| 2007年6月 |
| 2007年6月26日 ●異貌の自己への坑道 からだの闇にはおびただしいほどの、 異貌の自己が詰まっている。 ユングは影と呼び、サリバンはnot-me、 一般的にはサブ人格、副人格と呼ばれている者たちだ。 中には違った生き物の形をしているのもいる。 クラゲのように漂っていたいやつ、 アメーバのようにとろけたいやつ、 ……誰の中にもそういう微細な衝動がある。 彼らをいかに引き出すか。 いくつかの有力な坑道が見つかっている。 今週は生徒とともに、この坑道を掘り進んでいる。 生徒たちは毎日驚くほど多彩な異貌の自己を掘り出している。 1.隠れ関節を開く 人間の日常体には忘れられて使っていない 隠れ関節がいくつかある。 仙骨と骨盤の間の仙腸関節、鎖骨と胸骨の間の胸鎖関節、 手足の指の第四関節、顎の関節、 そして、それぞれの脊椎間の関節などである。 これらの忘れられた関節の間には、 やはり忘れられた隠れ人格や 隠れ生物のクオリアが封印されている。 小さい頃に一度だけ使って、 大人たちから選択的非注意のまなざしで扱われたため、 萎んでしまったnot-meたちである。 これらの隠れ関節を開いたり、閉じたりして 普段の位置よりずらしてやる。 他の力を受けてこれらの関節が動かされるクオリアを感じてもいい。 骨盤や胸を閉じたりすぼめたりすると、隠れていたサブ人格や、 サブ生物が息を吹き返してくるのが感じられる。 かすかなかすかなクオリアでしかないが、 そのクオリアに触れたら、従い、乗り込み、増幅していく。 次の端目や、息声と連動して増幅するのがいい。 2.端目を開く 目を斜め上下にすばやく動かす。 なにか素っ頓狂なことを思いつくやつ、 ひょうきんなやつ、など なにか見知らぬ人格の気配が感じられないだろうか。 目の端っこで見つめる。 黒目ではなく白目で見つめる。 極端な上目遣い、下目遣いをしてみる。 狡いやつ、人目を盗んで生きているやつ、 見下しているやつ、などなど別世界の住人が姿を現しだす。 じっくりと流し目を贈る。 体の動きと反対方向に目を流す。 不思議な情動が湧いてくる。 目を上に浮遊させて、白目になる。 死者の目になる。 異界の目でこの世を眺める。 さまざまな速度でこれらの目を生きてみる。 かならず、異貌の自己に出会える。 その異貌体になりこむ。 3.顔つき、息声を変える 1.2と連動して、普段はしない息遣いをする。 はあはあ、ぜいぜい、ひゅうひゅう、むぐむぐ…… 人間ではない異貌の自己の息遣いがよみがえってくる。 口元もひどく歪む。 思い切って異貌の顔になりこんでいく。 妙な声が出てきたら乗り込んでいく。 異貌の自己はいつも人間とは違った声で違った歌を歌っている。 一度始まればいつまでも続く。 楽しくなるに違いない。 それはずっと昔に置き去りにされてきた自分なのだ。 からだの闇にかがみこんだままの異貌の自己を掘り出してやれ。 世界中でここだけでしか掘っていない深層坑道だ。 異貌の自己は何人もいる。 何人と出会えるか。 何人と踊れるようになるか。 それが自全の旅なのだ。 |
| 2007年6月25日 ●動かされるクオリア 動かされるクオリアは、動けないクオリアと並んで、生命にとっ てもっとも深いクオリアのひとつである。 40億年前に出現した原初の生命は、まったく動けないか、ほと んど動けないかのどちらかであった。 その後も、10億年前に多細胞生物が出現するまでは、単細胞生 物時代であり、蠕動や鞭毛、繊毛など、ごく微細な運動器官によ って動けるのみだった。 40億年間のうちに、ありとあらゆる<動かされるクオリア>が 生命記憶に刻み込まれていった。 重力にもてあそばれ、風雨、嵐、波浪、潮流、雷、火山、地震, 、隕石の衝突、氷河期、他の動物の脅威などありとあらゆる予期 せぬ力に翻弄されてきたのが生命だ。 生命はそれらの予期せぬクオリアのすべてを体験し、生き抜いて きた。 それらのクオリアはすべて、遺伝子に生命記憶として刻印されて いる。 時に応じてそれらのクオリアが発現し、どんな不意のクオリアに も対応できるようになっている。 