| 2006年11月 |
| 2006年11月30日 ●ドリームボディとサブボディ 今月は生徒の希望で、 火曜と木曜の午前を共振タッチディとし、 午後からは週代わりの 特別のプログラムで遊ぶことにしている。 いつも昼ごはんの後30分横になり 生徒のサブボディになりこむ。 今何を一番求めているだろうかを たずねる。 先週は近くの山に入り 古い樹や岩と踊ることにした。 タイミングよく面白い即興が出てきた。 今日はなかなかひらめきが出てこなかったが 5分ほど超過して夢をやろうと思いついた。 昼休みにみんながすごくよく夢を見るという話が 出ていたことからヒントを得た。 1.これまでの人生で見た一番ひどい夢を思い出す。 何度も繰り返し見てよく覚えている夢がいい。 とりわけその夢の中の体感を詳しく思い出す。 2.その夢の中で味わう体感やあらすじをメモに書く。 3.床を脱力して転がる練習をする。 4.二人で交互に乗り越えながら転がる 5.全員で並んで転がり最後尾の一人が ヒューマンオーシャンの上に乗り上げ順々に運ばれる。 6.全員が重なり合ってヒューマンマウンテンになる。 7.真ん中の一人が自分の悪夢を語りだす。 8.語り終えると夢の中の体感を動きにする。 9.ほかの人は夢の世界の事物か、主人公の体感に共振して一緒に動く。 10.一人が終えたら次の人に夢に入る。 11.全員の夢がすんだら、30分間の自己探体に入る。 12.今日語った夢の体感から出てくる動きを探す。 ほかの夢も思い出したらその夢の動きともつながりを見つける。 13.見つけた夢の動きを動き、ほかの人に見せる。 もう十年ほど前からやっているプログラムだ。 一番夢の体感に入りやすく、 ほかの人の夢にも共振しやすい動きとタイミングを 探っていくうちこれが最適だという上の手順が定着した。 だが、今日は驚いたことに次から次へと動きが出てきた。 すべて奇妙な動きだが、本人にはとてもリアルな体感なので 恐ろしくリアリティがある。 これまで長くやってきたが、 こんない味わい深いものが出てきたのは 初めてのことだ。 なによりやった本人たちが驚いていた。 ほかのひとの夢の体感にもとてもよく共振できたし 30分の探体の中で驚くほどいくつもの夢が次から次へと出てきたという。 昨日まで出てくる動きがどうしても頭で思いついた動きだった人も 今日の動きは見違えるように違った。 完全に体感クオリアに導かれた動きになった。 ●リゾーミングとドリームボディ 去年の1週間コースでは 毎週木曜をこの悪夢の日に設定していた。 今年になってからは不定期になり やらない月もあった。 それが11月コースでは3週目にやることになった。 このタイミングが最適だったようだ。 特に今月は生徒がリゾーミングテクニックを身に着けた直後に やったのが最適のタイミングになったようだ。 そういえば自分でも忘れていたが、このリゾーミングテクニックは 私自身が悪夢を元に踊りを作る中で見出されたものだった。 夢が次から次へと変容していく体験の中から 異次元開畳という下意識世界独特の展開の仕方と それを実現するリゾーミングテクニックが発見されたのだ。 リゾーミング・テクニックとドリームボディは こんなに相性がよかったのだ。 ドリームボディとサブボディは 切っても切り離せない兄弟である。 もともと同じからだの闇-下意識から出てきたものだが 夢の場合は体が動かない。映像チャンネルだけで見る。 これに対しサブボディはそれにからだの動きを与える。 からだごと夢の世界に乗り込んでいくのがサブボディだ。 ドリームボディにからだを貸し与えるのがサブボディだといってもいい。 逆にドリームボディ-夢とは、 からだを動かさずに映像チャンネルだけで見るサブボディである。 それはずっと前からわかってたことだが サブボディテクニックを身につけた人が ドリームボディになりこむと こんなに面白いことになるとは 初めて知った。 大収穫の木曜日になった。 各生徒にとっても大きな発見だったろう。 今日の夜は夢の中でサブボディとドリームボディが ひしめき合って大変騒々しいことになっているに違いない。 それをよく楽しんでくれたらいいのだが。 時としては眠れぬ夜になることもある。 |
