透明論 2005
はじめに
1 からだの闇に聴く
2 クオリアの海へ
3 サブシグナルを捉え増幅する
4 三界トラベル変容技法
5 サブボディとコーボディの謎
6 序破急
7 鮮深興
8 図地兆
9 花とくぐもり
10 透明さ
11 世界を共創する
12 全的生存へ
サブボディメソッド
生命論2011
クオリア論2010
透明論2009
   肯定論2008
共振論2007
舞踏論2006
透明論 2005
実技ガイド
共振タッチ技法
図解ツアー
キーワードツアー
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サブボディメソッド 2005


透明さについて

はじめに

         なぜ踊るのか。

  どう生きればいいか、長い間つかめなかった。45年間、さまざまな生き方の藪道を掻き分けてきて、
ようやく踊りがもっとも全的な生を生きることができることを知った。生命のかぼそいゆらぎや、からだの
闇のくぐもりから、創造の火柱まで、人間であることの端から端までに向き合い、味わい、不美とされて
いるものから美を創出し、他者と共有することができる道だ。


         なぜ踊りはことばなしに通じるのか

  
若いころは詩や小説を書こうとした。だが、うまく言葉を操れず、逆に自分の書いた言葉がなんども自分
を裏切る体験をした。言葉にしてしまったとたん、どこかでわずかに嘘になる。からだのなかで実際にうご
めいているものが言葉からもれ落ちてしまう。言葉に表現されたものよりもその漏れ落ちているもののほう
が気になって仕様がなかった。私固有の病だった。言葉と言葉にならないものの間にはいったいどんな
なぞが秘められているのか。私は言葉以前のものに触れる生き方を探して歩いた。

  人と付き合うことに疲れ、一人山や海の自然のほとりをほっつき歩いていた頃もある。鳥や高山植物や、
水晶を探し歩いた頃もある。

魚やえびなど水生動物の幼生の透明さに惹かれ、何年も飼育にふけったこともある。

 音楽やスポーツも言葉を使わない世界だ。そこにも分け入った。竹を削って笛を作り毎夜河原でバッハを
吹いた。水泳からスキー、登山、自転車、トライアスロンまで進んだ。だが、音楽には音楽の限定されたル
ールがあり、スポーツにはたとえば競争という余分な要素が入ってくる。もっと、自由に生と創造に触れる
世界はないのか、と探していた。

  踊りは、からだの奥の言葉になる以前の闇のそこから出てくる。そして、踊りは、言葉なしにいきなり人
と人がまるごと通じ合えることを知った。何だか分からないがからだの奥には、人と人が通じ合える秘密が
隠されている。その謎に魅せられ、からだの闇に日々坑道を掘り進め、踊りの秘密を掘り下げてきた。

         リゾームになれ、たったひとつの秘密となれ!

  日本での活動後、1998年から、何年にもわたって、タイ、インド、東西ヨーロッパ諸国、南北アメリカの地を踊りの公演とダンス・ワークショップをしながら回った。言葉の通じない国や地域でいったい自分の踊りがどう受け取られるのかからだで確かめたかったからだ。この旅の中で、踊りを探求する拠点の必要に迫られ、北インドのヒマラヤの山麓・ダラムサラの地に踊りの練習場と野外劇場を建設した。

         なぜインド・ダラムサラなのか

   インド・ダラムサラはヒマラヤ山麓の標高2000mの地にある小さな国際村だ。1959年に中国から亡命してきたダライラマとその寺、そして村役場ほどのチベット亡命政権があり、多くの国からのボランティアがそれを支えている。地元のインド人と何万人かの亡命チベット人、多国籍の外国人、そして、猿や、鷲、雪豹などの野生動物が共存している。 異質なものが狭い場所で共存するとはどういうことかを実地に学べる格好の地である。

  この地に練習場を建設するなかで天災・人災、カルチャーギャップなどに基づくトラブルが相次ぎ、予想外の3年間もかかってしまった。だが、この一切の社会的活動を停止した3年間の時期に自分のからだの闇の更なる深部へ至る坑道を掘り進めることができた。これは、その探求の記録である。

         言葉以前のクオリアの海

  人間のからだ(※脳心身のすべてをさしてからだと呼ぶ。以下同じ)のなかで、流動生成している、言葉になる以前の体感情報をクオリアと呼ぶ。体感や、質感、実感などの総称だ。それは言葉のように分節化されず、無限の諧調の変化を通じてあらゆる異次元を結びつつ変容流動している。言葉を使わない動物はすべてこのクオリア流動によって、認識・判断し、行動している。人間も言葉を使ってものを認識するようになる以前は、このクオリア流動による認識(=クオリア流動覚)で行動していた。今も、言語意識によってマスキングされ、意識されなくなっているが、言語認識の基底には無意識裡にこのクオリア流動覚が働いている。踊りとはこの言語以前のクオリア流動をからだであらわす芸術なのだ。

         私の踊りを作ったのは誰か?

  わたしはこの間、いくつかの踊りを創って踊り歩いてきた。だがそれは正確な表現ではない。意識としてのわたしには、踊りを創ったという記憶がないのだ。長い時間をかけて苦しみぬいていた記憶はある。だが、踊りはいつも意識の知らない間にできあがっていた。からだの闇をむしってもがいている間にからだが勝手に見つけ出していたのだ。意識的なわたしではないとすると、私の踊りの作者とはいったい誰なのか? これが最初にぶつかった大きな謎だ。

         sub-bodyco-bodyの謎

  わたしはとりあえずその作者をsub-bodyと呼んだ。わたしのからだの闇にすむ未知なる、踊るからだ。意識(consciousness)の裏に、下意識(subconscious)が発見されたように、からだ(body)の奥にもうひとつの無意識のからだ(sub-body)がある。そのもうひとつのからだが踊りを創り、踊っている間も踊りつつあらゆることを配慮している。踊りの勢いや序破急を精細に聴き、踊る空間や時間、聴衆の反応などといつも無数の高度なやり取りを続けて踊りの行き先を見出している。それは意識的にやるには高度すぎて、意識にはとてもできないことだ。

  もうひとつ、踊るからだの特性は、いつのまにかほかのひとの踊るからだと一体になってしまうことである。踊っていると自分のからだとほかの人のからだとの区別がなくなっていく。そして、ほかのおどるからだのことが自分のからだとひとつながりのものとして感じられるようになる。このからだのことをco-body(共身体)と呼んだ。

  まったく正反対のものに見えるsub-bodyと、co-bodyは、踊りの中で奇妙につながったりひとつになったりする。この両者は一体どこでどう関係しているのか。それがもうひとつの大きな謎だった。

         透明さとはなにか

  sub-bodyco-bodyの謎は、たとえばこのようにつながっている。自分のからだの闇から出てきた奇妙な動き、まさかこんな変な体感をもって踊るのは自分だけだろうと思えるとんでもない踊りが出てくれば来るほど、ほかの人がそれに深く共振し始める。踊った直後に私をまねして踊りだす人を幾人も見た。――これが世界を踊り抜く中でぶつかったもっとも奇妙な現実だった。これはいったい何なのか? ――この謎を透明に見透かしたい。人の意識と無意識の間で、自己と他者、類と個の間でいったい何が起こっているのか? 己のからだの闇の底には、内外、心身、自他、類個といった境界がすべて消失してしまう世界につながる奇妙な通路が開いている。その世界は自分がこれまでいた日常世界とどう関係しているのか?――これらの問いがまず、解かねばならない問いとしてたち現れてきた。  

         この書の構成

  はじめにいくつもの問いを重ねたのは、自分にやってくる疑問は、自分で解くしかないこと。そして、自分固有の問いは握り締めて手放さずにいれば、いつかは解ける日がかならずやってくることを伝えたかったからだ。

  各章とも、まず、踊りの基礎技法について述べ、そののち、それを自分のからだに聴きこみ探り出していく練習方法を述べる。実際の練習では逆に進む。まずからだで体験したのち、自分のからだの闇に坑道を掘り自分なりの探求を進めて行く。だが、インド・ダラムサラにまで来ることができない人のために、これを読んで独習もできるようにできるだけ配慮した。

 

1章 からだの闇に聴く

         呼吸を通じて意識を休ませる

  時間をかけてゆっくり呼吸し、意識を最低限のレベルにまで休ませる。意識と下意識が等価につりあってゆらゆら揺れている透明状態をつくる。まず、自分自身でこの状態になれるようにすることがもっとも大事だ。この透明覚状態はsub-bodyへの道のアルファでもありオメガでもある。意識優先の近代先進社会に育った人にはこれがもっとも難しい。

