April 2008
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サブボディ共振塾ジャーナル
2008年4月
●●● 2008年4月30日

何も書けないほど

ことばで書いてしまうと壊れてしまいそうなほど、微妙なすばらしいことが起こる。
こんなときは何も書くことができない。
書くという世界を超えてしまうことなのだ。

●●● 2008年4月29日

野晒し紀行

死体となって三界を転がる。
野晒しとは、野に晒されて白骨化したされこうべのことである。
されこうべとなって、虫や草木に転がされるに任せる。

1.まず、からだから日常体の緊張を抜く

静かに横たわる。からだにどんな日常体の癖や緊張が残っているか、じっくり観察する。
調体の一番を通じて、少しずつ緊張を抜いていく。
腰の後ろ、首の後ろから日常体の痕跡である緊張が抜け落ちるまで続ける。

2.からだからあらゆるクオリアを脱いでいく

緊張が解けたら、今度はからだの温もりを抜く。ただ温もりがからだから抜けていくと思うだけでいい。
ほんの少しだけからだが冷たく感じられるようになる。
記憶が抜け落ちる。思考や判断が止まる。
自分が誰であるかということも抜け落ちる。
最後に命が抜け落ちていくのを味わう。

3.野晒しの死体となる

死後の冷却を味わう。
そして死後硬直がやってくる。
硬直が抜け落ちると、腐敗が始まっていく。
人間は60兆の細胞からなるが、実はそれに倍する以上の細菌を体内・体表に持っている。
都合200兆にも及ぶ細胞と細菌の共振体なのだ。
こういうイメージは高貴な近代の人間イメージにそぐわないので、覆われている。
大事なことほど覆い隠されているのだ。
その12兆以上の細菌たちが死した細胞を腐乱させ餌にし始める。
人の死後は細菌たちの大饗宴なのだ。
腐敗の中で虫が湧き、草木の種が発芽し、胞子が飛んできて苔や羊歯が生息し始める。
些細な風にさえ動かされる。

4.野晒し紀行

からだを食む虫、成育する草木、風のそよぎなどによって、ゆっくりゆっくりと動かされる。
自分ではなく、死体に巣食う他の生命体によって微細に動かされる。
その超微速動のよろばいをひたすら続け味わう。
関節が虫に蝕まれるので動く。皮膚を破って草木が発芽し、からだが押し上げられる。
蔦が這う。腐って崩れ落ちる。脚や腕を無くしつつ転がっていく。

5.サブボディを思い出す

十分死体として転がったと思えたら、サブボディを思い出す。
衰弱体はもっとも強い共振力を持つ。サブボディも衰弱することであらゆる死体との間に
密接な共振が生じる。
これまでに見つけたサブボディを衰弱体で動いてみる。
自分の命がこだわりを感じる場所を見つけて、
サブボディからサブボディへどんどんつなげていく。



2007年4月27日

岩場の松の実先生

●●●

いつもいく近場の森は、松の国有林だ。
300年以上の大樹もある。
先週の金曜日は、松ぼっくりから取り出した一片の松の種になりこんだ。
風に乗ってどんなところに飛ばされるか分からない。
たまたまうまく岩の割れ目に着地した松の実だけが生き延びる。
だが、どんな形で割れ目に定着する分からない。
頭が下か、足が下かも偶然だ。
その偶然がその人の人生最初のコンステレーション(布置)を決める。
両側から生命を守りかつ締め付ける岩は両親のようなものだ。
人間もどんな両親の元に生れ落ちるか知れたものではない。
ただの偶然なのに、ひとはこの偶然受け取った最初のコンステレーションに
深く規定され、それに囚われつつ生涯を送る。
だから、できるだけ早くそんなものは初期化してまっさらにしてしまえばいいに決まっている。
だが、それが簡単にはいかないことが多い。
森へ行って、自分の内部の布置にもっともふさわしい地形を見つけて命の震えに耳を澄ました。
自分と世界の間のコンステレーションの変化を味わいながら動いてみること。
それが、4月第2週目の課題だった。
生徒は岩場や洞穴や木立を見つけて布置を変化させていった。
何回も何回も自分を規定してきたコンステレーションを踊ること。
そんな偶然のちっぽけなものに囚われている自分が
ばかばかしくなるまで踊り続けること。
それだけが、自分を閉じこめてきた初期条件を無化する方法だ。

コンステレーションはユングの用語で、布置や配置と訳される。
内的なクオリアのあり方と、外界からのクオリアはつねに共振しているので、
内的なクオリア流の変化に応じて、外界からたち現れる出会いや元型がどんなものになるかが決まる。
共時性といわれるものも、内なる布置と外界とのかかわりの共振によってもたらされる。
共振は時に偶然の一致に見える。共振だからどんな一致に見えても何の不思議もない。
共振に気がつかない人だけが、そこに神秘や超能力を受け取ったり勘違いしがちだが、
そういう既成の解釈に囚われず、ただ、命の共振に耳を澄ませばいいだけなのだ。

