March 2006
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2006年3月
共振回路が開いてきた
もっともみすぼらしい動きを絶妙の序破急で見せる
最深のサブボディを探る
クオリアの海と共振するからだとなる
離見とはなにか
序破急とはなにか
いかにからだの闇へ降りるか
動きの間隙に異次元の秘兆を埋め込む
胎児の記憶に降りる
封印されていた固有クオリアを解き放つ
からだの闇に耳を澄ます
衰弱体から衰弱十体へ
2006年3月
3週目の記録

2006年3月28日

共振回路が開いてきた

3週目に入って、毎日クオリア共振に耳を澄まし続けてきたことがようやくからだに染み込んできた。自分のからだを流れるクオリアがどんな微細さで周りの人や、自然と交感して震えているか、自分の皮膚と皮膚、ほかの人との皮膚の間で共振に聴き入ると、自然にからだが反応するようになってきた。新しく今週から来た人も、3人の3週目のからだに共振してすぐそれになじんでいく。クオリアの共振性は強い伝染力をもっている。意識をうまく鎮められると誰でもすぐクオリアの共振にききいることができるのだ。今週参加したアメリカのアンヤは、インドの旅行中に、去年サブボディワークショップに参加したアイルランド人に出会ってここのことをあらかじめ聴いていたので、心身の準備もできているようだ。伝言もひとからひとへの共振の一種だ。共振がさざなみのように伝わっていく。

共振離見を開く

離見とは、外部からビデオカメラアイのように、自分の踊る姿を見ることではない。当然それも含むが、本質は踊り手と見所の間に成立している共振を離見することだ。

カメラアイのような、共振力のないヒューマノイド化した、意識の目にはこの共振は映らない。だが、踊り手ならば誰でもからだで知っている。

世阿弥の花伝書の<序破急>論にも、彼にとっての上客が能に遅れてやってきたときの、<序破急>の微調整の仕方が書かれている。そのように<序破急>とはいつも見所との共振の具合を聴きつつ、微妙に伸び縮みさせて最適の共振が成り立つよう制御していくものなのだ。

今日のクラスでは、想像上の見所との共振を離見しつつ、進めた。生徒たちの踊りに世界への広がりが出てくる。同時に意識が介入する危険も増える。踊りは透明離見と意識との闘いを克服しなければならない。

もっともみすぼらしい動きを絶妙の序破急で見せる

いいかい、ここが肝腎な点だ。動きは最も人間から遠い、みすぼらしいものであればあるほどいい。ダンスにはわかっていない点だが、かっこいいすばらしい動きは、動けない弱者を威嚇するのだ。世界との共振はそこで断たれる。健康者以外は排除された近代という井の中の社会の見世物だ。世界と共振するためには、最も強い共振力をもつ、もっとも弱く瀕死寸前の動きをからだの闇からつかみ出さねばならない。そして、それを最高の<序破急>で見せるのだ。一言で言えば、それがサブボディ舞踏の極意だ。

共振するサブボディがコーボディなのだ

自分固有のサブボディを掘り下げていくとそれがいつの間にか、コーボディ(共身体)に転化しているのに驚く。これが踊りで起こる最大の不思議だが、いまでは、サブボディの中でも深い、人間から遠いサブボディほど根源的な共振力を持っていて、すぐにも他のサブボディと共振してコーボディに転化するのだという道筋が透明に見えてきた。

劇場名を、長いがサブボディ=コーボディ劇場と呼んできたのは、この両者がリゾーム状に相互転化するさまが透明に見える場としたかったからだ。それが普段の練習で出てくるようになれば、いつでも公演を打てる態勢が整う。だが、まだまだあわてないでじっくり踊りを育てていけばいい。今が一番楽しい時期だ。

2006年3月27日

最深のサブボディを探る

3週目を迎えた。今週は恒例の午前中の胎道体験からはじまり、、午後はいきなり、最深のサブボディに触れるという課題に進んだ。

からだの闇に潜り、もっとも人間から遠い、もっともみすぼらしいサブボディのクオリアを探す。そして<序破急>を聴きながらそのサブボディになりこんで踊る。そうすることで、世界の果ての不幸と共振することができるからだに変成する。

からだの闇に耳を澄ますと、じつにさまざまなクオリアが聴こえる。そのほとんどのシグナルは一瞬かすめて去っていく。さっとよぎる体感、なにものかの気配、ふとかすめる感情、かすかな思い、ひとりでに動き出すかすかな振るえ、などなどだ。その中からもっとも人間から遠いもの、人間的でない動きを探る。胎児の頃に見ていた下等動物の動きの夢を思い出す。自分の奥底に潜んでいるできそこないの影の人格、弱弱しく、みっともないもの、見苦しいもの、ほとんど死に瀕しているものであればあるほどいい。

そういう一見もっともみずぼらしいサブボディこそ、最強の共振力をもっている。これがわたしの発見だ。地球の裏側の不幸とさえ共振する力をもつ。

思えばわたしが衝撃を受けた1970年の土方巽の舞踏は、水俣病で苦しみつつ死んでいった多くの死者と共振していた。その共振力がわたしをここまで運んできた。その衝撃波は今なお生きて続いているのだ。踊るならばそういう踊りを踊れ。5000年も続く衝撃波を生み出せ。これがサブボディメソッドの本懐だ世界で最深の舞踏技法だと、自認するゆえんだ。

