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| 2006年6月 | ||
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2006年6月28日 人はみな自分の癖や性格を引きずって生きている。それらのほとんどは生まれや生い立ちによって形成されたもので、自分で選んだものではない。もちろん長い付き合いだから、いくら偶然に得たものだといっても愛着がある。だが、それらの愛着もまた無意識のものだ。人生のある時期にはいちどそれらを初期化したほうがいいときがある。そう、フロッピーディスクやパソコンのメモリのように、一端白紙の状態にまで初期化するのだ。 するとどんなに身軽になれることか。 今月の生徒は、キムは何年もインドの修道院でヨガやインド思想をまなんできたので動きにヨガの癖が入る。ジェニファーはカナダのコンテンポラリーダンスカンパニーのプロのダンサーなので、これまた見事なダンスの動きがよく出てくる。アナットはコンタクトインプロやモダンダンスをやってきたらしく、流動的なゆらぐ動きが好きだ。 先週のある日、一度彼らすべてに、一人ひとりの癖を指摘しそれらの癖を消すと、もっと自分のサブボディ独特の動きがクリアに出てくるよとアドバイスした。三人ともそのアドバイスに応えようと、かなりがんばって癖を消した。すると、どこでも見たこともない固有の動きがクリアに浮かび上がってきた。でもそれはかなり大変な作業だったようだ。今月から毎週末に生徒の感想を書いてもらうことにしたが、アナットは絵と共に次のような文を寄せた。 「 I lost my dance My dancer image has broken I had to find new life of
dance, of existence It was hard It was worth it Thank you」 「私は自分のダンスを失った 私のダンサーイメージはぶっ壊れた 私は新しいダンサー、新しい存在を見つけねばならない それは困難だ でもそれはやるに価することだ ありがとう」 短いことばに、彼女の味わった苦痛と決意を通じて、その初期化の営みの本当さが伝わってきた。 その後彼女は見事な最小限の動きで自全を運ぶという「自全ウオーク」に取り組み、見事な歩行を見せてくれた。ひたむきにこんなに真っ白になれる人がいるとはと、感動させられた。 ダンスのからだの癖だけではなく、自分のシンキングハビット、苦手チャンネルを開く取り組み、見知らぬサブキャラクターの発掘と、このクラスではやることがあまりにも多い。だが、三人とも真剣に取り組んでいてくれるのでやりやすい。年長のキムはさすがに、経験豊富なだけあって、嬉々として毎日の新しい課題に取り組んでいる。彼女の文章を読むと、かなり深く私の授業の特性を捉えていることが分かる。 「ワオ! いったいこんな深くて、奇妙で、野生的で、面白くて、必須で、さまざまなレベルの刺激が、こんなに深い叡智と、配慮と、愛と、融通性と、知性と、本能というような、際限のないバリエーションを持って味わえるような経験ができることは、なんと光栄なことなんだ!」 何年もからだの闇を掘りながら、こんな変なことや微妙で奇妙な体感を、いったい受け取ってくれる人が世界に何人いるのだろうと思いながらやってきたことだが、彼女らのように打てば響くように喜んでくれる人がいるだけで報われる。これもまた共振の喜びだ。 (生徒の声は、いままでの掲示板から、サイト内に移しました。掲示板も残すけれどより手軽に読めるようになりました。→生徒の声を読む) 私の自全にいたろうとする強い志向は、おそらく、この自全に刻み込まれたものすべてをいったんできる限り初期化してしまいたいという衝動に貫かれている。 それがうまくいくトラウマごと消えてしまうのだが、そうは問屋が卸さないことも承知している。でも、できる限りその影響を最小化することは可能なのだ。
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2006年6月26日
●自全を運ぶ 水無月のコースも第3週目に入った。今月の生徒は3人がとても前向きに取り組んでいくので、先週の終わりのサブボディ=コーボディシアターでは、ほぼ5月には第4週で実現した共振レベルまで達してしまった。だから、今週からあと2週間でもっと遠いところまでいけることになる。水曜に共振タッチディを設けて、ゆっくり進んでいるはずなのに、こういうときほど逆に進捗が早い。 今日は、自全瞑想からはじめた。わたしがもっとも好む自全をくまなく探索する瞑想だ。まず、それを紹介しよう。
