2010

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からだの闇を掘る

2010年12月26日

冬場の調体

冬場には独特の調体が必要になる。
冬場はからだがこわばり収縮する。
このこわばりを解くことから毎日を始める。
からだがこわばれば頭だけが働く日常モードから離れることができないからだ。

1.骨盤から動く
日当たりのいい心地良い場所を見つける。
手すりか何かをもって左右の骨盤を上下左右三次元方向に動かすことから始める。
立位でも、座位でも、臥位でも行えるが、
床が冷たい場合は立位がいい。
ねじったり、揺らしたり、ショックを受けたり、様々な動きを骨盤から始める。
骨盤と仙骨の間の仙腸関節がゆるんでくれば、
じょじょに骨盤から全身各部にその動きが伝わっていくのを感じる。
骨盤の動きが腰や胸、手足や頭部に波及する。
それに従っているとじょじょに流体的なからだになる。
下意識のからだサブボディ特有の気持よさを感じられるようになることが
ひとつの指標になる。
えもいわれぬ心地良さがからだじゅうに満ち溢れるまでこれを続ける。


2.しっぽから動く

つぎに、想像上の長いしっぽが誰かに動かされるのを感じる。
波打ったり、引っ張られたり、螺旋にねじられたり、さまざまに動かされ、
背骨やからだがそれに応じて動かされる。
それに従っていると、じょじょに自分が長い尾をもった龍か何かのように感じられてくる。

3.頭から動く

反対に頭から動きが始まる。
魚や、蛇や、獣の動きが出てくる。

4 各部から動く

からだ全体をゆすったり、揺らいだりしながら、からだから出てくる
かすかな動きの傾向に耳をすます。
喉を開いて、体腔音が自在に出てくるようにするのもよい。
ほんのかすかな傾向を感じたら、それに従い、増幅する。
からだ全体でその傾向に乗り込む。
いろんな部位から思いがけない動きが出てくるのを楽しむ。
自分が人間であることを忘れて、生命になる。
それがサブボディだ。
サブボディは人間から生命へ至る乗り物なのだ。
毎日さまざまなサブボディに出会う。
それを楽しむ。
その可能性は無限だ。

とにかく、毎日一定時間これを続けること。
今年、共振塾では、気化体やキメラ体、元型体など、
これまでにない、深いからだを掘る。
人間からますますどんどん離れていく。
そのために、この冬から自分自身の調体を進め、
心身を準備していくことが必要だ。
からだの変化は、これをはじめて半年か、一年後にようやく出てくる。
長い間人間社会の情報にさらされ、訓育されてきた人間のからだを
脱ぎ去るのはそうそうたやすいことではない。
いまから始めることだ。


人類史のボトム元型たち

図をクリックするとキャプション付きの
スライドショウを御覧いただけます。

2010年12月7日

元型と十体

一年が終わった。
フェスティバルの最後を、チッベトの障害者の人々とのピュアな共振ができたおかげで
わたしはもう、死ぬにはもってこいとはこういう日だなと思った。
帰りのバスが谷底に転落して死んでも悔いはまったくないと感じた。
若い人々が同乗していたので、彼らにはかわいそうだと不謹慎な思いを封じた。
フェスティバルが終わった日は、晩方から死んだように眠った。
ところが夜中にサブボディがむっくり立ち上がった。
一年間やってきたことがからだの闇でひとつになって、
巨大な気づきがつぎからつぎへと立ち上がってきた。
しかたがないので、起きだして気づきをいくつか書き留めた。
逃してしまったものもあるだろう。
そのうちのひとつが、元型と十体の一体性だった。
今年は、春からそれぞれのサブボディの十体を探索すると共に、
自由共振で未踏のコーボディー坑道を掘り進んだ。
それが秋になって元型坑道へと繋がって行った。
生徒がみな機を一にして、それぞれの元型に遭遇しだした。
こんなことは共振塾では始めてのことだった。
私もまた、さまざまな元型と出遭った。
そして、今年の授業がすべて終わった瞬間、
からだの闇のそこから出てくる動きはすべて元型と関連していることに気づいた。
これまで、下意識のからだとか、自発的な動きとかとして捉えていたものも
すべて私たちの命の深層に刻み込まれた元型的なクオリア共振の発動なのだ。
いままでは、サブボディの出て来方によって、
現生体や異貌体、獣体など、いくつかの十体に分類してきたが、
それら十体のすべては元型と関わっていたのだ。
当初私自身のサブボディを総覧するために十体を見つけた。
それが他の人達にも共有できるものであったのは、深く集合的無意識の
元型と関わっていたからだった。
とりわけ、今年重点を置いて追求したボトムボディによって、
Ikukoはじめ多くの生徒の踊りがいきなり深まった。
それは何故だろうと思いめぐらしていたが、サブボディさんは
それは元型と関わったからだよと教えてくれた。
ボトムとは、さまざまに変容する元型がなにか小さな姿に凝縮し物質化したあり方なのだ。
それに気づいたのは、生徒に貸していたミンデルの処女作
『ドリームボディ』が還ってきてパラパラとめくっていたとき、
彼が見たメルクリウスについての論文を書いている夢の話が目に入った。
メルクリウスは、水銀の精で、変容の神である。
ミンデルによれば、夢においてメルクリウスは道化、聾唖者、老賢人、妖精、魔法使い、
あるいは雄鹿として現れる。
ミンデルは、メルクリウスを瓶に閉じ込めるグリム童話について論じた
ユングの「精(スピリット)メリクリウス」という論文を紹介していたが、
瓶という字を見てはっと気づいた。
そうか、グリムの瓶や、アラジンの壺、土方の箱、私のボトムである石は、
すべて一体のものだったんだと。
そして、石とは旧石器時代から神や精霊が宿る依代であったことも。
中沢新一が「精霊の王」という名著で紹介しているシャジク石もまた、
瓶や箱と同じ精霊の依代である。
縄文土偶には小さく凝縮された形と大きく拡張された形がある。
まるでアラジンの魔法のランプに閉じこもっている精霊と
大きく膨らんだ魔人ではないか。
ボトムボディはこれらの無数の精霊クオリアの凝縮形態だったのだ。
私たちが最小の苦しいボトムの姿に成り込んだときに共通して味わう不思議な体感は、
この精霊が閉じ込められた瓶や箱や石の元型の体感だったのだ。
そこに閉じ込められた精霊や死者が出てきたがっている元型的なクオリアの傾性が、
ボトムに共通する不思議な体感の正体だったことに気づいた。

その気づきから、さらにからだから勝手に出てくるかのように感じられる自発的な動きのクオリアにはみな、
人類共通の元型的な無意識が絡み付いていると捉えると、すべてを透明に見渡せることに気づいた。
元型を総覧すると、ひとがたをした自己元型、天国地獄などの世界元型、
シジギー(ペア)やアニマ・アニムスなどの対元型、などに分類できるが、
それを形態的に見れば、魂や精霊などの気化元型、それが閉じ込められた石や瓶や箱などのボトム元型、
そこから出てくる妖怪やお化けなどの異型元型、
そして、それらすべてを自在に行き来する変容元型に分類できる。
これらの分類は便宜上の仮のもので、非二元世界のものを分類することなどは本質的にできない。
分類したとたんそこから抜け出て別のものに姿を変えるからだ。
これらすべてを生命クオリアの共振として解くこと、それが今年の冬の私の仕事になるだろう。
解くとは、謎をより深層へ解き深めることだ。
狭い人智によって言語化され固定化された低次元の静止状態から、
その本来の多次元非二元状態へ活性化し解き放つことだ。
ともあれ、長年探求しようとしてできなかった非二元域への切り込み方がようやくひとつ見えてきた。
この冬はとても楽しくなりそうだ。
とても死ぬにはもってこいの日などと言っていられない状態になった。



2010年12月1日

癒されていないもの

生徒の一人モニカの最後の踊りを見ているうちに
泣きそうになってしまった。
彼女は4年前に来たときからいまだに自分が殺した赤子の命を踊り続けている。
闇の中に必死に赤子を探し続けている姿を見ているうちに、
わたしの中に3歳のときに突然消えた母親をいまだに探し続けている自分が出てきて
胸に来たのだ。
モニカが必死でその傷を癒そうと踊り続けているように
私の中にもいまだに癒されていないものがあることを知った。
私もそれを踊らねばならないだろう。
死ぬまでに踊れるか、踊れないまま死ぬか、分からないが。


2010年11月28日

共時的な元型との遭遇

スイスのアスカが先週土曜日のジュネーブでのパフォーマンスの写真とビデオを届けてくれた。
なんと死者の怒りの元型フューリーの墜落をモチーフにしたものだった。
裸体に本の少しのプラスチックの衣装をつけて過激に床に身を投げ出し
瀕死の爬虫類のようにうごめくフューリー。
ヒマラヤで現在の生徒たちがさまざまな元型に出遭い、苦闘しながら踊りを創っている
ちょうどその時に古い生徒であるアスカや、ピットが同様にそれぞれの元型、
フーリエやキリストと出遭い、踊りを創ったことになる。
こういう共時性が起こるのは珍しいことではない。
からだの闇に潜っていくと、かならず何らかの元型の洗礼を受けねばならない。
そこは魑魅魍魎が百鬼夜行する世界だからだ。


フューリーは、Wikipedeaによると、
死者の怒りのシンボル。
ギリシャ神話では、エリニエス(怒りの精)、エウメニデス(恵みの精、またはやさしさの精)、ローマ神話では
フーリイズ やダラエとも呼ばれる。復讐や怒りから恵みまで変幻自在の妖精のようだ。

ヒマラヤでは今日から舞踏フェスが始まる。
世界中の死者を招待し、一緒に踊る祭典になる。古い生徒も時空を超えて
死者生者が共振する深い元型世界を踊っている。
元型に出会うときは細心の注意が必要だ。
とても強力な支配力を持っているので、うかうかしていると憑依されてしまう。
適切な距離を保ち、その支配力を創造にねじ曲げ返す奮闘が強いられる。
なぜ、こんな元型に囚われるのか、その訳はだれも知らない。
私たちが元型を選ぶこともできない。逆に私たちは元型によって選ばれるのだ。
元型が訪れるには深いわけがある。そのわけが分かるまでに何十年もかかるかもしれない。
だが、最も深い生命の叡智がそこに潜んでいる。
何十年かかっても特に値する謎なのだ。
その戦いの中で何が起こったか、どうして切り抜け、創造に転化することができたか、
それは踊り手だけの秘密だ。
ともあれ、それらの難儀な苦闘を経て始めて、
自分にとっての必然の踊りにたどり着く。
世界でただ一つの花は、謎と秘密に支えられて咲くのだ。



2010年11月26日

グレートマザーとしての私

男と女の本質的な違いは、最初の世界体験の仕方にある。
男が最初に出会う世界存在は、母という異性である。
女が最初に出会う世界存在である母は、彼女にとって同性である。
それが決定的に男女を分かつものだ。
吉本隆明は『共同幻想論』でそう男女の差異を定義している。
それは若い頃から知っていたが、
最近読み返したユングの『元型論』にも同じ定義が出てきた。
たしかにその通りだろう。
たが、私の場合、3歳で母から離されて育ったので、
不在としての母が、私の最初の世界体験だ。
わたしにとっての母にあたる世界は3歳から7歳まで育ててくれた祖母だが、
7歳の時、母と信じていた祖母からも引き剥がされて実母のもとに返された。
おとなの人間は信じられないということが私にとって人生最初の真実だった。
通常幼児は大母(グレートマザー)の元型を母に投射して育つ。
だが、私には大地のようなどっしりとしたグレートマザーという元型など
もっとも嘘くさい、いつ自分を騙して消えてしまうかわからないものとして体験された。
二度にわたって母なる存在から捨てられてわたしは
うまく男性にも女性にもなる道が閉ざされていたのだと思う。
付き合った女性のなかに、いつか消えてしまうに違いない気配をさぐっては愛を壊し続けた。
愛を守り育てるためにしてはならないことしかできなかったのが、
人生を愛の失敗史にしてきた原因だ。
それはもうわたしにはどうしようもないことだと最近まで観念していた。
ところが今月になって、共振塾の生徒たちがどんどん深みへ旅を始めた。
そこは無数の元型が漂う非二元の世界だ。
グレートマザーやアニムスなどさまざまな元型が生徒たちを訪れ、
生徒たちは、難儀しながらその元型を引き受け、踊りに転化しだした。
そして互いの世界に入り混み合う。
非二元域では、自他の境界や年齢・性別などの境界を超えて変容流動する。
実に多彩な変容に満ちた踊りが日に日に深まっていっている。
その旅をわたしもシェアしているうちに、なんと予想もしなかったことに
私もまたいままで怖れ忌み嫌っていたグレートマザーに出遭うことになった。
オデールの元型「ダーク フェミニン」の世界を味わっているうちに
そうか、私も母もまたダーク フェミニンだったのだと気づいた。
そのあくる朝目覚め際に、
大きな鳥になって雛の口にどんどん餌を与えている夢をみた。
食べ物だけではなく乾電池を雛の口に詰め込んでいる。
乾電池?!
一体なんだろうと夢からさめて思いめぐらしているうちに
わたしが産婆として生徒に与えているものには、
生徒にとって消化することのできない情報が含まれていることに気づいた。
自分の気づきをすぐ生徒に伝えたくて毎朝複雑奇妙なからだの闇の地図を描いて
生徒に講義しているのだが、そのなかに乾電池のような消化できないものも
多数含まれているぞという、夢からの知らせだった。
だが、もっと予期せぬ気づきがやってきた。
それは、私自身もまた、ダーク フェミニンであり、グレートマザーだということだ。
それには驚いた。
まさか、私のなかにそんな大母が存在していたとは!
幼い頃母から離れて、母性から遠ざけられていた私は大きな回り道をして
60年たった今ようやくグレートマザー元型が自分の中にあることを知ることになった。
そして、グレートマザーになりこむと、からだの闇の布置がまるっきり異なって見えるようになった。
最も驚いたことは、グレートマザーになった途端、
生まれてはじめて父をわが子のように愛おしく感じることができた。
60年間凍りついて麻痺していた父に対する感情が解けて、
はじめて感じることができたのだ。
母に対しても愛と憎しみがひとつになったわだかまりにとらわれて生きてきたが
父に対してはそれ以上になにも感情を持てないほど遠ざけて生きてきたのだ。
私の父は酒飲みかつ女たらしで、ほとんど家にいたことがない。
母のほかに何人もの女性との間に子をなした。
一つ年下の会ったこともない妹を始め、腹違いの兄弟姉妹が知っているだけで四人もいる。
もっといるのかもしれない。
そんな父のおかげで母は私を身ごもっていた頃から狂乱状態になって
新興宗教に身を投じる生活を送っていた。
子育てどころではなかったのだ。

いや、私も60年も生きて生きたのだ。
父が何故そうならざるをえなかったか私は理解している。
20歳で敗戦間近の満州に二等兵として配属された父は、
そこで修羅場にであう。
8月15日の天皇の放送で無条件降伏することになるという情報を
8月14日には満州軍の上層部は掴んでいたらしい。
8月15日には軍の上層部はいち早く逃走し、父ら下級の兵士と女子どもだけが
中国とロシアの国境を超えて迫り来る旧ソ連軍の矢面に立たされた。
戦いの中でも最後尾をになう殿戦が最も悲惨な目に遭う。
多くの戦友を亡くし、生き残った兵士も捕虜としてシベリアに送られた。
そんな不信に満ちた軍隊体験をした父は帰国してすぐ反体制運動に走った。
国鉄の革同という戦闘的な組合の活動家として2.1ストを準備した。
だが、知っての通り2.11ストは当時日本を統括していたマッカーサー元帥の
中止命令によってあえなく失敗する。
敗戦と、革命運動の挫折、立て続けに敗北を体験した父にとって
家庭での暮らしに安住することはできなかった。。
行き場のない煮えたぎる情念を新地の女相手に撒き散らすかかもう残されていなかったのだ。
あたまではそう理解していた。
だが、なんの感情も持てなかった。
どこかで凍りついてしまっていたのだ。
それがグレートマザーになってはじめて、父に対する感情が湧いた。
からだの闇で凍りついていた氷河が溶けて流れ始めた。
思いもしなかった出来事だ。
からだの闇の非二元域に入ると予想もしないとんでもない出来事が立て続けに起こりだす。
ここに書いた以外にもどでかいことが起こっているが一度には書ききれない。
私だけではない。
4人の魔女たちにも重大な気づきがつぎつぎと訪れている。
踊りが週ごとに激変していくのでそれがわかる。
深い気づきがそれまで頭で作っていた踊りを根本から変えてしまうのだ。
彼女たちの踊りについては、一週間に完成してから触れることになるだろう。
どうなることか、今から楽しみだ。


2010年11月11日

突然、トラウマの巣へ

からだの闇の旅では、いつなんどきどんなことが起るか分からない。
今日も清子のガイドする練習中に、なんの予想もしていなかったとんでもないことが起こった。
清子がガイドした練習内容は、くわしくは「共振塾ジャーナル」の今日の稿に書いたが、
足でからだを踏む「楽健法」の調体からはじめ、ミンデルのプロセスワークの手法で、
今日気になる体の部位と結びついた風景を思い描き、その風景に入っていくというものだった。
それは日常的に合意された現実とは別の、もうひとつの現実、ミンデルのいうドリームランドである。
そこで、その風景のなかの智慧を感じ、スピリットになって動き出す。
さらに、そこまで導いた後、その風景の中でつかんだ各自固有のクオリアで、
土方巽の「触覚と神経のみの歩行「という舞踏譜を踊るという重層的なものだった。

わたしは、プロセスワークの中では、からだの底の部位を感じ、
その部位に耳を澄ましているうちに、
40億年前に生命が誕生した深海の熱水噴出孔の風景につながっていった。



そこはこれまでにも無数回生命遡行瞑想のたびに訪れたことのある場所だった。
そこはわたしが生命とは何かを学ぶもっとも親しい智慧に満ちた場所なのだ。
そして、その場所で原初生命になりこんだからだで、土方の舞踏譜を踊った。
その最中、次の箇所の振付がからだの闇で、大きく生き生きとした情景を生んだ。

10 頭の上から木の葉がサクサクと体内にふってくる

11 沈む身体

12 歩こうとしたら胸の小部屋に鍵がかかった

10行目の体内に降る木ノ葉の体感が、熱水噴出口の高温環境下で誕生した生命のうち、
冷たいところにまで噴煙に吹き上げられて死んだ細胞の死体が
からだの中にしんしんと降り積もっていく体感に変わった。
そして、すこし噴煙から離れそうになった仲間を危ないと救おうとしたが
からだは単細胞なので、まるで「胸の小部屋に鍵がかかった」ように動けない自分を感じた。
そして、そのとたん、生まれてから感じ続けていたトラウマの数々が一挙に襲いかかってきた。
トラウマのすべてが、このもどかしい体感と同じパターンだったのだ。
まるでトラウマの巣に出くわしたかのような体験だった。
トラウマの巣とは次のようなものだった。

●小学生の時、夫婦喧嘩の最中に父親に掴みかかろうとしていった母が、
父にからだを蹴られて畳の部屋から縁側を越えて庭にまでからだごとふっ飛んでいったことがあった。
それを目の当たりに見ながら、夫婦喧嘩を止めることも、
母を救うこともできない自分の無力がが口惜しくてたまらなかった。
空中を飛んでいく悲しげな母のからだは10歳のわたしの眼に焼きついて離れなくなった。
これまでになんども母を踊ろうとしてきたが、何かがわたしのからだを凍りつかせて踊れなかった。
その理由が今日やっと分かった。

●同じ頃、繰り返し見た悪夢は、当時台風が来るたびに町の半分が浸水するという
干潟の町海南市に住んでいたわたしが、
津波でさらわれたクラスメイトの少女が溺れているのを助けようとするが、
力足りずに救えないというものだった。
小学3年生の時仲よかった内海くんという友達が海で溺れ死んだ事件があった。
その事件がその津波の夢に関連していることにも気づいた。

●わたしのソロの処女作となった伝染熱でも、高校大学時代反戦闘争や革命運動での死んだ友人に、
「(死地に)行くなってば!」と叫んで止めようとしている衝動が踊りを貫いていた。
オルガナイザーだったわたしが死なずに、わたしが運動に引き入れた友人たちを殺してしまったことに
拭いきれない罪責感に襲われて苛まれていたのだ。

その三つのトラウマが、すべて自分の無力さによって救えなかったという思い込みに
貫かれていることが今日の踊りのなかで突然透けて見えた。
そして、その無力さを自分の責任だと感じていじけてしまっているわたしがいた。

そうか、こいつがうずくまってしまって、踊れなかったのだ、と気づいた。
このトラウマの巣で立ちすくんで、
無力さにいじけてしまっているわたしを救い出してやらなければならない。
何年かかるか分からないが、このいじけ虫を踊ってやろう。
踊ることによってしか解放されないわたしがいる。
かなりほとんどすべての自分を踊ってきたつもりだったが、
まだまだ踊りだせないサブボディがいたのだ。
やっとそいつに出会えた。
からだの闇は底しれなく深い。
だが、ときどきはこうして風穴が開くこともある。
朝一番の楽健法でからだを踏まれる思いがけない痛みが、
深いところで凍りついていたいじけ虫のサブボディのクオリアを流動させたのかもしれない。
からだの闇の旅では、本当に思いがけないことが起こる。
そして、凍りついていた自分を救う道が指し示される。
だからやめられないのだ。
こういう気づきに導いてくれた清子さん、ありがとう。
持つべきものは友だ。


●この記事は「からだの闇「多重人格肯定日記」の両方に掲載しました。
からだの闇の旅と、多重日記は重なりあい、混濁し一体になって来ました。
無数の解離された人格群が統合されることなどわたしは信じていません。
もともと彼らは非二元一体の命から生まれた。
わたしのトラウマとそこから変形した無数の人格群が分離し、
また混濁一体化するなかで、さらに新しいサブボディが生まれ続けている。
その生命の創造を無限に促進していくのがわたしの人生だ。



2010年11月9日

自我の止め方①

胎児の呼吸と生命の呼吸

 

生命は非二元のクオリアの海に漂っている。

そこは上も下もない、内も外もない。
生命の感じるあらゆるクオリアが共振し、絶えず新しいクオリアが生まれている。

クオリアの海は、生命の無限の創造の源だ。

 

そこへ降りるには、胎児の頃の呼吸を思い出すのがいい。 

私たちが胎児のとき、どんな呼吸をしていたのかを思い出してみる。

羊水の中に漂う胎児は、口も鼻も気管も肺も水に満ちていて、肺呼吸(外呼吸)はしていない。

胎児の血液中には母親の体内から酸素に満ちた血液が送り込まれている。

その血液が体中の細胞に行き渡っていく。

胎児が行っているのは肺呼吸ではなく、内呼吸とも呼ばれる細胞呼吸だ。

 

大人は肺呼吸と細胞呼吸の内外二重の呼吸を行っているが、

胎児は二重ではなく一重の細胞呼吸=内呼吸だけなのだ。 

それはクレニオセイクラル技法でいう<生命の呼吸>と同じものだ。

からだ中の細胞が新鮮な酸素を受け取ると活性化され、細胞液が流動してわずかにうごめく。

ひとつひとつの細胞の動きはごく小さなものだが、私たちのからだには100兆もの細胞がある。

百兆の細胞がほんの少し伸びをするだけで、からだ全体がわずかに膨らむ。そして縮む。

それは10秒とか、1分とかのゆっくりしたリズムになる。

それが<生命の呼吸>だ。

 

胎児は母体から新鮮な血液を送り込まれて、この生命の呼吸を行っている。

生命の呼吸は生体である限りいまも続いているが、
粗大な肺呼吸のリズムににマスキングされてなかなか気づくことができない。

静かな場所を見つけ、ひとりになって、

ゆらぎ瞑想によって粗大な日常意識を止め、

からだがかすかにゆったり緩み膨らみ、

そしてしぼむという生命の呼吸を繰り返しているのを感じてみる。

それだけで胎児の頃のようなゆったりした心身状態になることができる。

 

