透明論 




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第2章 囚われからの透脱


囚われのないまなざしとはなにか。
これが透明覚の第二の要点だ。

私は日本人に生まれたが、
東西の思想・哲学・科学・文学、
東西の指圧・整体・マッサージなどの身体技法や、
能・舞踏・ダンス・コンタクトインプロビゼーションや
フライングローテクニックを等価に学んだ。
私は東西のどちらかかの側に立つ人々とは立場を分かつ。
東西のどちらの立場にも組しない東西文化に対して透明な位置にいる。
真実が東西に分かれているわけではないからだ。
人のからだも東西で違うわけではない。
なのに、私たちの知の形は生まれ育った時代や社会の影響を濃く受ける。
それらをすべて初期化すること。
生まれや育ちなどたまたま産み落とされた状況に囚われていては
透明さもヘチマもない。
容易い課題ではないが、自分の履歴を無化できない思想など
何ほどのものでもない。
自分の無意識の囚われを流布する言説が世に満ちている。
そんな世界から別れなければばならない。

東西の人が違ったように感じられるのは、
彼らの意識が囚われている文化や教養が違うだけだ。
透明な立場からは東西のいずれかの立場に立つひとが、
何に囚われているかがとても透けてよく見える。

ものを見るのに何らかの先験的なとらわれから脱するのが
もっとも大事なことは、誰しも否定しないだろうが、
自分がどんな文化に属し、
その文化が前提にしている時代の常識に
どれほど深く染め上げられているかが見えている人はごく少ない。
それから脱する脱しかたを知っている人はもっと少ない。
それを実際に実践している人となると、
世界中に数えるほどしかいない。

たとえば、気や経絡という概念に対する態度を見れば、
その人がどんな文化圏に染め上げられているかがすぐ分かる。

純粋西洋圏に属するひとは、経絡など知らない。
名前だけ知っていても、東洋の無明だと判断している。
西洋型の狭い科学的な方法で検証できるものしか信じないという態度だ。
その態度に囚われることで
どんなに大きな領域が無意識の世界の中に閉ざされ、
自分の科学的な知が、
巨大な無意識の闇から解離されたままであるかを知らない。

また、東洋文化圏に身を置く人は、
最初から気や経絡という概念を前提にする。
東洋で長く信じられてきたのだからというだけで、
自分で検証し抜かずに受け継いでいる。
そして、西洋の営みの峰を自分で探索しもせず、
物質文明だなどという常套語で
西洋文化を浅薄なものと切って捨てる。
西洋でも心身の相関を探求する営みが
ずんぶん深く進んでいることも知らずにだ。
宗教関係者などにこういう怠落が多い。

上の両極端の間に無数の諧調がある。
だが、ほとんどすべての人が無意識裡に、
多かれ少なかれ自分の生まれた文化圏の
思考習慣のグラデーションに染まっている。
神やスピリットという概念に対する態度に
どちらかの色合いがしみこむのでお里が知れる。

気や経絡という概念に対して透明になるには、
その言葉に透明な定義が与えられるようになるまで
使わないのが一番いい。
そして、全身で考え続けるのだ。

私は経絡と気という言葉をめぐって
何十年もからだの闇を探り、
考え続けてきた。
そして、いまでは経絡に対しては次に述べるように、
自分なりの透明な定義を与えることが
できるようになったので、使用する。
だが、気に対してはまだ納得のいく透明な定義ができないので
使用しない態度を守り続けている。

私の考えによれば、
「経絡とは人間が生命体として持つ、
総合的なクオリアの伝達経路である」
と定義できる。

これは、増永静人氏が
「経絡とは、東洋的生命観に基づく、
最も根本的な生体調節系統である」
ととらえていることを踏まえている。

そして、同時に、
精神生物学のアーネスト・ロッシが、
人間の心身のコミュニケーションを、
「自律神経系、内分泌系、免疫系、神経ペプチド系の経路の
総合的な生体調節の仕組み」
ととらえ、それを解明しつつある現在進行形の仕事をも踏まえている。

