December 2006
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共振塾ジャーナル
2007年
2006年12月
フリップアートの創出
生命瞑想から自全瞑想へ
いかにエゴの囚われを脱するか
2006年12月
2006年12月12日

フリップアートの創出

さあ、冬休みに入った。
一年中とりたまった写真やビデオを
どう料理してアップしていくか、
しんどいけれど楽しい仕事だ。
とくに、Picturetrail.comのフォトフリップは、
異質なクオリアがひとつのフォトフリップの中で出会い、
予想もしなかった共振が起こることによって
あたらなクオリアが創発されるという
思いがけない効果を発揮することを発見した。

その昔ダダイズムの芸術家たちが発見した

解剖台の上のミシンとこうもり傘の出会い

というような新鮮な異化効果が出現する。
おそらくダダイストたちも、
そのとき既成の秩序に安心しきった価値観や美意識が
鋭く引き裂かれることを知ったのだろう。


フォトフリップを使って、クオリアの出会いを楽しむ
フリップアートというようなジャンルを創出できそうだ。
異質なクオリアとくオアリアが出会うと、
そこで新しいクオリアが創出される。
なかなか味わい深い。
そして、この何種類かある動くフォトフリップ独自の味わいを持つ。

宇宙の歴史と同じだ。
当初ごく単純だったひもの共振パターンが
異質な共振パターンと共振パターンが出会うことによって、
どんどん新しいひも共振パターンが生み出されてきた。
宇宙ではこうして無数の多様化が進んできたのだ。
フリップアートは、
ま、この冬のお楽しみとしておこう。
ここにはヒマラヤならではの
写真の素材もいっぱいあるし、
カメラスタッフのロメスは
驚くほどカメラ勘がいい。
ダンサー以上に体が動いて
いつも最適のシャッター位置にいる。
頼もしい限りだ。

用語注)
私がフォトフリップを無料で作っている
Picturetrail.comでは、これを独自に
Photo Flickという名で登録商標にしている。
だが、ネット一般では
めくれる本形式のフリップブックという呼び名が一般に通用している。
Picturetrail.comが提供しているようなさまざまな表示形式のものには
まだ一般名称がない。
そこで、フォトフリップという名を勝手に呼ぶことにした。
フリップアートという名も私が勝手にこさえたものだ。
安っぽい語感だが、他に適当な呼称が見つからなかった。



2006年12月4日

生命瞑想から自全瞑想へ

今週は11月コースの、そして今年一年の最後の週となる。
これまで学んできたことの、つながりに耳を澄ます。
この作業を通じて、生徒は最初の週から最後の週まで
行ってきたことの透明なつながりを見出す。
私にとっても、この作業を通じて
一年間やってきたことを再統合することができる。

1.生命瞑想

いつも、ここから始まる。
座って、腰をまわして最も心地よい
ゆらぎを感じつつ、命に耳を澄ます。

その日の命の調子を聴く。
そして、命に問いかける。
「何をいちばんしたいかい?」
「いちばんなりたいものはなんだろう?」
「何にだっていちばん好きなものになっていいんだよ」
「一番好きなことだけして生きるんだ。」

それから、40億年の命の歴史を振り返る。
地球上に現れた最初の生命になりこむ。
最初に生まれた生命体は動けもしなかった。
ただ生きているというクオリアはどんなものだったろうか。
ピュアな生命のクオリアを一心に味わう。

それから、じょじょに生命の進化をたどる。
単細胞生命の時代が30億年も続いた。
わずかずつだが動けるようにもなってきた。
プロテオバクテリアの創発によって
細胞呼吸もできるようになってきた。
シアノバクテリアは太陽光から光合成する
方法を発明した。
地球上を酸素に満ちた大気が覆うようになっていった。

そして、多細胞の時代となる。
単細胞生物が接合・共振の方法を見出して、
多細胞に進化していった。

すべてのクオリアを原形質膜と
原形質で咸知していた段階から
脳と脊髄ができ、神経で咸知するようになったクオリア
手足の精緻な動きのクオリア
目や耳のクオリア
――さまざまなクオリアが発展していった。

2.胎内瞑想

生命遡行瞑想は、母の子宮内での
個体発生の歴史とオーバーラップする。
1で述べたすべての進化の段階を個体生命は
胎内で反芻する。
意識はすっかりそのことを忘れてしまっているが
私たちのクオリア流は、
40億年の生命記憶とつながっている。
生命発生以来、一時も途切れることなく
クオリアは共振に共振を続けてきた。
そのかすかなつながりに耳を澄ます。
不意にかすめる体感やイメージ、
情動の不安や世界像の不全に
その痕跡が現れる。
胎内で聴いた母の体内音、
母から流れ込んできたホルモンによる
体感クオリアの突然の変化……
などなどに生命史と胎内体験のクオリアが現れる。

3.出生体験瞑想

子宮内でのはるかな胎内ゆらぎの時代は
ある日突然終わる。
永遠に続くかと思われていた
大洋エクスタシーに終止符が打たれる。
子宮の収縮が始まったのだ。
いやだと思ってもこの変化は止まらない。
しかも永遠に続くかと思われる苦痛に見舞われる。
出口なしの恐怖が全身を包む。
やがて苦痛の極限で胎児は
生命的な怒りを燃やし出口を探し始める。
膣口に頭蓋を突っ込み三回半身をねじりながら
膣内を滑り落ちる。
死と再生の境目をだれもが体験する。
脳内に発射されたエンケファリンなどの
脳内麻薬によってこれらの記憶はかき消される。
だが、不意に襲ってくる怒りや
状態依存記憶などにこの痕跡が刻まれている。
理由の知れない不安やこみ上げる怒りは
この出生体験のクオリアと共振している。

4.下意識瞑想

以上1から3のプロセスで得たクオリアは、
出生後すべて下意識に繰り込まれる。
意識は下意識で感じているクオリア流に気づかないから
すべてが無意識となる。
近代人特有の意識と下意識の解離が起こる。
近代以前の人や、現在でも森や山で暮らす人は
意識と下意識の解離は起こらない。
意識のことも下意識のことも
どちらも半々に聞き分けられている。
近代人である私たちがこの状態になるためには
意識的に意識レベルを低下させる
瞑想技法や自己催眠技法を必要とする。
サブボディメソッドでは座って腰を回し
心地よいゆらぎに聴き入るゆらぎ瞑想を
最もよく使う。
下意識からのサブシグナルを八覚にわたって捉えるには
いつもわずかにからだがゆらいでいるほうがいいからだ。


5.マルチチャンネル・リゾーミング

あらゆるチャンネルで下意識からのサブシグナルを捉える。
からだの一部で捉えた捉えたサブシグナルを
徐々にからだ全体に増幅していく。
ついにからだ全体がそのクオリアに染め上げられると、
同じクオリアを保ったまま別のチャンネルに回していく。
いずれかのチャンネルで、まったく違ったクオリアが
開畳してくるサブシグナルを捉える。
つぎはそのクオリアを徐々に増幅して
まったく違った異次元を開畳する。