| 2006年11月29日 ●世界チャンネルを開く 11月も3週目に入った。 いよいよ世界チャンネルを開いていく。 もともと、私たちのサブボディはいつも 世界像流と共振している。 それに気づき、その震えを透明に見ることが できればいい。 午前中いっぱいはからだをヒマラヤの自然に向かって開いた。 重力、日光、空気、風、地面、草木、生き物、人、・・・ そして、世界と共振しながらのリゾーミングと異次元開畳。 午後からは 灰柱、自全ウオーク、底丹田ウオーク、世界ウオークへと進む。 世界との共振を感じながら歩く。 すべてを世界に透明に見せるつもりで歩く。 世界中の不幸を引き連れて歩く。 いつやっても重い練習だ。 だが、サブボディの探索が、 世界チャンネルを開くようになると 大きな変化が生まれる。 世界チャンネルを開くとは 自分と世界との関係をリフレーミングするということなのだ。 変更不可能だと思われていた 世界像流を自在に変容することができる。 この体験のなかで人は何かが決定的に変わる。 世界チャンネルで踊るとは、いわば 世界創造という作業である。 世界像を変革すると、自己像もそれに伴って変わる。 一人の人の自己像が その中で世界創造者に変容する。 おそらくこれが決定的に重要なことなのだ。 世界チャンネルにいたって始めて 序破急の<急>にいたることができるのも ここにその秘密がある。 世界チャンネルはかくも 特別なチャンネルなのだ。 |
| 2006年11月26日 ●意識のハタラキをそぎ落とす 今週は3ヶ月目、3週間目、 そして2週間目の生徒が混在している。 3週目以上の生徒と、2週目の生徒の間に 出てくる動きに画然とした違いがある。 からだの底にもぐってつかみ出した動きか、 頭で考え思いついた動きか の区別が歴然と見える。 生徒にもよるが、意識を消し からだに聴きこむということが からだにしみこむように分かるまでには 時間がかかるのだ。 2週目の生徒には、意識のハタラキを ひとつひとつそぎ落としていく練習を与える。 その中から、 以前のリスニング三原則をさらに深めた リゾーミング三原則が浮かび上がってきた。 リゾーミングとは、 体の一部からなんらかの変容が起こり、 それが体全体に浸潤していく 変容技法である。 ●リゾーミング三原則 1.体感チャンネルから聴きはじめる。 からだに耳を澄まし、 かすかななんらかの体感を捉えたら、 そのクオリアを保ったまま 他のチャンネルにまわしていく。 動きのチャンネル、映像、音像のチャンネル、 情動、関係、世界チャンネルへまわしていく。 クオリアにはもともとチャンネルなどないから、 どのチャンネルへでも変容流動していく。 まわしていくと、単独チャンネルのクオリアが まるごとクオリアに生長する。 2.意識から遠い場所から聴きはじめる。 顔や手の動きはどうしても 人間的意識に近い動きが出てきやすい。 できるだけ頭から遠い部位から聴きはじめる。 座位なら尻や骨盤の辺りに耳を澄ます。 立っていれば足の裏やすねの辺りに聴く。 そして、足底や体底からじょじょに変容していくと いつしかからだ全部が ひとつのクオリアに変容していく。 3.かすかなサブシグナルからリゾーミングしていく。 できるだけかすかな、 あるかなきかのクオリアから聴き始める。 そのかすかなクオリアから じょじょに増幅していくと クリアなクオリアへ育っていく。 誰にとってもその人のからだで 何が起こっているのかが透明にみえる リゾーミングが現出する。 この技法をちゃんと身に着ければ だれでも、自分の下意識とからだの 間で起こっている出来事を 透明に見せることができるようになる。 しかも、リゾーミングは 下意識でいつも変容流動している サブボディ=クオリアの流れに忠実なので、 その一端のサブシグナルをつかみ、 それにからだを貸し与えるだけで 無数の創造的な動きが次から次へとでてくる。 そうなると面白くてたまらなくなるのだ。 なんてユニークな動きが自分のからだの闇に 詰まっているんだろう!? ひとたび極意をつかめば簡単なのだ。 じっさい、今週で三週間目になる ポーランドのモニカや ブラジルのアンナルイザは そのこつをつかんだようだ。 次から次へと出てくるサブボディの動きに からだを貸し与えるのが 楽しくてたまらないようだ。 ●からだの変容速度 もっとも、すぐさまあらゆるサブボディを 解放することはできない。 なかにはとても扱いにくい衝動も眠っている。 コントロール技術が伴わないうちに 間違ってそんなサブボディを起こしてしまえば とんでもないことになる。 一ヶ月目の生徒は まだ扱いやすい表層のサブボディだけを 活性化することを学んでいく。 三ヶ月コースに入って それら比較的扱いやすいサブボディを 活性化した後、沈静化させる コントロール技術を 十分に身に着けてからはじめて もっと下層の難しいサブボディにコンタクトし始める。 すなわち、生存欲、快適欲、安全欲、つながり欲 そして、自己実現欲という五欲のレベルで くぐもり蠢くサブボディを活性化することを覚える。 