March 2014
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サブボディ共振塾ジャーナル
 
 2014年3月31日

衣裳室の背後霊 ハイムとコーボディ



スペインから来たハイムは、狭い衣裳室を選んだ。
散乱する衣裳の陰に他の生徒を潜ませて、
好きな背後霊になって近づいてくるよう依頼した。
今年の生徒は中国、インド、ロシア、メキシコ、オーストリア、アメリカ、
ヨーロッパと世界各地から集まってきている。
それぞれの違った文化背景からさまざまな背後世界が立ち現れた。
ほとんどカオスのなかでハイムは踊った。
命の多次元共振はこういうカオスを恐れていては踊れない。
このなかからたった一つの美になるタイミングを選び取っていくことによって、
動きが舞踏になる。
いまはまずはできるだけ多くのサブボディ・コーボディを集め、
なりこんでいくことだ。
最初は戸惑っていた生徒たちもようやくさまざまな背後世界に
変容することの楽しみを発見したようだ。
そう、無限の変容と自在跳梁というもっとも深く難しい技法は、
背後世界コーボディになることで、
自然となんでもないことのように身についていく。


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 2014年3月30日

脱皮目前 オルガとコーボディ


ロシアから来たオルガは、この日おそらくこれまでの自分からの
脱皮をかけて踊った。
子供の頃の人形をからだにかぶせて、
安らかな眠りの中に入った。
身には長い布をまといまるで昆虫の幼虫か蛹のようなからだになりこんだ。
他の生徒には自由に音を出してくれと頼んだ。
生徒たちはめいめいの楽器を手にしてさまざまな音を出した。
おそらくオルガにその音は胎児時代に子宮内で聞いた
母の胎内音や見知らぬ外界の音として聞こえただろう。
踊る中でこの3週間に出会った胎児体、原生体、異貌体など
さまざまなサブボディが次々と出てきた。
なかなか味のある展開だった。
この日はまだ脱皮には至らなかった。それが良かった。
十分時間をかけて無数の脱皮を踊ればいい。
これでオルガも今年一年を乗り切る創造の坑道を見つけただろう。
蛹や繭、種子や卵の秘膜は生死の間でゆらいでいるもっとも
味わい深い踊り場の一つだ。
土方以来歴代の舞踏家が踊り継いできたのもそのためだ。
あとはこの坑道を多岐に辿り、
非連続の異次元の闇を跳梁し、
でてくるすべてのサブボディ・コーボディを踊ればいいだけだ。
いいスタートを切った。



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 2014年3月29日

エリートと下僕 マイケルとコーボディ



オーストラリアから来たマイケルは、小さな白い部屋を選び、
他の生徒にそこにエリートとして立ってくれるよう頼んだ。
各生徒が思い思いの自我を拡大してふんぞり返って立つ中に、
マイケルは下僕として入っていった。
大きなコントラストが生まれた。
多分、彼は自分のプライド、エゴ、知性、アイデンティティに直面しようとしたのだ。
人間として生まれ、そういうものを身につけてしまったのも、偶然にすぎない。
ひょっとすれば、古代の奴隷として生まれていたかも知れないし、アメーバや虫けらだったかもしれない。そのすべては偶然だ。
たまたま人として生まれた幸運にあぐらをかかず、人間を脱ぎ捨て、
すべての生命との共振を開くことはわたしたちにとってもっとも重要な課題だ。

この日の朝、私はこの3週間のすべてのサブボディ=コーボディを統合するために
調体十番をガイドした。
そのエッセンスは、自分自身の問題に直面し、内側のマイクロコスモスと外側のマクロコスモスとの共振を感じることだ。
めいめいが自分の問題に真摯に向き合ってくれたようだ。
私たちだれもが囚われている自分の自我や自尊心を必要以上に発現せず、
それとのひかえめな最適の共振パターンを見つけることは、
生涯のなかの最深の課題の一つだ。
この長い旅を新旧の塾生たちと共有できることほどの幸せはない。