6.自全に出会う

ひとつのクオリアがすべてのチャンネルに繰り広げられると
それはまるごとのクオリアになる。
下意識の世界ではおそらくチャンネルに分化などせず
まるごとのクオリアとして流動していたはずだ。
そのまるごとのクオリアを現出することが
下意識のできごとの透明に見えるようにするということなのだ。
ここまでくると、最初の生命瞑想から
胎内瞑想、出生瞑想と続いてきたものが
一続きのクオリア流であることが分かってくる。
下意識とは生命が感じているクオリア流なのだ。
それは40億年前の生命からめんめんとつながっている。
意識では感知できなくとも
意識が半分、下意識が半分につりあう
透明心身状態ななることができれば
そのつながりが透明に見えてくる。
それをたどることで人は始めて
自分の全体(自全)に出会うことができる。

これこそ、意識優先の意識に囚われた近代自我の状態から脱し
次の時代に人々が持つべき透明心身という生存の様式である。
それが何を意味するかは、
もう少し吟味してから連載中の「透明論」に展開するつもりだ。


2006年12月2日

いかにエゴの囚われを脱するか

おそらくこの問題を解きつくさない限り
どうにもならないのだということが分かった。
この問題に正面から取り組み
メソッドへ高めることが必要だ。

これまでに得ているてがかりを一覧してみよう。

1.ゆらぎ瞑想を通じてゆらぎの快感に身をゆだね、
意識を止め下意識モードに入ることの心地よさを知る

2.たえず、かすかな体感の変化を聴き取ることに集中し、
意識が介入する余地を与えない緊密な練習体系をたどる

3.言語意識が立ち上がってきたときは、すぐさま気づいて
いまじゃなく、また後でと制止する。念を継がない練習。

4.からだに聴き入り、かすかなサブシグナルを増幅して
サブボディの動きを創っていく面白さに専念する

5.輪になって、一人がいずれかのチャンネルの
サブシグナルを増幅して動きにし、
それを全員でシェアする八覚リゾーミングの練習は、
意識が介入する余裕がないのですぐれた練習方法である。

6.同様にそれぞれが見つけたサブボディの動きを、
ほかの人がフォローイングやフォーカシングでサポートしながらシェアするのも、
言語意識の介入する余地を与えない練習方法である。

7.これらの練習を通じて、
サブボディとコーボディが共振していることを体験していく。

8.さらにより進んだ段階では、
他の人に自分の得たものを伝える喜びを知る

1から6までと、7,8の間にはまだ多くの階梯が存在する。
こんごもっと緻密なリップル(さざなみ的微小変化)技法
を詰めていく必要がある。
だが、ここにみたように、導入部のリップルはほぼ完成している。

ここちよいリップル(微小変化)をたどっていると、
自然に心地よくいつのまにか下意識モードに
入れているという練習の道筋をできるだけ豊富に用意し、
その日の流れに応じて最適のリップルをたどれるようにする。

だが、これとは別に、
各人が自覚的にエゴを止めていく修行の体系もまた必要である。
わたしの仕事は果てしなく終わりがない。


2006年11月
2006年11月30日

ドリームボディとサブボディ

今月は生徒の希望で、
火曜と木曜の午前を共振タッチディとし、
午後からは週代わりの
特別のプログラムで遊ぶことにしている。

いつも昼ごはんの後30分横になり
生徒のサブボディになりこむ。
今何を一番求めているだろうかを
たずねる。

先週は近くの山に入り
古い樹や岩と踊ることにした。
タイミングよく面白い即興が出てきた。

今日はなかなかひらめきが出てこなかったが
5分ほど超過して夢をやろうと思いついた。
昼休みにみんながすごくよく夢を見るという話が
出ていたことからヒントを得た。

1.これまでの人生で見た一番ひどい夢を思い出す。
何度も繰り返し見てよく覚えている夢がいい。
とりわけその夢の中の体感を詳しく思い出す。
2.その夢の中で味わう体感やあらすじをメモに書く。
3.床を脱力して転がる練習をする。
4.二人で交互に乗り越えながら転がる
5.全員で並んで転がり最後尾の一人が
ヒューマンオーシャンの上に乗り上げ順々に運ばれる。
6.全員が重なり合ってヒューマンマウンテンになる。
7.真ん中の一人が自分の悪夢を語りだす。
8.語り終えると夢の中の体感を動きにする。
9.ほかの人は夢の世界の事物か、主人公の体感に共振して一緒に動く。
10.一人が終えたら次の人に夢に入る。
11.全員の夢がすんだら、30分間の自己探体に入る。
12.今日語った夢の体感から出てくる動きを探す。
ほかの夢も思い出したらその夢の動きともつながりを見つける。
13.見つけた夢の動きを動き、ほかの人に見せる。

もう十年ほど前からやっているプログラムだ。
一番夢の体感に入りやすく、
ほかの人の夢にも共振しやすい動きとタイミングを
探っていくうちこれが最適だという上の手順が定着した。

だが、今日は驚いたことに次から次へと動きが出てきた。
すべて奇妙な動きだが、本人にはとてもリアルな体感なので
恐ろしくリアリティがある。

これまで長くやってきたが、
こんない味わい深いものが出てきたのは
初めてのことだ。

なによりやった本人たちが驚いていた。
ほかのひとの夢の体感にもとてもよく共振できたし
30分の探体の中で驚くほどいくつもの夢が次から次へと出てきたという。
昨日まで出てくる動きがどうしても頭で思いついた動きだった人も
今日の動きは見違えるように違った。
完全に体感クオリアに導かれた動きになった。

リゾーミングとドリームボディ

去年の1週間コースでは
毎週木曜をこの悪夢の日に設定していた。
今年になってからは不定期になり
やらない月もあった。

それが11月コースでは3週目にやることになった。
このタイミングが最適だったようだ。
特に今月は生徒がリゾーミングテクニックを身に着けた直後に
やったのが最適のタイミングになったようだ。

そういえば自分でも忘れていたが、このリゾーミングテクニックは
私自身が悪夢を元に踊りを作る中で見出されたものだった。
夢が次から次へと変容していく体験の中から
異次元開畳という下意識世界独特の展開の仕方と
それを実現するリゾーミングテクニックが発見されたのだ。

リゾーミング・テクニックとドリームボディは
こんなに相性がよかったのだ。

ドリームボディとサブボディは
切っても切り離せない兄弟である。
もともと同じからだの闇-下意識から出てきたものだが
夢の場合は体が動かない。映像チャンネルだけで見る。
これに対しサブボディはそれにからだの動きを与える。
からだごと夢の世界に乗り込んでいくのがサブボディだ。
ドリームボディにからだを貸し与えるのがサブボディだといってもいい。
逆にドリームボディ-夢とは、
からだを動かさずに映像チャンネルだけで見るサブボディである。

それはずっと前からわかってたことだが
サブボディテクニックを身につけた人が
ドリームボディになりこむと
こんなに面白いことになるとは
初めて知った。
大収穫の木曜日になった。
各生徒にとっても大きな発見だったろう。
今日の夜は夢の中でサブボディとドリームボディが
ひしめき合って大変騒々しいことになっているに違いない。
それをよく楽しんでくれたらいいのだが。
時としては眠れぬ夜になることもある。



