サブボディ共振塾ジャーナル
第3回 
国際
ヒマラヤ舞踏祭
2011

2011年12月22日


5000年後にまた会おうゼ!

第3回ヒマラヤ舞踏祭グランドファイナル

舞踏祭の最終日、短い調体の後、私たちは語った。
「五千年後にまた会おうゼ!」
その頃にはもう誰もこの世にはいない。だが命は続いているだろう。
現在の私達のからだの材料は変転に変転を遂げて、何になっているだろうか。
ある部分は石になり、ある部分はバクテリアの、草の、虫の、
からだの材料として再利用されているかもしれない。

そういうものとして再会しよう。
踊り手たちはめいめいに異なる存在になり、奇妙な出会いが起こった。
観客たちは戸惑ったに違いない。
ストーリーも何もない訳の分からない世界が現出したからだ。
だが、じょじょに論理を越えて楽しめばいいことに気づきだした。
そして、舞踏手たちの誘いに応じて、ひとりひとり観客席と舞台との仕切りを越えだした。
命の世界には誰も良し悪しを判断するものなどはいない。
命になることの楽しさを身をもって味わい出した。
この日の観客には、ダラムサラらしく舞踏など見るのははじめてだという
モンゴルやブラジルなど遠来の旅人もいた。
だが、ついにはみんな国境や育った文化の違いを越えて
この異様な生命共振を楽しみあうことができた。
さいわい、私たちはどんなとんでもない夢でも
からだで見ることができる存在なのだ。


22 December, 2011


 

Let's meet after 5000 years!
Grand Final of the Himalaya Butoh Festival


On the Final day, all dancers wore their own costume, and I spoke with them after a short conditioning, "Let's meet after 5000 years later!".
None of us must remain on the earth, but maybe Life will continue.
Elements of us maybe transform another being. Some of them will be stone, bacteria, grass, and so on. We danced this day the meeting after a long time of 5000 years, and enjoyed the resonance freely.
Audieance might be puzzled at first what is happening, but slowly they could resonante with this no story theater. And finaly everybody has crossed over the border between dancers and audience. Fortunately, we are the being who can dream extreme dreams beyond logic. Some audience were from rare place such as Mongol, Brazil, and so on. We could enjoy beyond the borders on the earth.


 
2011年12月20日


エッジ、ギリギリ ケスリ

グアテマラ-カナダからのケスリは、二度目の共振塾になる。
今回はビザトラブルで前期は渡航できず、秋口からの参加になった。
自分のルーツを探りながら、人類の出アフリカの旅路を逆に辿るなかで、
自分の代表作を創ろうという意気込みに燃えてやってきた。
だが、今年の秋は私のビザ問題で何度も入出国をしなければなかったため、
生まれようとしている彼のサブボディの胎児に対する十分なケアが出来なかった。
10月は長期生自身に互いに産婆になり合う授業をガイドしてもらうことにしたが、
3月から続けている長期生はそれに何とか対応できたが、
来たばかりのケスリはうまく順応出来なかった。
焦りが彼を襲い、自分の殻に引きこもり、一人でからだの闇を旅する中で
さまざまなエッジにぶつかり悩みぬいて、ほとんど動けないまでに憔悴した。
わたしも10月の末に彼のサブボディが
ほとんど流産の危機に陥っているのを見て胸を痛めた。
舞踏祭までわずかの日数しかない中で、かれはとうとう今年は諦めてヒマラヤを離れ、
来年に期するという決断をした。
それも仕方なかろうと思ったが、私には彼のサブボディの胎児の息吹が届いてきた。
「来年まで待てない! いますぐ生まれたいんだ」と叫んでいるように聴こえた。
そこで彼にここを去る前に、何も考えずに一度踊ったらどうだい、と示唆してみた。
彼もその気になって、最後に1時間の踊りを見せた。
ちょうど1が6つ並ぶ111111の日だった。
その日躍り出てきたのが、彼が予定していたサブボディだったのかどうかは知る由もない。
だが、その出現はあたかも土方の言うたった一回のヘリオガバルスのように
激しい爆発的なものだった。

22 (ヘリオガバルス

 

   深淵図には複眼よりもむしろ皮膚への参加に注目されねばならない。

   ただ一回のヘルオガバルスがある、

   耐えるもの―それはめくるめく節度の別の顔であった


出てこようとして出てこれず、暗い胎内で耐えに耐えてきたサブボディは
ときにこのような爆発的な出現の仕方をする。
ヨガの世界でクンダリーニと言われている現象だ。
自分で自分のエネルギーをコントロールできないかのように
何度も床を殴りつけ、からだごと壁に向かって繰り返しジャンプを繰り返した。
わたしの伝染熱ができてた時も似たような勢いだった。
まるで自滅覚悟で世界を敵にまわして闘うような踊りだった。
それを目のあたりにして私も見ていたほかの生徒もみな激しく突き動かされた。
その時期はケスリだけではなく、全員が生まれかけようとしているサブボディの
最後の陣痛のただなかにいたからだ。
サブボディの出現は、赤子の分娩とまったく同じく、生か死かのギリギリの瀬戸際にある。
一つ間違えば流産してしまう危機にある。
ケスリのサブボディがその堕胎寸前の危機を何とか乗り越え、
ギリギリの難産だったが、何はともあれ出産できたことに胸を打たれたのだ。
ケスリはいまタイでヨガと瞑想に打ち込んでいる。
来年春再会したとき、このサブボディはどう育っているだろう。
どうなるかは誰にもわからない。
あるサブボディが、非二元かつ多次元のからだの闇でどう共振して、
他のサブボディと合体して変貌しているか、
それともただ一回の出現をしたままからだの闇深く帰ってしまっているか、
彼らは私たちの知らない無限の共振パターンを持っているので予測もつかない。
ただ、来年の春以降、どんな踊りがケスリから出てくるか、
それによって何が起こったのかをかすかに推測することが出来るだろう。


 
 
2011年12月18日


森の共振劇場 イザベル

今年の秋はビザ問題で何度も入出国をしなければならなかったので、
一度も森での授業をすることが出来なかった。
だが、舞踏祭の期間中、イザベルが森でのワークショップをやってくれた。
森は静まるには最適の場所なのだ。
樹々や岩と同じくらいにまで自分を鎮める。
樹々に比べると自分がいかにせわしない自我や自己に窮窮としてるかが分かって恥ずかしくなる。
樹々や岩の持つ静謐さにはどこか及びがたい品位がある。
岩や樹々にその閑かな生命のたたずまいを学ぶ。
静寂体への変成はすべての始まりなのだ。
そして、森は癒しの場でもある。
からだの闇を掘り続けるサブボディの創造プロセスは実に難儀だ。
休まる暇もないくらい見知らぬエッジに出くわしてしまう。
自分で手に負えないときは森の樹々や岩の助けを借りるに限る。
彼らに耳を澄ましているだけで自分の中の植物的な部分や、
鉱物的な部分が共振して目覚め、限りなく鎮まることができる。
そこからだ、生命の無限の創造力が湧きあがってくるのは。


 
 
