サブボディ共振塾ジャーナル(2006年3月ー6月)

共振塾ジャーナル
2006年6月
自分を初期化するということ
自全になる瞑想
自全を運ぶ
ツリーリゾーム技法
自全瞑想から深部サブボディへの旅
共振タッチ(リゾタッチ)技法とは
生徒のサブボディに成りこむ
生命坑の深み
リゾタッチ技法
生命に耳を澄ます
生命のクオリアに触れる
自全ウオーク
2006年5月
リゾーミング・リゾナンス
闇の中に原生的感覚をまさぐる
共振劇場からの遠い道程
共振リップル劇場
苦あれば楽あり
異界ゆらぎの歩行
高性能共振体への変成
共振力と固有力
リゾーミングの威力
伝染リゾームへ
マルチ共振体へ
人体が近づくときの体感共振
醜い踊りはしたくない」というエッジ
人体間の内向体感チャンネルを開く
共振体になること
サブボディに開きたいチャンネルを尋ねる
サブボディスクール・
各コースの修得単位と内容
ヒマラヤの共振哲学
  2006年4月
秘密の変成の場所としての学校
自我を止めると共振が聴こえる
カラビヤウゆらぎ
ポールのミル・プラトー
原生感覚を開く
オリジナルクリーチャーへの変成
マリカの左手が踊りだした
サブボディは自全に向かっている!
ミル・プラトー開始
いかに共振体になるか
サブボディというものの発見
世界で最も創造的な場
内向チャンネルを開く
なぜサブボディはこんなに面白い<破>を編み出せるのか
2006年3月
共振回路が開いてきた
もっともみすぼらしい動きを絶妙の序破急で見せる
最深のサブボディを探る
クオリアの海と共振するからだとなる
離見とはなにか
序破急とはなにか
いかにからだの闇へ降りるか
動きの間隙に異次元の秘兆を埋め込む
胎児の記憶に降りる
封印されていた固有クオリアを解き放つ
からだの闇に耳を澄ます
衰弱体から衰弱十体へ
舞踏論 2006
共振論 2007
透明論 2005
2006年7月以降のジャーナルへ
2006年6月

2006年6月28日

●自分を初期化するということ

人はみな自分の癖や性格を引きずって生きている。それらのほとんどは生まれや生い立ちによって形成されたもので、自分で選んだものではない。もちろん長い付き合いだから、いくら偶然に得たものだといっても愛着がある。だが、それらの愛着もまた無意識のものだ。人生のある時期にはいちどそれらを初期化したほうがいいときがある。そう、フロッピーディスクやパソコンのメモリのように、一端白紙の状態にまで初期化するのだ。

するとどんなに身軽になれることか。

今月の生徒は、キムは何年もインドの修道院でヨガやインド思想をまなんできたので動きにヨガの癖が入る。ジェニファーはカナダのコンテンポラリーダンスカンパニーのプロのダンサーなので、これまた見事なダンスの動きがよく出てくる。アナットはコンタクトインプロやモダンダンスをやってきたらしく、流動的なゆらぐ動きが好きだ。

先週のある日、一度彼らすべてに、一人ひとりの癖を指摘しそれらの癖を消すと、もっと自分のサブボディ独特の動きがクリアに出てくるよとアドバイスした。三人ともそのアドバイスに応えようと、かなりがんばって癖を消した。すると、どこでも見たこともない固有の動きがクリアに浮かび上がってきた。でもそれはかなり大変な作業だったようだ。今月から毎週末に生徒の感想を書いてもらうことにしたが、アナットは絵と共に次のような文を寄せた。

I lost my dance

  My dancer image has broken

  I had to find new life of dance, of existence

  It was hard

 It was worth it

            Thank you

「私は自分のダンスを失った

私のダンサーイメージはぶっ壊れた

私は新しいダンサー、新しい存在を見つけねばならない

それは困難だ

でもそれはやるに価することだ

ありがとう」

短いことばに、彼女の味わった苦痛と決意を通じて、その初期化の営みの本当さが伝わってきた。

その後彼女は見事な最小限の動きで自全を運ぶという「自全ウオーク」に取り組み、見事な歩行を見せてくれた。ひたむきにこんなに真っ白になれる人がいるとはと、感動させられた。

ダンスのからだの癖だけではなく、自分のシンキングハビット、苦手チャンネルを開く取り組み、見知らぬサブキャラクターの発掘と、このクラスではやることがあまりにも多い。だが、三人とも真剣に取り組んでいてくれるのでやりやすい。年長のキムはさすがに、経験豊富なだけあって、嬉々として毎日の新しい課題に取り組んでいる。彼女の文章を読むと、かなり深く私の授業の特性を捉えていることが分かる。

「ワオ! いったいこんな深くて、奇妙で、野生的で、面白くて、必須で、さまざまなレベルの刺激が、こんなに深い叡智と、配慮と、愛と、融通性と、知性と、本能というような、際限のないバリエーションを持って味わえるような経験ができることは、なんと光栄なことなんだ!」

何年もからだの闇を掘りながら、こんな変なことや微妙で奇妙な体感を、いったい受け取ってくれる人が世界に何人いるのだろうと思いながらやってきたことだが、彼女らのように打てば響くように喜んでくれる人がいるだけで報われる。これもまた共振の喜びだ。

(生徒の声は、いままでの掲示板から、サイト内に移しました。掲示板も残すけれどより手軽に読めるようになりました。→生徒の声を読む

私の自全にいたろうとする強い志向は、おそらく、この自全に刻み込まれたものすべてをいったんできる限り初期化してしまいたいという衝動に貫かれている。

それがうまくいくトラウマごと消えてしまうのだが、そうは問屋が卸さないことも承知している。でも、できる限りその影響を最小化することは可能なのだ。



2006年6月26日

自全を運ぶ

水無月のコースも第3週目に入った。今月の生徒は3人がとても前向きに取り組んでいくので、先週の終わりのサブボディ=コーボディシアターでは、ほぼ5月には第4週で実現した共振レベルまで達してしまった。だから、今週からあと2週間でもっと遠いところまでいけることになる。水曜に共振タッチディを設けて、ゆっくり進んでいるはずなのに、こういうときほど逆に進捗が早い。

今日は、自全瞑想からはじめた。わたしがもっとも好む自全をくまなく探索する瞑想だ。まず、それを紹介しよう。

 

 

自全になる瞑想

 

1.自分が一番したいことはなにか? 何に一番なりたいのか? 一番実現したいことはなにか? という問いを自分に投げかける。この問いは自分に到達するためのもっとも優れた問いの一つである。私は何十年もこの問いを自分に問い続けてきた。そして、少しずつ本当にやりたいことがなにかが分かり、それに近づいてくることができた。今なお落ち続けている。そして、微修正を積み重ねていくのだ。

2.その問いに対し、自分の中でそれに到達するのを妨げているものはなにか? を問う。

3.また、その問いを推進して、自分の一番やりたいことに先導してくれるのは自分の中の誰か? をさぐる。1の問いに対し、消極的な反応を示す傾向と、積極的の呼応してくる傾向のすべてにあたる。

4.消極側の代表者に上位自我がいる。上位自我はこう生きねばならないという思い込みで固まっている。そしてその思い込みをわたしたちに押し付けてくる。正しい生き方を選ばねばならないとか、あらゆるものに平等に接しなければならないとかの美しい理念に凝り固まっている。美しい理念は結構なのだが、それをごり押しされると困る。柔軟さが失われる。私の中にも強烈な上位自我が存在し、思春期のころからあれこれ私を指図してきた。私はこいつが嫌いで、最初につくった伝染熱というソロの中でこの上位自我の首根っこを捉えて絞め殺そうとしたほどだ。死闘の挙句、いまでは私と上位自我は和解することが出来た。いまだにあれこれつぶやいているのは聴こえるが、もうわたしに対して束縛してこようとはしなくなった。ともあれ、その存在を認知し、自全の一員として承認することからはじめる。