2006年11月29日

世界チャンネルを開く

11月も3週目に入った。
いよいよ世界チャンネルを開いていく。
もともと、私たちのサブボディはいつも
世界像流と共振している。
それに気づき、その震えを透明に見ることが
できればいい。
午前中いっぱいはからだをヒマラヤの自然に向かって開いた。
重力、日光、空気、風、地面、草木、生き物、人、・・・
そして、世界と共振しながらのリゾーミングと異次元開畳。

午後からは
灰柱、自全ウオーク、底丹田ウオーク、世界ウオークへと進む。
世界との共振を感じながら歩く。
すべてを世界に透明に見せるつもりで歩く。
世界中の不幸を引き連れて歩く。
いつやっても重い練習だ。

だが、サブボディの探索が、
世界チャンネルを開くようになると
大きな変化が生まれる。

世界チャンネルを開くとは
自分と世界との関係をリフレーミングするということなのだ。
変更不可能だと思われていた
世界像流を自在に変容することができる。
この体験のなかで人は何かが決定的に変わる。
世界チャンネルで踊るとは、いわば
世界創造という作業である。

世界像を変革すると、自己像もそれに伴って変わる。
一人の人の自己像が
その中で世界創造者に変容する。
おそらくこれが決定的に重要なことなのだ。

世界チャンネルにいたって始めて
序破急の<急>にいたることができるのも
ここにその秘密がある。
世界チャンネルはかくも
特別なチャンネルなのだ。

2006年11月26日

意識のハタラキをそぎ落とす

今週は3ヶ月目、3週間目、
そして2週間目の生徒が混在している。
3週目以上の生徒と、2週目の生徒の間に
出てくる動きに画然とした違いがある。
からだの底にもぐってつかみ出した動きか、
頭で考え思いついた動きか
の区別が歴然と見える。

生徒にもよるが、意識を消し
からだに聴きこむということが
からだにしみこむように分かるまでには
時間がかかるのだ。

2週目の生徒には、意識のハタラキを
ひとつひとつそぎ落としていく練習を与える。
その中から、
以前のリスニング三原則をさらに深めた
リゾーミング三原則が浮かび上がってきた。
リゾーミングとは、
体の一部からなんらかの変容が起こり、
それが体全体に浸潤していく
変容技法である。

リゾーミング三原則

1.体感チャンネルから聴きはじめる

からだに耳を澄まし、
かすかななんらかの体感を捉えたら、
そのクオリアを保ったまま
他のチャンネルにまわしていく。
動きのチャンネル、映像、音像のチャンネル、
情動、関係、世界チャンネルへまわしていく。
クオリアにはもともとチャンネルなどないから、
どのチャンネルへでも変容流動していく。
まわしていくと、単独チャンネルのクオリアが
まるごとクオリアに生長する。

2.意識から遠い場所から聴きはじめる

顔や手の動きはどうしても
人間的意識に近い動きが出てきやすい。
できるだけ頭から遠い部位から聴きはじめる。
座位なら尻や骨盤の辺りに耳を澄ます。
立っていれば足の裏やすねの辺りに聴く。
そして、足底や体底からじょじょに変容していくと
いつしかからだ全部が
ひとつのクオリアに変容していく。

3.かすかなサブシグナルからリゾーミングしていく。

できるだけかすかな、
あるかなきかのクオリアから聴き始める。
そのかすかなクオリアから
じょじょに増幅していくと
クリアなクオリアへ育っていく。
誰にとってもその人のからだで
何が起こっているのかが透明にみえる
リゾーミングが現出する。

この技法をちゃんと身に着ければ
だれでも、自分の下意識とからだの
間で起こっている出来事を
透明に見せることができるようになる。

しかも、リゾーミングは
下意識でいつも変容流動している
サブボディ=クオリアの流れに忠実なので、
その一端のサブシグナルをつかみ、
それにからだを貸し与えるだけで
無数の創造的な動きが次から次へとでてくる。

そうなると面白くてたまらなくなるのだ。
なんてユニークな動きが自分のからだの闇に
詰まっているんだろう!?

ひとたび極意をつかめば簡単なのだ。
じっさい、今週で三週間目になる
ポーランドのモニカや
ブラジルのアンナルイザは
そのこつをつかんだようだ。
次から次へと出てくるサブボディの動きに
からだを貸し与えるのが
楽しくてたまらないようだ。

からだの変容速度

もっとも、すぐさまあらゆるサブボディを
解放することはできない。
なかにはとても扱いにくい衝動も眠っている。
コントロール技術が伴わないうちに
間違ってそんなサブボディを起こしてしまえば
とんでもないことになる。

一ヶ月目の生徒は
まだ扱いやすい表層のサブボディだけを
活性化することを学んでいく。

三ヶ月コースに入って
それら比較的扱いやすいサブボディを
活性化した後、沈静化させる
コントロール技術を
十分に身に着けてからはじめて
もっと下層の難しいサブボディにコンタクトし始める。
すなわち、生存欲、快適欲、安全欲、つながり欲
そして、自己実現欲という五欲のレベルで
くぐもり蠢くサブボディを活性化することを覚える。

一年コースになってはじめて
もっと深層のサブボディのくぐもりに触れる。
トラウマ、コンプレックス、
not me、解離、などなどの
状態依存的なくぐもりに取り組み始める。

三年コースは、自分独自のそれら深層の
サブボディへの取り組み方を深めると同時に
ほかのひとに技法を伝える仕方を学んでいく。
ほかの人に教えられるようになってはじめて
ひとつの技法をわがものとしたといえるのだ。

はたして三年で教えられるようになるかどうか
人にもよる。
時間がかかるひともいる。
私は手探りで歩いて
サブボディ技法の発見から
人に教えられるようになるまで
八年かかった。

からだのことは、
からだ独自の変容速度に任せるしかない。
自分の変容の速度に付き合いきれるかどうか、
その人の精進しだいだ。
11月24日

序破急と守破離

三ヶ月目の生徒はみるみる創造性が増していく。
下意識の創造性を解放する方法をつかんだのだ。
そうなるともう、サブボディの教師の仕事は
その創造性をフルに発揮できる舞台を設定して
与えるだけでよくなる。
――もっとも最適の場をいつも設定することは、
並大抵のことではないが。

昨日は近くのお気に入りの
大きな石舞台をあたえた。
――ここで一時間あそんでごらん。
そういうだけでピーターは確かな序破急のある
15分ほどの小品をつくりだした。
アメーバからトカゲへ、それから
さらに得体の知れぬものへ見事に変成して見せた。

今日はこれまでの序破急に加え
守破離を教えた。
生徒が序破急をからだに十分入れた頃
はじめて守破離を伝えることができるようになる。

序破急が時間の推移の中での
結構を見出す極意であるとしたら
守破離はひとつの次元での出来事から
別の異次元が開畳してくるのを見せる極意だ。

このように伝えた。
守破離の極意の伝えかたが分かったのは
生まれてはじめてのことだ。

1.ひとつのクオリアを、
体感チャンネルから
順々に他のチャンネルにまわしていく。

具体的には、たとえばゆらぎ瞑想で咸じる
からだじゅうに満ちてきたほのかな快感を
動きのチャンネルに移す。
緩やかなゆらぎがでてくる。
それを映像チャンネルにまわす。
空気の流れや絹のショールがからだの中を
すべるように動いていくのをイメージする。
それにふさわしい体腔音を見つけ、
音像チャンネルに展開する。
さらにからだの底から情動や
感情が湧いてくるのを咸じる。
ほかの人にその快感をなげかけることを想像し
他の人との関係チャンネルに展開する。
さらにそれを世界に広げる。
この快感を世界に投げかけるのが自分だという
世界像=自己像を生きる。