今期の生徒達は、内クオリアと、外クオリアの布置の共振を
直にからだで感じ取っているので、出てくる動きがとてもリアルだ。
フェイクの動きが少ない。フェイクが少なくなってきてはじめて、
それをなくすよういざなうことができる。
最初この学校に入ったばかりの生徒は、ダンスや舞踏の既成概念に囚われた
フェイクだらけの動きを見せるから、その段階では、言っても無駄なのだ。
自分で自分の動きがフェイクかそうでないかが分かるまでに何ヶ月もかかる。
今期の生徒には、そろそろそれを味わい分けるよう
いざなう時期が近づいてきたようだ。
実際、自分をもっとも苦しめてきたものに立ち向かうとき人は、
意識の振りなどをさしはさむ余地などないところで踊ることになる。
自分の命にいたるためには、そういう必然の踊り、
からだの闇から押し出されて出てくるのっぴきならない舞踏だけを
続けなければならないのだ。




2008年4月26日

他の人のサブボディ世界に入る

●●●

生徒は各自のサブボディ世界の絵を描いた。
その絵をたっぷり味わい合ってから、八つのチャンネルを通じて、
他の生徒の絵に入っていく授業をした。
わたしのもっとも好きな授業のひとつだ。
他の生徒の絵に、体感で共振できる要素を見つけ、それをからだで表してみる。
つぎにその絵の中に<序破急>を見つけ、動きや音像で入り込む。
情動や、関係チャンネルから入ることを経て、
ついには世界像=自己像チャンネルを通じて入り込む。
同じサブボディはどのチャンネルからでも現れ出ることができるから、
どのチャンネルを通じても他の生徒のサブボディ世界に深く入り込み内側から味わう
ことができる。
他人の世界に入り込むとき、わたしたちは自己像から自由になり、驚くほど大胆にな
れる。この日もとんでもなく面白い動きが出てきてみんなで大笑いした。
他人に自在に入り込まれて、自分のそれまでの世界像=自己像がいかに自分で自分を
束縛していたかを知ることができる。
この日ほど生徒が自由になった日はなかった。
そう、自分から解き放たれたのだ。

2008年4月19日

衰弱体になる時期がきた

●●●

4月第1週のサブボディコーボディ劇場をお届けする。
今週は、3月からの生徒がいっそう微弱なクオリアに耳を澄まし、
さまざまな異界のサブボディに変成し始めた。
すると、日常体とは異なる現象が起こり始めた。
サブボディには、乳幼児体験から出てくるものや、
胎内にいた頃のクオリアに共振して出てくるものがある。
それらの特徴は、成人よりも幾千倍も弱く傷つきやすい。
針が落ちるほんの小さな物音さえ、大響音になって聴こえおびえる。
このサブボディ劇場ではそれが起こった。
もっと微細な原初生命になりこめば、さらに繊細かつ微弱な存在になる。
生徒のなりこむサブボディの違いや、プロセスの進行度の違いにより、
粗大なものから受ける傷つきやすさが変わるのだ。
その差は日常体では想像つかないほど大きい。
何兆倍も繊細になるのだ。
それはサブボディになりこまない限り絶対分からない世界だ。
粗大な日常体はそういう微細な世界の存在さえ知らない。
サブボディになっても、荒々しいサブボディには
微弱なサブボディを傷つけていることに気づけない。
多くの人がそれに気づかないまま一生を終える。
命と命が傷つけあい殺しあう社会に住んでいても
なんとも思わないのは、そういう粗大な存在として生きているからだ。

この微細に震える極小の命の世界に入ることだけが
この世のもっともか弱い存在の傷みにさえ共振できる道だ。
そういう繊細さで生きる人が増えることだけがこの世を変えていく。

来週は生徒と共に、もっとも微弱なからだに変成する坑道を掘ろう。
こんなに早くそのときが来るとは思いもよらなかった。
秋学期からぐらいからかなあと、のんきに考えていた。
生徒の変成深度のほうがはるかに深まっていたのだ。


●●● 2008年4月17日

もっとも微細なサブシグナルに耳を澄ます

昨日の授業で、二ヶ月目に入った生徒達が、微細なクオリアに耳を澄ませる
準備ができていることが分かったので、今日は微細さの限りの極小のクオリアを捉える授業を行った。

もともとクオリアは、言語意識や意識に捉えられる感覚や感情に比べて
何百万倍も微細なものだ。
粗大な日常意識を止めてはじめて、感知できるようになる。
からだの闇からの「サブシグナル」と呼ぶのはそのためだ。

ふとかすめる気配、
なにかがさっと過ぎる感じ、
思い出せるか思い出せないかの記憶、
名づけようのないかすかな体感、
なにとは言えないがなにかの匂いの感じ、
一瞬現れては瞬間的に消えてしまう感覚、
――などなどだ。

