July 2006
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共振塾ジャーナル
2006年7月
衰弱体への透脱
闇を毟る
なぜ命がけの死体として突っ立つのか
生命好味楽瞑想
共振王 衰弱体
マルチ次元共振体
自分の囚われを実践的に解決する
自分の囚われに直面する
共振共生態としての自分を実感する場
動けないクオリア、動かされるクオリア
生体共振をからだに聴く
6月のミル・プラトー
最初の生命のクオリアと共振する
生徒のガイドで胎界遡行
動けないクオリアの重さ
始原生命への遡行瞑想
サブボディ=コーボディリゾームへの変成
生命の原生クオリアを遡行する
2006年7月

2006年7月31日

衰弱体への透脱

7月のクラスも第3週目に入った。これまで、始原生命の瞑想や、動けないクオリアを咸じる稽古をしてきた。その積み重ねがうまくいったときにだけ、衰弱体への変成の稽古が可能になる。それまでの積み重ねができていない生徒にこの稽古をさせてはならない。からだがその意義をつかめないと拒否反応を示してしまう。なんでこんなみすぼらしいものに努力してなりこまねばならないの? 西洋でバレエなど美しい動きの練習をつんできた生徒には、理解することができない。そういう生徒には、生命の原質にふれる第2週までの稽古を徹底する。

幸い今月の生徒は、第2週目までは順調に経過している。これからが正念場だ。衰弱体への生成変化という最も困難な坑道へいざなおう。


●闇の手触り

1.ペアになり、一人が目隠しをする。もう一人が手を取り、外界を案内する。目隠しをした人の安全を確保しつつ、20分ほどさまざまな環境に連れ出す。土、砂利、石、草原、などを歩きながら、想像の中で膨らむさまざまな闇のクオリアを探る。闇の中に実にさまざまなクオリアがさまよっていることをからだで確認できればよい。終われば交替する。

●闇にゆらぐ

2.脚を前に投げ出して座り、前後にゆらぐ。足を開閉しつつ、足の裏で物をつかみ、放す猿だったころの足の動きを思い出す。

3.開脚して座り、左右にゆらぐ。やはり脚は左右のものをつかみ放す動きを思い出す。

4.片足を前に、もう片足を後ろに回して座り、からだを回転させる。

5.前の脚を両手でかかえ、背中に呼吸を回す。

6.ヨガのからだをねじる姿勢をとり、ねじったからだに呼吸を通す。

闇を毟る

7.足で、闇の中に生える果物をもいで口元に運び食う。闇の中に毛の生えた大きな鳥が棲んでいる。その鳥の毛を毟(むし)って食う。食べかすを遠くへ吐き出す。

8.手で闇を毟る。さまざまな場所にいる妖怪を捕まえては毟って食い、はき捨てる。

9.口で直接妖怪に食いついては毟って食べ吐き捨てる。

10.舌で妖怪の骨髄や脳隋を啜て食べ、吐き捨てる。

11.目で毟って食い、耳で食う。

心身を闇に放つ

12.内臓がランダムに踊りだす。心臓がおおきく伸縮し、肺が浮遊する。胃がさまざまな方向へ走り、肝臓が魚になって泳ぎだす。小腸は空間に大きく広がってくねり踊り、大腸がのたうつ。膣が飛ぶ。腎臓が回転する。食道が歌い、脳が世界中に神経細胞を放り出す。

13.立位で、また床の上で、上の7から12を使って、心身を燃焼しつくし消尽する。

心身が焼尽透脱した衰弱体になって立つ

14.心身の力をすべて透脱する。ひざや脚が内股外股に不規則にゆらぐ。からだの各部位の細胞がめいめいの方向へ微細にゆらぐ。

15.さまざまなクオリアが内と外を自在に行き来し、微細に変容流動する。

16.何人かで衰弱体になりランダムに進む。

17.からだの各部位が他の人のゆらぎに共振する。

18.違った部位が、それぞれ違った人の動きに共振する。手はAに、顔はBに、脚はCにそれぞれ共振してゆらいでいる。多次元八方破れのからだになる。

●闇と交感するサブボディの<序破急>

19.内外、心身が透脱した透明体になって、20分間の探体に入る。からだの闇を探り、衰弱体のサブボディの<序破急>を見出す。

 


まず、からだを、原生的なしかたで動かし、闇と交感しつつ動めき狂い、日常心身のあらゆるこわばりと囚われを解く。

そののち、その動きで粗大なからだを燃焼消尽しつくして、衰弱体に透脱する。

ひざを緩め、からだの各部位が微妙にいつも上下左右にゆらぎ、無数の異世界と関わっているからだに変成することがこの稽古の核心である。

2006年7月30日

なぜ命がけの死体として突っ立つのか

「舞踏とは、命がけで突っ立つ死体である」

これほど舞踏をくっきり特徴付けるものはない。

土方は若い踊り手を舞台に送り出すとき、

「しっかり死んでくるのだよ」と諭すように送り出した。

なぜ、死体にならなければならないのか。

それが分かるようになる瞑想がある。

生命のクオリアを味わいぬく

好味楽瞑想だ。

 


生命好味楽瞑想

生命のあらゆるクオリアを好み、味わい、楽しむ瞑想。
好味楽とは、本居宣長が終生こよなく愛した山桜にたいする態度をのべたことばだ。
「これを好み、これを味わい、これを楽しむ」 

好きなものなら、あらゆる角度から味わいつくし、楽しみつくすことができる。
この態度をあらゆるクオリアに対し、広げていく。
あらゆるクオリアを好味楽する。
これだけで人生が千倍豊かになる。