2011年12月16日


憑依 カツD

舞踏祭の最終日前日、カツが行った憑依体のワークショップと
それに続くワークショップ参加者を含む憑依劇場は、
これまでにない地平を切り開くものであった。
大体からして憑依などと聞くと、大概の人は顔をしかめる。
現代では前近代の得体のしれない現象だと受け止められているからだ。
私自身の十体の中には10年以上前から憑依体は存在した。
伝染熱や死者熱・暗黒熱などはみな
若くして死んだ友人たちが私のからだを借りてつくった踊りだったからだ。
だが、共振塾の生徒に対しては今年になるまで憑依体の授業など行うことは出来なかった。
どうやったらいいか、皆目検討がつかなかったからだ。
ほかのなにものかによって動かされる受動体への変成は以前からも普通に練習していた。
ゆらぎ瞑想で下意識のサブボディモードになった一人に対して、
他の一人あるいは二、三人が触覚や音や声など色々なチャンネルの刺激を与える。
中の一人はそれらの刺激に突き動かされて動く。
それが受動体になる練習だ。
だが、受動体から憑依体への距離は千里の階梯がありそうに感じて、
そこから先へ踏み込む道が見えなかった。
だが、今年1年土方の「静かな家」を学ぶ内に、土方の「死者の技法」を
あとほんの少しだけ推し進めれば憑依体に踏み込めることに気づいた。
一年かけて人間としての自我や自己を最小限にまで鎮静することを学んだ生徒たちは
自分の意志や感情で動くのではなくほかのなにものかによって動かされる
受動体への変成を十分に遂げていた。
ほかのなにものかとは、背後世界であり、異世界に棲む死者のクオリアである。
ここまで来れば、ほかの人や死者や他の生き物のクオリアによって動かされる憑依体への変成も
ほんの紙一重のところまで来ていることに気づいた。
紙一重の距離を千里の階梯と思い込んでいたのは私だ。
その紙一重をまたぎ越す勇気がこれまでの私になかっただけなのだ。

カツは最後の公開ワークショップで、受動体から憑依体への移行を実に丁寧かつ周到に導いた。
はじめての参加者たちも、これまでにない新鮮な体感を覚えたのか
嬉々として自分以外のなにものかのクオリアによって動かされる体験を楽しんでいた。
そして、この憑依体劇場にもなんのてらいもなく参加して踊った。
生命が自他の境界を越えて共振していることはごくごく自然な現象なのだ。
近代的科学的知性の束縛の奴隷になっている人でない限りだれでも
からだでそれを味わうことができる。
もちろん一般参加者に対してここまで自然に導くには格段の産婆技術がいる。
声のトーンや運びのタイミングなど言葉では説明できない
微細なスキルを身につけなければできない。
たった一日のワークショップでここまで持ってくるのは並大抵のことではないのだ。
だが、いつのまにかカツがそれを見事に成し遂げる産婆に成長しているの目の当たりに見て、
わたしはもういつ死んでもいいと、言い知れぬ歓びがこみ上げてきた。



 
2011年12月13日


破滅の後で アクシ

アクシのコーボディ(グループ)舞踏は、死者の技法を縦横に駆使するものだった。
舞踏手たちは、何度も死者の国と生者の国を行き来する。
この世の背後の闇の世界からこの世界に這いでてきた彼らは、
束の間の死者の出会いを謳歌した後、一人ひとりが一つの灯り、
あるいは精霊となって石の国に逝く。
そこで横たわった死者たちは,さまざまな生のクオリアを思い出す。
光や風、木々の緑、虫や鳥、死者にとってはあらゆるクオリアがまばゆいほどだ。
生命とは何か。死の側から見たときにだけ分かるものがある。
やがて彼らは目を閉ざされ、闇のなかでさまよう。
闇のなかで死者の饗宴が繰り広げられる。
そして最後はまた何者かによって小さな箱の中に閉じ込められ
阿鼻叫喚する。
冷たい空気の中で長時間にわたって演じられた絵巻は、
まるで仏教の六道輪廻のような味わいの舞踏だった。
アクシ自身のソロ 「人形」は、この地獄図の後、さらに冷気を増した
ヒマラヤの初冬の夕まぐれに演じられた。


このように書くと、ある人々からはまるで古代宗教儀式の再来か、
オカルトのように受け取られるかもしれない。
だが、舞踏が演じられるのはそれとはまったく異なる地平でだ。
宗教やオカルトは自分たちが特定の元型や共同幻想に囚われていることを自覚しない。
それは現代人が狭い現代知に囚われていることを自覚していないのと同様だ。
舞踏手は、それら一切の囚われを脱ぎ捨てる。
そして、一身に生命40億年のクオリアをまとう。
からだの闇に棲むさまざまな元型イメージや母型的な情動(おびえやふるえ)は
恐ろしい力で私たちに襲いかかってくる。
その拘束力を紙一重の所でよじり返し、創造に転化する。
自分の生命に何が起こっているのかに耳を澄まし、
舞踏家はすべてを透明に引き受ける。
日常的な意識を止めれば、生命が生死の境界を超え、
時空を超えて共振していることがからだで分かる。
生命の舞踏とは、現代人の日常の背後で、生命がかすかにふるえながら
さまざまな背後世界と共振している生命共振の透明な媒体になることだ。
生命に対するあらゆる束縛力から囚われなき透明な媒体となるための修練が、
土方舞踏の「死者の技法」であり、サブボディ技法なのだ。


 カラビヤウ共振体とは何か
 
 
 
 
 カラビヤウ空間と多次元共振
2011年12月10日


カラビヤウ共振体とはなにか

Kats Dの「ツトム君の夢」という舞踏は、
英語では”A Dream of Calabi-Yau Fetus)と題されている。
カラビヤウ空間というものをご存じない方のために
それを図示しようとする幾つかの試みを紹介する。
上の3つをすべて統合すると、非二元かつ多次元で共振変容している
カツのいうカラビヤウ胎児のイメージに少し近づく。
それは不可視の11次元をもつ微細空間で共振している超ひもの国だ。
命が感じるクオリアは、その超ひもの共振パターンによって生成している。
私たちの見る夢もまたカラビヤウ空間で共振している
超ひもの共振パターンの変化によって生み出されている。
こんなとてつもない微細次元に体ごと入り込んで踊るためには、
人間の意識や自我や自己を持っったままでは、それが邪魔して入ることができない。
それらは二元論的な粗雑な情報に囚われているからだ。
カツはヒマラヤ共振塾に何年もかけて通い続け、
それらをそぎ落とす修行を積んできた。
その成果が、今回の「ツトム君の夢(A Dream of Calabi Yau Fetus)として結実した。

 



 
 