5.次に足を引っ張るのは、臆病な老婆心だ。なにかをやろうとするとき、「そんなことして××になったらどうするの?」と最悪の想像をして押しとどめようとする。この存在も厄介で、わたしがサブボディとコーボディを発見するワークショップをし始めたとき、最初の数年間は、この老婆心が出てきて、「参加者を下意識に潜らせたりしたら何が起こるか知れない。もし参加者が変なことになったらどう責任取るのか?」と恫喝し、私を縛った。私はもともと慎重な性格で、石橋を叩いて渡る面もあったから、この老婆心に一番てこずった。

わたしがそれから解放されたのは、インドへ来てこの学校の建設中に思い切り妄想神経症に囚われて、その地獄を経験してからだ。妄想地獄に囚われて、暴力的攻撃的な衝動に囚われ、自分や周りの人を殺してしまいそうな抹殺衝動にさえ幾度も襲われた。だが、その地獄に耐えているうち、それらの症状もいつかは通り過ぎることを知った。そして、最悪の妄想に囚われたときどうされれば暴発しないで済むかも分かった。最悪の状態になったときは、ただ、やさしく抱きしめればいいのだ。もちろんそうするには勇気がいる。そんなことしてほしくないと抵抗にあうかもしれない。だが、それこそが必要なものだと信じて抱きしめればいい。それが欠けていて得られないから凶暴化しようとするのだ。身を投げ出して黙って抱きしめているうちに、荒みきっていたこころも落ち着きを取り戻すものだ。

その機微を知ることによってようやくわたしは迷うことなく人々をサブボディの世界に招待できるようになった。その危険さえ免れることができれば、これほど面白い世界はほかにないのだから。

5.これも上位自我の一種だが、口先だけさがない批評家がいる。ありとあらゆる側面から、私のやろうとすることを批判し、こき下ろそうとする。この人に合えば、「あんたの言い分は分かった。確かにそういう面から見ることも必要なときがあるかもしれない。そのときお世話になるからいまは引っ込んでてほしいと、存在を認めた上でお引取りを願うのがいい。それに決して言葉で抗弁して取り合ってはならない。これは、批評家に対するだけではなく、あらゆる分身に対する鉄則だ。言葉で取り合おうとすると泥沼に引き込まれるだけだ。それは避けて、からだのそこからどう動こうとしているかに耳を澄ましてただ黙って行動で態度を示すことだ。

6.それ以外にも自分固有の思考の癖がある。堂々巡りしたり、くよくよ気に病んだり、いろいろな癖がある。癖に陥りかけたら、すぐそれに気づいて癖と認知して引き返すことだ。

7.無意識の嗜癖もある。なにかを疲れきるまでやらなければ気がすまなかったり、分かっているのに止められない嗜癖に囚われることもある。これもなにかの理由でそうせざるを得なくなったのだから、その存在を認知してやること、そして、今は一番やりたいことを探しているだから、また後でね、と言い聞かせてバイバイする。

8.とても怠け者のだるいやつもいる。からだのだるさに捉えられてなにもしたくないやつ。この分身も大事なものだ。疲れたときには一番大事になる。そうなったときに一緒に横たわろうねと約束すればいい。自分が休みたいときに休めなかったからこの分身が横行するようになったので、休みたいときにすぐこの分身と仲良くしてすばやく休むようになればこの分身が出てくる余地はない。たとえば今私はことあるごとに横になる。下意識と意識が半々でつりあっている状態が一番創造的になれることを知ったからそうしている。ごろごろしてはいけないなどと勤勉日本の道徳に縛られる必要はないのだ。

9.そのほか、こずるいやつとか、いつも計算ばかりしている計算高い分身とか、怒りっぽいやつとか無数の分身がいる。それらすべてを自全のメンバーとして認知することだ。そして、いつか君を踊るからと約束する。サブボディが出番を見出すのを待てばいい。どんなけったいな分身にも長くやっているとかならず最適の出番が見つかることがある。そのときに思い切り踊ってやればいい。そう約束してもらえれば分身たちも安心して安んずることができる。間違っても圧殺しようとしてはいけない。身の危険を感じれば分身たちは窮鼠猫を噛むの勢いで反撃してくる。すべての分身は命の創造物だから否定しようとしてはいけない。自分で自全によって無限の肯定を与えるのだ。

10.次は、積極的に導いてくれる傾向を探る。自分の中の勇気のある行動者。この人は大事だから大事にする。ときどきおっちょこちょいで失敗をすることもあり、それが批評家や老婆心の槍玉に上がることもあるが、気にしない。失敗は行為につきものなのだ。失敗しても失敗してもトライし続けているとそのうち成功する。七転び八起きの不屈の精神を身につける。

11.自全の旅をしていると危機を救ってくれる盟友に出会うこともある。いろんな形で現われることがある。どれもとても大事だからその出会いを大事にする。わたしにとっての最大の盟友は、十年ほど前に作った伝染熱というソロダンスだ。ことあるごとにわたしを救い、大事なアドバイスをもたらしてくれる。この学校も彼のおかげでできたようなものだ。

12.老賢者。無限の智慧を与えてくれる人。長い人生のうちには誰もが出会う。道ですれ違う人かもしれないし、夢の中に出てくる人かもしれない。私はどちらにもであったことがある。ふと飛び込んだ古道具屋の親父からとても貴重なアドバイスを受けたこともある。沖縄の海岸でであった老婆からも、大事なことを教えられた。最近では夢に世阿弥と禅竹が出てくる。さりげないしぐさでとても大事なことを示唆してくれる。

歯医者の診察台に横たわるといつも出てくる土方巽。彼については昨日「舞踏論7」と「共振日記」に書いたのでそちらを読んでほしい。土方はわたしにとって老賢者と盟友のどちらの要素をも持っている。

13.自分の中で一番うぶな希望。小さいころに懐いた希望や現実とはかけ離れた理想を手放してはいけない。それこそ君をもっとも遠くまで連れて行ってくれるかもしれない理想なのだ。どんなに現実離れしているかに思える理想でも握り締めていればいつか現実との接点がみつかる。私のとってのそれは、青年時代に懐いた国家の死滅という理想がそれだ。だれも国家がなくなることなど信じないが、私はいまだに信じている。そして今、人々の心身が共振を取り戻す日が来れば、国家など跡形もなく消えてしまうだろうと確信できる。すごくゆっくりしか進まないだろうけれど、歴史はそちらのほうへすこしずつずれていくだろう。

14.そのほか、自全を旅していると見知らぬ自分の側面に出会う。異貌の自己だ。自分の中にこんな面があったなんてと驚かされる。どんなに奇妙な存在に出会っても、とに描く、自全の一員であるかぎり認知していつか踊ろうと約束する。絶対に無視してはいけない。無視されると必ず形を変え姿を変えて襲い掛かってくるから。君は一生その分身のとりこになることになる。

15.最後にこれらのプロセスを見守る産婆になる。自全のなかのまだ認知されていないサブボディは、いわばまだ生まれていない胎児のようなものだ。それがいつどんな形で生まれたがっているかの気配に耳を澄まし、無事誕生をまつ。急がしてもろくなことにはならない。胎児が自分の力で出てくるのをただ温かく見守るのだ。そしていざというときにそっと手を貸してやるだけでいい。

 

 

ざっと以上のような自全に出会う瞑想にガイドしたのち、胎道めぐりにはいった。

いつもの月なら初日に設けている体内音を聴く―ヒューマンベッド―ヒューマンカウチ―人間子宮というコースで単細胞の受胎細胞から十ヶ月かけて変化してきた胎児時代と分娩前後の出来事を追体験するメニューを第3週の今日にシフトした。(くわしいプロセスはこの学校ジャーナル3月の「胎児の記憶に降りる」を参照してください。)第2週までにさまざまな仕方で自全世界を探索してきた後の今それを体験することがグッドタイミングだったのか、みんなそれぞれ深い旅を体験したようだ。思い切り味わい深い動きが出てくる。

20分間の自己探求の後、午前中のサブボディ=コーボディシアターは、自全ウオークから始めた。

自分の全体の中でであったサブボディの気配をすべて引き連れて歩くのが自全歩行だ。山のような気配と共に歩く。ただ引き連れて歩くだけで、まだサブボディは気配しか出てこない。以前には舞踏の巣とか、サブボディの巣の歩行とも呼んでいたものだが、いまは自全ウオークと呼ぶほうが適切だと思える。(自全ウオークについては、学校ジャーナル61日の「自全ウオーク」を参照してください。)今日はそこからさらに一歩先に進んだ。それが次の「自全を運ぶ」だ。

