| 2007年8月 |
| 2007年9月7日 ●アウシュビッツ・死者の饗宴 8月コースの最終日が終わった。 8月は死者の国。 最後まで残った8人の生徒が一月かけて 死の歩行を創り出した。 銘銘の死体を舞台まで運び、 死体の山になる。 一人で歩くのではない。 世界中から百万の死者を引き連れてくる。 世界中の戦争の死者がアウシュビッツに集まって 異世界で異様な饗宴を始める。 一人が動き出すと、 死体の山がビクビクッと共振して動き出す。 八人が八人なりに懸命に自我をそぎ落として サブボディソロを創った。 それは饗宴に添える小さな花束となった。 八月は死者の国。 八月の踊りは死者とともに踊る踊り。 ――ここまでくるには、自我を去り、 自己さえも去り、40億年の命になることが必要だった。 生命になってはじめて 生命が死者とさえ共振することを知ることができる。 若い生徒とともに、こういう踊りをできるようになるには 私自身も長いプロセスをたどることが必要だった。 そうだ、ちょうど十年かかった。 それも、一日も休まず全力疾走を続けての十年だ。 だが、十年かければどんな不可能に思えることでも何とかなる。 十年一昔。 1998年10月、ベネズエラで 二週間ひとつ部屋で寝起きして 友達になったマーク・トンプキンと 互いの踊りの根拠を語り合ったことを思い出す。 わたしが踊った伝染熱を見て、 ――どうしてあんな踊りができるんだい? と不思議そうに尋ねるマークに、わたしは答えた。 自分の中の死者と踊るのさ。 死んだ友人が勝手に踊ってくれる。 ――その踊り方を他の人に伝えることができるかい? マークのその問いにはNoとしか答えられなかった。 そんなことできるわけないじゃないか? だが、そのとき以来その問いはわたしのからだの闇に 深く潜行し、十年かけて発酵する時を待っていたのだ。 自我を止めて、生命になれば誰でも 自分の生命が死者と共振していることに気づくことができる。 その共振はあまりにかそけきクオリアだから、 意識が発火しているときはマスキングされて聴こえなくなる。 意識は百万のニューロンを連結発火させて、脳内に言語を 走らせなければならない。 いわば意識は大声で怒鳴りながら走る機関車のようなものだ。 死者にかすかに共振して自分の命が震えていることになど 気づくことができないのだ。 そういうことを突き止め、若い人にも意識を止める方法を ガイドすることができるようにならねばならなかった。 しかも気持ちよくそれができなければならない。 それを見つけるのに年かかったということだ。 ここまでくるのに十年。これからこの踊りを ヒマラヤから世界に運び出すまでにまた十年はかかるだろう。 だが、かならず少しずつ世界に響いていくのは間違いがない。 戦争による死は生命がもっとも嫌うものだから。 途中でわたしが倒れたら、 誰かの生命が後をついでくれるだろう。 おそらくそんな基盤さえできかけているのを感じる。 生命と生命の間の共振は、不可視だけれども 恐らくこの世でもっとも確かなものなのだ。 |
2007年8月29日 ●サブボディ舞踏の二曲三体 自分の踊りを創っていくには、 自分独自の十体を見つけ磨いていくことが必須になる。 だが、ながらく、十体を教える方法が見つからなかった。 なぜだか分からなかったが、時間のせいだと分かってきた。 自分の十体を創って育てていくには、何年もの時間がかかる。 だが、いままでは一月までの短期の生徒ばかりだったので、 そんな短い時間ではとても十体創造までいけなかったということだ。 今年、6ヶ月のKats、三ヶ月のアンスケ、ピラーという生徒を迎えて、 ようやく十体創造を伝えていく基盤ができた。 6月の生徒だったスミタから、十体は個人的なものか 普遍的なものかと問われて、改めて捉え返してみた。 すると、そのなかに個人的なものと 誰にも通用する普遍的な要素とが 絡み合っていることに気づいた。 十体を普遍的なものとして純化していくと、 からだの闇の生命の原生的な傾向を聴くことから創る<原生体>、 からだに封印された影の下位人格をからだに出現させる<異貌体>、 そして、自他の境界を越えて、あらゆるクオリアに成り込む<憑依体> の三体が基本であることが分かってきた。 それで、ようやく生徒が自分の十体を掘り進む からだの闇への坑道の坑口が発見できたのだ。 6月、7月、8月と生徒とともにこの坑道を掘り進めてきた。 そして、一週ずつ違う坑道を掘り進めるペースも見つかった。 今月は、一週目に、からだの闇にもっとも原生的な生命傾向を聴き、 それを動きにすることで原生体への手がかりを掘った。 二週目は、からだの隠れ関節に潜む隠れクオリアを解き放つことで からだに潜む異貌の自己を探し、異貌体への坑道を掘った。 