下意識はいつもこれらと共にある。
だが、意識優先の意識や、粗雑な情報洪水におぼれてい日本や欧米社会では、
クオリアはすべて、見過ごされ大股でまたぎこされる。
ヒマラヤに来て、5週間目に入った生徒達は、ようやくこれらをキャッチできる耳が
育ってきた。
授業だけではなく、日常生活で自分で意識を止める時間を持つようにしないと、
その耳は育たない。
その繊細な耳を微細覚と呼ぶ。

だが、クオリアの微細さには限りがない。
意識を鎮めれば鎮めるほど、より微細なクオリアに気づくことができる。

極小のクオリアに耳を澄ますには三つの方法がある。
それらを捉えたら、丁寧に味わい、その傾向に従い、ほんの少しだけ増幅しながらからだごとなりこんでいく。

1.もっともかすかな体感クオリアを聴く

注意したときだけ感じられる指先のかすかなかじかみ、
皮膚のふるえ、
血液の動き、
血圧のかすかな変動、
理由のない瞬間的な悪寒、
ほんの少し肩が緩む
……
潜在的な皮膚はいつも世界と共に共振している。
微細なレベルでは、体感チャンネルのクオリアと、
世界=自己チャンネルのクオリアの境界は消失し未分化なものになる。
感知できる体感の中でもっともかすかな弱弱しいものに耳を傾ける。

2.かすかなものに動かされるクオリア

感知できる最小限の外界からの刺激を創造し味わう。

一滴の雨粒をうけて肌に広がるかすかなさざなみ
アリがからだを這い上がる
ホコリがたかる
細菌がからだの中に繁殖する
空気の中の微小分子の刺激を感じる
一陣のそよ風に動かされる
地球の裏で起こった地震のかすかな余波を感知する

3.微小なものになりこむ

同じ一滴の雨粒でも、人間とバクテリアでは受ける衝撃が天地ほども異なる。
もっともか弱い微小な存在だけに感知できるものを感じ取れるからだになるには、
自ら微小な存在になりこむことがもっともよい。
それらになりこんでそれらの微小な世界に入り込む

ちいさなホコリそのものになる――風に飛ばされる
水滴になり流れ落ちる
プランクトンになり漂い続ける
白血球アメーバになる――癌細胞を喰う
受精卵になって胎道をさかのぼる
原初生命になる
分子になる
ストリングになる

それらの微細なクオリアになりこみ、さらに微細なものへ旅を続ける。
無生物から生命が生まれた瞬間の原初生命の、生と死の間のゆらぎになり味わう。
生とはなにか、死とはなにかが、
それらの体験を繰り返すことで、すこしずつからだに染み込んでくる。

今日の生徒の踊りは、これまで5週間に現れたサブボディの中でも
もっとも透明なものだった。
終わった後生徒の顔が輝いていた。
なにかとても大事なものに触れたときにだけ見せる命の輝きだった。



●●● 2008年4月16日

サブボディはかすかな命なのだ

これまで、わたしはサブボディを大きく誤解していたのではないか?
という激しい自問に直面した。
これまで二日間、とくべつゆっくり進めてきた授業の中で、
ごくごく繊細なサブボディが生まれてきていた。
初日は、寝た姿勢から、長い時間をかけて座る姿勢に転換するまでのクリアを聴く。
からだの一箇所でたったひとつのクオリアを捉えてそれについていく。という二つの練習に絞った。
二日目は、その動きを続けながら、そこにからだの別の部位で、べつのクオリアのサブシグナルを捉えて、一つ目の動きに重層化して重ねていく。
ここまではよかった。何が起こっているのかが透明に見えかけていた。
ところが今日、それにさらに三つ目のクオリアを重層させていく段になって、
なにかが不透明になった。
いや不透明にさせたのはわたしだ。
午前中の、体腔をさまざまに変形させて動きを見つける練習のあと、
それをシェアするサブボディ・コーボディシアターで、ふと思いついて、
でてくる動きに、一人目の動きはソロ、二人目はデュエット、三人目はトリオとだんだんそれに共振して動く人の数を増やしていった。共振する距離を、離れての共振、近寄っての共振、触れ合っての共振と、さまざまな距離で行った。最後の6人や、7人の共振では、とても面白い光景が展開した。
それに味を占めて、夕方のサブボディ・コーボディシアターでも、同じように共振するコーボディの数を増やしながら、今度は生徒に好きな距離で共振してみるというスコアでやってみた。
すると、最後の今日の印象を交換し合う場で、多くのサブボディから、今日はコーボディ練習が濃すぎて、わずらわしかったという声が出た。
周りの人に気がとられて、からだの繊細な声に耳を澄ますことができなくなり、まわりとの共振もできなかったのだ。
それを聴いて、わたしははっとした。
生徒はもうわたしが予想する以上の微細なサブボディに耳を澄ませようとしているのだと。
わたしは自分のサブボディが結構タフだったので、思い違いをしていた。
サブボディは、わたしがこれまで思っていた以上に繊細なものなのだ。
ちょっとざわめきに合っただけで、消えてしまうかよわいかよわいサブボディもあるのだと。
これまでも、わたしはサブボディを胎児のようにイメージし、
そのかすかな胎動に耳を澄ませる産婆になろうと心がけてきたが、
それでは足りないことに気づいた。
サブボディはもっとかすかな単細胞生命のようなかすかな命を持ったものなのだ。
それに聴く耳を持たねば、そういう繊細なサブボディの命を見殺しにしてしまうこと になる。
サブボディの多彩な成長と、コーボディになる練習の按配をほんの少しでも間違える
と、せっかく生徒が見つけかけたもっとも繊細なサブボディを殺してしまうことになる。
二ヶ月目に入った今期の生徒は、わたしの予想以上のところまで入っていっている。
こういう驚くべきことが起こったのははじめてだ。
サブボディというものに対する見方と態度を根本的に改めねばならないと気づいた。
産婆さんにとっての胎児より、
もっとかすかな細菌ほどの命の振るえにさえ耳を澄ませ共振する仕事、
それはいったいなんだろう?
わたしは、そして、これからサブボディの教師を目指そうとする人は
この世にはまだ存在したことのないものにならなければならないのかもしれない。

