2009

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からだの闇を掘る
2009年11月21日

意識の内視盲点

私たちの意識には大きな内視盲点がある。
意識は自分を知らない。
もっと詳しく言えば、
それは意識は意識が立ち上がってくる自己の淵源を知らないということだ。
日常生活をしている普通の状態(これを日常体と呼ぶ)では、
意識は意識がどこからどのようにして出てくるのかを意識しない。
意識は無意識を意識しない、といってもいい。
ただ、ここでは無意識という言葉はフロイド、ユング以来
多くの人の異なった解釈や定義を与えられてしまって不分明なので、
からだの闇という言葉を使う。
からだの闇は、身体、無意識、下意識、集合的無意識、サブボディ、コーボディなど
意識以外の心的現象、そして心身現象のすべてを指す。

日常体に対して、舞踏家は意識を止め、意識や意識的な動きがでてくる以前のからだの闇に耳を澄ます。
そこはごくごくかすかな命が感じているクオリアだけがうごめいている世界だ。
意識はからだの闇を流れるクオリア流から立ち上がってくる。
だが、それは意識を止めない限り気づくことがない。
クオリアは自己や自我ではなく命が感じているものの総体を言う。
私たちのからだは60兆個の細胞からなる。
そのひとつひとつの細胞生命がそれぞれにクオリアを感じている。
そしてそれらが共振してなんらかの傾向性を持ったクオリア流になる。
からだの闇ではそういうクオリア流が多数多次元的に変容しつつ流動している。
だが、それは意識にとっての内視盲点になっている。
舞踏家とは意識を止め、からだの闇に耳を澄ます者を指す。
言い換えれば、舞踏とは意識の内視盲点を踊ることだ。
意識を止める訓練に熟達していくと、
意識の下部のからだの闇で起こっている微細な体感や傾向に気づくようになってくる。
そこでは、クオリアとクオリアが出会い、新たなクオリアが日々刻々と生まれている。
その微細かつ精妙な出来事に耳を澄ます。
それが舞踏家の仕事だ。
舞踏家は自分で踊りを創造するのではない。
からだの闇で命が起こしている創造的なクオリア流に耳を澄まし、
それに全身全霊を捧げて付いていくだけだ。
命には善悪良否などどんな二元論的な判断の制約もないから、
意識で創り上げた踊りに比べると途方もなく面白いもの、とっ拍子もないものが生まれてくる。
舞踏家に必要なのはどんなことが起こっても、
それに驚かず、意識で自己規制せず、
命の創造の媒体として自分のからだを捧げ抜くことだ。



2009年11月7日

いつも命に問う

ヒマラヤへ来てから10年になる。
この十年間ずっと続けていることがある。
それはいつも命に、「何が一番したいかい?」と問い続けることだ。
暇さえあれば一日に何度となく問う。
日ごろは小さなことが多い。
今日はどんな授業がしたいのかとか、何を書きたいのか?とかという些細な問いだ。
かすかな性欲や食欲、活動欲のゆらぎについて問うことも多い。
いつも命が本当にやりたいことをやっていることさえ感じられれば、
どんな妄想や劣情に耽ってもかまわないのだ。
それでありのままの命に触れることができる。
命を知性で裁断したり制限したりすることほどばかげたことはない。
だが、週末はもう少し大きな目で問う。
来週は生徒のサブボディはどんなふうに拡がりたがっているだろうかとか、
本当の彼・彼女の踊りになるためには何が必要だろうかとか、
生徒のサブボディの可能性に関することが多い。
だが、それだけではなく、いつも自分に問い続けている。
本当に今の生活を続けたいのかい? 
ほかにやりたいことはないのかい?
本気で問いつづける。
もし、命が別のことを望むならば、いつだって私は人生を再編集する用意がある。
私は編集者として25年間生きてきた。
自分の人生も何度も何度も編みなおした。
45歳でそれまでの人生をたたんで舞踏家として生き始めた。
50歳のとき日本での生活をたたんで外国で踊りはじめた。
53歳でその旅暮らしを終え、ヒマラヤに練習場をつくり始めた。
55歳で踊り手から、教え手に転身した。
幸いここ五年間は命はこの生き方以外のことは望んでいない。
何度も何度も問うてそうなのだから、やはりいまは共振塾が一番したいことなのだ。
だが、いつだってまだ、転身の可能性はある。
共振塾の授業はじょじょに長期生たちに任せて、
わたしは少し別の、まだないリゾナンス・ネットワークの創造に活動の比重を移していくことになるだろう。
「人生、編み直し、可。」が私の標語だった。
今なおそうである。
今月、生徒は一年間の探求を統合して、最終創造に向かう。
このときも、命に問い続けるのがいい。
何を一番踊りたいのかい?
四六時中問い続ければ、きっと命は夜の間に答えを見つけ、明け方の夢で知らせてくれるに違いない。
この問い方を見つけたのが、この十年間での最大の収穫だったかもしれない。
命に問い続けていると、命からの答えの受け取り方にも習熟するようになる。
命は夢のメタファー言語で答えを返してくる。
やり取りを続けていると、そのメタファーの翻訳の仕方がうまくなるのだ。
それは、洒落や、隠語を解することに似ている。
ひねり方に独特の癖がある。
ときには映像チャンネルに、何かが示唆されたり、暗示が含まれていたりする。
だが、もっとも確かなのは体感チャンネルだ。 
夢の体感をまさぐっているうちに答えが見つかることが多い。
大概明け方の一、二時間体感をまさぐることで解ける。
ときどき丸一日かかることもある。たまにもっとかかることもある。
だが、いつも自分にとって一番大事な問題についての答えが含まれていることを信じれば必ず解ける。
今月は、この命とのやり取りの仕方を生徒に伝えよう。
まだ、言葉にしたことはないので、うまく伝えられるかどうかは心もとないが。
ことばにならない、ごくごくかすかなからだ遣いのコツのようなものなのだ。
踊りの芯になるからだ遣いの秘密が伝えにくいことにも似ている。
これは今後の課題である、クオリア語の探求とも密接に関わっている。
いいところに気がついた。
こここそ私の掘るべき坑道だ。
これもサブボディさんの導きなのだ。
あんまりこれを言うと、信仰くさくなるので控えねばならない。
宗教的な信仰ではなく、命への畏怖なのだ。
わずかな違いだが、この違いも大きい。
元型や共同幻想への根本的な態度に関わるからだ。
人類は命を数限りないやり方で取り違えてきた。
命は目に見えないものであり、物質と非物質の両域にまたがってひとつである。
また類と個をも越えてひとつである。
生と死の間を絶えずゆらいでいる。
見えているのに目に見えないものである。
人間の命は無限のクオリアを感じ、しかそれが無限に変容流動する。
こんなものはどこにも、類例がない。
人類はかぎりなく命を畏怖してきた。
自分の命が感じている無限変容するるクオリアに畏怖し続けた。
まさか自分の命がこんな力を持っているとは想像もつかなかった。
その時代に、率直な命への畏怖の代わりに、
神や仏やもろもろの元型が編み出され、命とクオリアの無限変容力を持つものとして解釈されてきた。
あらゆる元型は人間の自分の命への誤解の歴史である。
神や仏やもろもろの元型は、人間が自分の命の力を外なるものに投射することによって生まれた。
これらの誤解の観念体系を取り除くことではじめて命にじかに触れることができる。
宗教や国家や政治は乗り越えられねばならない。
あらゆる元型や共同幻想の支配を乗り越えることに、命の創造がかかっている。
すでにある既成の捉え方にもたれこんでしまえばおしまいなのだ。



2009年10月27日

還暦・再生誕

還暦というのはいいものだ。
今までの60年の生には、よくやったと暇をやって
もう一度0歳として誕生する。
今度の生は今までの生ではできなかったことを思い切りやろう。
前の生ではうかつに言葉を覚えてしまったのが、最大の失策だった。
言葉にしたとたん掻き消えてしまうものがある。
命が感じているクオリアだ。
前の生ではそれを踊りにしてきた。
だが、それを言葉にすることはできなかった。
今度の生では言葉を覚える以前の自分に戻って、何を感じていたのかをつぶさにたどってみよう。
0歳の命としてクオリア語を覚え始めよう。
非二元かつ多次元で絶えず変容流動しているクオリアにできるだけ忠実に
書き留めることはいかにして可能になるか。
前の生では覚えた分節論理や、説明言語がそれを阻害した。
(コピーライターを25年もやっちまったからなあ。
染み付いて取れなくなってしまった。)
そんなものでクオリアを低次元の記号にせずに、
赤子のように書いてみること。
60年の生の記憶を振り返りながら、
同時に0歳に戻ってからだの中でどんなことが起こっていたのか、一個二重に生きてみる。
かすかに、かすかにしか残っていないが、クオリア流動は消えることはない。
それに耳を澄ます。
どんなものになるのか、まったく予測もつかないが、
もう一度生き直すとしたら、これを措いてない。

前の生の遺産

前の60年の生で出会った師はみなこれに別の仕方で取り組んでいたことに気づいた。
不思議な奇縁だ。
土方巽は舞踏のクオリアを直接言葉にすることをやり遂げた。
『病める舞姫』一巻だ。
前の生でも真似しようとしたがまったくできなかった。
あれは土方にしかできないたった一度の発明だ。
今度の生ではまったく新しく赤子になって始めよう。
哲学とは新しい考え方を発見することだといったミシェル・フーコーは、
『言葉と物』で、近代の分節言語が成立する以前の近世以前の文化は
<類似>原則で成り立っていたことを見出した。
<類似>はクオリアの共振現象そのものだ。
クオリア共振は近代分節論理では捉えることができない。
まったく新しい論理と言語と考え方を見つける必要がある。
フーコーはクオリア流動語をみつける<類似>という手がかりを残してくれたのだ。
無意識域への旅の先導者であったユングは<変容>という特徴に目をつけていたた。
彼が手がけた集合的無意識の元型に満ちた神話や分裂病者の手記やアクティブ・イマジネーションは
多彩な<変容>に満ちている。
これもクオリア共振の欠かせぬ特徴だ。
もう一人は直接の師ではなく、人類共通の紀元前の知の遺産だ。
仏教やギリシャのヘラクレイトスの<流転>
万物は流転する。
仏教でも<融通無碍>という言葉で万物流転を捉えていた。
いまも、私たちの表向きの知性である近代的分節論理思考の基部では、
これら、<類似>、<変容>、<流転>という特徴をもったクオリアがそのまま生きている。
これをつかんで離さず、0歳の命として生き直してみる。
新しいクオリア語を命に習い直す。
そんなものはありえないのかもしれない。
クオリア語はからだでしか使えない言語なのかも知れない。
どれだけ時間がかかるかも分からない。
でも、やってみる。
60歳以後の人生の時間はこんな途方もない実験のために与えられたプレゼントなのだ。


2009年10月25日

全生を踊る

今朝、面白い夢を見た。
インドにチータという美味な果物がある。
いや実はわたしもはじめて食べた。
二三日前にロメスが買ってきてくれたのだ。
こぶしぐらいの大きさで、分厚い1センチくらいの粒粒の殻で囲まれている。
その殻を剥ぐと、中にえもいわれぬ味わいのく果肉が詰まっている。
若い頃は緑だが、熟すと黒くなる。
夢にそのチータが出てきた。
生徒たちのからだの闇のあちこちにそのチータが十個ほど埋め込まれている。
そして、ひとつひとつのチータが、別々のサブボディに変成し始めるのだ。
とてつもなく面白い踊りが繰り出されてきた。
目覚め際この夢は、共振塾の次の課題を示唆していると気づいた。
十個のチータは、サブボディ十体を象徴していたのだ。
サブボディさんは、生徒たちの次の課題は何かを24時間体制で探し続けている。
今生徒たちの創造性は絶好調だが、まだ出てくる踊りが全体になっていない。
ひとつの発想に引きづられていて、多次元的な切り替えが足りない。
次の課題は、生徒各自が自分の十体を創造することだ。
ヒマラヤ山上トリウンドの踊りを見てサブボディさんはそう感じていたのだ。
これをいかに統合することができるか。
その答えもトリウンドにあった。
サブボディは珍しい外界の環境に触れると、まったく新しい様相で立ち上がってくる。
巨岩や立ち木や雲や風が新しい世界の布置をかもし出すのだ。
その中で動くと、いやおうなくサブボディは布置の変化とともに共振し変容流動する。
からだに埋め込まれた十個のチータは、十体の詰まった種であり巣である。
その巣窟に満ちたからだが、世界の布置と触れ合い共振し始めたとき、
世界像と自己像がひとつになって変容流動し始めるのだ。
そうなってはじめて、それまでばらばらだったサブボディが非二元かつ多次元の命のまるごとになる。
からだや動きや映像、音像、情動などの単チャンネルのクオリアが命の丸ごとクオリアに変成して流動し始める。
やっと、世界チャンネルへこぎつけ、全生を踊るヒントをサブボディさんは示してくれたのだ。
明日の授業はこのチータの夢から始めよう。



2009年10月23日


非言語域

共振塾で起こっていることが言葉にならない領域に入ってきた。
今週から憑依体の授業を始めたとたん、
生徒から出てくる動きが突然変化しだした。
えもいわれず奇妙な味わい深いリアリティを持ち出した。
何が起こったのか、言葉で捉えようとしたが、
私の低次元の説明言語ではとても捉えきれない。
説明したとたん別物になる。
人に伝えるための言葉にならない領域、
言葉になどしてはいけない領域に踏み込んでしまったようだ。
秘すれば花、という世阿弥の言葉がある。
だが、秘そうとして秘すのではない。
秘するしかできないことがあるのだ。
実際に起こっていることをできるだけ透明に伝えようとしてきたが、
臨界点に達した。
この深いギャップを前にしてたたずむ。
言葉の私は打ちのめされているが、
踊りにとっては喜ばしいことだ。
言葉以外の私はむしろうれしさにむせび泣いている。
とうとうこんなところまで来ることができたことをうれしく思う。



2009年10月5日


からだの闇の広大無辺

昨日に続いて、今日もからだの闇をとぼとぼ歩いている。
どこに向かっているのかも、ここがどこなのかも分からない。
なんだか奇妙な場所へ迷い込んだ気がする。
ひょっとしたら、からだの闇にはこういう広大無辺なサハラ砂漠のような場所もあるのかもしれない。
死の本能、生の本能というより、ただ、からだの闇の布置に、
今まで知らなかったこんな場所が拡がっているのかも知れない。
おそらく20万年前、アフリカを出た人類の祖先たちは、
こういうあてどない旅を幾世代も続けてきたに違いない。
そうしてユーラシアから、オセアニア、南北アメリカにまで拡がって行ったのだ。
こんなあてどない旅は人類の普遍的な記憶なのかもしれない。

果てしない旅を続けた人々もいただろうし、旅の途中で移動を止めてひとところにとどまった人々もいる。
私がいままで出会った人々の中で一番古いのは、9万年前にアフリカからインドに渡ってきた人々だ。
彼らは今も南インドのジャングルの山中に少数部族に分かれて暮らしている。
ニグリットと呼ばれる真っ黒小さく、ちじれっ毛を持ったアフリカのピグミーさんたちとよく似た人々だ。
かれらは9万年前からいままでほぼ変わりない暮らしを続けている。
後から来たドラビダやアーリア系の人々と交わらず、美しく竹で編んだ家に棲んでいる。
日本の竹細工も洗練されているが、それ以上に暮らしに密着していきづいている。
家の中には日本で私が子供の頃に飯を炊いたものとそっくりなかまどがしつらえられている。
多くの文化がそこから日本に流れてきた。
なにより心がとびきり美しい。付き合って一番心温まる人々だった。
サブボディスクールで私を長年支えてくれているロメスとピタールも彼らの血を引く人々だ。
彼らの命は共振の粋だ。
ロメスは人の心が読める。
からだを見ただけで何をしようとしているのかを察知して、
何も言わずに救いの手を差し出してくれる。
多くのことを彼らから学んだ。
どれほど大事なものを私たちが無くしてしっまていたかを思い知らされた。
日本からインドに移住した私は先祖がたどった道を遡行してきたことになる。
サブボディの旅は、長い移動の間に無くした落し物を拾い集める旅なのかも知れない。



2009年10月4日

タナトス・死の本能

夜中にふと何もすることがなくなってタバコなどをふかしていると、
自分の命がやがてくる逃れようのない死に向かって
とぼとぼと歩いているような気がするときがある。
中学生の頃から、フロイドを読んできたが、
彼の言説の中でタナトス・死の本能だけは、うまく腑に落ちなかった。
エロス・生の本能ならば、実感的に感じられる。
だが、死に向かう本能など本当にあるのだろうか?
自分の中を探し回っても心当たりがなかった。
これは長い間の謎だった。
けれど今日ふと自分の姿がただ死にむかって
よぼよぼと当てもなく歩んでいるものであるかのように見えた。
これがひょっとするとフロイドが言っていた死の本能・タナトスのクオリアなのではないか?
ただ、そういう気がしただけだ。
別に死のうともなんとも思っていない。
それどころか、いまのわたしは日々新鮮な喜びに満ち溢れている。
ただ、60を過ぎてタバコを吸うのは明らかに緩慢な自殺行為だ。
それが分かっているのに、私の命は恐れもなくタバコを吸う。
これはあきらかに生への傾性にはむかう反対の傾性だ。
そういうものがからだの闇の中に存在することを、
いままでは恐ろしくて認めることができずに解離していただけではないか。
死の本能に突き動かされている部分があると考えてもいいのかもしれない。
いや、大昔から自分の中に退廃が存在していることには気づいていた。
ドストエフスキーが「地下生活者の手記」で、
「一杯のお茶が飲めるなら世界が滅んでもいい」と言ったあれだ。
その退廃を、死の本能だとは捉えてこなかったが、
それを認めればいつなんどき自殺してしまうかもしれないと怖れて懸命に否認していたのだ。
いまは昔ほど死が怖くはない。
尊敬していた江藤淳もドゥルーズもからだが駄目になったとき同じような自死を選んだ。
わたしも似たような状態になれば、彼らと同じような自死を選ぶかもしれない。
生と死の間でゆらいでいるのが生命だ、と常々感じている。
昔から信じてきた「生とは生への志向性だ」というテーゼが思い込みに他ならなかったとすれば、
生命は生への傾性も、死への傾性も等分にはらんでいるものなのかも知れない。
いままでからだの闇のなかの自全のメンバーの一員としては勘定に入れていなかったタナトスさんも
幽霊のような影の薄さだが、一員としてつきあっていこう。
なんだかその方がリゾクラシーが豊かになり、
生命観がよりいっそうありのままのものに近づくような気がする。

(※この項は多重日記とここの両方に載せました。)

2009年10月4日

からだの闇の多次元パズルを解く

からだの闇は恐ろしく複雑な多次元かつ非二元一如の世界だ。
現世で習い覚えた低次元論理などなんの役にも立たない。
それどころかその融通の利かない狭さが邪魔になるだけだ。
複雑系の論理に多変数解析という領域がある。
それを数式を使わず、体感だけをてががりに解いていく。
体感クオリアのもつれには、それがくぐもっているときのうっとおしい不快な体感と、
それ解けたときに訪れるほっとした開けの感覚がある。
それは間違いようのないクリアなものなので、とりあえずそれだけを手がかりに
多数多次元の要素が絡み合ったむすぼれを解きほぐしていく。
まるで永遠に解けない多次元パズルを解くような営みだ。
だが、これほど味わい深くおいしい生き方はまたとない。

まず、闇の多次元のすべてのクオリアを等価に味わえる透明なからだの状態を整える。
毎日をここからはじめる。つぎのごとくだ。

1.日常生活のわずらいを遠ざける

どこにいても、日常の暮らしは問題に満ちている。
日本にいればおびただしい雑音や情報が耳に入ってくる。
それから逃れるためにヒマラヤ・インドに引き籠ったが、
ヒマラヤ・インドではここ特有の問題に満ちている。
ひっきりない土砂崩れによる水道管の切断や、水道管の詰まりによる断水、
停電、落雷による機器の故障、強風による電話回線の切断、
銅線の窃盗団によるネット回線の長期切断、プロパンガスの在庫切れ、
担当公的機関のクレーム処理の遅延、注文品の到着遅れなどなど、
これらのライフラインの問題がいつもいくつか重なって起こる。
まずは、これらの問題への囚わから心身を引き剥がさねばならない。
問題の実際的解決にあたることはもちろんだが、問題がなくなることはない。
あらゆる問題に対して等価な距離を保つことだけが囚われから距離を保つ秘訣だ。

2.からだの凝りや滞りなどの解除
寝起きのからだはあちこちが滞っている。
特に腰の後ろ、肩首の凝りなどがそのままではそれに囚われてからだに耳を澄ますことができない。
滞っている部位ひとつひとつにしずかに呼吸を送り、細胞たちの共振パターンを通常に戻す。

3.いいからだの状態に持っていく
1.2が済めば、からだを揺らしたり、ゆらいだりして、最も心地のいい波動をみつける。(調体一番、二番)
しばらくそれに耳を澄ましていると、じょじょに微細なクオリアが変容流動しているのに気づくことができるようになる。
突然からだのゆすりやゆらぎの速度を超緩速に落とす。
それまで以上に微細なクオリアが感じられるようになる。
このいい状態を終始保つ。

4.多次元クオリアに耳を澄ます
からだの闇はフィジカルな体感クオリアから
メンタルなクオリアまで無数のクオリアが共振流動している。
その両者をつなぐ情動クオリア、時を越えた記憶のクオリア、前夜の夢の体感クオリアなどが錯綜している。
それらすべての次元に等価に耳を澄ます。

5.ひとつひとつ開いていく
時間があるときや、始めたばかりの頃は、ひとつひとつのチャンネルのクオリアを順々に開いていく。

<体感クオリア>
重さ・軽さ、暑さ・寒さ、ぬくもり、涼しさ、伸展・収縮、こわばり・ゆるみ、痛さ、かゆさなど、
体感チャンネルのひとつひとつに耳を澄まし開いていく。
これら言葉で言える体感クオリアはほんの序の口にすぎない。
からだの闇のクオリアの大半は、いまだ言葉で叙述されたことのない、
微妙な無数の体感に満ち、しかも絶えず変容流動している。
そのありのままの非二元かつ多次元のクオリアの流れにからだを預けただ味わう。

<動きのクオリア>
からだは、静止しようとしても必ず微妙に動いている。
震え、ゆらぎ、うねり、衝撃、滞り、こわばりなどおもな動きのクオリアを順々に味わう。(調体六番)
それから体感同様、言葉でなど言えない非二元・多次元の
無限の微妙な動きがからだから出てくるに任せて味わう。
その日の状態によって、床の動きや、立位の動きに発展させる。
(調体三番、四番、五番などに進む)

<音像のクオリア>
骨盤や肋骨、背骨の形を変え、腹、胸、喉、口、鼻などの秘腔が共振し始めると、
自然にさまざまな体腔音や呼吸音がでてくる。
そのリズムに耳を傾け、音と共振するからだの動きに従う。
喉や顔が変わると、かすかな情動のクオリアが共振して味わえてくる。

