May 2008
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サブボディ共振塾ジャーナル
2008年5月
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2008年5月29日

石に聴く

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ダラムサラの近くにわたしの好きなチャトル巨石公園がある。
何百万年も前にヒマラヤの氷河湖が決壊したときに大洪水と共に流れ落ちた岩たちだと思える。
本格的な雨季に入る前に石に聴く一日を持った。
岩石や巨木は閑けさの最大の教師だ。
岩に近づき岩と同じくらい静かになれるまで鎮まる。
岩は岩独特の長い時間を持っている。
聴いてみればいい。
君は前はどこにいたの?
ヒマラヤの天辺さ。
5000万年前にインド亜大陸がユーラシア大陸とぶつかってヒマラヤができたんだ。知らない間に押し上げられたのさ。
その前は?
インド洋の海の底さ。
私のことを知っている?
よく知っているよ。そのころきみらはまだ小さかった。何も考えず、何もしゃべらず、ただふらふら浮かんでいたね。
そうだ、岩たちはみなわたし達命が単細胞生命だったころからの隣人なのだ。
地球は45億年の歴史を持つがわたし達生命も40億年。地球史の9割を共有している。
40億年以後は岩は岩、生命は生命としてごく間近に存在しながら、それぞれの歴史をたどってきた。
岩はわたしたちが共有する長い時間について思い出す最良の相手なのだ。
5月の最後の週になって、自分のサブボディたちを統合する場所としてチャトル巨石公園を選んだ。
石と同じくらい鎮まり、石たちにサブボディの最初の聴衆になってもらった。
付近の子供や大人が続々と集まってきて石と一緒に見つめた。
石も笑い、子供たちも笑った。
楽しい一日だった。
●●● 2008年5月28日

からだから押し出されて出てくる必然の動き

生命は発明することによって生き延びる。
どんなに激しい圧迫を外部から受けたとしても、それに堪え、
ゆがみを持ちこたえ、そして、我慢できなくなった限界地点で
受けたよじれをよじり返す創発によって新しい生き方を発明する。
それが生命がこの40億年間生き延びてきた秘密だ。

わたしたちの日常意識はそんな創発の力を忘れ去っているが
からだの闇にはきちんと蓄えられている。
サブボディメソッドの車の両輪の一方であるリゾナンス療法は、
そんな命が持つ原生力に気づき自己治癒力を回復することにそっと手助けする技法である。
命がこうむるよじれは物理的なものにとどまらない。
身体的なものとも心的なものとも付かない境界領域の不可視のよじれに包まれている。
サブボディの創造こそ、それら不可視のよじれに対する最大のよじり返しなのだ。
サブボディが自己表現などではなく命のやむにやまれぬ発明であるというのはそういう意味である。
創発こそ命が40億年も生き続けてきたの最大の秘密なのだ。
本当の創造は自己表現などというちっぽけな自己レベルのものではない。
全生命にとって共有財産となる発明である。

3月から続けてきた生徒達のからだの闇の旅も、来週で3ヶ月目にはいる。
当初3ヶ月の予定だったアンナとベレンはすでに夏学期も続けることに変更した。
3ヶ月では短すぎることにからだが気づいたのだ。
ビザとシシーは予定があり、来週で終わる。
5人の生徒が3ヶ月目の修了サブボディを創造する過程に入った。
この地域のどこか好きな場所を選んで、一日かけてサブボディソロとコーボディパートを創造する。
これまでにからだから掘り出した幾人ものサブボディたちをどう統合するか。

それにはたった一つの欠かしてはならない条件がある。
サブボディの踊りは、すべてからだの闇から押し出されて出てきた必然の動きである。
それらはまた、たったひとつの<序破急>によってつなぎとめられ、
一筋の必然の形に結晶しなければならない。
なぜ、踊るのか? 自分にとって踊りとはなにかがそこで問われる。
昨日の練習後のミーティングで、生徒からなぜ踊るのかをめぐって自問しているという声があった。
それに応えて今日わたしは、なぜ踊るのかという必然に出会える探体方法を用意した。

