、群れとは、類とはなにか?
成り込み続けても、分からない深い謎もある。
群れになるとは、これらすべての謎を
からだで引き受け問うことなのだ。

2012年10月12日

共振パターンの多様性を探る

今月は、10年に一回くらいの大きな発見があった。
これまでほぼ20年間、わたしが探究してきたのは、
踊り手の共振パターンをいかに豊かに多様化するかということだった。
いままで闇雲にいろいろ試みてきたものが、
今月急に厚い雲が晴れるように、
<コーボディの三>と呼ぶ共振原理が見つかった。
それは無数にあるコーボディの共振パターンを
三つの原理に分かつことですべてを包括することができるという発見だ。

群れと森と石庭――コーボディの三



1.群れのコーボディ
これは蜂の群れや鳥・獣の群れのように、全員が同じクオリアを共有して動くコーボディだ。もっともわかりやすい群れの動きといえる。
均一のクオリアを共有し、均一の秘膜距離やタイミングを共有して動く。
魚の群れには魚特有の、トカゲにはトカゲの、ナメクジにはナメクジ特有の速度とタイミングがある。それを共有するのが<群れのコーボディ>と呼ぶ共振パターンだ。
 
2.森のコーボディ
これは単一のクオリアを共有する群れではなく、
豊かな種の多彩さなクオリアを持った個体によって構成される
コーボディになることだ。
多種類の植物や虫や鳥や動物など多彩な種類の生き物が
混在して共生することのできる熱帯雨林の生態系がそのモデルだ。
均一なクオリアではなく、多様な種独特の速度や
タイミングを持った生き物や無生物が豊かな多様性を保ったまま
ひとつの森なら森、海なら海を構成している。
各踊り手はそれぞれのサブボディの固有性を発展させながら、
ひとつの動く森としてのコーボディ世界を共創する。
サブボディとコーボディの要素の両方を併せもった共振パターンといえる。

3.石庭のコーボディ
これは限りなくサブボディに近いコーボディだ。
日本の龍安寺の石庭がモデルになっている。
そこでは15個の石がそれぞれ別個の宇宙を構成している。
多数の異次元が共在している生命の実相にもっとも近いあり方だ。
そして、個々の石は、ひとつの背後世界や、
それぞれの石庭宇宙を構成する特異な異次元でありつつ、
いつでも群れや森のコーボディに変容することもできる。
もっともフレキシブルな共振パターンである。
石庭コーボディという共振パターンは、
上のスライドショーに挙げたような、
すべての非二元かつ多次元共振世界の原理でもある。
多くの画家がこれに取り組んだ。
惜しむべくは西洋の画家の構成には、
龍安寺の石庭に見られる巨大な空白の海がない。
沈黙がない。
すべての空間を饒舌に埋め尽くしている。
<空>や<無>に関する文化がなかったからだ。
存在に対する哲学の差異だ。
目に見えるものしか見えない目で踊りを創ってはならない。
石庭から学ぶべきは、空間構成と時間構成における
多様な距離感の味わいと<空無>である。

この三つを組み合わせることで、あらゆる共振パターンが生まれる。
少なくとも踊りを創造するに当たっては、
今のところこの三つの組み合わせによるコーボディパートと、
ソロやデュエットなどのサブボディを組み合わせることによって
もっとも豊かな多様性と多次元性が生まれる。

一つの理論の普遍性は、限りなく単純であり、
同時にもっとも広い普遍的妥当性を持つことだ。
アインシュタインが発見した、E=mc2 という単純な式によって
物質とエネルギーに関するもっとも普遍的な関係を
解きあらわしているように。
それは発見以来100年たっても今なお、物質とエネルギーの
相対的関係を表すもっとも深い理論で在り続けている。
ただし、相対性理論が適用できるのは物質とエネルギーの世界だけである。
生命や生命が共振することによって生成するクオリアは、
相対論では解けない。
生命やクオリアはおそらくひも理論における
ひもの微細な共振パターンの違いによって生まれる。
あらゆる物質やエネルギーがひもの共振パターンの違いによって
生成するように、生命やクオリアもまた、
ひもの特殊な共振パターンによって生まれるものであるに違いない。
その全容が解明されるには何世紀もかかろう。
だが、それはこれまで物質的な法則のみを解明してきた
物理学的理論ではなく、
共振原理によって解かれねばならないことだけはおおよそ当たりがつく。
われわれは共振理論をまだ持っていない。
それはこれから発見されていかねばならないものだ。
コーボディの三という生命独自の共振パターンの発見は、
そのごくごく小さな(おそらく未知なる全体の数億兆分の一以下の)
小さな一歩である。
生命共振の全体を解き明かすには、
当面はこういう小さな発見を少しずつ積み重ねていくしかないだろう。
その積み重ねの重層のなかで、
より普遍的な原理が発見される何世紀か後の未来のある日まで。

今年の秋は、個人の下意識のからだ=サブボディではなく、
もっと深い集合的下意識に住む<群れや森や石庭のコーボディ>を
掘り出すことからスタートした。
その成果は予想もしなかったほど目覚ましい。
実に多様なコーボディが生まれでてきた。
共振塾では振付家という特権的な存在はいない。
生徒全員が振付家でもあり、舞踏家でもある。
昔から、コレオグラファーでもあり、ダンザーでもある
コレオダンサーになることを目指してきた。
今週生まれ出てきたおびただしいコーボディの豊かさは
写真を編集して、明日お見せすることができると思う。
お楽しみに!


2012年10月10日

コーボディからのスタート

やれやれ、ビザ問題で5週間も遅れていたわたしだが、
やっと今週から授業に復帰することができた。
これまでにカツやジオら産婆陣の努力で、先週までに
新入生もほぼサブボディ・コーボディモードになる準備が整っていたので、今週はこれまでにない試みとして、いきなりそれぞれのサブボディがもっとも踊りたい場を、コーボディで共創する実験を始めた。
いままで、わたしのこだわりで、まずサブボディをつくってから、
コーボディにとりかかるという順番に囚われていた。
その囚われを捨てて、11月末の舞踏祭に向けてそれぞれの作品のコーボディパートから創造していくことを試みることにした。
それというのも、今週の月曜火曜の授業の中で、これまで混沌としていたさまざまな種類のコーボディを次のように大きく3つに区分けすることができることを発見したからだ。

1.群れとしてのコーボディ
これは蜂の群れや鳥・獣の群れのように、全員が同じクオリアを共有して動くコーボディだ。もっともわかりやすい群れの動きといえる。
2.森のコーボディ
これは熱帯雨林のように豊かな種の多彩さを持ったコーボディになることだ。いろいろな多彩な種類の生き物が混在して共振することのできる
豊かな自然がモデルになっている。
3.石庭としてのコーボディ
日本の龍安寺の石庭がモデルになっている。そこでは15個の石がそれぞれ別個の宇宙を構成している。多数の異次元が共在している生命の実相にもっとも近いあり方だ。

今日は8人の生徒に、それぞれのサブボディとってもっとも踊りたい場を
群れや森のコーボディとして創ってもらった。
すると、驚いたことにみるみる多彩な世界がつぎつぎと出現してきた。
次のごとくだ。

群れのコーボディ (Swarm cobody)

 name Swarm cobody 
 Kats D 王蟲の群れ Swarm of Ohm 
 Gio 忘れた言葉 Forgotten words
 Solveig  桃色の風 Pink wind
 Kristien  救われない呼吸 Unsaved breath
 Valerie  ナガ Naga
 Roger  シャム双生児の夢 Siamese Dreams
 Akshi  怖いほほ笑み Spooky smile
 Pan  生理中の舌の心音 
Heartbeat of menstruating tongue

森のコーボディ (Forest cobody)

 name Forest cobody 
 Solveig  山の記憶 Memories of mountain
 Gio  鏡の森 Mirror forest
 Valerie  死んでいく空気 Dying air
 Kristien  腐った女神 Rotten Goddess
 Pan  うなぎの性餐 Lust ale
 Akshi  溶けるベルメール Melting Bellmer
 Kats D  波紋 Ripple
 Roger  ---

生徒から出てくるコーボディの多彩さに驚かされた。
たった一日でこんなに多くのシーンが出現した。
あとは各自がその固有のコーボディから剥がれ落ち、
はぐれて押し出されてくるサブボディを踊ればいい。
各自にとって、のっぴきならないサブボディがもっとも生まれてきやすい場を創り出すことに成功したのだ。
これはこれまでの十数年の経験のなかでもかつてなかったことだ。
これから、石庭コーボディも創り、それらのコーボディが
場所を変えて移動するノマド劇場を展開する中で、
多彩な踊りが生まれてくるに違いない。
土方でさえ、群れのコーボディは、見事に創造したが、
森や石庭といったより多彩さをあわせもったコーボディの創造には
至っていない。
世界ではじめての試みになる。
転んでもただでは起きないことが、たった一つのわたしの誇りだ。
ビザ問題で立ち遅れた出足を一気に取り返せそうな展開になってきた。
この秋の創造の深まりがとっても楽しみになってきた。
でも、こんな絶好調のときこそ、けつまづくおそれがあるものだ。
じっくりゆっくりそれぞれのサブボディ=コーボディが
本当の必然の踊りを見つけることができるように
まだ生まれていないサブボディの胎児たちの息吹に耳を澄ましながら
掘り進めていこう。


 
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 2012年10月10日

性を超えて生きる


せっかく40億年もの歴史を持つ命として生まれてきたのだ。
たまたま振り分けられた男や女という生物学的な性に
縛られたまま生きるのはもったいない。
男は女に、女は男にもなるべきなのだ。
幸い踊りの中では女体や男体に自在に変容することができる。
アニマやアニムスの謎にからだごと成り込むことができる。
踊り手だけの特権かもしれないが。
まして、他の人のまだ生まれていないサブボディの
産婆として生きることは、
母にもグレートマザーにさえもなることができる。
これほど豊かな生きかたはまたとないものだ。


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 山崎、辻、橋本に捧げる
 2012年10月8日

山崎、随分踊ったな。

山崎博昭45回忌に捧ぐ


気がつけば今日は畏友・山崎博昭の45回忌だ。
彼とわたしは、1964年に大阪府立大手前高校に入学した。
どちらも母子家庭の貧しい家の出だったので、
毎月奨学金をもらう窓口で一緒になった。
その高校でわたしたちは「戦争と植民地主義に反対する高校生協議会」という反戦組織をつくった。私は書記長という役職だった。ヒッチハイクで広島や長崎、東京など全国の反戦集会にでかけ、高校生代表として活動した。山崎もそのメンバーの一人で、1965年秋の日韓条約反対闘争を始め、数々のデモに参加した。
1967年、山崎は現役で京大文学部に合格。
わたしは不合格で一年遅れて入学することになった。
だが、その一年が生死を分けた。
山崎はその年の秋、10.8ベトナム反戦羽田闘争で死亡。
わたしがそこにいれば死んでいたのは
山崎ではなくわたしだったかもしれない。
40代になって舞踏を始め練習の便のために、それまで20年間離れていた京都市左京区に住み始めると、毎晩のように山崎、辻敏明、橋本憲二という闘争で死んだ親しい仲間が夢枕に立つようになった。
わたしは自分のからだを彼らに明け渡した。
(好きに使いな。どうせ、きみらと一緒に死にそこなったからだだ。)
1998年のある日、練習中に気がつくと一連の踊りがからだから出てきた。わたしにはそれを創ったという記憶がない。
山崎ら私のからだのなかの死者たちが創ったに違いないと思った。
それを世界で踊りだして以来、かれらが夢枕に立つことは
ピッタリとなくなったからだ。
わたしはそれ以来、からだの闇の中の下意識のからだをサブボディと名づけ、探求を始め、現在に至る。
わたしの踊りの真の作者は、山崎、辻、橋本たちだ。
この二十年の間に世界各地で踊ったサブボディを
かれら三人に捧げる。
もうすぐ、会おうぜ!

追記
このページの右上に貼り付けているサイト内検索欄に
「山崎博昭」と入力して検索すると、日本語と中国語が混在して
使いものにならないことを発見した。
だが、一般のGoogle検索でも、
山崎博昭 site:subbody.com」と入力して検索すると
すべての記事が出てくることがわかった。
なんと全部で35本ほどある。
記憶にない記事までぞろぞろ出てくる。
年ごとに少しずつ重点が異なっている。
今年は、死者を踊るときにでてくる予期しない
多幸クオリアについて書くつもりだったが
昨日主なことは書いてしまった。
だが、それはもっともなことだ。
不可侵と思われている生死の境界を
やすやすと超えることができるのだから。 




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 2012年10月7日

生命の多次元共振性


ビザ=国家への囚われ


日本でインド雇用ビザを申請して、延々と書類の訂正を命じられ
ついに時間切れで断念せざるを得なかった、
悪夢のような国家と関わった2ヶ月の夏が終わった。
日本では予想もしていなかったダビッド・ザンブラーノや堀川久子さんらと
十余年ぶりの親交を取り戻して幸せだったが、その裏面では、
日本とインドを隔てるビザ=国家問題に向き合っていたわたしの
基本モードは反国家闘争の山沢夙だったろう。
自爆しそうなくらいの怒りと苦渋がからだの闇の底で渦巻いていた。
それがほとばしり出る瞬間に身をかわして、暴発しないように
細心の注意を払い続けることが必要だった。
若いころのようなヘビースモーカーとなり、
からだじゅうに警鐘のように毒を回し続けていた。
指圧の遠藤喨及師の言葉を借りれば、
「邪気」に満ちたからだになっていたのだろう。
世界中の悲惨な写真を集めてアップロードを続けていた。
だが、インドに帰ってきてなんだか、バランスが狂っていたことに気づいた。
特に、この記事の前項の「コーボディの深淵」がひどく偏っている。
そういう悲惨や不幸を過剰に晒してはならないのだ。
ビザ=国家問題に囚われすぎて、
それとは異なる面をあまりに無視しすぎていた。
命は多次元に共振しているので、どんな不幸や不運の中にも
正反対のクオリアがいくらでも輝いている。

フラマン細胞の幸福


極端な例になるかもしれないが、不幸のどん底でさえ命は
たとえば上に載せた多幸感に満ちたベリーズ工房のビデオのような
クオリアも同時に味わっている。
いや、その程度の二面的な対極性ではなく、微細に感じれば、
生のどの瞬間にも多次元に輝くカラビヤウの虹が散りばめられている。
絶望、至福、悪夢、ユーモア、死滅、再生、希望、苦渋、おちょろけ、
非望、オルガスムス、戦闘、祝祭、眠り、恍惚
、などなど
無数の多次元クオリアが共振している。
それを忘れたら嘘になる。
頭だけだとひとつの傾性に囚われてしまいやすい。
ヒマラヤに帰って、久しぶりに共振塾の生徒となって踊った。
からだが動き始めるとどんな惨めな25年間寝たきりの
フラマンの動きにもめくるめく歓喜があることを知った。
長年動けなかったからだが、ほんの少しでも動けることは
奇跡的な幸福なのだ。
極限まで衰弱したフラマンの細胞が恍惚にむせ返るほどになった。
からだを離れて飛び立つ魂がある。
頭を誰彼なしの股ぐらに突っ込み、母の死と恍惚を踊り、
自分の股ぐらからいろんな生き物を出産する地母神にさえなった。
踊るなかでリゾームのからだが戻ってきて教えてくれた。
この夏、命の多次元性をすっかり忘れていたことを。



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2012年10月1日

コーボディの深淵


昨日、台風17号が通過した。
何十年かぶりの台風体験だ。
台風が来るとわたしの下意識が騒ぎ立つ。
嵐の襲来に備えて、アドレナリンモードになる。
その中でアンリ・ミショーの絵画から、
インクのしずくで群れを描いた絵ををピックアップして眺めていると、
洪水や、津波、船の転覆に巻き込まれて溺れる悪夢がぶり返してきた。
わたしは小学校時代を和歌山の海南という海辺の町で育った。
遠浅の干潟で毎年春、潮干狩りを楽しんだ。
秋は台風銀座だった。
その海は毎年台風が来ると高潮となり陸を呑み込んだ。
町中の半分は毎年床上浸水を繰り返していた。
わたしの棲む町の名は「日方」。
もともと「干潟」だったことを表している。
両隣町の名も「内海」と「黒江」、そこは干潟どころか海だったのだ。
黒江は毎年海が真っ黒になるくらい海苔が流れよせる
海苔の養殖が盛んな町だった。
少年期に津波にさらわれる悪夢をよく見た。
溺れながら、向こうの方にクラスの女の子が浮き沈みしているのが見える。
助けねばと泳いでいくが波にさらわれて成功した試しはない。
40年前、新潟から佐渡へフェリーで渡るとき、
船底の二等席で眠ったときも、船が沈没する夢を見た。
船が沈もうとするとき、わたしは我を忘れて、
みんなに救命胴着を配る。
そして、配り終わって気がつくと自分の分が残っていない。
(これはまずい!)と、夢のなかでわたしは夢を巻き戻し、
最初にまず自分の分を確保した上で、みんなに救命胴着を配る。
夢の中まで、ちいさな自我が出てくる情けない味の夢だ。

人災、天災などの災害、天変地異や、戦争、騒乱などに巻き込まれたとき、
わたしたちはひとしなみにコーボディとしての生命になる。
巻き込まれた運命のなかで、コーボディとサブボディの間で激しく揺さぶられる。
われを忘れて働く自分と、自分を守ろうとする自我に引き裂かれる。
1970年前後の反体制デモや内ゲバの騒乱の中でもそれを味わった。
その中でたしかに自他分化以前の非二元の命にふれる瞬間がある。
からだが深部から奇妙に高ぶった非自我あるいは群れのからだに変成する。
それがおそらく、わたしがサブボディとコーボディの間の謎に直面した最初の体験だ。
群れのからだとは何なのか。
個のからだとは?
自我とは、そして非自我とは?
命とは何なのか。
非自我と自我、群れとしての自分と個としての自分のもっともよい共振とは何なのか。
下意識のからだにも、共振するコーボディと、
まだよい共振のしかたを知らないサブボディがある。
明確な答えなどない。
その両者の間を往還するなかで、
命のまだ解かれていない謎の深淵を体験することが何ごとかなのだ。

共振塾では昨年の3.11以来、毎年、フクシマを追体験してきた。
大地震、津波、原発事故に巻き込まれた生命や、
放射能に汚染された海の底の生命になりこんできた。、
無意識の衝動が、そうせざるを得ないと海の底に引きこんだ。
この夏のスイスのワークショップでも初日からフクシマに巻き込んだ。
参加者の中にはなぜ、こんなひどい体験をしなければならないのかと
ショックを受け、傷つき、いぶかる人もいた。
だが、ひと月の間にじょじょに忘れていた固有の悪夢の
深淵に降りる坑道を見つけてくれた。

土方の「静かな家」の舞踏譜でも、
嵐や災厄の襲来による世界=自己像の変容が捉えられている。
そここそが、内部と外部の仕切りが消え、
生と死との二元的な境界を超えて、
異次元と交感する特異点であることを知っていたのだ。


嵐が過ぎ去った朝、もう誰も私を訪れない←私は立った

武将がそのまま巣になっている

こういう部分に関る体で嵐の襲来を待ち受けている、

 まるで嵐がくる事を予感した子犬や、スプーンやホタルのように。

 

その時は、背後に爪がザックリとささり、ゆくえははぐれて育ち、

  新たな還元により、小さなマイムがそこに誕生していた。

 内部が外部へあふれ出し、あふれ出していったものが仮面の港へ

  帰ってくる。仮面は森のなかへ船出をするのだ。


小さな顔で歩く盲はまるでサルのようだ。猿の頭に落雷。  

  頭の中に小さな花が咲く、糸つむぎの唄が聞え出す。


もう一つの特異点は、祭だ。
今は薄れたが、ハレとケがくっきり分かたれていた近代以前では、
日常の規矩のなかで生きるケの時間におけるめくるめく節度を破り、
ハレの日の祝祭空間で人々は、非二元共振するコーボディに変容した。
「静かな家」でも第3節「灰娘」は、生者・死者・瀕死者、虫、
魂と精霊が寄り集う祝祭空間で踊られる。

3 「灰娘」
魂と精霊

ゆくえ

もうだれも訪れない

もう誰も眠れない

○かんの花

○過度の充実が来て彼女はとほうもない美しい者になった

○死者達のさまざまな習慣を覚えた

○馬肉の夢

○座しきから引き出されてきた男

○イスに座って狂った大人子供=ケダモノ

○裸でカンチェンの出だしを踊る

○フラマンの寝技をつかう

○嵐が来た朝

○物質化



からだの闇を掘れ。
奇妙な特異点を探せ。
内部と外部、
群れと個、
自己と他者、
サブボディとコーボディ、
生と死、
それらの二元的な区別が消失する瞬間を狩れ。
そここそが深淵へ坑口なのだ。



 
 ダビッド、ミショー、土方のコーボディ

ダビッド・ザンブラーノの記事と、ミショーの記事をアップロードしようとして
突然、不思議な共時性が起こった。
ダビッドのパッシング・スルーのフラッシュモブのビデオと、
ミショーのインクのシミのような絵画が強く共振し始めた。
そうか、この二人はどこか共通した人間認識を持っているのだ。
それは土方が創造した優れたコーボディの動きとも通じる。
彼らは皆、個人としての人間だけではなく、
コーボディの深層に気づいていたのだ。
個と群れの間や、自他の間にある境界を超えて
非二元の生命の美と面白さ
に気づいていた人たちなのだ。
(土方の優れたコーボディは「疱瘡譚」のビデオで垣間見ることができる)

2012年9月30日
DZ2
ダビッド・ザンブラーノのパッシング・スルー


新潟滞在中、堀川久子さんが招待したダビッド・ザンブラーノの
フライング・ローとパッシング・スルーのワークショップを
10年ぶりにこころゆくまで楽しんだ。
「この十年で何か変わったかい?」とたずねると
「やってることはほとんど同じだ。でも自分がやりたかったことが何なのかが
随分くっきりしてきた。」と答えた。
10年前までは彼のワークショップはフライング・ローと即興のクラスで構成されていた。
当時からパッシング・スルーという言葉は即興のクラスで、キーワードのように
頻繁に使われていたが、いまではそれはフライング・ローと並ぶ
二本柱に成長してきた。
パッシング・スルーは、フライング・ローが
垂直次元でからだと地面とのあいだでエネルギーのやりとりを
透明にすることが本意であるのに対して
水平次元で、人と人、人と空間の間に透明なエネルギーの通り抜けが起こるように、
大中小のサイズのカーブで動き出しカーブで止まる動きを基本にしたものだ。
今年のパッシング・スルーのクラスでは10年前の即興クラスになかった
幾つかのくっきりした要素が加わっていた。
それらの要素とは静止の共有、空白の共有、そして群れの動きの共有である。

10年前当時の彼の即興のクラスでは、
生徒たちに自由の踊らせると、きまって場の真ん中で踊る人でごった返し、
団子になるのが常だった。
西洋社会で強い自我や自己を刷り込まれている生徒たちは
競って自分を誇示したがる傾性をもつ。
子供のような<見て、見て自我>がごった返す即興はいかにも暑苦しく見苦しい。
しかもかれらは静止をしない。踊りつづけるだけだ。
そこでかれは、今回の五日間のワークショップの二日目には
<最低一度は全員が同時に静止する瞬間を共有すること>
というルールを付加した。
そして、二日目には、
<最低一度は全員が場から出ること>というルールを付加した。
三日目にはさらに、
<最低一回は、全員が同じ方向に動くこと>
という要素が加わった。
この3つの要素を入れるだけで、踊り手はいつも自分だけではなく
場の全体に耳を澄ますことが必要となる。
自我や自己の表現だけに関わっていることができない仕組みを見出したのだ。
だからこそわたしにとってダビッドは、ジャンルは違っていても、
10年に一度しか会えなくても変わらぬ同志である。
自我や自己からの解放という同じ課題を、別個の道を通じて追求し続けている同志なのだ。

わたしは、ワークショップの最中、
パッシング・スルーを心ゆくまで楽しみながら、
同時にこの「パッシング・スルーの次はなんだろうか」という問いを
思いめぐらしていた。
いまは抽象的な運動エネルギーが通り抜けることが基本になっている。
この抽象的なエネルギーの代わりに
<さまざまなクオリアが通り抜ける>とすれば、
共振塾のサブブディ・コーボディ技法とほぼ同じになる。
しかも、<さまざまな速度や、サイズや、強度や密度で>という
バリエーションを入れればなおさらそうだ。
ダンスと舞踏の差異は、使うクオリアが、日常的な人間のものか、
非人間的なクオリア、生命が共振しているクオリアすべてを使うか、という点にある。
それらの無限のクオリアが、無限のサイズ変容、速度変容、密度や強度変容を
しながら、踊り手の心身を通り抜ける。
それが舞踏だ。
わたしはダビッドに「次はなんだ?」という問いを問いかけてみようとしてやめた。
彼のワークショップでは、抽象的なエネルギーの通過に限っているが、
彼のソロを見れば、それだけではなく、無限の多様なクオリアが
かれのからだを通り抜けているのを目にしたからだ。
彼の踊りはダンスと舞踏の間の障壁を乗り越え、
いつの間にか透明な必然の踊りを踊るところにまで深化していた。
それについては長くなるので別項で書くことにしたい。

先の問いの代わりに、
「この五日間で、最後にはフライング・ローとパッシング・スルーが
ひとつになるかと思っていたが、やっぱり五日じゃ短かすぎるんだね。」
と問いかけた。
「そうだ。五日じゃ無理だ。」
「最低何週間かかる?」
「十週間だね。」
「十週間も続けることがあるの?」
「一度だけ、コスタリカでね」
その模様は「コスタリカの50日」というタイトルで
YouTubeで一部を見ることができる。
そこではフライング・ローやパッシング・スルーにかぎらず、
いろいろやりたいことを盛り込んでいたようだ。
わたしは信じることができる、かれもまた自分の命に
「一番やりたいことはなんだい?」と問いかけ続けていることを。
それを続けている人だけがついに必然の踊りに到達することができる。


参考 DZ1 「なぜ、ダビッド・ザンブラーノに深く共振したのか?」

 
 二回目のパフォーマンスの大綱(人物はワークショップ参加者の鈴木さん)
2012年9月27日
DZ3
ダビッド・ザンブラーノの透明体

新潟滞在中、ダビッド・ザンブラーノは三回踊った。
一回目はチェコ出身の音楽家イヴァとの即興デュエット、
二回目は新潟市の「水と土芸術祭」のメイン会場である
旧水揚げ場の大空間に展示された船舶曳航用の大綱を何十本も円筒状に吊るした
美術作品とともに、
三回目は港埠頭の広場で最後のソロを。

一回目のイヴァとのデュオは、ヴァイオリンを弾きながら歌いながら走りながら踊る
イヴァとの奇想天外な即興を見せて楽しませてくれた。
わたしも彼と何度も踊ったから分かるが、
ダビッドは相手がどこでどんな動きを見せようとも、
いつもそれと絶妙に共振するベストポイントでベストの動きをしている。
「即興は人生だ!」という彼の磨きぬかれたリアルタイム共振を見ることができる。
愛とはもっともよい共振方法を見つけることだとすれば、
ダビッドの即興は愛に満ち溢れている。

二回目の大綱のオブジェ(上図)で踊ったとき、わたしは心底驚かされた。
公演が始まる定刻前からわたしは大綱の前に座って瞑想しながら待ち受けていた。
しばらくしてもうすぐ始まるだろうと思われる頃、
一人の黄色いレインコートを着た老婆がひとり、
大綱の中に入ってよぼよぼと動いているのに気づいた。
私は思わず、
「ああ、おばあちゃんもうすぐここで踊りが始まるよ」
と声をかけようとした。
その瞬間あっと驚いた。
その衰えた老婆に見えた人こそダヴィッドその人だったのだ。
ダヴィッドは、身をかがめ、地面に垂れた大綱の上を危なっかしくよろけながら渡っている。
(あっ、ダヴィッドは老衰した母親になり込んでいるのか)と感じた。
どんな舞踏家も見せたことがないほど見事な衰弱体だった。
(いったい、いつの間にこんな技法を身につけたんだ?!)
力強く飛んだり跳ねたり床を転がったりする十年前までのダヴィッドを
見てきたわたしには想像もできない変貌ぶりだった。

三回目の港埠頭での踊りを見たとき、その変貌の必然が腑に落ちた。
そこではダビッドは練習着でその広場に現れ、軽快に走りだした。
自在に空間をよぎり、あらゆる方向からのエネルギーが
彼のからだを通り抜けるのが見える。
(ああ、これこそ昔からのダヴィッドのパッシングスルーだ)と安心すると同時に
(十年も同じことをやり続けているのかい?)とすこし不満も感じていた。
だが、十分ほど走り回った後、かれは衣裳をインドの民族衣装に着替えた途端、
ギアがチェンジした。
突っ立ったダヴィッドの右手の指がピリピリと微細に震えている。
(ああ、ここからが本番の始まりなのか)
終わったあと彼は、はじめの10分は公開のリハーサルだったのだと聞かされた。
彼はスタジオでのリハーサルなどしない。いつもその場で行うという。
そこからの展開は微に入り細に入り、無数の異様なクオリアが彼に襲いかかり、
通り抜けていくシリアスな展開となった。
ときに困難なプレッシャーを受け、身をよじってそれに抗い、逃げ出そうとする。
激しいプロテクトとプロテストの息つく暇もない連続だった。
一緒に見ていたワークショップに参加した女性は泣きそうになったと涙ぐんでいた。
彼の踊りからは、彼の父母や祖父母、ベネズエラの貧しい民衆が
世界から受けてきた苦難とそれに翻弄されつつ生きる姿が透けて見えた。
ワークショップの中では彼は抽象的なエネルギーがパススルーする
からだになるようにガイドする。
だが、自分のソロではそればかりではなくありとあらゆる種類のクオリアを引き受け
彼のからだを通そうとしている。
通そうとして通り抜け難いクオリア、
からだのうちから襲いかかってくるクオリア、
父母の苦難、祖父母の歴史、が降り掛かってくる。
ときにうずくまり震えるだけのクオリア、
最後はそういうちいさな震えだけのからだになって終わった。

踊り終えたあと、ダヴィッドは短い話をした。
堀川久子さんが翻訳した。
彼のほんとうの名前は「ジーザス・ダヴィッド・ザンブラーノ」という。
ジーザスは言うまでもなくキリスト教の、ダビッドはユダヤ教の聖者の名前だ。
彼の両親はそのふたつの重い名前に、牧師だった彼の祖父の跡を継いで
牧師になるようにとの願いが込められていた。
だが、彼はその期待に背いてダンサーになった。
彼のからだの闇には両親の思いに応えられなかった
自責の念が渦巻いていたに違いない。
彼はこの十年の変貌の中で、彼の踊りをじょじょにどうしても踊らねばならない
必然の踊りに深化させてきた。
それは彼のふる里の民の苦難をすべて背負って踊る、透明な祈りに近いものになった。
ダビッドは人々の透明な媒体に変容したのだ。
踊りの深化とは微細化と重層化、そして固有度と透明度を深めることにある。
ダヴィッド・ザンブラーノのこの十年の見違えるような変貌の中には
それら4つのメルクマールがすべて含まれている。
古い友人の必然の深化を目のあたりにすることほど力づけられるものはない。
ダヴィッドの踊りは深くわたしの命に刻み込まれた。
そうだ。踊るならば、こういう踊りを踊るしかないのだ。
わたしもまた、わたしの必然を深めよう。
ダヴィッド、ありがとう!