         からだの闇に耳を澄まし、sub-bodyの世界に降りていく

  意識を鎮め、からだの闇に耳を澄ましていると、やがて普段は気づかないごく微細な体感や質感・実感の流れが聴こえてくる。これはからだの闇の底を流れているsub-bodyからの微細なサブシグナルである。これを捉え、増幅して自分の踊りを創っていく。

         灰柱の歩行

  意識をできるだけ消して、ゆらぎつつ、突っ立つ灰柱になる。灰柱を知らない人のためにひとこと。線香や煙草や焚き木の木が燃え尽きた後に、元の形のまま残っている崩れやすい灰の柱がそれだ。自分の日常のからだも脳も意識も燃え尽きてしまって、後に灰柱だけが残ったと想像する。

  両足の間隔はこぶしひとつ。そして、両足にかかっている体重を左足に移し、右足をそっと足指の長さだけ前に進める。どんな変化がからだに起こるか、一歩ずつ注意深くからだに聴きながら歩を進める。できるだけゆっくり、できるだけ静かに。

  歩きながら、呼吸を吐ききり、腹筋下部と体底の会陰部を締める。そして、体底を緩めると同時に吸気を始める。会陰部からじょじょに上体と下肢に、全身の細胞に新鮮な空気がみなぎっていく内呼吸の体感に耳を澄ます。からだの各部に、とりわけ内奥にどんな微妙な変化が起こるか、逃さずじっくり感じる。

  灰柱になってからだが燃え尽きても、この微細な自分を「眺める下意識」のようなもの(私はこれを微細覚と呼んでいる)だけが残っていると想像するとよい。

  体重変化によるゆらぎ、からだの温かさ、重さ、軽さの感じの変化、筋肉や関節が少し伸びたり縮んだりするときに感じられるもの、各所の細胞に新鮮な酸素が届けられる内呼吸の感じ、体内を駆け巡っている伝達物質流が微細に変化している言葉にはならない感じなど、普段は無視して見逃している些細な体感や、動感、質感の変化をできるだけ微細に捉えていく。

 

         生命を踏む

  からだの底の生命ゆらぎに耳を澄ましながら一歩一歩踏む。

  息を吐きながらそっと踏み込み、息を吸って踏みあがってくる生命ゆらぎに耳を澄ます。そっと踏みを緩めて生命が休息の相に帰っていくのを感じる。生命が生まれたときから繰り返しているこのもっともベーシックな活動と休息の波動を聴く。   

  つぎに、足の裏の踏み込み点を微妙に変え、さまざまな点から、無数の経路を通って、全心身のあらゆる働きに生気を通して踏みあげていく。そして、からだが本来持っている場所からほんの少し位置をずれさせ、わずかに角度を変える。 それが、各部の器官や細胞へのあいさつだ。「よう、調子はどうだい?」 一つ一つの部位や器官へ声をかけていく。 調子を尋ねて、よくなければその部位の緊張を解き、休ませ癒す。それが生命の営みなのだ。立ち上る生命ゆらぎの中で、無意識裡に行われている活動と休息・治癒の生命波動のプロセスに気づいていく。

 

  生命はいつもほんの少しだけ元気になれば外界に向かって活動し、そして休んで様子を見るという活休リズムを繰り返している。活動するとは、生存のためには、こっちへこういけばいいのかなという仮に組み立てた世界像を外界に投げかけ、働きかけることだ。そして、何事かを体験して、休息ループに入り様子を見る。行ったことへのフィードバック情報が感覚器官から入ってきてそれが吟味され、世界のシミュレーション像がほんの少し修正される。その過程でもし自分に傷んでいる部分があれば癒す。そして、元気が出ればまた新たな世界像シミュレーションを外界に投げかけ活動ループに入る。粘菌の生命活動と自分の生命活動を二重写しにして体感することで私はもっとも根本的な生命の動きがこの活休リズムにあることを学んだ。

 

         生命ゆらぎを聴く

  生命ゆらぎを聴くとは、この活休波動の今日の調子を聴くことだ。日によって少しずつ違う。まるで違う日もある。

  意識を休ませ、生命ゆらぎに耳を澄ましていると、やがてこのゆらぎが外の世界のゆらぎとつながり、からだの内と外を自由に行き来し、独特の体感や動きの感じ、からだのうちでうねり外へ出たがっている波動やうごめきなどの質感、実感が感じられてくる。普段は無視して通り過ぎているごく微細な感じだ。自分の踊りをみつけるとは、このちいさなゆらぎに混じってほとばしり出てくるsub-bodyからの小さなシグナルをキャッチし、それを踊りにまで増幅することなのだ。その方法は第3章以下で述べる。

  だが、そこに進む前にどうしても触れておかねばならないことがある。

 

第2章                      クオリアの海へ

         踊りはどこから生まれてくるのか

  これまで第1章で、普段は無視して通り過ぎている体感や動感、質感、実感などに注目する仕方を述べてきた。踊りにとっては、実はここで感じ取るものにすべてが詰まっている。踊りのすべての始まり。踊りの種、萌芽。これがなければいくらからだを動かしてもそれは踊りにはならない。ただの動きだ。

  また、踊りを言語で表現しつくすこともできない。言語にできないものが踊りの核にある。それはときに静かにときに激しく変容しつつ流れている。その流れのようなものは、踊りをやる人ならだれでも感じていることだが、今まではそれを言葉にするすべがなかった。人類が踊りを踊るようになってから何万年も経つだろうが、いまだにそれを呼ぶ語彙さえなかった。それは言葉とまったく正反対の性格を持っているものだからだ。

  踊っていると、からだ(くわしく言えば脳心身全体だが、踊りはそれらの区別がないところからでてくる。以下煩雑さをさけるため脳心身全体を指してからだという)の中で何か妙なものが流れているのが感じられる。確かな手ごたえがあるものなのだが、うまく言葉にはできない。それはいったい何なのだろうと長い間考えてきた。今私はそれをクオリアと呼んでいる。クオリアとはなにか?

         クオリアとは、体感・質感・実感の流れだ。

  クオリアとは、体感・質感・実感などの総称で、人間が言語を通じてものを認識する以前から持っているよりべーシックな認識法だ。

  夕日の赤には、夕日の赤独特のクオリアがあって、それはりんごの赤やポストの赤とは間違いようがない。なぜなら、あらゆるクオリアはそれを体験するときの情動や、気分、体調などとも深く結びついている総合的な根の深いものだからだ。赤子には赤子の独特のクオリア、萎れた花には萎れた花のクオリアがある。

  クオリアは人間の遺伝子に刻印されている人類の共有感覚である。いまも言語認識の基底には無意識のうちにクオリア流動が流れている。そして、思考の殆どの部分は下意識のクオリア思考が行っている。意識は下意識のクオリア思考の成果に名前をつける。そして、すべてを自分の成果と思い込む。通常の意識優先モードに囚われた意識には下意識が行っているクオリア思考に気づくことができない。

  言葉がものごとをあれやこれやに分節して認識するのに対し、クオリアには切れ目がなく、無数の諧調をもってあらゆるものとあらゆるものが多次元的につながっている。雨には雨の、風には風の独特の諧調をもったクオリアのグラデーションがあって、それらが合流すると風雨や嵐のクオリアとなる。自在に他のクオリアとつながり、合流して心の暴風雨というような比喩に変容したり、高まる感情の嵐というようにグレードを上げたり下げたりしながら流動している。クオリアはいつもクオリア流として存在している。止まることがない。クオリアは言葉よりもっと正確かつ間違うことなくものをとらえることができる。晴れた空のような心とか、心に春風が吹くとかという直喩や隠喩が成り立つのもこれらのクオリアが多次元的につながっていることに基礎を置いている。

  言葉を使用するようになる以前の原始人類のみならず、動物や鳥たちもこのクオリア流動覚だけで物事を判断している。言語など知らなくても彼らは、自然の地形や、どこでどんな獲物に出会ったとか、危険な眼にあったかということを人間以上に的確に把握している。体験の体感、質感、実感さえつかんでいれば、言葉などなくても何不自由なく生きていくことができるのだ。そして、私たちも言語意識の下部(下意識)ではいまだにこのクオリアで物事を捉えている。意識を鎮めて透明覚状態になれば分かるが、24時間休むことなく私たちの意識の下部で働き続けている下意識の働きはすべてこのクオリアが媒介している。一つのクオリア流は別のクオリア流とつながったり、切り離れたりしながら、クオリア共振によってあらゆる可能性を試し、検討し、そして、やがて下意識はもっとも優れたクオリアのつながりを発見する。その下意識の働きによって最適の意味のあるクオリア流ができあがったとき、左脳(の側頭葉言語野(右利きの人の場合))がすばやく介入して言葉に翻訳する。それによって私たちの意識は物事を言語で捉えているように自覚する。その下部のクオリア流の働きは意識の感知しない閾値下に追いやられている。だが、透明覚を鍛え、たえずこのクオリア流を感じるように訓練を続けていると徐々にその流れが手に取るように分かってくる。本当の創造的な仕事をしているのはこの下意識部分なのだ。それがつかめるまでに何年もかかった。