これは私自身が『伝染熱』という踊りを創造する過程で見つけた方法だが、
今こそ生徒に伝えるタイミングだと感じた。

まず、ゆっくりヒューマンウオークを続けながら、自分のからだをじっくり観察し、無意識の癖を見つける。
知らず知らず、小さな癖がからだのあちこちに棲みついている。
それらの癖を増幅していくと何らかのゆがみの形になる。
それが癖の背後にある生命がこうむった何らかの傾性だ。
命がもし、その癖あるいは傾性から逃れたいと感じていいたら、それを動きにしてみる。
そのようにからだの各部から始め、行動や思考や欲望の癖や習慣を点検していく。
随分多くのものに縛られ囚われていることが分かる。
上位自我との関係や、欲望の形、無意識のくぐもり、……
それらの一つ一つから自分を解き放っていく動きを見つける。
十個の囚われを見つけたら、その囚われから逃れ出る十個の動きと合わせて
二十個のサブボディが見つかる。
それらがひとつながりの流れになる<序破急>を見つける。
どうしてもこうでしかないというたったひとつの<序破急>が見つかったら、
それこそが<序破急成就>である。
それをフィックスしてからだに染み込むまで練習する。
機会があるたび何度も何度も踊る。

それを続ければ終生の盟友となるサブボディが誕生し、育っていく。
今週から来週へのわたしの仕事はそのサブボディの誕生をできるだけスムーズに産婆することにある。
もっとも緊張する1週間を迎える。



2008年5月26日

ビデオにも写真にも写らないもの


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衰弱体はビデオにも写真にも写らない。
三次元で見せる強い動きや形が本質のダンスは写真やビデオ に写る。
それさえ見せればいいからだ。
だが、衰弱体の本質は生命のもっとも微細な震えにある。
それはフィジカルな震えではない。
生命があらゆるものと共振していることそのものだ。
カメラや生命共振を忘れた日常体はそれら微細な生命共振などには感知しない。
生命のクオリア共振はひもレベルで起こっているから、
そのもっとも微細なものは電気や光などの粗大な信号には捉えられない。
意識にも感知できない。
意識を消した透明状態の命にだけ感知できる。
そういうものがあることを信じられない人はサブボディ舞踏を見る必要はない。
楽しいダンスや演劇はいくらでもこの世にあふれている。
そんなものをそぎ落としたときにだけ、
生命とはなにか、死とはなにかに触れることができる。
生命は物質でも観念でもない。
それは生死の間で震えている極かすかな共振なのだ。

写らないことを承知した上でビデオをアップロードした。
フィジカルなものだけを見る目には、不器用に震える肉体しか見えない。
衰弱体の練習に入ってまだ3ヶ月だ。
2ヶ月や1ヶ月の生徒も含んでいる。
彼らがこれから一年の間に技術の未熟をどう克服し、どう変わっていくか。
人間はどこまで変われるのか。
それらの未知の実験が賭けられている。


2008年5月24日

微弱共振劇場

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衰弱体の群れが即興で動くとどういうことになるか。

先週末のサブボディコーボディ劇場では、
衰弱体の微弱共振劇場とでも言うべきものが出現した。
衰弱体たちがその間に起こる極微細な共振によって動かされる。
それはこれまでに日本でも世界のどこでも見たことのないものだった。
衰弱体が群れで出現したことも初めてならば、
それらが微細な共振で動きはじめたのもはじめてのことだ。
人の群れが自我や自己意識で動くのではなく、
生命の感じる微細な共振によって動かされるのを眼にすることは
わたしにとっても生まれてはじめてのことだった。
何がどう違うのかうまく言えないが、
ただ、予想もしない展開を眼にして、
ぞくっとさせられる瞬間があった。
群れといっても、強い自我が集団の熱狂に囚われるのではない。
それは人間にとって時代遅れのナショナルな元型に囚われた現象だ。
人間が自我や既成の元型への囚われから自由になり、
なお生命の共振を感じて動けばどうなるか、
わたしたちが追求しているのはそういう前代未聞の実験だ。
それが少しずつ少しずつ実を結びつつある。