一瞬一瞬のいまここのクオリアを徹底的に味わう。
極意はたったこれだけだ。

ゆらぎ瞑想で、意識を鎮め、あらゆるチャンネルのクオリアがうっすら等価に感じられるようになるまで続ける。

ひとつのチャンネルに囚われず、あらゆるチャンネルのクオリアを等価に感じられる状態を透明覚とよぶ。

透明覚は下意識と意識がゆるやかに半々につりあっている状態だ。
訓練すると、何を味わい咸じるか、志向的な方向を自分でゆるやかに変えていくことが出来る。

透明覚の志向性をゆっくりサーチライトのように回して、
からだが咸じているあらゆるクオリアを丹念に味わっていく。

体温、呼吸、内呼吸、重力、床の硬さ、皮膚の温かさ、冷たさ、
各部の筋肉の緊張の仕方、弛緩の具合、体内情報の流れ、
とりわけ、血液の酸性度や粘度を咸じとる首の辺りの血液成分知覚器官から
入ってくる情報がもっとも情動に直結してることを咸じる。
視覚、音像覚、などを始めとする八覚につぎつぎとサーチライトをあてていく。
それから五欲、生命ゆらぎ……。

なにもかも実に味わい深い。
どのように透明覚の志向性を動かすと
一つのクオリアから次のクオリアへつながって行くのかをじっくり観察する。
クオリア共振の類伸を味わう。

類伸とは、からだの中で自動的に起こっている連想ゲームのようなものだ。

なにか味わい深いクオリアが湧いてきたら、そっと寄添い共振しつつ、
からだごと乗り込んでいく。
<志向的増幅>だ。

ひとつのクオリア流が別のクオリアに<貫入>していったり、
ふたつのクオリアがひとつに<縮合>したり、
<分離>したり、
急激に<転換>したりするのを味わう。
クオリアの運動法則がだんだん分かってくれば、
どんな突拍子もないことが起こってもついていけるし、
先回りもできるようになる。

クオリア好味楽の達人になっていく。
これほど面白いものは人生にそうそうない。

実は、舞踏論で述べた最後の最後の舞踏としての
<臨生のまなざし>は、
このクオリアを好味楽することの対偶にある。

この世に退屈しきっている観客に、
最もおいしいものが目の前にあることを告げ知らせるのが
<臨生のまなざし>だ。
舞踏者自身が死体となり、異界に属する存在になって
はじめてこの<臨生のまなざし>を届けることができる。

それは舞踏者から観客への最大の贈り物である。
その贈り物を届けることができるようになるまで、
この好味楽瞑想を続ける。

 

生きているうちにここまで到達できたのは、おそらく世阿弥と土方巽ぐらいのものだろう。
大野一雄さんも、生涯をかけて突っ立つ死体同然のからだに変成した。
自分の命と引き換えにしか、<臨生のまなざし>を贈ることができるようにはならないのだ。
生きながら死ぬこと。
なにものにも囚われない透明なからだに透脱すること。
舞踏の道はかぎりなく遠い。

2006年7月29日

共振王 衰弱体

衰弱体こそ共振の王だ。

頑強な武闘や、日常体の立ち方では共振はできない。

からだの中のあらゆる筋肉と関節を緩め、どの方向からのどんなささいな刺激にも影響されやすい最弱のからだとなって、はじめてありとあるクオリアとの共振に開かれたからだとなる。

 

●衰弱体になる

1.事前にあらゆる部位をさまざまな準備運動でほぐしきる。

通常の大きな表層筋肉を対象としたストレッチではなく、からだの奥の深層筋や内臓につながる無数の小さな筋肉や筋膜や筋や腱の固着を解きほぐす。日常体の習慣によって固定されたからだから、からだ中が無数の管や筋によってにょろにょろとつながっている原初生命体(参考:野口三千三)のからだに戻る。

2.とりわけ下肢を上体の支え役から解放する。骨盤の仙腸関節やひざやかかとの固着を解き、各部が無数の方向にゆらぐまであらゆる方法でほぐす。

3.からだの各部位がなにものかによってさまざまな方向に微細に動かされる。ときに外から、ときに中から、突き動かされ、引っ張られ、なびかせられる。胴や四肢だけではなく、あご、顔、舌、口腔、目などがありとある方向に動かされる。

4.徹底的なからだほぐしが終わったら、もっとも弱い立ち方で立つ。四肢は絶えずあらゆる方向へゆらいでいる。からだの中に一部とて静止しているところはない。自分が動かすのではない。いつもなにものかによって動かされている。ときに内から、ときに外から。あらゆる方向へ。

5.何人かでこの衰弱体になってランダムな方向へ歩く。からだの一部(たとえば腕)はなにものかによって動かされ、別の一部(たとえば脚)は誰かの影響を受けて同じようにゆらぎ、あごは別の人に共振し、腹はさらに別の人につられて動いている、内と外の区別、自と他

の区別などがなくなるマルチな次元での共振体に変成する。

6.5の状態をしばらく続けた後、一人ひとりになってからだから出てくるサブボディの動きを探る、20分間の探体に入る。

 

 

このクラスでは、灰柱で歩くとき、いつも内に半分、外に半分開いた透明なからだになることを目指してきた。この衰弱体でのマルチ共振体への変成で、その透明なあり方が完成する。内にも外にも、自にも他にも囚われず、こだわらない透明な心身になる。

2006年7月27日

マルチ次元共振体

1.マルチ距離で共振する

灰柱で立ち、ひとりが微細な動きからサブボディダンスを開始する。ほかの人は、遠くから共振するひともあれば、中間距離まで近づいて共振するもあり、また不触不離の皮膜の距離まで近づいてサブボディのからだの微細なゆらぎを味わうもあり、さまざまな距離で自在に共振しつつ動く。