一年コースになってはじめて もっと深層のサブボディのくぐもりに触れる。 トラウマ、コンプレックス、 not me、解離、などなどの 状態依存的なくぐもりに取り組み始める。 三年コースは、自分独自のそれら深層の サブボディへの取り組み方を深めると同時に ほかのひとに技法を伝える仕方を学んでいく。 ほかの人に教えられるようになってはじめて ひとつの技法をわがものとしたといえるのだ。 はたして三年で教えられるようになるかどうか 人にもよる。 時間がかかるひともいる。 私は手探りで歩いて サブボディ技法の発見から 人に教えられるようになるまで 八年かかった。 からだのことは、 からだ独自の変容速度に任せるしかない。 自分の変容の速度に付き合いきれるかどうか、 その人の精進しだいだ。 |
| 11月24日 ●序破急と守破離 三ヶ月目の生徒はみるみる創造性が増していく。 下意識の創造性を解放する方法をつかんだのだ。 そうなるともう、サブボディの教師の仕事は その創造性をフルに発揮できる舞台を設定して 与えるだけでよくなる。 ――もっとも最適の場をいつも設定することは、 並大抵のことではないが。 昨日は近くのお気に入りの 大きな石舞台をあたえた。 ――ここで一時間あそんでごらん。 そういうだけでピーターは確かな序破急のある 15分ほどの小品をつくりだした。 アメーバからトカゲへ、それから さらに得体の知れぬものへ見事に変成して見せた。 今日はこれまでの序破急に加え 守破離を教えた。 生徒が序破急をからだに十分入れた頃 はじめて守破離を伝えることができるようになる。 序破急が時間の推移の中での 結構を見出す極意であるとしたら 守破離はひとつの次元での出来事から 別の異次元が開畳してくるのを見せる極意だ。 このように伝えた。 守破離の極意の伝えかたが分かったのは 生まれてはじめてのことだ。 1.ひとつのクオリアを、 体感チャンネルから 順々に他のチャンネルにまわしていく。 具体的には、たとえばゆらぎ瞑想で咸じる からだじゅうに満ちてきたほのかな快感を 動きのチャンネルに移す。 緩やかなゆらぎがでてくる。 それを映像チャンネルにまわす。 空気の流れや絹のショールがからだの中を すべるように動いていくのをイメージする。 それにふさわしい体腔音を見つけ、 音像チャンネルに展開する。 さらにからだの底から情動や 感情が湧いてくるのを咸じる。 ほかの人にその快感をなげかけることを想像し 他の人との関係チャンネルに展開する。 さらにそれを世界に広げる。 この快感を世界に投げかけるのが自分だという 世界像=自己像を生きる。 2.輪になって、一人ひとりが それぞれ独自の体感クオリアを 他のチャンネルに回していくのをやってみる。 ほかの人はそれをシェアする。 3.生命にとってはひとつのクオリアを保つことと それを打ち破る新鮮なクオリアを創発することの どちらもが重要である。 相反するものだが、生命はそのどちらをも志向している。 だからこそ、40億年もの間生命を維持できてきたのだし、 かつまたその間に無数の創発をつみかさねて、 このような多様な生命形態を生み出すことができたのだ。 自己維持と自己創発のどちらが欠けていても こうはならなかっただろう。 4.<守> ひとつのクオリアを 八つのチャンネルに回していくと、 まるごとのクオリアが現出する。 その世界が出来上がるまで ためにためてひとつのクオリアを 八覚にまわして育てていく。 5.<破> ひとつの次元がまるごとクオリアをもって現出するやいなや とあるチャンネルでかすかな変容がはじまる。 異次元開畳の始まりである。 それまでその兆しは秘めに秘めなければならない。 秘すれば花、秘さずば花ならず、 とはこのことなのだ。 6.<離> 新たに生まれたまったく別種のクオリアが どんどん生長していく。 そしてついにあらたな異次元が開畳する。 踊り手はその異次元に転生する。 この<破>は、 たんなる<破>とは根本的に違う。 たんにひとつの次元の中で 動きの質を転換したり、 速度を転換したりするのではない。 根本的に異なる原理で動いている 異次元が開畳するのだ。 この異次元開畳という転換が起こることこそ サブボディ=クオリア世界独自の特徴である。 日常世界のひとつの次元に囚われて生きている人には 発想もできないことだ。 だからこそ見る人を驚かす力を持つのだ。 生まれてはじめてこの サブボディ世界の真実をほかに人に 伝えることができるようになった。 この伝達方法を見出すまで8年かかった。 からだのことは、このような遅々とした 時間でしか推移しない。 そのこともまた同時に思い知った。 生徒のからだに本当の変化が生じるのも このようなじっくりした時間の中で 見守っていくしかない。 一月だの三月だので起こることは たかが知れている. 人間の心身の変化は 5年10年単位で見ていかないと 目先の変化に囚われて ゆっくり進行している本当の変化を 見落としてしまう。 この学校のコースも年々長期化していく。 これは必然的な流れだ。 長い時間をともにできる生徒を切に望む。 |