参考 DZ1 「なぜ、ダビッド・ザンブラーノに深く共振したのか?」

 
 Popol Vuh
2012年9月22日

元型と創造

共振日記にケスリとポポルブーについて書いた。
グアテマラ出身のケスリがポポルブーイベントをすると聞いて、
グーグルでポポルブーの画像を検索していたとき、
去年、ケスリがヒマラヤの山で踊った踊りが二重写しに浮かんできた。
なにものかに追い詰められて地下の洞窟に生き埋めにされそうになる。
ほうほうのていでそこから逃げ延びるという踊りだ。
グアテマラに伝わるマヤ神話であるポポルブーにも、
似たような話があるのを発見して驚いた。
日本神話にも、古事記でイザナギが死んだイザナミに会おうとして
黄泉の世界に入ったとき、死の世界に取り込まれそうになって、
這々の体で逃げ延びるというよく似た展開がある。
世界中の成人儀礼にも通じるものだ。
元型の中に現れる人類の祖型情動や行動は、
舞踏創造にとって重要な創造の宝庫だ。
踊っている間に知らず知らず元型の世界が降りてくるときがある。
わたしも「伝染熱」を創っているとき、予想もしなかった
「かぐや姫」伝説と「安珍清姫」伝説の世界に巻き込まれた。
必死でその物語と闘って飲み込まれないような奇抜な展開によじり返した。
元型世界に巻き込まれたとき重要なのは元型が人を喰う強烈な力と闘うことだ。
無意識の元型にはおそろしく強い拘束力がある。
典型的な物語の帰趨に巻き込もうとする。
頭で考えてそれを踊ろうとすれば元型に喰われてしまうだけだ。
元型に喰われて、神や女神やヒーローになったつもりで
いい気になっている無残な踊りを腐るほどみてきた。
そうではなく、元型が降りてきたとき、全力でその拘束力と闘い、
それをよじり返して固有の創造に転化することが大事だ。
喰うか喰われるかの命がけの闘いが避けられない。
だが、それを乗り越えてはじめて創造が世界でたったひとつの秘密になりうる。
その<よじれ返し>の極意を心得てください。



 
2012年9月19日

すべての新旧共振塾生への手紙 2

きしみのクオリア、不具合のクオリアを探る。
それが衰弱体の必然に出会う坑道だ。


前の手紙1では、誰もが出会う主なサブボディ・コーボディに触れた。
サブボディ・コーボディの旅はそれだけでは終わらない。
もっとも見逃しやすい、ほんのささいなクオリアに
深淵(アビス)への坑道の坑口が潜んでいる。
ここからさきは、自らを業火の中に放り込む、
舞踏家自身の内的闘いによって切り開くしかない無窮道、
深淵へ続くアビス坑道なのだ。
衰弱体への内的必然はこの闘いの中で出会うことができる。


軋み体

からだの一部にみょうなきしみを感じる
思い通りに動けない
動こうとすると、変な方向にずれていく
何かに押しつぶされているように感じる
言葉ではとらえようのないほどかすかな違和感

「きしむからだってどんなだろうねえ?」
若いころ、土方が元藤さんにひとりごとのように
呟いたという。
秋田から東京に出てきた土方にとって
東京で出会うものはみな何かしら自分のからだを軋ませるものと
感じられたに違いない。
わたしも少年期に和歌山から大阪に出てくるだけで、
人の国からロボットの国に来たかのような違和感と疎遠感を感じた。
まして当時の秋田から東京の落差は計り知れないものがあっただろう。

「脳みそを金属棒でかき回される芸者」

これは東京の人々に対する土方自身の実感だった。
若年期に接したモダンダンスやバレエの因襲の世界に住む人々が
土方の型破りの踊りに向けた容赦無い嫌悪感は、
ロボットが人間をなじる行為に思えただろう。
そして、東京の暮らしが年数を増やすに連れ、
だんだん自分のからだもまた、都会の人のように
金属棒でかき回され操られるように感じられてくる。
世界からの直接の圧力だけではなく、
もっとかすかな内側から歪んでいくような気味悪さを無視しないことだ。
私たちの日常のからだは、自分の中にすこしでも変なものを感じると
直ちに無視し、ないものとして処理してしまいがちだ。
その大雑把な自我機構を停止すること。
そこからだ、深淵への旅が始まるのは。


不具体

五感や運動機能の一部が不具合を起こす
こころの反応が異常を示し始める
からだやこころの一部が変形したまま固定してしまう

こんにちでは差別用語として葬り去られようとしている言葉に、
めくら、つんぼ、おし、きちがい、ちんばなどの
不具をあらわすものがある。
近代社会はそれら各種の障害を持つ人々とともに
それらをあらわす言葉も一緒に社会の表面から消し去ろうとしている。
そして、それらはないものとして扱われ、
社会はそれらの障害のない健常者ばかりで構成される
嘘寒いものに変成しようとしている。
それは差別ではなく、それより恐ろしい抹殺なのだ。
ダンスもスポーツも若く健康な男女が躍動する
一面的な美だけがもてはやされる。
それらは幼い美なのだ。
飛び跳ねる自分の動きだけが
世界の中心、美の規範だと錯覚している。
自我に囚われた美の醜さを知らない。
そういう美の規範を脱ぐこと、
自我や自己の境界をとりはらうこと、
臆せず、不自由なからだ、障害を持つからだに共振して成り込むこと、
そうすれば世界にいかに多様な豊かな美が氾濫しているかがわかる。
それこそが舞踏が切り開いた新しい美の世界なのだ。


衰弱体

からだのあちこちがうまく動けなくなる
動こうとしても思いの半分以下しか動けない
立っているだけで精一杯のからだになる
動けないからだから、動きたいという希求が
からだを離れて飛び立とうとする
自由に動く魂に動けないからだが追いすがろうとする

土方がついに到達した衰弱体は、
からだの動きだけではなく、そこから離魂する魂の動きをも踊ろうとするものだった。
からだの闇に棲む死んだ姉と一つになろうとする土方の希求が見出した
衰弱体の必然である。

からだの動きだけに囚われていては、魂を踊ることはできない。
誤解のないように言っておくが、ここで言う「魂」とは実体ではない。
生命のクオリア共振そのものなのだ。
魂や精神と呼ばれるものも、死者も、
この自他分化以前の非二元の世界における生命共振クオリアにほかならない。
人間は、自我や自己に囚われた「人間」という借り着を脱いで
自他の境界を超えて共振する生命になる必要がある。
それだけが真に差別や暴力や戦争をなくす未来を切り開く道である。

注意事項


前項でも触れたが、ありとあるサブボディ・コーボディになりこむ過程でであう
大きな問題がある。それは、

生まれたてのサブボディは、まだうまく共振する仕方を知らない

ということだ。
とりわけ、長い間不自由なからだや
暗く狭いからだの闇の洞窟に潜まざるを得なかった
サブボディは、出てくるときまるで生まれたての赤ん坊のように
泣き叫び、荒れ狂いながら出てくる場合がある。
か弱い赤ん坊は泣き叫ぶことによってしか
生き延びる方法を知らない。
容赦なく周りの人を振り回してやまない。
<赤ん坊権力>と呼ぶ。
一部のサブブディはこの<赤ん坊権力>を振り回す
未熟な自我をもっている。
振り回そうとしないまでも、「見て見て、わたしを見て」という
<見て見て自我>を持っている。
踊りを研ぎ澄ます場合は、これらの未熟な自我の発露をコントロールし、
それらに最適の登場のタイミングを見つけてやる必要がある。
最適の序破急さえ見つかれば、どんな一見醜いものでさえ
世界でたったひとつの花となり、謎となり、秘密に転化する。
踊り手は自分の、そして他の人のサブボディの産婆として
あらゆるものがもつ、たったひとつの最善の序破急を見出す必要がある。
それがあらゆる醜さ、悲惨さをさえ、美に昇華する舞踏マジックだ。
舞踏が一生をかけて研鑽練磨し続けなければならないものであるのは、
この習得に無限の時間がかかるためだ。

前項の結びをもう一度繰り返す。

あらゆる生命現象を共振として捉え返し、感じ直すこと。
それを続けていけば、どんなサブボディ・コーボディにも
かならず最適の共振の仕方がみつかるはずだ。
それを見つけるまで探求しぬくのが創造という営為である。


いついかなる場合でも、
どんな奇妙なサブボディ・コーボディが出てきたとしても、驚かないこと。
まして、拒否しないこと。
たとえどんな苦しいエッジ・クオリアに出会ったとしても
そのエッジとの最適の共振方法を探ること。

あらゆる生きとしいけるものに、生存の道を見出してやること。
からだの闇のことは、私たちはまだ百万分の一も知っていない。

それらによい共振の仕方を見つけることが愛なのだ。



2012年9月18日

すべての新旧共振塾生への手紙

サブボディ・コーボディの多様性と
それらのよい共振のしかたを見つけること


サブボディもコーボディもからだの闇に棲んでいるもうひとりの自分だ。
意識を止め、下意識モードのからだになると、
からだのどこかからかすかな下意識の動きが出てくる。
それにからだごと乗り込んでいくと、それがサブボディ・コーボディになる。
サブボディ・コーボディは無数にあり、性質も実に多様だ。
とりあえず、下意識のからだをサブボディ、
共振するサブボディをコーボディと呼ぶ。
だがその区別はないに等しい。
サブボディはいつどこでも共振モードになってすぐさまコーボディに転化する。
共振しているコーボディから、剥がれるようにサブボディが出てくることもある。
きょうは、さまざまなサブボディ・コーボディを概観し、
その多様なあり方とそれぞれの特性をみていこう。

ゆっくりと動くやつ
ほとんど動こうとしないやつ
ふるえたり、うねったり、くねったりするやつ
どこか狭く暗い安全な穴にこもったまま出てこようとしないやつ
小さく縮こまっているやつ
ただただゆらいでいるやつ


これらは原生体のサブボディに分類しうる。
人間以外のアメーバやプランクトン、クラゲやウミウシ、ヒトデなどの
動きに近いサブボディ・コーボディたちだ。
私たちは生まれる前10ヶ月間、人間以前の進化段階を子宮内で体験している。
その経験が下意識からでてくるとき、これらの原生体になる。

自分の知らない奇妙な人格をもつサブボディ
自分のアイデンテティとは正反対の性格を持つサブボディ
人見知りだったり、内気だったり、その逆だったりする


これらは異貌体と呼ばれるサブボディ群だ。
幼い頃に瞬間現れようとして、うまくこの世に出現できなかった人たちだ。
親や教師など重要人物に承認されないまま、無視され、
そのままからだの闇に潜んでしまった人たちだ。

これらの異貌体系のサブボディに共通するのは、
うまく共振する方法を知らないことだ。
また、幼年期の自我がまだ確立しない時期に生まれそこなって、
小さな未熟な自我を持っているのも特徴のひとつだ。

自分の生物的な性とは異なる異性のサブボディ
自分のメインの性的傾性とは異なる傾性をもつサブボディ
現在とは異なる年代(幼児期や乳児期、少年期など)の性的特性をもつサブボディ

大まかに男性の場合は女体、女性の場合は男体と呼び、
あるいはアニマ、アニムスと呼ばれうるものもあるが、
それらには分類できないユニークな傾性をもったサブボディ・コーボディも数多い。

獣や鳥のような動きをするやつ
蛇や亀や虫や魚やユニークな想像上の生物の動きをするやつ

これらは獣体に分類されるが、原生体との区別は定かではない。

植物のようなゆっくりした時間で動くやつ
草や木のように静かにたたずんでいるやつ


名付ければ植物体ということになろうか。
動物以外のさまざまな生物の特性のサブボディ・コーボディがある。

石のように固まったまま動かないやつ
いつまでも硬化しているやつ
最小限のサイズに縮小しているやつ

これらはボトム体と呼ばれる。
ときに変幻自在なサブボディがいっとき休むために
ほかのサブボディがこれらのボトムになりこむ場合もある。

空気か風のように姿形を持たないサブボディ
姿を待たないままさまよい続けるやつ
どこか、ここではないどこかへ遊離してでていこうとする傾性を持つサブボディ

これらは気化体と呼ばれる。
魂や精神そのもののような特性をもつ場合もある。
無限変容する死者もまた多くの場合気化しており、
時に応じて任意の物の形を借りて物質化する。
物質と透明な非物質の間に無数のバリエーションがある。
サブボディの本質はクオリアだからである。

その他、もろもろの言葉では分類不可能なバリエーションがある。
ときにからだの一部だけが特定のサブボディ・コーボディに変成する場合も多く、
名づけようもないものがほとんどである。

さまざまな神話や物語のなかの存在が出て来る場合もある。
太母、地母神、神や仏、悪魔や妖怪、天使や妖精、老賢者や少女・少年、
トリックスター、などなどの元型が出てくるときもある。
元型には、これらの人間の姿に似た元型だけではなく、
海や嵐、天国地獄、洪水や地震といった天変地異などの気象や
外界の状態になりこむ世界元型も数多い。
狩りの群れ、動物の群れ、逃走や戦闘状態の群れなど
群れの元型がコーボディになる場合も多い。


元型体である。
総じて元型の探求はまだ始まったばかりであり、
私たちにとって未知なものがほとんどである。

からだの各部に異なるクオリアが宿り、
それぞれ違った動きをはじめる場合もある。

キメラ体である。
ほとんどの元型はキメラの性格を有しており、
いくつもの元型がひとつのからだに同時に出てくる場合も多い。

自分ではないほかの生物や人格がのりうつったかに見える場合もある。
自分でコントロール出来ないほどの強い勢いで出てくる場合もある。


憑依体と呼ぶ。
太古から訓練を積んだ人物が共同体の要請を引き受けて
巫女やシャーマン、トリックスターなどの憑依者となった。
あらゆるクオリアと共振することのできる舞踏者にとって
憑依は数々の共振パターンのうちの特殊な形態にほかならない。

注意事項


これら以外の分類など不可能なサブボディ・コーボディも含め、
それらと友達になる上で、重要な注意事項がある。

サブボディの多くは、まだうまく共振する仕方を知らない

という点である。
からだの闇に耳を澄ませて、
サブボディの出現する最適のタイミングを見つけてやることだ。
それが産婆、自分のサブボディに対する産婆としてのきみの役割である。
どんなサブボディも最適の序破急さえ見つかれば美、
すなわち花や謎や秘密に転化することができる。

まだうまく共振する仕方を知らないサブボディに
最善の共振パターンを見つけてやること。
とりわけ、異貌体や憑依体は、
親や世間に対して出生時の事情で怨みや悲しみを抱いたまま
それにとらわれている場合が多いので細心の注意が必要だ。

あらゆる生命現象を共振として捉え返し、感じ直すこと。
それを続けていけば、どんなサブボディ・コーボディにも
かならず最適の共振の仕方がみつかるはずだ。
それを見つけるまで探求しぬくのが創造という営為である。


いいかい。
これから伝えることは、わたしが63年の人生で見つけたもっとも大事なことだ。

いついかなる場合でも、
どんな奇妙なサブボディ・コーボディが出てきたとしても、
驚かないこと。
まして、拒否しないこと。
あらゆる生きとしいけるものに、生存の道を見出してやること。
からだの闇のことは、私たちはまだ百万分の一も知っていない。

それらによい共振の仕方を見つけることが愛なのだ。



2012年9月14日

緑の光線

新潟の海岸で半日海を見て過ごす日が続いている。
さいわい宿舎近くの海辺に広い芝生と屋根つきのテーブル・ベンチのある
練習に格好の公園が見つかったので、調体や探体にはこと欠かない。
日がすこし傾いてから芝生でたっぷり動く。
10年ぶりのダビッド・ザンブラーノのパッシング・スルーを一週間続けたおかげで
からだがよく動く。
動きながら、新しい調体法やサブボディ・コーボディの練習方法がこんこんと湧き出てくる。
ヒマラヤに帰れる日が待ち遠しい。
夕方には海岸から海に突き出ている100mほどの防波堤の先端まで行き夕日を眺める。
そこは直径10mほどの円形の舞台になっていて釣り人たちの溜まり場になっている。
その突端に立って、打ち寄せる波を眺めていると、
からだの闇が波のうねりと共振して不気味に蠢き出す。
からだの闇で原初生命が海でただよい続けていたクオリアが活性化されるのだ。
もし、もう一度生まれ変われたら、こんどは海辺に共振塾を創ろうと思う。
突堤の円形の舞台に寝転ぶと、なんと大海原に出たかのような
360度の全天が目に飛び込んでくる。
63年生きてきてこんなに爽快に全天と共振できる場所は生まれてはじめてだ。
昨日は雲ひとつない快晴だった。
そして、夕日が沖の佐渡ヶ島に沈んでいくのを見ていたとき、
太陽が切り立った佐渡の山並みのV字型の底の一点に沈んでいった。
そして、なんとV字型の谷の底に太陽が沈みきる最後の瞬間、
V字型の底から強烈な緑の光線が目に飛び込んできた。
長い間見たいと思っていた緑の光線にやっと出会うことができた。
ある説では澄んだ空に朝日が出る直前にも緑の光線が見えるこおtがあると
聞いていたが、それはまだ見たことがない。
日没の瞬間の緑の光線を目にしたのも63年間ではじめてのことだ。
だが、いったい緑の光線とはなんだろう?

あらゆる現象を共振として捉え返す

もちろん太陽光が突然変化するわけはないので、
それは長時間赤色光を見続けていた視神経細胞が、赤色光が消える瞬間に
補色反応にジャンプして、視神経から脳に緑色クオリアが伝わったに違いない。
それはごく普通の視神経細胞特有の生命反応なのだ。
昨日はたまたまV字型の谷底に沈んだので、最後の瞬間に太陽光が点になり、
消える瞬間赤から緑への特別くっきりした補色反応が起こったようだ。

意識は<主体>という幻想に囚われてしまっているので、
目に映るものすべてを<わたしが見た>と思い込む。
そして見えたものを<実体>と信じこむ。
だが、それは幻想にほかならない。
見えているものが見えている通りの色をしているわけではない。
鳥や虫は紫外線も感知するのでまったく別の色に見えている。
ものが赤から紫の間の色に見えるのは人間の視覚特有の共振パターンにほかならない。
補色反応が起こるのも人間特有の共振パターンだ。

意識を止め、下意識や生体で起こっている現象すべてを共振として捉え返し、
感じ直す訓練を長く続けてきた。
突然強烈な白色光が目に飛び込んでくると、瞬間真っ暗闇に目がくらむのも、
意識が衰弱した状態で山中を歩いていると樹の幹が人の顔に見えたり、
木枝のゆらぎに人や幽霊の気配を感じて瞬間おびえるのも、
下意識に刻印された人間特有の<元型>的な共振パターンにほかならない。
命が感じる共振パターンの多種多様なあり方を探求し続けていると
日々無限の発見が訪れる。
そして、<自我>が囚われた<主体幻想>を少しずつ相対化していくことができる。

生命に起こるあらゆる現象をクオリア共振として捉え返し、感じ直すこと。
これはあらゆる人に勧めることができる。
自我という幻想から解放され、生のままの生命のありように近づいていく
生存方法の革命の道である。
そのための誰にも共振を感じ取れるような道筋を発掘することがわたしの仕事だ。

見ることも、聞くことも、臭うことも、触れることも、動くことも、
<わたし>という主体がそうしているのではない。
すべては細胞生命と環界の間で、
そしてからだを構成する百兆の細胞生命の間で起こっている生命共振なのだ。
もっと言えば、百兆の生命細胞が生命記憶として保存している内クオリアと、
今現に起こっている物理的な外クオリアとの、多次元。非二元な共振なのだ。
その共振パターンは無限にあり絶えす変容している。

非二元のからだの闇を安全に旅するには、あらゆる現象を共振として捉え、
感じ直す技法は欠かすことができない。
さもなくば流布しているもろもろの共同幻想
(=オカルトや神や霊や宗教やニュースピリチャリズムなど)に絡め取られてしまうからだ。
それらはみな起こっている生命現象を何か架空の実体との関係で捉えている。
見えないものを実体化するのは太古の人類以来続いている生命共振に対する誤解だ。
そんな実体があるのではなく、起こっているのは生命共振なのだ。
わたしも説明の便宜上、魂だの背後霊だのという用語は使うこともあるが、
これだけは誤解しないでもらいたい。
それらは実体ではなく、特定のクオリア共振パターンを指す名称として使っているのだ。


(この項は「からだの闇」と「共振日記」の双方に掲載します。)



 
 2012年9月13日

チャンネルの分化以前の非二元クオリアへ

わたしはチャンネル理論をミンデルから学んだ。
ミンデルの場合、視覚、聴覚、からだ、運動、対人関係、世界の6チャンネルだが、
それに踊る場合に重要となる情動と思考チャンネルを加え、
世界チャンネルを、世界像と自己像が密接に絡み合っている
世界=自己チャンネルに修正して、
合計8つの主要チャンネルを開くことをサブボディ技法の骨格に据えた。
当初このチャンネル理論は各チャンネルを順々に開いていくのに
大変有用だったので、共振塾ができてから数年間チャンネルにそって授業を進めてきた。
普段はいくつか少数のチャンネルに固まっているからだを、全方位に開くには役に立った。
だが、2,3年前から、そのやり方がなんだか分析的過ぎて狭苦しく感じられ始めた。
なんだかよくわからないが、なにか違うと感じられはじめた。
そこでチャンネルを意識しつつも背景に沈ませることにした。
そして、むしろ、秘関、秘筋、秘腔、秘液、秘膜などの
各チャンネルが混然一体化したからだの踊り場を開くことに重点を移してきた。

チャンネル理論の新しい活用のしかたが見え出してきたのは
去年あたりからだ。
いちど8つの主要チャンネルを開くことを学んだ上で、
チャンネルが分化する以前の非二元域へ降りていく、
これまでとは正反対の方向の坑道が開かれたからだ。
わたしたち自身、胎児のころは、チャンネルが分化していない。
目も耳も口も皮膚も胎水の中にあってひとつの感覚に溶け合っている。
自己催眠や瞑想の深化によって、
その胎児の頃の非二元的なクオリア流のなかに降りていく坑道だ。
この坑道にうまく降りていくには、
まだうまく言葉にならない微妙な技術が必要になる。
共振塾の授業に参加することができないこの機会に、
なんとかできるかぎりそれを言語化しておこうと思う。

1.祖型情動に耳を澄ます

日常的な人間の感情や動きではなく、
生命としての原初反応的な」祖型情動に耳を澄ます。
これが第一の坑道だ。
それらは意識や思考ではどうにも制御できない。
世界と共振して勝手に蠢いている。
下意識でうごめく祖型情動は体感と動きがひとつに融け合い、
チャンネルをこえている。
土方の「静かな家」にはこれら祖型情動が詰まっている。

「嵐が来た朝

鳥のおびえ、虫のおびえ


密度を運ぶ自在さの中には、めまいや震えや花影のゆれがひそんでいる。

 

指さきの尖たんにメスカリン注射がうたれる。

そこには小さな花や小さな顔が生まれる。

目まい―鏡の表裏へ

叫びと少女―くずれてゆく前のふるえ


背後からも内部からも襲われて、路上の花を摘む

   ふるえて、床にも、空にも、そのはもんは、拡がってゆく」

細胞生命には体感と運動の分化はなく、もちろん視覚や聴覚も独立していない。
すべてを皮膚で感じ取り、からだごとそれに反応する。
そういう生命としての原初反応をからだの闇に探す。
それが生命クオリアの非二元域へ降りていくひとつの有力な坑道だ。

2.夢の論理に学ぶ

誰もが見る夢や、白昼訪れる妄想は、日常世界とは異なる独自の論理で動いている。
その夢や妄想に謙虚に学ぶことが第二の坑道だ。
いつのまにか情景が変わり、夢のクオリアは絶えず変容し流動している。
ひとつの世界から別世界へ理由もなくジャンプし、
あるものが別のものにいつのまにか置き換わっている。
ほんのかすかな気配から一挙に異次元が開畳する。
そしてひとつの世界が一点に圧縮されたり、次元数を落として
立体が平面になり、線分になり、点になり、
逆に点や線や平面からいつのまにか次元数をまして膨大化する。
じょじょに変容が起こることもあれば、一挙に世界全体が一変することもある。
非二元界のできごとをたどるには、これらの異数の論理を身につける必要がある。
クオリアの密度を自在に運び、百鬼夜行、魑魅魍魎のように自在に跳梁する
極意を身につけねばならないのだ。
人間界の二元論的な論理に囚われていては生命のリアリティにおっつけない。
何度も何度も二度と見たくない悪夢の世界を踊り、
夢の論理を教えてもらう必要がある。
それは太古のアニミズムや神話に見られる「融即の論理」(レヴィ・ブリュル)に通じている。
それを身につけるには数限りなく夢を踊り、
妄想をからだに染み込ますことだ。
二元的な制約に囚われた言語思考よりも、
夢や妄想のほうがはるかに生命の非二元かつ多次元共振に近く、
計り知れぬ創造性に満ちている。
自分の見た夢や妄想を踊っているだけでは間に合わない。
他の人の夢や妄想、ちょっとした思いつきにさえ自在に入り込み、
どこからでも出入りできる透明なからだになるまで鍛えぬく必要がある。


3.透明体へ


土方はその夢や神話の論理を、「自他分化以前の沈理」と呼んだ。
「静かな家」の<急>にあたる最終3章はこれら沈理によって導かれている。
内部が外部となり、一部分と全体が自在に置き換わる。
前後の脈絡はジャンプし、異界とつながり、いつのまにか
箱に詰められ、そこから予想もつかぬものが現れてくる。

それらの沈理をいくつかの原理に抽象化すれば、
自在跳梁(ジャンピング ワイルド)、
密度を運ぶ(キャリー・デンシティ)、
次元数や任意の要素を自在に増減するX還元と再生
などからなる。

これらの沈理の変容技法を、頭でではなくからだの動きで
自由奔放に駆使できるからだを透明体と呼ぶ。
自我だの自己だのという人間的な条件を一切脱ぎ捨て、
透明になることこそがなにごとかなのだ。


「25 (悪夢)

 

悪夢こそはこの裸体なのだ

 1、虫やらミショーの顔やら、少女と馬の顔やら、

  電髪の女やら、馬鹿の顔やら、ボッシュが描いた人物の顔やら、

  助けてくれと嘆願する手やら

 2、犬と花と影とトントントンと跳ねる虫

 

26 奇妙な展開のさなかで

 

 1、手のなかへの求心的な恋愛を頭蓋のなかにすっかり置き変える

 2、神経が棒になり、棒が乞喰になった。乞喰が旗を振っていた、

  それは大きな鳥であった。

 3、首が馬の首になってのびると、指のゴムものびた。

  その作業のさなかに、点の眼と視点が変えられた。

  Xによる還元と再生にさらされていたのだ。

  その時は、背後に爪がザックリとささり、ゆくえははぐれて育ち、

  新たな還元により、小さなマイムがそこに誕生していた。

 4、内部が外部へあふれ出し、あふれ出していったものが仮面の港へ

  帰ってくる。仮面は森のなかへ船出をするのだ。

 5、額の風、額はとらわれている。手の葉、植物の軌跡を走り、私は、

  ついに棒杭の人となっていた。

 6、深淵図の中で、全ての事象の午前一時のなかで、柳田家の孔雀は完成される。

 

27 皮膚への参加

 

 1、小さな頭蓋のなかの小さな花、それはそれは細い細い視線、

  神経は、頭の外側に棒を目撃した、

  その棒を額で撰り分けている視線。

 2、小さな顔で歩く盲はまるでサルのようだ。猿の頭に落雷。  

  頭の中に小さな花が咲く、糸つむぎの唄が聞え出す。

 3、引きのばされる老婆は一枚の紙になるだろう。

  老婆はその紙の上に蛾のように乗っかるだろう。

 4、武将は女王になり、女王は関節の箱におさめられるだろう。

  その箱のなかからの生まれ変わりがフーピーという踊り子である。」

この三つの章は、土方が後世に残した透明体のための遺言である。
「どうだ。俺のぎりぎりの透明さに、きみも少しは近づけたかい?」
たじろぐ私たちに土方の高嗤いが聴こえる。
「下手な思考を落として、耳を澄ましてみろ。
きみのからだの闇でもまったく同じことが起こっているじゃないか。」

 


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 2012年9月12日

非二元域に耳を澄ます

からだの闇は非二元である。
日常世界のように内外、心身、自他という二元的な区別がない。
体感チャンネルと運動チャンネルも区別されていない。
だから、ゆらぎ瞑想なのだ。
目覚めた瞬間、そのことに気づいた。
去年生徒のひとりから、非二元的な世界に直接触れるにはどうしたらいいか、
という質問を受けた。
そのときは良い回答がみつからず、答えを濁した。
「いや、直接感知する道などないんだよ。…」
たしかに、言語意識に囚われているときは、まったくないかに思える。
だが、下意識のからだ=サブボディモードに入るとは、非二元域に入るということだ。
下意識域では、下意識とからだは、意識界のように分かれていない。
下意識とからだがひとつになっているからサブボディと名付けた。
心身の区別も、内外、自他の区別もなくなる。
過去と現在、類と個の区別も消えさる。
それどころか、日常世界では体感、運動、視覚、聴覚、情動、対人関係、
世界=自己、思考などに分化しているチャンネルの区別も消える。
感覚と運動がひとつになる。
だから、ゆらぎやふるえなどの動きに身を任せながら
からだの闇を変容流動しているクオリア流に耳を澄ます
ゆらぎ瞑想などの調体技法が生まれたのだ。
生徒から言葉による質問を受けるときは、
わたしもまた言語モードに囚われているから、
そのことに気づくことができなかったのだ。

からだを動かしながら、からだの闇に耳を澄ますこと。
感覚と運動が分化する以前の非二元かつ多次元共振をしている
生命クオリア共振に身を預けていくこと。
サブボディ=コーボディになリこむとは、
非二元域に降りることなのだ。

静かな場所をみつけて、座る。あるいは横たわる。
どんな姿勢でもいい。そのときどきのもっとも心地よい姿勢を見つける。
そして、座った姿勢なら、からだを前後左右にゆらぎはじめるに任せる。
横たわった姿勢なら、かかとを床につけ足を上下に震えさせる。
ゆらぎや震えをからだ全部に通していく。
もっとも気持ちのよい速度とサイズを見つけて
その心地よさに脳心身すべてを委ねていく。
動きと心地良い感覚がひとつになっていく。
そのうち、どんな動きでもいい、なにか動きが出てきたらそれに従う。
どんどんからだ全体を預け、乗り込んでいく。
目の裏にイメージが浮かんでくればそれについていく。
身体から奇妙な声や音が出てきたらそれも解放する。
からだの奥から訳の分からない情動が湧きだしてくれば
それを踊る。
ほかの生き物や人物像が感じられればそれと踊る。
身の回りの世界が、別の世界に感じられれば、その変容についていく。
あらゆるチャンネルのクオリアが、境界を超えて共振し始める。
自他の境界も消え、一緒に動いている人のクオリアがからだに入っていくる。
主観と客観の区別もなくなる。
自分で動いているのか、なにものかに動かされているのかも定かでなくなる。
からだの闇で巨大な地すべりのようなものが起こった。
これが共振塾ヒマラヤで毎日起こっていることだ。
その非二元のカオスの中から必然の踊りを探りだす、
一生続く長い旅がはじまる。



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  2012年9月11日

海と下意識―海の底で今起こっていることに生命共振が起こる

午後いっぱいを新潟の海を見て過ごす。
少年期、海辺で育ったわたしにとってこれは
またとない至福の時間だ。
だが、至福ばかりではない。
海岸沿いの砂丘列に植わっている分厚い防風林を抜けて
最初に水平線が目に飛び込んできたとき、
わたしのからだの闇は思いも及ばないほど動顛した。
からだの闇で巨大な地すべりのようなものが起こった。
突然少年期の世界に引き戻されるような、
数十年のタイムトリップが起こった。
いったい何が起こったのか?
毎日海を眺めて過ごすようになって一週間経った今、ようやく気づいた。
からだの闇は非二元なのだ。
そこではいつも海と共振し続けている。
意識の目には海上の波やうねりや、船や水鳥などしか見えない。
だが、からだの闇の下意識のからだは海の底の生き物や死の世界と
いつも共振し続けている。
脳細胞はいまも頭蓋内の原初の海に漂っている。
そこには40億年の生命史の叡智も惨劇もすべて詰まっている。
わたしの中のウミウシ、クラゲ、ヒトデ、アメーバなどの現生体が
それらの生命記憶を背負って蠢いている。

海の底で、いま何が起こっているか。
ここ新潟はかつて、阿賀野川上流の昭和電工が垂れ流したメチル水銀によって
第二の水俣病が起こった地だ。
新潟市で今開かれている「水と土の芸術祭」にも、
新潟水俣病の展示が行われている。
その水銀は今も海中・海底で孵化する水中生物の幼生を襲い続けているだろう。
福島の原発事故から漏れ出た放射性物質も容赦なく奇形を催し続けているだろう。
誕生の瞬間の単細胞が催奇形性物質や発がん物質、ホルモン撹乱物質に触れると
抵抗するすべもなく奇形や発がんに侵されてしまう。
その多くは生命力が弱く、短期で死んでしまうか、食べられてしまうかするので
観測されないだけなのだ。
人間のような百兆個も細胞をもつ多細胞生物も
精子や卵子の状態では同じくか弱い単細胞生物だ。
わたしたちのからだの闇でも、
それに共振して無数の惨劇が繰り返されている。

海の底を思うと、からだがよじれる。
キリキリと傷む。
からだの闇そのものが共振してよじれていく。
このよじれを踊らざるをえない。
それがわたしにとって終生の逃れることのできない踊りだ。


 2012年9月8日

耳を澄ます (続き)

いや、書きたいのはそういうことではなかった。
前項は、今、自分がいるべき場所にいることができないといういらだちによって
連れだされた愚痴のようなものだ。
命にとって一番やりたいことを、一番やりたい場所ですることを禁じられた命は傷つく。
それだけのことだ。
それも含めて、海を見ているわたしのからだの闇はうねり、波立ち、
はるかな世界へ連れだされていく。
見ている海のうねりがわたしのからだの闇と共振し、
からだの闇は絶えず変容しつつ流動している。
そのゆらぎに脳心身をゆだねていると、
どれがわたしのからだの闇で、どれが海なのか、だんだん定かでなくなる。
何が外界で何が内面なのかもはっきり区別できるものではなくなっていく。
あらゆる二元的な境界が消えてなくなるまで、毎朝の調体を続けること。
それが大事だ。
一にも二にも、調体技法を身につけること。
それを毎日のなくてはならない習慣になるまで続けること。
日々の雑務や情報に囚われたいらだちや波立ちが静まるまで
調体を続けること。
それを産婆すべき私自身が、
今朝はインドビザの申請書を急ぎ訂正し再提出しなければならないという
雑務に追われて、十分な調体をする時間を持つことができなかった。
魔はいつも自分の中にある。
それに囚われないように自分を透明にする技法が調体なのだ。
さあ、これからもうすこしゆらぎに身を任せよう。



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 2012年9月7日

耳を澄ます

からだに耳を澄ます。
からだの各部に耳を澄ます。
おーい、今日の調子はどうだい?
百兆個あるからだの細胞ひとつひとつに耳を澄ます。
世界に耳を澄ます。
からだの闇に耳を澄ます。
そこではからだの内外の境界は消える。
ただ生命があらゆるものと非二元かつ多次元の共振をしている。
生命共振には心身の境界も、自他の境界も、内外の境界もない。
ただ、無数の共振パターンであらゆるものと共振している。

いまわたしは新潟の海岸で海を見ている。
海を見るのは随分久しぶりのことだ。
おだやかな海だが、海はうねり、ところどころ白波も立つ。
わたしのからだの細胞たちも海そっくりに、てんでに共振している。
海岸にはやはりじっと海を見続けている土地の老婆がいる。
その人の心身もあるいはおだやかにうねり、
ところどころで白波も立っているだろう。
わたしも小学生の頃はいつも和歌山の海を見ていた。
ただ、海と共振していたのだ。
わたしのからだの闇もあるところではなぎ、
あるところではうねり波立っている。
10年ぶりの旧友ダビッド・ザンブラーノのフライング・ローと
パッシング・スルーのクラスで一週間動き続けたので、
からだの踊る星がいまだに静まらない。
無数の新しい練習方法が湧きだしてくる。
はやくヒマラヤでこれを生徒たちと共有したい。

なぜわたしはいまここにいるのか。
ヒマラヤではもうわたし抜きで後期の授業が始まって一週間になる。
本当なら飛んで帰りたい。
なぜわたしは、いま一番いたいところにいることができないのか。
8月6日にインドでの雇用ビザ申請のために日本へ来てもう一ヶ月以上待たされている。
誰がいったいわたしがいつどこにいなければならないと決めるのか。
なんの力がわたしをいまヒマラヤではなく日本にいなければならないと決めるのか。
国家だ。
それを思うと心は波立つ。
なぜ、なんによって国家は誰それがどこどこにいなければならないと
強制する力を持つのか。
それは不当なことではないのか。
なにによってその強制力を正当化しているのか。
それらはただ消え去るべき共同幻想ではないのか。
多くの人がいまはまだそれに異を唱えないから、国家は存続している。
今の世界では国家の国境を超えて自由に
自分のいたいところで生きたいと思う人がそれほど多くはない。
国家の国境の枠内の国土内に安住している。
あるいはその外に出たくても旅行費が高いのでできないでいる。
わたしの近くで海を眺め続けている老婆の心は
国境を超えてさまよっているだろうか。
あるいは現世と他界の境界をも超えて死者たちと共振しているだろうか。
あるいは時空を超えて幼年期の世界に遊んでいるだろうか。
どうすればからだはこころの望むままに動けるようになるだろうか。
海は問いかける。
おーい、人間たちよ、いつまでそんなところに縛りつけられているつもりだい?



