透明論 




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クリオネのからだを見ていると、外界と内界の間で震えるような共振が起こっていることが総て透き通って見える。下意識での出来事も消化管の具合もなにもかも透明に踊って見せること。透明体になるとはこういう存在に転生することなのだ。


はじめに 透明さとはなにか

 

透明さについて、長い間追求しぬいてきた。
踊りを始めたときから、透明な踊り手になりたいと感じてきた。
なぜだか分からなかったが、この思いをずっと握り締めてきた。

1994年に「透明さについて」という短い文を書いた。
その年に出会った、スペイン人舞踏家サンチャゴ・センペレに、
「あなたのダンスのコンセプトはなにか」
というぶしつけな質問をぶつけた。
当時の私は会う人ごとにその問いをぶつけていたのだ。

サンチャゴは、
そのときテーブルの上にあった空になったワインのビンを手にとり、
これだよ、といった。
「透明になることさ」。

その答えに気に入ったわたしは
それ以後長い親交を結ぶことになる。
その間も、透明さとはなにかについて、
心身両面から追求し続けた。

2005年に『透明論』を書いた。
去年の秋、このサイトを作ったとき、その柱として載せた。
その当時の唯一の理論的文章だった。
いまはこの文章と区別するために、
『透明さについて 
2005』と改題してある。

その文章は、長い間心身で追求してきたことを
すべてぶち込んで格闘しているもので、
抱え込んだ混沌が混沌のまま放り出されている。
それ以後の追求で透明さをめぐる課題もずいぶん霧が晴れて、
透けて見通せるようになってきた。

この稿ではいくつかの視点にわけて透明さを扱う。

一つ目は、からだの闇に起こっていることすべてを、
できるだけ囚われのないまなざしで見つめるという意味での
<透明覚>を開き、鍛えていくという課題だ。
第1章の<透明覚を開く>でその概略を述べ、

第4章の<多次元共振>の章は、この世界の出来事すべてを
多次元に共振している事象として捉える視点を提出している。

ふたつ目は、からだでおこっていることを
すべて透明に見えるようなからだになること、
意識と下意識の間で何が起こり、
情動とからだの間で何が起こっているのかが
透き通って見せることのできる
<透明体>に変成するという課題だ。

第2章、第3章以下でこの課題に取り組んでいる。

三つ目は、それらが組み合わさって、
自分ひとりではなく、
一緒に踊っている人々の間で微細な共振が起こり、
サブボディとコーボディの境界がなくなって美しい融合が起こりだす、
<透明伝導状態>とでも呼ぶべき理想的な透明状態が出現することがある。
それはなにか?
それが起こるにはどうすればいいか?
を解明するという課題である。

この課題は思索によってではなく、共振塾の2009年以降の
授業の中で生徒とともに実践的に追求されている。

一連の実践的探索が一段落したとき、言葉に翻訳できる時が来るかもしれない。

この三つが解明され、再びひとつに統合されるとき、
私の長い透明さとはなにかへの取り組みが完結したことになる。

「生命論」と並んで私のライフワークとなるであろう。

 

*透明論についての注:

実は 私は2005年に一度「透明論」を書いた。
それはのちにわたしの舞踏論、各種技法論、
共振論、肯定論、認識論、生命論として
分化していくものが分化する以前の
アマルガムなカオスであった。
この論考と区別するために
「透明さについて 2005」としてこのサイトに掲載してある。

今私は、あらたな地平から、「透明論」に取り掛かる。
人間にとって意識優先の意識という現代の知のありかたの限界を超える
次の時代の知とは何かを考究する人間論的な観点、
知の態度の厳密な透明さとはなにかという認識論的な観点、
そして、具体的に透明体になるという実践的な観点にまで及ぶ。

すべてが透明になるというところまでいかなければ、どうにもならない。
中途半端な透明さなどないからだ。

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