2.マルチな態度で共振する

サブボディのからだになりこんで、一緒のクオリアを咸じながら同じ動きをする共振もあれば、そのサブボディの周りの世界になりこむ共振もある。サブボディが胎児ならば周りの人は子宮の羊水になる。胎児が嵐の夢を見れば周りの人は嵐になる。サブボディの動きに影響される受動的な共振もあれば、サブボディに流れを送る共振もある。

3.マルチチャンネルで共振する

体感や動きのチャンネル以外に次々とさまざまなチャンネルを開いて共振していく。

触覚チャンネル:サブボディが何かを触れれば同じものを触る。なにかに動かされていれば同じものに動かされる。

音像チャンネル:サブボディのからだになりこみ、そのからだから発する音像で共振する。

感情チャンネル:サブボディが感じている情動や感情と同じ感情に突き動かされる。

関係チャンネル:サブボディが何かと関わっていれば、同じものと関わる。あるいはそのものになってサブボディと関わる。

世界チャンネル:サブボディが感じている世界像と自己像を共有して動く。サブボディと同じ世界に入り同じ自己像で動くこともあれば、サブボディの感じている世界像の側になりこむこともある。

4.微細さの限りで共振する

サブボディが微細なクオリアを咸じて動いていればそれと同じだけ微細なクオリアを感じて動く。衰弱体になれば同じかそれ以上に無力なからだにならなければ共振できない。だが、微細なクオリアを共有できればできるほど、人ははそれがいかに味わい深いかを知ることになる。サブボディはいつも日常の意識では決して咸じ分けられない微細で精妙なクオリアに震えている。その精妙さを共有できることがいかにすばらしいか、それは体験してみない限りわからない。日常界から出ることのない多くの人はこれを知らないまま生き、そして死んでいく。

以上のように、マルチな距離で、マルチな態度で、マルチチャンネルで、マルチな微細さで、要するに総じてマルチ次元で、共振できるようになるまで練習する。なれればさまざまな次元から次元へ、フレキシブルに切り替え、自在に共振を楽しむことができるようになる。

そう、人間のからだに、マルチ次元共振体への生成変化が起こるのだ。

踊りの世界はもともとこういうマルチな次元でのクオリア流動の世界に開かれているものだ。だが、現代のダンスの多くはそのごく一部しか使わずに踊られている。なまじ日常世界との関係を保ったまま、サブボディの世界に入りきることを知らず、中途半端な意識で踊っている限り、マルチ次元で流動しているクオリア流に触れることはできない。

それに引き換え、日常意識を止め、サブボディの世界に入りきると、自己と他人の間の境界が見事に消え去ることを体験できる。そこではほかの人のサブボディで起こっているごくごく微細なクオリアの震えを聞き分け、微妙に共振することができる。命のゆらぎそのものに触れ合うことができる。これ以上の深いコミュニケーションはないと思えるほど、深い味わいのかかわりを持つことができる。

ここまで来て、さて、ここから先、私のサブボディはいったいどこまで行こうとしているのだろうか。この先にわたしも知らない世界が広がっているのだろうか。かぎりなく楽しみだ。

2006年7月23日

自分の囚われを実践的に解決する

7月コースは2週目に入った。今週は自全の地下坑道をもう一段深い層へ降りていく。

生徒の動きを見れば、さまざまなものに囚われているのが分かる。

これが人間の動きだと刷り込まれてきた日常体の動き、なにかの練習をしたおかげで得た習慣的な動き、ときにはその習慣的な大きな、あるいは速すぎる動きに囚われることで、微細な共振をまたぎこしていることに気づかない。なにかに成りこもうとするときに、つい導かれてしまう既成概念の型への囚われ。これが飛翔、これが水溶、これが声音、これが流れ、これが獣……。ひとつの囚われの中に入ることで、その実際のクオリアを見失う。鳥は飛翔するとき絶えず微細に落下している。命は絶えず死と生の間でゆらいでいる。囚われなくそういう生のクオリアに触れたいのだが、私たちはそれを妨げるそれはそれは大きな囚われの中に棲んでいる。意識できるものはすべて囚われだといっていいほどだ。

普段のわたしたちは、囚われに囚われていると気づかずに囚われている。それが普通の状態だ。そこから出発する。


自分の囚われに直面する

1.ゆらぎ瞑想をしながら、からだの各部に内呼吸を送り、からだの各部と対話しながら、自分がどんな囚われに囚われているかに気づいていく。大概の囚われは、からだの何らかの不全な体感とつながっているからだ。からだからの不全なサブシグナルに耳を澄ます。

2.怒りは肩の辺りから後頭部を変質させる。悲しみは呼吸を塞ぐ。不安は呼吸を忘れさせる。こだわりはからだの各部に微細な硬結をもたらす。思考ハビットは、頭の姿勢や目遣いを固定する。観念過剰は皮膚の体感を切り落とす。ありとあるこだわりや囚われ、よどみは、すべてのチャンネルをまわりめぐって、からだのチャンネルにも微細な異変を刻印している。それらのサブシグナルをひとつひとつ丁寧に取り出していく。

3.自分はいったい何を実現したいのだろうと、自全に問いかける。その問いがいつもからだの闇でこだましているような状態を維持する。四六時中自全がその問いと共振している状態をつくるのだ。

そのうち、自全がいろんなチャンネルから応えだす。その兆しのようなサブシグナルを捉える。

4.一番実現したいことを妨げているものは何かをからだの闇に問う。その自問がいつもからだの闇で反響しているような状態を保つ。

5.以上で準備完了。あとはその二つの対立する問いが絡み合い、取っ組み合い、さまざまに変奏していくに任せればいい。さまざまな気づきがやってくるはずだ。それらの気づきをすべて心に書き留めていく。すばやくメモをして忘れ去るのが一番いい。