2011年12月10日


ツトム君の夢 Kats D

この踊りの英語タイトルは、”A Dream of Calabi-Yau Fetus"と題されている。
カラビヤウとは、超ひも理論で使われているカラビとヤウ数学博士による6次元空間を意味する。
超ひも理論によれば、超ひもはプランク長さ(1mのマイナス33乗分の1という宇宙最小のサイズ)の
11次元空間で共振している。
ビッグバン以来、現在の3つの空間次元と一つの時間次元だけが宇宙大に膨張し、
残りの7次元はプランク長さの微細空間に閉じ込められたまま共振し続けている。
あらゆる物質やエネルギーはこの超ひもの共振パターンの変化によって生成する。
とすれば生命もまた、この11次元の超ひもの共振パターンの特定のパターンをもつ。
ひも理論自体まだ数十年の研究過程にあり、標準物理学としては認められていない。
それが人類の共通知となるにはまだまだ数十年か数世紀を要するだろう。
だが、われわれはそれを待つ必要はない。
物理学の標準理論はいまだに個体粒子という物質幻想に囚われている。
同時に日常体の人間は、自我や自己、
個人と国家という共同幻想にがんじがらめに縛られている。

踊り手はその束縛を脳心身ごと脱ぎ捨てる。
そして命に耳を澄ませば、それが物質界だけではなく無数の異次元と共振していることが
からだでつかめ取れる。
その異次元共振を探るのが生命の舞踏だ。
土方巽は彼の探求の成果を「静かな家」という彼の最後のソロの舞踏譜にまとめた。
私たちはそれをこの一年間学んできた。

背後世界
鏡の裏
無窮道
深淵図
自他分化以前の沈理の関係
Xによる還元と再生


「静かな家」における土方独自の用語はすべてこの
非二元かつ多数多次元で共振し、
変容している生命の実態に迫ろうとするものだ。

すでに、「人間」以降の未来の人間のあり方として
ドゥルーズら哲学者によって「リゾーム」という変幻自在のあり方が見出されている。
旧来の集団と個という二元論的束縛を突き抜け、
国家や民族などあらゆる境界を超えて自在に分離し連結する生き方だ。

土方舞踏の「死者の技法」もまた、別の側面からそれを志向するものだ。
生命は生と死の境界を超えて共振している。
私たちのからだの闇に棲む元型イメージや原生夢、
畏れや震えという母型情動・欲望や本能もまた
非二元・多次元時空で共振し、無限に変容している。

カツはこの踊りで、現在の人間が囚われている自我や自己を脱ぎ、
性や年齢、人格、民族、アイデンティティ、知識という境界を、
変幻の限りを尽くす踊りによって果敢に超えていこうとしている。
人間がまだ見たこともない自由を一身に体現し、無限に変容してみせる。
舞踏祭のリハで1時間の踊りであったものが、
本番では一時間半にまで膨らんだ。
まだまだ生長してくだろう。
生まれたばかりのサブボディは何度も異なる場所で踊られることによって
40億年の生命の叡智を取り戻し、賢者としての師かつ生涯の盟友に育っていくのだ。

「カラビヤウ」は「リゾーム」や「死者」を超える未来の人間のありかたの
無限の自由を指し示すものに育っていくかもしれない。
超ひもは不可視の微細多次元で無限に共振し変容しているものだからだ。
それほど自由なものは私達はまだ誰も目にしたことがない。
だが、からだの闇の生命はいつもこれまでにない自由な創造を探し求めている。
ダンサーとはからだの闇から聞こえてくる未来の予感によって突き動かされ、
人間のまだないあり方をからだに体現しようとする存在なのだ。

 

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2011年12月5日


世界の始まり ジョナサン


「悪夢こそはこの裸体である」(『静かな家』土方巽)

 

ジョナサンは一年間彼の原生夢の闇を探り続けた。

最後のワークショップも悪夢=裸体という

上の謎に満ちた土方の言葉をめぐるものだった。
悪夢こそ、生命の非二元世界からなにかが誕生してくる謎にみちた、
しかしからだで入り込み考察できる場所だと気づいたからだ。

この謎に満ちた言葉も、長年かみしめていると、

からだの腑に落ちてくる。

裸体どころか、人間の心身それ自体が命にとっては悪夢なのだ。
制約に満ちた間のからだも、脳に刷り込まれた知識や知性も命にとっては悪夢にほかならない。

 

「われわれは人間という役としてこの世に来た。」

 

別の手記で土方はそうも述べている。

人間というのは単なる役として受け取ればいい。

命にとっては、人間の心身こそ悪夢のような幻影にすぎない。

だから、私たちはそれを脱いで、

あらゆるものに変容する死者にもまたなることができるのだ。

 

自我や自己に囚われた人間というカラを脱ぐと、

命が個体の境界を超えて共振している非二元の世界に触れることができる。

ジョナサンは、夢のはじまり方を微細に探り、互いの夢に入り合うワークショップをした後、

世界の始まりと題したコーボディ(グループ)舞踏公演を行った。

誰かの夢が始まると、他のみんなも、命名にその夢の世界に入り込んで

自在に何かに変容して動く。

一人の夢が終わると、その世界は掻き消え、別の人の夢がはじまる。
夢の

たがいの夢のからだ(ドリームボディ)が入り込み合う

奇妙な世界が現出した。

 

ジョナサンのサブボディソロは、裸体で行われたが、
本人の希望で写真・ビデオの撮影はしなかった。

撮影してもどのサイトにも投稿できないし、

インドでは裸体の公演が禁じられているので、

それをおもんぱかってのことだった。
前期の終わりに言葉を喋りながら踊った彼は、後期では
人間の言葉を解体し、意味のわからないヘゲモゲラ言語や体腔音が混じった
より非二元的な発声をしながら踊った。
言葉の背後には言葉にならない膨大な背後世界が広がっている。
さらにその底には生命の沈黙の海が広がっている。
それが言葉の深淵だ。ダンスを削ぎ落してからだの闇へ、
言葉を削ぎ落して沈黙の生命共振へ。
ジョナサンの旅は続くだろう。

 

彼はこのあとスペインへ移動し、舞踏に関する哲学論文を仕上げる。

彼は大学院の哲学徒だったのだ。

テーマは非二元からの誕生を探求する意欲的なものだ。
彼は、夢のはじまりという誕生の謎を考察する格好の坑口を見出した。

さて、どんな論文が仕上がるか楽しみだ。

 

 

 

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2011年12月5日


リゾーム ナターシャ・ジオ

舞踏祭の後半、それぞれのソロを終えたナターシャとジオは、

リゾームというデュオを踊った。

綱につながれた個体のからだから、綱を切り、

からだのどこででも自在に連結・分離し、

背後世界に入り、無限に変容するリゾームに変容してみせた。

写真にはあまり写っていないが、後半の二人の絡みはなかなか面白いものだった。

二人が楽しんで異世界に跳梁し、

密度を重合して変貌する実験していることが伝わってきた。

このリゾームとか、カツのカラビヤウとか、ノマドやプラトーというイメージは、

土方の死者や私の透明体という概念同様、

自我や自己に囚われた今の不自由な人間のありようを脱ぎ、

生命のもつ無限の創造力を解放してくれるのに役立つ。

人間世界に探してもそんなものは見つかりっこない。

それぞれがからだの闇を掘り、見つけ出すしかないものだ。

来年は今年以上にそれぞれが自分固有の背後世界の坑道を掘り進め

それを共有・統合して生命の創造力を無限解放する

新しい世界共創を探ることになるだろう。

二人の実験はその方向を予感させるものだった。

 