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| 2006年11月19日 ●類の序破急に耳を澄ます 私がこの学校の名前を考えたとき、 どうしてもサブボディという言葉と、 コーボディという言葉の両方を入れたかった。 いろいろ考えたが、長すぎるので校名としてはあきらめた。 ただ、練習場をサブボディホール、 表の野外劇場をコーボディホールと名づけた。 ここダラムサラの現地では このふたつの名前を併記した看板を掲示してある。 なぞこのふたつの名前にこだわったかというと、 からだの闇を探って ただただ自分固有のサブボディの動きを追求していくと 必ずどこかで自分ではないところへ突き抜けていく 不思議な体験を何度も味わったからだ。 この不思議な体験にはきっとまだ未解明の 不思議な謎が詰まっているに違いない。 ――そう信じて私はいまだにこのサブボディと コーボディの間の謎を探求している。 この10月のコースで一度、 1時間の完全即興の中に 自分のサブボディの踊りを出す瞬間を見出すこと という課題を課した サブボディコーボディシアターを行った。 まだ一ヶ月前後の生徒には 早すぎる課題となったが、 私はこの課題を実現する機会を 虎視眈々と10年待ち続けていた。 これからも狙い続けるだろう。 各人は全体の即興の序破急を聴きながら、 どこで自分のサブボディの踊りを炸裂させるのが よいか、最適のタイミングに耳を澄ます。 そして、全体のいわば<類の序破急>のなかで 最適タイミングで<個の序破急>を炸裂させることができると 個の序破急も最高に引き立つし、 類の序破急にもさらに豊富な輝きをもたらすことができる―― そのことをからだで知ってほしかったからだ。 類と個のもっとも理想的な関係がそこにある。 類の序破急とは、いわば生命史の序破急である。 生命の40億年の歴史の中で、 自分の個の生命をどう輝かせるかという課題とつながる。 そういう命の序破急を聴ける人が地球上に満ちることを 過激に夢想する。 そうすれば国家などイチコロなのだ。 目先の私利私欲に走らせらている 近代以降の人間のあり方に激しくさよならする人が 増えなければならない。 なぜいつまでそんなせせこましい 自我なんぞに囚われ続けているのだ?! ――もちろんこんな問いかけがどんなに無謀なものかは 自分でもよく知っている。 いつまで経っても自我の処理こそ もっとも困難な課題である。 それは根深いところで 生命の個的ありかたと緊密に結びついているからだ。 だが、このもっとも難しい課題に挑戦するのが もっとも面白い生き方なのだ。 ここヒマラヤ共振塾で 本当に行われているのは人間が そういう個的類的人間に変成していく教育である。 |
| 2006年11月15日 ●リスニング三原則 少し前にからだへの耳の澄まし方について次のような原則を示した。 原則1 もっとも原生的なチャンネルである体感チャンネルから 聴き始める 原則2 意識から遠い体底や足底から聴き始める 原則3 より原生的なクオリア、 あるいはより微細なクオリアから聴き始める ――動けないクオリア、動きにくいクオリア、 動かされるクオリア、わずかにしか動けないクオリア という原生的なクオリアから聴き始める この三つの原則をからだにしみこませるために、 さまざまな練習を工夫してきた。 そのいちいちを書くのはとても煩雑なので略するが、 この三原則がからだに入ってくるにつれ 生徒から出てくる動きが 見違えるように味わい深くなってきた。 かつては、単に 「からだに耳を澄まして、自分固有の できるだけ奇妙なクオリアを 探し出すように」 といっていただけなので、 生徒から最初に出てくる動きが なお人間社会の規範に囚われた ダンスまがいのものしか出てこなくて がっかりしたことが多いが、 それは私の指導の仕方が まだ足りなかったからだということに気づかされた。 もっと具体的に 生命クオリアに深く聴き入る仕方を 具体的に教えることができていなかったのだ。 「できるだけ人間から遠く」といっても、 (そんなこといわれても、私は人間だから 人間としてのうごきしかできないよ)という 無意識の抵抗に出会っていたのかもしれない。 人間社会の既存の規範に囚われるなといっても そんなことは突拍子もないことだから、 それをいかに脱ぐかの脱ぎ方まで教えないと なかなかできないことなのだ。 生徒から出てくるものに 満足できないときは 生徒ではなく いつも自分の教え方に 不足があるのだ。 この原則を忘れないで置こう。 |