6.ある時点で、自分が囚われている最大の問題はなにか、思い当たる限り列挙していく。個別の事例は、実技ガイドのページの「自全瞑想」を参考にしてください。問題とそれを記述した言葉をひとつのセットにしてからだの闇をまわす。それもまた、自分への問いかけの形になる。「自分はなぜ、怒りっぽいのか」、「なぜ、いつも堂々巡りをするのか」、「なぜ、人の言葉をよく聴くことができないのか」、「なぜ、自信が持てないのか」、などなど人によって問題の形は無数にある。とにかくそれを自分独自の言葉にしてからだの闇の中で反響させる。

●問題をマルチ次元界で実践的に解決する

7.自分の問題群のひとつと、何らかのからだの動きの間に共振を発見して結びつける。一見何の関係もなさそうな問題とからだの動きがなぜかは分からないけれど妙に結びつくものだ。それらの動きを組み合わせてサブボディダンスをつくる。

8.ひとつのサブボディダンスができれば、それをあらゆる場で踊ってみる。ソロで、デュオで、グループ即興の中で、さまざまな形で出していく。細切れになったり、順序が変わったりしてもかまわない。思いがけなくも、ほかの人の動きとひとつになったり、絡み合ったり、動かされたり、あたらな展開を見つけたりするのを楽しむ。

9.サブボディ=コーボディ劇場は、ありとあらゆることがチャンネルや次元を超えて出会い、結びつき、離れる、マルチディメンショナル・リゾームの場である。そこではじめて、自分が囚われていた問題が、流動的なマルチ次元の中で解を見出す可能性に向かって開かれる。

10.まとめ: 自分の囚われを、マルチ次元界に置き、そこでマルチ次元解を探る。これがサブボディ技法における実践的解決技法である。

問題を頭で考えるのでもなく、闇雲にからだを動かすのでもなく、問題をからだの動きを結び付けてこのマルチ次元実解場に移すこと。

自分の全体に触れる自全瞑想から――自分の囚われから解放される道を探る自解探体を経て――実践的解決を求める実解場へ。絶えずこれらの階梯の間にスムーズに移行できるリップルを刻んでいくこと。これがサブボディ技法による実践的な自己変革の方法である。自分に生起したあらゆる問題は、人に頼らず自分で解決することができる。――生きる上でもっとも大事なことは、この極意を身につけることなのだ。

2006年7月22日

共振共生態としての自分を実感する場

昨日、生命論第2章に、「共振共生態としての人間」という文章を書いた。

この共振塾ヒマラヤとは、まさしく自分のからだが多くの生きた細胞からなる共振共生態であることを、さまざまな形で実感する場になっている。これまでの既成概念とはまるで違う生命像、自己像=世界像を体感し、実感することができる。先週の授業の体験記を書いてくれたルーマニアのビンドゥーの文章を読むと、彼女がその実感によってどんなに変わったかが如実に伝わってくる。

ゆらぎ瞑想によって日常意識を止め、からだの闇の中のクオリアに耳を澄ますと、自分と世界とが共振しているのがこの世の本当の姿だと分かってくるのだ。自分だけではなく何人かのほかの生徒のからだの中でも自分と同じことが起こっていることも実感できる。ではいったい、それまでの世界と自分を対立させて捉えていた自己像=世界像とは何だったのだ? いったいそれは錯覚だったとでも言うのか?

実のところそうなのだ。日常体は、自我や自己意識という近代西洋文化が世界に流布した強烈な共同観念に囚われている。それに囚われて世界の本当の姿を見失ってしまっている。このことをその観念に囚われている人に言葉で言うのはむなしい。言葉で言われたぐらいで解けるやわなまじないではない。ただ、ここに来て一緒に過ごす生徒との間では、からだで分かりあえるので、言葉はいらない。

ヨガ暦10数年というビンドゥーが、書いてくれた先週のクラスの印象記からは、彼女がこれまで築いてきた自分と世界との間の壁は、自分と世界を隔て、自分自身から自分を疎外するものであったというからだの底からの気づきの実感がよく伝わってくる。先週はほんとうにみんなで気持ちのよい共振をたっぷり感じあうことができた。わたしたちがどんなに共振している存在であるかということが言葉なしに感じあえ、通じ合えるのだ。

なのに私は、それだけではとどまれず、ここに来ることのできない世界中の人に向かって毎夜言葉を書き連ねる。少しでも多くの人に、ビンドゥーが得たような気づきを伝えたいと思う心がそうさせる。ことばのむなしさを知り尽くしていてなお、ことばで語り続けるしかない。私とこれを読むあなたとの間には千里の径庭が横たわっている。これをいったいどうすれば超えることができるのか。


2006年7月18日

動けないクオリア、動かされるクオリア

40億年前に生命が発生して以来、30億年間は単細胞生物の時代だった。その多くは藍藻など植物プランクトンの時代だ。ただ光を受けて酸素と細胞の構成素を生産するだけ。自らはまったく動けず、風や波に動かされるだけの生活だ。この動けないクオリア、動かされるクオリアを味わう。これがもっとも深い原生的なクオリアのひとつだ。動物細胞が生まれてからも、鞭毛や繊毛、アメーバの偽足など、最小限の運動器官しか持たなかった。少しは動けるものの、外界からの波や風や振動はすべて享受するしかない。この受容体になって、とことん受容のクオリアを味わうこと。40億年間も命は地球上のあらゆる変化を受容し、ただ受け入れてきた。そして、万の受容に対し、ひとつの創発によって、新しい生活形態を生み出し、40億年間の進化の歴史をつくってきた。この、<万受一能>のクオリアを味わうこと。ここに生命のもっとも深いクオリアが埋まっている。