2011年12月3日

ダゴマラ イザベル


北欧からきたイザベルは、おそらく彼女の命を見舞った

家庭と世界という悪夢を踊ったのだ。

さまざまなクオリアが重合して彼女の生命を見舞った。

命は親を選ぶことができない。

産み落とされる場所や国籍も選べない。

無垢な生命は周囲からの抑圧や無視や性的虐待や近親相姦的な誘惑に傷つき、

からだの闇に息を止めて潜んで生き延びるしかない。

母親はそれを見て見ぬふりをしている。

それが彼女の命が産み落とされた家庭という悪夢の場所だった。

そしてそれらが世界中の性的暴力や環境破壊という悪夢と重合して

彼女のサブボディをからだの闇深くに幽閉した。

それらの多様・多次元的な圧力をからだの無数の踊り場が

よじり返し、踊りに転化しようと苦闘しつづけた。

生命を見舞った謎と秘密との格闘の中からだけ、

創造の花は生まれてくる。

彼女が見にまとった緑の衣裳は、

おそらく樹々や草や、脆弱な生命の精がとりついたものだ。

植物やあらゆるか弱い生命もまた人間が引き起こした公害や環境破壊という悪夢に見舞われている。

無抵抗な生命こそもっとも強い共振力をもっている。

その生命の精のからだに、背後にプロジェクトされた

世界の環境破壊やレイプして殺された無残な映像が映し出される。

彼女はそれらすべての悪夢の混沌を一身に背負って踊る。

踊り半ばで父親・愛人・アニムス・内部の妄想的人格が
混交した人物に愛撫されながら縛り付けられていくシーンの迫力が胸を打つ。

この踊りの花の中の花だ。

見ている人にはおそらくただただ混乱を与えただろう。

だが、あらゆるクオリアが多重化し、虚実混沌一体となって

襲ってくるこの非二元さが生命のリアリティなのだ。

それを意識で整理せずに踊ると、狂気のような混沌が現出する。

イザベルはこの困難に果敢に挑んだ。

踊りとして完成されるにはまだまだ時間がかかる。

完成とはなにか。誰にもわからない。

だが、この困難な課題はイザベルだけではなく

生命を踊ろうとする者にとって避けて通れないものだ。

 



 
2011年11月30日

人形 アクシ


本当に人形のように大事に育てられてきた文字通りの「箱入り娘」というのもあるものだ。

インドの上流家庭に生まれ、親や周りから可愛がられ、

美しい服を着せられ、現代知性と古典舞踊を身につけてきたアクシは、

今まで自分だと思いこんでいたものが、人形だったと知る。

傀儡体になって歩を進めてきたのち、

自分である人形が映る鏡に直面した瞬間、

唸り声を発して生命がほとばしった。

美しい人形に収まりきれないものらが、

次から次へと顔を出す。

見ていた人々はその驚愕にほとんど立ち去った。

自分の中にある異様なものに火が付きそうになって、

堪えきれずにいたたまれなくなったのだ。

それほどこの日のアクシはすごかった。

一挙手一投足ごとになにかがグラグラと崩れ落ちていった。

彼女が学んできたインド古典舞踊のバラナチアムの

精確にからだの踊り場を制御する技術が舞踏に昇華した。

腎臓や肝臓がからだのあちこちに走り、

押し着せられたものを脱ぎ捨てていく生命の迫力に

居残って見ているものはみな激しくつき動かされた。

内臓の底から立ち上がってくる踊りなど

誰も見たことがなかったに違いない。

ヒマラヤ・インドで10年やってきたが、

ついにインド人で最初の舞踏家が生まれた瞬間だった。

今回の舞踏祭の大きな収穫のひとつになった。




2011年11月29日


無妙鬼 岩淵いぐ


ヒマラヤで修行を続けてきたIkukoは、

この踊りで「舞踏家・岩淵いぐ」に転生した。

からだの闇を掘り続けた10年間の探求のすべてがこの踊りに結晶している。

蛆虫のように床を這う動きや、人喰い、出産をめぐる惨劇、胎児殺し、夜叉変化、

獅子舞い、それらはすべて10年間からだの闇から掘り出したものだ。

年ごとにそれを深め、削り落とし、

この世に一つしかない花と秘密と謎を咲かせた。

Ikukoは昔から異様な夢に襲われる。

人を喰う夢、人を殺す夢、殺される夢、おのれが異形に変成する夢・・・。

普段の思いやり深い人柄とは打って変わった惨劇に満ちている。

それらの悪夢に堪えながら、それを創造に昇華してきた。

10年という時間がかかった。

いや、踊りを完成させるためにはまだまだ遠い時間がかかる。
技術的にもまだまだ磨かなければならないからだの踊り場がいっぱいある荒削りな踊りだ。

いぐはこの後、タイに移り、バンコク舞踏祭で「無妙鬼」を踊る。

そして、故郷の岩手で、独自の練習場と舞踏グループを育てる。
他の人のからだの闇の生まれかけのサブボディの息吹に耳をすまして
適切な補助の手を差し伸べる産婆道も十分に修めた。
いぐの共振ワークには深い人生の味がある。
なんと今年の新人Gioは、去年の舞踏祭で
いぐのワークショップをたった一日経験したことで、今年舞い戻って入塾したひとだ。
この舞踏祭でもいぐの踊りに震撼した東北出身の若者との出会いがあった。

一つの踊りは様々な場所で踊られ、さまざまな命に見つめられることによって、
新たな共振次元を付加しつつ、
じょじょに多次元かつ非二元の生命の舞踏に育ち上がっていく。 

それは生涯の盟友となり、

人生の師となって無限の啓示をもたらしてくれる。

いぐはとうとう、そういう一生の財産を得たのだ。

おめでとう。

舞踏家・岩淵いぐ。
そして、サブボディ、コーボディの産婆いぐ。
苦難に見舞われた東北日本は、いま再生の方途を模索している。
生命共振の高地を創って、火を灯せ。


2011年11月27日

ファミリー・ディ ナターシャ

 

 今日は2週間続くヒマラヤ舞踏祭の中日だ。
近隣の村人家族を校庭に招いて、交流するファミィー・ディとなった。
庭で跳ねまわる、子供たちをみながら、そういえば10年前にこの村に住みはじめたときも
毎日近所の子供たちが私の小屋の庭に遊びに来て、一緒に遊んでいたことを思い出した。
いつか、この子らと踊ろうと思っていたのに、その後練習場建設の過程で、ひどい神経症に見舞われたり、
サブボディ技法を深めることに没頭していつしか諦めていた。
子供らはサブボディとボディが分化する前の段階で、大人とは違った生き物なのだ。
わたしにはその違いを探求する余裕がなかった。
だが、それから10年経った今年の秋から、ナターシャがその夢を引き継ぐかのように
毎日曜日子供らのためのワークショップを始めてくれた。
今日はその総まとめの子供らのフェスティバルになった。
めいめいが絵を描いたり、仮面を作ったり、折り紙を習ったり、最後は作ったお面をつけての
仮面舞踏会となった。
まだ、始まったばかりの試みだが、生命共振の輪を世界に広げていく過程では、
こういう試みは重要だ。
世界各地に散らばって、自分の得意なチャンネルで、絵や、歌や、工作や、踊りや、笑いや、
さまざまな工夫で、老いや若きの各層に共振の楽しさを伝えていくことを工夫して欲しい。
こういう多次元的な生命共振の試みが、いつかひとつに花開く日が来るだろう。