生命の呼吸は、なにも酸素だけではない。

細胞生命はたえずあらゆるものと共振している。

温度や湿度、光や音、気圧、風や波、匂いや味、触覚、など

実に多岐に渡っている。

そして、大事なことは細胞にはそれらのあらゆる記憶が40億年分、

内クオリアとして保存されていて、絶えずいまここの外クオリアと共振していることだ。 

細胞生命では時や空間を超えて、実に多次元的なクオリア共振が起こっている。

夢や想像や情動など無意識の傾向もその内クオリア・外クオリアの共振から生まれる。

それは3次元や4次元という低次元の時空に束縛されていない。

生命は実に複雑な多次元かつ非二元のクオリア共振の海に漂っている。

 

クオリアとクオリアは絶えず出会い、共振し、新しいクオリアが生まれている。

それが生命の持つ無限の創造力だ。

 

胎児の呼吸、生命の呼吸を感じることは、

私たちが自我や自己である以前に生命であることを実感するもっともよい方法だ。

それによって、自我を止め、二元論に束縛されていない

生命の非二元界の無限の創造に触れることができる。

それをからだで体現するのがサブボディメソッドだ。 



2010年11月8日

自我の止め方②

生命の創造性と、自我・超自我・元型


 

生命の創造性をフルに発揮するためには、

自我(エゴ)や超自我(スーパーエゴ)や元型への囚われから脱する必要がある。

現代の人々が生命の創造力を発揮できない状態に置かれているのは、
自我を持たねばならないようにしむけられ、自我の止め方を知らないからだ。

自我や超自我ほど創造の障害になるものはない。

それらは二元論的判断に囚われているからだ。

あれはよい、これは悪いというような判断をしている限り創造などできない。

自我や超自我を鎮めるには、

まず、かれらがどういう現われをしてくるかを知り尽くさねばならない。

日常の中で人は無意識裡に自我や超自我に囚われてしまっているが、

相手を知らずにそれを制御することはできないからだ。

自我や超自我がどのような形で現れてくるか、そのあらましを述べよう。

誰でも思い当たることばかりだ。

 

 

自我の現われ

 

自我はおおむね次のようなかたちで現れる。

それに気づいたら、ただちに挨拶して別れる。

「よう、君のことはよく知っているよ。

(日常生活には大事な存在だからね)。

だが今じゃない。また後であおう。」

今は創造のときなのだ。そこでは自我は邪魔者でしかない。

それを自我にきっぱり言い聞かさねばならない。

最初はもちろん自我は抵抗するが、

上の挨拶を繰り返していると次第に分かってくれるようになる。

自我でいるより生命になりきるほうがよほど楽なことを知っていく。

 

 

1.領土保全者

 

自我はいつも「ここは私の領域だ」というような領土化を行っている。

自分の安全圏を確保したいという衝動に突き動かされている。

自我は不安に囚われている。

自分ひとりになれる静かな環境をみつけ、

心配しないでもいいんだよ。

ここではだれも君を侵そうとしないから、と

まずは、自我を安心させ落ち着ける環境をみつけることが

真っ先に大事なことだ。

 

2.私的所有者

 

自我は「これは私のものだ」という私的所有の衝動に染み付かれている。

1や2は私たちが私有財産制の資本制社会に生まれ育ったことに規定されている。

だが、それだけが人間のあり方ではない。

自我の執着を離れ、生命の国に降りていく。

そこでは自他の境界などなく、あらゆる生命がただ共振している世界だ。

そういう別世界があることを自我に知らせてあげる。

 

3.自己正当化

 

自我はいつも自己を正当化し続けている。

「俺は間違っていない」という自覚抜きに自信をもって生きられない。

生命の世界には正誤善悪などという二元論的判断をするものなど誰もいない。

忙しく自己正当化などし続ける必要などないのに

人間だと思い込んでいるからそんな作業に追い込まれる。

 

4.物語作者

 

そのために自我はいつも自分の物語を作り続けている。

自分で作った物語を信じている限り、自分はいつも正しい自分でいることができる。

たとえそれが自分のでっち上げる言い訳に過ぎないとしても、

自我はそんなことに気づかない。

気づいた途端に自分を支えることができなくなるから

そんな馬鹿なことは決してしないのだ。

 

5.いい人のふり

 

自我はいつも装っている。

自分をよく見せることに忙しい。

そのためにも自分で作り上げる物語をまず真っ先に自分が信じる必要がある。

どこかにいつも嘘寒い風が吹いているのを自我は知っている。

ただそれには必死に見向きもしないことで

「いい人」であるという装いを自分だと思い込んでいる。

 

6.皮肉な観察屋

 

自我が人を見るときはいつもあらを探す。

他人が信じている自我物語の幻想が剥げ落ちていないかを見張っている。

他人の物語の破綻を見逃さない周到なまなざしだけが

自分のつむぎだす物語を破綻から救うからだ。

 

7.情態性

 

自我はいつも無意識裡に体の具合やそこから立ち上る情動に規定されている。

だが、自分ではそのことになかなか気づかない。

自我の行いはすべてこの無意識の情態性に促されたものだ。

その促しはごくごくかすかなシグナルしかもたらさないので

日常意識のままではなかなか気づけない。

自我意識を止めてはじめて

自我とからだや情動との無意識のつながりが透明に見えてくる。

 

超自我の現われ方

 

自我はまだしもかわいい。超自我の容赦ない否定に比べれば。

超自我は、無意識の深い層の集合的無意識のに住む<元型>の一種である。

その支配力は強力で、囚われてしまえばなかなか抜けだせない。

 

8.検察官

 

検事か判事のような判断者というのが、超自我の最大の特徴だ。

狭い「いい・悪い」の二元論的判断を振り回して、

白黒をすべて自分で決めようとする。

そして容赦なく否定し切り捨てる。

自分はいつも正義に属すると信じている検事ほどたちの悪い存在はない。

だが、誰の中にも検事や判事が生きている。

出てくるたびに、鎮める続けることだ。

おそらく、超自我はのちに述べる元型の一種であり、

気づかないうちにそれに囚われている。

無意識の深い層に住む<元型>との付き合い方を学ぶ中で

少しずつ超自我による囚われを鎮めていく。

 

9.批評家

 

皮肉で冷笑的な批評ばかりをする超自我もいる。

いつも否定的な批評で、新しい試みにけちをつけ

すべてを台無しにしようとする。

新しい変革に臆病な、もっとも保守的な否定者だ。

 

10.正義漢

 

検察官や判事のなれの果てが、正義漢だ。

自分は正しいと信じ込み、振り回す。

昔は男に多かったが、いまは少なくなった。

逆に女性のアニムスにとり憑いているケースにしばしば出くわすようになった。

誰の中にもこの正義漢は生きながらえている。

私も生涯自分の中の正義漢面するやつと闘ってきたが、息の根を止めることはできていない。

とくに自分がアニムスに侵されていることに気づいていない

フェニミズムの女性はこの正義漢という超自我にやすやすと食われてしまっている。

正義というアニムスと結びつくことは性的にも快感なので

ひとたびやられると逃れられなくなるのは、

男性がアニマのとりこになる場合と同じだ。

だが、無意識だからどのフェニミストの女性も、

アニマのとりこの男性もそれに気づくことができない。

私にとってもいまだに最大の難関だ。

 

元型への囚われ

 

からだの闇には超自我以外にも多くの元型が棲んでいる。

 

11.アニマ・アニムス

 

おそらく、もっとも強力な元型のひとつだ。

アニマは男性の中の秘められた女性的側面、

アニムスはその逆で、女性の中の秘められた男性的側面である。

だが、それらは無意識の闇深く潜んでいるので普段は気づくことがない。

そして、男は自分の中の女性的要素を外部の特定の女性に投射する。

それが恋だ。

いや、くわしく言えば、恋愛には性欲やさまざまな未知の要素が絡み付いているので

簡単には言いきれない。

ただ、自分がいつも特定の偏った女性と恋に落ちることをつぶさに見ていくと

そこにアニマが絡んでいることが透けて見えてくる。

アニマへの囚われからの解放はわたしにとって探求のさなかの未知の課題だ。

何十年も取り組んでいるので、ほんの少しずつは透明になってきた。

だが、いまだにうまく解き明かせたとはいえない。

私のとって最後の創造はアニマをめぐるものになるだろう。

女性にとってのアニムスへの囚われも同様に深い闇だ。

いまは正直にそう申し上げることしかできない。

ただ、この問題を解かない限り、

男女間の友情の実現には至れないことだけははっきりしている。

 

12. グレートマザー

 

グレートマザーは元型の一種であり、アニマとも関わる。

超自我のような様相で現れてくることもある。

超自我はすべて元型でもあって、両者の明確な区別は存在しない。

グレートマザーはすべてを愛し、すべてを喰いつくす。

愛と所有欲の区別がない。

自分の愛する子供はすべて自分の自由になる持ち物だと考えている。

 

13.老婆心

 

老婆心は日本のような母系性社会に特徴的な超自我かも知れない。

老婆の前では誰もが未熟な子供になってしまう。

だが、どんな社会にも、過剰な用心を強調して

新しい冒険を押しとどめようとする傾向は存在する。

 

アニマ、アニムスはじめ元型は、多次元的に共振しているので

単純な論理しか持たない私たちは、未だそれを解き明かす論理を持っていない。

老賢者、天女、少年、動物、トリックスター、狂王、グル、神、悪魔など

数限り無い種類の元型がある。

毎日からだでそれらに成りこみ、取扱い方をからだで探求している最中だが、

わたしには未だそれらすべてを語る力はない。

ここでは自我や超自我にかんするものだけに絞った。

 

この超複雑な問題群は、多次元共振理論を深めるなかで取り組んでいくしかない。

私にそんな時間が残されているのかどうかは分からない。

アニマ、アニムスをめぐる深い謎はどうやら私の死後に残るに違いなかろう。

でも、少しでもこの問題に真正面から取り組めるのは幸せだ。

 

自我や超自我の特徴は、否定にある。

自我も超自我も否定することが本能になっている。

超自我は超絶した力で上から否定し、

自我は他者との水平的な対立の中で否定する。

立場や格の違いがあるだけだ。

 

超自我は常に正義や道徳、倫理、真善美などの、共同幻想をまとって現れる。

自我に浸潤した時代社会の共同幻想が超自我の正体の一部だ。

正体の全体像は元型というより深い謎の中にある。

超自我は、自我以上に創造の仇敵である。

社会生活にも、何のためにもならない。

自我と同様に、超自我を鎮め、止めることは、

創造性を発揮して生きるためにも、

これからの社会を少しでも住みよくするためにも、

なにより必要なことである。

 

自我や超自我の止め方

 

自我や超自我の現われに気づくことができる静かな状態で

毎日を過ごすことがまず大切である。

人と言葉を使って話している限り、自我や超自我は

無意識裡に立ち上がってくる。

外部でも内部でも言葉を使って話すことを止めることが大事だ。

そして自分のからだの闇の微細な変化に

絶えず気づくことができる透明な心身状態を保つこと。

そうすると、自我や超自我が現れてくる瞬間に気づくことができる。

その瞬間に、上記の挨拶を自我や超自我に贈る。

「今じゃない、後で会おうね」

決して自我や超自我を頭ごなしに否定してはならない。

彼らをいきり立たせるだけの逆効果になる。

自我も超自我も自分の全体の中の必要な役割だという

相互的な尊敬が必要である。

自我を発揮することなしにだれも今の日常世界では生きていけない。

そして、人間が自我や超自我に囚われている限り、

人間は国家や権力という共同幻想を支え続ける。

人間を支配する力が威を振るっている限り、

生命の創造力は人々から疎外され続ける。

人間にとって本当の解放は、自我、超自我、元型からの解放と

国家や政治の死滅という共同幻想からの解放が一体になった

一個二重の総合的な課題である。

私はとりあえず、自我や超自我をいかに鎮めるかという

自分にいまできる領域からその課題に取り組んでいる。
この課題に別の側面から取り組んでいる人がいれば切に共闘を願っている。
だが、おそらくそれはわたしの死後の時代にはじめて実現するものだろう。

 




大野一雄のボトム

大野一雄さんの写真の中から、あえて一般に流布されている
両手を上げて空に広がっている写真以外のものを集めた。
どうか、これらを命の目でとくと味わって欲しい。
大野さんのあの独特の極めポーズだけが世界に流布し、
あたかもそれが大野さんの舞踏スタイルでもあるかのような誤解がひろがっていることに
長い間強い危惧を抱いてきた。
西洋の大野さん系の舞踏家から影響を受けた人々の舞踏スタイルも
多かれ少なかれ、その流布された写真ポーズから影響を受けている。
それを見るたび身を切られるように辛くなる。
なんと文化は伝わりにくいものか、と。
それはたしかに、大野さんの踊りの中の花のひとつには違いないだろう。
だが、花が花だけで花になることはありえない。
花は目には見えない暗闇の中の秘密や謎に支えられてはじめて花となるのだ。
大野さんは踊りの中で膝から下の世界を模索し、死者と対話し、
生死のエッジとま向かう中から、最適の瞬間をつかんであのポーズをとったのだ。
大野一雄の息子の義人さんはいう。
「『膝から下の世界」という世界を一雄はもう一つ持っている。
そこにもう一つの宇宙がある。
『膝から下の世界』というのは大事です。
モダンダンスなんかでは、上に、重力に逆らってというふうな思いが強いでしょう。
一雄の場合は、本人がそう感じたとき、反対に落下します。
その時の落下する速度は凄いです。
あっという間に床に行ってます。」
(『大野一雄 魂の糧』)
だが、写真家にとって、うつむいて膝から下の世界をまさぐっているような図は、
おそらく絵にならないと判断されたのだろう。
謎や秘密に触れているみすぼらしい姿の写真など数えるほどしか撮られていない。
その写真家の美意識や判断が大野さんの舞踏の世界を歪め、
上滑りのBUTOHのイメージを世界にまき散らしてしまった。
大野一雄の舞踏のもっとも深い花と謎と秘密は、
そこにあるというのに見過ごされてしまうこととなった。
その誤ったイメージに毒された西洋圏の舞踏家や生徒に数多く出会った。
そのとんでもない悲しい誤解を解くために、大野さんの写真の中から
両手を上にあげていない写真だけを探して上に紹介した。
ほとんど無視されて撮られていないから、見付け出すのに苦労した。
幸い手持ちの資料の中から池上直哉氏の膨大な写真の中から
わずかながら集めることができた。
感謝します。
見やすい大きい花と違って、謎も秘密も目には見えない。
それに触れた命が微細にふるえているだけだからだ。
ただ、日常意識を止め、思考をやめたときにだけ、
生命が震えるように何か見えないものと共振していることが感じ取れる。
そして、本当の花もその心の目にだけ映る。
いや心というとまだ人間の枠内を離れることができない。
こころでさえなく、命になって大野さんの舞踏世界の奥底を感じてください。
人間の持ち物をすべて投げ捨てないと触れられない世界がこの世にはあるのです。

大野一雄の写真・ビデオ・記事をもっと見る

(この記事は、共振日記に載せたものでですが、後の展開上、からだの闇にも載せました。)

10月30日、かなり大幅に改稿しました。
2010年10月28日

土方巽の三

共振塾も後期になると、長期生が週何回か授業をガイドするようになる。
その日はわたしは生徒に戻って踊り手としてからだの闇を掘ることができる。
好きではじめた産婆稼業だが、踊り手となったからだは産婆に比べて
なにも思い煩うことがないので、天国のようにはばたく。
これが自分が一番創りだしたかった環境なのだと思い知った。
産婆や教師は自我や自分を捨てきらねばならない。
そうしないと生徒のからだの闇でうごめいているクオリアの変容流動に
耳をすますことができないからだ。
産婆を十年続けてきたが、まだまだわたしのからだの闇には
踊りたがっているサブボディがうようよ待ち構えているようだ。
今年は不意のキャンセルが続出して長期生が少ないので、毎日とはいかないが、
来年は前払い制を導入して、一年コースの生徒がほぼ十人になる。
すると後期はわたしも毎日のように踊り手に戻れることになる。
十年ぶりに踊りを創れる環境が実現することになる。
どんな踊りが出てくるか、今から楽しみだ。

今年は10月一杯をかけてIkukoとオディールの協力で
『静かな家』の舞踏譜の解読とベーシック英語への翻訳を完成した。
解読のあとは、ただただ毎日繰り返し読む通読と、
からだにしみこませて言葉からからだに変換する体読の段階だ。
それ進めると毎日のように新しい練習方法が生徒によって生み出されている。
これは土方の舞踏譜から、万人に役に立つ練習譜への転換といえよう。
それをからだで読み深めていくと、土方が苦心して堀り進んだ。
「自他分化以前の沈理の世界」へ降りていく坑道をからだで追体験することができる。
今日はわたしがガイドする番で、舞踏譜のなかの三に着目した。
三とは、あらゆるものを上下、内外、心身、自他などのニではなく、
三つの要素でとらえる態度を指す。
三つの要素の概念レベルが違っていても一向にかまわない。
むしろ異なるレベルの要素を出会わせたほうが多彩多様化につながりやすい。
三が、二元論の囚われから脱出する糸口であることは以前から気づいていたが、
よく読むと、土方もそのことに気づいていたようで、至る所に三がでてくる。
キリスト教の三位一体論についていは中沢新一が早くから取り組み、
「三位一体モデル」という本を糸井重里のほぼ日ブックスから出している。
これも優れた三の探求である。

最初に気づいたのは、
ディテールと、部分と、全体の三だ。
からだの三

額をはしる細いくもの糸

乞喰

猫の腰


第一節に出てくるこの三行は、からだのごく小さなディテールの踊りと、部分の動きとと、からだ全体の変容という
三つをいつも意識して踊ることという土方の極意を示している。
これを組み合わせ、キメラ化することによって、
あの無限細分化されたかのような土方独特の動きが実現される。
これをからだの三と呼ぶことにした。

しばらくそれに注目して、土方の舞踏譜をからだで読みながら踊っていると、
どんどん新しい三が発見された。

体位の三

裸でカンチェンの出だしを踊る

フラマンの寝技をつかう
少女気化して座り技


和栗由紀夫さん系統のワークショップに参加したことのある清子が
瀕死の重病人が立とうとして立てないフラマンの寝技を実演してくれた。
この数行前に出てくる、座敷から引き出されてきた男とは、
東北の奥座敷で寝たきりになっている老人を指す。
それが宴の際にヨイヨイのからだのまま引きずりだされてきて宴に加わるのだ。
寝技と座り技と、不明だがおそらくカンチェンとは立ち技であろう。
土方の踊りはこの三つの体位の間を移行することによって成り立っている。

そして、それらの体位の間を移行する変容が、

変容法の三
気化
物質化
解体
の三技法だ。
解体は「Xによる還元」によって
船という4次元から3次元の箱、二次元の板や紙
さらに1次元の棒にまで解体され、またその逆に組み立て直される
次元数の自在変換技法を示とつながっている。

さらに、踊りの速度を変化させる
テンポ・速度の三
ワルツ
緩慢な少女
停止

ワルツは通常速度であるとして、
それが超スローの微速動になり、停止に至る。
ワルツはただのワルツから虫のワルツや牛のワルツに変奏され、
虫と木のワルツなどのキメラ化した変拍子へ無限変換されていく。
二元論に囚われた志向では動と静などという在り来たりのところでとどまってしまうが、
三を導入することで、三から四、五へ、
さらに多次元かつ非二元の無窮道へ降りていく坑道が開かれる。

手の三

狂王の手―虫、鳥、棒


虫や鳥とはこの第5節に出てくる

鳥のおびえ、虫のおびえ
を指し、棒とはそのおびえさえ凍結してしまった停止を指す。
棒はさらに別の節で無限に微細化された視線へとつながっていく。


花にも大中小の三種が区別されている。

花の三

小さな花(や小さな顔―メスカリン手、顔の周りの花)

花(揺れる花影、花摘)

全体の花


言うまでもないが、花とは常に実際の花と、
世阿弥のいう踊りの花との二重性が黙示されている。

全体の花は20節から27節の最終部分で開示される。


ふるえの三

めまいや震えや花影のゆれ
この三つの微細な動きはさらに無数の独立した震えに細分化される(舞踏譜24節参照)。


次元数の三

板・紙


これは、「Xによる還元と再生」に関る。
Xに次元数を代入すると、一次元の棒、二次元の板や紙、
そして三次元の箱へと変幻する。
さらにそこに時間次元が加わると四次元の動きとなる。

や人や動物の動き
はすべて四次元である。
これらが気化して多次元世界へ
さまよい出ることになる。
それが
魂と精霊
死者
ゆくえ

などで象徴される。
三とは二元論の束縛を脱いで、多次元かつ非二元世界へ入るための必須の坑口なのだ。
だから、三から四、五への変幻は自在である。
じじつ後半の急の急部分の25節から27節になればもはや三ではなく、
多数多様な変容が次々と起こりだす。
三はあくまでそこへの道程なのだ。

それらの非二元世界へ導くクオリアが

クオリアの三
鮭の頭
馬肉の夢
ゆくえ

などとして重要部分に顔を出す。
そして、ここまで読み深めてくると、もっととんでもない三が散りばめられていることに気づく。

多様体の三

○森の巣だ 目の巣だ、板の上に置かれた蛾

○気化した飴職人または武者絵のキリスト

などはもはや同じ次元に並ばないものらの次元を超えた三である。
土方が本当に踊りたかったのは、これら多数多様体の無限変容である。
それこそが命の真実だからである。

手の恋愛
頭蓋へのコピー
神経の棒

目の巣
複眼
皮膚への参加

嵐がくる事を予感した子犬や、スプーンやホタル


つぶさに堀りすすめればもっともっと多彩な三や複合され重層化された三が発見されよう。
頭ではなくからだでこの舞踏譜を読むと、
スルメイカのようにどんどん味わいが深まっていく。
そして、自分の夢や妄想もこれと同じ構造を持っていることに気付かされる。
そうか、これが命の本当のありようなのだ、と。
どの生命も多次元かつ非二元世界で微細に共振しているものだから。
土方巽はこの三の発見とその変幻によって、二元論や三次元に囚われた
粗雑なダンスを脱いで、微細な「生命の舞踏」へと降りていく道を掘り抜いたのだ。


「静かな家 舞踏譜全文」を読む

2010年10月26日

踊りとその血液

 

『静かな家 覚書き」の解読と翻訳を終えた長期生は、

毎日それをもとにした新しい練習法を発明している。

今日、オディールは、第16節に探求坑道を掘りすすんだ。
それはただの動きを踊りに転化する秘密の坑道だった。

 

16 場所を変えることの難しさ

 

    体こそ踊り場であろう。

    手の踊り場、尻の踊り場、肘の裏の踊り場等。

    この場所が持つ深淵は、この踊り場にはさまってくるものを克服し、

    からみつかせる事により成立する。

    例えば、柳田家があり、柳田家の庭にクジャクがいるという事をたいへんに

    貴重なものであるという発見をする。

    また、カン工場という場所は、私にとってなつかしい粉末というものによって

    語られる。

    それらが踊る際の血液になっているのだ

土方が見た友人宅でのクジャクや、彼が働いていたカン工場には、
新鮮な驚きや輝きや懐かしい生きたクオリアが詰まっている。
それらの命が共振したリアルなクオリアが動きを踊りに転化する。
ただからだを動かしていれば踊りになるなどというのは甘い幻想だ。
血液の通っていないダンスが満ちあふれている寒い現代、
きみの命にとって踊らなければならない命のクオリアを掘り当てよ。
ここに書かれているのはそういうことだ。

 