2.輪になって、一人ひとりが
それぞれ独自の体感クオリアを
他のチャンネルに回していくのをやってみる。
ほかの人はそれをシェアする。

3.生命にとってはひとつのクオリアを保つことと
それを打ち破る新鮮なクオリアを創発することの
どちらもが重要である。

相反するものだが、生命はそのどちらをも志向している。
だからこそ、40億年もの間生命を維持できてきたのだし、
かつまたその間に無数の創発をつみかさねて、
このような多様な生命形態を生み出すことができたのだ。
自己維持と自己創発のどちらが欠けていても
こうはならなかっただろう。

4.<守>
ひとつのクオリアを
八つのチャンネルに回していくと、
まるごとのクオリアが現出する。
その世界が出来上がるまで
ためにためてひとつのクオリアを
八覚にまわして育てていく。

5.<破>
ひとつの次元がまるごとクオリアをもって現出するやいなや
とあるチャンネルでかすかな変容がはじまる。

異次元開畳の始まりである。
それまでその兆しは秘めに秘めなければならない。
秘すれば花、秘さずば花ならず、
とはこのことなのだ。

6.<離>
新たに生まれたまったく別種のクオリアが
どんどん生長していく。
そしてついにあらたな異次元が開畳する。
踊り手はその異次元に転生する。

この<破>は、
たんなる<破>とは根本的に違う。
たんにひとつの次元の中で
動きの質を転換したり、
速度を転換したりするのではない。
根本的に異なる原理で動いている
異次元が開畳するのだ。

この異次元開畳という転換が起こることこそ
サブボディ=クオリア世界独自の特徴である。
日常世界のひとつの次元に囚われて生きている人には
発想もできないことだ。
だからこそ見る人を驚かす力を持つのだ。

生まれてはじめてこの
サブボディ世界の真実をほかに人に
伝えることができるようになった。
この伝達方法を見出すまで8年かかった。

からだのことは、このような遅々とした
時間でしか推移しない。
そのこともまた同時に思い知った。
生徒のからだに本当の変化が生じるのも
このようなじっくりした時間の中で
見守っていくしかない。
一月だの三月だので起こることは
たかが知れている.
人間の心身の変化は
5年10年単位で見ていかないと
目先の変化に囚われて
ゆっくり進行している本当の変化を
見落としてしまう。
この学校のコースも年々長期化していく。
これは必然的な流れだ。
長い時間をともにできる生徒を切に望む。

2006年11月19日

類の序破急に耳を澄ます

私がこの学校の名前を考えたとき、
どうしてもサブボディという言葉と、
コーボディという言葉の両方を入れたかった。
いろいろ考えたが、長すぎるので校名としてはあきらめた。
ただ、練習場をサブボディホール、
表の野外劇場をコーボディホールと名づけた。
ここダラムサラの現地では
このふたつの名前を併記した看板を掲示してある。

なぞこのふたつの名前にこだわったかというと、
からだの闇を探って
ただただ自分固有のサブボディの動きを追求していくと
必ずどこかで自分ではないところへ突き抜けていく
不思議な体験を何度も味わったからだ。
この不思議な体験にはきっとまだ未解明の
不思議な謎が詰まっているに違いない。
――そう信じて私はいまだにこのサブボディと
コーボディの間の謎を探求している。

この10月のコースで一度、
1時間の完全即興の中に
自分のサブボディの踊りを出す瞬間を見出すこと
という課題を課した
サブボディコーボディシアターを行った。
まだ一ヶ月前後の生徒には
早すぎる課題となったが、
私はこの課題を実現する機会を
虎視眈々と10年待ち続けていた。
これからも狙い続けるだろう。

各人は全体の即興の序破急を聴きながら、
どこで自分のサブボディの踊りを炸裂させるのが
よいか、最適のタイミングに耳を澄ます。
そして、全体のいわば<類の序破急>のなかで
最適タイミングで<個の序破急>を炸裂させることができると
個の序破急も最高に引き立つし、
類の序破急にもさらに豊富な輝きをもたらすことができる――
そのことをからだで知ってほしかったからだ。
類と個のもっとも理想的な関係がそこにある。

類の序破急とは、いわば生命史の序破急である。
生命の40億年の歴史の中で、
自分の個の生命をどう輝かせるかという課題とつながる。
そういう命の序破急を聴ける人が地球上に満ちることを
過激に夢想する。
そうすれば国家などイチコロなのだ。
目先の私利私欲に走らせらている
近代以降の人間のあり方に激しくさよならする人が
増えなければならない。

なぜいつまでそんなせせこましい
自我なんぞに囚われ続けているのだ?!
――もちろんこんな問いかけがどんなに無謀なものかは
自分でもよく知っている。
いつまで経っても自我の処理こそ
もっとも困難な課題である。
それは根深いところで
生命の個的ありかたと緊密に結びついているからだ。
だが、このもっとも難しい課題に挑戦するのが
もっとも面白い生き方なのだ。

ここヒマラヤ共振塾で
本当に行われているのは人間が
そういう個的類的人間に変成していく教育である。

2006年11月15日

リスニング三原則

少し前にからだへの耳の澄まし方について次のような原則を示した。

原則1 もっとも原生的なチャンネルである体感チャンネルから
聴き始める

原則2 意識から遠い体底や足底から聴き始める

原則3 より原生的なクオリア、
あるいはより微細なクオリアから聴き始める

――動けないクオリア、動きにくいクオリア、
動かされるクオリア、わずかにしか動けないクオリア
という原生的なクオリアから聴き始める

この三つの原則をからだにしみこませるために、
さまざまな練習を工夫してきた。
そのいちいちを書くのはとても煩雑なので略するが、
この三原則がからだに入ってくるにつれ
生徒から出てくる動きが
見違えるように味わい深くなってきた。

かつては、単に
「からだに耳を澄まして、自分固有の
できるだけ奇妙なクオリアを
探し出すように」
といっていただけなので、
生徒から最初に出てくる動きが
なお人間社会の規範に囚われた
ダンスまがいのものしか出てこなくて
がっかりしたことが多いが、
それは私の指導の仕方が
まだ足りなかったからだということに気づかされた。
もっと具体的に
生命クオリアに深く聴き入る仕方を
具体的に教えることができていなかったのだ。

「できるだけ人間から遠く」といっても、
(そんなこといわれても、私は人間だから
人間としてのうごきしかできないよ)という
無意識の抵抗に出会っていたのかもしれない。

