May 2007
| 2007年5月 |
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| 2007年5月31日 ●生命共振という美しい謎への旅 ここで起こっていることが何なのか、 少しずつ分かってきた。 サブボディとコーボディの間の旅とは、 個人的無意識のからだと、 集合的無意識のからだとの間の旅なのだ。 無意識の世界では無意識とからだは別物として別れていない。 それはひとつなのだ。 下意識のからだをサブボディと呼んだ。 コーボディとは、集合的下意識のからだのことだった。 サブボディとコーボディの間で、不思議な相互転化が起こる。 おそらく生命共振がこの相互転化を媒介している。 フロイドやユングは、下意識のからだについて 深く追求したわけではないので、 かれらの概念とは微妙にずれるが、 あえて言えば、サブボディとコーボディの間で起こる謎は 個人的無意識と集合的無意識の間の謎を指す。 わたしたちは今、その謎を解く現場に下りていく方法を 見出したことになる。 これはおそらく人類史上はじめてのことなのだ。 ミンデルは、世界ワークという別の枠組みでやはり 集合的無意識の謎を追求している。 だが、からだでその世界へ降りていく方法は ここではじめて発見されつつある。 下意識は下意識だけであるのではなく いつもからだと一緒に変容流動している。 踊り手だから発見できたことだ。 手垢にまみれたフロイドやユングの用語を使わないとすれば、 命と自己との間の謎ということになる。 こう言ったほうがすっきりするかもしれない。 サブボディとコーボディとの謎は 自己と生命の間の謎だといえる。 ここは、個的生命と類的生命とがいかに関係しているのかを 探求できる場なのだ。 類的生命としてはわたしたちは皆等しく4億歳という年齢をもつ。 個的生命としては、たかだか百歳以下の短期にしか過ぎない。 だが、個的生命と類的生命の両方を生きることで 生命観は根本的に変わる。 個としては死んでも、その創造や発明は類として生き続けることができる。 サブボディ・コーボディシアターでは、 生命共振がかたちになって現れる。 そこで起こっている不思議は、 わたしたちの命や下意識の世界が互いにつながっていること、 とても共振しやすいこと、 その共振がたとえようもなく美しいこと、 これに尽きる。 からだの闇でこんな美しい泉に出会うとは思っても見なかった。 それほど、エゴを捨てたサブボディの生命共振は美しい。 かけがえのないものだ。 私自身こんなことが起こるとは思っても見なかった。 ユングも生命共振については知らなかった。 彼はどちらかというと集合的無意識の 負の現ればかりを探ったのだ。 何が起こっているのか、それは現場でしか分からない。 生命の間の共振は写真にもビデオにも写らないからだ。 伝えようがないのが返す返すも残念だが、 それは今のところいたし方がない。 それは踊りの宿命だ。 伝えられないものをどこまで伝えられるのか、 これからの課題だ。 |
2007年5月30日 ●透明なデュエット いったい、何が起こっているのだろうか? 不思議なことが起こる。 生徒たちは、いつのまに、こんなにみごとに エゴを捨てきる術を身に着けたのか。 4週目に入ると、奇跡のようなことが起こる。 今日は胎内回帰瞑想のあと、 それぞれのサブボディワールドの絵を描いた。 そして、他の生徒が描いた絵の中に、 自分の命が共振するクオリアを見つけて入り込んだ。 体感で共振し、動きで共振し、 音像、情動の<序破急>を見つけて あらゆるチャンネルで共振して入り込んだ。 それがあまりにスムーズに行くのに驚いた。 おそらく、自分の描いた絵ではなく、他の人が描いた絵なので、 エゴに囚われず、命が自由に共振性を開くことができたからだ。 誰もがそのプロセスを楽しんだ。 そして、30分の自己探体の後、 いつものサブボディ・コーボディシアターでは、 一人が自分のサブボディの動きを見せるとき、 そこにもうひとりがただ命が共振するにまかせて入り込んだ。 それがまあ、なんと美しい透明なデュエットになったことだろう。 今日は5人の生徒が最後まで残っていたが、 5組とも味わい深いデュエットを見せてくれた。 いままで、デュエットの練習をすると、 どうしてもエゴが出たり、 世間の男女の既成概念に影響されたりと、 スムーズには行かなかったのだが、 ただエゴを捨てて命になるだけで、人間はこんなにも 透明になれるものかと驚いた。 すべての生徒自身も驚いたはずだ。 こういう奇跡的なことが起こるから、 サブボディ=コーボディはやめられないのだ。 |
| 2007年5月25日 ●すこしずつ透明になっていく 五月の第3週が終わった。 今月の第3週目は、生徒にとって厳しい週だった。 毎日自分の問題に直面し、乗り越えようとする姿勢を 持続することは大変なことだ。 たいがい途中で逃げ出したくなる。 エッジに出会うとそれはとてもいやな味がする。 ここから先へは行くな、危険だ、引き返せ、 自我は猛烈な勢いで押しとどめようとする。 頭痛や悪夢やからだの変調に見舞われる。 今週の生徒もさまざまなものに襲われたという。 そんな症状が出ることはよく分かっているのに、 あえてそれを勧めるのは、それを乗り越えたときの 解放感のたとえようもないほどすばらしく爽快なものだからだ。 そんないいものは人生にそうそう転がってはいない。 だが、サブボディを突き詰める苦しさばかりではなく、 その裏には予想でもできないコーボディに出会う喜びが詰まっている。 今週の半ばにはみんなで自分のサブボディ世界の絵を描いた。 じつにユニークな世界が現れでた。 みんなでそれをお互いにじっくり味わった。 ほかの人の絵を見て、そこに共振できる体感があれば 感じてみる。それを見せ合った。 また別の人の絵のなかに、音像チャンネルの序破急を 見つけて体腔音声を出し合った。 絵の中に音楽のクオリアも折りたたまれていることが分かる。 自我を捨てて、ただ共振する命になると、 自分の絵であろうとほかの人の絵であろうと いろんなチャンネルが共振しだす。 さらに別の人の絵の中に情動の序破急を見つけて味わってみる。 それをシェアしあう。 ほかの人のユニークな世界にどんどん入れていく。 自分の世界にもほかの人がどんどん入ってくる。 世界で自分しか感していないだろうと思っていた 自分固有のクオリアにほかの人がどんどん共振する。 これを体験するのは爽快なことだ。 