ざっと以上のような自全に出会う瞑想にガイドしたのち、胎道めぐりにはいった。 いつもの月なら初日に設けている体内音を聴く―ヒューマンベッド―ヒューマンカウチ―人間子宮というコースで単細胞の受胎細胞から十ヶ月かけて変化してきた胎児時代と分娩前後の出来事を追体験するメニューを第3週の今日にシフトした。(くわしいプロセスはこの学校ジャーナル3月の「胎児の記憶に降りる」を参照してください。)第2週までにさまざまな仕方で自全世界を探索してきた後の今それを体験することがグッドタイミングだったのか、みんなそれぞれ深い旅を体験したようだ。思い切り味わい深い動きが出てくる。 20分間の自己探求の後、午前中のサブボディ=コーボディシアターは、自全ウオークから始めた。 自分の全体の中でであったサブボディの気配をすべて引き連れて歩くのが自全歩行だ。山のような気配と共に歩く。ただ引き連れて歩くだけで、まだサブボディは気配しか出てこない。以前には舞踏の巣とか、サブボディの巣の歩行とも呼んでいたものだが、いまは自全ウオークと呼ぶほうが適切だと思える。(自全ウオークについては、学校ジャーナル6月1日の「自全ウオーク」を参照してください。)今日はそこからさらに一歩先に進んだ。それが次の「自全を運ぶ」だ。
さすがの私もこれほど惨めな動きをこれまで生徒に課す勇気がなかった。だが、今月勇気をだして課してみると、これほど最小限のみすぼらしい動きでこれほど感動的な深い動きは見たことがないというほどの動きが現出した。3人の生徒も三人ともいとわず真剣に取り組んでくれた。 これまで、私自身のなかにほんのひとかけらでも不安なところがあれば、自分の中の自信のなさを生徒に投影してしまって、生徒のなかに不安に揺れ動くものを発見してしまって、これが成り立たなかったのだ。いまは、不安のかけらもなく、ただただ感動していられる。すると生徒もそれに応じて迷いなくうちこめるのだ。サブボディの胎児である生徒と産婆であるわたしの微妙な共振関係が見事に現われてくるのだ。 さて、今月はいったいどこへ行くことになるのだろう。未知の境地が開けるかもしれない。 自全の世界に降りていくにはもう一つ欠かせない技法がある。それは意識と下意識の最良の関係をつくることだ。どちらが欠けてもうまくいかない。どちらがわからも、全力で自全にいたる態勢を作ることが必要だ。 サブボディ(下意識)の世界は多次元変容流動する世界であるし、意識の世界はより低次元の四次元の分別言語に統御された世界だ。このまったく異質なふたつの世界を自在に行き来できる自全態勢をつくる。 意識と下意識が50パーセントずつゆらゆらつりあっている状態の意識状態になる。そして、自全瞑想をしながら、各レベルの自全を運ぶ動きに入っていく。 今日のように、体位を十段階に区切って練習する練習法を組み立てるのは、ツリーの意識の仕事だ。それを理解して順々にこなしていくのも意識の役割だ。だが、実際に動き出すと意識は最小限のレベルにまで低下させ後退させる。 練習の中では、完全に多次元変容流動するサブボディのリゾーム世界に入りこむ。サブボディになりこんで自全世界を旅する中で、からだから重要な気づきがこみ上げてくれば、そのときだけ意識の出番が来る。そばにおいてあるノートかメモに、ささっと筆記してすぐ忘れる。すぐにサブボディにもどり、リゾーム世界の多次元変容流動に耳を澄ます。 練習が深まっていくと、24時間態勢になる。眠っている間も、サブボディは活動し続けている。夜中や明け方に必ずなにか重要なシグナルを送ってくる。それをすぐさまメモし、夜中なら再度眠りに入る。明け方ならその夢のメッセージは何だろうとしばらく半覚半眠の状態の頭の中を転がしていると、言わんとすることが自然に分かってくる。形は色々デフォルメされているが、必ず、自分の一番問題としている事柄に関わっているからである。私の例でいえば、今日の自全瞑想にせよ、自全を運ぶにせよ、毎日の練習内容は大概夜明けか日中の横になってうつらうつらしているときにサブボディから届けられる。それだけではない。このサイトを定期的に訪れてくれている人は、毎日のように更新しているサイト改造の加速度がなみなみならないものであることにきづかれるだろう。