心身の相関関係について
虚心坦懐に東西の枠組みを越えて考え続けていると、
東西の知の峰が見えてくる。
増永氏や遠藤氏の捉え方は東の峰であるし、
ロッシの仕事は西洋の峰である。
その両方の峰を常に踏まえ続けること。
知が東西に分かれて、誰にも統合できていない現在、
この態度だけがかろうじて透明さに最も近づける態度なのだ。

そして、わたしは踊り手だから、
人間が動く生き物だということを知っている。
動いているときのからだは静止しているときとは根本的に別物になる。
動きという独特の原生的なクオリアが下意識のからだを駆け巡る。
この動きのクオリアは
静止したまま瞑想する人や、
静止した人体を治療するだけの身体技法をするひとには
決して捉えることができない。
動きという重大なクオリアが存在することさえ、
静止したままものを考えるだけの人は気づいていないのだ。
経絡はサブボディに属するクオリアの伝達経路だから、
人が動き方をかえれば経絡のありかはすぐ変わる。
意識しただけでも変わる。
動きの速度によっても、
動きの経路によってもそれに応じフレキシブルに変わる。

時にはからだの中から外へ出、また外から中へ還流してくる。
この点でサブボディメソッドの中の経絡概念と、
指圧や鍼灸で静体の治療に使う経絡概念とは大きく捉え方が違っている。
気とはなにか、については、
まだ何もいってはならないとわたしの透明覚が制止する。
クオリアと生命の関係についての深いなぞを解かなければ、
気については何もいえない。
そのなぞはもっとも深い闇の底に秘められたままだ。

私のクオリアという考え方は、
日本や外国の脳と意識の研究者の成果と、
無意識界の仕組みを探求した
ユングやミンデルの成果をともに踏まえている。

クオリアは意識が言語を使って思考する以前の下
意識に属する脳内情報なのだから、
ベネットや、茂木健一郎をはじめとする
世界中のクオリア研究家が一様に陥っているように、
クオリアの独特の住処である下意識や無意識界を探求せず、
クオリアと意識の関係を考えようとするのは
根本的に見当はずれだ。
膨大な無意識界に自分で入ろうともせずに、
意識の世界から光を当てようとしてもクオリアをつかめるわけがない。

クオリアというものは、
ひもの微細次元での共振パターンによって規定されるものなので、
粗大次元に現われた物質やエネルギーは自在に乗り換えて伝わっていく。
光を認知するには、
光を網膜という細胞物質が刺激として捉え、
それをニューロン内を伝わる電気信号やシナプスでの
化学物質の移動に何度も変換しつつ脳の視覚野に送って
初めて光のクオリアとして認知される。
意識が受け取るのはこの最後に仕上げられたクオリアだけだ。
それを材料にして言語意識を組み立てる。
それ以前のさまざまな物質やエネルギーを乗り換えて伝わってくる
クオリアの長い旅については意識は感知しない。
だが、クオリア流の本質は、
この物質やエネルギーをどんどん乗り換えられるという
多次元変容流動性にある。

宇宙の成り立ちについては、
西洋の先端物理学のストリング(ひも)理論の認識と、
古代仏教や老荘思想の最深部とを共振させつつ考えている。
すると、世界に対する本当に深い見方は、
東西や時代の垣を超えて共振しているのがわかる。
どの見方が最も深みに近いかが手に取るように分かるようになる。

そのように、東西の認識の峰を取り出してきてすべて踏まえたとしても、
人類が包まれている、からだとこころの闇の深さに比べれば、
ほんの入り口付近をうろちょろしているだけということが分かる。
それほど、闇は深い。

ただ、わたしたちは、
心身を透明にして一歩、
さらに透明にしてまた一歩と、
少しずつ降りていくことができるだけだ。

この透明論では、わたしたちの認識を不透明にさせている、
認識以前のさまざまな囚われから、
いかに透脱していかねばならないかを探っていこう。

私たちの知が、今回述べた東西だけではなく、
主客、心身、内外、上下、類個など、
恐ろしいほどの無意識のとらわれに、
あらかじめ染め上げられてしまっていることに気づくだろう。

透明さへの道は限りなく遠い。
だが、その道を歩むことは限りなくすがすがしい。


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