それはその現場を目の当たりにした人にしかわからない。
写真にもビデオにも写らない。
言葉でもおそらく伝達不可能だ。

明くる日の今日、昨日の観客の一人が尋ねてきて
「昨日は思いがけなく宝石に出会ったような感動を受けた。
この学校に参加したいのですが」と、申し込みを受けた。
残念ながら今年はもう定員いっぱいだというと、
来年の半年コースへの申し込みをして帰っていった。
インド各地で子供のための劇場活動をしているというカナダの人だった。
昨日ここで起こったことへのビビッドな反応が帰ってきた。
極少数かもしれないが極微の生命共振は分かる人には伝わるのだ。


2008年5月20日

秘密関節から変成する


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人間の日常体が忘れ去ったからだはあまりに多い。
尾は使われなくなって退化して久しいが、いまだに尾の神経は健在だ。
想像上の尾をイメージするだけで、動きが随分助けられる。
胸鎖関節、仙腸関節などもそのひとつだ。
今日は、これらの関節をゆっくり三次元方向に移動しながら
各時点でのクオリアをじっくり味わった。



胸鎖関節
両鎖骨を少し前に動かす。ほんの少し胸がしぼまる。
さらに前に動かす。胸が閉じてきて息苦しくなる。
骨格の布置が変わり、内向的な自分が出てくる。
さらに胸を閉じる。石のように外界に対して閉じた自分に出会える。
両鎖骨を後ろに動かす。外向的な自分がでてくる。

両鎖骨を上に動かす。失敗をしたときに肩をすくめる自分を思い出す。
もっとあげると、首がなくなる。亀のように首をすくめた自分がいる。
両鎖骨を下に下げる。首が長くなる。鳥や馬のように首を動かす。

両鎖骨を外に広げる。胸鎖関節が広がって鳥のような自由な胸になる。
両鎖骨を内に狭める。胸鎖関節が固定される。
さらに閉じると、胸がなかった蛇や魚の時代の骨格に近づく。
背骨だけで魚のように動く。



仙腸関節
両骨盤を前に動かす。骨盤が閉じ、胸鎖も閉じる。骨格の布置が変わる。
アルマジロのように用心深い自分に変成する。
両骨盤を後ろに動かす。胸鎖も拡がり、外交的な人格や尊大な自分が出てくる。

両骨盤の上部を近づける。膝が萎まり、X脚になる。
尻が後ろに突き出、胸鎖もしぼまる。腕を限界までねじる。
奇妙な布置の異貌の自己に出会える。
両骨盤の下部を近づける。骨盤上部が拡がり、妊娠中の母体の体感を味わえる。
胎児を腹に大事に抱えて歩いてみる。母とはなにかが少し分かる。

両骨盤を仙骨から離す。骨盤間の距離が最大になったとき、分娩中の母体になる。
誰もが一度は通ってきた胎道を思い出す。
両骨盤を仙骨に近づける。骨盤が固定される。
さらに近づけると、骨盤のない蛇や魚のからだになる。
背骨だけで蛇や魚のように泳いで見る。




・同様に、手足の第四関節を三次元方向にゆっくり動かす。
胸鎖や仙腸などのからだの中心部からのセンターリゾームの動きから
指先、つま先から動くエッジリゾームの動きを切り替える。
脚底から波打って動く植物的なボトムリゾームと、
頭から動く獣のようなトップリゾームを切り替える。

・顎の関節を三次元に移動し、眼を斜め方向に動かす。
程度に応じて隠れていた異貌の人格に次々と出会える。
ひょうきんな自分、アイデアフルな自分、こすからしい自分、などなど。
見知らぬ自分に出会ったら、じょじょに友達になっていく。
時間がかかる異貌の自己もいれば、すぐサブボディの一員になる副人格もいる。

・自己探体の後、自分の見つけた異貌体(ヒドン・ボディ)を一人が動き、
他の全員が共振して動いてシェアしあう。
それぞれの異貌の自己になりこみあうことは新鮮な体験になる。