<情動のクオリア>
情動はからだの状態の変化を脳に伝えるメッセンジャーである。
息をつめて酸素がなくなると不快になり、あくびや動きが勝手に出てくる。
気づかないうちにからだのどこかに問題が生じていると、その細胞群から無数の種類の
ホルモンや伝達物質に託されたクオリアが全身に届けられる。
全身の60兆個の細胞は絶えずそれらの微細クオリアで共振している。
からだの体液を循環しているそれらの情動クオリアの変化に耳を澄ます。
これも入り口では、いくつかのホルモンに主導された情動を味わうことからはじめる。

・アドレナリンモード
少しでも緊張したり、興奮したりすると、アドレナリンやノルアドレナリンなどが発せられ
からだを駆け巡る。自律神経は交感神経モードになり、闘いに備え、消化や免疫や性欲は抑制される。
絶えず心身の緊張度、リラックス度を聴く。

・オキシトシンモード
ほかの細胞と触れ合ったり、親しさを感じたりして心地よい共振が高まると、オキシトシンモードになる。
思考や判断や緊張は鎮まり、ふれあいの心地よさを味わうモードになる。
リラックスした下意識モードではしばしばこのモードになる。

・ドーパミンモード
何らかの過去に味わった快感をもう一度味わいたくなると、ドーパミンが満ちている。
食欲、性欲など特定の快感を増進し追及するモードになる。
過ぎれば嗜癖となり、嵩じれば依存症、中毒症に陥る。
どんな快感への傾向性が湧き出ているかに耳を澄ます。

・エンドルフィンモード
極度の快感によってからだが現実から離れ、恍惚状態になる。
オルガスムスにも匹敵する強烈な快感がからだに満ちる。

・パゾプレシンモード
パゾプレシンは、いまここへ繋ぎ止める。非空非時を浮遊する夢心地から、いまここの一点に集中させる。
下意識より意識が勝ち、冷静沈着になる。セロトニンなど他のホルモンとも協働してさまざまな状態に導く。
ストレスを受ければ、この状態が亢進し、冷静さが過ぎればからだを守るためにペルソナモードとなり、
生きた情動や欲動のうねりを隠し、社会向けのポーカーフェイスの仮面人格で身を鎧う。

・テストステロンモード
若い男性のからだは15分おきにテストステロンが放出されている。季節変動もある。
攻撃的な自己本位の性欲を満たしたい欲動に駆られる。
行き当たりばったりのセックスやレイプやマスターベーションを志向する。
他の状態とのバランスが崩れない限り、暴発しないが、
性欲のゆらぎはいつもからだの闇でかすかにうねっている。
また、一見自己本位な特徴をもつテストステロンだが、研究者によれば
自己犠牲的な行動や、自分を省みない勇敢さなどにこのホルモンが関係している。
からだの闇はフィジカルなホルモンや伝達物質だけではなく、
元型的な幻想のクオリアも渦巻き、突き動かされている複雑極まりない多次元共振世界だ。
あらゆる要素が絡み合い、ひとつの非二元の全体をなしている。

ひとつの要素に囚われることなく、常に無数の要素が絡み合った全体を味わう。

<記憶のクオリア>
からだの闇では時を越えた記憶のクオリアが、いまここのクオリアと共振し変容流動している。
脳心身はいまここの現実からくるクオリアと、幻想の内クオリア流動を等価に味わっている。
それらすべてのからだの闇で起こっている多次元交錯を透明に味わい楽しむ。

<夢のクオリア>
睡眠中も生命はその日に得た新しいクオリアを、保存されている内クオリアと共振させ、
落ち着くべき場所に保管する活動を続けている。
そのクオリア共振の試行錯誤が、さまざまな荒唐無稽な夢となって現れる。
視覚的な夢のイメージは、からだの闇の非二元クオリアが映像チャンネルを通じて現れたものである。
視覚になって現れない体感だけの夢も無数に見ているのだが、記憶には残りにくい。
夢のなかのからだ(ドリーミングボディ)はサブボディの兄弟である。

6.全体を統合する

<人間関係のクオリア>
生命はチャンネルに分化されていない非二元領域で、あらゆるクオリアを味わっている。
夢が無数の人間関係のパターンからなるのは、あらゆる内クオリアが共振している表れだ。
人間関係チャンネルと次の世界チャンネルは、単一チャンネルではなく、複合チャンネルである。
単一クオリアではなく、まるごとクオリアが変容流動するのがこれらのチャンネルの特徴だ。

<世界像=自己像のクオリア>
最大のチャンネルがこれである。私たちの自己像のクオリアは、いつも特定の世界クオリアと共振して生成流動している。
命はそこでは自分や人間の制約を脱ぎ、自在に世界や他の存在になって変容流動している。
これら多数多次元のクオリアをすべて等価に、透明に味わい、からだの動きとして創造する。

上に述べたひとつひとつに囚われず、命の果てから果てまでを旅し、踊り、生きる。
生命の舞踏の透明な創造はここから始まる。



2009年10月3日

命の全体に聴く

休日は、授業から離れて、命に耳を澄ます。
なにが一番したいのかい?
もう何千回も繰り返し聴いてきたいつもの問いだが、
うまく聴ける日とそうでないときがある。
今日は朝からなかなか耳を澄ませる状態になれなかった。
なので、耳をすますことのできる条件について考えてみた。

命に耳を澄ますことができるには、
まず、日常体の気がかりやこだわりに囚われていない状態になることが不可欠だ。
ヒマラヤ・インドは断水、停電、電話線の切断、プロパンガスの在庫切れなど
生活ラインの切断がしょっちゅうある。
10年になるのでひとつひとつにはもう慣れたが、
これらのうちいくつかが重なると日々の暮らしが思うに任せられなくなる。
さらに、前金の半金を渡して注文した停電用のバッテリーが、依頼してから何週間も届かないと、
よくある前金詐欺にまた引っかかったのではないかと気になり始める。
これら日常体の気がかりから解脱するのに結構時間がかかる。
もうひとつは、自分の謎に対するこだわりが消えなくてはならない。
なぞこんな変な傾向に囚われているのだろうという、
まだ解けていない自分の偏奇性にかんする気がかりに囚われているうちは
命に耳を澄ますなどという透明な状態になることができない。
からだの闇の謎から解き放たれるには、ひっつひとつをとことん解いていくしかない。
わけの分からない怒りの起源や、性的偏奇性の謎、アニマをめぐる謎など、
若い頃から抱え続けてきた自分の謎を少しずつ解いてきた。
だが、まだまだ残っている。
これらの自分の闇に関する気づきが湧いてきたときはそれに耳を澄ませばいい。
それらのひとつひとつが解けたとき、短い瞬間だが、
自分を離れて命に耳を澄ますことができる状態になる。
からだの闇の謎はひとつが解ければより深い謎が顔を出す。
解き続ける以外にないのだ。
ひとつが解けて、次の闇に囚われるまでの短い期間が、
自分から離れることができるチャンスだ。
その短い瞬間に命の全体を感じようとしてみる。
そうして生命とは何かというもっとも深い謎に向かってにじり寄っていく。
今日は自分が書いてきた「生命論」の根源的な誤りに気づいた。
生命に「生への志向性」があるという考えは、
人間のありようを生命に投射していたことに気づいた。
生命はただ無限の共振パターンを創発してきただけなのだ。
それが生命の維持や多様化につながった創発だけが生き残ってきた。
うまくいかなかった創発はすべて死に絶えてきた。
死に絶えてきたものは消えてしまって見えないから、気づけなかったのだ。
死に絶えたものを捨象することで、「生命には生への志向性がある」などという
人間的な傾性を生命に二重写しにして見てしまっていたのだ。
気が重いが、生命論はもう一度書き直すしかない。
透明論や、共振論、クオリア論もみなそうだ。
創っては壊しの連続だ。
このプロセスは死ぬまで続くだろう。
そしてそれがだんだんのろく、はかどらなくなっていくことが死に近づくことなのだ。
こんなものなのだなということがだんだん腑に落ちてくる。
百年も続かない生命がいとおしくなる。
走り通せば、あっという間だった。
あっけないが、いい長さだ。



2009年9月30日

自他未分化な関係の根源へ降りる

命の関係チャンネルを開く。
私たちがまだ自分を人間だと知らなかった胎児の頃の
自他未分化な世界に降りる。
そこは自他が分化する以前の関係の根源だ。
私たちはそこからきた。
意識や自我はそれを忘れ去っているが、
無意識やからだははっきり覚えている。
他のからだと触れ合い、溶け合いたいという傾向をすべての命が持つ。
自他の区別がない、世界と自分が一体化している世界への回帰願望を持つ。
もちろん意識や自我は忘れ去っているので、自分にはそんな願望はないと思っている。
無意識を解離した意識や自我は、無数の思い違いに囚われているが、
自己意識、自他の分化意識ほどそれが顕著なものはない。
自他未分化な感覚を自分で否定しないと、自他分化の感覚を得られないからだ。
意識はどっちつかずの状態など受け入れることができない。
こうであるか、こうでないか、二つに一つしかリアリティを感じられない。
自分が単独者として存在しているという自己意識こそ最大の幻想なのだ。
自己意識という幻想を脱ぐ。
それができると、胎児の頃の感覚や、他の生命だった頃のクオリアを味わうことができる。
命の経験してきたすべてのクオリアは、生命記憶として細胞に保存されている。
原初生命にとっては、一も二も多もない。
ひとつの細胞はある時期を過ぎれば二つに分裂して、自己更新する。
老と幼の区別もない。
絶えず若返っているからだ。
そして、時に二つの細胞は合体溶融して、ひとつになる。
二が一になり、一は二になる。
一が多になり、多は一になる。
命にはユークリッド数学など当てはまらない。
言葉で記述されたことのない別の論理を持っている。
この融通無碍な変容流動性の世界が、命の関係世界の根源だ。
人間の自己意識を捨てて、その世界に降りる。
そこから、いかに自他分化の世界に変移してきたか。
忘れ去っている一と二の自在変容世界に耳を澄ます。
からだの闇のどこかにその痕跡は残っていないか?
デイリーボディ(日常体)や日常意識は意識できないが、
ドリームボディ(夢のなかのからだ)やサブボディ(下意識のからだ)はその世界で生きている。
命は夢や下意識や踊りの中で、自他分化の世界と未分化な世界の両方を行き来している。
自分が他のひととして行動していたり、
ある存在から、別のものに知らない間に変わっていたりする。
そこでは自分が属する世界像も、関係像も無限変容し、流動している。
知らない間に、優しい母が、鬼や悪魔に変容する。
いとしい人が蛇や怪物に姿を変える。
いつのまにか個が群れに変容している。
民話や神話の元型世界もまた、自他分化と自他未分化の間で揺らいでいる。
これは命にとって普遍的な経験である。
命は囚われのないリゾームなのだ。
人間への囚われを脱いで、命にとっての普遍的なクオリアを味わう。
世界の新しい体験がそこから始まる。



2009年9月26日

ニセモノの世界から、本物の共振世界へ

後期に入って、共振塾の生徒の踊りが変わってきた。
意識で踊っていた前期の踊りがじょじょに姿を消し、
からだの闇の微細なクオリアのゆらぎに聴き入って、
それにただ従っているのが見て取れるようになった。
従って動いているうちに、命の創発が勝手に起こっていく。
それを拾い集めるだけでいい。
その極意をつかみかけている。
うれしし限りだ。
3月からはじめて半年。 
やはり、からだのことはこれくらいかかるものなのだ。
踊りだけではなく、練習態度にも、成熟したサブボディ独自の反応が出てきた。
もう、今までのように、幼稚な1,2,3.A,B,C,といった初心者用にこしらえた
リップル技法では間に合わなくなってきた。
動きの三次元を、水平、矢状、戸板の三次元に分けて練習したり、
八つの主要チャンネルをひとつひとつ開いていったり、
コーボディ共振を線対称や点対称の練習からはじめたりしてきたが、
そんなこしらえ物に従うことをサブボディたちが嫌がりだした。
この間の練習時の生徒のサブボディの微妙な反応を見ていると、
どうやら、ほんものの非二元変容世界に入った生徒のサブボディが
これまでの初歩的リップルメソッドのニセモノさに
違和感を感じ始めたことが感じ取れるようになった。
かすかな違和感にも気づくようになってきた。
メソッド全体を、初心者用ではなく、成熟した本物のサブボディ用に、全面的に再構築しなければならなくなった。
共振塾をはじめた5年前は、ダラムサラにきている旅人相手に、1週間コースからスタートした。
たった、1週間でサブボディなどになれるわけがないと、初心者用の坑口を掘り広げ、
だれでも入ってこれるように、ツリー状の入り口を設けた。
そこからじょじょに、一月コース、3ヶ月コース、半年コースへと毎年、長期化を図ってきた。
来年からはいよいよ待望の一年コースだ。
もはや、これまでの初心者用のリップル技法は、全面的に再構築する必要がある。
本当のサブボディに適応したものにするために、私自身の考え方を根本から変えねばならない。
一番の障害になっているのが、初歩的段階から、発展的段階へという、
ツリー状の教育段階論に囚われていたリップル技法だ。

二次元リップルから多次元リップルへ


 二次元波動(リップル)

低次元時空では、リップル(さざなみ)は内部から外部へ拡がる。
そして、別のリップルと交わり、共振する。
少しずつ、段階的に変移していく変化には、
だれもがついていきやすいという老婆心から採用したものだ。
だが、本物のサブボディは、こんな二次元には住んでいない。
かれらは非二元かつ多次元世界の住人なのだ。


 多次元共振

多次元リップルには、内部も外部もない。
内部の波動は直ちに外部の波動とつながっている。
自他も内外も上下も難易度もない。
数もなく、時もない。
一もなく多もない。
サブボディのクオリアは、時空を越えて共振している。
今ここの動きと胎児の記憶が共振し、
わたしの内臓が死んだ爺さんのいびきと共振している。
三歳の乳児性欲が、60歳のからだに蘇る。
男も女も、年齢もない。
40億歳の生命は、無限変容しうるのだ。
人間と他の生きものとの違いもない。
生と死の分け隔てもない。
からだは直ちにアメーバにも、石にも空気にも共振して変容する。
そんなリアルなサブボディに適応した
超次元横断的、練習メソッドを創り上げねばやっていけなくなった。

一人でできるものではない。
これは生徒との共同創造なしには達成できない。
セルフリサーチ即グループリサーチなのだ。
命には一人と群れの違いもない。
いやはや、とんでもなく面白くなってきた。
サブボディさんに急かされて、無我夢中で短期コースを廃止すべく奮闘してきたが、
こんなおいしい世界が待っていたのだ。
無闇に急いでいたのも無理がない。
サブボディさんは、ニセモノの世界から、
本物の世界へ移らねばならないことを知っていたのだ。




2009年9月23日

自己実現から、生命実現へ

これまで、サブボディメソッドの目標は、
自分の全体と透明にコミュニケートできるからだになることだった。
日常生活のなかでは、自分の全体のほとんどの部分は無意識の闇に閉ざされている。
からだの闇とそれを呼んだ。
無意識という言葉は使い古され、かつ、
意識から隔絶されたものという色合いが濃く覆いかぶさっているからだ。
日常体にとってはまさしく無意識と意識は解離しているが、
意識を止め、からだの闇に耳を澄まし、そこから感じ取れるかすかなサブシグナルに
従い、からだごと乗り込んでいくサブボディになることで、
からだの闇を探索することができる。
サブボディメソッドとは、無意識を解離された到達不可能なものではなく、
探索可能なものとする生きる技術なのだ。
そのとき、無意識という言葉はふさわしくない。
私はその言葉のかわりに、下意識と呼ぶことにした。
しかも、下意識の世界ではからだと下意識は切り離された別物ではなく一体化している。
それがサブボディ(下意識のからだ)だ。
サブボディになると、自分の全体をくまなくからだで旅することができる。
もちろん、あちこちでエッジという壁にぶつかる。
自分のからだの闇だが、意識は意識にとって未知のものに触れることを極端に嫌うからだ。
からだじゅうが激しい違和感でいっぱいになる。
からだの闇の旅はエッジとの葛藤と闘いの連続だ。
長い年月がかかるが、それでも歩いていると次第にからだの闇が晴れ、透明になってくる。
自分の全体の中のありとあらゆる要素と友達になり、
それらが持つ日常の規範から外れた発想と創造力を生きることができるようになる。
当初はそれでいいと思っていた。
自分だけがもつかけがえのない可能性を開く個性化であり、自己実現になると思っていた。
サブボディメソッドは、個性化と自己実現にいたる坑道を掘るためのメソッドだと。

個性化と自己実現は、ユングが使い出した概念である。
ユングにとっては、それが人生の最終目標だった。
当時のヨーロッパ文明の中ではそれだけでよかった。
だが、今やそこにとどまっているだけでは足りないものが見えてきた。
それだけでは、いまだに現代最大の元型である「人間」という囚われたままなのだと。

自全から、全生へ。
生命の実現へ。


からだの闇を降りていくと、自己と他者の区別などない領域に触れる。
自分のからだの闇のサブボディが、いつのまにかほかの人のサブボディと共振し、
混融してひとつのコーボディ(群れのからだ)に転化することをしばしば体験する。
私にとって、サブボディとコーボディの関係は踊りを始めたときからの謎だった。
いま次第にそれが、生命のあり方と関係していることが分かってきた。
生命もまた、連綿と40億年間切れ目なく続いてきたひとつの巨大な生命という側面と、
各個体に分け持たれ限られた寿命を持つ個別生命としての両面を持つ。
私たちは、個別生命のことを生命と理解し、死ねば死にきりと思っているが、
それは近代の人間の幻想だ。
自分のことを人間と思っている限り、生命は限られているが、
自分を生命だと思えば、人間としての個体生命が終わっても、
生命全体は延々と続いていくものだということが実感できる。
近代最大の元型=共同幻想である「人間」に問題があるのだ。
人間ではなく、生命になることが大事だ。
人間としての自己実現から、さらにその先の生命の実現へ。
自分の全体=自全の旅から、生命の全体へ。
サブボディメソッドの目標も、先延ばしされることになった。
生命はただあらゆるものと共振している。
自分の全体だけではなく、生命全体になること。

「全生へ。」
これは私が多くを学んだ野口整体の創始者野口晴哉のことばだ。
神の指と言われたほどの、驚異的な治療を行う彼に、弟子の一人が尋ねた。
「なぜ先生にはそこまでのことができるのですか?」
「リゾナンスなんだよ」
とこともなげに答えたと言う。
物理の世界以外で共振と言うことばにはじめて触れたのも、彼からだった。
彼は生命共振をからだで感じ取っていたのだ。

もとより、、舞踏の創始者土方巽の舞踏は、
「人間の条件を捨てる。これだけは間違わないでください。」
というように、徹底して近代の人間への囚われを脱ぐことからはじまった。
人間を脱いで、どこへ行くのか。

土方巽の残した未発表草稿の中に、
「生命の呼称で呼ばれるものこそ舞踏」そのものなのだ。」
という言葉を見つけた。
「自他分化以前の沈理の出会いの関係の場へ下降せよ。」
「人間はまだこれから来る未知の秩序に百万分の一も触れていない。」

と、自己実現では済まないものに土方もまた触れていたことを知った。
土方巽もまた、人間を脱いだ先に、生命となることを目指していたのだ。

人間を超えて、命に至るのっぴきならない道を見つけること。
生きるためになくてはならない踊りを見つける。
なかなかそんなものが簡単に見つかるわけはない。
だが、生きるために必要なのっぴきならない創造とは何なのかを探り続けることが、生きることなのだ。
日々刻々命に聴き続ける。
何が一番したいのかい?
どんな世界を創りたいのかい?
長年聴き続けていると、命からの答えが定まってきた。
「今の人間世界に、生命の共振を取り戻すこと。」
と。

自己実現から、生命共振の実現へ。
人間のデモクラシーから、生命のリゾクラシーへ。


これは自他の分け隔てを超えた命の世界へ至る道なのだ。



2009年9月18日

音像異界共振から、憑依坑へ

今週は、調体ゼロ番の呼吸法、一番の震え、二番のゆらぎ、
三番の百丹三元、四番の四肢獣、スターフィッシュ、
五番の五秘調体、とりわけ秘腔調体をたっぷりした後、
まざまな体腔音を開く音像チャンネルを探求した。

そのなかで、とうとう探し続けていた憑依体への変成坑道の坑口が見つかった。
わたしにとってもっとも苦手で晩生であった音像チャンネルに鍵が隠されていたのだ。
その発見のプロセスは、下記のとおりだ。
わたしがガイドする調体はいつも即興だ。
あらかじめ今日はこれと決めていても、その日のわたしや生徒のからだの変化に
したがって即興的に変化し、展開していく。
それが功を奏したのか、音像を開きながら、いつものように
床でからだを徹底的に伸ばし縮める秘関、秘腔、秘液の調体をしたあと、
座位から立位へ移り、喉の緊張をまったくなくして、
全体腔を共振させるチベッタンシャンティングから、
秘腔共振のモンゴル、チューバのホーミーへと旅をしているうち、
隣接するシベリアの熊の霊を祀るシャーマンシャンティングの世界が開いた。
死者熱、暗黒熱を創った十年前に死ぬほど聴いた
シベリアのシャーマンのばあさんの声がいきなり降りてきた。
いきなり異次元の世界がぽっかり開いた。

そうなのだ。すぐ隣まで来ていたのだ。
チベッタンシャンティングも、異界と共振する読経だ。
モンゴルやチューバの人々もホーミーに天の声を聴く。
今日のホーミーでは、キャラが馬に乗って砂漠を走り出した。
騎馬民族であるモンゴルの人々は、
馬のリズムと、体腔音を共振させながらホーミーを奏でる。
するとあの独特のゴビ砂漠の風のリズムが出てくるのだ。
そうして飛び跳ねているときに、
不意に隣のシベリアのシャンティングがやってきた。
あんなに聴いたのに、今の今まで、練習の中で思い出したことは一回もなかった。
これは聴くものだという二元論的分節に囚われてブロックされていたらしい。
あるいはあのころの疾風怒濤の人格状態が、
それ以後解離されてしまっていたからかもしれない。

舞踏を始めようとするきっかけもこんなだった。
20代、30代とダンスお宅だったわたしは日本に来る世界中の踊りを見て回っていたが、
そのころは踊りとは見るもので、自分がするものじゃないと思い込んでいた。
それがある日突然、自分も踊ってもいいのだと、
ぽっかり坑口を覆っていた岩盤が崩れた。
今日もそうだった。
自分たちもシャーマンソングを唱えてもいいのだと、何かが吹っ切れた。
今年はすでに生徒とともに十分異界共振の訓練を積んできていた。
時が熟して自然に柿が地に落ちるように、
坑口がぽっかり開いた。
もう入ってきてもいい時期だ、と
口寄せ巫女だったばあさんの許しが出て、
坑口を覆っていた岩が自然に崩れた気がした。