オディールは、まず、体の各部に挟まってくるものとして、音楽を掛け、

第一段階 音楽に乗って踊る。土方の言葉で言えば、音のクオリアをからだに「からみつかせる」。

第二段階 音楽から降りて踊る。土方の言葉で言えば音を「克服する」。

第三段階 次に各自が一箇所ずつ自分の踊り場を決め、そこに「はさまってくる」踊りの血液となるような自分独自のクオリアをからみつかせ、あるいは克服して踊る。

(この先の第四段階は、踊り場をどんどん変えていく実際の踊りの創造となる。

その際の血液の通し方がこの節の眼目だ。)

 

これはやってみると、驚くほど豊かな練習になった。

三人のからだからこれまで見たこともないようなサブボディが次から次へと踊り出てきた。、

まるで、「待ってました!」とでもいうかの勢いで。

とりわけ、音楽の選定がうってつけだった。

乗ることも降りることもどちらも面白いような音楽はそうそうない。

MP3ファイルを添付したのでご賞味ください。(工事中:失礼。MP3の張り付け方を忘れてしまった。

しばらくお待ちください。)

 

 

わたしは、この節をからだで読む中で、一つのことを発見した。

これまで「柳田家のクジャク」とはなにかがおぼろげにしか捉えられていなかった。

なにか非日常なものには違いなかろう、くらいにみなしていた。

最後のカン工場のもつリアルな血液にくらべて、なにか釣り合いが取れていないと感じていいた。

だが、それはわたしの理解不足で、、土方は柳田家でクジャクにであったことを

「たいへんに貴重なものである」という発見をしたのだ。

命が驚き、特異な輝きを放ったのだ。

それがクジャクだ。

いままでこの「たいへんに貴重なものである」という言葉の真意をしっかりつかんでいなかった。

だれでも人生で目を見開いて驚き、

眼から鱗が落ちるような輝きの体験をしたことはあるだろう。

それが大切な踊りの血液になると言っているのだ。

とりわけ、「柳田家のクジャク」は、

26節の大事な場所でもう一度出てくる。

 

深淵図の中で、全ての事象の午前一時のなかで、柳田家の孔雀は完成される。

 

最後の、急の急になってはじめて完成させられるものとして捉えられている。

土方はこう言っているのだ。

「きみの命の驚きを踊れ。

クジャクを踊れ、その輝きを踊れ、

クジャクを剥製にし、繁みの中や箱の中に押し込み、

無限の還元と再生を踊れ。

クジャクから狂王へ、羅漢の震える手へ、指先の恋愛へ、

王女の悪巧みへ、クジャクの変幻を踊りきれ。

きみの命が驚き、輝いたクオリアからさらに無限の変容を踊れ。」

 

わたしはこの日、自分の人生を振り返り、

もっとも、驚き感嘆したクオリアを三つ掘り出した。

 

わたしは若い頃から山や海を歩きもぐり続けてきたので、

驚き感嘆した体験は無限にある。

桔梗の花とはじめてであった時もその美しさに驚き焼き付いている。

北海道の大雪山で出会った高山植物にも魅せられた。

オオルリという鳥の輝く青い色にも目を洗われた

カワセミの一本の青い矢のような軌跡も眼に焼き付いている。

玉虫の輝き、発情期のタナゴのきらめき、川エビの透明さ。

早春の山の発芽してくる木の芽の萌黄色のダンスの素晴らしさ。

数えていけばキリがないほどの驚きが出てきた。

だが、この日わたしが選んだのは、

雉と水晶とタコだった。

冬場、山歩きをしていて不意に間近の藪から雉が飛び立つときは

驚きで、雉の姿が地上1メートルほどのところでストップモーションになって焼きつく。

その瞬間は飛速度も遅いので、漁師にとっては引き金を引く好機なのだが、

私にとっては冬の野山の枯れ草色のなかで極彩色の輝きを発する

その美しさが眼に焼き付いている。

おそらく柳田家でクジャクに接した土方も踊りの花に持ってくるほど驚いたのだろう。

二番目の水晶は、私が全国各地の石英鉱山の坑道に潜り込み、

水晶やトパーズなどの透明な美しさのとりこになっていた頃の体験だ。

山梨の乙女鉱山の坑道で出会った年老いた鉱婦が大事にとっておいた大きな水晶を

「ほら、もってけえれ」と惜しげもなくくれた瞬間の感激が蘇った。

水晶の冷たさと、鉱婦の荒れた手の温かさが融け合って得も言われぬものに結晶した。

三番目のタコには、信じられぬほどの変幻の見事さに驚かされた。

沖縄の宮古島で素潜りして熱帯魚を追っていたときだ。

タコの子どもが泳いでいるのを見つけた。

小さなタモで取り込もうと一緒に泳いでいるとき

不意にタコが姿を消した。

彼等は瞬間に自分の皮膚を周囲の岩や砂と同じ色に変化させることができる。

そのことは前から知っていたが、こんなに完璧なものとは知らなかった。

いくら目を凝らしても私には見分けることのできないほど見事な忍者ぶりだった。

自然の中でいろんな神秘に出会ってきたが、その時ほど驚かされたことはない。

あるいはわたしは若い頃から変容の魔術に特別執着するタチだったのかもしれない。

 

ともあれ、オディールのガイドのおかげで、予期せぬ踊りが転がりでてきた。

わたしだけではない。

Ikuko もオディール自身からもこれまで見たことがないようなサブボディがいくつも産み落とされた。

フィジカルなからだの動きと、各人固有のクオリアが結びついてひとつになったとき

踊りに結晶する。

その瞬間を狩るのが、オディールの狙いだった。
勘違いしないでもらいたいが、クジャクやカン工場や水晶やタコそのものが何事かなのではない。
その瞬間それらに共振した命の震えがかけがえもなく大事なのだ。
その生命の微細な震えを手の踊り、肘の踊り、尻の踊りの細部にきちんと埋め込むことだ。
それが踊りを創り、踊りの花を創造する血液となる。

優れた練習とは、からだの闇の創造性の宝庫を解き放ち、

かつ踊りに結晶させるこういう練習のことをいう。

土方の舞踏譜を掘ると、こういう優れた練習がどんどん生まれてくる。

Ikukoもオディールも優れた練習方法の創造者になった。

読者の方にも強くおすすめする。

 



 


十体論

ここ、からだの闇で連載してきた十体論は、
膨大になったため、別項「十体論」として独立させました。
衰弱体、原生体、異貌体、体底体、傀儡体、キメラ体、
巣窟体、気化体、夢幻体、憑依体、透明体、共振体、
世界共創ーリゾクラシー、および、
「美とはなにか」として、花、謎、秘密、血液、エッジ
などの創造技法をまとめました。
今後はそこで各十体への調体法、探体法、創体法などを
深化させていく予定です。

ここをクリックください。

2010年9月26日

ごく微細な不快体感に耳を澄ます

フォーカシングのジェンドリンのいうフェルトセンスと、
ミンデルのエッジクオリアとは、どこかでつながっている。
どちらも不快な体感だ。
日常意識では気にもとめないほどの微細なものがフェルトセンスで、
それが嵩じて、身動きがとれないほどになったものがエッジワークの対象となるエッジクオリアだ。
それらはみな命がどこかで感じている歪みだ。
なにかがうまく行っていない、どこかおかしい、というものだ。
そんなクオリアは日常的にいつもからだの中でうごめいている。
それに耳をすますことが、創造的に生きる極意だ。
命が何らかの違和感を感じることから、その違和を突破するために
生命にとって必要な創造が起こる。
私にとって、これらの不快な体感こそが人生の最大の友だ。
それにま向かうときは不快で仕方がないが、
その不快の向こう側にだけ創造が生まれる。
不快さを避けてばかりいると、何も創造が生まれない。
快適さや愉快さや楽しさは真の創造の敵でさえある。
それらはただ味わって通りすぎればいいものだ。
これを勘違いしている人が多い。
楽しさから大した創造が生まれたためしはない。



2010年9月25日

からだの底から踊る

存在の底から踊る。
からだの闇は広大無辺だ。
本当は底などない。
底というのは、ひとつの目安に過ぎない。
もっともか弱く、もっとも小さく閉じこもったからだになる。
とりあえず、それを底と呼んでいる。
少なくとも、小手先だけの踊りではなく、
もっと深いところからの踊りが出てくる場所だ。
そこから踊りだす。
長い経験の中で、
見つけられる人とそうでない人がいる。
追い詰められた果ての自分、
小さくうずくまって震えている自分、
そういう自分を認められない人がいる。
底に至るエッジが強烈なのだ。
そのエッジを突破する術はまだ見つかっていない。
おそらく時が必要なのだ。
たち(性質)によるとしか言えない。
だが、すくなくともある人にはとても有効である。
とりあえず、からだの底から出てくる踊りを見つけるために、
当面はこのボトムボディという仮説にしたがって探ってみる。
明日から、公開の共振ワークだ。
それをこのトム探しからはじめてみようと思う。



2010年9月18日

はじまり

毎朝ベランダに出て山を見ながら、
一日をごく微細な生命の共振を感じることからはじめる。
これがもっともいい一日をはじめるコツだ。
樫の木の梢に止まっている鳥は、
ただ透明にあらゆるものと共振している。
かれらはとても優れた透明共振体のお手本だ。
何も考えず、ただ万物と共振している命であること。
わたしちのからだは10兆個の細胞からなる。
体内には100兆個のバクテリアが棲んでいる。
わたしたちはそれら巨大な数の細胞生命の共振体なのだ。
それだけではない。
命は目の前の山々の緑や鳥や虫たちと共振している。
いや、共振には主体も客体もないので、
主語と述語で語る言語ではうまく伝えられない。
ただ、万物が共振している。

共振しているのは目に見えるフィジカルなものだけではない。
細胞に刻まれた無数の記憶が共振している。
原初生命時代から今日まで40億年の生命記憶が共振している。
記憶や夢や想像や妄想や情動や欲動など、
目には見えない内クオリアが互いにあらゆるものと共振している。
生命とはこれらの無数の共振のつながりなのだ。
生命の共振を感じるとは、
これら非二元かつ多次元に重層する共振の無限のつながりを感じることだ。
生死や時を超えた無限の共振を感じる。
わたしはそれを感じるのが一番好きだ。
それを好み、それを味わい、それを楽しむ。
それだけでいい。
休みの日はただそうして過ごす。
ぼんやりとそうしているうちに、
なにかとんでもないことを思いついたりする。
自分でも想像もしなかったことが自由なクオリア共振からどんどん転がりでてくる。
日常のこだわりや囚われから離れて、
これが生命が一番創造的になる状態だからだ。
ヒマラヤに来て、サブボディメソッドや、共振技法が次々と生まれてきたのも
この状態を保ってきたおかげだ。
来週から始まる共振ワークでは、
ここから始めてみようと思う。

読者の方にもお勧めします。
ただ、命がいろんなものと共振していることを感じることから
一日をはじめて見てください。
命は自分の知らない計り知れぬ創造力を持っているのです。



2010年9月13日

より深く世界と関わっていく
 

共振ワークは、これまで以上により深く世界と関わっていこうとする試みだ。
長らく長期研究生との閉じられた世界で、さまざまな共振実験をしてきたが、
そこで得られた共振技法を広くオープンワークショップの参加者とシェアしていく道を探る。
実はこの7月、8月の集中ワークショップでは、今年前期でやったことを一ヶ月に凝縮して行った。
やる前はとても無理だと思っていたが、可能だと分かった。
今度はその一ヶ月でやったことを、ダラムサラへの旅人相手に、
一週間という短期間でどこまでのことができるか、凝縮できるだけ凝縮してみる。

旅人は長期受講生とは違い、何の準備もないまま好奇心で飛び込んで来る人達だ。
より、一般社会の人たちに近い。
それは今までの授業から一般に人にも通用するよう、
余計な物をできるだけそぎ落とす厳しい作業だ。
共振ワークを、舞踏愛好者たちだけの狭い世界にとじこめておくのではなく、
より広く世界に開いていくための、試金石だ。
全部必要だと思ってやっていたことも、吟味すると、結構無駄なことや、
冗長な回り道をしていたことがわかる。

これはなかなかいい仕事になりそうだ。


2010年8月28日


産婆の三

三を見つける。

それまで二として捉えていたものに、

もうひとつの要素を絡みつかせる。

すると、いままで二に囚われて身動きもしなかったものが

突然動き出す。

これは、産婆にとって二元論の束縛から脱出するための極意だ。

二者関係のリレイションに対して、

トリレイションと呼ぶ。

あらゆるリレイションのトリレイション化(三者関係化)は、

二元論から多次元思考へゆらぎ出す突破口としてとても重要なものだ。

ひも次元ではあらゆるものは11次元で共振している。

宇宙にはたった二つだけの関係など存在しない。

そう思っているのは私たちが二元論に深く毒されているからである。

二元論の毒が回った頭は、善悪、正誤、上下、内外、心身、自他などの

幻想に縛られていつもその判断に囚われている。

一切の二元論的判断を停止することから始めよう。

二項関係で捉えていたものを三項関係にずらすことから始めるのがいい。

それがトリレイション技法だ。

 

私の頭もずいぶん二元論の毒が回っているので、

多くのものを二項関係で捉えてしまう。

ほかでもない、わたしは長年、サブボディの産婆法を、

創造技法と指圧・共振タッチのボディワーク技法を

車の両輪のように捉えていた。

だが、ふと今日二が三にずれた。

 

創造技法と、共振ボディワークと、エッジワークの三者が産婆の三であると気づいた。

とたんに、それまで別物と捉えていた共振タッチや指圧と、エッジワークが

密接な有機的関係を持っていることに。

 

重大な気づきはいつも、それまで全く別だと思っていたものが

それまで気付かなかったところでつながっていることが

不意に透明に見え出すかたちでやってくる。

 

それまでつながっているとは思ってもいなかった指圧とエッジワークが

通底していたとは!

 

去年の生徒アスカの描いたエッジワークの図を思い出した。

それは、指圧の姿勢とまるで同じではないか。

 

私が指圧の師遠藤喨及氏から学んだタオ指圧には、胸を押すという技法はなかった。

だが、時代は変わってきている。

勇気を出して踏み出してみよう。

サブボディ体験はこれまで人類が行ったことのない領域への旅だ。

そこは非二元の国なので、からだの問題と心の問題が分かちがたく結びついて現れてくる。

エッジに直面した命は、からだの痛み、緊縛感や圧迫感としてフィジカルに現れる。

エッジワークとのつながりの中で、

これまでの指圧にはなかった胸の押圧が重要な位置を占めることを発見させてくれた。

なぜなら、エッジに着面したとき、しばしば胸の圧迫感としてからだに現れるからだ。

苦しみの中身は語ることができない。

うっすら予感しているときも、その内容は自分ひとりの秘密としてしまっておく。

ただ、痛みや圧迫感や緊縛感という苦しみだけ分かちあえばいい。

胸を押圧し合い、お互いの感じているクオリアを分かち合うことだ。

それだけで不思議と苦しみは半減する。

ときには嘘のように消えてしまうこともある。

産婆は率先して押してもらい、苦しみを引き受けることだ。

具体的には、胸骨を掌底や拳圧、指などで押す。そして交代する。

ゆっくり体重をかけていきながら、

押しているのは誰なのか、何が起こっているのか、互いに感じあう。

 

2010年8月29日

呼吸困難のエッジワーク

毎日、生徒と共にからだの闇の旅を続ける。

毎日毎日違う坑道を掘り進めて、埋れている記憶や

異貌の自己に出会う。

 

はじめてそれを行う生徒にとってそれは大変な旅だ。

得体のしれない怪物と対面する毎日になる。

サブボディが活性化すると、下意識は24時間体制で眠りを知らないから

睡眠不足が続く。情動不安になる。体調不全に陥る。昔の傷が出てきて痛み出す。

それらあらゆる困難に対処し続けながら旅を続けなければならない。

 

共振タッチ・指圧による共振技法ボディワークと、

エッジワークが産婆にとって必修科目になるのは、

最低この二つは身につけていないと、脳心身のあらゆる問題に

対応できないからだ。

 

今週は土方の静かな家にでてくる様々なクオリアを自分固有のものに置き換えるために、

生徒は自己催眠技法を使って思い出せない過去の記憶に立ち返った。

 

ほとんどの生徒は親との関係に深い傷を負っていて、

忘れていた記憶がぶり返して打ちのめされたり、泣いたりした。

ひとりの生徒はある日突然呼吸困難に陥った。

教室内にいることが息苦しいらしく、庭に出て外の空気に触れた。

窓際に佇んでいる彼女に、どう言う状態か尋ねたが、

言葉さえ出ないらしく、喉元をさして呼吸ができない、と訴える。

 

しばらく、みんなで彼女を囲み、共振タッチをした。

たださまざままな秘膜距離で細胞と細胞をふれあい、

生命共振を感じる。しばらくして落ち着いてきたら、

皮膚をさすったり、筋肉各層のマッサージをしたりする。

一日目はそれで少しおさまったかに見えたが、

次の日も呼吸困難がぶり返して、朝の調体の途中で早引けしていった。

そこで次の日の朝はエッジワークから始めた。

 

その生徒に自分が感じている胸の圧迫感を私の胸を押して、

どんな感じか伝えて欲しいと頼んだ。

彼女はためらいながらも、少しずつ私の胸と喉に圧力をかけていった。

「もっと押してみて、大丈夫、死ぬ前に知らせるから」と笑わせると、

胸と喉に体重をかけてきて、実際まったく呼吸ができない状態になった。

「これは大変だねえ。どんなに苦しかったか、よく分かったよ。」

つぎに立場を変えて彼女に横になってもらい、

同じように彼女の胸と喉を押した。

「誰が押しているのか感じてみて」

それを何度か繰り返しているうちに、

彼女の態度がすこしずつほどけてきた。

なにか、すこし楽になったようだった。

エッジにはじめて直面したときは、何か得体のしれないものに襲われているような気がして

不安になり、しかも自分ひとりだけが苦しんでいると孤独に捉えられて苦しさがいや増すものだ。

そんな時、その同じ苦しさを分かち合ってくれる人が現われると、

それだけで少し楽になるものだ。

しかも、いったい誰が自分を押しているのだろうと思いめぐらしているうちに

ほかでもない、自分が自分を押しているのだと気がつく。

自分のなかの見知らぬ傾向性に触れて驚いた日常の自分がそれをはねのけようとするあまり、

自分の中で葛藤が生じ、それが胸を締め付けたり、動けなくなったりしているのだと気づく。

言葉でそう誘導するのではなく、何も言わず。ひとりでに気がつくのを待つほうがいい。

 

じっさい彼女も週末には元気になって、かなり長い踊りを創った。

踊ったとの彼女の顔はエッジに苦しんでいる時とは打って変わって晴れ晴れとしていた。

何も語り合わなくても踊りが出来れば、それが何よりの証拠になる。

創造はつねに命が受けた軋みを打ち返す、軋み返しである。

受けた苦しみを創造に昇華することができたのだ。

 

自分の中で、いったい何が起こったのか。

それを言葉で捉え返すまでにかかる時間は、人によって異なる。

去年の生徒アスカは自分が体験したエッジとの格闘を

絵に描いてくれた。

とてもいい参考になるので、下記に再掲します。

2010年8月27日


微細共振から始める

世阿弥が発見した序破急は、生命共振として捉えるとその必然性がよくわかる。

能において、ひとつの能の序は、長い渡り廊下を静かにからだを運ぶ動きからはじまる。

その序の運びの時間を通じて、踊り手は現実の日常世界から、

能が成り立つ現幻虚実が混交する異世界に入っていく。

観客もまた、その時間を共有することによって、踊り手と共に異世界に導かれていく。

 

細胞レベルの微細共振からはじめる

  

サブボディ舞踏もまた、通常の序破急では静まり返った静寂体になり、

生命の呼吸に耳を澄まし、かぎりなく微細な細胞レベルのクオリア共振から始める。
ときにはその慣例を打ち破り、異なる始まりを工夫することもありうるが
それは通常時の序破急を序とし、破の始まり方になる。
通常の序よりも、はるかに難しい始め方になる

 
序破急の序は、なぜ静かかつ微細な動きから始めるのがいいのか。

人間を脱いで、生命の世界に移行するためにその時間が必要なのだ。

 

あらゆる共振は微細な細胞生命から始まる。

細胞生命が共振しなければあらゆる共振は起こらない。

だから、共振は細胞レベルから始めるのが鉄則だ。
生命の呼吸に身をゆだねるのがもっともいい。
そして、一つ一つの細胞生命の微細ゆらぎに耳を澄ます。

もし、粗大な動きからはじめてしまえば、

見る人はそれを人間の動きとして捉えてしまう。

そうすると美醜・良否というさまざまな二元判断や価値観が、

見る人を捉えてしまう。

それでは駄目なのだ。

人間ではなく、生命になることが必要だ。
 

序破急の序が大事なのはそのゆえだ。

序においては目には見えないレベルのかすかなかすかな

命の異次元とのふるえから始める。

そしてその兆しを秘める。

すべての動きは動き以前の不可視の生命共振から始まるのだ。
そして、異界と交感する存在として、様々な人間以外の動きを工夫する。
傀儡体、ヒューマノイド、ベルメールなどもその一例だ。
秘筋、秘腔、秘膜、秘液、秘関など各自の秘密の部位から始まる。

何が起こっているのかわからない不思議な世界を創造する。

その不思議と共振することによってはじめて観客も日常の人間の世界から

生命の微細な非二元かつ多次元共振の世界に入ることができるようになる。

 

序において、限りを尽くして、人間を脱ぎ、

生命そのものに変成する。

序の如何によって、破・急の異次元開畳・異界転生が生きてくる。

どんな奇想天外な想像もつかない異世界にも、

観客とともに踊りこむことができる。

それができてはじめて生命の舞踏と言える。

一朝一夕にはかなわない。

日頃からの意識を止め、透明な生命になる長い長い修練によってのみ、

それが可能になる道が開く。

 

 

2010年8月23日

いかに舞踏を深めるか 

 

土方巽の最後の舞踏となった「静かな家ソロのための覚書き」には、
舞踏を深めるための多くのヒントが隠されている。
舞踏を深めるとは
なにか。
自我や自己の表現という近代芸術の地平から、
それを脱いでより普遍的な生命の舞踏へ降りていくことだ。
生命は自己が知らないところで、非二元かつ多次元のクオリアと共振している。
多数多様な異世界を開畳し縦横無尽に旅する踊りほど深く生命を踊ることになる。
それをすべて一身にまとい微細で透明な生命共振そのものになることだ。
土方の舞踏譜は260行あまりからなる精細なもので、
一行一行に生命ににじり寄ろうとする土方自身の渾身の研鑽がこめられている。
土方の踊りが一見何を行っているのかわけが分からないのは、
一瞬一瞬別の異世界と微妙に関わっているからだ。
これほど深く精密な生命そのものになろうとする試みはほかにない。
それは普遍的な誰にもあてはまる原理的なものと、
土方固有の出自や記憶に関わる個別的なものからなる。
普遍的な原理は普遍として学び、
土方固有のクオリアに関するものは、
君自身の固有のクオリアに転換・応用する必要がある。
以下のごとくだ。

第一節 「赤い神様」
誰が君を動かすのか。
赤い神様とは土方を突き動かしていた土方固有の謎だ。
それは土方自身にとってもわけの分からないものだ。
わけの分からないものには、わけのわからない名前をつけるしかない。
君にとっての謎は何か。
どんな未知の力によって君は舞わされているのか。
それを掴むことだ。
そして君にも分からない謎の名前でそれを呼べばいい。

1.雨の中で悪事を計画する少女

これは踊りのライトモチーフだ。
これだけは君自身が見つけるしかない。
メインモチーフのない踊りは見るに堪えない。
見せる必要もない。
なぜいったい君は踊るのか。
命に問え。
なにをいったい一番踊りたいのかい?
生きるために踊らなければならない理由とはなにか。
土方はこのどうしても踊らねばならない踊りに出会うために
45年を費やした。
若い頃の暗黒舞踏やアバンギャルドの実験をすべて脱ぎ捨てて
深いからだの闇の旅の後にはじめて出会えたものだ。
幼い頃に別れざるを得なかった慕っていた死んだ姉をめぐる謎を
土方は一生をかけて踊りに昇華した。
君が君の人生でぶつかった問題をすべて洗え。
君の命を困難に突き落としたものをかたっぱしから探れ。
そして踊ることのできるものからとりかかかっていくことだ。
いくら時間がかかってもいい。
人によってかかる時間は異なる。
大野一雄は彼の渾身の踊り「ラ・アルヘンチーナ」や
「私のお母さん」に出会うまでに70年以上を費やした。