・その後2対3をはじめとするグループ即興で、それぞれの異貌体になり込み合う。




2008年5月16日

衰弱体の未知の可能性

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今年は先月から衰弱体への変成を続けている。これは随分時間のかかるプロセスなのでじっくり進めている。
だが、その過程で、これまで知る由もなかった新たな可能性が仄見えてきた。
衰弱体のようなか弱いからだになってはじめて、命と命のごく微細な共振に反応する可能性がうまれてきたことだ。
これまでのからだは自我や自己に侵されて、強すぎたことが分かった。
自我や自己が強すぎると本当に面白いことは起こらない。
生徒全員がか弱い存在に成りこんではじめて、その間でこれまでにない共振が起こり始めた。わたしさえはじめて眼にするものだ。
まだその可能性を察知したに過ぎないが、この先にとんでもない世界が広がりそうな気配を感じさせる。
衰弱坑道は、とんでもない宝庫の鉱脈だったのだ。

今月は新しい生徒二人を加えて、灰柱と寸法の歩行の練習を続けてきた。
その応用で、サブボディの間が蜘蛛の糸でつながったコーボディ劇場を試みた。
なかなか面白い。
この先さらに<気化体>に成りこむ道を切り開くという新しい課題も見えてきた。



●●● 2008年5月11日

生まれかけの衰弱サブボディたち

衰弱体は写真にもビデオにも映らない。
まして今生まれかけの衰弱体たちだ。
映らないを承知でネットにアップしている。
映っていないものを感じてもらうしかない。
命の極微細な共振はカメラでは捉えられないほど微細なのだ。
今年はこの衰弱体と衰弱体の間で起こるかすかな共振を育てていく。
いま生まれかけている衰弱体の群れがそれを要請している。
わたしはただ産婆の耳を長く立て聴き入るばかりだ。


2008年5月9日

衰弱サブボディ-コーボディ劇場

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衰弱体によるサブボディ-コーボディ劇場が始まった。
生徒のサブボディソロに続いて、全員が衰弱体の歩行で集まってくる。
それぞれ異なる次元をさまよっている。
そで振り合いそうになって、触れようとしても相手は異次元に属していて触れることができない。
関わることのできない存在に関わろうとするが関われない。
だが、ふと気がつけば同じ次元に並んでさまよっている。
あるいはふと前方に自分が歩いているのに出会うこともある。
あるいは前世の父母がよろばっている。
すでに自我や自己はすっかり失っている。
ただかすかな共振だけがゆらいでいる。
ガラスの目玉、
足裏のカミソリ、
頭上の水盤、
蜘蛛の糸に吊られた関節、からだの中の空洞、
奥歯の森、
脚のしげみ、
異界の声と響きあう体腔、
すがりつく妄念、
あきらめる妄執、
すべてはこの世とあの世の間で、行き場を無くしてさまよっている。
ふと気がつけば前世の母の後を付いている。
行きずりの人と並んで歩いている。
自己も他者もない。
ただほのかに響き合っている。
もっとも衰弱し、自我も自己もなくしたからだになってはじめて、
命の共振力を透明に見せることができる。
それ以外のからだでは、自我や自己が強すぎるのだ。