わたしはようやく、自分が自分の本懐に達したことを知った。ここに来たいがために何十年も暗がりをさまよってきたのだ。長い道のりだった。だが、自分が抱えた疑問や問題を強く握り締め、たゆまず探究し続けていればいつかは自分の本当にやりたいことに達することができる。若い人にもそのことを伝えたい。わたしはこのことを、若年の日に吉本隆明から学んだ。吉本さんありがとう。あなたの教えは本当に本当のことだった。

第2週目の記録・2006324

クオリアの海と共振するからだになる

クオリアは、おそらくひも理論におけるひもの共振と同じ超高速の共振によって生成し、変容流動している。(これについてくわしくは別項の共振論をごらんいただきたい。)
だが、われわれの意識は、クオリアが絶えず共振によってゆらぎ変容していることを知らない。意識が働くためには、たとえば視覚神経細胞で捉えた視覚情報が第一次視覚野や視覚連合野のニューロンを刺激し、さらに前頭葉の総合認識野で統合されてなんらかの認知を得るまで、短いとはいえ0.3秒ほどの間、全神経細胞が同時に連結発火している状態を固定しなければならない。上位神経細胞から、視覚情報の入り口となる感覚神経細胞へ最初に得たクオリア情報を固定し続けるようフィードバック信号が下ろされ、その間視覚神経細胞から、上位の視覚野にいたるすべての神経細胞が一つのクオリアを捉えた状態を固定する。それでようやく全体としての認知が成り立つ。
意識はクオリアを止めねばならないという宿命を負っているのだ。

それが成り立つまでに現実世界のクオリアの変容流動に応じて感覚神経細胞の捉えた内容が変化してしまえば、認知の根本をなす一連の神経細胞ループの同時連結発火が成り立たないからだ。意識が働くためには、かくも大掛かりな連結発火が必要となる。だが、そのために意識はクオリアの変容流動という現実からは疎外されざるを得ない。意識は決してクオリアが絶えず共振によって変容流動しているという現実には触れることができないのだ。

私たちは、意識を静め、下意識と意識が等価につりあう透明心身状態になってはじめて、われわれが絶えず泡立ちゆらいでいるクオリアの海に漂っているという実相に触れることができる。われわれが胎児だった頃から、ずっとそれは続いている。だが、意識を得たとたんすっかりそれに気づかなくなってしまっているだけなのだ。

サブボディ舞踏学校では、まず、なによりわれわれがこのクオリアの海に漂っていることを実感する鋭敏なからだに変成することが最初の課題となる。

毎朝、自分のきもちのよい方法でからだのゆらぎに聴き入り、意識を静めることから始めるのはそのためだ。二週目に入り、ようやくそれがどういうことなのかが、からだで分ってくる。なかなか一週間ではからだで分りにくいようだ。去年までのような一週間単位の旅人相手のワークショップでは、どうもうまくいかないという壁にぶつかっていた。クオリアゆらぎの海の存在がからだで分るには、からだ自体が胎児の頃の胎感を思い出さなければならない。それに長い時間がかかる。これはどうしようもないことだ。

離見とはなにか

世阿弥が絶えず強調し続けたことの一つに離見がある。最初の頃は、単に自分の踊る姿を外側から見ること。とりわけ見所(観客)の目にどう映っているかを、見所の目になってみることだと思っていた。それだって初期の頃は大変なことなのだが、離見とはそんな単純なことではなかったということが後になって分ってきた。離見とは舞踏手と見所の間で起こっているクオリア共振の様子をつぶさに離見し、その共振をコントロールし続けることなのだ。

今日の授業で初めてそれを指導することができた。じっさいに見所の前で舞踏を踊るときに、見所のサブボディ・クオリアとどのように共振しながら、踊りの<序破急>を現前化しているかを、つぶさにたどった。すると、<序破急>にもまた新しい定義が必要なことがからだから浮かび上がってきた。

序破急とはなにか

<序>とは、見舞共振の観点からいえば、見所のなかで流れているクオリアと、舞踏手の踊りのクオリアの間にどのようにして最初の共振を起こさせるかというテクニックなのだ。見所の注意を踊り手が開示しようとする異次元のクオリア流にいかに引き寄せ、注目させ、引き込むかという一大事なのだ。開畳しようとしている異次元が現われてこようとする兆しをいかに匂わせつつ秘め続けるかという一個矛盾した<秘兆>が<序>の技法の要となるのはそのためである。

<破>とは、異次元が開畳する瞬間である。その瞬間、見所のサブボディもまた、一挙に踊り手の異次元の世界に引きずりこまれねばならない。そこにいたる緊張にみちた共振が<序>の段階で発動寸前にまで高められていなければならない。そして、<破>においてはその最適の間合いと、開畳する異次元がそれ以前の世界に対して示す異様さ、珍しさという異様な落差をもって見所舞踏手もろともにまっさかさまに異次元に落ちていく。そこで舞踏手は見所総体のサブボディをわしづかみにして異次元に落下していくのだ。