2.床の顔に終始する
これは舞踏の普遍的な原理だ。
平板な床の顔・死者の顔に終始せよ。
それがあってはじめて次の項が生きてくる。


3.さけの顔に変質的にこだわる

そして、折を見てからだの闇から異貌の自己が顔を出す。
影やノットミー、解離された人格などが異様な顔を出す。
変な顔に決まっている。
だがその最適の瞬間を見つければどんな異様なものでも美に転化する。
それが序破急マジックだ。

4.〇はくせいにされた春

これは舞踏のなりたつ普遍的な世界だ。
それをつかむ君自身の固有のクオリアを探り出せ。
君の命が踊りたがっている世界クオリアを見つけ
その世界で踊るのだ。


5.〇森の巣だ 目の巣だ、板の上に置かれた蛾
これは巣窟体になるための普遍的な原理だ。
全身の細胞生命の秘膜を開け。
無数の森の顔、無数の目腐れの目をまとい、
からだじゅうを異様なクオリアの巣に変成せよ。

6.〇気化した飴職人または武者絵のキリスト

君の固有の記憶に刷り込まれている強烈な人物像を思い出せ。
記憶の中でその人物像が気化してさまざまな別の存在に変容する。
夢のなかで起こっているのと同じクおリア変容をからだごと踊ることだ。


7.〇額をはしる細いくもの糸
8.〇乞食
9.〇猫の腰

からだを無限に細分化する。
各部が異なるクオリアで動かされる。
からだの底に潜んでいるあらゆる別の生き物のクオリア・
何万年も潜んでいた原生体が顔をのぞかせる。


10.〇背後の世界
これは世界像に関する原理中の原理だ。
あらゆる背後世界と交信するからだになる。
地下のクオリア、天上の元型群、背後霊、妄想、あるいは内臓から変成が始まる。
君自身の秘密の変容坑道を掘れ。


11.〇ごみ処理場

これは背後世界の実例の一つだ。
ゴミ処理場には壊れた機器や死んだ猫の死体が転がっている。
生と死の間で揺らいでいるクオリアの宝庫である。


12.鏡をこするとゆれる花影があった

君が何ものかに動かされるだけではない。
ときには君の動きが不可思議な不可視のクオリアゆらぎを引き起こす。
クオリア共振には主体も客体もない。
それは幻覚ではなく、生命共振の映像チャンネルへの現れである。
ただ命の微細な共振を踊れ。

13.納屋の中でもろい物音がくずれた

映像だけではなく、音像チャンネルを開く最適のタイミングを見つけよ。
からだの中の微細な物音、死者のささやき、
見知らぬ音楽に耳を澄ませ。

14.カンコウ場

これは土方に強烈な記憶をもたらすキーワードである。
君の命にとってもっとも強烈な記憶が呼び覚まされる場所を思い出せ。
そこは懐かしい匂いや秘密の雰囲気に満ちている。
それが踊る際の生きた血肉となるのだ。


15.Xによる還元を再生

これは土方の変容技法の髄の髄。
もっとも普遍的なエッセンスである。
理解に苦しむだろうが、Xによる還元とは
何らかの要素をあるものから差っ引くことだ。
君の現在のからだから年齢を差っ引くと、胎児や子供になる。
性を差っ引くと異性のからだになる。
民族性を差っ引くとなまの人になる。
人間を差っ引くと生命になる。
そしてそれを逆にたどれ。
日本に生まれた男性または女性という偶然の借り着を脱ぎ、
その借り着がからだに染み付いている痕跡を洗い出せ。
その自分という偶然の条件と普遍的な命との間を往還する旅から
君が踊らねばならない理由が見つかるかもしれない。
Xには時間、空間、どんなクオリアでもいい。
かたっぱしから代入して想像力を全開せよ。
これは土方が命の世界でつかんだもっとも貴重な発見である。
これによって次元数を自在に増減する技法が身につく。
それは非二元かつ多次元の命の世界を次元変換しながら旅するための
もっとも大事な技法なのだ。

16.鏡のウラ


なんどもいう。
君が踊るのはこの三次元世界ではない。
不可視の鏡のウラの世界なのだ。
そここそが生命の創造の場所である。
その異世界を開け。

解説「舞踏論」第17章18章


2010年8月19日

世界を共創する方法が見えてきた 

 

ダンサーは生命共振だけによって世界を共創することができる。
この間の実験的授業でその可能性がおぼろげだが確かに見えてきた。
私のしている仕事は、土方が切り開いた生命の舞踏の技術を生徒に伝えているだけだが
それだけで、生徒一人ひとりが土方レベルのスーパークリエイターに育っていく。
土方の時代は、土方一人が飛び抜けた創造力をもっていたので、
土方が踊り手たちの踊りを一から十まで振付ねばならなかった。
だが、みんなが土方レベルの創造者となれば、特別な振付家の存在は必要なくなる。
ただ、それぞれが固有のクオリアで踊りを創り、お互いの固有の世界クオリアを共有して
いくつもの多様な世界を共振によって共創することができるようになる。
いままでは頭の中でだけ存在していた未来社会の雛形である
無限に豊かな生命の多様性が許される世界を実際に創り出すことができるのだ。
こんなとんでもないことができるのは、ダンサーだけだ。
ほかの芸術分野は、視覚や聴覚や言葉といったひとつのチャンネルしか使えない。
踊りだけがからだや動きを含めた全チャンネルを使う総合芸術である。
全チャンネルを開くことによってだけ、
チャンネル分化以前の生命の非二元世界に触れることができる。
意識を止めてからだごと生命共振の創造力を発揮できるのだ。
つくづく踊りの世界に入ってよかったと思う。
おそらく私の生命が踊りの可能性を予感して私をつき動かしてくれたのだ。
踊り手すべてが土方レベルになったとき、
生命共振による世界共創のモデルができる。
何年か前まではほんのかすかな予感でしかなかった
リゾクラシー世界実現の可能性が透けて見えてきた。
生きてる間にここまでこれようとは思っていなかった。







2010年8月17日

あらゆるものを共振として捉え直す 

 

これまで実体と思い込んでいたものを共振として捉え直すこと、

これがこれからのわたしの仕事となるだろう。

これまでのわたしの思考は、生命論においてもクオリア論においても

生命やクオリアをどこかで実体的なものとして捉える

観念の実体論的旧習に囚われていたことに気づいた。
自分自身の共振論で、あるゆるものは共振だと捉え返そうとしていたにもかかわらず
観念は旧来のまま、生命やクオリアをどこかで実体的なものと思いなしてしまっていた。

全部一からひっくり返されねばならない。

生命は根源的に共振現象である。
生命はあらゆるものと微細に非二元かつ多次元的に共振している。
共振によって生命は生命でありえている。

生命が感じるクオリアも実体ではなく、共振そのものである。

赤のクオリアなどない。

赤を感じる生命共振現象があるだけなのだ。

あらゆるクオリアは共振そのものである。
ここから再出発しよう。

共振と捉え返すことによって
これまでどこか胡散臭いものとして見られてきた催眠や自己催眠、憑依などの現象も
ただただ生命クオリアの共振だと捉えれば何ら胡散臭いものではないことがわかる。
舞踏における成りこみも共振によって成り立っている。
夢は生命の内的な記憶とその日の体験のクオリアとの間での共振によって生成するものだ。
アニマなどの元型も共振という捉え方で解けていきそうな気がする。
うまく解けないまま措いておいた謎が次々と解けていく。
闇の中を暗中模索で掘り抜いてきた無数の坑道群がすべてつながる広場に出た感じだ。
しばらくはこの広場を探索することにしよう。
おそらくはもっと深い闇にであうことになるだろうが。



2010年8月13日

 

美とはなにか

いきなりとてつもない問いが舞い降りてきた。

7月の短期集中コースが終わり、風呂に入って

ゆっくり生徒たちのからだの闇から出てきた踊りを

味わい直している時だった。

何かが変わってきた。

共振塾をはじめて1,2年間は1ヶ月コースしかなかった。

かつて1ヶ月間で出てきた踊りと比べて何かが変わってきた。

何が変わったのだろうと思いめぐらすと、

一言で言えば、美しくなってきたのだ。

おそらくサブボディメソッドが深化して、かつての余計な物をそぎ落とし

生命の微細な多次元共振体に変容する技法ができてきたのだ。

差異はごくわずかなものにしかすぎない。

だが、なんだかたしかに胸にしみるような踊りが出てきだした。

言葉にはならない生命の微細な震えが透明に伝わってくる。

あらためて、この間精進してきたのは

この微細かつ透明な美を追求するためだったのだと思い知った。

 

踊りにとって美とはいったいなんなのだろう。

 

太古の踊りは神に捧げられた。

そのもっと前はただ生命のほとばしりだっただろう。

だが、太古の人類は生命に起こる無限のクオリア共振を、

精霊や神のもたらすものだと理解した。

いまでもインドの伝統ダンスはひとえに神に捧げられている。

まさか自分の生命が共振して新しいクオリアを創造しているのだとは

想像もつかなかったのだ。

 

そして、国家ができてからは、王が神の権威を占有し、

踊りは神と王に捧げられるものとなった。

いまだに伝統的な宮廷ダンスはそれを受け継いでいる。

クラシックバレエは、この宮廷の社会秩序に従い、

王子、王女、騎士、庶民という社会秩序を表現している。

 

近代のモダンダンスはこの社会秩序から解放された個人の自我の表現になった。

社会的役割から解放された個が人類史に登場した。

初期のモダンダンス、イサドラダンカンや、ラバンの踊りの持つ

凄まじい破壊力はこれが美の革命だったことを物語っている。

 

そして、コンテンポラリーダンスにいたってさらに自我から自己へ、

人間のもつ可能性のあらゆる問題を踊るものに拡張された。

ピナ・バウシュは現代社会のあらゆる問題をあつかうダンスシアターを創出した。

だが、まだそれは優れた芸術的資質を持った振付家がダンサーの動きを振り付け

総合するという古典的形態のもとにあった。

そして、いまだに「人間」という現代最大の元型に縛られている。

現代社会ではかつて同じ社会に共存していた不具や気狂い、らい病患者などを

社会の表舞台から追放し、隔離し、健康かつ経済活動ができ税を払うことのできる

人々だけを「市民」として扱っている。

精神的・身体的ハンデキャッパーや、死者は人間以外の世界に解離されてしまった。

その社会では五体満足な健常者による躍動する動きや姿形だけが健康な美とみなされている。

ほかは醜いものというカテゴリーに封印されている。

 

だが、土方巽はその狭い美の概念枠を破壊し、

大きく生命のもつあらゆる可能性に美を拡張した。

とりわけ彼の最後の舞踏である衰弱体の舞踏は、

世界中の人間の不幸を背負い、共振するものになった。

1970年代の日本で水俣病やらい病に苦しむ歪んだ肢体の不自由な動きを舞踏に取り入れ

これまで美とはみなされていなかったもののなかに根源的に新しい生命の美を発見した。

不幸な制限された肢体になろうとも命はなお新しい共振パターンを創発し、生き延びようとする。

それほど美しいものはないという生命の真実を掘り当てたのだ。

 

私が20代の初期に初めて見た土方の舞踏公演から、

魂を釣鐘で打たれたかのような激しい感動を受けたのは、それによるものだった。

そのとき私の命に何が起こったのか、私には長い間うまく理解できなかった。

だから自ら舞踏家となり、からだで土方舞踏を学び続けた。

そして十余年、その忘れることのできない出来事が、

生命と生命の間に起こった激しい共振だったことが、

それから40年も経つ今になってはじめて分かった。

 

なぜ、土方ひとりがその美を創造することができたのか、

その秘密を探るうちに、誰もが固有の生命の美を創造出来る道が見つかってきた。

意識を止め、命に耳を澄ませば誰のからだの闇からも、

命にとってのっぴきならない動きが出てくる。

だれもが土方同様、世界でたったひとつの生命の美を創造できるのだ。

ようやく生徒の動きからそれがにじみ出てくるようになってきた。

 

この道を突き進めれば、もう特別優れた振付家の演出や振り付けなしに、

生命共振だけでひとつ世界を共創することができるようになる。

それがリゾクラシーだ。

それは踊りの舞台のみならず、世界を変えていく方法にまで生長するだろう。

何千年かかろうと、いつかは敵対的な自我に代わって
生命共振が世界の人類の普遍的な関係になるだろう。
国家や支配技術や権力によって運営される世界に替わって、
どんなか弱い生命にも生きやすい世界を生み出すことができるだろう。
どんな不幸な状態におちいっても、なお新しい生き方を創造し、
その智慧を国境や文化を超えて自由に交換できる日が来るだろう。

命のほとばしりである無限の創造の透明な輝きが世界に満ちるだろう。

私に残された時間はあと数年か、長くて十数年に過ぎないが、
それまでにひとりでも多くの人に生命共振を世界に拡げる産婆となる人を育てたいと思う。
心ある人はヒマラヤに来たれ。
新しい生き方への門はいつも開かれている。




2010年8月8日

透明なデュエットへ

7月最後の週は、土方の最後の舞踏譜「静かな家」の第一節を学んだ後、
各自が一ヶ月を統合するソロを創った。
そして、もうひとりがそこに多次元微細共振体で入る。
毎日の調体で、日々生命の多次元共振とより一層の微細クオリアに
耳をすますことができるよう多次元細分化調体を繰り返し行なった。
そのせいか、週末になってみれば、いつのまにか、
15年も前に夢に描いていた「透明なデュエット」が実現していた。
待ち望んでいたものが、予期せぬ時にいつしか訪れている。
不思議な世界だ。

「透明さ」について、そレがいかにすれば実現するのか
15年前にはまったく知らなかったことに気づく。
ただ、予感だけあったのだ。
15年前に知らなかったものとは、

①「透明さ」を実現するためには、自我や自己を止める技法を身につけねばならないこと。
②そして、非二元かつ多次元世界で微細に共振している生命になること。
③微細クオリアによってのみ動かされる透明共振体になる多次元化と微細化の訓練を積むこと。

これらためにサブボディメッソド15年間の休みない深化が必要だった。
それによってようやく土方舞踏の豊潤な果実を味わう道が開いた。
掘れば掘るほど、土方が驚くべき生命の謎の深みを探っていたことがわかるようになった。
土方舞踏の比類ない花はすべて、この深い謎と秘密によって支えられていることを。


2010年8月4日

踊りを狩る

さまざまなからだの動きや、心の動きを練習しているとき、
突然心の動きとからだの技がひとつに瞬間がある。
一定期間練習と探体を続けてきた期末には頻繁に
この結晶現象が起こる。
練習が踊りになった瞬間だ。
古典的な芸道や武道では心技体がひとつになるという。
その瞬間を精妙に保存する。
どんな心の動きとからだの動きが一体になったのか。
その微妙なタイミングをからだに書き込む。

心の動きというと、人間的なものに制限されるので
サブボディ技法ではクオリア流という。
からだのなかの生命の動きすべてが含まれる。
原生動物的なぬめりや生命記憶、
潜んでいた見知らぬ人格傾向がうねりつつ変容している。
それらすべてが不可視のクオリア流だ。
内部のクオリア流とフィジカルな動きが一体になる瞬間を探る。
あたかももっとも注意深い狩人になって、その微妙な瞬間を狩る。
瞑想状態でクオリアのままに動いているだけでは、
自分がどういう動きをしているのか思い出すことができないことが起こる。
狩人はいつもその獲物の動きと一体になって動いている。
踊りながら同時に狩人になる。
動きながら同時にもうひとりの狩人が、外から離見し、
踊りになった瞬間を見つけて狩る。

そして次の段階では次から次から生まれてくる踊りと踊りの間の
つながりに耳を澄ましていく。
ひとつの動きにはたったひとつの最適のタイミングがある。
最適の速度、転換、継続や静止の時間などがある。
ひとつの動きから別の動きへのつながりにも
たったひとつの間がある。
それらあらゆる動きや間のベストタイミングを見つけフィックスる。
はじめから終わりまでの序破急のうねりごとそっくり狩りとり
ただちにからだに書き込む。

踊りを狩る。
間を狩る。
序破急を狩る。

これが探体で見つけた個々の動きをフィックスし、
生命の序破急を聴きながら踊りを創っていく手順だ。


2010年8月1日

世界を共に創る

おそらく、人が己れの自我や自己を消して、
ただ、微細に共振する生命になったときに、
一緒に命の望む世界を創ることができる。
そういうことが実際にこの社会で行われるようになるには
五千年か一万年くらいかかるかもしれない。
自我や自己という人間の形態は、これまでの人類の前史が不幸にも
支配権力や国家を生み出してしまった残滓にすぎない。
だが、命が命令や支配や差別や競争だのを望んでいないのは紛れもない事実だ。
そうである限り、いつかは人類は命の声を聴いて自我や自己を脱ぐ日が来るだろう。
そして生命共振だけでこの世をやっていく方法を見出すだろう。
今私たちが踊りの世界から特権的な振付家の振付や指示によってではなく
生命共振だけで小さな世界を共に創るというつたない実験を試みているのも、
その遠い未来の日を予感するからだ。
これは私にとって見果てぬ夢だった未来社会の萌芽形態だ。
舞踏家とはこの世でもっとも微細な震えるような命の声を聴けるもののことなのだ。



2010年7月29日

リゾクラシーが地についてきた

夏期集中ワークショップでは、今年の前期で実験したことを
一ヶ月に集約して世界共創技法を磨く実験を進めている。
三週目になる今週は、毎日生徒にひとつの自分固有のクオリアを見つけてくるように宿題を出した。

昨日出てきたクオリアは次のとおりだ。
・溶岩流
・実を結ばない花
・宇宙的螺旋
・塩されたかたつむり
・不安定な大地

今日は
・粘液
・エイジング
・破裂的解放
・結晶化
・重たいスノーライオン

これを各生徒が発見した調体法でシェアした。
アメリカの生徒が二人いて、なかなか早口の癖が治らないので聞き取れず、
早口の矯正に苦労したが、なんとか5人で十個のクオリアを共有した。
十種類のコーボディの群れの動きで、十種類の世界をシェアすることになった。
これを明日は個人のサブボディのソロと、最適の組み合わせを見つけていく。
サブボディとコーボディ世界の組み合わせパターンは無数にありうる。
その中から最適の一つを実験によって見出していく。
最初のポジショニングと肝要なタイミングはサブボディが用意するが
実際にはフリーリゾナンスで、無数のバリエーションが生まれていく。
やる前は拙速かとも危惧していたがやってみれば生徒は皆対応してくる。
この技法が定着すればいよいよリゾクラシーによる世界共創技法の基礎が完成することになる。
長年追求してきた夢がいよいよ実現される日が来た。
踊りの創造の世界からたった一人の振付家が彼のイメージに沿って
他の踊り手の動きを振り付けてひとつの世界を作り出すのではなく、
踊り手間の生命共振だけで世界を創りだすこと。
振付家やディレクターという特権的な立場なしに世界を創ることができるのだという
事例とその技法を共有する術を実際に創りだすこと。
若年の日々を過激派のリーダーとして過ごした私は
その中で自分が運動に引き込んだ多くの共を死なせて、
二度と政治指導者の立場には立つまいと決心した。
だがそれだけでは足りない。
この世から政治や権力を消滅させる道を見出すこと、
それが生涯の課題だった。
その課題が踊りの創造という限られた狭い世界ではあるが
いよいよ実現しつつある。
この技法を世界全般に拡張していくにはまだまだ未知の課題をクリアしていく必要があるだろう。
やがてこの世の権力者が気づいて弾圧に乗り出してくるかもしれない。
それらすべての困難を乗り越えて、生命共振だけで世界がやっていける
国家も政治もないリゾクラシー世界が実際に実現するには、
何千年もかかるだろう。
だが、わたしはここまででいい。
あと数年か十数年でこの世から居なくなるだろう。
生きている間に原理とその祖型だけは見出すことができたのだから悔いなく死ねる。
あとは後世の人々の仕事だ。


2010年7月24日

世界を共に創るための技術

今月、来月の夏期集中ワークショップは、
生命共振を伝えることに重点を置いている。
毎日を生命の呼吸から始め、
生命が無数の多次元的クオリアで世界と共振していることを感じる。
自我や自己ではなく、生命として踊るにはこれが欠かせない。
そして、この二週間自分のサブボディの踊りを探求すると同時に
他の人のサブボディに自由に共振して動くフリーりゾナンスを続けてきた。
来週からは生命共振をもとにひとつの世界を共に創る
グループリサーチを始めることができそうだ。
私のイメージに従って群れの動きをするのではなく、
自分がどんな世界で踊りたいかを探り、
その世界をコーボディの動きで創るのだ。
すでに3月から6月の長期コースの生徒は、
虫の歩行の虫が這うクオリアを ひび割れたコップだの、潰れたトマトだの、
秘密の笑みだの、歪んだ種だのという、固有のクオリアに替えて動く応用に入っていた。
そして、生徒が練習をガイドするときには、
自分固有のクオリアを他の生徒に課す、さまざまなう練習法を編み出してきた。
その手法はサブボディの動きの探求だけではなく、みんなで共有すれば
コーボディの群れの動きを創りだすことにも応用できる。
いつのまにか、群れの動きをグループリサーチで創造する技術が完成していた。
そして、群れの動きを創りだすことは、世界を創りだすことなのだ。
自分が踊りたい世界を、踊りの世界では群れの動きで創りだすことができる。
生命共振だけでひとつの世界を創りだすことができるのだ。

簡単に整理しておこう。

1 調体技法を身につける

サブボディ技法では、毎日を調体から始める。
日常意識を止め、さまざまなクオリアに共振するからだに変成する。
調体には、0番の呼吸から、11番のコーボディ調体まで12種類ある。
これらを駆使すればほぼあらゆるクオリアに共振して、さまざまな者に変成することが容易になる。
まず、生徒はこの調体をたっぷり身につける。
自分のからだがさまざまなものに変成することを知る。
そしてまず、自分のからだの闇を探り、さまざまなかすかなクオリアを見つけては
そのクオリアにしたがい増幅して体ごと乗り込むことでさまざまなサブボディに成り込む。

2 固有のクオリアを見つけ言葉にする


自分ひとりで探体するときは、クオリアはからだで感じるだけで
言葉にする必要はない。
だが、他の人と共有したいときは、的確な言葉でそれを示す必要がある。
そのクオリアを虫の歩行の虫が這うクオリアに替えて練習しあう。
今年の前期の生徒は実に多くのクオリアを発見した。
それを列挙しておこう。
これらは世界を共に創るための共有財産だ。

ひび割れたコップ
秘密の笑み
潰れたトマト
小さな火山
システムエラー
腐った果物
死にかけの花
歪んだ種
潰れた根
小さな悪夢
泣いている化石
歪んだ鏡
気化する細胞
流れ星
ネオンライト
濡れた靴下
壊れたテレビ
眠り込む時計
―などなどだ。
これらはだれでももっともっと見つけ出すことができるだろう。

3 互いに他の人のクオリアに成り込む

これらのクオリアを他の人にお題として与えあって互いに変成しあう。
これがグループリサーチだ。
基本の寸法の歩行や虫の歩行を学んだ生徒なら、
やすやすと他の人から与えられるクオリアに体ごと成り込むことができるようになる。

4 自分が踊りたい世界を探る

自分の命が受けた世界からの軋みや歪みのクオリアを探る。
からだの闇には無数の世界から受けた圧迫や歪のクオリアが潜んでいる。
それを探り、命が踊らなければならない世界のクオリアを探る。
その世界を群れの動きで創りだす。
1~3に述べた技法を使えば、だれでも自分が踊りたい世界を
群れのコーボディの動きで創りだすことができる。

深海流のゆらぎ
背後霊
偽の子宮
蠢く林
押し寄せる圧迫
石をぶつけられる
棒で追い立てられる
転石群
悶える化石
ヒューマノイドの群集

5 世界変成の序破急を見つける

さまざまな世界クオリアのうちから、サブボディの序破急に応じて
いくつかの世界を創り、その中で踊る。
そこで出てくる踊りは自分の命にとってのっぴきならない必然的なものになる。
命に刻み込まれた世界との軋みのクオリアだから、、
自ずから鮮深必の必の動きが出てくるのだ。

これが世界を共に創る技術だ。
ここまで創り上げるのに20年かかった。
この原理になっている生命共振を身につけることが必要不可欠だった。


2010年7月22日

生命共振を世界に!