三週目は、自己の闇にとどまらず、あらゆる次元からの クオリアの来訪を受け入れる開かれたからだ (=憑依体)になる訓練を続けている。 憑依というと、なんと前近代的なと、今日の知性は顔を背けるだろうが 命の共振性を知ればなんということもない 生命にとっては日常的なクオリア共振現象なのだ。 なにものかに動かされるクオリア、 闇から湧き上がってくるクオリア、 外から入ってくるクオリア、 次々と浮かび上がるクオリアなどに身を任せ、 どうぞ自分のからだを自由に使っていいよと 自我を後退させ、からだを開け放つ。 憑依体になることができれば、 あらゆるクオリアを制御することができるようになる。 いわば、十体の王だ。 世阿弥には、老体、女体、軍体の三体がある。 世阿弥の「二曲三体人形図」という文章は、 能を学ぶ際の心髄を端的な指示でまとめてある。 私はそこから多くのことを学んだ。 今は私は三十以上の十体をもつ。 だが、最初はたった一つだった。 十年ほど前、自分の十体の第一番目として <静寂体>を発見したときの喜びは今もありありと覚えている。 どんな十体創造も最初の一体から始まる。 世阿弥に倣って、三体以外の二曲について考えてみた。 二曲とは何か? なぜ、世阿弥は<二曲三体>を基本としたのか? 世阿弥は歌舞を二曲とする。 そして、老体、女体、軍体の三体と合わせて まず学ぶべき二曲三体とする。 歌とは、物理的な音声になって現れるか否かを問わず、 からだの中を蠢くクオリア流だ。 そう捉えると、歌が基本の中の基本のひとつに 据えられていることが納得できる。 舞とは、そのクオリア流がからだの動きとなって現れたものだ。 踊りとはこの歌舞の二曲がうねり、 上になり下になってねじれつつひとつになるものだ。 あるいはむしろ、端的に、歌舞の二曲を 内クオリア流と外クオリア流と捉えれば、なおすっきるとする。 内向クオリア流とは、 ただ生命がクオリアそれ自体と共振しゆらいでいるものだ。 いわば命の営みそのものだ。 外向クオリア流とは、 それが外界の物質やエネルギーと相互作用するものだ。 踊りはこの内外二つのクオリア流が 重なり合い、ねじれあい、響きあって 一個二重のひとつのものになるときに成立する。 外向クオリアだけではただの体操だし、 内向流だけではただの心の動きだ。 からだを通してそれがひとつになるとき 踊りという奇跡が起こる。 世阿弥は、踊りの中でこの内外のクオリア流の 交錯するさまを捉えていたのではないか。 直接はそうはいっていないが、 本当の感動は心ではなく、無心の境にあるなど、 文章の端々に命の営みそのものに 触れるような記述が散見される。 (共振論3章の「世阿弥とクオリア」の節を参照) 600年も前の人なのに、すごいことだ。 心を砕いたり、観客の心などを相手にしている限り だめなことを見抜いている。 命が揺り動かされるときにだけ、 人は心にも覚えず、深く感銘することを。 踊りの心髄がフィジカルな物理的な力と、 メンタルな想像力がねじれあい一つになるところにあると 十五年も前の昔から直感していたが、 これまではうまく言い表せなかった。 世阿弥の歌舞二曲論をヒントに、 それを外向クオリア流と、内向クオリア流ととらえ直すことで ようやくその本質に迫れそうだ。 そう、命の営みそのものである内向クオリア流と それが外界の物質やエネルギーの世界と切り結ぶ 外向クオリア流とが一つになり、 内も外もなくなるときに踊りになるのだ。 二曲三体の探求は、意外におもしろい坑道になりそうだ。 これからじっくり掘り進めていくことにしよう。 |
| July Course, 4th week, last day finished.... .Lee's words keep on sounding in my ears. With his warm and quiet voice, taking us to the life 4 billions of years ago, tramforming from one creature into anonther feeling life, experiencing death, traveling far to the darkness of our body , listening to our sub-conciousness and feeling the resonance with everthing.... My second month dancing with my subbodis... Facing my self, where are the subbodies of last month, not able to go inside