2011年11月25日

子宮の深淵 ピラー

 

コロンビアからきたピラーは4度目のヒマラヤになる。

一回目と2回目のときは、テロリストに撃たれて死ぬ悪夢を繰り返し踊った。
のたうちながら死んでいくその難儀なしかし必須だった苦しい踊りを踊ったあと、

彼女は建築家の仕事をやめ、中南米各地を旅してまわった。

それは同時にからだの闇の奥地に入る旅だったのだろう。

去年はメキシコ湾の透明な水に潜って、水の精霊に触れつづけた。

4回目になると、彼女はヒマラヤにアマゾンを連れて来るようになった。

この「子宮の深淵」には、中南米のインディオ文化の水がとうとうと流れている。

子宮の奥深く入っていく旅で、その深淵には、子宮内の惨劇や甘い夢、

水の精、祖先の霊、唾を吐き捨てるようなインディオの唄声がこだましている。

おそらく胎児のときの生命記憶も混じっているのだろう。

いつも水辺や水中で踊り、帝王切開によって生まれてきた自己史の謎を探求している。

彼女は、自らの命が背負う背後世界との境界を消し、

自らのからだにシャーマンの秘儀やインディオのユニークな発声を背負い込む

現代シャーマンへの変成を続けている。
ピラーの創る踊りを見ていつも驚かされるのは、共振塾の空間をうまく使って、まるでタイム・スペースマシンのような不思議な時空を生み出すことだ。ダンスホール-アマゾンの森-子宮の暗闇-地下水-秘儀の洞窟-スペースシャトルなどの時空がワームホールでつながっている。彼女の建築家としての才能が踊りの創造の中統合されてきだしたのだ。

ピラーの旅は続くだろう。

新しい中南米土着の生命の舞踏がそこから生まれてくるだろう。
それは私の見果てぬ夢でもあった。
アマゾンの裸族ナンビクワラの人々やアボリジニなど世界各地の先住民と交流する機会が何度もあったのに、
ついぞ実現しなかった。
私たちの命は非二元の子宮の深淵でつながり、共振している。
ピラーの踊りはその生命共振世界へ誘ってくれるものだ。

 

 



2011年11月23日

写真の背後” ジオ  

韓国から来たジオは、この日の午前中、顔のワークショップをした。
彼女にとって生まれてはじめての舞踏ワークショップだ。
共振塾生と一般参加者がほぼ同数だったので、
ペアになって向かい合い、悲しみや笑いからはじめて、
じょじょに半分が怒り、半分が笑いの顔、
半分が赤ん坊の顔、半分が母、など顔のキメラへと高度化していった。
参加者の顔が十分ほぐれた頃、ひとりずつ顔で自分の人生を踊るよう求めた。
日常世界向けの仮面の下に隠している命の来歴を見せあった。
20人ほどの顔の人生舞踏はなかなか見応えあるものだった。

そしてその後、彼女がカンボジアで見たプノンペンの虐殺博物館に展示されている
ポルポト派に処刑された人々の写真を見せた。
死を前にした顔とは何か。
今日私たちはそれを踊ります。
後半では観客の人も舞台に誘うから一緒に踊って欲しいと伝えた。

劇場では、処刑された人々の写真がプロジェクターで暗幕に投射された。
暗幕から顔だけ見せていた踊り手たちが、
写真からこの世に出て来て一人ひとり処刑される場へ向かった。
その最後に命はどんな顔を見せるのか。
一年間死者の技法を学んできた踊り手たちはみごとに死者の媒体となって踊った。
写真の向こう側の死者たちが踊り手にのりうつって出てくる。
処刑されたのは皆私と同時代の人々だ。
その死者たちの最後の思いを歳若い踊り手たちが引き受けて踊っている。
ほとんど涙が出そうになった。

そして、後半では集合写真の中から死者たちが最後の命の踊りを踊りながら、
観客に近づいて誘った。
驚いたことに観客もためらうことなく舞台に出て踊った。
踊ることを禁じられているチベット仏教の尼僧さえ踊りでた。
命は生死の境界を超えて共振してしまうのだ。
舞台上の人々のからだに死者たちの姿が映り、
まるで死者が踊り手の体を借りて踊り出したかのような夢幻世界が現出した。

この踊りは、死者と生者の境界を消したばかりではなく、
踊り手と観客の境界さえ無化してしまった。
強烈な生命共振が起こるときは、観客と踊り手の境界どころか、
生死の境界さえ超えて起こるものなのだ。
それは長い間私が最も実現したいことだった。
だがあんまりなので生徒にさえ伝えることができないでいた私の非望だった。
だが、ジオは私に代わってその非望を一挙に実現してしまった。
人生ではときどきこんな奇跡のようなことが起こる。
だからやめられないのだ。
奇しくも今日は死んだ母の86回目の誕生日だ。
この踊りは、異常なほどの共振力を持っていた母への最大のプレゼントになった。
ありがとう、ジオ、そしてすべての生徒たち。


 
2011年11月22日

"Zoe(ゾエ)"  ナターシャ 

ナターシャ(オランダ)は、コーボディ(グループ)パートと
サブボディ(ソロ)パートをあわせて、1時間半の踊りを創った。
前半のコーボディパートは、8人の踊り手にそれぞれの移動の仕方を指示し、
展開の中で複雑な出会いが起こるように仕組んだ。
生と死の間であらゆる予想できないことが起こる。
複雑な構成をごく短時間で仕上げたのには驚いた。
他の踊り手もなんなく共振する。
一年間の自由共振と石庭練習のたまものだ。
彼女はすでに前期に1時間のソロをつくり上げていた。
からだの闇の魑魅魍魎が跳梁跋扈する踊りだった。
後期ではそれだけではなく、さらに深いところへ降りていった。
そこで出会ったのは女性ではないサブボディだっただろう。
ペニスを持つ男性の姿で踊り始めた。
男性とっての「女体」に相当する新しい「男体」が誕生した。
そして途中でその男性が女装して踊る。
両性具有の世界へ、さらに無性の世界へ降りていった。
性とは何か。
からだの闇に棲むアニマやアニムスとは何か。
彼女は踊りを通じてこのめくるめく問いを問い深めていくことになるだろう。