 

         なぜ踊りがことばなしに通じるのか

  踊りがことばなしに民族や文化の違いを超えて通じるのは、われわれ人間は遺伝子によって刻印された同じクオリアを共通して持つからなのだ。誰かほかの人が、熱湯に触れて、熱い!と手を引っ込めるとき、誰もがそのクオリアを共感できる。誰かの胸の中でぐらぐらと熱湯のように感情が沸き立っているのも、ことばなしに実感することができる。肉親をなくした人の気持ちは何も言わずとも伝わる。それらはすべてわれわれが等しいクオリアを持っているからなのだ。

  踊りとはこのクオリアの流れがからだの動きと一緒になって現われ出てくるものだ。クオリアがシェアできるから、ことばなしに交感が成り立つ。

  以下、クオリアの特性を簡単に見ておこう。それは三次元の空間と一次元の時間のなかに閉じこもっている日常的な意識空間とは驚くほど異なった原理を持つ別の時空世界である。

         クオリは共振する

  クオリアは共振する。理論物理学の超ひも理論によれば、宇宙のすべての力や質量は極微の振動するひもの共振パターンの変化によってできているという。ひものサイズがクオークの何万分の一という極微のサイズであるため、まだ証明されていない仮説である。わたしはこのひも理論仮説を採用し、さらに生命やクオリアもまた、振動する超ひもの特定の共振パターンの変化によって生み出されていると物理学者たちよりさらに一歩踏み込んで捉える。そう捉えることによってはじめて、踊りの中で出会うすべての不思議が納得できるものになる。この真偽が証明されるのは何世紀も後の世界になるだろう。だが、そんなことは私の知ったことではない。見通しにくい現実をより遠くまで見通すパースペクティブを与えてくれるためにだけ理論や思想が存在する。

         クオリアの共振原理 

  コミュニケーションは、クオリアの共振原理によって支えられている。

  その大小に関わらず、感動はすべて私たちの中のクオリアが共振することによって起こる。

  クオリアの動きは遺伝子によって決定されている。夕日の赤を目にしたとき、誰もの心の中に言いようのない感動が起こる。よい踊りを見れば大小の差はあれ、誰もの胸の奥底で打ち震えるクオリアが発生することを禁じることは出来ない。

  

  世阿弥はすでに六百年も前にこのことを指摘している。

 

「舞歌の曲をなし、意景感風の心耳を驚かす堺、覚えず見所の感応をなす、これ、妙花なり。これ、面白きなり。これ無心咸なり。この三か条の感は、まさに無心の切なり。心はなくて面白と受けがうものは何物ぞ。」 『拾玉得花』(1428年、世阿弥66歳)

 

  感という漢字の心を取り去って、この無心咸が心によるものではないことを強調している。あきらかに通常の意識的心以外のものがうちふるえていることを鋭く捉えていたのだ。この<咸>、<無心咸>こそここでいうクオリアなのだ。

 

  「面白き位より上に、心にも覚えず「あっ」という重(=段階)あるべし。これは感なり。しかれば易には、感という文字の下、心を書かで、咸ばかりを「かん」と読ませたり。これ、まことの「かん」には心もなき際なるがゆえなり。」 『花鏡』(1424年、世阿弥61歳)

 

         相手にも自分にも同じクオリアが流れている(クオリアの対称性)

  世界の旅で、人と人がどこかで出会ったとき、言葉が通じなくともコミュニケーションが成立することを知った。それは、表情や身振りによって、相手が自分と同じことを感じていることを知ることからくる。

相手にも自分にも同じクオリアが流れていることを直感するのだ。

  それどころか、動物たちと心が通じるのも、このクオリアの共振原理によるものだ。そして、おそらく、古い樹や巨岩のそばにいると心が落ち着いてくるのも樹々や岩の持つ静かなクオリアと共振するからなのだ。

         4万年前の流動覚革命

  人類の心の起源をさかのぼる認知考古学の最近の知見によると、旧石器時代以前のネアンデルタール人段階までの人類の心の構造は、博物的な知能(いつどこで何が収穫できるか)、技能的な知能(石器作りや狩の知能)、社会的な知能(共同して狩や採集や集団づくりを行う)、がそれぞれ独立して発達してきたが、それぞれの知能の間を流動する一般知能が発達していなかったという。

  今から4万年から3万数千年前に活動を始めた「現生人類」、「新人」と呼ばれる新しいタイプの人類の脳のニューロンの連結に革命的な変化が起こり、それぞれに分化した知能を、高速度で横断し、還流して流れる流動的な知性が生まれた。これによって、博物的な知能と技術的な知能、社会的な知能が連結され、言語や象徴的思考、一般知能の発達が可能になった。今日のわれわれの心と同じ構造がその時期に生まれたことになる。(『心の先史時代』スティーブン・ミズン 参照)。

  認知考古学者は、クオリアという概念を使っていないが、この流動的な知性こそ、私がこれまで述べてきたクオリア流動の働きにほかならない。

  中沢新一は最近の力作『対称性人類学』で、次のように述べている。

「この流動的知性は「対称性の論理」にしたがって活動する。そこには過去―現在―未来へと一方向に進んでいく矢のような時制が欠如しているし、ものごとを分離するのではなく、ものごとの間に同質性を見出していく働きをする。そのため、部分と全体が一致する「全体的(ホーリスティック)」な思考が展開される。……

  この「高次元のなりたちをした流動的知性」といわれているものこそ、フロイトが「無意識」と呼んで、「意識」から区別しようとしたものにほかなりません。……現生人類とははじめて無意識をもってこの地上に出現したヒトである、と定義することができるでしょう。現生人類の「心」の本質をかたちづくっているもの、それは無意識なのです。」

  対称性とは、相手と自分とが同じだと感じる感性である。近代西洋で発達した非対称的な知性は、相手と自分とを違うものだと捉える。この差異に注目する非対称的な知性が西洋にいつどのようにして生まれたかはフーコーの『言葉と物』にくわしい。それがたかだか数百年以下の歴史しかもっていないことを彼はくまなく証明した。そのときこの非対称的な知性を持つことを当たり前と感じて疑わない「人間」が生まれた。だが、フーコーが予言したように、

  「それにしても、人間は最近の発明にかかわるものであり、二世紀とたっていない一形象、われわれの知の単なる折り目に過ぎず、知がさらに新しい形態を見出しさえすれば、早晩消え去るものだと考えることは、なんと深い慰めであり力づけであろうか」(フーコー『言葉と物』)

  私がこの透明論で探求する、対称性と非対称性、言語とクオリア、ツリーとリゾーム、意識と下意識を自在に行き来する<透明流動覚>という知のありかたこそ、ここでフーコーが指している「知の新しい形態」にほかならない。そして、単なる「新しい知の形態」を超えて人類の「新しい生存様式」の雛形を探ろうとするものである。

  クオリア流の世界は、以上の流動的対称性はじめ、後で述べる異次元連結性など、普段私たちが住む日常世界とはずいぶん異なった原理を持つ世界である。この世界を外から眺めて理解しようとすることは不可能で、みずから意識優先の意識を止めて、この世界に入り、sub-bodyのクオリア流動にからだごと成りこむ以外に、理解することはできない。流れを止めて流れを理解することはできない。クオリア流動はそれ自体が作動することによって生成し続けている生きた世界なのだ。

         踊りはクオリア流から生まれる

  踊りは、このクオリア流動が、からだの動きと一体になったものだ。踊りのテクニックとは、このクオリア流をいかに捉え、いかに自分のからだの動きと一体化したものとしていくかにある。この技術は踊り以外の分野にはなく、ただ自分のからだの闇を掘る中からしかつかみ出すことができない。

  もともと、下意識の動きはあるところではからだの動きや生理と区別がつかず、一体化している。このからだの動きと下意識のクオリア流が渾然一体化したところで、踊りは生成してくる。私はそれをsub-bodyと呼んでいる。日常体(body)の下部(sub)にあるからだ、という意味でそう名づけた。下意識(subconscious)のからだという捉え方もできる。次章ではいよいよこのsub-bodyの世界に降りていこう。