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 そこではからだの
 2012年8月31日

なぜ、ダビッド・ザンブラーノに深く共振したのか?

日本でのインドビザの取得が遅れたため、10年ぶりに旧友ダビッド・ザンブラーノのワークショップに参加する機会を持てた。
1997年に東京で米井澄江さんが主催する「東京ダンス大学」で、彼のワークショプに参加した。オービタル・リンクの中澤レイや、振付家の北村明子なども同じクラスにいた。
なぜだか知らないが、激しくしかし柔らかく床に入り、出てくるフライング・ロー(低空飛行)の動きを3週間続けているうちに、身体中に至福が満ちてきた。
なぜだかよくわからなかったが、その年「ダビッド・ザンブラーノはなぜ楽しいか」という文章を書いた。
それは主に彼の身体的な動きを分析したものだったが、彼のあらゆるこだわりから吹っ切れた考え方に深く共振したものだった。
京都にも彼を招待し、当時住んでいた左京区の家に泊めて短期のワークショップを開いてもらった。なんだか、いきなり旧知の友人に出会ったような親交が始まった。
翌年は、彼の故郷のベネズエラで開かれた「国際クリエイターズ・ミーティング」に招待されて、彼と彼の相棒のマット、おなじく日本から招待されていた堀川久子さん、同じ部屋に泊まったマーク・トンプキンらと、3週間の期間中あらゆるところで踊り、互いのワークを交換し合った。からだがあらゆるこだわりから解放されていく楽しい経験だった。
翌年からはじまったわたしのワールドツアーの最中もフランスでは盟友サンチャゴ・サン・ペレのパリの家や、マーク・トンプキンが芸術監督をしていたストラスブールのフェスティバル、そして、アムステルダムではダビッドの家に泊り、一緒に公演し、彼のウィーンやアムステルダムのフライング・ローのワークショップに参加し続けた。
だが、彼がなぜ、そんなにもこだわりをなくすことができているのかは、長い間謎だった。
今なら、少し、別な面からなぜ彼にそんなに深く共振したのかを言うことができる。

新潟でのワークショップの三日目に当たる今日、かれは「パッシング・スルー」の原理を説明する面白い絵を白版に書いた。今回のワークショップは前半が床に出入りする「フライング・ロー」のテクニックのクラス、後半が「パッシング・スルー」のコンポジションのクラスに二分されていた。おそらく最後にはフライング・ローとパッシング・スルーがひとつになって、とんでもない面白いことになるのだと予想している。5日間という短期でどこまで持っていけるかは参加者次第なので、彼も様子を見ているところだ。

彼はまず白板に、人のからだの形を描いた。
そして、その絵の上に「パッシング・スルー」のカーブする線を幾重にも描いていった。
5分以上そのらせん状の線を描き続けているうちに、なんと、その線で元の人の絵は完全にかき消されてしまった。
その瞬間、飛び上がるほど驚いた。
(これは!これは、俺が何年も追求し続けている透明体そのものじゃないか!)

描き終えて彼は私たちに尋ねた。
「何が起こったかな?」
即座にわたしは答えた。
「人のからだが消え、透明になってしまった」
「その通り!」
彼も即座に答えた。
そして、わたしはなぜ彼にこんなにも深く共振し続けていたのかの理由に気づいたのだ。
かれはワークショップを通じて、人間の自我や自己への囚われを消し、それらから自由になった透明体に導こうとし続けていたのだ。
透明体になることは、わたしが共振塾で長年探求し続けている最終課題の一つだ。
それは彼が描いた二枚目の絵でもっとはっきりした。
二枚目もまず、人のからだを描いた。
そして、こんどは、彼の描くらせん上の曲線は、けっしてからだに入ることなく、からだの外側の空間だけを埋め尽くしていった。
描き終えた時には、人間のかたちがくっきりと浮かび上がった。
「これが一般のショービジネスの踊りだ」
と彼は言った。
「生きていくためにはこれも必要になるかもしれないけれどね、ここではこれじゃない」
ダンスは自我や自己の表現だという、西洋に深く染み込んだ囚われから、
彼もまた人々を解放したいのだとはっきりわかった。
そんなことを考えているのは、わたしだけだと思っていたが、
彼もまた、そう考えていて、しかもあまりにもくっきり説明しきったことに
もう一度驚いた。
今回彼に会ったとき、最初に彼に尋ねた。
「この十年間でなにか変わったかい?」
「いや、あんまり変わっていないよ、ずっと同じことをし続けている。
でも、その説明の仕方は以前よりすこし明瞭にできるようになったかな」
その言葉通りだった。
百万遍のことばよりもくっきりと、一番実現したいことを絵で描いてみせた。
みごとなパフォーマンスだった。

彼の、セオリーの発展の具体的な面については後日に回し、今日はこれだけに止める。
なにしろ、63歳のからだで一日中床に飛び込み、出て来る動きを続けて三日目の今日は
からだ中に限界に近いしかし心地良い疲労が満ちて今にも眠り込みたがっているからだ。
明日に続く。
おやすみ。

眠いのでもう書けないけれど、スペインのマドリードにサブボディ研究所を開いて活動している去年の共振塾生のジョナサンから、さっきメールが来た。奇しくも彼も先月ダビッドのワークショップに参加して、今日わたしが感じたことと同じことを感じたと言っている。メールの内容は英語版に載せました。興味のある方はwww.subbody.netでご覧ください。

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 31, August, 2012

Resonance with the Depth of David Zambrano

"Why is David Zambrano so pleasant?"
14 yeas ago I wrote an article about David Zambrano with the title above after joining his workshop in Tokyo at the first time.
It was an analysis about mainly physical movement.
After then I invited him to Kyoto for workshop, and we met at the international creators meeting at Caracas, Venezuella 1998.
David, his partner Mat, Hisako Horikawa, and me enjoyed dancing together a lot for three weeks.
And every year I joined his workshop, in Wien, Amsterdum, during 1999-2000.
We performed together at his dance school in Amsterdum, too.
But it was still a mystery for me why is he extremely flexible?

Now, after a decade, I can say the resonance of philosophical aspect.
It makes my Life extreme pleasant, because my Ego and Self disappears and makes my body transparent.

Today, the third day of five days workshop in Niigata, Japan, he wrote a drawing on the white board to explain the principle of "Passing through".
At first he drew a shape of human body.
And he drew many curved lines of 'Passing through' onto the picture.
After five munites drawing, the infinite curved lines of 'Passing through' erased the picture of body completely.
I surprised, "Wow! it's exactly the 'Transparent body' which I pursued for long years"
David asked us "What happens?"
I answered immediately, "The body disappered and became transparent!"
He said "Exactly!"
That's was the reason why I resonated with him deeply for long years.
My body told me that I could be Tranparency without Ego and Self during practice. Then I could feel so pleasant during the work with him.


Jonathan who is last year's student of Subbody school gave me a mail about this from Madrid, today.
Maybe, unconsciously the influence would be deeper than I thought.
Because so many awarness of resonance between his philosophy and my Subbody method espacially about cobody, came up from my body during the practice of his Flying low and Passing through.
I will deepen it near these days.


 2012年8月26日

<密度を運ぶ>の深淵

今回の日本滞在で、東京の土方巽アーカイブに保存されている
土方の舞踏ビデオをじっくり見ることができた。
初期の「あんま」、「バラ色ダンス」から、1968年の「肉体の叛乱」、
1972年の「疱瘡譚」、それから自身が踊るのをやめた「静かな家」以降、
芦川羊子を始めとする舞踏手に振りつけた白桃房時代の作品を系統的に見ると
密度が年々深まっていることが如実に見えた。
衰弱体舞踏が初めて出現した『疱瘡譚』にくらべると、
おそらく『静かな家」では一つの動きがはらむクオリアははるかに密度が濃くなっている。
(『静かな家』そのものの映像記録はないが、その一部の振り付けは
1973年の『夏の嵐」における土方巽のソロ『少女』を通じてうかがい知ることができる。)
そして、1976年の「鯨線上の奥方」や「ひとがた」における芦川羊子に振りつけた
動きの多彩さと密度は超絶技巧とも言うべき域に達している。
それに比べて私たちが創っている踊りは、何十倍も荒い。
これから先、どのように細分化と重層化を深め、
土方が達した域にまで密度を深めていくことができるかが、
今後の大きな課題だということを痛感させられた。

そのための創造法を編み出す必要がある。
「静かな家」の舞踏譜にでてくる<密度を運ぶ>という一語の背景には
無限の深淵が広がっている。
単に一つの動きの中でクオリア密度を高めていくばかりではなく、
一つの動きに関わるクオリアの数が無数に多彩化していく必要がある。
そうしてはじめて、非二元かつ多次元で共振している生命の実態に迫ることができるのだ。
まずはからだの闇の微細なクオリアにもっともっと耳を澄ましていくことから始めよう。
命がただひとつのクオリアに共振しているだけではなく、
無数の多次元クオリアに共振して刻々と多彩な背後世界と関わっている。
いったい土方はどのようにしてその生命の実態に触れ、
つかみ出すことができたのだろうか。
深い謎だ。
また、1976年に付近住民からの不満によって、
アスベスト館が封印を余儀なくされたのちの1977年に執筆された
「病める舞姫」は、さらに一段と密度が深まっている。
生命の多次元共振そのものを捉えてことに成功した
空前絶後の作品になっているのだ。
あたかも踊れなくなったエネルギーのすべてを執筆空間にぶちまけたかのようだ。
種村末広が評した、「『病める舞姫』はそれ自体が舞踏作品である」
という言葉は真実の一端を的確に捉えている。
舞踏を深めるとは、細分化と重層化を深め、命の非二元かつ多次元共振の実態に
近づいていくことだ。
そこまでは分かっている。
そこから先それをどのように具体的な練習方法や創造方法として
実現していくかが、実践的な課題である。
産婆コースの生徒は特にこの点に留意して精進してほしい。



「からだの闇」をもっと読む

 2012年8月25日

癇の花とめんげん

<癇>を踊ろうとするとき、知って置かなければならないことがいくつかある。
第一は<エッジ>だ。
からだの闇の旅では、誰もが最初に出くわし、打ちのめされるのがこれだ。
これまでも、<癇>に触れようとするときのエゴの拒否反応としての<エッジ>に
対応する<エッジワーク>については何年も探求してきた。
(実技ガイド「エッジを踊る」参照)

その第二は<めんげん>についてだ。
<めんげん>とは、伝統的な指圧や鍼灸、漢方などで古くから知られている
必然的な生命反応である。
治癒過程で、いっとき、古傷が痛み出したり、症状が悪化したり、
発熱、悪寒、悪夢、耐え難い情動など心身の変調が出てくる過程的現象を指す。
サブボディ=コーボディ創造を支援する産婆コースの生徒は、
とくにこの点に留意し、めんげんが出てきたときに驚かず、
最適の対応ができるように経験を深めていってほしい。

一例を述べよう。
この夏、スイスで一ヶ月のワークショップをした。
その最終週にひとりの男性(Aさん)が参加してきた。
彼は、20年前に事故で背骨を骨折し、
いまでも第二胸椎が2センチほど右にずれている。
でも、そのからだでも<癇>を踊ろうと懸命にからだの闇に耳を澄まし、
出てくる動きに従い、果敢に増幅した。
それは、ものすごい呻きとともに始まった。
部屋の隅に立ち、角に頭をつけて斜めに突ったったまま、
すごい埋めき声を出し始めた。
身障者にしか出せない耐え切れない切実な声だった。
それから、痙攣的な幾つかの動きが出てきた。
彼のからだはいわば全身がねじれたまま凝り固まった<癇>なのだ。
その<癇>から20年間耐えに耐えたサブボディがはじめてほとばしり出てきた。
これまでそれほどまでに胸に来る動きには出会ったことがないほどの
輝きに満ちていた。
場にいたほかの参加者も全員がその迫力に打たれた。
終わったあと、私は彼を励まし、すごく良かった、これを深めるようにといった。
彼もそうしたいと言った。
だが、その夜、かれのからだのあちこちから激しい痛みが出てきて、
一晩中眠れなかったという。
典型的な<めんげん反応>だ。
私はソファーに横たわり、動けなくなったAさんに全身指圧を試みた。
背骨は第二胸椎以外も、微妙に左右にずれている。
そしてもっとも痛みが酷いという左足に触れてみて驚いた。
腿の裏の大腿二頭筋がまるで骨のように凝り固まってしまっている。
第二胸椎で右にずれたからだのバランスを取るために
大腿二頭筋は20年間も収縮して骨盤のバランスを取ろうとしてきた結果だった。
せめて当座の痛みが軽減するようにと、
わたしは指圧の師の遠藤喨及氏が私の腰痛を治療されたときの
一挙一動を思い浮かべ、師にならって彼のもっとも深いツボを探って
最深のツボに最後の指圧を施したが、私の指圧能力では歯が立たなかった。
わたしができたのは、左足の裏の筋肉が緊縮してしまっているから、
毎日そこを揺らぎながら伸ばす調体を毎日続けるようにという示唆だけだった。
20年間緊縮し続けた筋肉と国家雨の歪みを正すには長期間のリハビリが必要だ。
産婆として、そのひとにもっとも適した日々の調体方を伝授するのも重要な役目である。
ただ、指圧の世界は底なしに深い。
師の喨及さんなら、当座の痛みを和らげるぐらいなんでもないのに、と
自分の指圧力の未熟さが歯がゆくてならなかった。
もっと精進しなければならないと痛感した。
<癇の花>を踊るために産婆しようとするものは、
必然的にともなう<めんげん>に対する的確な処置力をあわせ持つ必要がある。
今後の共振塾の授業はその点に力点をおいたものになるだろう。

自分固有の調体技法を身につけること
各人固有の調体技法を導けるようになること
思い出せないかすかなクオリアに触れることのできる
より深いサブボディモードに降りる技量と、
自分の癇に真向かう力をやしなうこと
必然的にともなうエッジワークやめんげんワークの技法を身につけること
とりわけ心身障害者の人の癇は長期間で凝り固まった心身の癇に変貌している。
そしてそのありようは、一人ひとりで大きく異る。
日々の調体もその人の障害に応じて、最適のサイズや速度を見つけて行うよう
的確なアドバイスができること。
障害のありようは、一人ひとりでまったく異なる。
とりわけ心身の結びつきや結ぼれ方は千差万別、無限の多様性がある。
それに対応できるようになるには無限の経験を深めていくしかない。
とりわけ、あらゆる症状に対応できる指圧や共振タッチ、
自己治癒のための固有調体・探体・癒体の技法を深めていかねばならない。

これらを総合して、これまでのサブボディ舞踏技法は、調体、探体から
創造(創体)と自己治癒(癒体)を含む<生命の共振技法>として統合されていくだろう。


からだの闇は降りれば降りるほど、まだ手に負えない深い闇が待ち構えている。
だが、この闇に取り組むことができるのは人生上、最大の喜びだ。


 2012年8月25日

<癇の花>とはなにか

昨日紹介した和栗由紀夫氏の舞踏ノートに記された
土方巽の発明した舞踏クオリア群からピックアップしたものは、
みな<癇の花>に関するものだ。
<癇>とはなにか。
この言葉は英訳不能なので、どう翻訳すればよいか
しばらく試行錯誤を繰り返した。
そのうちに<癇>の本質とは、
<生命がうまく共振できなクオリア>であることが見えてきた。
共振しようとしてもうまく共振できないとき、
生命はただそれに耐えて、よい共振方法が見つかるまで待つ。
だがその間にうまく共振できないクオリアは、からだに変調をもたらす。

引きつったかさぶた
ひびが入る
ぶれたまま固まる

カサカサに乾く内臓
ナメクジの唾液の目
内部に塗り込められる顔
前方にぶれてゆく顔

老婆の干しぶどうの目
胸の小部屋に鍵がかかる

などはその象徴だ。
くぐもり、ひきつり、凝り固まってかさぶたとなる。
心身は一如なので、心の凝結とからだの変形はひとつになる。
やがてそれが全心身に波及すると

25年間寝たきりのフラマン
いじけた若い墓守
せむし
乞食の崩壊
人形がぶすぶすと燻る
埃でできている人
壁に塗り込められた人
岩の蝉の目玉
背後の闇に包まれている少女

など、存在全体が<癇>そのものに変容する。
これらの<癇>をいったい、いかにすれば<花>に昇華することができるか。
それらをただ並べるだけでは美とはならない。
のっぴきならない生命のほとばしりとしての必然の踊りの中で
最適の<序破急>を発見することによってだ。
共振したくて仕方がないが、できない、できない、できない・・・
長い間できないまま、耐えて待って、待って、待って、
ついにひとつののっぴきならない動きが創発される、
その瞬間を捉えて踊ることだ。
そのとき、醜い癇の蠢きが、得も言われぬ美に転化して
あらゆる命が共振を禁じることのできぬ<癇の花>に昇華する。
この極意を極めよ。
からだの闇でうずくまり、くぐもり、ひきつり、
かさぶたとなっているクオリアを掘り出せ。
そして、それがどう動き出したがっているのか、
どんな共振を求めているのか、探り抜け。
誰のからだの闇にも<癇>は存在する。
ただ忘れさり、気づけなくなってしまっているだけだ。
自我は癇を知らない。
目を背け、忘れ去ってしまっている。
そんなもの俺の中にはないと、逃げ出そうとする。
自我こそ最大の<癇>、<癇の中の癇>なのだ。
自我は自分が<癇の中の癇>であることも、もちろん知らない。
<癇>から目を背けさせる最大の<癌>である。
その自我を止めなければ、からだの闇の<癇>のクオリアからの
かすかなシグナルを捉えることはできない。
いつかは最大の<癇>である<自我>をも踊らねばならない日が来るだろう。
その日は遠い。
一番最後になるかもしれないが、自我という<癇>の消滅、
自我という最大の<癌>からの自己治癒は、現代人すべての課題である。



「25年間寝たきりのフラマン 
あばたの男
いじけた若い墓守
えぐられて溶ける
きしむ空気
こめかみから鳥が飛び立つ
こめかみを植物がはう
せむし
だらしない少女
つまむ奇妙な人
どこまでも壁に染みる
ひびが入る
ぶれたまま固まる
ぶれた花がさまよう
ぼおっとした馬
ぼろぼろ
むずがゆさ
もやの中へ消える
ゆくえをからだの中に入れる
よだれを垂らす子供
アウシュビッツ
ヴォルスのインクのシミ
ヴォルスの神経が土くれる
オルガンを弾く幽霊
ガラス玉の目
カサカサに乾く内臓
ギブスをはめた人
キトキト
ゴヤの膿の顔
ザクロ歯の顔
ソコヒの少女
ドライフラワーの顔
ナメクジの唾液の目
フーピー
フラマンの剥製
ベーコンの顔のスローモーション化
ベルメールの視線
ミショーの鶏の亡霊
メスカリンの神経の重層
モネの睡蓮を渡る幽霊
一瞬の網の目に捕捉
下痢に雨が降る
乞食の崩壊
人形がぶすぶすと燻る
人質の顔
仮面の裏の熊の顔
体の中の針金
体の中を機関車が通過する
余白で成り立つ
俯瞰される
光に襲われる
光の蜘蛛の巣
兎に囓られるくるぶし
内股のヤモリ
内臓が体の外にぶら下がる
内臓から鶴の首が伸びる
内臓の水路を上に辿る
内部に塗り込められる顔
前方にぶれてゆく顔
剥製化した蜘蛛の巣
剥離
右目と左半分が溶けている顔
吸い取られる呼吸
土塊の人形の生成と解体
埃でできている人
埃の飼育
墓守の顔に変貌
壁に塗り込められた人
奥歯に染みる隙間風
子供の顔をくわえた幽霊
密度の牛
小児麻痺の狂人
尻尾が生えて開く骨盤
岩の蝉の目玉
崩れてしまいそうな危うい人
引きつったかさぶた
抜かれた神経の人
接吻されている老婆
暗い煤けた顔
曖昧なものを正確に包囲
木目を辿る指先の感触
森の顔
水晶の中に閉じ込められる
湯気の膿の衣を引っさげた法王
無数の視線の通過
暗い瓶が危うく立つ
爪と歯の起源
目と口の中のほこら
真に救われない顔が出る
空間を裂く視線
紙の上で踊る虫にアウシュビッツが重層する
老婆の干しぶどうの目
耳の内部をさまよう
肉の区分けをする男
焦げる羽
背後の闇に包まれている少女
胸の小部屋に鍵がかかる
膿をずるずると引っ張る
追いかけられる馬鹿
遠くの森から少女が近づく
闇を携えせり上がる
頭蓋の中に木の葉がはらはらと落ちる
・・・・・


 2012年8月24日

生命の無限の創造性はクオリア=クオリア共振から生まれる

生命の創造性とは何か?
なぜ生命は無限の創造性をもつのか?
この40億年間の生命史の間に、生命は驚くほど多様な共振パターンを創造してきた。
発生当初の原初生命はおそらくごくごくわずかなものとしかうまく共振できなかった。
水やアミノ酸、ナトリウムイオンやカルシウムイオンなど、
限られたものとしかうまく共振できなかった。
今日の多くの細胞がもつ酸素との共振さえうまくできず、
一億年以上深い海中や地底でしか生存できなかった。
生命はうまく共振できないものとは、よい共振パターンを発見するまでは、
ただ、安全な距離をとってひたすら待つ。
30億年ほど前に、プロテオバクテリアが酸素呼吸の仕方を発明すると、
ただちにその仕組みは、内部共生というしかたで
多くの単細胞生命に共有されるところとなった。
今日のほとんどの細胞が待つミトコンドリアは
内部共生していたプロテオバクテリアの名残である。
細胞生命は、あらゆるものとの共振パターンを、
クオリアという形で細胞内に保存している。
重力のクオリア、光のクオリア、酸素のクオリア、色のクオリア、
触感のクオリアなどなどという生命記憶として保存されている。
私達の指先が木に触れたとき、それを木として認識できるのは、
細胞内部に保存された木の触感のクオリアと、今現在触れている木のクオリアとが
同期共振することによっている。
もっとも多細胞生物となった私たちのからだでは、指先の感覚細胞が触れた
木のクオリアは、神経細胞を通じて、大脳のグリア細胞に保存されている
木のクオリアと共振することによって、石でも金属でもなく木であると認知される。

クオリアの大きな特徴は、クオリアとクオリア同士で共振することによって、
新しいクオリアを創造できる点にある。
たとえば、象のクオリアは誰もの大脳内に保存されている。
ピンクのクオリアもまた保存されている。
たまたま象のクオリアとピンクのクオリアが共振すると
<ピンクの象>という全く新しいクオリアが生まれる。
クオリアとクオリアの共振、それが生命の持つ無限の創造性の仕組みだ。
しかも生命クオリアは非二元かつ多次元時空で共振しているので
その創造の可能性は無限である。
その無限の生命の創造力を開くこと、それがサブボディ技法のエッセンスである。
それは二元的な情報に囚われた言語思考や判断を止めることによって可能となる。
土方巽があの無類の創造を発揮したのも、
生命の無限の創造力の開き方を身に着けていたからである。

解剖台の上のこうもり傘とミシンの出会い

ブルトンによってシュールレアリズムのバイブルとされたロートレアモンのこの言葉は、
意外なクオリアとクオリアの出会いによって
新しい創造が生まれることを語っている。
土方は1060年代に行った無数の「ハプニング」やダダ的な実験によって
その極意を追求した。
そして、1968年の伝説的な「肉体の叛乱」公演の後、
4年間まったく外部的な活動を停止して、アスベスト館二階の自室にこもり、
ひたすらからだの闇をむしり続けた4年間のうちに、
生死の境を超え、自他の境界を無化する
生命クオリアの無限の共振を開く坑道を掘り進めていった。
からだの闇に飼育する死んだ姉との交感によって、
人間の枠を超え、生死の境界、自他の分別を超える「死者の技法」を獲得した。
1972年から1976年までの爆発的な創造はそれによって起こった。
疱瘡譚、ギバサン、すさめ玉、静かな家などの衰弱体舞踏と、
自身のソロを中止して芦川羊子をはじめとする弟子に振りつけた
白桃房公演で花開いた超絶的な技巧に至る創造はすべて、
生命ののっぴきならないクオリア=クオリア共振が全面的に開花したことによる。

この夏の雇用ビザ申請のために日本滞在中、わたしは森下隆氏が主催する
「土方巽アーカイブ」を訪れる機会を持つことができた。
森下氏は「舞踏譜の舞踏」に注目し、土方が弟子に振りつけた舞踏譜の言葉と、
その実際の動きを和栗由紀夫や山本萌などの実際の動きとの対応を
ビデオ収録する試みを続けている。
和栗由紀夫の舞踏譜から抜粋された1300の舞踏言語と動きとの関係は
すでにビデオ収録を終え、編集段階にある。
山本萌に土方が振りつけた「正面の衣裳」という作品は、
山本萌が筆記した土方の言葉と、実際の舞踏の映像が残っているところから、
ほぼ完璧に舞踏譜の舞踏を再現することに成功したという。
最大の舞踏譜の宝庫の持ち主芦川羊子がその舞踏ノートの公開を
拒否している現在、舞踏を学ぼうとする世界中の人にとっては
この土方巽アーカイブの試みが最大の資源となる意義深い試みである。
私は、和栗由紀夫と森下隆氏の行為によって、
和栗由紀夫氏が作成した私家版の「舞踏譜」のコピーを得ることができた。
そこには完熟期の土方の脳髄に起こった稀代のクオリア=クオリア共振による
多彩な舞踏言語が散りばめられている。
その言葉と具体的な動きとの対応は、
和栗氏の動きを収録したDVDの発刊を持つしかないが、
わたしたちは、舞踏譜の多彩な言語をもとに、
いかなるクオリア=クオリア共振が起こっているかを確かめることができる。
抜粋された1300の舞踏言語群から、
わたしが探索していた「癇の花」を包囲する豊かなクオリア群を紹介しよう。

25年間寝たきりのフラマン 
あばたの男
いじけた若い墓守
えぐられて溶ける
きしむ空気
こめかみから鳥が飛び立つ
こめかみを植物がはう
せむし
だらしない少女
つまむ奇妙な人
どこまでも壁に染みる
ひびが入る
ぶれたまま固まる
ぶれた花がさまよう
ぼおっとした馬
ぼろぼろ
むずがゆさ
もやの中へ消える
ゆくえをからだの中に入れる
よだれを垂らす子供
アウシュビッツ
ヴォルスのインクのシミ
ヴォルスの神経が土くれる
オルガンを弾く幽霊
ガラス玉の目
カサカサに乾く内蔵
ギブスをはめた人
キトキト
ゴヤの膿の顔
ザクロ歯の顔
ソコヒの少女
ドライフラワーの顔
ナメクジの唾液の目
フーピー
フラマンの剥製
ベーコンの顔のスローモーション化
ベルメールの視線
ミショーの鶏の亡霊
メスカリンの神経の重層
モネの睡蓮を渡る幽霊
一瞬の網の目に捕捉
下痢に雨が降る
乞食の崩壊
乾いている内臓
人形がぶすぶすと燻る
人質の顔
仮面の裏の熊の顔
体の中の針金
体の中を機関車が通過する
余白で成り立つ
俯瞰される
光に襲われる
光の蜘蛛の巣
兎に囓られるくるぶし
内股のヤモリ
内臓が体の外にぶら下がる
内臓から鶴の首が伸びる
内臓の水路を上に辿る
内部に塗り込められる顔
前方にぶれてゆく顔
剥製化した蜘蛛の巣
剥離
右目と左半分が溶けている顔
吸い取られる呼吸
土塊の人形の生成と解体
埃でできている人
埃の飼育
墓守の顔に変貌
壁に塗り込められた人
奥歯に染みる隙間風
子供の顔をくわえた幽霊
密度の牛
小児麻痺の狂人
尻尾が生えて開く骨盤
岩の蝉の目玉
崩れてしまいそうな危うい人
引きつったかさぶた
抜かれた神経の人
接吻されている老婆
暗い煤けた顔
曖昧なものを正確に包囲
木目を辿る指先の感触
森の顔
水晶の中に閉じ込められる
湯気の膿の衣を引っさげた法王
無数の視線の通過
暗い瓶が危うく立つ
爪と歯の起源
目と口の中のほこら
真に救われない顔が出る
空間を裂く視線
紙の上で踊る虫にアウシュビッツが重層する
老婆の干しぶどうの目
耳の内部をさまよう
肉の区分けをする男
焦げる羽
背後の闇に包まれている少女
胸の小部屋に鍵がかかる
膿をずるずると引っ張る
追いかけられる馬鹿
遠くの森から少女が近づく
闇を携えせり上がる
頭蓋の中に木の葉がはらはらと落ちる
・・・・・

ざっとこんなところだ。
これらはすべて広義の<癇の花>である。
土方にとってこれらのクオリア共振による創造はのっぴきならない必然だった。
人生でこんなふうな豊かなクオリア=クオリア共振が起こって
無限の創造がわき起こってくることはめったにない。
土方の1970年代の数年間はそういう奇跡的な一瞬だった。
わたしたちは、生命にとってのっぴきならない絶対的創出が
起こる状態をいかに導くことができるかを探求し続けてきた。
日常意識を止めること、
情報への囚われから身を解くこと、
などはそのほんの入口にすぎない。
そこから固有の問題に直面する坑道を掘り下げること、
うまく共振できないクオリアのかすかな息吹に耳を傾けること、
ここから先がむずかしい。
無数の困難なエッジ・クオリアをかいくぐらなければならないからだ。
「癇の花」を咲かせること、はついに見つかった条件のひとつだ。
土方の創造性が花咲いた時期の舞踏譜に、
<癇>のクオリアをめぐる惨めで醜く歪んだ生命状態からの
創造に満ちているのは偶然ではない。
<癇>とは生命にとってうまく共振できないクオリアの総称である。
それを花に転化するとは、舞踏の動きという、うまい共振方法をみつけることだ。
その瞬間に、自他を超え、時空を超えた深い生命共振力を持つ創造が起こる。