日本語サイトと英語サイトのどちらの更新も60歳にならんとする男が独りで行っているとは想像できないのではないか。こんな頻度でバイリンガルのサイト更新をしている日本人はたぶん私のほかにはいるまい(いたら教えてほしい。きっとよい勉強になるだろうから)。つぎつぎにサブボディからアイデアが届けられてきてまるで汲めども尽きせぬ泉になったかのようだ。いくつも書き進めている文章の内容も、サブボディが示唆してくることを書き留めているものばかりだ。サブボディは24時間態勢、こちらは16時間しか起きていられないから、まるでサブボディにこき使われている使用人のようなものだ。だが、どちらが主ということではなくどちらも私の自全の中の大事な部分だ。意識とサブボディの最適の関係をつくると、最高度の創造性が発揮される状態になる。わたしはほぼ60年の生涯で今ほど創造的であったことはない。自分ながら思いがけないことだ。この年になって意識と下意識の両輪をそろえて回る極意をつかんで疾走しだすとは。 |
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![]() からだが秘め持つ原生感覚を取り戻すには、目を閉じて自然の中を動くのがいい。 写真でガイドしているのは共振塾の縁の下の力持ちロメス、ガイドされているのはアナット。 遠くにもうひとくみが歩いている。 |
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2006年6月23日 ● 自全瞑想から深部サブボディへの旅今日は6月コースの2週目の四日目になる。そろそろ、今までよりも深層のサブボディに出会う頃合だ。 自全に至るにはさまざまなエッジを越えていかなければならない。 今日行った、自全の中に登場してくるさまざまな自分と出会い、そのすべてを認め、友達になり、一緒に踊る道を見つけていく<自全瞑想>を紹介しよう。
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2006年6月21日 ●共振タッチ(リゾタッチ)技法とは水曜日を共振タッチ技法の日とすることにして、二回目だ。生徒もこの日を楽しみにするようになった。 サブボディメソッドは、大きく四つの分野からなる。 1.調体-body conditioning ゆらぎ瞑想で生命ゆらぎに耳を澄まし、日常意識を鎮めて、意識と下意識が半々につりあってゆらゆら揺れている状態をつくる。この状態がからだの闇に潜って踊りを探りだすのに最適の状態だからだ。 時により、三元ゆらぎ、八方粘菌、八方原初、百丹三元など、からだの各部を微細に動かしていく練習に集中することが、このからだのいい状態をもたらしてくれる。 2.探体-inner research からだの闇に耳を澄まして入り込んでいく。てがかりは聴こえてくるごくかすかなサブシグナルだ。八つのチャンネルのどれかがからだの微細な震えや自然に出てくる動き、ふとかすめるイメージや感情などをとらえると、それを増幅していって出てくるサブボディの動きに乗り込んでいく。 3.触体-resonance touch ほかの人のからだと自分のからだの間で起こる共振に耳を澄ませ、からだがかすかな生命共振を感じていることをキャッチすれば、それを増幅して、そっと揺らす。相手のからだの生命ゆらぎに聴き入り、それをほんの少し力づけるだけでいい。 触体における共振は、物理的なからだではなく、下意識のからだであるサブボディとサブボディの間で起こるものだから、微細なものでいい。というより微細なものでないと、下意識のからだに届かない。大きな刺激は意識の領分であり、そこでストップしてしまう。 自分のからだに聴き入る探体と、ほかの人のからだとの共振を聴く触体を一個二重のプロセスとして相互に深めていくのがサブボディメソッドの特徴である。単なるボディワークや、身体手技と異なる点である。 4.透体-transparent-body このスクールでは、午前と午後の二回、20分間の自己探体の時間がある。そこで見出したその日のサブボディダンスは、最後の<サブボディ=コーボディ劇場>と呼んでいる場でシェアしあう。一人が自分の踊りを踊るト、ほかの人はその動きに共振して動きながらサブボディを味わいシェアする。さまざまな共振の仕方がある。それはまた別のところに譲ろう。 この<サブボディ=コーボディ劇場>において、生徒は自分のからだに起こっていることをできるだけ透明に見せる。とりわけ意識と下意識とからだのあいだで起こっていることすべてを透明に見せる。意識と下意識が半々につりあう状態になると両者の間の障壁が消え、透明になることができる。この<サブボディ=コーボディ劇場>で、人は自分固有の創造力と、ほかの人との共振力を同時に開くことができる。 共振タッチ技法は、それゆえ、自己探体と触体との両者を通じて相互作用的に深められる。 今日の練習は以下のとおりだ。