後は、全体腔共振の音に、死んだ熊の霊を鎮めるシベリアのシャーマンの声を受け入れるだけでよかった。
熊だけではなく、死者の声、老人の声、病人の声、赤子の声など
無数の異界、異時空の声が走り抜ける媒体になる。
生徒たちも狂ったようにさまざまな声の媒体に変異しだした。
今年は何があっても大丈夫なように、エッジワークも
透明覚を開いて自分を見つめ、最適のサイズに制御する訓練も積んできた。
情動を探求し、その不意の噴出に対処する法も訓練した。
それらのどれがかけてもここにはこれなかった。
全機が時を得てひとつになる。
これからが本番だ。
感じやすい生徒はすぐ持っていかれてしまう。
行って戻ってくるプロセスのすべてを自分で制御できるようになければならない。
細心の注意で一歩一歩降りていく。
生死の瀬戸際に降り立つのだから、いくら用心してもしすぎることはない。


(…ばあさん、ついに御者の御身元まで来たぜ)



2009年9月15日

寸法の歩行と、人間概念の拡張

土方は、彼の晩年新しい生命の舞踏を担う舞踏家を育てるためのワークショップのために創った
「寸法の歩行」や、「虫の歩行」のテキストに、次代の舞踏家への遺言をこめていた。
小さな細胞生命に成りこんで、「寸法の歩行」が要請する条件をからだに染み透らせてみる。
すると、ここではもはや物理的な世界に属するからだではなく、
その背後の幾多の他界、異次元を荷い、異界と共振するからだになることが要請されていることがわかる。
これまで探求してきた傀儡(くぐつ)体のあらゆる要素がこめられている。

「寸法の歩行」

イ 寸法になって歩行する
ロ 天界と地界の間を歩くのではなく移行する
ハ ガラスの目玉 額に一つ目をつける
ニ 見る速度より 映る速度の方が迅い
ホ 足裏にカミソリの刃
へ 頭上に水盤
ト 蜘蛛の糸で関節が吊られている
チ 歩きたいという願いが先行して 形が後から追いすがる
リ 歩みの痕跡が前方にも後方にも吊り下がっている
ハ ガラスの目玉 額に一つ目をつける
ホ 足裏にカミソリの刃
へ 頭上に水盤
ヌ 奥歯の森 からだの空洞に糸
ル 既に眼は見ることを止め 足は歩むことを止めるだろう
  そこに在ることが歩む眼 歩む足となるだろう
オ 歩みが途切れ途切れの不連続を要請し 空間の拡がりを促す
イ 寸法になって歩行する

イ 寸法が変わらないからだとは、死せる傀儡そのものである。
ロ 人間として歩くのではない。
  背後の世界、天界、地界、からだの闇の異界とともに移行する。
  この世とあの世を媒介する傀儡として移行する。
ハ ガラスの目玉もまた、傀儡のものである。
  そして、額の間のもうひとつの目はこの世だけではなく
  生命の属する多数多様な異界を透明に見通す第三の目である。
ト 蜘蛛の糸で関節が吊られているとは、
  異界のなにものかの力によって動かされる傀儡になることだ。
  一本一本の蜘蛛糸の動きを通じて他界と共振する。
チ 自分の意思ではない、歩きたいという願いはからだから離れたところにある。
  抜けた魂を取り戻そうと、その願いに必死に追いすがろうとする。
リ すでにこの時空には属していない。時を越えて、前方や後方に過去に歩いた痕跡がぶら下がっている。
  これはまさしく生命のクオリアの属する非時非空の世界だ。
ヌ 奥歯の森。森とはすでに失われた東北の山奥や屋久島などにのみ残存する原生林の森だ。
  無限の生命が時を越えて折り重なり、重層する死と生命の森だ。
  その森とからだの空洞が蜘蛛の糸で共振している。
オ 時空は連続していない。無限の時空がつながり、途切れる多数多次元の世界だ。

寸法の歩行が要請するのは、これら多数の異界を引っさげ、それに突き動かされて移動するからだだ。
これが土方が残した舞踏家のための世界像=自己像の条件だ。

重層された異界をまとう世界像=自己像

きみの世界イメージが、四次元時空のこの現実世界ならば、
きみの自己は日常体である。
命からはぐれて、散々な目にあっているのにそれに気づくこともない。

きみの世界像がこの世ではない異界と交感していれば、
きみの自己は現代の人間が縛られている桎梏を超えて異次元にひろがる。

世界像と自己像は一体化しているものだ。
世界像と切り離された自己像(アイデンティティ)などありえない。
だが、多くの西洋思想や心理学者や科学者は、
世界像から独立してアイデンティティを取り扱っている。
哲学者もそうだ。
ハイデガーが「世界内存在」という概念を提起したのはずいぶん前のことだ
だが、ハイデガーにも世界はこの実世界としてのみ想定されていた。
人間の命は、実世界と交感しているだけではないのに。
それは、その人が無意識裡に通常の実世界だけに囚われているのに
それを意識できていないことをあらわしている。
これが現代だ。
物理的世界以外の世界との命の交感を見落とし、忘れ、解離してきた。

現代生物学者の生命の定義が単に物質過程だけに囚われていることも
同様に生物学者が、生命の非物質過程を解離していることを示している。
誰が考えても、生命が物質的次元だけに関わっているのでないことは
明らかなのに、それは科学のテリトリーではないと、自ら狭い枠にひきこもっている。
科学者のほとんど全員は解離症と知のひきこもり症を患っている。
だが、それに気づいてさえいない。
そういう人らが、彼らと同じ狭いアイデンテティをもたない人を
解離性同一性障害と規定する。
まったくお笑いだが、それが現代なのだ。

生命の舞踏を志向した土方は、そのことに気づいていた。
だからこそ、生死の異界のあいだで震えている舞踏体となることで
生命の本当の姿を示そうとしたのだ。

死の世界をまとうこと。
私たちの第一の秘膜である皮膚の表皮細胞も死せる細胞である。
私たちは死をまとい、死に守られて生きている。
生命にとって死ほど身近なものはない。
宇宙のすべては死の世界である。
だが、そのことを忘れ、未知の世界への畏怖を忘れて久しい。
まるで人間だけが存在しているかのように錯覚している。
しかも現代の社会からは、死者、病者、狂者、障害者、犯罪者は
社会の外の病院や刑務者に隔離し、
健康な人間だけが社会的存在を許されている。
まるで健康な人間だけが世界を支配し、思い通りに変更できるという
思い上がりがこの世に蔓延している。
奴隷制に支えられていた古代ギリシャ世界で
奴隷を排除した市民だけで世界=人間像を構想し、
その狭い「市民=人間」だけによる統治を目論見たのが
民主主義という幻想だ。
その民主主義国家という共同幻想はいまなお
最善の共同幻想として君臨している。
「人間=物理的世界観=民主主義国家」が三位一体となった人間元型が世界を支配している。
この三位一体の現代の共同幻想構造を根底から覆さないかぎり、
これらの狭い枠組から解放されることはない。
土方は生命の舞踏を通じて人間概念を大きく拡張しようとした。
一体いつまで、こんな狭い幻の監獄で窒息寸前になっているのを我慢しているんだい?

舞踏家が現代に投げかけるのはその問いだ。


(この項は、加筆して「舞踏論第21章 人間から生命への拡張」にまとめ直しました。


2009年9月15日

二元論の魔

二元論の支配力は恐ろしく深い。
どんなに深く私たちがその魔に囚われていることか。
長い間、私の共振技法もその魔に囚われていたことか、
苦く思い知らされた。
共振には主体も客体もない。
どちらからともなく起こるというのが共振原理の第一だ。
だが、それをはじめから練習するのは難しいから、
より簡単に共振を学ぶ入り口として、
一人が自由に動き、他方が鏡のように線対称で動くというミラーコピーや、
一点を中心に点対称で動くデスクコピーという練習を最初の入り口にすえていた。
十数年前に見つけた練習法だったが、いまだにそこからはじめていた。
そこから、より複雑な異方向共振や、多チャンネル共振、
異次元共振へと段階的に導こうとしてきた。
だが、どちらからともなく起こる共振を、一方が共振する主体で、
他方がされる客体だと分けてしまったとたん、似て非なるものに転化する。
コピーや模倣と捉えたとたん、実際に起こっている共振を
二元論的主客に囚われた世界にむりやり翻訳したものになる。
歴史上無数の共振が起こってきたが、それらを共振と受け取ることができなったため、
模倣や複製としてのみ捉えられてきたのだ。
簡単さに潜む二元論の魔、はいともたやすくこの微妙な差異を見逃す。
そしてごっちゃにしてしまう。
私もまたこの混同の雲に覆われていた。
簡単さ、単純化というのは、二元論がいまだにはびこっているもっとも深い魔だ。
複雑な多次元共振をそのまま味わうのは複雑になりすぎるから、
上下、左右、善悪、良否、自他、など、二元論的にすべてを単純化して二分し、
日常生活の便を図ることに二元論の歴史的存在理由があった。
だが、二元論は現実の微妙複雑さを覆い隠す観念の桎梏なのだ。
もっとも大事なものをいとも簡単にまたぎこしてしまう。
西洋流の、Yesか,Noか,はっきりしなさいという強制ほどいやなものはない。
ほかの生命を害虫や益虫に分類する大人の考えは虫好きの子供のわたしには身勝手なものに見えた。
劇中人物をいいもの、悪者に分ける演劇や映画にも嘘を感じた。
そのことをいやというほど知っているはずの
私自身がそれに深く毒されていたことを知った。
単純さというのは、二元論の罠なのだ。
単純、複雑という区分も二元論に囚われている。
いたずらに単純さ、簡単さからはじめてはならなかったのだ。

何も一人をリーダーにする必要はない。
向かい合ってどちらともなく共振が起こるということから
端的にはじめるべきだったのだ。
難しすぎるんじゃないかと、しり込みしていたが、
やってみれば、何も難しいことではない。
それよりも共振の本当の豊かな機微を味わえる。
リーダーを固定しなければ一瞬先に何が起こるかわからない。
そのかすかな共振の震えをからだで体得できる。

からだには60億の細胞がある。向かい合った二人には120億の細胞がある。
その120億の細胞のどこからかすかな動きが始まるかわからない。
そのかすかなふるえに自他のわけ隔てなく共振する。
それだけでいいのだ。
後は何が起こるか、命に任せればいい。
鏡の共振からより多様多彩な共振へ、発展するに任せればいい。
すべてを受け入れる。
それもまた共振の原理の根本だ。
共振論で切り開いたはずの共振原理に
日々の実践がついていくことができていなかった。
いや、からだに耳を澄ますことが十分にできていなかったのだ。
コーボディの群れの練習をするとき、どこかにかすかな違和があった。
生徒のからだにも、わたしのからだにもそれがあった。
去年はそれで後期のコーボディ変成練習を中止して、
サブボディにしぼった。

今年は捲土重来で、新しく出直そうとして異次元共振に取り組んだ。
だが、それでもまだ、簡単なミラーコピーからはじめるという
段階論に問題の根があったことに今日まで気づくことができなかった。

からだの闇は恐ろしく深い。
恐ろしく深いところまで、二元論や元型に囚われてしまっている。
囚われからの解放は遅々としてしか進まない。
こんなものなのだ。
変化が起こるということは。
このゆっくりした速度に従うこと。
変容のこの時間性を受け入れるしかないようだ。



2009年9月14日

夢が染み込んだからだ

一日中できるだけ長く、夢の体感をからだの闇でまさぐり続ける。
夢の視覚的映像は、からだの闇の底の非二元領域で変容流動している
クオリア流を視覚映像に翻訳して出てきたものだ。
クオリアは似たものならなんとでも結びつくので、
特定の視覚映像そのものにこだわるのではなく
その元の非二元クオリアに焦点を定めてサブボディさんに問いかける。
何が言いたかったんだい?
そうして一日過ごしていると、たいがいその日のうちに答えがみつかる。
あるいは、おもいがけないクオリアとクオリアがからだの中で出会って
何かを創発する。
それらは、気づきとしてやってくる。
それまで思ってもみなかったことに気づく。
おもえばこの十年毎日そうして気づきを書きとめてきた。
毎日の練習方法や、サイトに書き連ねている各方面の探求など、
サブボディメソッドのすべては、からだの闇からそうしてにじみ出てきたものだ。
夢が染み込んだからだからは、思わぬ気づきがにじみ出てくる。
この状態は今までの人生でもっとも創造的な状態だ。

夢と付き合うもっともいい方法は、
夢の中の体感を一日中からだの中で
ゆらし続けることだ。


夢を理性で解釈するのではなく、
耳を澄まし、たずね続けることだ。


おそらくミンデルもこののことに気づいている。
彼のいうドリーミングボディ(夢見のからだ)
とはこのことを指している。
「24時間の明晰夢」という最近の著書では、以前よりもっと
過激に一日中ドリーミングの状態を続けることを志向している。
踊っている最中にからだの闇で起こっていることや、
意識や下意識、物理的な外界との関係がすべて透明に見透かしている
状態になることがある。
足の踏み場や、照明の状態や、音楽や、観客の反応、
観客から自分がどう見えているかという離見など、
実にありとあらゆることが細かいことまで透明に見える。
透明覚とか、透明体と名づけて探ってきたが、
かれのいう明晰夢も同じような心身状態を指しているようだ。
人生の師とはこんなもので、いつも私が何かに気づいたとき
彼の著書を読むと何周か前にそのコーナーを通り過ぎたのが分かる。
土方、世阿弥、フーコー、ドゥルーズ、ミンデル、吉本隆明、
これらの人はみな、何周も前にこの通路を走りぬけた人だ。
かならずどこかにかすかな先例が見つかる。
偉大な師を持つことは大事だ。
たった一人じゃないことを教えてくれる。



2009年9月10日

<異界を開く>から、<異界をまとう>へ

サブボディの十体を探査していくと、
これまで追求してきた静寂体、原生体、異貌体と、
これ以降の傀儡体、憑依体、巣窟体、透明共振体とのあいだに存在する
わずかな、しかし決定的な差異が浮かび上がってくる。

からだの闇に耳を澄ますと、微細なクオリアが無数に存在する。
その中で、もっとも原始的な、ゆっくりうごめく原生生物的なクオリアに従い
増幅していくと、さまざまな段階の生き物になりこむことができる。
それが原生体だ。
また、からだの奥底にくぐもり続けていた、not meや、影、劣等人格、解離されていた
衝動などにしたがっていくと、潜んでいた異貌の自己に出会う。
それが異貌体だ。
これらは、それまで気づかぬまま、やり過ごしていたとはいえ、
ひとたび気づくと、自分の見知らぬ一部であったことが実感できる。

だが、そこから先、傀儡体や、憑依体を探っていくには
それだけでは足りない。
背後の世界、不可視の異界や他界に耳を澄まし、自分とは関係ないと思われていた
別世界のクオリアに耳を澄ますことができなくてはならない。
実際のところ、命はあらゆる世界と共振しているものだから、
本質的な違いがあるわけではない。
だが、あきらかに自己ではないものとの共振だ。
自己へのとらわれやこだわりをどこかで吹っ切ることが必要になる。
自我や自己の履歴を徹底的に相対化し、初期化し、無化していく営みの中で
はじめて開いてくる世界だ。

そうしてはじめて舞踏手は異次元の世界をまとって立つ存在になる。

インドネシアの伝説的な舞踏家であるスプラプトという人は、
場に現れたとたん、その場の空気が変わったという。
10年ほど前にベネズエラの国際クリエイター大会で会うはずになっていたのだが、
彼は都合で出席できず会えなかった。
だが、彼と共演したことのある人から、かれのうわさを聞いただけで
彼が何者であるかがわかった。
かれは、見えない背後世界をまとい、それと共振できる
シャーマンの伝統を身に着けた踊り手だったのだ。
いまようやく共振塾の生徒もその領域に足を踏み入れようとしているところまできた。
かぎりなく自我や自己を鎮めきっていくと、
おのずから近代の人間ではなく、それ以前のアニミズム、
シャーマニズムの時代の心身になる道が開かれる。
その道を開き、近代社会で育った若い人たちを、その世界にどう導くか、
私にとって長い課題だった。
私にとって最大の謎であった
和歌山の高野山で修行し、口寄せ巫女として生きた私の祖母の
領域にとうとう踏み入る坑道の坑口が見えてきた。
祖母こそ私にとって人生の最大の謎であり、目標であり、ライバルだったのだ。

原生体や異貌体のサブボディにとっては、踊りの展開のなかで、
異次元を開畳していくことが、中心となる。
だが、もとから異次元を身にまとって現れる境域がある。
この転機は、去年まで軽率にパペットという薄っぺらい英語に翻訳することで
取り逃がしていた傀儡体の本質に気づくことによって訪れた。
傀儡こそ、もとより他の次元との境に存在するものだったからだ。
ここから憑依体への道はさらに遠いかもしれない。
だが、黄泉平坂の境界に近づいていることだけは確かだ。
これから先、待ち受けているありったけの元型との闘いが待っている。
準備ができていないからだで、不用意に元型に襲われると、
見知らぬ情動が噴き上げて持っていかれる。
情動チャンネルを全開し、
あらゆる情動を制御できるようになることが、まずは先決だ。
急いではならない。
その次に関係チャンネルの闇を開く。
すべての人間は両親との関係の中で無意識のトラウマに囚われている。
アニマ、アニムスという強敵も控えている。
その難関をどう突破できるか。
黄泉の平坂を越えることは並大抵のことではない。
生徒たちのからだの闇の微細な変化に耳を澄まし、
ゆっくり、ゆっくり細心の注意をかたときもおろそかにしてはならない。
産婆にとって、ここから先は死の飛躍が要求される最大の難所だ。
自分のことにかかずらわっていては、隙ができる。
いまなおケアレスミスが多すぎる。
自分をどこまで見捨てることができるか。
透明な耳になることができるか。
私にとっての正念場だ。



2009年9月3日

世阿弥と土方巽

ひさしぶりに世阿弥を読み返しているとき、不思議な符合に気づいた。

私の踊りは2000年までは若いころの死んだ友人にからだを預けて
好きなように踊りまくってくれと任せていた。
彼らは若さに任せて踊りまくった。
私のからだはすでに50歳を越えていたが世界中を踊り歩いても疲れを知らない子供のようだった。
だが、2000年を過ぎたとき、ある日ふと突然それが変わった。
おそらく死んだ友人たちは十分踊ってからだの闇に帰っていったのだ。
ふたたび、50歳を越えたからだのままひとり放り出された私は、
彼らに任せるのではなく、からだの闇に耳を澄まし、新たな坑道を掘り進めはじめた。
数年間の疾風怒濤の期間を経て、私のからだに大きな変化が現れていた。
それまでの踊りはまるでたった一人で世界を相手に戦争をするようなものだったので
踊るたび私のからだは極端な交感神経モード、アドレナリンに満ち満ちたからだに変成した。
ところが私のからだがもう、その変化をいやがりだしたのだ。
変化した当時は何が起こっているのか分からなかったが、いまなら透けて見える。
交感神経が異常に興奮したアドレナリンモードのからだでは、
あらゆる生長ホルモンや免疫システムが停止する。
ただ危急の闘いに備えるからだになる。
だが、何年もそれを続けると臨界点に達する。
おそらく私の命がこれ以上続けると危ないという信号を発したのだ。
わたしは世界との闘いから退き、ヒマラヤに籠もった。

それからだ、土方が1968年までの世界に挑みかかるようなアグレッシブな踊りを捨てて
からだの闇の死んだ姉のクオリアに耳を澄まして衰弱体を掘り出していた
彼の営みに染み通るように共振できるようになったのは。
土方もまた彼の命の声にしたがって、静かな、しかし無数の背後世界の
クオリアと共振する衰弱体の地平に降り立とうとしていたに違いない。

十体技法を掘り進めるために、世阿弥の「二曲三体人形図」を読み返すなかで、
それまで気づかなかった小さな記述にぶつかった。
まず、
世阿弥は能の三体についてこう述べている。

老体  閑心遠目


体は閑全にて、遊風をなすところ、老木に花の咲かんが如し。
閑心を舞風に連続すべし。

女体  体心捨力


心を体にして力を捨つるあてがい、よくよく心得すべし。
物まねの大一大事これにあり。幽玄の根本風とも申すべきなり。
返す返す、心体を忘るべからず。

軍体 体力砕心


力を体にして心を砕くあてがい、よくよく心得すべし。
人形の心体くわしく見明あるべきなり。」


三体の本質を述べた後、「身動足踏生曲」(からだの動き)に移り、
砕動風と力動風の違いを記述している。

砕動風 形鬼心人


形は鬼なれども、心は人なるがゆえに、身に力をさのみ持たずして立ち振舞えば、
はたらき細やかに砕くるなり。
心身に力を入れずして、身の軽くなるところ、
すなわち砕動の人体なり。
総じて、はたらきと申すは、この砕動之風を根体として、
老若、童男、狂女などにも、事によりて砕動の心根あるべし。

力動風 勢形心鬼



これは力を体にしてはたらく風なれば、品あるべからず。
心も鬼なれば、いずれもいかつの見風にて、面白きよそほひ少なし。
しかれども、曲風を重ね、風体を尽くしたる急風に一見すれば、
目を驚かし、心を動かす一興あり。
さるほどに、再風はあるべからず。心得べし。


ここでは、力動風を品がない、一公演で二回繰り返してはならないと戒めながらも
一応序破急の変化を与えるものとして容認されている。
だが、後年には、「当流には心得ず(三道)」、「力動なんぞは他流のこと(佐渡書状)」と、
原則的に禁止されるに至ったことを知った。
これは、世阿弥にもまた、命の声が聴こえたからではないか。
そして、世阿弥が根本とした砕動風は、微細にゆらぎ続ける土方の衰弱体となんと多くの共通点を持つことか。
土方に起こった衰弱体への変化と、力動風を禁じるに至った世阿弥の行程は奇くしくもそっくりである。
私のからだに起こった変化も、彼ら同様のプロセスを後追いしていたのかも知れない。
この符合が何を意味するか、今の時点では分からない。
成熟だの老いだのという既成の言葉を当てはめたくはない。
だが、心ではなくからだの声を無視することはできない。
からだが、派手な展開の序破急を好んでいた若いころの踊りをいやがるのだ。
世阿弥も土方も生涯を公演の連続で過ごした。
厳しい他流派との生存競争の中では、人目を驚かせ、楽しませる技術も必要とされる。
世阿弥の序破急技法も、土方の演出もその中で鍛えられ磨かれてきた。
だが、観客ではなく命の声に従えば、
若年時のいたずらに人目を驚かせる技術が薄っぺらなものに感じられるときがくる。
世阿弥も土方も同じ通路をたどって命の舞踏に降り立ったのだ。

(この項は、推敲して舞踏論第十六章としてまとめなおす予定です。)