of myself... All the time judging myself ' I can not move like this' , 'where are my subbodies?', 'Why can I not move so nice as then', 'No this movement is not good', 'What am I doing?', Until the moment that I started asking my subconsciousness 'What do I have to do?', I am loning my self , I need some help', 'An answer came : ':Listen to YOURSELF, to your mind, What does your subbody want to do, let your guide, don't move by your head, your judgements and that from others bring in me... There is no good and bad, everthing is allright! Slowly I started listening to myself ! What do I want to do? .A new world qened.. My subbody world brought me into many dimensions... .Creation could start! And this I learned: Accept yourself as who you are! Whatever you want to do! And make yourself strong as that person! Don,t let you influence by your judgements and expectations from others, throw them away. Your insde brings unique creation! And that we could see in the 'final performance' on the last day of the course... Everbody moving in a unique way, taking the audience with them to their subbody world! Surprised by the results! .Lee, Thank you very much .Many things are moving inside of me! A part of myself can breathe again! Creativity! And I feel more than happy ! (Anske) |
| 2007年8月26日 ●顔崩しの過激さ・アンスケ 2ヶ月目を終わってベルギーのアンスケが書いた感想文は、 実に真実味に富んでいる。 日常自我を弱めて、意識が下意識と半々に釣り合う サブボディ状態に移行していくときに 誰もが直面する問題を網羅している。 上の英語文をよく読めば、誰もが突き当たるエッジと それをどう超えていくことができるかが如実に分かる。 この後を続いてサブボディ世界に入ろうとする人にとっても 大いに参考になるだろう。 とりわけ、アンスケが果敢だったのは 知性的な顔を崩すことにおいてだ。 日常世界の女性にとっては 顔の知性的な左右均等性を崩すことは なかなかできるものではない。 日常体の財産のようなものだからだ。 いくら知性の言葉でよさげなことをいう人でも 自分の顔を崩せない人をわたしは信じない。 自分だけを良いところに置いておいて、 どんなかっこいいことを言っても駄目だ。 <自分の顔はよい>という自己像に縛られている限り 自我の呪縛から逃れられない。 どこかで共振性が損なわれる。 その点、アンスケほど勇敢に自分の知性的な顔を 崩しきれた人は他に知らない。 それに関して、国許の母親から矢のように突き刺す電話があり なぜそんな顔をするのかと鋭く問い詰められたそうだ。 その翌日、さすがのアンスケも気落ちして泣いた。 みんなで囲んで共振タッチをしばらくして勇気付けた。 母親が娘・息子を支配し続けようとする愛情は 時に両刃の刃となって、子供を容赦なく破壊しようとする。 アンスケはその母親との葛藤に耐え抜いて、 7月の踊りを創りぬいた。 それは真に迫るものであったが、 今月に入ってなお真実味を深めている。 40億年の命として生きようとするとき、 私達は、自分がどんな国に生まれ、 何歳の男や女であるということや、 家族のなかのどんな役割を担っているかというようなことなど、 日常世界での人間の桎梏をすべて脱ぎ捨てる。 そうしてはじめて、わたしたちは、 それらの日常世界に囚われた自分を超えて 透明な生命になれるのだ。 その道を果敢にたどろうとするアンスケが これからどこまで行くのか、先行きが楽しみだ。 |