 

自全を運ぶ

横たわる状態から、立位まで、10段階ほどの高さのバリエーションを変えて、最小限の動きで自全を運ぶ。どういうことかというと、――

1.うつむけの伏臥の姿勢で横たわる。からだの自由がほとんど利かない人になって、なお自全を運ぼうとする。手のひらで床を捉え、ほんの少し引いてわずかに進んだり、押して後じさりしたりする。ほとんど寝たきりの人ができる最小限の動きにきりつめる。すると、土方が「病める舞姫」で書いている次のような動きが現出する。

 

寝たり起きたりの病弱な人が、家の中の暗いところでいつも唸っていた。畳にからだを魚のように放してやるような習慣は、この病弱な舞姫のレッスンから習い覚えたものといえるだろう。彼女のからだは願いごとをしているような輪郭で敵手いるかに眺められたが、それとてどこかで破裂して実ったもののような暗さに捉えられてしまうのだった。誰もが知らない向こう側の冥(くら)さ、この暗い甦りめいた始まりを覚えていなかったからだろう」

 

それは、それを行う人が本当にその動きで自全を運ぼうとすれば、これまでにこれほど感動的な動きは見たことがないというほどの深い動きが現出する。これほどまでにみすぼらしく、なおも感動を覚えずにはいられない動きは。一人がその姿勢で自全を運ぶのを、ほかの生徒も声をなくして見入っていた。

 

午前中の胎道回帰と分娩前後の体験で、みんな誕生と死と再生がほとんど近接する体験をして、いつからだが「誰も知らない向こう側の暗い甦りめいた始まり」あるいは終わりの世界へ転じてしまうか分からない瀬戸際で動くリアリティを知ったからだ。

 

2.仰向けの仰臥の姿勢でも同じように最小限の動きで自全を運ぶ。

3.横向けの側臥の姿勢で身をよじって自全を運ぶ。

4.片足を折ってからだの下に入れた伏臥の姿勢で自全を運ぶ。

5.両手両足を小さくからだの下にたたんだ、両生類の四肢の動きで自全を運ぶ。

6.ゆっくり四つの姿勢で自全を運ぶ。仰向けの逆四つでもそれを行う。

7.両手両足を床につけ腰を上げた高四つの姿勢で自全を運ぶ。

8.座位でにじり動きながら自全を運ぶ。さまざまな座位から一つを選ぶ。

9.腰を低く落とした中腰の姿勢で自全を運ぶ。

10.超微速動の立位で自全を運ぶ。

 

――この十段階の姿勢のそれぞれで自全を運ぶ動きをやってみて、自分のサブボディにもっともフィットする動きを一つ選ぶ。それがたぶんこれからつくっていくサブボディ舞踏のもっとも基底的な動きになるだろう。

 

さすがの私もこれほど惨めな動きをこれまで生徒に課す勇気がなかった。だが、今月勇気をだして課してみると、これほど最小限のみすぼらしい動きでこれほど感動的な深い動きは見たことがないというほどの動きが現出した。3人の生徒も三人ともいとわず真剣に取り組んでくれた。

これまで、私自身のなかにほんのひとかけらでも不安なところがあれば、自分の中の自信のなさを生徒に投影してしまって、生徒のなかに不安に揺れ動くものを発見してしまって、これが成り立たなかったのだ。いまは、不安のかけらもなく、ただただ感動していられる。すると生徒もそれに応じて迷いなくうちこめるのだ。サブボディの胎児である生徒と産婆であるわたしの微妙な共振関係が見事に現われてくるのだ。

さて、今月はいったいどこへ行くことになるのだろう。未知の境地が開けるかもしれない。

 

ツリーリゾーム技法

 

自全の世界に降りていくにはもう一つ欠かせない技法がある。それは意識と下意識の最良の関係をつくることだ。どちらが欠けてもうまくいかない。どちらがわからも、全力で自全にいたる態勢を作ることが必要だ。

サブボディ(下意識)の世界は多次元変容流動する世界であるし、意識の世界はより低次元の四次元の分別言語に統御された世界だ。このまったく異質なふたつの世界を自在に行き来できる自全態勢をつくる。

意識と下意識が50パーセントずつゆらゆらつりあっている状態の意識状態になる。そして、自全瞑想をしながら、各レベルの自全を運ぶ動きに入っていく。

今日のように、体位を十段階に区切って練習する練習法を組み立てるのは、ツリーの意識の仕事だ。それを理解して順々にこなしていくのも意識の役割だ。だが、実際に動き出すと意識は最小限のレベルにまで低下させ後退させる。

練習の中では、完全に多次元変容流動するサブボディのリゾーム世界に入りこむ。サブボディになりこんで自全世界を旅する中で、からだから重要な気づきがこみ上げてくれば、そのときだけ意識の出番が来る。そばにおいてあるノートかメモに、ささっと筆記してすぐ忘れる。すぐにサブボディにもどり、リゾーム世界の多次元変容流動に耳を澄ます。

練習が深まっていくと、24時間態勢になる。眠っている間も、サブボディは活動し続けている。夜中や明け方に必ずなにか重要なシグナルを送ってくる。それをすぐさまメモし、夜中なら再度眠りに入る。明け方ならその夢のメッセージは何だろうとしばらく半覚半眠の状態の頭の中を転がしていると、言わんとすることが自然に分かってくる。形は色々デフォルメされているが、必ず、自分の一番問題としている事柄に関わっているからである。私の例でいえば、今日の自全瞑想にせよ、自全を運ぶにせよ、毎日の練習内容は大概夜明けか日中の横になってうつらうつらしているときにサブボディから届けられる。それだけではない。このサイトを定期的に訪れてくれている人は、毎日のように更新しているサイト改造の加速度がなみなみならないものであることにきづかれるだろう。日本語サイトと英語サイトのどちらの更新も60歳にならんとする男が独りで行っているとは想像できないのではないか。こんな頻度でバイリンガルのサイト更新をしている日本人はたぶん私のほかにはいるまい(いたら教えてほしい。きっとよい勉強になるだろうから)。つぎつぎにサブボディからアイデアが届けられてきてまるで汲めども尽きせぬ泉になったかのようだ。いくつも書き進めている文章の内容も、サブボディが示唆してくることを書き留めているものばかりだ。サブボディは24時間態勢、こちらは16時間しか起きていられないから、まるでサブボディにこき使われている使用人のようなものだ。だが、どちらが主ということではなくどちらも私の自全の中の大事な部分だ。意識とサブボディの最適の関係をつくると、最高度の創造性が発揮される状態になる。わたしはほぼ60年の生涯で今ほど創造的であったことはない。自分ながら思いがけないことだ。この年になって意識と下意識の両輪をそろえて回る極意をつかんで疾走しだすとは。


からだが秘め持つ原生感覚を取り戻すには、目を閉じて自然の中を動くのがいい。
写真でガイドしているのは共振塾の縁の下の力持ちロメス、ガイドされているのはアナット。
遠くにもうひとくみが歩いている。

2006623

 自全瞑想から深部サブボディへの旅

今日は6月コースの2週目の四日目になる。そろそろ、今までよりも深層のサブボディに出会う頃合だ。

自全に至るにはさまざまなエッジを越えていかなければならない。

今日行った、自全の中に登場してくるさまざまな自分と出会い、そのすべてを認め、友達になり、一緒に踊る道を見つけていく<自全瞑想>を紹介しよう。

 

 

自全乞食瞑想

インドにはもう近代社会ではなかなか見られなくなった、心身障害者の乞食がいたるところにいる。西欧近代社会のように、彼らが掃除されてしまっていないところがインドのいいところだ。とりわけ、ここヒマラヤインドのダラムサラには、乞食の人々がひしめいている。チベット仏教のダライラマの寺院の門前町のような観光町だから、仏教の慈悲やコンパッションの教えに感化されている人が多いから、乞食にとっても稼ぎがいいのだろう。ダライラマのティーチングがある月間などはインド中から多くの乞食が集団で移住してくるほどだ。