2009年8月29日

生命=共振=リゾクラシー

人間という思い込みは、現代最大の元型だ。
元型とはその時代で最も美しい共同幻想をさす。
古代は神や王が最大の元型であった。
その時代では神や王に最も美しい特性が共同幻想によって与えられみんなであがめた。
誰も疑わなかった。
だが、誰も疑わないものこそ、その時代の内視盲点であることは歴史を見れば明らかだ。
現代では神や王に変わり「人間」、「自我」、「民主主義」が神や王にとって変わった。
それにこの時代のもっとも美しい共同幻想が付与されみんなで共有している。
誰も疑おうともしない。
人間という概念がもっとも肯定され、自我が当たり前のこととされ、
自我が自分たちの政治的代表を選挙で選び、自我同士が議論して多数決で物事を決めるという
民主主義が最高の政治形態とされている。
今日日本では選挙が行われ、政権交代が起ころうとしている。
おそらく多くに人がその帰趨に何らかの変化が起こるのではないかという期待を寄せている。
心が国家に吸い取られてしまっているのがヒマラヤからは透けて見える。
だが、選挙や政権交代によって何一つ本質的なものは解決しない。
いや、逆に選挙や政権交代は、国家そのものを消滅しなければならないという
現代のもっとも根本的な課題から目をそらさせる最悪の魔術的装置だ。
国民全体を集団催眠にかける大掛かりなトリックなのだ。
いまではもうそれが種も仕掛けもある共同の幻想であることをこと上げする人もいなくなった。
みんなそろって「人間」=「自我」=「民主国家」、
「ああわれらはなんとすばらしい世の中にいるのか」
という集団催眠にかかっているからだ。
この仕組みを命がけで解き明かしてきたフーコーやドゥルーズも他界して久しい。
共同幻想と国家が消滅しなければならないことを説き続けてきた吉本隆明も老いた。
最初に「国家の死滅」という課題を発見したマルクスは歴史の中に葬られてしまった。
かれらが切り開いた小さな突破口を押しひろげ、誰もが通れる道に広げること。

「人間」という現代最大の元型=共同幻想から解き放たれる道をひらくこと。

誰かがその仕事を受け継がねばならない。
すべての生命が持つ創造性を開花することを妨げている意識優先の意識を止め、
からだの闇からその人固有のサブボディの踊りを創造する道をたどっていくと、
生命のかすかな共振に耳を澄ますことからすべてが始まること、
そして言葉による議論ではなく、生命同士の共振を回復すれば、
この星のあらゆる生命がそうしてやってきたように言葉なしに、生命共振だけで
最もいい道を見つけ出すことができるというリゾクラシーのしくみがみつかった。
それは民主主義国家を、人間幻想に捉えられた自我が支えるという
現代の元型の連関=共同幻想構造にとって替えることができる。
民主主義や国家という共同幻想を消滅させる可能性がかすかだが見えてきた。
これをさらに探求し、生命共振を取り戻す道を解き明かすことが私の仕事だ。
こんな仕事は世界中にわたししかやるやつがいないだろう。
だから、これは私に与えられた使命なのだ。
時間がかかったが、60歳にしてはじめて天命を知った。

人間=自我=民主主義国家

現代のわたしたちは、この三位一体の美しい共同幻想によってがんじがらめになっている。
戦争も支配も差別もすべてはこの連関によって操作されている。
この元型=共同幻想に囚われた複合的な連関を、

生命=共振=リゾクラシー

という新しい解放の連関に置き換えることによって、
人類は創造とよい出会いに満ちた希望の世紀を開くことができる。
その方向をはっきり指し示すことが私の仕事なのだ。

これで自分がこれまでやってきたこと、、
ぶつかってきた問題がやっとひとつにつながった。
わたしたちを取り巻いている問題群の全体構造が透けて見えてきた。
これまではこれらの間の秘められたつながりが
濃い暗雲に妨げられてうまく見えなかったのだ。

残された時間は少ないが、やれるところまではやりきろう。
あとは、誰かが倒れた私のバトンを拾って走り出してくれるだろう。




「からだの闇」をもっと読む


2009年8月19日

生命の呼吸

からだにとって、もっとも心地よいリズムを探る。
いろんなレンジで探る。早いリズム、中くらいのリズム、遅いリズムなどのレンジの中から
もっとも快いものを探り、身につける。
それら心地よいリズムはすべて、調体技法に生かすことができる。
いくつかすでに見つかっている。
調体一番の小刻みなふるえ、
調体二番のゆらぎ、
そして、調体ゼロ番の深い呼吸のリズム。
これらのリズムに同期するとなぜかからだがリラックスでき、
サブボディモード、リスニングモードに入っていきやすい。
呼吸には肺で行う呼吸(外呼吸)のほかに、からだの細胞が行っている内呼吸がある。
そしてもうひとつ、からだ全体の呼吸、あるいは生命の呼吸と呼ぶべき長いリズムの呼吸がある。
肺の呼吸よりは長く、12秒間くらいかけてゆっくりからだ全体が膨らみ伸びていくリズムだ。
そして12秒くらいかけてゆっくりしぼみリラックスしていく。
肺呼吸と一対一的には対応していない。
ひとつのリズムの中で、二度三度口や鼻から呼吸を継ぐ。
このリズムをつかむと、なぜか心身がとても安定する。
今年の後期では、これまでの衰弱体、原生体、異貌体に加えて、
崩壊体や憑依体というより激しい予期せぬ情動の噴き上げに見舞われることのある技法に入るため、
何が起こってもからだを深く安定させておくことのできる技法を去年あたりから必死で探っていたのだ。
よりきついところに降りるためには、より深く自らを安定させる技法を必要とする。
必要は発明の母、この長い呼吸もその必要から探り当てたものだ。
だが、正体がわからない。肺の呼吸のリズムそのものではないからだ。
このゆっくりとからだを膨らませていく生命の呼吸とでも呼ぶべき呼吸は、いったいなんなんだろう。
そう思っていたところ、書物を通じて、これはクレニオセイクラルメソッドでいう、
ミッドタイドのリズムに対応していそうなことがわかった。
そして、なんとうまいことに、今年の生徒の一人、スイスから来たピアが
もう23年間もクレニオセイクラルを教えているエキスパートであったことを最近知った。
クレニオセイクラルはこれまでも長い間興味を持っていたが、
深く学ぶ機会を得ないまま今日まで来ていた。
だが、とうとう最適の機会がやってきた。
人はもっとも必要なときに、最適のタイミングで師に出会うものなのだ。
今日は午前中いっぱいピアにクレニオセイクラルの手ほどきを行ってもらった。
これまでやってきたことと一致点が多いのに驚いた。
そしてもうひとつより長い45秒から50秒かけて吸気を行うロングタイドのリズムをも学んだ。
こちらはこれまで私が意識していなかったより長く安定したリズムだ。
これに同期するともっと深く落ち着いたからだになりそうだ。
クレニオセイクラルも生命があらゆるものと多次元的に共振していることに気づいていたのだ。
クレニオセイクラルに特徴的な5グラムタッチというものも、私にとって長い間謎だったが、
施術者が患者に何かを施すというよりは、生命共振が本質だったことを知った。
施術者は何もしない。自ら落ち着いたからだになってただ触れるだけなのだ。
タオ指圧でいう、気のからだの融合、気ボディユニフィケーションというものに近い。
施術者がゆっくりした生命呼吸をしていれば自然な共振によって相手にもそれが伝わる。
お互いを癒しあうことができるのだ。
今日はクレニオセイクラルに触れた生徒全員がとても深い幸せを味わった。
からだの技法はみなどこかでつながっている。
舞踏も、ヨガも、タオも、指圧も、禅も、アーユルベーダも、チベット密教や、山岳密教の修業も、
深くでつながりひとつになる地点がある。
だが、クレニオセイクラルのなかの、ピアが採用しているバイオダイナミズムという技法は
これまでに知る中で、サボボディメソッドともっとも深い共通点を持っていることを知ることができた。
これからの探求課題だ。
憑依体の鍛錬に入るためにまさしく必要としていた技術がここにある。
楽しみが増えた。



2009年7月30日

生命記憶40億年の不思議


なぜ、私たちはからだが動かなくなる金縛りにあったり、
リアルな体感を伴う空を飛ぶ夢、落下する夢を見るのか?
なぜ、アメーバやプランクトンやくらげになりこんで漂うことができるのか。
生物だけではない。
石や木や風や空気にさえなりこむことができる。
なぜ、そんな体験したこともないあらゆるものになりこむことができるのか?

なりこみは舞踏の本質だ。
なりこんだときは、本当にからだじゅうが、そのものになりきっている。
なぜ、こんなとんでもないことが可能なのか?

それは、私たちの体を構成する60兆の細胞のすべてが、
それらの体験をしてきたからではないか。
かれらは生命誕生以来、40億年間の地球の転変を生き抜いてきた。
途中で死んだ仲間もおおぜいいたが、今の私たちのからだを構成している
細胞たちはみな、あらゆる転変地変をのりこえて生き抜いてきたのだ。
40億年のうち、ほとんどの時間は海を漂っていただろうが、
氷河期に凍り付いて年々も動けなくなったことも、
乾いて空を飛んだり、落下したこともあったろう。
それらの体験のクオリアはみな細胞内に記憶されているのだ。
だから、それらの保存されている内クオリアが共振して
どんな体験でも反芻できるのだ。
小さなミクロン単位の細胞生命の中に、
その秘密が隠されている。

これまでも授業の中ではそういってきた。
私たちの実の年齢は40億歳なのだと。
だが、今日はじめて命の不思議さに感嘆した。
本当にそうなのだ、と。
本当に細胞生命の中に、それらのクオリアが生き生きと保存されているのだ。
そして時を超えて発現することができる。

それ以外に私たちが、飛翔夢や落下夢、金縛りを体験したり、
あらゆるものになりこめる根拠は見つからない。

私たちの生命の年齢は本当に40億歳なのだ。
今日は一日命のとんでもない不思議を感じ、感動していた。



2009年7月24日


命の共振瞑想


何もしないでいい日は、ただ命の共振を感じるのが一番だ。
命は外界内界のあらゆるものと共振している。
命とは私たちのからだを構成している60兆の細胞の命だ。
わたしたちはその60兆の細胞生命の重合共振体にほかならない。


ただ共振しているだけの時間に気づく


覚醒した意識状態にあるとき、わたしたちは自分が命であることを忘れている。
近代社会が刷り込んだ「自分は人間である」という催眠に罹っているからだ。
まして命が共振していることになど気づくことはない。
だが、わたしたちは四六時中意識状態にあるのではない。
ただ、意識は意識状態でないときのことを意識しないから何も知らないだけだ。
ぼんやり空の雲や水の流れを眺めたり、焚き火の火や雨音に聴き入っているとき、
意識は鎮まり、本当はたださまざまなクオリアと共振しているのだ。
命は共振するクオリアとひとつになっている。
命には主体も客体もない。
あらゆる境界を越えて共振する非二元の世界にいる。
だが、意識はあらゆるものを分節する言語を覚えてしまった。
言葉を覚えて以来の意識は未分化な非二元世界を意識できなくなった。
意識にとっては、意識できるものだけが存在する。
意識できないものはその存在にさえ気がつかない。
意識は命がただただ共振していることを知らない。
だが、思い返してみよう。
そういう意識がない時間のことを思い出してみよう。
何かを眺めてぼんやりしている時間のことを。
何かに聴き入って心地よくすごしている時間を。
ただ内界に立ち上がる思いとも感情ともいえないなにかうっすらとしたものに浸っている時間のことを。
それは命が命に返っている時間なのだ。
そこでいったい何が起こっているのか。
意識を止めてその世界にからだごと入っていこう。
言語意識を使って認識するのとは異なる細胞生命のやり方で世界を感じてみよう。


非二元の世界では夢のようなできごとが起こっている



命はあらゆるものと共振している。
その共振は時間も空間もないところと関係している。
波うち際にたたずみ、海を眺めている時、本当は命は海に吸い込まれていっている。
空を舞台に赤と青が闘う夕焼けに見入っている時間、命はその闘いに参加している。
風を感じるとき、命は瞬間通り過ぎる風に連れ去られていく。
いや風そのものに変容しているときもある。
夢の中でしか起こらないような非二元世界の変容流動こそが命の生きるクオリアの世界だ。
夢は命が感じているやりかたのままの世界をわたしたちに届けている。
風呂に入って気持ちよく感じているとき、細胞生命たちは時を超えて
お湯にゆらぐクオリアや温度変化のクオリアと共振している。
胎児時代に内クオリアとして刻み込まれたゆらぎの生命記憶との共振も起こっている。
原始の海に漂っていた単細胞時代のクオリアも共振している。
音楽に聴き入っているときも、命が空気振動の変化と共振しているときだ。
細胞は40億年間も自然界の織りなす音楽と共振し続けてきた。
命はそれら、ゆらぐ音楽そのものでもあった。
縁側で日向ぼっこをしている時の細胞は日光と共振している。
日光もまたこの40億年間の変わらぬ共振相手だ。
ただただ、日光にまつわるあらゆる内クオリアが上りたち、命はそのゆらぎに浸りこむ。
重力ともまた40億年間、命は実にさまざまな共振の仕方をしてきた。
海中を浮遊するクオリア、地底に押しつぶされているクオリア、
あらゆる重力との共振パターンを体験してきた。
人類が飛行機を発明して空を飛ぶようになるずっと前から、
単細胞生命は水分を失うと空を飛んだ。
ほとんど生死ぎりぎりのエッジで空に舞い上がり風に運ばれた。
私たちが気化するからだに成りこめるのはその頃の内クオリアといまなお共振できるからだ。
静かに呼吸しているとき、全身の細胞が酸素を含む空気と共振している。
酸素は比較的新しい時代に共振できるようになった友だ。
誕生以来の生命にとって、当初の一億年間は酸素は最大の敵であった。
今でも酸素に出会うとき細胞生命は生死の境のクオリアに打ち震えることを禁じることができない。
そっと口を開いて空気を吸い込むだけでそれがわかる。
口の粘膜の細胞たちの喜び半分、恐怖半分の複雑な震えを感じることができる。
三億年前にプロテオバクテリアが酸素呼吸を発明し、
その後他の細胞に入り込んでミトコンドリアとして共振するようになってはじめて
多くの細胞が酸素呼吸の力を身につけた。
空気中には酸素だけではない、さまざまな物質の粒子が漂っている。
命はにおいや味わいを通じて過去に体験した内クオリアと共振している。
そういうただただ命が共振している時間に降り立つ。


細胞生命のかすかな共振になりこむ



細胞の命は、地球の重力と共振している。
私たちが立ったり座ったりしていられるのは、
60兆の細胞がそのつど共振パターンを精妙に制御しているおかげだ。
今ヒマラヤはモンスーンのたけなわだ。
一日中雲の中にいる。
細胞はこの湿度と共振してすこししっとりし、
雨音と共振して微妙に震えている。
光とも、温度とも共振している。
これらはきわめて微細な振るえなので、とても粗大な意識では捉えきれない。
ただ、60兆の命がそれぞれに微細共振していることに耳を澄まし続けるしかない。





分析脳と共振脳



大脳皮質の細胞は、上図のように6つの層からなる。
第2、第3層は左右の半球を連絡している。
言葉を発する中枢であるブローカ野と、言語の意味を理解するウエルニッケ野を中心とする
言語脳は右利きの人の場合、左脳にある。
第4層から第6層は感覚と運動にあたっている。
感覚も運動も生命にとっては外界との共振を意味する。
思考や判断など日常的な意識の活動は、このうち、
左右脳の交信を行う第2、第3層が興奮し、
全脳のグリアやニューロンなどの神経細胞が感じて共振している多次元流動的なクオリアを
二元論的な文節言語に翻訳することによって成り立つ。
(クオリアについてくわしくは、「クオリア論」を参照)


分析脳を止め、共振脳になりこむ


瞑想状態やサブボディモードになることは、
この大脳皮質の第2、第3層の活動をできる限り止めることだ。
言語への自動翻訳に費やす莫大なエネルギーを鎮めることだ。
すると、大脳皮質の第4層から第6層の、感覚や運動を担当する神経細胞たちが
ただただ感じ、動きとして反応している微細な原生的な共振が聴こえてくる。

表層の第2、第3層を分析脳と呼ぶとすれば、
深層の第4-6層は共振脳と呼ぶことができる。
(このさらに深部に内分泌や情動、欲望など生命調節機能にかかわる大脳辺縁系や視床下部、
そして呼吸や循環などの生命維持機能をつかさどる脳幹や延髄が存在し、
総合的な生命共振パターンを制御しているが、ここではそこまで触れない。)


共振パターンの微細な変化に耳を澄ます


からだが恒常性を保っている限り命は平穏だ。
だが、すこしでもこの恒常性が破れかかると、
からだの一部の細胞で起こった異変のクオリアは
ただちに増幅されてからだの他の部位の細胞に伝わる。
ふと悪寒が走ったりするのは、からだのどこかが冷えすぎたぞという
共振パターンをからだ全体に告げているのだ。
わけがわからず気分が悪くなったり、不安がこみ上げたりするときは
からだの一部で起こった異変を情動として脳に伝えようとする
共振パターンの大変化が起こっている。
情動や気分の変化は命から意識脳への重大なメッセージである。
私たちのからだには細胞から細胞へ、
実に多彩なコミュニケーション網が張り巡らされている。
なんせ、命は40億年もかけて、多細胞間の多彩な共振パターンを創発してきた。
隣接する細胞は直接微細伝達物質をやりとりして、コミュニケーションしている。
遠隔細胞との間では血液やリンパ液や脳脊髄液に、微細伝達物質を預けて交信している。
自律神経や中枢神経系も、ニューロンとニューロンの間ではやはり微細伝達物質で
電気信号の流れを加速したり、減速させたりしてコントロールしている。
(生命とは何かという問いをめぐっては、「生命論」を参照)


細胞から細胞へ受け渡されているクオリアを感じ取る


そして、これらの微細伝達物質はすべて、各細胞が感じているクオリアを担っている。
各細胞生命は、微細伝達物質に乗って遠くの細胞から届けられたクオリアを読み、
適切な反応をする。
その仕組みは、想像するだけで気が遠くなるほど多次元的に複雑でかつ精妙だ。
命に耳を澄ますとは、その精妙さに畏怖しつつ聴き入ることだ。
とても私たちの粗雑な意識では届かない。
意識は粗大に分節された言語を使って考えるが、
細胞生命はその何兆倍も微細で精妙なクオリアを使って思考し、
命を刻々と制御している。

クオリアが精妙なのは、その本体がひも理論で言う
微細なひも(ストリングとも呼ぶ)の共振パターンの変化からなるからだ。
ひもは1メートルの33乗分の1という宇宙で最小のプランク長さの
11次元時空で震え、互いに共振している。
(ひも理論についてくわしくは、ここを参照)

その無数の共振パターンをもつひも共振によるクオリアが命の使う言語だ。
共振を感じるとは、その無限のクオリアの変化に聴き入ることだ。

自分が一個の人間であるなどという近代社会の催眠にかかっていては
とても届かない微妙さである。
絶えず無意識的に湧き起こってくる意識を止め、言語思考を止め、
ただただ、細胞から細胞へ受け渡しされているクオリアに耳を澄ます。
じつに多様多彩なクオリアが流動していることにだんだん気づいていくはずだ。
とても言葉になどならない微妙な無数の味わいを感じ取る。
感じ、味わい、それを楽しむ。
これが微細な細胞の命に近づいていく道だ。


時を超えたクオリア共振に気づく



クオリアの多彩さを感じ味わっていると、
命が感じるクオリアは、時を越えて共振していることが徐々に分かってくる。
雨が心地よいのは、その湿度が胎内にいたころの環境に少し近づくからかも知れない。
風呂に入ればとてもくつろぐのはまさしく胎内記憶と共振しているからにほかならない。
細胞にとって乾くこと、水分を失うことは直ちに死の危険に直面することに等しい。
クオリアが時を越えるのは、ひも共振によって生成している11次元のうち、
時間次元は粗大に膨れ上がった4次元時空にだけ存在するからだ。
それ以外の微細次元に巻き上げられている7次元には時間は存在しない。
幼児のころに聞いた母の声が時を越えて記憶され、
そっくりそのままのクオリアでよみがえってくるのは、
脳内のグリア細胞に内クオリアとして保存されているひも共振パターンが、
時のない微細空間で変わらず振動し続けているからだ。
非時の国についてわたしたちは何も知らない。
微細な次元で起こっているひもの共振パターンの変化について何も知らない。
自分が何もわかっていないことに気づくこと、
わかっているつもりという思い込みの幻想を脱ぐこと。
すべての気づきはそこから始まる。


瞬間的に加速され、爆発的に増幅される共振を知る



命は40億年のときを超えて発生当初の生か死かの瀬戸際のクオリアさえ保存している。
死の危険に瀕したとき、かよわい細胞生命のなかでは、
生死の境界で震え続けていた発生期の生命にとってもっとも恐ろしい内クオリアがいっせいに騒ぎ立てる。
渇きや飢えのクオリアは、細胞たちが水分が足りない、栄養分がなくなってきたという
死に瀕したメッセージが重合して起こる。
胎内から出る分娩の際にも命は生死の間で葛藤する生死ゆらぎが刻印されている。

ひも共振の微細次元で起こることは、日常世界の常識では計れない。
限りなく小さな時空に限りなく重大なクオリアが閉じ込められている。
時として閉じ込められていた死の恐怖のクオリアの一部が解除されれば、
たちどころに他の細胞にも伝わり、
互いに増幅しあって、瞬間的な大爆発につながることがある。
神経症の妄想やトラウマのフラッシュバックによるパニックとは、
一挙にこの原生的な瀕死のクオリアとの共振が増幅されることだ。
加速された情動は千里を一瞬で走る。

原子の陽子と中性子をつなぎとめていた「強い力」が、
ウラニウムの自然崩壊などのきっかけで解除されると、
原子爆弾の爆発となるように。
わずかなきっかけで情動が瞬間的に増幅されることが起こると、
世界が私を滅ぼそうとしているという死の恐怖の
パニックにまで一挙に到達する。
人がライフル乱射事件を起こすときは、
その瞬間的なクオリア増幅がかならず起こっている。
自殺にいたるときもそうだ。
殺人と自死は紙一重だ。
世界と自己の共振パターンが、
世界と自分の区別がない胎児の世界にまで一挙に縮合する。
そのときどちらが起こっても不思議ではない状態になる。


極小から極大までの共振を探査する



からだの闇に潜るとは、
もっとも微細な静かなクオリアの共振パターンから、
時を超えて起こっているクオリア共振、
世界と自分の境界がなくなるまで瞬間的に増幅する爆発的なクオリア共振の変化まで、
あらゆる共振パターンの変化があることを知ることだ。
共振の極小から極大までの世界を、馳せ下り、馳せ上る旅だ。
最高の共振から、最悪の共振まですべて体験する。
いや違う。共振にいい悪いもない。
そんなことは人間が勝手に決めただけだ。
命の世界にはただ無数の共振があるだけで、
いい悪いなどの二元論にはまったく関わりがない。
非二元共振の世界は言葉にしたとたん別物に変化する。
書きながら書いている言葉からいかに透明になれるか。
それが課題だ。

すべては共振である。
すべてが共振している。
ただ、それを感じ続ける。


※この項は、「共振論」第二坑として、まとめることにした。
5年ほど前から、書きついで来た「共振論」が、今読み返すと
なお当時の私が囚われていた二元論や既成概念に毒されていて
読むに耐えないものであることに気づいたからだ。
いずれ他の坑道も掘りなおさなければならないだろう。
だが、共振原理を扱うこの共振論が一番難しい。
共振には主体も客体もないのに、それを主語述語に囚われた
言語で書かねばならないという巨大な矛盾をなかなか克服できないからだ。
だが、少しずつ掘り直し、掘り返ししつつ進むしかない。
そのうち自分の骨でも掘り当てることになるかもしれない。








2009年7月21日

産婆への長い道


長年からだの闇を掘り進めてきた。
そこから自分やほかの人のサブボディが生まれる現場に立ち尽くしてきた。
自我を消して、産婆に徹しようとしてきた。
生徒のからだの闇から見たこともないサブボlディが出てくる瞬間に立ち会うのは
人生で味わえるもっとも深い喜びだ。
産婆冥利に尽きる。
だが、いつまでたってもおびただしい失敗を経験する。
今年も何度生徒のサブボディが水に流れていくのを見送ったことか。
いままた、少数の生徒が共振塾を続けるかどうかで迷っている。
瞑想センターで瞑想に入っている。
私の授業が予想以上に厳しいエッジに直面させられるものだったので
休みたいという気持ちが出てくるのは分かる。
だが、 ここを中途で止めるということは
サブボディの母体ごと自殺するということだ。
私にはからだの闇で悶えている胎児の泣き声が聞こえる。
今の私にはそれに対してなすすべもない。
だが、こういうエッジを乗り越えるすべを持たないと
来期以降の最短期間1年という学校体制を維持していけない。
これは来期以降に向けての試練なのだ。

ふと気づくと、これ以上先へ進むためには、からだの闇の坑道の
まったく新しい掘り方が要求されているところまで来た気がする。
それなしにはもう先へ進めない。
もう今までの考え方を保ったままではどうにもならない。
というより、考えてはいけないのだ。
思っても感じてもならない。
無意識裡に出てくる思いや考えや感情を止める仕方を身につける必要がある。

ここではただあらゆるものが共振している。
その共振を共振のままに受け取ることができなければならない。
判断したり、言葉で説明しては、
それだけでもうあるがままの共振が別のものに変貌してしまう。
共振は思いや考えに比べて、かぎりなく微弱かつ精妙だ。
判断も、説明も完全に止める必要がある。

共振には主体も客体もない。
どちらからともなく起こり、変容していく。
どちらかに肩入れしたり、どちらかの立場に立ったりすると、
あるがままの共振は別物に姿を変える。
解釈しても駄目。
感想を持っても駄目。
ただあるがままの共振を受け入れ味わうことだけができなければならない。

自我も自己も捨てろということだ。
そんな邪魔者を持っているものは、この先には通れない。
闇がそう告げている。
本当はあらゆるものはただ共振しているだけなのだ。
だが、自我や自己を持ったままではそのことがわからない。
この世のあるがままの姿に一生触れることができない。
目の前で起こっている共振をただ受け入れること。
そのことはいったいどうすれば可能になるのか?