| 2006年11月13日 ●「瞑眩」、「反応」、「エッジ」 サブボディ学校での経験を通じ、 からだの闇に旅を続けていくと、 意識と下意識の基本的な布置が変動する。 このため、生徒たちは、 おびただしい夢に殺到されることになったり、 これまで味わったことのない 異様な体感や、体験に見舞われることになる。 10月の、このジャーナルに対のように書いた。 「 原生力が開いてくると見る夢 意識が封殺している原生力に対するブロック力を弱め、 原生力が膨らんでくると、 意識と下意識とからだのあいだの 根源的な布置が変わる。 長い間保たれてきたバランスが崩れるのだ。 意識はこれを恐怖と感じるだろう。 からだの闇の布置の変化は さまざまな奇妙な体感をもたらす。 異体感や離人夢、 なにものかに動かされる体感、 奇妙なものがからだの中でうごめく体感、 からだが二重にぶれたりきしんだりする体験など、 概して奇妙で不快な体感に襲われる。 今月の生徒の間にもこの現象が起こりつつある。 これらは、からだの根源的布置が変わっていっている ことの証拠だから恐れることはない。 それをとことん味わい、 なにを告げようとしているのか からだの闇からのメッセージに 耳を澄ませることだ。 」 わたしのからだでも これが起こりだした。 やけに異様な体感に見舞われる。 いや、それはずっと長い間起こり続けていたのだが、 それが生徒のからだで起こっていうことと 密接につながっていることに気づいたのだ。 そして、それだけではなく、 私の指圧の師、遠藤喨及氏や、その師である増永静人氏は、 指圧を受けることによって、 逆に病気に似た「瞑眩反応」という 好転反応が出てくることがあることに触れている。 具体的な症状としては。 倦怠感や眠気、下痢や発熱、 痛みが増したり過去にわずらったことのある症状が出たり、 過去に抑圧してきた感情が表面化して現れることがある。 ここで生徒や私に起こっていることも、 この瞑眩反応と同じものだということが分かった。 野口整体の野口晴哉さんも、「反応」といういいかたで、 同じ現象を語っている。 彼の場合は、さらに具体的に3期に分けて現われを示している。 1.弛緩反応――だるく、眠くなる。疲れたような、けれども快い。 2.過敏反応――からだの皮膚の下を水が流れるような感じ、あるいは少し寒いような感じがするようになる。発熱、下痢、発汗、痛みなどが出てくる。 3.排泄反応――からだの老廃物や悪いものが体外に排泄される。皮膚に変化が出たり、妙な便や尿、石、臭い汗などさまざまな排泄反応が起こる。 これらは、一日のうちに通ることもあれば、数ヶ月にわたることもある。 これらの反応の経過の仕方を知っておくことが大事だという。 ふたりともからだに起こることに焦点を当てて書いているが、 これに伴って夢や感情や心の変化が伴うことは いわば言わずもがなのこととして 暗に含まれていることを知るべきである。 それが文化の志向性によるバイアスなのだ。 これに対し、ミンデルがいう、 以前の人格状態である一次プロセスと、 下意識から起こってくる新しい傾向の現れである 二次プロセスが葛藤するとき、 人は「エッジ」に直面し、 さまざまな異様な体験をするという。 このエッジ体験もまた、 意識と下意識の基本的配置が 変動することによるものであることに気づいた。 要するにこれらの先人たちは、 みな同じ現象にぶつかり、 それぞれの文化の文脈で書き表している。 それらがじつは共通した現象であることが見えてきた。 さらにさかのぼれば、 江戸時代の禅宗の僧、白隠もまた、 禅修行に伴う禅病について次のように書いている。 「 参禅修行によって、心火が逆上すれば、 心身ともに疲れ、五臓の調和が乱れることがある。 いかなる医療によっても治すことのできない病である 」 と。 これらの禅病といわれる現象もまた、 意識と下意識の布置の変動に伴う現象に違いなかろう。 すべて、自分で経験してみて始めてわかった。 少しくらい言い方が違っても、 まったく同じことを言っていることがぴんとくる。 白隠のいう「心火が逆上する」という現象は まさしく私にも起こった制御不能のアドレナリン亢進状態を 言い表して妙である。 ミンデルの師であるユングもまた、若いころ 無意識世界を探検する中で体験した 「無意識に食われる」という 危機的な体験について触れている。 