 

3章 サブシグナルを捉え増幅する

         透明覚を開く

  これまでの第1章、2章は、踊りを始める前の準備運動みたいなものだった。この章で初めて一気に自分のからだの中のもうひとつのからだ(sub-body)に触れに行く。

 まず、前章同様からだと意識を鎮める。これはいつも同じだ。姿勢は寝ても、座っても、立っても、灰柱などで歩いていてもいい。その日にどんな姿勢から始めたいか、からだに聴いて決めればいい。それぞれの姿勢にはそれぞれ特異な坑道が開いている。いろいろな道をたどるのがいい。

  どんな姿勢であれ、最初に行うのは、呼吸を聴き、意識を休め、透明覚状態に移行することだ。通常の動きや感覚レベルの1000分の1以下の微細な変化に焦点を合わせる。

  どんなに意識が高揚したり、思いや情動にとらわれているときでも、大きく息を吸い込み、ハァーッと吐ききると、ほんの少し意識の覚醒水準が下がる。この安堵の深呼吸を何度か続けていると、やがて、意識の大部分が休止し、催眠や心理学用語で「眺める下意識」とか「隠れた観察者」と呼ばれる大脳の一部分だけが目覚めている状態になる。これが古来から仏教やヨガの瞑想で「微細身」と呼ばれている状態である。透明覚のなかでも、とりわけ微細なサブシグナルに耳を澄ましているこの状態を「微細覚」と呼んでいる。微細覚は透明覚の第一段階である。

  この微細覚の状態に安定して入れるようになるまでには、一定期間の訓練がいる。だが、静かな環境と瞑想のよい導き手がいれば誰でも必ず体験することができる。なれれば、たった一息ハアーっと吐くだけで変容できるようになる。だが、踊りが瞑想と分かれるのはこの後だ。

         sub-bodyからのサブシグナルをとらえる

 微細覚に集中することができると、からだの闇からじつにさまざまなシグナルが送られていることに気づく。普段の意識状態では決して気づくことがないささいなシグナルだ。呼吸のたびにからだのあらゆる部分から発せられるシグナルの色調が変わる。からだの重さを支えている骨や関節や筋肉から発せられる信号も刻々と変化している。肺や心臓、胃や腸などの内臓の状態もいつも微細に揺らいでいる。血圧は常時変動し、血液を通じて全身に送られている情報伝達物質流は刻一刻とその成分を変動させている。それらによって、体調や気分や背景的な情動がたえまなくゆらぎ変動している。それらすべてが意識下の領域で行われているものだが、耳を澄ますとそれらの微細なゆらぎを聴き取ることができるようになってくる。

  そして、やがてそれらの微細なシグナルのうちあるものが、何か分からないがからだの闇の底でうごめいているもうひとつの生きもののようなものからのサブシグナルであることが分かるようになってくる。このもうひとつの生きもののようなうごめきこそ、踊りの素であるsub-bodyの変容流動である。

         サブシグナルはごく微細で、瞬間よりも短い

  sub-bodyからのサブシグナルは、ごくごく微細で、瞬間よりも短い。かすかな気配と共にひらめきのようにやってきてはすぐ消える。よほど微細覚を鍛えておかないと捉えそこなう。

  それは、ほんの瞬間かすめる思い、湧いてはすぐ消える映像、ささやきや音やリズムのイメージ、からだのどこかで起こるほんの少しの体感の変化、ちいさな振るえやうごめき、情動になる以前のこころのわずかなふるえ、内外界のなんらかの現象や事物への関心などとして現れる。

  それらのサブシグナルをキャッチしたら、すぐさま全心身で協力してそれを力づけ発展させる。くちびるのほんの少しの震えはなにかメロディの始まりかもしれない。指先の震えから動きが始まるかも知れない。からだの奥の奇妙な感じを増幅するとどうなるか。とにかくあらゆる方法を使って増幅してみる。

  どういうチャンネルからサブシグナルが届けられるかは、ひとにより時によりさまざまだ。

         サブシグナルが現れるさまざまなチャンネル

  きみが視覚が得意な人ならば、サブシグナルは些細な視覚イメージで現れることが多い。自分のからだを風がすり抜けたり、水中にいるような映像流が湧いてくればそれに身を任せばいい。

  体内でうごめくリズムやメロディーが感じられれば、きみは聴覚が開いているタイプだ。

  触覚や皮膚感覚・内臓感覚など体感の変化に敏感な人もいれば、すぐ動きが出てくる動覚タイプの人もいる。

  心の動きがでてくる情動タイプの人や、人との関わりに敏感な関係覚が開いている人もいる。

  自分流の奇妙な世界像が変容することもあれば、自己像がどんどん変身することもある。何らかの気づきや不意の思いがやってくるときもある。

         体像流と共に踊る

  呼吸や内呼吸と共にからだの中をうごめき流動しているものの気配を聴く。それは時に体液の流動に重なり、時に離れて自由に変容流動する。想像力が開いている人は、その変容流動するものを一匹の奇妙な未知の生きものだと想像するのがいい。

  姿かたちを変えつつからだの内外を流動している。時に流体、時に気体、時に粘度を増してゾルからゲルへ変容する。時にすばやく風のように軽く、時にじっくり深海流のように重くうごめく。

  超高温の世界から凍りつく世界へ、高速の動きから超スローな世界へ、超微細な世界へ。とんでもない異次元を開いたり、生きものが死に絶える無機物の世界へ移行したりもする。

  それは時にさまざまなイメージを伴った体像流となり、時にイメージの伴わない動きだけの体動流となり、動きもなく体感だけが変化する体感流に変容する。そして、それらのsub-body体像流が、bodyと一体化して動き出す瞬間を待つ。突然sub-body流がきみのbodyをらっし去る。きみはbodysub-bodyが合流するに任せて見守る静かな透明覚となる。

         八覚をめぐる

    八覚チャンネル図

         閉ざされている八覚を開く

  まず、五感未分化な胎像流=クオリア流の世界と、五感・八覚が分化した分別界の言語・イメージの世界との違いを学ぶ。

体動流を開く――体三元――三丹差延――体動流

映像流を開く――目三元――映像流――内向映像流

音像流を開く――口腔三元――体腔三元――体腔息声――音像流

 <オギャーヒ メソッド>で、声のバリエーションを広げ、自分の各十体固有の音像流を見つける

  O――母音をもとに各人のライフソングを見つける。音像流の序となる基調持続音。無機的世界と交信するコスミックサウンド。4週目以降の人はホーミー倍音を練習しはじめる。

  Gya――sub-bodyが生きていると、とんでもないことが起こる。それにsub-body言語であるヘゲモゲラ語で対応する。異次元との交感。

  Hi――死者、瀕死の衰弱者、冥界からの声に聴き入り、その声の導くところに従って異世界に旅する

触像流・体感流・体像流を開く――外向触覚――内向触覚――触像流・体像流――体感エナジートラベル――体像流キャッチボール

感情流を開く――あご三元――さまざまに顔をゆがめ、感情流キャッチボールに発展する

関係像流を開く――エナジーキャッチボールから、互いに奇妙な関係像のキャッチボールに発展する――妙な部位をくっつけあったり、人間界にはない奇妙な関係姿勢になったりする――ひとりで奇妙な関係像流を創造する

世界像流・自己像流を開く――自分固有の世界像流をつくりその中の自己像流になって動く――他のひととそれをシェアする――他の人の世界像流に入って動く

         八覚ぶつかり劇場

以上の練習の後、場の真ん中に一人が立ち、自分固有のチャンネルを開いて踊る。周りの人はひとりずつ中の人が使っていない要素やチャンネルを開いて関わっていく。中の人は外から持ち込まれる自分にない新しいチャンネルを開いて対応する。全員と当たれば次の人と交代する。

  どうしてもうまく開けない八覚があることに気づくのも重要だ。閉ざされたチャンネルにはその人の秘密が隠されている。ひとにより得意・不得意なチャンネルがさまざまで、多様なチャンネル特性があることを学ぶ。

         自分のチャンネル特性を知る

  誰もが五欲八覚のうち、どれかのチャンネルが得意でどれかが不得意である。うまく使いこなせないチャンネルがある。

  その自分固有のチャンネル特性を知ることが大切である。閉じているチャンネルは、ひとつのくぐもりなのだ。何らかの理由があってうまく発展せずに閉じてしまっている。そこにはひとりひとりの固有の秘密が潜んでいる。