何を一番やりたいんだい?
命に問い続けてきたが、とうとう命が答えを出してくれた。
生命共振を世界に!

すでに共振塾は、単なる舞踏創造のための学校ではない。
生命共振を世界に満たす共振者を育てる場に変わってきている。
それがこの数年間に起こっていた深層変動の中身だ。
こうなることははじめから分かっていた。
命がそう志向していたからだ。
だがからだの闇のさまざまな傾性がひとつに統合されるには
十余年の時が必要だった。
リゾネットは、生命共振を世界に広げるためのネットワークとなるだろう。
もっと言えば、生命共振だけでやっていけるリゾクラシー世界を創るための
リゾーム・ノマドの運動体なのだ。
今日、このサイトの冒頭に、
生命共振を世界に! とつけ加えた。
まだ、それは小さなつぶやきのようなものに過ぎない。
この小さな変化が何を意味するかは、
じょじょに明らかになっていくだろう。


(この項は、からだの闇、多重日記、共振日記のすべてに
関わるので、三つすべてに掲載します)

2010年7月19日

命の声を聴け


命に聴く。
いったいどんな世界で生きたいかい?
自我と自我の対立や、支配、強制、
君の命はそんな世界で生きたいと思っているかい?
命はいつも命にとっていい環境で生きたいと志向している。
命の声に耳を澄ます。
命はしゃべらない。
ただ、細胞の具合が良くなったり、調子を落としたり、かすかな兆候を示すだけだ。
そのかすかな傾きに耳を澄まして、命の傾きにからだごと従うことが大事だ。
40代で踊り手に転生したとき、
私の命はもうコピーライターという仕事を続けることにはっきりとノンという兆候を示した。
踊り手になってから、私の命は日本で生き続けることに
かすかだがはっきりとノンという兆候傾性をしめした。
日本は命に悪い。
命の声が聴こえない。
かすかな命の声を聴くために、ヒマラヤくんだりまで
リトリートするしかなかった。
だが、ここへ来て本当によかったと思う。
生きるためにのっぴきならない必要な転地だった。

2010年7月18日

リゾクラシーへの深層変動


無性にタバコが吸いたくなって、半年ぶりに吸った。
からだの中でなにかわけの分からないものがうねっていた。
そのうねりに耳を澄ましていると、
自分の深部で大きな傾性の変動が起こっていることが感知された。
どう生きていくかというレベルの生の志向性が変わってきている。
それがハイデガーのいう情態性の変化として現れてきている。
不意にタバコが吸いたくなるときはいつもこれに関係している。
存在の深層の志向性や傾性の変化が、情動を突き動かし、
それが奇妙な体感や嗜好性の変化として現れてくるのだ。
今年になって、様々な面で変動が相次いでいた。
①生命の本質が多次元共振にあることに気づいて、
共振塾の授業を、生命の微細な多次元共振を感じ取ることから始めるようになった。
②具体的には、毎日の調体をこれまでのように
個人個人がゆらぎ瞑想によってサブボディモードになるだけではなく、
それを群れのからだで行うコーボディ調体をメインにした。
③コーボディ調体から、群れで動くコーボディ練習にダイレクトに入るようになった。
去年までのアメリカ流のグループインプロビゼーションの方法をすべてやめて、
集合的無意識に触れながら、命の微細な共振を感じて動くフリーリゾナンスを中心にした。
生徒自身が無数の共振パターンを自由に創造できる場を増やしていった。
④すると長年自分の本当にやりたかったことがじょじょに透明に見えてきた。
俺はこの生命共振を世界に伝えるために生きているのだ、ということに気づいた。
生命共振だけで社会をやっていくリゾクラシーのあり方を見つけるために、
いまここでみんなと実験しているのだ,ということが分かってきた。
⑤振付家の独断で踊りを創造するのではなく、
踊り手自身で最適の共振パターンを自在に創造していくことで、
より面白い多様性に満ちた踊りが生まれてくる。
それは前々から追求しようとしていたことだが、実践的な方法が見つかっていなかったのだ。
だが、とうとうそれが見つかった。
なんのことはない。
私自身が障害になっていたのだ。
自分の思う共振パターンを生徒に押し付けていた。
それを一切やめたことが、今年の大変化につながった。
⑥この変化は、舞踏創造方法の変化というにとどまらない。
人間社会のありかたに拡張していくことができるものだ。
人間社会だけがあらゆる生物の中で国家や暴力や強制や支配を使って社会を運営している。
だが、他の生命はすべて生命共振だけでうまくやっている。
人間だけがこれまでの歴史の前史で身につけた野蛮な方法に囚われている。
それは支配や強制に代わるもっと良い共振の仕方が見つかっていなかったからなのだ。
だが、とうとうそれは見つかりつつある。
まだわずかな意識を止めることを学んだ舞踏家の間で、
生命共振によってひとつの世界を創っていくという
小さく限定された抽象的な空間でそれが可能になりつつあるというだけだが、
原理だけはクリアになってきた。
あとは長い社会との関わりの中で、さまざまな現実的な条件に応じて
現実化していかねばならない。
何百年、いや何千年もかかることかもしれない。
人類は国家という野蛮な装置をこしらえあげるのに、
何千年もついやしてきた。
それを廃棄するにも,長い時間がかかるだろう。
だが、生命共振による永続革命はついにもっとも小規模な
実験的かつ抽象的な場でに過ぎないが、いま、始まりつつあるのだ。

(以下は個人的な人格統合の話題に触れるので、
「多重日記」での展開に移行します。
興味のある方は、ここをクリックしてお進みください。)


2010年7月16日

美はリゾナンスにあり

いままで、長年共振を探求してきたが、
ここまで言い切ることはできなかった。
そもそも,美とは何かを一言で言い切るなんて
おこがましすぎて、発想すらしなかっった。
だが、出会ったばかりの生徒たちの動きの中から、
思いがけぬ美が滲み出る瞬間に触れて
美が生命共振から生み出されていることに気付かされた。
生命と生命の間に見えない共振が起こっていることが
不思議と伝わってくるとき、私たちのなかの何かが動かされる。
震えともおののきとも言えない、もっとかすかな
崇高な美に触れたときにだけ起こる不思議な感動だ。
これはたしかに美だなと感じることができた。
いままで美とは何であるのか、うまく捉えきることができていなかった。
何がどうなったとき私たちは、美を感じ、深く動かされるのか。
美の本質を生命から解くことができていなかった。
だがいま、
美は共振にある。
そう言い切っていいような気がする。
気づきはいつもこんなふうにやってくる。
見知った二つの別だと思っていたものの間に、
不思議なつながりが発見されるというかたちで。
「何だ何だ、そうだったのか。早く言えよ。」
―-これは加藤典洋のことばだが、たしかに気づきはこんなふうに訪れるのだ。
急ぐことはない。
これは今後なお探求されていくだろう。
いまはただ、美とはなにかという生命共振をめぐる新しい探求坑道が
生まれたことだけ銘記しておけばよい。



2010年7月13日

生命の超微細多次元共振非二元世界へ

いままで、とても大事なことなのに、
どうしてもうまく伝えられないことがいくつかあった。
そのひとつは生命のクオリア共振が起こっている世界が、
意識が知っている日常世界とは比べ物にならないくらい
超微細な世界であるということだ。
もうひとつは、多次元共振だ。
最後のひとつは、非二元だ。
超微細も、多次元も、非二元も日常界には全く存在しない。
意識は日常界を唯一の世界だと思っているので、
そこにないものは存在しないものとして扱う傾向がある。
だから、以上のことを伝えようとして
ひも理論や、脳のグリア・ニューロンネットワークの話をしても
頭では理解したつもりでも、からだで感じられないことは、
うまく腑に落ちずに、抜け落ちてしまうのがありありと見えた。

さらに私は自分のツリー・リゾーム技法や、リップル技法に
悪しき段階論として囚われていた。
わかりやすいことから徐々に始めてもらおうという老婆心が
生徒をいつまでも日常的な三次元空間のフィジカルな運動の世界に、
つなぎとめてしまっていた。
私に必要なのは、粗雑な段階論ではなく、
もっと精妙なリップルだったのだ。
この鍵を解くひとつの突破口は、どうやらコーボディにありそうだ。
群れのからだになって感じることは、
何が起こっているのか、わけのわからないところがある。
この、わけのわからなさこそ、いままでないがしろにしていた
最も大事なことだった。
わけのわからなさこそ、非二元の特徴だ。
二元論的な論理が全く通用しない世界、
コーボディこそ、まさしく非二元クオリアの宝庫だったのだ。
昨日から始まった短期の夏期集中ワークショップでは、
この春から試み始めたコーボディのカオスのなかで、
あらゆるものを味わうという試みをもっと大胆に推し進めてみよう。
去年まで個人的下意識のからだであるサブボディでやってきたことのすべを
ヒューマンカウチやヒューマンマウンテン、ストレイ・ノマド(砂漠で迷子)
などのコーボディの群れのからだで、
混沌そのものをからだで体得することに絞っていこう。
どこまでうまくいくかはわからない。
未知の問題にぶつかるかもしれない。
だがこれは生命の深みへ降りる坑道を探すための
のっぴきならない探索なのだ。


2010年7月10日

静かな世界共振革命

スイスのアスカが新しい舞踏コースを開くと連絡があった。
Crick here for flyer
こうして,世界の各地に散った研修生たちが,少しずつ地域に練習拠点を見つけ,
世界各地での活動をつなぐリゾネットを産婆していくのが私の次の段階の仕事になる。

リゾネットは、生命共振だけで世界をやっていくリゾクラシーという
新しい世界システムを創造するための世界規模の実験装置だ。
これまで共振塾で行なってきたことも、すべてリゾクラシーを
いかに実現することができるかを探る実験の一環でもあった。
生命の舞踏は、多次元で共振している命が新しい共振パターンを発明していくことによって生まれる。
舞踏の公演やワークショップにはごく小規模の地域に根を張ったコミュニティがあればいい。
ほんの少しの地域とのつながりがあればいいのだ。
ただ多くの異なる地域とつながったワームホールのようなネットワークが望ましい。
そして、それはすでに出来かけている。
スイス、スペイン、トルコ、アメリカが今のところ先行しているが、
他の地域の生徒もじょじょに動き出そうとしている。
あともう少しだ。
10年前私が世界を公演とワークショップをして回ったときは、
それまで日本の京都の私の家を拠点に世界中の踊り手やクリエイターとの交流を図った
ダンシング・コミューンのネットワークに参加した人々が各国でそれを支えてくれた。
パリのサンチャゴ、アムステルダムのデビッド・ザンブラーノ、
ストラスブールのマーク・トンプキン、ブダペストのアンドレアとチボー、
シナゴーグ・チェーンのオーガナイザーだったルーマニアのマリア、
スロバキアのチョビ、ユーゴスラビアのグループ、カラカスのコントラダンザ、
チェンマイ大学のジェイ、ジャー、そして、インド,ダラムサラで迎えてくれた
ルンタ・プロジェクトの中原さんと明美さん、
多くの人に支えられて地球を3周ほどした。
今度は、世界各地に散った生徒たちのネットワークが、
生徒たちの交流を支えるだろう。
りソネットはネットワークとそのネットワークを駆けまわるリゾーム・ノマドの群からなる。
各国の拠点を旅して回る国際水準のサブボディ・コーボディをもつ群れも
年々共振塾で生み出されている。
リゾネットを通して生命共振が,どのように周囲の世界を変えていくか。
どんな大海も一粒の水滴からはじまる。
生命共振による静かな世界革命はすでに始まっているのだ。



2010年7月9日

ひとつになるという共振の奇跡

最終週のサブボディ・コーボディ劇場で、
はじめて踊り手たちの研ぎ澄まされた
生命共振がではじめた。
ごく瞬間的な奇跡的な共振が起こることによって、舞台がひとつになる瞬間だ。
共振には主体も客体もない。
踊り手が自我や自己を消すことによってのみ純粋な生命共振が現れる。
そうだ。これを見たかったのだ。
長いあいだ闇をかき分け転びつつまろびつつ歩いてきたのはすべて
これを見たかったからなのだ。
個々の踊り手がいくら優れた技量を見せても
舞台がひとつになっていない踊りを見るのはただ寒い。
全員がひとつになってひとつの世界を創造するということがもっともかんじんなことだ。
土方の舞踏をはじめ、これまでの舞台でもひとつに結晶することはあった。
だが、それはただひとりの優れた振り付け家の絶妙な采配に従って
踊り手が練習を重ねて実現されるものだった。
そうではなく、踊り手が自我や自己を消して生命になることによって起こる
透明な生命共振を見ることができるようになった。
生まれてはじめてだ。
こんな奇跡的なものを目にしたのは。
もちろん、まだほんのかすかなその始まり、
生まれたばかりの胎児のような段階に過ぎないとしても。
このために生きてきたのだと気づかされた。



2010年7月7日

世界チャンネルの魔

今週は、今年の前期の最後の週になり、
5人の生徒は毎日ひとりずつ、その日の朝からの調体と練習をガイドし,
午後七時から、今年のサブボディ=コーボディを統合する最後の踊りを創造して踊る。
雨期に入り生徒とスタッフのほかはごく少数の観客だが、
人前に自分の全体をさらすという緊張は変わらない。
からだの闇の中に長年眠っていたクオリアのすべてが活性化して
流動化し、ときに嵐のように荒れ狂い、
予期せぬ魑魅魍魎が頭をもたげてくる。
その中でもっとも恐ろしいのが世界=自己チャンネルの魔だ。
私たちが自分の全体を旅し、サブボディ・コーボディを,統合しようとすると、
必然的に世界=自己チャンネルに触れることになる。
そこには、日常世界では絶対に起こりえないような出来事が次々と引き起こされ、
まるで奇妙な悪意を持った魔物が棲んでいるかに感じられる。
世界中のあらゆるものが姿を変えて襲いかかってくることもあれば、
自分が酵母のようにゆがみ、凹み、縮まり込んでしまうこともあれば
逆に世界の支配者になったかのごとく自我肥大に見舞われることもある。
何が世界で、何が自己か、自我が自己か、自分は生命か、死物か、判別がつかなくなる。
自他・内外の境界がなくなるということは、区別がつかなくなるということだ。
これがこれまで非二元世界と呼んできたものの正体だ。
神経症や精神病で体験するのと同じ世界を覚めた透明体で味わう。
誰もこんなものを体験したいと思わないだろう。
だが、この魔界を通り過ぎない限り、何も始まらない。
二元論に閉ざされた日常の幻想を脱いで、
本当の命の世界に触れることも命の自己に出会うこともできない。
問題はこれがいつ襲いかかってくるか、予期できないことだ。
長期コースでは、それがいつ起こっても対処できるように準備する。
短期コースでは逆にそれが起こらないように深みに陥らないように
浅瀬を渡るようにガイドする。
短期間では対処できないからだ。
期間が異なるだけではなく体験内容が根本的に異なる。
安全をとって浅瀬だけを通過する短期コースでは、
からだの闇の匂いをかぐぐらいのことしかできない。
そこから先の匂いを嗅いで、なお進みたい人もいれば、
踵を返して日常世界に戻っていく人もいる。
面々の計らいだが、わたしにはもう一見の人々と過ごしている時間はない。
幸い短期コースを任すことができそうな産婆が少しずつ育ってきている。
やがては,短期コースはその人々に任せて、
私は少数の長期コースのひとびとと
冥界を旅することになりそうだ。
そこはもう生きているのか死んでいるのかさえ定かではない世界だ。



2010年7月2日

命の水と毒の水

命にとって水は欠かせない。
40億年前の生命誕生の瞬間から現在まで、
命にとって水は最大の共振相手だった。
そもそも生命の発生からして水の中だった。
水の中で頼りないアブクのような細胞膜で細胞液を包みこんで命は誕生した。
水は命にとって最初の安心出来る共振ものだった。
だから、それから40億年経った今でも、受精は水の中でしか行われない。
膣液の中を必死に泳いで精子は卵子にたどり着く。
それから一週間かけて受精卵は卵割を繰り返して細胞数を増やしながら
子宮壁に漂着する。
胎児が成長する環境も子宮に包まれた羊水の中だ。
脳細胞も脳脊髄液に浸って、ニューロンとグリアのコミュニケーションは水の中で行われている。
水なしに生命活動を維持することはできないから、命はいつも水と共振している。
もしこの地球上のどこかで水が汚されたりすると、命はどこかでかすかな痛みを感じている。
物理的な痛みではなく、どこか見えないところの調子が悪くなるというのが命の共振の仕方だ。
日常のからだは雑なので、そんなかすかなことには気づかないが、
意識を止めれば如実に分かるものだ。
大気や水が汚染されているのを見ると、どこかで命の調子がおかしくなる。
障害者や、病者、死者にふれるとだれの命もどこかで共振して調子が変になる。
遠いアフガニスタンやイラクで、民衆が爆撃にあっているのを思うだけで命が縮む。
先週、共振塾の構内に、ドラッグで被害妄想に囚われた男が紛れ込んできたことがある。
その男の妄想を思い出すだけで、自分が学校建設中に陥った神経症の症状と共振して
数日間奇妙な感覚に囚われた。
それが命の共振性だ。
命はあらゆるものと共振しているが、
とりわけ地球上の水の状態と細胞内の体液とは
ビビッドで瞬間反応的な密接な共振をしている。
昨日オディールが見せたニューオーリンズの湖の惨状を見るだけで
生徒全員の体液が共振してみんな妙になった。
共振はひとりでに起こる。
わたしたちはただ命のとんでもない共振力に驚き、畏怖することが出来るだけだ。、
生命の舞踏とはそんなかすかな、しかし思いもしない命の共振に耳を澄まして踊りにすることなのだ。




2010年6月29日

真夜中の気化調体

今年の冬頃から、左腕が挙がらなくなった。
無理に挙げようとすると痛む。

50肩の症状だった。明け方に特に痛みが増した。
だが、最近は夜中にも痛みで目がさめることがある。
風呂に入って温めるか、動かすと痛みが引くので、
夜中でも寝床でからだを動かす。
そんな中で、気化調体が見つかった。
あらゆるマイナス条件はプラスに転化することができるというのが、
ずいぶん前に見つけた真実だ。
マイナスがひどい場合ほど、得るものも大きくなる。

調体4番はもともと獣調体と名付けていた。
四ツ位になり、背骨と四肢を様々な方向に動かしていく。
そこからさまざまな生き物のリズムに成り込んでいくものだった。
これを座位で行ない、じょじょにうねりを微細化し
多次元化していくと、気化調体になることを発見した。

1 物理的多次元化

まず、骨盤から三次元方向に回す。
水平、矢状、戸板次元に一回ずつ回し一筆書きのように
その螺旋をつなげる。
それをからだの各部で行ない、じょじょにランダムな方向に広げていく。
同時にサイズを微小化する。
無限小の螺旋がランダムにつながると、気体の流体力学的な動きが実現する。
さらに、行方と来し方(こしえと読んで、ゆくえの逆の意味に使う)が気化する。
どこに行くのか,行方知れず、
どこから来るのか、来し方知らず、と
異界と交錯していく。

2 クオリア的多次元化

舞踏における気化は,単に気体になることではない。
姿の見えないあらゆるものに変容することだ。
行方と来し方の気化がそれを導いてくれる。
背後の見えない世界に気化して消えていき、
またどこかから立ち現れてくる。
細胞の呼吸、生命記憶、胎児の夢、見知らぬ情動、
体内の音楽、関係の非望、世界感覚などなどが
つぎつぎとからだをめぐり、気化する。

3 自他分化以前の非二元界へ

やがて、サブボディとコーボディの境界も気化する。
自他、心身、内外、類個、生死といった二元的な境界がすべて気化してしまう
非二元界にはいる。
時間も空間もない非空非持の国。
ここが生命の地だ!