いや、それは思い上がりだ。
ミンデルがここ数年強調している「センシエント」な感覚をとぎすますということは、
このことを指していたのだ。
不可視の、ほとんど存在するかしないかの境目で震えている
かすかな息吹に耳を澄ますこと。
この耳を研ぎ澄ましていくしかない。


2008年4月15日

カツのアメリカ公演ビデオ

●●●
今月はじめにアメリカのミネソタで行われたカツのサブボディ舞踏公演ビデオが
2本、YouTubeにアップされた。
1本目は「Kagome, Kagome: Shiro」、白装束でカツお得意の少女体ではじまる。プロに撮影してもらったそうでよく撮れている。
2本目は「Kagome, Kagome: Kuro」、こちらは、黒装束で、男人格のカツが原生体や異貌体などに多彩に変幻して見せる。
前半と後半の間の落差の激しさに観客も驚いただろう。カツの踊りを見続けている人は、芸域の拡がりぶりにカツの精進の手ごたえを感じてくれただろう。
自全(自分の全体)を踊ろうとすれば、20人ぐらいの違った自分を総動員しなければならないが、去年の共振塾で発掘したサブボディが、カツ独自の十体として成長し、分化していっているプロセスがありありと見えて楽しい。サブボディ十体は公演ごとに、ぐんぐん育ちあがるものだ。どちらも見ごたえのある出来だ。今後も精進してこれらの十体が終生の盟友になるまで続けていってほしい。サブボディは自全の旅の終生の道案内なのだ。

ワークショップも、5名の定期参加者を得てはじまったそうだ。こちらも楽しみだ。


もう一本のビデオ「カゴメ、カゴメ:黒」を見る

カツのビデオをもっと見る

カツのワークショップ情報を見る

●●● 2008年4月14日

次元数増減法

一年コースへの参加者を含む新しい生徒二人を加えて4月コースがスタートした。
3月コースも、思い切ってゆっくりとスタートしたが、
今月はさらにいっそうスローダウンして、一日にひとつか二つの新しいことが
じっくりからだに染み込んでいくような授業に転換した。
3年前にこの学校をスタートしたときは1週間コースが主だったので、
たった5日間の間に多彩なサブボディが出てくるように
わたしの授業はあまりに多彩な内容を短期間に凝縮して詰め込まれていた。
生徒がそのすべてを消化することなど考えられもしないほどだった。
わたしとしてはその中から一つでも二つでもからだに染み込むものを
得てくれればいいと考えていたが、もとよりそれには無理があったのだ。
からだが変わっていくにはからだ独自のゆっくりした速度がある。
1週間コースが1ヶ月コースになり、
やっと今年から最短3ヶ月のコースに切り替えた。
こんなヒマラヤに長期滞在して舞踏を学ぼうという生徒が
集まるようになるまでに3年かかったことになる。

今日の午前中はいつもの調体の後、
ただ横たわった姿勢から座る姿勢に10分ほどかけて変わる
というだけのことに絞った。
そのゆっくりした姿勢変化の中でからだじゅうの細胞の共振のありようが
刻々と変わっていく、その微細な変化に耳を澄ました。

午後からは、からだの一部分で、ひとつの体感体感を感じつつ、もっとも微細な始まり
から最大限にまでそのクオリアを増幅するという練習をした。
頭が重くなる。肩が緩む。眼がうつろになる。腕が軽くなる。足がかじかむ。胴が膨ら
む、首が縮まる。鼻が閉じる。レモンを噛む。後ろから押されるのに抵抗する。手が金
属製の手に変成する。まつげで埃を飼育する。顔に狂気が満ちていく。……などなどだ

生徒の一人がその変化を1分間かけて行い。他の生徒はその変化に共振する。
それだけの授業だ。
20分間の探体の時間の後、それぞれがからだの一部からひとつのクオリアに沿って
1分かけて最小の変化かから最大限まで変成していくという動きを見せ合った。
驚くほどピュアな動きが次から次へと出てきた。
生徒の全員が<序破急>の<序>とはなにかをたった一日で会得した。