2011年11月20日

サブボディの胎芽たち・モニカ、カルメン、ノア、チーコ 

舞踏祭初日は、短期生4人の踊りから始まった。
サブボディは一年かけてようやく誕生するかしないかの胎児に生長する。 
一年コースのサブボディが臨月の胎児だとすれば、 
一ヶ月コースのサブボディは胎児になる前の胎芽(エンブリョー)になったばかりだといえる。
まだ自分が何ものなのかも、どう動いていいかもわからないまま、命に従う。
時分の花が開く、それよりもかなり前の状態だといえようか。 
表情がどことなく初々しいのがわかると思う。
ただ、ハンガリーから来たモニカは九年前のブダペストで行った二週間のワークショップの参加者だった。 
ボランティアに来ていたラダックでたまたま夏期の旅行中のシブと出会って、 今月やってきた。
古い友と会うことほど楽しいことはない。
とりわけモニカはこの九年の間たゆまずからだの闇を掘り続けていたことを 踊りで示してくれた。 
世界で巻いた種が少しずつ芽を吹いているのだと知って嬉しかった。 
さて、明日からはサブボディ・コーボディの胎児群が踊りだす。 
胎芽との違いを味わってもらいたい。 
なぜ、一年かけてからだを掘り続けなければならないかもわかっていただけると思う。 
また、今日の胎芽たちが二週間の舞踏祭で10のワークショップ、 
20の公演、コーボディ経験をからだでくぐり抜けることでどれだけ生長するかも見ものだ。


2011年11月19日

前夜祭 

踊り手たちは昼間から町へ繰り出してあちこちの場所で踊った。
ちょいと目立ちすぎたのか、警官がやってきてあれこれ尋問された。
許可なく町で踊って往来の妨害をしてはならないという。
月曜にはセキュリティオフィスに地主と共に出頭せねばならなくなった。
ジプシーが町のどこでも自由に踊り歩いていた古きよきインドは急速に失われつつある。
警察の知れるところとなったので、踊りも制約されることになる。
丸裸の踊りはインドでは公式の場では行えない。
嫌だが生徒にはツンか何かをつけてもらわねばならなくなった。
こういう問題には世界のどこででも出会う問題だ。
その都度臨機応変に克服していくしかない。


2011年11月18日

ツトム君の夢(A Dream of Cakabi-Yau Fetus) カツD 

アメリカ、ミネソタ州に住むカツは、この1時間の踊りにここ数年のからだの闇の旅をまとめた。
リハを見ながら、私は通常生徒の踊りをスケッチし、アドバイスを書きこむのだが、
カツからは今日は何も書くな、何も言うな、ただ踊りを見てくれと言われていたので
日頃の仕事から解放されて直に踊りを味わうことができた。
するとカツの踊りを見ながらさまざまな想念が立ち上ってきた。
ひとつは私たちはなぜ踊るのだろうという問いだ。
カツのサブボディは、今の自分のあり方から遠くへ抜け出るために踊るのだと叫んでいた。
そのためにからだの闇に無数の異なる傾性を探る。
人間の誰々という規定性や同一性に満足しているなら踊る理由はない。
それを桎梏と感じる命の声が私たちを創造に駆り立てる。
今以外のあり方へ、無限変容する命の必然に促されて踊る。
カツは生物学的には男だが、内面のサブボディは女性だ。
前半の女体では、たったひとつの肉体と、そこに収まらない魂の解離を必死に踊っている。
だが、それだけにはとどまっていない。
性差だけではなく、カツのサブボディはこれでもかというほど
多数多様な人格や生物にどんどん変容していく。
おおい、どこまで行きたいんだい?
そんな呼びかけを掛けたくなった。
カツのサブボディは応えた。

人間の彼方へ、さ。

性や年齢や人種や国籍を超えて。
人間だけではなくさまざまな生き物へ。
生死や時空を超えて無機的な物質へ、非存在へ。
多次元共振する命はとどまることろがない。
カラビヤウ空間の胎児の夢という英語のタイトル通り、
カツのサブボディは過激な衝動に駆られて突き進んでいる。
数年前の踊りとは比べものにならないほど多様化を深めた。
私の中にもまだ踊れていない幾多のサブボディが潜んでいる。
そいつらが蠢く息吹が聴こえた。
とりわけ母と性をめぐっては私のサブボディはとんと踊りだそうとしない。
そうかぁ、人間の彼方へか。
わたしはすこしだけ勇気づけられるのを感じた。


いよいよ明日から、第3回舞踏祭が始まる。
お楽しみください。

2011年11月17日

花びら熱・ジオ


韓国からきたジオのサブボディは、この日一挙にサブボディもコーボディも完成させた。
踊りの創造の過程ではある日衣裳、メーキャップを含め、心技体が一挙にひとつになる瞬間がある。
この日ジオは、彼女がカンボジアで見たポルポトに虐殺される直前に撮影された人々の写真をみんなに見せ、
死を前にした顔を踊るコーボディパートをガイドした。
フェイス・カーニバルというタイトルから何か楽しい顔の変化かと思いきや、
なんと死を目の前にした顔の無限の変化に焦点を合わせたディープなものだった。
私だけではなくすべての生徒を震え上がらせたあと、
ジオは1時間のソロを踊った。
それについては何も言葉はない。
ただ一人の舞踏家の確かな誕生の瞬間に立ち会うことができた。
命が激しくふるえる体験だった。
踊り終わったあと大きな拍手が起こった。
練習場で拍手が起こるなど普通はありえない。
そんな例外的なことが起こった。

いよいよ明日から、第3回交際舞踏祭ヒマラヤが始まる。
10のソロ舞踏、10のコーボディ世界共創、10のワークショップ、
そして街でのイベントが2週間続く。
命の舞踏の祭典だ。 お楽しみください。



 
2011年11月15日

無窮子宮・ピラー


コロンビアのピラーは、これでもう4回目のヒマラヤになる。
この夏のギリシャにも来た。
建築家をやめ、踊りの道に専念しようとしている。
今年はこれまでのからだの闇の長い旅がひとつになりつつある。
インディオの声、水辺の精霊、子宮の深淵。
彼女は帝王切開で生まれたため、産道をくぐり抜けていない。
それでなおのこと分娩体験にこだわっている。
この夏何年かぶりで再会した母から分娩前後のことをくわしく聴いたという。
この日、サブボディホールの中に設営した小さな暗がりの中のゆらぎからはじめ、
元建築家らしく、さまざまな空間に生徒たちを誘った。
暗がりの中の剥製体、子宮体験、水に沈み、からだに泥を塗り、
火の周りで踊った。
今週それぞれの生徒は他の生徒が誘う10の異世界を旅する。
その異世界体験を通じてサブボディを多次元的に鍛えあげていく。
今年の創造も大詰めに近づいてきた。


 

ファミリー・ディ 2 ナターシャ

 