少々の事が起こっても、40億年間に蓄積されたクオリアの知恵 によってどんな生命も事態に対応できるのだ。 ●百丹受動 百丹三元と同様の手順で、仙骨から頭まで、そして、すべてのか らだの部位で、三元方向に不意に動かされるクオリアを体験する 。 百丹三元と同様、二つの8の字が直角に交差したダブルエイトの 動きに沿って、何か他の力によってあちこちの方角に不意に動か される。緩急、強弱もランダムに起こる。 百丹のすべてが終わった頃には、立派に<動かされるクオリア> に満ちたからだになっている。 自分が人間であることなど忘れ去る。 世界の中のどんなクオリアにも乗りうつられる、 媒体のようなからだになる。 これは十体の中の<憑依体>にいたる練習の一環ともなる。 舞踏とは、自分を表現するために踊るものではまったくない。 舞うのではなく、何ものかに舞わされる。 異次元世界の何ものかがからだに乗りうつり、 それが踊るのだ。 踊りを自己表現としか捉えられない西洋風のダンスとは この点が根本的に違う。 Butohを身体表現だと曲解している 修行の足りない自称舞踏家も多い。 舞踏とは、せまっ苦しい「人間」概念に囚われた 自己表現などとは桁の違う異次元世界に遊ぶ技なのだ。 |
| 2007年6月23日 ●透明なデュエット 長い間デュオをうまく導きだす道が見えなかった。 自分のからだの闇から彫り出すサブボディソロと、 それが溶け合うコーボディの群れの動きを追求することに 没入して、対の動きの世界にうまくアプローチできないでいた。 これまでにも、生徒がつかみ出してきたサブボディと サブボディを出会わせる試みは何度かしたことがある。 だが、下意識からいきなり対の場に放り出されたサブボディは 誰もが妙に日常体の男女の出会い神話に影響を受けてしまう。 だが、その闇が少し解けてきた。 何のことはない。ただ徹底して自我を止め、 生命共振だけを感じて動けばいいのだ。 これまでは、その自我の止め方がまだまだ不徹底だっただけなのだ。 ・まずは、自分が人間であることを忘れる。 ・後はただ、生命が共振するままに動けば、何が起こってもいい。 ・合わせ合わせ、合わせ離れ、離れ合わせの中の どれかのパターンを思い出すといい。 すべての共振はこれらのパターンのどれか、 あるいはその組み合わせに帰する。 ――透明なデュエットを導くにはこれだけで十分だ。 たったこれだけに到達するのに十年以上かかった。 サブボディは無性だ。 日常体の性から透脱している。 その透明さが味わえればいい。 日常世界に見られるデュオは あまりに日常体の性愛の物語に束縛されてしまっている。 男女の元型にたやすく憑依されている。 それがすべてをつまらなくさせる原因なのだ。 そんな世界はハリウッドかインド映画に任せておけばいい。 むろん、わたしたちが完全に性愛神話から透脱しうるわけではない。 性の闇はどこかで生命の闇に溶け込んでいるからだ。 だが、その闇にまつわる謎も含めて踊ればいい。 花と謎技法で言えばこの場合、 花が透明さならば、謎は性の闇になる。 花と謎はいつも一個二重の闇の、違った側面に他ならない。 今月の共振塾ビデオを見る |
2007年6月22日 ●からだの闇の不思議なつながり モンスーンの中で続けられているサブボディ共振塾ヒマラヤ。 生徒はさまざまな坑道からからだの闇に潜り、 日々多彩なサブボディをつかみ出してくる。 自分の中の驚くべき創造性を開きながら、 サブボディ世界を動きにし、絵に描き、 たがいの世界に動きや音像で入り込み合う。 すると、それぞれの自分だけの固有のものと思われていたサブボディ世界が、実は奇妙な通路で共振しあい、 コーボディにつながっている不思議に触れ始める。 その不思議は命とは何かという不思議とつながっている。 わたしたちは個体の命という観念に取り付かれているが、 本当はわたしたちの命は40億年前に発生して以来現在まで ただの一度も途切れていないのだ。 個体のからだは命にとってはただのいっときの乗り物で、 個体のからだを乗り換え乗り換えして命は続いてきたし、 これからも続いていくだろう。 個体にできるのはこの命に対し、 どんな発明を付け加えることができるかだ。 その贈り物によって、個体は類へと転生する。 わたしは自我や国家を無化する技法を発見した。 徐々にこの技法を普遍化して人類に贈ろうと思う。 国家が戦争を遂行し、おろかな自我がそれを支持している 構造を根本から改める方法が必要とされている。 そしてそれは可能なのだ。 |