こころとからだについて 何かを語っている人のうち、 これらの危機的な体験について語っている人だけを 信用すべきである。 なぜなら、これらの異様な体験は時に 死にさえ近づく危機的なものであり、 それに対する正しい対処の仕方を知らなければ 本当に危険な体験であるからである。 みずからこの危険を体験した人だけが それを避けるアドバイスを他の人に与えることができる。 とても危険だから、アドバイスをせずにはいられなくなる。 おそらくこれを体験してなお 他の人にアドバイスせずにいられる人はいないと思われる。 だから、アドバイスしていないひとは 自らそういう危険なところまで降りたことのない人だ。 自ら危険を体験しているのに、後進の人に この危険を避けるアドバイスをしない人がいたとすれば 根本的に親切心が欠けている人だから付き合うには足りない。 だから、心身世界を旅するときは その危険を知りぬき、 貴重なアドバイスを残してくれている人だけを 信用すべきだと書いたのはそういうわけだ。 意識と下意識、からだの間の 基本的布置が根本的に変わっていくとき、 それに伴って起こってくるさまざまな奇妙な現象を、 自然に経過させることが大切だ。 まず自分のからだで起こる奇妙なことを 自分で何とかできるようになることが大事だ。 下意識のからだの闇から噴出してくる 未知の力の表れを知り、それに対する対処法を身につけ ほかの人にアドバイスできる力を身につけること。 それが、人間の心身に起こるあらゆる事態に対処し、 他の人を助ける力を養っていくことの基本である。 それを通じてはじめて 人類のからだの闇に眠る創造力や共振力、 自己治癒力といったすばらしい共有財産を 分かち合うことができるようになる。 サブボディ学校ヒマラヤは、まさにそういう人を 生み出していく場所なのだ。 |
| 2006年11月12日 ●樹と友達になる 先週の木曜日は、生徒の希望で近くの林に入った。 一日指圧をみっちりするつもりだったが、 すこし倦んでいる雰囲気があったので、 希望があればほかの授業に切り替えると昼食時に提案した。 すると、林にいきたいという声が出た。 林はいい。 私がいかに樹木とつきあってきたかを 教えようとした。 何年か前、工事中のストレスに 神経がたまらなくなって、冬場は二年続けて南インドに脱出した。 そのとき出会ったインドの古い樹の力に どれだけ助けられたかはかりしれない。 林にいり、気に入った樹木を見つける。 なんとなく気が惹かれればそれで決まりだ。 その樹の全体が見える距離まで下がって、 そこから樹に向かってゆっくり歩いていく。 灰柱の歩行でも、 1メートル1分程度のヒューマンウオークでもいい。 距離が詰まっていくにしたがって、感じられるクリアが どんどん変わっていく。 まるで違う次元に入っていくような気分になる。 最初は「樹形」として捉えていたものが、 近づくにしたがって個々の枝ぶりが目に入ってくる。 それぞれにとても個性的な味わいがある。 そして、突然幹の肌触りが近づいてくる。 この瞬間にはいつも驚かされる。 古木の幹のクオリアほど味わい深いものもまたとないほどだ。 それをたっぷり味わいながらさらに進む。 寄生植物が目に付きだす。 コケやしだも生えている。 やがて、小さな生き物が樹皮を這っているのが目に入りだす。 古い樹はひとつの大きな街なのだ。 鳥や昆虫や寄生植物たち、 実に複雑な生態系が成り立っている。 それらのクオリアには目がくらむほどだ。 やがて、樹皮そのもののもっときめ細かいクオリアに近づいていく。 そのときはもうとことん樹木のとりこになってしまっている。 樹木からさまざまなクオリアがにじみ込み、 ほとんど樹木と同化せんばかりのからだに変成している。 できるだけ長い時間をかけて近づくことだ。 ひとりでに樹のクオリアがからだに流れ込んでくるに任せる。 植物の生命クオリアは、 動物のそれとは根源的に違う時間のなかにある。 それを味わい教えてもらうだけでいい。 動物にとって植物がいかに大事な友達であるかが実感できる。 そして、動物と植物が別れる前の 生命の長い長いバクテリア時代を思う。 そう、今ここにある私の命は かつて気が遠くなるほど遠い時間のなかで バクテリアだった。 その長い時間から現在の瞬間までの時のつながりを思う。 このように樹木と少しの間だけ時間を共にすることで とてつもなく違うものに触れることができる。 私は自分の神経症をすこしずつ癒してくれた インド各地の古い樹のクオリアを忘れることはないだろう。 それらはいまも私の命と共振しつつ流れている。 生命に一度しみこんだクオリアが消えることはないのだ。 生命とは自分にしみこんでくる 無数のクオリアを繰り込み、 生命の創発に生かすことのできる存在だ。 生命の多様性は、 この生命に流れ込みしみこんでくる 驚くべき多様なクオリアから ひとりでに創発してくるものに違いない。 この生命への<クオリアのしみこみ>あるいは <クオリアの繰り込み>についての考察は、 生命論に新たな一章を設けるに値する 興味深いテーマだ。 |