 この秋、ナターシャは毎日曜日、近所の村の子供を呼んで、ワークショップを続けてきた。
ヒマラヤ舞踏祭の日曜日、近隣の村人家族を校庭に招いて交流するファミィー・ディとなった。
庭で跳ねまわる、子供たちをみながら、そういえば10年前にこの村に住みはじめたときも
毎日近所の子供たちが私の小屋の庭に遊びに来て、一緒に遊んでいたことを思い出した。
いつか、この子らと踊ろうと思っていたのに、
その後練習場建設の過程で、ひどい神経症に見舞われたり、
大人向けのサブボディ技法を深めることに没頭していつしか諦めていた。
大人にとっては強大に成長した自我や自己を鎮めることが課題になるが、
子供たちの自我はまだ成長途上にある。
子供らにとってはサブボディとボディや、自他の境界が分化する以前の段階にある。
大人とは違った論理で動く生き物なのだ。
わたしにはその違いを探求する余裕がなかった。
だが、それから10年経った今年の秋から、ナターシャがその夢を引き継ぐかのように
毎日曜日子供らのためのワークショップを始めてくれた。
今日はその総まとめの子供らのフェスティバルになった。
子供らはさまざまな動物に変身し、跳びまわった。
めいめいが絵を描いたり、仮面を作ったり、折り紙を習ったり、
最後は作ったお面をつけての仮面舞踏会となった。
まだ、始まったばかりの試みだが、生命共振の輪を世界に広げていく過程では、
こういう試みは重要だ。
世界各地に散らばって、自分の得意なチャンネルで、絵や、歌や、工作や、踊りや、笑いや、
さまざまな工夫で、老いや若きの各層に共振の楽しさを伝えていくことを工夫して欲しい。
こういう多次元的な生命共振の試みが、いつかひとつに花開く日が来るだろう。


 

タタパニのナターシャ

 

 この秋、私が日本に行っていた間、10月の週末、
生徒たちは近くのタタパニという温泉の出る聖地に出かけて踊った。
そのとき、ケスリが撮ったナターシャの写真がFacebookにアップされたのを見て驚いた。
ロメスの撮った写真(10月の記事「水辺のノマド」参照)からは想像もつかない
彼女の野生の姿が映されていたからだ。
まるでジャングルで雄叫ぶターザンさながらだ。
写真は怖い。
撮影場所やアングルの違いでこんなに違ったものになるのだ。

共振塾では一年かけてさまざまなサブボディを少しずつ呼び出し
からだごと踊って蓄積し、年末に一つの踊りに統合する。
静寂体、原生体、獣体、異貌体、女体(男体)、衰弱体、
気化体、ボトム体、キメラ体、巣窟体、憑依体など
さまざまな十体を統合することではじめて自分のからだの闇の全貌を踊ることができる。
その中にはこんな野性的なサブボディも潜んでいる。
サブボディによって出てきかたが、まったく異なる。
なかなかでてこないもの、おずおずと出てくるものもいれば、
突然爆発的に出てくるものもいる。
土方巽のいう「狂王ヘリオガバルス」や、
ヨガでクンダリーニと呼ばれてきた強烈なエネルギーを持って噴出してくる面々だ。
こういうサブボディは最後の方に出てくるようにしなければ、
狂暴すぎて初心の頃は手に負えない。
はじめは処女のごとく、終わりは脱兎のごとく、が安全なやりかただ。

多様なサブボディと時間をかけて付き合ってはじめて
それらすべてを統合してひとつの踊りにする方法が見つかる。
共振塾が一年コースを最短にしているのは、
それ以下ではこの全体を学べないからだ。



 
 
2011年11月12日

111111の大収穫祭


昨日は1が6つ揃う記憶しやすい日だった。
ちょうどその日と前日の2日にかけて、ヒマラヤでは大収穫祭が行われた。
生徒たちは一年かけてからだの闇を掘り抜いてきたサブボディを1時間のソロにまとめ上げた。
見ているものの命が震えながら巻き込まれていくすごい踊りが次々と出てきた。
私はそのすべてを線画にスケッチして生徒に渡した。
言葉はない。
写真を見るだけでも少しはここで何が起こったかの片鱗は嗅ぎ取れるかもしれない。
こんなに深い踊りの胎児が一挙に生まれた日など人類史上かつてなかったに違いない。

だが、本当の踊りの創造はこれから始まるのだ。
踊りは出てくるときは一挙に出てくるがまだ胎児のままだ。
それを何度も何度も踊りこんでいく中で、
命の多次元共振の度合いを深め、一人前の踊りに成長していく。
その踊りを成長させていくしくみが、今できつつある世界共振ネットだ。
折よくタイに帰国していた今年春の生徒のボーとシブから連絡が入った。
ふたりともバンコクやパタヤや、シンガポールで舞踏公演やワークショップの
準備をちょくちょくと進めているという。
Ikuko、ケスリはじめ、何人かの生徒はヒマラヤの舞踏祭が終わったあと、
インドから、タへ、そして世界各地へとノマドとなって散らばっていく。
今年の生徒は、世界のどこででも公演やワークショップを開き、
独自の生命共振とサブボディ・コーボディを生み出していく技術を身につけている。
各地の人々との生きた共振のなかでのみそれらは磨き上げられていく。
それは今世紀の世界でもっとも面白い生き方である。

ヒマラヤへ来て十年で、とうとうここまでこぎつけた。
あと何年頑張れるか分からないが、もはや私の役割は終わりつつある。
私にかわって生徒たちが優れた産婆に成長してきた。
あるいは、ここから先、産婆以外のなにか新しい生の可能性が口を開こうとしているのかもしれない。
ワクワクの冬がもうすぐやってくる。




2011年11月8日


舞踏祭の新展開


今月下旬から2週間、ヒマラヤではときならぬ舞踏フェスティバルが始まる。
これまで二回の舞踏祭は各自が舞踏作品を作ることで精一杯だったが、
この3回目からはあらたな展開が始まった。
一年かけてからだの闇を掘り抜いてきた生徒たちはその体験を3つの結晶に創り上げようとしている。
世界のどこへでも持ち運べる3つの果実だ。

ひとつはそれぞれが1時間のソロを創る。
ほぼ全員が30分から45分までを仕上げてきている。
もう一つは、一人ひとりが群れの動きをガイドして、自分の理想の、あるいはユニークな世界を共創する実験を行う。
最後の一つは、一般参加者向けに自分固有のワークショップを開く。
3つとも世界との共振の異なったあり方だ。
それを生徒たち自身で創り上げようとしている。

今年で修了する生徒たちは、
サブボディソロと、コーボディ世界共創と、ワークショップ技法、
一年かけて掘り抜き身につけたこの3つを携えて世界各地へ飛び立つ。
旅を続ける生徒もいれば、自国へ戻る生徒もいる。

だがどこであれ、この三つさえ持っていれば世界のどこでも生きて行けることができる。
わたしも十数年前は、この3つだけ持って世界を何周もする旅を続けていた。
2年の産婆コースを修了して故郷の岩手に戻る育子は
そこに舞踏の練習場と練習仲間からなる小さな拠点を創ろうとしている。
新たなプラトー(高地)の形成だ。
すでに兵庫では清子が高砂舞踏協同組合をつくって十年になる。

舞踏のコミュニティは小さいが、小さいからこそ互いに交わり、
連結・協同したり、分離したりがしやすい。
リゾームがノマドとなり移動し、あちこちに凝集してはプラトー(高地)を生成する。
すでにUSAやギリシャ、スイス、オランダ、ハンガリー、スペイン、トルコなど世界各地の生徒が
その土地土地に根付いた小さなプラトーを生み出しかけている。
その間をノマドとなったリゾームの群れが駆け抜けていく。
ようやく世界の行き先がおぼろげに浮かび上がってきた。
世界に生命共振のさざなみが広がる。
ほんの少しずつだが世界が確実に変わっていこうとしている。


第3回 国際舞踏フェスティバル ヒマラヤ プログラム

 Butoh Performance  Workshop  Photo, Movie and Events
All Fee : Free, Please join and enjoy!

