透明論 




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第7章 なにが不透明さをもたらすのか



なぜ、私はこんなに透明さにこだわるのだろうか。
透明さというものを求めだしてもう20年になる。
はじめは、おそらく自分にないものへのあこがれだった。
自分があまりに不透明な、自分ではどうにもできない欲望や
衝動や思考の癖に囚われていることから抜け出したくて
透明な踊りを踊りたかった。
からだの闇に予感する透明な少女を求めつづけてきたのも
ないものへの激しいあくがれいずる思いだったろう。
だが、なぜ自分が透明さを求めるのかは、完全に不透明だった。
なにがいったい不透明さをもたらすのか。
長年それを探り続けた。
この章では、透明さを妨げているものについて
現時点での気づきについて書いてみたい。

<意識>という幻想

若い頃の私は、自分の意識はありのままの現実を捉えていると信じていた。
だが、ヒマラヤで長年からだの闇に潜って、
下意識のからだの動きや生命の感じているクオリアに耳を澄まし続けているうちに

どうもそれが真っ赤な幻想であることに気づきだした。
人間の意識は、人間独特の歪みやバイアスによってずいぶん偏向している。
人間意識の偏向は、近代の日常社会ではみんなが等し並にそれを共有しているので
それに気づくことができなくなっている。
こう書くと、多くの人が
「いったい、私の意識がどう歪んでいるというの?

と反発し、このページを閉じようという衝動にかられることと思う。
私たちは自分が常識だと思っていることを覆すような言説に出会うと
反感を覚え、無視しようとする。
それが不透明さを生むのだ。
反発し遠ざけようとするとき、私たちは自分にとって当たり前を対象に投影して
対象が自分の基準に叶っていないと「間違いだ!」と切り捨てる。
意識は色眼鏡を通して対象を見ている。
自分が見たいものだけを見ようとする無意識の衝動にとりつかれている。
そういう無意識の囚われとその投影をすべてとっぱらわない限り、
透明さには触れることもできない。

なぜ、<投影>が起こるのか

なぜ、人間は自分の内側で起こっていることを、
外部に投影して受け取ってしまうのか。
これが今日のお題だ。
たとえば、冒頭に書いた<透明な少女>とは私のアニマだ。
アニマとはそれを発見したユングによれば、
人の内なる異性的半面である。
だが、必ず人はそれを外部に探し求めてしまう。
自分にとっての理想の相手がどこかにいると信じて探し求めてしまう。
外部の異性に投影してしまうのだ。
女性にとってはそれをアニムスと呼ぶ。
いつか白馬に乗ったお王子様がやってくるのではないかという
出会いの期待を誰もが秘め持っている。
あるいは、体調の不調や葛藤や悩みに囚われているときは
それをすぐ身近な誰かや社会のせいだと感じてしまう。
いいものも悪いものも外部に投影してしまうのだ。
内なる流動的なクオリアの流れに驚いた旧石器人は
それがまさか自分の命に自然に起こっていることとは受け取り難く、
外部の神や精霊などのはたらきだと投影して受け取ってきた。
神や悪霊やマナや精霊、天や仏や運など無数の元型、無数の共同幻想が
人類史で生み出され、受け継がれてきた。
人類は延々と人間のうちなる流動的知性がもつ自在さや創造性を
外部に投影して受け取ってきた。
それはおそらく逃れることのできない誤解の構造だったのだ。
中沢新一はその主著『対称性人類学』や近著『狩猟と編み籠』で、
旧石器時代人が洞窟壁画として残したイメージから
近代的な世界宗教の成立までのプロセスを、
独自の<宗教の映画的構造>という視点を軸に解明することに成功している。
だが、いったいなぜ、<投影>という現象が必然的に起こってしまうのか?
私のこの<投影>をめぐる論考も、中沢の仕事に大きな示唆を受けて育ってきた。

実際に起こっているのは共振である

生命と環界の間で起こっているのは共振である。
生命はあらゆるものとの共振をクオリアとして感受する。
ひとたび生命の細胞内に保存され記憶された内クオリアは、
生命が外界との間で感じる外クオリアといつも共振している。
説明のために外クオリアと内クオリアと区別して書いたが、
実際に感じているクオリアは内クオリアでも外クオリアでもなくて
それらが共振して生み出されているリアルタイムなクオリアである。
共振には主体も客体もない。
内も外もない。
共振はどちらからともなくただ起こる。