         複合覚を探る

  とりわけ深い秘密は、その人独自の複合覚にある。視覚と聴覚が共に開いている人は珍しくないが、情動を聴覚で感じたり、体感で関係覚を感じ取る人もいる。自分特有の複合覚を発見すると、自分独自のsub-bodyダンスの固有の特徴になる。これはいちいちあげていくときりがないのでここでは簡単に紹介するにとどめる。Sub-body メソッドの教師育成コースで始めて触れる。それは各自でからだの闇をまさぐり、追求する性質のものだからだ。

         閉ざされていた覚が開くときの新鮮な快感

  三界八覚まわしで、これまで閉ざされていた覚が開くと、新鮮な風が体内を回り始める。その快感から最初の踊りが生まれる。  だが、閉じたチャンネルが開くには長い時間がかかることもある。自分の閉じたチャンネルをつかんだら、そのチャンネルが閉じていることから踊りだすのがいい。そのチャンネルがどのようにくぐもりのこだわりやとらわれを解き放っていくかをsub-body流動そのものに聴きながら踊りを創っていく。そうして、長い時間をかけてつかんでいった踊りは自分にとっても人にとってもより深いものとなる。うまくいけばその踊りと生涯の友になれる。

         体像流から胎像流の世界へ

  踊りの中で訪れるイメージがまだこの常識的な現実世界にとどまっている間は、体像流と呼ぶ。それは意識の分別界に属している。

  だが、それはやがてこの現実の規則を超え、奇妙な動きを見せ始める。どんな奇想天外なことが起こっても驚くには至らない。sub-bodyが住む胎像界は、三次元のこの現実界とは根本的に異なる多次元を流動するリゾーム原理で動いている。 その段階のsub-body変容流動を胎像流と呼ぶ。 それは生命ゆらぎから、生存諸欲求を巻き込みながら立ち上る混沌とした生命の流れである。胎児が見る夢を想像してみてほしい。そのとき意識はまだない。五感も開いていない。当然記憶にもない。だが、クオリア流動はそのときからいままで途切れることなく流れ続けている。その胎児が見ていた夢の流れに立ち返るのが胎像流だ。

         Sub-body胎像流のまるごとのクオリア流を手放さない

  sub-bodyクオリア胎像流をみつけて踊りを創っていくとき、もっとも大事なことは、踊りのはじめから終わりまで、そのクオリア流の体感・質感・実感を、つかんで手放さないことだ。途中で意識が割り込んできてアイデアを出すこともあるがたいていよくない結果になる。意識はこれまでの経験と対他意識に制限されており、下意識のクオリア流のほうがもっと自在に無数の部分とつながっており、より意外で面白いものが出てくる。そのことを知り、sub-bodyに委ねることが大事だ。

         sub-bodyは三つの世界を変容流動する

   三界図

  図 3の球体は、人間の生の全体性を示す。真ん中の赤道で球体を横に切った平面が通常私たちが生活している、日常の分別界だ。ここは実際には三次元世界だが図では1次元減じて二次元空間に圧縮されている。分別界では、おもに言語が使用されている。そこでは、私たちの行為はいくつもに分節している。私はその人間行為のうち重要な八つをとりだし、八覚と呼んでいる。その八覚は私たちは意識することができ、意識的にコントロールすることもできる。だがそれは図で見るように人間が生きている世界のほんの少しの領域に過ぎない。

  赤道面より下部はsub-bodyの世界だ。これまでからだのことをあまり重視しない心理学者らによって、いわゆる下意識や無意識と呼ばれてきた世界だ。最下部の極から生命ゆらぎが立ち上っている。この世界は無数の多次元を流動している世界だが、図では次元数を減じて三次元に圧縮されている。

  毎朝、ここから立ち上る生命ゆらぎに耳を澄ますことから練習を始める。その詳細は1章 からだの闇に聴くですでに述べた。生命ゆらぎはただただ、すこし活動的になったり、すこし休んだりというシンプルな波動でゆらいでいる。アメーバや粘菌先生の世界だ。

  その生命ゆらぎがすこし複雑化すると、胎像流の世界に入る。ここでは生命ゆらぎから生存欲求が立ち上っている。それらはあるところでいくつかの生存諸欲求に分化し始める。

 分別界の視覚と音覚など感覚器官が五感に分化する以前の基底の原始感覚の世界を探ると、そこは基本的に安全欲求に根ざしている。食われずに安全に生きていけるかどうかは生命にとって最も重要なことがらだ。感覚の基底に降りれば降りるほど安全の確認がメインであることがわかってくる。これを胎感と呼んでいる。胎感においてはまだ内と外との区分が未分化だ。

  からだとその動きが未分化な世界に降りていくと、いわば胎動の世界となる。胎児の動きはただただ快適欲求に根ざしている。胎動は心身が分化するまえの世界だ。分別界で言う体像、体感と体動の区別もまだない。

  情動と関係覚が分化する以前の胎児の原始感情の世界に探り降りていくと、自他が未分化なつながりの中にある。これを胎情と呼ぶ。  

  八覚図における世界像=自己像覚と想覚の下部には、世界と自己とがまだ分裂していない胎界が存在する。胎児にとっての世界(=胎界)とは、世界と自己、全体と部分、類と個などが分化する以前の認識世界だ。さらにこれらの世界はまだ時間と空間の境界もできていない。

 

  以上がsubbodyの棲家である胎像界の特性だ。下意識や胎像流は、言語のような分節化したものによって動いているのではなく、絶えず変容流動するクオリアとともに動いている。subbody にはだから、時空の区別も、内外、心身、自他、類個、世界と自己、全体と部分などの区分がない多次元時空を、楽しげに流動している。

  Subbodycobodyがどこかでつながってしまう不思議さも、自他や類個の区別がないことを思えば何の不思議もないことだとわかる。

         三界について

@分別界

  言語意識を中心とした、日常世界。分別律、排他律が支配する三次元世界。この世界にとらわれた日常体から脱け出ることが、踊りの最初の行為となる。

A胎像界

  生命ゆらぎと生存諸欲求がくぐもりつつ立ち上り、変容流動するクオリア胎像流の世界。多数多様な多次元を変容流動している。ここがsub-bodyのもともとの住処である。

B創造界

  生命ゆらぎや胎像界から立ちのぼる自分のsub-bodyの踊りを見つけ他の人と伝達・共有できるものに磨きあげていく。

 

4章 三界トラベル変容技法(未)ワークショップ践編参照

         出てきた動きを鮮深興で確かめ、序破急のある踊りに育てる

第5章 sub-bodyco-bodyの謎

         さまざまな仕方でふれあえる開かれたからだになる

  私たちのからだのふれあいは社会規範で固く規制されている。そういう日常体を縛る制約から離れ、sub-body同士がどんな触れ合い方を創造して行くかに聴き入る。それができる開かれたからだになるためにはいくつかの適切な手順と準備が必要だ。

         人類が共有しているクオリア流に触れる

  まず、自分ひとりで、微振動や、うねり・くねり・にょろ、甘露流など自分のからだの中の流れに気づき、それを気持ちいいと感じ、その気持ちよさをもっと感じられるようにはどう動けばいいかなど、八覚まわしによって増幅して、まるごとのクオリア流に育てあげる。すると、八覚・五欲を備えたそれは眼には見えなくても間違いようのない確かな実在になる。ひとに触れるときの極意は、その丸ごとのクオリア流のよさをまず自分で自信を持って感じ、次にそのよさをまるごと他の人に贈るように触れることだ。)

         羊水ゆらぎ快感の普遍性

・微振動、くねりにょろ、甘露流――

  これらのちいさなゆらぎや波動の動きは、すべてわれわれが胎内で味わっていた羊水ゆらぎの記憶と響きあっている。それはほとんどの人にとって最上の心地よさをもたらすものだ。だからだれがやっても不思議と気持ちいいものになる。

  そのうえ、それを誰かほかの人から受けると、グルーミングを受けているときのような安心モードにからだ全体が反応する。それも遺伝子で刷り込まれていることだ。だれもがそういうクオリアを持っていることを確かめ、知り合うことから始めていく。

         快適クオリアをシェアする

  からだが求めている快適さのクオリア(質感・体感・実感)は、実は人類みんなに共通する遺伝子によって、まったく同じものを共有している。それに気づいて、実感し、自信をもつことが大事だ。微細なサブシグナルを八覚まわしによって、丸ごとのクオリア流に育て上げ、その最上のおいしさを自信を持ってほかの人に贈る。これは自分の踊りを人に見せるときの極意ともなる。