Date

Time

Place

Event

Dancer

19

Sat
Nov

 

14:00

McLeodGanj

 

 

Pre-festival
Performances
at various places of the town

 

 

Some

 

18:00

Moon Peak Café

 

 

 Photo Exhibition

and Introduction
to Subbody
Butoh Talk and performance ?

 

Some

 

20

Sun

 

10:00

Subbody Hall

Children's Workshop

 

 

Workshop  with Natasja

 

13:00

Subbody Hall

SubbodyButoh Workshop

 

 

Workshop  with Ikuko

21

Mon

 

10:00

Subbody Hall

SubbodyButoh Workshop

 

 

Workshop  with
Kats D

 

18:00

Subbody Hall

 "Life in Transition"
Butoh performance

 

 

Natasja(Holland)

 

22

Tue

 

10:00

Subbody Hall

SubbodyButoh Workshop

 

 

Workshop  with
Gio

 

18:00

Subbody Hall

 Sub-world"
Butoh Performance

 

 

Pilar(Colombia)

 

23

Wed

 

10:00

Subbody Hall

"A dance with No Dancer" Workshop

 

 

Workshop  with Jonathan

 

18:00

Subbody Hall

 "&" Solo Performance

 "The Origin of the World" Butoh Performance


 

 

Jonathan(Canada)

 



Jonathan

24

Thu

 

10:00

Subbody Hall

SubbodyButoh Workshop

 

 

Workshop  with Akshi

 

12:00

Subbody Hall

 Cobody Performance

 

 

Akshi (India)

 

18:00

Subbody Hall

 "A Petal" solo Performance

 

 

Gio (Korea)

 

25

Fri

 

10:00

Forest

SubbodyButoh Workshop

 

 

Workshop  with Isabelle

 

12:00

Forest

 Cobody Performance

 

 

Isabelle

 

18:00

Subbody Hall

 Solo Performance

 

 

Isabelle (Sweden)

26

Sat

 

10:00

SubbodyButoh Workshop?

 

 

Workshop  with

 

18:00

Subbody Hall

 Butoh Performance

 

 


Ikuko (Japan)

27

Sun

 

10:00

Subbody Hall

Children's Workshop

 

 

Workshop  with Natasja

28

Mon

 

10:00-
10-00

Subbody Hall

 

Sleeping Day?

,

Some

 

 

29

Tue

 

10:00

Subbody Hall

SubbodyButoh Workshop

 

 

Workshop  with ?

18:00

Subbody Hall

Butoh Performance

 

Natasja

 

 

 

30

Wed

 

11:00

Subbody Hall

 

 

Butoh Workshop?

Workshop with

 

 

 

18:00

Subbody Hall

 Solo Performance

Akshi(India)

 

19:30

Subbody Hall

 Solo
Performance

Eleanor(Austraria)

1

Thu
Dec

 

10:00

Subbody Hall

 Possessed body Workshop

 

Workshop with kats D

 

12:00

Subbody Hall

Possessed body Performance

Kats D

 

18:00

Subbody Hall

 "ツトム君の夢ーA Dream of Calabi-Yau Fetus" Solo Performance 

 

Kats D (USA-Japan)

2

Fri 
Dec

10:00

Subbody Hall

SubbodyButoh
Workshop

Workshop with

 

14:00

Subbody Hall

Grand Final Performance

All

 


2011年11月6日


エッジを踊る

いよいよ、11月、共振塾も今年最後の月だ。
今年、各長期生は、それぞれ今年一年間のからだの闇の旅を総合し、
1時間のソロと、コーボディ世界、そして、自分なりのオープンワークショップをガイドする。
これが第3回ヒマラヤ舞踏祭に向けての課題だ。
統合プロセスに入ると、各生徒はこれまでに出会ったキツイエッジクオリアに思いがけぬ襲来を受ける。
それもパワーアップしたエッジに出くわし、息もできなくなることがある。
10月の末から、11月にかけて多くの生徒がその状態に見舞われた。
頃合いを見て、一日エッジワークの日を設けた。
今年は、一人ひとりの生徒が襲われているエッジクオリアを、
他の生徒全員で体験しあった。
一人が真ん中に寝転ぶ私に、自分の感じている息苦しさや、身動きの取れなさなどの
嫌なクオリアをそのまま私に与える。
具体的には胸を押し潰そうとしたり、首を閉めたり、重さをかけたりした。
それと同じクオリアを他の生徒で同じように押しあったり、絞めあったりして共有する。
一年もからだの闇を旅してきた長期生にとってはどの苦しさも思い当たるものばかりだ。
身動きできなくなるほど苦しいが、なんとかそれを克服して、創造に転化してきた。
土方も、同じことを「静かな家」で述べている。
土方の文体は難解でとっつきにくいが、
10年ほど食いついてしゃぶっていると、
だんだんにそれが創造のための、
普遍的なからだの掘り方の宝庫であることが
からだに沁み込んでわかってくる。
たとえば、次の節を理解するのにわたしはまるまる十年かかった。


「16 場所を変えることの難しさ

 

    体こそ踊り場であろう。手の踊り場、尻の踊り場、肘の裏の踊り場等。

    この場所が持つ深淵は、この踊り場にはさまってくるものを克服し、

    からみつかせる事により成立する。

    例えば、柳田家があり、柳田家の庭にクジャクがいるという事をたいへんに

    貴重なものであるという発見をする。

    また、カン工場という場所は、私にとってなつかしい粉末というものによって

    語られる。

    それらが踊る際の血液になっているのだ。」

からだの各部の踊り場にはさまってくるものを克服し、絡みつかせることによって
一つの場所が持つ深淵を開示することができる。
さらっと述べているが、その奥には血の出るような苦しみがある。
からだの各部はトラウマや苦しい思い出に囚われている。
囚われているだけでは創造に転化することができない。
トラウマや苦い思い出と格闘しなければその先に突き抜けることができない。
それを今年一年、長期生に身をもって体験してもらった。
その体験が、踊りの血液になる。
深淵から拭き上げる血液だ。
エッジと格闘していない表面的な踊りなど見せる値打ちも踊る価値もない。

「深淵を秘めよ。
どこに?
表面に。」
(ニーチェ)

皮膚の表面のかすかな震えに目も眩むような深淵が秘められている。
物理的な皮膚だけではない。
不可視の秘膜のそこかしこに深淵に続く坑道が真っ赤な口を開いている。
舞踏家になるとは、そういうからだに変成することだ。
最低一年はかかる。共振塾の最短コースが一年なのはそのためだ。
短期で何かをつかもうなどと甘い魂胆でやってきては怪我するばかりだ。
一年では足りないかもしれない。
できれば二年、三年とコースを延長していくことになるだろう。
各自の命の深淵から立ち上る不可視のクオリアを身にまとえるからだになること。
そのための最善の修行場であること。
命は生きるために本当に必要な創造と共振したがっている。
その生命共振を実現していくためのひとつのプラトー(高地)になること。
それが共振塾ヒマラヤの存在理由だ。



November-December 2011
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