からだの闇のかすかなかすかな思い出せないクオリアを探せ。
できれば触れたくないクオリアがうずくまっている場所がある。
それが<癇>だ。
なかなか触れることも真向かうこともできない。
自我はいつもそれと真向かうことから逃げだそうとしているからだ。
<癇>のクオアリアは、思い出せない悪夢、耐え難い情動、
気が狂いそうになるトラウマなどとともに息を止めて潜んでいる。
何十年も待った後にそれに直面できるようにあることもある。
土方もまた、死んだ姉を踊れるようになるまでには数十年の年月が必要だった。
障害者にとっての<癇>は、長い間に肉体的な歪みと心理的なクオリアの凝結が
ひとつになって凝り固まっている。
誰のからだの闇にも、気づかない<癇>が潜んでいる。
そのなにものかとうまく共振できないクオリアが、ついによい共振パターンを発見したとき、その瞬間に生命ののっぴきならない絶対的創出が起こる。
生命にとって深い共振を呼ぶ必然的な創造はその瞬間にだけ生まれるのだ。



 

 土方巽 「疱瘡譚 1972」

私がもっとも好きな
7分55秒からの 芦川陽子を中心とする
<尻の諮詢>のコーボディの場面をみてほしい。
死者の女子群舞の尻が異界へつながり、名状しがたいものに変容していく。
コーボディは単なる群れの動きではなく、集合的無意識の表出でさえなく、
「人間」から生命へいたる道程なのだ。
 2012年8月22日

自我から自己へ、そして生命へ

人間が、自我に囚われた状態を脱ぎ、
共振する生命になっていくためには、
自我エッジと自己エッジを超える必要がある。
長年、自我エッジにばかり注力していて、
自己エッジの超え方がなかなか見つからなかった。
だが、一昨日神戸の弟の家から岩手のいぐの家に向かう途中、
伊丹空港で突然その全貌が見え出した。
慌ててコーヒーショップに駆け込んでメモを取った。
飛行機の出発時刻にはまだ30分の余裕があったので、
ほんの10分ほどメモを取ったつもりだった。
だが、そういう時は非時の異界に紛れ込んでしまうものらしい。
書き終えたときは飛行機は飛び立った後だった。
しかたなく次の便をまつまでの3時間をかけて
突然の気づきをゆっくりノートにしたためた。
それがこの原稿になった。

自我エッジの超え方


自我は、もっとも古い元型のひとつだ。
「自分が―」という利己的かつ自己中心的な傾向だ。
おそらく人類がもっともひよわな種として700万年前にアフリカに出現し、
10万年前くらいにアフリカからでて世界各地へ散会していく
苦難に満ちた旅の中で醸成されたものだろう。
もっともひよわな人類はもろもろの危険から自己を守る必要があった。
絶えず、利己的な行動で自己の安全をはかり、
しかもそれを正当化する幻想の物語で自己をくるむ。
それが自我の元型の基層に横たわっている。
自我は絶えず自己を正当化する物語を紡ぎだす。
ひ弱ければひ弱いほど自己を耐えず正当化し続けねばならない。
そうでなければ内部から崩壊してしまうのだ。
まずいことがあればすべて外部のせいにする。
うまく行かなかったことをすべて同居人や友人・家族のせいにするときは
いつもかよわい自我が頭をもたげているときだ。
弱ければ弱いほど、自分自身を自己保身し、
しかもそれを正当化する物語で包み込まねばならない。

それをあたかも外部から頭ごなしに批評する傾性は、
<超自我>あるいは<上位自我。と呼ばれる。
(お前の行動は利己的すぎる)、
(ほんとうに正しい選択ではない)
などという自己批評めいた声が聞こえてくるときは
超自我元型が活性化しているときだ。
自我と超自我はセットになった元型である。

自我は強力で、ちょっとやそっとのことでは鎮まらない。
ただ、言語思考を止めて、からだの闇に耳を澄まし続け、
内的言語が立ち上がるその瞬間にそれを押しとどめる習慣が身につけば、
下意識モードのからだ、サブボディ=コーボディになりこむことができる。
とりわけ、自己正当化する内的言語や、シニカルな批評家(超自我)などが
出てきかけたときはたちどころに止める。
そして、からだに耳を澄ます傾聴モードに入りこみつづける。

自己エッジとはなにか


自我は強力かつ明白なので、比較的捉えやすい。
だが、これに比べて自己はもっと漠然としていて広く深い。
わたしはユングに習って、自分のからだの闇のずべてを自己と呼び習わしてきた。
自分の全体という程の意味で<自己>という用語を使っている。
そこには、自我や日常体が気づかない、
影やノット・ミー、副人格やもろもろの元型群が棲息している。
かつてのわたしがサブボディを下意識のからだ、
コーボディを共振するサブボディと定義していたにもかかわらず、
実際の練習では、サブボディ=個人の動き、
コーボディ=群れの動きという二元論的な捉え方に囚われていたことに気づいた。
ほんとうは、サブボディとコーボディの間には絶対的な境界などない。
誰のからだの闇から出てきたサブボディでも、
直ちに共振によってコーボディに転化する。
それなのに、サブボディ=個、コーボディ=群れという分別に囚われていたのは、
自己エッジを的確に捉えられていなかったせいだ。
自己エッジとは、<自己と他者が違うということが自明の前提とされている
状態にとらわれている>
一点にある。
自己と他者の差異があるということは、日常世界では絶対的なものである。
だが、日常世界からきた新入生にとっての常識をいったん受け入れた上で、
練習の中でじょじょにその常識が変わっていけばいいと、遠慮しすぎていた。
わたしの<段階論の魔>が妨げていたのだ。

そこで、今年夏のスイスのワークショプでは、
最初から誰かのからだの闇からサブボディが出てきたら、
ただちの他の人も自由に共振するということを一ヶ月続けた。
からだの闇には自他はなく、<自分のからだの闇>か、
<誰かのからだの闇>かは問題ではないのだ。
すると一ヶ月それを続けるうちに、みごとなサブ=コーボディが育ってきた。
誰かのからだの闇からサブボディが出てきたら、直ちに共振してコーボディになる。
そして、そのコーボディから別のサブボディが剥離するように出てくれば
それにもまた直ちに共振する。
いままでにないフレキシブルなサブ=コーボディの世界が生まれた。
いや、いままでもそれに似たことは十分やってきたのだ。
ただ、<自己と他者が違うということが自明の前提とされている
状態にとらわれている>
という自己エッジ内の世界では、
<これはわたしのサブボディで、それに他の人がコーボディとして共振している>あるいは<私は今、他の人のサブボディに共振してコーボディになっている>
という囚われのもとにあった。
そうではなく、最初から、<自己と他者の差異は、日常世界だけの幻想なのだ>、
<生命にとっては自己と他者の境界はない>という
非二元生命共振の世界にダイレクトに降りていく道に導くべきだったのだ。
この差異は、外から見ればなんのことかわからないほど小さなものかもしれない。
だが、実際にそれをからだで体験し続けることによって、各人を捉えていた
自己エッジ=自他の差異の自明さがどこかで変わってくる。
体験からのみやってくる変化が起こる。
これがついに発見された自己エッジを超える道だ。

サブボディとコーボディの間の謎に取り組み始めてから
自己エッジの実践的な超え方がみつかるまでにまる十年かかった。
それを阻害していたのは私自身の自己エッジの闇への囚われだった。
重大な気づきはいつもこういう苦さを伴ってやってくる。
だが、発見さえすればなんでもない。
今年の後期から来年にかけて、共振塾では
このサブボディ=コーボディの世界を共に探求していくことが出来る。
自我から、自己へ、そして生命になる坑道をやっとのことで
掘り抜くことができた。


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 2012年8月17日

コーボディの深層

サブボディ技法は、本当はサブボディ・コーボディ技法という。
長いので迷った末、普段は省略してサブボディ技法と呼んでいる。
だが、もっとも解きたかった謎はサブボディとコーボディの間に潜んでいる。
長いあいだ、その謎には歯が立たなかった。
共振塾でも、サブボディはサブコンシャス(=下意識)のからだ、
コーボディは共振するサブボディという定義は最初に紹介するが、
授業の中ではサブボディ=ソロの動き、コーボディ=群れの動きと
物理的な違いだけに縮小されて理解されがちだった。
わたしたちはいつも目に見える違いに囚われて本質を見逃す。
目には表層しか映らないのだ。
今年の前期の授業とスイスの一ヶ月のワークショップでは
これまでになくコーボディに成り込むことに力を入れた。
とにかくからだの中から出てきた動きには直ちに共振する。
命の創造には著作権などない。
自分のからだの闇から出てきた動きか、他の人のからだの闇から出てきた動きかの
違いなど何ほどの違いでもないのだ。
誰かから出てきた動きには直ちに共振することを続けた。
すると、闇雲にそれを続けているうちに、生徒たちも
サブボディとコーボディはくっきりと区別されるものではなく
ひとつづきのものであることがからだに染みこんできた。
さすがに舞踏祭むけの作品を創るときには、
時間もなくて自分のこだわりが全面的にでてきた。
だが、それはそれでいいのだ。
謎の深みは、わたしたちがいくら自分だけのこだわりを踊ろうとしても
自分だけしか知らない奇妙なこだわりと思えるものほど、
ただちに共振によってコーボディに転化してしまう不思議さにあるからだ。
その不思議をとことん体験することだ。
そして、サブボディとコーボディの間を自在に行き来しているうちに
なんだかわからない自他分化以前の非二元の生命に
成り込んでいることに気がつく。
はっきりしたものと思っていた自他の境界がじつは幻想に過ぎず、
実際にいつのまにか消えてしまっていることを体験する。
そこでは命がかすかにかすかにだが、しっかりと
世界中の悲惨と不幸と共振している。
おびえやふるえといった生命の祖型的な感覚から、
めまいに似た非二元の境地に至る。
そういう命になってはじめて、世界の未来という希望に触れることができる。
その境地まで降りていく坑道がすこしだけ見えてきた。
二十年かかった。
いや、若い頃からこの謎はからだの闇の底に沈んでいた。
一生かけて解くに値する生命の謎なのだ。
生命には数が通用しない。
個体としてのからだは確かにひとつふたつと数えることができる。
だが、あらゆる個体は40億年間とうとうと流れている巨大な生命潮流から
ほんの百年に満たない短期間だけ分離して個体の形を取るにすぎない。
その個体とおもっているからだでさえ、じつは
百兆個もの細胞生命からなる共振である。
個体の精神だと思っている自己意識もまた、
40億年間の生命の叡智の遺産の上に咲く瞬間的な花にほかならない。
いったいいくつの命があるのなどという問は意味を成さない。
体内にはその二倍もの細菌も共振している。
細菌もまた40億年間の生命の叡智を共有している。
300兆個もの生命の多次元共振が、
わたしたちが自分の体だと思っているものの実体である。
そして、個体として死ねば、わたしたちのからだを構成している有機的成分は
いったん無機物に物質化したのち、ふたたび他の生物の一部に取り入れられて
巨大な生命潮流に帰っていく。
そして、生きている間に創造した新しい共振パターンが、
生命潮流の遺産として他の生命体に役立っていく。
サブボディとコーボディという2つに見える形は、
じつはこの巨大な生命の謎をからだごと味わうためのものなのだ。

一即多、多即一
部分に全体が含まれている。
などの生命の非二元の謎をからだで解くための必須の媒体なのだ。



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 2012年8月12日

サブボディも小さな自我を持つ

産婆コースの人に留意してほしいことがいくつかある。
そのひとつは、サブボディがもつ小さな自我についてだ。
私たちは日常の自我を鎮めて、下意識モードのからだ(サブボディ)になりこむ。
サブボディは幼い頃に周りの親や教師的なひとに承認されず、
からだの闇の薄暗いところで長年うずくまって身を縮めて生き延びてきた。
それが突然この世に実際のからだをもってでてくる。
サブボディが生まれた頃がまだ自我が確立されていず、
未熟な自我をもったままからだの闇にうずくまっていた。
サボボディの特徴的な共振パターンは、
まだうまく共振の仕方を知らないこと(未共振=ディゾナンス)だと
前稿に書いた。
小さな自我は未共振だが、同時に小さな自我なりの振る舞いを持っている。
赤ん坊や幼児は、自分の欲望が満たされないときは泣き叫んだり、
暴れたり、困った行動をとって注意を引く。
「赤ん坊権力」だ。
「赤ん坊権力」は他者を支配下に置こうとするドミナンスという
自我の持つ特徴的な貧しい共振パターンだ。
サブボディも、ときとしてそういう態度をとることがある。
まわりに対してそういう否定的な態度をとろうとするときは
産婆はそれが自分のサブボディであろうと他の人のサブボディであろうと
それに素早く気づいて適切な処置を取る必要がある。
サブボディに対して、小さな自我が「赤ん坊権力」を振るおおうとしているよと、
そっと気づかせてあげる。
居丈高に批判したり、禁止したりするのは逆効果だ。
サブボディの小さな自我は、他の自我が対立してくると
さらに反抗的な態度をとる。
それは自我の宿命的なかわいそうな共振パターンなのだ。
最終的に自我を脱ぎ切るとは、日常の自我を鎮めるだけではまだ十分ではない。
あらゆるサブボディの小さな自我の鎮め方も覚え、身に付ける必要がある。
一生自我との闘いである。
自我は死ぬまでなくならない。
必敗の闘いなのだ。
だが、それをよろこびとすること。
そこにだけこのできそこないの「人間」の未来がある。
「人間」の世紀の次は、いったい何の世紀になるのだろう。
未来を楽しみとして生きることができるとは、
なんという慰めだろう。




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 2012年8月3日

思考モードとサブボディモード


松岡正剛の「千夜千冊」の最新稿『プルーストとイカ』(メアリアン・ウルフ)の中の
ディスクレシア(読字障害)に関する次の記述を読んでいて、
ああ、そうだったのか、と思い至った。

「ディスクレシアとは「読字障害」のことで、軽度のディスレクシアなら多くの者が罹っている。
有名な話だが、レオナルド・ダ・ヴィンチ、グラハム・ベル、エジソン、
オーギュスト・ロダン、アントニオ・ガウディ、アインシュタインはディスレクシアだった。
これらの名から想像されるのは、
ディスレクシアはひょっとして脳の一部のツイスト・トラブルではあっても、
かえって別の才能の共振に役立っているのではないかということだ。」

松岡はいいところに気づきかけている。
わたしも長い間読書家だったが、ヒマラヤへ来て瞑想し、
思考モードを止めて下意識モードのからだ(サブボディモード)に成り込む
訓練を長年経ているうちに、読書ができなくなってきた。
とくに、コンピュータや機器の取扱説明書のような、実用的な文がまったく頭に入らなくなった。
老眼が進行して、読字そのものが困難になったせいもあるかと思っていたが、
どうやら、サブボディモードの創造性と、ディスクレシア(読字障害)とは、
切っても切り離せないものなのだと気づいた。

松岡が名前を上げている、レオナルド・ダ・ヴィンチ、グラハム・ベル、エジソン、オーギュスト・ロダン、
アントニオ・ガウディ、アインシュタインらはみな稀代の創造力を発揮した人たちばかりである。
かれらもまた、言語思考モードを止め、独自にサブボディモードになる極意を獲得していたのだ。
舞踏の創始者土方巽もまた、サブボディモードに入る極意を心得ていたからこそ
あのような稀代の創造を生み出し得た。
土方はそれを「自他分化以前の沈理の関係」と呼んだ。
下意識が持つ無限の創造性は、二元論的言語思考と止め、
非二元のクオリア多次元共振に耳を澄ますことによって得られることが、
稀代の創造者に共通する秘密だったのだ。
そして、それは何も特殊な天才だけのものではない。
思考を止め、サブボディになりさえすれば、だれもが無限の創造力を発揮できる。
それは共振塾の生徒たちの創造性を見れば明らかなことだ。

松岡はさらにいう。

「この『プルーストとイカ』のイカとは、初期の神経生理学者たちが神経系の解明に乗り出したとき、
必ずやイカのぶっとい神経束を取り出して研究していたことを暗示する。
日本では松本元さんがヤリイカ神経系の取り出し使いの名人だった。
プルーストのほうは、説明するまでもない。
たいへん純度の高い読書家で、本を読むことと失われた時を求めることと、
それらのことを綴ることをできるかぎり一致させようと試みた。
 というわけで本書のタイトルは、
「プルーストが読書しているときにもイカの神経が動いている」という意味なのだ。


このイカに象徴される生命の神経系の働きこそ、
多次元クオリアと共振する下意識モードの特徴である。
イカは文字を読まない。ただ生命の多次元クオリア共振に従う。
わたしがサブボディモードになったときは、
イカと同様の脳神経状態になっているに違いない。
もっとも、わたしはイカではなくウミウシのようだなといつも感じてきた。
(「舞踏論第一部第7章他参照)
スイスでのワークショップを終え、ひと月半ぶりにモンスーンのさなかのヒマラヤに帰還して、
しばらくは湿度90%というモンスーンの大気と命が共振し始めるのを待った。
ぐったりとウミウシのようになって、モンスーンの大気にからだを浸し、
ジェットラグが解消されるのを待ち続けた。
湿気がじわじわと皮膚に染み込むに連れ、
ウミウシだった頃の多次元共振感覚が少しずつ蘇ってくる。
もとのからだに戻るのに一週間かかった。
いや、まだ完全とはいえない。
これからたっぷりと毎朝の調体を続ける必要がある。
いくら山中とはいえ、ヨーロッパではあらゆる時空が情報に支配されている。
なかなかいつもどおりのウミウシに変容することは難しかった。

情報がまったくないヒマラヤでこそ、はじめてわたしの生命は
ただ外界の自然や内界のクオリアに共振する存在に帰ることができる。

普段ヨーロッパの情報文化に包まれている参加者たちは、
思考を止め、サブボディモードになるのに相当の困難を味わっただろう。
ヒマラヤの共振塾に入って当初の生徒たちが出くわす困惑の大きさも計り知れない。

なぜ、ヒマラヤだったのか。
15年目にしてはじめてその理由が納得できた。

だが、それもつかの間、来週からは新しいビザの申し込みに、
情報洪水の日本に行かなければならない。
そこではウミウシで居続けることは不可能だ。

わたしたちが直面している次の課題は、
いかにスムーズにプルーストの思考モードと、
イカやウミウシのクオリアモードとの間を自在に行き来する
ツリーリゾーム技法を深化することにあるようだ。



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 2012年7月30日

生命の共振性

人間の自我は地球上で生まれたもっとも貧しい共振性をもつ。
自我は自己だけを肯定することにキュウキュウとしていて
自己以外のものは自分独自の基準で判断し、規定し、否定する。
人類はもうこんな貧しい共振パターンしかもたない自我を脱ぎ、
人間という思いあがりを脱いで、
生命としての豊かな共振力を取り戻すべきときが来た。

スイスから、ドバイを経てデリーに付き、
デリーからダラムサラ行きの夜行バスが出る
マジュヌ・カチラという難民チベット人のキャンプがある街に降り立った。
その路地を歩くと3分毎に脚のない人、腕のない人に出会う。
よろよろと手を差し出しその日の喰いぶちを求めてくる。
あいにく小銭もインドルピーも持っていなかったわたしは、
彼らに首を振ってやり過ごすごとに胸が破れそうになる。
インドは共振力の試金石だ。
ヨーロッパの街では身体障害者の乞食に出会うことは少ない。
綺麗に街から清掃されて人々の目につかない場所に
隔離されてしまっている。
そんな綺麗な街からヒマラヤにやってくる生徒にどうすれば
あらゆる生命状態への共振力を取り戻す訓練ができるのか。
デリーでショックを受けて、3日でアメリカに帰ってしまった生徒もいた。
いろいろな訓練法を考えたが、みな胸をつぶすようなものばかりだ。
ひとたび人間の自我の心はスタズタに破れてしまわなくてはならないのだ。
それがどんなに苦痛をもたらすことか、痛いほど分かる。
だから今日までたじろいで、回り道ばかりを通ってきた。
だが、もうそんなことではやっていけない。
この課題に正面から取り組むべきときが来た。
今年の後期は共振力を正面に据えた厳しいものになるだろう。






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 2012年7月23日

未来の生命の萌芽形態


あらゆるものは共振している。
それぞれに特有の共振パターンを持っている。

自我、サブボディ、コーボディ、生命の
固有の共振パターン


自我に特有の共振パターンは主導することだ(英語ではドミナンス)。
サブボディに特有のそれは、まだうまく共振の仕方を知らないことだ(未共振、ディゾナンス)。
コーボディのそれは群れとしての共振だ(狭義のリゾナンス)。
生命の持つ共振パターンは無限である。あらゆる共振を含む広義のリゾナンスだ。
自我のドミナンスもサブボディのディゾナンスも、広義の生命共振に含まれる。
   特有の
共振パターン
 英語  
自我  主導   ドミナンス  広義の共振に含まれる
 サブボディ  未共振  ディゾナンス  広義の共振に含まれる
 コーボディ  群れ共振 狭義の レゾナンス  広義の共振に含まれる
 生命  広義の共振  広義のレゾナンス  広義の共振に含まれる


宇宙に存在するものは、すべて共振している。
ひも理論にいう最小サイズのひも(ストリング)から
銀河やブラックホールまで、
すべてはひもの共振パターンの違いによって生成する。
すべては共振しており、共振パターンは無数にある。
原初の生命は自己を複製できるという宇宙で生命だけが持つ
特有の共振パターンを持って生まれた。
宇宙史でおそらく私たちが知るかぎりはじめてのことだ。
しかも40億年間それを絶えず新しい共振パターンを創発し、
更新し続けてきた。
生まれた当初の初原生命は
ごくわずかな共振パターンしか知らなかった。
酸素とさえ共振できずに地中水中深く隠れ住んでいたのだ。
それが40億年の間に数えきれない新しい共振パターンを創発し、
無数の種に分化してきた。
だが、まだ水銀やカドミウムなどの重金属や放射能とは
うまく共振できない。
それらが生命に対して強い催奇形性を持つからだ。
うまく共振できないものとは安全距離を保って
良い共振方法が見つかるまで待つ。
それがたえず良い共振方法を探し続ける生命の
気の長い戦略だ。

自我はなぜ世にも貧しい共振パターンに縛られているのか

自我(エゴ)がもつ特有の共振パターンは、
たえず自分が主導し、判断し、決定しようとする点にある。
また、たえず自己を正当化しようとする物語を生成し続ける。
よいものは自我に属し、悪いものはすべて他者のせいにする。
自我は自分の基準で他者を規定し、否定する。
そういう特権を持っているという幻想に包まれている。
それは生命の持つあらゆる共振パターンの中でも
とても惨めな狭い共振の仕方である。
人間だけだ。こんなみっともない共振パターンに囚われているのは。
おそらく自我は人類の初期、数百万年前に類人猿から分岐して以来、
森や草原でもっともひ弱い種として存在を始めた弱小時代に
起源を持つ共振パターンであるに違いない。
か弱い種はそれぞれの仕方で自己を守る。
人類がか弱いのは単に物理的にではなく、
群れの持つ共同幻想にたいしてか弱い点にある。
その時代時代の共同幻想に対してそれに背いていないことを
絶えず自己正当化しなければ生きていけなかった。
古代ではそれに背けば直ちに死を意味した。
初期の小さな共同体はか弱い人類の小さな群れを維持するための
さまざまな共同幻想(教えや儀式)からなっていた。
トーテム、成人儀礼、先祖儀礼、埋葬儀礼などなどだ。
やがてそれが神話となり、部族国家の共同幻想に転化していった。
自我の起原は古いとはいえ、古代人の自我は今日に比べて
はるかに小さなものであったろう。
それが強大化し、普遍化するのは近代になってからである。
資本主義が単独化された労働者を必要とした。
近代西洋で発達した個人主義は、団結しない個人ばらばらの
労働者群を生産するための資本主義国家のイデオロギーである。
それを長年刷り込まれた近代的市民が自分たちを支配する
国家を支える構造が出来上がっている。
そのシステムには民主主義という美しい名前をつけられている。
現代とは、自我と国家が相補的に支えあう構造が完成した時代である。それを解いたのは近代以降の自我と国家の
<臣民的相補性>を発見したミシェル・フーコーである。
国家が死滅するにはそれを支える自我が変わらなければならない。
逆に言えば自我が変わり、消失すれば
それと相補的に支えあっている国家も存立基盤を失って死滅する。

ノマドリゾームにおけるリゾクラシーの実験


長い道程には違いない。
だが、生命はたえず良い共振の仕方を求め続けている。
やがては自我も国家もない未来社会が実現するだろう。
今、わたしたち舞踏家が、サブボディやコーボディに変容する
ノマド・リゾームという生き方を実験しているのは、
その未来社会の萌芽形態を見つけるためである。
言葉による議論を必要とする議会制民主主義は、
高度に発達した国家の情報管理技術によって操作される。
だが、情報は生命共振を操作することはできない。
ミンデルやエコロジストのいう深層民主主義(Deep Democracy)は
民主主義の虚偽から抜けだそうとする志向性を持つが
いまだに人間や民主主義という幻想に囚われている。
民主主義は国家の完成形態なのだ。
生命は人間という幻想を脱ぎ、民主主義という幻想から脱し、
国家支配そのものを消滅することを求めている。

未来社会の萌芽形態

人々が生命共振だけでうまくやっていく方法をみいだす
未来のリゾクラシーの萌芽形態ををすでにノマドリゾームでは
身につけつつある。
当初は最小限の言葉による交通を必要とするが、
じょじょに言葉を必要としない生命の瞬間共振が生まれつつある。
この実験が未来社会の実現につながっていく。
論議や情報操作なしに生命共振だけで何とかうまくやっていく
リゾクラシーの細部がこれから無数に発明されねばならない。
道は遠く、行く手には多くの未知の困難が待ち構えているだろう。
だが、生命は良い共振の仕方を見つけるまで
永遠に試行錯誤を繰り返しつつ、それを待つことができる。
この実験を生きることはおおきな生命潮流に参加することなのだ。
私たちは常に同行衆を求めている。
集まれ、そして実験と発明を続けて、分散していこう。
ノマドリゾームという新しい交通形態の萌芽が
いまや世界中にできつつある。
楽しいではないか。
未来の生命のために人生を実験で満たすのは。

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 2012年7月22日

自他分化以前の生命へ!

スイスでの一ヶ月ワークショップは終わった。
予想外の豊穣な収穫があった。
最終週の写真のアップロードはもう少しかかるが
成果だけは先に確認しておきたい。
この一ヶ月にわたしは、今年の共振塾ヒマラヤの
前期のエッセンスをすべて凝縮した。
とりわけ、次の点に重点を置いた。

1 調体技法を身につけること
2.コーボディ創造を突き詰めること
3 癇の花を咲かせること

1.調体技法
調体は、心身を日常体モードから、サブボディモードに調整することだ。
からだの凝りやこだわりを解き、思考モードから
からだの闇のかすかなクオリアに
耳を澄ますことができるようにもっていく。
とりわけ、自己催眠技法を身に付けられるように
最初から自覚的にガイドした。
からだの凝りやこだわりを呼吸やゆらぎ瞑想などで解きほぐしたあと、
ゆったりソファーなどにくつろいで、
「ゆったりする、ゆったりする、一、二、三・・・」
と、胸の中で唱える。
すると、ただちに下意識モードのからだに移行することができる。
この技法さえ身につければ、
いつどこでも命の無限の創造性に触れる
サブボディ・コーボディの練習を自分で続けることができる。
さいわい、ほとんど全員がこれを身に着けることができたようだ。

2.コーボディ
今までは、サブボディとコーボディを一日交代に深化する
練習プログラムを組んできた。
今回のスイスではほぼ毎日サブボディとコーボディを
同時に創造するようにした。
コーボディとは共振するサブボディでもあるが
同時にサブボディの背後世界でもある。
背後世界の中でサブボディを一ヶ月深化し続けることで
最後の週にはいままでにない深く多彩な背後世界コーボディと
サブボディが出現した。
個人主義に慣れた西洋の参加者が自我を消し、
死者としてさまざまな背後世界コーボディに無限変容する姿は
この上なく美しかった。
両者は別物でないので切り離さず、
一挙同時に深めていくべきことがわかった。
この収穫は今後の共振塾での授業をも変えていくことになるだろう。

3.癇の花
あらゆる命はあらゆるものと共振しているが
うまく共振できないクオリアをも常に抱えている。
それが癇だ。
その問題に絶えず直面し続けること。
スイスでは第1週の初日、二日目からこれを導入した。
ほとんどの生徒は自分の問題に直面し続けたが、
参加者の中にはそれに耐え切れず去った人も出た。
あまりに早くから自分の癇を花に転ずるという舞踏の本質を
提出しすぎたのかもしれない。
一年あればなんとかこれに対処できるのだが、
短期ワークショップでの課題が残った。

とりわけ、自我を消してコーボディに変容するとは、
土方の言う「自他分化以前の沈理の関係へ」、
生命の非二元世界へ降りることであることに気づいた。
サブボディとコーボディの間の謎は、
自他未分化な非二元世界への坑道につながっていたのだ。
そこにこそ探求するに値する生命の舞踏の道が存在する。



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 2012年7月14日

衰弱体舞踏は水俣への共振から出発した

スイスでのワークショップは第4週目を迎える。
最後の週は衰弱体を学び、自分の中にもっともか弱い生死すれすれの生命の共振をさぐる。
それが衰弱体にいたる坑口であり、からだのむしり方である。
衰弱体を形だけ学んでも自分の中に衰弱体の必然がなければ
形骸にすぎない。
からだの闇をむしりにむしり、誰にも見向きもされず、
ひっそりと死のほとりにたたずんでいるかすかな傾向に耳を傾ける。
ほとんど身動きできないクオリア、
長年縮こまって自由を失ったクオリア、
不自由なからだで這い出そうとするクオリア、
ひと目に触れたらただちにしぼんでしまいそうな命、
そういう祖型的なクオリアは、すべての細胞の奥深く記憶されている。
40億年の生命史で命が出会った苦難は並大抵のものではない。
それら思い出せない深層記憶を掘り出す。
それを踊ることではじめて、あらゆる命と共振する命の舞踏になる。
自我は決して障害者や不具者と共振できない。
劣ったもの醜いものとして自分の外に解離し、
自分をそれとは関係しない安全圏に置く。
その自我を消さねばならない。
自我は自分がすべてを決する主体だという幻想にとらわれている。
その幻想を消すのだ。
そうしてはじめて、この世のあらゆる不幸と共振できる。

土方は1968年の伝説的なソロ「日本人と土方巽」、
後に「肉体の叛乱」と名付けれられた舞踏を踊った後
2年間一切の活動を停止した。
そして午前中はひとり練習場の二階にこもり、
彼の死んだ姉と同じ着物を着、髪を長く伸ばして
姉と共振し続けた。
彼の人生を何千回と襲った姉をめぐる悪夢を
踊るべく時が近づいていた。
土方は語っている。

「私は私の身体の中に一人の姉を住まわしているんです。
私が舞踏作品を作るべく熱中しますと、
私の体の中の暗黒をむしって彼女はそれを必要以上に食べてしまうんですよ。
彼女が私の中で立ち上がると、私は思わず座り込んでしまう。
私が転ぶことは彼女が転ぶことである、
というかかわりあい以上のものが、そこにはありましてね。
そしてこう言うんですね。
「お前が踊りだの表現だのって無我夢中になってやってるけれど、
表現できるものは、何か表現しないことによって現れてくるんじゃないのかい。」
といってそっと消えてゆく。
だから教師なんですね。
死者は私の舞踏教師なんです。」


表現しないことによって現れてくるもの。
生命のかすかな共振だ。
自我や自己を脱いだときにだけ、
生命があらゆる境界を超えて、生きとし生けるものと、
そして死者とも、あらゆる不幸とも共振していることに気づく。
土方はこの世のあらゆる衰弱体を収集した。
らい病、
疱瘡、
寝たきり老人、
赤剥けの犬、
死にたがっている猫、
そして、水俣だ。
1972年、京大西部講堂での舞踏公演では、
「すさめだま」の最後に床に敷き詰めた戸板の下から、
舞踏手たちが水俣病の人々のかじかんだ肢体で
むくむくと立ち現れてきた。
その瞬間の衝撃は未だに忘れることができない。
それは、高度成長に向かう華やかな日本の
裏面を目の当たりに見せるものだった。
水俣問題は大きな社会問題であったにもかかわらず、
あらゆるモダンダンス、モダンアートの誰一人として
それに共振するものはいなかった。
ただ土方一人が衰弱体舞踏を創発することによって
共振してみせたのだ。
どんな醜く歪んだからだでさえ、最適の序破急を発見しさえすれば
かつてない美に転化しうることを目の当たりにした。

生命は水銀やカドミウムなどの重金属とはうまく共振できない。
それらが強い催奇形性を持つからだ。
3.11の福島原発事故以降、おびただしい放射能が
大気と太平洋にばら撒かれた。
放射能が持つ催奇形性は重金属の比ではない。
いま、太平洋の海底では無数の生命体の細胞が
突然変異によって奇形化している。
想像力を全開して、その悲惨と共振せよ。
それが生命と共振する舞踏家の使命だ。
いや、もちろん自我や自己に囚われた踊りを深めるのもいい。
生命史全体から見れば、生命とうまく共振できない
自我や自己も凝り固まった「人間」という奇形の一つだからだ。
あらゆる不具や奇形も死者も悲惨も美に転化しうる。
土方の言う「癇の花」とはそういうことだ。
とはうまく共振できないクオリアの総称である。