@                  ゆらしバイブレーション

シテA、ウケテBの二人で行う。

ウケテBは、仰向けに寝る。シテABのからだのなかでゆれだしたら気持ちいいだろうなというところを見つけてそっと触れて微振動を送る。慣れたら、Bにそっと触れ、Bのからだの奥の微振動を聴き、ほんの少しだけ増幅する。(サブシグナルは相手のからだからやってくるときも、自分をよぎる一瞬の思いから来るときもある。この二つは胎像界ではひとつのことなのだ。)

つぎに、Bは肘をついた低い四つんばい(ワニの姿勢)になり、Aは同様にBの微振動をそっと増幅する。

  ウケテBはそのシグナルを自分のsub-bodyからのサブシグナルと受け取って全身に気持ちいいバイブレーションを増幅していってじょじょに動き出す。

A    さすりストレッチ

ウケテBは勝手に動いている。シテABのからだをよく見て、伸ばしたらさぞ気持ちいいだろうなと思えるところをそっとさする。

  BAの気持ちを受けてそこを気持ちよく伸ばして踊る。自分のsub-bodyがもっと伸ばしたいと感じているところを見つけていく。

         くぐもりクオリアをシェアする

  人類は快感のクオリアを共有していると同様不快や苦のクオリアも同質である。

  快適さを味わったら、つぎにその流れをからだのどこかでブロックして滞りを作り、くぐもりのクオリアを味わう。そのクオリアは、自分のからだの闇で、生存諸欲求が滞り、こだわりや囚われとなっている重大なくぐもりにつながるので大事にする。そのくぐもりのクオリアもまたすべての人に共通するものであることを体感して知る。

         クオリアの共有はco-bodyの基盤である

  以上のような練習を通じて、快にせよ苦や不快にせよ、自分と他人が同じ体感クオリアを持っていることを実感していく。これらの体感クオリアの同質性(対称性)がco-bodyの基盤となる。また、クオリア流だけで言葉のコミュニケーションにはない予想外に深い感動を伴うコミュニケーションができることを体感する。言葉の基盤に潜んでいるこのクオリアの共有(クオリアの対称性)こそ、踊りや芸術を通じて全世界の人間が通じ合い、交感できることの生物学的基礎なのだ。クオリアの共有によってわれわれ人間は人類という類的存在として存在している。

  だが、これまでわれわれは類的存在であることのよさを十分発揮し享受して生きる方法を見出すことができなかった。国家や宗教や民族の違いによって、類的存在であることから、大きく分断されてきたからだ。もうそろそろ、その馬鹿らしさに気づいてもいいころなのだ。人間はもう十分殺しあったと。その根因になっている国家という共同幻想をもはや不要なものとして脱ぎ捨てるべきときなのだと。

第6章 序破急

         あらゆる生成流動には序破急がある

         創造を伝達するために序破急技法が必要となる

         <序>はsub-bodyとの一期一会のはじまり

         <破>は異数次元を転生流動するsub-bodyの息遣いだ

         <急>によってその日のsub-bodyの花に達する

第7章 鮮深興

         鮮深興はからだの感じである。

         鮮深興がsub-body探しの指標になる。

         <鮮>はsub-bodyとの間に通路が開いた快感

         <深>は自分の秘密やくぐもりにつながる未知の感じ

         <興>はsub-body流の底(自分の全体)に達したとき生命ゆらぎから立ち昇る創造の嵐だ

 

 

第8章 図地兆

         Sub-bodyクオリア流は多次元を流動している

         図地兆は折り畳まれている異次元を開畳する技法である

sub-bodyの住処である胎像界は、五感や体感・情動・思考などが分化する以前の、混沌としたクオリアの流れからなる。

sub-bodyは、異なる多次元空間を自在に変容流動している。その面白さは決して意識では創り出すことはおろか想像することもできない。(脳のニューロン構造とクオリア流の多次元性)

sub-bodyクオリア胎像流が持つ独特の多次元流動性と、sub-body流が無数の多次元を自由に移動し、つぎつぎと異次元を開畳していくしくみが、この図地兆技法を通じて明かされる。

         <図>

意識には図しか見えないが、sub-bodyは三界の多数の次元に伏流している

         <地>

図の裏に伏在する地の流れが隙を見て表に現れる。あいまいな未明の時空を見逃さないこと

         <兆>

より下部の次元に折り畳まれているより深層のsub-bodyからの兆しを受け取り、図と地の下部に秘めること。秘兆から異次元開畳がはじまる。

 

第9章 花とくぐもり

         からだの闇にもぐり、自分固有のくぐもりをつかむ

  これが何より大事だ。花より大事と心得ること。これがつかめない限り、それを解き放ってどんな花も咲かすことができない。

         生存諸欲求のくぐもりとその解き放ち

  くぐもりは変であればある程値打ちがある。社会や教育の中では見捨てられさげすまれているもの。役立たずと呼ばれ、無視され続けてきたもの。自分の中にそんなものの気配を探せ。耳を澄ませばきっとか細い泣き声が聞こえるはずだ。誰もが持つsub-bodyの踊りの醍醐味は、そういう通常はつまらないものとされ、見捨てられているからだの闇のくぐもりを材料に、艱難辛苦の末、それを解き放つみちを見つけ出し、世界にまたとない花にまで結晶転化させる奇跡のようなものが可能になるところにある。

         踊りにとって花とはなにか

         創造と伝達

  ただ、ひとえに自分ひとりで気持ちよくなるだけなら胎像界で一人踊り続けていればいいのだが、人間の遺伝子には個的な存在であると同時に類的存在でもあることが書き込まれている。「すべての創造は伝達である」とニーチェは言い切った。そして、創造が同時に伝達であるという地点に、踊りにとっての美とは何かという問題が姿を現してくる。

 

  踊りは自分ひとりの楽しみから、創造に近づけば近づくほど他者に伝達し、共有すべきものとしての美を作り出さずにはいられなくなる。あるいは、練習によって磨きこんで自分の踊りが美しくなればなるほど、他者に伝達せねばいられなくなるといってもいい。

 

  南インドへの旅を通じて、踊りにとって美とは何かという課題と、俺の踊りはどうすればこれらインドの民衆にも通じるものになるのだろうかという重い問いと格闘しつづけるようになった。

 

  その問いへの答えはいまのところ次のようになる。

 

  まず、踊りが生命ゆらぎに耳を澄まし、そこから立ち上っていること。

 そこから生存諸欲求に貫かれてたちのぼるものの声とともにあること。

  そして、生命ゆらぎから、生存諸欲求を通じ素直に立ち上っているものもあれば、それらが個人の人生のどこかで何らかの障害や条件に遭遇して、固有の形にくぐもっているものもある。

  そして、これらのくぐもりの固有さは世界でひとつしかない形にくぐもっている。だから、それらの解きほぐし方もまた世界にひとつしかないものだ。その固有のくぐもりに根ざしていることが、踊りのほんとうさを支える。ほんとうさこそが踊りにとっての美=花となるためのもっとも大切な要件なのだ。

  この自分固有のくぐもりこそ、たったひとつの秘密が生まれる宝庫である。そのくぐもりをどう解きほぐし、どう立ち上らせていきたいか、からだに聴きつづけて生きることだ。さすれば、もっとも気持ちよく通る道がおのずから見出されてくる。あらゆるものが最適の間合いをもつまでに洗練される。そこに費やした時間はほかの人から見ても味わい深いものにならざるを得ない。この味わい深さこそ、踊りにとっての花とは何かの第2の要件だ。

  花であることの第3の要件は、不思議さ・珍しさだ。くぐもりが変であればあるほどよく、そこからの解きほぐし方が奇妙で不思議であればあるほど価値が高くなる。まだ人類の誰もが見つけ出していない異次元が開畳する未知の道筋を指し示しているだろうからだ。

  その珍しさ、稀少さ、こそが人類全体の財産になる。

  だから、自信を持って自分固有のくぐもりの闇に取り組んでいけばいいのだ。

  そして、それを花にまで立ち上らせることが踊りを創造するという仕事だ。生命ゆらぎや胎像界の出来事から、それらがどこでどうくぐもり、どのように自らを解きほぐしつつ創造界まで立ち上ってきたのかが透明に透けて見えるかどうかを離見できるような訓練が必要だ。