日常世界で合意された三次元的現実の中で踊られる
あらゆるダンスと異なり、
生命の舞踏はあらゆる背後世界から非空非持の非二元世界までを
ダイナミックに往還する。
このダイナミック・ループこそが、
生命クオリアの運動領域だからだ。





2010年6月20日

透明共振場の生成

実現してみて、はじめて分かった。
なぜ15年前からずっと私が熱病にとりつかれたように
砂漠で迷子にこだわってきたのか。
それは思いのほかとても恐ろしい世界だったのだ。
そこでは微細な生命共振が透明に起こっている。
すべての瞬間を何も考えずにただただ命の共振するままに動くしかないのだ。
意識を保ったままでは遅れて不透明に浮き上がってしまう。
意識的な目で見て反応しようとなど考えていると、
無様にもそれが見ているものの目に止まってしまう。
意識では間に合わなくて不透明なからだが見透かされてしまうのだ。
実現してみるまでは、何を実現したいのかも知らなかった。
微細な生命共振だけが透明に見える場を生成すること。
それが無意識裡に私をつき動かしてきたものだったのだ。
自我や意識が出てきたり、三次元的なまなざしが出てきたら、
無残にもその不透明さをさらけ出してしまうしかない場。
目腐れの目や秘膜で動く生命になるしかない場、
そういう恐ろしい場を作り出したかったのだ。
そこではすべてが透明になる。
そこでは透明体になるしか存在が許されない。
そんなものがあり得るとは想像もしなかった。
私が一番ぶったまげた。
思いもかけず、
生命の透明共振場が突然目の前に出現したのだから。
今はただ驚くしかできない。
いったい何事が起こったのか、
それはやがてじょじょに明らかになっていくだろう。



2010年6月14日

胎児の呼吸

私たちがしている呼吸は大きく二種類に分かれる。
肺を通じて行っている外呼吸と、細胞単位で行っている内呼吸の二種類だ。
呼吸をするとき、常にこの二種類を意識するのがいい。
いつも肺呼吸と細胞呼吸の二重の呼吸をしていることを味わう。
肺に吸い込んだ空気中の酸素が、赤血球に運ばれて各細胞にまで届けられる。
呼吸をするとともに、腕や足を伸ばしたり、ねじったりすると、
各細胞にまで酸素が行き渡っていくのを感じることができる。

そして、私たちが胎児のとき、どんな呼吸をしていたのかを思い出してみる。
羊水の中に漂う胎児の口も鼻も気管も肺も水に満ちていて、外呼吸はしていない。
胎児の血液中には母親の体内から酸素に満ちた血液が送り込まれている。
その血液が体中の細胞に行き渡っていく。
胎児が行っているのは細胞の内呼吸だけだ。
大人のように二重ではなく一重の呼吸なのだ。
いわば胎児は体中で世界を呼吸している。
胎児が行っていただろう内呼吸をやってみる。
すると、なんとそれはこれまで行ってきた<生命の呼吸>そのものではないか。
いろんなリズムで体中の細胞の共振パターンが変化し、
からだが伸び拡がったり、縮んだりしている。
それを味わう。
肺呼吸以外のもっとゆっくりしたさまざまなリズムで
生命の呼吸が行われている。
自分が胎内で<生命の呼吸>だけをしていたころを思い出す。
その呼吸はいまもからだで続いているのだ。
肺呼吸のリズムにマスキングされて、聴きとりにくくなっているけれど、
耳を澄ませばかすかに生命の呼吸を感じることができる。
自分が人間であることなどまだ知らなかった、
胎児の頃からそれを続けていることを思うとなんとも懐かしくなってくる。
私たちが自我や自己であるだけではなく、
生命であることを感じとる、これはとてもいい方法である。



2010年6月13日

砂漠で迷子

「砂漠があるの。
その中に蠢くひとつの群れ、蜜蜂の大群、
入り乱れるフットボールの選手かトゥアレグぞ族の集団。
私はこの群れの縁に、その周辺にいる
――でも私はそれに所属している、
私はそれに私の体の先端で、片手か片足かで結ばれているの。
私には、この周辺が私に唯一可能な場所で、
もしこの混乱の中心に引きずり込まれてしまったら死んでしまうこと、
でも同じくらい確実に、この群れを手放してしまっても、死んでしまうことが分かっている。
私の位置を保つのはやさしいことではなくて、
立っていることさえとても難しいほどなの。
なぜかっていうと、この生き物たちは絶え間なく動いていて、
その運動は予測不可能で、どんなリズムも持っていないから。
あるときは渦をまくし、北のほうへ向かうかと思うと突然東に向きを変えて、
群れをなす個体のどれ一つとして他の連中に対して同じ位置にとどまったままでいない。
だから私も同じように絶えず動き続けている。
――こういったことは皆んひどい緊張を強いるけれど、
ほとんど目も眩むほどの強烈な幸福感を私にもたらしてくれるの。」


ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』第二章の冒頭に出てくる
とびきりの分裂病者の夢だ。
サブボディとコーボディの関係にはこの夢の主人公と群れとの関係に似たところがある。
群れと個とが、成員とその集団というふうには画然と分かれていない。
サブボディかと思うといつのまにかコーボディになってしまっている。
コーボディはいつどこででも切断され、
単独サブボディにもなり、またいつでも群れになることができるリゾームだ。
1995年のワークショップで、いきなりサンチャゴがこの砂漠の群れをやりだしたときには驚いた。
そのとき私は熱心なドゥルーズの読者で、この夢はほとんど暗記するほどよく覚えていたからだ。
サンチャゴとの第二の出会いだった。
そして、舞踏とフランスの現代思想がほとんど同じことを別個に追求していたことをも知った。
人間は終わった。で、われわれの次のあり方はなにか、という課題だ。
<リゾーム>というあり方を提起したのが、ドゥルーズ=ガタリの上の著書だった。
「リゾームのどんな一点も他のどんな一点とでも接合しうるし、
また蜜蜂の群れのように分離可能である。
モグラの穴のように常に多数の入り口を持ち、
どこへでもつながり、群れにも個にも姿を変え、
絶えず生成変化を続けている。」

土方が「静かな家」で到達したありとある背後世界と交感し、
気化と物質化の間で、無限の変容を続ける最後の舞踏と、
ドゥルーズ=ガタリのリゾームは全く同質である。
どちらも、今ある人間の日常のあり方からの必死の脱出を模索していたのだ。
この両者の等質性に直面したのは、おそらく世界で私一人だったろうと思う。
いや、今は亡きサンチャゴもこのことに薄々は気づいていた。
だからこそあんな奇跡のような激しい出会いが起こったのだ。

今週は、この<砂漠で迷子>を気化体のコーボディ=サブボディでやってみよう。
15年間も温めてきたリゾームの群れのイメージだ。
今頃になって実験の可能性が出てきた。
気化体が鍵になった。
全員がすでに気化した死者の群れである。
最初は砂漠で迷子になったノマドの群れとしてさまよっている。
その中で誰かがサブボディに変容すると、
ほかの人々も共振して姿を変える。
一人が群れに帰ると別の誰かが素っ頓狂な夢を見だす。
……
先週はホール内だけで透明共振劇場を実験した。
今週はこの<砂漠で迷子>でそれをやると、
庭や外界に所構わず展開することができる。
だが、それ以上に、これを通じて踊り手がサブボディとコーボディの不思議な関係を
からだで味わい体得することができるということが一番大きい。
命の謎は絶対に頭で考えていても届かない。
からだでなりこむ以外ないのだ。
共振の実験の種は尽きない。
はてもなく面白いことになっていきそうだ。



2010年6月12日

透明覚とリベットの実験

瞬間共振している命の動きが透明に見えるのが、
透明共振劇場だ。
これに対して、なぜ、意識が入るとぐずぐずと不透明になってしまうのか。
意識はいつも0.5秒遅れるからだ。
有名なリベットの実験がある。
(書きかけ途中)

2010年6月5日

来し方とゆくえ――非空非時への拡張

気化体、気化するからだへと変成を進めていくなかで、
これまで、わたしたちの動きが知らず知らずのうちに、
近代西洋の三次元的な物理的な動きに囚われていたことに気付かされる。
粗大身を止めるとは、こういう物理的な動きを捨て、
異次元と交感する気化したからだへと変成を進める必要がある。
そのために大事なのが「来し方」と「ゆくえ」だ。
これまでのからだの単なる三次元空間での動きの中に、
その動きの来し方とゆくえを付け加えて拡張していく。
来し方もゆくえもどこかで気化して異次元にまぎれていく。
ゆくえの方は古風な英語に"Whereabouts"というのがあって使えるが、
来し方という名詞は、過去(Past)という時間概念だけのものしかないので、
"Wherefrom"という副詞にSをつけて、"Wherefroms"という名詞を造語して使うことにした。
気化したからだは見えなくなってどこかへゆくえ知らずになってしまう。
と思っていると、知らぬうちに何処かからやってきて
ずいぶん前からそこにいたかのように居座っている。
土方の短詩に、
「目をかけてやった記憶もないのに、
庭に来て座っているものがある。
「夏だな」」
というのがある。
クオリアはいつもそのように知らぬ間にどこかからやってくる。
どこから来たのかと問うても、答えは時空の中にない。
命のクオリア共振には物理的な時空は必要ないのだ。
記憶や夢や想像が物理的な時空に属さないのと同じだ。
来し方とゆくえは、不可視の異世界と交感するための符牒のようなものだ。
その札を持っていると、いつのまにか背後世界との交信が始まっている。
そのように異世界と交感する非空非持のなかに動きの概念を拡張していく。
気化体の練習を組み立ていると、これまでの自分がいかに
近代西洋流の三次元時空に囚われていたかがよくわかる。

一番 呼吸調体――生命の呼吸へ

たとえば、調体ゼロ番の呼吸調体は、生命の呼吸というものにすっかり広がった。
物理的な肺での外呼吸だけではなく、細胞が行っている内呼吸をからだで味わうためには
想像力の大きな助けが要る。
足裏の湧泉や、額で呼吸する。
やがてはからだのどこでも呼吸できるようになる。

二番 ゆらぎ調体――気化調体へ

これまで、からだのゆらぎだけにとどまっていたが、来し方やゆくえを入れて
背後の異次元とのあいだでゆらぐようにする。
つねに、先祖や死者や夢や消えた記憶などの異世界のあいだでゆらぐ。
これらのことが日常になるまで続ける。

七番 リゾーミング調体――背後世界とのコンタクト

これまで、リゾーミングは、体の一部から変成が始まって、
全身に波及していく変成技法にとどまっていた。
だが、からだだけではなく背後世界との交感によって変成が起こると
捉えれば、リゾーミングは背後世界とのコンタクト技法に成長する。
いや、もともとそうだったのに、意識で整理するときに
それを等閑視して見落としてしまっていたのだ。

この拡張はまだまだ進んでいくだろう。
ようやく多次元・非二元の生命世界へ
からだで入っていく方法がすこしずつ見つかってきた。
毎日がエキサイトとスリルに満ちた冒険になってきた。


2010年5月30日

生命の実相にからだで入っていく

今年に入って、いままで言葉でしかつかんでいなかった
多次元微細共振体になりこんで行く道が開けてきた。
だが、生命が多次元かつ非二元共振をしていることはかなり前から分かっていたことだ。
何がいったい変わったのか。
ほんの少しだけ、リアリティが増したのだ。
言葉や頭で理解するのではなく、多次元微細共振とはどういうことかが
からだでつかめるようになってきた。
これはとても画期的なことなのだが、
残念ながらからだでしかつかめないことなので、
ここに言葉で書いても誰にも伝わらないだろうと思う。
からだのことをやっていると、本当に大事なことはいつも
からだでしか伝わらないという壁にぶつかる。
共振塾のクラスで起こっていることと、
サイトに言葉で書いてることの間には、
気が遠くなるほどの画然たるギャップが存在する。



2010年5月29日

命に聴く

いつも命に聴く。
一番したいことはなんだい?
自分に聴くのではない。
命に聴く。
この問だけは欠かしたことがない。
それだけがいつも曇ったり湿ったりしている感情や、
かつえていりたっている欲望に振り回されずに、
戸惑いうろたえ血迷っている自我や自分に惑わされずに、
命からはぐれないたった一つの方法だからだ。

この問いにもし巡り会えていなかったら、
いままで生きてはこれなかったと思えるほどだ。



2010年5月28日

「虫の歩行」最終行の秘密

今まで10年以上、毎年「虫の歩行」の練習と授業をやってきた。
だが、昨日の晩まで私は、その最終行の意味を深くつかむことがてきていなかった。

「虫の歩行」

1.右手の甲に一匹の虫
2.左首筋からうしろへ降りる二匹目の虫
3.右の内ももから上がってくる三匹目の虫
4.左肩から胸を降りる四匹目の虫
5.五匹目 自分で知覚
6.あっちも こっちもかゆい その場にいられない かゆさに押し出される
7.あごの下 耳のうしろ ひじのうしろ 膝のうしろ ベルトのところ に
五百匹の虫
8.目のまわり 口のまわり 耳の中 指の間 すべての粘膜に五千匹の虫
9.髪の毛に虫
10.毛穴という毛穴に虫
11.その毛穴から 内臓に虫が喰う 三万匹
12.さらに侵食し 毛穴を通って外に出る虫 身体のまわり 空間を虫が喰う
13.さらに空間の虫を喰う虫
14.その状態に虫が喰う
15.(樹木に五億匹の虫――中身がなくなる)
16.ご臨終です (意志即虫/物質感)」


第16行は次の二文からなる。
「ご臨終です。(意志即虫/物質感)」
”It's your end. (The will is bug, or sense of matte)"

私にはその括弧内の文が、不必要な蛇足に思え、
詩としての美を損ねていると感じて、受け取ろうとせずにどちらかというと無視していたのだ。

だが、今週水曜日に育子のガイドで虫の歩行の授業を行い、
翌木曜日は近くのカングラ・フォートという古い遺跡に行くことにしていた。
その前夜、夜中の3時頃、突然その最終行が光を放って輝き始めた。
そうか、そうだったのか。
そこに「虫の歩行」第二ステージへの扉を開ける秘密のカギが隠されていたのだ。
(意志は虫、あるいは物質感)
という一行には、次のような土方巽の遺志が秘められていた。
「後世の舞踏を学ぶ生徒諸君、
最初はまず、この虫の歩行をテキスト通り学びたまえ。
君は君の遺志で歩くのではなく、
からだを這う虫が君を動かすままに動きたまえ。
それが第一段階だ。
そして、それに習熟したら、つぎは第二段階に進むのだ。
第二段階では、テキストの虫の位置に、任意の
物質感覚を代入して行いたまえ。」


第二段階の練習は、具体的には次のように行う。
カングラフォートは、古い石造の遺跡が崩れかけ、
古い樹が茂り、複雑な地形と布置を形作っている。
その中に気になる地形が見つかったら、
その地形にゆっくりと歩み入る。
そして、右手の甲が布置の中の何らかのクオリアと微細に共振し始めるのを感じる。
石の模様や陰り具合と共振して、震え始めたり。揺らぎ始めたりする。
何がが起こるかは命に任せればよい。
次に首すじから背中にかけて、布置のなかのなにかのクオリアとの共振が始まる。
ゾクッとしたり、背後世界から死者が話しかけてきたり、と命に任せる。
次は内腿を地中に潜んでいたクオリアが這い上ってくる。
・・・
このように、土方の虫の歩行のテキストの序破急に沿って、
1行目から最終行まで、虫を何らかの物質感との共振に置き換え、
それによって動かされるからだに変成していく。
ここで土方が述べている物質感とは、正しく生命が感じているクオリアそのものだ。
だから、物質・非物質に関わらず、あらゆるクオリアとの共振を開けばよい。
記憶や夢や情動や妄想が、ところかまわず発生してそれによって動かされる。
これはもう、これから学ぼうとしている土方の最終的な境位である巣窟体そのものだ。
別の言葉で言えば多次元微細共振体だ。
なんと、虫を物質感に置き換えるだけで、
これまで初心者向けのテキストとばかり捉えていた「虫の歩行」が、
土方の最終境地にまで至る普遍的な奥義を秘めている舞踏譜に変貌したではないか。
余分なものだと私の狭い美意識によって今まで受け取ることができなかった最終行に
なんとこのテキストを単純な初心者用の舞踏テキストから、
普遍的な生命の舞踏のための多次元微細共振体になるテキストへと
ジャンプさせる秘密が隠されていたのだ。
それを解くのに十年かかったことになる。
余計だったのは私の狭い美意識の方だったわけだ。

かつてニーチェは言った。
「深淵を秘めよ。どこに?
表層に深淵を秘めるのだ!」
まさしく誰に眼にも触れうる表層に、
深淵への鍵が秘められていたのだ。

本当はこれ以外にも、私がなんとなく忌み嫌って遠ざけてきたものの中に、
こんな大事な鍵がいくつも秘められていたのに、
私はそれらをことごとく見失ってきたのかもしれない。
十分に考えられることだ。
舞踏を暗いからと遠ざけてしまう人は生涯その深みに触れることができない。
中島みゆきや山崎ハコの歌を同じ理由で遠ざけてきた人が
命の深みから遠ざけられてしまうようなものだ。
しばらく、自分が苦手としてきたものの中に
潜んでいるかもしれないものを探ってみよう。



2010年5月22日

量子的泡と土方の巣窟体

図1 相対性理論までの空間概念
図2 量子論以後の空間概念


まず、上の図をごらんいただきたい。
量子論以前の科学では,空間は一様であると信じられていた(図1)。
細分化していっても一様に静かな空間が広がっているだけである。
だが、量子物理学が登場して以降、空間を微細化して,量子論的レベルを超えた途端
天変地変のようなとんでもない変化をしているという驚くべき事態に遭遇することになった(図2)。
「空間は泡立ち,荒れ狂って、ねじれた形をとる。
ジョン・ホイーラーはこれを量子的泡と名付けた。
この空間では、左右、前後、上下という馴染み深い概念が(さらには,過去と未来の概念さえ)意味を失う。」
(ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙』)



生命もまた,この多次元的に量子的に泡立つクオリア共振を生きている。
土方巽の最後の衰弱体は、自分の人体でこの多次元微細共振している生命の
量子的泡の領域に入っていこうとした最初の試みだった。
からだを鎮め、灰柱の境地まで持っていく。
そのからだをできるだけ静かに運ぶ。
凡庸な眼で見ている限りは、かれのからだはただ不規則ランダムに揺らいでいるだけかのように見える。
だが、その実態は、時空を超えて超複雑なクオリア共振を行っている。
土方の遺した寸法の歩行や虫の歩行、静かな家の舞踏譜の世界にからだで入っていけば
彼がどんな世界でゆらいでいたのかが体得できる。
その内容の一端は、舞踏論17章以降をご覧頂きたい。
これをなんと呼べばいいのか。
わたしは土方の愛用する巣(目の巣、森の巣・・・)が無数にからだじゅうに満ちた状態として
巣窟体と呼ぶことにした。
あるいは無粋だが多次元共振体ということもできる。
巣窟体は、絶えず多次元的に無数のクオリアと共振している
生命の実相に近づこうとするときに編み出された。
からだじゅうの10兆個の細胞が多次元的に呼吸し、
新たなクオリア共振パターンを創発し、夢をみている。
実技ガイドで述べた「多次元微細呼吸」技法が必要になるのはここから先だ。
土方のからだも無限の異界と共振し、異様なクオリアをはらんで量子論的に泡立っている。
それは奇しくも,極微細な時空で量子的に泡立っている世界のありさまとそっくりな様相を示している。

量子的に泡立つ空間も、生命もクオリアも、
11次元のカラビヤウ時空で共振しているひもによって生み出されているからだ。



2010年5月28日

「虫の歩行」最終行の秘密

今まで10年以上、毎年「虫の歩行」の練習と授業をやってきた。
だが、昨日の晩まで私は、その最終行の意味を深くつかむことがてきていなかった。

「虫の歩行」

1.右手の甲に一匹の虫
2.左首筋からうしろへ降りる二匹目の虫
3.右の内ももから上がってくる三匹目の虫
4.左肩から胸を降りる四匹目の虫
5.五匹目 自分で知覚
6.あっちも こっちもかゆい その場にいられない かゆさに押し出される
7.あごの下 耳のうしろ ひじのうしろ 膝のうしろ ベルトのところ に
五百匹の虫
8.目のまわり 口のまわり 耳の中 指の間 すべての粘膜に五千匹の虫
9.髪の毛に虫
10.毛穴という毛穴に虫
11.その毛穴から 内臓に虫が喰う 三万匹
12.さらに侵食し 毛穴を通って外に出る虫 身体のまわり 空間を虫が喰う
13.さらに空間の虫を喰う虫
14.その状態に虫が喰う
15.(樹木に五億匹の虫――中身がなくなる)
16.ご臨終です (意志即虫/物質感)」


第16行は次の二文からなる。
「ご臨終です。(意志即虫/物質感)」
”It's your end. (The will is bug, or sense of matte)"

私にはその括弧内の文が、不必要な蛇足に思え、
詩としての美を損ねていると感じて、受け取ろうとせずにどちらかというと無視していたのだ。

だが、今週水曜日に育子のガイドで虫の歩行の授業を行い、
翌木曜日は近くのカングラ・フォートという古い遺跡に行くことにしていた。
その前夜、夜中の3時頃、突然その最終行が光を放って輝き始めた。
そうか、そうだったのか。
そこに「虫の歩行」第二ステージへの扉を開ける秘密のカギが隠されていたのだ。
(意志は虫、あるいは物質感)
という一行には、次のような土方巽の遺志が秘められていた。
「後世の舞踏を学ぶ生徒諸君、
最初はまず、この虫の歩行をテキスト通り学びたまえ。
君は君の遺志で歩くのではなく、
からだを這う虫が君を動かすままに動きたまえ。
それが第一段階だ。
そして、それに習熟したら、つぎは第二段階に進むのだ。
第二段階では、テキストの虫の位置に、任意の
物質感覚を代入して行いたまえ。」


第二段階の練習は、具体的には次のように行う。
カングラフォートは、古い石造の遺跡が崩れかけ、
古い樹が茂り、複雑な地形と布置を形作っている。
その中に気になる地形が見つかったら、
その地形にゆっくりと歩み入る。
そして、右手の甲が布置の中の何らかのクオリアと微細に共振し始めるのを感じる。
石の模様や陰り具合と共振して、震え始めたり。揺らぎ始めたりする。
何がが起こるかは命に任せればよい。
次に首すじから背中にかけて、布置のなかのなにかのクオリアとの共振が始まる。
ゾクッとしたり、背後世界から死者が話しかけてきたり、と命に任せる。
次は内腿を地中に潜んでいたクオリアが這い上ってくる。
・・・
このように、土方の虫の歩行のテキストの序破急に沿って、
1行目から最終行まで、虫を何らかの物質感との共振に置き換え、
それによって動かされるからだに変成していく。
ここで土方が述べている物質感とは、正しく生命が感じているクオリアそのものだ。
だから、物質・非物質に関わらず、あらゆるクオリアとの共振を開けばよい。
記憶や夢や情動や妄想が、ところかまわず発生してそれによって動かされる。
これはもう、これから学ぼうとしている土方の最終的な境位である巣窟体そのものだ。
別の言葉で言えば多次元微細共振体だ。
なんと、虫を物質感に置き換えるだけで、
これまで初心者向けのテキストとばかり捉えていた「虫の歩行」が、
土方の最終境地にまで至る普遍的な奥義を秘めている舞踏譜に変貌したではないか。
余分なものだと私の狭い美意識によって今まで受け取ることができなかった最終行に
なんとこのテキストを単純な初心者用の舞踏テキストから、
普遍的な生命の舞踏のための多次元微細共振体になるテキストへと
ジャンプさせる秘密が隠されていたのだ。
それを解くのに十年かかったことになる。
余計だったのは私の狭い美意識の方だったわけだ。

かつてニーチェは言った。
「深淵を秘めよ。どこに?
表層に深淵を秘めるのだ!」
まさしく誰に眼にも触れうる表層に、
深淵への鍵が秘められていたのだ。

本当はこれ以外にも、私がなんとなく忌み嫌って遠ざけてきたものの中に、
こんな大事な鍵がいくつも秘められていたのに、
私はそれらをことごとく見失ってきたのかもしれない。
十分に考えられることだ。
舞踏を暗いからと遠ざけてしまう人は生涯その深みに触れることができない。
中島みゆきや山崎ハコの歌を同じ理由で遠ざけてきた人が
命の深みから遠ざけられてしまうようなものだ。
しばらく、自分が苦手としてきたものの中に
潜んでいるかもしれないものを探ってみよう。



「「からだの闇」をもっと読む


2010年5月9日

命に触れる



命の動きは、意識の動きとずいぶん異なる。

まずはそれをつかむことが、からだの闇への坑口だ。

意識はただ一つことを線状に追って動く。

これに対して命はたえず、無数のものと多次元同時的に共振している。

これが最も大きな違いだ。

 

もうひとつ、意識がうまくつかめないことがある。

私たち人間のからだは約十兆の細胞からなる。

一つひとつの細胞が命を持っている。

それに加え体内にはそれの十倍のバクテリアの細胞生命も共生している。

百兆以上の細胞生命が共振しているのだ。

そして、無数の物やエネルギーやクオリアと共振している。

私たちが自分の命と思っているものはじつはこの無数の細胞の共振なのだ。

意識は自分がひとりだと思っている。

自分の命も自分ひとりのものだと思っている。

だが、命は一だの二だのという数で数えられるものなどではなく、

ただ無数の共振のつながりなのだ。

 

細胞生命は体内だけではなく体外の無数の生命とも共振している。

各細胞には40億年前の生命誕生以来の経験が細胞や遺伝子に記憶され

時を越えて保存されている。

それらの生命記憶として保存された内クオリアは、

たえずその都度出会う外界と共振する外クオリアとも共振している。

内クオリアと外クオリアの微細な差異によって変化を知る。

これが命の基本的な世界認識の方法だ。

それは40億年間続いてきている。

一秒も途絶えたことがない。

 

私たちはこの40億年つづいている命の悠久の流れから

ほんの百年足らず、人間の個体という命の形を借り着するだけなのだ。

百年足らずが終われば速やかに借り着を脱ぎ、悠久の命に帰る。

それまでにどれだけ創造を命に返すことが出来るか。

それが大きな問題である。

少しでもそれが出来れば、個体としての死はなんら悲しむべきことでもない。

個体としての仕事を終え、成果を命に返し、

ふたたび悠久の命の流れに帰っていくことができる。

 

だが、意識は数えられない世界や、

多次元同時共振などの世界に慣れていないので、

上に述べたほとんどのことは直ちには受け入れがたい。

いつまでも抵抗を示す。

だから、命に触れるにはまず意識を止めることが必要になる。

 

ゆらぎ瞑想

 

[ゆらぎ瞑想]などで意識をかぎりなく鎮める。

心地よいゆらぎに耳を澄ます状態になれば、次に進む。

 

ゆらぎの速度を極端に落とす。

するといままで気付かなかったもっとかすかなクオリア流が

からだを流れていることに気づくことができる。

それをたっぷり味わう。

そして、どれくらい多次元同時の共振が起こっているか

耳を澄ます。

 

多次元ゆらぎ瞑想

 

次の「多次元ゆらぎ瞑想」を行ってみる。

 

生命は実に重層的な多次元世界をゆらいでいる。

決して二元論的ゆらぎなどしていない。

そう見えるのは、私たちの脳が

二元論的思考の習慣に根深く

囚われているからである。

 

二元論的観念から逃れられないわれわれは、まだ意識が鎮まらない段階では

自分自身が次のようにゆらいでいると、自己解釈しがちである。

 

前―後ろ

右―左

元気―不元気

調子がいい―調子が悪い

からだが重い―からだが軽い

好きだ―嫌いだ

近寄りたい―遠ざかりたい

安心―不安

 

これは生命に対する完全な誤解である。

生命はこういう二元論など知らない。

それどころか驚くほど高次元な世界に生きている。

人間の意識が囚われている二元論などにおかまいなく

たとえばどの瞬間もつぎのように多次元的にゆらいでいる。

 

重い(重力とのゆらぎ)

明るい(光とのゆらぎ)

寒い(温度とのゆらぎ)

ビビビ(音とのゆらぎ)

面白い(情動ゆらぎ)

あれ?(記憶ゆらぎ)

うねる(動きゆらぎ)

ぼおっ(夢とのゆらぎ)

ふうっ(空気との呼吸ゆらぎ)

もごもご(音像ゆらぎ)

ふわー(胎児の頃の羊水ゆらぎ)

お母さん・・・(幼児記憶ゆらぎ)

どうしてるかな(遠い友人のクオリアゆらぎ)

…………

 

命はほんの一瞬間に、ざっとこれぐらいの多次元クオリアと共振している。

いやこんなもんじゃない。

何百億もある脳細胞が、同時に無数の内クオリア、外クオリアと共振しているのだから、

意識などでは追い切れない。

意識はそれを無理やり二元論的言語思考の狭い世界に閉じ込めようとする。

意識がたどっているのは、

脳とからだの細胞が各瞬間に行っている無数の共振のうちの

何億分の一のごくごくわずかの部分のニューロン発火に過ぎない。

だが、意識は自分がすべてだと勘違いしている。

 

生命ゆらぎは超多次元で起こっている。

それは三次元空間や二元論的思考に囚われたわれわれの

ありとある二元論的解釈を受け入れることができるほど深く多次元的である。

意識が生命をどう誤解していようと

生命にとってはお構いなしだ。

生命は意識の勘違いを咎めもしない。

 

だから、いつまでたっても意識は命の実態に触れることができないのだ。

命に触れるには、ただ意識を止め、

二元論的思考法の習慣に囚われないように、ツリー思考から離れ、

多次元連結的なリゾーム思考の世界に降りていく。

ただ、命が無言で行っている多次元共振を感じるだけでいい。

 

やがて、この多次元同時共振が命の実態であり、

それを味わうことがなんと心地よいことか、

からだに染み込むまでこれを続ける。

 

 

2010年4月28日

花と生命共振

私たちはなぜ、優れた踊りを見るとからだごとゆり動かされるのか。
どこか異次元に存在ごと持っていかれる心地になるのか?
そこでは一体何が起こっているのか?