| 2007年6月19日 ●共振とはなにか 命は共振している。 たえず、まわりの環境の無数のクオリアと共振し、 命がたどってきた歴史から得た無数のクオリアの記憶と共振している。 たが、命の共振を捉える、根源的概念を人間はまだ手にしていない。 あまりに長い間、主体・客体という二項論理に根ざす自我幻想に深く囚われてきたから、見失われてしまったのだ。 共振は、勝手に起こるもので、 自我や主体が起こそうとして起こすものではない。 だが、どんなことばにも不可視の主体が前提されていて、 勝手に起こっている共振をありのままに捉えることを妨げる。 わたしが、共振を感じると言ってしまってはもうだめなのだ。 どんな動詞にも主格が付きまとう。 この主格を、暗黙のわたしを、消さなければならない。 命はあらゆるものと共振しつづけている。 わたしがそれに気づこうと気づかまいと、 お構いなしに共振は起こっている。 わたしが感じようと感じまいと関係なく 命は共振を続けている。 共振に主格も客体もない。 これをうまく捉える言葉はまだ見つからない。 だから、当分は主語のあることばで我慢するしかない。 いかに共振するか。――こんな言い方は根源的に違うのだけれど、 今はこう言うしかないのです。 その点をご理解ください。 音像共振でも、動きの共振でも、 同じ原理が通用する。 合わせ合わせ、合わせ離れ、離れ離れ――この三つで 共振のバリエーションを、つかむことができる。 それぞれのチャンネル独特の次元数が異なるだけだ。 動きの共振においては、 位置、距離、速度、加速度などの次元が関わる。 音像の共振において、音の高さ(振動数)、リズム、音色などが関わっていたように。 サブボディの動きにどう共振するか 他のひとが動いている。その時空にいかに入っていくか。 クオリアを共有すればあらゆるかたちの共振が可能になる。 T.基本は<合わせ合わせ> 動きのクオリアを共有することが肝心だ。 あとは、つぎのようなバリエーションのうちから、 命が共振したいままに従えばよい。 まず、共振の入り口は同じクオリアを共有することから始まる。 サブボディの動きになりこみ、 同じ姿勢、同じ速度、タイミングをシェアする。 距離は、至近距離から、中間距離、遠い距離をとりうる。 自我の強い人には、潔く自我を捨て他の人に同化するよい訓練になる。 この入り口を通らずに、つぎの道には進めない。 U.<合わせ離れ>と<離れ合わせ> 1.位置――立位なら立位の同じ姿勢で共振する<合わせ>から、 違う姿勢で共振する<離れ>に向かう<合わせ離れ>。 その逆に、違う姿勢から徐々に近づいてきて、 同じ姿勢に入る<離れ合わせ>。 2.速度――同じ速度で共振する<合わせ合わせ>から、 違う速度、速い動きに対して緩速または静止で、 緩い動きに早い動きで共振する<合わせ離れ>、 あるいは<離れ合わせ>。 合わせていて、離れるタイミングを見つけるのが、<合わせ離れ>。 離れていて、合わせるベストタイミングを見つけるのが<離れ合わせ>だ。 どちらもそれが起こったときに微細な感動がこみ上げる。 3.距離――どんな距離で共振するか。 不即不離の間近の距離<合わせ合わせ>から、 中間距離を通って遠い距離まで離れていく<合わせ離れ>、 その逆に遠い距離から近づいてくる<離れ合わせ>。 どちらにも出会いと別れの特有のドラマが成り立つ。 V.<離れ離れ>という多数多様多次元共振 以上の出会い系とは、根源的に異なる共振もある。 サブボディの動きとはまったく別の次元の別のクオリアの動きを対置する。 いや、対置さえしないこともありうる。 