今日の練習が終わった後、一眠りしている間に、
わたしのサブボディは、今月の授業内容を見つけていた。
そうだ。長い間探そうとして見つからなかった<次元数増減法>の坑道の
坑口がやっと見つかったことに気づいたのだ。

明日からは今日の動きを続けながら、それに加え、
毎日ひとつずつのクオリアを重層させていけばいい。
毎日少しずつサブボディの振付の次元数を加えて重合していく。
今月の最後には、驚くほど重層的な振付のサブボディが完成するだろう。
それはまさしく命が常にスーパーレイティブな多次元重層的なクオリアと
共振しているさまを透明に見せるものになるだろう。
こんな簡単なことに気づくまでに長い時間がかかった。
あまりに多くの要素を詰め込んだわたしのこれまでの授業の
過剰なまでの多彩さがそれを見えなくさせていたのだ。
内視盲点というものの怖さを改めて思い知った。
自分では自分の眼の盲点を見ることができない。

だが、とうとうその闇も晴れた。

「動物になること。群れになること。
互いに異質な複数の項からなり、伝染によって連動する複数の多様体になること。
変則者になること。女性への生成変化。子供への生成変化。
動物や植物や好物への生成変化。
バクテリアやウイルスが起こす生成変化。
さらには分子や知覚しえぬものが起こす生成変化へ移行すること。
こうして群れや多様体は相互に陥入しあって不断の変化を続け、相互的な移行を繰り返
す。
多様体はその次元数によって規定されるのだ。
リゾームを創りたまえ。
だが、何によってリゾームを作ることができるのか、きみ達にはわからない。
だから、実験してみることだ。」(『ミル・プラトー』)

はじめてこれを読んでから長い年月がたった。
自分の名前をリゾームに変えてまで追い求め、ずっと実験を繰り返してきたさ。
そしてとうとうリゾームの作りかたが見えてきた。
ドゥルーズよ、ガタリよ。
あの世のきみ達に報告させていただく。
世界はここから変わっていく。
安らかに眠れ。

実際土方の舞踏の振付は、無数の次元数の重層的な重合からなる。
次元数を自在に増減する技法を見つければ、
土方だけにしかできなかった、その驚異的な振付の境位にたどり着ける。
誰もがその秘密の技法を身につけることができるのだ。
その練習法を見出すまでに十年かかった。
ミンデルのチャンネル理論はそれを手助けしてくれた。
複雑な命のクオリアをまず、チャンネルに分解する。
そしてそれを重合していく。
重合はたんなる足し算ではない。
次元数を増した多様体はツリーからリゾームに変成する。
それは、ひも共振の11次元の世界のように、四次元世界とはまったく異なる
スーパーレイティブな論理が支配する世界だ。
その世界へ降りていく坑道がついに開いたのだ。


カングラフォートで共振する
●●● 2008年4月13日

場との生命共振を開く

先週の木曜日は、学校から車で2時間ほどの
カングラフォートに出かけた。
中世インドの砦の遺跡だ。
瓦解しかけたヒンドゥー寺院や監獄跡など、
石職人によって長い年月をかけて刻まれた石が、
役割を終えて風化し、複雑多岐なクオリアが時を超えて流動している。
生と死の間のさまざまな元型的なクオリアにも満ちている。
そこで生徒は一日、自分の命がもっとも共振する場を見つけ、
出てくるサブボディを踊りにした。

劇場ではなく、こういう場で踊るときは、その場のクオリアと
どれだけ微細に共振できるかがかぎとなる。
これまで何人もの偉大な踊り手の即興をみてきたが、
彼らに共通しているのは、踊りの場に立ち現れた瞬間、
一瞬にして場の空気を支配してしまうことだ。
その秘密を長い間探ってきたが、
彼らに共通している<場を支配する力>と見えていたものは、
彼らの命がその場に漂う見えない微細なクオリアと
緊密に共振していることから来るものだということが分かった。

わたしもまた、よい踊りができたときは、その場にただよう見えないクオリアと
わたしの命が微細な生命共振で緊密につながり場とひとつになった。
無意識のうちに命は、その場の歴史や、死者のクオリアや、
微細な空気の流れ、光の翳りなど刻々と変化するものと共振しえている。
その震えを増幅するだけで場と命が共振する透明な踊りが出現する。

こんな場所で踊るのははじめての生徒も多かっただろう。
生徒に与えたアドバイスはつぎのごとくだ。

1.ゆっくり場所を移動しているうちに気になる場所が見つかったら、
まず、その場の石や樹と同じぐらいの静寂なからだになる。
そうなってはじめて命の微細な震えが聞こえ出す。

2.できるだけゆっくりその場に近づいていく。
灰柱の歩行の速度がいい。
すると、近づくに連れて、からだの底や皮膚の裏側で
なにかがかすかに騒ぎ出す。
遠くからはただの石や樹に見えていたものの肌理がこまかく見え出し
その微細さに命が共振して震えだす。
その奮えのサブシグナルを捉えることだ。