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 2012年7月8日

舞踏の深化とはなにか

スイスでのワークショップは第3週目を迎える。
第1,2週では、サブボディ舞踏技法のエッセンスを
駆け足で練習してきた。
さまざまな調体技法、探体技法によって、からだの闇の
多彩かつ微細なシグナルといかにコンタクトするか、
の坑道のたどり方を産婆してきた。
まず、からだの闇のむしり方を身につけなければ
何も始まらないからだ。
それは駆け足というより、参加者にとっては
全速力走に近い速度だったと思う。
一日二日の短期ワークショップならば
一つだけポイントを絞って体験してもらうことになるが、
一ヶ月という中期のワークショップで
サブボディ技法の全容に触れてもらうには
その速度で走ることを余儀なくされる。
消化不良は承知のうえで、もっと深めたい人には
ヒマラヤに来て長期の鍛錬に入ってもらうしかない。
第3週からは、創造プロセスに入る。
ここらで、舞踏創造にとって、深化とはなにかを
明らかにしておこう。
深化は、基本的に無限細分化と重層化の過程をたどる。
そして、単なる練習の中から、自分固有の秘密にたどり着く。
Ⅰ 無限細分化
調体技法の第一段階は、全身が粗大な震えやゆらぎなど
単一の動きで構成される。
それを、からだの各部分に細分化して落としていく。
からだを脚、体、頭に三分割し、それをさらに指、手、手首に三分割、指を第一関節、から秘関にまで分割する。
あるいは、脚を通る十二の経絡に分割する。
それぞれの経絡が独自のクオリアに共振する。
などなどだ。
体全体、体の部分、細部へと細分化し、
最終的にはまつげや口角などの微細な細胞群の
ディテールの踊りにまで細分化する。
ディテールは多次元的に異なるクオリアに共振することによって
多次元キメラ体に深化する。
神経も粗大な感覚・運動神経から、じょじょに細分化し、
細部の微細なクオリアに反応するに至る。
目は、日常的な目から、目腐れ、目の巣、複眼、皮膚への参加、
そして秘膜各層が第三の眼に転化する。

Ⅱ 無限重層化
一つ一つの調体を組み合わせ、重層化することによって、
無限に複雑な多次元重層体となる。
秘関、秘筋、秘腔、秘液、秘膜の五秘が共振し、
体感、運動、視覚、聴覚、情動、関係、世界・自己チャンネルが
複合的に共振する。
からだの全体(Body)、部分(Part)、細部(Detail)、背後世界(Behind World)の4つがそれぞれのクオリアで蠢きはじめる土方の
BPD-W技法を身につけることができるのは、
この無限重層化を深化する中においてである。
物理的な外クオリアと、細胞内に保存され、記憶された
内クオリアとが結ぼれあい、一体化することによって
単なる動きがはじめて踊りに転化する。

Ⅲ 固有化
以上の無限細分化と重層化を進める中で、
自分固有の鮮深必をたどり、必然の踊りを見つける。
からだの闇に沈む<癇>すなわち、<うまく共振できないクオリア>を
何とかして最適の序破急を見つけて美に転化する。
どんなややこしいクオリアも<花>、
すなわち舞踏マジックによって美に昇華しうるのだ。
固有の解けない謎、秘密を運ぶからだを土台として
はじめて固有の花が開く。

Ⅳ 創造を命に返す

これらの深化をたどり抜くことによって、
世界でただひとつの花秘謎に満ちた
命にとって必然の舞踏創造が完成する。
それは、出会ったサブボディ・コーボディの動きを
繰り返し練磨し、上のⅠ、Ⅱ、Ⅲを深化する。
練習はときに一人で、または固定された少数の仲間とともに
練磨研鑽するが、ときに公開ワークショップや定期クラスによって
技法を絶えず世界に開いていく。
そして、機会をつくって人前で公演する。
今、オランダでクリスチンは、今年の前期に創りあげた
踊りを繰り返し公演している。
何度も公演するによって観衆との共振離見を磨きながら
サブボディ・コーボディを育てていく。
それによってはじめて踊りが世界に開かれたものになる。
本当の創造は個人のものではない。
私たちは数多のものを生命の40億年の遺産から受け取っている。
あらゆるクオリアはこの遺産に基づくものだ。
私たちはそれをもとに創造する。
創造とは限られた素材や条件のもとで
新たなクオリアの共振パターンを発見することだ。
私たちは発見した新たな共振パターンを生命に返す。
たとえ、障害を持った体や精神でさえ、美になりるし、
誰もがそれを使って創造者になりうる。
それによって生命全体の遺産である多数多様な共振パターンが
少しだけさらに豊富化する。
それが創造だ。
私たちは創造を生命に返すことによって、個としては死んでも、
創造した共振パターンが巨大な生命潮流の中で
共振によって受け継がれることによって
類として生命に帰ることができるのだ。


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 2012年6月18日

ノマド=リゾームという新しい生き方


共振塾では、これまでにノマド劇場という、
場所を随時に移動しながら、サブボディ・コーボディ劇場の実験を続けてきた。
これまではヒマラヤ周辺にとどまっていたが、
ようやく世界中に拡がるときがきた。
すでに共振塾が終了したあと、多くの生徒がアジア各地に拡がり
様々な活動をして、おおくのコネクションやルートを開拓している。
今年の夏場はスイスのピットがフェスティバルを渡り歩いて、
公演やワークショプを展開する。
ノマド=リゾームの実験だ。
来年は幾つものフレキシブルなグループが、
ノマド=リゾームとしてヨーロッパ、アジアを渡り歩きはじめる。
離合集散が自在なのがリゾームの特徴だ。
行く先々で古い生徒やそのグループが合流し、
瞬間的に共振して、また面々が分離していく。
現在の個人主義的な傾向が浸潤した世界では、
群れに対する無意識的な忌避感が深く私たちを捉えている。
群れに関わるとそれに食べられ、
自分をなくしてしまうのではないかというおびえがある。
それは現代の世界に貧しい群れしかないからだ。
群れになると画一的な立ち居振る舞いを強いられるという
体験をみんながしている。
そして、その忌避感の空隙に国家という幻想の共同性が忍び込み
疎外された幻想の共同性を打ち立てている。
孤立した個は、それに対してなずすべもない。
そうではなく、限りなく豊かな多様性と創造性を保った
豊かな群れのあり方を発明する必要がある。
それがノマド=リゾームだ。
それはどんな共同の幻想も持たない。
出自にとらわれず、
出入り自由、連結・分離いつでも自在。
出会い頭に共振によってあらゆる形に変容する。
そういう群れだけが国家のヒエラルヒーを無化していく。
国家なき未来社会の萌芽形態なのだ。
リゾームは集団に依存せず、自立して行動し、
率先し、共振し、自在に連結し、分離する
個でも群れでもない多数多様な変容体である。

誰の中にもリゾームの種があり、芽がある。
群れの中心になると自分でなくなりそうで、
かつ群れから離れると生きていけない不安にとらわれる。
それは生命にとって原生的な祖型情動である。
そういう群れと孤立の間で震えている
かすかなかすかなおびえをさぐれ。
そこが、サブボディとコーボディの秘密の坑口だ。
今年はスイスと後期の共振塾で、
私はコーボディ創造の産婆となろうと思う。
来年以降の、世界ノマド=リゾームツアーに向けた
新しい実験が始まる。

リゾームになれ。
たったひとつの秘密になれ!
無限変容体として、あらゆる国境を超えていこう。



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 18 June, 2012

Become Nomad-Rhizome!


We has developed Nomad Rhizome Thater which performs moving among various place as subbody-cobody around Himalaya for several years.
Now we are going to spread to the world as Nomad-Rhizome.
Rhizome is a novel way of Life. It can be connected at any part of body and separate freely. It is neither individual nor group. It is infinite transforming being relaesed from all boundaries which bound us as modern human being.
We are bound by so poor social relationship which Ego and Ego conflicts.
Why we, as an individual doesn't like the gorup. Because there are only poor group or society which binds our Life.
Life doesn't like to be bound and to be forced.
Life wants to be much richer resonance which all of us can open full creativity, originality and resonativity.
We need to invent to be a rich group which can develop diverse originality.
Subbody and cobody is non-dual oneness for Life.
It's is Nomad-Rhizome.
It is opposite of Tree system.
There is no leader, no center as the social Hierarchy.
Listen to your darkness of body. Life is shivering between group and alone. If you enter into the center of the group you cannot breathe, but if you separate from group you cannot survive. It is a proto qualia of Life.
We will start from the proto qualia, and invent a novel way of Life Resonance.

Become Rhziome!
Become a Secret!
Start a novel way of living!
'Nomad Rhizome Troup 2013 will be a great experiment of Life.



Read more 'Sinking into the darkness of body'


 2012年6月16日

変性意識状態へのさまざまな坑道


今年の舞踏祭も無事終わった。
膨大な写真を選択し、コメントともに編集する作業もほぼ終えた。
ジオとパンが助けてくれた。
ビデオの編集はスタッフのバブルに一任するつもりだ。
かつてない規模と密度の創造が次から次へと踊りでてくるのを
連日目の当たりにする壮絶な体験だった。
毎年、初夏と晩秋に2週間続く舞踏祭の最中は
からだがとんでもない状態になる。
毎日何千枚もの写真が上がってくる。
それを吟味し、編集し、コメントを書き、
アップロードするだけで毎夜徹夜になる。
インドは大変接続環境が悪いので、
写真30枚をアップするのに一晩かかってしまう。
おまけに、生徒全員がサブボディを統合しつつ、
互いの作品にコーボディとして躍り込むことで
無限のクオリア変容を体験しているのと共振して、
わたしのからだの闇でもさまざまなクオリア群の間の境界がなくなり、
いわば超伝導状態のような抵抗のないクオリア流動が起こりだす。
これは、またとない贈り物なのだ。
今年もこの間、謎の一つだった舞踏論の「癇の花」をめぐる
大きな気づきがやってきたり、
長年行き詰っていた「生命・共振・クオリア」が突然走りだしたり、
ときならぬ事態が起こった。
たいていそれらは、写真のアップも済んだ明け方近くになって
体力の限界を超えたもうろう状態のときに
わたしの中の誰かが起き上がって一気に書き始める。
今朝の「炸裂姫」と「樺美智子」さんもそうだ。
ほぼ一昼夜以上の断眠の末にでてきた。
からだはへとへとでも、
誰かがむっくり起き上がって書き始めるのだ。
これまでも、いつも舞踏祭が終わる頃には
瀕死かつ最高の透明状態となって
異空異時にさまよい出した。
去年は、チベット仏教の生死の境をさまよう「バルドー」状態になって
ヨーロッパまで運ばれていった。
目に入る景色すべてがこの世の最期の記憶となるんだろうなあと思いながら、
こんな記憶もあの世には持って行けないものだと思うと、
見るものひとつひとつに心のなかで訣れを告げながら旅していた。

今年は極度の睡眠不足状態がもたらす
ある種の変性意識状態の坑道をよたよたとたどっている。
からだの闇を掘るとは、下意識モードへの、
あるいは変性意識状態への
さまざまな坑道を掘り進めることなのだ。
下意識と変性意識の違いも定かではない。
用語に囚われている暇などない。
とにかく少しでも変になれば、
ここぞと脳心身ごと突っ込んでいく。
老年期になれば若い時ほどの睡眠は
必要なくなるのかも知れない。
あるいは睡眠不足を苦にしなくなってきただけかもしれない。

このさまざまな変性意識状態の探求を通じて
ようやくこれまで書きなずんでいた
<調体>について透明な見通しが出てきた。
これが変性意識坑のもっとも大きい果実だろう。

下意識といい、無意識といい、変性意識といい、
いろいろ異なる名称が混在しているのは、
様々な分野の人がそれぞれの側面から
捉えようとしてきたことが原因だ。
無意識はフロイドやユングら精神分析や
深層心理学からの側面での用語だ。
催眠や催眠療法の分野の人はどちらかというと
無意識という定義が無数にある用語を好まず、
下意識という言い方をする人が多い。
無意識というとまったく触れられないものという語感があるが、
催眠によるといくらでもその領域に入っていけるので
下意識のほうが適しているのだ。
ミンデルはそれら手垢にまみれた用語のすべてを嫌って
この総体を構造として区分するのではなく
プロセスとして捉えるという方法を発明し、
独自に「第一プロセス」と「第二プロセス」という
い言い方を工夫した。
グロフはLSDの薬物から変性意識を研究し始め、
LSDが禁止された後は過呼吸によって変性意識状態になる
方法を見つけ出した。
古代アニミズムやシャーマニズムは、
また、まったく独自のアプローチ法をもつ。
各宗教はまた、固有の変性意識への変容技術をもつ。
けっして変性意識というようなネガティブな呼び名は使わない。
逆に、<信>という絶対肯定的な用語を使う。
そこからも学ぶものは多い。
囚われさえしなければ。

わたしは、それらのすべてにとらわれないように用心して
それらをひっくるめて「からだの闇」と呼んでいる。
意識とからだ、こころとからだが分離しているかの
様相を持っているのは実は意識にとってだけで、
下意識域では、下意識とからだが分離せず、
非二元一如になっているので、「サブボディ」と呼ぶ。
サブボディはまた、単独ではなくどこかで共振している共振体でもある。
共振するサブボディの側面をコーボディと読ぶ。
この区別は便宜的なもので、二元論的な実体的区別ではない。、
融合や相互移行を含んだ非二元一如の共振そのものである。

サブボディメソッドの根幹をなす<調体>技法は、
これらあらゆる坑道を通って、サブボディモード、
すなわち、下意識のからだモード
あるいは変性意識状態のからだモード
に移行する技術である。
この領域にさまざまな角度や側面からアプローチしてきた
すべての人々の坑道をくまなくからだでたどり直して
はじめて、その総体が何であるかがつかめてくる。
一つだけのアプローチの枠に閉じこもっていれば、
その側面からだけしか捉えれらない。
群盲象を語るの謂になってしまうのだ。
サブボディ・コーボディはもちろん、
下意識や変性意識はリゾーム的な多数多様体であり、
非二元かつ多次元的な共振そのものである。
入口や出口が無数にあるのが特徴だ。

これまで毎日やっている<調体>についてうまく書けなかったのは
まだわたしにそのときが来ていなかったからだ。
ようやく、これらすべての坑道を
ひとつに統合できそうな日が近づいてきた。
鍵はそれらすべての現象を<共振>として捉え返すことにある。
きたるべき新稿<生命・共振・クオリア>は
<調体>の秘密を解いていく場になるかもしれない。


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 2012年6月15日

樺美智子さん、ありがとう。

あれはもう、今から14年も前のことになる。
1998年の6月、樺美智子さんが夢に降りてきて、
とても大事なことを告げてくれた。
それがわたしの日本脱出のきっかけになった。
その時以来彼女は、
わたしにときどき大事なことを告げてくれる
世阿弥、土方とならぶ、賢者の一人になった。
その時の文章を思い出したので再掲します。
この時起こったことは、いまだに不思議な謎なのだ。


二十の人格、千の変幻虫へ


この6月15日、
1060年6.15安保闘争デモで死亡した樺美智子さんが
舞い降りてきて耳元でささやいた。
「Leeさん、もう嘘を踊るのはお止し」
その途端にきづいた。
自分がいかに自己欺瞞的な踊りに陥っていたかを。
いろんなダンサーのネットワークをつくったりしているうちに、
丸い嘘っぱちのキャラクターが前に出て、
本音を見失っていた。
自分の中には眠っている二十もの異なる人格がある。
そいつらをすべて自分だと引き受けて解放してやれ。
二十どころじゃない。
千のフェチ、千の狂気、千の死者。
そうだ、みんな俺だったんだ。
反戦運動のオルグだった17歳の俺。
1967年10月8日 ベトナム反戦デモで同級生山崎博昭死亡。
全共闘。
その後、数えきれないほどの友人が機動隊との衝突や内ゲバで死亡。
あるいは精神病院で自殺。
日本での緑の党づくりの失敗。
戦争の中の日付のない死。
エイズの死。
民族紛争の死。
家族の中の戦争の死。
そんなことを尻目に楽しいことだけ踊ろうとしても、
昔の死者たちが一緒に踊りに出てきてくれないのは当然だ。
俺のダンスは世界に開いていく。
自分の中の死者たちと踊る。
世界をパートナーに踊る。
自分の一番深い地下茎から踊る。
あなたも自分の根を踊れ。
そうすればきっとどこかに通じるワームホールが見つかるはずだ。
世界中をもぐらの穴だらけにしよう。
そこを伝染熱として駆け抜けよ。
・・・・・・
さらば! 土方巽、安らかに眠れ。
野口三千三、安らかに眠れ。
父よ、母よ、眠れ。
フーコー、ドゥルーズ、ガタリ、
みんなみんな安らかに眠れ。


このとき大風が吹いてわたしをかさらった。
この月、当時住んでいた京都市左京区の
古い日本家屋の家を劇場に変造して
「伝染熱」と「変幻虫」を踊ったのを皮切りに、
7月、タイ・インドで踊り、
8月、9月、フランスで踊り、
10月、ベネズエラで踊り、
12月、日本で踊った。
翌年も、翌々年も、そのコースを更に拡大して踊りまわる
3年間の世界ツアーがはじまった。
3年後から定住の地を探しはじめて、
ダラムサラ・ヒマラヤインドに共振塾を開いた。
わたしではない、なにか見知らぬ力がわたしを拉しさった。
その大旋風の源となったのが
樺美智子さんのひとことだった。
このことがなければ、今のわたしはない。
共振塾ヒマラヤも存在しない。
やはり、樺美智子さんはわたしにとって
炸裂姫なのだ。

樺美智子さん、ありがとう。
安らかに眠っているふりをして、
ときどきはまた、誰かの耳元で
とてつもない真実をささやくのでしょうね。



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 2012年6月15日

炸裂姫

からだの中にひとりの炸裂姫が棲んでいる。
脳の中に、かも知れない。
眠ろうとして横になっったとき、
突然脳の中で激しい炸裂が起こる。
強い物理的な衝撃を伴う。
最初は脳の血管が破れた衝撃だろうかと恐れた。
だが、もう数年になるがまだ脳溢血は起こっていない。
いったいなんなのだろう?
脳細胞が死ぬときのクオリアが脳全体に
衝撃波として共振するのだろうか。
いろいろ推測してみるが、まだ真相はつかめない。
幻聴の一種なのだろうか。
わたしにはもうひとつの持続的な幻聴が続いている。
絶えず、地虫の鳴くような音が鳴っている。
京都の西京区に住んでいた10年以上も前のことだ。
最初は実際の地虫、すなわちオケラの鳴き声だとばかり思っていた。
幼い頃和歌山ではよく聴いた。
だが、その土地を離れて地虫などいないところで寝ても
聴こえてくるので幻聴だと思い当たった。
幻聴とは、脳内のグリア細胞に保存された内クオリアが
勝手に共振して音として感知するものだ。
脳には幻想のクオリアと実際のクオリアを区別することができない。
脳にとっては聴こえるものは実際の物理的な音であれ
幻聴であれ、どちらも等しく音として感知される。
炸裂姫も、地虫と同じく幻聴の一種ではあろう。
だが、こちらのほうは激しい物理的な圧迫や
衝撃をともなうので、幻想の衝撃、
幻撃
とでも呼ぶしかない新種の幻聴なのだろう。
この幻撃に、炸裂姫という名をつけたのは、
謎の恐怖だからだ。
恐怖に姫という名をつけるのは、
台風に女性名をつける習慣と似ているのかもしれない。
私の三歳のころ、紀伊半島を襲ったジェーン台風という
大きな台風があった。
台風の間中、私はぐっすり眠り続けていて
まったく記憶はない。
だが、台風の激しい風雨から玄関のガラス戸に
内から畳を押し当てて防護していた祖父が風で舞い上がった
板に直撃されて頭が割れた。
頭から大量の血を吹く祖父を父が病院までおぶって運んだ。
父は、てっきりもう背中の祖父の命はないと覚悟していたと
大きくなってから聞いた。
だが、幸い祖父は一命をとりとめた。
頭を半分に横切る斜めの縫い傷が、
まざまざと衝撃の深さを語っていた。
わたしの炸裂姫もその恐怖とつながっているのかもしれない。
学生時代に頭を割られて命を落とした友人・辻敏明の
記憶が頭の中で炸裂しているのかも知れない。
からだの闇の謎は深い。
考えても分かることではない。
だが、あれこれ頭の中で共振ているクオリアを
透明に感じようと続けていると、
ときおりこれだ!という当たりに出くわすことがある。
それしか方法がない。
透明になること、
それしか。

今日は樺美智子さんの命日だ。
1960年6月15日、安保条約反対国会デモで、
警官隊にメッタ打ちにされて
命を落とした戦後最初の学生だ。
樺美智子さん、
安らかに眠っていますか?
わたしの中の炸裂姫の正体は、
あるいはあなたの無念とも共振してるのかも知れませんね。



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 2012年6月6日

舞踏の<花>の共振的生成


今回の舞踏祭では、
生徒の一人が闇の中で踊ることを試みた。
それは劇場では視覚以外の体感で踊りと共振する
とてもいい方法だ。
わたしはそれに写真とビデオ撮影のための
最小限の光を懐中電灯で補助した。
するとその小さな光は、
踊り手がからだの踊り場を次々と変化させて変容していくとき
今、からだのどこが図で、どこが地であり、どんな兆しが
背後世界から迫っているかを示す導きになることに気づいた。

16 場所を変えることの難しさ

 

    体こそ踊り場であろう。手の踊り場、尻の踊り場、肘の裏の踊り場等。

    この場所が持つ深淵は、この踊り場にはさまってくるものを克服し、

    からみつかせる事により成立する。

    例えば、柳田家があり、柳田家の庭にクジャクがいるという事をたいへんに

    貴重なものであるという発見をする。

    また、カン工場という場所は、私にとってなつかしい粉末というものによって

    語られる。

    それらが踊る際の血液になっているのだ。


こういう踊りの血液の流れを観衆と共有できてはじめて
衰弱体の踊りが成立する。
踊りの花とは、踊り手の主観だけではなく、
踊り手と観衆との共振によって生まれるものだが、
さらにそれを支える光がとても重要である。
とくに衰弱体の舞踏では目立った大きな動きは少ない。
ごく微細な変化が心身に起こる。
大劇場では無理だが、サブボディ・ホールのような小劇場では
観客はごく間近で刻々と起こる舞踏者のからだの微細変化と共振できる。
それを支えるには、小さなフラッシュライトがもっとも適している。
踊りの微細な<花>は、からだの踊り場をつぎから次へと変えて
クオリアの変容流動が起こっているさまをリアルタイムに支える光によって
はじめて踊りと観衆との間で共振的に生成する現場が生まれる。
土方の第一世代の弟子の多くは大劇場公演を指向したが、
大劇場ではこういう微細な生命共振の技法は捨象される。
それに代わって大仕掛けや美術的な見かけなど
粗大な要素が優先される。
第一世代が世界に流布したBUTOHが、空疎な印象しか与えないのは
踊りに血液を通す微細な生命共振技法が受け継がれなかったからだ。
今回の舞踏祭の劇場内の公演のほとんどすべてを
小さな光で追い続けることで、この<花>が共振によって
生成していくプロセスを身を持って体験した。
せっかくからだの各踊り場に固有の血液を通していく技術を
身につけかけている踊り手が見せようとする微細なディテールは、
それを支える特殊な微細照明がなければその味わいを
観衆と共有できるものにはならない。
舞踏はその誕生の現場・小劇場を離れては粗大な芸当に堕落する。
小劇場でも踊り固有の序破急や図地兆がわかっていないと
この照明は無理だが
この微細な共振技法は今後生徒たちに共有され生かされていくだろう。



 2012年6月5日

自己を脱ぐ、共振革命。

前項で、<うまくいかないクオリア>と
<うまく共振していないクオリア>について書いた。
私自身長年このふたつをうまく区別できていなかった。
前項のもととなった2008年の記事でもそうだ。
だが、このふたつの間には大きな階梯がある。
からだのなかのもやもやもやとした不快感を
<うまくいっていないクオリア>として捉えたとき、
わたしたちはそれをうまくいっていないのは自分のせいだとして
自責の念に囚われる。
そして不快なことを忘れ逃れようとする。
自我や自己に囚われている日常意識にとって
それはごく普通の反応だ。
生命の無限の創造を開くためには、
この自己への囚われを脱ぎ捨てることが大事だ。
だが、自我や自己を消せと言われて消せるものではない。
ヒントはわずかに焦点をずらすことだ。
からだのもやもやや不快感を感じたとき、
それを<うまくいっていない>と捉えると自我が出る。
自我は嫌だとすぐ逃げようとする。
そうではなくそれを、100兆個のからだの細胞が感じている
クオリアのうち、何かのクオリアと何かのクオリアが、ただ
<うまく共振していない>と捉えると自分の責任ではないことがわかる。
かすかなかすかな<クオリア同士がうまく共振していない>感じ
そのものに耳を澄ますことだ。
これが自我や自分を脱ぐコツだ。
あらゆるものを自己を中心に捉えるのではなく
共振として捉え返すこと。
これが脱自=共振革命だ。
創造は自己表現度ではない。
クオリアとクオリアが出会って新しいクオリアが生まれる。
それは命の創造なのだ。
自己を表現して、成功したいとか、有名になりたいとかという
ちっぽけな自我感情をさっぱりと脱ぎ捨てることだ。
わたしたちは40億年の生命史から実に多くのものを受け取っている。
あらゆるクオリアはこの生命史の遺産である。
わたしたちはこの生命の遺産であるさまざまなクオリア共振パターンを
生命から受け取り、クオリアとクオリアの新しい共振パターンを創造する。
そしてそれを生命に返すのが公演やワークショップなどの行為である。
それによって個としては死んでも、
新しく創発されたクオリア共振パターンは生命史のなかで生き続ける。
創造とは個から類への転生なのだ。
自己を脱ぐこと。
あらゆるものを共振として捉え返すこと。
ここから未来の脱自=共振革命がはじまる。



 2012年6月5日

命の語法


命から意識へいつもかすかなメッセージが届けられている。
それは意識の語法とは異なる。
言語を使わないで伝わるものだから、
言語に慣れきった意識にはつかみにくい。
だが、ひとたび命の語法を会得すれば
つねに命とコンタクトすることができる。
私が外部からの言語情報の外圧のないヒマラヤで
探求してきたのはこの命独特の語法だ。
いくつか確かなものが見つかっているのでご紹介しよう。

からだのなかのもやもや

朝目覚め前にからだのなかのもやもやとした体感を探る。
すると、そこには一晩中命がやっていた仕事の残り香りが漂っている。
夜中に命がする仕事は、
その日に起こった新しい体験のクオリアを整理することだ。
新しい体験はひとまず脳の海馬というところに保存される。
そして、一晩かけてそれらの一時記憶のうち
長期記憶として保存するべきものと、廃棄するものに振り分けられる。
どういう仕組みでその選別が行われているのか?
眠っている間におそらく命はその日に得た新しいクオリアと
過去に保存した内クオリアとをひとつひとつ突き合わせ
どういう共振が起こるかを試している。
そして既存の内クオリアとは異なる新鮮な共振が起これば
それは<新鮮なクオリア>として特定のグリアに永久保存される。
そしてこの新鮮なクオリアに対し、
既存のグリア一つひとつと突き合わせが行われる。
夢の中でさまざまな映像やストリーリーが展開されているのは、
この突き合わせ作業で起こっている出来事の反映だ。
そして、その新しいクオリアと既存の内クオリアとの間で
強い共振が起こればその新しいグリアと既存のグリアとの間に
ニューロンの分枝が形成される。
それが奇妙で新鮮な体感として
明け方のからだのもやもやのなかに漂っているあの独特の
クオリアだ。
もやもやのなかにこの<奇妙かつ新鮮なクオリア>を見つければ、
それをつかんで離さないことだ。
しばらくからだの闇のなかで揺すぶっていると
それがどんなものかが浮かび上がってくる。
それは新鮮な気づきや発見をもたらしてくれる。
<新奇なクオリア>
―これが命からの第一の語法だ。


新しく長期保存された新入りクオリアは、
だが、それ以外の無数のクオリアとはまだ、
密接な関係確立していない。
それは<どことなくしっくりこない>とか、
<落ち着きの悪さ>という
つかみにくい奇妙な体感として感じられる。
明け方のもやもやの体感の中に、
この<落ち着きの悪さ>のクオリアが見つかれば、
それは新しいクオリアが創発された証拠である。
それはまだ定住して周囲と確かな共振を確立していない。
よい共振を探ろうと変容流動し続けている。
落ち着きの悪さのクオリアをからだの中で転がしていると
そのうちその新参クオリアが保存されている内クオリアと
新しい共振を創発することが多い。
この<落ち着きの悪さ>が命からの第二の語法だ。

以上は一時記憶から長期記憶に変換されるプロセスでの
かすかなクオリアだ。
命の仕事は、だが、それだけではない。
もっと根底的に、昼間の意識がなにかに囚われて行っていることに対し
命が違和感を感じたときは<なんとなくそぐわない>とか、
<かすかな不快感>のクオリアを発する。
ーこれが共振する生命からの第3の語法だ。
それは何かのクオリアと何かのクオリアが
うまく共振していないことを知らせるクオリア
だ。
ここには根底的な命からのメッセージが含まれている。
命はいつもあらゆるクオリアとうまく共振する方法を探っている。
共振欲こそ命にとってもっとも根源的な欲望なのだ。
命から発する、<かすかなそぐわなさ>や、
<何ともいえない不快感>のかたちで届けられるものこそ、
もっとも大事な命からのメッセージである。
フォーカシングのジェンドリンがいう「フェルトセンス」や、
ミンデルの「センシエント」は、すべてこの命の語法に
耳を傾けようとするものだ。
このかすかな不快感をつかんだら握りしめて手放さないことだ。
ごくごくかすかなものだが、このメッセージを解くと、
大きな発見に至ることが多い。

毎夜見る夢のなかでは、さまざまな映像やストーリーや
ビジョンとして現れてくる。
だが、夢の具体的な映像やストーリーは
その日に蓄積された一時記憶を長期記憶に変換するかどうかの
より分け作業の最中にアトランダムに古い内クオリアと結びつけられ
保存するかどうかの線上で発生したものなので
偶然の産物であることも多い。
夢を見たら、その夢の特異な映像やストーリーばかりではなく
その夢に漂う体感クオリアをつかんで、
からだの中でしばらく頃がしているとそのまま消えていくか、
前記の三大クオリア、
<新奇さ>、<落ち着きの悪さ>、そして
<かすかな不快感>のどれかに帰着するかする。
この三つは命にとって大事なものだから、
忘れないように握りしめてからだの闇で揺すり続ける。
するといつしかそれと共振するクオリアが見つかって
何を言おうとしているのかが解けてくる。

十数年、命の技法を解こうとしてきた。
ようやくみっつばかりの少しは確かなことを
つかみ出すことができるところまできた。
それらは酷似しているので見分けにくいかもしれないが
あえて分別する必要はない。どちらにせよ、
<なにかのクオリアとなにかのクオリアがうまく共振していないクオリア>である。
共振を求める生命にとって祖型的な不快感に属するものだ。
からだの中にそれまでになかった感じ悪いものが感じられたら
それこそ創造の大チャンスだと思えばいい。

(この記事は2008年2月7日の「からだの闇」の記事に
手を入れ改定したものです。
「共振日記」に載せたナターシャのニューヨークからの手紙で
フォーカシングに触れられていたので、この記事を思い出した。
サイトでは古い記事へのリンクが壊れてしまっているのに気づいたが、
膨大なのですぐには修復できそうもない。
そのうち、これまでの探求を
新稿 「共振する生命」に再編統合していく予定です。)



 2012年6月4日

岡龍二、山崎博昭、山沢夙!?