ただ、それとは別のあり方もありうるよ 、こうもありうる、こうもこうもありうると、ただただ別のありようを示す。 そういう共振もある。 ひとつの世界に別のクオリアを付加する。 それだけでもとの世界が豊かに多様になる。 宇宙の多様なものはすべて共振していることが分かれば、 1や、2の合わせ系、出会い系のような 見かけの近さや同一性によってだけではなく、 遠さによって共振することができるようになる。 差異によって、差異の多様性によって共振する。 ただただ異なるクオリアが多様になっていく。 生命には出来損ないなどひとつもない。 障害者という概念が無化されるまで進む。 ただただお互いの差異を味わい、多様性を喜び合う。 それが生命の真実なのだ。 そこまで行けて共振の底深いすべてが味わえる。 ほんとうの世界共創が始まる。 だが、まず、1、2の合わせと離れ系から学んでいってほしい。 自我を放棄する<合わせ>を知らずに、 差異だけ対置すると、自我と自我のたたかいになる。 自我を捨てることを学んではじめて共振のすべてに出会えるのだ。 |
| 2007年6月17日 ●音像共振による世界共創 これまで少しずつ試みてきた音像共振を、 今月は本格的に掘り下げ実用段階にいたる道を探る。 サブボディの動きは、動く本人が意識しているかしていないかに 関わらず、からだの闇のなかの音像クオリアの流れとともに動い ている。そこはチャンネルに分かれていない未分化な世界だから である。 からだの闇の流れを意識的に音像チャンネルで受け取れる人は、 音像チャンネルが開いていて、それを使える人である。 それに気づけず、音像クオリアをうまく使えない人もいる。 こういうわたしは生まれてから50年間音像チャンネルの開き方 、使い方を知らなかった。歌も歌えなかった。数年前に南インド のジャングルを歩いているとき、突然喉が開いた。それ以来だか ら、わたしにとってはもっとも未知の新鮮なチャンネルだ。それ だけにチャレンジのし甲斐がある。 音像チャンネルでからだ動きにどう共振していくか。 ここ数年探ってくるなかで、いくらか道が見えてきた。 T <合わせ合わせ>という序の口 1.体腔の動きに音像で共振する まず、他の人のからだの動きを自分のものとして感じる。 薄目半眼で、夢の中の情景のように感じるといい。 その動きを自分の動きとして感じられたら、その人のからだの中 に入ってどんなクオリアを感じて動いているのか、成りこんでい く。 サブボディの内臓の動きに合わせて、自分の内臓も同じように動 かしながら、体腔音を出してみる。その音が動きとよく共振して いるようであれば、思い切ってその音と動きの共振を追求する。 体腔から出る音のバリエーションは無限であり、実にさまざまな 関わりの可能性が開けてくるのが分かるだろう。 2.ディテールの動きに共振してみる 次に指先や脚の動きなど、ティティールの動きに合う微妙な音を見つ ける。唇や目の動きなどに付いても面白い。 もともとひとつのものだから、からだの動きも体感も音像も情動も、 無限に微妙なニュアンスで共振できるのが分かるだろう。 最初は以上のように合わせ合わせで付けるのが基本である。 U つぎに、<合わせ離れ>の付き方を学ぶ 合わせ合わせだけでは、時にうっとおしくなる。風通しが必要だ と感じたら、さっと離れる。 ときにからだの中に入り、ときにその動きの外側の世界になりこ む <合わせ離れ>の極意をつかむ。 サブボディがなにかと関わっているように感じたら、 関わっている相手になりこむ。 サブボディがどんな世界像の中で動いているかを感じて世界になりこむ。 サブボディが風を感じていそうであれば風、波なら波、重圧なら重圧と 、 外側の世界になりこむ。 サブボディが、動いている世界像を想像して共振することがで きれば、 その世界に何が付け加われば面白いか、命が共振するままに、 なんでも付加してその世界を豊かにしていけばよい。 それ が世界共創だ。 V <離れ離れ>という多次元共振技法 共振は幅が広い。実は宇宙のすべては共振している。 もっとも距離が離れたもの同士共振を実現できれば、その世界の 奥行きが深まる。サブボディの動きとはまったく異質な音像次元 を対置する。無限に多彩多次元的な時空が広がる。サブボディ世 界はじつはこの多次元流動世界である。<離れ離れ>の共振を会 得するには、訓練が要るが、やがてはそこまで進んでほしい。 |