誤解の構造1 主体と客体という幻想

だが、意識は共振を在るがままの姿で捉えることができない。
意識は<自己感>という強固なクオリア共振パターンを持ってしまったために、
あらゆる現象を自己=主体と客体の間の出来事として捉えてしまう。
例えば、視覚的クオリアは網膜や脳の神経細胞と光との間の純然たる共振だが、
意識はそれを「私が何々を見る。I see something.」という
主体を中心とした幻想に変形して捉えてしまう。
実際に起こっているあらゆる共振現象を、
主体と客体の二元論的構造に偏向して受け取ってしまうのが
人間意識の持つ必然的な誤解の構造である。

誤解の構造2 視覚優位という偏向

もうひとつの必然的な誤解は、
人間が五感のうち特権的に肥大化した視覚の役割に依存して
世界を捉えてしまうという偏向である。
目を閉じて何時間も過ごしていると、
五感のうち普段は優位な視覚の影にマスキングされて隠れている
体感や触覚、聴覚の意外なほど豊かな働きが如実に感じられてくる。
視覚以外の感覚は視覚ほど明瞭に三次元空間に束縛されていない。
もっとおぼろげで流動的な布置の中を多次元的に流動していることがわかってくる。

もともと原初の細胞生命は視覚が分化していなかった。
粘菌やアメーバは光も温度も音の振動も重力も外界の諸分子との相互作用も、
すべてを非二元一如のクオリアとして感知している。
猫や犬らの獣も、人間ほどは視覚のみに依存していない。
嗅覚や聴覚、触覚などの諸感覚がバランスよく統合されて、
統合的に世界を把握している。

だが、人間は視覚が諸感覚のうち特権的優位を占めるようになった。
視覚は他の感覚に比べて空間的遠隔までを
比較的精確に把握できる優位性を持っていたからからだ。
長い人類史を視覚優位の生活を続ける中で、
人間の脳もまた視覚優位の夢をみるようになった。
おそらく他の動物が見ているのはもっと五感が融合した
非二元的な体感夢であろう。
人間の夢も視覚的イメージに彩られた夢の底には、
非二元的な体感夢の層がある。
体感クオリアは視覚クオリアに比べてごくかすかでおぼろげなものなので
日頃は気付かないまま見過ごしているが、
長年夢の底の体感を探っていると、
じょじょに如実に捉えることができるようになってくる。

非二元・非主客の体感夢

この体感夢には主体も客体もない。
ただ命が共振している。
子宮内で胎児が見た夢もおそらくそのような非二元夢であっただろう。
自分が人間であることも知らない、
光も見たことがない、
ただクオリアが非二元・多次元に変容流動している体感に満ちた夢だ。

サブボディ・プロセスの深層

瞑想や調体によって、下意識のからだ・サブボディになって感じるクオリア流も
その深層ではこの非二元域から立ち上がってくるものと思われる。
当初は各チャンネルの外クオリア、内クオリアのチャンネルを開くことから始めるが、
じょじょに各チャンネルのクオリアが融合したり、相互変容したりという
共感覚(Synesthesia)域に入る。
そして、もっと深まればあらゆるチャンネルの境界が消え、
多次元を越境しつつ変容流動している非二元域に入る。

起こっている共振を体現する

長年探求してきた<透明になる>ということは、
起こっている共振を何らの偏向によっても妨げられずに感取でき、
かつ透けて見えるからだになることだ。
人間という思い込みや、自我や自己意識、二元論的分別思考、
三次元的視覚などに囚われていていは不透明さが晴れることはない。
かえって無意識の自我や囚われを見せてしまうことになりかねない。
そのためには、土方巽の言うとおり、
「人間の条件をすべて脱ぎ去ること」
が要求される。
そうして、からだの闇の非二元多次元クオリアを自在に体現するからだとなり、
多数多次元の異界を自在に馳せ降り、馳せ昇り、自在に往還できるようになること。
起こっているあらゆる共振が透けて見える透明共振体になること。
これが舞踏家に与えられた使命だと思われる。
舞踏家とは未来の人間の姿を透明に見せる者なのだ。




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