| 2ヶ月目を終わって 子供の頃、どうして自分がこの体の中にいるのか 鏡を見ながら不思議に思っていた。 それが、このスクールでは、当たり前のように思えてくる。 40億年の命になり、心に聞いてみると、 その疑問を持っていたことが、クリアーに見えてくる。 どれだけ、社会に向けた自分、自我が それを押しつぶしていたことか。 命はいつも開放されたがっていることに気がつく。 このコースを2カ月続けることにより、 その気持ちが強くなった。 今は入り口を見つけられた。 これから毎日自分の命に聞き耳をたてながら 自分の居場所を見つけていきたい。 栗原麻里子 |
| 40億年の不思議 この手記を読んで、口数少なかった麻里子が、 こんなふうに受け止めていてくれたんだと、知ってうれしかった。 最も伝えたいことがちゃんと伝わっていた。 それも彼女の子供の頃の疑問に響きあうようにして。 鏡を見ながら命の不思議さを感じ取る こんな子供がいたことも衝撃だった。 わたしが始めて命の不思議さに触れたのは 30代の頃、その当時熱中していた 淡水魚飼育の水槽を眺めていたときだった。 今、目の前を泳いでいる小さな稚魚も、 ゆらいでいる水草も、それを見ているわたしも、 みんな40億年前に発生した最初の命から まったくきっちり同じ時間をたどって 現在を生きていることに気づいた。 その気づきに強い衝撃を受けた。 だが、その気づきから、 さらに、生命というものが、無限の個体に多様化しているが、 その実はひとつであり、 私達すべての個体としての生命体は 40億年続いている巨大な命を分有しているのだ、 という気づきに至るまでには、さらに25年もかかった。 論理的にはわずかな一歩だが、それに気づくには 途方もない時間がかかった。 自分のことを40億年の命と感じることではじめて 普段閉じ込められている自己や自我の狭い殻から 自由になることができる。 麻里子にもそれが伝わった。 それで大丈夫なのだ。 もはや人生を間違うことはない。 きっと自分の命が最も踊りたい場所で 最も踊りたい踊りを踊りぬく生き方を見つけてくれるだろう。 リゾームLee |
| 2007年8月23日 ●からだの闇の地図 自分のサブボディ世界を描いた。 十人十色の地図が出来上がった。 最初はその地図に他人が上がりこみ、 勝手に共振してみせる。 他の人の絵を見ながら、 体感チャンネルで共振する体感クオリアを見せる。 動きのチャンネル、音像チャンネル、情動チャンネルで 自分のサブボディがその絵を見てどんな共振が起こるか、 やってみせる。 他の人のサブボディ世界は、自分の世界より踊りやすい。 共振するままに動けばいいからだ。 自分の絵に共振する他の人の動きを見ると、 ひとつの絵に実にさまざまな可能性が 折りたたまれていることが分かる。 他の人が自分の絵をどう踊るかをたっぷり見た後、 いよいよ自分でサブボディ世界に入っていく。 その絵がサブボディ世界のガイドマップになる。 絵の中には時間の次元が縮約されている。 それを踊りの<序破急>として解読していくのが 作業になる。 その絵のどこから踊り始めるかで、 まったく違った踊りができる。 ディテールも大事にする。 ディテールのクオリアは指先足先顔の皮膚などの からだの端っこで踊る。 からだの端っこからひとつのクオリアが開畳していく。 リゾーミングテクニックを使うと、 からだ全体が劇場になる。 今回は自分の中に潜む多くのサブボディが見つかるという 予想以上の膨大な収穫があった。 |
2007年8月21日 ●生死ゆらぎの即興 踊っているのは死者なのか生者なのか。 そこで笑っているのは? わたしに触れているのは何者か? 誰がわたしを動かすのか? 何もかもが生と死の間でゆらいでいる。 それだけのことだ。 それだけの真実をそっと浮かび上がらせるために。 八月コース第1週のサブボディ コーボディシアター。 今月は死者の月。 今月の踊りは死者にささげる。 いや、どの踊りもそうなのだ。 生死の間でゆらがない踊りなど なんの値打ちもない。 |