<破>は、いくつかのチャンネル転換、次元転換を経る。その度ごとに、見舞共振の具合をいつも離見し、最適の間合いで次の<破>への共振を導いていく。

最後の<急>は、舞踏手が最後に開畳する異次元に、見所一体となって転生する。そこはおそらくは死の世界、あるいは死の世界と同格の異時空である。そこで見舞一体となってこの現実世界への臨生のまなざしを共有する。見所のサブボディもまた、異界・他界の住人となって、死者のまなざしで自分の住むこの世に相対するのだ。

<序破急>という言葉を覚えてから、舞踏の<序破急>が分るまでに何十年もかかった。

2006323

いかにからだの闇へ降りるか

今日はじっくりからだに聴き入ることからはじめた。

座位でからだを回しながら、自分にとってもっとも気持ちのよい速度と大きさを探り当て、下意識モードの心身状態になって、からだの闇に耳を澄ませていく。

まず、どんな短いサブシグナルがやってくるか。映像イメージ化、ささやきか、体感か、……それで、自分の開いているチャンネルを知ることができる。

それから、そのサブシグナルが出てくる、もう一つ下層の闇に降りていく。安全欲や、快適欲、つながり欲、自己実現欲など生存諸欲求が渦巻いているあたりだ。その領域ではいつも安不安、快不快、係不係、全不全、活不活といった根底的な生存クオリアがゆらいでいる。そのクオリアのざわめきを聴く。

そして、さらにその下方に、自分から解離されてしまった、トラウマや、深層記憶、影の人格、解離分身、ノット・ミー、などのくぐもりが封印されている最下層の暗がりがある。自分が感じたサブシグナルがそれら最下層のくぐもりと共振するのを探る。それらもっとも醜くみすぼらしいサブボディが、じつは世界の果ての不幸とさえ共振できるもっとも深い共振力をもっているのだ。

一人の生徒から、先週以来、このクラスで、そういうものに触れそうになることがよく起こる。そのときどうしたらいいのか? と質問された。

そう、それはもっとも重大な問題だ。

私の答えは次のごとくだ。

1 それこそ君のサブボディだと気づく。

2 サブボディを自全(自分の全体)の一員だと認め受け入れる。たとえ、どんなに醜い、みすぼらしい変なものであろうとだ。

3 そのサブボディと友達になる。長く付き合っていく。

4 そのサブボディになりこんで踊る。

5 踊った後かならずきちんとサブボディを沈静化して日常体にもどる。

6 じょじょにそのサブボディの癖が分ってくる。

7 踊りの世界に解放されると、暴発する危険は少なくなる。

8 それでも暴発しかけたときは、ここにいる全員で抱きしめる。

――以上が、今私が見出している答えのすべてだ。それでもどうにもならないときは、相談してほしい、一緒に何とかしよう、と答えた。

実際、私は今日までたった一人でサブボディの棲む暗がりに下りて旅をしてきた。先導者が見つからなかったからだ。ずいぶん危険な目にあってきた。思いがけぬ殺意に満ちた自分の解離分身が激発してきたこともある。自分を殺害しようとする衝動に駆られたこともある。とんでもない予期せぬことが起こる。ユングも何度も無意識に食われかけたと危機を語っている。先導者なしにこの世界に降りることは絶対に勧められない。自殺行為だからだ。でも、うまく沈静化する技法を身につけつつ、少しずつ降りていけば、これほど創造の可能性に満ちた豊かな世界もまたとないのだ。危ないスレスレ、生死ギリギリの細い一線だけがある。サブボディ技法とはその一線上を降りていく技法なのだ。

舞踏の巣を秘める

その後、灰柱になって、からだの灰の粒子の隙間から、自分の暗がりにうごめいていたサブボディが出てこようとしては、出て来れないのを感じて歩く、<舞踏の巣>の歩行をした。

20分の個人での探体ののち、サブボディ劇場に入った。だれかが微細に動き始めるとその動きに全員で共振した。すると、今日はすべてのサブボディが舞踏の巣に一挙に変容した。ほんのちいさなゆらぎの中に各人のサブボディがあらゆるチャンネルからほとばしり出ようとしてうごめいている。別の次元へとからだごとズレかけてはゆらいでもどってくる。みんなとうとうなにかをつかみ始めたのだ。開校以来8日目で、ここまで来た。生徒のからだが、味わいの深い多層な闇と交感するからだに変成し始めた。共振しながら、私のからだはよろこびに打ち震えていた。

2006321

触覚チャンネルを開く

今日は触覚チャンネルを開く、三界トラベルを行った。


●触像流三界トラベル

胎内での羊水のゆらぎを思い出す、羊水タッチから、生まれて以来のさまざまな触覚体験をいかに踊りに取り入れていけばいいかをガイドする。さまざまなタッチでものに触れ、触れられる体験を深める。骨に触れ、体液組織に触れ、皮膚に触れ、その外側の皮膜帯域に触れる。能動的に触れ、受動態となって触れられ、その中間の半分受動半分能動の半受半能体となる。やわらかく気持ちのいいタッチから、強く押されたり、引っ張られたりする体験。そして、とても気味悪い触れられ方、虫唾が走り、怖気あがる触れられへ。死に触れ、死に触れられる。触れられている死に見つめられる。……内的な触覚チャンネルを失うと、外部からさまざまな触れられ妄想が襲い掛かってくる。気味悪いものに触れられているクオリアにとりつかれる。