今日の原生生物の万受一能のクオリアを味わう練習はつぎのように進めた。

 

動けないクオリア、動かされるクオリア

1.40億年前、地球上に生まれたばかりの原初生命になる。あるいは、子宮内に着床した受精直後の単細胞になる。

2.まったく動くことはできない。ただ細胞膜から細胞構成素を吸収し、同化して不要物を排出するだけの生活。完全な受容体でしかなかった時代の生命のクオリアを味わう。

3.やがて、多少の運動能力がつき、外界に食物となるものを見つければよって行き、危険を察知すると遠ざかろうとする。皮膚を開き、皮膚ですべてを咸知する時代の生命クオリアを味わう。

4.少し、動けるようになる。アメーバのような偽足を出して。だが、外界からの波や風を受けるとひとたまりもなく動かされる。このほとんど動かされるクオリアを味わう。

5.ペアになり、一人が横たわる。もう一人が外界からのさまざまな刺激を与える。ゆらぎ、振るえ、うねり、ショック、圧力、死、死後のゆらぎ。受け手は外界から来る刺激に翻弄されるクオリアを味わう。

6.ついで、自分ひとりで外界からの刺激によって動かされるクオリアを体験する。

7.それを体験しつつ、自分のオリジナル・クりーチャーがさまざまな外界からの力によって動かされるサブボディの踊りをさぐる。

今日の授業で体験した、動かされるクオリア、不自由にしか動けないクオリア、あるいは、死のクオリアなどが生徒にとってディープな体験となったという。それにしても、意識はまったく忘れ去っているが、40億年間の生命記憶は、すべての人のサブボディ(下意識=身体)に刻印されていることが確認される。上記のような旅に導かれた後は、だれもが自分のからだから、ユニークなタイミングを持つ独特のオリジナル・クリーチャの動きを発見することができる。この日は特に、すべての生徒から、独特のタイミングで動かされたり反応したりする固有のリズムを持つ動きがじつに豊富に出てきた。
こういう収穫の多い日はサブボディの産婆冥利に尽きる。一日の最後のサブボディ=コーボディシアターで、生徒から出てくるすべてのサブボディのユニークな動きに共振して一緒に動いていると、幸せな快感に満たされる。からだは共振することを求め続けているのだということが実感できる。

2006年7月17日

生体共振をからだに聴く

今月は、人間のからだの細胞と細胞の間で実際に発生している生体共振をどこまで実感していけるかを、授業で生徒のからだに問い深めていくつもりだ。

雨期のヒマラヤだが、イスラエル人4人、ルーマニア人1人、日本人1人の6人のクラスになった。この時期はほとんど雲の中で暮らすことになる。立ちこめる雲の動きが時々すごく美しい。雲のほかは何も見えない。一年中でもっともからだの闇に集中できる時期だ。

人間のからだは何兆という細胞からなり、われわれは何兆もの細胞の共生態として捉えなおす視点が必要とされる。とりわけ、今日の授業で検証したような生体共振現象は、ひとつひとつの細胞が、単細胞生物のようにそれぞれが生命クオリアを咸じていると捉えて始めて理解できるようになる。(これについて、くわしくは『生命論』第2章「生体共振について」に書いたので参照ください。)

ひとつひとつの細胞を、もっと個別の生命体として捉えなおしてみる。すると、これまで気づかなかった多くのことが明らかになってくる。

たとえば、両掌を2,3センチの距離に近づけて、静かに聴き入る。するとだれでも両方の手がなにかを感じあってざわめいているのに気づくはずだ。日常意識では通り過ぎていることだが、静かに聴きこめば誰にもすぐ分かるほどの明確さでこれが感じられる。

このときいったい何が起こっているのか。

――掌の細胞同士が共振しあって喜んでいるのだ。

具体的には、つぎのような手順で問い深めていく。

1.ゆらぎ瞑想などによって、十分日常意識を静めた後、自分の両手を2,3センチの距離に近づける。両手の間に何が起こっているかに耳を澄ます。

2.じつにさまざまな微細な体感クオリアを感じることができる。まずは温かさのゆらぎを感じとるだろう。そして、そのゆらぎがいかにも生きているものという感じを与えることにもきづくだろう。

3.よくよく耳を澄ましていると、ざわざわというざわめきが聴こえだす。両手の細胞がなにやらそれぞれ別個に咸じて、何らかの感じを隣接した細胞に送り、それがうねりのようなざわめきとなっているようだ。生きた細胞が近くにある別の生体を感知したとき、なんらかのシグナルを発していると考えられる。そのシグナルは共振しあって、ざわざわと、いつも生体特有のf分の一ゆらぎにゆらいでいる。

4.掌を、自分の手から、ほかの部位に移し、生体共振を感じる。部位が変わると、感じられるクオリアもわずかに異なる。

5.さらに、掌をほかの人のからだに2,3センチの距離で近づけ、なにを感じるか試してみる。やはりおなじように、生体特有の生きている感じをうけとることができるはずだ。そしてなにやら、自分の細胞と相手のからだの細胞が生体共振を起こし、細胞がそれを喜んで活性化していく感じも。

6.今日はこののち、おなじことを目隠しをして行った。映像チャンネルを閉じると、いやでも、原生的な体感チャンネルや運動チャンネルが開かざるを得ない。さいしょは不安げに練習場をうごめき始めた生徒も、時間を経ると次第に原生感覚を取り戻していく。

7.暗闇の中でほかの人に出会えば、2,3センチの皮膜の距離でその生き物を感じてみる。生体共振がもっとくっきりと感じられる。闇の中を互いに原生的な感覚を開きながらまさぐりあう。だれでもこれを体験すると、いいようのない喜びを感じる。みょうにうれしいのだ。わけは分からないけれど。