| 2007年6月16日 ●からだに聴く 6月の第1週が過ぎた。 最後の金曜日の午後は、自分でこの1週間に出会った さまざまなサブボディ間のつながりを見つけて ひとつにつなぐ自己探体の時間を1時間とった。 終わった後感想を聞くと、一人の生徒から 「1時間は長すぎた。頭からの考えが次々と出てきて まとまらなかった」という声があった。 その瞬間、わたしも長い間頭で考えすぎて、 失敗を繰り返していたことを思い出した。 その失敗は時をどぶに捨てるかのようなものだ。 頭ではなく、からだに聴くこと。 からだに耳を澄ますことのできる心身状態に自分で持っていくこと。 これが自己調体の課題である。 今月はこれを最初の獲得目標に掲げていたのに、 1時間の自己探体の前にそれを促すことを忘れていた。 生徒が順調に各チャンネルを開いて、新しい体験を広げているかに見えるときほど、落とし穴が待っている。 いかに自分で心身のいい状態をつくり上げていくか、 いくつかのポイントを記しておこう。 @静寂体になる 第一段階はまず、日常意識と日常体を止め、からだの奥の微細なクオリアに耳を澄ますことのできる状態に持っていくことだ。 ●からだをほぐす・こころをほぐす からだのどこかに、凝りや滞りが残っているとそれが気になって からだに耳を澄ますことができない。 ゆらぎ、ゆすり、うねりなどの調体でからだを十分ほぐして、体の一部への囚われを消す。 ●意識を止める ・言語意識を活性化しない。――無意識的な思考が立ち上がってくるのに気づき、それに念を継がない。また、今度ねとさわやかに言語思考から別れる。 ・自我を発現しない。――難しい、とか分からないとか、自我は未知の領域に入るとき必ず不快な体感や不安感で引きとどめようとする。その自我が立ち上がってきたときも、「君のことはよく知っているよ。でも今はきみのときじゃない。」とさらっと別れる。 ・超自我を相手にしない。――誰の中にもシニカルな批評家や、絶えず善悪、正邪の判断をしつづける超自我、上位自我が棲む。彼らが出てきても、自我同様相手にしない。さらっと別れる。 いずれも、強く制止しようとすると逆効果になる。念を継がず、相手にせず、さらっと別れる極意を身につけることが大事だ。 ●からだに聴く 以上のことができてはじめて、からだの微細なクオリアのゆらぎを味わうことができる静まり返ったからだになる。 (註:からだというとき、物理的な身体のみを指さない。脳心身全体の状態を指してからだと言っている。下意識ではそれらは分かちがたいものだからだ) A透明流動体になる からだの微細な声が聴こえ出し、それに従い、脳心身全体でそれに乗っていく。それができるようになると、次第に、内外、心身、自他、類個の境界が消失して、クオリアの透明な超伝導状態が出現する。その状態にいかに持っていくか。それが調体から探体へ、そして、透明体への課題である。 どのプロセスを省略してもうまくいかない。昨日うまく行ったからといって今日うまく行くとは限らない。からだの闇はいつも流動している。 その都度、その瞬間ごとに自分で一番いい方法を見つけられるようになること。絶えず注意していないと、無意識から立ち上るさまざまな障害につかまってしまう。だが、最初はそれらすべてを体験しぬく以外ない。意識と下意識の間には無数の落とし穴がある。落とし穴に落ちないと穴に落ちない歩き方や、穴からの這い上がり方は学べない。だが、いちど穴から這い上がれば、からだは二度と忘れることはない。 |