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 2014年3月29日

生と死の連続と非連続という謎を踊る


命とは何か。
命になるとはどういうことか。
人間はすべて自分のことは自分で選べるという妄想にとりつかれているが、
真っ赤な妄想だ。
命の特徴は自分自身に関して何一つ選べないことにある。
いつどこで生まれるかも、両親も、性別も選べない。
それどころか、種さえ自分で選んだものではない。
海底の微小生物に生まれていたか、草木だったか、猫だったかも選択できない。
命になるとは、自分自身についてのすべての条件を受け入れることを意味する。
人間の自由選択という共同幻想を捨てることは、命がけの飛躍に近い。
今週第3週のなかばで、その実験を試みた。
木曜日に、各塾生は、学校内で偶然に産み落とされたかもしれない予想外の場所を探し、その場所を互いに交換した。
ある生徒は他の生徒が見つけた場所に目隠しをして連れて行かれ、目隠しを解いて踊った。自分にとっても予想もしない動きが次々と出てきた。
金曜日に、各塾生は、自分自身の偶然の出生地を見つけ、そこを特別の世界に変容するよう他の塾生に頼んだ。
あるものは、エリートの群れという外界、
あるものはみんなが自分を嫌っている世界、
あるものは得体のしれぬ見えない怪物が右往左往している世界、
あるものは自分のエゴが近づいてくる世界、
あるものは忙しい人が行き交う道端など
思い思いの背後世界をコーボディで創造し、その中で踊った。
これは大きな革命になった。
この実験劇場を通じて、今年の塾生全員がユニークなサブボディ=コーボディ世界を開くことができた。
わずか3週間でここまで来たのは共振塾始まって以来の快挙だ。
だが、これはほんの始まりに過ぎない。
命のすべて、生死を超えた森羅万象を最終的に踊るためには、少なくとも20個のことなるサブボディ=コーボディを必要とする。
今年の終わりにそれを踊るところまで持っていくために、
私たちは毎週その一部を創造し、収集し、年度末に大統合する。
しかもそれではじめて、
生涯に渡る長い創造のスタートラインに立つことができるのだ。
生命とは何か、死とは何か。
生と死の連続と非連続という、
最深の謎を踊ることのできるからだになるための。



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寸法の歩行の中の<非連続> 
 
生と死の連続と非連続
 2014年3月29日

寸法の歩行の中の<非連続>という深淵


土方が晩年に創った「寸法の歩行」という舞踏練習譜には、
舞踏の初心者向けのベーシックな要素がつめこまれている。
だが、それだけではなく、舞踏を学ぶ未来の世代にむけて
固有の探求のための秘められたヒントがそっと象嵌されている。
最終行の「非連続」という一語である。


「寸法の歩行」

イ 寸法になって歩行する
ロ 天界と地界の間を歩くのではなく移行する
ハ ガラスの目玉 額に一つ目をつける
ニ 見る速度より 映る速度の方が迅い
ホ 足裏にカミソリの刃
へ 頭上に水盤
ト 蜘蛛の糸で関節が吊られている
チ 歩きたいという願いが先行して 形が後から追いすがる
リ 歩みの痕跡が前方にも後方にも吊り下がっている
ハ ガラスの目玉 額に一つ目をつける
ホ 足裏にカミソリの刃
へ 頭上に水盤
ヌ 奥歯の森 からだの空洞に糸
ル 既に眼は見ることを止め 足は歩むことを止めるだろう
  そこに在ることが歩む眼 歩む足となるだろう
オ 歩みが途切れ途切れの不連続を要請し 空間の拡がりを促す
イ 寸法になって歩行する


「虫の歩行」の舞踏譜にも、最終行の謎の一行
「(意志即虫・物質感)」
にも将来の探求のための秘密のヒントを埋め込んでいた。
「虫によって押し出されて動く、動きを習得した後は、
虫ではなく、任意の物質感に置き換えて練習せよ。」という
メッセージが象嵌されている。
土方の時代にはクオリアという語はまだ広く知られていなかった。
いまなら、
「虫のクオリアを舞踏手固有のクオリアに置き換えて、それによって動かされる動きを発明せよ。」というところだ。

「寸法の歩行」の最終の行の「不連続」とはなにか。
死者の技法としての衰弱体舞踏にとって、
人間の意識に囚われるのではなく、
生死を超えた森羅万象にくったくなく変容する無限変容術が
もっとも大事である。
「意識はこの三次元、4次元世界との連続性に囚われているが、
そんな紐帯を捨て、死者として無限の多次元世界を次々と開畳せよ」

という
自在跳梁への道標である。
これがどんなに重要かは、近代西洋の二元論的な知に囚われている限り、
気づかれることはない。

今週、塾生は頭上に石を載せて運ぶ寸法の歩行の基礎を
その専門家であるフォトバイにに学んだ。
長年頭に物を載せて運ぶ仕事を続けてきた彼女のからだには
無意識に寸法の歩行が染みこんでいる。
その秘密をおすそ分けしてもらったのだ。
それが身についたあとは、平地だけではなく、
頭に石を載せたままさまざまな地形の変化を歩いた。
物質的な地形の変化は、からだの闇の不可視の付置と共振している。
サブボディモードになって頭に石を載せてさまざまな地形を歩くだけで
自然と異次元間の自在跳梁の練習が可能になる。
こうして少しずつ、異次元と異次元の間の連続と非連続を
密度を運びながら自在跳梁して踊れるからだに錬成されていく。
長い時間のかかるプロセスであるにしても。