人間社会の既存の規範に囚われるなといっても
そんなことは突拍子もないことだから、
それをいかに脱ぐかの脱ぎ方まで教えないと
なかなかできないことなのだ。

生徒から出てくるものに
満足できないときは
生徒ではなく
いつも自分の教え方に
不足があるのだ。
この原則を忘れないで置こう。

2006年11月13日

●「瞑眩」、「反応」、「エッジ」

サブボディ学校での経験を通じ、
からだの闇に旅を続けていくと、
意識と下意識の基本的な布置が変動する。
このため、生徒たちは、
おびただしい夢に殺到されることになったり、
これまで味わったことのない
異様な体感や、体験に見舞われることになる。
10月の、このジャーナルに対のように書いた。


原生力が開いてくると見る夢

意識が封殺している原生力に対するブロック力を弱め、
原生力が膨らんでくると、
意識と下意識とからだのあいだの
根源的な布置が変わる。
長い間保たれてきたバランスが崩れるのだ。
意識はこれを恐怖と感じるだろう。
からだの闇の布置の変化は
さまざまな奇妙な体感をもたらす。
異体感や離人夢、
なにものかに動かされる体感、
奇妙なものがからだの中でうごめく体感、
からだが二重にぶれたりきしんだりする体験など、
概して奇妙で不快な体感に襲われる。
今月の生徒の間にもこの現象が起こりつつある。
これらは、からだの根源的布置が変わっていっている
ことの証拠だから恐れることはない。
それをとことん味わい、
なにを告げようとしているのか
からだの闇からのメッセージに
耳を澄ませることだ。


わたしのからだでも
これが起こりだした。
やけに異様な体感に見舞われる。
いや、それはずっと長い間起こり続けていたのだが、
それが生徒のからだで起こっていうことと
密接につながっていることに気づいたのだ。

そして、それだけではなく、
私の指圧の師、遠藤喨及氏や、その師である増永静人氏は、
指圧を受けることによって、
逆に病気に似た「瞑眩反応」という
好転反応が出てくることがあることに触れている。
具体的な症状としては。
倦怠感や眠気、下痢や発熱、
痛みが増したり過去にわずらったことのある症状が出たり、
過去に抑圧してきた感情が表面化して現れることがある。
ここで生徒や私に起こっていることも、
この瞑眩反応と同じものだということが分かった。

野口整体の野口晴哉さんも、「反応」といういいかたで、
同じ現象を語っている。
彼の場合は、さらに具体的に3期に分けて現われを示している。

1.弛緩反応――だるく、眠くなる。疲れたような、けれども快い。
2.過敏反応――からだの皮膚の下を水が流れるような感じ、あるいは少し寒いような感じがするようになる。発熱、下痢、発汗、痛みなどが出てくる。
3.排泄反応――からだの老廃物や悪いものが体外に排泄される。皮膚に変化が出たり、妙な便や尿、石、臭い汗などさまざまな排泄反応が起こる。
これらは、一日のうちに通ることもあれば、数ヶ月にわたることもある。
これらの反応の経過の仕方を知っておくことが大事だという。

ふたりともからだに起こることに焦点を当てて書いているが、
これに伴って夢や感情や心の変化が伴うことは
いわば言わずもがなのこととして
暗に含まれていることを知るべきである。
それが文化の志向性によるバイアスなのだ。

これに対し、ミンデルがいう、
以前の人格状態である一次プロセスと、
下意識から起こってくる新しい傾向の現れである
二次プロセスが葛藤するとき、
人は「エッジ」に直面し、
さまざまな異様な体験をするという。
このエッジ体験もまた、
意識と下意識の基本的配置が
変動することによるものであることに気づいた。

要するにこれらの先人たちは、
みな同じ現象にぶつかり、
それぞれの文化の文脈で書き表している。
それらがじつは共通した現象であることが見えてきた。

さらにさかのぼれば、
江戸時代の禅宗の僧、白隠もまた、
禅修行に伴う禅病について次のように書いている。


参禅修行によって、心火が逆上すれば、
心身ともに疲れ、五臓の調和が乱れることがある。
いかなる医療によっても治すことのできない病である

と。
これらの禅病といわれる現象もまた、
意識と下意識の布置の変動に伴う現象に違いなかろう。
すべて、自分で経験してみて始めてわかった。
少しくらい言い方が違っても、
まったく同じことを言っていることがぴんとくる。
白隠のいう「心火が逆上する」という現象は
まさしく私にも起こった制御不能のアドレナリン亢進状態を
言い表して妙である。

ミンデルの師であるユングもまた、若いころ
無意識世界を探検する中で体験した
「無意識に食われる」という
危機的な体験について触れている。

こころとからだについて
何かを語っている人のうち、
これらの危機的な体験について語っている人だけを
信用すべきである。
なぜなら、これらの異様な体験は時に
死にさえ近づく危機的なものであり、
それに対する正しい対処の仕方を知らなければ
本当に危険な体験であるからである。
みずからこの危険を体験した人だけが
それを避けるアドバイスを他の人に与えることができる。
とても危険だから、アドバイスをせずにはいられなくなる。
おそらくこれを体験してなお
他の人にアドバイスせずにいられる人はいないと思われる。
だから、アドバイスしていないひとは
自らそういう危険なところまで降りたことのない人だ。
自ら危険を体験しているのに、後進の人に
この危険を避けるアドバイスをしない人がいたとすれば
根本的に親切心が欠けている人だから付き合うには足りない。

だから、心身世界を旅するときは
その危険を知りぬき、
貴重なアドバイスを残してくれている人だけを
信用すべきだと書いたのはそういうわけだ。

意識と下意識、からだの間の
基本的布置が根本的に変わっていくとき、
それに伴って起こってくるさまざまな奇妙な現象を、
自然に経過させることが大切だ。

まず自分のからだで起こる奇妙なことを
自分で何とかできるようになることが大事だ。
下意識のからだの闇から噴出してくる
未知の力の表れを知り、それに対する対処法を身につけ
ほかの人にアドバイスできる力を身につけること。
それが、人間の心身に起こるあらゆる事態に対処し、
他の人を助ける力を養っていくことの基本である。

それを通じてはじめて
人類のからだの闇に眠る創造力や共振力、
自己治癒力といったすばらしい共有財産を
分かち合うことができるようになる。

サブボディ学校ヒマラヤは、まさにそういう人を
生み出していく場所なのだ。

2006年11月12日

樹と友達になる

先週の木曜日は、生徒の希望で近くの林に入った。
一日指圧をみっちりするつもりだったが、
すこし倦んでいる雰囲気があったので、
希望があればほかの授業に切り替えると昼食時に提案した。
すると、林にいきたいという声が出た。

林はいい。
私がいかに樹木とつきあってきたかを
教えようとした。

何年か前、工事中のストレスに
神経がたまらなくなって、冬場は二年続けて南インドに脱出した。
そのとき出会ったインドの古い樹の力に
どれだけ助けられたかはかりしれない。