彼らの中には、らい病で手足の指を失った人が多い。中には手足のいずれかを失っている人もいる。町全体がまるで舞踏劇場の舞台のような雰囲気さえかもし出している。

 

1.不具の乞食に対して出てくるあらゆる自分を肯定する

自全瞑想は、彼らを目にしたときの自分のさまざまな反応を思い出し,すべてを引き受けなおすことからはじめる。

不具の乞食と出あったとき、まず最初は鋭い痛みを感じる。無意識のからだが自動的に彼らの共振して彼らの失った手足の痛みがからだに入ってくるのだ。これは禁じることができない。この第一反応をまず認める。そして、彼らを不憫と感じる憐憫の情が湧く。それも自分の中の一員だ。そして、あまりに悲しいの彼らを見たくないという自分も出てくる。これも自全の一員として認める。さらには、忙しく道を歩いているときに彼らにまといつかれたときは、かまわないでくれ! と突き放したくなる自分も出てくる。それも自全の一員だと認める。さらにはもっと激しく、過激なやつが出てくるときがある。社会的に根本的な解決策を探そうとするような社会派もいれば、彼らの存在を一掃してしまいたくなるようなファッショなやつが出てくるかもしれない。また、それをいさめる批評家が出てくる。どんなサブキャラクターが出てきても、自全の一員として肯定する。

この自全瞑想を行うと、大概の人は少し気持ちが楽になる。インドへ来て、先進国では出会わない膨大な不具者の群れに出会って、外国人はみな多かれ少なかれショックを受け、それをどう処理していいか分からずに、整理しきれないもやもやをかかえている。自全瞑想によって、乞食に対する無数の反応が出てきてうろたえているのが自分だけではないことを知ってまず安心するのだ。そして、自全瞑想を行えば、それらのすべてを引き受けるという解決策がとても根本的な道であることが分かるのだ。

自全瞑想では自全の中のすべての登場人物を肯定する。時には自全の中には、人物ですらない、下等動物になりたい衝動や、無機物にさえなりたい衝動も棲んでいる。それらのすべてを肯定する。いっさいはこの肯定からはじまる。そして、下部へ下部へ潜っていけば、自分の中に不具の自分がいることに気づく。なにかをしようとして、うまくいかなかった自分、しゃべろうとしてしゃべれない自分、動こうとして動けない自分が、きっちり自全の最深部にくぐもって存在するのに出会う。最初、外部にあると思っていた不具の乞食が実は自分の中にいることを知る。なあんだ、ここにいたのかい。外部の乞食と内部の不具者とが密通する。自全瞑想でそこまで降りていく。内部と外部の境がなくなるところまで。そこまで降りれば怖いものは何もなくなる。世界中の最低のものが自分の中にあることを発見してかえって安心できる。そして、最初日常体の自我が感じた不具者に対する惧れや差別の気持ちが実は、自全の中のこれらもっともみすぼらしいサブボディを自分で否定し、自分から切り離そうとしていたところから発していたことに気づく。自分の中のノット・ミーに対する否定を外部に投影するところから、差別や惧れが生じていたことに。

 

2.自全のなかのサブボディに成りこむ

自全瞑想でであうさまざまなサブボディを、からだのどこかから呼び出し、そのサブボディに成りこむ。

具体的には、この瞑想をする前に、からだの脊髄一本一本ををあらゆる方向にゆらがせる、脊髄三元ゆらぎの練習をして、からだをほぐしておく。

そして、脊髄関節の一箇所を緊張させたり、歪ませたりして感じる体感クオリアと結びついて出てくるサブボディを探る。そのサブボディの傾向が先の自全瞑想でであった自全の中にすむいずれかの自分と結びつくのを感じる。からだの具体的な体感と、自全瞑想で捉えた自分のサブキャラクターと結びつけば、それをサブボディダンスにまで発展させる。

こう言葉で書くとまだるっこしいが、ともあれ、出会ったサブボディにからだごと乗り込んでいくということだ。

人によっては一日に何人もの異様なサブボディに出会うこともある。それらに次から次へと乗り込んでいく。サブボディに乗り込むと、自然に多次元流動している自全世界を旅することができる。そして、以前にぶつかって強い力で跳ね返されたエッジが、いつのまにか背後にあることに気づく。からだの闇は多層多次元の迷路からできているから、知らない間にそんなところに行き着いて驚くことが多い。

 

3.深層サブボディに乗り換えていく

 

・<鮮>のサブボディ

サブボディはからだの闇のさまざまな層に棲んでいる。最初に出会うのは、なにか新鮮な体感をもたらしてくれるものだ。<鮮>のサブボディと呼んでいる。ともかくもからだが新鮮に感じられる動きなら何でもやってみる。これはからだに聴き入る最初の段階だ。

・<深>のサブボディ

鮮のサブボディに乗り込んで動いているうちに、奇妙な体感に出くわすことがある。なんだか知らないけれど懐かしい。わけは分からないけれどこの動きは自分の深いところとどこかでつながっている気がする。そう感じたとき、きみは<深>のサブボディに出会っている。そのサブボディに乗り込んで動いていると、いつの間に自全の中の深い層に降りていける。

・<響>のサブボディ

これは直ちに出会えるものではない。<深>のサブボディに成りこんで、いくつもの<破>をくりかえしているうちに、最後の最後に、これが自分の最深のサブボディだ!と感じられるものに出くわす。そのときは自全の中のあらゆる要素がともに激しく共振しだすのですぐに分かる。めったにないことだが、それに出会えれば、自全の底から天辺までがすべて共振する天地共振という至高の体感を体験することができる。そのとききみは自分の踊りの<序破急>を成就して終わることができる。

私の最深部に住むサブボディは、大概どこかが不自由な者や下等動物ばかりである。それどころかすでに死んでいる人もいる。無数のアウシュビッツに死者、戦争の死者、反戦闘争の死者、水俣の死者がいる。世界中の街の底辺を這っている不具者がいる。わたしは彼らを踊り続けることで、いつのまにか、世界中の死者、狂者、病者、不具者らと共振するからだに変成してしまった。これほど爽快なことはないのだ。

 

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2006621

共振タッチ(リゾタッチ)技法とは

水曜日を共振タッチ技法の日とすることにして、二回目だ。生徒もこの日を楽しみにするようになった。

サブボディメソッドは、大きく四つの分野からなる。

1.調体-body conditioning

ゆらぎ瞑想で生命ゆらぎに耳を澄まし、日常意識を鎮めて、意識と下意識が半々につりあってゆらゆら揺れている状態をつくる。この状態がからだの闇に潜って踊りを探りだすのに最適の状態だからだ。

時により、三元ゆらぎ、八方粘菌、八方原初、百丹三元など、からだの各部を微細に動かしていく練習に集中することが、このからだのいい状態をもたらしてくれる。

2.探体-inner research

からだの闇に耳を澄まして入り込んでいく。てがかりは聴こえてくるごくかすかなサブシグナルだ。八つのチャンネルのどれかがからだの微細な震えや自然に出てくる動き、ふとかすめるイメージや感情などをとらえると、それを増幅していって出てくるサブボディの動きに乗り込んでいく。

3.触体-resonance touch

ほかの人のからだと自分のからだの間で起こる共振に耳を澄ませ、からだがかすかな生命共振を感じていることをキャッチすれば、それを増幅して、そっと揺らす。相手のからだの生命ゆらぎに聴き入り、それをほんの少し力づけるだけでいい。

触体における共振は、物理的なからだではなく、下意識のからだであるサブボディとサブボディの間で起こるものだから、微細なものでいい。というより微細なものでないと、下意識のからだに届かない。大きな刺激は意識の領分であり、そこでストップしてしまう。

自分のからだに聴き入る探体と、ほかの人のからだとの共振を聴く触体を一個二重のプロセスとして相互に深めていくのがサブボディメソッドの特徴である。単なるボディワークや、身体手技と異なる点である。