この記事は「実技ガイド」の歩行編にも、収録されています。

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川辺のノマド・リゾーム3 ハイム、チョンとコーボディ  
 
 川辺のノマド・リゾーム2 マイケル、ロバートとコーボディ
 
 川辺のノマド・リゾーム1 アンクールとチョンとコーボディ
 2014年3月22日

川辺のノマド・リゾーム
 アンクールとチョンとコーボディ

今年の共振塾は、テンポが早い。
はじまってわずか二週目で川に降りるのははじめてだ。
これも、段階的教育論の囚われを脱いで、
もっとも大事なことからはじめることの一環だ。
老婆心的に危惧する必要などなにもなかった。
生徒たちは嬉々として急勾配のヒマラヤの川辺で踊った。
崖の石に成り込むもの、川の流れの序破急に学ぶもの、
急勾配を駆け下り駆け上がって踊るもの、
散らばっているゴミを集めて、その中で踊るものなどさまざまだ。
無限にある共振パターンから最善のものをいのちが選ぶ。
その瞬間共振に即興的に身を投げ出せばいいだけだ。
この二週間で多数多様な背後世界との生命共振を学んできただけあって、
生徒たちはそのコツを早くも身につけた。
今日から日替わりで少しずつ紹介していく予定です。
お楽しみに!


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見えない背後世界を踊る 4 ロバートとコーボディ 
 
見えない背後世界を踊る 3 アンクールとコーボディ 
 
見えない背後世界を踊る2 パメラ、マイケルとコーボディ 
 
見えない背後世界を踊る1 オルガ、ハイムとコーボディ 
 2014年3月15日

見えない背後世界を踊る


ヒマラヤで開校十年目の共振塾が始まった。
今年の共振塾は、いくつかの点で自己革命を試みている。
まずは、命が絶えず共振している見えない背後世界を踊ることに焦点を当てる。
自我や自己を脱ぎ捨てて、死者として背後世界そのものになりこむ。
それがもっとも端的に命になる道であることがついに発見されたからだ。
いままでのサブボディ(=個人的な下意識のからだ、またはサトル・ボディ)と
コーボディ(共振するサブボディ)という二元論的な区別を捨てて、
サブボディ=コーボディになる。
それは同時に無限に変容する背後世界になりこむことでもある。
今年の新入生は、いきなり目隠しして闇の中に、見えない背後世界と
共振している命のクオリアを探ることから始まった。
そしてそれをかすかな秘膜共振の震えを通じてシェアしあった。
全員がとまどいながらも喰いついてきているのが頼もしい。
第一週の金曜日は、一人ひとりが学校周辺にもっとも気になる場所を
見つけて踊り、全員がその背後世界になりこんだ。
例年なら4月か、5月から取り組む課題を、いきなり第一週から試みた。
これまでの段階論的深化というわたしの二元論的な囚われを
脱ぎ捨て、もっとも大事な難しいことから始める。
透明になること、生命共振を離見すること、などいままで期末になってから
取り組んでいた課題にはじめから間向かう。
段階論的発展という老婆心がどれだけサブボディ・コーボディの
自由な誕生を妨げていたかに気づいたからだ。
こんなテンポ破りは十年の中ではじめてだが、生徒たちは踊りきった。
そう。段階論的教育論は老婆心という超自我や仕掛けた罠なのだ。
それを脱ぎ捨てるのに十年かかったことになる。

蝸牛の歩みだが、仕方がないことかもしれない。
誰も歩いたことのない闇の中へ手探りで降りてきたのだ。
恐る恐る用心深く歩くときには、
この老婆心的超自我のお守りが必要だったのかもしれない。
だが、今はさらば。
さようなら、わたしの中のおばあちゃん。

未踏の舞踏へ。
生命共振舞踏へ。
いよいよ脇目もふれぬ長い探索が開始された。
(今週の写真を5組にわけ、日替わりでご紹介していきます。
お楽しみに!)



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  3.11フクシマ生命共振劇場
(共振塾ヒマラヤ、2013年3月)
 2014年3月12日

3.11 フクシマ生命共振劇場



ここ3年間、共振塾の授業はフクシマへの生命共振から始まる。
上のスライドは去年3月のものだ。
世界各地から集まった生徒たちが、いきなり
フクシマ3.11に生命を襲ったすべてのクオリア、
巨大地震、津波、原発の爆発とメルトダウン、放射能汚染、
そしてその結果太平洋の海洋生物にもたらしている奇形変異という
生命の惨劇に共振した。
人間が自我や自己を脱ぎ、ただ生命として共振する姿は
何にもまして美しい。
土方が発見した衰弱体の美はここにある。
たとえ、姿は奇形化し、障害者、病者、死者となろうとも、
生命共振こそもっとも深い美の根拠なのだ。
少しずつわたしたちは、芸術とは自己表現であるなどという
近代の人間中心主義的迷妄から抜け出しつつある。
表現主義は、中世の封建時代から脱すろときには、革命的な意義を持った。だが、いまやそれは人間よりはるかにひ弱い生命の惨劇を見過ごす古臭い心身の牢獄となっている。
フクシマがそのことに気づくチャンスを与えてくれたのだ。