林にいり、気に入った樹木を見つける。
なんとなく気が惹かれればそれで決まりだ。
その樹の全体が見える距離まで下がって、
そこから樹に向かってゆっくり歩いていく。
灰柱の歩行でも、
1メートル1分程度のヒューマンウオークでもいい。
距離が詰まっていくにしたがって、感じられるクリアが
どんどん変わっていく。
まるで違う次元に入っていくような気分になる。
最初は「樹形」として捉えていたものが、
近づくにしたがって個々の枝ぶりが目に入ってくる。
それぞれにとても個性的な味わいがある。
そして、突然幹の肌触りが近づいてくる。
この瞬間にはいつも驚かされる。
古木の幹のクオリアほど味わい深いものもまたとないほどだ。
それをたっぷり味わいながらさらに進む。
寄生植物が目に付きだす。
コケやしだも生えている。
やがて、小さな生き物が樹皮を這っているのが目に入りだす。
古い樹はひとつの大きな街なのだ。
鳥や昆虫や寄生植物たち、
実に複雑な生態系が成り立っている。
それらのクオリアには目がくらむほどだ。
やがて、樹皮そのもののもっときめ細かいクオリアに近づいていく。
そのときはもうとことん樹木のとりこになってしまっている。
樹木からさまざまなクオリアがにじみ込み、
ほとんど樹木と同化せんばかりのからだに変成している。
できるだけ長い時間をかけて近づくことだ。
ひとりでに樹のクオリアがからだに流れ込んでくるに任せる。

植物の生命クオリアは、
動物のそれとは根源的に違う時間のなかにある。
それを味わい教えてもらうだけでいい。
動物にとって植物がいかに大事な友達であるかが実感できる。
そして、動物と植物が別れる前の
生命の長い長いバクテリア時代を思う。
そう、今ここにある私の命は
かつて気が遠くなるほど遠い時間のなかで
バクテリアだった。
その長い時間から現在の瞬間までの時のつながりを思う。

このように樹木と少しの間だけ時間を共にすることで
とてつもなく違うものに触れることができる。
私は自分の神経症をすこしずつ癒してくれた
インド各地の古い樹のクオリアを忘れることはないだろう。
それらはいまも私の命と共振しつつ流れている。
生命に一度しみこんだクオリアが消えることはないのだ。

生命とは自分にしみこんでくる
無数のクオリアを繰り込み、
生命の創発に生かすことのできる存在だ。

生命の多様性は、
この生命に流れ込みしみこんでくる
驚くべき多様なクオリアから
ひとりでに創発してくるものに違いない。

この生命への<クオリアのしみこみ>あるいは
<クオリアの繰り込み>についての考察は、
生命論に新たな一章を設けるに値する
興味深いテーマだ。


2006年11月11日

リゾーミング十年

十年ほど前、からだの一部から変成がはじまり、
その変成が全身に伝染していくさまが
透明に見えるからだになりたいと思った。
それをリゾーミングと名づけた。

伝染熱、死者熱という踊りは
その身体変容技法を追求する過程でできたものだ。
本当に見せたい透明さに比べれば十分ではないが、
なにかの変容が私のからだで起こっていた。
起こっていることにひきずられるように
無我夢中で踊りつづけた。

各国で「リゾーミング・ワークショップ」と名づけて
若い人たちにそのテクニックを伝えようとした。
だが、なぜかうまく伝えることができなかった。

なぜだか理由が分からないまま、
長い年月をこの謎を抱えて過ごしてきた。

わたしはとても重要なことに気づいていなかった。
今年になって、原生的なクオリアとは何かを
追求する中ではじめて気づいた。
からだに聴き入るには
順番があるのだということを知らなかったのだ。

人間が感じるクオリアは
じつにさまざまなレベルのものが混交している。
そのうち、映像チャンネルや音像チャンネルは
すごく高度なチャンネルである。
思考チャンネルはおそらく最高度のチャンネルである。
からだに聴き入るとき、
こういう高度なチャンネルを先に動かしてしまうと、
それ以下の原生的なチャンネルを閉ざしてしまうのだ。
マスキングのような現象が起こる。

生命が感じるクオリアのうち
最も原生的なものは体感である。
もっとも原生的な生き物であるバクテリアは
ほとんど動くこともできず、
ひとえに体感クオリアだけを使って生きている。
鞭毛虫やアメーバ段階になると、
これに運動チャンネルが加わる。

第一に体感クオリア、第二に運動クオリア、
このふたつが混交している段階が
生命の40億年の歴史の中で
30億年は続いた。
目も耳もなかった。
光も音も化学物質のクオリアも
すべてからだで感じていたのだ。

いまもすべての生命体は
この体感-運動チャンネルをもっとも基礎にもっている。
だが、エネルギーが低い。
それ以後に発達したより高度なチャンネルは
ふんだんにニューロンの共同発火を使う。
視覚チャンネルを開くとき
人間は何億というニューロンを同時発火させている。
思考チャンネルはさらに右脳と左脳を超高度に連接するため
さらに多くのニューロン発火を必要とする。
この高度に興奮した状態では、
比較的わずかなニューロン群の発火で済む
原生的な体感や運動チャンネルで感じ取っているクオリアは
マスキングされて意識されなくなってしまうのだ。

この原理が今年になるまでつかめていなかった。
からだに聴けといっても、
普通に人は、視覚イメージや思考イメージを
鎮めることができない。
だから、体感に集中して耳を澄ますことができず
イメージや思いつきといった
より」高度なクオリアに囚われてしまっていたのだ。

なぜこんな薄っぺらな、
人間の日常的な規範に沿ったものしか出てこないのだろうと
長い間不思議だったが、
私こそこの重大な秘密に気づいていなかったのだ。

だから、からだに聴くときは、
視覚イメージや思考イメージなどの高度な働きが鎮まるまで
生徒の意識レベルを徹底的に低下させるプロセスが必要だったのだ。

それには、学校に来てから瞑想をはじめるようなことでは
十分でないことも分かった。
生徒自身が朝目覚めた瞬間以後、
日常的な関心事や、人間関係、もめごとなど、
外向的な配慮から可能な限り身を遠ざけ、
意識状態を鎮めていくことが必要だ。

前の日に友達と騒いだりすると
翌日までその雰囲気が抜けずに、
ものにならない。

月曜に生徒が調子を落とす場合は
週末の過ごし方に問題がある。
まして午前中何か用事をしてから
来た生徒はまるでからだに集中することができない。
生徒間の人間関係に囚われている場合も
まるでだめになる。

八つの基本チャンネルのうち、
体感チャンネルはかくもか弱いチャンネルなのだ。
だから、それに耳を澄ます状態を確保するには
周到な手続きで守り続けなければならない。

私は授業期間はほとんど学校からでない。
人と会ったり、ふと食堂のテレビが目に入って、
新しい刺激を受けたりすると
何日も調子が狂うことが分かっているからだ。

この秋はコンピュータの故障と
ブロードバンドの不調で
どうしてもその関係者と会わざるをえなかったが
それでとことん調子を落とした。
十月いっぱいはそれで普段の月の
十分の一程度の探求しかできなかった。

まして、授業時間は町の生活に帰る生徒たちが
どんな大きな悪影響を受けているか
想像に余りある。

昔の僧院や修道院が、
外界から隔絶された環境を確保することを必要とした理由も
ようやく腑に落ちた。

サブボディ学校もやがては寄宿生活を
はじめねばならないようになるかもしれない。
あんまりストイックなのはいやなのだが。

あつかう体感クオリアのあまりのもろさを考えると、
それを守るためのなんらかの方策が必要だ。

テレビを5分見てしまうとすべてが崩れ去る。
それくらい体感クオリアはかすかなのだ。


2006年11月10日

即興と振り付けの間の遠い課題


この10月の6人の生徒によるグループ即興は思い出深い。
この日、私は始めて生徒たちに1時間の完全グループ即興のなかに、
自分独自のサブボディダンスを発揮するタイミングを見つけて踊ること、
という課題を課した。