そして、やがて、それらの妄想や憑依も過ぎ去っていく。内向触覚チャンネルが回復していく。外的な触覚チャンネルの崩壊と内的な触覚チャンネルの崩壊を経た後は、それらを自在に使えるようになる。

 

内向触覚チャンネルを超回復したダンサーは強い。何にでも触れることができ、何にでも触れられることができる。おまけに連日の六道ゆらぎで生と死の間に触れる訓練を続けている。生徒の想像力の幅が思い切り広がり、弾けていくのを見るのは楽しい。

動きの間隙に異次元の秘兆を埋め込む

今日のサブボディ舞踏劇場は、一挙に生徒の動きが多彩になった。ベースになる体感チャンネルに加え、アイチャンネル、情動チャンネル、そして、触れ・触れられるチャンネルが開いている。<序破急>を聴いて、最適のタイミングで次の次元が開畳する<破>の間合いを捉える。そして、一つのちいさな動きの中に異次元が開畳してこようとする気配を秘める。無数の異次元開畳の<秘兆>をはらんだ舞踏へ仕上げていくことが明日以降の課題となる。日ごとに超濃密な舞踏が仕上がっていく。毎日が楽しみだ。だが、まだ急ぐまい。まだ始まって7日目だ。まだまだ開いていないチャンネルがある。人によって、ここから先が時間がかかる。あまりに奇妙な世界へ急速に入っていくので、気味悪くなって、自我からストップがかかるのを感じる生徒も出てきた。ミンデルの言うエッジに直面しているのだ。きつくなるのはこれからだ。誰もが自分のエッジに直面し、それを超える長い迂回路をたどる自分との闘いに入らねばならない。自我の限界に直面するときに何が起こるか、ここでは海千山千の経験をもつミンデルという先達がいることがなんと助けになることか。感謝。

(今日から、作成の都合でブログと同様に、日付の新しい記事を頭に追加していくことにした。先週は下に貼り付けていったが、やはりこの方が更新していきやすい)

第2週・2006年3月20日


泡立つクオリア共振の海

舞踏学校開校2週目に入った。ブラジルのモニカたちは別れを惜しみつつ国に帰っていった。地球の裏側まで、2昼夜半かかるという。替わりにイスラエルからの旅人が3人トライアルコースに参加してきて、今週も6人のクラスだ。シーズンはじめはこのくらいの人数がちょうどいい。一人ひとりのからだの反応が微細につかめるからだ。

今日は春先のヒマラヤにつきものの嵐だ。予告もなく風速40メートル級の風が吹き降ろす。台風なら少しずつ近づいてくるので心身の準備もできる。だがここでは何の前触れもなく一気にそれが襲いかかる。はじめてこの嵐にあえば、誰の心身も震え上がる。

だが、こんな日こそ、外側の世界のクオリアと、内側のクオリアが密接に共振していることを知るよいチャンスだ。内と外に50パーセントずつ耳を澄ます。外の嵐と、内側のクオリアの泡立ちがぴったり寄り添って震えていることが分る。胎内にいたころは誰のクオリアも外界の母胎と一体になって震えていた。人として生まれて意識を持ったとたんにわれわれはクオリアの内外共振という秘められた現実をいとも簡単に忘れてしまうのだ。意識が働くためには瞬時だがクオリア流動を止めねばならない。意識が止まっているクオリアしか知ることがないのはそのためだ。

意識にとって、四次元に固定化した時空が、合意的現実になっているが、それは日常意識が見ている共同の幻想である。

世界の実相は、クオリアの泡立つ共振の海なのだ。ヒマラヤの嵐の日にはそのことがよく感じられる。

胎児の記憶に降りる

毎週月曜日は、恒例の胎道めぐりからはじめる。

静かに呼吸しながら生命ゆらぎに聴き入る。

お互いの生命ゆらぎを感じあう。やがて、ペアになり、一人が横たわり、もう一人は背後から背骨に手をあてて脳脊髄液の流れに耳を澄まし、その流れを共振増幅する。われわれが母胎内に胎児としていた頃は、母子一体の生命共振を生きていた。意識はその生命共振を忘れてしまっているがからだの闇はしっかり覚えているのだ。誰もがこの共振で心地よくなる。