2007年8月20日 ●異貌の自己の棲家 実に長い時間をかけて、からだの闇を旅してきた。 自分ひとりのからだの闇を旅することから、 ここに来る生徒の無数の闇を手探りで旅してきた。 その結果、とうとう、 からだの闇のどこにどんなサブボディが潜んでいるのか、 手にとるように透明に見え出してきた。 たとえば、<原生体>と呼ぶサブボディはここにいる。 下意識モードのからだになって、 からだの闇の最も原始的な生命傾向に耳を澄ます。 すると、誰のからだからも かつて命が大洋でゆらいでいた頃の、 もっとも原生的なサブボディが出てくる。 ゆらぎ、ふるえ、うねり、外界と響きあい、 動かされるクオリアに身を任すだけでいい。 子宮の中で十ヶ月もゆらいでいた生命記憶は まだ生々しく残っている。 それが何十億年もの大洋ゆらぎの体感とつながっている。 第1週目にはまず、この<原生体>になりこむ。 第2週目は、もう少し深みへ降りる。 からだの中で忘れ去られた隠れ関節や隠れ体感を開く。 するとそこに封印された異貌の自己が次から次へとでてくる。 からだの奥に隠れている<異貌体>を探る旅に降りていく。 人間の日常体には忘れられて使っていない <隠れ関節>がいくつもある。 英語ではヒドン・ジョイントと呼ぶ。 尾?骨の関節、仙骨と骨盤の間の仙腸関節、 鎖骨と胸骨の間の胸鎖関節、手足の指の第四関節、 手首足首の八つの小骨の間の関節、顎の関節、 そして、脊椎間の関節などである。 これらの忘れられた関節の間には、 小さい頃に一度だけ使って、 大人たちから非難の目や、 選択的非注意のまなざしで扱われたため、 くぐもり、萎んでしまったnot-meたちが潜んでいる。 サブ人格、下位人格、影などとも呼ばれる。 彼らはいつも日の目を見たがっている。 異貌体になるとは、彼らにからだを貸してやることだ。 <端目や眇めを開く>ことも大きな手段になる。 目を斜め上下にすばやく動かす。 なにか素っ頓狂なことを思いつくやつ、 ひょうきんなやつ、など なにか見知らぬ人格がでてくる。 目の端っこで見つめる。 黒目ではなく白目で見つめる。 極端な上目遣い、下目遣いをしてみる。 狡いやつ、人目を盗んで生きているやつ、 見下しているやつ、などなど別世界の住人が姿を現しだす。 じっくりと流し目を贈る。 体の動きと反対方向に目を流す。 不思議な情動が湧いてくる。 目を上に浮遊させて、白目になる。 死者の目になる。 異界の目でこの世を眺める。 さまざまな速度でこれらの目を生きてみる。 かならず、異貌の自己に出会える。 その異貌体になりこむ。 <舌、顔つき、息遣い>を変える。 普段はしない舌使い、顔つき、息遣いをする。 ぺろぺろ、なめなめ、ぐずぐず、はあはあ、 ぜいぜい、ひゅうひゅう、むぐむぐ…… 人間ではない異貌の生き物の息遣いがよみがえってくる。 口元もひどく歪む。 思い切って異貌の顔になりこんでいく。 妙な声が出てきたら乗り込んでいく。 異貌の自己は、12音階や人間の分節言語に囚われていない。 いつも人間とは違った声で違った歌を歌っている。 それはずっと昔に置き去りにされてきた自分なのだ。 そして、彼らこそ、最も創造性に満ちたやつらなのだ。 からだの闇にかがみこみ、うずもれたままの 異貌の創造者たちを掘り出してやる。 なぜ、こんなところに異貌の自己が棲んでいるのか? 長い間謎だった。だが、最近謎が解けた。 異貌の自己が潜んでいるのは、 内向チャンネルと外向チャンネルの境目なのだ。 内向チャンネルは、どのチャンネルも、 物理的な物やエネルギーとの相互作用から自由である。 内クオリアだけが、共振して想像上の世界を創り出す。 そこは、外向チャンネルのように、 現実世界の<元型>に囚われていない。 とてつもなく自由なクオリア流動の世界である。 これに対し、外向チャンネルはすべて、 現実世界のきまりごとに縛りつけられている。 からだチャンネルはエゴの支配下に置かれている。 日常体は「これは自分のからだだ」という妄想から 自由になることができない。 動きは重力に囚われている。 だが、サブボディは、少しの重力で漂ったり、 重い重石に押しつぶされたり、 さまざまな重力のクオリアを生きている。 外向映像は、色や形という日常的な外形に囚われている。 だが、内向映像はそれらから自由に飛び立ち 自在に色や形を変形する。 外向音像は悲しき分節言語や 12音階の元型に囚われたままである。 だが、体内音がそうであるように、サブボディの音像は それらから自由にうねりまくっている。 外向感情は、喜怒哀楽という感情の元型に縛られている。 日常体はそれらの元型感情に囚われて感情を感じる。 だが、サブボディは悲しみと怒りの間の 千万の諧調を感じわける。元型に囚われない 幾千倍も豊かな情動と感情を生きている。 関係チャンネルもそうだ。 日常体は男女や家族・社会の役割に囚われている。 だが、サブボディはn個の性を持っている。 自在に取替え、無数の役割を変容する。 