すでに生徒たちはソロ作りを始めて数週間目に入っていた。
完全グループ即興の練習も何度か行っていた。
数々のボディコミュニケーションの方法についても教えていた。

そういう生徒が数人そろうことで、はじめてこの課題を
実現に移す条件が整ったのだ。
なんとわたしはこの日を十年も待ち続けていたのだ。

私がいつまでたっても過激なのは、
これまでまだ誰も試みたことがないことにだけ
興味があるからだ。
そもそもサブボディの探求の仕方を教えるなど
世界でほかには誰もやっていないことだ。
まして、その中でサブボディとコーボディの間の
秘密を解こうなどと誰も考えもしていない。

この秘密には生命の個体性と、類的本質の間の
途方もなく深い謎がかかわっている。

ともあれ、この日の実験の意図とその顛末については、
この日のビデオクリップと、
フォトフリップブックのページにコメントを付記した。

興味のあるかたは、写真・ビデオとともに
そこで何が課題とされ探求されていたのかを知ると
さらに味わい深いものとなるだろうと思われます。
よければご覧ください。

この日のフォトフリップブックを見る

この日のビデオクリップを見る
2006年11月5日

これがサブボディ コーボディシアターだ!

ようやく、これがサブボディだ、これがコーボディだ
といえるものを目で見える形で伝えることができるようになって来た。
まだほんのその萌芽の形でしかないけれど。

サブボディとは下意識の創造的なからだ(サブコンシャスボディ)であり、
コーボディとは共振しあうサブボディのことだ。

意識優先の意識をゆるめ、下意識の創造性と共振性を解き放つと
人間はもっと面白く、もっと透明に生きることができる。
私が伝えたいのはたった一つのそのことだ。

9月コース、10月コースの生徒たちが修了し、自分のビデオや写真ブックの編集に入っている。ブロードバンドの接続は相変わらず不調だが、ようやく、ヒマラヤでやっていることをリアルタイムで世界に伝える態勢ができかけてきた。
2006年11月4日

原生クオリアを聴く

少し前にからだへの耳の澄まし方について次のような原則を示した。

原則1 もっとも原生的なチャンネルである体感チャンネルから
聴き始めること

原則2 からだの中では、意識から遠い体底のほうから聴き始めること

原則3 聴くときはより原生的なクオリアあるいはより微細なクオリア、
動けないとか、動きにくいとか、動かされるとか、
わずかにしか動けないとかというクオリアから聴き始めること。

これをさらに各チャンネルに沿って具体的に述べよう。

1.体感チャンネル

・意識から遠い部位の体感から聴き始める。
立位の場合は足の裏、座位の場合は体底から聴き始める。

・重さに聴く

もっとも根本的なクオリア、重力から聴く。
わずかな重心移動に耳を澄ます。
重心移動がもたらすからだの他の部位への影響を微細に聴く。
これは地球に生を受けた生命がすべて、
望むと望まないにかかわらず味わってきたクオリアだ。

・空気を聴く

内呼吸を聴く。

新鮮な酸素が体内各部位の細胞にいきわたるときの
クオリアの変化に耳を澄ます。
それに伴って伸ばしたければ伸ばす。
縮めたければ縮める。

大気とかかわる。

風があれば風を味わう。
風のクオリアが外界から体内に流れ込むのを聴く。

・日光を聴く
外界ならば太陽光線に耳を澄ます。
あらゆる生体の細胞は太陽光線によって
光受容たんぱく質が変化する。
目を使わなくても光を感知している。
光と闇のクオリアのゆらぎを味わう。

(この項続く)
2006年10月31日

無間カオスの中にサブボディを立ち上げる

先々週のサブボディ・コーボディシアターでは、
生まれてはじめての試みをした。
それは完全即興の中に、振付けたサブボディダンスを出す、というものだ。
この10年間いつかそれを実現したいと切望していた。
その試みをとうとう実現に移す日が来た。
一ヶ月以上このサブボディ学校で研鑽を積んできた生徒が
数人を超えた。それでようやく実行に移す気になれたのだ。
結果といえばごらんのとおりで、
カオスそのものだ。
このカオスの中にいつかすっきりと
サブボディソロを出す人が現れるのを持つ。
無間のカオスというのはサブボディ世界の真実だ。
その中にくっきりと自分のサブボディダンスを
立ち上げる筋道を見つけること、
強い強いモチーフがなければ実現できないことだ。
いまはまだここまでだが、
究極の望みの実現に向かってとうとう
足を踏み出すことができた。

2006年10月30日

からだへの耳の澄まし方

からだに耳を澄ますことが、
サブボディメソッドの基礎の中の基礎だが、
からだへの聴き方にも順番がある。

それを間違うと浅いクオリアしか捉えられない。
浅いクオリアとは日常意識に近い
「人間」概念に囚われたクオリアのことだ。
深いクオリアを捉えるには
意識から限りなく遠いところから聴くのがいい。

いくつかの原則を示そう。

原則1 もっとも原生的なチャンネルである体感チャンネルから
聴き始めること

原則2 からだの中では、意識から遠い体底のほうから聴き始めること

原則3 聴くときはより原生的なクオリアあるいはより微細なクオリア、
動けないとか、動きにくいとか、動かされるとか、
わずかにしか動けないとかというクオリアから聴き始めること。

以上がからだへの聴き方の大原則だ。

2006年10月18日

生体共振ゆらぎを聴く

生きた細胞はすべて他の細胞と共振している。
そして、その共振はいつもゆらいでいる。
手のひらを1センチほど離して
その間にどんなクオリアが感じられるか、耳を澄ます。
あわ立つようなゆらぎが感じられるはずだ。
共振タッチの原理は、
このゆらぎに従っていく、それだけだ。
生体細胞は共振を求めている。
共振すればするほど、
生気が満ち力がみなぎってくる。
封印された原生力の中で
眠りこけていた自己治癒力や
創造力が満ち溢れてくる。
共振タッチは、お互いにそういうからだに
促しあっていく技法だ。

今日は次のような練習で
生体共振のゆらぎを体得していった。

1. 闇の灰柱の歩行一本
2. 闇のまさぐり――途中で他の生き物に出会えば、
3. 不触不離の距離で、生体共振を確かめ合う。
4. 共振タッチの序――仰臥の姿勢で、腹をさすり、
5. 全身に生体共振ゆらぎをひろげていく。
6. 共振タッチの破――全身指圧と超特穴18のツボを通じ、
7. その中でもっとも生体共振が深かったつぼを見つける。
8. 共振タッチの急――見つけたもっとも活性化しているツボを
9. 底まで押して、ウケテ、シテが同時に底に至る。
眠っている原生力が呼び覚まされる。
10. 共振タッチの緩――伏臥の姿勢で全身手歩きで
からだの緊張を緩める
11. 共振タッチの除――足ゆらし、足腹接触で
全心身のストレスをすべて洗い流す。