そして、一人が相手の腹に耳を当て、体内音に聴き入る。胎児だった頃に聴き入っていた心音、呼吸音、不規則な内臓音に耳を澄ます。10ヶ月も聴いていた人間にとっての最初の音楽体験だ。誰ものクオリアが時を越えて活性化しだす。やがて、全員が並んで横たわり、ヒューマンオーシャンになり、一人がその海の上に横たわる。下に並んだ海の人は上の胎児に呼吸や、心音や、羊水タッチのゆらぎなどを与える。海のゆらぎはじょじょに大きくなっていく。上の胎児はそのゆらぎを聴きつつ自由に動く。私たちがまだ自分が人間であることなど知らなかったころの胎児の夢を思い出しながら、いろいろな下等動物の体感や体像を味わう。いつまでも続いてほしい羊水エクスタシーの時間だ。だが、この時間には終わりが来る。やがて海は荒れ始め、大嵐になる。胎児には何が起こったのかわからない。だがとんでもないことが起こっていることだけはわかる。やがて大きくまくれ上がった海は、一つの人間子宮に変貌して胎児を包む。全員が大きな人間子宮に変容する。収縮が始まる。呼吸が激しくなり、収縮の感覚が縮まる。仲の胎児は締め付けられる。息もできなくなる。生き延びるためには脱出しなければならない。だが出口はどこにも見当たらない。出口なしの恐怖の中で、胎児は生物学的な怒りに襲われる。怒りの底で力を振り絞って脱出口を探す。頭をよじって空間を広げ、生き延びる道を見つける。息もできない死と再生の時間を通って、ようやく外界に脱出する。胎児も子宮もくたくたにくたびれている。初めて触れる外界の冷たい空気、襲いかかる重力、硬い床の感触、何もかもが初めての体験だ。それをしっかり味わう。

封印されていた固有クオリアを解き放つ

私たち誰もが子宮の中でそれぞれ勝手に思い描いていた胎児の夢は、人間以外の下等動物の体感クオリアに満ちている。だが、人間界に産み落とされて以降はそれらは、下等なものとして発現を禁じられる。奇妙な動きやリズムはすべて、からだの闇深くに封じられている。だが、それこそがもっとも興味深い創造の宝庫であり、舞踏の萌芽となるものだ。一人ひとりが自分のからだの闇に潜り、固有のクオリアを探る。そこから世界で一つだけのサブボディ舞踏の種を探す。はじめはただそれを探り発現させてやるだけでいい。どんな奇妙なものでもいい。むしろ奇妙であればあるほどいい。人間にとっての新しい可能性がそこに詰まっている。世界で一つの変なクオリアを探り出す。それに特有の<序破急>を聴き、美にまで磨き上げるのは後日の課題だ。

二週目に入って

開校以来参加している3人は、二週目に入って、ようやく大体の見通しがついてきたようだ。からだの底から出てくる奇妙な動きがぞろぞろ出てくるようになってきた。そう、ようやく面白くなってきた。これからサブボディの種がどう育っていくか。見ものだ。サブボディの教師冥利につきる時間がやってくる。今週から参加した旅人たちも、初めて触れるからだの闇の世界の感触に驚きつつ、戸惑いつつも、「アメイジング!」な体感に震えている。これから一週間かけてそれがひとつの踊りになる。ゆっくりゆっくり歩んでいけばいい。

第1週目の記録
2006
313

舞踏学校がひとつスタートした

サブボディ舞踏スクールが今日からスタートした。とうとう、舞踏学校を一つ作ったのだ。

  年間を通じて述べ20人の受講予約が入っている。今月の生徒は次の6人だ。

東京から参加したフィジカル・アーティストの沙羅は、小さいときから習っていたバレエやモダンなどのダンスをそぎ落として舞踏の中にもっと深いものをつかみだしたいという。

静岡から参加のヒロは、レイブ・ダンスパーティをネットで検索していて、たまたまサブボディ舞踏にぶつかった、ダンスワークショップなど受けるのは初めてだが、自由に踊れて面白そうだから来たという。カナダのピエールルックは、コンタクトインプロ畑のプログラマーだ。英文サイトに載せたセオリーをよく読んでいて、自分の中の未知なクオリアに触れ新しい自己を発見したいという。ブラジルのモニカは、山田せつ子や、室伏などのワークショップをブラジルで体験しているなかなかの舞踏マニアだ。イスラエルのダンサー・ケレンは、ダライラマのティーチングを聴くために来たが、ここを知って急遽参加してきた。サブボディホールそっくりの建物を少し前に夢に見たという。それと、去年から引き続き参加のデンマークのシャスキアの計6人だ。来るべき人が来てくれたという感じだ。ここで舞踏学校を開いていれば出会うべき人と出会うことができ、そういう人らと踊りを深めていくことができる。一番やりたいことをいちばんやりたいやり方でやること。そういう環境がようやくできあがった。

●からだの闇のクオリアに耳を澄ます

初日は、からだの闇を流れるクオリアに耳を澄ますことに焦点を当てた。それがいちばん大事なことだからだ。

朝から、さまざまな方法で胎児時代に感じていたからだのクオリアをからだが思い出すように取り組んだ。胎児時代に感じていたクオリアは想起できる記憶としては残っていない。察知できないものをからだの闇に探す。誰もがそれに戸惑っている。だが、目に見えるものなどを探しても何もでてこない。見えないものの中からつかみ出すもう一つの鋭い感覚を磨くのがここでの作業だ。

今日から、からだの闇でさまざまなクオリアが波立ち始めることだろう。それは夜不思議な夢になって噴き上げてきたり、明け方の半眠半覚状態でビジョンとしてやってくるだろう。それを?まえることだ。