4.透体-transparent-body

このスクールでは、午前と午後の二回、20分間の自己探体の時間がある。そこで見出したその日のサブボディダンスは、最後の<サブボディ=コーボディ劇場>と呼んでいる場でシェアしあう。一人が自分の踊りを踊るト、ほかの人はその動きに共振して動きながらサブボディを味わいシェアする。さまざまな共振の仕方がある。それはまた別のところに譲ろう。

この<サブボディ=コーボディ劇場>において、生徒は自分のからだに起こっていることをできるだけ透明に見せる。とりわけ意識と下意識とからだのあいだで起こっていることすべてを透明に見せる。意識と下意識が半々につりあう状態になると両者の間の障壁が消え、透明になることができる。この<サブボディ=コーボディ劇場>で、人は自分固有の創造力と、ほかの人との共振力を同時に開くことができる。

 

共振タッチ技法は、それゆえ、自己探体と触体との両者を通じて相互作用的に深められる。

今日の練習は以下のとおりだ。

 

脊椎微細三元探体

仙骨、腰椎、胸椎、頚椎、頭、全身、あご、口腔、目などからだの各部だけで、水平、矢状、戸板の三次元方向に、ゆらぐ。

1.仙骨だけを三次元方向にゆるがせる。水平次元の場合、床面に水平の大きな時計を想定し、12時方向(前正面)から、1時、2時、3時(右横)、4時、5時、6時(後ろ)、……と一周する。続いて、矢状面の時計、戸板面の時計にそってゆらぐ。

2.下部から、頭部までの各部だけを微細三元時計にゆらがせる。2週目に入ると、生徒はこの微細ゆらぎをコントロールする力がついてくる。

三.ここまでは、次のリゾームの動きをするためのツリー的な幾何学的三次元に沿った準備運動である。

3.からだの各部を微細に各次元方向に動かせるようになると、いよいよ各部をランダムにゆらがせる練習に入ることができる。背骨の一本一本をさまざまな方向に、さまざまな速度、サイズ、リズムで微細に動かす。

4.そして、ときどき流動的なゾルから、硬化していくゲルへ転換し、そのブロックによって生まれるクオリアに聴き入る。すべての脊椎には成育史のなかで体験した異なるクオリアの記憶が折り畳まれている。とりわけ、背骨と背骨を押し付けあう緊縮位置でゲル化すると、すべての背骨に刷り込まれた不快な硬結やくぐもりのクオリアを呼び出し味わうことができる。その人の無意識の癖や、仕事の習慣、思考の癖などによってもくぐもりが染み込んでいる。

5.一人ひとり、取り出した、背骨のどこかの硬結やくぐもりからでてくるサブボディや、サブキャラクターの動きを見せ合いシェアしあう。自分ひとりでは、しんどくてなかなかできる練習ではないが、みんなでやれば、ああ、ほかの人にも人それぞれのブロックやくぐもりがあるのだという発見の新鮮さにも引かれて、多少の不快感は苦にせず、くぐもりからとびたつサブボディを見つけ出していけるものだ。

 

脊椎共振タッチ

今日は上の脊椎探体に応じて、ほかの人の背骨のゆらぎに聴き入り、そこに折り畳まれているクオリアと共振する共振タッチを行った。

共振タッチは、序破急緩除という五段階から構成される。

は、横たわった相手のからだの生命ゆらぎを聴き、それに共振してかすかにゆらぎあう。今日の場合は背骨を上にして横たわった相手の仙骨から順に、さまざまな次元方向に微細なゆらぎを増幅する。各部のゆらぎが相手の固有のサブボディの動きにつながっていることを想像しながら、一緒になって心地よいゆらぎを共有する。

は、序よりすこし深くからだの内部の経絡に触れ、相手のサブボディの硬結やくぐもりに届くよう経絡を指圧する。目の前の物理的なからだはあくまでもサブボディへの入り口にすぎない。経絡はからだの闇の深部へ導く坑口なのだ。この指圧は、わたしが学んだ遠藤喨及氏のタオ指圧の技法にしたがって行う。遠藤氏の『共感的想像』という指圧の基本的態度から、現在の生命共振という基本的考え方が導き出されてきた。

は、タオ指圧における超特穴を見出し、底に至るまで押す。そのひとの最も押してほしいと感じているツボを想像し、その一点を底に至るまで押し、その体感を共有してから底から上がってくる。(これが体得できるまでには何年もの経験が必要だ。ゆっくり取り組んでいく。)

は、底に至って緊張したからだを緩める。内臓を三指で切診し、さまざまなしかたでさする。切診は遠藤喨及氏の師である増永静人氏の経絡指圧から学んだものであり、腹をさするのは、謝明徳氏の気内臓療法から学んだものだ。

は最後の仕上げにあたる。身体技法を受ける中でからだの深部から浮かび上がってきた眠っていた刺激をすべて消散させ解除する。具体的には、相手の両足をひざに乗せ、微細に揺する。心地よい振動が頭部に届く最低限の振動でいい。わたしたちのサブボディは、胎児期に母親の胎内で味わっていた微細なf分の一ゆらぎを最も好むものだ。意識には感知できないほどの微細な共振を送る。そして最後の最後に相手の両足の裏を自分の正座した腹にぴったりつけ呼吸を送る。これもまた胎児期に母の胎内に触れていた記憶を呼び起こすとびきりのものだ。大概のひとはこれで気持ちよく寝入ってしまう。

 

――ざっと、これが共振タッチ(リゾタッチ)技法のあらましだ。物理的なからだではなく、下意識のからだ(サブボディ)とサブボディのからだの間で起こる生命共振を本質とするものである点と、調体・探体と触体の間で起こるさざなみのような相互深化を特徴とする。

サンフランシスコから来たキムは、この技法を身につけて、リュウマチで苦しむ母親を癒したいといった。大概の触れ方では傷みが増すだけで受け付けないが、これなら母親も受け入れてくれそうだという。

現代ではすべての病は無意識のからだ(サブボディ)の病と密接に関連している。キムの母親もとても感受性の鋭い人で、その場にいる人の気持がすべて察知できる人であったという。だが、一生ずっと忙しく働き続けて、自分のからだだけは配慮することができなかったようだ。それがリュウマチにつながっているのではないかとキムはいう。あらゆる病に対する、下意識のからだの共振からアプローチする方法を確立すること。この技法はその任務を持っているようだ。

今日は、この後みんなで露天風呂に入った。この水曜日のリフレッシュのおかげで木曜・金曜の深い練習に向かう英気が養われる。よいリズムを発見できた。

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2006年6月19日

生徒のサブボディに成りこむ

月曜日の明け方、しきりにわたしのサブボディが今週二週目を迎える生徒のからだにのりうつって、今週はどんなことを従っているかをしきりに探っているのに気づいた。先週の一週間で果たした生徒達のサブボディへの変成が、次にどこへ行きたがっているか、私はもうからだごとそっくり、サブボディを産婆する教師、ピュアな共振体に変成を遂げたようだ。というよりサブボディになると、自分と他人との区別がなくなるのだ。これほど愉快なことはない。生徒のからだにのりうつる作業を実に嬉々とこなしている。じっさい、そこでなにかつかめたときほどうれしいことはない。サブボディは楽しむ天才だから、放っておいても面白いことには目がない。一晩中追求しぬいていたようだ。

そして、明け方サブボディさんは今週の課題を私に示唆してくれた。

からだの百丹三元ブロックというあたらしい手法だった。

 


百丹三元ブロック

 

1.最初は座位から始める。骨盤をゆっくり回して、心地よいゆらぎの速度、サイズ、リズムを探る。

2.仙骨を水平次元、矢状次元、戸板次元の三次元方向にクロスエイト(アラビア数字の8の字が、90度に組み合わさったかたち)に動かす。動くたびに仙骨と骨盤の仙腸関節や、仙骨と第五腰椎の間の仙腰関節が微妙に開いたり閉じたりする。その微細な変化の中に無数のクオリアが折り畳まれて眠っている。そのクオリアに耳を澄ます。