| 2006年11月11日 ●リゾーミング十年 十年ほど前、からだの一部から変成がはじまり、 その変成が全身に伝染していくさまが 透明に見えるからだになりたいと思った。 それをリゾーミングと名づけた。 伝染熱、死者熱という踊りは その身体変容技法を追求する過程でできたものだ。 本当に見せたい透明さに比べれば十分ではないが、 なにかの変容が私のからだで起こっていた。 起こっていることにひきずられるように 無我夢中で踊りつづけた。 各国で「リゾーミング・ワークショップ」と名づけて 若い人たちにそのテクニックを伝えようとした。 だが、なぜかうまく伝えることができなかった。 なぜだか理由が分からないまま、 長い年月をこの謎を抱えて過ごしてきた。 わたしはとても重要なことに気づいていなかった。 今年になって、原生的なクオリアとは何かを 追求する中ではじめて気づいた。 からだに聴き入るには 順番があるのだということを知らなかったのだ。 人間が感じるクオリアは じつにさまざまなレベルのものが混交している。 そのうち、映像チャンネルや音像チャンネルは すごく高度なチャンネルである。 思考チャンネルはおそらく最高度のチャンネルである。 からだに聴き入るとき、 こういう高度なチャンネルを先に動かしてしまうと、 それ以下の原生的なチャンネルを閉ざしてしまうのだ。 マスキングのような現象が起こる。 生命が感じるクオリアのうち 最も原生的なものは体感である。 もっとも原生的な生き物であるバクテリアは ほとんど動くこともできず、 ひとえに体感クオリアだけを使って生きている。 鞭毛虫やアメーバ段階になると、 これに運動チャンネルが加わる。 第一に体感クオリア、第二に運動クオリア、 このふたつが混交している段階が 生命の40億年の歴史の中で 30億年は続いた。 目も耳もなかった。 光も音も化学物質のクオリアも すべてからだで感じていたのだ。 いまもすべての生命体は この体感-運動チャンネルをもっとも基礎にもっている。 だが、エネルギーが低い。 それ以後に発達したより高度なチャンネルは ふんだんにニューロンの共同発火を使う。 視覚チャンネルを開くとき 人間は何億というニューロンを同時発火させている。 思考チャンネルはさらに右脳と左脳を超高度に連接するため さらに多くのニューロン発火を必要とする。 この高度に興奮した状態では、 比較的わずかなニューロン群の発火で済む 原生的な体感や運動チャンネルで感じ取っているクオリアは マスキングされて意識されなくなってしまうのだ。 この原理が今年になるまでつかめていなかった。 からだに聴けといっても、 普通に人は、視覚イメージや思考イメージを 鎮めることができない。 だから、体感に集中して耳を澄ますことができず イメージや思いつきといった より」高度なクオリアに囚われてしまっていたのだ。 なぜこんな薄っぺらな、 人間の日常的な規範に沿ったものしか出てこないのだろうと 長い間不思議だったが、 私こそこの重大な秘密に気づいていなかったのだ。 だから、からだに聴くときは、 視覚イメージや思考イメージなどの高度な働きが鎮まるまで 生徒の意識レベルを徹底的に低下させるプロセスが必要だったのだ。 それには、学校に来てから瞑想をはじめるようなことでは 十分でないことも分かった。 生徒自身が朝目覚めた瞬間以後、 日常的な関心事や、人間関係、もめごとなど、 外向的な配慮から可能な限り身を遠ざけ、 意識状態を鎮めていくことが必要だ。 前の日に友達と騒いだりすると 翌日までその雰囲気が抜けずに、 ものにならない。 月曜に生徒が調子を落とす場合は 週末の過ごし方に問題がある。 まして午前中何か用事をしてから 来た生徒はまるでからだに集中することができない。 生徒間の人間関係に囚われている場合も まるでだめになる。 八つの基本チャンネルのうち、 体感チャンネルはかくもか弱いチャンネルなのだ。 だから、それに耳を澄ます状態を確保するには 周到な手続きで守り続けなければならない。 私は授業期間はほとんど学校からでない。 人と会ったり、ふと食堂のテレビが目に入って、 新しい刺激を受けたりすると 何日も調子が狂うことが分かっているからだ。 