――ざっと、これが共振タッチ(リゾタッチ)技法のあらましだ。物理的なからだではなく、下意識のからだ(サブボディ)とサブボディのからだの間で起こる生命共振を本質とするものである点と、調体・探体と触体の間で起こるさざなみのような相互深化を特徴とする。 今日は、この後みんなで露天風呂に入った。この水曜日のリフレッシュのおかげで木曜・金曜の深い練習に向かう英気が養われる。よいリズムを発見できた。 |
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2006年6月19日 ●生徒のサブボディに成りこむ月曜日の明け方、しきりにわたしのサブボディが今週二週目を迎える生徒のからだにのりうつって、今週はどんなことを従っているかをしきりに探っているのに気づいた。先週の一週間で果たした生徒達のサブボディへの変成が、次にどこへ行きたがっているか、私はもうからだごとそっくり、サブボディを産婆する教師、ピュアな共振体に変成を遂げたようだ。というよりサブボディになると、自分と他人との区別がなくなるのだ。これほど愉快なことはない。生徒のからだにのりうつる作業を実に嬉々とこなしている。じっさい、そこでなにかつかめたときほどうれしいことはない。サブボディは楽しむ天才だから、放っておいても面白いことには目がない。一晩中追求しぬいていたようだ。 そして、明け方サブボディさんは今週の課題を私に示唆してくれた。 からだの百丹三元ブロックというあたらしい手法だった。
この練習によって、生徒は新しい深みへ入る手ごたえをつかんだようだ。 自分のからだの奥深く長年降りたたまれていたクオリアに再開すると、だれでもとても懐かしい気持ちになる。おそらく胎児時代に仕込まれたクオリアに何十年かぶりに再開することもある。ここではそういう奇跡が毎日起こっている。 生徒が、本当に自分のからだの底からつかみ出したサブボディのクオリアの微細な差異を取り逃がすまいと、心をこめて丁寧に動き始める姿はとても美しい。それに共振して一緒に動くだけでとても幸せな気持ちになれる。 |
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2006年6月16日 ●生命坑の深み今月は開校以来4ヶ月目になるが、かつてないほどじっくりからだの深みへ入っていけるようになった。現在までの理想形として記録しておくに価する。 初日月曜日は、生命体として自分のからだと動きを自己把握する原生感覚を取り戻すことからはじめた。目隠しをして動き、自分のからだのありよう、ほかの生命体の気配を察知する原生的な共振力などをからだの闇に探った。 二日目火曜日は、胎児の時代の記憶を呼び覚まし、単細胞だったころから、じょじょに多細胞となり、虫、魚、爬虫類、哺乳類へとメタモルフォーゼしていった自分の生命史を振り返った。生徒には私の師の中の師である粘菌先生の写真と変態サイクルを見せて、粘菌体への変成を行った。 三日目は、先にも書いたが五月の生徒からの提案で、からだに触れ合うリゾタッチ技法に習熟することにして、休養日として設定した。 それがよかったのか、4日目の翌木曜日は、デビッド・ザンブラーノ譲りのフライング・ローテクニックや私のアニマル・ムーブメントで朝から激しく床と空との間をダイナミックに動き、午後は午後で一転して、外向運動チャンネルの衰弱から崩壊―臨死―死―臨生へと向かう生と死の間でゆらぐからだになった。 すると、なんとこの日のサブボディ=コーボディ劇場では、すべての生徒が他界からこの世を見つめる臨生のまなざしを見事にやってのけた。それにはわれながら愕いた。いままで、こんな高度な動きは最初から言っても通じるはずがないだろうと、自己規制していたのだ。 臨生のまなざしなど、それを踊れた人はたぶん世阿弥と、土方巽の最後期の舞踏以外ないと思える。土方の一番弟子だった芦川洋子にさえ、その土方の臨生のまなざしは見えなかったのだから。