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 2014年3月11日

生命共振 3.11



共振塾では毎年、からだの闇の中のもっとも怠けた、下等動物のような
ゆっくり蠢くクオリアに耳を澄まし、
それになりこんでそれぞれの固有の原生体を探すことから授業を始める。
おそらく生命の舞踏にとって、
単細胞生物のようなもっともか弱い生命体になりこむことこそ、
もっとも深い生命の深淵へ降りてゆく坑道であるからだ。
今年は共振塾を開いて十年目だ。
原生体の探体を十年続けてきたことになる。
歴代の生徒たちはじつにさまざまな原生体を創体してきた。
そして、十年目になってはじめて分かったことがある。
それは、細菌や原生動物のようなもっとも下等なか弱い生命になりこむことによってはじめて、もっとも深い生命共振力を身に付けることができるということだ。
人間や獣のような大型の生物は、とても強い。
生命共振を体得するには強すぎるのだ。
単細胞の生命体になってはじめて、
今太平洋の底で繰り広げられている未曾有の生命の惨劇に共振することができる。
3.11以降の現在、海洋生物の幼生生命たちに
おそらく生命の歴史上かつてない規模で、
奇形化の突然変異が起こっている。
人間の成体は、百兆個の細胞からなる。
単細胞よりも百兆倍強靭なのだ。
そんな強者を基準にして定められた放射能の安全基準など
単細胞生命にとっては、原爆以上に恐ろしい脅威となるのだ。
人体のなかでも、もっともか弱い単細胞生命である精子たちに
未曾有の突然変異が起こっていることも定かだ。
体制を支える科学者や知識人たちは誰も恐ろしくて計測しようなどとしない。
国家から睨まれ、研究費などもらえない惨めな目に会いたくないからだ。
おそらく舞踏家だけが、生命の惨劇に共振する存在だ。
1960年から70年にかけての高度経済成長期の日本に起こった
水俣病の惨劇に対し、たったひとり土方巽だけが、
その歪んだ肢体を衰弱体舞踏に取り入れ、深く共振し得た。
わたしが、23歳の時にはじめて土方の舞踏公演を京大の西部講堂でみたとき、その最後に床に敷き詰められた戸板の底から、多くの若い舞踏者が
水俣病と同じ、歪んだからだで踊り出てきた衝撃を未だに覚えている。
わたしの命が激しく震えた。
その帰りの夕まぐれの道でわたしはほとんど彼らに共振して踊りだしていた。だが、当時のわたしは学生結婚をし、そばにいた妻の体内には赤子の命が息づいていた。妻は踊りだすわたしをガッシリと制止した。
(アンタハ、コノ子ノタメ二働カナクテハナラナイノ・・・)
わたしもそれに同意し、それから二十余年わたしは
コピーライターとして働いた。
そして、子どもも成人して自由の身になったとき、
わたしの命は土方の舞踏から受けた、まるで釣り鐘で頭を殴られたような衝撃を思い出して、舞踏家として生きることを、決心したのだ。

1968年の「肉体の反乱」まで、強靭な舞踏を続けてきた土方が、
その後一切強い舞踏を自らに禁じ、衰弱体の舞踏に転じたのは、
もっともか弱い衰弱体になりきらなければ、からだの中に飼っている
死んだ姉と共振して踊ることができなかったからだ。
死者は、病者、障害者よりさらにはかない存在だ。
あらゆる生命の惨劇に共振しないで、死者と踊れるわけがない。
土方にとっての衰弱体の必然はそのようにして訪れた。
共振塾十年目のわたしにも、今日はじめてもっともか弱い生命になることで
はじめてもっとも深い生命共振力を身につけることができるのだという気付きがやってきた。
そして、土方にとっての衰弱体の必然についても痛いほどわかったのだ。
3.11への生命共振は、舞踏者にとって逃れることのできない課題である。
水俣病をはるかに凌ぐ惨劇が日々太平洋の底で繰り返されているのだ。
これを踊らずに、舞踏家を名のることなどできはしない。
土方が切り開いたものをそのもっとも深部で引き継がなければ
命のリレーは起こらないのだ。
幸い共振塾では今年も3.11への生命共振からスタートすることができた。
毎年の開校日が、3.11の前後にむかえるという偶然は
天が与えてくれた贈りものにちがいない。



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