生涯を通じてこの問を問い詰めた男がいる。
世阿弥だ。
彼はこの命に起こる感動的な出来事を花と呼び、生涯をかけて追求し続けた。
30代から50代にかけて書きついだ『風姿花伝』では、こう述べている。
「花と、面白きと、珍しきと、これ三つは同じ心なり。
いずれの花か散らで残るべき。
散るによりて。咲く頃あれば珍しきなり。
能も、住する所なきを、まず花と知るべし。
住せずして、余の風体に移れば、珍しきなり。」
これに限らず、風姿花伝の花をめぐる言葉はみな味わい深い。
だが、66歳の世阿弥は娘婿の禅竹にこう書き残している。
「以前申しつる、面白きと云い、花と云い、珍しきと云う、この三つは一体異名なり。
これ、妙・花・面白、三つなりと云えども、一色にて、また上・中・下の差別あり。
妙というは言語を絶して、心行所滅なり。
これを妙と見るは花なり。
一点付けるは面白きなり。」『拾玉得花』

この時の世阿弥は生命共振を見据えていた。
一行目の「以前申しつる」は、若年の頃に書いた「風姿花伝」や「花鏡」における花や序破急の捉え方を指す。
以前は、花と珍しきと面白きは一体であると捉えるところで止まっていた。
ここではそこから一歩踏み込んでいる。
なぜ、ある動きが花になるのか、それを面白いからだとか、
珍しいからだと捉えるのは客観的な理屈付けに過ぎない。
命に起こる感動は決して言葉では捉えられない、
言語を絶し、心行も消滅した世界の出来事なのだ。
その非二元の生命共振を指すものとして66歳の世阿弥は、、
これまでの花の上にさらに言葉にできない妙という境地を置いた。
私たちが踊りに深く感動させられるとき、
実際に起こっているのは言語を絶した心行所滅(心身一如となった)生命共振なのだ。
起こっている妙(=生命共振)を妙と見れば、それは花だ。
だが、花と捉えるのは認識であり、言葉による比喩的表現だ。
言葉は、言葉を超えて起こってしまう生命共振そのものではない。
それを面白いから花になるのだとか、珍しいからだと理屈で捉えると、
非二元一如の生命共振からさらに一歩客観へ遠ざかる。
だが、理屈で捉えてそれで終りとする態度に知識人は捉えられている。
この知的偏向は今に限ったことではない。
古代中世の時代から、日本の知識人は漢文に返り点をつけて解釈することを
自分の仕事だと勘違いしていた。それを一点付けるという。
世阿弥は若年の、「花=面白し=珍し」という三位一体論から、
言語を絶した非二元の生命共振の淵に一歩踏み出している。
この一歩に20年かかっている。
こんなものだ。命に近づく道は遠い。
私たちはあまりに深く意識や言語に囚われてしまっているので、
若年の頃の花=面白=珍という等式の発見を手柄に思って
それが論理的思考にとらわれて、生命共振を見失ってることに気づくまで
20年くらいはあっという間にたってしまうのだ。

妙――生命共振そのもの
花――妙の認知、比喩的表現
面白い――評価
珍しい――客観的理由づけ

この四つの位相の間は目がくらむほど深い。
思考を止め、言葉を離れなければ、生命には至れない。

ミクロの序破急

また、世阿弥は作舞技法としてのマクロの序破急に加え、
一挙手一踏足のミクロの序破急に注意を促している。
命に起こっているミクロの序破急を忘れて
作舞技術としてのマクロの序破急に縛られては生命の踊りなど出てこない。
ミクロの序破急は、命から出てくる必然のものだ。
なにかにねじられたり、押し付けられたり、きしませられたりしたとき、
命は必然的なねじり返し、軋み返しの動きを発明する。
その動きは避けることのできないたったひとつのタイミングででてくる。
命はこののっぴきならないミクロの序破急をよく知っている。

「一舞・一音の内にも、面白きは序破急成就なり。
舞袖の一指し、足踏の一響にも序破急あり。
見所人の「あっ」と感ずる一音にも、序破急あり。
私に云う一調・二機・三声も、調子を含むは序なり。
機を出すは破なり。すでに出声急なり。
この三、心耳に感をなして面白きは、成就なり。
しかれば、万曲に通じて、一風・一音、一弾指の機にあたるも、序破急成就なり。」『拾玉得花』

序破急は頭で考えて創るものではない。
生命の動きが持っているたったひとつの止むに止まれぬ序破急を発見したとき、
命は否応なく共振させられる。
それが起こってしまうことを、世阿弥は序破急成就と呼んだ。
共振には主体も客体もない。
ただ起こるときにはどちらからともなく否応なく起こってしまう。
それが生命共振だ。
ながく一つことを追求していると、意識や心で起こることではなく、
非二元の生命のレベルで起こってしまうことに気づかざるをえない。
それこそがとんでもないことなのだと。
世阿弥が言語を絶した心行所滅の妙花に行き着いたように、
土方も晩年は生命の舞踏を志向した。
自我だの自己だのにこだわっていては、命に間に合わないのだ。



2010年4月26日

産婆法と生命共振

共振塾の根幹は、生命共振にある。
現代の人間社会が忘れ去っている生命共振をいかに取り戻すか、それは人類史的課題なのだ。
今月から、長期生は、産婆法を学ぶ過程に入る。
これまでも、生徒は自分のサブボディのかすかな誕生の息吹に耳を澄まし、
それを誕生させる産婆としてやってきたのだが、
一定の段階から以降は、他の人のサブボディをわがことのように感じ取る産婆になる訓練を積むことが
より一層深くサブボディー・コーボディプロセスをたどるために必要になる。
体の深いところでは自分のサブボディと他人のサブボディの差異などなくなり、
サブボディとコーボディの差異さえもなくなる。
そういう非二元域に降りていこう。
産婆法は次の五つが主要なポイントになる。

1 自我や自己に囚われない生命共振を開く
2 自他に囚われず、サブボディ・コーボディ誕生の手助けをする
3 ツリーリゾーム技法
4 リップル技法
5 エッジワーク


これらは次のようなステップで進む。
1 とりあえず、朝の調体をガイドすることから始める。
2 調体とその次の探体で探るクオリアとの最も良い連関をみつける。
  探体では、秘膜、秘液、秘腔、秘筋、秘関、秘神、秘眼などの秘蔵クオリアを探る。
  また、各種の歩行やさまざまな十体につながる個別練習に入る。
3 調体、探体、創体の総合的連関を探求する
  創体では、各自のサブボディ・コーボディを踊りに創りあげていく。
  各十体への道筋を明らめる。
  静寂体、衰弱体、受動体、原生体、気化体、異貌体、傀儡体、
ボトム体、巣窟体、女体、憑依体、透明体、各種コーボディなどなどが、一般的な十体であり、
これを各自独自の十体にまで固有化していくプロセスがこれから始まる。
それらをどう導くかが、今後の課題となる。
今年は変則的に来月から数人の短期生を迎えることとなった。
だが、これは共振塾に新たな可能性をもたらすチャンスともなった。
長期生はかれらに、自分が得たものの打ち最良のものをシェアすることから始める。
いままでは秋になって、はじめて新人へのガイドをする訓練を始めていたのだが、
春から自己探求と、産婆法の習得を同時進行的に進めることができるようになった。



2010年4月24日

生命共振

共振塾の根幹は、生命共振にある。
いかに生命共振を媒介するか。
すべてはそこにかかっている。
サブボディ技法と、土方舞踏の型の双方を学ぶことによって
生徒の生命が生命共振によってひとりでに自分独自の踊りを創造する。
その創造性と固有性を発揮するプロセスを媒介するのが本質だ。
共振タッチや指圧を学ぶのは、生命が持っている原生的な生命力を思い出すことによって、
生命共振が発揮されるからだの状態に持っていくことが目的だ。
生命の原生力には、現代の日常のからだが忘れさっている自己治癒力も含まれている。
創造性とは、生命が受けた固有の軋みを、自己治癒力によって軋み返しをする動きの表れである。
受けた軋みが固有のものであるかぎり、軋み返しによって出てくる創造性も
世界でたったひとつの固有のものとなるのは当然だ。
生命はこの力によって40億年の間に無限の多様性を発揮してきた。
私たちはほんの百年に満たない期間、命を借り受ける。
その間に固有の創造性を発揮して、こうも生きることができる、
受けた傷をこうして軋み返しをすることによって創造性に転嫁することができる、
という発見を命に返す。
命の悠久たる創造の流れに参加することによって、命に帰っていくのだ。
その時、個としての死は何ら恐れるものではないことがわかる。
私たちはただ一切と共振している生命なのだ。



2010年4月23日

老婆体

不意に突然、老婆体を踊らなければならないという気づきが降りてきた。
生徒のひとりロベルトがガイドする調体を受けている時だった。
「老婆になる」という声が聞こえたとたん、
わたしの祖母たつゑ婆さんのクオリアがいきなりからだ包んで身動きできなくなった。
わたしは3歳で母から離され、7歳までたつゑ婆さんのもとで育てられたのだった。
ロベルトもまた、原生夢ワークで、彼の94歳の祖母が山になって動くという夢を踊ったのだった。
老婆とはいっった何か。
土方がこだわった村の老婆の尻の諮詢が持つ意味が一挙に降りかかってきた。
尻で諮詢する土方の老婆は、頭でなど動かない。
老婆の仲間同士で尻で相談するだけではない。
老婆は尻で祖先や八百万の神と共振しているのだ。
今では使われていないしっぽの神経が、古い共同体や祖先の記憶と通じている。
その秘められた神経で、遠い生命記憶や生命の叡智ともつながっている。
前近代までの群れのからだ、集合的無意識のからだであるコーボディにつながっているのだ。
老婆は背後の世界と見えないしっぽでつながっている。
地中に埋められた死者の記憶、天にさまよう魂の群々、
死産していった水子の数数、
それら無数の他界と共振するのが老婆体だ。
東洋の老婆のように腰を曲げると、いやおうなく苦痛のクオリアがやってくる。
この苦痛と向き合うことこそ老婆が抱えている財産だ。
この苦痛を支払ってはじめて他界と通じるからだになることができる。
老婆体は、無数の異次元と重層的に共振するからだになるための欠かせぬ一里塚だ。
老婆は少女に変身し、獣に変わり、魔女となる。
化石となり、傀儡となり、瞬間的に気化する。
やがて、老婆体をもとに、憑依体や透明共振体への変成を学ぶことになる。
老婆体の本質は異界との重層的共振にあるからだ。



原初生命体になる
2010年4月19日

原始感覚を開く

月曜日は大概いつも共振タッチと指圧から始める。
土日の休日で街で日常体に触れて荒んでいるサブボディを鎮めるには、からだで触れ合うのが一番いい。
もっともかすかな秘膜に触れ合うことからはじめて、
秘液、秘腔に触れ動かしあい、秘筋、秘関に空気を送りながら、
伸ばしたり捻ったり、互いのからだを動かし合う。
今日はそこからさらに群れのコーボディコンタクトへなだれ込んでいった。
全員が練習場の真ん中に触れ合ってひとつになる。
ちょうど胎児が受胎して単細胞から二分割、四分割がすすんだところだ。
たがいにひとつの命の分化していく途上の原始細胞になりこむ。
そこから徐々に体の各部の細胞に分化していく。
眼などまだない。皮膚と体液があるばかりだ。
そこからじょじょに脊髄ができ、内臓が分化し、手足が生えていく。
40億年の生命史を胎児としてたどりなおす。
いつもどおりの30分の探体もひとつの命として触れ合ったまま行う。
この形は、昔の呼び名ではヒューマンマウンテンやヒューマンカウチと呼んでいた。
それが新しい可能性のパラダイムを開くものに生まれ変わった。
目腐れのまま群れのからだとして生きるとき、原始感覚だけが頼りになる。
このコーボディのまま、すべてを行えばいいのだ。
この群れのコーボディのからだのまま探体をおこなう。
そして、30分の探体のあと、見つけた動きを踊りに創造する創体も触れ合ったまま行う。
ただ細胞から細胞へ伝わってくる気配やかすかな振動だけがたよりだ。
誰もが胎児だった頃はこの体感だけで世界と共振していた。
原始感覚とはその胎児の頃主要だった感覚なのだ。
思考や判断を止め、原始感覚をひらく。
自分が人間であることなど知らなかった胎児時代に見た夢を思い出す。
原初生命体としての動きを探る。
見つけた動きをシェアするサブボディ・コーボディシアターも
同じヒューマンマウンテンのカオスの中で行う。
何時間続けても心地よい、別世界を味わえる。
今までにない新鮮な境地だ。
もっとも何人かの生徒は何が起こっているのか、かなり戸惑ったようだ。
はじめて意識から遠いからだの状態になると、誰もが戸惑い恐れる。
それはかいくぐるよりほかない必然のプロセスだ。
コーボディは個人的無意識よりも深い集合的無意識のからだだ。
それは40億年の寿命を持つ細胞の原始生命・原始感覚に直結している。
そこから出てくるものは、はるかに人間より遠い。
こここそ生命の舞踏の坑口なのだ。
ヒマラヤで十年かけて、ようやくこの入口まで達した。
からだの闇は深い。
40億年の歴史を持っている。
今までどうしてもここまで降りることができなかった。
入り口まで達するのに十年かかったことになる。
では今まで一体どんな浅瀬をさまよっていたのだ?!



軋みのクオリア
2010年4月11日

軋みの探究

今月は、先月ほんの少しずつ掘り始めたからだの坑道を、少し奥まで掘り進める。
とりわけ、今月は命にとっての軋みのクオリアを探求するつもりだ。
どうやらそれがもっとも豊饒な鉱脈に続いていそうなことがわかってきたからだ。
だが、豊穣の周りは危険に満ちている。
何が出てくるかわからないから、あくまで慎重に歩を進める。
対応できそうもないものに出くわしたら、すぐさま引き返す。
そして、その厄介なクオリアのありかを覚えこむ。
来年はきみを踊るからね、と伝えて、今のところはそっとしておく。

軋みとエッジと原生夢

命が誕生したばかりのころ、命はとてもかよわいものだった。
1ミクロンにも満たない小さな細胞で、しかもまだこの地球上のほとんどの分子やエネルギーと
うまく共振する仕方を見出していなかった。
たとえば、今はこんなに相性のいい酸素さえも、
発生当初の生命にとっては、命を脅かす猛毒だった。
命がまだうまく共振できないものに出会うことは、ただちに死を意味した。
だから、そんなものに出くわしたら、命は命からがら逃げ出してしまう
不快きわまりないエッジクオリアとともに、その危険な物質やエネルギーを記憶したのだ。

命にとってこの、エッジクオリアと、軋みのクオリアは近親である。
エッジクオリアが、うまく共振できないものに対するクオリアだとしたら、
軋みとは、うまく共振できないにもかかわらず、命が生き延びるために
自らを歪ませ変形させて無理やり受け入れたものだ。
ほとんど同じものだと言っていいほどだ。
どちらも、不快で、ただちに逃げ出したくなるクオリアに満ちている。

そしてもう一つ、命にとって忘れることのできない歪みやエッジのクオリアは、
生涯を通じて繰り返し見る原生夢や固有夢として、命に刻印される。
これらの悪夢は命にとっての根源的体験なのだ。
これらのクオリアを何年もからだの中で転がしているうちに、
そのつながりが浮かび上がってきた。
軋みのクオリア、エッジクオリア、そして原生夢は、
命にとって最も深い根源的体験のあらわれなのだ。



2010年4月6日

ボトムへ、命の底へ。

からだの闇の歩き方は実にいろいろある。
最初のうちは、右も左もわからないからただむやみにうろつきまわるしかない。
地図もなく、先人の旅行記もなかった。
ずいぶん思いがけぬ危険な目にもあった。
共振塾を始めた頃は、毎日新しい坑道を掘り進めながら、
安全だと確認できた道にガイドしていた。
だが、予期できぬことは次から次へといくらでも起こった。
初期の生徒とのスリルに満ちた共同作業だった。
今年はヒマラヤへ来て12年。
からだの闇の歩き方のガイドの仕方がいつの間にか変わっているのに気づいた。
広大無辺なからだの闇をただむやみに歩き回っていては、
いつまでかかるかわからない。
貴重な鉱脈のみつけかたをガイドできるようになってきた。
貴重な鉱脈とは創造性の鉱脈だ。
それを掘り当てれば無限の創造性が湧出してくる、そんな場所がある。
ずっと前から掴んでいたのだが、言葉ではなかなか捉えることができず、
生徒を上手くガイドすることも出来なかった。
今年になって、いきなり下意識の群れのからだになりこむ、コーボディ坑道が開けたことによって、
言葉の説明抜きに群れのからだごとそこへ運んで行く手法が発見された。
<そんな無茶なことをしてもいいのか!?>
という自分の中の意識のブロックを脱ぐのに、何年も掛かっていたのだ。
妨げていたのは老婆心という超自我のひとりだった。
からだの闇の豊穣な創造の鉱脈に至る坑道とは何か。

今年堀り進めているのは、
1)命が感じている有るか無きかのかすかな歪みのクオリアを探る
2)歪みや圧迫を極限まで辿ったときに現れる命の底のからだになる。
3)底のからだから出てくるかすかな命の息吹をたどり、別の命に転生する。
4)ひとりではなく、)群れのからだ(コーボディ)で、このプロセスのすべてを一緒に味わう。

――これらだ。
言葉では説明できないことは、からだでともに味わうしかない。
上の1、2、3、に書いたことも仮の言葉だ。
ほんの目印のようなもの。
実際にはこれらの何万倍も複雑なクオリアを生徒たちはからだで味わい、
無数の未知の動きが創発され、それらを共振によってシュアしている。
言葉と実際に起こっていることの間には巨大なクレバスが存在する。
踊り手とは黙ってそのギャップをからだで超え、行き来するものの謂だ。





2010年3月29日

コーボディの闇の深さ

いつもサブボディとコーボディの絶妙なバランスをとり続けること、
これに最も腐心してきた。
頭で考えるのではない。
生徒と一緒に授業を進めながら、その都度その都度舵をとっている。
わたしは小舟の上に立つ船頭だ。
これまでサブボディ抗を深められそうだったので右足を踏み込んできた。
いまはコーボディ抗が見つかったので左足を思い切り踏み込んでいる。
小舟というよりサーフボードの上に立ってからだで舵をとっている感じだ。
ひとりで探るとサブボディ抗を掘ることになる。
探りながら、他の人に触れたりもみ合ったりすると、コーボディ抗が開く。
ほんのささいな一瞬の違いだが、わずかな差異から
思いもかけぬ異なるところへ導かれていく。
下意識モードで群れで動くと最初はぶつかったり、危険もある。
その危険に触れると動きながら透明離見を開く必要を思い知らせてくれる。
今日も衝突事故が二回起こった。
幸い大したことはなかったが、時に大事につながる。
安全を確保するのも産婆の大事な役目だ。






2010年3月28日

すがすがしい未到の風

コーボディ坑道の様子は、今まで掘り慣れてきたサブボディ坑道と様子が違うことに気づいた。
なんだかもっと複雑に入り組んでいるようなのだ。
あるいは異なると思っていたものが意外なほど隣接していたりする。
コーボディ坑道はサブボディ坑道に比べてより一層非二元かつ多次元が輻輳しているようだ。

先週生徒とともに掘りすすんだ

目腐れコーボディ
秘液コーボディ
よじれ返しコーボディ

の三つのコーボディ抗をもう少しつぶさに調べてみよう。

目腐れ抗は、
最初、目を閉じてゆらぎ瞑想をすることから始まった。
別に眼を閉じることを指示しているわけではないが、
最も心地よいゆらぎを探そうとすると自然と誰もが目を閉じる。
目を閉じた状態では、闇の中にかすかなクオリア流動が起こっていることを感じ取ることができる。
映像チャンネルにも、かすかなイメージの流れとして、登ってくる。
それは内クオリアの流れである。

外光に反応する外クオリアの刺激は内クオリアに比べて何億倍も強烈である。
だから、はじめは片目のまぶたにわずかな隙間を作って、そこから入っていくる
ごくわずかの闇とあかるみの感じが、かすかな内クオリアと半々につりあう状態をつくる。
それが内クオリアと外クオリアを半々に感じる透明覚の入口になる。

そして、じょじょにもう少し目を開けて外光が入っても、
内クオリアを感じ続けることができるようにじぶんで訓練していく。
そして、じょじょに半眼や、眇目、白目、端目、歌舞伎目、ガラス玉の目など、
もっと見開いた状態でも内クオリアを半々に感じ続けることができるまでに持っていく。
このプロセスを身につけるには本当に長い訓練がいる。
わたし自身、何年もかかった覚えがある。
だが、これを群れでやると、なんだかみんなが同じくらいの下意識状態を共有することによって
意外と簡単に、外クオリア半分、内クオリア半分という状態に似た状態になることができた。
他の人の動きも夢のなかの出来事のように感じ取れて、
目に映っている光景が、外クオリアなのか内クオリアなのかが判然としない
白昼夢を見ているかのような下意識状態になるからだと思われる。
自分の夢のなかに他人が入ってくるのか、他の人の夢のなかに自分が入っていっているのかも
はっきりと区別できない状態だ。