それは、彼女がトモエ.コムに載せている文章で、静かな家は失敗作だったと哀れな総括をしているので分かる。(「臨生」については、舞踏論4「臨死臨生行」を参照ください。) わたしだってそれがつかめる35年も掛かったのだ。そんな高度なことは伝わるはずがないと諦めていたが、それが大きな間違いだったと知った。確実に意識を止め、サブボディモードに入ることができた生徒は、言われたとおり素直にやってみることができる。そしてみごとに臨生体への変成を遂げる可能性の萌芽を見せてくれた。死者に変成し、最小限にきりつめた他界と現世の境でゆらぐ動きだけで、このクオリアに満ちた世界に臨生のまなざしを向ける。たったそれだけのことが出来るまでに、35年かかった。だが、踊りは瞬間コミュニケーションだ。であったばかりの生徒にも通じる。大きな驚きだった。生徒達も一様に、今日はなんてリッチな一日だったことかと感動をもらしていた。 もちろん、それはその瞬間だけの奇跡のようなもので、今日になれば生徒達はすっかりその動きを忘れてしまっていたが、それは仕方がない。 5日目の今日は今日で、からだの闇に潜り、世界中で自分にしかない固有のサブボディを探る作業に入った。つかんだ動きをからだのチャンネルで出してみたのち、その世界を絵に描いてビジュアルチャンネルに翻訳した。それで自分にもほかの人にもその人固有のサブボディの世界がより深く理解できるようになる。さらに午後からは音像チャンネルも開いて、体腔息声を踊りの中で出すチャンスをみつけ、ほかの人のサブボディの踊りに音像チャンネルを開いて、共振した。これで今週は動き、体感、映像、音像と四つのチャンネルを開くことができた。二週目以降に他の四つのチャンネルと五欲のトラベルに向かう。(八つの基本チャンネルと五つの基本的な欲望については、サブボディ・メソッドの図解ツアーと、キーワードツアーを参照してください。) わたしの授業の特徴は日によってまったく違った練習メニューをぶつけて、意識をきりきり舞いさせて、意識などを使っていてはとても対応できない密度の練習をこなしていくことだ。生徒達も、すごいことが毎日起こっていて、いまはまだ総てをひとつに統合することができないけれど、いろんな新しいものがからだの中で渦巻いているのが分かると発していた。今月の生徒は三人ともなかなか食いつきがいい。ほかの予約していた生徒が遅れたりキャンセルしたりで、三人でこじんまりとじっくりやってきたのがよかったのかもしれない。 今週のビデオは生徒に編集してもらったので、まったく臨生の動きなどは映っていないがそれは仕方がない。舞踏がビデオや写真に写ること自体奇跡に近い稀有な出来事なのだから。だが、私のマナコはしかとそれを見届けた。サブボディの産婆冥利に尽きる役得だ。 |
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2006年6月14日 ●リゾタッチ技法今月は生命に耳を澄ますことができる原生感覚を取り戻していくことを根幹において授業を進めている。 その一環として、今月から毎週水曜日は、踊りを探り出すためにからだを追い詰めることを休み、互いのからだに触れあい揺すりあい圧しあいいたわりあうリゾナンスタッチ(略してリゾタッチ)技法に習熟する日にすることにした。 5月のクラスの参加者から意見を聞くと、週5日ぶっ続けでからだの下意識の闇に直面し続けるのはきつすぎる、中日一日休養日があったほうがいいという意見がマジュマビからでて、ほかの人もそれがいいと賛同していたので、今月から早速採用することにした。 私の授業は、調体(Body Conditioning)、触体(Risonance touch)、探体(Subbody reseach)、そして、最後の透体(transparent body:サブボディ=コーボディ共振劇場で透明体となること)の4部からなる。 調体とは、ゆらぎ瞑想や、八方ゆらぎ、百丹三元、などさまざまな技法を駆使して、意識を休め、下意識と意識が半々につりあうサブボディモードとなって、サブボディから踊りがつぎつぎとでてくるからだのもっともいい状態を作り出すことである。これはもちろん、生徒が毎朝自分で行うことが必須である。 次の蝕体は、互いのからだにさまざまなしかたで触れあい、生体間の生命共振を味わいあうことである。これにもさまざまな技法がある。今回これまでにやってきたことをまとめて、週一回の授業でそれを生徒に伝授していくことにした。