8.闇の中のデュエット。かすかな原生的感覚だけをたよりに闇の中をまさぐりあう。それがそのまま美しいデュエットになる。もっとも、それを味わえるのは私だけだ。生徒は全員目隠しをして動いているから。外からそれを見ることはない。今日のところは、ただ、からだに生体共振の喜びを蓄積していけばいい。

今日は7月文月コースのスタートとあって、もっと多彩なメニューをだして体験してもらったが、記録はここまでにしておこう。ともあれ、今月もまた、ディープな旅が始まった。生徒たちは戸惑いつつも、からだが自分の中の未知に触れる喜びと興奮を抑え切れないようだ。

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2006年7月16日

6月のミル・プラトー

6月コースの三人、キム、ジェニファー、アナットが、それぞれ自分のビデオを編集し、写真をレイアウトしてそれぞれの創造を披露する「ミル・プラトー(千の変成)」のページを作った。ようやくアップロードできました。よければご覧ください。ミル・プラトーを見る

2006年7月6日

最初の生命のクオリアと共振する

いよいよ水無月クラスも大詰めに近づいてきた。3人の生徒はそれぞれにその日の自分に似合ったゆらぎ瞑想から一日をはじめる生活リズムが身についてきたようだ。

今日はお互いの好きなゆらぎ瞑想の方法でほかの人をガイドしあって、それぞれの微妙なフォーカスの仕方の差異を味わった。一見同じことをしていても焦点の当て方でまるで違った味わいのものになる。ゆらぎ瞑想に何千ものバリエーションが出てくるのはこのためだ。今日は最初の生命のクオリアと共振する瞑想に入っていった。

命を聴くゆらぎ瞑想という入り口から、その日の練習にまで発展させていくには、ふたつの技法が有効である。ひとつは微分増幅(リップル)技法、もうひとつは、ツリーリゾーム技法だ。

リップルとは、ほんの少しずつ違ったクオリアにシフトしていく技法だ。下意識のクオリアはいつもすぐ近接したクオリアとは、簡単に共振する。その性質を利用したものだ。少しずつ少しずつ違うものに変えていく。

ツリーリゾームとは、意識と下意識の特性をうまくつなごうとするものだ。下意識の世界は多次元変容流動で、常にリゾーム上に変転している。これに対し、意識の世界はツリー状(階層秩序状)に分化した、分別界で動いている。このまったく異なる二つの特性をうまく使ってからだの闇に降りる。

心身世界を、百丹、三次元、十指、十二時の時計方向、八覚、五欲など分かりやすい図式に分解し、その一つ一つを順々にこなしていく、のがツリーのやり方でリゾームのサブボディ世界に探査坑道を掘り下ろしていく方法だ。

これに対し、もともと多次元変容流動で活動しているサブボディがどう反応するか、ときどきそのツリー状に掘り進めた坑道に、サブボディが遭遇し、踊りだす。この瞬間を待つのだ。

さて、本題の最初の生命クオリアをめぐる瞑想だ。今月の初めから命に耳を澄ます瞑想をずいぶん続けてきた。その最終段階ともいうべきものだ。(初めての方は、別の瞑想技法のページから、腰を回す瞑想など、ゆらぎ瞑想の入り口からお入りください。)

 

●最初の生命クオリア瞑想

1.ゆったりと座り、ちいさな体底呼吸からはじめる。(体底呼吸とは、息を吐くときにからだの底の会陰部の筋肉を引き締めていき、そこを緩めると同時に息を吸い始める。そしてすぐさま体底を引き締めていく。息を吸い始めるときにだけそこを緩める呼吸法です)。

2.息を吐き体底を引き締めていった底で、各チャンネルの最小・最低のクオリアを味わう。動きのチャンネルでは、原初生物のまったく動けないクオリアを感じる。

3.体底をゆるめ息を吸い始めると同時に、アメーバのように、少しだけ動けるようになったクオリア、脊椎ができてもう少し動けるようになったクオリアと、順々に動きのクオリアを膨らませていく。息を吐くと同時に、つぎのチャンネルに映っていく。

.体感のチャンネルでは、一回一回の呼吸と共に、最初の生命からひとつのボディイメージに変容してきたプロセスを膨らませる。最初の生命から、アメーバへ、最初の生命からさかなのおゆな脊椎動物へ、最初の生命から哺乳動物へ、さまざまなボディイメージに一呼吸ごとになりこんでいく。

5.映像チャンネルでは、一呼吸ごとに目もない最初の生命から、光を皮膚で感じる生物へ、最初の目のある生物へ、昆虫のような複眼のある生物へ、人間のような外側から自分を離見できる生物への変転を思う。

6.音像チャンネルでは、最初の声も出ない、耳もない生命から、最初に発声した生物へ、最初に音を捉えた生物へ変成する。そして、ほとんど声も出ない、耳も聞こえないクオリアに共振する。

7.感情チャンネルでは、情動も感情もなかった最初の生命の、ただ生きているというクオリアだけを感じる。それからすこしずつさまざまな体験の中で、その生きているクオリアが現在の情動や感情にまで発達してきたプロセスを追体験する。

.関係チャンネルでは、最初に単体であった生命を思う。それが同類に接し、さまざまな仕方で次世代を生んでいく方法を発明していったプロセスを追う。

9.世界像=自己像チャンネルでは、最初の生命にとってそのまわりのごく小さな環界が世界であった世界=自己像を思う。それからじょじょに世界が広がり自己像も膨らんできた歴史を思う。