3.その場の石や樹に刻み込まれた長い時の流れと、
自分の命やからだがどんな微細な共振をしているか、
その微細さの限りを尽くして感じ取る。

4.これまでに創ったいくつものサブボディの動きが思い出されれば、
どんな動きが、どこで、どんなタイミングで出てきたがっているか、
じっくり耳を傾ける。

5.出てきたがっているサブボディが最適のタイミングで出てくれるように
場をどう移動するか移動の<序破急>をみつける。

6.場に差し込んでいる光と影の境目で踊る。そこはもっとも豊かなクオリアの
変容流動が起こる場所だからだ。

7.通行人や鳥や動物などが場に入ってくればその動きをも即興の中に
取り込んで動く。

8.風の音、匂い、雲の動きなど見えないほどの微細なクオリアにも
耳を澄ませる。

9.以上のすべてを織り込んで、踊ってみる。
もっともよい流れをその日の<序破急>として振付ける。
野外ではすべての振り付けは、同時にそこに流れる時間の中で
起こることすべてと共振する即興ともなる。
振付と即興の境界が取り払われ、
生命共振のリアルタイム劇場となる。

これは、野外に限らず、劇場で踊ろうと本質的には同じことだが、
予期できない多数多彩な要素に囲まれている野外では
よりいっそうそれがクリアに感じ取れる。

ヒマラヤインドは、わたし達のサブボディを鍛えてくれる
天然の劇場に満ちている。


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Subbody cobody theater 11 April, 2008
●●● 2008年4月12日

スーパーレイティブな劇場へ

命の生み出した多彩なものを多彩なままに住まわせること。
それがからだの闇と付き合う鉄則だ。
そこにはどんな善悪美醜の判断をする者もいないから、
生まれたものはそのまま棲息している。
日常世界へ出てくるにあたって、善悪美醜の判断で出てくるのを拒まれた
サブボディがひしめいている。
それら一人ひとりを産婆になって取り出していく。
最初はわたしがほんの少し手助けをするが、
やがて生徒自身が自分で産婆するようになる。
出てきたものに対し、絶対に善悪美醜の判断を下さない。
ただ、でてくる最適のタイミングを見つけるようにいう。
サブボディは自分が出てくる最高の場面とタイミングを知っている。
それだけで、サブボディ・コーボディシアターは週ごとに豊かになっていく。
3月コースの第4週のサブボディ・コーボディ劇場は
その日に<エッジ・ワーク>をしたこともあって
ずいぶんいろいろんな生き物や奇妙な人格のサブボディが出てきて、
互いのエッジをこすり付けあうように濃く深く関わりあった。
多次元的なサブボディが、多数多様なかかわりを生み出す。
そこは計測も予測も不能な、命の世界のままの
スーパーレイティブな世界に少しずつ近づいていく。



●●● 2008年4月11日

●エッジに出会ったとき、どうすればいいか?

サブボディ世界の旅を続けていると、しばしばわたしたちはとても困難な境界(エッジ)に出くわす。からだの底からいやな感じが立ち込めてきて、それ以上進むことができなくなる。
なにかがわたし達を強い力でブロックして押しとどめるのだ。
こんなとき、いくつかのとりうる手立てがある。段階に応じて、注意深くそれらいくつかの態度を取りながら進むことで、なんとかその困難を乗り越えることができる。

1.最初はただそれを認知するだけでいい

第1週から、何人かの生徒がこの不快な感じにぶつかったと訴えていた。
最初の週は、「ただ、そこになにかブロックするものがあることに気づくだけでいい。
無理にそれを乗り越えようと自分を強いる必要はまったくない。からだのなかには無数のサブボディがあるのだから、別のサブボディに乗り換えて動けばいい。からだの闇は多次元の迷路でできているから、別のサブボディを踊っていると、そのうちいつか気づくことになる。いつしかふと後ろを振り返れば、前に直面してとても乗り越え不可能に感じられたエッジがそこにあることに。あるいは、はるか下方に随分小さくそのエッジが見えることもある。

2.つぎは注意深く耳を澄ます

すこしその不快な感じに慣れてきたら、耳を澄ましてみる。いったいこの不快な体感は何を告げようとしているのだろうか? 
というのは、いつも命からのもっとも大事なメッセージは、この不快な、収まりのつかない奇妙な体感を通じて届けられるからだ。日常体は、不快な感じには眼を瞑り忘れようとするのが相場だ。だが、サブボディ世界に通じれば通じるほど、命からのもっとも重大な声は、決まってとても不快な体感と共に届けられることが分かってくる。もっとも不快なものの中にもっとも大事なものが詰まっている。この逆説を受け入れることだ。――わたしは自分の経験から、そうアドバイスする。不快を我慢して耳を澄ましているうちに、とんでもない気づきがやってくる。そのときの光明に満ちた快感は、何もかも忘れさせてくれるほど強烈だ。例外なく、だれもがその喜ばしい気づきを体験することができる。わたしは自信をもってこれを勧めることができる。