もちろん、自分を思考が出てきにくい状態に調節することはできる。
毎朝たっぷり呼吸やゆらぎ瞑想でとことん調体する。
だが、いくらそれをやっても、予測できないことが起こる。
サブボディモードに入っていても、
何か予想できないことぶつかると驚いていきなり自我や恐れや怒りが瞬間的に立ち上がる。
それを完全に避けることはできない。
自分の生まれ育った履歴から来る自分特有の情動パターンの突き上げにぶつかる。
分かっていても情動の変化に気づいたときはすでにそれに捉えられてしまった後だ。
ベネットの実験で明らかになったように
意識はかならず0.5秒遅れて生起する。
それをどう克服するか。
これが今ぶつかっている大きな難題だ。

サブボディの産婆になるためには、
これまでとは比べ物にならない細心の注意が必要だ。
邪魔になるものが次から次へと湧き出てくる。
それをそのつど、そのつど受け流し、やり過ごさなければならない。
押さえつけようとすればよりいっそう力を増して立ち上がってくる。
それらが瞬間的に増幅されて爆発する前に、
あらゆる危険な状況を事前に察知し、身を遠ざける必要がある。
危険はブラックホールに似ている。
ふと近づきすぎてしまったことに気づいたときはもう囚われている。
抗うことにできない強い力で吸い込まれてしまう。
細心の注意で遠ざかること、それしかない。

さし当たって今の私にできるのは事前に危険に近づかないようにすることと、
出てきたときの次の対処ぐらいだ。
自我の解釈や判断や説明は、放って置くと無意識裡に勝手に立ち上がってくる。
それに気づいたら、瞬間的にそのつど止める。
一日に何回も止める。
10分おきに止める。
止めることに手間どってはならない。
止めることに囚われてしまうからだ。
そしてただ共振を感じる。

感じていると何もかもが無数のものと共振している。
そのすべてを受け入れ感じる。
判断しない。
言葉をさしはさまない。
説明もしない。
感想も抱かない。
心を動かさない。
無になるしかない。
だが、そんなことが簡単にできるわけがない。
言い訳しない。
言い訳が出てきたことに気づけばただちに止める。
「まったく自我ってやつは…」などとも思わない。
ただ感じ、味わう。
起こっている共振を受け入れる。

サブボディの産婆として要求されるのはそういう態度だ。
ただ生まれようとしているサブボディの胎動に耳を澄ます。
一心にその見えないものの気配と共振する。

私の自我が出たとたん生まれかけているサブボディは流産の危険にさらされる。
待ったなしだ。
ひと時も気を許せない。
今年も何度も失敗した。
幾体もの生まれかけようとしていたサブボディを水子に流してしまった。
それらが無数の痛い棘としてからだの闇に突き刺さっている。
だが、後悔している暇もない。
隙をつくっては駄目だ。
サブボディの母体である生徒個人に対する思いも邪魔になる。
思いには判断や好悪の感情が伴う。
すると耳を澄ませなくなる。
こうあるべきだという私の夢や希望も止めなければならない。
いつも邪魔をするのはそれらだ。
自分の履歴から自分を解放するために自分の履歴をすべて踊りきらなければならない。
そうすることでようやく、サブボディが眠りにつく。
自分のサブボディからさえ別れること。
自分から履歴を消去し、初期化すること。
透明な存在になるとはそういうことだったのだ。
産婆への道は気が遠くなるほど限りなく長い。


2009年7月15日

サブボディとコーボディの間の闇

今年の一学期は例年になくコーボディに力を入れた。
たった4ヶ月で、去年まではソロを創るのが精一杯だったのに、
今年の生徒の多くは独自な仕方でコーボディパートまでを創造した。
今年一年かけてできればいいかなと思っていたことが前期だけで実現した。
これは驚くほど喜ばしいことだ。
だが、予想もつかなかった新たな壁が立ち現れた。
サブボディとコーボディの間に横たわる深い溝の存在が明らかになったのだ。
生徒の一人ゴルカは、前期の終わりに次のような文書を書いた。
向かうことができていなかったことだ。

. I liked the idea of cobody research , but I have to say that in four months of daily work cobody rarely worked, maybe of the constant guidance through instructions, we come into the feeling of " I'm doing right or wrong" huge limit for creation. That is the reason I did not use cobody in my piece, it normally feels to me like daily theater, and I’m not dancing from subbody mode but from acting mode.」

これは私も以前からうすうす感じていたことだったが、
明らかな課題として真向かうことができていなかったことだ。
群れと言った瞬間、私たちはなぜか単一種の、同一行動をする虫や動物の群れのイメージに囚われてしまう。
私もずいぶん虫や動物の群れのイメージを生徒に見せた。
サイトにも「虫の歩行の序破急を説明するために掲載した。(参照「虫の歩行の<序破急>」
それでは足りなかったのだ。
彼のフィードバックは、コーボディをめぐる私の内視盲点を鋭く突いたものだった。
サブボディとしては、可能な限り微細なクオリアに気を配ろうとしている生徒たちが
なぜ、コーボディの群れになったとたん、粗大な動きになってしまうのか?
ここにはまだ見落としている謎がある。
私は、彼の文章を読んで自分の命に問うた。
「何が一番したいのかい?」、「命さんよ、一番創り出したいものは何なのかい?」
夢うつつの中で、命は答えた。
「同一種の虫の群れのような単一行動の本能に囚われた群れではない。それは貧しい群れだ。
俺が創り出したいのは、まだない豊かな群れだ。」
そうだ。そうだったのだ。
私の命が望んでいるのは、単一の本能による同一行動をする群れではない。
そうではなく、無限の多様性をはらんでなお群れであるような豊かな群れなのだ。
強いものだけによる群れではない。
最弱の弱者や狂者、心身障害者、犯罪者でさえも共振して共存できる多様体としての群れなのだ。
そういう世界をこそ創り出したいのだ。
その最終の希望を見失っていた。
いや、私のツリー思考への囚われが、最初は単一の群れからはじめて、
じょじょに複雑な多様性をはらんだ群れに進むしかないだろうという、段階的思考が、
コーボディに対して貧しいイメージしか湧かない練習を生徒に強いてしまっていたのだ。
いきなり、前人未到の豊かな群れへの変成を目指してもよかったのだ。
それがいくら難しくても、まだない豊かな群れを実現するためにならば、
誰もがそれに向かって力を振り絞りたくなるような群れのイメージを提示するべきだった。
コーボディの産婆としての私に、まだでできていなかったことはそれだ。
●●●
私たちの歩みは、これまでの衰弱体からさらに微細かつ精妙な生命の透明共振体へ続く。

●●●
最後の一文はまだ。
2009年7月14日

踊りはどこから出てくるのか?

一学期が終わり、ほとんどの生徒はそれぞれビッパサーナの瞑想所に入ったり、各地へ旅立っていった。
ヒマラヤに残る少数の生徒と、6月から新たに参加したスイスのピア、
日本からインドネシア、東南アジアを5ヶ月かけて旅してきた息子の清火とともに
じっくりとからだの闇に潜りなおし、
いったい踊りがそこからどのようにして出てくるのかに耳を澄ます静かな日々に入った。
からだの闇にはもちろん日常体の自我や自己も含まれているが
自我や自己が頭で造った踊りは、日常世界の価値判断に囚われているために薄く退屈だ。
自我や自己を鎮めた後に、
踊りはからだの闇の自我や自分が見知らぬところから湧き出てくる。
そこはいったいどんなところなのか。
そこでどのようにして踊りが創発されて出てくるのか。
その問いをどこまでも掘り下げていく。
からだの闇には自我や自己にとってまったく未知の闇がある。
そこではただ生命がゆらいでいる。
私たちの生命は40億年前の誕生以来一瞬のとぎれもなく現在まで続いている。
自分のことを人間だという思い込みから解き放つと、
60兆の細胞生命が集まり、多様多次元に共振していることが分かる。
人体にはさらにその十倍もの細菌が共生している。
私たちは660兆の各種細胞生命の多次元共振体なのだ。

これらの生命は独自に外界のクオリアや
40億年間に細胞内に蓄えられた内クオリアと共振して生命を維持しコントロールしている。
細胞内に蓄えられ刻み込まれたクオリアとはすべて、
命が出会ったさまざまなものとの最適の共振パターンを見出していく智慧だ。
発生当初はごく限られた外界の事物としか共振できなかった生命も、
40億年の間に驚くほど多様なものとの共振パターンを創発した。
重力、電磁力、光、音、水、大気、炭素、水素、カルシウム、ナトリウム、カリウム…
これら主要物質やエネルギーとの共振パターンは生命の発生当初から獲得していただろう。
だが、酸素との共振パターンが発明されるまでには何億年もの歳月が必要だった。
電磁力を制御して電気を使用することができるようになったり、
重力を制御して空を飛ぶことができるようになったのはたかだか2、3百年前だ。
原子核を結び付けている強い力との共振パターンが危なげながら発見され、
原子力を使えるようになるまでには40億年がかかっている。
力の強いものとの適度な共振を見出すのは微弱な生命にとって至難の業なのだ。

ともあれ、この多様な共振パターンの創発力によってこそ生命は生き延びてきた。
からだの闇で踊りが創発されるのも、この未知のものとのあいだで
新しい共振パターンを創発しつづける生命のいとなみの一環なのではないか。

生命はそこでどんな仕組みで創造を行っているのだろうか。

強い力との共振は生命にとって苦手であることを上に見た。
では、微弱な生命にとって、もっとも使いやすい微細な力とは何だったのか。
それは宇宙でもっとも微弱な力、今日ではまだ力とさえ見なされていないクオリアだ。
クオリアはおそらくひも理論で言うストリングの共振パターンの変化から生まれる。
(参照 クオリア論
ひも理論に従えば、宇宙のあらゆる事物は
微細なストリングの共振パターンの変化によって生み出される。
その仮説が正しければ、非物質である生命やクオリアもまた
ストリングの共振パターンの変化によって生み出されているだろう。

生命そのものは、物質やエネルギーではない。
ひもの共振パターンが物質やエネルギーを生成する共振パターンよりも
もっと微細かつ精妙な共振パターンによって生命は生まれた。
宇宙史の中で微弱な生命が創発したのは、クオリアを感知し使う仕組みだ。
微弱な生命にとって、発生当初から使うことができたクオリアもまた
もっとも微弱なひもの共振パターンによって生成するものであるに違いない。

生命やクオリアがかぎりなく微弱なのは、
物質にすらならない微弱かつ精妙な共振パターンによって生成するものであるからだ。
今日多細胞生物として多くの細胞生命の共振を統御し、大きなからだとなり、
大きな力を使うことができるようになった私たちも、
そのからだを構成する個々の単細胞生命は限りなく微弱であり、
それが使うことができるのも限りなく微弱なクオリアでしかない。
生命になるとは、限りなく微弱なものになることだ。
そのために、かぎりなく微弱な存在になる衰弱体の技法をくぐることが必然だったのはそのためだ。
だが、私たちはまだその坑口にたどり着いたばかりだ。
この坑道の奥はまだまだ暗い闇の中だ。
こんな入り口で立ち止まっているわけにはいかない。
土方が最後に夢想した「生命の呼称で呼ぶことのできる舞踏」に至るためには、
土方でさえたどり着かなかったもっと透明なものになる必要があるのではないか。
限りなく微弱な単細胞生命となり、
それが感じているクオリアに透明に共振できるからだになること。
生命の創発としての踊りが出てくる場所とは
この微弱な生命とクオリアの微細な共振の現場である。
そこへ至る道を私たちはまだ発見していない。



2009年7月7日

細胞生命の微細共振に耳を澄ます

日常体と日常意識を限りなく鎮めていくと、
やがて、からだのひとつひとつの細胞が感じている
クオリアのゆらぎが感じられるようになる。
(クオリアとは何か、については「クオリア論」を参照

わたしたちのからだは60兆の細胞と、
その十倍の600兆のバクテリアからなる多重共振体だ。
ひとつひとつの細胞が、それぞれ別個の生命として
あらゆるクオリアを感じ、それに対応して生命を維持運転していると同時に
細胞の間でまだ未解明の仕組みのクオリア共振によって交感している。
ひとつひとつの細胞は、重力、空気、光、音、温度、圧力、食物、毒物などの
外界のクオリアと共振すると同時に、
外クオリアは細胞内に刻まれた生命記憶などの内クオリアとも共振し、
刻一刻と判断し活動している。
(生命共振については、「生命論」を参照

限りなく意識と体を鎮め、それらのクオリア共振に耳を澄ます。
もっとも敏感な口腔粘膜や鼻腔粘膜にほんの少し、1ccだけ空気を吸い込み、
粘膜細胞に起こるクオリアの変化を感じ取る。
表皮細胞は死せる細胞だが、粘膜細胞は生きた細胞なので、
酸素に触れたときのかすかな震えが共振しあっているのが感じ取れる。
そこではいくつもの種類のクオリアが多重に共振している。
粘膜の水分が空気に触れて気化するときに奪い取る気化熱によって
感じる冷やっこい涼しさの温度クオリア、
細胞が酸素を得て内呼吸によって活性するかすかな快感、
大気中の無数の化学物質と共振するクオリア、
そして、細胞内に刻まれた太古、酸素が猛毒であった時代の生命記憶による
死を前にして生死のあいだで震えるクオリアなど、
じつに多様なクオリア共振が起こっている。
唇の内側に感じる微妙な味わいの震えはそれら多様なクオリアの
同時共振による複雑な震えが総合されたものだ。
(呼吸法についてくわしくは「実技ガイド」を参照

言語意識はその微細さに比べるとはるかに強烈なエネルギーを持つので
それを止めないとマスキングされて微細共振を感じることができない。
私自身、最初は唇の内側で起こっている細胞の微細共振を
直接感じることができるなどとは思ってもいなかった。
だが、それは実際に可能なのだ。

やがて、口腔の半分まで空気を吸い、その感じが広がるのを感じ取る、
口腔全体、喉、肺、そして血液細胞によって酸素がからだの各細胞に送り届けられて
体各部の細胞で起こっている微細共振に耳を澄ます。
まるで体全体が巨大交響楽団のように共振しあってるのが感じ取れる。
その中には、60兆の体細胞だけではなく、600兆のバクテリアの生命との
共振も混じっているだろう。
バクテリアたちも私たちの体細胞とまったく同じ生命発生以来40億年の
生命史をもち、その間に蓄えた生命記憶の内クオリアを持っている。


バクテリア間のナノワイヤーネットワーク

今日のネットの科学ニュースで、バクテリアの間で繊毛を通じて電子を交換して
コミュニケーションを図っていることが発見されたことを知った。(参照)
従来は微細な化学物質を通じて交信していると考えられていたのが、そればかりではなく、
脳細胞のニューロンのように電気信号でも交信していることが知られるようになった。
それはまるで私たちの脳そっくりのシステムだ。
ニューロン間の電気信号によるコミュニケーションと
グリア細胞間の化学物質によるコミュニケーション。
それを総合したグリア・ニューロンネットワーク。

―おそらくこれらは細胞生命の間で起こっている、
もっと微細な(ひも理論でいう)ストリングの共振パターンの変化による
総合的な生命共振の仕組みのごく一部であるだろう。(参照
ナノワイヤーを発見したYori Gorby科学者も、
バクテリアのナノワイヤーに関する最も刺激的な仮説は、
ナノワイヤーが、それとはまた別の原始的な(あるいは高度な?)
コミュニケーション・システムの一部なのではないかということだ。

と、その不可視の仕組みを予感している。
この科学者が予感している「より原始的な(あるいは高度な)コミュニケーションシステム」こそ、
クオリアを通じた共振に他ならない。
細胞生命は発生以来40億年間もクオリア思考を続けてきた。
私たちの脳も下意識では細胞間でクオリア思考を行っている。

いよいよその一端が明らかになりつつあることを思うとわくわくする。
その全容が解明されるのはずっと先になるだろうが、それを待つ必要はない。
意識を止め、近代意識にとらわれない透明な知性を開くことで
細胞間の微細共振を直接感じ、味わうことが可能なのだ。
(生命共振についてくわしくは、「共振論」を参照

それに日々耳を澄まし、
もっと微細なことが感じ分けるようになるまで透明覚を研ぎ澄ましていく。
この修行には終わりがない。



2009年6月14日

Xによる還元と再生と、次元数の増減

土方は自他分化以前の沈理の世界を探っていた。
そこで見つけたひとつの沈理が、静かな家の舞踏譜に書かれた
「Xによるかんげんを再生」というものだ。
おそらく、この舞踏譜のなかでももっとも難解な一行だろう。
だが、弟子の「稽古ノート」にも、この言葉が散見できるところから、
土方は弟子の想像力の枠組を拡げるために、この言葉を使っていたと思える。
私も一読時は、なんのことかさっぱり分からなかった。

だが、私自身がからだの闇を探る中で、
そこで起こっていることを捉えるために見出した
「次元数の増加と縮減」や「異次元開畳」という
からだの闇独特の展開の論理が、まったく同じものを
指していることに気づいた。
言葉遣いはまったく異なっているが、同じものを捉えていたのだ。
「Xによる還元」は「次元数の縮減」として捉えることによって
土方がそれによって表そうとしていたものが何であったのか、
その全貌が明らかになる。

還元とはあるものから何かを差し引くことで起こる変化のことだ。
水素イオンに酸素イオンがイオン結合によって電子を共有することで
結合すると水になる。
水から酸素イオンを差し引くと、もとの水素イオンに戻る。
これが化学の世界での還元の一例だ。
土方はこの還元をすべての次元に拡大適用した。
あらゆる次元で還元とその逆過程が起こっている。
「Xによるかんげん」とはそのプロセスを普遍的に捉える手法である。
三次元の地形から一次元を削減すると二次元の地図になる。
二次元の地図からその還元を再生するともとの三次元の地形にもどる。
命にとってはこんな変形は日常茶飯のことなのだ。
生きてい動いているものから生きた時間を差っぴけば死物になる。
化石や剥製がもつ時間性だ。
そこにもう一度生きた時間を吹き込めば生きたものとして再生する。
再生はリプレイという意味だけではなく、
リボーン(蘇生)、リインカーネーション(転生)という意味をも持っている。
英語に翻訳するとき最初は安易にリプレイと訳したので、
生徒から意味が取れないと質問を受けて、
この言葉の多義性を翻訳しきれていなかったことに気づいた。
命の沈理は、多次元多時空的だから、
安易に言葉だけで理解することはできない。
言葉は二元論に規定され、
すべてを低次元に還元してしまうからだ。

土方が還元という言葉をその最大限まで拡張して使ったように、
わたしも次元という言葉をたんなる物理的次元という意味から
拡張して使っている。
すべてのチャンネルのクオリアは別の次元を持つ。
体感の重力は重力の次元、温度は温度の次元、
光は光、音は音の次元を開く。
命が多次元的に共振している現実を表そうとすると、
最大限の拡張が必要だ。
命の非二元かつ多次元的論理を追求している人は
このことがよく分かっている。
中沢新一もその一人だ。
彼によると、精神科医イグナシオ・マッテ・ブロンコは分裂症の研究を通じて、
無意識は、時間的継起がなく、部分が全体と同一となる
対称の論理を持つということを発見した。
それは科学や哲学が依拠してきた物事を分離する非対称の論理とは
まったく異なる動きをする。
彼はそれを複論理(バイロジック)と呼んでいる。
また、中沢は夢の語法が言語学で言う「隠喩」と「換喩」と同じ機構を持ち
複数のイメージを結合してひとつに「圧縮」したり、
同じ映像の別の部分にスライドする「置き換え」によって
展開されていることを取り出している。
詩人が生きるメタファーの世界や、神話的思考においても
独自の語法による。
こういう沈理をあらゆる分野からとりだし、収集して
命が生きている異世界の論理を統合していく作業が必要だ。
土方はその先駆者の一人であった。
「Xによる還元と再生」は彼が相当の深さで
それをつかんでいたことを示している。
命の世界にからだごと入っていく舞踏家はみな
独自の探求を進めることができる特異な位置で生きている。
ただ、舞踏家はおしなべて言葉が苦手だ。
うまくしゃべれないから踊る以外になかったという人が多い。
だが、探求を続けてほしい。
探求して発見したものを書いてほしい。