私はこのサイトの記事を、Livedoorブログの
「生命共振ヒマラヤ」というブログにも掲載している。
今日ふと、何気にそのブログに来た人の検索キーワードを見て驚いた。

なんと、岡龍二、山崎博昭、山沢夙という何十年も前の名前が上位を占めていた。
岡龍二はわたしの戸籍上の姓名だ。
踊りをはじめて、リゾーム Lee という名に変えるまでは、その名で生きていた。
山崎博昭は高校時代の同級生で、
1967年10月8日に、当時のベトナム反戦・佐藤訪米阻止闘争の中で、
羽田弁天橋の上で命を落とした。
山沢夙は、わたしの高校から大学時代に属していた過激派活動の中でのみ使っていた秘密のペンネームだ。
この名前を知っていいる人間は40年前の同志しかいない。
十指に満たない人数のはずだ。
誰か昔の同志が、ネットを検索してここまでたどり着いてくれたらしい。

古い友よ、今どうしているか。
俺は最大の迂回路を通って、当時と同じ世界変革を追求し続けているぜ。
戦争という現代最大の暴力は、今日では兵器だけではなく、
原発や、情報管理力に姿を変えて生命をおかしている。
それらの既得権力を守るために一握りの世界資本が国家を維持している。
国家は彼らにとってだけ必要なもので、生命にとってはまったく必要ないものだ。

世界を変えるためには、一見遠すぎる迂回路に見えるかもしれないが、
人間としての自我や自己を沈静化し、
生命としての共振を回復することがもっとも重要だ。
国家を支えているのは私たちのなかの「人間」という幻想だ。
人間の自我と、国家とが相補的に支えあっているのが現代の構造だ。
何十年も前にフーコーが発見した支配原理だ。
自我と国家は人類史の無明の時期に同時に生まれ、
数千年かけて育ってきた。
一挙同時に死滅するしかない。

昔の運動の中には、自我や自己を消すという発想がなかった。
むしろ覚えたての近代的自我を拡張して闘っていたのだ。
革命政治の中に巻き込まれたとき、私たちの未熟な世代は、
互いに小さな自我を、党派の自我に拡大して内ゲバの殺し合いをはじめて自滅した。
スターリンや毛沢東も彼らの自我を党権力に拡張し、
そしてそれを国家権力に無媒介に拡張して
スターリニズムという共産主義の奇形を生んだ。
国家の死滅や、権力の死滅という最終的な目標を
どうすれば実現することができるのかという
思想的な見通しがまったくなかったために
そういう陥穽に落ちこんでしまったのだ。

私はあの闘争の敗北の後、その原因を探る暗渠に潜った。
死に物狂いの、しかしまったく成果のない数十年を経た後、
俺は40代になってから、舞踏家に転生した。
わたしの処女作となった踊りの真の作者・山崎博昭や
やはり若くして内ゲバで死んだ辻敏明とともに
世界を踊り回った挙句に
今のヒマラヤ山麓に隠遁の地を見つけた。
それまで毎夜夢枕に立ち、何ごとかを語りかけようとしていた
彼らは俺のからだに憑依して踊りまくることで気が済んだのか、
夢魔はすっかり消えた。
それが俺のサブボディ(下意識のからだ)との出会いになった。
そこはチベット亡命政権のあるダラムサラという山村だった。
ダライ・ラマやインドの書を読み、瞑想や、自己催眠の方法を学び、
ユングやミンデルやジェンドリンの助けを借りながら、
自分なりにからだを揺らしながら下意識モードのからだになり、
日常意識を消す方法を見出した。
それが今のサブボディ・コーボディ技法の出発点になった。
7年前にここに小さな国際的な舞踏学校を建設し、
いまでは世界各地から熱心な生徒が集まってくるようになった。
彼らはここで、2,3年間、生命の創造性と共振性を発揮する方法を見につけ、
毎年世界に産婆として散っていく。
産婆とは他の人の自我や自己を鎮め、からだの闇に潜んでいる
サブボディの誕生を手助けをする人のことだ。
わたしがここで直接産婆できるのは、
生涯を合計してもたかだか千人に満たないだろうが、
彼らの活動を結ぶ世界的な生命共振ネットワークが生まれつつある。
何人もの古い生徒がすでに世界各地で拠点をつくり
活動を始めている。
千人が万人になり、何十万人に増える日も遠くない。
人間としての自我や自己を脱ぎ、
生命としての共振を生きる人々が
地球上に一定程度増えたとき、世界は自ずから変わるだろう。

奴隷制や封建制が人々を支配していた時代のさなかに生きていた人々にとっては
それがなくなることなど、想像もできなかったろうが、
それらはあっけなく消失した。
世界中の生命がそんなものは必要ないと感じ共振したからだ。

現代の国家がなくなることを、
現代の日常生活に囚われた人々は
想像もしないだろうが、
国家もまた時が来れば消失する。
生命にとって必要でないものは、
生命共振の力によって消えるのだ。

これがヒマラヤで見出したわたしの迂遠だが
もっとも確実に世界を変えていく世界革命戦略だ。

こんなことは普段は誰にもしゃべらない。
わたしひとりの胸裏に押し込めている秘密だ。
それをことばにする気にさせてくれたのは、
遠い友よ、きみのおかげだ。
きみならわかってくれるかも知れないと、
かすかに思った。
死ぬまでもう会うこともないだろうが、
元気でやってくれ。

ヒマラヤに来る気になったらいつでも大歓迎だ。
泊まる部屋もある。
朋あり、遠方より来る。また楽しからずや、だ。
数十年ぶりに語り明かそうではないか。



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2012年5月30日

眠れ Lee


一日のうちに何度となく、「眠れ Lee」とつぶやく。
それは長年、自分の意識の覚醒度を落とす呪文となってきた。
覚醒度が高いと、意識は日常の規矩に囚われて、
ごく一部の脳内クオリアしか共振の対象にならない。
その制約を緩める技術がとても大事なのだ。
半眠半覚のしどろもどろ状態のときに脳内クオリアは
もっとも自由に共振できる。
だがこのことはなかなかうまく人に伝えることができない。
今年の新入生にもまだ十分に伝えることができていなかった。
こういう肝心なことは、いつも期末になってから気づく。
フェスティバルの期間は、各生徒が自分のリハーサルの前に
調体をガイドし、自分固有の背後世界や深淵にみちびくのだが、
新入生のなかには時間に追われていることもあって、
いきなり自分の世界に事細かな言葉で
急ぎガイドしようとする生徒がでてきた。
それではまったく逆効果だ。
難しい言葉を使った途端、言語チャンネルが刺激されて
日常の意識モードに引き戻されてしまう。
日常の自我や自己には十分に他の人のクオリアに共振できない。
からだを気持ちよく揺するとかゆらぐとかの状態に導くことが
日常の思考モードを鎮める上で大切なのだ。

三ヶ月も毎朝調体を体験した生徒はその原理を
からだでつかんでいることを期待していたが、
生徒によってはまだその原理を
つかんでいない人がいることに気づいた。
ただ、気持よくガイドされるに任せて、何が起こっていたのか
自覚できていない。
だが、それはそういう調体の原理を詳しくかみ含めて
伝えることができていなかった産婆としてのわたしの落ち度である。
この舞踏祭が終わった後の最後の週に調体とはなにかを
もう一度ちゃんと伝える必要に気付かされた。
その授業を準備する過程でいくつかの新しい気づきがやってきた。
調体の過程で起こっていることを
すべて共振として捉え返す可能性に気づいた。
そうか、調体のプロセスの場こそ、
まだない共振言語が生まれる場所だったのだ。
このプロセスをこれまでうまく言葉で言い表すことが
できなかったのは、それが純粋な生命共振だったからだ。
共振は主語述語のある二元論言語では捉えることも
記述することもできない。
特別の共振言語を発明する必要があるのだ。

必要は発明の母、とはよく言ったものだ。
まさしく生徒に伝える必要が、共振言語の発明を促している。
しばらくはこの促しに従おう。
眠れ、Lee
もっと深く、眠れ。
しどろもどろの夢ご心地でサブボディさんが
共振言語を取り出すまで眠れ。


2012年5月28日

胎道遡行から生命遡行へ


からだを最もいい状態に持っていくのが調体技法だ。
だが、もっともいい状態とはなんだろう。
それはおそらく<いま>、<ここ>という
日常の結界が消え去り、
からだの闇を時空をこえて行き来できる
融通無碍の心身状態になることだ。
覚醒された日常の意識状態では、
パゾプレシンなどの<いまここホルモン>に支配されて、
日常的な4次元時空に縛り付けられている。
その束縛から解き放たれることが調体のエッセンスである。
調体一番や二番のふるえやゆらぎに身を任せることで
心身はしだいに日常的な<いまここ束縛>から解き放たれて
しどろもどろの夢心地に入っていく。
これは自己催眠技法の応用である。
とくに、自分で揺れるのではなく、なにものかに動かされる
という受け身のからだになることが大事だ。
心地良い小刻みなふるえやゆらぎは、
胎児時代のからだの状態と非二元の夢心地に導いていってくれる。
そして、時間も空間も超えて脳内クオリアが共振している
素の生命状態に近づくことができる。
私たちの脳心身は夜間の睡眠時にはその状態に近づく。
夢が無限の創造に満ちているのはそのためだ。
一日のうちに何度もうたた寝をすることで
何度もその半眠半覚状態に入ることができる。
ヒマラヤでいつのまにか睡眠サイクルが赤子のような
不定期のリズムになってきたのは、
すこしでも長くその最良の状態に入るためだったようだ。
都会の日常生活のなかでそれをするのは困難だろうが、
暇があるときは少しでも日常から離れてゆらぎに身を任せ、
うたた寝をすることをおすすめする。
その状態が生命のもつ無限の創造性と共振性に触れる
もっとも良い状態だからだ。
昨日も書いたが、サブボディ・コーボディに変容するとは、
日々時を問わず、生命をさかのぼり、はせ降りることだ。
子どもとなり、赤子となり、胎児となり、
その前の無数の生命形態となり、
単細胞の原初生命となって命の願いを問う。
「何が一番したいんだい?」
サブボディ=コーボディ技法のすべては
その半眠半覚状態のときにやってくる気づきから
生まれてきたものだ。
わたしの悪い頭で考えだしたものではない。

調体技法は、その状態に入る入口と
そこから出て日常の覚醒状態にもどる出口の
両方が大事だ。
昨日生徒のひとりが登校中に車にはねられ、
崖下に落ちて怪我をした。
くれぐれも街を歩くときは細心の注意をもって歩くこと。
わたしも過去なんどか車をよけようとして
崖下に落ちたことがある。
くれぐれもご注意を。
サブボディ技法は命がけの修練だ。



2012年5月26日

中島みゆき こどもの宝


わたしは一日に小刻みに3,4回眠る。
うたた寝する前に聴いて,
一番不思議な深淵に連れ出されるのがこの曲だ。
何回聴いても違う坑道につながっていく。

(聴くにはここをクリック 
(wmaファイルを開けるプレーヤー(Window medea playerなど)が必要です。)


「見覚えのあるあの少年が
遠い昔を抜けだして
わたしに気づかず
わたしの隣で背伸びして佇んでいた
見覚えのあるあの少年が
遠い昔を抜けだして
わたしを知らずに
わたしにもたれて遥か未来を眺めていた
あの子の宝はなんだろう
あの子の願いはなんだろう
いまのわたしの願う宝は
あの子とおなじものだろうか
見覚えのあるあの少年が
遠い昔を抜けだして
わたしを見上げる
私は目をそらす
教えてやれることはまだない

あの子の宝はなんだろう
あの子の願いはなんだろう
いまのわたしの願う宝は
あの子とおなじものだろうか

見覚えのあるあの少年が
遠い
わたしを抜けだして
わたしを見上げる
私は目をそらす
教えてやれることはまだない」

あの少年とは中島みゆきのアニムスだろう。
人はだれもがからだの闇に棲むもう一人の異性の自分を持っている。
「遠いから抜けだした少年」が最終節で
「遠い
わたしから抜けだして
わたしを見上げる」
に変容することでその種が明かされる。
だが、そのアニマやアニムスと自分との関係は
無限に深い謎を秘めている。

わたしの中にも一人の少女が棲んでいる。
だが、会ったことも見たこともないので顔もわからない。
いきおいわたしたちはそのアニマ像を外部に投影する。
わたしたちが無意識に惹かれるのは
もうひとりの謎の自分にどこか似た子なのだ。

だが、この歌が導いていってくれるのは
もと遠い昔、
わたしたちが自分の中の異性と分離する前の
非二元一如の時代だ。
そのころわたしたちは何を願い、何を望んでいたのだろう。
思い出せない記憶の果ての果てへ問いかけてみる。

中島みゆきはその少年に
「教えてやれることはまだない」と結んでいる。
(教えてやれること?)
それも謎だ。
いつまでたっても教えてやれることなど
何一つ思いつかない。
それどころか、わたしにはその子に
教えてもらわねばならないことでいっぱいなのだ。
わたしはまどろみの中でその子に問いかける。
わたしときみはいつどこでふたつに分かれてしまったのだろう?
分かれる前にわたしたちが願い望んでいたことは何だったのだろう?
この問いにはどれだけ問こんでも
答えは返ってこないだろう。
だが、かすかなヒントでもいいから
なにかつかめないだろうかと問い続ける。

わたしたちはその子との一体であった時代を失うことで
いまのわたしになったはずなのだ。
そうだ。
この歌が導いてくれるのは、
わたしがわたしになる以前の命はどんなだったのだろう、
という遠い遠い問いだ。
そして、その命としてのわたしは何を願い望んでいたのだろう?

サブボディ・コーボディに変容し続けることで
問い続けているのもおそらく同じ問いだ。
日々無限に生命をさかのぼり、子どもとなり、赤子となり、
胎児となり、その前の無数の生命形態となり、
単細胞の原初生命となって命の願いを問う。


中島みゆきは命の謎に問い続けている
稀有な歌い手である。
何百回聴いても解けない謎を歌う人など
そうそういるもんじゃない。
こういう人と同じ時代に生まれただけで幸せだ。


(この記事は多重日記とからだの闇の双方に
掲載します。)

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2012年5月19日

生命クオリアの祖型


ここ数年の「静かな家」探求のもっとも大きい成果の一つは
生命クオリアの<祖型>の発見にある。
生命の舞踏は、そこからはじまる。
ユングは無意識の深層の集合的無意識のもつ形式として
<元型>イメージを発見した。
影やアニマ・アニムス、老賢者、大母、童子、トリックスターなど、
人類の原始時代に人間の心の基層に宿り、
染み付いたイメージの元型群である。
<元型>概念を拡張すれば、
フロイドが発見した自我や超自我も<元型>である。
ユングはそれら自己チャンネルの<元型>だけに注目したが、
天国や地獄、災害、洪水といった世界チャンネルの<元型>も
世界中の民族が共有している。
そこを跳梁する妖怪や幽霊、鬼や神や悪魔や妖精、天使などもみな
<元型>である。

だが、それよりももっと深い形にならないものが<元型>を支えている。
人類がそれらの世界変動に直面するとき等しく命が脅かされ、震え上がる体動や情動・感覚の<祖型>群である。
元型は生命クオリアの祖型に支えられて出現した。

人類の心身状態を遡ると、それがはっきりする。
人類の祖先は700年前に類人猿から別れ、
アフリカで進化を続け、10万年ほど前から何回かに別れて
アフリカを出、世界各地に拡散してきた。
原始的な石器しか持たないか弱い原始人類の旅は
苦難と悲惨に満ちていただろう。
彼らの多くは剣歯猫や狼の格好の餌食になっていたことが、
考古学調査でわかってきている。
地震や洪水や寒波などの天変地異に手もなく襲われ、
生死スレスレのところで生き延びてきたのだ。
それらか弱い人類の祖先たちの恐怖に満ちた心身になりこんでみよう。
恐れや震え、凍え、引きつりといったあらゆる生命がもつ
原生的なクオリアが心身の大部を占めていた。
それらの祖型的な感覚や体動・情動に満ちたか弱い心が
無数の<元型>的なイメージを創りあげ、世代を超えて受け継がれてきた。
ユングは、西洋の学者だから有形的な形になったイメージに着目した。
だが、それら有形のイメージの基礎には無形の感覚や情動・体動が
息づいていたはずだ。
意識優先の西洋的な知性はそれら無形の情動や体動・感覚を
取るに足りないものとして跨ぎ越してしまう。
認知の枠外に追い出されてしまうのだ。
からだの闇に耳を澄まし続ける舞踏家だけが
それら無形の祖型情動・体動・感覚に通暁することとなった。
土方は、「静かな家」という最後のソロのための覚書きに
舞踏家はそれら祖型的な情動や体動・感覚に
通じていなければならないことを繰り返し強調している。


5 精神のかげりとして捉えられたもの

  

   きわめて緩慢な少女

   のびきったキリスト

   のびきったままおろされたキリスト

カンチュイン

狂王の手―虫、鳥、棒

坐せるカトンボ

これらはワルツによってほとんど踊られる

そうして、Xによる還元と再生はあの遠い森や、
目の巣から飛び立っている、

尚、死者は、これらのものにことごとく関与している

これらを舞踏するために、登場する何者かは、鳥のおびえ、
虫のおびえに、通じていなければならない。


9 (鏡の裏)

 

鏡の裏―光の壁

 密度を運ぶ自在さの中には、めまいや震えや花影のゆれがひそんでいる。

 

10 (メスカリン)

 

 手の恋愛と頭蓋のなかの模写は断絶してつながっている。

指さきの尖たんにメスカリン注射がうたれる。

そこには小さな花や小さな顔が生まれる。

 

12 崩れる

 

  叫びと少女―くずれてゆく前のふるえ

 

16 場所を変えることの難しさ

 

    体こそ踊り場であろう。手の踊り場、尻の踊り場、肘の裏の踊り場等。

    この場所が持つ深淵は、この踊り場にはさまってくるものを克服し、    からみつかせる事により成立する。

    それらが踊る際の血液になっているのだ。

 

19 (関節の小箱)

 

   関節の小箱―ハンス・ベルメール―武将―王女―虎

 

 

21 (はもん)

 

   背後からも内部からも襲われて、路上の花を摘む

   ふるえて、床にも、空にも、そのはもんは、拡がってゆく。

 

22 (ヘリオガバルス

 

   深淵図には複眼よりもむしろ皮膚への参加に注目されねばならない。

   ただ一回のヘルオガバルスがある、

   耐えるもの―それはめくるめく節度の別の顔であった

  

24 (ふるえ)

 

鏡をこするとゆれる花影があった

 1、耐え忍ぶ剥製のとほうもないきたならしさ

 2、牛と木のワルツがふるえている

 3、鏡をこすると背後からゆれる花影があった

 4、ふるえている

 5、路上の花摘―歩く盲―犬

 6、スプーン―老婆 

 7、ふるえている

 8、方眼紙の網目に小さな花や小さな顔がかかっている

 9、ふるえている

 10、床にも空にも

27 
武将は女王になり、女王は関節の箱におさめられるだろう。

  その箱のなかからの生まれ変わりがフーピーという踊り子である。

 

震え、おびえ、めまい、ゆらぎ、恐れ、縮こまり、わだかまり、
耐えるもの

―これらの祖型的な感覚や体動・情動が人間のからだの各部に
挟み込まれている。
それらは外傷体験やトラウマ、悪夢やノット・ミー、
解離された人格などの惨めな矮小化された形で
からだの闇にわだかまっている。
それらを克服し創造に転化する営みこそが生命の舞踏である。
それによって舞踏は、近代西洋流の自己表現や自我の主張という
人間に囚われた狭い近代的営みから脱却し、
生命の舞踏の深淵へ降りていく。
惨めな体験や困難なトラウマや解離された傾向は、
生命がまだうまく共振できないエッジ・クオリアである。
すべてのサブボディはそれらのエッジ・クオリアを背負って
からだの闇にひそみ長い期間を耐え続けている。
だが、それらも最適の序破急を見つければ
かつて存在しなかった美に転化することができる。
美とはこれまでに発見されていなかった生命の
新しい共振のしかたの発明なのだ。
それによってどんな惨めな体験や条件も創造に昇華する。

私たちは実に多くのものを生命から受け取って育つ。
それらの受け取ったものを創造に転化し、生命に返す。
それらによって生命はこれまでにない共振パターンを得、
生命のもつ多彩な共振パターンという財産を豊かにすることができる。
創造者は個としては死ぬことまぬがれられないが、
創造された共振パターンは豊かな生命潮流に引き継がれ
生き続けることができるのだ。
これが生命の舞踏の、創造と治癒のダイナミックなループである。
恐れや震えといった祖型的な感覚・体動・情動は、
そのダイナミックな創造ループの最大の材料なのだ。

ここ十年余、ヒマラヤで「静かな家」という巨大な謎に取り組んできたが、
これほど豊かな果実を手に入れることができるとは想像もしなかった。
去年今年の生徒たちの創造が、これまでにない命から命に伝わる
生命創造の深みと豊かさを獲得しだしたことが何よりの証拠だ。
それはまだまだ未知の財産を秘めもっているに違いない。
この豊かな生命創造の探鉱に参加する同行衆が増えることを願う。



2012年5月13日

命に耳を澄ます


週末はいつもたっぷり休む。
一日眠りのほとりでうつらうつらして過ごす。
そして、命にたずねる。
「一番したいことはなんだい?
今やっていることを全部チャラにしていんだよ。
それが命の一番したいことなら。」
ここ数年そう尋ね続けているが、いのちはいつも
ここ共振塾で産婆をしつづけることがもっとも気に入っているようだ。
生徒のサブボディはいつも流産スレスレの危機にあるし、
生まれる直前の苦しみに誰かがさらされている。
苦労は絶えないが、サブボディの誕生の喜びに触れたとたん
すべて吹っ飛んでしまう。
それほど、創造がもたらすものは大きい。
からだの闇で身動きできずわだかまっていた
あらゆる布置が再編されて新しく動き出す。
それこそが根源的な癒しとなる。
この世にはそうでないうわべの癒しが蔓延してしまったので
もうこの言葉は使えない。
どんな言葉でこの生命創造の癒しを語れるだろう。



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What is the Dream?



Our daily body beleive that the concensus reality which has three dimensional space, and dualistic difference of the things; body/mind, good/bad, right/wrong, up/down, in/out, self/others, individual/group, and so on, is only one reality of the world.

But, it is just the common illusion, the narrow consensus reality can stand up only in the physical realm on the earth, and it is supported by dualistic informations. For Life, there are
Life lives in non dual and multi dimensional world as same as the dream body.

 
2012年5月2日

ドリーム ボディをシェアする


今週は、「静かな家」の4-10章を学びながら、
各生徒が自分にとって忘れることのできぬ固有夢や、
人生で何度も繰り返しみる反復夢を思い出し、
それぞれの夢の世界に入り込みあった。
今日までに11の固有夢の世界にコーボディとして入って、
それぞれの夢の世界を共創し始めた。
そこはそれぞれに命にとって、深い謎が封印されている場所だ。
私たちが誰であるかは、
ほとんどその固有夢に規定されているといってもいいほどだ。
明日は近くのカングラフォートという古いインドの遺跡にいって
それぞれが自分の固有夢の布置に共振する地形を見つけて踊る。
そこには、固有夢から、さらに深い固有の深淵への坑道が
ワームホールのように開いているかもしれない。

じょじょに、今年の生徒たちの創造が煮詰まっていく。




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2012年4月30日

何が本当の現実で、何が幻想か



日常体は、この三次元空間や、日常規範に縛られた合意的現実をたった一つの現実と思い込んでいる。
正誤、善悪、上下、内外、自他といった二元論的区別も絶対だと信じている。
だが、それは真っ赤な幻想だ。
3次元空間など、地球の重力に支えられた狭い空間でだけ成立している
幻想だ。宇宙には上下も左右もない。
超ひも理論によれば、宇宙は11次元の振動する紐からできている。
あらゆる物質もエネルギーもひもの共振パターンの違いから生み出される。
命の感じるクオリアが共振によって無限に変容するのも、
それが振動するひもの共振パターンからなるからだ。
憑依や共時性や


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2012年4月28日

共振技法のメタスキルについて



どうしてもなかなか言葉になりにくいものがある。
技法を説明するときも、言葉ではいわく言いがたいものがいっぱいある。
共振塾の授業の現場では、それらは声音とか、からだの身震いとか、
生徒とのからだの関係距離とか、白板に描くイラストの消し方とか、
さまざまな体感言語によって踊られる。
だがそれらすべてを言葉に書くことはできない。
とりわけ自分が知らず知らずのうちに身に着けている
メタスキルについてはだれしも内視盲点になりがちだ。
ミンデルのメタスキルについては
後に彼の妻となるエイミーが気づいて一冊の書にまとめあげた。
遠藤亮及師のメタスキルについても、
誰かが書いて置く必要があるだろう。
自分の喋りの技術などに遠藤師自身は
価値があろうとは思っていないかもしれない。
だが、それは療法を成就するための必須の技法なのだ。
うっすら気づいていたとしても、それを書くことは照れ臭くて
自分では書けるものではない。
まるで自分が持って生まれた声の質や
言葉をかけるタイミングにさえ意味があるかのように
自慢するようだからだ。
だが、声音も、声をかけるタイミングも、
沈黙の間も、長い間の精妙な創造物である。
人とのからだの距離のとりかたも、そっと触れる触れ方も、
微妙な角度のとりかたも、ほとんど無意識裡の創造物である。
それらを透明化していくこと。
あらゆるものを微細な多次元共振として捉えること。
共振は起こそうとして起こせるものではない。
どちらからともなく発生する。
その微細な多次元プロセスをくまなく透明に見通し、
みんなで共有できるように技法化していくこと。
それもこれから共振技法を完成させていく上で
大きな課題となるだろう。
人類史でまだだれも手がけたことのない未知の領域だ。




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2012年4月28日

ミンデルのエッジワークと遠藤亮及師のタオ療法


週末はよく眠って命に聴く。
「何が一番したいんだい」
うたた寝のあと、雷がなって目覚めたとき、
不意にミンデルのエッジワークと、
遠藤亮(亮は口偏)及師から受けたタオ指圧が
激しく共振して一つになった。
ああ、おんなじことをやっていたんだと気づいた。

ここ数週間は生徒の抱えている難儀なエッジ・クオリアが
すべてからだに入ってきて、わたしのからだもヘトヘトになっていた。
13人もいるといつも誰かが下痢をし、
誰かが悪夢に襲われてパニックを起こし、
誰かは自我を抑えられずに苦しんでいる。
大半の生徒がいつも何がしかのエッジに直面して苦しんでいる。
産婆は生徒のからだに耳を傾け、
何が起こっているかを生命ごと共振する。
十人ものエッジクオリアが一挙にからだに入ってくるのだから、
たまったものではない。
十数年前、遠藤師に指圧を習っていた頃、
彼もまた西洋人生徒の自我エッジに直面して
たいそう苦しんでいた様子をありありと思い出した。
今の私もあのときの遠藤師の直面していた状態に似ている。
遠藤師は、被治療者から受ける邪気を
からだに残さないようにという言い方で注意を促していた。
わたしはまだそれらのエッジ・クオリアと
安全な最適距離を保つ技を身に着けていない。
もろに引き受けて抑えがたく共振してしまう。
だが、先週、一番エッジで苦しんでいた生徒から
タイ・マッサージを受けて肩のあたりの凝結が氷解した。
そこら辺に生徒全員のエッジが集結していたようだ。

おそらく、十数年前にはじめて遠藤師を訪ね、
指圧療法を受けたときも、3年ほどに及ぶ世界ツアーでの
異文化接触から受けるエッジが
無意識のからだに凝結して溜まっていたのだ。
腰痛はそのひとつのあらわれかただった。
わたしはだがそのことに気づかず、
ただ耐え難い腰痛を何とか治したいとあがいていた。
いろんな治療を試みたが効果がなかった。
そんなとき、たまたま読んだ彼の著書の裏表紙を開くと
彼の住所が当時私が住んでいた京都市左京区から
歩いて10分ほどのすぐ近くにあることを見つけて訪れた。
彼に全身指圧を受けながら、主に腰痛の症状を訴えた。
すると彼はのべつまくなしに喋りながら、
ここだろう、ここも効くんじゃないかと
主に下肢の外側面を走る任脈を探り当てた。
指圧の最後にそこをきつく圧されると、
腰痛は嘘のように消えていた。
その時の彼が喋りながら私のからだの凝結を探り当てる
手探りの体感を思い出したのだ。
それはからだの凝結だけではなく、
まさしくわたしの生命を見舞っているエッジ・クオリアを
探り当てていたのだ。
エッジ・クオリアは心身非二元域でひとつになり、
からだの凝結や悪夢となって吹き上がってくる。
遠藤師は、その喋りながらエッジを見つける技法については
著書でもほとんど触れていない。
4年間師事した中でも教えられた覚えはない。
自分自身でさえ気づいていない本能的なメタスキル
なのかもしれない。

ミンデルのエッジ・ワークでは最初から喋りながら
クライアントの苦情に耳を傾ける。
そして、それがからだにどんな苦痛をもたらしているのか、
ミンデル自身のからだにその苦痛を与えるように頼む。
そして、つぎはミンデルが同じ苦痛をクライアントに与える。
それを何回か繰り返すうちに、クライアントに気づきが訪れる。
(ああ、そうだったのか、なにか分けのわからないものに
襲われている気がしていたけれど、
自分の中の日常的な一次プロセスと、
気づいていない二次プロセスが衝突していただけなんだと)。
おそらくミンデルがクライアントと喋りながら、
そのからだに凝結している
エッジ・クオリアを探り当てる手つきは
遠藤師のタオ療法のそれと同じなのではないか。
遠藤師がわたしのからだをまさぐっていた手つきと
ミンデルの手つきとが重なってひとつになった。
それが雷で目覚めたときに不意に訪れた気づきだった。

気づきはいつもこういうふうに、
それまで別物と捉えていたもののあいだに
見えない共振を発見することとしてやってくる。
気づきとは隠れていた共振の発見なのだ。
これが何を意味するのか、いずれ明らかになっていくだろう。



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2012年4月20日

生命の祖型共振モード(書きかけ)


粘菌は私にとってサブボディ・コーボディとならぶ生命の師だ。
粘菌先生と呼んでいる。
和歌山の南方熊楠記念館から分けてもらった一株の粘菌を
ヒマラヤに持ち帰って増殖して一年ほど飼育しながら
その日々の微細な変化を見つめ続けていた。
粘菌先生には自我も自己も世界もない。
自他が分化する以前の生命の祖型を保っている。
土方がいう生命の沈理の世界を学ぶことができる。

粘菌先生は、周囲が心地よい温度と湿度を保っていれば
流動性を高めて、活動モードになる。
盛んに動きまわり周りの菌類などの食物を食べて成長する。
キイロタマホコリカビを飼育する場合は、
オートミールなどの炭水化物を与えるのが最適である。
だが、世界の湿度や温度がうまく共振できない域に入ると、
液状の流体からゾル状へ、さらにゲル状へとからだの粘度を高めて待機状態に変成する。
上のスライドにある網目状にゲル化した状態だ。
私が飼育しているときもしばしばこの状態になった。
粘菌先生機嫌を損ねましたか、とあれこれ手を打ったが
たいていはしばらくして死んでしまう。
これが飼育中出くわしたもっとも悲しい出来事だった。
生命はうまく共振する方法が見つからないときは、
この死を前にした状態でただひたすら待つ。
運良くうまく共振できる環境になるのを待つ。
運が悪ければ死んでいく。
そして、じょじょに湿度が低まったり、気温が変わって生存できない時期が近づくことを
うまく察知した場合は、一夜のうちに胞子嚢をもったきのこ状の個体に変身し、
翌日胞子を散乱させて散ってしまう。
転生モードだ。
私の人工的な飼育環境では、いちどもこの転生は起こらなかった。

私たちのからだの中でも、百兆の細胞は、これと似たような変容をし続けている。
活動中の粘菌ともっとも似ているのはニューロンやグリアなどの脳細胞だ。





(この記事は『多重日記』にも掲載します。)


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2012年4月5日

世界チャンネルの深淵

この何年間か,折に触れ、「世界チャンネルの魔」について
「多重日記」に書き続けてきた。
このサイトの多重日記のファイルは、何度かのコンピュータのクラッシュの折に
失われてしまったものもあるが、
避難先のブログ「生命共振ヒマラヤ」の「多重日記」のカテゴリーには
いくらか保存されている。

なぜ、世界チャンネルが深く恐ろしいのか、
今年のこの一ヶ月間の出来事を統合してはじめてわかりかけてきた。
そこでは世界像と自己像がひとつに絡み合っている。
そして、世界=自己像が、地震や津波、戦争など天災や人災で
生命が押しつぶされそうになったとき、
一挙に時を超えて、今ここでのクオリアだけではなく
分娩時の生死の葛藤体験のクオリアや、
人生でのもっともひどい体験のクオリアがひとつに混合一体化されて
押し寄せてくるのだ。
まさしく多次元かつ非二元チャンネルである所以だ。
そして、そのとき生命は日常の意識や感覚ではなく
生命の深層の集合的無意識層にひそむ地獄や災難の元型クオリアや、
それよりもっと深い生命としてのおそれやおびえなどの祖型情動も
混合一体化される。
さらに時を超えて保存されている生誕時に胎児が体験する
胎道を通過するときの生死の葛藤体験で味わった
極限的な圧迫感や閉塞感などの母型的な体感クオリアや
ふるえやよじれ、すくみなどの母型体動クオリアもまた
混合一体化されてぶりかえしてくる。
こういうことが起こるのが非二元の世界=自己チャンネルの特徴だ。
日常意識などはひとたまりもなく吹き飛んでしまう。
今日、何年かぶりに人間子宮ワークをやったおかげで、
これらの深層の複雑に重層化し混濁していた関連がすこし透けて見えてきた。

これまで、踊りの序破急の急で、世界チャンネルが開くと
一挙に踊りの味わいが深くなることに気づいていたが、
そこでは日常でかぶっている人間のころもなど吹き飛んで
裸の生命にされてしまうのだ。
まるごとひとつの生命チャンネルになるのだ。
生命の舞踏に至る道はかぎりなく深く遠い。
踊りが深くなることと引き換えに、
今回私が味わったようなわけの分からない非二元事態に襲われる危険がある。
その事態に対処できるよう生徒たちをすこしずつ鍛えていく必要がある。
産婆コースの必須科目がひとつ増えた。
こういう試練を経てサブボディメソッドと
その産婆技法が少しずつ安全なものになっていく。
時間がかかるが、しかたがない。

(「火急の男」からこの記事に至る一連の記事は
『多重日記』にも重複記載します。)