衰弱体の特徴である小刻みにぶれ続けるからだは決して写真に写ることがない。
その場で見る人にしか伝わらない舞踏になってきた。
これが舞踏の運命だ。


●●● 2008年5月7日

自分の踊りが生まれる瞬間

いつ踊りが生まれるか。
自分では分かっていても、長い間ことばでそれを言うことはできなかった。
昨日の夢の中で、それが見つかった。
いろいろな動きの練習をしている中で、
からだの闇でなにかが、ぐぐっと動く瞬間がある。
あえて言葉でいえば、内クオリアの布置が、フィジカルな動きに共振して奮えるのだ。
これがいえるようになったのは、布置(コンステレーション)という言葉が生徒との間で共有できてきたからだ。
共有できない言葉は何の役にも立たない。
おそらくサイトで読むだけの人には伝わらないことかもしれない。
それらの人にはヒマラヤに来てくださいというしかない。
布置が動く、という言い方でしか伝えられないものがある。
踊りが生まれる瞬間はフィジカルな動きと命の震えがひとつになるときだ。
<魂魄合晶>という。
魂は命のメンタルなクオリアであり、魄は命の肉体的なクオリアだ。
それがひとつに結晶するとき、踊りになる。
その瞬間、命が弾け、膨らむような感興が伴う。
それが命の創発のクオリアだ。
魂魄がひとつにならないものは、ただの体操か、ただの観念だ。
そんなものは誰も見たくないが、先進国の劇場で演じられているのはそんなものがほとんどだ。
本当の踊りに出会えることはごくごくまれになった。
わたしが若い頃から大好きだった劇場に足を運ばなくなったのも、そのせいだ。
だが、ここでは毎日それが生まれている。
本当の踊りが生まれる瞬間に立ち会うことほど感動的なものはない。
生徒の全員が毎日それを共有している。
これほど人を生長させる体験もない。
昨日に続き、寸法の歩行の練習を続けているが、その中で、
生徒が自分の内クオリアの布置が動く、その瞬間をつかめるようになって来た。
寸法の歩行から、ずんずん生徒独自の舞踏がにじみ出てくる。
振付けられた舞踏の動きではなく、
一人ひとりが自分の舞踏を創発して見出していく道筋がクリアになって来た。
これは土方にもできなかったことだ。


●●● 2008年5月5日

寸法の歩行

今週から、舞踏の歩行練習に入った。
先週まで床や地面を這いずり、よろばい続けながら、
サブボディというサブボディの可能性を呼び出しつづけた。
もうここらで生徒のからだが、
これまでにない静謐さを求めだしていることを感じた。
舞踏の歩行へ入る絶好のチャンスだ。

舞踏における歩行は、さまざまにあるが、
その本質は空間を物理的に移動することではない。
歩行とは異界への道行きなのだ。

悲しい物理的な規矩に閉じ込められた日常体から逃れでて、
もうひとつの非空非時の異界との間でゆらぐからだに変容することだ。
初日から灰柱の歩行は毎日続けてきた。
灰柱の歩行にはすでにすべてのゆらぎの要素が含まれている。
だが、今週からはその要素を厳密に規定して、歩行の無数のバリエーションを
磨き豊富化していくことをはじめる。

まず、舞踏のもっとも基礎的な歩行、「寸法の歩行」から始めることにした。
幸い、土方の死より3年後に芦川羊子が実施したワークショップにおける
「寸法の歩行」の条件が、三上賀代に記録されて残っている。
土方自身が行った練習に限りなく近いものだ。

「寸法の歩行」

イ 寸法になって歩行する
ロ 天界と地界の間を歩くのではなく移行する
ハ ガラスの目玉 額に一つ目をつける
ニ 見る速度より 映る速度の方が迅い
ホ 足裏にカミソリの刃
へ 頭上に水盤
ト 蜘蛛の糸で関節が吊られている
チ 歩きたいという願いが先行して 形が後から追いすがる
リ 歩みの痕跡が前方にも後方にも吊り下がっている
ハ ガラスの目玉 額に一つ目をつける
ホ 足裏にカミソリの刃
へ 頭上に水盤
ヌ 奥歯の森 からだの空洞に糸
ル 既に眼は見ることを止め 足は歩むことを止めるだろう
  そこに在ることが歩む眼 歩む足となるだろう
オ 歩みが途切れ途切れの不連続を要請し 空間の拡がりを促す
イ 寸法になって歩行する