コツはひとつある。
日常会話をしないことだ。
するとからだに聴いたことを書くしかなくなる。
わたしはヒマラヤに来てまったく日常会話をやめた。
すると長年閉じていた書く世界が開いてきた。
踊れておしゃべりでかつ書くこともできる人などいない。
何かを止めねばならないのだ



2009年6月12日

パフォーマンスからリゾナンスへ

10年前の踊りのビデオをいくつか生徒に見せた。
いよいよ踊りを完成する段になってきたので音楽のまとい方のひとつの見本としてだ。
裸体で踊ることはわたしにとって必然だったが、
それらはすべてYouTubeからアカウントごと削除されている。
Google Videoにはまだ残っているかもしれないがチェックしていない。
だが、見ているうちに今の私が実現したいのは
もうこんな挑みかかるような踊りではないと自己違和を抱いた。
そして土方を1968年の「肉体の反乱」を最後に、衰弱体の探求に転じさせたものも
これに似た自己違和だったのかもしれないともふと思った。
あの頃はまるでたった一人で世界を相手に戦争をしているようなからだで踊っていた。
わたしのからだを通じて踊っていたのは若いころ政府を相手に戦って死んだ
20歳前後の友人たちだったから無理もないことだった。
わたしはただかれらに50歳のからだを差し出したのだ。
どうか気の済むまで踊ってくれ、と。
だが、その踊りを何年も続けているうちに踊れなくなった。
なぜ踊れなくなったのかよく分からなかった。
死者たちの気が済んだのだろうと思っていた。
毎夜のように夢枕に立っていた友人たちがさっぱり訪れなくなったからだ。
だが、踊れなくなった謎がかすかに透けて感じられた。
何かが違う。
このやりかたとは、何かが違う、とからだがかすかな違和を感じ始めたためだった。
だが、そのかすかな違和が何であるのか、うまくつかめなかった。
当時は近代の劇場の踊るものと見るものが一線で画された劇場のあり方に
問題があるのだと捉えていた。
だから、そういう劇場公演というシステムに囚われる必要のないヒマラヤで
新しい劇場のあり方を探ろうとしてきた。
だが、それでもまだ捉え方が浅かった。
劇場のありかたなどの問題ではなく
近代社会を覆っている自我という人間のありかたそのものに
より深く根ざしていたのだ。
そこから転覆していく必要がある。

10年前の気持ちを思い出しながらビデオを見ると、
当時の<パフォーマンスをする>という意気込みが今ではもう
自分でも喰えないほど、自我の臭みと力みにとらわれていたことに気づいた。
世界中の日常生活に安住している人々に、
ほかの生き方もあるのだということを伝えたいと意気込み
驚かせてやろうという自我の力みに囚われていた。
わたしは元から踊りを「パフォーミング・アート」だの身体表現だのという
西洋の言い方をそのまま取り入れた言い方に違和を感じていたが、
それでも<パフォーマンス>というものにとらわれていたのだ。
パフォーマンスといってしまうと駄目になるのは
それが無意識の自我という近代の人間の元型に囚われているからだ。
Performとは、Per(完全な)form(形にする)という語源からそうだが、
もとより自分をよりよく見せるとか、より強く完全なものとして見せたいという
自我のおろかさに骨の髄まで囚われてしまっている。

パフォーマンスという意識を通じて、いつのまにか私もこの囚われにやられていたのだ。
それが、あの何年か続いた疾風怒濤のような世界公演ツアー時代の自分に感じた
自己違和の正体だったことに今になって気づいた。

今朝、そう気づいたことを生徒に伝え、
今月予定している一人ひとりの踊りの日を、
パフォーマンスするという意識に囚われるのではなく、
生命共振の新しいありかたをみんなで実験する
<リゾナンス>という新しいに呼び替えようという提案をした。
8人の生徒がそれぞれのやり方で生命共振の実験をしてみようと。
パフォーマンスという言葉を使い続けているかぎり
その言葉にしみこんでいる自我表現から逃れられないからだ。

8人の生徒がどうそれを受け止めてくれたかはまだ分からない。
だが、今日始めて実験した何の取り決めもなく、
ただ8人の生徒が自我を止め、微細な共振によって
始まりから、場面の転換、そして終わり方まで踊りで決めていくという
あり方を8人の生徒はひたすら追求して、
どんどん新しい共振パターンが生み出されていった。
多様な群れにどんどん変形し、チャンスを見つければ
そこで誰かがサブボディソロを踊る。
それが出てくればほかの人はそれを支える共振パターンを見つける。
15年ほど前からいつか何とかして実現したいと夢見ていた、
それがまさしく目も前で実際に展開されていくのを目の当たりにした。
わたしにとって生まれてはじめて見る光景だった。
世界のどこでもこんなことが起こるのを見たことはない。
おそらく世界で始めて生み出された瞬間だった。
今年はこの実験をどこまでも深化していこう。
ただ、コーボディに重点が偏りすぎると
せっかく生まれかけているサブボディを流産してしまことになる。
湯水とともに赤子までということになってしまう惧れが伴う。
あくまでもサブボディとコーボディのバランスを
50%と50%に保って追求していかねばならない。
それが一番難しいのだが何とか見つけていくしかない。
いつも最大の可能性は最大の危険とぎりぎりに隣り合わせたがけっぷちにある。
このエッジこそが私たちが踊りを創造するまだない共振場なのだ。



2009年5月27日

イニシエイターと瞬間プロモーター

グループ即興の中に二つの役割がある。
どんどん面白い動きを率先して生み出していくイニシエイターと、
どこかに面白い動きを見つけたらそれにフォローして、
一人の動きを、二人三人の群れの動きに展開していくプロモーターのふたつだ。
このうちイニシエイターは踊りをするような人ならば誰にでもできる。
だが、グループ即興を、単なるダンサーとしてではなく、
全体の展開を読みつつ、もっとも面白い展開を引き起こすのは、
潔く自分を捨ててほかの動きを群れに増幅するプロモーターなのだ。

現代の人間は強く個性的であれという圧力を受けて育ってきたから、
ひとにフォローして動くことがとても苦手だ。
それをすると自分を見失ってしまうような不安に襲われるのだ。
だが、それは自身のなさの裏返しの表現である。
ほんとうは自分の独自性を出さねばというような囚われを捨て、
全体の序破急としてどんなダイナミックな展開が必要かが透明に見え、
絶妙の瞬間にほかの人と同じ動きをして群れを創り出せるプロモーターなのだ。
この素質を持った人は少ない。
いさぎよく自我を捨てる訓練など受けてきていないからだ。

共振塾のグループ即興もいよいよこの能力を育てる段階に来た。
生徒が囚われている自我をどうすれば潔く捨てることができるようになるのか。
大変だが、ここを突破せねば、ありきたりの自我の団子になるだけだ。
だが、自分独自のうごきという囚われを脱ぎ捨てることによって
新しい境地を開くことができる。
そのときとんでもなくすがすがしい風を味わえる。
選ばれてリゾームになることの不安と恍惚、ともにわれにあり、という風が吹くのだ。
リゾームは人間ではない。人間以後の後の時代を切り開く先駆なのだ。
それはなかなか言葉で伝えられるものではない。
即興の中でどんどん面白い動きを自分で繰り出しつつ、
ここぞという瞬間に、群れに転じる瞬間の変わり身が必要だからだ。
その瞬間に指示すれば可能なのだが、
生徒が踊っているときに、「今だ!」と大声を出したくはない。
これは私の鉄則のようなものだ。
以心伝心で伝えたい。
だが一体どうすればそれが可能になるのか?



2009年5月14日

 

主体なき共振

 

ブラジルの生徒から、クオリアとは何か、

リゾームとは、フランスのドゥルーズのいうリゾームとどういう関係があるのか?

という突っ込んだ質問があった。

英語版のサイトではまだ、クオリア論を掲載していなかったので

少しずつ書き始めた。

そのために日本語版のクオリア論を読み返しているが、

これまでの私の書いたものは、

まだまだひどく言葉が持つ二元論の魔に囚われていて

主語述語という制約から逃れきることができていないことに気づいた。

 

日本語版のクオリア論では、

クオリアとは人間だけではなくあらゆる生命が感じるものなので、

<咸じる>ものだ、という世阿弥にならった書き方で言い表そうとしているが、

これでもまだ、主語述語の魔に囚われていることが歴然だ。

クオリアとは生命と世界の間の共振そのものなのだ。

共振には主体も客体もない。

ただ、どちらからともなく起こるものだ。

そのことを主語述語構造に囚われた言語で言い表すことは不可能に近い。

主語述語のない共振言語はまだ発明されていない。

私が生きている間になど見出せそうもないほど、果てしなく難しい課題だ。

 

これまでに書いたクオリア論も共振論も、生命論も

すべて共振言語で書き直さなければならない。

生命という主体が重力や光を<感じる>のではない。

重力も光も向こうからやってくるものだ。

生命はただそれに受動的に共振させられているだけだ。

いや共振は受動でも能動でもない。

どちらからともなく、ただ起こるものだ。

それを人間の言葉では感じるとか、見るとかという

主体幻想に囚われた言い方になってしまう。

感じるから、心をとって、<咸じる>という言い方で

主体なき共振を表そうとしているのだと、

いまのところは大目にみてそう受け取ってほしい。

私が共鳴や共感という言葉ではなく、無機的な共振という言葉を使うのも、

心ではなくからだで勝手に起こっていることだというニュアンスを伝えたいからだ。

私にとって長い間の謎だった<気>の本質も生命共振であることを私は発見した。

その意味では<クオリア>は<気>という伝統用語に限りなく近いが、

<気>ということばを使わないようにしているのも、

気を出すとか、気を使うといういいかたで、主体幻想に囚われてしまうからだ。

ただ生命は共振を<咸じる>力がある。

いや、そういってもだめだ。

生命はただ共振している存在なのだ。

これはいくら言葉で言おうとしても言うことができないことだ。

言おうとするときすでにもう、心が動いて主体になってしまうからだ。

やはり、これは言葉ではなく、

踊りのなかで心も主体もない衰弱体になるしかないのだろう。



 


2009年5月4日

アニマ、アニムスからいかに自由になるか

私にとって、これが人生最後の問題だと長い間思ってきた。
私をもっとも抵抗不能な力で翻弄し続けてきた相手だからだ。
それが今朝、かつて付き合ったことのある女性が関係不能症になっていて、
その理由が彼女がアニムスに囚われていることを自覚できないからだ、という夢を見た。
その夢を寝床で思い出しているうちに、これまでの自分や私の関係の相手が
どんなふうにそれぞれのアニマ、アニムスに囚われていたかがいきなり透明に見え出した。
腰が抜けるほど驚いた。
人生最後の問題だと思っていたのに、それが解け出してきたからだ。
そうだ、そうだったのか。
関係がうまくいかないときはいつもどちらかのアニマ、アニムスが
実際の関係の中に割り込んできていたのだ。
私はことごとくの愛の失敗者だった。
その原因は、アニマ、アニムスが関係に割り込んできていることを
透明に見透かすことができず、ただそれに振り回されてしまっていたからだ、
ということにいきなり気づいてしまった。

それも、朝のほんの十数分のうちにすべての関係へのアニマ・アニムスの割り込み構造が
ほとんどすべて透き通って見えたのだ。
次のごとくだ。

だが、その前にユングが発見したアニマ、アニムスとは何かを手短かに紹介しておこう。
私自身長い間誤解していたし、実際、とても複雑なものなので、
誤解は必須だといっていいほどだからだ。

アニマとは、男性の中にひそむ女性的な要素であり、
アニムスは女性が秘め持つ男性的な側面である。
まず、この第一の定義をはずさないことが重要だ。
そののち、この秘められた異性的な側面が、幻想の中で理想の異性像に育っていく。
人の魂は生涯、理想の女性像を求めて、幻想の中をさまよい続けている。
アニマゆらぎと私は呼んでいる。
私にとってもっとも深い、人生の慰楽だ。
たとえ、現実に誰かと関係していても、たえずこのアニマを探してゆらぎ続ける幻想過程も休むことなく働いている。
そのため、この幻想の中の異性像が、現実の関係の中にしばしば強引に割り込んでくる。
そのプロセスはすべて無意識裡に進むため、最初は何が起こっているのか、なかなか気づけない。
それを解くには、フロイド、ユング、ミンデル、その他が取り組み発見した
転移、投影、ドリーム・アップなどの複合的な対人関係現象を探求しなければならない。
クオリアは常に時を越えて共振している。
アニマ像もまたクオリアだから、現実と幻想の二重性の中で震え続けているのだ。
転移や投影は、病的な現象でも特別のものでもなんでもない。
クオリアの現幻二重性非空非時性はクオリアにとっては自然な生理のようなものだ。
だが、それを透明に見透かせないと、とんでもない囚われに陥る。

アニマ、アニムスは、自分の中の異性的側面だと書いた。
同時に理想の異性像であるとも書いた。
それはどのように生成してくるのか。
それは実に多様な共振の中で生まれてくるが、
もっとも大きな要素は、最初の異性である、父あるい母との関係である。
だが、直接の関係だけではない。
むしろ現実ではない幻想過程のほうが重要な要素をしめる。
不在の父や母との関係といってもよい。
ここでいう幻想とは、現実の諸経験の中で生命が感じるクオリアのことを指している。
生命の感じるクオリアは、現実の三次元空間や四次元時空ではなく、
非二元・多次元の高次元異世界で生成している。
このこともまた、きっちり押さえて置かなければならない。
私がアニマ・アニムスを解くのにこんなに60年もの時間がかかったのは、
この非二元多時空世界の論理を見つけるのにことのほか手間取ったことによる。

人はみな、自分の両親について多様な像を持っている。
実際の母親父親についての記憶はすべて、彼らに関する幻想的なイメージと共振している。
いいお母さん像、いいお父さん像、通常母親イマーゴ、父親イマーゴと呼ばれるものだ。
そして、その反面、悪いお母さん像、悪いお父さん像ももつ。
アンチ母親イマーゴ、アンチ父親イマーゴと呼ぶこともできる。
だが、実際のイマーゴは、肯定的なイマーゴとアンチイマーゴとが混合一体化したものである。

たとえば、私のアニマ像は、一見母親とはまったく別の、透明な少女像としてやってくる。
それは成熟した女性であった母親を憎み、否定して生成したアンチ母親イマーゴである。
だが、同時に、母親をより理想化した諸要素をももつ。
理想化とは現実の母親に対する肯定であると同時に否定でもある。
イマーゴは否定かつ肯定という両義性を持つ。
というより、否定だの肯定だのという二項論理を使っていては
クオリアについていはなにも捉えられない。
実際には肯定でも否定でもなくそれらの混合クオリアが非二元・多次元の中で共振し、変容流動している。
ただ、言葉はすべて二元論に囚われたものなので、とりあえず、
無理を承知で二項論理言語を使っていることをご承知いただきたい。

アニマ、アニムスはこの理想の父母のイマーゴと、それを反面教師とした
アンチ父母イマーゴの両方との共振のなかで生み出される。
ここが、実に奇怪なほど複雑で、見落としやすいが、かならずその両義性をもつ。
というより、イマーゴ自身が現実の母親父親ではない、幻想のものなので、
現実の父母に対しては、かならず、現実の父母に対する否定の要素を含むものだ。
クオリアの世界は、肯定と否定が混合し同一化している非二元世界である。
イマーゴは、現実の父母に対する過剰な肯定と否定の混合の産物なのだ。
先に書いた非二元多時空世界では、二元論的な低次元論理はまったく通用しない。
それを適用とすればかならず、捉えそこなう。
むしろ、部分即全体、肯定イコール否定、自他一如、心身未分化、といった
日常界ではとんでもない非論理とされるものが、そこではより的確な論理である。
二元論的なツリー論理に対し、非二元・多次元のリゾーム論理の使い手にならなければならない。

そして、これらのイマーゴやそのほかの要素からくる女性像・男性像が、
時に触れ、実際に関係している異性との現実的関係の中に無意識裡に割り込んでくる。
これが転移や投影、ドリームアップだ。

男女が自分の関係相手に、無意識裡に自分のアニマあるいはアニムス像を投影し、
相手がそれに即応してくれないと、相手に失望したり、腹が立って非難したりする。
女性にとってのアニムスは、ユングが解明したように、
その女性が女性としてもっている感情的感覚的側面とは正反対の
男性的、論理的な側面として出現する。
女性が付き合っている男をいわゆる正論的論理で非難するのは、
彼女がアニムスに囚われているときである。

たとえば、私はある女性と長年付き合って、結婚してもいいと思うようになっていた。
だが、いよいよの段になって、女性は彼女が理想の男性的あり方と考えている
結婚の手順を踏むように私に迫った。
自分の結婚の相手は、それまで彼女を守り育てた父親に対し、正々堂々と
「娘さんをいただきたい」と申し込み、彼女を父親に庇護される存在から、
結婚相手の男性に庇護される存在へと連れ去ってくれるものでなければならないと考えていたのだ。
それが彼女の理想のアニムス像だった。
今の日本ではごくごく普通の結婚観であるかもしれない。
だが、わたしはそういう男性像は彼女の生きた心ではなく彼女が囚われている既成の価値観に他ならないと感じた。
そういう白馬に乗った王子様のようなアニムスに連れ去られることによって人生が展開すると考えるのは、
古臭いアニムスに囚われた女性像だ、それから脱皮してほしいと願った。
そのとき私は、常にこの社会の規範に恐れず立ち向かい、自分が信じる新しい女性像を創造しようと生きた
(と私が理想化している)母親イマーゴと共振しているアニマ像を彼女に投影し、
それにふさわしくないと失望してしまったのだ。
まさしく、現実の関係に、互いのアニムス、アニマ像が強引に割り込んできて関係を破壊しにかかったのだった。 
関係の相手である私に対し彼女のアニムスである王子様役やパーフェクトな指導者像を押し付け、
それに応じられないと見るや「人間失格」というような言葉さえ使って相手をなじり始めた。
それに私のアニマ像が反発し、亀裂がますます広がった。
関係の主役が彼女と私ではなく、アニムスとアニマにすり替わって格闘していた。
今だからこう言えるが、そのとき私はそういうアニマ、アニムス過程が割り込んできて
現実の関係を邪魔しているのだということにまったく気がつかなかった。
もしそれに気づいていれば、何とかすることができたのかもしれない。
だが、気づいたのはそれからずっと時間が経ってからだ。
そのときはただ、互いのアニマ、アニムスが暴威を振るうがままに翻弄され、なんとなくそぐわなくなって、
当然のことながら、その結婚話は頓挫した。

また別の女性との場合。
そのひとは普段は感情的に豊かな人だったが、
ときおり、彼女が感じるこの世の不正・不条理と闘う理想像を私に求め、
私が応じられないと人が変わったように頑固になり腹を立てた。
彼女はラジカル・フェミニストの論理にとりつかれて鬼のように私を責めはじめた。
この世にポルノが存在するのは女性を商品化する悪だ。
お前はなぜ、この世からポルノを撤廃する闘いをしないのかと、私をなじり続けた。
そのときも、わたしは彼女が自分の理想とするアニムスにとりつかれて、
それに即応しない私に対して腹を立てているのだということを、透明に見透かせなかった。
私は最初は彼女の言うことは何でも受け入れようと、サンドバッグ役を買って出て、
殴られるにまかせたが、いつまでもただサンドバッグとして殴られ続けるのに疲れていった。
そして、この世にポルノが存在するのはおれの責任ではない、
おれはポルノを撤廃するためにこの世に生まれてきたのでもない。もっとやりたいことがほかにいっぱいあると、
彼女のアニムスの論理に論理で対抗してずいぶん論議した。
だが、女性の中のアニムスの論理は、ただ正論だと強く信じられているので、議論などでは揺るぐものではない。
とうとう、彼女のアニムスとの味気ない論議に疲れた私は、別れるほかなかった。
そのときも、私は私で、彼女に投影していた透明な少女像という私のアニマ像が、
期待を裏切られ、失望するという、プロセスを踏んでいたのだ。
二重のアニマ、アニムスの投影合戦になってもつれてしまえば関係は崩壊するしかない。
もし、二人で互いの投影を透明に見透かし、それから解放されることができなければ、だ。
だが、そんなことが歳若い私たちにできるわけもなかった。
上に書いたプロセスは、それ以後何十年もたってからはじめて見えてきたことなのだ。

私があまりに深くアニマ像の囚われから、脱け出せなかったのは、
私の場合、母はひとりではなく、母親イマーゴが実母と祖母とに分裂していたことにもよる。
3歳で母との原初的一体世界から引き剥がされて祖母のもとで暮らし、
7歳以降、それまで暮らしていた祖母との世界から無理やり引き離された少年期の私は、
祖母こそが本当の母で、実母はニセの母であると感受していたところがある。
長い間母を憎んでいた。いや、愛しているのだか憎んでいるのだか自分でもよく分からなかった。
愛と憎しみがひとつになったやりきれないこんがらがりの中に囚われていた。 
母親イマーゴも、母のイマーゴと、祖母のイマーゴに分裂、交錯しながら生成している。
アニマ像にも、母親イマーゴと、祖母のイマーゴが混在して、あまりに深い不透明さに閉ざされていた。
現実に結んだ女性との関係の中に、それらがどう割り込んできていたかも、なかなか簡単には解明できなかった。
だからこそ、生涯をかけてその深い霧を晴らしたいと希求するようになったのかもしれない。

私のアニマは、女性にグレートマザーのような圧倒的に強力な不変の愛を求め、
それに愛され食べられてしまってもいいという側面と、
それと正反対の純粋無垢かつ未成熟な処女的透明性を求めているという両義性を持つ。
その両義を満たす存在などありえないのに、それを求めつづけ、
それを満たさなければ関係の相手として失格していると受け付けられないという無茶苦茶なものだ。
その不可能性の闇こそロリというもっとも昏いアニマの正体だ。

昔に比べれば少しは霧は晴れた。
いままで見透かせなかったアニマの割り込みがずいぶん見えてきた。
それだけでも大きな前進なのだが、晴れればいっそう暗くなるのがからだの闇だ。 
アニマは幻想的なクオリアだけではなく、からだのプロセスと密接にかかわっている。
アニマ酔いが私にとってのもっとも魅惑的な悦楽であるという囚われを解くにはそこまで降りなければならない。
アニマ幻想のクオリア性と、性欲やつながり欲、そしてそれを規定するホルモンや神経伝達物質の傾性といった
深く身体内部で進行しているフィジカルな過程との相互作用として総合的に解かなければ解いたことにはならない。
また、踊りのなかでそれらをどう創造に生かせるのかも大きな実践的問題だ。
もともと、今朝の夢は、数日前、長年実現したいと思っている透明デュエット
(既成の男女元型や恋愛典型などに囚われない生命のデュエット)の創造技法を発見したのだが、
その中で、アニマ・アニムス問題を解かねば、これ以上深められないという課題にぶつかった。
これに対して、サブボディさんが取り組みを進めてくれたのが今朝の夢に出てきたものだ。
これらについては、もう少し準備が整ってから稿を改めて書くことにしよう。