3.エッジになりこむ

もっと力をつけてきた段階では、思い切ってその不快な体感に両面からなりこんでじっくり味わってみる。
第4週目の最終日の今日は、生徒達にもうそれを受け入れる準備ができていると実感できたので、ミンデル譲りの<エッジ・ワーク>に取り組んだ。

<エッジ・ワーク>

パートナーを見つけペアになる。
一方が自分の感じている不快な体感を、からだで相手に伝えてみる。
たとえば、昨日とても強い情動的なブロックに出会って身動きできないと訴えていた、べレンは、今日わたしの胸と背中を両手で押し付けてきた。べレンの命が感じている不快感をからだ全体で受け止めていると、自然にその不快感になりこんで身をよじって蠢めく動きが出てきた。ベレンはなおも押し続ける。わたしは苦悶に身をよじりながら動く。蠢いているうちに、ベレンにもわたしにもこのエッジの体感が共有できてくる。
今度は役割を替えて、わたしがベレンの胸と背を同じ力で押し付ける。ベレンは逃れようと蠢く。なおもベレンがわたしを追っかけたようにわたしもベレンを押し続ける。
やがて、十分にこのエッジを両面から味わえたと思えたときにワークを終わる。
なんとなく突き抜けた感じがからだに湧いてくる。言葉ではすぐには言えなくても、からだがなにかをつかんでいる。
その開けた体感を味わうために、ひとりひとりが自分のからだを探る自己探体の時間に入る。
各生徒はそれぞれの体感と気づきをさらに深く探求して、今日のサブボディの動きを見つける。

4.エッジを踊る

最後の段階はエッジを踊ることだ。

<エッジの動きで相手に近づいていく>

今日の午後は、<エッジ・ワーク>のサブボディ・デュエットに進んだ。
ペアになり、一人が午前中の探体の時間の中で見つけたサブボディの動きをしながら相手に近づいていく。もう一人のほうは、遠くから近づいてくる相手の動きに対して、自分の命はどう共振して奮えるか、出てくる自然な反応に身を任せて動く。
じょじょに距離をつめていく。1メートル、30センチ、3センチ、触れるか触れないかの距離に近づいていく。そして、肌に触れ、押し付け、さらに強く押し込んでいく。
受け手のほうは、出てくる自然な反応に従う。時には主格の差異がなくなって二人でもみ合いながら動くことにもなる。命には主客の差異がなく、ただ共振だけがあるということが実感できる境地までいけるときがある。

<エッジを踊る>

この第二段階のエッジ・ワークを経て、今日のサブボディ・コーボディ劇場は行われた。ソロの振り付けの中にエッジの踊りが出てくる。デュオでエッジになりこみあう。グループ即興の中では、実にさまざまなエッジとエッジの出会いが起こった。だれが主体で誰が客体であるかなどの区別はなくなる。サブボディは共振するコーボディに変成する。だれもが命の出来事を、あらゆる側面から体験し、味わいあった。予期せぬ出会いがあり、とんでもない荒々しい渦も沸き起こった。やがて静寂が満ちた。終わった後は放心に似た恍惚感が漂った。
言葉を交わすことを制限して進んできた一ヶ月が終わった。言葉なしにほかでは味わうことのできない命と命の共振を味わいあった。

わたしにも久しぶりの安らかな眠りが訪れた。眠りから醒めると、サブボディさんはもう来週からのコースの新たな課題を見つけていた。


●●● 2008年4月6日

世界チャンネルを開く

今月のはじめから、体感チャンネル、運動チャンネル、映像、音像、情動、関係チャンネルと順次開いてきた練習は、いよいよ最大の世界像=自己像チャンネルに入る。
この一巡りを経てはじめて、わたしたちは当初のもっとも原生的なチャンネルであるからだのチャン ネルと、もっとも発達した世界チャンネルが、じつは通底していることを知る。

体感チャンネルは、もっとも原初的な単細胞生命ももつ未分化な原生チャンネルだ。
ほとんど動けなかった原初の生命や単細胞生命は、からだをつうじて、世界と交感してきた。
だが、この原初的なチャンネルの中に、それ以後40億年の生命進化・多様化を経て獲得していく他のあらゆるチャンネルの萌芽が含まれている。

単細胞生物はからだで、重力、温度、圧力、振動、光、音などあらゆる外界のクオリアを感じとり、世界と共振している。

今日の午前中は、指圧の練習を通じて、からだの体感を感じることに集中した。
体感チャンネルのクオリアは、それを動きと共に増幅していくと、ただちに運動チャンネルへと広がっていくが、動きを止めて、ただ体感を感じると、それはもっとも原初的な世界チャンネルを味わうことになる。共振タッチで、原初の海や胎内で浮遊しいてたクオリア、そして、指圧を通じて、からだの各部に記憶されている重力のクオリア、さまざまな生物段階のクオリアを思い出すことができる。