個性とはなにか、固有性とはなにか、 そんな概念が一瞬ぐらっと土台から揺れる。 なぜこんな共振が可能なのか? 命というもものに折りたたみこまれている 共振性の深さに驚かされる。 ほかの人の絵の中に入れるのなら、 ほかの人のサブボディの世界に入ることも造作がないことが分かる。 今週の後半はそれを試みた。 からだで共振するものを何でもいいから持ち込めばいい。 それだけでその人のサブボディ世界が少し豊かになる。 からだや動きで入ったり、音像チャンネルで共振したり、 さまざまな距離で共振したりと、 共振の仕方が無数にあることも分かってくる。 自我を放棄することの爽快さも徐々に味わえる。 あ、今のはなんだったんだろう? 自分の中で未知なものが動き出している。 そう、それがコーボディというものだ。 サブボディを突き詰めていくと 群れのなかでコーボディに変容するのがからだでわかる。 いつのまにか自我ではない、別のものが動き出している。 命といってもいい。 命の動きが少しずつ透明になっていく。 ほんのすこし、少しずつだけれど まったく別の世界に入っていっている。 こうして私たちは、 命の共振力の底深さを知り、 新しい世界共創のやり方を見出していく。 そう、とうとう、もっとも味わってもらいたいものを 味わってもらえるようになってきた。 ことしは、三月、四月、五月と加速に加速がかかって、 ここまできた。 生徒はみなインテンスだという。 二ヶ月続けてきたディクラは、7週目に、 少し一人になって命を味わいたいと申し出た。 そういうときがくるものだ。 そのときは命の声に従えばいい。 来月からは、三ヶ月以上の長期コースの生徒が増える。 もう少しペースを落としてじっくり歩むことが可能になる。 ときにはピクニックなどの日も作れるだろう。 やれやれ、少しずつ少しずつ、 やりたいことがやりたいテンポで実現できるようになっていく。 |
| 2007年5月22日 ●透明と不透明 透明さと不透明さの間を旅する。 それがサブボディメソッドの旅だ。 生命はいつもかすかにゆらいでいる。 この生命ゆらぎから、なんらかの不透明な層を経て、 あらゆる症状が立ち現れる。 なんらかの身体症状や、ふと出てくる動きや、癖や、夢や、 さっと浮かんできて通り過ぎるイメージ、何ものかのささやき、 感情の囚われ、関係のもつれ、世界と自分の間のかすかな不全感、 ふと過ぎる思い、 ……それらのものは、いつも不透明な闇からいきなり現れる。 私たちは不意を打たれて驚き、 時にはそれらに支配され、取り付かれる。 それらが生起する根源的な生命ゆらぎからのつながりが 透明に見えないから、そういうことが起こる。 だが、意識を鎮めてよくよく感じてみれば、 すべては微細なクオリアゆらぎで つながっていることが分かる。 今週は、生徒が自分自身の問題に直面し、 それらをどう乗り越えるかを踊りにする。 原因不明なからだの凝りや、滞りなどの身体症状、癖や、 囚われや、くぐもりにからだごとなりこんで、踊ってみる。 踊るなかで、それらの囚われから自分を解き放つ道を探る。 まずは、ただの単細胞の生命になりこんでみる。 その生命ゆらぎの相から、どうして、 こういう問題が生じてきたのか、その淵源を探る。 すべては超複雑な迷宮の中にあるかに見える。 だが、その一部でもつながりが垣間見れれば よほどすっきりするものだ。 なにもなにからなにまで透明化しようとすることはない。 そんなことは不可能だ。 ただ、ほんの少しだけでも不透明なものが透明になる、 それがすごいことなのだ。 それができるようになれば、 たとえば、いきなり何らかの情動に襲われたり、 関係感情に囚われたりすることが起こっても、 それらが透明化可能なことを知る。 それだけで、うかつに囚われてしまうことは少なくなる。 闇の中からいきなり姿を現す妖怪も、 起源が不可視だからおびえさせる。 だが、あらゆる妄想にも幻惑にも起源があり、 すべてが生命ゆらぎからつながっていることを知れば、 怖いものでもなくなる。 思念や熟考だけでは、これらを透明化することはできない。 思考チャンネルをも含めた全チャンネルのサブボディに からだごとなりこむことによってのみ、これらのすべての過程を 透明にすることができる。 サブボディメソッドとは、実は世界で始めてそれを実現した 革命的なメソッドなのだ。 ただ、それらは自分で体験してみない限りつかめない。 それだけが残念なことだが、こればかりはいたし方がない。 水に入らずに泳げるようになれないのと同じだ。 |
| 2007年5月20日 ●自分の全体を透明化する これは、5月コース第3週の授業予定です。 いよいよ、自分という囚われへの取り組みをはじめる。 少しきつくなるかもしれない。 そのときは共振タッチで命の共振を聴きあって安らぎあう。 1.静寂体になる ゆらぎ瞑想をしながら、静まり返ったからだになる。 第一レベルの体底呼吸から、第二、第三、 第四レベルの体底呼吸に進んでいくとよい。 からだのもっとも微細なシグナルに耳を澄ますことが できるようになるまで静まり返る。 2.生命ゆらぎに聴く 第4レベルの体底呼吸(=最小呼吸)をしながら、 体底部のみをかすかに動かして呼吸する。 生命ゆらぎの微細な変化に耳を澄ます。 自分はいったい何を実現したいのだろうと、命に問いかける。 その問いがいつもからだの闇でこだましているような状態を維持す る。四六時中自全がその問いと共振している状態をつくる。 3.からだをめぐるサブシグナルに耳を澄ます 肛門周辺の筋肉と下腹部の最下部の腹筋のみを使って 第4レベル、または第3レベルの体底呼吸をしながら、 からだの各部の細胞の内呼吸に耳を澄ます。 からだの各部に起こる微細な体感の変化と対話しながら、 血液の味の微細な変化に耳を澄ます。 血液の中をさまざまなサブシグナルを担った クオリア伝達物質が流動している。 その変容流動を直接味わう。 酸素、廃棄物、ペーハー、水分、糖分、脂肪分、各種ホルモン、 性ホルモン、神経伝達物質、免疫伝達物質、血圧、 ……などのゆらぎに耳を澄ます。 4.生存諸欲求のゆらぎを聴く 体底呼吸を続けながら、からだの状態の微細な変化が、生存諸欲 求の微細なゆらぎにどうつながっているかに耳を澄ませる。 生存欲求、快適欲求、安全欲求、つながり欲求、 自己実現欲求などのゆらぎを味わう。 5.情動ゆらぎを聴く からだの微細な変化がどのように各種欲望や、無意識的な情動の 動きとつながりあっているかに耳を澄ませる。 