(この記事は、多重日記とからだの闇の双方にまたがるので、
両方に載せています)


2009年5月2日

からだの底という特異点

自分のサブボディにとって、最も落ち着けるひとつのからだの形を創造する。
ボトムボディ(からだの底)と呼んでいる。
いつでもそこに帰ってくれば自分に帰れる、ふるさとの家のようなものだ。
自分に帰れる場所を見つけるのは大切だ。
そこに帰れば自分を見失わずにすむからだ。
ひとつそれを見つければ、そこから無数のサブボディが飛び立ち、
そして帰ってくることができる場所が生まれる。
多次元を変形流動しているカオスのようなからだの闇の中に、
創造の発生するひとつの特異点が生まれる。

脱力呼吸や、体底呼吸で、
からだ中からテンション(緊張)やインテンション(意図)を脱く。
一呼吸ごとに少しずつからだが溶け落ちていく。
床に下りたら、自由に転がり、最も落ちるける姿勢を探す。
ひとつ見つかればそれをとりあえず今日のボトムボディとして、
そこからからだの各部に聴く。
今日はなにが一番したいかい?
あるいは、どう動き出したいかい?
勝手に動き出せばそれに従う。
何も起こらなければ、秘肌、秘筋、秘関、秘腔などを順に意識して
どんなかすかな傾向が出てくるか耳を澄ます。
出てきた動きに、全脳心身で乗り込み、サブボディになりこむ。
ひとつの動きが終わればもとのボトムボディの形に戻る。
そして次の動きに従う。

「とりあえずの今日のボトムボディ」、と書いた。
そのとりあえずのボトムから、真のボトムに至る坑道を掘るのが次の段階だ。
何回も試行錯誤を繰り返していくうちに、
そのからだのかたちが自分のサブボディにとって必然な、
世界でただひとつのかけがえのないユニークなものに彫琢する。
これからが本当の創造になる。
からだの闇を掘り、そのボトムボディと、それまでに見つけた
原生体や異貌体などその他のサブボディとの関係を探る。
もっとも落ち着け、自分に帰ることのできるからだの底からは、
そこからほかのサブボディに自在に変幻していける細い坑道が通っている。
その変容の道筋を掘る。
本当にきみのサブボディにとって自分自身であるような、かけがえのない体を彫り上げる。
それが見つかればそこで心底から一休みして、また次の創造が生まれてくる。
自分の場所とはそういう特異点のような場所だ。
そここそ、とんでもない創造の泉なのだ。
面白いように次から次へと新しいサブボディが生まれ出てくるのがボトムボディの特徴だ。
それを見つければ、一生の友となるがいい。
それはきみにとっての創造の尽きせぬ泉なのだ。



拳骨礫岩との出会い

わたしにとって最初に見つかったからだの底は、石となづけた上の姿勢だ。
このからだに出会うことで、わたしの一生が決まったといっていいほどだ。
世界中のどこにも類例を見たことがなかった。
この姿勢から無数のサブボディが生まれ、かつここに帰ってきた。
振り付けと即興を合わせると、数十種類を超える踊りがここから生まれた。
なぜこの姿勢がわたしにとっての底になったのか。
わたしは小さいころ「内弁慶の外ネズミ」と祖父母に冷やかされつづけた。
それほど引っ込み思案で臆病な子供だったのだ。
3歳で母から捨てられ、安心できる最初の世界を失い、祖母の下で恐る恐る暮らしていた私にとって
外界は何が襲ってくるか知れないまるで異界だった。
わたしにとって最も親近感を抱いた生き物は海岸の岩穴に棲む
穴居動物といわれる種類の小動物だった。
からだ自体を固い岩や殻で殻で包み、入り口の穴から臆病な触手を恐る恐る伸ばす。
少しでも危険を感じるとさっと引っ込む。
ツリガネムシやラッパムシなどの触手も同じタイミングで縮む。
おそらくわたしはそれらの生き物になりこむことではじめて安心して自分だと感じることができた。
ラッパムシやミジンコになりこむ踊りをいくつも創った。
1997年の夏、東京で米井澄江さんが開いていた「夏季舞踊大学」という
ダンスワークショップの催しで親友のデビッド・ザンブラーノが私の大好きな
フライング・ローテクニックのクラスを開くので、2週間東京に滞在した。
その期間中、宿の近くを散歩していたとき、日本岩石公園という奇妙な庭を見つけた。
日本中から集めてきた奇岩怪石を配置している庭だった。
幼いころから鉱物岩石採集が大好きだった私は、一も二もなく飛び込んだ。
そして、運命の石に出会ったのだ。
拳骨礫岩と名づけた、こぶし上の礫が飛び出ている大きな礫岩だった。
九州のどこかの地から取り寄せたと記してあった。
あくる日から私はその拳骨礫岩になり込んだ。
それに成りこむとなにものから襲われても安心だ。
そこからはラッパムシも、クラゲも、拳骨も、火花も、獣も、アラジンの怪物も何でも飛び出すことができた。
そうだ、私は同時にその穴居動物である自分から脱け出たいとも非望していたのだ。
ついに自分のあらゆる要素が詰まったボトムボディに出会ったわたしは、
嬉々としてその無数に生まれてくる造形に取り組んだ。
とりわけ、その臆病な礫岩から、
フライングロー・テクニックでからだごと獣になって飛び出す対比が面白くてたまらなかった。
転がる拳骨礫岩からいきなり獣に変身してザンブラーノに飛び掛ると、心底驚いて面白がってくれた。
しかも、世界に類例のないたったひとつの形になりこむことができたので
個性化という点でも申し分なかった。
自信と自負を併せ持つことができたのだ。
最初のソロである「伝染熱」でも、この石に固まった姿勢から躍り出る踊りが生まれた。
その創造の成果を世界の人と分かち合うことに意義があると
名もない私が恐れを知らず世界ツアーを敢行する自信を持つことができたのも
この石と出会ったことによるとさえいえるかもしれない。
それほどボトムボディが重大な役割を果たしていたことに最近まで気づけなかった。
伝染熱を踊ってからもう十年以上になる。
気づきというのは哲学と一緒で、日が暮れてから飛び立つミネルバのふくろうなのだ。

ボトムボディのことをはじめは、静寂体と呼んでいた。
とにかく静寂になることができなければ、何も始まらないというのが、
からだの闇を掘りはじめて私の最初の発見だった。
忙しい意識に占領されて意識の領土になりさがっているからだから
忙しい日常意識を追い出して、からだそのものになること、と言い換えてもいい。
そうなってはじめてからだに耳を澄ますことができるようになる。

静寂体としてのボトムボディがみつかると、
そこからどんなチャンネルが開いてどんなサブシグナルをみつけて、
それに従うとどんなサブボディが出てくるか。
それらすべてのことが透明に見えてくる。
普段は無意識なままチャンネルが切り替わっているが、
その日常体の状態から、今どんなチャンネルが開いているか、
が自分で見えて、それをチェックすることができるようになる。
チャンネルに分化しているのは意識的な日常体の状態の特徴で、
ときには、日常体の八つの主要なチャンネル以外の秘肌などのチャンネルに分化していない
未分化な非二元の闇からサブボディがでてくるときもある。
そういうときはとりわけ調子がいいときだ。
日によってどんなチャンネルが開き、どのチャンネルが閉じているか、
つねに透明に見透かしていること。
それでサブボディの調子が分かるからだ。
私の経験では、未分化な秘肌の創造力が全開しているときがもっとも調子がいい。
命は未分化なからだの闇の住人だからだ。
ついで、できるだけ多くのチャンネルがつぎつぎと開くことができるときだ。
そういうときは生命まるごとの深いところから出てくる踊りを踊ることができる。
自分の生命とサブボディ・コーボディの調子をつねに透明に把握していること。
これが透明体になるための欠かせぬ修練だ。

この記事は、数日前に共振塾ジャーナルに書いた「からだの底を見つける」という記事を
もっと実際的に生徒の役に立つように書き直した。
どうすれば各自にとって本当に必然的な創造が起こるのか、そればかりを追求している。
それまでは今日ここに書いたようなことは私自身の特殊な体験だろうと、
独り決めして伝えることを控えていた。 
だが、毎日生徒のサブボディに成りこんでいると、私自身の拳骨礫岩との出会いを伝えることが、
彼らのサブボディがいままさに求めていることに役立つと、今日はじめて気づいた。
特殊の中に、普遍的な可能性が潜んでいることがあるのだ。


2009年5月1日

 

からだの闇の創造の加速

 

わたしのからだの闇には一匹のスピード狂が棲んでいる。

今月に入ってから、毎日夜明けにサブボディさんから新しい練習方法の教示を受ける。

毎日毎日これまでにしたこともない練習方法が次から次へと編み出されてくる。

毎日の練習では消化しきれなくて、もう来月から来期へ、

今年いっぱいの練習計画が立て込んで飽和状態になっている。

こんなことははじめてだ。

しかもその速度がますます加速されてきている。

紫式部が源氏物語54帖を次々と書き進めていったときも

こなふうな加速の快感を味わっていたのではないかと思う。

バッハやモーツアルトのからだから次から次へと新しい楽曲が

生み出されてきたのもこんなかんじだったろうと実感する。

創造が加速されていくときの快感は何物にも代えがたい。

これはいったいなんだろうと、自問する暇もない。

わたしは中距離ランナーだったから、今の加速感は

第二コーナーから第三コーナーにかけての長い直線の

気持ちいい疾走感にそっくりだ。

第四コーナーを回ってからの死に物狂いの加速とは違う。

それが一番止められないのだが、いまはもうしたくない。

それに足をすくわれっぱなしだったからだ。

スキーの直滑降の加速感に奪われてなんどこぶでぶっ飛ばされたことか。

トライアスロンのランやバイクでも、

いつも体重を利用して無理して下りで若い選手を追い抜いた。

足首を痛めたり、路壁にぶつかって肋骨を折るまで止まらなかった。

でも、第二コーナーからの疾走感は無理に加速するのではない。

自分ではなくひとりでに加速され疾走がつづく。

創造の加速には体力も努力もまったく要らない。

サブボディさんにまかせっきりだからだ。

これがいつまでも続いて、このひとっ走りで人生が終わってもそれでよい感じる。

願わくは、この創造の加速がどうした起こるのか、

いまはまだ透明に見透かすことができないが、

その仕組みを見抜いて若い人に伝えたいと思う。

こんな楽なことはないからだ。



2009年4月17日

自我の止め方

サブボディの創造性をフルに発揮するためには、
自我(エゴ)や超自我(スーパーエゴ)を最低限まで鎮める必要がある。
世の中の人が創造できないのは、自我の止め方を知らないからだ。
自我や超自我ほど創造の障害になるものはない。
かれらは二元論的判断という幻想に囚われているからだ。
あれはよい、これは悪いというような判断をしている限り創造などできない。
自我や超自我を鎮めるには、
まず、かれらがどういう現われをしてくるかを知り尽くさねばならない。
日常の中で人は無意識裡に自我や超自我に囚われてしまっているが、
相手を知らずにそれを制御することはできないからだ。
自我や超自我がどのような形で現れてくるか、
そのあらましを述べよう。
誰でも気づくはずのことばかりだ。


自我の現われ

自我はおおむね次のようなかたちで現れる。
それに気づいたら、ただちに挨拶して別れる。
「よう、君のことはよく知っているよ。
(日常生活には大事な存在だからね)。
だが今じゃない。また後であおう。」
今は創造のときなのだ。そこでは自我は邪魔者でしかない。
それを自我にきぱり言い聞かさねばならない。
最初はもちろん自我は抵抗するが、
上の挨拶を繰り返していると次第に分かってくれるようになる。


1.領土保全者

自我はいつも「ここは私の領域だ」というような領土化を行っている。
自分の安全圏を確保したいという衝動に突き動かされている。

2.私的所有者

自我は「これは私のものだ」という私的所有の衝動に染み付かれている。
1や2は私たちが私有財産制の資本制社会に生まれ育ったことに規定されている。
だが、それだけが人間のあり方ではないのだ。

3.自己正当化

自我はいつも自己を正当化し続けている。
「俺は間違っていない」という自己確認抜きに自信をもって生きられない。

4.物語作者

そのために自我はいつも自分の物語を作り続けている。
自分で作った物語を信じている限り、自分はいつも正しい自分でいることができる。
たとえそれが自分のでっち上げる言い訳に過ぎないとしても、
自我はそんなことに気づかない。
気づいた途端に自分を支えることができなくなるから
そんな馬鹿なことは決してしないのだ。

5.いい人のふり

自我はいつも装っている。
自分をよく見せることに忙しい。
そのためにも自分で作り上げる物語をまず真っ先に自分が信じる必要がある。

6.皮肉な観察屋

自我が人を見るときはいつもあらを探す。
他人が信じている自我物語の幻想が剥げ落ちていないかを見張っている。
他人の物語の破綻を見逃さない周到なまなざしだけが
自分のつむぎだす物語を破綻から救うからだ。

7.情態性

自我はいつも無意識裡に体の具合やそこから立ち上る情動に規定されている。
だが、自分ではそのことになかなか気づかない。
自我の行いはすべてこの無意識の情態性に促されたものだ。
その促しはごくごくかすかなシグナルしかもたらさないので
日常意識のままではなかなか気づけない。
自我意識をとめてはじめて
自我とからだや情動との無意識のつながりが透明に見えてくる。

超自我の現われ方

自我はまだしもかわいい。超自我の容赦ない否定に比べればだ。

8.検察官

検事か判事のような判断者というのが、超自我の最大の特徴だ。
狭い二元論的判断を振り回して、
白黒をすべて自分で決めようとする。
自分はいつも正義に属すると信じている検事ほどたちの悪い存在はない。
だが、誰の中にも検事や判事が生きている。
いったい彼らはどこからどのようにしてわたしたちの中に忍び込んだのか。
(それを解き明かさない限り、まだまだ死ねないことに気づかされた。
もうやりたいことはすべてやっているのだからいつでも死ねると思っていたが、
早とちりだったかもしれない。
人生でもっともいやな課題がこんなところに残っていやがった。)

9.批評家

皮肉で冷笑的な批評ばかりをする超自我もいる。
いつも否定的な批評で、新しい試みにけちをつけ
すべてを台無しにしようとする。
新しい変革に臆病な、もっとも保守的な否定者だ。

10.正義漢

検察官や判事のなれの果てが、正義漢だ。
いまどき男にはめっきり少なくなったが、
逆に女性のアニムスに取り付いているケースにはしばしば出くわす。
というより誰の中にもこの正義漢は生きながらえているのだ。
私も生涯自分の中の正義漢面するやつと闘ってきたが、息の根を止めることはできていない。
とくに自分がアニムスに侵されていることに気づいていない
フェニミズムの女性はこの正義漢という超自我にやすやすと食われてしまっている。
正義というアニムスと結びつくことは性的にも快感なので
ひとたびやられると逃れられなくなるのは、
男性がアニマのとりこになる場合と同じだ。
だが、無意識だからどのフェニミストの女性も、
アニマのとりこの男性もそれに気づくことができない。
私のとっても最大の難関だ。

11.グレートマザー

グレートマザーは元型の一種だが、超自我としても現れてくる。
超自我はすべて元型でもあって、両者の明確な区別は存在しない。
グレートマザーはすべてを愛し、すべてを喰いつくす。
愛と所有欲の区別がつかない。
自分の愛する子供はすべて自分の自由になる持ち物だと考えている。

12.老婆心

老婆心は日本のような母系性社会に特徴的な超自我かも知れない。
老婆の前では誰もが未熟な子供になってしまう。
だが、どんな社会にも、過剰な用心を強調して
新しい冒険を押しとどめようとする傾向は存在する。

10,11,12はアニマ、アニムスの元型とも密接に関連していて、
単純な超自我という視点だけでは解くことができない。
この超複雑な問題群は、多次元共振理論を深めることと同時に取り組んでいくしかない。
だが、私にそんな時間が残されているのかどうかは分からない。
アニマ、アニムスをめぐる謎はどうやら私の死後に残るに違いなかろう。
でも、少しでもこの問題に真正面から取り組めるのは幸せだ。


自我や超自我の特徴は、否定にある。
自我も超自我も否定することが本能になっている。
超自我は超絶した力で上から否定し、
自我は他者との水平的な対立の中で否定する。
立場や格の違いがあるだけだ。

超自我は常に正義や道徳、倫理、真善美などの、共同幻想をまとって現れる。
自我に浸潤した時代社会の共同幻想が超自我の正体だ。
超自我は、自我以上に創造の仇敵である。
社会生活にも、何のためにもならない。
自我と同様に、超自我を鎮め、止めることは、
創造性を発揮して生きるためにも、
これからの社会を少しでも住みよくするためにも、
なにより必要なことである。

自我や超自我の止め方

自我や超自我の現われに気づくことができる
静かな状態で毎日を過ごすことがまず大切である。
人と言葉を使って話している限り、自我や超自我は
無意識裡に立ち上がってくる。
話すことを止めることが大事だ。
そして自分のからだの闇の微細な変化に絶えず気づくことができる
透明な心身状態を保つこと。
そうすると、自我や超自我が現れてくる瞬間に気づくことができる。
その瞬間に、上記の挨拶を自我や超自我に贈る。
「今じゃない、後で会おうね」
決して自我や超自我を頭ごなしに否定してはならない。
彼らをいきり立たせるだけの逆効果になる。
自我も超自我も自分の全体の中の必要な役割だという
相互的な尊敬が必要である。
自我を発揮することなしにだれも今の日常世界では生きていけない。
今の日常世界のあり方を変える事業もまた必須のものだが、
過渡的には歴史的な存在としての自我を肯定してやらねばならない。
自我よりも先に、超自我の息の根を止めることが先決だ。
言い切るのは無謀かもしれないが、
超自我の歴史的存在意義は終わったと思われるからだ。
だが、先走りたい逸る気持ちを抑えて
もう少し生徒とともにじっくり取り組んでいこう。




「からだの闇」をもっと読む


2009年4月11日

いかに自我を鎮めるか

3月コースが終わった。
昨日の月末公演は、9人の一人ずつのソロに、
誰かが共振して入っていく透明デュエット劇場にした。
延々3時間にも渡る長いものになった。
終わって月末の夕食を生徒とともにした後、
直ちに半眠半覚の眠りに入って、
ひつつひとつの共振デュエットをじっくり味わいなおす。
この時間が毎月一番の楽しみだ。
味わっていると、意識の目には見えなかった小さな気づきがこみ上げてくる。
生命の透明なまなざしには、鎮まりきっていない自我が不透明に浮き出して映る。
元型や思い込みに囚われていればそれもくっきり浮き出る。
これら不透明なものを、どう来月の授業で乗り越えていくか。
一晩眠っている間にサブボディさんはちゃんと答えを用意して
目覚めるなりの私に届けてくれた。

端的に自我を制御する練習を取り入れてもいいのだ。
いままでのわたしは生徒の自我に遠慮しすぎていた。
自我が押さえつけられる苦しみをいやというほど知っているからだ。
だが、もっとっ遠くまで行くためには、自我をすっかり止めることが必要なのだ。
私たちは信仰や自己犠牲のために自我を止めるのではない。
創造のために自我を止め、命になりこむのだ。

そのためにサブボディさんが見つけたのは、
今までもやってきた三人灰柱歩行を、
自我の制御に生かすというものだった。
なるほど、そういう生かし方もあったんだねぇ、と私はうなった。
覚醒した意識ではどうしてもこういう発想の飛躍が起こりにくい。
境界を越えた独創や発見は、
二元論的境界のないクリア流動の世界の住人であるサブボディさんの独檀場だ。
サブボディさんの発見した練習法は以下のとおりだ。


無数のサブボディを引き連れて歩く


灰柱の歩行で歩く。前に一人小さな寸法のサブボディさんが歩いている。
日常サイズの自分が小さなさなサブボディさんのからだの糸を吊り下げている。
自分の背後にもうひとり巨大な自分が歩いている。
私のからだはその人のもつ糸で吊り下げられている。

――これは自我を捨てて後ろの自分に任せる訓練だったのだ。
先月の原生体に続き、今月は自分の体の闇に潜む異貌の自分に出会い踊る。
異貌の自己とは、小さな時期に生まれたが、この世では生存を許されず、
やむなくからだの闇深く沈みこんだくぐもれる自分の分身だ。
ユングは影と呼び、劣等人格とも名づけた。
サリヴァンはノットミーと呼んだ。
ミンデルは第二プロセスと呼んでいる。
解離された人格群も、その一員だ。
私は彼らを総合して、異貌体、英語でヒドゥンボディと呼ぶ。
かれらはからだとひとつだからだ。
からだの秘関や秘腔に棲み続け
隙を見てはからだとひとつになって躍り出てくる。
小さいとはいえ、彼らの小さな自我は長年閉じ込められているうちに
巨大なエネルギーを蓄えている。
隙を見ては突然アラジンの壷にすむ怪人のように躍り出てくる。
その爆発的な速度は意識などでは追いつけない。
彼らを踊るにはそれに全身全霊で成りこみ、
内側から彼らの自我と格闘しながら、
からだを張って制御するしかない。
かれらが長年からだの闇の隙間に押し込められていた悔しさを
分かってやり、心から共振出来なければ一緒に踊ることなどできない。
食い殺されてしまうのが落ちだ。
異貌体を踊るのは命がけの闘いになる。
三月いっぱいを、もっと穏やかな原生体に成りこむ練習を経たのち、
やっと今になって取り組むことができるのはそのためだ。
もっと強烈なアニマやアニムスの元型と取り組むことができるのは
もっともっと後になってからだ。

かれらの小さな自我を制御することを学んでいるうち、
じつは今の日常体の自我も、もっと大きな自分、ユングが<自己(セルフ)>と呼んだ
自分の全体によって制御することができることを知る。
自己になりこむことを通じて、自我の制御法を学ぶのだ。

その自己もまた、より巨大な40億歳の生命によって制御され守られている。
ホメオスタシスという恒常性を保つ生命の叡智や
自己治癒力などの原生力をどの細胞生命も持っている。
自我や意識しかないと思っている限り、その原生力を解き放つことができない。
全生命の中で現代人だけが病院の厄介にならねば生きていけないのはそのためだ。

異貌体の小自我―自我―自分―生命

こういう自我―自己―生命の多次元的な連鎖構造を知る中で
はじめて自我が絶対ではなく、制御することができることを学んでいく。
逆に自我を止めると、からだの闇の創造性、固有性、共振性などが発揮される。
異貌体を踊ることが自我の制御法を学ぶことにつながる。
いままではそのつながりが見えず、生かし切れていなかった。
夕べのサブボディさんの発見は計り知れず大きい。
すごいなあ、サブボディさんは。
あらためてその尽きせぬ創造性に感嘆するよ。