世界像=自己像チャンネルでは、日常体は、 国家や国民に囚われ、人間は自己同一性という アイデンティティを持つという幻想に縛られている。 だが、サブボディには国家も同一性もない。 無数のアイデンティティを取替え、変容して生きているのだ。 思考チャンネルの束縛がもっともはなはだしい。 外向思考とは、二元論に囚われ、良い・悪い、内・外、 上・下という元型的な幻の境界ですべてを分ける。 だが、そんな境界など現実にはどこにもないのだ。 日常体は、彼らが信じる共同幻想の内部にしかない 幻の境界に囚われている。 自由なクオリア流動の内向チャンネルと、 無数の元型に囚われた外向チャンネルの間に、 異貌の自己は封印されている。 みんな自由なクオリア流動を発露しようとして この世に叱られ、無視され、 くぐもらざるを得なかった共通の運命を持つ。 だから、サブボディがこれらの異貌体を解放し始めると、 命が面白がってやたらと騒ぎ出す。 夜も寝ないでサブボディたちが、 ドンちゃん騒ぎの宴会を開きだす。 しばらく、奇妙な夢に襲われ続ける ようになるのはそのせいだ。 睡眠不足になるのはしばらく仕方がない。 昼間できるだけ休むようにして この騒ぎ立ちをやり過ごす 秘訣を身に着ける必要がある。 |
| 2007年8月17日 ●生死ゆらぎの八月 今月は、8月15日の終戦記念日に、 思い切って生死ゆらぎの授業をしたことが、 週末のサブボディ=コーボディシアターに結実してきた。 だれも、生死ゆらぎの踊り方など知らないはずなのに、 味わい深い踊りが続出した。 ビデオにも写真にも撮らなかったのが残念なほどだ。 ここから、どこへ? 目くるめくような魅惑と恐ろしさに満ちた 未知の未来へなだれこむ。 |
| 2007年8月16日 ●ピラーの原生夢 コロンビアのピラーは、2年前に続く二回目の来印だ。 二年前のクラスで、彼女は自分の原生夢を踊ろうとした。 自動車で走っているとき、テロリストに銃撃されて 銃弾が肩から心臓へゆっくりと達していくという 過激な死の夢だった。 2年前は1週間の短期間だったので、完成できなかった。 それがどうしても気がかりだったのか、 今年彼女はその悪夢の踊りを完成するためにやってきた。 そして、先月一月をかけて仕上げた。 人生にはどうしても踊らなければならない踊りがある。 命に近づくために、避けてとおることのできない踊りが。 ピラーはその命への道をたどりなおしに来たのだ。 |
2007年8月15日 ●8月15日の生死ゆらぎ 今日は第二次世界大戦の終戦記念日だ。 終戦とは敗戦を言い換えた欺瞞だと、 敗戦記念日という人もあるが、 敗戦とは日本という国家を主体にした言い方で、 わたしには抵抗がある。 国家と自分を同一化することはできない。 侵略されていたアジアの民にとっては敗戦でもなんでもない。 日本の侵略が終わった記念日だ。 終戦と呼ぶほうがアジアの民の感覚に近い。 だがいずれにせよ、8月15日は忘れられつつある。 もう62年も経ったのだ。 戦争を知らない世代がほとんどになった。 今の共振塾の生徒も20代、と30代だ。 だが、その若い生徒達と、今日はいちにち 生死の間をゆらぐからだになることに徹した。 死は近代の文化では切り捨てられている。 わたしたちのからだは、60兆の細胞からなるが そのうち何百、何千万もの細胞が毎日死んでいっている。 表皮細胞や、髪、爪、歯など死んだ細胞によって わたしたちのからだは守られている。 生死の細胞の協働によって多細胞の生体は成り立っている。 生命は常に生死の間をゆらいでいる。 そんなことも忘れられている。 生の側に51パーセントでも傾くと、 踊りは軽く不透明になる。 だが、今日までなかなか踊りの中の 生死のクオリアの分量を50と50にするという 方法が見つからなかった。 いや、生命が本能的に死を嫌っているのではないかと いう惧れから、なかなかそう持っていけなかったのだ。 死を真綿でくるんだ言い方にになってしまっていた。 今日が生まれてはじめてだった。 生徒の反応がどうだったかは別にして 私自身が、死と生が半々に釣り合った状態を 志向している事をまっすぐに言い切れたのは。 なぜ、死体にならなければならないのか。 それが、自分の中で少しだけクリアになった。 まだうまく言葉ではいえない。 ぴったりした言葉が見つかっていない。 ただ、今日わたしはそれを授業で行った。 それだけで今のわたしには精一杯だ。 ここへ来てもらわなければ、 サイトの言葉だけでは伝えられないこともある。 それを分かってほしい。 |