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2012年4月5日

わかった。世界チャンネルが開かれたせいだ。

今朝、授業でたまたま人間子宮をワークをやった。
10数年前のベネズエラの国際クリエイター会議でやって以来、
むかしはいつも始めに行なっていた。
だがいつころからか、わたしのなかの誰かが嫌がりだした。
みんなで大きな子宮になって中にいる胎児を締め付けるとき
何だかからだがつらくて、いやがりだした。
なんとなく気が進まなくなったといってもよい。
だがわたしはからだのなかにこれまで見知らぬかすかな傾向が
現れると、その正体をつかむまで待つことにしている。
今日、ジャビエールとクリスチンがカロッタで穴蔵をみつけて踊ったので
これは彼らのサブボディが胎内遡行をしたがっているのかもしれないと
試しに二人にやってみたのだ。
すると、私の中に忘れていたつらい感じが立ち込めてきた。
うらいというか、きついというか、
とにかくとても嫌な体感なのだ。
それで気づいた。
この間私のからだの中にたちこめている急ぎ男のクオリアが、
胎内体験の世界チャンネルが開かれた結果急に活性化したのだと。
多分わたしはとてもひどい胎内時代を過ごしたのだ。
一歳切違いの腹違いの妹がいる。
ということは私が母の胎内にいた頃、父親は新地のおんなと付き合い、
母親はそれを呪い狂気寸前まで追い詰められていた。
フクシマショックで世界チャンネルが押し寄せてきたとき、
私の胎児時代のひどい世界体験が無意識裡によみがえって
私を浸潤していたのだろう。
世界チャンネルの深さと怖さを思い知った。
深い踊りを求めるあまり、
生徒の世界チャンネルを開くことを軽率に急いではならない。
スローダウン。
もっとゆっくりと歩むテンポを見出すことだ。



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2012年4月4日

誰が入ったいわたしを急かすのか 

わたしのなかにいつも全速力で走っていなければ気がすまない男がいる。
速いことがいいことだと、長く教育された。
答案用紙に「正しい」解答を埋める速度を求められる教育だった。
だが、そんな自分だけが速ければいいという
エゴイスティック『正しさ』とはいったいなんだ。
この世の教育がねじ曲がっていることに若いころは気づけなかった。
おまけに陸上競技部だったわたしにとってとにかく闇雲に走っていなければ
生きている気がしなかった。
若いころ広告業界でコピーライターとして働いていたときも
膨大な情報を一刻も早く消化して、要求されているコピーに
料理する速度に支配されていた。
40代のはじめに、それらの速度信仰がこの世から刷り込まれたものだと
気がつくまでトライアスロンにはまっていた。
20代の若者と速度を競い合えるのをよいことだという錯覚に囚われていた。
踊りをはじめたとき、それらの囚われから自分を解放したと思っていた。
なのになぜ今頃またそいつがぶり返してきたのか。
どこまで自我を鎮めようとしても、
自我は見知らぬ回路でいつのまにか自分の中に居座っている。
自我の持つ罠にはまだまだ底知れない狡猾さが潜んでいる。
何百万年も狡知を磨いてきた自我元型のもつ底知れぬ強力さによって、
自我が現代最強の元型としてはびこっている。
現代社会から遠く離れ、ヒマラヤに隠遁した私でさえ
やすやすと自我元型の狡知な罠にはまってしまうのだ。
膨大な情報速度に支配されている現代社会では、
自我の罠から身を剥がすのは並たいていのことではないにちがいない。
いくら鎮めようとしてもこちらの思わぬ仕方で湧き出てくる。
フクシマショックで、今年の共振塾の授業がかつてない速度で
世界チャンネルと真向かいだしたこととも関連しているだろう。
その速度をどこかでいいことだと受け取るわたしがいた。
だが、いざ本番の「静かな家」に取り組もうとしたとき
一部の生徒がまだまったくそれに取り組む準備ができていないことに気付いた。
それは生徒の責任ではなく、産婆たるわたしの落ち度なのだ。
生徒のからだの闇に耳をかたむけることを忘れ、
ただただなにかに急きたてられるように
先を急ごうとする男がわたしに取り付いている。
死期が近づいているのかとも疑ってみた。
なにかに苛立って一週間前からまたタバコをふかしはじめた。
タバコを吸っているから苛立ちから解放されないのか。
それともその逆の因果なのか。
いや、そんな単純な二元論的な因果関係などではない。
すべてが多次元的に超複雑に絡まりあい、一筋縄では解けない。
これをどう解きほぐしていくか。
自分が陥っている自我から身を解くなかで、
生徒の自我を解きほぐすヒントをつかめというサブボディさんからの示唆なのか。
どうやらそう受け取ることが一番まっとうなことのようにも思える。
いままでも陥った危機をそう捉えることでかろうじて切り抜けられたことがある。
そうだとすれば、サブボディさんのやりかたも一筋縄ではない。
こんな思いがけぬ意地悪な仕方でヒントをくれることもあるのですか。



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2012年4月2日

火急の男よ 

丸一日、嫌ないらだちにたかられた。
憎しみに近い怒りに囚われていた。
いったい自分に何が起こっているのか分からなかった。
今日の夜中になってようやくそいつの正体が見えてきた。
わたしの中に急ぎすぎる火急の男がいる。
危険人格だ。
40年前にも出てきたことがある。
当時の学生運動が危機に瀕し壊滅の危機にさらされていたときだ。
回りにいる同志諸君の危機に気づかず間の抜けた態度に
我慢がならず一人憤っていた。
今故血人肉男だ。
ほとんど気が違っていた。
「死ぬ気でこの危機を突破する気のないやつは直ちに出ていけ!」
とアジトの部屋の壁に大書した。
それを見つけた冷静な北本君が慌てて消してくれたので
人目にふれることはなかった。
かれは日毎たけり立っていく俺に狂気に気づいて
さり気なく気を配っていたのだ。
今北本はそばにいない。
自分のなかの北本くんを呼び出して自分で消すしかない。
火急の男は世界とのひとりよがりなせめぎあいに
自ら煽り立てられているのだ。
今年の共振塾のテンポはあまりにはやすぎる。
去年は「静かな家」にとりかかるまでに三月かけた。
ことしは三週間の準備期間でもうそれにとりかかろうとしている。
ここからさきは、生徒の一人が一日でも休んだら先に進むことができない。
毎日からだの闇の危険きわまりない深淵坑道を共に辿らなければならないからだ。
毎日直面する地形が一変する。
昨日は真っ暗な竪穴をよじり降りる技術が必要とされた。
今日はもう足場が無いのでパラシュートで飛び降りるしかない。
地下水面に着水したら、直ちに一緒に潜水技法を急ぎ身につけて
互いに離れないように水面下の洞窟を抜けなければならない。
明日は獰猛に襲いかかってくるトラウマの罠を避けながら
危険なジャングルを進まなければならない。
ひとりでも休めば足踏みをして待つしかない。
ただ待つこともできなかから、その日は予定していた探検を諦めて
別の回路を迂回しなければならなくなる。
そうとも知らず気楽に休む生徒に無性に腹がたって苛立ちに囚われていたのだ。
だがそれはその生徒の責任ではない。
こんな速度で授業を進めようとしているのは産婆たる俺の勝手だ。
生徒の知ったことではない。
生徒のからだの闇の状態に耳を澄ますことのできない
未熟な産婆たる私自身が引き起こしている事態だ。
わたしの未熟さはいまだにこの火急の男を制御できないところにある。
そういえば去年の前期の舞踏祭の折もこいつが出てきて生徒に腹を立てていた。
火急の男よ、
なぜそんなに急いでいるのか。
もうすぐ尽きる寿命を予感して焦っているのだろうか。
それとも世紀単位でしか変わっていかない世界史的な時間を
自分の数十年の生涯時間に圧縮したいという
子供じみた欲望に囚われているのか。
火急というわたしの中のくらがり。
闇の中の謎。
しばらくこの人に耳をすます必要が在りそうだ。
火急の男よ、
君は一体どこからきたのか。
なぜ今わたしの中に居座っているのか。
なぜ、四十年も経てやってきたのか。
いったい今までどこで何をしていたのか。

いや、数年前の強迫性神経症にかかったときも
こいつが関わっていたのかもしれない。
ほとんどなくしてしまったあの時の記憶をたぐり寄せなければならないのか。
自分のなかでもっとも触れたくない毒水のような記憶に、
もう一度首まで浸からなければならないのか。

そういえば、SF作家フィリップ・K・ディックのなかにも
この危険人格が顔をあらわしたことがある。
もう30年も前に読んだ小説なので題名は思い出せないが、
赤子の人格のまま、世界を変容させる能力を身につけてしまった
宇宙の大魔王のような人物だ。
火星という言葉がタイトルの一部に入っていたかもしれない。
何とかの瘢痕という題だっtかもしれない。
人々の先回りをして宇宙の植民地空間の時間を
どんどん古びさせていく魔法の使い手だった。
ディックの場合はLSDに侵されて出てきた可能性がある。
薬を使わず瞑想だけで下意識モードに変成するサブボディメソッドにも
それによくにた危険な症状になる可能性が潜んでいるのだろうか。
世界を自分の思い通りの速度で変えたいという火急の男の欲望は、
宇宙を自分の思い通りに支配したいというあの赤子大魔王の衝動とそっくりだ。
これは自我の普遍的な病いなのか。
サブボディ特有の未熟な自我の現れなのか。
それとも俺やディックのもつ個別の偏奇性なのか。
まだ見分けがつかない。
そのいずれであったとしても、この問題を解決しない限り
危険すぎてうかつに他のひとをサブボディに招待できないことになる。

産婆コースの同行衆はくれぐれも用心されたし。
今のところ言えるのはこれだけだ。
共振塾はペースダウンをして様子を見る必要があるだろう。
生徒の欠席はペースを落とせというシグナルなのかもしれない。
まだ十分にその準備ができていない生徒がいきなり世界チャンネルに
直面してしまっては予測のできない危険な罠にはまって
大変なことになる虞れもある。
火急の男をとにもかくにも鎮めるのが先決かもしれない。
だが一体どうやって?
神経症をおさめるときに発明した眼顔息声脳体混交術が役に立つだろうか。
何年もやってないのでうまくコツを思い出せるだろうか。
今年は冬場の調体のときのようなじっくりしたペースで
進もうとしていたはずだったのに、
フクシマショックに煽られてこういうことになったのではないか。
あの余波で火急の男が眼を覚ましたのか。
今は何も確定できることはない。

やれやれ、思いのほかきつい仕事になりそうだ。
一晩や二晩で何とかなりそうな問題ではない。
今日はこのへんにしておこう。


(この記事から、世界チャネルの深淵にいたる4つの記事は、
多重日記にも重複記載しています。)

 2012年3月31日

無限の創造性を開く



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 31 March, 2012

Open Infinite Creativity

Subbody method is for opening infinite creativity of Life.
The basis is conditioning to release from daily bound by thinking 
and judgement.
Daily thinking is bound by unconscious somatic condition.
Each moment our hundred trillion cells are changing resonance 
pattern. And each condition has specific calcium wave mode in 
the brain.
We have ten billion neurons and hundred billion glia cells in the brain.

Glia-neuron network

Glia controlls neuron communication

Neurons communicate by electlic signals each other.
Glias communicate with neuro transmitter articles floating in the brain fluid. There are so many kinds of neuro transmitter articles;
hormone, peptid, mineral ion and so on. They controll the activities of glia cells which varios inner qualia (=memories) are holded.
Also glia controlls neuron communication.

Brain condition

Calcium wave
And the calcium wave which is the deverse densities of calcium ion
controlls basic activities of local glia cells.
When calcium ion density becomes dense at some part of brain,
the local part of glia cells are activated and communicate among glia and neuorn cells.
The consciousness is limitted by the activated condition of local glia cells.
We call it as mood, feeling, emotion, and so on.
Depend on the hormone condition, sometimes we remember a sad  memory of childhood, fighting memory of adresense, mother's voice and so on. At that time, a specific calcium wave activates the area of adrenarine mode glias, okicitocine mode glias, beta endorphine mode glias and so on.
Our daily thinking is controlled by them unconsciously, then we 
don't notice it about the binds by brain conditions.

Subbody method is to travel freely by becoming subconscious body.
When we become subbody and cobody, we can travel as a subbody and cobody beyond the borders of different conditions of brain mode.
This is the reason why so many deverse subbodies and cobodies are coming out in the subbody creation.

During subbody conditioning, whenever you feel any subtle signal, it is the chance of creation. When you feel borling or too long, it is the timing to create another movement with adding own qualia and invent some change. Life is always waiting for the best timing of creation. Open it infinitely. This is the essense of subbody method. 



Read more "Sinking into the darkness"

 
 2012年3月28日

仙腸関節から変わる


今年は調体方法を一新した。
これまでは調体1番の微細なふるえや、調体2番のゆらぎによって
静寂体に移行することに重点を置いていたが、
冬場の調体で見つけた仙腸関節を開く調体を毎日続けてきた。
1メートルあまりの窓枠に片足を乗せて、
骨盤を3次元方向に動かし、
かなり極限まで仙腸関節を3次元方向に開いていく方法だ。
その成果がここ三週間でかなり現れてきた。
新入生のからだがじょじょに人間の直立姿勢に縛られた棒立ちから
じょじょに獣じみてきた。
毎朝極限までストレッチして可動性を高めると、
ほんの少し仙腸関節をずらすだけでからだ全体にクオリア流が
流れていることを感じることができる。
そこから気化体や水中体、粘菌体のような秘液の流動性の高いからだから
骨盤と頭・背骨が連動する獣体のからだ、
広い骨盤から処女の狭い骨盤になる少女体のからだ、
秘液が凍りつき、固体化する傀儡体のからだへと
密度をフレキシブルに運ぶことができるリゾーム型のからだへの変成が進んできた。
わずか三週間で目に見えるほどの違いが現れてきた。
新入生自身もその顕著な変化に驚いている。
これを一年続ければ、もう去年までのような棒立ちはなくなるだろう。
人間を脱ぐことが最後まで困難だった去年までの弊はこれで解決できそうだ。
毎年精神優先の唯心論と、からだ優先の唯物論の間を
試行錯誤的に揺れ動いてきたが、どうやら唯物論に軍配が上がりそうな気配だ。
いや唯物論と言うよりは脳心身の変化を統合する方法が見つかったというべきか。
ともあれ、一年続けてみよう。
どこまで人間を脱ぎ、自我や自己を消す方法を確立することができるか、
十年来の壮大な実験に画期的な変化が起こりそうだ。



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 2012年3月25日

生命の祖型へ、母型へ、元型へ


フクシマの衝撃で始まった今年の共振塾。
十人の生徒はいきなり生命共振の深淵に巻き込まれた。
先週末はプールの底で、フクシマから漏れでた毒の水に侵される瀕死の生命となった。
この衝撃がもたらしたものは何か。
それは自分ではどうすることもできない地震や津波や原発事故のような
異常事態に巻き込まれたときに否応なく起こる
生命の細胞レベルでの変化をからだで体験したことだ。
前年までの「静かな家」の研究で土方が舞踏の根底に据えたのも
多次元かつ非二元の生命共振の深層クオリア群だ。
それらは非二元なので分類不可能だが、
あえてむりやり分類すれば、次のような構造を持つ。


元型(想像)
―水の神、風の精、地母・大母、精霊、妖怪、キメラ、

祖型(情動)―虫のおびえ、鳥のおびえ、おそれ、めまい、

母型(体動)―ふるえ、すくみ、ねじれ、よじれ、こわばり


元型も祖型も母型も同じ意味だ。
一つのものの違った側面を強調するために異なる言葉を使っている。

大災害に見舞われたときは、細胞生命に保存された40億年間の生命記憶=内クオリアが
一挙にぶり返し、生命を深層かららっしさる。
これらが緊密にからまりあい、切り離すことのできない
一つの生命現象であることがからだでわかる。
ユングは学者だからこのうち、目に見える元型イメージだけに着目し研究した。
だが、踊り手はこれらすべてを自分のからだ全体で受け止める。
フクシマに共振してこの二週間無我夢中で踊った共振塾生は、
生命の舞踏が出てくる深層の現場を体験したのだ。
頭やことばで考え出した踊りなどではない。
自我や自己の表現などではない。
からだの踊り場にからみつく、こうした生命のふるえやおびえから
のっぴきならない創造が、必然の動きが立ち上がってくる。
それこそ土方が探求した
生命の呼称で呼ばれうる舞踏なのだ。
今週から、共振塾では「寸法の歩行」、「虫の歩行」を経て、
「静かな家」への取り組みに入る。
それに先立って、土方舞踏の根本クオリアをからだで体験できたこと、
これがフクシマからの贈りものだったのだ。



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 2012年3月19日

自己表出と生命共振

吉本さんの思想の何が根底的なのか。
それは彼の思想が生命のクオリア共振をふくんでいることからくる。
ソシュールに代表される西洋の言語学は、言語そのものを記号の体系として扱った。
それはただ言語を機械にも取り扱える情報としての側面からだけ捉えていた。
だが、言語は生命としての人間が環界と共振する中から必然的に生まれたものだ。
吉本さんの言語論は自己表出という概念を根本に据えている。
心的現象論は生命としての原生的疎外という概念から
胎児の心、原了解以前という未踏の闇への旅である。
それらは一見19世紀のヘーゲル、マルクスの延長線上にある古臭い概念に見える。
だが、それは21世紀の思想である、生命共振として捉え返すことができる。
今後、共振原理で記述し直すことが可能なのだ。
だが、機能主義的な思想には生命共振という契機がもとからない。
それらは生命が産み出した結果としてのモノの論理を扱っているに過ぎない。
モノも機械も自己表出することがない。
クオリアも感じない。
機械にはただ二進数に翻訳された情報を扱うことが出来るだけだ。
ただ生命だけがクオリアを感じることができる。
それが機械と生命の違い、情報とクオリアの違いなのだ。
吉本さんの思想はその違いを暗に含んでいる。
西洋の言語学は言語をその発生の現場である生命共振から切り離して、
ただ情報として、モノのように扱う。
そこからは生命共振そのものが零れ落ちる。
機能主義は生命に触れることのできない考え方なのだ。
生命とは何かを探求するうえでは検討に値しないモノの論理に過ぎない。
近代や現代の多くの考え方は情報の論理に侵食されている。
インプット・アウトプット、ボトムアップ・トップダウンなど
コンピュータ機械の概念に侵されてしまった考え方さえある。
日本の近代知識人は全員西洋から押し寄せてくる膨大な
情報を整理する技術の習得に追われて
だれひとり自分で思想を根底から組み立てることができなかった。
吉本さんだけがそれをやり続けた。
18世紀から20世紀の人間の世紀が終わり、
21世紀は生命の世紀を迎えることになるだろう。
生命とは何かを探求する上でも、
吉本さんは今後長い期間に渡って検討に値する思想を残したのだ。



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 2012年3月18日

吉本隆明の顔


吉本さんの顔を眺めたくて、ネットから集めた。
吉本さんは言葉だけの思想家ではない。
しゃべり方や、つっかえ方や、急き込み方や、顔そのものが
彼の命が長い時間をかけて創造した作品なのだ。
とりわけ、すこし言葉を探すように言い淀んで<ため>てから
一気に言いたいことの中心を射抜いてくる独特のリズムは、
絶対にこれしかないという序破急を持っていた。
わたしは吉本さんが京都に講演に来るたび駆けつけて聴き入った。
思想内容は毎日格闘していたので自然と耳に染みこんでくる。
わたしはむしろ彼の顔がしゃべっている、言葉以外のものに魅入っていた。
今から思えばあの頃から私は吉本さんの顔から、
ためや差延や残心という生命の舞踏の極意を学んでいたのだ。
それはとても幸せな時間だった。
吉本さんがこの世に存在しなくなった今、
なんの遠慮もなく顔を見つめ味わい続けることができる。
生きているあいだにそんなことをするのは権力者の写真を崇拝しているようでいやだが、
死んだ後ならその幸せをなんのてらいもなくいつまでも噛みしめることができる。
こういう時を超えて味わいに耐える顔などそうそうはないのだ。

これからしばらく吉本さんの顔を眺めて過ごそう。
そして、時が満ちれば、若いころから長年格闘してきた吉本さんの根本概念、
自己表出や指示表出、
共同幻想と対幻想・自己幻想の逆立、
原生的疎外や純粋疎外、
了解と原了解以前
などのすべてを
共振原理で捉え直し、書きなおす作業を進めよう。
吉本さんは心的現象も共同幻想も、
近代の人間概念とその論理の枠内で考えた。
だから、「アフリカ的段階』までしか遡行出来なかった。
人間とその論理を脱ぎさえすれば、そこからずっと先、
40億年の生命クオリア共振の世界まで遡行することができる。
私たちのからだの闇のアフリカ的段階の心、自他分化以前の胎内の心は、
生命クオリアの多次元かつ非二元共振であり、
それは頭で考えることによってではなく、
からだごと成り込むことによってのみ捉えることができる世界なのだ。
おそらく今頃吉本さんも長年着続けた人間の衣を脱いで、
そのことに気づいているかもしれない。

吉本さん、いいんですよ。
いつわたしのからだに舞い降りてきて踊っても。



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 2012年3月17日




最後の吉本隆明


吉本さんがなくなった。
もう何年も前から覚悟していたのに、知った瞬間喉が詰まった。

15の頃から読み始めた。もうすぐ50年になる。
「わたしたちはどんなことにも疑問を感じることができる。
だだ、自分の抱えた疑問は、自分一人で解くしかない。」
吉本さんから学んだことは、そういう生き方だ。
自立という。
ひとりよがりではない。
自立のためには、たえず大衆の原像をくりこみ続けなければならない。
世界に開き共振し続けなければならない。
現代的な課題を人類の起源の問題と共振させて解くことが出来なければならない。
この冬久しぶりに若いころ書いたノートのすべてを読み返したばかりだった。
吉本さんの思想と格闘したノートは何冊にものぼる。
しかも今読んでもなお解けていない課題が満載していて、
若いころのわたしが抱え込んだ問題を、
いまなお別の仕方で探求し続けているのを知ってわれながら驚いた。
吉本さん自身がその思想的格闘の最後に直面した課題は、
言葉にならない生命の沈黙の領域だった。
吉本さんが自分のメインの仕事とした「心的現象論」を誰にも制約されずに
継続する場としてきた自立誌「試行」を終えるとき、
長期購読者のすべてに最新作『アフリカ的段階』を最後の伝言として贈った。
そこには吉本さん自身が長年取り組んできた『心的現象論』の最後に出会った、
自他分化以前の心という思想的未踏の行方が指し示されていた。
アメリカ・インディアンのチェロキー族出身のフォレスト・カーターという作家が書いた
『リトル・トリー」という自伝的な小説に描かれている
精霊が飛び交うアニミズム的な心性の世界を、
人類の原型という意味で「アフリカ的段階」と名付けた。
ヘーゲルやマルクスが扱ったのは古代アジア的段階までだった。
吉本さん自身の『共同幻想論』も古代世界の禁制(タブー)の解析から始まって、
宗教・法・国家という現代から未来の国家の死滅に至る
幻想的共同性の歴史を対象化したものだった。
だが、それでは届かない世界があることを、
自身の『心的現象論』の探索を通じていきあたったのだ。
『心的現象論」は、わたしたちが母親の胎内にいたころの心のあり方である「原了解以前」、
自他分化以前の心のあり方を探求しようとする坑口で力尽きて筆が措かれている。
贈られた『アフリカ的段階について』という書物には、「試行を」を支えてきた読者に対し、
このあとは若い人達が面々の計らいで探求されたい、
といういわば未来への精神のリレーが託されていたのだ。
1997年のことだった。
その翌年から3年間の世界舞踏ツアーに出たわたしは、
行く先々で不思議な現象に出会った。
踊っている最中に、見知らぬ魂との共振が起こる。
世界各地での死者の気配がわたしのからだに降りてくる。
当時のわたしの踊りは、若くしてベトナム反戦・革命闘争で命を落とした
山崎博昭、辻敏明、橋本憲ニという友人たちがわたしのからだを使って踊っていた。
その彼らはなんの隔たりもなく、各地の死者と共振した。
第二次世界大戦の死者、
アウシュビッツの死者、
ハンガリア革命の死者、
チベットの死者、
カンボジアの死者、
アマゾンの死者、
パレスチナの死者、
水俣の死者、
エイズの死者らと
いたるところで見境のない交歓をはじめたのだ。
ヒマラヤ・インドへの定住をはじめてからは、
舞踏のからだに起こるそれら不思議な出来事を
サブボディとコーボディの闇として探求しはじめた。
その世界は二元論的な言葉や論理ではとらえつくせない、
奇妙奇天烈な世界だった。
まさしく、吉本さんがその最後に示した出生以前の心、
ユングの言葉で言えば集合的無意識の心、
ミンデルのいうドリームボディの創造主の世界、
ミッシェル・フーコーの「人間」という近代的な囚われを脱却した世界、
ドゥルーズ・ガタリが探求しようとしたリゾームの世界だった。
20世紀の終わりに世界中の先端的な思想はすべて同じ闇に直面していたのだ。
そして、その闇こそ、土方巽が衰弱体となり、死者と化して
からだごと踊りこんでいた舞踏の世界だった。
埴谷雄高は、土方の舞踏を胎内瞑想と呼んだ。
その闇には、言葉やそれを使った近代的な思考では入っていけない。
それら人間的な制約を脱ぎ捨て、生命となることによってのみ、
そこで起こる不思議な現象をからだで体験することができる。
わたしの探求は700万年の人類の原初から、
40億年前の生命の原初にまで遡行をのばさねばならなかった。
からだの闇の創造主をサブボディ・コーボディと名付けた。
すべては生命のクオリア共振現象の不思議からやってくる。
言葉で言えば、生命の多次元共振かつ非二元の世界というようなことしか言えない。
だが、今ではそのからだの闇の探求の仕方を、
世界各国からやってくる生徒になんとか伝えることができるようになってきた。
吉本さん、あなたの遺志はこうして予期せぬかたちでヒマラヤの舞踏家に受け継がれ、
世界中のサブボディ・コーボディの産婆たちに伝達されています。
吉本さんから、多くのものをいただきっぱなしだったわたしですが、
ほんの少し吉本さんにお返しするみやげ話も出来ました。
後数年でわたしもそちら側の世界の住人になって詳しくお伝えすることができるでしょう。
そうか、あそこから先は、こうしてからだで入っていけばよかったのか。
そのとき吉本さんが透明なからだで、
どんな踊りをはじめるか、
今から楽しみです。

ヒマラヤインドにて、
リゾーム・リー

(昔は岡龍二、山沢夙など、
いろいろな名前でお便りを差し上げました。)

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 2012年3月15日

サブボディとコーボディの闇

毎年もっとも心を砕いてきたのは、
サブボディとコーボディのバランスだ。
ほんの少しどちらかに偏ると、まったく別のものになってしまう。
十数年前、サブボディとコーボディをはじめて発見した頃のワークショップでは、
サブボディの産婆の仕方がうまく見つからず、コーボディに偏重していた。
それはとても楽しいのだが、楽しいだけではどうにもならない。
その人にとって必要不可欠なサブボディが出てこなければやっている意味がない。
共振塾をひらいて、じょじょに長期コースを開けるようになって、
だんだんその人にとってのっぴきならないサブボディが出てくるようになった。
だが、サブボディに偏重すると、個が勝ちすぎて命が薄くなる。
個人的な下意識だけではなく、集合的な無意識の深みに触れない踊りは
近代の自己表現の枠内にとどまる。
また、サブボディとコーボディの闇は単に西洋流の個と群れの間で戯れる
グループインプロビゼーションの枠にもはまらない。
踊りには身体表現などという近代西洋の「人間」概念では捉えきれない
もっと恐ろしい訳のわからないことろがある。
自他分化以前の非二元の生命が、個や群れのどちらの概念でもとらえられないのと一緒だ。
サブボディ=コーボディ坑道はその深淵に続いている。
そういう確信に似た思い込みがあったからこそここまでこだわってきたのだ。

コーボディ世界共創へ


今年は例年になくいきなり第一週のはじめから、
さまざまな世界をコーボディで共創することになった。
初日の3月12日がたまたま、3.11の翌日の福島原発がメルトダウンをはじめた日だったので、
その一周年に、カツのソロに対して生徒たちがM9.0の東日本大地震で襲いかかり、
ジオの踊りには20メートルの東北津波が見舞い、
ケスりの踊りにはメルトダウン世界を共創して踊った。
おそらくそれでコーボディ世界共創が勢いづいたのだ。
二日目は生命40億年の歴史をたどって、カンブリア紀の生物種大爆発の世界を共創した。
カンブリアに負けない色々な原生体が生徒たちのからだから次々と出てきて
それが右往左往しつつ共振する空間はカンブリアの海さながらだった。
三日目は、植物の軌跡と、獣体と、ボトムという
植物動物鉱物からなる「フォレスト」世界を共創した。
4日目の今日はカツがガイドした仙腸関節を開く調体と、
3人が仙腸関節を背中合わせにくっつけてそこから即興が始まるという午前中の授業を受け、
午後からは今週の体験を統合するサブボディ探体に絞った。
5分と制限していたのにほとんどの生徒から10分以上の
それもいずれ劣らぬ密度の濃い踊りが次々と出てきた。
今年はどうも例年とは様子がかなり異なる。
9人中6人が経験者で、全くの新人はアイダ、クリスチャン、ジャビエールの3人だけだ。
出てくる踊りの密度が例年の5月並だ。
新人もハイスタンダードな環境の中では必死に軒並みではない踊りを掘り出そうとする。
とても良い環境が生まれている。
ここではじめて長年の課題だったコーボディ世界共創を実現できそうだ。
すでにこの4日間で生徒が体験したコーボディは十種を超える。

灰柱
動く森
獣の群れ
粘菌(アメーバの群れ)
傀儡の群れ
アイスレイク
石庭
カンブリア(原生体の海)
地震
津波
炉心メルトダウン
ヒューマンマウンテン
ヒューマンオーシャン
ローリング・ストーン

―これらは世界共創のほんの単純な事例に過ぎない。
だが、それらを最適のタイミングでサボボディのソロと共振し交錯させると
思いがけない異世界との共振が生まれる。

サブボディ・コーボディが生命と世界との謎に満ちた共振であることを
身を持って体験してもらうことができる。
謎と秘密に満ちた深淵へ続く闇がうまくすれば開く。
生徒たちがその豊穣の海での創造を実体験できる環境が生まれる。
これはぶっちぎりの創造的な場の誕生を意味する。

明日は、一人ひとりがコーボディ世界を率先して創る。
出現する9つの異なるコーボディ世界の中から、
各自一つの世界を選んでサブボディを踊るという実験だ。
これはもはや去年の6月のフェスティバルの時期にはじめて実現した
サブボディ=コーボディ劇場の母型が第一週から体験できることになる。
去年の舞踏祭でも生徒間の創造力がまるで超電導のように
共振して活性化する現象が起こった。
とんでもないことだが、それが今の時期から生まれそうな雰囲気だ。
早い時期から踊りの世界チャンネルが開かれれば、
それは計り知れない下意識の創造性に拍車をかけることになる。
新人の3人にとってはかなりきついかもしれない。
すでに今日昨日の段階から何が起こっているのかわからないめまいに似た体感を訴えている。
失敗すればせっかく生まれかけているサブボディを流産させるおそれがある。
引き回しにならないように、命に耳をすます。
一人ひとりのからだの闇で蠢く群れの衝動のシグナル、
世界創造の傾性を生徒自身が捉えることができるかどうか。
それが産婆出来なければ、この試みは潰え去る。
わたしにとっても正念場だ。
いや、あまり力まず、無理そうなら少し時期をずらせばいい。
生徒のサブボディの胎児の声に耳を澄ましてフレキシブルに行こう。
いくらワクワクすることがすぐ目の前に見え隠れしていても、
産婆がりきむなどあってはならないことだ。


※この記事は関連上、「からだの闇」と「共振塾ジャーナル」の双方に掲載します。


 2012年3月10日

クオリアは生命共振そのものである

うたた寝しているとき、不意に重大な錯誤に気づいた。
いままで、クオリアを説明するとき、わかりやすいように
「クオリアは命が感じているものすべてである」と言ってきた。
このサイトの定義集にもそう記してきた。
「重力のクオリア、光のクオリア、空気のクオリア、温度のクオリア、音のクオリア云々…」と。
だが、それがおおきな間違いだった。
入り口でつまずいていたのだ。
「クオリアは命の共振そのものである」と言わなければならなかったのだ。
共振には主体も客体もない。
どちらからともなく起こる。
クオリアもまた、命が(主体として)感じるものではない。
感じる以前にすでに外界との共振が起こっている。
その共振こそがクオリアなのだ。
重力を感じる以前にすでに生命と地球の重力との共振は起こっている。
光を感じる以前にすでに太陽の光は生命細胞に降り注いでいる。
なのに命が光のクオリアを感じている、と書いた瞬間、
命を人間のような「主体幻想」をもったものとして擬人化して捉えてしまう錯誤に陥る。
これが言葉の罠だ。
言葉で表現しようとした瞬間、主体-客体という
言語が秘め持つ潜在的な二元論に囚われてしまう。
主語なしの言葉は成り立たないからだ。
わたしもまんまとその罠にかかっていた。
それに気づかなかったことがいままでどう書いても
納得のいくものにならなかった原因だ。