10.思考チャンネルでは、何を思うこともなかった最初の生命のこころの元型を思う。たぶん、食物をうまく同化できたときに感じる原形質のわずかな活性化が、最初のクオリアだったろう。その活性化がわずかな充溢感として感じられるようになるまでの長い長い歴史を思う。こころの発達の歴史を追体験する。

以上の八覚ごとの瞑想をした後、アトランダムに、一呼吸ごとに違った次元に違ったクオリアを膨らませる。その日のサブボディが乗り込みたいクオリアに出会ったらそのクオリアを微分増幅しサブボディの動きを膨らませからだごと乗り込んでいく。

 

4週目に入った生徒達は、こういうガイドをするだけで、20分間の探体のなかで深い旅を体験し、なにかをつかんでかえってくるようになっている。今日の踊りも今までとはまったく違ったいっそう味わい深いものになった。やはり、最初の生命のクオリアと共振するという体験は、ずいぶん深い影響をもたらすもののようだ。

昔はただ、もっとも醜いクオリアを探せと、生徒に無理を強いているところがあり心苦しかった。だがこの生命遡行瞑想に生徒をガイドできるようになってからは、ごく自然に最小の動けないクオリア、見えないクリア、心ないクオリアに同期できるようになってきた。自全の中にそんなものがいくらでも折り畳まれていることを発見するのだ。そして、これが原初の生命につながるクオリアだと分かった生徒は俄然自信を持って、か弱いクオリアになりこんでいくことができるようになった。おおきな深まりだ。


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2006年7月5日

生徒のガイドで胎界遡行

今日水曜日は、リゾタッチの日だ。午前中いっぱいをさすりあった後、午後は、生徒の一人に自分がこの一月で受け取ったものをほかの人に伝え返す授業をやってもらうことにしている。

先週、キムとアナットがやったので、今日はジェニファーの番だ。「自分が受け取ったもののエッセンスをほかの人に伝えてほしい」そう一言だけ言った。

ジェニファーは、横たわった姿勢で、わたし達が胎内でたった一つの単細胞であった時代に導いた。そのころのことを思い出す手がかりになるようなことをなにやらしゃべっている。ネイティブの英語だからよく聞き取れないところもあるが、かえってその一知半解さが妙に捩れた催眠効果を誘う。わたしは一心に原初の細胞になりこみ、生きているクオリアとはどんなものかをからだのなかに探り続けた。言葉にはならないが、なにやらからだの中でうごめいているものがある。そのうごめきに聴き入っているうちに、ジェニファーのガイドは、数ヶ月目の胎児期に進んで、外界の音に反応したり、自分のなかになにか言いたいことが出てくる衝動に導いているのが耳に入ってきた。すると、突然、なにやら異様なサブボディがうごめき出した。外界の騒々しさや、自分の胎内に入ってくるなにやら騒々しいものに反応して、なにやらわけの分からないことをつぶやきだすサブボディが出てくる。これまで出したこともないような妙な声を出していると、声の異様さに導かれて、次から次へと違うやつらが出てくる。何十分かそのサブボディが出てくるままに踊った。ジェニファーのガイドは、さらにからだのあちこちが違う方向に動き出すとか、動きを誘い出す。その誘いに乗って、ありとあらゆるサブボディがほとばしり出るままに任せた。ほかの人とコミュニケートするのもいれば、一人で踊りたがるのもいる。実にさまざまだ。

週に一度、教師の立場を離れて、生徒のガイドに導かれて、思う存分サブボディを解放することができた。ふむ、このメソッドはすでに十分人に伝わるものになっている。伝えた生徒からこんなに的確に伝えたものが帰ってくるのだから。

踊りが終わった後、一人が真ん中に横たわって、周りから他の人がその人を思い思いに共振タッチする。これがまた心地よい。今日も私は不覚にも落眠させられてしまった。生徒達の共振タッチの腕もなかなか上がってきている。

おまけに水曜は踊りの後、露天風呂と、ディナーパーティが待っている。すっかりくつろいだ後、ロメスの手作りのモモ(チベットふうの餃子)をたらふく食べた。すぐにまた落眠してしまった。このごろはすぐ眠りにおちいる。

この伝え返し(リバース授業と呼んでいる)は、生徒にとっても、自分が得たものをほかの人に伝え、それがうまく伝わったり、伝わらなかったりを確認できるのでとてもいい経験になっているようだ。3人ともそれを通じて自分が得たものがなにかがずいぶんクリアになってきたという。

2006年7月4日

動けないクオリアの重さ

少し前までは、八つの基本チャンネルのうち、動きのチャンネルがもっとも原生的なチャンネルであると捉えていた。

目や耳のチャンネルは高等動物しかもたないが、動きのチャンネルは、もっとも原生的なアメーバのような単細胞生物でももっているからだ。かれらには、目も耳も口も鼻もなく、ただ流動する原形質とそれを囲む原形質膜があるだけだ。

少し前の透明論にこう書いた。

「動いているときのからだは静止しているときとは根本的に別物になる。動きという独特の原生的なクオリアが下意識のからだを駆け巡る。この動きのクオリアは静止したまま瞑想する人や、静止した人体を治療するだけの身体技法をするひとには決して捉えることができない。動きという重大なクオリアが存在することさえ、静止したままものを考えるだけの人は気づいていないのだ。経絡はサブボディに属するクオリアの伝達経路だから、人が動き方をかえれば経絡のありかはすぐ変わる。意識しただけでも変わる。動きの速度によっても、動きの経路によってもそれに応じフレキシブルに変わる。
時にはからだの中から外へ出、また外から中へ還流してくる。この点でサブボディメソッドの中の経絡概念と、指圧や鍼灸で静体の治療に使う経絡概念とは大きく捉え方が違っている。」