おそらく、この自他未分化、内外一如の状態が実現できるのがコーボディの特徴だ。
ただ座ったままの瞑想ではなく、からだを動かしながら群れで瞑想状態に入る
サブボディ・コーボディ技法ならではのことだ。
この状態はいままで、ドリームワークとして特別に日を決めてやっていたワークとも
非常に良く似ている。
はじめに、違うことと捉えられていたことが、意外に紙一重の距離で隣接していることに
気付かされると言ったのはこのことをも含む。
あらゆるものの布置が異なって現れる。
非二元界の新たな地図を書き直さなければならない。
とても二次元の紙に書けるほど簡単なものではないが。

よじれ返しコーボディのプロセスでも
これはかつてエッジワークでやっていたこととそっくりだなと感じた。
みんなが自分の人生で受けた傷や圧力や歪みを相手に与え合う。
押し合いへし合いしながら、互いにどんな人生を送ってきたのかを
体感で共有し交換しあう。
自分だけのことだと思っていたものが、意外とみんな同じような体感を請け負っていたのだと
深く生命共振レベルから共有しあうことができる。

秘液抗も、今までなら各人のからだにもっとも低い下等生物的な傾向性を探って
原生体を探りだすことに留まっていた。
だが、これもみんな一緒に粘菌やプランクトンに変成して、
くっつき合ったり、ゆらぎあったりすることで、
より自然に群れだった頃の体感をからだで味わうことができる。
そうだ。生命が単細胞生物だった当初の30億年間は、
個などはまだ出現していなかった。
個と群れを分かつクオリアなどなかったのだ。
ただただ、生命は群れだった。

今年はさまざまなコーボディ抗を掘り進め旅しながら、
この長い長い群れとしての時間を、何度も何度も味わい直そう。
自他未分化なクオリアのリアリティをからだで知り、
共有しあうことが最も肝心なことなのだ。
頭だけでは絶対に得られないものがここには厳然とある。
この群れになりこむプロセスを深く長くたどる中で、
はじめて個の意識や、自我や自己が変成し始めるのだろう。
自我や自己は、誰かに捨てろといわれて捨てられるものではない。
自分で変えようと思っても思うだけで変わるものでもない。
からだで自我のない状態のすばらしさを知り尽くすことではじめて変わっていく。
意識しなくても知らない間に命は余計なものを脱ぎ捨ててしまう。
これこそ長年探し求めていた坑道だ。
とうとう、それを実地体験できる坑道が見つかったことになる。

コーボディ抗が開く地平は予想以上に、
これまでとは根本的に異なるパラダイムの転換をもたらしてくれそうだ。
意識優先の意識という現代特有の狭い認識法から脱出する旅だ。

からだに当たる風がこんなにすがすがしく心地よいのは、
これが人類にとって前人未到の非二元界の風だからだ。


2010年3月14日

出てこれないもの

からだの闇には、そこから出てこれないものがある。
普段は気づかれることもない。
から闇深くひっそりと沈んでいる。
それらは極端に用心深い。
なぜなら、かつてひとたびこの世に現れようとしたとき、
こっぴどく拒まれ、痛めつけられた原体験を持つからだ。
存在していることの気配さえ消して、
自我にさえ気取られぬよう潜んでいる。
周囲には無数のエッジを張り巡らせて、結界を張っている。
近づこうものなら恐ろしく不快なクオリアを立ち込め、
決して何人も近づけようとしない。
もっとも深い闇から出てこれないもののクオリアが存在する。
あるかなきかのあわいでゆらいでいる。
本当に踊るべきものはそれなのだ。
ヒマラヤ12年。
とうとうそれを言うときがきた。

浅い踊りがこの世に満ちている。
ダンスだけではない。
Butohという名の浅い踊りが満ちている。
長い間その失望の中にいた。
土方が死んで以来その状況は変わっていない。
誰も何を踊るべきか知らないのだ。
土方自身でさえそれを誰にも伝えることなく死んだ。
からだの闇から出てこれないもの。
土方が苦節の果てに掘り当てたのはその鉱脈だった。
土方が血を吐く用に踊ったのは、
出てこれないもののクオリアだった。
本当に踊るべきものはそれなのだ。
命と生命の間で必然的な深い共振が起こらざるをえない
踊りしか踊ってはならないのだ。
ヒマラヤ12年目にしてようやくそう言い切れるようになった。

今までの短期コースの時期の生徒には、
こんなことは恐ろしくて言い出せなかった。
出てこれないものには、社会の側から禍々しいレッテルが張り付けられている。
暗、汚、穢、醜、悪、劣、淫、凶、狂、病、死、・・・
それに触れるだけでも勇気がいる。
まして自分の中にあることを認めるまでには時間がかかる。
それを踊れるようになるには、もっと鍛錬がいる。
なまじそれに取り組もうとした生徒が、道半ばで共振塾を離れることになれば、
その後の責任を取れない。
何が起こるか分からない危険を秘めているからだ。
一年コースの生徒がそろう今年になってはじめて、
そのもっとも深い闇に取り組めるときが来た。
一年あれば何が起ころうと対応出来る。
もっとも深い闇から、もっとも深い美が創出する。
命が震え、胸を打ってやまない感動は、
出てこれないものが、厳しい結界を越えて、
何とかして出てこようとするときに出現する。
それに例外はない。

この冬はその出てこれないものを、
どう掘り当てていくかを探り続けた。
いくらかたしかな坑道が見つかった。
今年の生徒はしあわせだ。
まだ誰も導いたことのない恐ろしいところに本当に行ける。




2010年3月11日

からだの闇の仮の見取り図

1998年にはじめて来て以来、ヒマラヤも12年になった。
瞑想していると、これまでに盲滅法、手当たり次第に掘り進んできたからだの闇の坑道が、
ずいぶん透けて見えるようになっているのに気づく。
これまでのあらゆる苦し紛れの試行錯誤を統合し、
ひとつのパースペクティブの中に位置づけることが出来そうだ。
いままで出来なかった、学期のはじめにこれから一年間のざっとしたオリエンテーションが
できるようになってきたこともこれと関係している。
そう、いつの間にか、ずいぶんと透明度が増している。
いままで、段階論に囚われるのがいやで、採らなかった伝統的な瞑想法の中の
粗大身(グロスボディ)、微細身(サトルボディ)というような区分けも、
それを仮の見取り図とはっきりさせれば採用できるよい方便であることにも気づいた。
あらゆる見やすい見取り図はトリックでもある。
これに囚われて、からだの闇が実際に今見えているようなものだと錯覚してはならない。
非二元かつ多次元時空は、例えてみれば次の図のように、入り組んでいる。


前だと進んでいるといつの間にか後ろに向かっている。
上だと思ってよじ登っていると、着いたのは地獄の底だったというようなことがしょっちゅう起こる。
だが、なんの当てもなしに歩くよりは、仮のものであるにせよ
何らかの見取り図がある方が歩きやすい。
それを非二元かつ多次元世界を歩くための仮の地図だとわきまえてさえいればいいのだ。
からだの闇にはどんな見知った段階的構造も、上下の階層制もない。
そのことをはっきり押さえておくこと。
歩き始めのときには、これらの坑口のありかや、歩き方をガイドした導きが役に立つ。
だが、それを信じないことが大事だ。
とくに創造のなかでは一切の理論や図式を潔く忘れ去ること。
それを忘れないで欲しい。

三界トラベル

からだの闇を歩くとき、三つの異なる世界を横断するのだと承知していることは役に立つ。
三つの世界というのは比喩のようなものだ。
実際には非二元かつ多次元なのだから数え用もない世界だから。
三つというのは二元論の囚われから脱出するための必須の通り道だ。
古来からの伝統的な瞑想の世界でも、三つの世界として捉えてきた。

1 日常界 
私たちが人間として生活している日常世界だ。
古来、粗大身(グロスボディ)の世界と呼ばれてきた。
微細身と比べれば、はるかに粗大(荒っぽくて粗雑なこと)な動きや判断からなる。
それら粗大な動きや感覚、判断、思考をすべて止めることによって
微細なものに耳をすますことができるようになる。
調体(コンディショニング)とは、呼吸やゆらぎ瞑想などによって
この粗大な日常体と日常思考を脱ぎ捨て、微細界へ降りていくことだ。

2 微細界
伝統的な瞑想技法では微細身(サトルボディ)と呼ばれてきた。
日常体の粗大な動きや思考をすべて止めると、
日常界では見過ごしてしまうほどかすかなクオリアのゆらぎに気づくことができるようになる。
どれくらいかすかかというと、何億何兆倍もかすかで微細な、あるかなきほどのものだ。
日常体はそんなものが存在することすら知らない。
わたしも12年前ヒマラヤへ来て、ダライラマの書を通じてはじめて微細身のことを知った。
サブボディは、通常下意識のからだ(サブコンシャスボディ)のことだと
説明しているが、もうひとつの隠れた意味は、サトルボディのことでもある。
サブボディとサトルボディ(微細身)はほとんど同義である。
ただ、サブボディ技法では、伝統的な瞑想法では使わない動きのチャンネルを開き、
動く微細身である衰弱体になりこむ修練を通して、からだの闇を縦横に旅する。
伝統的な技法では開かない体感や動きのチャンネルをはじめ、
映像・音像・情動・関係・世界などのあらゆるチャンネルを開いていく。
その点だけが異なる。
衰弱体を、動く微細身であると位置づけるのは、今年が初めてである。
これによって、いままで闡明できなかった伝統的な瞑想法の世界と、
土方舞踏の世界とのつながりを明らかにすることができるようになった。

3 非二元界

三つ目の世界は、名づけにくい。
非二元かつ多次元の誰も見たこともない世界だからだ。
昔は融即界と呼んでいた。
日常世界の論理とはまったく異なる論理によって動いている。
生命の感じるクオリアの世界だ。
神話的な世界や伝統技法の中では、神や仏が動き、変容する世界として捉えられてきた。
サブボディ技法では自分のからだをさまざまな十体に変成させて、
この世界をからだで縦横に歩きまわり、動きまわり、踊り、旅をする。
変容する十体にみずから成り込むのが
伝統技法にはないサブボディ技法の特徴である。

ともあれ、これが三界の簡単な仮の見取り図だ。
くれぐれも旅の指針としてだけ、参考にして欲しい。
実体ではない。
三つの世界は縦横に絡み合い、浸透しあっている。
日常体の粗大な神経や感覚では気づかないだけだ。

以前に作成した図解ツアーも、それが仮の見取り図だと了解しながらたどれば、
役に立つかもしれない。
図解ツアーにはじめにというページを付け加えて、
それが仮のパースペクティブを与えるものであることを強調した。
いまではあまり使わない古い概念や技法も含んでいるが、
すべて試行錯誤の中の実験だった。
これからも実験は続く。
サボボディ技法を学んだ生徒たちによっても、
世界中でからだの闇を旅する様々な実験が続けられている。
それらの実験はすべて遠くで共振しあっている。
もう誰にも全容は捉えられない多次元リゾームになった。
ただ、これらを通じて世界が限りない多様性と共振に満ちた豊かなものになっていけばいい。



からだの底を探る
2010年2月24日

カンボジア便り3 プノンペンの踊り手たちの、深いからだの闇

プノンペンの若いダンサーたちに、創造とは何かというワークショップを行った。
普段はカンボジアのクラシックなラーマヤナなどのヒーロー、ヒロイン、
ハヌマンという猿の神様の踊りを練習している生徒やその教師たちだ。
定まった形を習うばかりの人たちに、誰のからだの闇にも
その人独自の創造の宝庫が詰まっていることを伝えたかった。
たった二日間だったので、エッセンスだけに絞った。

からだの底の未知の闇をまさぐる

1 舞踏とは死体となって他界からのメッセージをこの世に伝える媒体となることだ。
2 日常意識を止め、からだの闇のかすかなシグナルに耳をすます。
3 自分のボトムを探り、今までであったことも見たこともない動きを搾り出せ。

1、2はいつものことだが、3のボトムに絞ったのが今回の実験だった。
ボトムは謎に満ちている。
未だにうまく説明できない。
からだの底、それは物理的な底ではなく、
クオリアがのっぴきならず、一番濃くなるところを指す。
以前からボトムの持つ未知の可能性に気づきながら、
これまで徹底的に探る方法が見つかっていなかった。
このワークショップは、だから私にとっても何が出てくるか、賭けだった。
彼らが英語をしゃべらないのが逆に幸いした。
私にとっても彼らにとっても、からだ同士で伝わることだけがすべてだったからだ。
土方や私自身のいくつかのボトム姿勢を見せたのち、
可能な限り体の各部をねじったり曲げたり伸ばしたりして、
これまでやったことも見たこともないような姿勢を探り、
自分にもっともぴったりフィットする姿勢を探ってもらった。
アンコールの石像の裂けた顔や、崩れた肢体、
木の根に絡まれた寺、など彼らに親しいクオリアも使った。
そして、そこで不思議な、自分でもなぜかは分からないが、
妙に気になるクオリアが見つかったらそれをとことん踊ること。

カンボジアの若者たちの毎日20分のセルフリサーチの時間は真摯そのものだった。
真新しいことを吸収しようという意欲と素直さにあふれていた。
彼らの多くは貧しく、英語もほとんどしゃべらない。
文字通りからだのコミュニケーションだったが、要点は余さずつかんでくれた。
出てきた動きはぎりぎりの未知の領域にチャレンジするものが多く、
わたしは彼らのからだの闇の深さに久しぶりに胸を打たれた。
私はいったい何に動かされたのだろう?
人のこころを打ち、動かすものとは何なのか。

このワークショップを通じて、ボトムにはまだ知られていない未踏の可能性があることを確信した。
ボトムは必ずしも小さく縮まった姿勢に限らず、
自分にとって未知の一番濃いクオリアが湧いてくるような姿勢を探ることに本質がある。
だが、これが未だにうまく説明できない。
自分でもなぜだか分からないが妙にこだわりを感じる姿勢を見つけること。
英語でいうとnuminous。
<自分でもなぜだか分からない不思議さ>というのがポイントだ。
そこには自分の生命が出会った未知のエッジクオリアが潜んでいる。
そこから出てくる奇妙な動きは自分にとって必然的な独特の踊りになる可能性が濃い。
土方にとって少女の輪郭がケダモノめいてくる変容の瞬間がそうであったように。
numinousなもの。
奇妙な不思議に満ちたもの。
そこから生きるためにのっぴきならない踊りが出てくる。
根源的な創造の宝庫なのだ。

今年の共振塾では、ボトムとnuminous とエッジとの関わりの探求を進めよう。
まだ解き方は分からないが、このあたりに創造の秘密が潜んでいることは
カンボジアでの実験で確証することができた。
命から命へ響きあう深い踊りが析出してくるからだの神秘を解き尽くす。
これが今年の私の仕事だ。



アンコール遺跡群では樹の根と石が共振して異時空を生み出している
2010年2月22日

カンボジア便り2 顔が裂けても微笑み続けている


カンボジア北部のアンコールの遺跡群を訪れた。
中でもタ プロームという寺は、
榕樹という他の樹を喰い尽くして生き延びる旺盛な生命力を持つ樹の威力をそのまま示す
ように、
樹の根が寺の建物の石を覆い尽くしている状態をそのままに保存している。
サボボディ好みの異次元開畳の見本のような先生たちだ。
その樹の根の写真を撮っているときに
驚くほど懐かしい微笑みを持った仏像に出会った。
いや仏像ではない、建物の基部の周囲に彫られている目立たない天女たちだ。
だが、止利仏師一族による法隆寺周辺の仏像と同じ顔立ちをしている。
広隆寺の半跏思惟像の微笑みをも思い出した。
古代アジアの仏教美術の質の高さに驚いた。
慈悲という思想への深い理解と共感なしにこんな顔は彫れるはずがない。
高貴さでは日本のそれよりアンコールの方が優っていると感じた。
その顔はほとんどが年月の中で亀裂が入ってしまっているが
それでも微笑み続けていた。
顔が裂かれても微笑み続けている・・・
時を超える永遠の今という時間がそこに現出していた。
思想としての仏教は、生命共振思想の先駆なのだと思い知った。
彼女らは何百何千年も共振思想を伝えようとして微笑み続けてくれていたのだ。
踊りは一瞬の瞬間芸だが、
その一瞬にこの仏のような永遠の今の時間をはらませることができるようになりたいものだ。
たった一瞬で生命共振を伝えることのできる踊りとはなにか?
また、新たな課題を抱え込んだ。
そして寺の建物を喰いつくさんばかりにはびこる榕樹は、
まるで彫刻師のように、あちこちでヒトガタの形を作っていた。
時を超えると人も植物も石も皆共振して同じようなものになっていくのだ。



2010年2月3日

カンボジア便り1 誰がわたしをカンボジアに引き寄せたか

カンボジアに棲む古い友を訪ねてプノンペンにきた。
友あり遠方より訪ねる。また、楽しからずやだ。
古くからの友と会い、旧交を温めることは人生の深い喜びのひとつだ。
カンボジアにきた第一のきっかけは友と会うためだ。
昨年共振塾を訪れたカンボジアの劇場アーティストのRithさんに乞われて
カンボジアの若いダンサーにワークショップをする約束もある。
だが、どうやらこの国との因縁はそれだけではなさそうだ。
カンボジアでは真っ先にマーケットを歩いた。
数々めぐったアジアのマーケットの中でも最高レベルの多彩な山海の豊穣に溢れていた。
海没したスンダランドの文化の深さにあらためて感嘆した。
とりわけ人々の柔和な顔に和む。
クメール仏は彼らと同じ表情をしている。
わたしは教団としての宗教には組みしないが、
仏教を思想としてみれば、生命共振の思想の先駆者だ。
それがここでは息づいている。
そして、それとはまったく対照的に、ポル・ポトの悪夢に毎夜うなされる。
市内のある高校の学舎がポルポト時代に刑務所に改造され、
そこに監禁され、拷問を受けた後に虐殺された多くの少年少女を含む
死者たちの顔写真が居並んでいた。
なぜこんなことが起こったのか。
ここだけではない。
日本の連合赤軍事件も、内ゲバ殺人も同じだ。
夢の中でサブボディが煩悶し続ける。
ポル・ポトの思想には生命共振が欠けていた。
彼が信奉した毛沢東思想にも、
それに反対していた私たちの若い頃の反スターリン主義にも、
生命共振という根本が欠けていた。
生命を忘れ、自我に囚われた知識人が政治を行ってはいけないのだ。
いや、政治や国家そのものを無くさねばならない。
生命共振だけでやっていける世界を創ること。
それは何とかして可能なはずだ。
いつか人類はその方法を発明するだろう。
わたしの思考はいつもそこで止まる。
そこから先が見えないのだ。
わたしをカンボジアに引き寄せたのは、
彼らキリング・フィールドに眠る300万の死者と共振するわたしの中の死者だ。
アウシュビッツの死者、南京虐殺の死者、ベトナム、アフガン、イラクの死者・・・
死者らはみな共振している。
そして、彼らの死を無駄にしないために
長年迂回し続けた世界変革の課題に真向かえ、
もう一歩、どこへどう踏み出せるのかを探れ、ということなのかもしれない。



2010年1月18日

非二元域への旅

ここ十日ほど、映像のない体感夢を見続けている。
ごわごわの体感だけを感じている夢から始まった。
その後、からだをTake Careしなければならないねえと言い合っている夢、
アンドロイドのように、からだをリペアしなければならなくなっている夢
周り中内臓だらけのような世界に漂っている夢、
……などなどだ。

どれも言葉にならない不分明な体感に満ちていて、
はじめはなにか分からなかった。
からだのなかにもごもごしている体感だけがあった。
毎朝寝床の中でその体感を味わい続けた。
日毎に新しい気づきがあった。
どうやら、この間長いネットの断線中に書こうとしていたことをまとめようと、
言語モードになってしまっていることへの警告であるように感じられた。
書こうとするとなにかおかしい感じがからだのなかにくぐもっていて
なかなかうまく書けなくなっていた。
サブボディさんは、書くな、からだに聴けと言い続けているようだった。
からだの闇に耳を澄ますことから出発するのがサブボディメソッドの眼目だ。
だが、私自身がそこからずれてしまっていた。
改めて毎朝からだに耳を澄ます時間をたっぷりとるようにした。
すると、からだのなかのいやなくぐもりは消えた。
だが、それでも体感夢のシリーズは続いた。

最近の内蔵だらけのような世界に漂っている夢は、
まったく上も下も分からない奇妙な世界だった。
しかも言葉にできない微妙な体感に満ちていた。
しかも不快な言い知れぬ不安に満ちている。
右も左もわからない世界で身をよじり、身悶えしつづけている。
さすがに奇妙な物好きの私にさえ、ちょっとこたえる体験だった。
この体感が、これまで授業の中で私の言葉についてくれずに
動けなくなってしまった生徒の体感に共振しだした。
数限り無い動けなくなった生徒の不快な体感が次々と思い出された。
そうか、生徒もこの不快な体感にやられて動けなくなっていたのか。
私の言葉が多すぎたり速すぎたりしたことが生徒を苦しめていた。
言葉なしにこの不快な体感の海を泳ぐ術はないものか。
ふと昔見た飛翔夢のシリーズを思い出した。
その夢も何日も続いた。
そしてある日胸をきゅっと締めることで空気の流れを捉えて風に乗るコツを掴んだ。
胸鎖関節に長い間封印されていた鳥の胸使いがからだに蘇ってきた。
ただ、踊っている最中にsの空を飛ぶ体感が蘇ってきて
何度もベランダから飛び出しそうになった。
あまりに危険なので怖くてしばらくはベランダに近づけなくなった。
だが、内臓だらけの世界で身もじりし続けているうちに、
なんとなく身悶えしながら動けるようになってきた。
ひょっとすれば、これが非二元域のクオリアかもしれないと気づいた。
ここが宝庫なのだ!
この非二元の世界をうまく旅する体術のようなものを見につければ百人力だ。
非二元の世界のことは言葉を通じてはどうにもならない。
からだでつかむしかないのだ。
そのこともこの一連の夢のメッセージだった。
じつは私はこの数年間、からだの闇の非二元かつ多次元の世界の論理を取り出そうと
悪戦苦闘してきた。
何度もトライしては失敗しつづけた。
どうやら、その世界はことばでは記述不可能なのかもしれない。
そしてただからだごとサブボディに成込み、無手勝流で旅をすることによって
からだでつかんでいくしかないのかもしれない。
ことばによって取り出そうとする試みを止めるのではないが
それをするにはまだまだ経験不足だよというのがサブボディさんからの
この一連の夢を通じてのアドバイスなのだろうと思う。

じつはこのシリーズの最新のものは、今朝見たもので、
その夢の中ではついに生徒が最強のクオリア遣いを身につけたと喜んでいる夢だった。
ずいぶん先走った夢だが、24時間体制で働くサブボディさんははるか先まで見通しているのだ。
この夢を通じて、サブボディさんはこの体感をコントロールする体術を生徒と共有せよと示唆しているのだと気づいた。
それは言葉にはできない。
とても微妙で曰く言い難いものだからだ。
だが、一年の授業のなかでじかにからだとからだの触れ合いを通じてなら
なんとか伝えることが出来るかもしれない。
今年の授業では、この曰く言い難い微細体術を伝え、共有することにトライしてみよう。
今までにやったこともないことだからどうなるか分からない。
非二元域への旅など、いままでに辿ったことのない未知の領域への旅になる。
どこにどんな危険が待ち構えているかも知れない。
その世界へダイブしてしまって帰れなくなることが最も怖い。
私の飛翔夢の中で掴んだ飛ぶコツが、練習中に混同して出てきた危険がそのよい例だ。
まさに生死のあわいへの旅になる。
心して辿ろう。



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