この学校の最初の課題は、毎日からだの闇に耳を澄ます習慣を作り、からだの闇の不可視のものを聴く鋭い耳をつくること。まずはこれである。余計なものが聴こえてこないここヒマラヤだからこそできることだ。

 

2006314

<序破急>の力

2日目:自分のからだの闇でうごめく自分固有のクオリアを見つけ出し、それが開畳してくる<序破急>を聴くようにアドバイスする。<序破急>を入れるだけで、とたんに踊りにメリハリが出てきた。<序破急>の魔法の力。ほんの少し<序破急>に配慮するだけで、こんなにもちがうのだ。

今日の<序破急>は以下のごとくだ。


●異次元開畳の<序破急>

<序>:灰柱のからだのどこかから異次元のクオリアが開畳してくる兆しを感じるが堪えて抑える。炸裂しそうになる異次元開畳の兆しを秘め続ける。

<破>:最適の間合いを見つけて異次元が開畳し、秘められていたサブボディのクオリア流がほとばしり出る。開畳するとき、一つの動きに十以上の異なるクオリアがまといつき微細にゆらぐ。

<急>:ひとつのクオリアの動きが最高潮まで達したのち、萎んでいく。またも無数のクオリアがまといつき揺らぎながら、ゆっくり一つの次元が縮退していくのを味わう。

ブラジルのモニカは、2ヶ月のインドの旅がここで一つになったという。クオリアと序破急という初めてのコンセプトを、消化するのに難航して、自己探求の20分は真っ白になっていたという。ヒロもまだなにか戸惑っている。だが、クオリアと<序破急>とは踊りのエッセンスの中のエッセンスだ。そう簡単に飲み込めるものではない。時間をかけてからだに染み込ませていくことだ。

午前中にやったヒューマン・オーシャンの浮遊胎感から人間子宮の体験がみんなにとって印象強かったようだ。それは、8年前にベネズエラで発見したものだ。さらは人それぞれのクオリアに、それぞれの<序破急>があると感じたという。自己と他者を客観視できる目を持っている。カナダのピエールもなかなか奇妙な踊りを出してきて面白くなってきた。イスラエルのケレンはなにか怒りに似た情動がからだの中でうごめき始めたという。出生体験は深い生物的怒りにつながっている。それが呼び覚まされている。

最後のサブボディ舞踏劇場では、今日は隣の人がフォローイング・サポート、その両隣がフォーカシング・サポートをした。それだけでもうかなりメリハリができ見れる劇場になっている。今回の参加者は皆勘がいい。さすがにヒマラヤまで来るだけの人たちだ。

 

2006315

今日は午前中は、数珠体のボディクオリア(体感・体像)への変容から、クオリアストーミングへ進んだ。


クオリア・ストーミング

ひとりがサブボディとして胎児の姿勢で輪のなかに入る。そのひとにまわりからみんなで、最初は心地よい羊水タッチで触れる。じょじょにさまざまなタッチや、音や、からだごとのコンタクトなどで、サブボディのからだのクオリアの流れを増幅していく。心地よいものから、異様な刺激までだんだん何でもありになる。中にいる人はそれを夢心地で味わう。さまざまなクオリアの嵐の中を旅しているような不思議な体験ができる。

やるほうも、受けるほうも同じように楽しい。全員が終わったときにはぐったりしてしばらく起き上がれないような、不思議なクオリアストームがからだの中で巻き起こっている。それが静まるまで時間がかかる。

 

午後は、おなじく数珠体から、原初ウオーク、そして、獣体への変容に入った。ボトムからの動きと、頭からの動きを瞬時に切り替える。

そして、最後のサブボディ舞踏劇場は、これまでに身につけたいくつかのボディクオリアを、誰かが変えていくというルールで30分の即興劇場とした。


誰かがクオリアを変えていく

これまでの三日間で、生徒たちはすでに下記のボディクオリアをもつ十体を学び、シェアしている。

・灰柱(Ash body

・粘菌(Ameba body

・原初体(origin creature

・獣(Animal body

・ヒト(Human walk

・ヒューマノイド(Humanoid

・石(Stone body

・気化体(Air body

 

最初は全員灰柱となり、その後なかの誰かがこれらのボディクオリアのどれかに変容して自分の踊りを始める。全員がそのボディクオリアに成りこみ、即興する。サポートしたり、コミュニケートしたり、自在に即興する。

そして、誰かが、もうこのクオリアは十分シェアしたと感じたら、別のボディクオリアに変質していく。それに気づいたらほかの人もそのボディクオリアになって即興する。

もうひとつ、いつこのルールを破ってもいいというルールを付け加えた。

つまり、いつ完全即興に入ることもOKだ。

ワームホール体験

ブラジルから参加のモニカが、わたしの名前のリゾームは、ドゥルーズ・ガタリと関係あるのかと尋ねた。そう彼らは私のフェバリットだというと、彼女もフーコー、ドゥールーズを愛読しているという。彼女は私のサブボディ舞踏メソッドに感銘し、ブラジルに招待したいという。