  そのためには、言語ではなくクオリアの海が波打つ胎像界に馳せ下り、同時に誰が見てもはっと驚かされる創造界にまで立ち上る竜巻のような流動覚の働きを鍛えていくことがのっぴきならない必要になる。この三界流動覚とは、おそらく今世紀ではなく次の世紀の人間にとっての新しい拡大意識の原型になるだろうと思う。意識をもっているだけで大きな顔して人間でございと威張っていられる時代はもう終わろうとしている。下意識とも自在に付き合い、そこから創造と伝達のための離見もできるような多数多次元的な流動意識を発展させていくことが次の世紀の人間の課題となるだろう。ダンサーはその動きの尖端にたっているのだ。

 

         誰もがそれぞれの花を持つ

         花の三要素

         ほんとうさ

  紛うことなき丸ごとのsub-bodyがもつ、生命ゆらぎから生存諸欲求を巻き込み、創造界まで立ち上がらずにはいられなかった命の奔流ののっぴきならないほんとうさ

         味わい深さ

  踊りにとっての<美>とは、すべての要素が最適の間合いに彫琢されたときに生まれる。時間的な間合い、空間的な間合い、ひとつの次元から別の次元が生まれてくるときの間合い……。すべてが最適の間合いを備えたとき、起こっている出来事が見る人に透明に伝わっていく。

         不思議さ・珍しさ

  その人だけに起こった奇妙なできごと。一見つまらなく見られて無視されがちなくぐもりが、どんな解き放ちの道を見出し、どんな花を咲かせるか。意外で、不可解な出来事こそ伝達する値打ちがある。世界中のほかの人に見せればきっと誰かに通じるものだ。

 

         <鮮>の花

閉じていた八覚が思いがけず開く新鮮さから咲かせる花。

         <深>の花

自分固有のからだの闇のくぐもりが、苦難の末に解き放たれる道を見出し、ついには創造界の花に結晶転化する。奇跡の軌跡を見せる

         <興>の花

<深>の花を咲かせることができさえすれば、生命ゆらぎや生存諸欲求から抑えようもない命の舞が立ち上がる

 

第10章 透明さ

         あらゆる創造は伝達である

あらゆる創造は、同時に他の人に対する伝達である。よい踊りができたとき、いても立ってもいられず、ほかの人に伝えたくなる。それはわれわれ人類が、類的存在であることの証左だ。だが、踊りの伝達のしかたは独特である。踊ったときその場に居合わせた人だけに瞬間的に伝わる透明な出来事である。そこで伝わったものは、写真にもビデオにも写らない。その秘密はいったいどこにあるのか。

         踊りの『透明伝導状態』が起こるとき

  踊りの中ではしばしば、踊っているもの同士や見ている人との間で、ことばなしに何かがそのまま瞬間的に伝わる「透明伝導状態」のようなものが現出することがある。「踊りは瞬間コミュニケーションだ!」と実感できるときだ。それはいったいどういうときか。

はじめから終わりまでのクオリア流の共有

タメ――たった一つの最適の間合いを見つける

まるごとのクオリア流のもつ「ぬめり」

         三界を通して起こっていることが透けて見える透明さ

踊りとはクオリアの透明さにある。

透明さとはクオリア流がそのまま見る人に伝わることだ。

         まるごとのクオリア流がいいクオリアだ

丸ごとのクオリア流が怒涛のように流れ出すとき、見間違うことなどありえない透明な流れとなる。

 (三界・八覚に開くまるごとの太いクオリア流)

         離見

 離見にはいくつものレベルがある。

         八覚離見

 八覚離見というのは、いちばん一般的な離見だ。視覚離見は、視覚的に自分の姿が外から(あらゆる角度を想定して)どう見えているかを離見するものだ。どの角度の人にどう見えているか、見えていないかを絶えずわかっていなければ適切な伝達は行えない。

 音覚離見は、自分の出す呼吸の音や声が外からどう聞こえているかを離見する。言語を使うなら誰にどう理解され、どう理解されていないかを離見する必要がある。

 体感離見は自分の感じている体感がほかの人にどう伝わっているか、伝わっていないかを離見することだ。

  その他の八覚についても同様に離見ができるようになること。

         胎感離見

 胎感離見はほかの人の胎感になりこむ。

         創造離見

 創造離見とは、自分の創った踊りがどう伝達できているか、序破急や、鮮深興などがそのまま透き通るように伝わっているかどうかを離見するもので、高度な離見だ。花伝書には、高貴な見物客が遅れて席に着いたときにはどのように序破急を伸縮させて、その遅れてきた大事な客にも、すでに始まっている序破急に追いつけるように配慮するかという方法が述べてある。いくら主観的に一生懸命踊ってもそれがよく見える方法で踊らないと、見えない人には存在しないのと同じことになる。

  光の当たり方や、音の聞こえ方にも配慮しなければならない。劇場という仕掛けを十分に利用して、闇と光と無音と音を通じて見る人の意識を変成意識状態に誘導することができないと、胎像界という魔法の世界がうまく伝わらない。それらいわば通常なら演出家の配慮することも踊り手自身が自分で離見できるようにならなければ一人前ではない。

         透明離見

  以上の、胎感離見、八覚離見、創造離見の三次元の離見を統合して、生命ゆらぎから胎像流がどう立ち昇り、どこでどうくぐもり、どんな難儀をしてそのくぐもりを解き放って、創造界で咲く花にまで結晶することができたのか、という三界をを流動するsub-bodyに起こっていることすべてが、透けて見えるように配慮し最適化を図るのが、透明離見の役割だ。多次元統合離見といってもいい。これを確保できたら、透明覚ができかけてきた証拠だ。

         意識では遅すぎる

  それらの仕事はとても作業量が多く、一度に少しのことしか処理できない意識には到底できっこない高度な仕事です。

  人間の下意識が処理している情報量は1秒間に何100万ビットにも上るが、そのうち意識されるのはその100万分の一以下の毎秒2,30ビットに過ぎないことが明らかになっている。

  意識にできるのは、1 お題と方向性を明示すること、2 下意識や上意識の仕事の結果を、必要ならば言語化すること。3 あとはただただ、信頼しすごいなあと賛嘆するだけでいい。

         三界を自在に流動する透明覚を育てる

  透明覚とはなにか。もっとも説明しにくいことだ。それは踊りの最高の状態においてのみ、その存在の全体を感じることができる。意識でも下意識でもない。ただ、胎像流によく乗れて踊っている最中、ずっとつきまとって胎像流にも入り、分別覚も出入りし、さらにいわば別の時空から一部始終を離見し、伝達を配慮し、動きの美を最適の間合いに統御しているものがある。それはいうなれば意識と下意識の境界域にあって、時に意識にのぼり、時に下意識に降りて黙々と作業する、両者のはざまを縫うように動いているものと捉えるのがもっとも妥当な捉え方だろうと思う。この透明覚が統括している配慮やコントロールの範囲はとても膨大なので、それらすべてを意識することはとても無理だが、完全な無意識でも無論ない。

  スポーツ選手が競技に没頭しているとき、ベーシックな動きやとっさの反応はすべて練習で蓄積された『習慣的下意識』が担当している状態というのに、かなり近いと思われる。踊りの場合は、さらに先に述べた胎像流や、創造離見、伝達離見、胎感離見などの要素も透明覚の範囲に入るのでもっと複雑だ。透明覚には長い練習の積み重ねによってしか触れることも体感することもできない。

         意識の下意識(胎像覚)や上意識(透明覚)に対する役割

  昔の人は、三界を流動する下意識の働きをとても自分自身のものだと思えず、外界の精霊やカミの働きだと考え、ひたすらそれらに祈った。今の俺たちは、それらの働きが自分の下意識の働きだと知っているが、やることは同じなのだ。ただただ心から下意識さんにお願いし、信じて一心に祈ることだ。

  意識の課題は、下意識や上意識に、課題と方向性を示し、そのはたらきの結果でてきたものすばやく言語化する。あとは、心から信頼し賛嘆するだけでよい。

  意識は自分の役割に徹し、下意識をコントロールしようなど思い上がった態度を捨て去る。逆に感嘆し、褒め上げる下意識のサポーターになるのがいい。すると下意識はこころおきなく自分の創造性を忌憚なく発揮し始める。ほめられればほめられるほど力を発揮する子供と同じだ。

  自分の中で意識と下意識がうまく作業を分担し、互いに信頼しあう関係になると歯車がうまくかみ合い始める。何もかもうまくいくときはそういうときだ。

  