午後からは、半数の生徒が目隠しをし、パートナーにガイドされて30分間学校周辺のさまざまな地形を歩いた。
どこを歩いているのか分からない闇の中で立ち上がる、さまざまな体感、パートナーへ
の不信と信頼、ビジョン、想像力、妄想、深層記憶、元型、世界イメージ、自己イメージなどの変容流動を体験した。
そして、学校周辺の地形の中で、もっとも自分の世界イメージや自己イメージが膨らみそうな場所を選んで30分間のサブボディの探体を通じて、今日の動きを探し出した。
ある生徒は、地面に触れ、掘るクオリアに出会い、ある生徒は石の上、穴の中、樹木、石段、布の中など、多彩な世界像の中で新しいサブボディを創った。

今週は世界像、自己像をさまざまな形で変容し、最終的に全チャンネルのサブボディを統合する自全を旅するサブボディ・ソロの創造にまでいたる予定だ。


●●● 2008年4月4日

透明なデュエット


第3週目が終わった。
今年の生徒はすでに全員10分から20分のサブボディ・ソロをほぼつくり上げた。
そこで、今週の後半はあらゆる共振方法の練習についやした。
舞踏は自己表現ではない。命が世界と共振するままに踊る。それがすべてだ。
今日は公演前に、命とサブボディの世界には、
善悪正誤の判断で否定するものは誰もいない、
どんな醜いくぐもったサブボディでも、最適のタイミングさえ見つければ美になる、
いつどこでどんなサブボディとなって出てくるか、
最適のタイミングを見つけるようにと、からだの闇に語りかけてから公演した。

とりわけデユエットは、エゴが出ると無残な結果になる。
エゴだの自分の好みだのを一切合財捨てることによってのみ、
命と命の共振が透明に透けて見えてくる。
それが命だ。
透明なデュエットを踊るためには自分を捨てて命が共振するままに動けばいい。
下意識のからだはいつどこで何をすればいいか、すべて知っている。
それが透明覚だ。意識で計算などしていて追いつくものではない。
出会って間もない生徒は、それをよくこなしてくれた。
3週間続けてきた毎日の生命瞑想が、ようやく生きてきた。
これからどこまでいけるのだろう。

生徒たちはこの週末、ダラムサラの亡命チベット人たちの催しで公演する予定だ。
サブボディは、世界の何とでも共振できる。
舞踏を始めてみるチベット人たちの眼を丸くしてかぶりつく反応が
今から眼に見えるようだ。
踊りは公演ごとに鍛えられ育っていく。
来週が楽しみだ。



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●●● 2008年4月4日

サブボディ・コーボディ共振劇場

第3週目が終わった。
今年の生徒はすでに全員10分から20分のサブボディ・ソロをほぼつくり上げた。
そこで、今週の後半はあらゆる共振方法の練習についやした。
舞踏は自己表現ではない。命が世界と共振するままに踊る。それがすべてだ。
今日は公演前に、命とサブボディの世界には、善悪正誤の判断で否定するものは何もない。
どんな醜いサブボディでも、最適のタイミングさえ見つければ美になる。
いつどこでどんなサブボディとなって出てくるか、
最適のタイミングを見つけるようにと、からだの闇に語りかけてから公演した。
とりわけデユエットは、エゴが出ると無残な結果になる。
エゴだの自分の好みだのを一切合財捨てることによってのみ、
命と命の共振が透明に透けて見えてくる。
それが命だ。
命が共振するままに動けばいい。
下意識のからだはいつどこで何をすればいいか、すべて知っている。
それが透明覚だ。意識で計算などしていて追いつくものではない。
出会って間もない生徒は、それをよくこなしてくれた。
3週間続けてきた毎日の生命瞑想が、ようやく生きてきた。
これからどこまでいけるのだろう。

生徒たちはこの週末、ダラムサラの亡命チベット人たちの催しで公演する予定だ。
サブボディは、世界の何とでも共振できる。
舞踏を始めてみるチベット人たちの眼を丸くしてかぶりつく反応が
今から眼に見えるようだ。
踊りは公演ごとに鍛えられ育っていく。
来週が楽しみだ。



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●●● 2008年4月4日

サブボディ・コーボディ共振劇場

第3週目が終わった。
今年の生徒はすでに全員10分から20分のサブボディ・ソロをほぼつくり上げた。
そこで、今週の後半はあらゆる共振方法の練習についやした。
舞踏は自己表現ではない。命が世界と共振するままに踊る。それがすべてだ。
とりわけデユエットは、エゴが出ると無残な結果になる。
エゴを捨てて、命の共振に耳を澄ますと、透明さが現れる。
それが命だ。
命が共振するままに動けばいい。
下意識のからだはいつどこで何をすればいいか、すべて知っている。
出会って間もない生徒は、それをよくこなしてくれた。
3週間続けてきた毎日の生命瞑想が、ようやく生きてきた。

生徒はこの週末、ダラムサラの亡命チベット人たちの催しで公演する予定だ。
サブボディは、世界の何とでも共振できる。
舞踏を始めてみるチベット人たちの眼を丸くしてかぶりつく反応が
今から眼に見えるようだ。
踊りは公演ごとに鍛えられ育っていく。
来週が楽しみだ。