3.ある時点で、流動的ゾル的な動きから、固体状に固まっていくゾルーゲル変換をする。そして、そこにできた硬結のクオリアを味わいぬく。

しばらくしてリリースし、ゲルーゾル変換から流動的なクロスエイトの動きにもどる。

4.仙骨の次は、へそ=第三腰椎で同じように三元ゾルゲルブロックを味わう。

5.同様に、背中の中心(第十胸椎)、胸の中心(第五胸椎)、胴体の上端(第一胸椎)、首の中心(第四頚椎)、頭の中心(第一頚椎)、あご、口腔呼吸、目の各十丹で、行い、微細なクオリアが各部に深く折り畳みこまれていることを聴く。

6.さらに、胸骨、肩甲骨、肩、肘、手首、手のひら、指、骨盤、大たい骨、すね、足首、足の各関節を開閉して聴きこむ。

7.速度や、硬結の程度が少し変わるだけで、別のクオリアになる。じょじょに、さらに微細な差異を味わい分けていく。

8.このからだの各部に折り畳まれているくぐもったクオリアに触れることができる微細な原生感覚が開かれれば、後はどうにでもなる。この学校に入学してもそれがつかめない人は、何をやっているのか結局分からないまま通り過ぎていく。遅い人は一月はゆうにかかる。だがそれに耐え切れないで途中でやめる人もいる。だがそれはサブボディの産婆としての私の責任だ。いかにしてあらゆるタイプの人がこの原生感覚を取り戻すように開くことができるか。私の課題は無限に遠い。

9.練習時の注意

ゾルゲル転換によるブロック=硬結は強くやりすぎないこと。関節を強く硬結しすぎると傷めてしまう。あるいはもともと潜んでいる隠れた硬結を引き出してしまう。そうなると、指圧や鍼灸の世話にならなければならなくなる。指圧や鍼灸はこのからだにできた無意識の硬結をほぐすものだ。

10.だが、現代人のからだの硬結は、昔のような実の凝りではなく、精神的な虚の凝りに転換している。私はタオ指圧の遠藤喨及氏からそのことを学んだ。1980年代に日本人のからだは実の凝りから虚の凝りがメインになる大きな転換を超えたそうだ。遠藤氏の指圧はそれに対応して、増永静人氏から受け継いだ12経絡指圧から、超脈指圧へ大転換を行った。それは物理的なからだの凝りに働きかける昔流の指圧から、無意識のからだの歪みや硬結に働きかける新しい指圧技法への転換を意味していた。

 

共振タッチ(リゾタッチ)技法とはなにか

わたしが使っている共振タッチという技法は、遠藤氏のタオ指圧の考え方をさらに徹底して、下意識のからだであるサブボディとサブボディの間に自然に起こる生命共振現象を捉え、それを共振によって増幅していくことに焦点を絞っている。命がいつももっとも求めているものはこの生命共振であることに気づいたからだ。この点については稿を改めて、共振タッチ技法を解説していきたい。この技法を身につければ、さまざまな心身不調や障害に悩んでいる人を力づけることができる技術を身につけることができる。それを身につけた人は、自分の悩みに押しつぶされているそれまでの人生から、ほかの人を力づけていく積極的な人生に180度転換することができる画期的な技法なのだ。私のサブボディはいつの間にか、こんな大変なものまで発明してしまったのだ。われながらその下意識の創造力の底知れない深さに驚嘆する。そしてこの創造力はだれものからだの闇に眠っているのだ。それを解放できる日が来るとは、想像するだけでも楽しくなるじゃないか。

 

 

この練習によって、生徒は新しい深みへ入る手ごたえをつかんだようだ。

自分のからだの奥深く長年降りたたまれていたクオリアに再開すると、だれでもとても懐かしい気持ちになる。おそらく胎児時代に仕込まれたクオリアに何十年かぶりに再開することもある。ここではそういう奇跡が毎日起こっている。

生徒が、本当に自分のからだの底からつかみ出したサブボディのクオリアの微細な差異を取り逃がすまいと、心をこめて丁寧に動き始める姿はとても美しい。それに共振して一緒に動くだけでとても幸せな気持ちになれる。

 

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2006年6月16日

生命坑の深み

今月は開校以来4ヶ月目になるが、かつてないほどじっくりからだの深みへ入っていけるようになった。現在までの理想形として記録しておくに価する。

初日月曜日は、生命体として自分のからだと動きを自己把握する原生感覚を取り戻すことからはじめた。目隠しをして動き、自分のからだのありよう、ほかの生命体の気配を察知する原生的な共振力などをからだの闇に探った。

二日目火曜日は、胎児の時代の記憶を呼び覚まし、単細胞だったころから、じょじょに多細胞となり、虫、魚、爬虫類、哺乳類へとメタモルフォーゼしていった自分の生命史を振り返った。生徒には私の師の中の師である粘菌先生の写真と変態サイクルを見せて、粘菌体への変成を行った。

三日目は、先にも書いたが五月の生徒からの提案で、からだに触れ合うリゾタッチ技法に習熟することにして、休養日として設定した。

それがよかったのか、4日目の翌木曜日は、デビッド・ザンブラーノ譲りのフライング・ローテクニックや私のアニマル・ムーブメントで朝から激しく床と空との間をダイナミックに動き、午後は午後で一転して、外向運動チャンネルの衰弱から崩壊―臨死―死―臨生へと向かう生と死の間でゆらぐからだになった。

すると、なんとこの日のサブボディ=コーボディ劇場では、すべての生徒が他界からこの世を見つめる臨生のまなざしを見事にやってのけた。それにはわれながら愕いた。いままで、こんな高度な動きは最初から言っても通じるはずがないだろうと、自己規制していたのだ。

臨生のまなざしなど、それを踊れた人はたぶん世阿弥と、土方巽の最後期の舞踏以外ないと思える。土方の一番弟子だった芦川洋子にさえ、その土方の臨生のまなざしは見えなかったのだから。それは、彼女がトモエ.コムに載せている文章で、静かな家は失敗作だったと哀れな総括をしているので分かる。(「臨生」については、舞踏論4「臨死臨生行」を参照ください。)

わたしだってそれがつかめる35年も掛かったのだ。そんな高度なことは伝わるはずがないと諦めていたが、それが大きな間違いだったと知った。確実に意識を止め、サブボディモードに入ることができた生徒は、言われたとおり素直にやってみることができる。そしてみごとに臨生体への変成を遂げる可能性の萌芽を見せてくれた。死者に変成し、最小限にきりつめた他界と現世の境でゆらぐ動きだけで、このクオリアに満ちた世界に臨生のまなざしを向ける。たったそれだけのことが出来るまでに、35年かかった。だが、踊りは瞬間コミュニケーションだ。であったばかりの生徒にも通じる。大きな驚きだった。生徒達も一様に、今日はなんてリッチな一日だったことかと感動をもらしていた。

もちろん、それはその瞬間だけの奇跡のようなもので、今日になれば生徒達はすっかりその動きを忘れてしまっていたが、それは仕方がない。

5日目の今日は今日で、からだの闇に潜り、世界中で自分にしかない固有のサブボディを探る作業に入った。つかんだ動きをからだのチャンネルで出してみたのち、その世界を絵に描いてビジュアルチャンネルに翻訳した。それで自分にもほかの人にもその人固有のサブボディの世界がより深く理解できるようになる。さらに午後からは音像チャンネルも開いて、体腔息声を踊りの中で出すチャンスをみつけ、ほかの人のサブボディの踊りに音像チャンネルを開いて、共振した。これで今週は動き、体感、映像、音像と四つのチャンネルを開くことができた。二週目以降に他の四つのチャンネルと五欲のトラベルに向かう。(八つの基本チャンネルと五つの基本的な欲望については、サブボディ・メソッドの図解ツアーと、キーワードツアーを参照してください。)

わたしの授業の特徴は日によってまったく違った練習メニューをぶつけて、意識をきりきり舞いさせて、意識などを使っていてはとても対応できない密度の練習をこなしていくことだ。生徒達も、すごいことが毎日起こっていて、いまはまだ総てをひとつに統合することができないけれど、いろんな新しいものがからだの中で渦巻いているのが分かると発していた。今月の生徒は三人ともなかなか食いつきがいい。ほかの予約していた生徒が遅れたりキャンセルしたりで、三人でこじんまりとじっくりやってきたのがよかったのかもしれない。