そして、ここから先どう切り開いていけるのか?
私達はまだ共振を共振として記述する言語を持っていない。
ここ十年なんとか共振言語を創造できないかとあがいてきたが
どうにもならなかった。
言語はわたしにとって最も苦手な相手だ。
今のわたしは、いままでの頭と言語で理解することにばかり頼っていた
意識優先の意識から、からだ全体、生命全体でクオリア共振そのものとなる
新しいあり方を発明するしかないと思っている。
共振塾はその実験の場所だ。
これはこれから何百年何千年かかるかわからない長い過程になるだろう。
その途上で私達が言葉を発するとき、
主語述語の二元論的文法を使わずには一行も進めない。
これは私達が引き受けねばならない現在の歴史的制約だ。
言葉を信じないことだ。
仕方なしに言葉を使う場合は、はじめに以上のことを断った上で、
いまのところは、主語述語のある現行言語を不本意ながら使う以外ない。
わたしにとって今の言語は奴隷言語だ。
二元論に制約されると知りながら、それを使うしかないのだ。
悔しくて堪らないが、わたしには新しい共振言語を発明する力はない。
わたしにできそうなのは、言語ではなく、
命としてからだで認識する方法を切り開くことだ。
そこがわたしの主戦場だ。
その途上で発せられる言葉は奴隷のつぶやきとして聞き流してもらえばよい。
読者や生徒はわたしが、
ときに命を主語や述語として扱っても、それは共振を表しているのだと
翻訳して受け取って欲しい。
わたしは授業では個々の細胞が示すかすかな傾性を、擬人化して表現する。
日本語では、「溶けたい」とか、「縮みたい」と、
主語なしの表現が可能だが(それは主語が暗黙裏に前提され省略されているだけだが)、
英語ではそうは行かない。
"I want to melt", とか "I want to shurink" と主語述語を使って言うしかない。
だが、伝えたいのは命がそのように環界のなかで共振しているということだ。
言葉は主語述語なしには一行も進まない。
共振原理に立った言語をいつか誰かが発明する日まで、
不本意ながら二元論言語を使うしかないのだ。

今年の授業が始まる前にこれに気づけたのは幸いだった。
今年の生徒にはいたずらに錯誤を伝えなくても済むからだ。

新入生と共に、
からだへ。
命の沈黙へ。
そこへ潜ろう。
そこは限りなく豊かで多様な共振クオリアに満ちている。
そういう実験ができるのは共振塾だけだ。





 2012年3月4日

共振がはじまる

如月から弥生にかけての季節がもっとも好きだった。
若い頃から早春の山を歩き回った。
冬場からだを閉ざして眠っているかのように見えていた樹々が
その中で静かに春に備えて新しい共振パターンを準備していたことが
明るみになってくる。
如月になると一斉に木の芽が踊るように出てくる。
てんでばらばらの方向によじれを戻しつつ躍りあがっていく。
それは命が見せる本当に見事なダンスだった。
その瞬間に出会うとこちらの心身まで踊りだす。
それがうれしくてとりつかれるように早春の山を歩き続けた。
踊りをはじめるずっと前だが、
その頃からわたしの命は、生命の舞踏と共振していたのだ。

だが、その時期の日本はスギ花粉が飛び出す季節でもあった。
若い頃からその花粉を大量に被曝したせいか、
いち早く花粉アレルギーになった。
涙や鼻水が噴き出して山歩きどころではなくなった。
踊りを始めてからも、その時期は練習にならなかった。
それが毎年2月3月は日本を離れて
花粉のない外国で過ごすようになった始まりだ。
生命はうまく共振できないものにぶつかると適切な距離を取る。
そしてその安全な距離で新しい共振パターンが見つかるまで待つ。
わたしのからだはまだ日本の花粉とうまく共振する方法を見つけていない。

ともあれ命はあらゆるものと共振している。
今年の共振塾では、これまでやってきたことすべてを
微細な生命共振として捉え返し、
それをからだで体感し、味わう方法を産婆する方法を探求しようと思う。

毎朝命に尋ねる。
「何が一番したいんだい?」
命からは、
「微細な共振を誰もが体感できるような方法をもっと発明することだ。」
という答えが返ってきた。
そうだ。
私はこの冬、『情報とクオリア』について
長い文を書こうとして行き詰っていた。
だが、本当にやりたいのは書くことではない。
生命共振をからだで体得できる道を切り開くことこそ
わたしにとってももっともしたいことだった。
だが、どうすればよいかわからなかったのだ。
命は実に適切なアドバイスをくれた。
「なに簡単なことさ。
これまでやってきたことはみな生命共振から発しているのだ。
それをもっと丁寧に味わうだけでいい。」

そこで今朝の調体のとき、
どこまで微細な共振からはじめることができるか試してみた。
からだの一部のたったひとつの細胞に耳をすます。
当然なにも聴こえてこない。
わたしたち成人のからだは百兆個の細胞からなる。
一つ一つの細胞が命を持ち、それぞれに共振している。
だが、私の粗雑な感覚ではそれは捉えることができない。
指一本をからだの1%とすると、指一本には一兆個の細胞がある。
さすがに一兆個の細胞が共振すれば私にも感知できる。
伸びたいとか縮まりたいとか、
さまざまな微細なクオリアが絶えず変容流動している。
もう少し細分化して、指を動かす小さな筋肉に耳をすます。
するとさきほどの伸びたいとか縮まりたいとかという傾性は
それらの小さな筋肉から発していることがわかる。
それらはおそらく指の十分の一、すなわち0,1%、百億の細胞からなる。
そうか、百億の細胞共振の傾性なら私にも感知できるのだ。
とりあえずここから出発しよう。

右手の人差し指に耳をすます。
「今一番したいことはなんだい?」と尋ねる。
(耳を澄ますとか見るとかという言葉を使っているが、
これは物理的な音や光に反応するふたつの耳や目ではない。
開こうとしているのは、生命の微細なクオリアに焦点を当てた
第三の耳第三の目である。)
曲がりたいのか伸びたいのか、それとも他の動きなのか?
しばらく様子を見ていると、
人差し指の第一関節がどうやら少し伸びたがっているようだ。
見ていると少しだが関節が開いて伸びはじめた。
すると第二関節あたりの細胞も共振して開き始めた。
「おう、俺達もそう感じていたところだ」
と呼応がはじまる。
第三関節、第四関節(秘関)、手首から肘、肩、胸へと
どんどん伝染して開いていく。
「そうそう、俺達も酸素がもっと欲しかったんだよ」
と各部の細胞生命たちが共振している。
最後は、両手を広げて、顎も共振して大きくあくびをした。
どうやらまだ起きたばかりのからだなので、
細胞たちがみな酸素不足を感じていたらしい。
こういうときは誰か一人(一つの細胞)が適切なイニシアチブを取って
率先して動き出すと直ちに大きな共振が生まれる。

若いころ、ベトナム反戦の動きが全国に波及していったときも
こんなだったな、と憶いだされる。
いまの反原発の動きもやがて世界中に広がるだろう。
それはもう誰にも止められない巨大な生命共振の動きになる。

左手の指の背に耳をすましてみた。
すると、「今度は少しねじりながら伸ばしたいな「と
内側にねじれながら指の背が開いていく。
前腕も、肩も、ねじれながら気持ちよさそうにストレッチしていく。
これには脚も共振を起こしてからだ全体がねじれて伸びていく。
この動きはもう止まらなくなる。
からだのあちこちがてんでの方向にねじれつつ伸びていく。
しばらくその動きに身を任せた。

これはもう今までも共振塾で何千回もやった調体だ。
どの生徒のからだも待ってたように乗ってくる。
ただいままでは、それが微細な細胞共振の広がりであると
うまく捉えていなかっただけだ。

しばらくねじり伸ばしが全身に伝染してのたうち続けていると、
今度は別の細胞群が、
「伸びるのもいいけど、もっと小刻みに震えたくなっってきた」
と、新しい傾性を示しだす。
それがはじまると、また小刻みなふるえが全身に伝播していく。
命はいつも新鮮なクオリアを求めている。
百兆の細胞のうち、誰か一人が率先するとそれが共振を呼ぶ。
「自分では思いつきもしなかったけれど、そんな動きがしてみたかったんだよ、乗るぜ!」と呼応する。
これは今までも掘ってきたリゾーミングそのものだ。
なぜリゾーミングにとりつかれていたか、自分でも知らなかったけれど、
リゾーミングは生命共振が伝染していく現象だったのだ。
リゾーミング技法は、この十数年で
からだの一部からひとつのクオリアが全身に波及していく
当初のものから、背後世界や秘膜の共振にまで広がってきた。

のたうち、ふるえ、ねじりのばしが全身に十分行き渡ったら、
今度は不可視の背後世界と共振して、からだのどこかから
別のクオリアの傾性が頭をもたげてくる。
「なんだか小さく縮みたくなってきたよ」
こうしてさまざまな仕方で、伸びたり縮んだり、
ふるえたり、うねったりの動きがどんどん波及していく。

ときにはからだの各部が別の傾性を持つこともある。
キメラだ。
脚は椅子、からだが牛、顔が虫になる。
脇腹から溶け出し、首が石のように凝結する。
じょじょにからだの闇の奥深くに潜む
さまざまな元型イメージや、
おびえ、ふるえなどの祖型情動などとも共振しはじめる。
目が昔の悪夢を思い出して歪みだし、
舌は忘れていた母の乳首をなめまわす。
背中が寒気でゾクゾクする。
アルマジロに変身しはじめる。
体腔から奇妙な音が出てくる。
そうだ。
これが無限に変容するサブボディだ。

今年の産婆術はこの微細な共振を産婆する技法を探求し
深化していこう。

今年はこのようにあらゆるものを共振として捉え返し、
今まで気づかなかった生命共振の変容のさまに
微細な自覚を産婆していく方法を徹底的に探求しよう。
幸い今年は三年目になるカツを始め、二年目の産婆コースに入る
ピラー、アクシ、ジオと四人もの産婆修行者がそろっている。
3月4月はわたしからはじめるが、じょじょにほかの産婆たちにも
からだの闇の微細共振坑道を掘って、他の生徒と共有する状態を
創りだしていこう。
それぞれ遠い国で育ったサブボディは多彩な背後世界と共振している。
四人の産婆がそれぞれのからだの一部や
生命記憶や夢の一部からはじまるクオリア共振坑道を独自に掘り、
全員でそれをシェアしていこう。
足元がアマゾンの水に浸り、右手はヒンドゥーの神々、
左足は韓国のシャーマン、背中がアメリカのヒューマノイドで、
口元が日本の嗤いに歪みだす。
これこそ地球規模の深層クオリアのキメラだ。
想像するだけでも楽しくなってくるじゃないか。
そのうちに、ギリシャやドイツの新入生の
どこかの細胞からもはじまるようになっていくだろう。
それこそ長年望み続けてきた中心も階層もないリゾーム状の関係を
生み出せることになる。
長い年月をかけてからだの闇の坑道を掘り続けてきたが
やっと、ここまできた。

とうとう本格的な共振が始まりだそうとしている。


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目腐れ

2012年2月28日

 

随分前から目が悪くなり続けていた。

老眼と乱視が混じってうまく物が見えにくくなってきていた。

衰弱体と目腐れの練習を何年間も続けてきた。

そして、とうとう目腐れが起こった。

左目の視界がほぼ潰れてしまった。

残る右目に映る世界はひどく湾曲して歪んでいる。

言語の理解力もすっかり落ちてきた。

 

新年度の授業の初日、いつになく自己紹介をしようと提案した。

集まった十数人の生徒が乱雑にしゃべりだすのでなかなか進まない。

おまけに幼い子らが会場で遊んでいて、それに気が取られ

メンバーの名前さえ聴き取れず、一人として覚えられない。

もともと英語の聞き取りには不自由していたがこんなにひどいのははじめてだ。

去年からキッズワークショップをしだしたので、

近所の子供達が遊びに来るようになったのだ。

「喋らないことが共振塾の第一の規律です」といっているのに、

生徒たちの乱雑な私語が延々と止まらない。

頭がキリキリと痛み出す。

メンバーも子供たちに紛れてざわめいているので、

「自己紹介は中止します。子供らの中へ入って岩なり動物なりになろう。」

そう言って、自分から率先して子供たちが遊ぶ中にからだを投げ出す。

床をゆっくり転がる。

だが、いつのまにか子供たちはどこかへ行ってしまう。

生徒たちの姿も見えない。

どこへ行ったのだろうと探し始める。

持っていた二冊のノートがいつの間にかなくなり、

手にしているのはペンケースだけになっている。

今年のノートは重要なのでなくしたら大変だと焦る。

そのうち、目がますますおかしくなってくる。

見えるはずのものが見えない。

目が腐って視神経も目の筋肉も歪んでしまっている。

ひきつりともだらけとも言えない奇妙な体感が目を支配している。

どこにいるのかさえもわからなくなる。

とうとう目腐れがやって来たか、と観念して治療するしかないと観念する。

探しているときにカツに出会う。

なくしたノートのことと、目医者への案内を頼むが、要領を得ない。

要領が得ないまま病院に着く。

どの病院だかもわからない。かなり大きな施設だ。

インドの総合病院はやけに広く迷路のように入り組んでいる。

着いた頃には左目の視力がまったくなくなっている。

おまけに残った右目の視界が湾曲している。

回りにいる人の姿も顔も目に入らない。

湾曲した床だけが見える。

床は白黒の碁盤目の模様がついていて、キューンと湾曲して下がっている。

二階にいるのにその床が下方に曲がっていて、

下階に滑り落ちそうで怖い。

手すりもないようなのだ。

一体どんな建築家がこんな危険な設計をしたのかと腹立たしい。

助けを求めようとするが、カツの姿も見失い、

ひとりで歩を進めようとすると、ずるずるとその傾斜した床に滑りこんでしまう。

そして、端まで滑ると案の定手すりがなく一階に滑り落ちてしまった。

空中で、着地の瞬間にだけは脚のバネをうまく使ってショックを吸収しようと意識する。

しばらく落下してから着地する。

激しい衝撃と痛みが全身を走るが、幸い骨は折れなかったようだ。

そこからまた目医者を探して手すりづたいに病院内をさまよい歩く。

視力がどんどん落ちてきている。

婦人の二人連れに出会う。娘とその母のようだ。

顔も見えないまま、眼科医の建物に連れていったほしいと頼み込む。

母の方はそっけないがなんとか二人であちこち探しまわってくれる。

広い病院内を随分回ってようやく眼科のある古い建物にたどり着く。

眼科医の古いドアを押し、中にはいる。

雑然とした部屋だ。

奥に眼科医らしい人が座っている。

見るとどこかで見知った顔で悪い予感がする。

別の眼科にと頼むが、婦人からここしかないと突っぱねられる。

なにかの映画にでてきた俳優の顔に似ている。

向こうはこちらを知っているかのようににやっと笑いかけてくる。

「ああ、やっぱり嫌なやつだった」と引き返そうとするが、

からだが言うことを聞かず、しかたなしに眼科医のもとに近づいていく。

医者に近づき、症状を訴えるが眼科医の姿が見えない。

回りにいる助手らしい人の姿だけが視界に入る。

どこにいるのか、声だけは聞こえるのだが、姿が目に入らない。

椅子に座った眼科医の足元に座り込んで袖を掴んで症状を訴える。

医者が私に奇妙な好奇心を持っているようだ。

医者が私を滅のところへ連れて行く。

袖をつかんでいてもうまくついていけない。

二冊の重要なノートをなくして、今年1年どうしようかと途方に暮れる。

なくしたノートがいかに大切なものかも訴えるがうまく応対してくれない。

その内、病院の敷地内の庭のような空間に出る。

瞬間パーっと視界が蘇り庭が見えるがすぐに閉ざされてしまう。

視界がどんどん歪んでいく。

先ほど落ちた湾曲した二階の床の場に何度も出会う。

今度は落ちないように用心して円柱形の柱にしがみついている。

右胸の心臓の隣のあたりがひどく痛みだす。

その痛みに目が覚める。

今朝の練習で久しぶりに床を転がったとき、古傷が出てきたらしい。

目は?

少し見える。

目腐れの体感が残っていておぼろげに霞んでいるが

視界は湾曲していない。

そこでようやく夢だったのかとほっとする。

胸の痛みは現実だ。

昔トライアスロンを止めるきっかけになった山道の下りで

猛スピードで自転車のハンドルが効かなくなり、側壁に激突して胸の軟骨を折った。

その痛みがメンゲンのように出てきたようだ。

 

こんなに強烈なからだの変容をともなう夢は久しぶりだ。

目腐れの体感は目の中に強くそっくり残っている。

これから何年かかけてこの夢を踊らなければならないと思った。

無数の謎に満ちている夢だ。

最近の実体験にいろいろ思い当たることもあるが、急いで解釈はしない。

これまでも幼年期や青年期に見た多くの悪夢を踊りにしてきた。

それで随分自分という歪みの謎が解けた。

これは老年期になって久しぶりに出食わした強烈な悪夢だ。

たっぷり時間をかけて踊りにしながら解いていく値打ちのある夢だという当たりがある。

とりあえずいまは忘れる前に書き留めておく。

2012年2月7日

最後の瞬間のクオリア 


虫くれだっている・・・・
数十年前に死んだ体だからな 
内臓が潰れたのか 
頭蓋が割れたのか 

橋本憲三
辻敏明 
本多延嘉 
山崎博明 

もう何百回も繰り返した彼らの最後の瞬間の体感が 一挙にぶり返してくるのは 
ひょっとすれば、今日が憲ちゃんの命日だったからだろうか
寒い日だったことだけ覚えている・・・・ 

少数のダラムサラで越冬している生徒と続けている冬場の調体は、 
からだの踊り場に絡み付いてくるクオリアを掘り進め 
7つのリゾーミングを終え、
いよいよ8つのチャンネルの堀り深め方の探求に入った。 
その初日の体感チャンネルを掘り始めたら、 
死んだ友人の死の瞬間の体感が蘇ってきた。 
それが、わたしの生命にとってもっとも強烈な体感なのだ。
数十年たった今でも。 
どんなつらい体験でも、何百回も繰り返しているうちに だんだん共振の仕方が定まってくる。
とくに自分のからだで踊れば死者も落ち着いてくる。
明日は動きのチャンネルだ。 
彼らの最後の瞬間のクオリアを踊ろう。

数十年前にこの世に生まれていなかった人々のために、註が必要だ。
1960年代から70年代にかけて
当時の反体制運動を行なっていた学生・青年労働者はいくつもの党派に別れ
党派間で内ゲバという死に至る暴力が発生した。
80人の学生が命を落とした。
わたしの親しい友人も。
1967年のベトナム反戦デモで死んだ山崎以外は皆内ゲバの犠牲者だ。
死んだ友人らのことはもう何千回も踊った。 

だが、今になって見に染みるのは死んだ友人のことだけではない。
当時の内ゲバではひとり殺すのに何人もで寄ってたかってなぶり殺すのが普通だった。
80人死んだということは、彼らを殺した人々が何百人かいるということだ。
わたしと同世代の彼らはいまも人を死に追いやった自分の一撃のクオリアを反芻しているだろう。
それは激烈に不幸な生だ。
わたしは彼らの長い長い苦痛を踊る。
踊らずにはいられない。
それが生命共振というものだ。
わたしが殺されも殺しもせずに、今生きているのはほんの偶然か奇跡のようなもので、
わたしがもう一、二年長く活動を続けていれば確実に殺される側か、殺す側かの
どちらかの生死の運命に見舞われていただろうことは確実だ。 
死んだ友も、殺した側に回ってしまった人々も、
皆わたしのすぐそばで生きていた奴らだからだ。


世界は変えなければならないのは確かなことだ。
だが、その方法は政治的暴力ではなく、生命共振によるべきだ。
歴史を大きく動かしてきた力は暴力ではなく、生命共振である。
国家や戦争や資本主義というような強大に見えるものも、生命共振に立ち向かえるものではない。
いつのまにか奴隷制がなくなったのも、封建社会が崩れたのも、生命共振の力によるものだ。
生命にできるのは共振だけだが、生命共振ほど強いものはない。
どんな情報統制や暴力によっても禁止することはできないのが生命共振だからだ。





(この記事は「多重日記」と「からだの闇」の両方に掲載します。
だんだん2つの日記の区別がつかなくなってきた・・・・)


2012年1月15日

からだの闇に垂線を垂らす


一日のうちできるだ多くの時間を眠りと覚醒の間でたゆたう。
夢見心地のからだの闇に垂線を垂らしてじっと待つ。
釣りをする時のように、ほとんど眠りながら。
餌は付けない。
だが、じっと待っているとまるで過飽和溶液のなかにたらされた糸の周りに
結晶が凝結してくるときのように、なにかがまといついてくる。
ピシッという張り詰めた気配があり、ずんずん濃くなっていく。
サブボディは普段は流動化しているが、
ときどきはこうして結晶化して析出してくるときがある。
あるいはからだの闇の奥深く、小さな結晶の原石となって潜んでいるのかもしれない。
誰もサブボディの胎児の姿は見たものがない。
どんな姿でからだの闇に潜んでいるのかはまったくの未知だ。
だが、誰のからだの闇にも創造の原石が無数に埋もれている。
共振塾で毎日多くのユニークなサブボディが生まれ続けるのがその証拠だ。
短い、単純なものから始まってじょじょに複雑怪奇なものが出てくるようになる。
それが一年間休みなく続く。
一年の終わりにはそれが自然と一時間以上の踊りに結晶する。
産婆は日々、サブボディの胎児たちの無言の声を聴いて、
生まれたがっているときを待つ。
毎日あれこれと工夫して出てきやすいように図る。
そのときに瞬間共振が出来るかどうかが産婆の役割だ。
釣りと産婆は似ている。
合わせ技なのだ。
一瞬のタイミングを外すと元も子もない。
冬場の産婆は毎日自分のからだの闇に垂線を垂らしてじっと持つ。
ごくごくわずかな変化に耳を澄まし続ける。
眠っているように見えるが、これが鍛錬なのだ。



 Amoeba in motion

2012年1月12日

これくらい透明になれたらなあ


アメーバの映像を見ていると夢心地になる。
私は20代、30代を水槽の中の透明な生き物を眺めながら過ごした。
エビの幼生、魚の赤ちゃん、ウズムシ、ヒドラ、淡水クラゲ、
そして、孵化したばかりの幼魚の餌となるミジンコたち・・・

みんなみんな見事なまでに透明だった。
わたしは外界との非和解的な生に疲れ果て、内へ、内へ向かい、
ほとんど気を失いながら自分の非望を見つめて過ごしていた。
彼らは何一つ隠すことがない。
あらゆるものと共振していることが透けて見える。
重力と、光と、温度と、水圧と、水の匂いと、餌と、自分を喰おうとするものらと、
透明に共振している。
その場限りのいまここクオリアだけではなく、
40億年分のそれらの記憶の内クオリアとも共振している。
彼ら透明な命を見ながらそれを学んだ。
その透明共振のなんと美しいことか。
転がる宝石のようだ。
だが、それを人に伝えようとするといかに回りくどい不透明な言葉を使わねばならないか。
自分の書いた文章が、舌をかんで死にたくなるくらい恥ずかしくなる。





2012年1月1日

生命の多次元共振を感じる方法


毎朝ベランダに座って朝日を浴びながら命に耳を澄ます。
今年のヒマラヤは異常なほど暖冬だ。
5000mの山にまったく雪がない。
山腹の林がいまだに緑を保っている。
日光は暖かく背中の凝りをほぐしてくれる。
だが、喜んではいられない。
ここがこんなに温かいということは地球のどこかほかの場所が
異常寒波に襲われているということだ。
数年前はモンゴル草原が凍てついた。
今年はどこかで誰かが凍えているに違いない。

生命は4次元世界の物質やエネルギーと共振しているだけではない。
不可視の多数多様な異次元とも共振している。
いまここで眼に見えているものとももちろん共振している。
だが、それらいまここの外クオリアだけではなく、
細胞内に保存された不可視の内クオリア群、
記憶や夢や想像といった幻想的なクオリアもいつも一個二重に共振している。
ヒマラヤを見て、例年の正月の山の記憶が沸き立つ。
それと比べて、あまりの雪の少なさになにかおかしいと異変を感じているのだ。
自分の背中の異様な暖かさと、どこかで凍えている人の震えが共振している。
この現幻二重のクオリア共振があるからこそ、
命は今何が起こっているかを的確につかむことができる。
同時に不安や居心地の悪さなどが立ち上ってくるのも
この現幻二重のクオリア共振からだ。

不可視の幻はいったいどこで生成しているのか。
物理的な3次元空間のどこを探してもそれらの場所はない。
だが、夢も想像も思考も妄想も確かに存在する。
さすれば、
超ひも理論がいう微細な11次元時空以外にその場所はない。
ビッグバン以来現在のサイズに拡大した3つの空間次元と1つの時間次元以外に
7つの空間次元があらゆる空間の微細な点に折りたたまれている。
微細といっても目に見える小ささではない。
1mのマイナス33乗分の1という宇宙最小のプランク面積の中でだ。
0.0000000000000000000000000000000000001m

ここ十年あまり、暇な時はいつもこのプランク長さの11次元空間で共振している
ひものことを想像する訓練をしてきた。
あらゆる物質やエネルギーはひもの共振パターンの違いによって生成する。
生命が感じているクオリアもまたひもの共振パターンの違いから生じる。
長年それを感じようと、微細なひも共振パターンの違いを
命が異なるクオリアとして感じ取っているさまを想像し、感じようとし続けてきた。
いまだに簡単には想像できないし、感じ取ることも難しい。
だが、映像の力を借りたり、からだの闇に耳を澄まし続けたり、
あれこれ試みているうちに、すこしだけリアルに感じ取りやすい方法を見付け出した。
これも簡単に伝えることは出来ず、うまくいくかどうか分からないが、
なんとか紹介してみようと思う。
久しぶりにGoogle画像検索で、「StringTheory」や「Calabi Yau Space」で検索すると
すこし目新しいイメージが手に入った。
少しずつひも理論のいう多次元を可視的なイメージにする努力が進んでいる。
わたしはこれらの不可能を可視化しようとする絵を見るのが大好きだ。
すこしだけ多次元世界を瞑想するのに手助けになってくれるからだ。

この十数年で今一番、気に入っている生命の多次元共振を瞑想する方法をご紹介します。

あたたかい場所に座る。
骨盤をゆっくり回しながら、背骨をゆるめる。
からだのどこかに凝りや緊張がないか感じ、あればそこに空気を送る。
正確には息を吐きながらその部分を伸ばす。
最大にストレッチしたところで息を吸い、その部分を最大限に伸ばしたまま2,3秒保つ。
そして一気に脱力する。
橋本敬三さんの操体法の呼吸だ。
からだから違和感がなくなったら、いよいよ命の瞑想に入る。

1.11次元の微細なひも共振世界を想像する

(上のスライドショーのひも共振図をご参照ください。)

自分の周りのあらゆる空間をごくごく微細に細分化していく。
1mのマイナス33乗分の1まで細分化するとイメージする。
0.0000000000000000000000000000000000001m
そこで無数のひもが11次元で共振していることを思い描く。
ひもは自在に大きさを変え、すぐさま隣のひもとひもが共振してひとつになったり、
3つに別れたりしている。
意識には11次元など想像できないし、可視化もできない。
だが、命には感じ取れているはずだ。
命はどこにあるか。
分からない。
だが、ひとつひとつの細胞がそれぞれ命をもっている。
まずは、細胞に成り込むことだ。

2.細胞生命と共振する

私たちのからだには約100兆個の細胞がある。
細胞の大きさは約1ミクロン前後だ。
その中に生命発生以来の記憶が刷り込まれている。
重要なものは遺伝子に書きこまれているだろうが、遺伝子以外にも
細胞内のあらゆる微小器官がそれ独自の調子を図る内クオリアを潜在させているだろう。
各レセプターやイオンちゃんねるなどは、それぞれ独自の微小物質やイオンなどを
質量共に感知し、もっともほどよいレベルに保ち続けている。
この細胞内のどこに内クオリアが保存されているのか。
おそらくあらゆる部分に保存されているのだろう。

3.生命の感じているクオリアと共振する

一個の細胞内に何兆個のひもが共振しているのか。
おそらく兆だの京だのという単位では数えれれないほどの想像を絶する無量大数だろう。
それらの無量大数のひもがともあれ1つの細胞生命という共振パターンを形成している。
その共振パターンのある部分は40億年前の生命誕生以来続いているものだろうし、
40億年間にじょじょに発明された新しい共振パターンも含まれているはずだ。
それらすべての記憶が内クオリアとして細胞内のどこかに保存されている。
細胞内のどこかとは、11次元の微細次元を含んでいる。
生命は微細次元のひも共振によって生成するクオリアを、
生存のために使う未知の方法を持っている。
それは、40億年間続いてきた恒常性に基づく快調に生命が働くことができているクオリアと、
その恒常性が崩れたときの不調のクオリアを含んでいるはずだ。
快調なクオリアと不調のクオリア。
本当はこんな簡単なものではなく超複雑なものだが、
方便として単純化すれば、快調と不調が一番感じやすい入口になる。

からだの各部分の細胞が感じている快調と不調のクオリアを一緒に感じてみる。
一日のうち出来るだけ長く命が感じていることを一緒に感じながら過ごしてみてください。
これが始まりです。

(だが、読み返してみてがっくり来た。
肝心なことが言えていない。
言葉が邪魔をしてしまっている。
言葉の理路が通じたかなと感じたが、ひとりよがりだったようだ。
取り消そうかとも思ったが、これが今の私の精一杯だ。
できるだけ書きなおしてみた。
だが、長靴の上から足の痒さを書くような気分だ。
言いたいことはたった一つなのだが、言葉にすると別物に化けてしまう。
書かれたものはうそ臭い。
言えていない感じだけが残る。
わたしはいったいどんな不可視の壁にぶち当たっているのだろう?
いや、言葉だけでは無理なことはわかっている。
一緒にからだを動かしながらでないと伝わらないことを、
言葉だけで伝えようとすることに無理があるのだ。
毎朝少数の生徒と続けている調体の豊かさを書こうとすると
この文章の千倍ほどの分量になるだろう。
だがそんな長文を書く余裕は私にはない。
でもめげずに、今年は何度も何度もこの壁に挑み続けるつもりです。)




 
 

2011年12月31日 (未定稿)

10億年の忍従とヘリオガバルス的爆発

サブボディにはヘリオガバルス的なところがある。
ヘリオガバルスはローマ帝国史上最悪の狂王として知られている。
胎児見たさに妊婦の腹を切り裂いた信長以上の
奔放恣意・悪逆非道の限りを尽くしたとされている。
土方は「静かな家」でヘリオガバルスを耐えるものの対偶(対極的同一性)として捉えている。

22節 (ヘリオガバルス

 

   深淵図には複眼よりもむしろ皮膚への参加に注目されねばならない。

   ただ一回のヘルオガバルスがある、

   耐えるもの―それはめくるめく節度の別の顔であった」

皮膚への参加――ただ一回のヘリオガバルス――耐えるもの――めくるめく節度

これらの一見まったく異なるように見えるものが、じつは同じものの別の顔であると捉えられている。
「めくるめく節度」によって「耐えるもの」とは民衆のことなのだ。
ちょうど今年は何十年、何百年も悪政に耐え続けたエジプトやリビアのアラブ民衆が、
堪忍袋の緒を切らして、あたかもヘリオガバルスのような爆発的革命に立ち上がった。
それに共振して気付かされたのだ。
民衆は耐えに耐え続けるだけの存在ではない。
たった一度のヘリオガバルス的爆発の可能性を内に秘めている存在だ。
そのことに気づいたとき、わたしは土方の民衆論の深さにうなった。
舞踏は一見民衆から遠く、前衛的アバンギャルドとしてのみ見られている。
だが、実はその内に耐えに耐え続けている民衆像をくり込んでいるのだ。

「24節 (ふるえ)

  1、耐え忍ぶ剥製のとほうもないきたならしさ」

何十年も耐え続けて、耐えていることさえ忘れてしまった汚らしい剥製体とは、
民衆のことなのだ。
舞踏家は衰弱の果ての剥製体となって舞台に出るが、
それは観客席にいる民衆自身の真の姿を映す鏡像なのだ。
耐えるものはいつかはヘリオガバルスのように爆発的に踊りでてくる可能性を秘めている。
舞踏家は民衆の自分自身では気づいていない変容や創造の可能性を踊る。

だが、この冬になって、もうひとつの
「皮膚への参加」という
まだ解ききっていない謎が残っていることに気づいた。
今年の授業では「皮膚への参加」=「秘膜を開くこと」と捉えて、
胞衣層の秘膜や子宮層、母体層、世界層の秘膜を全開して踊ることで
25節以降のとてつもない変幻の果てを見せる<もみ寄せの急>が踊られていると捉えていた。
それも間違ってはいないが、この冬毎日皮膚に成り込み、
生命にとっての皮膚とは何かを聴き続けているうちに、より深い連関に気付かされた。
秘膜は空間の拡がりとしてだけ捉えられていたが、
生命にとっての皮膚はそれだけではなく、長い忍従の時間をも秘めている。

生命にとっての皮膚は外界の変化を知覚し、それに対応する共振の器官であると同時に、
外界から身を守る忍従の器官でもある。