  なお、胎像流やこの一日中下働きをしてくれている縁の下の力持ちを下意識とよび、透明離見のような創造上の配慮などそれとは違った領域の働きを透明覚(=上意識)と呼んで区別している。これは便宜上の区別に過ぎず、どちらも下意識の働きである。だが、透明覚のほうは、厳しい修行が必要だという点で一般的下意識とは異なる。下意識はからだと同じように鍛えれば鍛えるほど驚異的な力を発揮するようになる。これまではただ、それを発揮させる方法が明確につかめていなかった。特に、いかに下意識の創造性を開花させていくかについては、本当の創造性というものが重要性を与えられていない社会では開花しようがなかったのだ。人類ひとりひとりにとって創造性がのっぴきならない必要だという認識と要求が生まれてくるまでは、一定の人々だけが創造に従事する従来どおりの形態をとり続けるしかないだろう。だがそれがいかにいびつなことか、感じられる人には感じられるだろう。私はこの感性を共有できるあらゆるひとと友になりたかった。

         透明流動覚は知の新しい形態となる

  近代西洋で発生し、世界を覆い尽くすまでに発達した現代文明は、大きな偏りを持っている。意識偏重、自我偏重という偏りだ。すべての人間を資本主義的な労働力として形成し、近代資本主義社会を発達させる上ではすべての人間を意識的自我の持ち主(=労働力の私的所有者)として形成することが必要不可欠であった。だが、そのために役に立たないものをすべて何世紀もの社会的教育によって無視し、選択的に注意から外し、無意識の暗がりに放り込んでしまうことになった。

  そのために、近代西欧型文化は、あらゆる生命がもつゆらぎやそこから立ち上る生存諸欲望や、他の生命や存在への共感力などを軽視し、うまく自己態勢に組み入れることに失敗してきた。魅力的なものはすべて無意識域に押し込まれた。近代自我的な人格が陥る神経症の構造的原因はそこにある。フロイドは神経症患者を通じて無意識を発見したが、無意識が西欧型社会の奇形性による生産物だということを対象化することができなかった。

  それができるようになるためには、レヴィ・ストロース以後の人類学や、ユング心理学によって、西欧型社会を相対化する視点が生まれるのを待たねばならなかった。人類史を巨視的に捉えると、近代以前の数万年もの間、人類は近代人が意識としているものよりも、むしろ近代文明が無意識領域に押し込んできた多次元流動的な知性を、大切にしてきたことがわかる。これはレヴ・ストロースの遺志をついで人類学を発展させつつある中沢新一の『対称性人類学』にくわしい。

  人類は大きく分けて、物事を区分し、細分化して捉える西欧近代型知性とは別に、もうひとつ、多次元を自在に流動する知性を育ててきたのだ。わたしは前者を分別覚とよび、後者を流動覚と呼んで大きく区別している。

  人類の神話や、アニミズムの精霊信仰や、シャーマニズムの考え方は、流動覚を基本としている。そこでは分別覚とは別の多次元流動的な論理によって導かれている。

図 言語意識とクオリア(未)――重要!

         隔壁自我と隔壁国家

         ● ツリーとリゾーム――二種類の論理を自在に行き来できるようになること

  フランスの哲学者ドゥルーズとガタリは、現代社会を支配しているツリー型(樹木のように根―幹―枝―葉の階層秩序をもつ)思考に対し、その限界を打ち破るリゾーム型の多次元流動的な思考法を対置した。

  「どんなに樹木は西欧の現実と西欧の全思考を支配してきたことか。われわれはリゾームあるいは草を失ってしまった。……

  リゾームの主要な特性を要約してみよう――樹木やその根とは違って、リゾームは任意の一点を他の任意の一点に連結する。

  リゾームは、常に分解可能、連結可能、反転可能、変更可能で、多数の入り口、出口をそなえ、さまざまな逃走線を含む地図になぞらえられる。……序列的コミュニケーションとあらかじめ出来上がったつながりをそなえた、中心化システムに対立して、リゾームは、序列的でなく意味形成的でない非中心化システム、<将軍>も、組織化する記憶や中心的自動装置もなく、ただ、諸状態の交通によってのみ定義されるシステムなのである。……リゾームにおいて問題となるのは、ありとあらゆる種類の「生成変化」である。」(『千のプラトー』)

  私が踊りの世界に深く踏み入れば入るほど、踊りを貫いている生成流動の原理がリゾームであり、多次元流動覚であることが分かってきた。そして、何年もかかってツリー状の近代的な意識を脱いで見ると、ツリーとリゾームは人類にとって二つの重要な原理であり、その一方に立つことではなく、その両者を自在に行き来することが世界をありのままに理解する道であることが見通せてきた。

  いうまでもなく言語は、世界を分節し、分別覚によって分析・総合して捉えるための重要な道具である。それはツリー型論理に属する。

  これに対し、言語的認識の地下で行われているクオリア認識法は、分別律とはまったく逆の多次元流動原理によって動いている。それはリゾーム型の論理をもち、異なる次元を自在に変容流動する。芸術的な創造性は、この右脳的な世界を解放することによって発揮されるようになる。

  このどちらのほうが重要かという問題の立て方は間違っている。どちらも重要なのだ。問題はそのどちらかに囚われることなく、両者を自在に往還できるより柔軟な知性を育てることにある。

  すなわち、言語とクオリア、ツリーとリゾーム、意識と下意識、分別覚と流動覚、非対称性と対称性、近代知性とアニミズム・シャーマニズム知性――人類にとって重要な二つの異なる原理のどちらの世界にも自在に出入りし、二つの原理を自由に使いこなせるようになることが、これからの人類の課題となるだろう。何世紀もかかるだろうが、そこにだけ、意識と自我の偏重によって(ということは知識と権力の偏重によってということだ)いびつに偏ってしまった社会を、もっと生きやすいものに変えていくための希望がある。

  現在の脳科学者たちは、意識の解明に懸命に取り組んでいる。だが、かれらは自分の脳内の下意識でクオリアが多次元流動していることに気づいていない。だから、いつまでたっても下意識やクオリアを支配しているリゾーム原理に取り組まねばならないことに気づくことができない。それどころか、人間の脳内の出来事をコンピュータになぞらえて構想する人や、最近発達してきた脳画像装置で透けて見えることだけをツリー状に組み合わせて意識の出来事を語る有様だ。まったく灯台下暗しとはこのことだ。自分の脳内で言語認識の下部で進行している出来事をつぶさに探ればすぐ分かることなのに、今世紀の人々を捕らえている意識幻想は驚くほど深いのだ。意識偏重は、自分が意識幻想に捉えられているという事実を完全な内視盲点にしてしまう。

 

第11章 世界を共創する

         胎像界では内外、心身、自他、類個の境界が消える

         関係共創劇場

         sub-bodyの深い秘密がco-bodyへの通路を開く

ほかの人のsub-bodyの世界像流を支えるために身を投げ出すサポーティングco-body

         sub-bodyco-body劇場

sub-bodyco-bodyの饗宴

         世界共創劇場

ほかの人の世界像流を受け止め、味わい、共創参加してその世界をさらに多様多彩にしていく。創造と即興劇場。

         クオリア交感場の共創

sub-bodyco-bodyが即興交感できる場を共に創る

         創造と即興の高度な交錯

創造と即興の高度な交錯のなかに最高の瞬間が生まれる

クオリアだけで通じあえ楽しめる即興ルールを持ち寄る

第12章 全的生存へ

         生命ゆらぎ―生存諸欲求―胎像流―創造の嵐を貫く全生への意志

         人間存在の全体性を取り戻す三界流動sub-bodyの創造

           と、sub-bodyco-body場の共創

         ● なりたい自分になっていく自己実現の方法

 

         ● 生きるためには自分にあった場と主体と意欲と対象と方法が必要だ 

         全生から疎外され続けるとヒューマノイド化していく

  意志、感情、創造意欲、自由な想像力、共感能力……人間にとって大事な能力も使わないと萎縮し崩壊していく。そればかりか、共振能力の萎縮は、人としての心をなくし、ヒューマノイド化を推し進める。私は日本で30年間仕事をし続けているなかで、自分を襲ったこの深い危機感から踊りへ向かい、インドへ逃れた。

  人間を全体的な生から遠ざける資本制社会・情報社会は、人間をヒューマノイド化し、その結果、アルツハイマーや神経症を加速する。これらはすべて、根源的な流動覚を意識から切断してしまった近代西洋型の意識優先知性の歪みが人間の生存の歪みとして現れているものである。

         崩壊より速く脳細胞を再生する三界流動創造の生

         リゾームを探求し続ける

         全生リゾーム世界を共創する

(いつどこでも連結し貫入し合い、すばやく分離することもできるリゾームのつながり世界へ)

         透明な世界へ

 

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