情動は無意識裡に起こっているからだの変化と、 意識や感情とを媒介するメッセンジャーである。 からだに起こっている変化、血液の変化、欲望の変動、情動のゆら ぎ、……それらが、各部の筋肉の緊張や弛緩に、そして、感情の動 きに、心のあり方にどう関係しているかを透明に観察する。 6.八覚各チャンネルへの顕れを聴く からだの各部と対話しながら、各チャンネルへの微細な顕れに耳を 澄ませる。 特異な体感、緩み、凝り、こわばり、身体症状、嗜癖、…… ふと出てくる動き、動きの癖・好み・傾向、動けない感覚、…… 夢、ふと浮かんでくるビジョン、さっと通り過ぎるイメージ、…… からだの中のリズム、無言のささやき、なにか言いたくなる衝動…… 不意にこみ上げる情動、感情の囚われ、ふさぎ、顔のこわばり…… 対人関係のもつれ、くぐもり、人恋しさ、関係覚流のうねり、…… 世界像と自己像のわずかなずれの感覚、かすかな不全感、…… 思考の癖、循環思考、こだわり、気がかり、ふとよぎる思い、…… そして、それらのなかに、 自分がうまくコントロールできるシグナルやチャンネルと、 うまくコントロールできないもの・チャンネルがあることを味わい分ける。 7.自分のチャンネル特性を知る 誰にも得意チャンネルと、不得意チャンネルがある。 もしきみが、1の生命ゆらぎからら6の各チャンネルへの顕れまでのプロセスをすべて透明化できるチャンネルは、 自分で制御しながら自由に使うことができる得意チャンネルになる。からだの微細変化を透明に見たり感じたりできないチャンネルや、 うまくコントロールして使うことができないチャンネルは不得意チャンネルだ。 不得意チャンネルでは、サブシグナルの流れの一部分が、 自分にとって不透明なまま進行する。 それは、ある瞬間突然闇の中から襲い掛かってくるかに感じられる。 わたしたちはその不透明なサブボディに囚われ、振り回されてきた。 ときにはそれに支配され、憑依される。 自全を透明化するとは、これらの不透明チャンネルによる支配から 自分を解き放つ作業である。 この不得意チャンネルの不可視のサブボディの動きに触れ、 一緒に踊ることを試みる。 8.自分の問題を解決するサブボディを踊る これまで、うまくコントロールできず、無意識裡に囚われてきた問題を見つけ、それと踊ることを試みる。 少なくとも、その存在を認知し、特性を知り、一緒に踊ることをつうじて、 その不得意チャンネルのサブボディと友達になることができる。 友達になれば、前のように不意に襲い掛かることはなくなる。 互いに見知り、肯定しあうことができたからである。 こうして、徐々に自全の中で起こっていることのすべてが 透明に透き通って見えるからだになっていく。 9.透明体への長い道 からだ、身体反応、血流、情動、気分、下意識、意識、感情、思考、対人関係、世界像=自己像流――これらの間で起こっていることが、 すべて透明に見透かすことができる透明覚と、 それらを透き通って見せることができる透明体に変成すること。 ここから先は、長く辛抱強く多彩な訓練が必要な 死ぬまで続く透明体への修行のプロセスとなる。 どこまで行っても、すっかり透明になることなどありえない。 だが、ほんの少しでもこれまで不透明だったものが、 霧が晴れるように透明化するときの喜びは 何ものにも代えがたいほど大きい。 |
| 2007年5月19日 ●<破>――自全魔界を遍歴せよ 踊り手は、サブボディを乗り換え乗り換えして、 自全の全領域を旅していく。 その遍歴が<破>となって現れる。 旅すればするほど、自全の中にこそ魔界があることが分かりだす。 通常<破>は、3段から5段を設ける。 無論、7段でも10段でもいい。 <破>1、<破>2、<破>3と畳み掛けていく。 <破>の中にも、当然<破の序>、<破の破>、 <破の急>がある。 すべての<破>は、違った仕方で開畳されなければならない。 というより、すべての異次元はまったく違った形で接続している。 それに従うだけでよい。 微小点から始まる異次元、 緩急の変化から現れ出る異速度の次元、 高低差から躍り出る異空間、 異生物の棲む次元、 巨大時間の隙間から紛れ込む異時間の次元、 チャンネル転換の隙間から顔を出す異感覚の次元、 異貌の自己の棲む次元、 ……まさに次元転換の仕方は無数にある。 ジェットコースターのような<破>もあれば、 メリーゴーランドに揺られているうちに 地獄まで連れて行かれる<破>もある。 予想外の異次元が予想外の仕方で開畳されるのが 魔界の魔界たるゆえんだ。 思う存分自全魔界を探索し、 これまでに見たこともない異次元を開畳せよ。 次元開畳術の発明、これが<破>のこころだ。 楽しみぬきたまえ。 この魔界遍歴に巻き込まれることによって、 現世に生きていたはずの観客を、 すべての異次元にいざなっていく。 そして、いつしか知らないうちに、 観客もまた踊り手の棲む異界の住人であることに 気づかされてしまうのだ。 |
2007年5月17日 ●<序>――兆しを秘めよ 今週は<序破急>の<序>について 少し丁寧にやった。 踊りをいかに始めるか、 始まりにおいてもっとも大事なこととは何々なのか。 それが<序>をめぐる問題だ。 1.<序>の<序>――秘兆 からだの闇で何らかのクオリアと出会う。 これが踊りの始まりになる。 まだ動きにはならない。 動き以前に命はクオリアと出会っている。 だが、それは本人しか知らない秘密だ。 兆しを秘めること、秘兆。 これが<序>の<序>のこころだ。 その秘められた兆しの中には、 この踊りの一切の花も謎も予感のように折りたたまれている。 だが、それは踊る本人にさえ長い間分からないことだ。 動きの前に踊り手はいかなるクオリアと これから格闘することになるのか、 十分に準備ができていなければならない。 観客にはまだ何も見せない。 静まり返ったからだのなかで 命とクオリアの共振だけが静かに始まっていく。 従来の舞踏のことばでは<タメ>をつくるという ことばでこの<序>の<序>の呼吸が伝えられてきた。 2.<序>の<破>――秘兆ゆらぎ 秘められたクオリアとの出会いが、 かすかなゆらぎとなって現れ出す。 これが<序>の<破>だ。 何かしら、かそけきものが始まっている。 だが、何が始まっているのか誰にも分からない。 始まりつつあることだけを伝える。 これが秘兆ゆらぎだ。 クオリアはいつもゆらいでいる。 であったクオリアが重いクオリアなら軽さとの間でゆらぐ。 温かいクオリアなら、寒さとの間で。 生と死の間で。 開けと閉じとの間で。 