これによってほかの人のからだの面倒を見ることが、自分の心身を原生感覚を発揮して、きめこまかく管理する能力をのばすことにつながるからである。 三番目の探体は、さまざまな技法を通してからだに聴き、サブボディの踊りをつかみ出す作業である。 ここでつかみ出した踊りは、最後の透体(サブボディ=コーボディ共振劇場)で、シェアしあう。一人が踊るのをほかの人がさまざまな仕方で共振しつつ味わい楽しみ分かち合う。 これまで、何年間かさまざまな触体技法を探究して、ワークショップや授業に取り入れてきたが、ようやくここにきて一つの技法としてまとまってきた。 わたしが遠藤喨及氏から学んだタオ指圧を軸に、野口晴哉氏の整体技法、野口三千三氏の野口体操、イスラエルのハリーから学んだ微振動技法、脳脊髄液の還流をはかるクレニオ・セイクラム技法などを、ずっと続けてきたが、それらの身体技法の根底に流れるものは、生体間に自然に起こる生命共振現象であることが分かった。それが分かったから、すべての身体技法や手技を統合することができるようになった。 すべての身体技法は生命共振が基礎になっている。 野口晴哉はじかにそう言っている。 「治療ということ、薬がなすにあらず、その用うる技にあるにあらずして、治療する者と受ける者との生命に生ずるレゾナンス也」(「養生」、『偶感集』――永沢哲の『野生の哲学』より重引) 私が知る限り、野口晴哉は生命の現象についてもっとも深くまで探索しえた人の一人だと思う。学校などにいって、近代意識に毒されず、ただひとえに自分自身の長年の治療経験から得た真実を人に伝えようとした。 指圧の世界では、増永静人と、遠藤喨及が双璧だが、どちらも原始感覚を強調する。遠藤氏は受け手と施術者の間の「共感的想像」による「気のからだの統合・一体化」を教えの根本においている。 言葉は違うが、生体間の共振を根本からつかんでいるのに違いはない。 明治・大正・昭和期に日本で起こったいくつかの新興宗教は、この生体間生命共振現象を宗教的に取り入れ、独自の手かざし療法を生んだ。青年期の私はそれらのものを毛嫌いしていたが、いまになるとかれらも今わたしが経験している生命共振現象を経験し、それをただその時代の言葉で解釈すると、新興宗教になったということだと、理解できる。 大正時代に日本人が発案し、いま欧米に普及しているレイキなどもこの現象を、特別の超高周波によるとか、独自の宗教的解釈を与えているが、そうする必要は何もない。共振はただ生命と生命の間に起こる自然現象なのだ。生命や物質を根源的に生み出しているひもが共振しているのだから、何の不思議もない。(ひも理論については別項「共振論」を参照のこと)。 リゾタッチ技法についてはすこしずつ、このサイトのどこかで詳解していくことになるだろう。お楽しみください。 |
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2006年6月11日 ● 生命に耳を澄ます今年の4、5月のクラスは異常に病気が多かった。10人ではじまったクラスだが、南インドから4日間の旅でここへ来るまでに半数の人が下痢の症状を呈していた。月半ばでも多くの人がさまざまな病に倒れ、最後の4週目の最終日までたどりつけたのは、3人だけだった。無病で過ごしたのはタイのタナポールだけだった。 これはこれまでにない経験だ。聴けばあちこちのインド旅行者が同様の下痢その他の病に見舞われているという。 私のクラスでは、それまで触れたことのなかった自分の下意識の世界に触れる。そこには見たくないもの、触れたくないものが充満している。いたるところで自分のエッジに直面する。 その不快さに耐え切れずそこできびすを返して、やめていく人もいる。 自我は、不快なことを避ける傾向がある。自分の見知った心地よい世界だけで生きていたいのだ。だれにもそれを止めるわけには行かない。 ただ、その不快さに堪えて、自全に触れようとする志向性を持つ人だけがこの学校を続けていくことができる。 この難関を超えさえすれば、驚くべき豊穣が待ち構えているのだが、そういう人参を鼻先にぶら下げるやり方をわたしは好まない。人を操作することが嫌なのだ。60年近くもこの世の修羅場をくぐってくれば嫌でも人を思い通りに操作する技術を身につけてしまう。だがわたしはそれを発揮する生をいきたくない。私自身が人一倍人に操作されるのが嫌だからだ。 ともあれ、今日書きたかった |