今週のビデオは生徒に編集してもらったので、まったく臨生の動きなどは映っていないがそれは仕方がない。舞踏がビデオや写真に写ること自体奇跡に近い稀有な出来事なのだから。だが、私のマナコはしかとそれを見届けた。サブボディの産婆冥利に尽きる役得だ。

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2006年6月14日

リゾタッチ技法

今月は生命に耳を澄ますことができる原生感覚を取り戻していくことを根幹において授業を進めている。

その一環として、今月から毎週水曜日は、踊りを探り出すためにからだを追い詰めることを休み、互いのからだに触れあい揺すりあい圧しあいいたわりあうリゾナンスタッチ(略してリゾタッチ)技法に習熟する日にすることにした。

5月のクラスの参加者から意見を聞くと、週5日ぶっ続けでからだの下意識の闇に直面し続けるのはきつすぎる、中日一日休養日があったほうがいいという意見がマジュマビからでて、ほかの人もそれがいいと賛同していたので、今月から早速採用することにした。

私の授業は、調体(Body Conditioning)、触体(Risonance touch)、探体(Subbody reseach)、そして、最後の透体(transparent body:サブボディ=コーボディ共振劇場で透明体となること)の4部からなる。

調体とは、ゆらぎ瞑想や、八方ゆらぎ、百丹三元、などさまざまな技法を駆使して、意識を休め、下意識と意識が半々につりあうサブボディモードとなって、サブボディから踊りがつぎつぎとでてくるからだのもっともいい状態を作り出すことである。これはもちろん、生徒が毎朝自分で行うことが必須である。

次の蝕体は、互いのからだにさまざまなしかたで触れあい、生体間の生命共振を味わいあうことである。これにもさまざまな技法がある。今回これまでにやってきたことをまとめて、週一回の授業でそれを生徒に伝授していくことにした。これによってほかの人のからだの面倒を見ることが、自分の心身を原生感覚を発揮して、きめこまかく管理する能力をのばすことにつながるからである。

三番目の探体は、さまざまな技法を通してからだに聴き、サブボディの踊りをつかみ出す作業である。

ここでつかみ出した踊りは、最後の透体(サブボディ=コーボディ共振劇場)で、シェアしあう。一人が踊るのをほかの人がさまざまな仕方で共振しつつ味わい楽しみ分かち合う。

これまで、何年間かさまざまな触体技法を探究して、ワークショップや授業に取り入れてきたが、ようやくここにきて一つの技法としてまとまってきた。

わたしが遠藤喨及氏から学んだタオ指圧を軸に、野口晴哉氏の整体技法、野口三千三氏の野口体操、イスラエルのハリーから学んだ微振動技法、脳脊髄液の還流をはかるクレニオ・セイクラム技法などを、ずっと続けてきたが、それらの身体技法の根底に流れるものは、生体間に自然に起こる生命共振現象であることが分かった。それが分かったから、すべての身体技法や手技を統合することができるようになった。

すべての身体技法は生命共振が基礎になっている。

野口晴哉はじかにそう言っている。

「治療ということ、薬がなすにあらず、その用うる技にあるにあらずして、治療する者と受ける者との生命に生ずるレゾナンス也」(「養生」、『偶感集』――永沢哲の『野生の哲学』より重引)

私が知る限り、野口晴哉は生命の現象についてもっとも深くまで探索しえた人の一人だと思う。学校などにいって、近代意識に毒されず、ただひとえに自分自身の長年の治療経験から得た真実を人に伝えようとした。

指圧の世界では、増永静人と、遠藤喨及が双璧だが、どちらも原始感覚を強調する。遠藤氏は受け手と施術者の間の「共感的想像」による「気のからだの統合・一体化」を教えの根本においている。

言葉は違うが、生体間の共振を根本からつかんでいるのに違いはない。

明治・大正・昭和期に日本で起こったいくつかの新興宗教は、この生体間生命共振現象を宗教的に取り入れ、独自の手かざし療法を生んだ。青年期の私はそれらのものを毛嫌いしていたが、いまになるとかれらも今わたしが経験している生命共振現象を経験し、それをただその時代の言葉で解釈すると、新興宗教になったということだと、理解できる。

大正時代に日本人が発案し、いま欧米に普及しているレイキなどもこの現象を、特別の超高周波によるとか、独自の宗教的解釈を与えているが、そうする必要は何もない。共振はただ生命と生命の間に起こる自然現象なのだ。生命や物質を根源的に生み出しているひもが共振しているのだから、何の不思議もない。(ひも理論については別項「共振論」を参照のこと)。

ただ、ありのままの姿をみるだけでいい。それが見えるようになるには意識という偏見を脱ぐことだけが大事なのだ。それができない人が、別の偏見に取り付かれたりするのだ。

リゾタッチ技法についてはすこしずつ、このサイトのどこかで詳解していくことになるだろう。お楽しみください。

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2006年6月11日

 生命に耳を澄ます

今年の4、5月のクラスは異常に病気が多かった。10人ではじまったクラスだが、南インドから4日間の旅でここへ来るまでに半数の人が下痢の症状を呈していた。月半ばでも多くの人がさまざまな病に倒れ、最後の4週目の最終日までたどりつけたのは、3人だけだった。無病で過ごしたのはタイのタナポールだけだった。

これはこれまでにない経験だ。聴けばあちこちのインド旅行者が同様の下痢その他の病に見舞われているという。

私のクラスでは、それまで触れたことのなかった自分の下意識の世界に触れる。そこには見たくないもの、触れたくないものが充満している。いたるところで自分のエッジに直面する。

その不快さに耐え切れずそこできびすを返して、やめていく人もいる。

自我は、不快なことを避ける傾向がある。自分の見知った心地よい世界だけで生きていたいのだ。だれにもそれを止めるわけには行かない。

ただ、その不快さに堪えて、自全に触れようとする志向性を持つ人だけがこの学校を続けていくことができる。

この難関を超えさえすれば、驚くべき豊穣が待ち構えているのだが、そういう人参を鼻先にぶら下げるやり方をわたしは好まない。人を操作することが嫌なのだ。60年近くもこの世の修羅場をくぐってくれば嫌でも人を思い通りに操作する技術を身につけてしまう。だがわたしはそれを発揮する生をいきたくない。私自身が人一倍人に操作されるのが嫌だからだ。

ともあれ、今日書きたかったことは、来月はこの学校に参加してくる人が、自分の心身の状態をコントロールできる力を付けていくように授業を組みたてなければならないということだ。

それが自分の生命に触れる道だと思える。わたしたちはいったいいつどういうときに病気とか、不具合に陥るのか。病気や不具合とはいったい生命からのどういうメッセージなのか。それに耳を澄ますことができる技法を伝えたい。

からだの闇の中のものすごく微妙な原生感覚はそれを知っている。わたし達の意識がそれを知らないだけなのだ。


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2006年6月3日

生命のクオリアに触れる

生命そのもののクオリアに触れるにはどうすればいいか。

何年か前に、毎朝、生命ゆらぎを聴くという瞑想から毎日の日課を始める習慣がついてきた。まわりにヒマラヤの自然以外何もないところだから、ほかのものに災いされずに、自分の命に耳を傾けることができる。

といっても始めた当初は、「命なんていったい自分の中のどこにあるのだろう?」というような手探り状態だった。

何年か経つうちに、命はいつもゆらいでいるという感触がつかめ始めた。

なにか知らないが、じっとしていないものがある。それは大きな波動やごく短い波動などさまざまな波動を身にまとっていつもゆらいでいる。

そのゆらぎは、すこし元気になったり、元気を失ったりというゆらぎや、強くここにいるという感覚とあまり強くここにいないという感覚との間のゆらぎであったりする。

その生命ゆらぎに耳を澄ましていると、いろんなことが分かってきた。自分がわけの分からない不調に見舞われるときはいつも、この命のゆらぎのリズムにどこかで反しているときだということ。