| 2007年6月13日 ●モンスーンとともに 夏学期が始まったその日にちょうど 激しい風雨とともにモンスーンの到来が告げられた。 雹が降り、芝生の上を面白いように跳ね上がって転げた。 今月は、アメリカで奨学金を得て6ヶ月のコースに入学したKatsをはじめ、 ニューヨークの舞踊大学に在学中の麻里子、 ボイスセラピストのアンスケ(ベルギー)、 イタリアのスミタ、イギリスのホリー、 先月から続けているオリン(イスラエル)と、 多彩な顔ぶれが集まった。 全員,かなり前から予約し、サイトも読み込んでくれているようで、 取り組み方が半端ではない。 それでも、意識を止め下意識のからだになりこむというのは そう簡単にできることではない。 はじめて触れる異世界に、意識からさまざまなブロックがかかる。 生徒は毎日その力とたたかってボーダーを越え新しい世界に入る。 日常自我のアイデンテティにない世界に入るときには かならず、激しい待ったがかかる。 「まて! そこから先はあぶないぞ」 「ばかげた真似はよせ!」 さまざまなよい悪い、正しい間違っているなど 二項論理のジャッジメント、難しいという感じ、 得体の知れない不安感、不快感などなど、 すべてエッジのなかまだ。 一日の終わりに生徒と今日の印象を交換する。 ジャッジメントや、難しいというエゴの反応が立ち上がってきたときには、 まだ、朝の調体で意識を鎮静化し、止めるのが不十分なしるしだと捉え、授業前の個人での調体にもっと時間をかけるよう促した。 すでにゆらぎ瞑想、ゆすり調体、体底呼吸、内呼吸といくつかの 調体法を伝えた。これらの中からその日の心身に一番会うものを見つけて鎮静化する方法を自分で見つけるように、と。 5月後半から続けてきて、3週目になるオリンが 「今日はじめて、ジャッジメントなしに動けた」と感動を述べた。 コングラチュレーション! そこから始まるのだ。 そういえば休みの日などわたしは朝から何時間も腰を回したり、 からだをゆすったり、新しいストレッチを考案したりと時間をかける。 これは毎日その都度繰り返さないとだめなのだ。 その入り口さえうまくくぐり抜ける方法を見つければ、 後はサブボディの創造性と共振性の宝庫が待ち構えている。 すでに三日目にして、 一日目は静寂体、 二日目の単細胞瞑想と からだの隠された関節に秘められているヒドン・クオリア探し、 三日目の今日は、 からだの一部から変成が始まるリゾーミング・テクニック、 <序破急>の<序>と<破>、 触れる触れられるのタッチチャンネルと進んできたが 、これにはじめて触れた生徒は、 これまで頭で踊りを作ってきたのがいかに狭いところでしか 発想していなかったかを思い知ったという感想を述べた。 それでも自分の下意識の創造性を開く前には、 激しいブロックが待ち構えている。 いつまで経ってもこのたたかいは終わらない。 わたしですら、自我や超自我に引きとどめられることがしょっちゅうなのだ。 「リー、止めとけ、それはやりすぎだ!」 「どうなっても知らないぞ!」 「自分でもまだ十分解明していないのに生徒を実験に使うな!」 あの手この手の倫理のかたちをとってストップがかかる。 自我も超自我も死ぬことはない。 だが、もう手口はあらかた知ったから、そう怖い相手でもない。 怖いのは時を選ばず噴出してくる未知の解離された分身たちだ。 彼らと知り合いになり、なだめるために、 わたしは毎日長い坑道を掘らねばならない。 (その模様は「多重人格日記」に記している) だが、それもまた楽からずや、だ。 |
| 2007年6月11日 ●5月のミルプラトー 5月コースの生徒が創ったサブボディのビデオ、写真を掲載した 個人別のミルプラトーページができました。 表紙の右側のビジュアルページ欄の生徒の 写真または名前をクリックすると、個人別ページへ飛べます。 サブボディのビデオだけまとめて見るには、ここをクリック。 写真のアルバムページへは、ここから飛べます。 ミルプラトーとは、千の高原という意味。 個と群れの間を自在に往還できるリゾームが たくさん集まって盛り上がり、 無数の高原状の地形を形成していくという 世界変容のイメージである。 わたしの師の一人である、ドゥルーズ=ガタリの著書名 「Mille Plateaux」から採った。 そう、すこしずつ、ほんの少しずつだけれど、 生命の共振を知るリゾームたちの共振の輪から、 世界は変容を始めていくのだ。 ミルプラトーの表紙へ |
