透明論 




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第1章 透明覚を開く

 

通常の意識、自我意識や日常意識は、
さまざまな思い込みや、こだわりに囚われている。
だから、いろいろなものが色づいてやってくる。
もともとまなざしが色に染め上げられているから、
ものごとをあるがままの姿で受け取ることができない。

 

1.意識は自我に染まっている

 

まず、もっとも根源的に、
わたしたちの意識は、自我に染まっている。
もっと根源的には<自己感>といってもよい。
自己に属するものと、
自己に属さないものの間に画然たる違いがあるかのように感じてしまう。
さらに自己の周辺に、
自己に親しいもの、好意的なものの領域があり、
自己から遠いところに、自己に疎遠なもの、
自己に敵対するものらの領域がある。
そしてそれらは、さらに細かい境界線によって細分化され、
自己を中心としたさまざまな階梯が設けられている。

これが、わたしたちのこころが陥っている、
最も悲しい自我意識の囚われであり、
自己感への染まりである。

自我は、生れ落ちたときから、
このように自己と他者の間に無数の差異の諧調を設け、
自他の境界線を強化することを通じて形成されてきた。

自己、家族、親族、仲間、
同階級、同民族、同人種、同一の皮膚の色、
人間とそれ以外、
類人猿とそれ以外、
高等動物とそれ以外、
動物とそれ以外、
生き物とそれ以外、
などなどの無数の差異線がきみと世界中の他のものとの間に走っている。

 

だが、それはいったい、ほんとうに実在する境界線なのか? 

きみの頭の中にだけできた差異線ではないのか? 

あるいはきみと同じ境界線の幻想を共有する
他の人々との間でだけ存在している共同幻想ではないのか?

じっくりとこの問いを自問し続けてください。

 

2.意識は時代社会の知の土台に染め上げられている

 

ふたつめは、時代社会特有の人間知への染まりだ。
かつて哲学者フーコーが解明した、『人間』への泥みだ。
今の世の中の人々ほど
自分が「人間」であるという観念の泥にまみれている存在はない。
人間であるという思い上がりほど、
人間を損なっているものはない。

フーコーは、現代の時代社会であたり前とされている認識が、
その時代特有の知の土台に依存しているものであることを証明した。

1967年に書かれた『言葉と物』では、
懇切丁寧な仕方で、
ほんの二、三百年前までは
今日とは根本的に違う性質の知の土台によって
人々の認識が染め上げられていたことを明らかにした。
そこでは類似や相似といった、
いまでは連想ゲームにしか使われないようなしかたを中心にして
人々がものごとを認識していたこと。
それが現代に移行したとたん、
波打ち際の砂の上に描かれた砂絵のように消え去っていったことを描いた。
そして、現代の人々の認識を特徴づけている
「人間」概念を中心とした近代西洋型の認識もまた、
次の知の土台が形成されるや否や、
砂絵のように消え去るだろうと予言した。

今日の近代西洋型の知を特徴づけているのは、
近代の西洋で優勢になった科学的知性である。
それは、ニュートン力学やユークリッド幾何学による三次元、四次元的世界認識、
物質を偏重した科学常識、コンピュータ型二項論理と二元論的分別知、
などなどである。
そこでは、生命や生命が感じているクオリア共振が
まともに取り扱われることはない。
取り扱う力がないからだ。
科学で証明できないことには触れないのが今日の知の主流だ。
そして、まともに取り扱えないものは無いも同然とみなされ周縁化される。
生命を周縁化した知など、偏奇的に偏ったものでしかない。
だが、
みんながそれに囚われて、それが常識とされているため、
今日のひとびとはその偏った知の形態に囚われていることを意識することができない。

私が透明さにこだわり出したのは、自分の意識や知が捉えているものが
あるがままの命を精確に捉えていないと感じだしたからだ。
自分がなにか分からないが多くの不透明なものに囚われているのに
それがなんだかはっきり捉えられないという不快さから出発した。
それらの囚われから脱した新しい知の形態が必要とされている。
その探求の旅に一緒にでかけよう。


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