ブラジルと日本で、おなじ書を読み、しかも舞踏をする人と出会い、深く共振できるとは、まるで地球の裏側とワームホールでつながっていて自在に行き来しているような不思議な体感を覚えた。以前にも、ダンスリゾームとして世界中を公演とワークショップをして周っていたときも、同じワームホールをくぐっていた。日本、タイ、インド、ハンガリー、フランス、オランダ、ベネズエラなど行く先々の人々と、時空を超えて共振している体感の中にいた。これがクオリアのもっとも大きな特徴だ。多数多様な多次元が共振で繋がっている。

思えば私を根本から変えたのが、このワームホール体験だった。地球の裏側に私の生き方に根っから共振してくれる人がいることを知ることほど、それまで囚われていたものから解放してくれるものはない。1998年に世界を踊り歩き始めたのも、ベネズエラのデビッド・ザンブラーノや、スペインのサンチャゴ、フランスのマーク・トンプキンら存在の底から共振できる人たちと出会ったからだ。世界中にそういう人らがいっぱいいることを知った。このワームホール体験ほど、それまで自分が囚われていた日本の狭い関係世界が偶然のものに過ぎないことを教えてくれるものはなかった。私は軽々と日本での関係をすべて脱ぎ去ることができた。友人知人、親族家族、地縁血縁、世代年代、すべて偶然降りかかってきたものに過ぎない。私はそれらをザアッと流れる水の上衣のように脱ぎ捨てた。そんなものらに囚われることをやめて、好きなところで一番好きなことを好きなやり方でやりながら生きていこう、そう決めた。一度しかない人生だ。悔いを残してはいけない。――きみもそうだと思わないかい?

2006317

微細体へ

普通の日常体の動きのサイズとスピードを1とすると、その10分の1のサイズとスピードの世界に入る。するとそこは気功や太極拳の世界だ。そこからさらに100分の一の速度とサイズに縮小する。そこから先が微細体(サトルボディ)の世界だ。さらに1000分の一まで縮小する。もう殆ど目に見える動きはなくなる。だが、私たちのからだはそこで起こることを極精密に察知できる微細な体感クオリアを持っている。この100分の1から1000分の一の世界が微細体の世界だ。サブボディも普段はここに棲息している。

一つの舞踏の動きの中には、無数の微細なクオリアの変化が織り込まれている。それを感知し、コントロールできる微細な神経を鍛える必要がある。普段の日常生活ではまったく無視され、飛び越えられているささいなクオリアの変化だ。はじめて体験する生徒には、まず、そんなものがあるということ自体が信じられないようだ。見えないものを手探りで探す。これがからだの闇を掘り進むときの常態だ。この闇の探険家になるには、まず、このあてどなさに慣れる以外ないのだ。

2006319

クオリアには二種類ある

昨日試みた、微細なクオリアに耳を澄ますことが生徒にとって、なぜあんなに難しかったのか。

一晩疑問を下意識さんに預けいていると、いつものように明け方答えが返ってきた。

クオリアには二種類あるというものだった。

下意識が開いたクオリアの共振変容が活性態になったクオリアと、共振変容が不活性なクオリアとだ。

意識状態が強いときは、意識が働くために、外部世界からの五感の刺激を受け取り、一次感覚野から、高次野を経て、前頭葉などに刺激を伝達し、認知するまで実に多くの脳細胞(ニューロン)を同時に連結発火している状態にとどめ置かなければならない。そのために上位ニューロンから下位ニューロンに、発火状態を継続するように刺激が降ろされる。それによって、下位ニューロンで発生したクオリアは他のクオリアと共振して変容することがないように瞬時だが固定される。このため、意識状態ではクオリアの共振変容は抑止されている。

意識にしてみれば、これは重大なことだろう。入ってきた感覚情報をもとにそれを統合して判断している最中に、もとの情報が別のものに変容してしまっては困る。意識の下す判断が根本からゆらいでしまうからだ。

だが、言語意識を静め、下意識と意識が等価につりあう状態になると、意識はいちいち一次感覚情報を固定する必要はなくなる。そうすると抑制を解かれたクオリアは持ち前の共振力を発揮して、自在に共振し変容していくことができるようになる。この状態がクオリアの共振活性態なのだ。

昨日の練習では、初めて微細クオリアに耳を澄ますという課題に出会った生徒が、その存在を信じられず、疑いの意識状態が静まらず、クオリアを共振の非活性態にとどめていたために、微細クオリアに触れることができなかったのだ。

このクオリアの二様態に気づいていくこと。そして、毎日かならずクオリアが共振活性態となる状態へ、意識を静めていく方法を生徒自身が身につけられるようにすること。さし当っていま直面している重要な課題はこれだ。この意識の壁を乗り越えなければどこへもいけない。

衰弱体から衰弱十体へ

十年ほど前に自分の十体を創り始めた。

静寂体から始まって、粘菌体、原初体、獣体、伸縮体、傀儡体、異貌体、憑依体、風雲体、透明体の十体が始まりだった。

その後十年の間に、それらは三十体ほどに増えた。だが、いま、それらの多くはダンスの十体だったのだと気づいた。動きの健康な気持ちよさに掬われると危ない。それは動けない弱者を威嚇し、放逐する西洋近代の人間概念に加担してしまうのだ。