確かにそうなのだが、静と動の関係の闇はとてもつもなく深い。

生命瞑想をどんどん深めていくと、40億年前に発生した始原生命にまでさかのぼる。すると、この始原生命は、ただ自己のからだを自分で再生産する能力をもつだけで、まだ動きのチャンネルなど持たなかったことが分かる。そう、海に浮かぶただひとつの小さな原始細胞がおそらく最初の生命体のすがただ。

今日はそこまで瞑想をさかのぼらせた。生命は40億年前の発生以来、30億年間も単細胞生物の期間を過ごしている。

多細胞生物が地球上に出現したのはわずかに10億年前だ。生命はこの長い単細胞生物として過ごした期間に、あるものは光と共振するチャンネルを開き、光合成を始めた。植物の祖先だ。あるものは鞭毛や繊毛を発現し、動物の起源となった。だが、当初の30億年もの間、小さな鞭毛や繊毛、あるいはアメーバのように原形質流動のゾルーゲル変化で偽足を出して動くなど、ごく小さな運動能力を持っていたに過ぎない。巨大な重力や海の波に比べれば、ごく限られた運動能力だ。あらゆる生命は30億年ものこの単細胞時代のほとんど自在に動けないクオリアを生命記憶として刻印している。動くクオリアよりも、動けないクオリアのほうがはるかに深く心を揺さぶり染み込んでくるのは、このためだ。30億年もの長い動けないクオリアの味を生命が忘れるわけがないのだ。

※動けないクリアについて、舞踏論2006第8章で、「動けないを動く」と題して、もう少し突っ込んで書いた。舞踏はなぜ味わい深いのか。わたしはなぜダンスをそぎ落とさざるを得なかったのか?

 

始原生命への遡行瞑想

1.腰をゆっくり回し、もっとも心地よいゆらぎに入る。いつもこれがゆらぎ瞑想の始まりになる。

2.よいゆらぎ心地に入れたら、自分が40億年前の最初の生命体になったことを創造する。わたしたちあらゆる生命体は、この最初の生命から今日まで、まったくひとしい40億年の時間を背負っている。人間も昆虫もアメーバもひとしく40億年の変転を経てきて今の姿になったのだ。一分一秒たりとも変わらない。

そして、40億年前の始原生命がまったく自分では動けず、ただただ周りの環界のなかで共振できるものを取り入れ、自分のからだをつくることをはじめたことを想像する。

それから30億年間、単細胞生物として、ま割りの環境からやってくるさまざまな刺激をただただ受け入れ受け入れ続ける中で、新たな対応性を創発して、多様な種に分化してきたことを思う。

3.ひとりが真ん中で横たわり、この瞑想を続ける。他の人は周りから40億年間に始原生物に降りかかったさまざまな刺激を与える。雨、風、波、日光、地震、隕石、音響、地響きなどさまざまな刺激を序破急をつけつつ与え続ける。

4.中の受け手はこれらの刺激をすべて受け入れ味わう。始原生命として受け入れつつ、なにか自分の中から創発していきそうなクオリアが生まれたらそれを伸ばす。まわりの仕手は、それを時に助長し、時にまったく無関係な刺激を振り掛ける。このプロセスを通じて、中の受け手は40億年間の生命史を対体験する。そして、自分の生命の固有性を創発する。いったいどんなクオリアを発明することでわたしたちはわたしたちになったのか。長い長いプロセスをたどりなおす。

5.そのあと、この半受動半能動、あるいはもっと正確に言うと、ほとんど受動、ほんの少しだけ能動という原生的なクオリアから今日のサブボディの動きを探る。もっとも制限され、回りから翻弄される、動けないクオリアをからだの闇に探り、もっとも弱弱しい動き、もっとも不自由な動きで自分を運ぶ、自分固有の衰弱体の歩行を発明する。

 

サブボディ=コーボディリゾームへの変成

この体験の後、20分間の自己探体の中で、生徒はこれまでにない新しいクオリアのサブボディを発見する。各自から出てくる動きから、新鮮な異変が自分にも友人のからだにも起こっていることが確認できる。

今日はこの体感から踊りを探った後、それを映像チャンネルに翻訳して,絵を描いた。さすがにみんなの絵は多次元を変容流動するとても面白く奥行きの深いものになった。

みんなで互いの絵を味わった後、今日はさらにそれを音像チャンネルに変換した。

絵を前にして輪になって座り、体底呼吸から体腔声音を出し、じょじょに自分のサブボディの世界の体腔声音を出していく。ときにグループとして共振し、ときに自分ひとりの世界を旅する。音像共振劇場だ。今日はさまざまに多様な声音が出てきた。

そして、最後にそれらすべてのチャンネルを統合して今日の踊りにする。微細な始原生命から現在にいたる、その人の40億年の生命史の変転を味わう踊りだ。きわめて味わい深い踊りが生まれてきた。

そして、サブボディ=コーボディ劇場では、それぞれが見出した今日のサブボディソロを踊りつつ、時には自在にほかの人のサブボディの動きに共振してコーボディに変容する。そしてまた自分のサブボディの動きに戻ってくる。じょじょにみんなの動きが透明になっていく。たしかなサブボディを見出した後は、それを捨ててほかの人の動きに同調する自由をも手にすることが出来る。かぎりなく自由のレンジが広がり、サブボディとコーボディを自在に往還できる、強力なリゾームへの変成が進んでいく。とうとうここまで来ることができた。発想してから12年かかった。だが、いくら時間がかかろうと、イメージを握り締めてにじり寄っていくと、いつかは到達できる日が来る。自分がリゾームに変成するだけではなく、ほかの人もリゾームに変成していく道がとうとう切り開かれた。そう、リゾームになる道がとうとう開いたのだ。

2006年7月2日