どこかで命のゆらぎの波動とともに生きていることからはぐれてしまった状態、これが不調や不全の根源にあること。

日本で生きているときは、この命のゆらぎにうまく聴き入ることができていなかったこと。

インドに来てからも、工事が続き、インドと日本の間の文化ギャップに襲い掛かられてきていたころは、生命ゆらぎに聴き入る余裕など持てなかったこと。

そう、工事が終わって周りの日常社会とのわずらわしい関係のすべてを滅却することが可能になったここ2,3年のことだ。命のゆらぎに耳を澄ませることができ始めたのは。


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2006年6月1日

自全ウオーク

5月コースもいよいよ大詰めを迎える。

最後の急峻なハードワーク、自全ウオーク、世界ウオーク、離見ウオークへと入る。

今日は西洋勢が総倒れで、タナンポールとマユミのアジア勢だけになった。ノルウエーのマジュマビは耳の流行病に倒れているという。下意識の影やnot-meに直面して精神的にきつくなると、からだも異常に見舞われやすくなる。来月からはこの心身の自己管理も同時に深められるような授業内容をくみ上げる必要がある。

自全ウオーク

1.これまでの一ヶ月のゆらぎ瞑想や、探体や即興でつかんだ自全の中のすべてのサブボディを引き連れて歩く。ここではヒマラヤの山に向かって自全のすべてを見せるように歩く。

2.最初は気配だけを引き連れて進む。

3.両手をゆるく開き、腕やからだの全面にサブボディの気配が張り付いて動いている。あらゆる次元からのメッセージを影のようにまとって歩く。

4.多くのサブボディは人間の形をしていない。影のようにまとわりついたり、アメーバのようにからだに張り付いたり、陽炎のように空中を漂っていたりする。それら異次元からの使者をごくわずかな気配だけがゆらぎの中に浮かび上がってきては消える。

5.全体として自分の全体が他界や異界とこの現世の間をゆらいでいる存在になって歩く。

6.なにかが出てきそうになれば、その出現の間合いを探る。最適の<序破急>に耳を澄ましつつ歩く。

 

 

世界ウオーク

1.世界に向かって自全と共に歩く。

2.はじめは両手を大きく左右に広げ、前に世界、後ろに自全を引き連れていることを感じつつ歩く。

3.前の世界には、戦争や暴力で虐げられている人、殺されていく人、病む人、犯される人、崩壊していくひと、世界のありとある不幸と幸福がひしめいている。そういう世界に向かって歩く。

4.広げた手と、からだが世界と共振して動けば動くままに任せる。からだに起こる、世全と自全の共振に耳を澄ませ、それに従う。

5.その世界をどう感じるか、どうにかしたくなるか、逃げ出したくなるか、どんな自分が出てきてもそれは自全の一員として認め、引き連れて歩く。

6.世界からの強い視線を受ける。おまえなど何もできないのに何をえらそうにしようとしているのだ、という批評家も出てくる。それも自全の一員だ。くじけそうになる自分もいる。がんばって進もうとする自分もいる。自全の中の弱さの端から強さの極限まで引き連れて歩く。

7.サブボディの動きが出てきそうになれば、最初の序の出現だけを行って異界に消えていく。すべてのサブボディの最適の序の出現のタイミングを図る。

 

 

世全ウオーク

1.以上の自全ウオーク、世界ウオークに加え、背後に世全を引き連れて歩く。

2.自分の背後に世界中の不幸を背負って苦しみ、のたうち、死んでいく人、死んでしまった人を引き連れて一緒に歩く。

3.世界中の苦しみと自分の中の最深・最弱のサブボディたちが共振し始める。世界と自分の差異などなくなる。ただ、無数のクオリアが共振しているからだに変成する。そのからだを世界に向かって差し出していく。

4.歩くにしたがって、自全・世全の共振によって出てくる動きに、最適の<序破急>で出てくるようにコントロールしながら歩く。

 

 

離見ウオーク

1.以上と同じ自全・世全ウオークをしながら、その姿を離見しながら歩く。

2.最初は、山に向かって歩き、山からどう見えているかを離見しながら歩く。山からすれば自全も、世全も小さいことかもしれない。だが、これが私のすべてだ。すべてを差し出して歩く姿を外側から眺めながら歩く。

3.さらに自分の周りに見所(観客)がいることを想像して歩く。動きを出すたび、観客との間でどういう共振が起こっているかを確かめつつ動く。。

4.観客の数を、3人、10人、100人と増やしていく。

5.観客との微妙な共振を離見しつつ、自全・世全の共振の中から出てくるサブボディの動きに従う。

6.観客のあらゆる反応を想像し、すべての反応を引き受けて歩く。観客は泣き出すかもしれない。逃げ出すかもしれない。目をそらすかも知れない。何が起ころうと引き受けて歩く。

.そして、あらゆる<序破急>が、見所(観客)の気配との相互作用=共振の中で最適のタイミングで出てくるように探る。これが見舞共振離見である。見所の驚きや、ざわめき、ざわめきの静まり、それらの微妙な波のなかに最適の<序破急>が立ち現われる間合いを見出す。

8.自分が見所と見舞共振離見しながら踊っていることそのものを外から離見する。山から、天から、地獄から、異次元の世界から絶えず眺める離見を確保する。いついかなる異次元が開畳していくか、その最適な間合いを離見する、それはこの最後の、次元を超えた透明離見による。

 

これらの歩行を続けて行う。
さすがのタナンポールもマユミも、
自分のからだがまるで十倍も重くなってしまったように感じるという。
そして一本ごとにどっと疲れが出てくる。
それをのりこえて、次のより高度な歩行に向かう。
これはわたしにとってももっともきつい練習のひとつだ。
一刻といえど気を許すことができない。
気を許したとたん練習にならないからだ。
コースの最後にはこのもっとも張り詰めた練習が待ち受けている。
ここに来て初めて生徒は
この学校が世界最深の学校であることを身をもって知る。
この練習は一度や二度で身に付くものではない。
たぶん一生かけて身につけていかなければならないものだ。
この日は単にその長いプロセスの始まりに過ぎない。
さまざまな難関を乗り越え、一ヶ月のコースをたどり終えて、
生徒は初めてこのスタートラインについたことを知る。
途中でやめていった人は、ここまでたどり着くことができなかった。
それは仕方がないことだ。
選ばれしもののみが入れることが許される
狭き門がここにある。

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2006年5月

2006年5月30日

リゾーミング・リゾナンス

昨日に続き、目隠しをして闇の中に固有のクオリアを探った。

そして、探し当てた自分独特のクオリアの動きがからだの一部から始まり、他の部位へじょじょに伸展していく、リゾーミング・ボディになる練習をした。

そして、闇の中で他の生きものに出会えば、不触不離の距離でまさぐりあい、その生き物特有の動きを探り、つかむことができればじょじょに自分のからだの一部から伝染が始まる。

ただ、これだけのルールで1時間動くに任せた。

今日はイスラエルのシャニ、シバニ、イタリアのジャダ、そしてタイのタナンポールというメンバーだ。今年はじつに多くの生徒が病に倒れていて日によって顔ぶれが大幅に変わる。

しばらくすると、興味深い現象が生じた。目隠しをしているので、自分が触れた相手が誰だかもなかなか分からない、ましてその生きものがどんな特有の動きをしているのか認知するまでにかなりの時間がかかる。だが、しばらくすれば触れあっている二人の間で動きのクオリアの縮合が起こり、二人の動きが混ざり合った新しい動きを共有することになる。そして、それに触れた他の人々もゆっくり時間をかけてそのクオリアに伝染されていく。そして、しばらくすればまた群れのどこかから新しいクオリアの動きが始まり、群れ全体にゆっくり伝染していく。昔からディレイ・インフェクションと呼んでいる現象だ。そのディレイが目隠しをしているおかげでごく自然に起こる。これは新しい発見だった。そばから見ていると飽くことがなく、いつまでも誰かが面白い動きをからだの闇の中から見つけ出し、群れに伝染していく。昔からこんなリゾーミング・リゾナンスとでもいえる群れの動きを現出したいと思っていた。その道筋が闇の中から浮き上がってきた瞬間には驚かされた。待てば回路の日よりあり。思い描いたイメージを長年把持し続けていると、いつか実現する日がやってくる。どんなに時間がかかってもね。このリゾームのイメージなど、94年に踊りを始めたとき以来のものだから12年かけて発想から実現までのみちをゆっくり成熟してきたものだ。


2006年5月29日