舞踏には舞踏の衰弱体がある。土方が収集し続けた衰弱体は、私のからだの中で十年かけて微分増幅され、いつのまにか衰弱十体に増殖した。人間崩壊のプロセスを、腑抜けになる寸前の精密さで味わい続けること。生と死の間のかすかなゆらぎの中に衰弱十体は無数に潜んで、閉ざされた異次元から開畳したがっている。

変成体

これまでの粘菌、海星、水母、石、などはすべて変成体という項に入れた。それらはわれわれが胎児時代、自分がまだ人間だと知らなかった頃に見ていたクオリア胎像流なのだ。

異貌体

眇めや白目をし、顔をゆがめていると自分のからだの闇の中に潜んでいる劣等人格、ユングの言う影の人格たちを自在に呼び出すことができるようになった。はしっこいやつ、油断もすきもないやつ、とてつもなくずるいやつ、つぎつぎとありえない代替現実を考案するやつ、泣き続けているやつ、とびきりひょうきんなやつ、などなど次から次へと出てくる。彼らは皆異貌の自己である。私は彼らのすべてと友になった。

・侏儒体

からだを収縮させていくと一種異様な小人人格が出てくる。異貌の一員なのだろうが、世阿弥の能における翁のような重要な役目を果たせる重要異貌体なので独立させてある。

喪心体

私は感情の自由が利かない。幼い頃、母と祖母から相次いで捨てられ、悲しみの感情を出せなくなってしまった。感情が動かないと姿かたちは人間でも心のないヒューマノイドそっくりになってしまう。何者かに人としての神経とこころを盗まれたヒューマノイドとは私の宿命であり、また現代人が陥っている地獄を覗けば誰もが多かれ少なかれヒューマノイド化していることが見て取れる。ヒューマノイドは情報化社会特有の衰弱体である。

傀儡体

かつて土方が見出した傀儡の動きを、私は英語でワークショップを続けているうちに、BT(ベンド・ターン)と名づけた。ヒューマノイドに似るが、こころを失ったというよりは、むしろフィジカルなからだを他人に操作されている制度に食われた人間の壊れ方である。

妄想体

カナ火箸を持って金切り声を上げているのは、なにも戦前の東北に限らない。妄想に苦しめられることは人間特有の特権なのだ。インドにも

チベットにも西洋にも、妄想に乗っ取られた人は無数にいる。被害妄想から字が肥大妄想まで、妄想という壊れ方をたどりつくすことこそ人間を果てまであじわいつくすことだ。

憑依体

私の祖母は死者の霊を憑依し呼び出すことのできる霊媒だった。近所の人に頼まれるとその家に行き、護摩を焚いておがみはじめ、やがて死者の霊が降りてきて、生きた人への言葉を伝える。5歳の私はそれをぽかんと間近でながめつつ、人の秘密をじっくり味わっていた。いまようやく祖母の境地に少しだけ近づくことができるようになった。

修羅体

まさか自分の中に一人の修羅が棲んでいるなどとは50歳を超えるまで知らなかった。インドへ来てこの練習場を立てる中で、日本とインドの間に横たわる時間意識や美意識のあまりのギャップに思い切り蹴躓いて、俺の中から一匹の修羅が躍り出た。おそらく分娩体験前後に生まれ、50年間息を潜めていた生物学的怒りの持ち主だ。わたしはいまだにこの分身だけはうまく制御することができない。

崩壊体

生まれながらに壊れている人、生まれてから何らかの事情で壊れていった人、インドを始めアジアの町には道端に崩壊寸前の人が転がっている。東欧では生まれながらに遺伝子が一つ少ないために柔和になったダウン症の人々と何ヶ月か一緒に踊りを作った。いつのまにか彼ら独特の柔和に壊れた動きが私のからだに棲みつき、私の舞踏を代表する踊り手に育った。

臨死体

若くして私の多くの友人たちは、反戦反政府闘争の中で命を落とした。山崎、辻、橋本、本多、望月……頭を割られて死んだ彼らが、私の夢枕に立ってまといつくことから解放されたくて私は踊りを始めた。私の踊りのからだの半分は彼らのものである。

致死体

死んだからだが冷えていく時間がある。臨死から致死にいたるわずかな時間の変化を味わいつくすこと。生と死の間で起こる最大の劇的な変化である。これを踊れない限り死を踊ることなどできない。死を踊れなければ生を踊れるわけがない。裏面のない硬貨を見せられて誰が納得できるだろう。

臨生体

舞踏とは死者に転生することである。死者の棲む他界から、死者としてこの生きた世界へまなざしを送ること。土方が終生を賭けた衰弱体の舞踏で行っていたのは、この他界からのまなざしを送り続けることであった。それを分っていない舞踏家が多い。20歳の私はそのまなざしに震撼してここまで来た。臨生のまなざしはときを超えて国境を超えて響く。そういう舞踏を踊れるようになれねば、舞踏をやる意味などない。だが、その道ははるかにはるかに遠いのだ。