これは実際にやってみると、実によくできた舞踏の歩行のメソッドだ。
生徒達も何時間もこれに取り組んで飽きない。
そういうものを求めるからだにいつのまにか変成していたのだ。
何ヶ月これを続けると舞踏のからだに変成するか。
あるいは何年もの歳月が必要なのか。
いつその人独自の発明がはじまるか。
もっとも適当な<守破離>のタイミングとはなにか。
とうとうそれら、これまで未知だった事柄に関する実験がはじまった。
無限の時間がないとできない実験だ。
舞踏を死ぬまで続けようという人が何人も出てこないとできない。
この実験がわたしと土方の間の<守破離>をめぐる闘いであるように
生徒にとってサブボディメソッドとの<守破離>が問われる、
真に創造的な実験だ。




2008年5月2日

もっともか弱い命として踊る

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踊るときは、この世でもっともか弱い命に成りこむことが重要だ。
それではじめて、もっとも微細な命とも共振できる踊りになる。
強さによって何一つまたぎこしてはならない。
わたしはかつてその過ちをしてきた。
強すぎる自意識を殺せない踊りは、威嚇にしかならない。
自我を殺してはじめて踊りになる。
そういうことが分かってきたのは60歳になってからだ。
本当のことが見えてくるまでに長い時間がかかる。
これまでは不可能だった踊りの本質に関することを生徒たちに伝えていくことができ始めた。
あまりに微細なので、踊る際のほんの少しの心の持ち方の違いのようなものとしてしか伝える方法がない。これらは当然言葉だけのコミュニケーションであるサイトでは伝えることができない。読者には申し訳ないが、仕方がないことだ。
言葉だけで済むなら踊る必要はないのだから。
命と命の間のリアルタイムな共振によってしか伝わらない微細で大事なものがある。

●●● 2008年5月1日

もっともか弱いクオリアになる

この世でもっともか弱いクオリアとはなにか。
それは40億年前に生まれたばかりの原初生命だ。
生まれたものの、彼らはまだまったく動けなかったに違いない。
かろうじて細胞の周りの分子をレセプターから摂取して、
生命を持続することを始めたばかりだった。
生命を持続することだけでも晴天の霹靂だったのだ。
その生まれたての生命になりこむ。
まったく動けないからだを味わう。
外界からの波や振動を受けてからだが動かされる。
その動かされるクオリアを味わい続ける。
やがて、その外界からの刺激に呼応して、
体内の原形質をうまく流動させるとほんの少し動けることに気づく。
アメーバたちの動きはこうして始まった。
すこしずつ外界の波を利用して泳ぎを覚えていった。
だが、細胞の力と外界の力とでは雲泥の差がある。
原初の命はこの雲泥の差異に堪え、
ひたすら極微小な力しかない己の運命に堪え続けたのだ。
なぜ、わたしたちは、瀕死者の動けないクオリアや、
ごくわずかしか動けないからだを動かそうとする
身障者のクオリアに深く動かされるのか。
それは、それらのクオリアが生命にとって
もっとも親しいクオリアであり続けたからに他ならない。
今の人間は忘れ去ってしまっているが、
生命は発生以来30億年間は単細胞のままだったのだ。
ほとんど動けないか、動かされるだけの存在だった。
生命の基層にはこのもっともか弱いクオリア、
ほとんどただ生きているだけのクオリアが存在する。
植物人間になっても、この生命のクオリアだけは持ち続ける。
それが命だ。
このもっともか弱いクオリアから踊るとき、もっとも不思議な奇跡が起こる。
もっとも弱いクオリアだけがあらゆるものと共振できるという奇跡が。
強いクオリアは弱いクオリアと共振できない。覆い潰してしまうだけだ。
ただ震えて生きているだけのクオリアになってはじめて
この世のもっともか弱い命とさえも共振できる。
もっとも弱いクオリアが、もっとも強い共振力をもつ。
この逆説を生きるのがサブボディ舞踏だ。

だが、それを生きることができるまでには、
数多くの苦痛や悲哀のエッジをまたぎこさねばならない。
わたし達の自我は、弱さになることを嫌う。
それらを自分の内から切って捨てたいと思っている。
自我は弱さをもっとも嫌うのだ。
自我を鎮め、自我の束縛から解き放たれるという
人生最後の課題が立ち向かわねばならないのはこれからだ。
それは長い長い闘いになる。