2007年8月12日 ●生命の多重共振性 8月10日のサブボディコーボディシアターの公演が無事終了した。 その模様は、上のビデオおよび、Youtubeに順次アップする 5人のサブボディソロのビデオをご覧ください。 ソロビデオを見る ほんとうさのある踊りとはなにか、 今世紀の世界ではめっきり見ることのできなくなったもの、 あなたはそれに触れることができるだろう。 わたしたちはまだ胎児の歩みを歩き始めたばかりだ。 だが、この公演で達成できたことを踏まえて 次にどこへ行きたいのかが見えてきた。 わたしたちは淡々と進む。深みへ、 生命と死の相克する深みへ。 生命に聴く。 何が一番したいのか? 40億歳の命として、何が大事なのか? 一月尋ね続けてきた。 先週末、この学校を作って以来はじめての舞踏公演を行った。 公演で何をしたいのか? 命への問いは必然的にそうなった。 今月の命の答えは、 「生命がありとあるクオリアと多重に共振している ことを伝えよ」というものだった。 公演は十数分の五つのサブボディソロを第一部、 第二部を60分の5人の自由即興として行った。 公演日の朝、出演する5人の生徒とともに、 自分の命がいかにあらゆるクオリアと共振しているかに 耳を澄ました。 重力や光、音、空気、そしてそういう物質やエネルギーだけではなく 個人の記憶や細胞の生命記憶、胎児期の記憶など 体内深く刻み込まれた内クオリアとも 絶えず共振していることに耳を澄ました。 公演前の鋭敏になった神経だからこそ、 研ぎ澄まされてそれが聴こえてくるようになるのだ。 そして、自己ではなく、命として世界と共振していることを 伝えられればよい、という瞑想と調体を行った。 五つの命が、どんなクオリアと共振し、 からだに何が起こっているのか、 それを透明に伝えることだけが大事なのだと。 生命同士がどのように共振しているか、 第一部の他の人のサブボディソロに対しては、 体内から立ち上る体内音声と 原始的な楽器の音で音像共振した。 第二部のコーボディグループ即興では、 60分の自由即興のなかに、これまで練習してきた グループ即興や、自分のサブボディソロのエッセンスを 出すタイミングを見つけて出す。 そのときどういう共振が起こるか、 それを仕組まずに透明に見せた。 人前で公演することがはじめての生徒が5人の中で 3人を占めていたので、よほど多少の振付をして 安全策をとろうかとも考えたが、 その日の生徒の調体の具合がよさそうだったので 思い切ってサブボディに任せた。 それがよかった。 これまで10余年行ってきた中でも 最高度の透明さを見せるものとなった。 透明さとは意図なき面白さなのだ。 それで、明日から始まる8月コースでの主題が浮かび上がった。 生命が行っているあらゆるものとの多重共振に いかに気づくかに焦点を当てる。 それが決定的に重要なのだと 久しぶりの公演経験を通じて知った。 だが、いい気になってはいられない。 はじめたばかりの音像共振が、 まだまだ既成の音楽の元型にがっしり囚われたままだ。 元型の呪縛力は甘いものではない。 からだも動きも音も、まなざしも、まだまだもっと濃い死をはらむものに 変容する研鑽を積まねばならない。 行く手は限りなく遠いが、見えないわけではない。 闇の掻き分けかたもようやく分かってきた。 サブボディ=コーボディにとって調体がいかに重要であるかを つかむことができた。 それが収穫だ。 |
| 2007年8月10日 ●サブボディ共振塾舞踏公演 |
![]() Subbody Butoh Performence 10th August 3:00 PM At: Subbody Butoh School Entrance fee 400 Rs (E-Mail Reservation 300 Rs) E - Mail: Subbody@Hotmail.com ![]() |
| 2007年8月5日 ●サブボディとコーボディの不思議な混淆 サブボディ共振塾 7月第3週のサブボディ=コーボディ シアターの ビデオをアップロードしました。 ビデオを見る 3週目ともなるとサブボディとコーボディの 不思議な混淆が起こりだす。 自我に囚われた日常体を脱いで 下意識のからだに全脳心身で乗り込んでいく。 すると、命があらゆるものと共振している もうひとつの現実が顔を現すのだ。 |