命と石の間で。 明るさと闇との間で。 一色のクオリアだけではない。 からだのあちこちが違った次元にゆらぐ。 そうだ。さまざまなクオリアがゆらぎ立つ。 こうなれば、自全ゆらぎの始まりとなる。 観客のほとんど全員が、始まりつつある何かに捕らえられている。 だが、何が始まろうとしているのか、謎はいっそう深まっていく。 これが<序>の<破>の命である。 ここで観客のまなざしを掴んで終わるまで離さない。 踊りという命の共振現象がここから始まっていく。 3.<序>の<急>――異次元開畳 やがて、ゆらぎが拡大し、誰の目にも何が起こっているのかが はっきり見え出す。 踊り手は一つの異次元を開畳し、その世界の住人に変容する。 これが<序>の<急>である。 この開畳する異次元の中にいかに観客をともに引き入れるか、 これが<序>の<序>から、<序>の<急>にいたる課題である。 すべての<序>のテクニックはそのためにある。 4.<破>――異次元開畳につぐ開畳 この<序>のテクニックをつかみさえすれば、 後はどんな世界でも開畳していける。 通常<破>は、3段から5段を設ける。 <破>1、<破>2、<破>3と畳み掛けていく。 すべての<破>は、違った仕方で開畳されなければならない。 緩急、高低、時間、空間、チャンネル転換…… 予想外の次元が予想外の仕方で開畳される。 工夫のしどころだ。 踊り手は、サブボディを乗り換え乗り換えして、 自全の全領域を旅していく。 現世に生きていたはずの観客を、すべての異次元にいざなっていく。 そして、いつしか知らないうちに、 観客もまた踊り手の棲む異界の住人とされてしまうのだ。 5.<急>――揉み寄せ、発明 さまざまな<急>がありうる。 <急>は最大の発明のしどころである。 順手ならば、さまざまな動きを短時間のうちに次々と見せ、 手数を増やして揉み寄せ、緊張を極限まで高めていく。 それが揉み寄せの<急>だ。 そののちに、その踊りの中で最も踊りたかった踊りにいたる。 それが最後の<急>だ。 命に聴けばいい。 「この踊りを何千万回繰り返せるかい?」 命が「然り!」と答えれば、 それは紛れもない君のサブボディにとっての<急>である。 激しいクライマックスに至る<急>もあれば、 静寂の極致に至るアンチ・クライマックスの<急>もある。 華やかな花を見せる<急>もあれば 真っ暗な謎の中に沈んでいく<急>もある。 いや踊りにはこのどちらもが必要だ。 その踊りの花と謎を最果てまで開け果てる。 それができたら<急>を踊ったことになる。 世界でまだ誰も見せたことのない<急>を発明すること。 それが<急>の課題である。 そこで、踊り手は異界の住人として、 この世に異界からのまなざしを差し向ける。 その異界が死者の世界ならばそれは他界からのまなざしとなる。 この現世はクオリアの輝きに満ちている。 命はそれらとまばゆいばかりに共振している。 だが、死の世界は、どんなクオリアとも共振することはない。 共振なき世界から、共振世界を見つめる。 そのまなざしは現世に生きている観客に、 そこで生きろ!と告げる。 そここそが君の生きる場所だ。 見てみろ輝かしいクオリアに満ちているではないか。 豊かな共振にあふれているではないか。 自分の日常世界の豊かさを忘れて退屈し、 踊りなどを見に来ている観客に、 創造主として生きろと告げる。 それがサブボディからサブボディへのメッセージだ。 |
2007年5月15日 ●生命の味、自我の味 生命共振という単純明快な現象を授業のベースにして以来、 クラスの様相が変わってきた。 生徒自身が気づきだしたのだ。 自我を鎮めると生命共振を感じることができる。 だが、自我が頭をもたげるとこれを阻害する。 自分の中だの闇に、この巨大な対比を見せる 生命と自我という二つの相が共在していることが実感できてくる。 グループ即興のとき、たとえば動けない自分を感じたとして、 そのとき、自我の思考チャンネルが起動して、 「今日はからだが重い」などと説明してしまうと それに囚われてますます動けなくなる。 するりと、自我のわなをすりぬける術を見につけると いつでも動けるいい状態を保てるようになる。 このいい状態というのが、自我が鎮まったサブボディモードである。 創造的なサブボディがどんどん出てくるときはいい状態である。 自我が頭をもたげると、創造性は止まる。 こういうことはからだで分かる。 きわめて明らかな対比を毎日体験できる。 パートナーとペアになって何かをするとき、 相手の自我が頭をもたげて何かを忌避したりすると、 その瞬間自分の自我も伝染的に生起し、 「なんだ、こいつは?!」などと反発してしまうと 一切が台無しになることも体験する。 評価したり、判断したり、欲望したり、 思考したり、説明したりするありとあらゆる自我の働きは 生命共振を感じることを妨げる。 自分の心の状態によって驚くほどクリアな違いが生じるので、 ひとたび生命共振を知った生徒は、同時にそれを阻害する 自我の味も徐々に味わい分けるようになる。 日常体や日常意識は、 自我に対してこんな透明な態度をとることはない。 それは常に無意識の自我に突き動かされる、 不透明な闇に包まれているからだ。 そして、日常意識は 生命共振をまったく周縁化してしまっているので それとの対照で自我を相対化することもできない。 生命と自我は、常に相互対比的に照らしあってあじめて 互いの味の違いが透明になる。 下意識と意識とが半々に釣り合った状態を保つ、 透明なサブボディモードになれてはじめて分かるのだ。 この共振塾ヒマラヤは、生命の味と自我の味を 二つながらくっきりと味わい分けることができる場所だ。 世界でもまたとないからだの場所になってきた。 <生命と自我の相対性>――共振性原理の中に、 ひとつの興味深い特殊な原理が浮かび上がってきた。 E=mc2のような単純な数式にはなりえないだろうが、 明らかに何らかの強い相対性が働いている。 しばらくは生命と自我をめぐる現象を収集し続けよう。 目がくらむほどの巨大な闇がここにある。 両者がどんな未知の次元構造の中にあるのかも分からない。 ただ、自我は二元論的思考原理にとりつかれており、 生命はそれとはまったく別の多次元変容世界にある。 ツリーとリゾーム、二元論と多次元論を統合する ツリーリゾーム論理がここで激しく欠乏している。 あるいは論理ではなく、別のものが欠乏しているのかもしれない。 生存技法のようなもの、 詩のようなもの、 ……何なのだろう。 今ここで最も欠乏しているものは? こんな難しい問題は考えても無駄だ。 いつものように、サブボディさんに探索をお願いする一手だ。 |