2007年6月10日 ●もっとも微細なクオリアからはじめる この夏学期は、長期コースの生徒を迎え、 これまでにないじっくりとしたペースで進む。 それには、意識を最低レベルにまで鎮め、 命が感じているもっとも微細なクオリアに聴き入る 耳を育てることからはじめるのがよい。 そのためには、まず、日常体と日常意識を可能な限り鎮静化し、 命が感じている微妙なクオリアのゆらぎを味わえる 最もいい状態にもっていく方法を身につけることからはじめる。 わたしは先週の休みの間にこれまでに見出した練習体系の中から、 この目的に沿う調体法・瞑想法を吟味して再編集しなおした。 枝葉を切り捨て、もっとも大事なものだけを編集しなおすと、 もっとも微細なクオリアから感じはじめ動きはじめる リゾーミング調体や、六道ゆらぎ通しや、 世界像と自己像の微妙なずれを味わうなどという、 かつてないほど集中的な、かつ新鮮なものになった。 生徒にはこれらの中からその日の自分に合った調体法を見出す、 朝の日課を課すことにした。 毎朝の調子は微妙に違うし、その微妙さを聞き分けつつ、 その日の状態にもっともふさわしい調体法を 自分で見つけるのが基本だからである。 ことばになどできないレベルの自分の微妙な調子の変化は 自分自身でそのクオリアをキャッチするしかない。 こればっかりは、人に導かれたり、促されてではなく、 自分でそのときの自分にあったからだほぐし、こころほぐしを通じて、 鎮静化する方法を身につける以外ないのである。 それができない人が、催眠に頼ったり、瞑想塾へ入ったりする。 最初はそれも仕方がないかも知れないが、 最初から人に頼れば最後まで人に頼る傾向が残る。 ここでは、最初から自力でサブボディモードに入れるようになることをめざす。 サブボディは自立していることが条件である。 サブボディの世界には師弟関係などというヒエラルヒーは実は存在しない。 それらがあるかに装うあらゆる方法は欺瞞である。 さもなければ、下意識は暗示を受けやすいので、 容易に人に操られる。 そして、逆に意識にその危惧が残っている限り、いつまでも 覚醒し続けようとし意識を鎮静化できない。 意識を失うと人に操られるのではないかという 惧れがいつまでも、サブボディモードに入ることを妨げ続ける。 私自身、長年決して自己催眠にかかることができなかった。 それを妨げていたのは、以上の危惧だったのである。 そして、結局いつまでも日常意識を捨てられず、 命の声を聴くことができない。 それは逆に現代の常識的な日常体に囚われ、 自立できないことを意味する。 自立と非自立のこのパラドックスを超え、 人に頼らず、すべて自分でコントロールしつつ 最もよいサブボディモードに入る方法を見つけること。 自分の命の中で自然に起こるサブボディとコーボディの相互転移という 自我を捨てた後の最も美しい生命の透明な共振にまで降りていくためには 自分でその道を歩むことがどうしても必要条件になる。 それには、とにかく、もっとも微細なクオリアのふるえに耳を澄ますこと、 もっとも微細なクオリアを聴きわけ味わい分けること、 自分が感知できる微細さのレベルをどんどん深めること、 これがサブボディへの王道である。 遅々として進まないのはよく知っている。 これまでにない新しい発見に喜び勇む日もあれば、 いくつもの壁にぶち当たり、時にあせり、時にいらだつ。 だが、そうして進んでいくしかないのだ。 わたしはそのプロセスに耳を澄ます産婆となる。 わたしが介入しすぎないことが肝心なのだ。 |