| 2007年8月4日 ●男女という元型を脱ぐ 今週は転換の一環として、男女の転換を練習した。 アジアには、典型的な男舞の振る舞いと、 女舞の振る舞いとの違いがある。 インドネシアで出合った、 小さいころから民族舞踊にいそしんだ青年から、 手ほどきを受けた。 手のひらで空気を押さえるように、 親指方向に8の字型に回すのが男の舞で、 手の甲で風を受け流すように男舞とは反対方向に 肘から抜きながら8の字に回すのが女の舞だ。 脚の使い方にも同様の違いがある。 中東のベリーダンスでは、 骨盤を内へ内へと繰り入れるように回すことで女性性を強調する。 脚の踏み方の違いによって、からだに立ち上がる体感の流れも、 男舞と女舞との違いを感じ分けることができる。 私は昔、 「父は泣け、母は嗤えと云った」というタイトルの踊りを創ろうと 何年も取り組んだことがあるが果たせないままになっている。 女体へのなりこみの難しさのせいもあった。 お気に入りのドレスをあるときなくしてしまったショックのせいもあった。 男とは何か、女とは何かという底知れない問いに 迷い込んでしまったせいでもあった。 今ようやく、自分が突き当たっていた深い闇がなんであったのか 少しだけ透明に透けて見えてきた。 男女というのも私たちが囚われている<元型>だったのだ。 よくよくからだに感じ入れば、私たちの中には、 男と女以外に、子供とか幼児とか、赤ん坊とか、 胎児、老人、死者など、男女の枠に入らない性が無数に存在する。 それらは、未成熟な男女でもなく、役割を終えた男女でもない。 男女ではない別の性なのだ。 男と女の間には、無数の階庭がある。 男女の元型に囚われず、それら無数の性を生きること。 その昔、ドゥルーズとガタリが語った、 n個の性を生きよ、とはそのことだった。 その言葉を知ってから、十数年してそれが、 男女元型への囚われを脱ごうとするものであったことに気づいた。 男舞、と女舞の間には、無数の性の変幻がありうる。 胎児、幼児、少女、少年、天女、天使、老婆、老人、女形、男勝り、 ゲイ、レズ、ロリ、ショタ、バイ、サド、マゾ、各種のフェチ、 ――これらはすべてn個の性である。 自分が囚われている性を脱ぎ、 n個の性の踊りを発明せよ。 なんと楽しいことじゃないか。 すると、この課題はただちに私の 多重人格日記の領域と重なってくる。 私の30余の人格たちはそれぞれの性的嗜好性をもつ。 あるいは無性だ。 多重人格者はすでに世界に先んじて、 n個の性を生きはじめている人種である。 (この記事はどちらにも分類できるので双方に載せることにした。) 多重人格日記を読む |
2007年8月2日 ●内向思考チャンネルとはなにか? あらゆるチャンネルは、物理的な物質やエネルギーと 相互作用している外向チャンネルと、 内クオリアと共振している内向チャンネルの二つを持つ。 思考チャンネルの外向と内向の区別は見分けにくかったが、 今日、生徒から共振タッチを受けつつまろどんでいるときに 不意にすっきりした説明ができることにきづいた。 外向思考チャンネルとは、四次元時空や二元論思考に束縛された 低次元拘束を受けている。 これに対し、内向思考チャンネルとは、 それらの低次元拘束を受けず、 高次元で共振しているクオリアにそのまま触れることなのだ、と。 私たちの日常体は、合意的現実を 唯一の現実として受け入れている。 それは三次元空間、一次元の時間、そして二元論思考という 低次元拘束思考に囚われている。 ことばを使って思考すると、かならず、 不可視の二元論に拘束される。 ことばそのものが、二元論に拘束されているからだ。 すべてのことばはそのことばによって意味するものと、 意味しないものという概念の内部と外部の二元論に囚われている。 上・下、聖・俗、内・外、敵・味方、自己・他人、心・体、…… 日常意識はこれらの二元論に拘束されている。 日常思考はこの低次元に拘束されたままことばを使って思考する。 これが外向思考チャンネルの特徴である。 内向思考チャンネルは、外向思考とはまったく別の原理を持つ。 瞑想や自己催眠によって、外向思考を止める。 言語を使った日常思考の低次元拘束から身を解く。 すると、はじめて命があらゆるものと多次元で共振している もうひとつの現実に触れることができる。 それは非二元かつ多次元の世界だ。 その世界からのかすかなシグナルをキャッチすることができる。 命は、ひも理論で言う11次元の多次元時空で 無数のクオリアと共振している。 内向思考チャンネルを開くとは、 その多次元世界から届く気づきを受け入れることである。 頭を使って考えるのではない。 外的思考を止め、命があらゆるものと多次元で共振している もうひとつの現実に耳を澄ますだけでいい。 外向思考チャンネルを止め、 内向思考チャンネルを開くこと。 するとはじめて、内向クオリアを制御し、 自由に駆使することができるようになる。 低次元拘束から解き放たれると、命があらゆるものと 11次元で共振していることにじかに触れることができる。 下意識の創造性に満ちた無限の可能性が開く。 こればかりはやってみないとそのとてつもない おいしさは分からない。 世界でこの共振塾に来る人だけがそれを知ることができる。 大げさなようだがほんとうだ。 ここはとてもとてもとてつもない場所なのだ。 |