誰もが持っているのにまだ気づいていないもの。
わたしはみんながサボボディさんに気づき、
サブボディが生まれ出てくるのを助ける産婆になってよかったと本当に思う。
こんな人々のためになる仕事が見つかるとは
踊りを始めたときは想像もしていなかった。



2009年4月2日

不定形への抒情

なぜか、不定形のカオスに心惹かれる。
なぜか? 長い間わからなかった。
それがわたしの唯一確かな世界像だからだということが最近わかった。
わかりやすい世界像はすべて嘘だ。
世界がそんな簡単な構造をしているわけがない。
上下、左右、内外という低次元な二項判断をいくら積み重ねても
この高次元の不定形な世界を捉えることはできない。
へーゲルやその亜流のツリー論理の時代は終わったのだ。
世界はいつもわたしにとことん不可解なものとしてやってきた。
不定形な捉えどころのないものだけにリアリティを感じる。
それがわたしの世界像-自己像チャンネルの布置のクオリアだ。
不定形なものに挑む知だけが知性である。
いまだに二項論理を抜け出せない知など知性ではなく惰性にすぎない。
上のスライドショーに集めた、インフレーション宇宙やサイクリック宇宙像、
宇宙のバルブ構造などもいまのところは手探りの仮説に他ならない。
だが、仮説が不定形で常識を超えていればいるほどすこしだけ現実に近い。
超微細なひも共振によって宇宙の万物が生成しているという
ひも理論の仮説がもっとも不定形だ。
だから現実の実相に近づいている。
ツリーではなくリゾームこそ宇宙と世界の実相なのだ。

2009年3月19日

無限細分化と無限増幅

去年はたしか夏あたりから、無限細分化の練習を始めた。
それが今年は第1週の今日からはじめることになった。
これまでの、透明共振やサブボディとコーボディの混淆は難しいから後にするとかという考えが
自分のとらわれに過ぎないことがわかったからだ。
3年前までの、衰弱体に対する気後れもそうだった。
ことのほか難しいものと受け止めてずっと後回しにしてきたのだった。
それではいつまでたっても取り組めないことに気づいて、3年前から取り組み始めた。
すると何とか生徒とともに掘りぬくことができた。
透明共振に対しても去年まではまだまだ後の課題だと考えていた。
むしろ、最後の境位だと、神棚に上げっぱなしにしていたのだ。
そんな順序とか難易度という判断は日常界の二元論的束縛からくる。
いきなり中心に切り込むようにもっともやりたいことからはじめていけばいいのだ。
無限細分化と増幅という技法は、
あらゆるスケールのクオリアを同時に制御するための必須技術だ。
それではじめて、宇宙スケールや世界レベルの巨大なクオリアから、
超ひもレベルの微細な異次元のクオリアまでを使うことができるようになる。
すべてのスケール、レベルを馳せ上がり、馳せ降りる、孫悟空のような身軽さが必要なのだ。
これができてはじめて、より精妙な微細レベルの共振、
より玄妙な異次元共振を創造することができるようになる。

舞踏の本質は、人間にとらわれた三次元の日常界から離れ、
他界や非時非空の異次元を往還する技術にある。
日常界の人はそんな世界があるなどとは思っても見ないが、
訓練しだいで誰でも微細クオリアの共振を感じ、
そこから無限の創造をくみ出すことができる。
わたしの仕事はサブボディという創造性の宝庫への入り方を世界の人々に伝えることにある。
最も大事なことからはじめていけばいいのだ。
その最大の障害になるのは知らず知らずに侵されている
私自身の思い込みや囚われにある。
私の敵はいつも私だ。
毎年のことだが今年も、今年に比べて去年の自分が
どんなつまらない思い込みに囚われていたかを思い知らされた。
どうやら、私が患っている「人間」という病は思っている以上に深いようだ。
何年脱ぎ捨てようとしつづけても底が見えない。
中庸とか、公平とか、徐々にとか、
生半可な二元論的価値観がいつまでもこびりついている。
60年かかって患ってきた人間という病だ。
10年やそこらで全治するわけには行かないのだろう。


2009年3月14日

透明共振へ

今年は一年かけて、最もやりたかったことの中心に切り込んでいく坑道を掘る。
いままでは、透明体への変成は、最後の課題だと後に残していた。
実際、一月や二月でその課題に挑戦することは不可能だった。
だが、これでは何年たっても時間切れでその課題には触れることもできない。
今年は一年コースが基本なので、最初からその課題を目指す。
最初から無理なことはわかっている。
だが、一年間それを追求することで、一年でどこまでいけるかをつかむことができる。

初日から終わりの日まで、ここで起こることのすべてを<共振>として感じ、味わい、楽しんでいくことにしよう。
あらゆることが共振である。
それをメインにすると、これまでのサブボディ中心の個人的な探体や、サブボディ、コーボディ劇場ではなく、
まったく違ったふうに練習内容を組み立て直さなければならないことがわかった。
あさってから新学期という土壇場で、これまでの授業のあり方を根本的に見直し、
コーボディ共振中心に組み替えなおしている。
いままでの私は臆病すぎたのだ。日常体の自我に遠慮しすぎて、
共振という観点を後に秘めすぎていた。
その臆病さへの囚われが間違いの根源だったのだ。
意識と無意識とからだと生命の間で無数の共振が起こっている。
それをすべて感じ、味わい、楽しめるようになっていく。
自分の中だけの共振ではない。
自分と世界の間、すべての生徒の意識と無意識とからだと命の間で複合的な共振が起こる。
目の前で起こっていることと思い出と思い出せないこととの間で共振が起こる。
からだの闇から立ち上がってくる原生的な衝動や動き、
封印されていた異貌のからだ、見知らぬ影やアニマ・アニムスや元型たちの間で
無数の共振が起こる。
それらすべてを感味楽しつづけていく。

コーボディをメインの課題にすえることで、これらいままでは不可能だったことが一挙に実現可能になってきた。
自我に囚われたままではなく、群れにおぼれるのでもない。
新しい関係性を手探りでまさぐり、からだで実験しつつ、
個と類との間で起こることを限りなく透明にしていく。
幸い、フロイド、ユング、ミンデルらの探求で、個と個、群れと個の間で起こる
転移や投影、ドリームアップ、自我肥大、元型憑依などの危険な現象がかなり深く解明されてきた。
それらも人と人の間で起こる共振パターンの変化の一部だと捉えれば何の不思議なことでもない。
起こることすべてを共振現象として透明化していけばいいだけなのだ。
もちろん、行く手には、まだまだ未知の陥穽も無数に待ち構えているに違いない。
だが、進もうと決めたときとは、その準備が整ったときなのだ。
私の自我や自己が決めたのではなく、からだじゅうの60兆の細胞生命のリゾクラシー共振で
勝手に決まったことだ。無意識も生命もこの決定に参加している。
私は彼らの無限の叡智を心強く信じている。
これまでに彼らの助けで幾度となく危機を切り抜けくることができた。
用心しいしい、わくわくハラハラ、生死のあいだでぎりぎりの綱渡りの一年をはじめよう。
幸い今年は生徒の約半数が二度目以上の経験者だ。
毎年が、こんなことは一生で一度きりだという命がけのがけっぷちの坑道掘削なのに、
懲りずにやってきてくれる彼ら彼女らがいることがどんなに深い慰めになることか。
板子一枚下は地獄。
踏み外さないように、いままでにないもっともゆっくりとした足取りで歩もう。
最初の週は日常体を鎮静化する中で、浮き上がってくる共振を感じていくこと、
それだけに絞ろう。




2009年3月11日

英語の壁・言葉の壁


昨日書いた日本語の文章を英語で書こうとすると、
またも壁にぶつかって跳ね返された。
今の私の英語力では、日本語の微妙な言い回しを書ききれない。
多次元的なあいまいさがすべて捨象されて、あまりに単純な表現になる。
するとそれはもう書こうとしていることとまったく違ったものになってしまう。
こんな英語ではまったく使い物にならない。
この冬言葉を使わず、とりわけ英語をまったく使わなかったので、
英語力が退化してしまったようだ。
この冬のいくつかの日本語の文章は英語にしようとして同じように跳ね返されてきた。
今日も「生徒への手紙2」や、昨日の「透明共振体」を英語で書こうとしても
書けないのでパニックになりかけた。
新学期は後数日に迫っている。
なぜ書けないのか、不思議だったが、
パニクっているうちにそのわけが分かった。
日本語では、文と文のあわいに、多義的・多次元的なあいまいさを含ませることができる。
私の英語力ではその多次元的曖昧さを、盛り込めないのだ。
もともと主語述語が正確に対応する英語の性格があいまいさを排除しているのかも知れない。
ともあれ、生徒のほとんどは外国人なのに、英語で書ききれないというのは困ったことだ。
もっとも、授業が始まれば私は言葉としての英語ではなく、からだ全体の身振り言語のなかに言葉にできない多次元的あいまいさ、多義性、両義性、変容性などすべてを含ませることができる。
それは日本語の言葉よりはるかに多様性と豊かなクオリアを含むことができる。
だから生徒とのコミュニケーションは問題ない。
問題はネットだけで通じている外国の読者のひとびとに、うまく伝えられないことだ。
いや、外国人だけではなく、ネットだけでつながっている日本人の読者の方とも、
本当は授業でからだを使って伝えている丸ごとのクオリアは伝えることができていない。
これは、仕方のないこととして、あきらめるしかないだろう。
対面的な現実の関係の豊かさに比べて、
言葉や写真やビデオが何百万分の一の乏しいクオリアしか伝えることができないのは当然だ。
英語のほうは、英語の授業に慣れてくると、授業でしゃべったことを、その勢いのまま書くことで、去年までは押し切ってきた。
それでも「多重日記」のような複雑かつ微妙なことは永遠に英語でかけるとは思えない。
今年はどうなることやら。




2009年3月10日

未踏の闇へ、透明共振体へ


これは誰にもわかってもらえないことかもしれないが、
サブボディとコーボディの間には未解明の謎があって、
いまだに解けていない。というより年々謎が深くなる。
共振塾の運営では、サブボディとコーボディの按配がもっとも難しい。
毎年それに苦労する。
去年は最後にコーボディの課題を避け、
サブボディ衰弱体に絞ってしまったために、終わってからずいぶん後悔が残った。
この問題はいったい何なのか、長らく分からなかった。
何が問題になっているのかさえ知りえなかったのだ。

だが、もう私に残された時間はそう多くはない。
この5年間の共振塾の経験で、一年でできることがどれだけであるのか、
だいたい分かってきた。
なにか未踏の課題に取り組もうとすれば、ゆうに一年かかるということも。
今年一年かけて一番やりたいことは何なのか。
毎年毎年をこれが最後の年だという覚悟で生き切ろう。
そうすればいつ死んでも最も後悔が少なくなる。

おおい、私の命さんよ、なにが一番したいのかい?
この冬一冬かけて聴きこんだ。
問いはからだの闇深くきりきり舞いながら落ちていった。
落ちながら、危険域を超えたのは分かっていた。
いやな、逃げ出したくなるようなエッジまみれのにおいが立ち込めていたからだ。
「頭からマットに沈むボクサーのように」(清水哲夫)
謎の中心に頭からめがけて突っ込んでいこうとした。
私はいくつになっても命知らずだ。
いくつもの闇を越えた。
ようやくにして、洞窟の壁のあちこちが、
古いかさぶたがふたたび呼吸するかのように膨らみ動き始めた。
いままで、怖くて手がつけることのできていなかったエッジが手招きしだした。
向こうがわからなにかが呼びかけてくる。
おーい、私をここから出してくれえ!
むごたらしい瀕死の怪物のような声だ。
そいつを出してやれるのは世界中に私しかいない。
だが、そいつは一番いやな相手なのだ。
この冬はその未知の怪物との恐怖にみちた暗闘で明け暮れた。
コーボディの闇がこんなに深いとは思っても見なかった。
だが、コーボディがユングの言う集合的無意識とからだが一体になったものだとしたら、
それが未知の元型にまみれているのも無理はない。

群れという謎、関係という闇、
家族というこの世で人間がもっとも深い傷を負う場所、
オイデプスコンプレックスをはじめ、、母子、母娘、父娘、姉弟、
そこは底知れないコンプレックスのの巣窟だ。
性の闇、政治の闇、コーボディの謎が深いのは、
それら人間にとってもっとも厄介な現実的問題と
元型が絡み合っているからだ。
元型とは人類共通の、幻想に取り付いている闇なのだ。
まだ早い。私にその準備はできていない。
自分個人の幼年期の母や祖母との別れさえ、いまだに解くことができていないのに。
青年期の政治の中の友人の死からは、いまだに血が吹き出ているというのに。
群れの闇が解きにくいのは、人間が類的存在であることと、個であることの間に、
無数の未解の元型が横たわっているからだ。
現実と幻想の間がもっとも混淆している地点だからだ。
群衆本能、長いものには巻かれろ、臭いものにはふた、
権威や権力の闇、一番触れるのがいやな問題群が横たわっている。
人類でまだ誰も群れの元型を解こうと手をつけたやつなどいない。
なぜ、わたしがそんないやな役回りをしなければならないのか。
しかたがない。
そこに、もっとも豊かなものが潜んでいることをかぎつけてしまったからだ。
透明な共振世界には、
これらもっとも不愉快な元型の藪をかいくぐらなければ行きつけないのだ。

この冬はずいぶんはるかな旅をしてきたようにも思えるし、
飯が炊けるまでのかまどの前でまどろんだ荘子が見たという
ほんの一瞬の夢のような気もする。

もっとも微細なクオリアに共振して動くからだを、
一年かけてつくっていくことからはじめたい。
遠く離れた石の上で石と同じほど静かな静寂体になる。
そうなってはじめて、遠くの人との間で見えないほどささいな共振が始まる。
それさえ始まれば、後はどうなるのもありだ。
クオリアは言語化できる情報に比べて、何百万倍も微細なゆらぎに過ぎない。
そのあるかないかのかすかな変化に敏感に反応して、動けるからだになること。
内外、自他、類個の分け隔てなく、クオリアを聴き、共振できる透明なからだ。
世界の果てと自分のからだの闇の共振を制御することのできるからだ。
踊りの奇跡のようなことが起こるのは、そのからだを幾人もの人が共有したときだ。
去年は衰弱体技法の無限細分化と増幅技法をサブボディとして探求した。
ことしはそれを基礎に、一年かけて自己を離れてコーボディに変成する。

からだの闇の辺境の辺境にうずくまって息をひそめているぐもりと、
世界の果てのごくささいな不幸とがごくわずかに震えて共振している。
どんなに離れたところのもっとも微細なクオリアとさえも微細に共振できるからだになること。
透明共振体という名前だけはずいぶん前から存在した。
私の中の神話のようなものだ。
そいつがようやく息をしてうごめき始めた。
ひょっとしたら生きている間にそいつの顔を拝めるかもしれない。
そいつは、個でも群れでもない。その両者を瞬時に行き来するリゾームなのだ。

自分のからだの闇は、ほんとうはじぶんひとりのものではない。
それはほかの人のからだの闇とどこかでつながっている。
透明共振体とは、真性リゾームになることだ。



2009年2月6日

もっとも小さいものになりこむ


この冬はほとんど一日中原初生命瞑想に入っている。
からだごと1ミクロン以下のもっともか弱い存在になる。
誕生間際の原初細胞が生死の間でさまよっていた状態になりこむ。
原初生命において、いかなるクオリア共振が起こっていたのかを感じ続ける。
生命とまわりの環界の間で起こっていたことにたいして何を感じていたのか、
その体感になりこみつづける。
簡単なことではない。自我は自分をそんなちっぽけなものとみなすことにまったく慣れていないからだ。
それを克服するのに何年もの長い時間がかかった。
何年もかけてやっと自尊心や野心で膨らんだ自我や自分ではなく、
からだを構成する60兆の細胞のひとつひとつのサイズになりこみ、
それらの細胞が何をどう感じているかに共振することができるようになってきた。
40億年前の生命発生のクオリアは、
いまなお何らかのかたちで細胞生命に保存されているのではないか。
――毎日毎日その微細な痕跡に耳を澄まし続けている。
休み中に考えをまとめようとか、ものを書こうとかという自我や意識の思惑に引きずられることなく、
こんなことに専念できるようになったのもここ十年ではじめてのことだ。

それで気づいたいろいろなことがある。
もっとも大きな気づきは、原初の生命にとって外界の事物との接触は、
すべて生死の危険を孕むショックに満ちたクオリアだったに違いないということだ。
今の私たちにとってはなんともないわずかな温度変化や、
日光の受け具合、未知の分子との遭遇なども生死をゆるがす危険に満ちていた。
すべての新しい出来事が原初生命にとって未知であり、
それに対してなんらかの新たな共振パターンを創発して生き延びられるか、
それに失敗して死んでしまうかのエッジに立たされていた。
原初生命のまわりは、まだうまく共振パターンを発見していない物質やエネルギーに満ち満ちていた。
生命体を構成する物質は主に、
炭素、酸素、水素、窒素、リン、カルシウム、ナトリウム、カリウム、などからなる。
それ以外にまだうまく共振の仕方を見出していない物質が無数に生命を取り囲んでいる。
それらは元素のかたちであったり、分子であったり、イオンであったりする。
それらひとつひとつとうまく共振パターンを創発できなければ直ちに死が待っている。
どんな物質でも取り入れ過ぎれば毒になる。
適度な度合いを保たなければただちに死につながる。
未知のものに対し、かすかにふるえるエッジクオリアは命にとってもっとも原初的なクオリアだった。
そこに文字どおり命がかかっていた。
だからこそ今に至るまでうまく共振できないものに出会ったときの
エッジクオリアがこんなにも深いあじわいをもっているのだ。
そして、それまでうまく共振できなかったエッジに対し、
なんとかして共振できるようになったときの体感が深い喜びに満ちているのもそのためなのだ。
かすかなクオリアに共振できるようになるためには、
自分が万物の霊長の人間であるという思い上がった自己意識を脱ぎ捨てなければ
命が生死のほとりでふるえている生命のクオリアに触れることができない。
自分そのものがもっともみじめな極小の存在になりこんで、
かすかな変化にも震え上がる体験を積むことによってだけすべての命と共振することができる。

間違っても瞑想を通じて「より高い意識」や、「宇宙意識」などになったり、悟りを得ようなどと思わないことだ。
伝統的な宗教的瞑想が陥ってきたのは、「より高い」などという二元論的論理を
非二元の生命の世界に持ち込んで、より高い位階などがあるという幻想に囚われてしまう誤りだった。
現代の瞑想者にもその迷妄に囚われている人が多い。
偉大なものを目指すと、エゴ肥大(インフレーション)の罠が待ち構えている。
生命はただただおびえふるえているだけだ。
そのふるえの中から、無数の創発が生まれてきた。
「より高い意識」などが何かを生み出したことはいちどもない。
言葉を捨て、意識を捨て、自我を捨てて、
ただただ低いもの、か弱きもの、小さなものになりこみ続けること。
その実践だけが命に至る道だ。


もうひとつ重要な気づきは、からだの闇のもっとも微細なざわめきのようなクオリアは
たんに個人的なものではなく、もっと群にまつわるもの、
ユングのいう集団的あるいは普遍的無意識に関するものだということだ。

だから、いままでサブボディからのサブシグナルとして捉えていたものすべてが、
サブボディでもありかつ同時にコーボディでもあるものとして、
二重に捉え返すことができることが分かってきた。

たとえば、灰柱で立つ。
からだの闇の気配に耳を澄ます。
これまではそこにサブボディからかすかなサブシグナルを聴こうとしてきた。
だが、たんに自分個人のからだの動きにつながるものではなく、個に分化する以前の
細胞たちの群的なざわめき、クオリアの共振が起こっていることに気づいた。
それらは自分のサブボディの動きになるだけではなく、
ただちに群の、コーボディの動きにもつながるものだ。
個人的なものではなく、ただ振るえているとか、揺らいでいるとか、流れているとか、
気化しようとしているとか、固まろうとしているとか、普遍的な動きの体感が無数に感じられる。
それらは、個人的なからだの動きにつながるサブシグナルに比べて、もっととりとめなく
淡いものだ。それと注意しないかぎりたちどころに消えてしまうほどはかない。
だが、それに焦点を絞るべく、意識をさらに鎮めるとそのざわめきが聴こえてくる。
ことしは一年かけてこの従来以上に微細なサブシグナルに耳を澄ますことを続けようと思う。
それはコーボディのサブシグナルだ。
もとよりここまでくればサブボディとコーボディの区別などなくなって、
たえず相互転化しているとらえどころのないものになる。
個なのか群なのかはっきりつかめないので、慣れるまでは得体が知れずとても気色が悪いものだ。
とりわけ、生命がもつコーボディの体感クオリアは人類の歴史上でも、
集団的熱狂や陶酔として宗教的行事に取り入れられ、
近代ではファシズムや国家主義の熱狂のように政治的に利用されてきた。
今日ではこれらの集団的元型は、「ファシズム」、「群集心理」などという劣ったラベルを貼り付けられ、
近代人の個人的意識にはそれらに陥るまいとする警戒心が働く。
集団主義に利用されるよりは、どんなに孤独でも個人主義のほうがましだという判断が
近代的な意識の根底に居座っている。
もっとも、その反面ロックコンサートや大規模なダンスパーティのように、
集団的陶酔を目的としたものもある。
近代の孤独に侵された生命が反動的に求めるのがこれらの集団的熱狂だ。
少数だが宗教的・政治的熱狂の世界に身を投じる若者もいる。

去年の共振塾でぶつかったのがこのコーボディの元型の得体の知れなさであり、
コーボディに対する激しいエッジだ。どうしても群になれない生徒がいた。
わたしもその生徒が直面しているコーボディエッジをまるでわがことのように共有したため、
身動きできなくなってしまった。
おそらくそのとき、昔20歳前後で経験した革命闘争の中で直面した、
人々が群的な熱狂に捉えられていく恐ろしいまでの快感と、
それに食われてしまうまいとする私自身のなかの群的なものに対する惧れと警戒が
一挙によみがえってきたのだ。
コーボディ的な群のからだにつながる体感には、
個なのか群なのかがはっきり判別できないところがある。
個でもあり、かつ群でもあるというような矛盾的存在は、意識にとっては二律背反原則を侵す、
あってはならないものだからだ。
からだの闇の異貌の自己に出会うことも驚愕だが、
コーボディ的な傾向に出会うことはそれ以上の得体の知れないものに触れねばならない
恐ろしい奇怪な経験となる。
昨年は、そのエッジを前にある時点でコーボディ練習を停止せざるをえなかった。
追求してきた衰弱体に専念しようという判断もあったが、
コーボディに対しては自他共に準備がまだ十分にできていないと感じたためだ。

今年はそれらを乗り越えてどこまでいけるか。
私自身の群の体験には未だ触れれば血が噴出すところがあって
うかつには触れることができない。何人もの友がそこで命を落とした。
だが、今年もその前でためらっていればもう一歩も前へは進めないところに差し掛かっている。
問われているのは、私自身のトラウマに直面する勇気だ。


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