2007年5月12日 ●多細胞共振瞑想から、発明伝染即興へ 1. ゆらぎ瞑想 腰をゆっくり回し、もっとも心地よいゆらぎを見つける。 速度や大きさを変えて、 その日のもっとも気持ちよいゆらぎを味わう。 その心地よさの中で、自分の生命のクオリアを探る。 生命とは何か、自分の中のどこにあるのか、誰も知らない。 ただ、ゆらぎの中に生命の手触りを探る。 生命の手触りらしきものに出会ったら、 生命にたずねる。 「何が一番したいかい?」 この問いは毎日、思いつくたびに問いかけ続けるとよい。 始めは何の応答もない。 だが、いつかそのうち、思いがけない形で その返答を受け取ることができる。 2. 生命遡行瞑想 よいゆらぎ心地に入れたら、灰柱で立ち、 自分が40億年前にこの地球上に生まれた 最初の生命体になったことを想像する。 最初の生命はおそらくまったく動けなかっただろう。 ただ、まわりから生命の構成物質を吸収して 生き続けようとしていた。 その、まったく動けない原初生命の体感に成りこむ。 動けなくとも、多くのクオリアを感じることができた。 重力、太陽の熱と光、外界の水や空気の味、 周りの分子の味、 なにが生命維持に必要で何が危険か、 細胞の膜で微細なクオリアの違いを味わい分けて 生き延びてきた。 生命とはまず、 この生きようとするかすかな傾向のようなものだった。 微細な物質の集まりに過ぎない 原初生命にどうしてこういう 生きるという傾向性が生まれえたのか、分からない。 だが、その傾向性なしに、それ以後40億年も 生命を維持し続けてこれなかっただろうと思う。 最初の生命は、酸素ガスとはうまく共振する方法を持っていなかった。 酸素ガスは酸化力が高く、原初生命にとってはむしろ猛毒だった。 おそらく最初の生命はいまの嫌気性のバクテリアに近いものだった。 原初生命はおそらく生体維持に必要な酸素を 酸化硫黄や酸化鉄のような化合物を摂取することによって得ていた。 また、原始大気は今のように 大気中に酸素が4分の一もあるような大気ではなかった。 酸素濃度はもっと低かった。 今のように自由に呼吸もできなかったことを 体感してみる。 なんという頼りない生存であったことかが分かる。 だが、あるとき、生命史上大きな創発が起こった。 シアノバクテリアが、日光のエネルギーを利用して 炭酸ガスを生産する光合成を発明した。 空気中からからだの構成成分となる炭素を得る 方法を編み出したのだ。 彼らは藍藻の仲間として原始海洋上に大繁殖した。 そして、何億年間も光合成の副産物である 酸素ガスを排出し続けた。 彼らの活動のおかげで、 今のような酸素濃度の高い大気が出来上がった。 やがて、シアノバクテリアは、他の大きなバクテリアに食べられた。 だが、食べられてもシアノバクテリアは 他の細胞内で生き続けることができた。 やがて、他の細胞内で共生して生きる方法を見出した。 原初生命が持つ驚くべき共振力によって 二つの生命がともに生きる方法を見出したのだ。 彼らは今の植物細胞内のクロロフィルとして 生存し続けている。 植物たちが生み出す酸素ガスのおかげで わたしたちは生存をし続けられている。 それを思って呼吸をしてみる。 植物への共振と感謝を忘れて、 自己の利益のみを追求する生存方法を続けていては、 地球はふたたび生存困難な環境に戻ってしまう。 続く大発明は、プロテオバクテリアによるものだった。 大気中あるいは水中に溶解した酸素ガスを 直接摂取して利用する呼吸を発明した。 それによって、大気中でも生きられる 好気性バクテリアが繁殖するようになった。 彼らもまた、他のバクテリアによって食べられた。 だが、自ら酸素を摂取して呼吸できる彼らは 他の細胞内でも生き続けた。 そして、ミトコンドリアとして他の細胞内で 共生する道を見出した。 これもまた、生命のもつ共振力の賜物だった。 その創発のおかげで今のわたしたちの細胞は 内呼吸によって酸素を得ることができる。 それを思って呼吸してみる。 呼吸もまた生命の発明だったのだ。 3.多細胞共振瞑想 これらの発明は、原初生命が現れた40億年前から 10臆年前までの生命の単細胞時代の 30億年間に起こったことだ。 だが、10億年前にとうとう単細胞同士が 共振して多細胞として生きる方法を発明した。 この多細胞共振に至るまでの30億年間の間に、 単細胞はおそらく、ユードリナやボルボックスのような 細胞群体として生きるグループ共振の訓練を経る必要があった。 実に長い過渡期だった。 単細胞から多細胞への飛躍が簡単なものでなかったことが、 この30億年という長い歳月が語っている。 今日はこの30億年かけて生命が学んだグループ共振を 追体験する練習を組んだ。 灰柱で真ん中に集まってきたら、 それぞれが互いに相手の微かなゆらぎに共振する。 全体がひとつの共振する群体になる。 生命の持つ原初的共振力を わたしたちのからだはまだ覚えている。 共振するとなんともいえぬ心地よさが立ち上る。 生命や下意識はいつも この共振の心地よさとともに生きている。 ためしに共振するのを止めてみれば その心地悪さが感じられる。 わたしたちの近代の日常自我がどことなく 心地悪いのは共振を忘れているからなのだ。 だが、いったい単細胞が多細胞として協力して 生きることができるようになるまでは どんなに多くの困難を乗り越える必要があっただろう。 この40億年の生命史のうち 単細胞生命が群体として生きる共振を訓練した30億年間の 過渡期の群体生命に成りこんで練習する。 600兆といわれるわたしたちのからだを構成する細胞は いったいどのような共振力によって ひとつになりえているのか? それができるようになるためには、 生命はどのような訓練をつまねばならなかったのか。 4.発明伝染即興 面白い即興のためには、たった二つの原理があればいい。 個々の単細胞は自由に自分の動きを発明する。 同時に他の細胞が発明した動きに自在に伝染される。 この二つだけの原理で多細胞共振を発明していった 群れとしての訓練時代を追体験してみながら動く。 じつに味わい深いことが分かる。 出てくる動きも実に面白いものが次々生まれる。 群れとして生きる方法を見出していくためには、 成員の単細胞はみな自分たちが群れであることを 生命共振によって分かち合っていることが必要だ。 