2007年6月5日 ●生活のしかたを見つける 6月からはじまる3ヶ月以上の長期コースの生徒の課題は、これだ。 今まで、1ヶ月コースではとてもここまで手が回らなかったが、 もっとも大事だと感じていた課題にやっと取り組めるようになった。 1ヶ月しか参加できない人もこの機会に、 自分の生活の根本的なあり方を見直す まなざしを見つけてほしい。 この3ヶ月で、自分を最もよい状態にもっていくことのできる生活リズム、 日課、人や自然との接し方、コンディショニングのしかた、 自我の鎮めかたなどを含め、日々の生活を組織しなおすこと。 結局それを自分で見つけ、自分でその生活リズムを 実践するようになれること、 それが何より大事なことだ。 たった1月では、あっという間に過ぎてしまって 生活リズムの変革にまでは至れない。 学校でいっときのいい共振体験をしたり、 いい踊りが創れたとしても、 自分でそれを生みだす生活を創り、 持続できないと何も残らない。 これまでの生徒のなかには、 都会の暮らしの延長のように、 サブボディ学校が始まる前はヨガ教室に出、 終わったらチベッタンの音楽教室に駆けつけるというような 都会並みの忙しい生活を送った生徒もいた。 だが、かたやで意識を止め、下意識に入る授業に出て 終わるや否や、意識を使うクラスに出入りしていたのでは 結局何も身につかないまま、通り過ぎていくことになった。 週末のパーティに参加して、調子を崩してしまう生徒もいた。 そうではなく、休みの日や、授業時間以外の生活も 自分で管理し、もっともよいサブボディ状態にはいれるよう 自己コントロールできるようにならなければならない。 サブボディは24時間体制で働いているのだから、 24時間の生活リズムを自分で制御できるようになる必要があるのだ。 3ヶ月以上持続する生徒が一定以上増えてきて ようやくこの課題に取り組める下地ができてきた。 その代わり、ペースは少し落とす。 今までは一ヶ月にあまりに多くのものを詰め込みすぎていた。 からだの変容速度を聴きながらじっくり進んでいくこと。 それが可能になったのも、 3ヶ月以上の生徒が参加してくるようになったおかげだ。 どうもありがとう。 じっくりとからだの変容速度をともにできる生徒の群れなしに サブボディ共振塾はありえない。 |
| 2007年6月2日 ●透明なからだ 透明なからだとは、クオリアが駆け抜けていくからだだ。 命がさまざまなクオリアに共振していることが、 そのまま透き通って見えるからだだ。 自我意識を鎮めると、命が実にさまざまなクオリアに 瞬間ごとに共振し、共振がゆらぎ、変容していることが分かる。 それをそのままに、さまざまなクオリアが さまざまな速度で、さまざまな方向へ通り抜けていく。 それが見えるから透明なのだ。 いつも通り抜けていれば、 時に滞れば、滞ったことも透明に見える。 そんなからだに変成すること。 からだのもっともよい状態に、自分自身で もっていけるようになること。 それがサブボディスクールの生徒にとって、 当面の最後の課題だ。 からだの声に聴き始めた当初は、 からだに集中するあまり、からだに憑かれてしまうこともある。 からだの状態に振り回されるのだ。 とくにからだが沈潜したときにそこから抜け出せないことがある。 それを巧みに違うクオリアに切り替え、 からだに通す。 ほんとうは命も下意識も驚くほど多彩なクオリアと 絶えず共振している。 命が感じているままに、かすかなクオリアとの 共振をキャッチできればそれが可能となる。 5月コースの第4週最終日には、生徒自身が これまでに学んださまざまな調体法を使って 自分自身でもっともよい状態のからだに もっていくことを課題とした。 生徒はほんのすこしだけそれができかけてきた。 午前中のサブボディ・ソロに続き、 午後からの少数の観客を迎えての コーボディパフォーマンスでは、 互いのサブボディの動きの世界に 共振を感じるままに入っていった。 毎月のサブボディ=コーボディシアターはずいぶん味が違う。 サブボディ度が深まる月と、 コーボディ度が深まる月がある。 今月はサブボディ、コーボディというより、 生徒同士が自我を投げ捨て、 純粋な生命共振がほんの少しだけ 深まったことが見えた。 そして、終わるや否や、 わたしは、すぐさま深い眠りにつき、眠りの中で ここから先どこへ行きたいのか、 命との会話が始まった。 いつものことだ。ひとつの課題が少しでも達成されると、 その向かうに巨大な闇が姿を現す。 すべてのことは瞬間的に通り過ぎていく。 留まることがない。 これが命だ。 |