この秋はコンピュータの故障と ブロードバンドの不調で どうしてもその関係者と会わざるをえなかったが それでとことん調子を落とした。 十月いっぱいはそれで普段の月の 十分の一程度の探求しかできなかった。 まして、授業時間は町の生活に帰る生徒たちが どんな大きな悪影響を受けているか 想像に余りある。 昔の僧院や修道院が、 外界から隔絶された環境を確保することを必要とした理由も ようやく腑に落ちた。 サブボディ学校もやがては寄宿生活を はじめねばならないようになるかもしれない。 あんまりストイックなのはいやなのだが。 あつかう体感クオリアのあまりのもろさを考えると、 それを守るためのなんらかの方策が必要だ。 テレビを5分見てしまうとすべてが崩れ去る。 それくらい体感クオリアはかすかなのだ。 |
| 2006年11月10日 ●即興と振り付けの間の遠い課題 この10月の6人の生徒によるグループ即興は思い出深い。 この日、私は始めて生徒たちに1時間の完全グループ即興のなかに、 自分独自のサブボディダンスを発揮するタイミングを見つけて踊ること、 という課題を課した。 すでに生徒たちはソロ作りを始めて数週間目に入っていた。 完全グループ即興の練習も何度か行っていた。 数々のボディコミュニケーションの方法についても教えていた。 そういう生徒が数人そろうことで、はじめてこの課題を 実現に移す条件が整ったのだ。 なんとわたしはこの日を十年も待ち続けていたのだ。 私がいつまでたっても過激なのは、 これまでまだ誰も試みたことがないことにだけ 興味があるからだ。 そもそもサブボディの探求の仕方を教えるなど 世界でほかには誰もやっていないことだ。 まして、その中でサブボディとコーボディの間の 秘密を解こうなどと誰も考えもしていない。 この秘密には生命の個体性と、類的本質の間の 途方もなく深い謎がかかわっている。 ともあれ、この日の実験の意図とその顛末については、 この日のビデオクリップと、 フォトフリップブックのページにコメントを付記した。 興味のあるかたは、写真・ビデオとともに そこで何が課題とされ探求されていたのかを知ると さらに味わい深いものとなるだろうと思われます。 よければご覧ください。 この日のフォトフリップブックを見る この日のビデオクリップを見る |
| 2006年11月5日 ●これがサブボディ コーボディシアターだ! ようやく、これがサブボディだ、これがコーボディだ といえるものを目で見える形で伝えることができるようになって来た。 まだほんのその萌芽の形でしかないけれど。 サブボディとは下意識の創造的なからだ(サブコンシャスボディ)であり、 コーボディとは共振しあうサブボディのことだ。 意識優先の意識をゆるめ、下意識の創造性と共振性を解き放つと 人間はもっと面白く、もっと透明に生きることができる。 私が伝えたいのはたった一つのそのことだ。 9月コース、10月コースの生徒たちが修了し、自分のビデオや写真ブックの編集に入っている。ブロードバンドの接続は相変わらず不調だが、ようやく、ヒマラヤでやっていることをリアルタイムで世界に伝える態勢ができかけてきた。 |
| 2006年11月4日 ●原生クオリアを聴く 少し前にからだへの耳の澄まし方について次のような原則を示した。 原則1 もっとも原生的なチャンネルである体感チャンネルから 聴き始めること 原則2 からだの中では、意識から遠い体底のほうから聴き始めること 原則3 聴くときはより原生的なクオリアあるいはより微細なクオリア、 動けないとか、動きにくいとか、動かされるとか、 わずかにしか動けないとかというクオリアから聴き始めること。 これをさらに各チャンネルに沿って具体的に述べよう。 1.体感チャンネル ・意識から遠い部位の体感から聴き始める。 立位の場合は足の裏、座位の場合は体底から聴き始める。 ・重さに聴く もっとも根本的なクオリア、重力から聴く。 わずかな重心移動に耳を澄ます。 重心移動がもたらすからだの他の部位への影響を微細に聴く。 これは地球に生を受けた生命がすべて、 望むと望まないにかかわらず味わってきたクオリアだ。 ・空気を聴く 内呼吸を聴く。 新鮮な酸素が体内各部位の細胞にいきわたるときの クオリアの変化に耳を澄ます。 それに伴って伸ばしたければ伸ばす。 縮めたければ縮める。 大気とかかわる。 風があれば風を味わう。 風のクオリアが外界から体内に流れ込むのを聴く。 ・日光を聴く 外界ならば太陽光線に耳を澄ます。 あらゆる生体の細胞は太陽光線によって 光受容たんぱく質が変化する。 目を使わなくても光を感知している。 光と闇のクオリアのゆらぎを味わう。 (この項続く) |