それと同時に各単細胞がそれぞれの独自性を発揮して 生存方法を自由に発明していける環境でなければならない。 群れであることに縛られて発明を忘れたら、 新しい群れとしての生存方法を編み出すことができない。 よい発明が起こったら、ただちに共振によって伝染され、 その発明を自分たちのものとしていく。 類と個の、生と死の、成功と失敗のぎりぎりのエッジをわたる 30億年にわたる長い過酷な実験の中で、 多細胞共振体への新しい生存方法が切り開かれてきた。 発明それとも伝染という即興のルールは、 10年ほど前に個人がもっとも自由になることができ、 かつ群れとしても面白い動きが出てくる 最も興味深い即興ルールとして発見したものだ。 今日はじめて、それを生命遡行瞑想の中で 30億年間の群体生命時代の共振訓練として 位置づけるとぴったりなことに気づいた。 実際単細胞瞑想から、群体生命瞑想を経て この発明伝染即興をやってみると、 生徒はこれまでのどの例にも増して 自然にかつ生き生きとこの即興を楽しんでくれた。 生徒がこんなに楽しそうに生き生きと即興するのを 始めてみたといっていいくらいだ。 長い間位置づけが分からず、しかし面白いので 握り締めてきたグループ即興ルールが はじめてその最適の場所を得た。 水を得た魚とはこのことをいうだろう。 とたんに生き生きと生き始めたのだ。 これで今月は、この発明伝染即興の中で 自分のサブボディもフルに発揮し、 共振力もフルに発揮してコーボディになるという 一個二重の課題を追求できる素地ができた。 わずか一週間でここまでこぎつけられたのははじめてのことだ。 今月はかつてなく面白いところまで行けるかもしれない。 これは、8人の生徒のうち、二人が 二ヶ月目のリピーターだということに支えられている。 開校3年目にしてようやく軌道が加速力を得て回りだした。 |
2007年5月10日 ●闇をまさぐる 単細胞瞑想からはじめる。 自分の個人的な命が単細胞の受精細胞として 生まれた瞬間に成りこむ。 そして、私たちの命が多細胞と単細胞の相を繰り返しながら、 40億年前に地球上にはじめて生まれた 最初の生命にまで続いていることを思う。 最初の生命は何をどう感じていただろうか。 餌になる栄養分子に触れれば細胞の原形質膜の レセプターを開いて取り入れ、 危害を与える物質にたいしてはレセプターを閉じて 身を守っただろう。 おそらくまったく動けなかった原初生命にとって それが唯一身を守りつつ生命を自己維持していくために 必要な能力だった。 新たに出会うさまざまな物質やエネルギーに対し、 その対処法をどんどん発明していった。 これも生命がこの星の上で生き延びる上で必須の能力だった。 重力、光、空気、水、音、さまざまな物質、…… 無数のクオリアを味わい分け、 利用する方法を発明していった。 この単細胞に成りこむことによって、はじめて 生命が感じているクオリアが 共振によって生起していることが分かる。 単細胞生命は光を見ようとして光を感じるのではない。 ただ、太陽やその反射光から光は生体にやってくる。 生命はただそれと共振するだけなのだ。 重力も、音も、空気も、餌となる分子とも ただただ共振していることが分かる。 人間が錯覚している「私が見る」、「私が聴く」、「私が感じ る」、「私が動く」という主体意識はすべて幻想である。 人間の意識が抱えた主体・客体という思い込みが、 共振という根源的現象を覆い隠してきた。 自我を捨て、単細胞生命に成りこむことによってはじめて 生命はただ無数のクオリアと共振していることが分かる。 頭で分かるのではなく、からだで分かる。 長い間からだに封印されていた共振覚がひらく。 単細胞瞑想の後、 目隠しをして闇を歩く。 ペアになって、一人が安全を確保し、 不即不離の触れかたで外界をガイドする。 目隠しをした人は、単細胞になったつもりで 出会うあらゆるクオリアを味わう。 人間であることを忘れる。 主体が何かを感じようとして感じるのではない。 向こうからやってくる未知クオリアとの間に 勝手に共振が起こることがわかる。 生命はまた、未知のクオリアに触れると、 想像をたくましくしてさまざまな幻想的なクオリアが 立ち上がることも体験する。 闇の中には多彩な妖怪が棲んでいる。 いきなり襲い掛かるのではなく、 かすかなかすかな気配としてやってくる。 その気配を捕まえる。 その気配が勝手に増幅するのに囚われると恐怖に包まれる。 実際、インド人の少女ピタールは、 20分の闇の歩行のなかで18分目に とうとう恐怖に囚われて続けられなくなってしまった。 闇の歩行の後、20分間の個人探査の時間をとり、 闇の中でであったさまざまなクオリアを思い出す。 妖怪になりかけのものもある。 気配だけで通り過ぎていったものもある。 それらの中で自分の命にとってもっとも 印象深かったものを選んでそれになりこむ。 サブボディ・コーボディシアターで それを共有する。 他の人が動くとき、覚めた目で見るのではなく、 半眼であたかも自分の夢を見ているようなつもりで見ると サブボディの体感に成りこんで深く味わえる。 民族や文化が違っても人間のからだの闇には ほぼ同じような妖怪のクオリアが棲んでいることが分かる。 命の40億年の歴史で体験してきたさまざまなクオリアが 遺伝子の中に刻み込まれている。 現在の人間はみな等しくそれを共有していることがよく分かる。 他の人のどんな奇妙なサブボディの動きを見ても 人間ならそれがどんなクオリアか 命が共振して分かるのだ。 |
| 2007年5月8日 ●共創プロセスとしてのサブボディ=コーボディ変成 昨年から、コースの最短期間を一ヶ月に設定した。 それ以下の短い期間の申し込みは受け付けない基本方針だったが、 ときどきは、2、3週間だけしか参加できないが どうしても体験したいという熱心な旅人が来れば 例外的に受け入れてきた。 だが、一ヶ月の途中で生徒の誰かがいなくなると、 ぽっかりと穴が空く。 生徒はみんなそれを忘れて取り組むが、 本当はその穴は意外なほど大きいダメージを もたらしていることに気づいた。 なぜなら、創ろうとしているのは、 個人のサブボディのソロとしての完成だけではなく、 全体としてのサブボディ=コーボディシアターという 個と類が変成してひとつになる、 特殊な共創プロセスであるからだ。 生徒はそれぞれに探索してつくり上げた サブボディの動きを毎日見せあう。 4週間かけて見せ合っていると、 たがいのサブボディの個性や、独自な世界が理解できてくる。 