生体共振ゆらぎという、根本原理が発見されたので、
それさえ伝えれば、地球上のどの国からきた人にも
素直にそれを体感してもらえる。
特に宗教的な解釈や、特別の徳もいらない。
人間ならだれでも生態共振ゆらぎに従い、
原生力を励まし呼び覚ます、指圧ができる。
序破急緩除という五段階は、
時間は掛かるがだれでもそれに従えば、
他の人と自分自身を癒すことのできるステップだ。

月水金のサブボディ舞踏メソッドによる創造力の開放と、
火木の共振タッチによる共振力の開放を車の両輪にして、
全生力の開放へ向けてとうとう最適のバランスが見つかった。

意識と下意識、からだの間の基本的布置が
根本的に変わっていくサブボディ共振塾では、
それに伴って起こってくるさまざまな現象を、
自然に経過させ、自己治癒力や自己管理力を
高めて行くことが出来るようになった。

まず自分のからだで起こる奇妙なことを
自分で何とかできるようになることが、
人間の心身に起こるあらゆる事態に対処し、
他の人を助ける力を養っていくことの基本である。
生徒には知らず知らずそういう力がついていく。

これからの世界に本当に必要なのは
そういう人が世界中にあふれ返ることなのだ。
少しずつだがそれに向かって進んでいく道が見えてきた。


2006年10月11

原生力を開く

 

・原生力とはなにか

 

生命の生存にとって必要なことに、

自然に反応する力を原生力と呼ぶ。

生存にとって具合の悪いことから身を遠ざけ

生命を発揮できる方へ身を投じていく。

生体にはすべてその力が自然に備わっていた。

だが、現代人は意識優先のあり方を

社会から刷り込まれる中で

その原生力を失ってきた。

現代病や成人病、心身症の多くは

原生力の喪失が引き起こしているものが多い。

 

・原生力を呼び覚ます

 

サブボディ共振塾ヒマラヤでは、

まずこの眠っている原生力を

呼び覚ますことからはじめる。

 

1 目隠し原生感覚

生体は視覚や平衡感覚のない生き物でも

自分がどこにいてどういう姿勢を

しているかを把握している。

まずこの自分の今の姿を把握する

原生感覚から呼び覚ます。

 

目隠しをしていろいろ姿勢を変える。

その都度自分の姿勢を把握する。

ついで持続的に動きつづけながら

いつも把握できているようになる。

 

2 闇の灰柱

目隠しをして灰柱の歩行を行う。

歩きながら感じられる微細な体感のすべてを

味わい感じ取る。

重力、呼吸、血流、内呼吸、風、光、音、他の生き物の気配、‥‥

 

3 闇の関わり

他の生き物と出会えば、触れるか触れないかの距離で

その生き物の姿かたち、

自分とのかかわり具合などを確かめる。

 

4 群れの原生覚

目隠しをしてひとつの群れとして動く。

絶えず群れの中の他の人を配慮しながら

群れとして行動する。

 

5 各部位に眠り込んでいる原生覚を起す

現代の「人間」であるために、

私たちの日常体は随分無理な

人体像の中に閉じ込められている。

人体マップを書き換え、

各部位に眠りこけている原生力を呼び覚ます。

腕の付け根が肩であり、

脚の付け根が股関節であるというような

近代労働に適合させるための

人体マップを破り捨てる。

腕の付け根は胸と鎖骨の胸鎖関節にあり、

脚の付け根は仙骨と両骨盤の間の

仙腸関節にあることを思い出すと、

獣の動きが呼び覚まされる。

靴の中に閉じ込められた足のかかと周辺の

七つの小骨の間の可動性を取り戻し、

物をつかめる足を取り戻す。

人間が尻尾を失って久しいが、

動くときに頭と反対方向に尻尾があると

想像して動くとすばやくバランスよく動けることを

からだで体得する。

獣のように頭から体全体が一つになって動く

五体協同性を取り戻す。

などなど、各部位に封印された原生感覚を取り戻すと

動きが根本から変わることを体験する。

 

6 自己治癒力

生体はそもそも自分の調子を

すべて把握する力をもっている。

そんな大事な力を失ったのは人間だけだ。

特に近代の学校と病院が

自分を自分で把握する力を奪い去り、

他人が教える方法で考え、

他人に自分の心身の健康を調整する力を預けきる

無力さを刷り込まれてしまった。

原生力の根幹は自分を自分で把握し

自己治癒できる力を回復することにある。

 

7 直動性

母親は子供が痛がると、本能的にそこへ手が伸びさする。

自我のブロックを取り去ると、

相手のからだがどこを押して欲しがっているか

何も考えないでも指圧や共振タッチの手が伸びる。

思考なしに自発的に動けるからだを呼び覚ます。

 

8 生体共振力

生体は近くにいる生体といつも共振している。

ゾウリムシが、群れをなして寄り集まり、

サンゴが群生し、蛍は群れで同期して発光する。

生体にはおそらくひも共振パターンの変化そのものか

変化のゆらぎを察知して近くの生体を認知する能力がある。

この根源的な生体共振力を呼び覚ます。

すこしでも相手の調子が不全だと、すぐわかる。

そして、自発的に癒しの手が伸びる。

そういう高性能のからだになる。

 

9 下意識の創造力

意識は様々な社会的制約にとらわれて、

自由な創造力を発揮できないが、

下意識はそんなものに囚われないで

どんどん創造力を発揮できる。

生命はその創発する特性によって

40億年もの間にこんなに多様な種を生み出してきた。

生命は根源的に創造的なのだ。

原生力を解き放つと

創造力も解き放たれる。

 

・原生力と全生力

原生力に封印されている共振力と創造力を

すべて発揮できると、

人間の全体的可能性を拡大することができる。

この力を全生力と呼ぶ。

私の知る限り人間の全体性を

根源的に志向した人が二人いる。

『経済学・哲学草稿』を書いた25歳のマルクスと

野口晴哉さんだ。

野口晴哉さんは全生という言葉を

生の理想として掲げた。

わたしはその志を受け継ぐ。

近代社会が封殺している

原生力と共振力と創造力を

すべて発揮して全生力を持って生きうる人を

生み出すことに生涯をささげるつもりだ。

 

・原生力が開いてくると見る夢

意識が封殺している原生力に対するブロック力を弱め、

原生力が膨らんでくると、

意識と下意識とからだのあいだの

根源的な布置が変わる。

長い間保たれてきたバランスが崩れるのだ。

意識はこれを恐怖と感じるだろう。

からだの闇の布置の変化は

さまざまな奇妙な体感をもたらす。

異体感や離人夢、

なにものかに動かされる体感、

奇妙なものがからだの中でうごめく体感、

からだが二重にぶれたりきしんだりする体験など、

概して奇妙で不快な体感に襲われる。

今月の生徒の間にもこの現象が起こりつつある。

これらは、からだの根源的布置が変わっていっている

ことの証拠だから恐れることはない。

それをとことん味わい、

なにを告げようとしているのか

からだの闇からのメッセージに

耳を澄ませることだ。