Spring 2008
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2008年5月9日
衰弱サブボディ コーボディ劇場
2007年4月27日
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岩場の松の実先生
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いつもいく近場の森は、松の国有林だ。
300年以上の大樹もある。
先週の金曜日は、松ぼっくりから取り出した一片の松の種になりこんだ。
風に乗ってどんなところに飛ばされるか分からない。
たまたまうまく岩の割れ目に着地した松の実だけが生き延びる。
だが、どんな形で割れ目に定着する分からない。
頭が下か、足が下かも偶然だ。
その偶然がその人の人生最初のコンステレーション(布置)を決める。
両側から生命を守りかつ締め付ける岩は両親のようなものだ。
人間もどんな両親の元に生れ落ちるか知れたものではない。
ただの偶然なのに、ひとはこの偶然受け取った最初のコンステレーションに
深く規定され、それに囚われつつ生涯を送る。
だから、できるだけ早くそんなものは初期化してまっさらにしてしまえばいいに決まっている。
だが、それが簡単にはいかないことが多い。
森へ行って、自分の内部の布置にもっともふさわしい地形を見つけて命の震えに耳を澄ました。
自分と世界の間のコンステレーションの変化を味わいながら動いてみること。
それが、4月第2週目の課題だった。
生徒は岩場や洞穴や木立を見つけて布置を変化させていった。
何回も何回も自分を規定してきたコンステレーションを踊ること。
そんな偶然のちっぽけなものに囚われている自分が
ばかばかしくなるまで踊り続けること。
それだけが、自分を閉じこめてきた初期条件を無化する方法だ。
コンステレーションはユングの用語で、布置や配置と訳される。
内的なクオリアのあり方と、外界からのクオリアはつねに共振しているので、
内的なクオリア流の変化に応じて、外界からたち現れる出会いや元型がどんなものになるかが決まる。
共時性といわれるものも、内なる布置と外界とのかかわりの共振によってもたらされる。
共振は時に偶然の一致に見える。共振だからどんな一致に見えても何の不思議もない。
共振に気がつかない人だけが、そこに神秘や超能力を受け取ったり勘違いしがちだが、
そういう既成の解釈に囚われず、ただ、命の共振に耳を澄ませばいいだけなのだ。
今期の生徒達は、内クオリアと、外クオリアの布置の共振を
直にからだで感じ取っているので、出てくる動きがとてもリアルだ。
フェイクの動きが少ない。フェイクが少なくなってきてはじめて、
それをなくすよういざなうことができる。
最初この学校に入ったばかりの生徒は、ダンスや舞踏の既成概念に囚われた
フェイクだらけの動きを見せるから、その段階では、言っても無駄なのだ。
自分で自分の動きがフェイクかそうでないかが分かるまでに何ヶ月もかかる。
今期の生徒には、そろそろそれを味わい分けるよう
いざなう時期が近づいてきたようだ。
実際、自分をもっとも苦しめてきたものに立ち向かうとき人は、
意識の振りなどをさしはさむ余地などないところで踊ることになる。
自分の命にいたるためには、そういう必然の踊りだけを続けなければならないのだ。