その深い相互理解のうえに、 サブボディとコーボディが相互転入する 超伝導状態とも言うべき奇跡が出現するのだ。 その全プロセスは誰一人のものでもなく、 生徒全員による共創プロセスである。 それまで一緒にやっていた生徒が抜けると、 ぽっかり穴が空いてしまうのは、 それまでの相互理解の試みも何も無に帰すからだ。 まるで共同体の一部を途中で亡くしたかのように感じる。 それが予想以上に大きなダメージを与える原因だ ということにようやく気づいた。 一月でできることはだが、限界がある。 どうしてもサブボディ=コーボディの 相互転移まではいけない。 一月ではその一歩手前で止まってしまう。 生徒に一番体験してほしいものに 一ヶ月ではどうしても届かないことが判明した。 一月コースはおそらく今年までで、 来年からは3ヶ月コースを最短期間に 設定する必要があると感じている。 いっそう難しくなるだろうが、 共創過程を深めていくにはただただ、 長い時間を共有することが必須なのだ。 ここから先が正念場だ。 こんなヒマラヤくんだりまで 3ヶ月間も来ようという人がそうそう現れるかどうか。 学校の成否はこの共振塾の他にない独自性を 知るリピーターの還流率にかかっている。 |
| 2007年5月7日 ●脚を発明する ゆらぎ立ち。 脚のかたち、足のかたちをさまざまに変え、 踏み方をほんの少し変えるだけで、 違ったクオリアがからだを駆け抜ける。 仙腸関節の開閉、 膝のゆるみ、 足の土踏まずの反り具合、 踏み点、 重心の注ぎ込み方、 一つ一つを微細に変え、 さまざまなゆらぎをまとった立ち方を知る。 ――この五月コースには、 7人の生徒のうち二人が 二月目の入学となるリピーターだ。 共振塾も開校3年目を迎えて、ようやく 歴史が生まれてきた。 二ヶ月目の生徒には、 一ヶ月目には課題としなかった <日常体の脚を捨てる> ことを今月の課題として課した。 日常体にとって当たり前とされている二足歩行の常識を 脱ぎ捨てないと、何も始まらない。 舞踏の基礎の基礎だが、毎月これに取り組めるわけでもない。 脚に関する修練には時間がかかる。 日常体の脚を捨てるという課題には 何ヶ月か経ってはじめて出会えるものだ。 日常体には捨てなければならないものがあまりにもたくさん詰まっている。 何ヶ月か周期で、課題が回ってくる。 何年かに一度の周期もある。 すべての課題には出会うべきときがある。 早すぎる課題は消化できない。 生徒のサブボディのなかに入って聞き耳を立てていると いつどんな課題に出会いたがっているかが分かる。 そのときを逃さず、課題を課す。 うまく出会えれば、一期一会の出会いとなる。 二人の二ヶ月目の生徒は嬉々としてこの課題に取り組みはじめた。 勢い他の生徒もそれを見て何かしら活気付く。 この世界の奥行きの深さが感じられるからだ。 だから、午前中の灰柱の歩行から、 午後はゆらぎ立ちの各種の練習からいきなり、 20分間の探体で、 <自分固有の脚を発明せよ> というところまで行ってしまった。 一日目としてはとんでもない始まりだ。 もちろんすぐに歩行の発明とは何かが 分かる人は少ない。 なんでこんな変な課題をいきなり押し付けられるのか? と反発して取り組めなかった生徒もいた。 自我が眠るには時間がかかるものだ。 どの自我も自分のアイデンティティの範囲を逸脱しないように 几帳面に守る賢い番犬のような働きをする。 自我もまた、自全の旅で出会わねばならない重要なメンバーだ。 自我にはじまり、自我に終わるといってもいいくらいだ。 だが、どんな命も新鮮なものを求めている。 とんでもない課題にも食いついてみる好奇心を持つ。 それが命だ。 命が日常体のくびきから解き放たれれば どんなに自由になるか。 ほとんどの生徒はこのいきなりのとんでもない課題に 取り組んで何やら自分なりの歩行を考案した。 ともあれ、そういうふうに 予想もしないしかたで今月のコースは始まった。 |
| 2007年5月6日 ●六道ゆらぎの歩行 1.ゆらぎの歩行 ゆらぎ立ちで、からだとからだの闇にさまざまなゆらぎを通し、 その微細なクオリアを味わい分けることのできるからだになる。 そして、そのからだをゆらぎつつ運ぶ。 あらゆる部位が、あらぬ方向にゆらいでいる。 ゆらぎそのものとなって歩む。 2.ふるえの歩行 からだの一部からふるえだす。 さまざまな波動でふるえる。 さまざまな振動がからだを通る。 縦波、横波が交差する。 大きなふるえの中に小さなふるえが忍び込む。 無限のふるえを運ぶ。 3.うねりの歩行 生き物はすべて固有のうねりを持つ。 蛆虫からアメーバ、うなぎや鮎、 いたちや猫、すべて違う味わいのうねりを持つ。 それらあらゆる生き物のうねりが通るからだになる。 足底からうねりあがる原初体のうねり。 頭からうねり降りる獣体のうねり。 からだのどこからでも違った味わいの うねりが始まり変容するリゾームのからだになる。 4.きしみの歩行 生き物は生きる中でさまざまな予期できない事件事故に遭う。 そのたびに、衝撃、故障、不如意が起こる。 心がくじかれたり、感情をなくしたり、 神経を抜かれたりもする。 共振する心をなくしたヒューマノイドとなって歩く。 からだのあちこちにシステムエラーが起こる。 それらすべての軋みを運ぶ。 5.衰弱の歩行 弱りだす。 からだのあちこちの自由が利かなくなる。 弱り目に祟り目。 不随意は相乗し、いっそう衰弱する。 ほとんどの機能が崩壊の階(きざはし)に立つ。 瀕死のからだを運ぶ。 からだの各部位はすでに勝手に あの世とこの世を行ったりきたりし始めている。 異界ゆらぎのからだとなって歩く。 6.死の歩行 ついに死人となる。 死はあらゆるクオリアとの共振をいきなり断ち切る。 断ち切られた共振のまなざしを 他界からこの世に注ぐ。 死を発明せよ。 死のまなざし、死のゆらぎ、 君自身の死の歩行を発明せよ。 それはおそらく、踊りにおける最後の課題だ。 ゆっくり取り組めばいい。 |
| 2007年5月5日 ●ゆらぎ立ち ゆらぎ立つ。 脚の形や踏点をさまざまに変奏して踏み、 ありとあらゆるゆらぎを足から下半身、上半身のからだに通す。 からだを通り抜けるゆらぎのクオリアの 微細な味わいの違いを聞分ける。 両脚の足幅(スタンス)を変えて踏む。 両脚を付けて立つ。 少し開いて立つ。 かなり開いて立つ。 大きく開いて立つ。 仙腸関節を開き、閉脚(ターンイン)で踏む。 仙腸関節を閉じ、開脚(ターンアウト)で踏む。 土踏まずの甲弓を丸めて踏む。 土踏まずの甲弓を平たくして踏む。 摑み足(足指と踵で床を摑ん)で踏む。 爪先立ちで踏む。 足刀(小指側の側面)で踏む。 足峰(親指側の側面)で踏む。 踵で踏む。 ひざを緩めて立つ。 脚の各部があらぬ方角にゆらぐ。 足裏を滑らせて動く。 踏み込んだ同じ脚に地球からの反作用を通す。 伸びあがる。浮き上がる。落ちる。 踏み込んだのと反対の脚に地球からの反作用を通す。 伸び上がる。浮き上がる。落ちる。 絶えずからだの一部が違う方向にゆらぐからだになる。 からだの一部が違う次元からゆらぎ出たり、 ゆらぎつつ帰っていったりする異界ゆらぎのからだになる。 立つということの微細さの限りを味わい分ける。 これらの立ち方、ゆらぎの通し方、 踏み方の変幻を学びながら、 からだとからだの闇に起こる微細なゆらぎに耳を澄ます。 そのゆらぎの中に、自分固有のサブボディからの サブシグナルを聴き込んでいく。 かすかな気になるクオリアの端緒を捉えたら、 それに従い、乗り込み、増幅していく。 立ち方や歩行の練習は、 型の習得にとどまらず、それを超えて サブボディの探体の技法を豊富化していく過程として捉える。 すべては、創造のきっかけをつかむためのものなのだ。 5月コースは、このゆらぎの中に探体する方法を 身につけることから始める。 立つ、踏む、歩く、倒れる、転がる、 ……すべての動きの中に顕れる 微細なゆらぎの中に気になるクオリアを見つけ、 自分固有のサブボディの萌芽として育て上げる。 |
| 2007年5月4日 ●類と個の闇へ 毎日、命に聴き続ける。 何を一番したいのかい? 微妙に毎日違った答えが来る。 毎月のクラスの内容も微妙に展開が変わってくる。 今月は前半を猛速度で飛ばして、 前月の4週間分の内容を3週間に凝縮した。 それで第4週目はこれまで十分にできなかった サブボディ同士の共振を深める コーボディ坑道を掘り進めることができた。 互いのサブボディを十分に味わい合うことができると 次はそれにコーボディとして共振することができてくる。 サブボディとは下意識のからだであり、 コーボディとは共振するサブボディだ。 他の人のサブボディのなかに自分がいる。 自分のサブボディの中に他の人が入ってくる。 そういう自他の境界が消えていく境地が開けてくる。 サブボディとコーボディの間でゆらぐことができるのは 踊りの中でもっとも神秘的な美しい体験になる。 3ヶ月コースでなければ無理だろうと思えていたことにも 今月はさまざまな実験を介して、 ほんの少しだけ食い込むことができた。 声の共振と、動きの共振がうまく働きだす 可能性が少し見えてきた。 わたしの命にとっても このサブボディとコーボディの間の闇、 類と個の闇の坑道を掘り進めるのが 本命の坑道だという気がする。 どんなに難しそうでもこの道を掘り進めることに 十年以上もこだわり続けている。 この坑道は掘り崩す岩盤の味さえうまいのだ。 自我という幻想が消える地点、 類的存在という人間本質が顔を現す地平。 ――瞑想や修行では難しくても、 踊りの中にはそういう瞬間はいくらでも現出する。 これが踊りにしかない魅力なのだ。 今月の生徒には幾分でもその境地を味わってもらえたと思う。 |
2007年5月3日 ●オリジナリティを掘る わたしとは誰か? 自分だけが持つ固有性とは何か? いかにしてわたしは、私自身になれるのか? 自分の固有性・創造性を百パーセント発揮して 生きることができるのか? 4月コースの第4週は、各人の下意識に埋蔵されている 固有性と独創性の坑道を掘り進めた。 その人の最もいいものは、 たいがいもっともしようもない 癖やこだわりなどの囚われに隠されている。 もっともネガティブと思われているものの中に、 もっとも面白いものの萌芽があるのが常だ。 ネガティブだのポジティブだのというのは 二元論に囚われた幻想で、 下意識の世界は多次元なので単純なネガもポジもない。 なんだか知らないけれど長年こだわってきたもの、 独創性の宝庫だ。 自分が囚われているもの、自分を制約しているもの、 自分の問題、性癖、嗜癖、姿勢の癖、思考癖、 よく陥る堂々巡りの循環思考、 気になって仕方がないもの、身体症状、 意味の分からない夢、何度も見る原生夢、 よく囚われる情動、人間関係のもつれ、 なんとなくしっくりこない感じ、…… など各チャンネルにおける囚われ、こだわり、くぐもり などをいくつかピックアップする。 そして、それらのひとつひとつのクオリアがどこから来たか、 生命ゆらぎの淵源まで降りていって耳を澄ませる。 生命はただゆらいでいる。 少し元気になったり、 疲れて休みたくなったり、 大小長短の無数の波動でただゆらいでいる。 その生命ゆらぎの中に、 なにかかすかなクオリアの色づけが顕れる。 その微細なクオリアのゆらぎから、 自分の囚われまでに生長するプロセスを追う。 ひとつのチャンネルを辿るだけでは済まない。 いくつものチャンネルを横断する旅になるだろう。 その旅を辿る。 いよいよ本格的な自全の旅が始まっていく。 百丹三元ブロック・リリースで、 からだの各部をいろいろなかたちに固定したり、 ゆがめたりしてブロックされるクオリアを味わう。 また、そのブロックを解いてリリースされるクオリアを味わう。 自分の囚われが意外な部位の思いがけぬブロック感と つながっていることがある。 あるいは、リリースされるときのクオリアが 何らかの囚われから解放されるときの体感に つながることもある。 胸や腰を閉じたり開いたりすると別の人格が現れることがある。息を止めたり、ゆっくり吐いたりする体感から なにかに思い当たることもある。 奇妙な目使い、息遣い、体腔から漏れる音、…… ともあれあれこれ探索することだ。 意味など分からなくてもなにか 自分のユニークさに関する手がかりが見つかるはずだ。 見つかった手がかりをつないでいく。 世界で自分しか感じないだろうと思える クオリアを縫い合わせる。 自分だけの動きのシークエンスができる。 それがきみ固有のサブボディだ。 それぞれのサブボディは、たったひとつの 最適のタイミングを持つ。 固有の時間性、リズム、速度、時間スケール。 時には石や化石のようなとんでもない時間スケールを 生きているサブボディもある。 ひとつの動きから別の動きに移るときも たったひとつのタイミングがある。 最適の順序がある。 それらを総合して最適の序破急を見つける。 サブボディをきみだけの美意識で磨き上げ、 世界でたったひとつの見たことも 聴いたこともない踊りに仕上げていく。 |